★地平線通信548号(2024年12月18日発行)より転載(筆者:久島弘)
■すっかり恒例となった、「地平線キネマ倶楽部」。その第4回上映会は、『クラ――西太平洋の遠洋航海者たち』『女の島 トロブリアンド』の贅沢な2本立てだった。共に牛山純一プロデューサーと、市岡康子ディレクターのコンビによる、71年と76年の作品だ。上映後には、市岡さんの解説トークも行われた。
◆ニューギニア本島の東北に浮かぶ群島の間では、「クラ」と呼ばれる風習が伝わっている。美しい貝の首飾り「バギ」と白い貝の腕輪「ムワリ」を交換しあうもので、バギは時計回り、ムワリは反時計廻りに、島から島へと手渡しされてゆく。そのお宝の受け取りに、数年に一度、人々は船団を組んで大海原に漕ぎ出し、隣の島を訪れる。
◆最初に上映された「クラ」は、1971年に行われた航海の密着記録だ。長老で「クラリーダー」でもあるトコヴァタリヤが安全祈願の呪文をカヌーにかけ、残る女たちと涙の別れの後、9艘のカヌーはトロブリアンド島のシナケタ村を出航。帆走も交えながら、8日後に目指すボワヨワに到着し、正装で上陸した。けれど、肝心のバギはまだ遠方の島に留まったまま。結局、6回のクラを経て届いたのは40日後。ようやくトコヴァタリヤたちのクラが始まった。
◆バギの中には、カサナイベウベウのような、島々に名前や由来が知られた名品がある。それらを手に入れるため、互いが正当性を主張して「渡せ」「渡さない」と遣り合うが、その駆け引きが作品の最大の見所になっている。ちょっと見には軽い口論風。でも、相手の出方を窺い、間合いを測り、押したり引いたりしながら、丁々発止の掛け合いかと思えば、歌舞伎口調になりもする。
◆先方が手強いと、トコヴァタリヤは呪文をかけ、相手をその気にさせてしまう。一体、どこまで本気で、どこからがお約束事なのか。そもそもバギとムワリの交換は同時ではなく、訪問先で片方を受け取った後、次に向こうがこちらの島に来てもう一方を受け取る仕組みだ。それが何年後になるかは判らない。
◆「Aをくれたら、お返しにBをやる」という条件には、そのBを彼が現在の所有者から入手できるか否かの見定めが必要だ。「前回もらうはずのムワリがまだだ」とゴネる相手も、巧みな話術で説得せねばならない。様々な要素を勘案しながら瞬時の判断力も要求されるし、双方が満足する条件で折り合わないと、後々のクラにも影響するという。そんな高度な知的ゲームの末に、トコヴァタリヤたちは71名で164個のバギを手に入れた。そして故郷のシナケタ村を出て66日目、一行は無事に帰島した。
◆2本目の「女の島」は、その島が舞台だ。配布資料によれば、「母系制の島トロブリアンドでは、主要作物のヤムイモは耕作した男の所有にならず、母系のラインを通じて姉妹や姪などの配偶者に贈られる。自分が食べる分は妻の兄弟やオジから受け取る」というシステムになっている。
◆有力者の妻ともなれば、多量のヤムイモが集まり、村内にうず高く積み上げてお披露目される。自信に溢れ、堂々と振舞う島の女たち。それに引き換え、地面に落ちる影まで弱々しく見える男ども。クラでの覇気や輝きは微塵もない。ヤムイモ上納システムの対価がクラだとしても、そのなにが彼らをあそこまで熱くさせるのか。苦労の末に入手したお宝も、いずれは手元から去ってゆく。
◆実は、クラ本来の目的は「交渉ゲーム」のプレイにあり、バギやムワリもそのためのアイテムに過ぎず、お宝が島の間を巡り続けるのはゲームオーバーにさせないための知恵なのか。いや、男たちは病を押してでもクラには参加し、途中で非業の死を遂げた者は英雄として尊敬されるという。ロシアンルーレットならいざ知らず、そこまで過激なゲームはない。いったい、クラって何なんだ。市岡さんに確かめたくなった。が、キネマ倶楽部に合わせて夜行バスで帰京した疲れに負け、二次会はパス。せっかくのチャンスを逃してしまった。
◆帰宅後、会場で配られた資料を読み返した。その中の、取材中の心情を吐露した彼女の文章に、繰り返しトコヴァタリヤにインタビューしたが、クラの意味を掴むことや、その世界の解釈には至らなかった、とあった。「彼らは『クラのある世界』にどっぷり漬かっている」「『なぜクラをするのか?』と質問しても、バギとムワリの限りないぐるぐる回しの輪の外に、人々の思考を引き出すことができない」とも書かれており、ノレンに腕押しの苦労がしのばれた。
◆トコヴァタリヤも、あの手この手の質問には弱り果てたに違いない。結局、市岡さんは、彼に「一人語り」してもらうことにした。クラの化身のような人物が己の一生を語れば、自ずとそこにクラの姿も浮かび上がる、と考えたのだろう。そこへ実際の遠征の映像を重ね、足かけ2年、実質7か月の取材は、75分の作品にまとまった。
◆ドキュメンタリー映画は、ヘタなドラマより遥かに難しい。制作者の入れ込みが強過ぎると、見る側は引いてしまうし、勝手な決め付けや安直な解釈の押し付けで、興醒めしたりもする。そんな抵抗が、この2本には一切なかった。見ていて後から後から疑問は浮かんだけれど、それは川の流れに生じる渦のようなもの。これっぽっちの違和感もなかった。
◆先の文章の終わりに、市岡さんは、「クラの世界の解釈には至れなかったが、せめてクラの世界をきちんと構築できればと思う」と書いている。私もクラを外側から頭で理解しようとした。でも、この作品は、それを目的とはしていない。トコヴァタリヤの言葉に耳を傾け、内側からクラを感じるために作られた。そういう意味でも、繰り返し見たくなる、またその価値のある作品だ。ドントシンク、フィール![ナゾの男 ミスターX 久島弘]