2024年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信538より
先月の報告会から

天辺を巡るアレコレ

石川直樹

2024年1月27日 榎町地域センター

■今月の報告者は、写真家の石川直樹さん。石川さんが初めて地平線報告会に登場したのは1999年4月、スターナビゲーションに関する報告だった。以降、北極から南極を人力で縦断するP2P、アフガニスタンでの旅、エベレスト遠征など、さまざまな地域、トピックで報告をされてきた。

◆今回の舞台はヒマラヤだ。石川さんは2001年のエベレスト登頂以降足掛け22年間、世界にある8000m峰14座のうち13座に登っている。報告会は、縦横無尽にヒマラヤを語るものだった。

◆このレポートでは、ヒマラヤをめぐる近年の変化、昨年秋のチベット遠征、「真の頂上」問題に焦点を当てる。昨年発行の地平線通信533号、535号の「今月の窓」にはより詳細な情報が載っている。また報告会で淡々とした言葉とともに映し出された写真や映像の迫力、美しさは、私の中のどんな語彙でも軽い感じがする。石川さんは今や、江本さんから「報告会の宣伝はしないで」といわれるほど多くの人に支持されている。当日の参加者は85名。石川さんの語りを近くで感じることができ、ある意味で贅沢な報告会だった。

◆ヒマラヤ・カラコルム山脈に連なる山々の地図を背景に、石川さんは話し始めた。「14座」を意識し始めたのは2022年のこと。ミンマ・ギャルジェ・シェルパ(通称ミンマG)との出会いが大きいという。石川さんは2019年のK2遠征から彼の隊(後述)で登り始め、2022年には4つの8000m峰を立て続けに登っている。高所順応が体に残っているうちに次の8000m峰に登ることで、高所順応を1からやり直す必要がなくなり、立て続けに8000m峰を目指すことができるという(とはいえ、石川さんの登頂スケジュールは相当過酷だ)。

◆隊のシェルパと親交を深め、この方法で連続して登るうちに、彼らと一緒に14の山を登ってしまえるのではないかと考えるようになった。14座すべての山麓から頂上までをつぶさに撮り、14冊の写真集にする、という目標がある。駆け足でも、石川さんが語る遠征のエピソードは濃かった。その内容は紙幅の関係上割愛するが、石川さんは14座それぞれの歴史や個性を自分にとり込みながら山に登り、写真を撮っているのだと感じた。人類が生まれる前からそこにある山々だが、登っているときの気候、見ている位置と角度、自分のコンディション、様々な要素によって山の見え方や感じ方が異なる。そのことを石川さんは強く感じているという。

「シェルパ」主導のヒマラヤ

◆石川さんは、コロナ禍を経て起こっているシェルパの革新について語った。8000m峰が初登頂された1950年代〜60年代、シェルパは仕事として遠征に参加し、外国人ガイドのもとで隊を支える裏方的な存在だった。しかし2021年1月、10名のシェルパ(民族名ではなく、ネパールの山岳ガイドという職業としてのシェルパ。以下同様)によりK2冬季初登頂が達成された。以降、世界最速14座登頂、未踏峰登頂などの記録を打ち立てる登山家として、30代を中心としたシェルパが台頭するようになった。彼らはリスクを冒しながら自分の登山を志す、いわば新世代のシェルパである。そういったシェルパを先導している人物が、ミンマGとニルマル・プルジャ(通称ニムス)である。

◆二人はともにK2冬季初登頂を果たしたシェルパで、ミンマGはイマジンネパール(以下イマジン)、ニムスはエリートエクスペディション(以下エリート)という会社を立ち上げ、国際公募登山を牽引している。ミンマGは最難関の国際山岳ガイド資格IMFGAを取得し、英語力も教養も申し分ない。ニムスは元グルカ兵で、軍隊仕込みの強靭な肉体と行動能力をもつ。ニムスが成し遂げた約半年間での14座登頂の様子は映画化され、Netflixを通じて世界中で配信されている。インスタグラムのフォロワー数は約220万人を誇り、影響力は絶大だ。もう一人、ノルウェーの登山家クリスティン・ハリラをリードして世界最速3か月と1日での14座登頂を果たしたテンジェン・ラマも、怪物的強さをもつシェルパとして後半に登場する。

