■東京農業大学探検部OBで映像ディレクターの山田和也さんが今回の報告者だ。隣には、パートナーであり山田さんの作品のプロデューサー本所稚佳江さん。関野吉晴さんの『グレートジャーニー』をはじめ、映画やテレビ、数々の作品を制作してきた。「いい歳になったんだから人生を振り返ってみるのもいいよ」と江本さんから言われて、作品リストを作ると約160本もあった。「50年を振り返ってみたら、自分にとって大事なことがわかってきました」という言葉で始まった。
◆報告会は三度目の山田さんだが、改めて自己紹介。特に好きな二本の作品の予告編が流れる。一本目は『障害者イズム このままじゃ終われない』(2003)。脳性マヒによる重い身体障害のある3人が施設や家を出て自立しようとする2000日の記録。その後もずっと交流があるという。もう一本はモンゴルの遊牧民の少女を撮った『プージェー』(2006)。グレートジャーニーの取材の後、5年間追いかけて制作。今も韓国や中国で凄く人気がある。どちらも自主制作の映画。音楽が印象的で、ギュッと心を掴まれ、引き込まれる。
◆1954年生まれの山田さん。子どものころから海外に憧れていた。海外へのチャンスを期待し、農業柘植学科へ入学。探検部には14期生として入部した。学生時代の山田さんは、冒険心を満たす活動に惹かれ、北極から南極までをつなげる「地球縦回り計画」を立案。トレーニングに明け暮れる。夏はカナダのフレーザー川に激流降下の技術を学びに行き、冬は知床の流氷原をスキーで歩いた。当時の農大探検部にはインフルエンサーが3人いた。マングローブ植林行動計画の向後元彦氏、農場技術指導者矢澤佐太郎氏、記録映像作家国岡宣行氏。3人に共通していたのは、まだエコロジーという概念がなく、誰も温暖化なんて感じていない1970年代初めに、地球の砂漠化を懸念していたこと。「砂漠を緑にしたい、アジアアフリカの飢餓を農業で救いたい、惨状を知らせたい、そこにこそ探検の意味がある」という考えにたくさんの部員が影響を受けた。その国岡氏からガンジス河全流降下計画に誘われる。この旅が契機となって、その後、ドキュメンタリーの世界に入ることになったと話す山田さん。当時の計画書が大きく映しだされる。手書きの地図が素朴で懐かしい。
◆交渉役の山田さんは本隊より先にカルカッタへ。宿で知合った中産階級のセールスマンたちから様々な情報を得る。インド政府観光局ツーリストオフィスの若いオフィサーだったジャナキラムさんとは、なんと今もつき合いがあるという。助言の一つが「新聞に訴えろ」。新聞社を軒並み回る。大手全国新聞ステイツマン社の記者が紹介してくれたのが「インド探検クラブ」。富裕層の集まりだ。次にニューデリーの内務省でガンジス河下りの許可証を申請する。もともとそんな許可証はないのだから、なかなか手に入らない。山田さんに課せられた使命は、「なんの許可が必要かを調べること。何でもいいから、役所のお墨付きをもらうこと」。粘り強く1か月通って、許可証とおぼしき書面を受け取る。これが後々とても役立つことになる。
◆計画の変更もあった。激流用のゴムボートが通関できず、難所のバドリナートとハリドワールの間は歩くことにする。インド探検クラブからは、インドの学生も1週間参加したいとの依頼。実は、報告の冒頭でSNSの投稿が紹介された。活動を共にした学生のひとりラケシュ・テワリさんが、一昨年、山田さんをSNSで探していたという。きっと、ラケシュさんにとっても、ガンジス河の旅は大事なことだったのだろう。ラケシュさんの人生を時空を超えて想像してみる。
◆平底の舟を手に入れ、出発。時折死体が運ばれていく穏やかな流れを、のんびり下っていく。だが、地図にも情報にもなかった堰堤が現れる。近くの工事現場の人たちが舟を引っ張り上げてくれた。親切に支えられてばかりの旅。警官に呼び止められたときは、あの許可証が大いに役立った。インドとバングラディッシュ国境付近では、機関銃を持った国境警備隊が並ぶ水路を、夜の間にこっそり下ることになる。見つかったらおしまい。怖かったが無事通過。本当にいい旅だったと話す山田さんの笑顔は青年のようだ。
