2015年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信430より
先月の報告会から

キューバの呪い

白根全

2015年1月23日  榎町地域センター

■2014年12月17日、1961年以来54年ぶりに、アメリカがキューバとの国交回復を宣言した。この報道の瞬間に決定した今回の登壇者は、1989年からキューバに29回渡航している白根全氏だ。キューバの魔力に憑りつかれ、キューリとバナナを見ても「キューバ」を連想してしまう「キューバの呪い」にはまったという全さん。症状の一つに、「キューバを知らずして世界を語るべからず」と言いたくなることがあるという。

◆キューバを知るにはまず、「歴史」の把握が欠かせない。1492年にコロンブスが第一回目の航海でカリブ海の島々を「発見」。キューバにはさっそくサトウキビが持ち込まれ、ひたすらスペインのための「砂糖工場」となる。こき使われた先住民は、外来の病原菌などによってほぼ全滅。かわりの労働力に、奴隷貿易でアフリカから黒人が連れて来られた。

◆19世紀末になり、キューバが誇る詩人ホセ・マルティの指揮で独立闘争が起きるが、米国がこれに介入。1902年に独立したものの、米国の傀儡政権に支配された。首都ハバナは米国マフィアが牛耳る賭博、麻薬、売春の温床となり、独裁者バチスタがその上前で私腹を肥やしていた。

◆この腐敗に「許せん」と立ち上がったのが、若き弁護士、フィデル・カストロである。1953年、カストロはカーニバルのどさくさに紛れて武装蜂起を試みた。あえなく失敗して処刑されかけるが、裁判の際の自己弁護がかの有名な「歴史は私に無罪を宣告するであろう」という演説だ。全さんによると世に三大自己弁護がある。ネルソン・マンデラによるアパルトヘイトへの抗議、マハトマ・ガンディーによる英国のインド植民地支配の不当性の訴え、そしてこの時のカストロである。

◆恩赦を得たカストロはメキシコに亡命後、チェ・ゲバラに出会い、チェを含む82人の同志と再び打倒バチスタに向かった。返り討ちに遭いわずか12人しか生き残らなかったが、「これで勝った」と喜んだというのが「カストロのキャラそのもの」だ。ゲリラ戦の末、1959年、ついにバチスタは国外逃亡し、革命が成功した。砂糖成金たちはこぞってマイアミに亡命。今日に続く反カストロ勢力を形成する。米国はキューバとの国交を断絶した。

◆カストロが革命後に国内で最初にしたことは、農村の識字率向上だ。加えて、村々に電気を行き渡らせ、配給制度、無償の医療・教育制度を整えた。米国に経済封鎖を受けたキューバは、ソ連からの支援によってこうした社会保障を維持した。ところが、1991年にソ連崩壊。物資もエネルギーも断たれたキューバは、非常事態に追い込まれる。「この頃、キューバは半年でつぶれるだろうと世界中に言われていた。本当に町中で痩せた人が目立つような、そんな時代でした」。全さんが当時撮影した、「なんとか食わなきゃ」と車のタイヤをボートにして釣りに行く人々の写真がリアルである。

◆非常事態を生き延びるために政府が取った方策の一つが、中国からの自転車の大量輸入であった(江本氏は「そのころ北京から自転車がなくなった」と証言)。自転車はガソリンなしで動くし、健康に良く、排気ガスが出ないから環境にもいいというわけだ。また、テレビでは『おしん』が放映された。「あの日本ですらこんな時代があったんだから我慢してがんばれという宣伝」だ。視聴率はなんと98.5%。「みんな涙を浮かべながらマジになって見て、『おしん』の放映時間は町を歩いてる人がいないぐらい」だったという。

◆さらに、自給自足を目指して有機農業を導入。ベランダなどを利用し、都市部でほぼ自給できるまで広まった。とはいえ、経済は困窮を極めていた。亡命者は急増。国内に残った人も、1993年の夏、革命後初めての反政府暴動を起こす。全さんはその現場に居合わせた。石を投げ合ったり、外国人が泊まるホテルのガラスをぶち割ったりするのを目撃したという。不満が頂点に達したきっかけは、全さんが感じたところでは、停電で扇風機も使えない暑さだったとか。

