2016年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信453より
先月の報告会から

星に牽かれて乱海を渡る

光菅 修

2016年12月23日 新宿区スポーツセンター

■2016年を締めくくる報告会。久しぶりに足を運ぶ地平線古参のメンバーや、報告者のお仲間も多数集結し、会場は熱気ムンムン100名超えの盛況ぶり。この春、パラオからグアムまで約2500km、約2ヶ月間に及んだ航海に伝統航海カヌーの乗組員として参加した光菅修さんが航海中の海パン姿で登場。開口一番「私にとっては初めての航海でした」の発言には「え!? ぶっつけ本番だったんかーい!」と取り急ぎツッコまざるを得ない。幼少の頃から水恐怖症だった光菅さんは、なんと先月末に初めてクロールで25m泳げるようになったらしい……。

◆趣味はムエタイ、サーフィン、絵を描くこと。普段は海外の発電所や化学プラント建設に携わる会社の現場監督として、これまで中国、タイ、サハリン、ナイジェリアなどサラリーマン生活の6〜7割を海外赴任先で働いてきたという光菅さん。「今回は皆さんに航海の追体験をして貰えれば……」と航海中に口ずさんでいた歌と共にスライドショーが流れると、会場は辺り一面大海原に浮かぶカヌーの船上へと様変わり。その臨場感が聴衆を一気に航海の現場へと誘ってゆく。

◆古来から伝えられてきた、星の位置や海鳥の飛ぶ方角等を頼りに風や海のうねりを利用して島から島へと旅をする遠洋航海術は文明の発達と共に衰退の道を辿ってきたが、40年程前にミクロネシアのサタワル島の伝説のナビゲーターであるマウ・ピアイルグ(通称パパ・マウ)が門外不出の航海術をハワイの人達に伝授したことから、近年世界各地で息を吹き返し始めている(別名スターナビゲーションと呼ばれる)。

◆そのパパ・マウの息子のセサリオが今回の旅のカヌーのキャプテンを務める。初参加の光菅さんを含めクルーは10名。うちミクロネシア離島出身者はキャプテン・セサリオとその息子ディラン(若干7歳!)、ミヤーノ、アルビーノ、ノルマン。パラオ出身者のロドニーとムライス。アメリカ人女性のエリーと日本人女性のカズ。ベテランから数回と航海キャリアはさまざまで、皆英語が達者な面々だ。

◆カヌーの名は「マイス」(皆と分かち合うパンの実の意)。全長15mで推進力の要となる大きな帆と重量100kgの大きな舵が装備されたシンプルな構造。中央にはキッチン、両端にはバンクと呼ばれる寝床が8つあり、船上作業は朝夜のシフト制なので、最大乗組員は16名程。通常ハンモックで眠るが、船の揺れと噛み合わない為に酔ってしまうので光菅さんはずっと平らなナビゲーションシートの上で寝ていた。トイレ(大)は後方部の出っ張りに足をかけてロープを掴みながら用を足すのだが、嵐の日に催す際には命がけだった。

◆今回の航海は5月22日に開催される太平洋芸術祭に参加するため、ミクロネシアの離島6島を経由しながらグアムを目指した。カヌーの補修や食料の積み込みなどの準備期間を経て、3月15日昼過ぎ、パラオを出港。地元クルーの家族達がいつものように皆を見送るなか「実は一番怖かった」と光菅さん。最初にしたのは棄権証書の契約書へのサイン。航海中、仮に亡くなった場合には、簡単な水葬をして海に流しますという内容。ワクワク感よりも「出港したら戻れない。やっぱり止めようか。」との不安の方が大きく勝っていた。

◆パラオを出港して直ぐに光菅さんは後悔することとなる。船酔いが酷く3日目には全てを吐き出し、持参した1ヶ月分の酔い止め薬を呑むことを諦めた。島に寄り出港する度にぶり返すので島に寄るのが怖かったと話す。それでもとにかく海は蒼く、時に幻想的な満月の下をカヌーは進んでゆく。船上作業は教えてはもらえない。見よう見まねでロープワークやタッキング(何度も帆の位置を変える)を覚えた。

◆最初に目指したングルー島(パラオから350km)には10日程で到着。ここは一家族しか住んでいない島。たくさんの海鳥が繁殖する時間が止まっているような場所。島に一家族で暮らすってどんな人生なんだろう? 光菅さんの体はヘロヘロだったが上陸の際には “ここから別の世界が始まるような感覚” を覚えたという。島人にとってウミガメは貴重かつ大好物な食料で、燃やしたヤシの葉に生きたまま丸ごと焼べて豪快に調理する。

