2024年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信549より
先月の報告会から

よされ三味しゃみ流れ旅

車谷建太

2024年12月28日 榎木町地域センター

■2024年を締め括る車谷建太さんの報告会は、三味線の弾き語りでスタートした。♪~むかあしい むかあしい 私 車谷の先祖は 越中富山の薬売りでございました。♪~ 当時は 日本中に富山から 薬を運んでいたわけでして ♪~ 私の祖父の祖父 つまり曾々お爺さんは 富山の滑川という町を出て ♪~ 山を越え谷を越え また山を越え 海に出ました。♪~ そこは伊豆の国 下田の港町。曾々お爺さんは そこで恋に落ちました。♪~ 季節は巡り やがて曾お爺さんが産まれました。めでたきかなめでたきかな~! ベベベンベンベン♪~

農家体験を夢見て、一人旅

◆「三味線には、元来、歌舞伎や浄瑠璃などの伴奏の役目がありました。テレビのない時代、世界中で物語と音は共にあり、ぼくは楽器のそういう一面が大好きです」。その狙い通り、のっけから、会場は心地よい語りの世界に包まれた。

◆祖父も下田で生まれた。彼、車谷弘は文学青年だった。気の進まない東京薬学専門学校で学んだ後、菊池寛が立ち上げたばかりの文藝春秋社に薬剤師として入社。文学界の旧き良き時代、内田百閒ら個性的な文士たちと交流しながら、最後は編集長にまで登りつめた。その祖父は、1978年、建太さんが1歳半のときに他界した。だから記憶にはない。けれど、彼が作家たちとの交流を綴った「わが俳句交遊記」を読み、その人柄や人物を見抜く力、人と距離を取って接する人生術に感銘を受けた。母方の車谷姓を、建太さんは22歳のときに継いでいる。

◆「小学生のころは、まだ地元に空き地や駄菓子屋があって、いまは桜の名所の目黒川も鼻を摘まないと渡れないドブ川でした。教科書にもヘドロ川の代表として載っていて、授業で紹介されたときは教室がシーンとしました。それが、大人になるまでの間に恵比寿にガーデンプレイスができたり、どんどんお洒落な街に変わっていったんです」。

◆一方で車谷少年は、夏休みなどには伊東の祖母の家に通い、カニやヤドカリをとって遊んだ。その自然との触れ合いは、いまも貴重な体験となっている。小学5、6年のときは「お受験」で勉強に集中し、中学から大学までの一貫校に進学。中高ではバスケに明け暮れた。街の学生生活をエンジョイしていたが、20歳のとき、突然、日本の伝統的な暮らしに興味を持った。

◆親戚に農家がなく、日頃食べている米のこともわからない。それを知るためにも、日本を自分の足で歩いて見てみたい。そんな思いから、18きっぷと寝袋を手に出たアテのない一人旅。そこで強く感じたのが、色々な人の家に泊まる面白さだった。

◆「能登半島でバス待ちしていたとき、少し年上の女子二人組が声を掛けてきて、一人が『旅してるんでしょ。ウチに寄ってって!』って宝塚の実家の電話番号を渡してくれたんです。半信半疑でしたが、電話したら弟さんが迎えに来てくれて、六甲山を案内してもらいました。夜は、兵庫県の知らないその家で、味噌汁飲みました。その不思議さと嬉しさでドキドキしたぼくは、『受け入れてもらえた。この旅は面白くなるぞ』と思ったんです。翌朝、お母さんが、自分の子供にするようにお握りを作って持たせてくれました。それを食べているうちに、人情の温かさを知りました」。

◆その後、「農業を体験したい」の思いで、宮崎から鹿児島を目指して100kmほどを歩いた。が、願いはなかなか叶わない。ある日辿り着いた都井岬の露天風呂で一緒になったお爺さんも、「俺が見つけてやる」と翌日軽トラに乗っけて探してくれた。けれど、農業経験もない都会の若者がアポなしで行っても、断られるだけ。最後、「ここが駄目なら諦めよう」と立ち寄ったサツマイモ集荷場でまさかの歓迎を受け、ようやく居場所が見つかった。

