2017年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信458より
先月の報告会から

隊長はつらいよ

フーテンの和、ヒマラヤ、南極流れ旅

樋口和生

2017年5月26日 新宿区スポーツセンター

■風速50メートル近いブリザートが吹き荒れ、冬には気温マイナス36度に達する南極・昭和基地。越冬隊員30人は、途絶した白い大地で10ヵ月以上を観測に明け暮れる。「最大のミッションは、隊員全員をきっちり家族の元に返す」。第57次南極地域観測隊越冬隊長、樋口和生はさわやかな笑顔でそう口にする。だが、昨年3度目の南極に出発するまでには、意外な山ヤ遍歴があった……。

◆日曜夜のテレビ番組風にナレーションを書けばこんな感じだろうか。私が樋口さんの名前を知ったのは、2015年9月「ゾモTシャツ」のネット注文を受け付け始めてすぐのことだ。サンドと(いまは幻の)ローズウッドを札幌と立川に分けて1枚ずつ送ってほしいという不思議な注文があって、宛先を確認させてもらったのだった。マメな人らしく、その日のうちに返信があった。

◆次が翌年の8月。なんと「昭和基地の隊員にゾモTの注文を取った場合、『しらせ』の出航に間に合うか」との問い合わせ。なんとこの人、南極で越冬していたのだ。「無事届いたら昭和基地で記念撮影する」「越冬隊でゾモ1頭買うのもいいなどと話している」……結果、全員がゾモTを購入してくれることになり、秋に東京を出発した第58次隊が12月23日、57枚のゾモTを昭和基地に届けてくれた。

◆樋口さん、本当に南極にいるの?と思うほど、やりとりも振込もスムーズだった。私たちが疑ったためか、メッセージの最後にはこんな報告も。「ここのところよい天気が続いています。今日は海氷上に出て、積雪深と氷の厚さを測って旗を立て、旗の位置をGPSで測定したという作業の連続で、ルート工作を行なってきました。マイナス25度の寒さでしたが、日差しがあったのでそれほど寒くなかったです。ちゃんと南極にいますよ。」

◆さてその樋口さんがこの3月に帰国。満を持しての地平線報告会だ。用意されたスライドは286枚あるという。「妻は札幌に残し、立川市に単身赴任中。子供3人も成人して一家離散状態。とは言え、父親が家にいないのは昔から。趣味は山登り、山菜採り」と自己紹介が始まる。37年前の1980年「男は北へ行くべきだ。ギター1本担いで青函連絡船に乗るのが格好いい」と、北海道大学農学部畜産学科に入学して山岳部に出会ったのが樋口さんの山ヤ遍歴の始まりだ。

◆「山登りしているか酒飲んでいるか」の学生時代はあっという間に過ぎていった。スクリーンには当時の陽に灼けた若者たちの顔が並んでいる。入学早々に十勝連峰で合宿をしたときのものだそうだ。1980年ヒマラヤ東部のバルンツェ峰厳冬期初登頂に続き、1983年厳冬期ダウラギリ初登頂と華々しい成果を挙げた先輩たちはさっさと引退してしまい、樋口さんたち現役学生は1984年気楽にインドへ赴いて、ガンゴトリ山域のスダルシャン・パルバート峰(6,507m)に8人全員登頂した。インド隊に続く第2登だったという。

◆大学に戻った樋口さんだが、就職はまったく考えていなかったらしい。「どうしようかと思っていたら、ただでネパールに行ける話が転がり込んできて、それが『ランタンプラン』だった」。樋口青年の遍歴第2章の幕開け。2015年4月のネパール大地震で壊滅寸前になったランタン谷を支援するゾモTシャツをこんなに宣伝してくれた経緯がここでつながった。

◆調理や暖房のエネルギー源を薪に頼り、村周辺の樹木を次々に燃料にしてしまう。そんなランタン村を憂いた貞兼綾子さんは、沢の水を使った水力発電システムの導入をランタンプランの活動のひとつにした。貞兼さんのやり方は、設備を置いてきておしまい、というわけではない。設備を維持管理するのは村の人たちだし、そのためには段階的にこの試みを知ってもらう必要がある。「電気ってなんだろう」最初は小さなもので薪に代わるメリットを知ってもらい、そしてゆくゆく臼で粉を挽いたり、パンを焼いたりできるようなものにしたい。

