2015年7月の地平線報告会レポート


●地平線通信436より
先月の報告会から

一粒から一馬力へ

加藤大吾

2015年7月24日  榎町地域センター

 今回の報告会は、いくつかの点でいつもと比べて異例だった。まず、おなじみ新宿区スポーツセンターの会場は、報告者の加藤大吾さんの申し出により机が取り除かれ、椅子だけが弧を描くように並べられた。

 地平線会議は「地平線」の名の通り、国内外の彼方に出かけて行われる冒険や挑戦について語られることが多かった。ところが今回の報告者は、山梨県都留市という都心からバスでわずか80分の土地に暮らし、森の中に自作した家で、家族とともに、移動するよりはむしろ、深く根を張って生きている。

 冒頭、江本さんからこの点について前置きがあった。「今回の報告会はいつもと少し違う。だが僕は彼のやっていることもまた冒険だと思っている。地平線も435回を続け、いよいよこういう人も出てきたかという思いだ」と。

 加藤大吾、42歳。職業を問われれば、農家、大工、非常勤講師、ライター、NPO理事と多岐に及んでいる。妻と4人の子ども、さらには犬、ニワトリ、ヒツジ、そして1頭の馬とともに暮らしながら、生態系のなかに暮らしを位置づけることに挑戦し続けている。スライドを見せながら、その推移を順に追った話が始まった。

 東京・四ツ谷生まれ。2歳から6歳まで父の仕事の都合で青梅市で過ごしたものの、超都会っ子として幼少期を過ごした。

 小中学生時代は自転車旅行にあけくれ、高校に入ると一転、今度はラグビーにのめりこんだ。だが父と衝突し、1年ほどの家出を経験する。家に戻ったのは卒業間近だった。

 卒業後はスポーツの専門学校に進学。さまざまなアウトドアの基本を学び、ライフセーバーとして、人命救助の訓練を積むなど肉体面を鍛練した。

 1994年、NPO法人「国際自然大学校」に入社。自然体験を通して人間と自然、あるいは人と人との関係を学ぶ「環境教育」に出会った。

 やがて妻、美里さんと結婚し、2001年には長女が誕生する。02年、東京都世田谷区で主宰する事業、アースコンシャスを立ち上げた。03年には長野県飯山市に拠点を移して冒険学校の設立を始めたが、この事業が1年ほどで頓挫してしまう。

 04年、家族とともに東京に戻った。だが「今日は一度も土を踏んでいない」「雨のにおいがおかしい」と東京の暮らしに強烈な違和感をもった。「ここは自分たちの場所じゃない。自然のリズムの中で暮らしたい」。そう思わせたもう一つの理由に、長女陽(はる)ちゃんの存在があった。体重890グラムという超未熟児で生まれた陽ちゃんは右目が見えない。発達も遅かった。「子育ての場所として東京はふさわしいのだろうか」との思いがあった。

 企業向けの研修やCSR(企業の社会貢献活動)の企画実施などを生業とし、仕事がある日は東京で働き、休日には車にキャンプ道具を積み込み、関東周辺の移住先となりそうな土地を歩いて回った。理想の土地を見つけるまでには1年もの時間がかかったが、その時間は同時に、今後の将来について夫婦で話し合う時間にもなったという。奥多摩、房総半島、伊豆半島などをめぐり、たどりついた先が、現在も暮らす山梨県都留市だった。

 報告会はときおり突如として中断され、加藤さんは聴衆に、ここまでの報告について隣同士で話し合い、質問してほしいと投げかけた。異例の会場セッティングはこのためだった。大人たちが少々戸惑いながら顔を見合わせる中、明日からモンゴルに行くという少女の〓さんが、真っ先に手を挙げた。「山の中に暮らしていて、電気や水道はどうしているの?」地平線メンバーならではの実践的な質問だ。大人たちからも話の途中途中で、質問が出るようになった。

 スライドは原野の森を映した。40年ほど前に建てられ放置された古家が残る約660坪の山の斜面。もはや森にもどりつつあった荒地を再開拓することから「かとうさんち」は始まった。

