2026年4月の地平線報告会レポート


●地平線通信565より
先月の報告会から

森に育まれた暮らし

笠原初菜

2026年4月25日 榎町地域センター

■今回の報告会に登壇してくれたのは、笠原初菜さん(32)。北海道で旅人や探検部員などが出入りする「ちえん荘」という共同生活の場を作り、時間や経済に追われない柔軟な暮らしのあり方を探っている人だ。初菜さんは、北海道の南富良野町で自然豊かな環境のもと生まれ育ち、大学時代はネパールに通ったりカヌー部や探検部に所属して山や川を旅してきた。大学院修了後に新聞記者を経て、現在はイス張り職人の修業を行っている。彼女曰く、「私は何か大きな功績を収めたわけではないけれど、自分が育った環境や経験してきたことが誰かにとっては珍しいかもしれないので、自由に解釈してもらえたら」とのこと。普段は北海道で暮らしている彼女が今回上京してくれ、「ちえん荘」を軸に自らの経験や、時代や社会、暮らしに向ける考えを語ってもらった。

◆まず、彼女はどのような環境で生まれ育ってきたのだろうか。初菜さんのご両親はともに海外や日本各地を放浪する旅人同士で、北海道で出会って初菜さんが生まれた。一家の周りに集まる人々もまた旅人が多く、いわゆるサラリーマンではない人たちが近くにいる環境で生まれ育ったのだという。

◆初菜さんが幼いころからよく出入りしていたのが、キャンプ場やアウトドアアクティビティを提供する「どんころ野外学校」だ。一家が住んでいた旭川市から車で2時間ほどの南富良野町にあり、両親は時々そこでスタッフとして働いていた。どんころ野外学校とのつながりで、初菜さんが5歳の時に一家は南富良野町に引っ越す。幼き日の初菜さんは、そこで20代や30代の若者に遊んでもらい、子どもながらに彼らから多くのことを学んだ。さまざまな背景を持つ大人たちと触れ合う機会に恵まれたどんころ野外学校は、自らの原点となるような場所だと語る。

◆その後、中学高校生活では部活に明け暮れ、いわゆる一般的な学生らしい生活を送る。北海道大学に入学してカヌー部に入るものの、大学生活全般で無理をし過ぎてしまったせいでうつ病を発症してしまい、半年ほど大学に通えない時期があった。その後、探検部に入部。探検部は初菜さんが入部する前年まで、部室として築90年ほどの一軒家(デューク東郷)を持っており、そこで部員たちが暮らしていた。カヌー部時代に初菜さんも遊びに行ったことがあり、他のカヌー部員は「ボロボロですごいところだね」と言っていたものの、幼いころから共同生活に慣れていた初菜さんは居心地の良さを感じていた。探検部入部後は、新しくなった一軒家兼部室(イプシロン)で共同生活をしながら、仲間と探検に出かけた。

◆大学、大学院では文化人類学を専攻し、修了後に新聞記者となる。希望の職に就くことができやる気に満ち溢れていたものの、実際に待っていたのは紙面を埋めるためのネタ探しでノルマに追われる多忙な日々だった。しかも地方支局で馬の合わない上司と二人きりという職場環境が追い打ちをかけ、あっという間に心身のバランスを崩してしまう。初菜さんは、過去にも高校生のときに留学中、大学でのカヌー部時代と2回もうつ病を発症していたが、3回目のうつ病になりそうな状態だったという。当時は、パートナーの五十嵐宥樹さんも出稼ぎで離れており、一人暮らしになったのも大きな要因だった、と初菜さんは振り返る。子どものときから探検部に至るまで、常に大人数で暮らしてきたからだ。

