2018年2月の地平線報告会レポート


●地平線通信467より
先月の報告会から

歴史をやれ、旅をしろ?

森田靖郎

2018年2月23日 新宿区スポーツセンター

 報告会では、毎回、正面に大きなスクリーンが、その右手に報告者が着席する。けれど今夜は「映像なし」「カンペなし」の森田靖郎さん。真ん前に座る姿に、「よし、聴くぞ」とこちらも気合いが入る。2日前にアメリカから戻ったばかり。が、そんな疲れや気負いは微塵もなく、いつも通りの穏やかな口調で、静かに報告会は始まった。

明治維新は旅する若者たちの仕事

■今日は、ここ数年のアメリカ文明の賞味期限減少を手探りしながら、「これからぼくらはどのような生き方をしたらよいのか」を話してみたいと思います。ぼくの歴史テーマは、「原因と結果は一致する」です。いまの社会を作っている原因を突き止めれば、次の社会が見えてくる。歴史の根っこを探せば未来のルーツが判る。そういう考えで、いつも旅をしています。

◆江戸の中期、荻生徂徠という儒教家がいました。彼は、「一人前の武士になるなら、歴史をやれ。旅をしろ」と書いています。歴史を遡りながら、旅という空間移動で見識を広めろ、という意味だと思います。

◆幕末の頃、各藩の下級武士たちは、この言葉に従って書を読んで歴史を遡り、日本中を旅して回りました。それまで武士は和魂漢才、つまり、日本人の心で「東洋から学ぶ」が基本姿勢でしたが、世界を知った若者たちは、「列強に追いつき追い越すには、西洋を知らなければいけない」と、和魂洋才が基本になってゆきます。この運動はやがて維新運動に繋がり、明治維新に結びつきました。それから今年で150年。日本は近代国家になり、市民社会が生まれたのです。明治維新は旅する若者たちの仕事だったと思います。

◆ぼくらは武士ではありませんが、やっぱり一人前にはなりたい。「物書きとして、筆一本で食っていこう」と思ったとき、自分が生きている時代はシッカリ残したい、と考えました。初めて「歴史をやろう」と思ったのは、昭和が7日くらいで平成に代わった1989年、「昭和史の現場を歩く」という月刊誌の企画で、旧満州や原発などを取材して回った時です。それでも、まだ、昭和史全体を書く勇気はありませんでした。

◆3.11の後、「やっぱり昭和史を書かなければ」との思いで、もう一度、昭和史の現場を歩きました。そして、3、4年かけて、『上海セピアモダン』『昭和セピアモダン』を書きました。これは電子書籍なんですが、紙で見たいという希望も多く、ペーパーオンデマンドでアマゾンで販売しています。

本の交換が旅人の仁義

■ぼく自身は、歴史の勉強は全くやらず、高校でも授業はほとんどサボり、大学受験も代りに数学を選びました。そのぼくが歴史に触れたのは、やはり若い頃の旅先です。貨物船に乗って旅し、アジアの小さな町で長い間逗留しました。時々、日本人と顔を合わしますが、お互い口は利きません。日本語を使うと国に帰りたくなるんで、目と目で合図するくらいなんです。

◆ただ、別れ際には互いの本を交換する。これが旅人の仁義になっていました。その時、たまたま歴史本を手にしたんです。それが下巻で、後に上巻も手にしましたが、ぼくは歴史を逆さに読み始めたんです。これが非常に興味深かった。犯人を知って推理小説を読むように、伏線や前兆がよく判るんです。歴史も、小さな事件が重なりあって大きな事件となり、歴史となってゆく。それが後に、ぼくの「原因と結果は一致する」というテーマへと繋がりました。

◆いまの時代を作ったターニングポイントを書きたかったので、この『昭和セピアモダン』も後ろの部分から、遡る形で書きました。その時、昭和を3つの時代に区切ってみました。「プレ昭和」「昭和モダン」「ポスト昭和モダン」です。プレ昭和は、文字通り昭和前史。日本が近代国家としてスタートした明治元年の1868年から、日露戦争に勝ち、いよいよ列強の仲間入りをした1905年までです。昭和モダンは、その後、太平洋戦争に敗退し、講和条約を結んで国際社会に復帰する1952年までです。ポスト昭和モダンは、戦争を放棄して強兵なき富国という形での高度成長期を終える、そして昭和も終わった1989年までです。

時代ごとに象徴する事件が

■それぞれの時代には、それぞれを象徴する事件、出来事が必ずあります。20世紀を象徴したのは第一次世界大戦で、これにより国も国民も全てが戦争に向かいました。20世紀は、歴史家が「総力戦の時代」と言う、戦争と革命の時代だったのです。21世紀は。9.11の同時多発テロだと思います。これは国境や国家を超えた文明圏の戦いではないか。ぼくは「文明戦の時代」と名付けています。

◆昭和の3つの時代を象徴するのは、「同盟関係」ではないかと思います。プレ昭和は日英同盟。日本は日清戦争に勝ち、その勢いに乗ってイギリスと同盟を結びました。そのイギリスを背景に、大国ロシアと戦って勝ち、いよいよ列強入りするわけです。昭和モダンでは、「日独伊三国軍事同盟」だと思います。「アジアを解放する」という大義名分の元に、日本は大東亜共栄圏という構想を打ち立てます。そして中国大陸に進出し、その日中戦争は泥沼化します。この打開策として三国同盟を結び、やがてドイツが起こした第二次世界大戦に巻き込まれ、アメリカ、イギリスなどの連合国と戦って敗退します。

◆ポスト昭和モダンを象徴するのは、日米安保です。この枠組みの中で、日本は経済復興一本に絞り、平和主義による立憲国家として世界で2番目の経済大国になってゆきました。このように昭和を見て、「歴史の尻尾くらいは掴めたかな」と感じながら稿了を終えたんですが、その時、「トランプ大統領誕生」のニュースが飛び込んできました。それですぐ、その項目を書き足し、最終稿了としました。

文明末にヒラリーの敗北を予感

■実は、ぼくはトランプが勝つ、と言うより、ヒラリー・クリントンが負ける、と思っていました。その前に行われたイギリスのEU離脱の国民投票も、離脱派が勝つと予想していました。それは文明末だからです。文明末には、いままでの流れが完全に変わり、断ち切られてしまう。だから想定外のことが起こるだろう、と思っていたんです。