チベット遠征

◆話は昨年秋のチベット遠征に移る。9月27日ネパールのラスワガディから陸路でチベットのキロンに入る。翌28日にニューティンリー、29日にチョ・オユーBCに入る。チョ・オユーに登頂後、ニューティンリーまで下山して一泊した後、その足で最後の山シシャパンマへ向かうという計画だ。

◆チベットへの入境手続きに予定より10日長くかかるなど、一筋縄ではいかなかった。30日、チョ・オユーBC(車で入ることができる)からABC(サミットプッシュの拠点となるキャンプ地)に上がり、一泊した後、10月1日朝9時にABCを出発。夜通し歩き、同日17時頃C1に着いた。そこで3時間ほど休養をとり、20時頃からサミットプッシュに入った。通常であればABCから頂上までは3つのキャンプを作り、段階的に登るところを、石川さんはほぼ一気に登ったのだ。固定ロープのない稜線を夜通し歩き頂上を目指した。しかし頂上があるプラトー(雪で覆われた台地)にたどり着く直前のところで、ホワイトアウトに捕まってしまう。地形的特徴が乏しいプラトーで視界が利かず、頂上がわからない。登頂を断念しかけた矢先、ニムスが現れた。軍隊仕込みの独自ナビゲーションにより、頂上までのルートを開いていった。石川さんもそれに続く形で登っていき、GPSで最高点を確認。10月2日登頂を果たした。

シシャパンマで目の当たりにしたこと

◆そして舞台は最後の山、シシャパンマへ。このシシャパンマは、様々な文脈で「14座最後の山」だった。石川さん以外にも、ニムス、ミンマGは無酸素での14座登頂、女性のシェルパ、ダワ・ヤンザはネパール人女性初の14座登頂、そしてアメリカ人女性登山家の2人、アンナ・グトゥとジーナ・マリー・ルズシドロはそれぞれアメリカ人女性初の14座登頂、というタイトルにそれぞれが王手をかけていた。とくにアンナとジーナはライバル心をむき出しにして競争しており、そこに周囲の人間も巻き込まれていった。

◆10月4日シシャパンマBCに到着。翌5日、ABCへ。手配していたヤクが来ず、石川さんたちイマジン隊は人力で荷揚げを行った。この件については、先にシシャパンマに入っていたジーナの隊が、アンナを遅らせるためにヤクを止めていたのではないか、という話が後に上がっている。6日の早朝、ABCを後にして夕方C1へ。チョ・オユーと同様に、C1で3時間ほど休養し、夜のうちにサミットプッシュに入った。夜通し歩き続け、7日の朝、シシャパンマ頂上へ向かう最後の斜面にたどり着いた。もちろん固定ロープはない。ABCから一緒にルートを開いてきたエリート隊とイマジン隊が策を練っていた矢先、後ろからジーナとテンジェン・ラマ(+シェルパ1人)が両隊に追い付き、いきなり斜面に取り付いた。ラマはさながら「カマキリロボット」の勢いで、ロープを結んだジーナを引っ張っていった。それをみたアンナ(+シェルパ2人)が猛追。14座登頂を目指すジーナとアンナの戦いが始まった。この2パーティに続く形で、石川さんとキルー・シェルパ(またしてもK2冬季初登頂者の一人)が斜面に取り付いた。