◆河口のサガール島で開催されるお祭りに合わせてゴール。大手新聞社の取材が地方紙にも掲載され、河川流域の人々が注目し、誰もが知る人気者になっていた。「僕たちは川下りを楽しんできただけなのに、知らない間に『ホーリージャパニーズ 聖なる日本人 ファイブ侍』と受け止められていたんです」。会場は笑いに包まれる。ハリドワール→アラバード→ベナレス→サガール島、そしてガンジス河そのものも大聖地。源流から河口までの降下は大巡礼に値するのだ。安宿の前には、その後1か月の間、聖者から祝福を受けるための長い行列ができたという。足元に額づく人々に聖なる日本人たちは祝福を授けたのである。
◆今回の報告は、降下から35年経って出された報告書をもとに解説されたのだが、実は出発前に集英社とタイアップし、良質な大人の雑誌『月刊プレイボーイ』のグラビアに載せてもらう予定だった。ところが、こんなレベルの写真は使えないとケチョンケチョン。次に『週刊プレイボーイ』の取材を受けるが、嘘八百の記事が掲載されてしまう。ゴーストライターを使って単行本を出すという提案は、「ふざけんな」と断った。
◆山田さんの憧れは、日本観光文化研究所が出していた『あるく みる きく』であった。まるごと一冊の特集が組めたら勲章もの。なんとか1ページだけ書かせてもらう。「これは本当に嬉しくて宝物」。掲載された冊子を掲げる姿が誇らしげだ。江本さんが会場にいらしていた宮本千晴さんに声をかけた。「編集長だった千晴さん、覚えてる?」、宮本さん「表紙は覚えているけど……」。さらに、3センチほどの厚みの古い日記を手にした山田さんは、「今、プロの目線で当時の日記を読み返したら相当面白い、本を出しておけばよかった」と話す。もう出すつもりはないとのことだが、読んでみたい。
◆ガンジス河の旅のまとめと、その後の歩みが語られていく。白骨死体が転がっている河川域でキャンプをしていた。不潔感も無くて、むしろ当たり前、こういうのが自然なんだなと感じるようになった。死が人の目の届くところにあり、目の前で自然に還っていく。河辺での火葬。家族は淡々として泣いてはいない。来生を信じ、死は次の生のスタートだと考えているからだ。格差社会も目の当たりにした。秋の冷たい雨は麦の成長には欠かせない。喜ぶ人々がいる一方で、その雨のせいで飢餓線上にいたかなりの人々が死んでいく。その人たちの死は報じられない。ガンジスを旅して、表面的じゃないところを見ることができた。
◆インドの厳しい現実を見て「軟弱な僕はすぐに就職しようと思った」と山田さん。商社に就職し、フィリピン・ルソン島でのマンガン採掘の新人研修に行く。2か月の研修で、鉱石を見つけ出すコツを習得し、採算に合う鉱脈を発見する。実際に使っていた金属製のヘルメットをかぶる山田さん。よく似合う。しかし、この鉱山の現実も過酷。落盤事故、労働者の怪我、劣悪な環境。組合作りを提言すると社長から「山田くん、合わないね」と言われた。まだ旅をしたかったこともあり退職する。
◆次の旅は1977年、インドチベット文化圏ラダック。ベールに包まれた冬の取材をしたいが、ビザの関係で越冬の許可は下りない。作戦を立てた。冬期、峠が閉まってしまえば追い出されないはず。顔つきが似ている日本人ならチベット服を着て、田舎に隠れていられる。だが、薦められて仕立てた上等なチベット服があだとなる。村では目立ちすぎて見つかり、失敗に終わった。
◆ところが、国岡氏にこの旅の経験を買われ、日本テレビ「驚異の世界」越冬記録チームに加わることに。担当はサウンド。録音実習を半日、あとは適当にやれと言われて現場に入った。当時は半年の取材で30分のドキュメンタリーを2本制作。リサーチを徹底的に行い、社会学調査のようであった。国岡氏には演出、カメラマンの中村進氏からは撮影を学ぶ。山田さんにとっての映画学校だった。その後、ニューヨークの大学で映画制作を学び、日本テレビ岩下莞爾氏の下で現場の経験も積んでいく。1986年、フリーランスに。そしてグレートジャーニーを担当することになる。