◆トランプの勝利に、シリコンバレーのIT関係者たちは、一瞬、言葉を失い、暫くは仕事が手に着かなかったと言います。そしてやおら立ち上がり、「ローリング・ストーン」と叫んだそうです。ローリング・ストーン 転がる石 には、「転がる石は転落する」と、「転がる石に苔はつかない。いつも自由に生まれ変わり、常に新しく解放される」の、両極端の意味があります。この言葉を聞き、「これから誰も予測できない時代がくるのでは」とぼくは思いました。

◆ぼくがいたカリフォルニアの北、ソノマカウンティという場所は、周りにワイナリーがたくさんある、とても豊かなところです。ヒッピー文化の発祥地の一つでもあり、ぼくもオーガニックの野菜や、グルテンフリーの生活を楽しんでいました。近くに、ぼくが本を読んだり、原稿を書いたり、あるいは昼寝したりするワイナリーがあります。

◆そこのメキシコ生まれのオーナーが、いつも話しかけてくるんです。「俺たちの国は、ネイティブはナチュラルに生きている。日本もそうだろ? しかし、ここは人工の国家なんだ。この国を造ったのは、俺たちの祖先だ。鉄道を敷いたのも、道路を造ったのも俺たちの祖先だ」と。

大陸横断鐵道で頑張った“チャイナマン”

■彼が言う鉄道とは、シカゴからサンフランシスコまで、4000kmあまりの大陸横断鉄道です。道路は、シカゴからサクラメントまでの、通称「ルート66」と呼ばれる国道です。この横断鉄道や横断道路を造る時に一番頑張ったのは、チャイナマン 中国移民です。この「チャイナマン」という呼び名は、当時はちょっと差別的な言い方でした。その彼らは、大陸横断鉄道の工事が終わると西へ西へと移動し、このカリフォルニアの農園で働き始めました。彼らは一番安い賃金で、本当によく働きました。

◆しかし、チャイナマンが来ると仕事を全部奪われ、労働環境も悪くなる。ということで、やがて中国人排斥法が作られ、仕方なく彼らは新天地を求めて東へ出てゆきました。その後ろ姿に、「チャイナマンズ・チャンス」という声が掛けられたと言います。そのまま受け取れば「中国人のチャンス」ですが、そもそも中国人にはチャンスなど無かったわけで、「絶望的」という意味です。

◆アメリカの開拓史を見ますと、鉄道や道路に限らず、創世期の産業の原動力となったのは、ほとんどが移民です。その一方で、移民がいると労働環境が悪くなる、医療費や社会保障を食い荒らされる、といった理由で移民排斥が始まります。移民に頼りながら、移民を締め出す。その二律背反のジレンマは、アメリカ文明開拓史の宿命のような気がします。

◆いまもアメリカは、医学、科学などの技術系では7割近く、起業家も4割近くが、留学生や移民といったアメリカ以外の出身者だそうです。アメリカ文明とはいったい何なのか。その原風景を見てみたい。そう考えたぼくは、「チャイナマンズ・チャンス」の言葉を背に受けて東へ向かった中国人たちの後を追ってみよう、と思いました。

アメリカ文明の原風景

■シェラネバダという凄い断崖があります。大陸横断鉄道建設で、「もっとも難所」と言われたところです。リンカーンが大統領になった翌年に「大陸横断鉄道法」が作られ、東西から工事が始まりました。主にアイルランド系移民が請け負った東側は、比較的平地が多く、スムーズに進みました。一方、メキシコや中国の移民が始めた西側は、大きな川や山、断崖があってなかなか進まず、シェラネバダでは工事がストップしてしまいます。

◆リンカーンが大統領になり、奴隷が解放され、黒人の安い労働者は使えなくなりました。そこで鉄道会社の人は中国へ行き、数万人のクーリーを連れてきました。彼らは本当によく働き、シェラネバダの断崖をよじ登って、ついには鉄道を貫通させたのです。ぼくもそこに立ってみましたが、「縄1本で、彼らはよくここを登ったなあ」と驚きました。シェラネバダを越すと、いよいよアメリカの大陸内部に入ります。大きな川、山、平地があり、道路や鉄道が走っていて、石油も石炭もあります。

◆アメリカ創世期の産業は全てここから始まった、と言ってもよく、「これがアメリカ文明の原風景か」と実感しました。カリフォルニアではオーガニック野菜やグルテン・フリーの生活でしたが、ここは朝から300gくらいのハンバーグです。「これが移民と闘って仕事を取り合ったアメリカ人の筋力・腕力を作ったのか」と思いました。

◆この、自動車などアメリカ創世期の産業を作った地域が、ここ数年のグローバル化によって寂れてしまい、「ラストベルト」錆びた一帯、と呼ばれています。ヒラリー・クリントンは、得票数でトランプを300万票くらい上回りながら、選挙人の数で破れました。ここアメリカ中南部で票を失ったことが、彼女の敗因の一つです。この地域は、ブルーカラーの労働者の多い町です。元々は民主党の地盤で、オバマ時代には最低賃金も雇用率も上がり、「ここで票を失うことはないだろう」と思われていました。

アメリカファースト

■ところが、いざフタを開けると、票が軒並みトランプに行ってしまったのです。それは何故か。「労働権法」という法律があります。これは労働者の権利を守る法律ですが、組合に入るかどうかは義務ではなく、自分の意志で決めてよい、という内容です。連邦法ではなく州法です。なので、採用するかしないかは州議会で決まります。当時、およそ半分くらいの州が採用していましたが、それが労働組合の総本山と言われる中南部、あるいはミシガン州のなどの五大湖周辺にまで及んできたのです。

◆これが認められると、労働組合は弱体化します。一方で、雇用は力強くなります。トランプの「移民を締め出せ!」「強いアメリカを取り戻せ!」も追い風となって、彼は勝利したのです。アメリカには、個人の自由、民主主義、人権、平等といった、建国以来の理念があります。更地から興した国ですから、こういう理念がなければ文明国家として成り立ちません。そしてこれを、アメリカにやってくる人たちに認めさせたのです。ヨーロッパのような近代国家では、社会が成熟するに連れて法も作られてゆきますが、アメリカは違いました。最初に「法ありき」です。

◆アメリカは世界で一番金持ちの多い国です。でも、富の分配にかけてはもっとも不平等な国で、富裕層のトップ10が全国民所得の半分を占めています。また、人権や文化的多様性の面でも、イスラム圏からやってくる文化をトランプは受け入れようとしません。いま、アメリカの国民は、理念と現実がかけ離れているんじゃないか、その理念はキレイごとに過ぎないんじゃないか、建国以来の理念も賞味期限が切れているじゃないか、と思い始めています。

