2024年4月の地平線報告会レポート


●地平線通信541より
先月の報告会から

神集う島の異邦人

長岡祥太郎

2024年4月29日 榎町地域センター

■今回の報告者は長岡祥太郎さん(18)。音楽家の長岡竜介さん、のり子さんをご両親にもち、生まれたときから音楽と地平線とともに育ってきた。毎年大晦日には、両親の山小屋コンサートに同行して黒百合ヒュッテで年越し。物心つく前から地平線報告会に連れられ、報告会の感想をいくつも投稿してきた。ここ最近では、不定期連載の「島ヘイセン」が評判を呼んだ。2021年4月から2024年3月にかけて、東京都立神津高等学校で離島留学をした祥太郎さんの島での日々がつづられた。島の様子がリアルタイムに届くこの連載は、私自身楽しみの一つだった。この報告会では、神津島での3年間の青春を、2時間に詰め込んだ。報告会当日、会場の入り口付近には、島のパンフレットやアルバム、学級通信などを広げて、竜介さんとのり子さんが見守っていた。時折、祥太郎さんが言葉を思い出せないでいると、のり子さんから助け舟が出され、会場は温かい雰囲気だった。

なぜ島へ?

◆祥太郎さんは「島ヘイセン〜The Final〜」と題したスライドとともに、少し緊張した面持ちで話し始めた。話は小学校時代へ遡る。祥太郎さんは当時、東京学芸大学附属小学校に通っていた。自主性を重んじ、グループワークを主体とした授業を受けていた。当時はとても楽しい日々だった。そのまま附属の中学校へ進学。ここで祥太郎さんは「人生のどん底」に突き落とされた。いわゆる進学校に通っていた当時、周囲は模試の点数や偏差値を気にしてばかり。様々な学力指標に縛られた世界に息が詰まった。そして高校は外に出よう、と決意した。中学二年生になり、悩みつつも資金面を考え、都立高校の合同学校説明会に足を運んだ。そこでみつけたのが「島の高校に行ってみよう!」というブースだった。興味本位で離島留学のことや神津島のことを調べていると、魅力にぐいぐい引き込まれていった。

神津島へ

◆神津島は北緯34度12分、東経139度8分に位置し、面積は18.58平方キロメートルある。神津村には約1800人(2024年5月1日時点では1743名)が暮らし、観光と漁業が盛んだ。東京都は竹島桟橋から出航する「さるびあ丸」に揺られること約12時間でたどり着く。調布から出ている飛行機を使うと40分と短縮されるが、やや高額だ。祥太郎さんをひきつけてやまなかったのは、その自然環境だった。学校見学の際、窓から透き通るような海を見渡したその瞬間、ここだ!と思った。受験を経て無事合格。同級生は女子生徒10名、男子生徒8名の計18名。全校生徒は約60名。教職員は約30人。生徒数に対して教員が多いことも特徴で、高校3年の受験の際には、生徒一人に教員1名がつくという環境だった。

◆実際の島暮らしはどうだったのだろうか。祥太郎さんは、自分で作成した5分間の動画を流した。さわやかな音楽とともに、3年分の写真の中から選りすぐりのものが映し出された。日常の風景一つ一つに物語があるのだろう。言葉ではとても伝えきれない。祥太郎さんが、全身全霊で3年間の青春を楽しんだのだと伝わってくる動画だった。

◆とはいえ、初めから順調だったわけではなく、島社会になじむのは簡単ではなかった。離島留学生4人を除けば同級生みんなが幼馴染。それまでは島外から転校生が来ることもなかったという。完全に「アウェー」な状況で、微妙な距離感が続いた。その状況を突き破ったのが、あの「10mダイブ」だった。

10mの崖の上から「なんか飛べると思った」

◆その崖は、赤崎遊歩道の柵を超えたところにある。先輩にそそのかされ、地元では「バカしか飛ばない」という崖の先に立った。右側に飛ぶと岩礁に当たって、最悪の場合死に至る。着水の瞬間には足をつま先まで伸ばさなければケガをしてしまう。祥太郎さんは、3本の動画を流した。それぞれ高校1、2、3年生で飛び込んだときの様子が撮影されていた。