◆その時期、パートナーの五十嵐さんが、元探検部で旅人になっていた山川佑司さんを誘い、北海道に連れ戻したことがきっかけで、初菜さんも仕事を辞めた。3人で旭川近郊の町に一軒家を借りて、2021年秋ごろから、共同生活が始まる。それが「ちえん荘」だった。その後に初菜さんの弟が加わり、元山岳部のYさんが山川さんと入れ替わるなどして4人で暮らした。ちえん荘には探検部の現役部員や先輩たち、カヌー部の友達が来ていたりと発足当初からさまざまな人が出入りしていた。五十嵐さんと山川さんが鹿を解体して食べたり、魚を釣ったり、DIYをしたり、30万円で3ヘクタールの山を買って「ちえん林」と名付け、探検部員や集まるみんなが自由に遊べるフィールドとして活用したりもした。

◆ちえん荘とは何かというと、シンプルに表現すれば「みんなで一緒にご飯を食べる」場所なのだという。普段からさまざまな人が出入りしているが、共同生活を円滑に進めるため、月に1回「ちえん会議」を開いて住人同士で意見交換をし、ゴミ捨て当番や食事当番を日替わりで担当するなどして、家事を分担していた。ちえん荘の「ちえん」は、五十嵐さんがつけた名前だ。この言葉には多くの意味が含まれており、まず一番の意味合いは、早すぎる社会のスピードについていけないからゆっくりいこうじゃないかという意味の「遅延」。それから、五十嵐さんが林業で使っている「チェンソー」。他にも、知恵を蓄えていきたいという意味での「知恵の荘」、土地の縁を大事にしたいという意味での「地縁」などもあるが、いくつも説明するとややこしくなるので、最近は遅延とチェンソーをかけている、と説明している。

◆ちえん荘での暮らしは3年ほど続いたものの、現在ではその共同生活自体は一旦解散し、それぞれの道を歩み始めている。山川さんは親方のもとで有機無農薬野菜作りを学んだ後、自ら畑を借りて親方の住んでいる地域で新規就農した。五十嵐さんは個人事業主として林業の一人親方をしており、冬場は馬の力で伐採した木材を運び出す「馬搬」を学ぶべく、親方のもとで修業をしている。初菜さんの弟はカナダにワーホリに行き、Yさんは大工の修業中だ。初菜さんは職業訓練校での家具職人の勉強と親方のもとでの修業を経て、イス張り職人として独立する準備をしている。「将来、既存の家族の形にとらわれない風通しのいい環境で子育てをしてみたい」とのことで、いろんな仲間が他人ではない距離感でゆるく関わり合う家族の形を夢見ている。

◆共同生活の場としてのちえん荘がなくなった今でも、集っていた人々の心の中には依然として「ちえん荘」が棲みついている。初菜さんにとってちえん荘とは何かというと、実は仲間と集まって共同生活をすることが当たり前だったゆえにちえん荘の存在意義についてあまり深く考えたことがないのだという。そこで初菜さんは、地平線報告会で話をするにあたり、ちえん荘の住人やよく来ていた人たち計8人に会いにいったり電話をかけたりして、ちえん荘をテーマにおしゃべりをしてみた。会場では、初菜さんがそれぞれの人たちと話した内容を対話形式でまとめた冊子が配られ、それをもとに報告会が進められた。その冊子では、おしゃべりの内容を聞き書きの形であえて全文を掲載している。会場の参加者に「お土産」として渡したもので、その行間からなんとなくちえん荘のことを想像してもらいたい、という意図なのだという。実際に会場で報告会に参加した方は、冊子の内容を読み、初菜さんの話を聞くことでちえん荘の“輪郭”のようなものを掴むことができたのではないだろうか。

◆その冊子の内容の一部を報告会レポートの中にぜひ書き残したいと思ったが、初菜さんの意向によりそれは取りやめることになった。8人の発言内容の一部だけを抜き出して掲載することで、それがちえん荘の思想なのだという誤った認識をレポート読者に植えつけてしまう恐れがあるからだ。あくまで「特定の思想があるわけではなく、みんなで集まっている場」であるということが、ちえん荘を説明する上でとても重要な要素なのだという。