◆大統領受託演説でトランプは、「これまではグローバリズムが主体だったが、これからはアメリカファーストが信条となる」と宣言しています。イギリスから独立するときに、アメリカは自由と民主主義を掲げ、ヨーロッパの啓蒙思想と相対する形でフロンティア精神を認めさせました。アメリカファーストアメリカ主義とは、そういった強い保守主義的な考え方です。

◆いまアメリカでは、『アメリカニズムの再発見』という本がよく読まれています。長く続いたリベラルな政治に対する反発からですが、同時に、「トランプのアメリカニズムはちょっと違う。本来のアメリカニズムはこういうものだ」といった理由もあるようです。これを読むと、ナショナリズム、排外主義がとても強いんです。最近、白人至上主義者は、これまでタブーとされてきた「人種によって能力や知性は違う」といった主張まで、堂々と掲げるようになりました。

マンハッタンの借金時計

■いま、自分たちのアイデンティティについて、アメリカ国民は2つに分かれています。そのことを私が書いたのが、『カネと自由と、文明末ニューヨーク』です。これもペーパーオンデマンドです。その少し前には『六四(リュウスウ)天安門事件』を書きました。六四(リュウスウ)と呼ばれるこの事件は、当時、「歴史の裂け目」と言われました。天安門事件の後、ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結し、その後の世界が大きく変わりました。それをもう一度、当時の人たちを取材し、いまの時点で事件を見直しながら、中国を通して世界がどう変わるのかを見てみよう、と考えたのです。

◆ニューヨークのマンハッタンには、アメリカの借金の額が時計のように刻一刻表される、「借金時計」がありました。当時で、日本円にして2100兆円くらいだったと思います。これはアメリカのGDPに匹敵する数字です。日本の借金も千兆円を超えており、GDP比では先進国中でトップ。あのギリシャよりも高い借金大国です。GDPの本来の意味は国民総生産ですが、いまでは「国民総借金」だと言われています。Dはdebtです。それくらい、先進国は軒並み借金を抱えています。

◆近代経済学を引っ張ってきた「ケインズ理論」のケインズだって、先進国のこんな状態は想像していなかったと思います。一方、金利はどんどん下がっていますが、これも予測していなかったでしょう。そもそも、聖書やコーランでは金利は禁じられています。それがプロテスタント主義が出てきて金利や貯蓄を認め、資本主義が一気に広がりました。このプロテスタントと資本主義が、アメリカ文明の源流を成しています。

◆ずっと右肩上がりで伸びてきた資本主義の成長は、70年代以降、ピタリと止まります。先進国は、人口が減少し始める一方で軒並み借金を抱え込み、先行きが不安になって、人々は物を買わずに貯蓄するようになり、世界的に需要が減ってきた。経済学者は、そう言っています。いま経済を1ドル成長させるには3ドル必要だ、とも言われています。さらに、冷戦の終結も経済停滞に追い打ちを掛けました。東西の壁がなくなり、グローバル化が起こりました。

憲法の制定は3度だけ

■同時にテクノロジーが進み、世界中共通の生産プロセスができて、賃金の安い国へ製造拠点がどんどん移っていったのです。するとコストが下がり、これまで生産に携わっていた先進国の人たちの給料も下がって物を買わなくなり、それが経済の停滞を引き寄せたのです。資本主義には競争の原理が強く働きます。つまり、金は強いもの、大きいものへと流れます。それは経済が停滞すると顕著になり、グローバル化で金を儲けられる人と、そうでない人の格差がどんどん広がってゆくのです。

◆資本主義と民主主義はアメリカ文明の両輪です。資本主義がこういう状態になると、民主主義も同様に強い大きなものに引かれ、危うくなってきます。もともと民主主義 デモクラシーは、古代ギリシャで生まれた政治体制です。皆が集まって話し合い、それでまとまらなかった場合に多数決で決める、そういう単純な制度です。

◆いま、民主主義は、多数決が優先する政治です。その多数を取るために政治家たちは色々企みますが、これが国政の私物化に繋がるのではないか。政府が民主主義を壊すことになりかねない中で、国民はどうやって自分たちを守ってゆけばよいのか。日本は立憲主義国家で、憲法が精神的防衛線になる体制の国です。日本は世界でもっとも古い国家体制を持つ国で、日本書紀によると、神武天皇が大和朝廷に立ったときが始まりです。それ以降、王朝体制は変わっていませんが、こんな国は他になく、日本についで古いのはデンマークくらいです。

◆この日本で、憲法は3度しか制定されていません。最初が聖徳太子の17条憲法です。聖徳太子は、外来の仏教を取り入れた仏教立国を目指し、それまでの天皇記や日本の歴史を編纂し直して17条の憲法を作りました。これは、いまの日本の国の骨格になっています。次が、明治憲法 大日本帝国憲法です。これに貢献した人物が伊藤博文ですが、彼はドイツで憲法について学び、帰国後、初代の内閣総理大臣となって明治憲法の制定に大きく動きました。

◆ドイツで彼は、国を人体に例え、「頭を君主とすれば、そのために働く手足となるのが国民、手足を動かす臓器は行政、その行政を見守るのが内閣」という考え方を学んでいます。3度目の憲法が、いまの日本国憲法です。日本は太平洋戦争後、統治していたGHQから、「新たな独立国家としての憲法を改正せよ」と命ぜられます。その日本が最初に行ったのが戦争放棄で、平和主義による立憲国家となり、それ以降の70何年間、世界のどの国とも戦わずにやってきました。戦争しない国として、世界で最も信頼される国となったのです。

戦争を考える機関

■いま、憲法改正が国民的課題になりつつあります。この議論の中で、もっとも時間を掛けるべきが憲法9条ですが、「9条がある限り、日本は戦争しない国だ。もし戦争する時は、憲法を改正するだろう」ぼくはそう思っていました。ところが、安保法制をよく読むと、他国から武力攻撃を受けたとき、あるいは日本の国の存立が危うくなったとき、平和的な外交でこれを解決するか、武力で解決するか、それを決定する機関が既に「ある」のです。

◆つまり、相手国の出方次第では、日本はいつでも戦争できる国で、それを考える機関があるということです。その機関が、2013年の12月にガタガタっと決まった安全保障会議、日本版NSCです。この会議は、内閣に設置され、内閣総理大臣が議長となります。つまり、安倍さんの気持ち一つで、日本は戦争できる国なんです。ただ、NSC設置法はあまり国民には知られていません。というのも、この設置法を補足する形で同時に作られた特別秘密保護法に、マスコミが関心を持ったためです。

