2024年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信543より
先月の報告会から

炭から笠へ

三宅岳

2024年6月29日 榎町地域センター

■笠をかぶって登場した三宅岳さん。会場には山仕事の写真が展示され、形や素材の異なる笠も並んでいる。なんとギタレレまで! お似合いの笠は岐阜県高山市一之宮町で作られている七寸紅白の宮笠だ。一之宮町は大合併で高山市に編入される以前は大野郡宮村だった。飛騨で笠といえば、宮笠。私は高山市出身で、連合いは宮村出身。山仕事と笠の魅力についてとのことだから、懐かしい故郷の写真や意外と地元民が知らない話が聞けるはず。山仕事も興味深い。ウキウキ、なんだか応援するような心持ちで、私たちも宮笠をかぶって参加した。

◆岳さんのお父さまは、2019年8月の報告者、山岳写真家三宅修さん。「修さんは私にとっても大事な方なんです」と江本さんからの紹介で始まった。修さんは山だけを撮ってこられた。写真に人は写っていない。戦争中の体験が修さんを人間嫌いにしてしまったとのこと。江本さんは息子の岳さんも山岳写真家として似たような道を歩んでいるのだと思っていたそうだ。著作を読んで、山のとらえ方が違うことに気がついたと。岳さんは、山に生きる人に魅せられ、山の暮らしを撮っている写真家なのだ。

◆岳さんは小さいころから山を歩き、大きくなったら山の写真を撮るのかなと思っていた。東京農工大学環境保護学科で学んでいたころには、すでに具体的な夢を描いていた。「自然っていいな、環境って面白そうだな、と思ってもらえるような写真を一枚でも撮りたい」。そして、その夢は今も続いている。近況報告を兼ね、ギタレレを弾いて歌う岳さん。自作の「道しるべの歌」。モデルは、丹沢山地の西側、静岡県小山町で道しるべを作り続けた岩田㵎泉(いわたたにいずみ)さん。160本もの道しるべを立てた気骨の男。行政が作った道しるべは金太郎のブロンズ像が付いていて、一本何十万という経費がかかる。しかも指している方向が間違っていた。何度訴えても町役場ではぐらかされる。㵎泉さんは勝手に抜いて、自首。起訴と拘留。岳さんは裁判で証人になった。

◆高齢の㵎泉さんに裁判長は情けをかけたいのだが、「町役場が間違えたらまたやります」と言って困らせた。㵎泉さんが立てたのは美しく愉しい道しるべ。道しるべを読むために不老山に行く人が増えたが、㵎泉さんの道しるべは朽ちつつある。岳さんが撮って残した写真がありがたい。書籍にもなり、つい最近は小山町観光協会と協力して、写真展を開催したそうである。

◆岳さんは、炭が身近にあった時代を知らない。大学時代に二つの出会いがあった。ひとつめは、環境保護学科の土壌水界研究室で土や水の汚染を研究する自主ゼミ。そこでの炭は化学の素材で、汚れを吸い取る吸着剤であった。もうひとつは、山の仕事として。1985年1月、地元の神奈川県旧藤野町で開催された炭焼き見学会に参加。これが「炭焼きさん」を知るきっかけとなる。山の中で老人が一人で火の塊を自在に扱っていることが衝撃だった。巨大な火の塊をコントロールしている。面白い仕事だなと思ったそうだ。大学を卒業して数年後、青年海外協力隊に応募するが健康診断で引っかかってしまう。思惑が外れて次の予定がなくなり、どっぷりと時間が空いた。「学生時代に見た炭焼きのあの世界はどうなっているのだろう」と動き出す。このころ、岳さんの地元ではプロフェッショナルな炭焼きさんは石井高明さんたった一人になっていた。