◆7、8人いる従業員の家に、交代で泊めてもらうことに。仕事はサツマイモの検品・ランク分け、箱詰め、スタンプを押して発送などなどだったが、誰もがユーモアに溢れていて笑いが絶えない。お蔭で単調な作業にもかかわらず、少しも飽きなかった。集荷場には、毎年一番優秀なイモを運んでくるベテラン農家がいた。その老夫婦に、「この子、もらってゆくよ」と引き取られ、ついに志布志のサツマイモ農家へ。日中は畑で汗を流し、夜は御飯を美味しく戴いて温泉に入る。ぐっすり眠って、翌日、また働く。そんな、机上ではわからない、学校でも教えてくれない農家の普通の暮らしに、初めて触れることができた。

三味線の道は、チンチロ♪から始まった

◆三味線に出会ったのは、その旅から戻ったころだった。バスケ部の加藤士文(しもん)先輩に誘われ、彼の練習についていった。そこで、ラーメン屋の大将にして師匠の西村伸吾さんが弾く、津軽じょんから節に衝撃を受けた。東京生まれで祭りとも縁がなかった車谷さんにとって、そのリズムは新しくて懐かしく、また、エネルギーにも強く惹かれたという。

◆季節はちょうど桜の時期。大将と士文さんは、翌日、多摩川の桜並木で流しをやる。「お前もやれ!」と、車谷さんも一棹あまっている三味線を渡された。そんなのできるわけがない。断ったが、お酒も入った江戸っ子気質の大将は聞かない。「お前は横でチンチロチンチロ弾いてりゃいい」と押し切られ、3人で土手に立った。

◆「大将は、一番端っこの見晴らしいのよい土手に陣取りまして、じょんから節を弾いたんです。ぼくはリズムに合わせてチンチロチンチロをひたすらやりました。そしたらどんどん人が集まってきて、けっこう拍手が起こるんです。一か所終わると、別のグループから『こっちでやってくれ』と呼ばれまして、そこで座って演奏するんですけど、割り箸に挟んだりティッシュに包んだお札が飛んでくるんですよ、こちらに。ぼくが人生で見た初めてのおひねりでした。それだけじゃなく、なみなみとコップに日本酒が注がれたり、ホタテの貝柱を御馳走になって、歓迎されるんです。酔っ払ったお客さんに『俺でもできるぞ』と三味線を取られたりもして、気付いたら桜並木の2kmを走り切っていました」。

◆川があり、桜があり、楽しそうな酔った顔があり。その光景に、「江戸時代にタイムスリップした」と感じた。しかも、それを外側からではなく、演奏する側から見ている。人と人の垣根を取っ払う歌の力に圧倒され、「この音はどこから来るんだろう」とぼんやり考えた。そのときは言語化できなかったが、のちに「ぼくの田舎暮らしの憧れは、昔の暮らしへの憧れだったんじゃないか。三味線も、ぼくが旅で目指した昔の世界からやって来て、その時代の物語をたくさん知っている。自分の旅は、この楽器、この音色がどこから来たかを知るための旅だ」と悟り、「あの日こそが人生の転換期だったんだ」と気付いた。

◆車谷さんは、1年間かけて三味線を猛練習した。そして翌年、3人で再び同じ土手に立つ。「この日、甲子園の決勝戦で沖縄尚学高校が優勝したんです。あの辺りは沖縄出身の方が多く、大きな車座が何組もありました。大将の西村さんも奥さんが沖縄の人なので、沖縄の曲を弾けます。その車座の中でカチャーシーの曲を弾いたら、もう皆さんが立ち上がって踊り出すんですね。『凄いぞ、凄いぞ』と思いながらぼくは必死で付いていったんですが、なんだかお札の色が違うんですよ。でも、沖縄の人にすればお金のあるなしじゃない。めでたい席にその音が来れば反応するし、三味線を持っていない自分たちにそれを提供したぼくたちへの、感謝の気持ちもあったと思います。この写真、夕方の駐車場なんですけど、楽器ケース開けたら風でお札がパーッと飛んで、拾い集めて数えたら、土日の2日間で30万円もありました。沖縄尚学が優勝したミラクルもありましたが、こういう、沖縄と音楽と三味線との貴重な体験をしました」。