◆これは、防衛、外交、テロ、スパイなど、日本の安全保障に支障を来しかねない項目を、国民の目から遮断する、という内容です。同時に、これらに関わる人の考え方や交友関係、家族、履歴までもが、この法律で国家に調べられてしまう。そこでマスコミは、国民の知る権利を奪うものではないか、これはかつての治安維持法と同じではないか、と大いに反発したのです。でも、この法律は制定されてしまいました。それが現実です。

◆いま、新聞、テレビなどのマスコミや政治家も、「日米同盟」って平気で言います。しかし、法の番人と呼ばれる法政局でも使っていませんでした。この言い方が一般的になったのは、2013年頃からです。政権の人は、「アメリカは日本を守るが、日本はアメリカを守る必要はない。こんな同盟関係なんてどこにもない」と、同盟関係を強調し過ぎる気がします。しかし、日本がアメリカを必要としているのではなく、アメリカが日本を必要としているのです。対中国に関しても、アメリカは日本と組んで、やっとどっこいだと思います。

原爆投下をいまも正当化するアメリカ人

■戦後、ぼくはアメリカを日本の鑑のように見てきました。でも、その認識も、そろそろ賞味期限が来ている。そう思う出来事に、アメリカで幾つか出くわしました。一つは、広島と長崎の原爆投下についてです。アメリカ人の約80%が、戦争終結のために原爆は投下された、そのためにアメリカ兵は死なずにすんだ、と思っています。また、6割近い人たちが、「この原爆投下は正しかった」と正当化しています。

◆しかし、あの原爆投下で、兵士ではない一般市民が30数万人亡くなっています。これは立派な戦争犯罪だと思います。本当に、大統領は正規のルートに則って原爆投下を許可・指令したのかどうか。いまアメリカでは、太平洋戦争後の機密文書が次々公開されています。しかし、その書類は、まだ公開されていません。あるのかないのかも判りません。

◆そもそも「戦争終結のため」と言いますが、すでに日本側は敗戦を覚悟し、御前会議でも、ポツダム宣言を受け入れれば戦争は終わるというコンセンサスを得ていました。原爆を落とす必要が本当にあったのだろうか。そこには、戦後の世界分割というアメリカの思惑が働いたのではないか。そういう気がするのです。

◆原爆の製造をルーズベルト大統領に進言したのは、アインシュタインです。彼は、ドイツが原爆を作るのを恐れていました。しかし、そのドイツは「原爆はユダヤ人の科学」だとして、見向きしませんでした。ルーズベルトはマンハッタン計画を、太平洋戦争が始まってすぐに開始しています。しかし彼は、1945年、終戦の年に亡くなりました。次に登場したのがトルーマン大統領です。彼はポツダム会談で「8月15日前後に参戦する」とスターリンから聞き、戦後の世界分割に凄くナーバスになっていました。ソ連が参戦すると日本が共産化される恐れがある、その前になんとか戦争を終わらせたい。そう考えたのです。

◆人の命を救うため、と言ったトルーマンは、その後、原爆よりも遙かに破壊力の大きい水爆開発へと向かいます。終戦後、アメリカの統治下に置かれた沖縄は、世界最大の核貯蔵庫となり、冷戦時には1300発の核が置かれました。「核は持ち込まない」という約束の返還後も、密約により、いつでも持ち込めるよう、貯蔵庫はいまも日本政府によって保管されています。沖縄の核は、暗黙のうちに固定化されているのです。

日本独自の判断で核兵器禁止条約を

■昨年、国連で核兵器禁止条約が採択されました。しかし、アメリカなどの核保有国や、唯一の被爆国である日本は参加していません。「アメリカの顔色を見て……」は判りますが、いまからでも遅くはないから、日本は独自に判断すべきだと思います。

◆『ファーストアトミック』『昭和セピアモダン」『カネと自由と、文明末ニューヨーク』を書き終え、ぼくは自分なりに、日本の国や日本人の在り方が見えてきた気がします。戦後、アメリカは、戦前の日本の道徳や教育、歴史を断ち、物質主義、消費主義を優先させました。また、国家的商人として、安保や原発をも売り込みました。お蔭でぼくらは自由や民主主義を得ましたが、この「民主主義」は、アメリカナイズされた、「戦後民主主義」と専門家が呼ぶものです。それにより、自由や本来の民主主義を履き違えた言動に出くわすこともあります。

◆日本人の価値観は、「耐えること」や「言い訳をしないこと」だと言われます。戦後の復興する日本人の姿、震災などの大災害時に日本人が見せる秩序ある行動にも、それは現れています。武士は人間性の結晶で見事な芸術品だ、と西洋人は驚きました。でも、これは武士に限らず、日本人そのものです。司馬遼太郎さんは、「名こそ惜しけれ」とも表現していますが、これこそ武士の時代に作られた言葉だと思います。

◆武士は、元々は開拓民です。土地を開拓し、地域社会を発展させてきた百姓です。この武士たちが政権を取った鎌倉時代に、開拓者は始めて、土地の所有者として名前を刻むことが許されました。それまで、殆どの土地は天皇家や公家のものでした。耕した自分たちの名が刻まれる。それに感謝し、名前を汚さぬよう傷付けぬよう、土地の所有者として責任を持つ。同時に、公(おおやけ)の場所での発言も許されるようになって、「公の心」というものが生まれました。そういったところから、「名こそ惜しけれ」の精神が形作られていったと思います。

◆日本人は他人の目を気にする民族だ、といわれます。それは常に公の気持ち、つまり、自分中心ではなく、他の人から見てどうなのか、どのように映っているのか、を考えながら行動する民族性だ、ということです。日本は島国で、海外に憧れを持ちます。ぼくも神戸なんですが、子供の頃から海の向こうばかり見ていました。海外は、日本人にとって「外光」、外の光なんです。昔は、海の向こうから来る人々を「唐人神」と呼び、特別な人として扱いました。

日本、その地政学的な意味

■もちろん、外敵もやってきます。幕末の頃には攘夷論がありました。しかし、海の向こうで世界を見てきた人たちによって、結局は文明開化へと向かいます。仏教も海の向こうから伝わりました。この仏さんと、古来からある神様を習合させた、神仏習合ですね、これは日本にしかないメンタリティーだと思います。他の文化でも良いものは自分たちの文化に取り入れる。そういう、一神教的ワールドに拘らない柔軟性、寛容性を日本人は持っています。