◆ジーナとアンナは別ルートで頂上を目指していた。ジーナは頂上に向かって左にトラバースして直登するルート、アンナは中央峰へと直登し、頂上へと稜線を辿るルートをとった(中央峰を頂上と勘違いしていたのではないか、という話もある)。ジーナを引っ張るラマは数か月前にシシャパンマに登頂した経験を持つため、石川さんとキルーはジーナ+ラマのルートを選択し、トラバースした後セラック(氷塊)付近で休んでいた。その最中、上からチリ雪崩が来た。石川さんとキルーはセラックに身を寄せて無傷。しかし数分後、交錯する無線から、アンナたち3人が数百メートル流されたことがわかった。後ろから無酸素で登ってきているミンマGと話した末、雪崩のリスクを考え、石川さんとキルーは撤退を決めた。踵を返して10分ほど下り、休憩できそうな緩斜面があった。そこでジーナたちの様子を見ようと振り返ったそのとき、再び雪煙が舞っているのが見えた。その5分後、二度目の雪崩により今度はジーナたち3人が流されたことがわかった。結果、アンナとシェルパ一人、ジーナとラマが亡くなり、4人を下げられないまま秋のシシャパンマは閉山した。頂上を目前にして起こった二か所での雪崩。まるでアンナとジーナに「当てに来た」ようだった。その現場に一番近くで遭遇したのが石川さんとキルーだった。その場にいた皆が呆然としながら下山した。石川さんは写真も映像もあまり撮れず、安全祈願の儀式であるプジャをしなかったことが思い出され、普段は考えないような「シシャパンマの神様が怒ったのかな」ということも頭に浮かんだ。それほど現実離れした出来事だった。

「真の頂上」をめぐる議論

◆ここまできて、報告会の会場は静まり返った。話題は「真の頂上」問題に移った。これまでのヒマラヤ界隈では、慣習的に「認定ピーク」や「認定範囲」という考え方が用いられてきた。真に最高点でなくても、ここまで行けば、この範囲で写真を撮れば「登頂」、と見なされる地点があったという。しかし近年、その慣習に疑問が呈されている。ドローン技術の向上により、8000m峰頂上付近の地形がつまびらかになったことが背景にある。標高の差としては数メートルでも、客観的にみれば明らかに最高点があり、その手前で帰るのは登頂とはいえないのではないか、という意見が上がっているのである。その旗手となったのがミンマGであった。

◆例えばマナスルに関して、頂上の手前にある小さなこぶの部分で引き返すことが慣例と化し、固定ロープもそこまでしか引かれてこなかった。しかし2021年、ミンマGがそのこぶから一度下り、トラバースをして真の頂上まで登り返した。真の頂上に立つことを行動で示し、世界に「登頂」の意味を問いかけたのだ。これを受け、西欧を中心に「登頂」の検証が始まった。ドイツの登山史家エバーハルト・ユルガルスキは、過去の登頂写真を洗いざらい検証し、「登頂」の審議を行い、記録を改めている。マナスルの他にも、アンナプルナやダウラギリの登頂記録の見直しが進んでいる。その結果、人類初の14座登頂を達成したとされるラインホルト・メスナーも、アンナプルナで真の頂上に立っていなかったことが判明した。しかし、それでメスナーの功績がなかったことになるのか。現在西欧を中心に、ヒマラヤにおける登頂とはなにか、という議論が巻き起こっている。

◆あくまで石川さんはどの立場でもなく、「自分の眼で確かめないとなんの意見も言えない」と考え、2022年にマナスルを登り直した。そこで感じたのは、ミンマGが登った最後の行程があるのとないのとでは、山の印象が全然違うということだった。マナスルは1956年、今西壽雄とギャルツェン・ノルブにより初登頂され、1974年には、日本の同人ユングフラウが女性では初登頂したとされる。それらの当時も、真の頂上まで登った記録が残っている。8000m峰を切り開いてきた先人たちの努力を無下にして、手前で帰ることの意味とは何なのだろうと石川さんは問う。今年の3月、石川さんは再びシシャパンマに挑戦する予定だ。

最後にひとこと

◆会場の空気感と石川さんの生の言葉は、みぞおちのあたりでくすぶっている。私は『この地球を受け継ぐ者へ』(講談社)を読みながら羽田に降り立った。本の中の石川さんは22歳で南極に向かっていた。私は当時の石川さんと同じ年齢で、今回の報告会に居合わせた。石川さんから、知識や思考の蓄積の果てに行動があるということを感じた。石川さんの突き詰め方に圧倒された。その熱量を受け取り、自分の文脈で、好奇心の向かうほうへ生きていこうと思う。コロナ禍の講義、ハガキがつながって、今レポートを書いていること。幸運なめぐり合わせに改めて感謝の念が湧いてくる。これからも、一つ一つの行動の先で見える景色を楽しんでいきたいと思う。[安平ゆう 九州大学山岳部]