◆1本目は1年生のとき。崖の壁側に張り付き、飛び込むのを躊躇している。1分間ほど往生。しかし「なんか飛べそうな気がする」と思った。そこへ「のりこおおお!!!」という叫び声が聞こえてきた。崖から飛ぶときには母親の名前を叫ぶ、という慣習が島にはあるのだという。次の瞬間、祥太郎君は、飛び込んだ。周囲から歓声が上がった。あの崖から離島留学生が飛んだらしいぞ、「やるじゃねえか」と、村民の間でも話題を呼んだ。村の一員になった瞬間だった。ちなみに2、3本目の動画では「のりこおおおおお!」の叫び声は相変わらずだったが、祥太郎さんはあっさり飛んでしまい、そのミスマッチさになんだか笑ってしまった。なんの打算もなく「ただ飛べる気がする」という感覚に任せて飛んだ。そのことが島民との見えない壁を打ち破った。

白砂寮での生活

◆住んでいたのは、白砂寮と呼ばれる、離島留学生受け入れのために建設された学生寮だった。祥太郎さんは寮の6期生。それぞれに個室が与えられ、室内には、冷暖房、勉強机とベッド、クローゼットなどが備え付けてある。祥太郎さんは部屋にドラムとキーボードを置き、半ば音楽室と化していた。この部屋からも水平線を望むことができ、勉強中にふと横を見ると夕日が美しかった。それだけでも島に来てよかったと感じた。

◆男子寮の寮生は10名を超えるほどで、3年生のときで13人だった。仲が良く、3人でちょうどよいお風呂場に6人でおしかけ、ぎゅうぎゅうになって浴槽につかった。掃除当番のなかでも、一般家庭よりずっと広いこのお風呂場が一番大変だった。

◆朝食と夜食は寮で、昼食は学校で給食を食べた。寮では栄養士が作る食事をいただいた。しかしそれは平日の話で、休日の食事は自炊だった。寮のキッチンにはガスコンロ、シンク、冷蔵庫などがひと通りそろう。一日の食費の予算は1万4000円。島唯一のスーパーであるマルハンで買い出しをするところから始まり、最初は10数名分の分量がわからずに戸惑った。予算と勘案して試行錯誤した。島の物価は輸送費が上乗せされて本土よりも高く、とくに2023年には物価高もあって大変だった。

◆祥太郎さんは日常の食事を大事にした。パッションフルーツを練り込んだ手作りパンや手作りのピザにも挑戦した。家庭でよくパンを作ってくれた母のり子さんの影響も大きい。食べ盛りの高校生はよく食べる。BBQの日が決まると、もやし生活で食費を貯蓄し、お肉を買い込んだ。寮には島民からの差し入れも届いた。キンメダイやアカイカといった新鮮な海の幸は、自分たちでさばき、刺身や海鮮丼にして味わった。少し傷が入ると売り物にならないのだという。みんなが捨ててしまうアラを祥太郎さんはさっと確保し、あら汁にして無駄なくいただいた。料理が得意でない寮生には料理を教えたり、自分が作るときには工夫を凝らしたりして、食卓を豊かなものにしていった。