三味線一丁を手に、モンゴルの草原へ

◆日本を旅し、三味線も手に入れた車谷さんの関心は、次にモンゴルへと向かった。いまだに電気もガスも水道もない遊牧民の暮らし。一時は世界を支配する大帝国を築きながら、いまは小さな落ち着いた国に戻っている。そこに感じた「人が、出て行った土地にまた還ってくる」的な魅力にも惹かれた。ただ、どうやってゆけばよいのか。そこで、渋谷のインターネットカフェに出掛け、「モンゴル」「ホームステイ」などのキーワードで検索。たった1件ヒットしたのが、山本千夏さんのmongol horizonだった。

◆彼女が現地で会社を設立し、乗馬ツアーなどを始めたタイミング。そこには「一発芸求む」みたいな煽り文句もあった。早速、国際電話を入れると「来なさい。そんな君を待っていた」のリアクションが。そのモンゴルでは、ウランバートルから800kmほど北のオラン・オールで乗馬ツアーを体験し、その後も他の参加者と別れて居残った。「晴れて遊牧民との暮らしが始まりました。憧れの草原が目の前にあって、ニコニコした子供たちがいて。こんなにワクワクする状況はないですよ」。

◆あえてモンゴル語の辞書は買わず、三味線一丁だけで来たから、言葉はまったく通じない。けれど徐々に意思疎通ができるようになり、1日のルーティーンを学んでいった。朝起きると、子供たちと一緒に牛の柵を開け、乳を搾る。井戸まで何往復もして羊やヤギの水を汲む。川で魚捕りもした。夏は午後9時くらいまで明るい。夕食後もみんなで遊んだ。ホームステイ先は、モンゴルの北部、中央、南部の3か所で組まれていた。それぞれの違いを体験できるよう、との千夏さんの計らいだった。そのトータル1か月を、車谷さんは、チーズを干したり、ジャムの材料のベリーを採りに行ったり、牛糞を集めて乾かし、お茶を沸かしたりして過ごした。

◆モンゴルでは、来客があったときなどに羊を屠る。すでに何度か、車谷さんも現場を見てきた。そんなある日、「ケンタ」と呼ばれ、「今日は君の番だよ」と告げられた。「来ていきなりだったら怖くて出来なかったんですが、3週間くらい一緒に暮らして、家族のように愛している羊たちの水を汲んだりしてましたから、心の準備もできていました。

◆屠殺のやり方は、羊の胸にナイフを入れ、そこから手を入れて指で首の大動脈を引きちぎります。ケンタがやるんだ、ということで凄く丁寧に真剣にリードしてもらい、ぼくもその気持ちが嬉しくて、必死にやりました」。そのとき、車谷さんは「自分の手の中に命をスッと受け止める」のを感じたという。「それは、滞在中もずっと細胞では理解していましたが、草原にいると目に見えるすべてが循環しているのがわかるんですよね。

◆雨のひと粒にも無駄がなく、草に入って羊たちが食べ、それを食べる人間も土に還ってゆく。日本ではなかなか辿れなかった基本的な人の暮らしの、そこにある、何か「水脈の井戸を汲みに行く」みたいな感覚……。このモンゴルに来てみんなと同じ呼吸の中で暮らし、最後に羊の屠殺をやらせてもらいました。それは、ぼくの人生にとって特別で、凄く大事な経験でした」。

◆モンゴルの人たちはよく歌う。中でも印象的だったのが、ろうそくを囲んで器に注いだアルヒという酒を回し、それぞれ飲んでは1曲歌うルールだ。順番が回ってきたとき、車谷さんも「椰子の実」を歌い、号泣してしまったという。報告会会場では、「可愛い仔馬」という歌を披露した。子供から教わり、井戸へ水汲みに行くときなどに歌っていた曲で、車谷さんは、帰国後もシャワーを浴びたりしながら歌っている。そうすると、「4Kくらいの鮮やかさ」でモンゴルの草原が目の前に甦るのだ。