◆いま、ビジネスの本場のニューヨークで、日本的な経営が見直されています。ビジネスという言葉を持ち込んだのは福沢諭吉ですが、それを定着させ、広めていったのは渋沢栄一です。若い頃、渋沢栄一はガチガチの攘夷論者でした。しかし、15代将軍慶喜の命で派遣されたフランス、パリ万博で見たものが日本の将来を決めました。その一つが合本主義です。これによって数多くの銀行や株式会社が生まれ、日本の資本主義を作り上げてゆきました。

◆渋沢栄一は、著書の『論語と算盤』の中で、道徳と経済は両立しなければならない、立派な経済人になる前に立派な社会人・人間でなければならない、と説いています。戦後、数々の企業の再生も行った、稲盛和夫という経営者がおります。この人も、「他の人に利益があれば、自分にも利益がある」とする公益資本主義です。会社は株主だけのものではなく、社会全体のものなんだ、という考え方ですね。この公益資本法が、次世代のリーダーを育てるケネディースクールでも見直されているのです。

◆文明的な流れは、これから東洋へ移ります。「東」で真っ先に浮かぶのが、インド、中国、ロシアです。それぞれに凄い存在感ですが、この3国は全て核保有国で、20世紀に戻ったようなガチガチのモダン主義、国家主義の国です。ここに北朝鮮が加われば、地政学的リスクはいっそう高まります。特定の地域における武力暴発や経済破綻が、世界の安全や経済に大きな影響を及ぼす。それが地政学的リスクですが、その中で一番重要な場所にいるのが日本です。

◆ここはアメリカ文明をしっかり受け止め、東の文明とも繋がりやすいポジションですが、同時に、アメリカのやり残しや負の遺産も受け継ぐことになります。いま直面している原発や核兵器、地球の温暖化、さらにはグローバル化によって生まれた格差。これらはいずれも、当面の経済政策ばかりを優先するトランプが放り投げたものです。これを日本は受け止め、アメリカの顔色を窺うことなく、自らの考えでしっかりと対処してゆく。そういう覚悟が求められていると思います。

ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ

■これからぼくらの社会はどういう方向に行くのか。それをIT賢者たちに訊きたくて、もう一度ぼくはシリコンバレーに行きました。いま、シリコンバレーではAIの開発を熱心にやっています。彼らによると、20年後には人間の労働の2、3割がAIに取って替わられるかも知れないそうです。その結果、人間は労働から解放されます。でも、同時に大失業時代がくるんじゃないか。それでいま、各国の政府はベーシックインカムの導入を考え始めています。

◆これは、何もしなくても政府からタダで貰えるお金です。年金や失業保険とは全く違い、国民1人当たり幾ら、という形で、生活保障みたいな形でくれるわけです。「お金の為に働くのではなく、もっと楽しいこと、創造的なことをやって、人生を豊かにして下さい」という、聞いていると夢のような話です。でも、ぼくは、仕事を通じていろんな人たちと出会い、コミュニケーションを取ってきた世代です。働かずにお金を貰える、となると、仕事に対する定義や価値観、人生観まで考え直さなければならなくなる。勤勉を美徳とする仕事人間が多いこの国で、これからは内面的な成長や社会共感などを考えながら暮らしてゆく時代が来るんだろうか、などと考えてしまうのです。

◆シリコンバレーでは、ぼくを励ましてくれる言葉にも出会いました。アップルの生みの親で、、iPhoneとかiPadをを開発したスティーブ・ジョブズは、56歳で亡くなりました。その彼が残した、「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」という言葉があります。これは彼が若い頃に読んだ雑誌の裏表紙に書かれていたものです。ジョブズは、この言葉を後生大事に持ち続けました。その後の仕事ぶりからみて、ぼくには彼が、「少々道を外れてもいいから、自分らしく生きろ」と言っている気がするんです。

◆いわゆる精神的な面、知的生産な面で、ぼくらも本当にハングリーでした。若い頃はゴルフに打ち込み、プロゴルファーになりたいと思ったこともあります。武道や釣り、フォルクローレに熱中し、人から見て、決してお利口な人生ではありません。「時代に媚びない」といっても、時代に乗り遅れたり先走ったりの、時流に乗れなかった人生です。とても人には話せない、恥ずべき人生だ、と自分では思っていました。けれど、このジョブズの言葉で、ちょっと救われた気分になりました。「誰のものか判らない人生を送るな」が彼の遺言ですが、ぼくにはとてもよく理解できます。

◆スティーブ・ジョブズは、若い頃から東洋、特に禅に憧れていました。あるとき彼は、「禅の極致を知りたい。禅寺にこもりたい」と申し出ます。しかし禅僧は、「禅寺にこもっても、あなたを見つけることはできない。あなたの内なる英知の中で見つけなさい」と諭すのです。禅には「無尽の縁」という宇宙感があります。尽きることのない縁、という意味ですね。宇宙には、一見、ばらばらに見える点がいくつもあり、それらが結び合って無尽の縁になる。それにジョブズは気付いたのではないか。その後の彼の仕事 iPhoneやiPadなどネットワーク社会の道具、を見ると、これはまさしく無尽の縁だと思います。

禅と、にこん

■ジョブズほどではありませんが、ぼくも禅に多少の縁があります。うちは代々天台宗で、よく比叡山につれて行かれました。若い頃、比叡山で修行の真似事をしている時、1人の雲水に出会いました。雲水は、一つの寺に限らず、全国を行脚する旅の禅僧です。彼からぼくは、「人間は帰るところがある。これが一番大事だ」と教えられました。帰るところのあるのが「旅」で、そこが放浪とは違う。また、「帰家穏座」という言葉も、この雲水から教わりました。「家に帰って穏やかに座る」の意味です。

◆人生で何かに躓いた時は、我が家に帰り、何も考えずにじっと座っていなさい、そうすると、やがて自分本来のものを取り戻すでしょう。と、そう言われました。禅とは、サンスクリット語で「ただ座る」という意味です。とは言っても、いまの世の中は文明末です。何が起こっても不思議はなく、異常が日常のような気がします。明日のことを考えると不安になり、過去を振り返れば後悔と反省ばかり。そこでぼくは、ちょっと「終活」というものをやってみようと思いました。