神津島点描

◆ここで小休止。祥太郎さんが切り取った神津島が紹介された。
 もろみや ――アルバイトの時給が700円のブラック商店。同級生が数名アルバイトをしていた。しかし客はまばらで、働かなくても時給が発生する。
 マルハン(○のなかに伴でマルハン) ――上述した唯一のスーパー。
  SEKISHO ――放課後の寄り道スポット。となりには浜川精肉店があり、そこで唐揚げを買って食べていた。
 CanDo ――島唯一のチェーン店。雑貨類がそろう。神津高校の英語教師がイギリス出身だったため、学生の間では「カンドゥ」だった。
 「二輪・自転車を除く一方通行」の標識 ――島は道が細く、一方通行が多い。しかし原付や自転車などは通れる、という除外つきの道路標識。
 動いている島(?) ――島の川沿いにのびる神津島のメインロードから、海側を見下ろし、ポツンと浮かぶ島。恩馳島(オンバセシマ)という島で、毎年「ちょっとずつ右にうごいている」らしい。ほかの寮生も実は動いているのでは、と思っていたというが、真相は不明。
 ジュリア展望台 ――一押しの展望台。十字架が掲げられており、島が一望できる。
 川になった道路 ――神津島への不満を挙げるとすれば、排水の悪さがある。台風や嵐も珍しくない島では、どんな雨や風でも休校はない。傘もさせないような風の中、集団登校をしたという。そんな日には、側溝から水があふれ、道が川になってしまうこともあった。
 前浜海岸 ――海水浴といえばここだ。浜辺にはビーチバレーボールのコートがある。島はバレーボールが盛んで、島全体では10チームもある。
 夜の神津島 ――神津島は2020年に星空保護区に認定された。島全体の街灯を改修し、光が拡散しすぎないようにして光害を防止、暗闇と美しい星空を護ってきた。祥太郎さんが中学2年生のときにモンゴルで見た星に勝るとも劣らない、素晴らしい星空なのだという。
 あぶらき ――神津島の名物。さつまいもともち米をこね揚げたもので、家庭によって味が違う。「かさんば」という葉につつまれたあぶらきや、ヨモギを使ったものなど、バリエーションが豊富だ。ヨモギのアブラキは作り手がほぼいなくなっているという。
 神津うどん ――しいたけのだしに、大量のしょうゆと砂糖で味付けされたもの。味がとにかく濃い。
 醤油飯 ――もち米を、醤油とあおさ海苔でたきあげるもの。
 パッションフルーツ ――島の名産。道端でおばあちゃんにもらうということもしばしばだった。

マリーンデー

◆7月になるとマリーンデーが開催される。入学した2021年から始まったイベントで、1、2年生は講習とシュノーケリング、3年生はダイビングをする。海の中は魚で溢れている。少し顔を入れるだけで豊かな海の世界を覗くことができた。ダイビングではボンベを担いで長く潜ることができ、海底10m付近の海の生態系を間近で見られた。他方で、サンゴの死骸を見たときには、温暖化の影響を感じ、悲しくなった。美しさと変わりゆく生態系とのはざまで海に潜った。海岸のゴミ拾いも行われた。海外からの漂流物が多く、外国語表記の怪しい液体物は拾わなかった。神津高校の後輩には、海岸のマイクロプラスチック量を調べて、海外に発信しようとしている生徒もいる。国境を越えてゴミ問題を考えていくことが大事なのだ。

村民大運動会

◆10月になると、ほぼ全島民が参加する大運動会が開催される。2021年にはコロナの影響で開催されなかった。高校三年となった2023年の運動会は、当初、志望大学のゼミナール型の入試で参加できない予定だったが、先の選考で不合格となったことで、参加することができた。島全体が4つの地域に分かれており、それに応じて4分団対抗で行われた。島には小中高校が1校ずつあり、運動会には幼稚園生から大人まで参加する。神津高校の生徒も、神津島太鼓のパフォーマンスに、大会全体の運営にと活躍した。全競技の最後には各分団の代表メンバーによる対抗リレーが行われた。子供から大人まで一心不乱に走り、毎年けが人が出るほどのデッドヒートが繰り広げられる。祥太郎さんも走り、背中を擦りむいた。

◆地域全体をまきこんだ運動会は、23区内では考えられない。離島留学制度の背景には、少子高齢化が進む神津島の外から若者を連れてきて新しい風を吹かせよう、という狙いもあった。島の子供たちは、ほとんどが神津高校へ進学した後、島外の専門学校や大学へ進学する。高校卒業後に島を出ずに働いていた人は、祥太郎さんが知る限り、郵便局のお兄さん一人だけだ。島から出た人たちも、ゆくゆくは帰ってきて島に落ち着くのだという。離島留学制度が島にどんな化学反応を起こすのか、今後が気になるところだ。