津軽へ伊豆へ、伸びる音と食の道

◆帰国後、車谷さんの人の縁は津軽へと広がった。ラーメン屋の大将が津軽三味線の全国大会シニアの部で優勝し、酔っ払った勢いで地元の名人・渋谷和生さんを口説き、直々にラーメン店で東京教室を開く話をつけてしまったのだ。その流れで、車谷さんも彼の弟子となった。「『津軽のカマリ』って向こうの人は言うんですけど、津軽三味線には、土地の訛りや感覚が曲のフレーズに入っています。ぼくがステージで弾いていると、『おめぇの三味線っコは、まだまだ東京弁だなぁ』と言われます。吉田兄弟や上妻さんたちは凄腕ですが、県外者。渋谷さんは青森出身で、5歳くらいから民謡の世界に入り、歌も歌えるし、伴奏もやってきました。聴いている地元の農家の人も涙を流しているんです。その師匠の演奏を横で見ながら「盗む」んですが、指から物語りが紡がれてゆくのが見える。そういう本物の現場へ行けて、本当に勉強になりました」。

◆音楽の道が開ける一方で、もう一つのテーマ、「伝統的な農村暮らしを知りたい」にも新たな展開が訪れた。最愛の祖母が95歳で亡くなり、目黒の家から下田まで、リュックを背に歩いて墓参りした途中、「ちょっとお兄さん、ゲストハウス作ったから寄っておいで」と、軽トラのお姉さんにチラシを渡された。その南伊豆は、車谷さんも知らない土地だった。が、行ってみると、日本昔話に出てくるような昔ながらの里山が続いている。

◆ゲストハウスの向かいでは、車谷さんと同い年くらいの夫婦が田植えの仕度をしていた。聞くと、自給自足をするため、川崎から移り住んできたという。念願の田植えのまたとないチャンス。「ぜひ手伝わせて欲しい」と、挨拶もそこそこにお願いした。その「まーくん」こと金子雅昭さんも、オーストラリアを旅したり、お遍路を廻ったりしてきた人物だった。すぐ仲良くなり、田植えの後にお礼とお別れを言おうとしたら、「建太、稲刈りもおいでよ」のお誘いが。それから10年通い続け、金子さんたちの試行錯誤の無農薬農業を手伝っている。

◆「農家って、1年に1回しか結果が出ないんですよね。50年やっても50回しか試せない。まーくんは、草取りとか頑張って、1年目から凄い結果を出しています。そうやって自分で汗を流したお米は、やっぱり美味しいです。地獄のような草取りとか、そこで聞いた虫の声とか、そういうものが米一粒に全部入っているんです。和太鼓集団の鼓童は、「生きる」を「息る」と捉えていて、まず呼吸を知ることが大切だと言っています。そして、自分たちの音を出すために、佐渡島で暮らしながら日本古来の米作りのリズムを養おうとしています。ぼくはそのために通った訳じゃないけど、とても勉強になりました」。

音のグレートジャーニー

◆2007年9月、車谷さんは金井重さんの報告会で、津軽三味線を演奏した。そのとき、一番後ろで聴いていたウルトラマラソンの海宝道義さんに声を掛けられた。自分が企画する宮古島の100kmマラソンで弾かないか、朝5時、景気付けにキミの津軽三味線をみなに聞かせたい、というのだ。その誘いに乗って当日600名のランナー出走と同時に演奏し、コースでバナナなどの補給をする「エイド」も手伝った。

◆せっかくなので帰りの飛行機を1週間伸ばし、島に残った。なんのアテもなかったが、スタッフで来ていた妹尾(日野)和子さんがトランスオーシャン航空の機内誌「コーラルウェイ」の編集者で、沖縄にめっぽう詳しい。そこで相談すると、平山さんというおじさんの連絡先を教えてくれた。「早速電話したら、『明日昼のフェリーで伊良部島に来なさい。三味線持ってきてね』と。港で笑顔で迎えてくれまして、車に乗せられて辿り着いたのが伊良部小学校だったんです。その体育館に全校生徒が集まっていて、多分ぼくの人生で最初で最後だと思うんですけど、『歓迎 車谷建太』ってメチャメチャ大きな横断幕が用意されているんですよ。ぼくも「なんで?」と思いましたが、嬉しくて、みんなの前で三味線を弾きました。そのあとも、平山さんが宮古高校の音楽授業だったり、幼稚園だったり、どんどんブッキングしていくんです。アッという間に1週間のうち5日間くらいが埋まりました。その行く先々のオジイ、オバア、子供たちの目の色が、見たことないくらいキラキラしてるんです。離島ってこともあるんですけど、尋常じゃないんですよ、皆さんの好奇心の眼差しが」。