◆1990年頃から2010年頃までは平和で幸せな時代で、関野さんと世界のいろんな辺境を回った。グレートジャーニーで訪れた国や地域を地図で確認すると、現在はかなりの国が何らかの紛争を起こしたり巻き込まれたりしている。「世界自然遺産を行く 火と氷の王国〜カムチャツカ火山群〜」「グレートサミッツ」。行きづらくなった地域の一つカムチャツカ半島の映像は圧倒的だ。火山の撮影は、あえて危険を冒しているわけではない。貴重な瞬間にカメラを回したいと思っているんです。心構えが伝わってきた。
◆行動するたびに次のチャンスを掴んでいく山田さん。物語を聴いているようだった。ねばり強さや直観力や運の良さが旅を助け、そして人との出会いを本当に大切にされてきたのだなと思った。会場には、登山家の貫田宗男さんやプージェーのカメラマン佐々木秀和さんもいらしていた。
◆終わりに、本所さんが「50年間ほんとに好きな事しかしていないし、やりたいことだけをやって、よく生きてきたと思う。おかげさまで無事だったけど、こんな勝手でうらやましい人生を送っている人はいないんじゃないかなと思う」と語った。ずっと見守ってきた人の言葉は愛情に満ちている。50年を振り返るお二人と一緒にいい旅をしたような気分になった。[中畑朋子]
■11月の報告を担当しました。前半は、私の探検部活動から映像ドキュメンタリーの世界に入るまでの歩み、後半は、1990年代から2010年代までの世界が奇跡的に平和だった時代だからこそドキュメンタリー取材ができた地域、つまり今や入ることさえ難しくなってしまった地域で作った映像ドキュメンタリーのお話しの2本立ての構想でしたが、前半のさらに前半の探検部の活動、インド・ガンジス河のお話しに時間がとられてしまい、中途半端になってしまっただけでなく、ガンジスの旅についても尻切れトンボという体たらくでした。
◆このページをお借りして、少し補足させていただきたいと思います。帰国後、憧れの雑誌、日本観光文化研究所が発行していた『あるくみるきく』の表紙の裏、見返しの『あるいたきいたみた』欄に拙い文章を掲載していただいたことは、報告会でお話ししました。その中の一節を引用させてください。
◆「(前略)11月下旬、中流域で、乾期にもかかわらず突然雨が降った。つめたい日本の秋雨のような雨だった。地元の人の話では、これは冬の訪れを告げる雨でこの雨が降らないと、乾期にはいってから植えた麦が育たないという。前日までのカンカン照りからは想像すらできなかったこの雨は、一晩降って、翌日の午後にはあがり、ふたたびギラギラの太陽が復活した。しばらくして、この冷雨でかなりの数の人が死んだと聞いた。饑餓線上にあった人々である。麦を育てる雨で人が死ぬ。インドの自然・社会状況は大多数の持たざる人びとにとって厳しすぎるほど厳しい。何億もの人びとが饑餓線上をさまよい、ちょっとした暑さ、寒さの変化で死んでしまう。(註:当時インドの貧困率は50%超。2004〜5年で26%まで改善)(後略)」
◆地球で起きていることに無知な自分を知ること、それがガンジスの旅で得たことだったと思います。歩いて、見て、聞かなければ何もわからない、だから、ただひたすら、歩いてみたい、聞いてみたい、見てみたい。幸運にもそんな欲求を叶えることができるドキュメンタリー・ディレクターという職業につくことができました。
◆この報告会のお話しをいただいた機会に、ほったらかしにしていた拙作の整理を始めました。1週間がかりで短編、長編あわせて160本ほどのDVDをデジタルデータに書き換えつつ、作品リストを作りました。駆け出しディレクターのころからの40年間の私の拙い「あるいたきいたみた」を並べて、眺めてみると、つくづく運の良い人生を歩んできたと思わされます。良い機会を与えていただきありがとうございます。[山田和也]
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