◆ここからは、炭焼き仕事の解説である。山仕事の方っていうのは、山の神を敬い、祀りをする、こういうところが僕は好きだったと話す岳さん。窯は古い窯を使うことも多い。一度使った後、そのあたりの木がまた大きくなるころに手直しをして使う。石井さんの窯の天井の写真が映された。石がびっしりと積みあがっている。工芸品のように美しい。秩父、奥多摩、上野原、藤野、そして東京にかけての炭窯は石窯で白炭を焼いていた。岳さんの説明は続く。炭には白炭と黒炭があり、焼いた後の処理の違いで仕上がりが異なるということ。燃えている最中に釜口を少し開け酸素を入れ、不純物を燃やし切ってから窯の外に出し灰をかけて冷ますのが白炭。黒炭は窯の口を閉じたまま酸欠状態にして火を消す。窯の温度が下がったら窯から出す。黒炭は樹皮が燃え残った状態で炭になる。見栄えを気にするお茶の世界で重宝される。なるほどなるほど、面白い。石窯の特徴の一つは、一度窯が熱くなってしまうとなかなか冷めないこと。火を落として一週間たっても中はサウナ状態。これから焼く木を中に入って並べるなんてことはできない。窯口から木をひゅっと投げる。木が窯の奥でポンと立つ。窯がいっぱいになるまでその作業を続ける。これも美しい熟練の技だと思う。窯から炭を出すときは本当に美しい時間。言葉では表せない。よく焼けた炭だと、この時に炭と炭とがぶつかり合ってキンキンと金属音がする。気持ちのいいものだ。炭焼き仕事への敬意のこもった解説が心地よい。

◆石井さんは窯だけでなく、窯へ行く道も造った。たった一人で道を作る石井さん。石井さんの仕事を見て、「土木」という言葉の本当の意味がわかった気がしたという。炭材を木馬(きんま)と呼ばれる橇で山から降ろすのも大変な作業だ。昔の人はトン単位で運んでいた。とんでもないことだった。貴重な写真を残せたことは本当によかったと岳さんはしみじみ話した。「炭焼きさんは、山の総合職」という岳さんの言葉に、皆、深く頷いた。

◆石井さんが炭焼きを辞めた後、全国の炭焼き窯へ。紀州備長炭が気になり、和歌山県旧日置川町(白浜町)の玉井製炭所へ。大きな窯が並び、ベテランだけでなく若者が働いていてびっくりする。天井に耐熱性のある粘土を使うので大きな窯が造れる。粘土は放熱性があるので、少し冷めたら窯の中に入って次の木を並べられる。地域の特性が窯にも表れるのだ。何年もかけて全国を巡った。お茶炭の兵庫県池田炭、生産量日本一の岩手県、冬の秋田県。山形県飯豊町へはラジオで炭の品評会のニュースが流れたので行くことにしたという。ラジオはアンテナの一つだった。土佐、日向、人吉、鬼無里と炭を訪ねる旅は続いた。

◆山を歩くと多くの窯跡が見つかるとのこと。働いていた人に思いを馳せると景色もまた一層味わい深くなるという。会場にはカナダの窯跡の写真が展示されていた。はて? カナダで炭焼き? 驚くべき歴史の話を伺った。カナダのブリティッシュコロンビア州ギャリアノ島在住のスティーブさんが見つけた穴は、日本人が造った炭焼き窯であった。明治から第二次世界大戦前まで、ギャリアノ島にも日本からの移民が住み、鮭漁を生業にしていた。そのころ、島に鮭の缶詰づくりの技術が伝わったのだが、封を閉じるハンダ付けに必要な電気がまだきていなかった。そこで日本人の技術、炭焼きが役立つことになる。電気代わりの熱源になったのだ。

◆廃校の壁には、ローマ字で書かれた日本人卒業生の名前も多くみられるそうだ。それがある年を境になくなってしまう。見事な歴史の分かれ目。日本人は強制退去になり、その後、誰も戻らなかった。穴が発見されるまで、日本人移民の歴史は埋もれてしまっていた。その後、遺跡として保存されているそうだ。この話には興奮した。いつか行ってみたい。

◆岳さんは炭焼きの取材を続けるうち、炭以外の山仕事も面白そうだと思うようになる。ゼンマイ折で取材したのは新潟県旧湯之谷村(魚沼市)の星さんご家族。1995年頃は、雪解け後、ゼンマイ小屋で一か月暮らしていた。現在は通いとのこと。ブウトウというたっぷりとした衣を羽織るのは継続中。腰にからげてできるポケットに採ったゼンマイをどんどん入れていくのだ。風前の灯のゼンマイ折だが、ゼンマイ折がやりたくて東京から福島県只見町に嫁いだ黒田さんとご家族、桧枝岐村山椒魚漁の星寛さんや平野敬敏さん、山形県鶴岡市では月山筍の渡辺幸任さん、岳さんの山仕事の取材は個々の人々を掘り起こす。