◆卵は大きいイクラのような味わいで、肉の部分は牛肉に似ているがにおいが強烈なんだそう。たまたまヤップ島から漁船が来ていたこのタイミングで光菅さんは「ここで旅を止めよう」と思った。会社に戻らなくてはならないし、船酔いも酷い。しかし翌日の出港までに頼む機会を逃してしまう光菅さん……。この先大丈夫だろうか?聞いているこちらもだんだん不安になってくる。

◆次に目指すのは700km離れたウォレアイ島。舵取りは必ず誰かが就いていなければならない重要な任務だ。舵の前にはコンパスが設置され、教えてもらった星の位置を見ながら大体の角度を合わせて覚えていく。例えばングルーから東方にあるウォレアイを目指す場合、カヌーを真北と南東へ交互に蛇行させる必要がある為、北極星とさそり座を目安に操舵する。次第に星をみることでずれている角度が少しづつわかるようになっていったと話す。

◆嵐は突然にやってきた。一週間程最大5mのうねりが続き、時々セイル(帆)を降ろさざるを得なかったが、その度にカヌーは南に流された。2011年にはマイスがパラオからウォレアイまで4日間で通過したというこの海域は、ングルーからウォレアイまで結局3週間も費やす最大の難所となった。さらに思わぬ事態は続く。それは嵐の少しおさまった時のこと。タープの張り直し作業をしていたノルマンが突風に煽られた拍子にロープを掴み損ねて海に落ちたのだ。その直後にアルビーノが海に飛び込んだ。

◆深夜のシフトを終え、うたた寝中だった光菅さんは最初は何が起きたかわからなかった。波間から顔だけ出しているノルマンは自力で泳ぐそぶりを見せず動かない(この時ノルマンは高血圧状態で意識が朦朧としていたらしい)。セサリオが号令をかけすぐさまセイルを降ろした。風はある程度おさまっていたもののセイルを降ろす数分間でカヌーは進み、ノルマンの姿は30m後ろに流されていた。うねりは大きく時々彼の頭が見えなくなる。

◆その瞬間、光菅さんは「ああ、彼はこのまま死ぬんだ」とあたり前のことのようにその死を受け入れていたという。「彼がいなくなったらこの先のシフトはどうなるのだろう?」と次にやるべきことを冷静に考えている自分がいたと振り返る。指示通りにセサリオに手渡したロープは海に投げ込まれ、スルスルと波間を流れていった。その時のロープの白さを光菅さんは今でも鮮明に覚えている。やがてアルビーノがノルマンの元へ辿り着き、彼らは無事に助け出された。瞬時の判断とチームワークで難を逃れたが「何かあれば簡単に死んでしまう」と痛感した出来事だった。

◆ここで一旦時計の針を戻し、光菅さんがこの航海に至った経緯を駆け足で。2000年に石川直樹さんのPole to Poleの新聞記事を見つけ、スターナビゲーションの響きに魅せられた光菅さん。同年、アフリカ縦断を終えた後に「現地の人と一緒に働きたい」との想いから今の会社に就職。2006年にハワイでマイスの建設のことを知り、セサリオに直接電話してカヌー作りの手伝いに参加した。

◆帰国の日、パパ・マウが言った「来年お前も航海に参加するんだろ?」。マイスをサタワル島に届ける旅のことだった。翌年には伴走船から完成したマイスの航海を間近で見届け、サタワル島ではセサリオがナビゲーターに選ばれた任命式に立ち会った。カヌーに乗れなかった光菅さんをパパ・マウは「俺が若かったらお前を乗せてやる」と労ってくれた。その言葉が嬉しく、帰途につく頃には「自分の関わったマイスに乗りたい!」という想いが強く沸き上がっていた。

◆2013年、マイスが沈没したとの知らせを受け、パラオに船の様子を見に行った際、「いつか航海に参加したい」とセサリオに自分の意思を伝えると、彼は快諾してくれたのだった。2015年、光菅さんは精神的にも身体的にもバランスを崩してしまいナイジェリアの現場から帰国し、医師からは長期休業を勧められた。その時2007年のサタワルへの航海以降、何度も読んだ「海辺のカフカ」の物語の登場人物に自分を重ねた。自信をなくしていた光菅さんは「社会復帰する為に自分の心と体が耐えられる状態になっていることを確認したい」その一心でこの航海への参加を決めたのだった……。