登頂リスト

『NAOKI ISHIKAWA:ASCENT OF 14―14座へ』

会期:2月18日(日曜日)まで
開室時間:月曜日〜木曜日 午前10時〜午後7時、金曜日 午前10時〜午後8時
       土曜日 午前10時〜午後7時、日曜日・祝日 午前10時〜午後5時(入室は閉室の30分前まで)
会場:千代田区立日比谷図書文化館 1階 特別展示室
観覧料:一般300円、大学・高校生200円


報告者のひとこと

何も変わっていないことがただただすごい

■久々の地平線報告会でした。初めて報告会で話をさせていただいたのは1999年4月27日(当時21歳)だったので、それから25年、四半世紀もの歳月が経っていました。自分が最後に報告会をしたのは2013年7月19日だったようで、そのときからも10年が経っています。報告会の会場こそ変われど、江本さんはじめ、おなじみの面々がいらっしゃって、雰囲気も相変わらずで、なごみました。

◆本当の頂上問題、若いシェルパたちの台頭とシェルパたちの意識の変化、14座にまつわるあれこれ、シシャパンマの雪崩……などなど、報告すべきことはすべて報告したつもりなので、何一つ付け足すことはありません。

◆昭和49年(1974年)の日本女子マナスル登山隊(同人ユングフラウ)で、マナスル頂上近くまできて「ここが頂上だからもう帰ろう」と言うシェルパと喧嘩してまでその先の“本当の頂上”に立った3名の一人、内田昌子さんには、今月京都まで会いに行って話をうかがう予定です。昨年10月、シシャパンマで起きた雪崩で、アンナ・グトゥとともに滑落した二人のシェルパのうち、奇跡的に生き残った一人のシェルパがいます。アンナたちは三人一緒に流されて二人が亡くなり、一人だけ背骨を折るなどの重傷を負いながら助かったのです。そのシェルパにも、近々カトマンズで会い、話を聞く予定です。

◆そして、自分自身も2月末から高所順応のためにネパールに行き、6000メートル程度の山に登って順応後、一度日本に帰って休養、そして3月末に再びネパールからチベットへ入って、シシャパンマへ向かう予定です。帰国は4月末を予定しています。こうした取材や遠征をふまえ、最新のヒマラヤ事情をふんだんに盛り込んだ本を出そうとただいま執筆中です。それを書き終えたときに、今回の報告会で話した内容に関して、本当に一区切りがつけられるのではないか、と考えています。

◆今回の報告会後、早稲田の居酒屋に行ったのですが、まずこういう居酒屋で飲むこと自体が最近ほとんどなく、大学生くらいに戻った気分でした……。ぎゅうぎゅう詰めの畳の部屋で、あれこれ話しながら、江本さんの生歌も聞くことができて、なんというか大変光栄でありました。

◆四半世紀という歳月は、決して短くないはずなのに、なんだか地平線会議だけは時間がとまっているのか、あるいは時間が進み過ぎて一周しちゃったのかわかりませんが、何も変わっていないことがただただすごいです。緩やかなネットワークのあるべき姿として、色々見習うところがあります。どうもありがとうございました。[石川直樹


『出羽庄内ミレニアム集会』に来てくれた石川直樹さん

■石川直樹さんと初めて会ったのは、報告会の会場がアジア会館だった20数年前。石川さんはまだ21歳の学生だった。報告会終了後に椅子の片付けを手伝いながら、ミクロネシアの島へかよって星の航海術を学んでいると聞いたことを覚えている。