◆炭焼きとゼンマイ折の話をたっぷり聴いた後は、いよいよ笠である。浮世絵の世界では旅人は皆、笠の人。旅人といえば笠というくらいなくてはならなかったものだが、明治の時代から笠がなくなってきた。2022年7月、岳さんは乗鞍岳白雲荘の売店で宮笠に出会う。「なぜこんなところに?」と思ったものの、軽くてかぶりやすい。白雲荘のスタッフ西野さんから、高山市の旧宮村で作られていることを知った三宅さん。取材に行くことにする。笠を作っているのは問坂(といさか)集落に暮らす問坂義一さん・洋子さんご夫婦と息子さんの一家のみ。笠づくりは集落単位の仕事だった、と岳さん。子どもたちもお小遣い稼ぎのために手伝ったという。

◆笠は材料作りから始まる。山から木を切り出し、三日間煮込んで樹皮をはがす。シート状に切り、さらに裁断する。薄い7ミリ幅くらいの材料はヒデと呼ばれ、これを組んで笠を作る。白っぽいヒデは檜(ヒノキ)、赤っぽいヒデは一位(イチイ)である。高山市には竹林がないため、ヒデを支える竹は下呂市のものを使っている。一位は天皇の代替わりの際の儀式で使われる笏(しゃく)の材料として知られている。笏とは、束帯着用(天皇の正装)の際に右手に持つ細長い板である。宮村には天照大神の伝説が伝わる位山(くらいやま)があり、一位の自然林は高山市の所有山林である。伐採許可が出るのは宮内庁で使用する以外は宮笠のみ。問坂さんが切るときに許可が出るのだ。とてつもなく貴重な木を使っていることになる。笠の技術を残すための保存会があり、笠づくりの手作業の技術の継承はできつつある。しかし、材料づくりに関してはとても難しい課題が残っているという。

◆宮笠は、毎年1月24日、高山市の繁華街で開催される二十四日市で手に入れることができる。旧暦では年末。かつてはお正月を迎えるための市だった。私の宮笠も二十四日市で手に入れたもの。炎天下でも、陽射しを遮り、風を通す。大切に使っている。

◆さらに岳さんは、他の地域の笠も調べ始めている。消えてしまった笠もある。兵庫県宍粟市道谷(どうたに)では地元の方に話を聞くことができた。「こうやって笠の技術が廃れるのなら、娘をほかの地域に嫁に出してやってもよかった」と。地域ぐるみで技術を残すために娘をほかの地域に出さなかったということが凄い衝撃だったとのこと。技術を守ろうとしていた気持ちを想像すると、私もなんだか切なくなった。新潟県権現岳のふもとでは継続している方と出会えたという。来年、笠の雪ざらしの取材に行くとのこと。ホッとする。笠の世界も風前の灯。風通しがいい、軽い、雨に強い。目にしたらぜひ手に入れてほしいと、最後に岳さんはみんなに語りかけた。

◆話が終わり、閉会も歌♪ 岳さんの話しぶりは落語か講談を聴いているようで惹きこまれてしまったが、朴訥な歌声もよかったな。ずるいぞ、岳さん。山の仕事についての解説だけでなく、山仕事に携わる個々の方々のお人柄が伝わってきた。まるで良質のドキュメンタリー映画を観たような気分になった。「失われてゆく山の技術」。何度かその言葉を口にした岳さん。お話を伺っているうちに、せめて今のうちに個人の記憶を記録することが大切だと気づいた。私でもできることがあるのかもしれない。報告会の後、連れ合いの父に宮笠について尋ねてみた。宮村で生まれ育ち、70代まで宮大工をしていた90歳である。「ばあちゃんが、村の人たちに笠づくりを教えていて、子どものころは、笠のふち編みの手伝いをしていた」そうだ。おお! ここに記憶している人がいる! もっと話を聞いてみようと思う。[中畑朋子

報告者のひとこと

〜この際、「地平線会議の歌」を披露申しあげたく〜

■富士山にも登ったことがない。金槌ゆえに漕ぎ出す船も持ってはいない。なにより、昨年来の腰痛をいいことに、走るはおろか歩きもせず。すっかり肉だるまと化した腹部を抱え。果たして地平線会議にふさわしいかなあ、と自問自答を時にはするが、そんな悩みも旅の空。あっという間にメトロは滑り込む早稲田駅。

◆左肩にはスタンドを忍ばせた富士フイルムロゴ入り機材用袋。右肩には、写真パネルを運ぶラムダ謹製の大型袋。中身はラミネートに挟まれた幾葉もの写真群。加えてあの笠その笠を潰れぬように段ボールで梱包したのだから、なかなかのサイズ。