黒潮祭(文化祭) 熱いドラム

◆11月には高校の大イベント、黒潮祭がある。1年生、2年生のときにはコロナ禍で制限がある中開催された。とはいえふだんの授業の紹介、出店の運営、ダンスパフォーマンス、ドラムパフォーマンスと、内容はてんこ盛り。「人間と社会」の授業の成果発表では、住民と協力して作成した島のPR動画を披露。2年生のときには手作りのお化け屋敷を作り、娯楽施設が少ない島の子供たちはこぞって遊びに来てくれた。祥太郎さんは所属する軽音部の演奏と、個人のドラムソロの演奏でステージに上がった。

◆いろんなドラマが生まれるのも黒潮祭だ。祥太郎さんは、素人同然の状態からピアノ演奏を披露するまでに成長したひとりの先輩を紹介した。大学に進学する予定だったが、高校最後の黒潮祭でどうしてもピアノを弾きたい、という一心で練習に励んだ。文化祭では圧巻の演奏を披露。現在は浪人生活を継続しているという。そして迎えた最後の黒潮祭。コロナ禍が明けて、無制限にやりたいことができた。実は祥太郎さんは、大学受験の不合格通知が届いた数日後に黒潮祭を迎えていた。気分は落ち込んだが、やるなら思い切り楽しもうと思った。

◆報告会のハイライトは、10mダイブに次いでドラム演奏かもしれない。祥太郎さんはドラムソロパフォーマンスの動画を流してくれた。これが熱かった。汗をぬぐいながら、スティックを落とし、シンバルを落とした。ハプニングに見舞われながらも全力でドラムをたたいた。現地の高校生は熱狂の中にあり、「自分が会場を沸かせている」という感覚が爽快だった。報告会の会場も気温が2度くらい上がった気がした。全力で今を楽しむ。それを体現しているような黒潮祭だった。

旅立ち

◆3月の卒業式。生徒会長を務めていた祥太郎さんは答辞を述べた。先生、同級生への感謝を伝えるときには涙があふれた。一度失敗した受験はその後、先生方の支えで乗り切ることができた。部活動のバレーボールは一度やめかけたが、同級生の相棒と続け、3年間やり切った。同級生はそれぞれ、6人は大学、9人は専門学校、2人が就職、1人はフリーターとして、それぞれ巣立っていった。卒業後も定期的に会っているという。学級人数が少ない分、一人一人と仲を深めることができた。一緒に離島留学をやり切った同期4人とともに寮を出て東京に着くと、昨年、一昨年に島を出た先輩が船着き場に来てくれていた。半分本気で言っていた「We are family!」が心の底から本当だと実感した瞬間だった。

さらなる高みを目指して

◆現在は立正大学の心理学部対人・社会心理学科に通う大学1年生。人生のどん底だった中学時代から、成長を実感している。島に行ったからこそ、たくさんの挑戦を経てリーダーシップを鍛えることができた。生徒会長、文化祭の運営、同級生のまとめ役、ドラム、バレーボール、10mの崖からの飛び込み。本当に盛りだくさんの高校生活を経て、「培ってきたものを無駄にしてやるな」と決意した。現在通う学科は、対人スキル、プレゼンスキルを伸ばし、リーダーシップを鍛えるという特色をもつ。加えて、学部学科に縛られない幅広い学びを提供するカリキュラムにも魅力を感じた。この報告会当日にも講義があったが、サボタージュして地平線にやってきた。

◆現在祥太郎君には「音楽を仕事にしたい」という夢がある。ご両親の影響で、幼いころからケーナとピアノを聞いて育ってきた。自分が育ってきた環境、譲り受けたもの、そして島で培ったリーダーシップやコミュニケーションスキルをさらに伸ばして、あわよくばデビューを目指して活動する。祥太郎さんはコンポーザー(作曲)志望。まずはボーカル探しからはじめるという。島から世界へ。離島留学を経て、頑張ってきた自分をたたえ、鼓舞し、さらなる飛躍を誓った。