◆「何でこんな化学反応が起きるんだ」と車谷さんは驚いた。けれど、思い当たるものがあった。リュート属楽器の三味線のルーツはエジプトだ。それが西に行ってギターやバイオリンになり、東はシルクロード経由で約500年前に沖縄へ伝わった。津軽に辿り着いたのは、たった百数十年前のこと。沖縄のオジイにすれば、三味線は三線の孫みたいなもの。「それを持った青年が目の前を通れば、捕まえないワケはない」と車谷さん。

◆「ぼくが有名かどうか、腕が良いかどうかなんて問題じゃない。三味線が人間や音楽と一緒に移動して根付く、例えばその昔に瞽女さんが北陸から東北に伝えた、そんな瞬間があったはずです。文化と文化が本気でぶつかった瞬間、凄いエネルギーが噴出するし、感動があります。その一番風を、ぼくは一番目の前で感じることができた。これこそが、三味線と旅が掛け合わさった旅の醍醐味だなって気づいたんです」。

◆宮古島で揉みくちゃにされたときの人々の目の輝きは、江戸時代のそれと違いはない。車谷さんは確信した。ちょうどそのころ、関野吉晴さんがグレートジャーニーをやっていた。同じ視点で見れば、津軽は三味線の終点だ。鮭が源流へ上るように、そこからたった一人が沖縄に来ただけで、こんな化学反応が起きてしまった。そう考えたら、音のグレートジャーニーのイメージが湧いてきた。ラクダに乗って、三味線担いでエジプトをゆく……。「これ、誰もやってねえぞ、って気持ちで顔を上げたら、台湾という島国が、ぼくに向かって扉を開いて待っていたんですよ。ここに行くしかない」。

強運の旅 in 台湾

◆そこで、報告会の会場で誰かれ構わず「台湾に行きたい」と話した。すると本所雅佳江さんが本を貸してくれ、相川弘之さんは台湾に住む知り合いを紹介してくれた。その片倉佳史さんは、歴史や鉄道の著作もある作家だった。訪ねてきた車谷さんの「三味線を持って台湾の人と交流したい」という希望に、さっそく東海岸の、先住民訪問旅のアテンドが決まった。ただ、準備には数日掛かる。折悪しく台風が迫っていたが、片倉さんの「暇だったら腕試しに行ってみたら?」のアドバイスで、北の港町・淡水を訪れた。

◆「広場に着くと、トランクで腕時計売ってる行商人みたいな人とか、いっぱいいるんです。そこでぼくも三味線組み立てて掻き鳴らしました。最初はみんな驚いて、遠巻きに見てるんです。そんな中で、笑顔の女性が『なんで来たの?』と話し掛けてきました。先ほどの理由を答えたら、『だったら、あなたに紹介したい人がいるわ。明日、ちょうどライブがあるから一緒に行きましょ』って、アーティスト名を書いた紙をくれたんです。

◆その夜、片倉さんに『ストリートやってきましたよ。そこで、こんな紙もらったんですよね』と見せたら、目を丸くして、『車谷君、キミは運が強過ぎる。この人は台湾の北島三郎だよ。ぼくの経験から言わせてもらえば、君の旅で、この人以上に相応しい、出会うべき人はいない』というんです。その陳明章さんは、台湾の三味線である月琴や、伝統的な北管音楽、南管音楽、クラッシックやオペラまでマスターした、神様みたいな人なんだそうです」。そして片倉さんは、「ぼくは忙しくて行けないから、妻の真理を通訳に連れていけ」と送り出してくれた。

◆野外のライブ会場で昨日の女性リニーさんと合流し、コンサート後、3人でステージ袖を訪ねて陳さんに挨拶した。すると、彼が両手を挙げて言った。「お前みたいなヤツを待っていた。明日、うちに来い」。次の日、真理さんの付き添いで陳さん宅を訪問。まだ幼い子供や、月琴の生徒らを紹介された。「夕飯をご馳走になったとき、真理さんが目を丸くしているんです。『どうしたの?』って訊いたら、陳さんは毎月、恆春にいる月琴の人間国宝の朱丁順先生が地元の生徒さんに開く教室に通ってるんですが、そこへキミも連れて行くって話してる、と言うんです。でも、ぼくは先住民ツアーの計画がある。『どうしよう』と真理さんに言ったら、『なに言ってんの。こんなビッグウエーブに乗らないワケがない。私たちのツアーはどうにでもなるから行きなさい』と背中を押してくれました。翌日、半信半疑で約束の時間にホテルの玄関を開けたら、もうタクシーが停まってて陳さんが手を振ってるんですね。そのまま台北の駅に行き、新幹線で一緒に弁当を食べながら、恆春に向かいました」。こうして、それから16年間で、お宅に500泊もする陳さんとの付き合いが始まった。