◆そして背なには、馬具屋が前身という山形新庄の天幕屋から購入した帆布製の巨大山菜用背嚢。加えてその外側にもう一つパソコンやらギタレレやらの入った小背嚢をぶら下げているというのだから、どう見ても、ただの旅人、という様子ではない。ならば、これぞ今弁慶というような格好の良さとも程遠く、やっぱりどう見ても今宵のお宿が定まらない漂泊の人といった体。ただし、一つ違うところは、少々目深に宮笠を被っているところである。

◆都の西北早稲田の隣の榎町まで、長く下る道のりは玉露の汗をにじませるもの。やがて大通りからわずかに裏手の道に離れて無事熱中症で倒れることなく目的の地「新宿区榎町地域センター」に到着。駅から中途、道中安全を祈願した落馬地蔵の霊験もさることながら、やはり陽射しをはねのけ風通し抜群の宮笠のおかげに相違ない。

    *       *

◆2024年6月29日14時過ぎ。客席も7割から8割が埋まったかというところで、登壇。話の枕にまず一曲。道しるべの歌。約十年前に東中野ポレポレ座で行った、故岩田㵎泉翁のみちしるべ写真展のために作った歌。実はこの6月半ばまで、彼の故郷静岡県小山町で行った写真展でも歌ったのである。その写真展にあまりに人が来なかったのでちょっと悔しかったということも含め、突然披露。つまりは近況報告ということで、本題へ突入。

◆炭から笠へ。壮大なテーマは、まず二十代はじめから。地元の熟練した炭焼さんであった石井高明さんの見事な仕事を披露。彼の廃業から、次には全国の炭焼き産地を訪ね歩いてきた、そのエピソードをほんの一掴み。話のついでに、カナダに残る炭窯跡にもふれて、なんとか地平線的ワールドワイドな話にこじつける。

◆そこですでに予定時間を大きく超過という現状に、内心冷や汗をかきながらも、さらに続けたのは、炭焼きへの興味から派生した、山仕事の世界。ゼンマイ折り、月山筍、山椒魚漁など、さまざまな山仕事をご紹介。さらに木を運ぶというテーマに絞り、今では見られない体を張った運材の様子をご覧いただく。というところで小休憩。

◆実際に展示した写真を見てもらい。並べた笠を被ってもらう。すでに予定時間超過ではありますが、ようやっと笠の世界。飛騨高山の宮笠。会場にこの笠を被っている方が二名も登場というだけで、かなりの驚きである。なぜ、宮笠が、僕のテーマである山仕事と関わるのか、といったところから、ここでは現在唯一の職人である問坂さん家族の仕事を御覧いただき、更には宮笠をきっかけにして、訪ね歩く諸国産地のエピソードを交えて報告。いやはや、なんとかこれで炭から笠へ、という壮大な話も終了。どうもありがとうございました、と言いかけて、あ、忘れていた。あの一曲を歌わねば。

◆実は小生、前夜も西国立駅前の「こまくさ」なる小体な飲み屋で、季節も香る紫蘇ジュースをたらふくいただき夜更けの帰宅という体たらく。当日は茫洋とした目覚めながら腰の重さに比べれば脳の血流は淀んではいないと確信して、早朝一番に作詞作曲したのが「地平線会議の歌」。この一曲で締めれば、どんな荒波となっても無事寄港で収まるはず。という妙な自信でここまで到着。

◆というわけで、唄い始めたのだが、コードがずれたメロディー不明だリズムが崩れた歌詞がぶっ飛んだと、つまりはデタラメ。まいったなあ。終わりよければすべてよし!の逆。いい加減なフェードアウトも僕らしいと無理やり終了。

◆というおよそぼんやりした終わり方で、二次会北京に流れ込みという、しょっぱい一日ではありましたが、多少は楽しんでいただけたのかな。と、北京中華満腹の帰路。なお、少し悔しいので、その題して「地平線会議の歌」の歌詞を掲載。メロディー前半部分は学園天国風、ということで皆様ご自由にお歌いください。では失礼。

  地平線会議の歌

 へいへへへいへい……

 あっという間に 旅の空
 ビビっている暇など ありゃしない
 シーンと静まる 山の道
 でっかい夢が 転がるぜ
 イー線いってるぜ イー線のぼったぜ
 へいへいへいへいへい……
 地平線会議

 へいへへへいへい……

 あっと気がつきゃ 夕闇さ
 貧乏旅には 終わりなし
 知らない世界の 扉をたたき
 でんと構えて 鼻提灯
 イー線いってるぜ イー線とどいたぜ
 へいへいへいへいへい……
 地平線会議