◆航海30日目、ウォレアイ島に上陸。ウォレアイ環礁では戦中7000名いた日本軍の守備隊のうち5000名が餓死している。滑走路や防空壕や零戦をはじめ、未だに島には旧日本軍の兵器の残骸が残っていた。発電所やミクロネシア唯一の高校があり、離島の中の都会のような雰囲気。ここでは島の女性達も腰巻き一つの上半身裸で暮らしている。パンの実やロブスターなどの島料理を食べては、毎晩ヤシ酒を呑む。

◆船出前のセレモニーではクルー達には花の冠と首飾りがあしらわれ、体中にターメリックパウダーを塗ってもらった。このパウダーは日焼け防止の役割も担うが、元来遺体に塗る死装束としての意味もあり、かつて先人達が決死の船旅をしていたことを物語っている。航海の無事を祈願して歌ってくれた女性達による美しい歌声のシンフォニーは言葉の意味はわからずとも心に響いた。

◆次のイフルーク島には一晩で到着。ここはノルマンの故郷で親族達が豚を潰して歓迎してくれた。この頃から光菅さんは島を離れて前を向き帆を上げると、後ろの島が瞬時に記憶に変わるような感覚を覚えた。それは精神バランスをとるために自然と身に付いた“後退せずに前を目指そう”とする意識の変化なのかもしれない。雨が降るとシャワーの準備を始めたり、途方も無く暇な時間の受け流し方なども習得し、光菅さんは心身ともに航海にだいぶ馴染んできた様子。

◆さらに5日間かけてエラトー島を経由し、ほど近いラモトレック島に着く。日本人の血を引く人も多いこの島には日本人のお墓もあった。タコノキの葉を使い伝統的なカヌーの帆を織るのは女性の仕事だ。今では2、3人しか担い手が遺されていないという貴重な現場。男達がヤシの実の繊維から紡いだ糸で帆を繋ぎ合わせて完成させていた。

◆サタワル島は2007年に続き2回目、今回はマイスに乗っての訪問。さすがは航海術発祥の島、舟を漕ぐたくさんの子供達が迎えにきてくれた。何時しか光菅さんのなかで “いくつかの海と嵐を越えなければ辿り着けない神聖な場所” となっていたサタワル島。念願の航路、時間の重み。「やっと自分はこの島に辿り着く資格を得た」という感慨がこみあげたと語る。パパ・マウは2010年に亡くなり、この島で眠っている。セサリオはマウの16人中14番目の兄弟で、マウの曾孫達で賑やかな大家族が暮らしていた。サタワル島だけ海抜が高く、遠くまで見渡せるが故に、この島の人達が遠くを目指す土壌になったのかもしれない。他の島人よりも好奇心が高く心の垣根が低いことから、パパ・マウがハワイに航海術を伝えたのも納得出来ると話す。

◆たくさんの人達に見送られ、一路サイパンを目指す。光菅さんは既にだいぶ力まずに舵が取れるようになり、自分と舟の一体感を楽しむほどになっていたのだそう。マリアナ海溝を越えるうねりの高い海域だったが、900kmを5日間で順調に走破してサイパン上陸を果たし、世界の縁から日常に戻って来れた安心感に包まれたという。サイパンには時間調整のため12日間滞在し、グアムまでの3日間の航海には新しいクルーが10名程乗り込んできた。海の写真を撮ったりしていたという光菅さんは、初めての長かった航海の旅の終わりに万感の想いを噛み締めてシャッターを切っていたことだろう。出航から68日目、マイスはついにグアム島に到着! 翌日の祭りに備えて沖合に停泊したのだった。

◆航海のお話しは終幕を迎えたと誰もが思った時、光菅さんは神妙な面持ちで立ち上がり静かに話し始めた。実はグアム上陸の日の未明にクルー全員にとってとても悲しい出来事が起こったこと。それは優しく頼りがいのあるかけがえのない一人の仲間の命を失ったこと。その顛末を絞り出すように語ってくれた光菅さんの震える声から、いまだ受け止めきれない感情と故人への感謝の念が充分に伝わってきた。光菅さんには話すべきかの葛藤があったようだが、報告会でこの航海の話の事実を伝えきることは、何よりも航海そのものにとって大切なことだったように僕には感じた。