◆2000年最初の報告会(第243回・出羽庄内ミレニアム集会)を鶴岡市で開催することになり、石川さんに参加を呼びかけると「行きます!」と即答してくれた。以前から山形へ来ていて出羽三山で山伏修行をしたこともあるらしい。この集会のテーマは「“狩り”をめぐる地球体験」で、石川さんにはリレートークの一人として、ミクロネシアで参加した海亀漁などの食文化について語ってもらった。その報告会から1か月後に彼は「P2P」に参加し、翌年チョモランマに登頂して七大陸最高峰の最年少登頂記録を更新した。

◆2004年には神田道夫さんと二人で熱気球による太平洋横断に挑戦している(太平洋上に不時着して奇跡的に生還)。その計画を聞いて、出発直前に酒田市で石川さんの講演会を開催した。すでに「情熱大陸」でブレイクしていたが、その波は酒田まで及ばず参加者は40人ほどだった。その後も世界各地へ出かけて写真を撮っていることは知っていたが、2011年に最年少で土門拳賞を受賞したのには驚いた。

◆ヒマラヤ8000m峰3座目のローツェに登頂した翌年、仙台の写真展で会って以来だろうか。あれから10年。いつのまにか13座に登頂し、残るシシャパンマもあと一歩のところまで登ったとは……。ずいぶん遠くへ行ってしまったなと思っていたが、久しぶりに会った石川さんはむかしと変わらない気もした。[山形県酒田市 飯野昭司

◎土門拳記念館では現在「土門拳賞コレクション 自然・動物写真の系譜」として、石川さんや大竹英洋さんら6名の作品を展示中です(〜3/31まで)。


大いに問いかけられたい

■石川直樹さんが、久しぶりに地平線報告会に登場するという。開催日は土曜日だという。「行けるのでは… …?」と思ってしまった。石川さんという人を認識した2000年当時、彼のウェブサイトには掲示板があって、書き込むと結構本人が返信してくれるものだから、活発なやりとりが生じ、投稿者同士のつながりも生まれた。『地平線会議』なるものがあることを知ったのも、ディープな旅行社主催の江本さんの講座を聞きに行く機会を得たのも、この掲示版での石川さんの書き込みからであったと記憶する。いわば、私が地平線会議に関わらせてもらうようになったきっかけは、石川さんからもたらされたことになる。

◆時を同じくして、地元大阪での有志による石川さんの報告の場に参加させてもらう機会もあり、話を聞いてはワクワクしたことを覚えている。それは、未知に向かう石川さんの行動に触れることで、自分の枠を取り払える可能性を感じていたからかもしれない。

◆……あれから20数年。石川さんが登場する多くの媒体を通して動向に触れることはあったが、あまりに行動の範囲が広く、内容も多岐に渡るため、知り得た状況は点にとどまっていた。そんな中での報告会のお知らせ。アラ還として今後に思い巡らせる私にとって、ナニカミエテクルモノガアルカモ、とこじつけたのが今回の参加の動機であった。

◆報告会開始後は、例によって圧倒的なことを淡々と語る石川さんに懐かしさを覚えたが、仲間のシェルパの話になったあたりから、口調が少し砕け、相好が崩れる様子も垣間見られた。人との関わりが充実しているのだろう。流された映像もストーリー仕立てになっていて、多くの人の名がクレジットされていた。

◆かくして石川さんは、20代前半のときにお会いしてから、旅先で身体を通じて得られる驚きを表現し続けている点において、なんのブレもなかった。全うしていた。そんな石川さんの行動や作品に触れるたび、自分は何を思っているのか、何に揺さぶられるのか、どうしたいのか、問いかけられる気がする。それもまた人の心を惹きつける理由の一つなのかもしれないと改めて思う。

◆報告会のあとで「カメラを持たずとも登りたいですか」と尋ねたところ「写真を撮らないなら登らない」と石川さんは言った。その写真を観に、報告会の翌日、日比谷図書文化館で開催中の展覧会『NAOKI ISHIKAWA:ASCENT OF 14―14座へ』に足を運んだ。世界初登頂の瞬間の歴史的な文章とともに、ヒマラヤの山々の巨大写真が展示され、見応えと居応え(そんな言葉はないが)を感じるとともに、不思議と山々に親しみが湧いてきた(あと、隅っこに貼られた山の名前のキャラクターシールが気になった!)。