 とはいえ加藤さんに、技術は何もなかった。インターネットで技術を学び、仲間の力を借りつつ、5×10メートルのログハウスが最初に出来上がった。

 2006年、まずはこの家に移住し、隣接する古家の改修作業が始まった。主な柱を残し、スケルトン状態にまで解体した後、廃材を寄せ集めて再生した。材料費としてかかった費用は約20万円という。え、まさか。会場からも思わず驚きの声が上がった。完成後、ログハウスはゲストハウスとなり、改修した古家が生活の場となっていく。

 農業も同時に始めていた。10年ほど放棄されていた田んぼを借りることに成功し、仲間とともに水田に戻した。初年度、合鴨農法にもかかわらず慣行農法と同様の収穫量を得ることができた。「あいつは米を作れる」。このことは移住してきた加藤家が、地域住民に受け入れられる第一歩となった。「農業ができるということは、田舎ではパソコンができることよりも重要な意味をもつ」と加藤さんはいう。

 野菜をつくり、米を作り、麦を育て、うどんをつくり、ラーメンをつくった。

 大豆の殻(枝豆のさや)は干してヒツジに与える。米の藁も与える。人間が使えないものを、肉やミルク、さらには羊毛といった人間が使える形に変えてくれる。

 小屋に藁を敷きつめておけば、床を発酵させることでにおいを防ぎ、糞尿や残渣も肥料として使うことができる。その堆肥でさらに作物を育てるというサイクルができる。

 さまざまな生き物がつくりだす生態系のサイクルを途切れさせずに循環させることで、人間はその循環の中から時々、恵みを得ることができる。「僕はこの仕組みこそ合理的な生き方だと感じた」という。

 「人間のうんちはどうするのですか? モンゴルでは家畜の糞を乾燥させて燃料にしているみたいです」モンゴル行きの少女からさらに質問が出た。おもわず大人たちから「いい質問だ!」と声が上がる。

 だが残念ながら日本では人間の糞尿を畑にまくことは法律で禁止されているそうだ。おしっこは問題ないとしても、うんちは医薬品を服用していれば残留成分が問題となる。不特定多数の訪問者が訪れる環境では、寄生虫の問題もあるそうだ。うんちについてはさらに質問が出た。「糞土師・井沢正名さんに学んだ地平線メンバーだけに、うんちについてはみんな放っておけないのだ」と江本さんが補足する。

 加藤さんの暮らしが少しずつ変化し、生態系の中に位置づけられるようになると同時に、育てる作物や動物も少しずつ変化していった。

 たとえば大豆の生産。埼玉県で育てられてきた在来品種「借金なし大豆」。雑草をとらずに放置して育てると、強いものだけが生き残る。世代を重ねるごとに、ついに雑草に負けないものだけが生き残っていったという。

 養鶏場から導入したニワトリは最初、産卵率が落ちないよう、卵を抱かないように慣らされていた。だがさまざまな品種と掛け合わせ、世代を重ねるうちに、次第に卵を抱くことを思い出していった。

 犬たちは人間は目が利かなくなる夜に、近づくイノシシを警戒し、蛇などを退治してくれるようにもなった。

 実は私は加藤さんが2010年11月に出版した著書『地球に暮らそう〜生態系の中に生きるという選択肢〜』のお手伝いをさせていただいた。東京や都留で何度も打ち合わせを重ねるなかで、農業、薪ストーブ、狩猟など毎回、話を聞くたびに新鮮な驚きがあった。だがそれよりも、訪れるたびに加藤さんの暮らしがいつも進化し、前へ前へと進んでいたことが、私の関心を引き付けた。どこにいくのか一緒に見てみたい。そう思った。

 実質的には自費出版で、リトルプレス(小規模出版)としては異例の初版4千部を全ページカラー印刷した。大量の在庫が残ることも心配されたが、杞憂に終わった。2014年には改訂・増刷が決まり、同年には台湾で翻訳本も出版された。現在、同書の続編を編集中であり、今秋にも上梓される予定だ。

 生態系の中に暮らすようになるにつれて、加藤家の幸福感は増していったという。でも次第に、自分たちだけが幸せになるだけでは本当の幸せにはたどりつけないことを感じるようになった。