◆1987年、樋口さんは北大を中心とする氷河の調査隊の一員としてランタン村を訪ね、半分は氷河上でのルート工作など調査チームのサポート、半分は貞兼さんの手足として村の人たちと川から水を水車に引っ張り込む工事に励んだ。そして1キロワットの発電機によって、ランタン村初の電球の明かりが本村から少し離れたキャンチェンにあった唯一のホテル、ゴンパ(寺)、観測小屋に灯った。落差10メートル、100W電球10個分しか発電できない規模だが、それでも電気を初めて知る村の人たちが感電したら大変だ。

◆スクリーンに投影される写真には幸島司郎さん、貞兼さんらランタンプランの面々も。ランタンプランの男どもはみんな貞兼さんの魔力にやられてしまったのだな、と想像する。その貞兼さんが「針金をペンチでなくても切れる人」として選んだ樋口さんについて語る。電気の勉強をしたこともない樋口さんが、中学の理科レベルの知識で村の人たちと取り組んだ。

◆同じ目線で村の若者たちに伝えたからこそ、ランタンプランが引き上げた後も村の人たちが発電設備を運営することができたのだという。「最初の足固めを樋口さんが立派にしたのが今日につながっている。人選は間違っていなかったと改めて思う。でもその後、山にあれだけ深く関わって、こんな人になるとは思いもよらなかった。まるで別の人の話を聞いているよう」と貞兼さん。

◆さて北大調査隊と別れてネパール放浪旅の樋口さん、トレッキング中のロッジで出会った米国人から「地元では『野外学校』をやっている」と聞きなれない言葉を耳にして、自分にもできるかもしれないと直感する。帰国してから就職してネクタイは締めてみたものの、ワイオミング州の野外学校でどんなことをやっているのか行ってみたり、仲間を募ったりして、1992年に「北海道自然体験学校NEOS」を立ち上げた。

◆NEOS、その後の「ねおす」のことを樋口さんはあまり説明しなかったが、樋口さんと高木晴光さんを中心に北海道で始まった試みは、やがて自然学校の枠をはみ出して社会実験とも言えるユニークなネットワークに発展していく。東日本大震災の救援ボランティアとしていち早く釜石に拠点を構え、ねおすのメンバーが日本中に情報発信していたことが思い出される(余談ながら3.11当時樋口さんは南極越冬中だったが、ふだん地震のない南極で震度計が振り切れるほどの揺れを観測したという)。

◆樋口さんは山岳ガイドとして北海道中の山々でツアーを開催した。単にピークを目指すだけではない。「知的登山のすすめ」をタイトルに講座とツアーを組み合わせたのが樋口流だった。樋口家の子供たち、その友人たちも山に連れて行った。2000年の「知床冒険キャンプ」では頂上直下で子供ひとりが喘息の発作を起こして動けなくなり、ヘリで救助されたことがあった。「それまでは自分の思い込みで子供たちをひっぱっていったんですね。目の前の人が死ぬかもしれないと思ったのはその時が初めてだった。子供たちの心や体に寄り添っていなかったと猛反省した」。

◆これをきっかけに樋口さんの登山ガイドとしてのスタイルが変わった。「深い自然に一緒に行って、何かを感じてもらえばいい。子供たちが将来壁にぶつかったときに知床の山の風景や沢の情景をちょっと思い出してもらえば十分」。「北海道雪崩事故防止研究会」は、そのNEOSの活動と並行して樋口さんが仲間たちと共に1991年に設立、いまも毎年、雪崩対策のセミナーや講習会を行っているボランティア団体だ。いまでこそ「雪山三種の神器」と言われるうちのひとつ、ビーコンはまだ普及の黎明期。それをいち早く北海道の山々で使いこなしていたのが樋口さんたちだった。文部省登山研修所(当時)で講師を務めたことから山本一夫さんに誘われ、日本山岳ガイド協会に雪崩対策技術のカリキュラムを作り、検定を始めた。