◆先人の作家が、「人間には人生という作品がある」との言葉を残していますが、文章にエピローグがあるように、人生にもエピローグがあります。「終活」は人生のエピローグみたいなもの。と言っても大それたモンじゃなく、いままで歩いてきた道を振り返り、これからゆく道をどうすればいいのか、を軽い気持ちで考える。そんな話をお寺でしたら、「而今」(にこん/じこん)という言葉を教えらました。「いま」という瞬間は二度とやってこない。だから、「いま」に集中して生きなさい。いま生きている、それだけで有り難いじゃないですか。というようなことを教わったのです。

◆「にこん」と聞くと、ぼくらはカメラのニコンを思い出します。写真は、その瞬間瞬間です。だから、ニコンはここからきたのではないか? ついでに、キャノンは英語で観音です。真実を見る目を持つ観音様。これも写真の世界にぴったりですね。終活では、「物を捨てる」という必要にもかられます。これもお寺で話し、「捨行」という言葉を教わりました。比叡山はとても修行の厳しいところですが、そこで最後に行うのが捨行だそうです。物だけではなく、人生のシガラミや人への恨み辛み、欲得も捨ててゆく。それが人生最後の修行だ、と言うんです。

◆ただぼくは、その時、「捨てる」より、「何か一つ残そう」「一つ残すとすれば何だろうか」と考えました。そうすることで、自分の来た道、行く道が1本に繋がる気がするのです。この終活は、ぼくら持ち時間の少なくなった人間だけではなく、若い人たちも節目節目にやればよい、と思います。物が少なくなって、シガラミも消えてゆく。身や心が軽くなれば、次のステップへ進み易いんです。そして、物が無いと、家族や次の世代の人たちにも迷惑がかかりません。

終わり方が大事

■「地球」という借り物を、ぼくらはキチンと元通りにして次の世代に返すべきだと思います。原発や核兵器、地球温暖化など20世紀のやり残しも、サッサと捨行しなければいけません。文明であれ、人生であれ、何にでも終わりはきます。この終わり方が大事で、それ次第で価値が決まる。そんな気がします。その意味で、いまの文明末は、地球的、人類的な一つの危機意識の現れではないか。危機意識は同時に新たなものを生み出しますが、トランプ現象も、そういった変革の一つだろうと思います。

◆行き過ぎたものは必ず元に戻ります。文明も創造と破壊の繰り返しで、創造のために破壊し、破壊のために創造してきました。終わりは始まりです。文明末を恐れることはない。また、何かの始まりなんだろう。むしろ期待感を込めた方がいいんじゃないか。そういう感覚で、ぼくは受け止めています。

◆しばらくアメリカを歩いてみて、この国は文明大国だ、とつくづく思います。一方、日本は文化国家です。海を越えて世界に通用する規範やマナー、ルールが「文明」だとすれば、「文化」はもう少し固有の、民族が伝え継ぎ守ってゆくもの。建築に置き換えると、文明はしっかりした骨格を造るための建築基準法、文化は自分らしい国を作り上げてゆくインテリアのような気がします。

◆ぼくは、ずっと旅を生業にしてきました。世界のあちこちへ行き、いろんな人たち、人生、文化に巡り会いました。そうやって自分の生きた時代を書き残してきましたが、現実に戻って、「いま、憲法改正とは?」「地球の温暖化とは?」「核なき世界とは?」と問いかけられると、立ち止まってしまいます。ああ、まだまだ自分は半人前だ、もっともっと知らなきゃいけない。先人の「歴史をやれ、旅をしろ」の言葉に従って、歴史と旅のタテとヨコの軸で定点を定めながら、これからも時空を超えた旅を続けなくてはならない。そういう気持ちになります。

◆いまのネット社会は、とても便利です。ぼくの『金と自由と、文明末ニューヨーク』という本も、ほとんど現地で書き、撮った写真と一緒にネットで送りました。日本に帰ってくる頃には、もうある程度、本は出来ている。いままで考えられないほど便利なんです。

ここは「帰家穏座」のような場所

■ここで話していると、自分の旅を一度リセットして、また次の旅を始めていこうかな、という意欲を駆り立てられます。ぼくにとって地平線会議は、「帰家穏座」のような場所だと思います。そうは言いながら、ぼくは人前で話すのがとても苦手です。上手に喋れないモドカシサを、いつも感じます。ところで、人間などの哺乳類は「イースト菌」のようなものを持っており、これが温かい人間性や柔らかい雰囲気を作り出しているそうです。頭の中で考えたことが言葉に発酵してゆくのも、皆さんから戴いた「イースト菌」のお蔭で、それでこうして喋れるんじゃないか。ぼくの話は「堅いパン」で「のどが渇く」と言われるんですけど、皆さんのイースト菌で柔らかく仕上げたいなあと思っています。今日の話は、ここで終わらせていただきます。

犬のアジリティー、そして地平線会議

■報告会後半、ちょっと早めのQ&Aが始まった。まず、ニュースにもなった昨年の大火が話題に。森田さんの滞在地ソノマがあるカリフォルニアは、17年10月、大きな山火事に見舞われた。消火作業は「砂漠でションベンするようなもの」で、雨や風向きが変わるのを待つだけの、想像を絶する規模だった。しかし、そこは更地から文明を興した国だ。立ち直りは迅速。人はもちろん、猫から馬まで、被災ペットたちにもシェルターでの手厚い救護やリハビリが用意されている。

◆そのソノマにはペットショップがない。犬が欲しい人は、シェルターへ行き、ペット側目線での飼い主敵性チェックを受けた上で、譲り受ける仕組みになっている。カリフォルニアでは、犬の障害物レース「アジリティー」が盛んに行われているという。「コースは水の中、トンネル、スラロームなどからなり、レース直前に発表されます。人間のみ30分だけ下見を許され、そこでコースを読み、イメージを組み立てます」という真剣勝負。

◆「本番で犬に出す指示も、口や手など、人によって方法は違う。が、「基本的に、その人と犬との心の通じ合いしかない」のだそうだ。一瞬でも人が迷えば、全力疾走していた犬は混乱し、止まるか、暴走してしまう。「犬の能力は凄い!」と森田さんが繰り返す、そんな犬の潜在能力を引き出すための競技が、アジリティーなのだ。

◆森田さんにとって、地平線会議は『第2の子宮』だという。その胎内にいた5年間、『地平線から』の初代編集長を務め、様々な人たちに話を聞き、新聞記事から原稿を起こしたりしたが、つねに「この人は、なんでこんな冒険するんだろう」の思いがあった。80年代に入り、世界は激動の時代を迎えた。ジッとしていられなくなった森田さんも、地平線を飛び出し、各国を駆け回るようになる。