お粗末様。[三宅岳

イラスト-1

 イラスト ねこ


三宅岳さんの貴重な記録に感謝

■切りかけにした丸太を北海道に残して、久方ぶりの地平線報告会に参加した。この春、林業一人親方として開業した私は、薪作りの仕事をいただいたりしながら、馬搬やかき起こし(注)を軸にした林業を学ぶ日々を過ごしている。

◆最後に足を運んだのが5年前の新宿コズミックセンター。そんなに前かと、記録をさかのぼってみて、驚く。私は学生でなくなり、会場も変わったが、地平線会議独特の雰囲気はそのままだった。最前列に座る江本さんもお変わりなく、私の挨拶に優しく応えてくれた。学生時代は緊張でうまく話せなかったのに、今は安心して話ができるのが不思議だった。地平線会議という場に対して、ほっとできる今が、嬉しかった。

◆4年前の春、北海道の林業会社に季節労働者として就職した。苗木を植えて、それを覆う草を刈る「造林」という職種である。山で汗を流すのは気分がよかったが、若い林の手入れで、植えた木以外の木をことごとく切らないとならない日々は辛かった。一列に植えられたカラマツを適度に間引きながら、混ざって生える広葉樹も切り進む。

◆「形がきれいだな」と思ったハルニレを切らずに怒鳴られ、「これはなくてもいいな」と思ったミズナラを切って怒鳴られた。判別に迷い立ち止まっては、「早く切れ」と怒られる。切ったら切ったで間違える。林業1年目の私は広葉樹の違いを見分けることができず、間引きの仕事で苦労した。「見て覚えろ」の業界で、訳もわからず木を切り捨てる日々。怒られることよりも、自分が無差別殺「木」をしていることが情けなく、辛かった。

◆そうしてシーズンも終わりにさしかかったころ、林業に対する諦めのような気持ちが自分のなかに沈殿していっているのを感じていた。山は好きなのに、山で働くことを楽しめない。山で働いているのに、一向に木を知ることができない。自分の努力も足りないのかもしれないが、何かが違う、と。

◆気晴らしで訪れた、隣町の大きな書店で、一冊の本に出会った。『山に生きる 失われゆく山暮らし、山仕事の記録』。 今回の報告者、三宅岳さんの本である。「ひたすらに山にしがみついて生きた、山人たちの暮らし——」という帯の文句に惹かれ、レジに直行した。

◆次の日の労働後、自室で一人、頁をめくった。胸が熱くなって、涙が出た。猛烈な薮の中で撮られた筍採りの瞬間。手橇を押す老人の顔の深い皺。馬搬に木馬。見たこともない山仕事の数々、その迫力に圧倒された。どれもが強烈。格好いいとか、そういう言葉では表現できない、畏れのようなものを、三宅さんの写す「山のひとびと」に感じて、胸が締め付けられた。一度ですべてを読み終えると「やっぱり、山仕事がしたい」という気持ちがぽっと心を温めた。夜はすっかり更けていた。

◆報告会では、本では味わえないカラー写真を存分に眺めた(三宅さんの撮った山仕事の写真展があるならば、もっと、ゆっくり、じっくり、見てみたい)。三宅さんの怒濤の語りを聞いていると、まなうらに山の人々が浮かび上がってくるようだった。笠を被りながら喋りまくる三宅さんの後ろを囲むように、炭焼きさんが、ゼンマイ採りが、樵が、あたたかく見守っているように、見えた、というか、自分は確かにそれを感じた。

◆新千歳空港から旭川へ向かう電車の中で、今回会場で購入した『炭焼き紀行』を眺めた。29ページ目、誌面いっぱいに掲載された藤野町(相模原市)の石井高明さんの姿に目を奪われる。両手をきゅっと、体の前で結んで、前傾姿勢で2俵(30kg)の炭を背負い、右足を一歩前に出そうとしているように見える。ただ、それだけのことなのに、私の目頭はまた熱くなり、慌ててフードを目深にかぶる。前後のページを行ったり来たりしながら、石井さんの姿を追い、その仕事ぶりをひたすら凝視した。貴重な記録を残し続ける、三宅岳さんに感謝しています。[北海道 五十嵐宥樹 林業かけだし]

(注)天然木の種子(たね)が地表に落下した場合に容易に発芽や活着ができるようにするため、地表のササ等をブルドーザなどによって取り除いて畑のような状態にしてやる行為を「かき起こし」と言う。北海道、とくに道北地域では、皆伐後に笹が繁茂して天然更新が困難になる場合が多い。それを克服する技術である「かき起こし」が北大を中心に研究されている。

イラスト-2

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