◆その冊子を読むことで、ちえん荘に集まる30代前後の彼らの価値観がよくわかり、とても興味深い内容であったためにここで紹介できないのは筆者としては大変残念に思う。そのため、ここで簡単に筆者の感想を述べさせていただきたい。この冊子に書かれた内容はもちろんのこと、言葉選びや発想のしかたなどから滲み出る断片に、私は強い既視感と懐かしさを感じた。筆者も、実は初菜さんと同い年で早稲田大学探検部出身だ。探検部に入る前と、探検部を卒業した後の社会人生活においても、こんなことを考え発言するような人々には出会ったことがなかったからだ。

◆私は大学院から探検部に入り、在籍期間は2年足らずだったものの、そこで得た衝撃は私のその後の人生を大きく変えるものだった。部員たちは部会でも部室でも飲み会の場でも、探検とは何か、人生とは何か、とにかくそんな剥き出しで根源的な問いを議論し合っていた。そんな問いを立てられる彼らを心から尊敬していたと同時に、正直、気後れもしていた。自分にはみんなみたいにアウトドアの経験や知識もなく、クリエイティブな発想や才能もなかったからだ。あの頃はみんなお金がなくて、部会が終わった後は、コンビニでお酒を買って公園で座って飲んでいた。私はただ、「探検とは何か」というお題目を肴に酒を飲み、全力で議論する部員たちを見ているのが好きだったのである。

◆あれから10年経ち、私は人並みに結婚し子育てをしている。日常は忙しくも淡々と過ぎていき、胸に去来する思いを誰かに共有し議論する場所はほとんどない。私も社会に揉まれ、当たり障りのない発言で日々をやり過ごすという手垢にまみれたスキルを身につけ、本当の気持ちは誰にも言わず日記帳に書き残して済ませる生活にもすっかり慣れた。人が何か胸の奥に隠された思いがあるときは、それを理解できそうな相手が目の前にいて、初めて言語化されるものだと思う。現代の社会にはそうなりうる環境がなく、そんな相手に出会えることも多くない。ちえん荘にはその環境があり、非常に稀有な存在だと思う。今は共同生活の場としての「ちえん荘」がなくなっていても、いつかどこかで繋がって、何か面白いことが生まれるのではと期待している。[貴家蓉子

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 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

ちえん荘の安心感って何なのだろう?

■「地平線」の皆さま、こんにちは。先日会場まで足を運んでくださった皆さま、ありがとうございました。発表では、自分が育ってきた環境のこと、北海道東神楽町で仲間と共に「ちえん荘」で過ごした数年間の共同生活のこと、そして、自分やみんなの、今とこれからについて話しました。たくさんの面白い大人たちに囲まれて育った幼少期の心地良さと、わちゃわちゃとたくさんの人が集まるちえん荘の心地よさ。自分の過去と現在が、なんとなくつながっているような、そうでもないような。

◆小さいころ、周りにいた大人たちは、土木仕事ができたり、家を建てられたり、畑で野菜を作れたり、歌を作って歌う人もいれば、カヌーを作れる人もいれば、鹿の皮をなめして服を作れる人もいました。青空の下、大人がひとりでもくもくと作業する場面も、仲間同士で力を合わせている場面も、よく目にしました。自分は、そういう環境で育ちながら、そういう大人たちを目の端で捉えてはいながら、何も、自分でできるようにはならなかった。普通に、遊んで、部活して、勉強に精を出して、自分の手では何も生み出せないまま大きくなりました。これでは「恵まれた環境で育ったらこんな面白い人間に育ちました!」みたいな、わかりやすい図式が成り立たない……。

◆そして、ちえん荘での共同生活。これまた、強い思想みたいなものは何もない。私自身は「居心地がいいなあ……。たくさんの人が一緒に時間を過ごしてくれてありがたいなあ……」というのが、思いのすべてというか……。仲良くなった人たちと、少しずつ力を貸し借りしながら、良い時間を過ごしながら、願わくば「自分の手でできること」を増やしながら、心地良く、暮らしたい。ヨチヨチ歩きの赤ちゃんくらいゆっくりのスピードで、それを試している最中。ただそれだけです。