◆「それを30何年やってきましたが、『現場に行ってものを書く』ことは地平線から受け継ぎました。ぼくはそこから産み出された。それが『子宮』という意味です」。 手書きの時代に鍛えられ、「昔は大きなペンダコがあった」という森田さんは、デジタル化し過ぎた社会の脆さを懸念し、「前の時代、カメラならフィルムの時代を知っていることも、地平線の存在価値の一つだ」と強調する。

◆シリコンバレーの、時代の先端をゆくIT業界の人たちは、いま、会社では働かないのだそうだ。仕事は家かどこかでやり、職場ではサークル活動やボランティア活動、あるいはマインドフルネスを行っている。「ITが進み過ぎ、そうでもしなければ、もう人間がついていけないから」なんだという。また、「人間の本能を見るのは難しいから、犬や猫の本能を見ている」との理由で、彼らはアジリティーにも興味を持っている。「ぼくは、『AIやるなら、DI(ドッグ・インテリジェンス)、CI(キャット・インテリジェンス)もやれ!』とIT研究者に言っている。そのくらい犬や猫の潜在能力は高い」「むしろ、人間はAIの方で失うものが多く、その心の隙を埋めてくれるのがCI、DIじゃないか」と森田さん。犬好きの多い地平線会議の中でも、犬に対するリスペクトでは誰も森田さんに敵わない。それだけに、その言葉には説得力がある。ただ、潜在能力を発現させたスーパードッグは、もうお気楽に遊んでくれないんじゃないか、と心配になるし、DIやCIが必要なほど心が虚ろになるAI社会自体、そもそも本末転倒なのかも知れない。

◆「むしろ、人間はAIの方で失うものが多く、その心の隙を埋めてくれるのがCI、DIじゃないか」等々の理由からだ。潜在能力を発現させたスーパードッグは気になるが、でも、もうお気楽に遊んでくれないんじゃないか。それに、DIやCIが必要なほど心が虚ろになるAI社会って、本末転倒じゃないの? そんな不安が頭をよぎる。

◆アユ釣り、習近平中国、とあちこち話が飛んだQAの終わり近く、「終活で物を捨てる基準は?」の車谷さんの問いに、森田さんが即答した。「もう一度使うだろうか、です」。で、その実際は「原稿と写真は全部パソコンに保存し、あとは、2年以上使っていないものは処分する。本や資料など、人から『これだけ纏まってれば、売るとかなりの金になるよ』と言われたものも捨てた」という徹底ぶり。そして、「身や心が軽くなる方を優先し、もし後で『あれがあれば』と後悔しても、それは自分が悪いと諦める」と覚悟も潔い。

◆ジャーナリストにとって、資料は命の次に大切なはず。あまりの本気度に唸ってしまったが、江本さん、丸山さんはそうでもなかったらしい。「車谷は私のことを心配してくれてるんだ」「(江本さんは)ゴミん中に埋まってんですよ」の、のどかなコメントが……。森田さんのいう「イースト菌効果」なのか、そんな砕けた柔らかな空気のうちに、この日の報告会は終了した。

文字起こし担当者独白

■あの『原健次の森』、理系のサイエンティストらしくテーマごとに整理され、見晴らし良く、初めての訪問者でも案内人なしで歩くことができた。一方、「森田靖郎の森」は哲学的で思索的。深い霧が立ちこめ、見通しは効かない。森田さんの後を追う我々は、しばしばその背中を見失ってしまう。また、我々ならサッサと通り過ぎる場所で足を止め、じっと考え込む姿に、戸惑いを覚えることもある。しかし、私たちが上っ面だけチラ見して結論を急いだ現象の奥底を、森田さんは見透かそうとしているのではないか。目を凝らし、時代のウネリのいずれが真実なのかを見極めようとしているのではないか。報告会の録音に耳を傾け、起こした文字を眺めていると、そんな思いに捕らわれる。これを短くまとめるのは不可能だ。というわけで、全文掲載。[身の回りのガラクタ全てが素材&インスピレーション源だ。捨てるものなどない!が生活信条の、エモ邸どころじゃないゴミ部屋に暮らす、後端技術研究家・久島弘

(Web版編集者・注)報告者の森田靖郎さんよりご指摘があり、報告会レポートの一部を修正しました。今回は制作の時間も乏しく、さらに忙しい森田さんを煩らわせても申し訳ないと思って、森田さんに目を通していただいかないまま地平線通信の制作を進めてしまいました。申し訳ありませんでした。

報告者のひとこと

自分史の、「器」

森田靖郎

 飛べない巣立ち──。70年安保後、魂の抜け殻のような失われた10年と言われた70年代、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」世情に、『あなたなら、どうする?』(いしだあゆみ)の流行歌が流れる。親鳥が殻を割れと嘴(くちばし)でつつくのに応え、ひな鳥がカラを割って出る“卒(口偏)啄同時(そったくどうじ)”、「このまま70年代を終わらせていいのか」と、行動的な詩人たちの、79年夏の地平──。

 “地平線会議”という得体の知れないネーミングにたどり着くまで、ぼくらは何度も自分たちの過去を語り、そして振り切るように背丈より高い踏み台に立って、地平線の彼方へ飛び立った。モノ書きとして飛び方も知らない半人前の、ぼくの巣立ちでもあった。

 「言い出しっぺは、何かやりたいことをやる」「やる以上は、続ける」「他の人のやることに口を出さない」地平線会議には、こんな気風があった。地平線報告会、地平線通信そして地平線放送と次々とプロジェクトが生み出されるなか、生来活字人間のぼくは、地平線年報という活字の世界に、居場所を探り当てた。

 年報『地平線から』は自転車の両輪のように、前輪(今年版)が動けば、後輪(来年版)が同時に動く。遮二無二に手書き原稿に向き合った3年間、気がつけば、少人数、短期間集中の少数精鋭でルーチン化していた。同時に、“地平線工房”になりつつある姿に疑問を感じ始め、5年間(79年版から83年版)で後任者に譲った。苦しいから作業を投げ出したわけでもない、後任者に押しつけたつもりもない。激動の80年代に、つねに現場に立ち、時代の目撃者でありたかった。