◆石川さんの口から「宇宙」という言葉が出たのはいつからだったろう。これを機に、14座登頂を果たしたその先も楽しみにしながら、また、大いに問いかけられたいと思う。[中島ねこ

長い言い訳

◆一度は辞めた会社に2020年4月に復帰し、もう4年近く働いている。二度と戻ることはないと思っていた場所に戻った理由はいろいろあるけれど、定期的に会って酒を酌み交わしていた同期の存在も実は大きい。長女が中学受験を考え始め、次女は3歳になって、自分も腰を据えて働くべきではと思い始めたころ、「だったら戻ってくればいい」と事も無げに誘ってくれた仲間たちだ。その3次会だか4次会だか5次会だかわからない、ぐだぐたの飲み会を終えた明け方の帰り道、そのうちの一人に言われた。「教育費だなんだ言っているけどお前、本気の仕事をしたいだけなんだろ?」と。一気に酔いがさめた気がした。こいつらと一緒に歳を取っていくのも悪くないかもなと思ってしまった。石川さんの話を聞いていて、そんなことを思い出した。あいつらには絶対に言わないけれど。

◆就職のことを考え始めた2000年に、北極から南極までを旅する「Pole to Pole」プロジェクトに参加している石川さんのことを知り、現地から発信されるブログを追い掛けた。それから石川さんはいつも先を歩いている先輩で、受けた影響も小さくない。アフガニスタンに行ったことも、写真を本格的に勉強し始めたことも、いくつかの大きな賞を取ったこともリアルタイムに知っていた。エベレストに10年ぶりに登ったと聞いたときは驚いたけれど、「ヒマラヤは面白い」と言って目を輝かせた石川さんは、何かに目覚めたのだろうなとうらやましくも感じて刺激を受けた。それから何度もヒマラヤに行っているらしいと遠くから聞こえてきていたけれど、8000メートル峰の13座を登っていることまで把握しきれておらず、また驚いた。

◆久しぶりだという感じはなぜかしなかった。相変わらず軽やかで青年のようなところがあって、変わった印象も受けなかった。それでも共に年齢を重ねてきたんだなという思いに駆られた。石川さんに会うと二十歳そこそこのころの、原点ともいうべき自分を思い出す。自分の航路を見定めるため見上げる夜空の星のごとき存在なんだと思う。そんな「石川直樹星」みたいなナントカ星が、地平線会議にいくつも瞬いていることもよくわかっている。

◆この4年弱は、家庭のこと以外は仕事にばかりかまけていた。それがバレたらしく「忙しいと言い訳ばかりして」と叱られて今、筆を執っている(反論すると、E本さんが同じ年の新聞記者だったころのたぶん倍くらいの仕事を、母親業・主婦業の傍らでこなしている。だから本当に余裕はない)。私の周りには、仕事以上に優先すべきことなどないと考える絶滅危惧種的仕事人間がいまだ多く生息している。20代のころに比べれば「働き方改革」とやらが進んだとはいえ、土日だろうが盆暮れ正月だろうが、仕事から完全に離れられる日はほぼ無い。500回記念大会も今回の報告会も、取材を終えてから会場に駆け付けた。12月の報告会や先日の映画上映会の日は、丸一日仕事が入っていて涙を飲んだ。

◆それを正義とする毎日から地平線の中に放り込まれると、真逆のモノサシを突きつけられ時に混乱する。思考停止してただ働くマシンと化したほうが楽だったりするので、報告会への参加を消極的に思う日もある。でも、そのバグ(不具合)をあえて起こすために行くのかもしれないと思う日もある。何をぐだぐだ書き連ねているのかというと、ソーコーの妻のヨシ子が「仕事とアタシとどっちが大事なの?」と詰め寄ってくるので、できる限りで関わり続けているという行動からオレの愛を感じてくれよ、と色男ばりに長い長い言い訳をしている。[菊地由美子

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