◆北海道では2007年3月、積丹岳で起きた雪崩事故をきっかけに、日本雪氷学会北海道支部の「雪氷災害調査チーム」に活動が発展。痛ましい雪崩遭難事故が起きるたびに研究者の積雪調査を、アウトドアのスペシャリストである山ヤが安全面でサポートしている。ランタン谷の氷河上で研究者を手伝った経験が、このときも生かされた。研究会は1996年に教科書として『最新雪崩学入門』も出版。この本はその後2015年、山と渓谷社から雪氷災害調査チームによる『山岳雪崩大全』としてアップデートされている。

◆一方でヒマラヤも忘れていない。学生時代のスダルシャン・パルバート峰に続いて、1992年に北大山の会・北大山岳部隊として挑んだのがアンナプルナの北側にある国境の山、ヒムルンヒマール(7,126m)。外国人がほとんど入っていない山域で、道中もまた楽しかったと樋口さんは話す。イムジャ・ツェ(アイランドピーク、6,189m)には2003年「ねおす登山隊」を率いて、メンバー8人を全員登頂させた。初めての海外ガイド登山。しかし、自分の力量ではこれ以上は続けられないと思い、仕事として高峰に登ることはやめたのだという。

◆その山ヤがなぜ南極に? 1992年9月の報告者でもある吉川謙二さんの「アンタークティックウォーク」(1991年)を札幌で手伝い始め、「後援会北海道支部長」を名乗り始めたのが南極への関心の始まり、だそうだ。自然学校、雪崩事故防止活動、ヒマラヤに熱中した10年を経て、樋口さんを南極に誘ったのは北大の先輩で国立極地研究所の白石和行さんだった。14次越冬隊から数度にわたって南極に通い、「権威」とも言える先輩が「南極観測隊の野外での安全管理が危機的だ。これからはプロの力が必要だ」と熱く樋口さんを説得した。

◆「山岳ガイドの経験を生かし、南極に貢献できる」「異分野に能力を広げられる」「地球環境問題にも貢献できる」と頭の中に作文が一気にできあがった、と樋口さんは言う。<行くしかない!>スクリーンに大きな文字が浮かんだ。とは言え、熱意だけですぐに観測隊員になれるわけではない。研究者とタッグを組み、南極で活かせる能力と実績をアピールするのが早道だ。

◆北大低温研の大学院生に登山技術を講習したり、国際コンソーシアム「国際南極大学」の実習を担当したり、カムチャツカ・イチンスキー山の氷河学術調査隊で危機管理を担当……。こうして樋口さんは山岳ガイドの技術を「実績」化していった。白石さんだけでなく、北大山岳部の仲間たちにも当時の樋口さんを南極に引っ張り込もうとする機運があったのではないだろうかと推測する。

◆2007年11月の公募に願書提出、2008年2月の面接で内定。さっそく3月には乗鞍で「冬訓」だ。5月の健康診断では大腸ポリープが見つかった。面接も初体験なら、入院、手術も生まれて初めてだったそうだ。この時点ではまだ「隊員候補者」。正式決定までは不安だったという。年や職種にもよるが、競争率はそれなりに高いらしい。その難関を乗り越えて、6月「夏訓」、8月正式採用、12月成田から出発して、樋口さんの初越冬が始まった。この第50次隊への参加に続き、52次、57次と通算4年以上の「南極暮らし」を経験することになる。

◆当初は野外活動のエキスパートとして、ついには隊長として3回の越冬に参加した樋口さん。他にはどんな人たちが参加しているのだろうか。57次隊は女性5名を含む30人で越冬。気象庁の5名など12名が観測研究を行い、17名の設営隊員がそれを支えているのだという。

◆越冬拠点の昭和基地は南極大陸ではなく、約4キロの海峡を隔てた東オングル島にある。厚い氷が張った海峡はふだんならば雪上車で行き来できるが、それでも年によっては海氷が流れてしまい、危険なこともある。道路のない南極。安心して観測隊員が雪上車やスノーモービルで通れるルートを選び、目印の旗を立て、GPSで記録して雪上に「見えない道路」を作るのが、「野外観測支援」担当の最初の仕事だ。例えば大陸の沿岸ではルッカリー(営巣地)数カ所でペンギンを数える「ペンギンセンサス」が続けられており、これを途切れさせないためにもルート確保は不可欠。ちなみに南極ルールではペンギン5メートル、アザラシは15メートルまでしか近づいてはいけないのだそうだ。