 歴史の裂け目、文明の衝突──。「六四(リュウスウ)」といわれた天安門事件(1989.6.4)後、民主化の嵐は東欧革命に火がつき、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体へと、戦後世界を二分させた冷戦時代が終結した。さらにアラブの春など民主化運動に引き継がれ、IS(イスラム国)の出現を生み出した。歴史の裂け目といわれた90年代、文明がその終焉をもがく衝突がはじまった。総力戦といわれた戦争と革命の20世紀は、タマゴを積み重ねた危うい状態“累卵(るいらん)”のように崩れ始めた。21世紀へ世紀越えを待ちかねたように、9・11同時多発テロは文明圏の争い、文明戦の始まりを告げた。標的となったワールド・トレードセンタービルは、ふたつの世界戦争によって巨大な資本主義王国を築いたロックフェラー家が「自由貿易による世界平和(ワールド・ピース・スルー・トレード)」をスローガンにした20世紀の象徴である。アメリカ文明の最大の産物である資本主義、民主主義への挑戦であった。これで20世紀は終わった。

 人生には、4つの住期があるという。ひたすら学業に励む学生期、家庭を築き、守る家住期、子育てや家族から解放され自由に生きる林住期そして社会、世間と離れ自然界に戻る遊行期というのがあるらしい。ぼくら戦後ニッポン人は、「耐えること、言い訳をしないこと」を価値観としてガムシャラに生き、“文化生活”を求めてきた。勤勉を美徳とする仕事人間は、成長神話を鵜呑みにし、余暇など自分の生活を豊かに過ごす“生活文化”をあまり重視してこなかったかもしれない。人生が熟し、酸いも甘いも知る林住期、“生活文化”にやっとたどり着いた昭和人間に、突然襲い掛かった文明の仕返しが3.11東日本大震災と福島原発事故だった。

 人生は砂時計──。3.11後。地球は人間の手に負えない何か大きなものに支配されている、それは文明かもしれない。「政官財」が金権、金満そして個人主義へと社会を間違った方向へ導いているとしたら、3.11は「天罰」ではなく「天怒」かと。核エネルギーで担保されるペラい未来神話などいらない。原発から直ちに卒業したドイツを訪れた。ドイツの森の案内人は、「生きてきた時間の積み重ねこそ、未来を拓いてくれる。過去こそ意味がある」と、砂時計を人生にたとえた。旧東ドイツ生まれの案内人は、「過去はすべてのことを永遠に留める金庫」だと言う。「ひっくり返すと、また新しい時間が始まる」と砂時計をなんどもひっくり返した。

 40年目の、旅の未来派たち──。生真面目で、野暮で、熱っぽく暑苦しい、しかも鈍くさい人間たち……、誰が言ったか地平線会議への最大の褒め言葉である。作家の井上ひさしさんは文化について、実にうまい表現をされている。「文化とは、第二の子宮」と。「母親の子宮内で養われ、生まれてからは家庭教育、環境、地域の教育、歴史やしきたりに影響され育つものだ」、そう言われると、「地平線は、第二の子宮」かと、言いたい。年報『地平線から』の編集に携わっていた5年間、ぼくは地平線の胎内で育てられていた。その後、社会の荒波にもまれ、一人前の人間になりたくて、いまもモノ書きを続けている。「ヒトはなぜ旅するのだろうか」という自問自答への答は、いまだ見つからない。迷路をさまよいながら、出口を探し求めて、旅を生業(なりわい)としてきたのかもしれない。ゲーテは言う。「ヒトが旅するのは到達するためではない。旅するためだ」と。40年前と変わることなく、ぼくらは「ヒトはなぜ旅するのか」を、生真面目に、暑苦しい空気のなかで、鈍くさいといわれながらも熱っぽく、語り続けていくのだろう。


ついに参加できた地平線報告会

■かねてより行きたいと思っていた地平線報告会に先日ようやく参加することができました。この日登壇された森田さんのお話は「歴史をやれ、旅をしろ」というテーマでした。明治維新から昭和、そして「文明末」とされる現代に至るまで、森田さんの引き出しの多さに圧倒されました。その中でも印象に残ったことが2つあります。

◆一つ目は「帰るところがあるのが旅。放浪とは違う。」という言葉。今まで旅と言いながら放浪していたわたしは、インプットだけでなくアウトプットの場を探していたのだと思います。そして放浪していた時はいろんな方に助けていただいたり、応援していただいたり、人のご恩を受ける一方だったわけですが、これから拠点を構えるにあたって、自分が今まで関わってきた人たち、これから関わっていく人たち、そして地球に対しても返していけることがたくさんあるのではないかととてもワクワクしています。

◆二つ目は「終わり方で価値が決まる」という言葉です。変革の時代と言われている現代。「終わり」というとどこかしらネガティヴなイメージを持たれることが多いですが、おわりははじまりというように、原発や核もきれいに終わらせて次の時代に移っていこうというポジティブなメッセージが心に残りました。最近聞いた「偉人は死に際で決まる」(キリストもブッダも死に際が美しかったから偉人になれた)という言葉にも通じるものがあって、自分の中でとても腑に落ちました。

◆二次会で参加されていた冒険家の方々や、地平線会議を引っ張ってきた方々とお話できたのもとても良かったです。そしてなによりも、続けることが苦手なわたしからしたら、このような会を40年間毎月欠かさず行なってきたということにただたた感銘を受けたのでした。

◆最後に自分のことを少し。大学では農学部で森林生態学の研究室に所属し、土や根っこの研究をしていました。その後某製紙メーカーで経理を担当し、パソコンをいじる日々に耐えきれず山梨に移住し、NPOで農業や環境教育の仕事をしていました。お米や野菜だけでなくお肉も自給したいと思い、狩猟免許を取り、わなで鹿をとってさばいて食べたりしていました。

◆そのうちもっといろんな世界の暮らしや文化がみたいと思い、2016年5月から1年間、北米と南米の8カ国を自転車で縦断しました。とりわけ各地のパーマカルチャー的な暮らしや昔からの伝統的な手仕事に興味があり、そういったところを中心にまわりました。海外を旅して行く中で、日本のことをもっと知りたいと思い、帰国後は旅の報告会をしながら今度は日本全国を自転車でまわりながら伝統文化や手仕事を見聞きして発信してきました。

◆その旅の終着地の大分で竹細工をしている方と出会い、春から一緒に暮らすことになったという次第です。これからどうやって行生きていくかという段階でご縁あってこのような運びとなったのはとても不思議なようで自然な感じでもありますし、旅で見聞きしたあれこれを実践する場、自分の帰る場があるというのはとてもありがたいことだと感じています。またお会いします。ありがとうございました。(青木麻耶 もうすぐ大分県民)


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