◆政府はやむを得ず外貨所持を自由化し、次いで個人営業を認可。途端に、外国人にもらう数ドルのチップの価値が公務員の月給を超えた。「1989年には国営企業で働く従業員が94%だったが、2000年には80%弱にまで減る。なんとか平等を目指していたはずのキューバが、ずんずんと格差社会になっていく」。それでも政府は個人営業に制限を設け、なんとか格差を食い止めようとやりくりした。米国は、あくまで社会主義体制を維持するキューバと徹底的に対立した。

◆米国を敵に回したキューバは、世界各国への国際協力によって安全保障を築いてきた。たとえば、医療水準の高いキューバから途上国に医師を派遣したり、医学留学生を国費で受け入れたり、チェルノブイリで被爆した子どもを招待して治療するなどの支援を続けている。特に、ベネズエラのチャベス大統領は「カストロの弟子みたいな存在」で、関係が深かった。カストロはベネズエラの無医村に医師を派遣し、チャベスは原油を提供した。

◆こうして、経済封鎖に苦しめられながらも、医療や教育が無償で子どもが飢えない体制を貫いてきたキューバ。さて、米国はなぜ今、国交回復に踏み込んだのか。キューバを取り巻く情勢を見ると、米国では従来、「ヒゲのカストロがお隠れになるまで待ちの状態、カストロさえいなくなれば後は別に敵対する必要はない」という姿勢だった。しかし「アラブの春」に続き、CIAの工作のもと、SNSを使った「ハバナの春」が画策されていたことが2014年に発覚。同じ頃、カナダとバチカンの仲介による国交正常化交渉も秘密裡に進められていた。「キューバをつぶせ」という転覆活動と、「経済的にうまく利用しよう」という根回しが、同時に動いていたという。

◆一方、ロシアのプーチンは2014年夏にキューバを訪問。キューバの対外債務の9割方(約3兆1000億円)を帳消しにするかわり、キューバの軍事基地を再使用するという協定を結んだ。軍事偵察衛星打ち上げのモニターなど、キューバの地理はロシアにとって依然として利用価値があるのだ。中国の習近平もその2週間後にキューバを訪問し、港や鉄道への全額投資を申し出た。アメリカに対抗し、南米に経済的影響力を及ぼす拠点としてキューバを利用しようという狙いだ。

◆生臭い三つ巴の中での国交回復。今後キューバはどうなるのか。全さんによると、一つには、米国に亡命した元キューバ人が祖国に戻り、「この土地は俺のものだ」と主張し始めることが考えられる。すると、「キューバ政府がなんといおうと、とにかく半額でもいいから売ってやるというやつが必ず出て来る」ことになり、混乱が予想される。

◆また、キューバ人は「カリブ海のユダヤ人」といわれるほど商才に長け、コカコーラやケロッグなどの米国企業の経営者にはキューバ系が多いという。米国資本や観光客が増えれば、「否応なしに格差が広がる」。キューバではペソとCUC(外貨兌換券)の二重通貨制を取っているが、2015年2月からCUCの高額紙幣(40ドル相当)の流通が開始する。「どれだけの国民がこの変化についていけるのか」。スライドには、配給で提供されるバースデーケーキを囲んで無邪気に笑う人々が映し出された。

◆対外的には、米国のすぐ隣で帝国主義に抗って生き続けてきたキューバは、南米や世界の途上国の精神的・物理的な希望となってきた。南米の多くの国ではこの先5年は左派政権が続く見込みだが、もしキューバが米国にすり寄れば、周辺国から顰蹙を買う可能性もあるという。

◆さらに、全さんが特に気にするのは、黒人の立場だ。革命後のキューバは、人種差別を撤廃してきた。「それがこの先、黒人が初めて差別されるという経験をしていくのではないか」。米国では白人警官が無抵抗の黒人を殺害するような事件が起きている。もしそうした攻撃に晒されれば、「黒人が自分達を守る手段として社会主義を支持する」こともあり得ると全さんは考える。

◆キューバがこれまで体制を維持できたのは、カストロの絶大なカリスマの威力が大きい。「わりとユーモアたっぷりな愛すべきキャラ」だ。ただ一度、2000年に米国フォーブス誌がカストロを「個人資産を蓄えている世界の独裁者の長者番付」に挙げた時は、「頭から湯気出して激怒した」。「証明できたら俺はその場で辞任する」と怒鳴りまくった。それだけ清貧の人でもある。