 たとえば子どもは学校に通う。「学校の質が上がらなければ、幸せにはなれない。地域の子どもたちや、ひいては都留市全体が幸せにならないと、本当に幸せにはなれない。そう感じるようになっていった」という。

 街を変えよう。そんな思いから、2010年2月にNPO法人「都留環境フォーラム」を設立し、環境を意識した街づくり活動をはじめていく。現在の主な事業内容は、(日)在来作物の普及活動(月)馬耕文化の復活(火)里山暮らしワークショップ(農業や大工)だ。

 なかでも最近、メディアでも注目されるのが馬耕だ。現在の日本では、有機栽培農家であってもトラクターを使って耕作を行うため、石油にたよって生産をしている。「もし、くわ一本で耕そうとすると、1日あたり2反くらいで限界。さらにできた作物の移動はどうする? 徒歩か?」

 そこで馬が候補に挙がる。アメリカのクオーターホースと日本の在来馬・道産子の掛け合わせ。特徴のひとつは、笹や雑草を食べてくれること。えさ代はあまりかからないという。もちろん馬糞は田んぼで使える。

 馬耕の復活はまだ道半ばというが、報告会当日も馬についてはずいぶんと具体的な質問が出た。

 また最近は、JICA(国際協力機構)を通して海外の人が視察に訪れるようになった。先進国・日本に、最先端技術を視察しにきた人たちにとって、山の中で暮らす日本人の存在は新鮮な経験になるようだ。

 「こんな日本人もいるのか」「ここはおじいちゃんの家と一緒だ」と言われるという。そんなとき加藤さんは問いかける。「何を大切にしたらあなたは幸せになるでしょうか?」。

 報告会でも同じ質問が聴衆に問いかけられた。「子ども」「家族」「文化」「ご先祖様」「自然」などと答えが出る。

 その上で「あなたの国が豊かになるためには何が必要か」と改めて問うと、彼らの意見は揺れる。「経済発展や、開発が必要」という意見と「自然や文化、伝統を守るべき」という意見。かなり白熱するという。

 加藤さんはいま、「ここに、何かヒントがありそうだ」と感じているという。彼らだけの問題ではなく、日本人もまた問われている。前号の地平線通信の予告欄には加藤さんの報告について「ポスト311の時代の農的暮らし」と表現されていた。経済的発展のピークを超え、大きな災害によって生き方が問われ、ダウンサイジングに向かういま、どうしたら幸せになれるのか。

 加藤さんが投げかけるもの。それは前述の著書のサブタイトルにもあるように「選択肢」を提示していることだ。誰もが加藤さんのような暮らしを始めるのは難しい。でも加藤さんの家を訪ね、農的暮らしの知恵を知ると、これなら自分でもできるかもと思うことが必ずある。

 私は今年、加藤さんからもらった種をまき、カボチャとインゲンが大きく育った。5歳の娘はそれを収穫し、はじめて「胡麻和え」を作ってドヤ顔だった。都会で暮らしていても、ちょっとだけ「生態系の中に生きる」を取り入れることは、まだまだできそうだと思った。(今井尚


報告者のひとこと

安全なところから、心を打つような言葉は生まれてこないだろう
   ──よくある質問に対する僕の逆襲

 僕は、山梨県都留市に移り住んで、「生態系の中に暮らす」という挑戦を続けてきた。森を開拓し、斜面を整地し、基礎を打ち、家を建てて移住した。すべて仲間と共に手作り、もちろん、電気、水道、ガス、すべてのライフラインを作ってきた。これと同じように、畑も田んぼも、子供の教育もだ。

 ここ数年で、こういった話を人の前でさせてもらえるようになってきた。決まって、いつもの質問が大半を占める。今日は、そこに対する僕の逆襲をしてみたい。

 大抵の質問は、今の日本の社会背景を反映している。なんだか日本国民が持つ、刷り込まれてきた常識を感じることがある。

 大抵の最初の質問はこれだ。「建築や農をどこで学んだのですか?」もちろん、僕にそんな経験はない。この質問の背景は何か?「教えてもらうということに慣れすぎている」ということだと思う。「教えてもらうよりも、如何に学ぶか?」が、大事で、学びの主人公は自分だ。自分で必要なことを学べばいい。そもそも、自分しか学びたいことの確信の部分を知らない。そして、「準備万端にしないと動き出さない」という、もう一つの背景も見え隠れする。僕にとって、今持っている知識や能力はどうでもいい。身につけてしまえばいい。そもそも、何かをやってみないと何を学んでいいか、なんてわからない。これが真実だと思う。