◆それだけなのに、私はそこに、計り知れない安心感や、心強さを感じている。ちえん荘に集まってくれる人たち、この人たちがいれば、私はこの先、不安定な不透明な時代の中でも、なんとか生きていけるんじゃないかという漠然とした希望がある。これはなんなのだろう? 自分でも、よくわかっていません。その、よくわからなさを伝えたい、そういう話をしたかったような気がします。ちえん荘を取り巻く色々について、何かを断言したり、「こうだと思う」とは言いたくない。自由に解釈してほしいし、ちえん荘に来た人がその人なりに楽しんでくれれば良いのです。

◆報告会当日、会場に来てくれた方々にお渡しした「お土産」は、ちえん荘をよく表したものになっているのかなと思います。ちえん荘に出入りしている人たち一人ひとりと私が、ちえん荘をテーマにおしゃべりをした、聞き書きの冊子です。長野亮之介さんとZoomで報告会の打ち合わせをした際、長野さんが言ってくれた「ちえん荘って、縁側みたいな場所なのかもね」のひとことから、「みんなにとってはどんなところなんだろう?」と気になり、突発的に思いついて作った聞き書きです。

◆いきなり電話をかけて「ちえん荘ってどんな場所だと思う?」と水を向けたら、皆それぞれ、考えを話してくれました。一人ひとり、ちえん荘に来ている理由は違っていました。ちえん荘について何を感じているかも違う。今我々が生きている時代のこと、生きづらい世の中の空気のこと、SNSのこと、「同じ釜の飯」を食うこと、「社会貢献」という名の圧力のこと、物々交換のこと、これからの家族のかたちのこと……、色んな話に展開しました。こうやって皆がおしゃべりしてくれるのが本当に嬉しいし、考えを話し合える時間が素敵だな、楽しいなと思いました。そして私は、ちえん荘って何なんだろうと、ますますわからなくなる。それが面白いのです。当日は説明的になってしまった部分、私の想いと別の方向で伝わってしまった部分もあるかもしれませんが……。ちえん荘の話を聞いて何かを感じてくださったあなた、ちえん荘で会いましょう。お待ちしています。

◆そして今回の報告会で嬉しかったもう一つのことは、地平線のみなさんと「出会えた」ような気持ちになれたことです。もう10年近く前から、地平線のことは知っていたし、通信も受け取ってはいたけれど。私は、学生時代に探検部に所属していながらも探検にはのめり込めなかったし、行動者になりたいと思いつつも特に目立ったことをできずにいたので、「できればあまり近づかないでおこう」とさえ思っていました。ヘタに近づいて、自分の薄っぺらさを暴かれるのが怖かったのです。

◆「北海道地平線」の話が動き出してからは、江本さんを始め数人の方々と少しずつ触れあい、「面白そうな大人たちだ……!!」と思い始めていました。そして今回。江本さんや長野さんが「あなたには話せることがある」「面白い発表になると思う」と言ってくれたことに、心が動きました。報告会前日に「はっちゃんの話ならぜひ聞きたい」とメールをくれた花岡さん、発表直後に「面白かった」と声をかけてくれた澤柿さん、光菅さん、「あの聞き書きの冊子が良かったね」と言ってくれた車谷さん。そして、2次会の新北京では、初めてお会いする方々も含めて一人ひとりが、発表について触れたり、話しかけたりしてくれたのです。本当にあたたかいところだと思いました。今までガードを固めていたのが嘘みたいに、地平線の方々一人ひとりに、そして地平線が積み上げてきた歴史に、興味が沸いてきました。これまで何度も「通信に原稿を書いてみて」と打診してくれ、私が地平線とつながれるよう扉を開いてくれた江本さん、本当にありがとうございます。興味が出てきたので、早速、『地平線から・第8巻』の座談会のページを読んでいます。とても面白いです。[笠原初菜