◆祥太郎さんとお会いしたのは今回で二度目で、一度目は2022年12月30日の黒百合ヒュッテだった。のり子さんと竜介さん、祥太郎さんの会話を聞いていると、素敵な家族だなあとしみじみ感じた。地平線の出会いからこのレポートを書かせていただくに至るまでのご縁に、改めて感謝している。他方で感じたのは、今を楽しむことは、簡単なようで難しいということだ。報告の端々で「今を楽しんでいるか?」といわれた気がして、面食らった。本気の言葉と気骨に触れて、自分に立ち返っているところです。[安平ゆう 九大山岳部5年]

報告者のひとこと

第二の故郷になった神津島での最高の3年

■去年の9月ごろに離島留学での経験を報告会で話してもらいたいと、江本さんから打診を受けた。受験のスケジュールもあり、半年越しでこの話が実現した。高校を卒業し、大学進学という節目で、3年間の離島留学を総括することができた。8年前、小学生のときに参加した地平線報告会で感銘を受けた宮川竜一さん(356回、448回報告者)からのビデオレターが最後に上映されたのには驚きを隠せなかった。

◆偏差値に縛られた社会に嫌気がさし、学芸大附属世田谷中学校から神津高校へと、異例の進学をした。高校では今までなら挑戦しようともしなかった、文化祭運営委員や生徒会役員を務め、自立・自律・自率するべく寮生活も全うした。高校3年間は間違いなく私の人生のなかで最も濃い時間だった。

◆3年分の写真、高校生活、寮生活、学校行事、島独特の文化。そして大学生になった今、今後どう生きていきたいか。話したいことが多すぎる。島の高校ならではの学校行事はなるべく深堀りしたい。崖からの飛び込み動画は必須。島の魅力である景色や星空についても話したい、何より島のことをたくさん知ってもらいたい。様々な思いから写真を厳選し、話すことのシミュレーションもしていた。しかし終わってみれば、話したかったことの半分も話すことができなかった気がする。

◆報告会を終えた後、なぜ神津島は幸せな島と呼ばれているのか改めて考えてみた。島ではバイクや車には常にキーはつけっぱなし、玄関にも鍵はかけない。だからといって、窃盗や事件はまずおきない。また、データで見た、神津島は日本で最も自殺率が低いという点。なぜ島人は地域を通して仲が良いのか。私は二つの予想をした。親戚の繋がりが多いというのもあるかもしれないが、それよりも島の環境にあると思った。

◆“自然”というのはそもそもストレスを緩和する効果がある。波の音、風の音、鳥のさえずり。ホワイトノイズなどとも呼ばれているが、島にはそれがそろっている。もうひとつは、ある種の治外法権とも呼べる環境だ。コミュニティーを築き上げるためには最低限の秩序が必要だ。しかし、日本では最近、ハラスメントやモラルに必要以上のマナーやルールを定めている。私はこれがかえって不良な進展を辿っていると思う。執拗なハラスメント、モラルへの対策は相当なストレスがかかると思う。ひとつ言葉を間違えれば炎上する可能性のある社会だ。

◆島には必要以上のそのような風習がない。一人一人の距離が近く、それに嫌悪感を抱いている人が少ない。日常生活においても常に島民は助け合って生活をしている。神津島が幸せな島と呼ばれ、島民の仲がいいのはこのようなことも関係しているのではないかと思った。

◆2年ほど前の島ヘイセンに、私は島の高校を選んだことを後悔しないために、全力で島生活を楽しみたいといったニュアンスの文を綴った記憶がある。離島留学を終えて、神津高校を選択したことは間違いではなかったし、神津高校の卒業生であることを誇りに思う。自然に囲まれた地で青春を送れたこともそうだが、新しいことに挑戦できる環境があったこともまたひとつ、恵まれていたと思う。両親、先生方、島人、そして寮生。沢山の人に支えられながら、最高以上の体験をさせてもらった。

◆寮には新1年生4人を迎え、楽しく寮生活を過ごしている様子が後輩からLINEで送られてきた。夏になったら友達と一緒に第二の故郷となった島へ帰ろうと思う。少しずつ島へ恩返しをしていきたい。[長岡祥太郎