 最後の方で出てくる質問は「奥さんがすごい。いったいどんな奥さんなんですか?」いつも、僕は心の中で思ってしまう「そんなに奥さんに縛られて、抑圧されてるの?」僕が様々な冒険(移住、家畜導入、新たな建築など)に出るとき、どれほど、慎重に、そして大胆にその魅力を話し、相談し、理解を求め、日頃から家族に尽くしているか。やることをやらなければ、家族といえど持続することは難しい。家内もすごいのだけれど、僕の家庭を思う気持ちはもちろんのこと、家庭教育も最善を尽くしているのだ。自分がしていないことを棚に上げて、奥さんがすごい? 一体なんなんだ? 自分に非はなく「どうせ理解してくれない」「冒険に出られないのは奥さんの理解力の不足が原因だ」とでも言うのか? ことが運ぶように周辺環境を整えていくのは冒険の基本だろう。そう思うのだ。だから、次にお会いした時の質問は「どれだけ家族に尽くしているのですか?」を期待している。

 僕はできのいい脳みそを持っていない。そして、スムースにことが運ぶことは少ない気がする。数え切れないほどの失敗を重ねてきた。その中で学びつづけ、自分で体得した知恵を蓄えてきた。理想とする世界を手に入れるには信じ続けることが必須だと思う。如何に自分を信じ込ますことだできるか? ただそれだけがあれば十分だと思う。「夢はなんですか?」っという質問も多い。いつもは、その辺りにある何か「来年はこうして、こうして、」っと答えているけれど、実直に答えるとするなら「いや、現実ですから」っと、なってしまう。なぜなら、すべては実現するからだ。

 安全なところから、心を打つような言葉は生まれてこないだろう。僕は実践者として生態系の中に暮らし続け、僕の本能や衝動のままに、自分に素直に、抑圧をすり抜けて自由に、やりたいことだけをやって生きていく。そういう生き方、暮らし方で、幸せに生きていけるというモデルとなり、自分自身の人生を提示する。次の世界には個人や地域の個性が十分に発揮されて、暮らしぶりの多様性が世界に広がっていくのだ。(加藤大吾


加藤大吾さんの話にボリビアのバイク屋さんを思い出した

■かつて南米ボリビアで、ツーリングに使用していたバイクのスピードメーターケーブルのギアの歯が全部飛んでしまったことがあった。もうこれは北米からパーツを取り寄せるしかない、と、青くなっていたら、バイク屋さんが「ないなら作ればいい」と言って鉄の塊を削ってギアを作り出してしまった。まさに、目からうろこ、の瞬間だった。

◆その時は真理を見つけたような気分だったが、いざ日本に帰ると、その真理を使う機会がない。日常生活の中で何かの部品を作ろうなんて考えないし、もし作れば余計にお金も時間もかかる。結局、そんな日々を積み重ねると、自ら何かを創造することもなく、もう「作ろう」という発想すらできない。報告会の加藤大吾さんの話を聞きながら、そんなことを思い出していた。

◆江本さんが、自然の中に自らの思い描いた理想郷を作り出していく加藤さんの姿を「これも冒険だと思う」とつぶやいていたが、まったく同感だ。惹かれるのは「常識」とされていることを鵜呑みにしないで、一つ一つ忍耐強く、それが事実かを自分で確認していくこと。家は本当に素人が建てられないのか? 無農薬では本当に作物は育たないのか? きっと周りから何をバカなことを言っている、と、言われたに違いない。

◆しかし結果を出していけば周りは認めざるを得ない。自分の理想郷を作るのだ。それも自分たちだけが良ければいいという偏狭な理想郷でなく、持続可能で周囲にも自分たちが試行錯誤の末に見つけたものを還元し、共生し、世の中に広げていくための理想郷なのだ。貴重な報告会。もっと大勢の仲間に聞いてほしい。(世界一周ライダー 坪井伸吾


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