津軽三味線と月琴の縁を結ぶ

◆2008年の初訪台から16年。その間には何度かブランクもあった。東日本大震災翌年の訪問も4年振り。それを待ち兼ねたかのように陳さんから、彼が創設した「台湾月琴民謡協会」と、青森の渋谷師匠が会主の「和三絃会」との姉妹縁組の話が出た。

◆陳師匠は、車谷さんと出会う前から津軽三味線をよく知っており、それぞれの土地に楽器が根付いていることや、月琴も盲目の人の生きる手段だったことなどを話題にしたという。日本の、芸能の故郷の人たちとの月琴を通じた交流は、そんな陳老師の大義でもあった。そして翌年、双方から各々20数名が参加した、第一回「日本・台湾友好音楽祭」が弘前で開かれた。

◆その、いつも控えめで謙虚な車谷さんが「ぼくの人生で一番誇れること」と胸を張るイベントは、想像を超える苦労の連続だった。たった一人のスタッフとして、企画書作りからプレゼン、ボスター作り、会場やバス、音響機材の手配、市長の表敬訪問などに奔走し、「国際交流ってこんなに大変なんだ」を身を持って知った。おまけに、津軽は良くも悪くも閉鎖的。シャイな土地柄だ。外の世界の芸能に触れる機会も少なかった。

◆けれど、フレンドリーで人懐っこい台湾の人たちのパワーで、ワークショップは津軽の人たちにとっても楽しく有意義な時間となり、また、交流会で地元の手踊りや唄に触れた陳師匠も大満足だった。こうして、「一人の旅人のぼくがですよ、台湾の月琴と津軽三味線を結婚させたんです」の音楽祭は、成功裏に幕を閉じた。同イベントは、その後も2015年と17年に開かれている。

◆2015年、車谷さんは、正式に陳さんの音楽グループ「陳明章&福爾摩沙(フォルモサ)淡水走唱團」の一員となった。他のメンバーも、台湾内外から集まった優れたミュージシャンたちだ。いつも自然体の陳さんは、あのプレゼンテーション番組のTEDにもフラッと何の準備もなく出演し、月琴の講義も演奏もサラリとこなす。ついつい気負ってしまう車谷さんに、「力むな、テイク・イット・イージーだ」と語りかけ、忍耐強く見守ってくれている。

◆コロナ禍のブランクの後、24年3月、久々に台湾を訪れた。仲間たちがどうやって音楽活動を続けていたのか、また自分のポジションが残っているかもわからない。でも、まずはみんなに合ってハグしよう。そんな思いだった。が、すべては杞憂だった。6月の「総統府音楽祭」にも陳明章&福爾摩沙淡水走唱團として参加。その情景は、地平線通信8月号に生き生きと描かれている。

旅で学んだ三つの知恵

◆車谷さんが、これがあれば人生は幸せだ、と大事にしているキーワードが三つある。一つ目は、「何百年を超える三味線もそうだけど、世界を大きな尺度で見ていきたい」という、スケール。二つ目が、「サツマイモ畑で出会ったときから、人生の豊かさにとって絶対に必要だと思った」のユーモア。最後が、「セッションなどでは、ギターとかベースとかドラムとかが何もないところから風を起こすように音を出し、だんだん音楽になって、ワッショイワッショイと躍動感が出てきます。それは音楽に限りません」という、音楽用語の「グルーヴ」だ。

◆「みんなと呼吸を合わせて、直感で楽しくやってれば、未来も大丈夫なんじゃないか。ぼくは楽観しています」。車谷さんは、なぜいつもにこやかで、穏やかな空気を纏っておれるのか。恐らくそれは、これら旅の経験で得た哲学から滲み出しているのだろう。残り時間が迫ってきたところで、話題は一転。スライドを交え、通信がどのように刷られ、封入され、発送されるかが、駆け足で紹介された。2時間半の「誰も知らなかった車谷建太」は、最後にお馴染みの「印刷局長」に戻り、本年ラストの報告会は終了した。