「何があっても外に行く!」という言葉のかっこよさ

■連休の最終日の朝、思い立って報告会に出かけることにした。11時少し前に家を出ても間に合うとは、なんとありがたい。会場に入って、とびきりの笑顔の方に惹きつけられた。初対面だが、ピン!!ときた。やはり。「私、西穂山荘に2回泊まったことあるんです!」と、いきなり話していた。「なんでですか?」「仕事で」さぞやびっくりされたことと思うが、初めて会った方とこんな話ができる「地平線通信」の存在はすごいなあと思いつつ、隣に座った(レポート楽しみにしています!)。

◆小学生のころから知っている祥太郎さんの離島での話を楽しみにしていた。そういえば、小学校から中学校に上がり、その後どうする……なんていう話をかつてしたこともあったなあ。そのとき「いいなあ、附属……」なんて安易に言った気がする。その彼は小・中とどういう思いで過ごしたのか、この日の語りで知った。

◆実は、国立の小→中と進んだ人の中では、似たような話を聞くことが多い。先進的ということばが嵌まるのかわからないが、自主性を大事に、活動を楽しんだ小学校生活から一転して、彼のことばを借りると「偏差値と模試」の中学校生活。小学校で培った力をどうして活かせないのだろう。それには、その上の高校や大学の入試のあり方を変えないと、とは昨今よく聞いてきた。なんだか、トータルで見る力というかどう生きるかとかどう育てるか、といった視点が欠けているからかな、とずっと感じている。

◆「何があっても外に行く!!」。このことばはかっこよかった(ちなみに私の周辺では、高校を卒業するときにこう言って県外に出て行きます)。島のコミュニティにとけこんで「成長した」と自身で感じられたことが、またなんとかっこいいことか。島に行く決意をして、そこでの生活の話を聞きながら、この選択をした祥太郎さんはもちろん、自分で決断して進んでいくよう育ててこられたご両親がすごいなあとつくづく感じた(地平線の方々には、何言ってるの? 当たり前でしょと感じられるかと思いますが、現代ではそう多くはないのです。と考えると、彼にとって小学校生活は意味があったのだと思います)。

◆これを書きながらたまたま見ていたテレビのローカルニュース(5月9日)で「茅野市の黒百合ヒュッテでは、3cmの積雪がありました」というナレーションとともに、その映像が流れた。「え、ここなのね!」もう、このシンクロにぞくぞくしている。心理学を学び音楽も続けていくという、近しさを感じる彼のこれからがとても興味深い。[長野市 南澤久実 教師]

才能とは、【体力】のこと

■長岡祥太郎氏の「島留学」報告会。参加してナマで聴いてこその報告会でした。ありがとうございます。

◆ぼくは、あのころ、なにをしていただろうか。想いを巡らせることができました。なにもしなかったなあ〜。自分は、漠然と想い、漠然と生きていた。親からも地元からも逃げたくて上京したにすぎず、東京に行ったら「なんとかなる」と漠然と妄想して、そのまま変化も無く、今に至る。明確なのは「老い」のみ。なにもやらないままに「なにも出来なくなっていた」

◆そして、自分も「島留学したい」と なにを今更 想った。「人生をやりなおしたい」と漠然と想う。そして、やっぱり「なにもやらない」のだろう。「若い」ということは、それだけで そのありのままで「ほんとうにすばらしい」ことなのだと感じました。そして、江本さんから見たら、ぼくなんかは、まだまだぜんぜん「若造」なのだな……とおもいました。江本さん、いつまでもいつまでも頼りになるセンパイで居てください。と 願いを込めたのでありました。

◆阿部雅龍氏の夢をみるひとたちは、わりといらっしゃるのですね。ぼくもみました。ちょうど亡くなるころです。阿部さんは、巨大な木製の機織り機を操作していました。ぼくと阿部さんの間には いく本もある茶色の縦糸が輝いていて美しかった。阿部さんは、疲れ知らずな感じで、やっぱり笑っている。

◆江本さん、健康には充分に留意されて、ほんとに元気でいてください。うっかり転けないように。階段から落ちないように。70歳過ぎてからの「骨の損傷」は、厳しいです。ぼくも、健康チェックして、「体力・筋力」を付けようとおもいます。才能とは、【体力】のことだとおもいます。江本さんも、体力の維持を大切にされてください。体力さえあれば、生涯、現役の視座で記事を描いてゆけるとおもいます。[緒方敏明 彫刻家]