◆2008年からは弟ラウルが政権を引き継いだが、「やっぱりカストロじゃなきゃ、というのはどうしようもなくある」と全さんは見る。「ネルソン・マンデラが亡くなった後、20世紀を生き抜いてきた巨人と名の付く政治家の最後の一人」だ。プーチンも習近平もカストロに会って目を潤ませていたという。日本の政治家でも「ガチガチな右の人が、カストロと握手するために何時間でも待った」。「そのぐらいとんでもない存在」である。

◆しかし、キューバにカストロの銅像は一つもない。「抜群の政治センス」により、個人崇拝を憲法で禁止しているのだ。チェ・ゲバラの銅像が一つあるだけ。カストロは体制維持の担当、英雄のアイコンはチェ、という役割分担だという。そのチェはボリビアで革命闘争に倒れたのだが、1997年に遺体が発掘され、キューバに返還された。恵谷治さんとともに追悼式を訪れた全さんが見たのは、小学生からお年寄りまで何万人という人がお別れに詰めかけ、棺を見送る姿だった。招集されたのではなく、自発的に並んでいたという。「それだけ慕われていたんですね」。

◆また、裏通りで撮ったキューバ人家族の写真を見ながら全さん曰く、「キューバの素敵なところは、子どもがみんな幸せそうだな、と」。他の南米諸国と決定的に違うのは、ストリートチルドレンもホームレスもいないこと。GDPが一人年間300ドルなどと言われるが、その数値には表れない教育や医療の恩恵も含めて正当に評価する必要があるはず、と全さんは指摘する。しかし、2014年に再訪すると、裏通りのキューバ人の家は半壊し、家族の半数はそれぞれ外国に亡命していた。コミュニティの維持すら難しくなっている現実もある。

◆これらを踏まえて全さんは、「充分ではないにしろ貧富の差を最低限に抑える努力をしてきたキューバは、これから先も世界のモデルとなり得る」、「儲かればオッケーという話になりがちな中で、それが全部ではないんだぞ、と身を持って示していてくれるキューバがどうしても気になる、というのが結局はキューバの呪いなわけですね」と語る。

◆「キューバ革命という存在、アメリカのすぐそばで革命を起こし、それをえんえんと維持し続け、アメリカに対抗し続けられてきたことを世界史の中でどう位置づけるべきなのか」。米国との国交回復がもたらす変化に注目し続ける必要があるという。

◆キューバは切り口によって見え方がまったく異なる国だ。語り手の目線が問われるだけに、話すのがつらくてしょうがないと漏らしていた全さん。最後に、「超レアもの」というカストロとヘミングウェイのツーショット生写真を「私の宝物」として紹介した。この時ばかりは楽しそうであった。(福田晴子 修論を出し終え、ホッとしたら風邪ひき)


報告者のひとこと

ますますキューバに呪われたような気がしてきた

■CIAが関与したカストロ暗殺計画は合計638回にも及び、もちろんそのすべては失敗や未遂に終わっている。「世界でもっとも生命を狙われた人物」として、2011年ギネスブックに掲載されたほどに憎まれた存在でありながら、そのカリスマ性はいまだ衰えることはない。引退してもなお、世界中に熱狂的なファンを持つ元・独裁者である。

◆キューバ革命政権をいち早く承認したのも、フィデルが革命成立後最初に訪れた国も実は米国だった。ホワイトハウスを訪問するが、アイゼンハワー大統領は「ゴルフの約束」を理由に会見をキャンセル。代わりに会談したニクソン副大統領を、「あの野郎、俺にコーヒー一杯出さなかった!」と罵り倒す。予約していたニューヨーク・ヒルトンは、一行の中に黒人がいることを理由に宿泊を拒絶。引っ越した先の黒人街ハーレムのホテルを夜中に訪ねてきたのは、誰あろうマルコムXであったことは、ほとんど知られていない。米国史上もっとも過激なブラック・カリスマとフィデルがその場で何を話したか、全貌が明らかになることはないだろう。フィデルにまつわる神話は、斯の如く尽きることはない。

◆米国による長年の経済封鎖を困窮の言い訳に使ってきたキューバも、経済的破綻が現実のものとなりつつあり、国交正常化という選択も時間の問題だった気はする。何か遠い世界の話に思えるが、キューバを日本に、米国を中国に、そして反カストロ勢力の拠点フロリダ半島を朝鮮半島に置き換えてみると、生臭いパワーポリティクスの現実が少しは見えてくるかも知れない。