エピローグ:報告会レポートを書くにあたり、電話で追加取材した。その幾つかはレポートに活かしたが、驚いたのは、本番に備えてきちんと綿密なリハーサルまでやったこと。さすがはミュージシャン。けれど、「作ったら終わりだ」の思いでカンペは用意しなかった。野菜や米作りへの関心も、気分的なものではなく、実は深い思考に基づいており、大学時代には先生から「尖っている」と見られるほど、先進的かつオルタナティブな考えの持ち主だった。そして、こうも。「三味線という旅の杖は、ぼくにとって1000年の時間すら超えるタイムマシーンであり、音楽の畑を耕す鍬であり、その向こう側のご縁と繋がる道具なんです」「ラダックやトルコにも行ってみたい。いつエジプトに辿り着けるか判りませんが、風が吹けば……」。長く遠く、魔法の杖を手に、旅は続く。[久島弘


報告者のひとこと

私を育てたご縁の力

■報告会に向けて人生を振り返ってみて、いかに自分は『ご縁』に恵まれ、そのご縁にいかに支えられてきたのかということを身に沁みて感じました。昭和時代の幼少期に都会と伊豆の自然を行き来しながら育ち、小学生のころにアニメで観た「母を訪ねて三千里」が僕にとっての最初の旅のイメージでした。まだコンビニの少ない日本を巡り、たくさんの人の家に泊めさせていただいた経験は今となっては貴重な財産です。

◆そして巡り逢った三味線という楽器。「日本人の暮らしを知りたい。たくさんの土地を巡りたい」一心だった僕を導いてくれ、唄というものがその土地の暮らしや歴史の物語そのものであることを教えてくれ、やがては「世界は唄で繋がっているんだ」という自分の世界地図を授けてくれました。「三味線は僕にとって旅の杖なんです」と表現しましたが、この杖のおかげでたくさんの土地や人と出逢い、物語を交換して、さらにその先の土地を耕してゆけるような感覚が芽生えました。

◆長い人生の途上では「こんなことをしていて本当に自分の人生は成就するの?」とか「自分には音楽家としての才能はさほど無いのにこの道のりを歩んで行けるの?」などと途方に暮れることも多々あるのですが、そんなときに決まって背中を押してくれるのもまたご縁の力でした。出逢った人々の愛情だったり、これまでに自分の心に描いてきた世界から来るワクワク感だったり。心の奥底の方から湧いてくるそういった力が自分自身をその先へと押し上げてくれるのでした。

◆僕はたまたま三味線を手にしましたが、僕自身の人生の本質的な願望は「人の暮らしのなかに飛び込んで一緒に呼吸をし、愛情を分かち合い育みたい」という一点に尽きるのだとも思います。だからこそそんな一つ一つのご縁を大切にしたいのです。今思えば、モンゴルや米作りなど、その旅路の出逢いの過程の何かひとつでも欠けていたら台湾での陳老師との出逢いには辿り着けなかったのでは?とさえ思います。

◆報告会でお話ししたように、今は台湾で陳老師をはじめとする仲間達と一緒に同じ景色を眺めてゆきたい一心で三味線に取り組んでいます。陳老師が背中で教えてくれている『自然体』というオープンハートな究極の人生術。師匠から受け取った「Take it easy」の精神を胸に、これからも旅の杖を通じて「三味線のグレートジャーニー」をかなりゆっくりとしたマイペースではありますが、歩み続けてゆけたらと思っています。

◆二次会は地平線会議がずっとお世話になってきた「北京」での最後の宴となりました。「ありがとう」では言い尽くせない気持ちを三味線も交えて皆さんと一緒に北京の皆さんに手渡すことができ、そんな運命的なお役目を果たせたことがとても嬉しかったです。ご紹介した通り榎町センターでは、毎月熱々のこの通信の発送作業を皆で和気藹々と楽しげにやっていますので、皆さん是非ともふとしたときにふらっと立ち寄ってみてくださいね。きっと幸せな気分になれますよ。いつでもお待ちしています。このたびはご清聴ありがとうございました。[車谷建太


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