◆動物だけでなく、オーロラ、地磁気、ラジオゾンデと昭和基地での観測は多岐にわたる。10月には約250キロ離れたみずほ基地へ「旅行」が行われる。片道1週間がかりの大旅行だ。岩野祥子さんの報告でおなじみになったSM100雪上車の内部は広く、まるで小さなクルーザーのよう。雪上車で燃料、食糧、トイレそれぞれが積まれたソリを牽いていく。内陸でマイナス30度を経験すると、昭和基地のマイナス15度がかえって暖かく感じるのだという。

◆2016年4月には海峡に張った氷が流れ、基地からも海面が観測できるほどになった。10年ぶりのことだったそうだ。ドローンを活用して氷の動きを測り、野外での安全管理に生かした。安全管理と言えばブリザードで隊員の外出を制限する日数も多かった。南極は1年間ずっと雪との戦いです、とスクリーンには「愛車」パワーショベルで除雪する隊長の勇姿が。しかし時間切れでオーロラの動画が観られなかったのは残念。

◆一見楽しそうに見えるが、やはり「隊長」は大変でしたか?長野亮之介さんの質問に「出発前にはあまり頑張りすぎないようにしようと思っていたが、自分がこんなにも我慢強い人間だったことに後で気づいた。どちらかと言うと大変だった」と樋口さん。基地は快適になったが、自然は60年前と変わらない。広がっているのは、むしろ個人が持っている力とのギャップだと語る。

◆地平線報告会では吉川さんを始め、岩野さん、石井洋子さん、月風かおりさん、村上祐資さんとこれまで名だたる南極経験者が報告してきた。しかし「自分もひょっとしたら南極に行けるかも」とこれほどくすぐられた報告はなかったのではないか。樋口さん、「男は北へ行くべき」と言っていたのに、南極ばかりで北極に興味はないんですか? 恒例、瀧本柚妃ちゃんが椅子に立っての質問に樋口さんは苦笑。「寒いのに変わりはないんですよ……」針金を噛み切れるほどの隊長もさすがに歯切れが悪かった。(落合大祐


報告者のひとこと

地平線会議の場に集まる人たちは「人」が好きなんだろうな

■まずは、このような機会を与えていただいた江本さんをはじめ、地平線会議の方々にお礼を申し上げます。これまでやってきたことを自然体で話して欲しいというリクエストでしたが、地平線通信の過去の報告の内容を読むにつけ、地平線会議の場で私が話すべきことがあるのか心配でした。それでも、昭和基地にゾモTシャツを送っていただくなど、越冬中にお世話になった江本さんの依頼を無下に断るわけにも行かず、お引き受けすることにしました。

◆何を話そうかと思いあぐねて時が過ぎるなか、話を引き出すことが上手な長野さんから電話取材を受けるうちに、とにかくこれまでやってきたことを話し、それが今やっている仕事にどのようにつながったかを話そうと決めました。スライドを整理しながら話の構成を組み立てる作業を通して、改めてこれまでやってきたことを振り返ることができました。

◆ひとつひとつの活動はその時々で自分にとって大切なことだったり、やらなければならないと思い込んだりして進めてきたことで、その先を深く思い描いたり、何らかの哲学があってやっていたわけではありませんが、少し立ち止まって見直してみると不思議なことに一本の文脈が見え隠れしているように思えました。

◆作業を通じての気づきのひとつは、私の中の原体験のひとつが1987年のランタンプランだったこと、もうひとつはこれまで出会った多くの人に生かされてきたということでした。このふたつは常に自分の意識の中にあったものですが、それを改めて再認識することができたのは大きな収穫でした。

◆持ち時間が長いなあと思っていましたが、「2時間半なんてあっという間だよ」という江本さんの言葉通り、話し始めたら本当にあっという間に過ぎました。ただ、終わってみると、とりとめのない話をだらだらとしてしまったなとちょっと反省しています。そんな得体の知れないおっさんの話を興味深そうに聞いている会場の人たちを見て感じたのは、地平線会議の場に集まる人たちは「人」が好きなんだろうなということです。今回は私が一方的に話をしただけでしたが、これを機にここに集う得体の知れない人たちのことを私も知って行きたいと思った次第です。今後ともよろしくお願いします。(樋口和生


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