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 イラスト ねこ


同じ釜の飯を食う仲——「ちえん荘」が揺さぶったもの

■4月の地平線報告会で、久しぶりに脳を揺さぶられた。実を言うと、最初は少し戸惑っていた。最初に会場で配られたのは、「ちえん荘をめぐる、おしゃべりの記録」と題された、住人や周辺の仲間たちへのインタビューの文字起こしだった。登場人物も多く、誰が誰なのか、どんな関係なのか、最初はよくつかめない。正直、このままどう話が展開するのだろう、と思いながら聞き始めたのである。

◆ところが、後半に入ると、その戸惑いは見事にほどけていった。前半で初菜さん自身の生い立ちや現在の模索が語られ、後半になると、配付資料に記されていた断片的な声が、初菜さん自身の語りによって回収されることで次々とつながりはじめる。人名と人物像が結びつき、ばらばらに見えていた断片が、一つの場の輪郭として立ち上がってくる。ああ、そういうことだったのか、と途中で景色が反転するような感覚があった。

◆あとから思えば、この「最初は分からないものが後でつながる」という構成そのものが、ちえん荘という場のあり方をなぞっていたようにも思う。まず人がいて、関係が後から見えてくる。講演の組み立て自体が、内容と照応していた。その設計のうまさにも、私は感心した。

◆報告者の笠原初菜さんは、北海道大学探検部OGで、「ちえん荘」という共同生活の場を拠点に、貨幣や効率に回収されきらない暮らしのあり方を模索している人である。「物々交換で生きていけたらさいこうですね〜」という冒頭の一言から、話はすでにこちらの思考の地盤を少しずつ掘り崩し始めていた。

◆実は、初菜さんの話は、私にとってまったく他人事ではなかった。彼女の原風景として語られた南富良野の野外学校「どんころ」は、私にも縁があったからだ。2000年代初頭、北海道が自然ガイド資格制度を立ち上げた際、前職場であった北海道大学大学院環境科学院では「自然ガイド・環境保全指導者コース」を開設したが、「どんころ」はその実働面を支える重要なパートナーだった。初菜さんは、そのころ「どんころ」に出入りしていた少女だったのだ。さらに北大進学、ランタン村での経験、野外系の部活を介した人のつながりなど、私自身の履歴とも不思議に交差していた。

◆だが、それ以上に心を動かされたのは、彼女が繰り返し語った「同じ釜の飯を食う仲」という感覚だった。ちえん荘は、所有より共有、契約より関係性、効率より余白を重んじる実験の場のように見えた。そこには、現代社会で失われかけた「コモンズ」の気配がある。さまざまな人が出入りし、必要なものは融通し、時には物々交換で回り、互いの技能や信頼が通貨のように働く。

◆しかも、配付資料の声をたどると、それは単なる「共同生活」ではないことが見えてくる。そこでは、「人が人を呼ぶ」「目的を定めないほうがいい」「来る人がまた次の人を連れてくる」といった言葉が繰り返されていた。理念が人を集めるのでなく、人の往来そのものが場を育てている。これは、磁場のようなコモンズだと思った。

◆それを聞いていて思い出したのは、私自身が学生時代に北大山岳部の仲間たちと暮らした通称「おばけやしき」である。古い民家に人が集まり、金も物も乏しいのに、なぜか生活は回っていた。炊事をし、酒を酌み交わし、議論し、計画を練り、ときに沈黙を共有する。「同じ釜の飯を食う」とは、単なる比喩ではなく、関係を編み上げる技法だったのだと思う。

◆南極・昭和基地の越冬生活も、振り返ればそうだった。文明社会から隔絶された極限環境では、貨幣はほとんど意味を持たない。そこで機能するのは、役割への信頼、互酬性、評判、つまり「評価」の回路である。越冬隊長としてその人間関係をマネージした経験も、もとをたどれば「おばけやしき」で私が学んだことと地続きだったのかもしれない。