江本さんと行く神津島の旅

■2月の報告会後の北京の席で、江本さんから祥太郎の報告会の前に神津島を訪れてみたいとの相談を受けた。この3年間、息子が不定期連載していた島ヘイセンを読んで色々と想像しているのだよと常々伺っていたこともあり「百聞は一見に如かず」ということで、4月19〜21日の2泊3日の日程で神津島取材の旅にお供することとなった。往路は大型客船に乗船したかったのだが、あいにくGW直前まではドック入りで運休のため、今回は飛行機で往復することにする。19日朝、調布飛行場で待ち合わせ、8:50発、19人乗りのプロペラ機で出発する。離陸後20分で眼下に伊豆大島、そこから10分で利島、新島、式根島と続く。先月の通信の題字を上空から眺めて密かに楽しむ。神津島までのフライトは40分、定刻通り9:30に到着した。

◆いつもの民宿で一息入れ第一の目的地、噂の10m飛び込みスポット「赤崎遊歩道」を目指す。赤崎は島の北端で村落に戻るまでの途中に商店はないため、先ずはお昼ご飯を調達する。島の郷土料理の醤油めしのおにぎりと息子お勧めのお肉屋さんで惣菜を購入。村内バスに乗車し、10分程で赤崎遊歩道に到着した。独特な岩場の景観を損なうことなく整備された木造の遊歩道はまるでアスレチックの様。いよいよ一番高い展望台に立ち10m下の水面を覗き込む。何度も何度も歓声をあげる江本さん。「もう少し若かったらなぁ……」。好奇心をくすぐられる場所に違いない。

◆私たちは赤崎遊歩道を後にして、村落までの約6kmの海岸線の道をゆっくり散歩しながら戻ることにした。聞こえてくるのは波の音、風の音、野鳥のさえずりだけ。神津島では年間を通して約150種以上の野鳥を見ることができるそうだ。自然が作り出した造形美「ぶっとおし岩」や「踊り岩」、史跡「トロッコ橋跡」で足を止め、誰もいない白浜に腰を下ろして海を眺める。少し寄り道をして、式内明神大社「阿波命神社」にも参拝した。何と贅沢な時間だろうか。途中、これからの観光シーズンに向けて、草刈りやバーベキュー施設などの掃除をされる島民の方々をみかけた。こうして島は守られてきたのだなと感じる一コマだ。初日、江本さんの万歩計によると2万歩は歩いたらしい。

◆二日目、島のシンボルとも言える標高572mの天上山に登る。天上山には二つの登山口があるのだが、村落と前浜をずっと背にして登れる黒島登山口から出発した。歩きやすく整備されたスイッチバックの登山道を登っていく。1合目211m、2合目240mと順に確認しつつ歩みを進める。海抜0mがすぐそこに見えるという面白さがあり、少しずつ背後の景色が広がっていく。登山道ではオオシマツツジが咲き始めていた。10合目476mに到達すると様相が一変し、しばし藪の中を行く。足元には丸々としたトカゲちゃん達がざわざわ、1メートルを超えるシマヘビもお出迎えしてくれた。

◆台形の山頂には大小さまざまな岩が連なり砂漠や池が点在する。表砂漠を経由して最高地点の山頂に立った。実はここまで他の観光客には一人も出会わず、貸し切りの天上山をたっぷりと満喫することができた。山を知り尽くした江本さんも「低山ながら違う局面を併せ持つ珍しい山で、新しい山にチャレンジするのもいいものだな」と感慨深げであった。しかしながら、息子よ。3年もこの島に暮らしていたのに天上山に登っていないとは、もったいない!!

◆神津島の旅から戻って一週間。世の中はGWとやらに突入し、ワイドショーでは連日、高速道路の渋滞のニュースと有名観光地のオーバーツーリズム問題をとりあげている。神津島の海も観光客で賑わい始めたことだろう。今回の旅でまた新たな島の魅力を感じることができた私は、必ず再訪しようと心に決めた次第である。[長岡のり子

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