98年12月の地平線報告会レポート



地平線報告会230から
クロスピークで昼食を
宮澤美渚子
98.12.25(金) アジア会館

●地平線通信230より

横浜に生まれた宮澤美渚子さんは11歳のとき、戦争のため、信州・小谷村に疎開した。4才の時母親を亡くしている美渚子さんは、毎日北アルプスを眺めながら、「あの山の向こうにはお母さんがいるかもしれない」。そんなことを思っていた。

女学校を出て、会社の山岳部で本格的に登山を始めた。北穂小屋の前で見た富山湾に沈む夕日の神秘的な、何か懐かしいような色は今も忘れられない。ある時失恋をしたショックで、「魔の山」谷川岳に毎週のように通うようになった。一度などは雪渓ですべり、湯檜曽川の谷に転落した。「一生結婚なんてすまい」。そんな美渚子さんだったが、憲さんの「ヒマラヤ登山隊長」という肩書きに「騙された」。この人と結婚すれば一生山に登れる。そう思い結婚した。

ほどなく子どもが生まれる。子どもはやっぱりかわいい。美渚子さんは以降、低山ハイキングに徹するようになった。いつしか子が親離れをした。建築家である夫・憲さんは、「俺が設計した家に住まわせる」という約束は果たしてくれたが、結婚する時にしたもう一つの約束、「ヒマラヤを見せてやる」の方は果たしてくれていなかった。それで自分で行くことにした。

88年、田部井淳子さんを隊長とする日本山岳会婦人懇談会のインドのシバ峰(6142m)登山に参加した。一生に一度ヒマラヤを見よう。これをやって山を終わりにしよう。そう思って参加したが、登頂できなかったことで逆に火がついた。翌89年には、東京農大山岳部のナンガ・パルバット登山の支援トレッキング隊に参加した。

この時見たルパール・ピーク(5970m)を次の目標にしようかとも思ったが、どうせなら6000m以上の山をということで、94年、還暦の記念にネパールのコンデ・リ(6187m)に行くことにした。還暦女性3人きりの隊で、はじめて自分で企画をした。シバ登山の経験を通して、人についていくのではダメ、若者に頼っていてはダメなんだと実感したからだ。外国での交渉事のため、少しずつ英語も習い始めた。そうして、一から自分で準備した山だったからこそ、コンデ・リは本当に登りたかったし、登れて帰ってきた時には村のロッジで泣くほど嬉しかった。ようやく区切りがついたと思った美渚子さんは、これでヒマラヤは終わりと、全ての装備をいっしょに登ったシェルパにプレゼントした。

コンデ・リに一緒に登ったシェルパのペンパさんは、美渚子さんのことを「マミ(お母さん)」と呼ぶ。彼が「マミの登れる山があるよ」と誘ってくれ、95年には再びネパールのピサンピーク(6091m)に、97年にはバルチャモ(6187m)に出かけた。毎回「これで終わり」と思いながら、コンデ・リから3回も続けて登頂に成功する。いつも頂上アタックの時、穏やかな最高の天気に恵まれるのは、「導いてくれる目に見えないものがあったんじゃないか」。

クロスピーク(6510m)は、1963年に憲さんが途中まで登り断念し、今も未踏峰として残されていた。35年前から歌にまで歌っていたクロスピークなら、最後を飾るに相応しい。「今度こそ最後」と、美渚子さんは初めて夫と二人の登山隊を組み、シェルパたちと共にクロスピークを目指した。しかし、71歳の憲さんは、ベースキャンプで調子を崩し、登山活動には加われなくなった。夫がリタイヤし、美渚子さんは初めて「自分が登らなければ」という強い使命感を感じる。ルートは落石が多く危険で、ペンパも「これはマミの登れるルートではない。山を変えよう」と進言してきたが、いつも従ってきたペンパの言葉にはじめて反論した。

シェルパたちが何とかルートを見出し、登山は続行された。頂上へ唯一可能性のあるそのルートも、浮石の積み重なる極めて細い稜線で、危険極まりない。テントからトイレに行くのにも、ロープを必要とするほどであった。美渚子さんはキャンプ1で65歳の誕生日を迎える。「何でこんなことしに来たんだろう」。

いよいよ訪れた頂上アタックの時、最後に出てきた垂直の岩溝で、美渚子さんの足はつりそうになり、もうダメかと思われたが、シェルパたちに励まされ、ついにその狭い絶頂に辿り着く。夫の果たせなかった初登頂。下山では力を使い切ってフラフラになり、シェルパたちに「猿回し」のように支えてもらい、日没後の暗い中、なんとかテントに還り着いた。靴すら自分で脱げない状態になっていたが、喜びで「ヒマラヤの雪を溶かすほど泣いた」。ベースキャンプでは憲さんが「よくやった」と迎えてくれた。

「私の登山はスポーツではないし、近代アルピニズムの流れからも外れていると思う。今生が終わっても、その先にもっと大きなピークがある。来世に向けて今の山登りをしているんです。自分が終焉を迎える時が最高でありたい」。登山後の彼岸の日、カンチェンジュンガの臨めるベースキャンプで、春に同山で命を落とした日本山岳会の二人の若い仲間のために、美渚子さんはケルンを積み、お米とお菓子をお供えした。[松原尚之]


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