◆報告を聞きながら、斎藤幸平のいう“コモンズ”や、岡田斗司夫のいう“評価経済社会”という言葉も頭をよぎった。両者に通底するのは、「お金という尺度が通用しない領域を広げる」という構想である。血縁・地縁を基盤とした前近代の社会があり、貨幣経済が支配的になった近代・現代があり、その先に評価や信頼を媒介とする次の社会がある。荒っぽく図式化すれば、そんな流れが見えてくる。

◆実は、この感覚は最近、別のところでも再発見していた。昨年、認知症の進んだ父の介護と荒れた実家の片付けで、故郷・富山の集落に何度も通った。高卒で北海道に渡ってから半世紀近く、地元との縁はほぼ切れていたと思っていた。排他的な田舎の共同体に入り込めるはずもない、と、どこかで身構えていた。ところが違った。

◆集落の寺院のすっかり老いてしまった住職の面倒を見に帰ってくる長男、という私のステータスのアドバンテージもあったであろうが、集落の人々は意外なほど敬意をもって接してくれた。高騰した米は、スーパーで買う商品である前に、地元では収穫物としてやりとりされるものだった。物々交換も、助け合いも、まだ生きている。そこには血縁・地縁が色濃く残りつつ、次世代の「評価経済社会」の萌芽も見える。

◆考えてみれば、こうした世界は完全に失われたのではなく、貨幣経済の下に潜伏していたのだろう。ちえん荘の実践は、それを現代に引き戻して可視化している。「ちえん荘をめぐる、おしゃべりの記録」も、単なる補助資料ではなく、場の多声性そのものを立ち上げる装置になっていた。そこでは共同生活が理想化されるのでなく、煩わしさや摩擦も含めて語られていた。にもかかわらず、いや、だからこそ、「ともに生きる」ことの価値が浮かび上がっていた。コモンズは楽園ではない。手間も葛藤もある。それでもなお、そこに戻ろうとする力がある。

◆もう一つ印象に残ったのは、ある「それなりの地位のある人」から、ちえん荘の営みを「学生時代の延長のようなもの」と評されたことに、カチンときた、というくだりだった。これはわかる、と思った。既存社会の側から見ると、定職や制度や所有を中心に組み立てられない生き方は、しばしば未成熟と見なされる。遊びの延長、モラトリアム、と。

◆正直に言えば、私自身も、油断するとそういう見方をしてしまいかねない側にいる。大学役員という立場にいる今ならなおさらだ。読んでいて、少しドキリとした。けれど同時に、若い頃の自分なら、同じように腹を立てただろうとも思う。それは単なる暮らし方の違いへの反発ではなく、自分たちが試みていることの意味を、既存の尺度で片づけられることへの抵抗だからだ。「学生時代の延長」ではない。むしろ、成熟とは何かを問い返す実験なのかもしれない。

◆この春から私は新しいゼミ生をとらなくなり、かつて学生を連れて通っていた地平線報告会にも一人での参加となった。本来なら学生たちに聞かせたかった話だったと思う。しかし、ひとりで聞いたからこそ、かえって深く刺さったのかもしれない。

◆「同じ釜の飯を食う仲」とは何か。それは懐古趣味ではなく、これからの社会を考えるための手がかりなのではないか。南富良野の森にも、旭川のちえん荘にも、富山の集落にも、そして南極の昭和基地にも、その断片はある。報告会を聞き終えて、そんなことを考えていた。

◆貨幣だけでは測れない関係の中に、人はまだ生き延びる余地を持っているのだと思う。そして、考えてみれば、地平線会議そのものもまた、そうした「同じ釜の飯を食う仲」の一つのかたちなのかもしれない。あるいは、少し大げさに言えば、ここもまた一つの「ちえん荘」なのだ。[法政大学 澤柿教伸


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