◆光菅さんのナビゲーションにより、観衆一同が時空を超えるような航海に誘われた報告会。何と言っても緻密に編集された15本のスライドショーは、まるで自分も本当に一緒に旅をしているようで圧巻だった。日々刻々と変わる海や空や船上の風景。航海の時系列で結ばれた島々の写真群は、島ごとの暮らし振りの違いまで感じることが出来て楽しかった。光菅さんの口ずさんでいた歌からは、航海中の光菅さんの心情が伝わってくるようで素敵な演出だった。

◆「周りを海で囲まれた時、自分がどのように感じるのかを知りたかった」。光菅さんがこの航海参加に掲げた動機は驚く程にシンプルな想いだった。自分が憧れた旅(対象)に対して、自分の抱くイメージ(仮説)と、現実とのギャップを埋める旅(実証)。「目の前の “体験したい”ものを消化していきたい」その好奇心は「食欲に近い」との言葉になるほどと思った。

◆思い立ったら現場に直行し、ひたすら純粋に全身で感知する一瞬の感覚。その一つ一つこそが光菅さんにとっての旅の醍醐味なのだ。「実際には船酔いでそれどころではなかった」と苦笑する光菅さん。水の恐怖を克服し、過酷で濃密な本物の航海を乗り越えてゆく姿はまるで彼の人生の大切な通過儀礼を見ているようだった。これからもたくさんの人達に貴重で本物の現場体験を届けていって欲しいと願っている。(車谷建太)


報告者のひとこと

地平線会議で自分の旅の話をさせて頂くことは、学生時代からの夢でした

■この文章を僕は今New Yorkに向かう便の中で書いています。今飛行機は五大湖の上空を通過するところです。あと2時間もすれば、JFK空港に着くでしょう。昨夜の地平線会議について、正直うまく言葉が出ません。ただただ会場に来て下さったみなさんに感謝したいです。

◆ミクロネシアの航海が終わり、5月に帰国して、まず足を運んだのが地平線会議でした。その場で代表世話人の江本さんからもらった「(地平線を目指すものとして)立派になったな」という言葉は、一生忘れないと思います。地平線会議で自分の旅の話をさせて頂くことは、学生時代からの夢でした。その夢に応えるために、昨日まで準備をしてきました。

◆実は報告会用の原稿は最終的に40,000字程になり、練習をしてみたら案の定時間内に収まらなくて、かなり削りました。それでも、昨夜は時間内に収まらず、話し切れなかった内容もあり、ライヴの難しさを知りました。2時間半という長丁場で、自分の個人的な話を会場に来てくれた人達に楽しんでもらうことができるのか、正直不安もありました。でも、終わった後、「楽しかったよ」とか「すごくよかった」という声をたくさんの方に頂きました!! 本当にありがとうございます!!

◆スライドに合わせて選んだ楽曲も、たくさんの方に褒めて頂けて、それも嬉しかったです。今回、地平線会議の場だからこそ、できた話もありました。終わった後、江本さんからも、「いい報告だった」と褒めて頂きました。報告が終わった後の会場のみなさんから頂いた拍手の音は、これからも忘れることはないと思います。今は満足感でいっぱいです。次の地平線はまだ見えませんが、自分が興味を持てることを大切にし、一本一本糸を紡ぐようにこれからも行動していきたいと思います。改めて、昨日はありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。(光菅修


報告会を聞いて感じたこと

■今回お話を聞いて、僕は「この旅ができて無事に帰れて満足しましたか?」と質問しようと思っていました。ですが、最後のクルーの死の話を聞き、このような質問をするのはやめようと思いました。亡くなったクルーが、どんな時にも弱音を吐かず見えないところで支えてくれた、とても大切な人だということが伝わって、その時どんなに悲しかったかが僕にはわかりました。

◆カメの丸焼きのシーンが残酷でしたが、島の人には生きていくために必要なものです。でも、僕にはとても食べられそうにありません。出発の儀式で体に塗るターメリックパウダーには、死装束の意味があることを知り、おどろきました。航海の無事を、みんなが強く祈っているということを感じました。航海をして終わりではなく、おはか参りや、お礼を言いに再び島に訪れたところまでが、今回の旅だとおっしゃっていたことが心に残りました。(長岡祥太郎 小学5年)

手作りケーキ、喜んでもらえてよかったです

 「継続は力なり」 これは夫原健次が座右の銘として壁に残した言葉です。

 まさに38年も毎月欠かさず通信を発行し報告会を開いて来られた地平線会議の皆さまにある言葉でもあると思います。

 12月の報告会のために2か月前に江本さんから「お菓子作れますか?」とお電話が入っていました。そろそろそういうお電話があるのかなと思っていたそのタイミングでした。

 今回は皆さんが切り分けて食べやすいようにとオレンジケーキとブラウニー、ロールケーキそして柚子の皮の砂糖煮の4種でした。

 私の予想では50人分位を目途に送らせていただきましたが、当日は祭日でもあり遠くからも大勢の方々が光菅修さんの報告会を聴きに集まられたそうで、皆さんで小さくちいさく分け合って味わってくださったと聞きました。

 私も何度か報告会には参加させていただきましたが、毎回純真な大人の限りなき好奇心の発表の場に身を置くことの心地よさを感じました。

 そんな皆さんの夕方の空腹を少しでもやわらげ和やかな雰囲気作りに一役買うことが出来たでしょうか。

 これからも地平線会議が多くの方々を巻き込み続ける存在でありますよう、通信の届く日を楽しみに待っています。(宇都宮市 原典子)  


報告会の後、3人の見知らぬ方から原稿が届きました。どうやら光菅さん自身が、自分宛に寄せてくれた感想を一人で読んでいるんじゃもったいない、江本さんにも送ってくださいと、ネットで呼びかけたようです。全文を掲載するのは誌面の都合で難しいため、ほんのサワリだけ紹介します。(「……」の部分を省略しています)

◆報告会に行けて、本当に良かったです。お話、とても引き込まれました。なかでも最後のお話がとても印象的で、生と死について感じ、考えるきっかけをいただきました。「彼は、人生の最高の瞬間に自分の人生を終えたかったのかもしれない。でも、それなら僕は、これからの人生でもっと最高の瞬間をつくれることを証明したい」と光菅さんがおっしゃっていたのを聞いて。生きることも死ぬことも意思であり、本人の選択次第なんだということをあらためて考えました。

 ……その他のお話もとても楽しく、海、空、夕日、朝日、色鮮やかなレイ、島の人たちの澄んだ笑顔、写真が綺麗で、旅の最中に口ずさまれていたという選曲のBGMも心地よく、なんだか光菅さんの旅を追体験させてもらったような不思議な時間で、私もまた旅にでたくなりました。[秋山洋子


◆はじめまして。先週の地平線会議に出席させていただいた小島と申します。…発表者に任せきりではなく、スタッフさんがとても濃く関わっている姿が素晴らしいと思いました。発表中に投げかけていた質問もとても的を得たもので、長年の経験で培われたものなのだろうなとびっくりしました。たくさんの人の思いがこめられているのが伝わってきて、とても居心地のいい空間でした。

…光菅さんという方は、「人によく思われたい」「人にどう映るか」よりも、ありのままの自分をそのままさらけ出しているような、そんな印象を受けました。ムエタイやサーフィンなどチャレンジ精神旺盛な一方で、メンタルにやや不安定な部分もあり、アンバランスさを持った方ですね。ただ、あそこまで自分の内面をさらけ出せるのは、自己開示力が高く、自分自身が自分をきちんと受け入れているからなのかなと思いました。……[小島恵


◆はじめまして。…光菅君の大学時代の同級生で、一緒に美術部に所属していました。今は群馬で建築家をしています。…光菅の発表を聞き、彼が言葉を大切にしていることに感動しました。自分の身体の五感が感じたことを、なんとか言葉にし、聴衆に伝えようとしている。それは、武勇伝のようなものではなく、彼の口から出てきた等身大の体験談でした。自分自身を客観的に見、「〜と感じたのだと思います。」と述べる姿は、昔から変わりません。自らを物語の登場人物として語る故に、最初から最後まで聞き入り、小説を読んだような気持ちでした。

動画、写真、朗読といった、用意周到な彼の手法が彼の旅を追体験させ、波に揺られている心地でした。…光菅の「ぼーっとするのがうまくなってきた」という言葉に、立場は違えど共感しました。でも彼のそれは、感覚を研ぎ澄ませたその向こうに見える体験なのかもしれないとも思いました。……[藤野高志


to Home to Hokokukai
Jump to Home
Top of this Section