◆昨年春から公式の場には姿を見せず、もうお隠れになっているのでは、などと噂されていたのはいつものこと。米国に擦り寄ったかに見せながら、社会主義体制の維持やグアンタナモ基地の返還、経済封鎖による損失の補償など、突然ハードルを上げて見せる。そのすぐ後の最大限の効果を狙ったタイミングで健在を示し、さらに神話に磨きをかけているようだ。「私の考えは借り物ではない。私は自分自身の独裁者であり、国民の奴隷である」とは、オリバー・ストーン監督のインタビューに応えた一言。こんな独裁者に政治されたかったとしみじみ思うのは、我らが現政権のあまりなひどさ故か。

◆なお、恒例のブックガイドは関連本が幅1メートルを越えているため、今回は省略。最後に、直前でポジスキャンを泣きついたインフル丸山氏に伏して感謝! (ZZz@カーニバルのエクアドル)

全さんの報告を聞いて蘇った

■1月の報告会に参加して、「キューバの呪い」と題する白根全さんのお話と、スクリーンに映し出される市井の人たちの写真を見ながら、44年前に初めてキューバに行った時以来の、様々な思いが頭をよぎった。私が最初にキューバに行ったのは、1971年のサトウキビ刈り奉仕隊に参加してのことだ。伝えられているようにアメリカとの国交が回復すれば、キューバにも大きな変化が起こるだろう。ここで、今や歴史の彼方に忘れられつつあるキビ刈りボランティアについて記しておきたい。本文でいう「カストロ」は、現在の国家評議会議長のラウル・カストロではなく、すべて兄の「フィデル・カストロ」です。

◆キューバは1963年に決定した経済政策で、70年の砂糖生産量を1,000万トンにする大きな目標を掲げていた。68年からは国民に大動員をかけたものの、達成は無理な状況だった。70年といえばゲバラがボリビアで斃れて間もない頃だ。キューバ革命に共鳴する外国人旅行者の中に、サトウキビ畑で汗を流す人が現れていた。これにカストロは目を付けた。

◆外国から大勢のボランティアに来てもらえば、キューバ国民ももっと働くようになるだろうと考え、世界に向かって支援を呼びかけたのである。呼応して集まったのは、欧米や日本、韓国などの若者である。国交のないアメリカからも、帰国して逮捕されるのを覚悟で参加した人がいた。外国人部隊は日本、韓国、カナダは国ごとで、西欧は全部一緒だったと思う。逮捕を覚悟で来てくれたアメリカ人は特別尊敬された。ただし、外国人ボランティアが一堂に会したのは、キビ刈り終了後の7.26の革命記念日の集会だけだった。

◆日本人部隊について詳しく話すと、日本キューバ文化交流研究所の呼びかけで、70年に50人、71年に35人、最後の72年に25人と、計3回、延べ110人の学生や労働者がキューバに渡った。1回目の参加者は全共闘系の学生が多かったが、次第に仕事を辞めて参加する人の割合が高くなっていった。ボランティアと言っても参加費が必要で往復の渡航費を含めて1人46万円。当時としてはかなり高かった。

◆短大で図書館学を学んだ私は当時29才、味の素という会社で8年仕事をしていた。待遇は悪くなかったが、冷房の効き過ぎで体調を崩したのをきっかけに、気候がいいところで、思い切り力仕事をしたい、という気持ちが強くなっていた。キューバ革命に共感したこともあり、思い切って会社を辞め、サトウキビ刈りを志願した。母親は大泣きして行くな、と止めたが決心は変わらなかった。

◆日本の部隊は「Hasta la Victoria Siempre(勝利の日まで永遠に、の意味。アフリカに行くチェがカストロに宛てた手紙の有名な最後の言葉)」という名称で、キューバ中部の広大なサトウキビ畑の中に作られたキャンプで、ほぼ同年齢のキューバ人と一緒に生活した。道具はマチェーテと呼ばれる刀のような刃物1本のみ。これを振り下ろして葉を切り落とし、幹を倒す。後に沖縄の与那国島でサトウキビ刈りをやったことがあるが、そこではカマで葉を払い、斧で幹を倒すやり方だった。

◆畑では、日本人とキューバ人がペアになって働いた。最初は背の高い順に並んで刈り、追い越されると順番を変わる。よく風が通るように仕事が早い人が風上に着くのだ。

◆食事は普通のキューバ食。朝はコチコチのフランスパンを特別甘いミルクコーヒーにつけて食べる。昼と夜はご飯とスープにおかず1種ときゅうり二切れ程度のサラダ。キューバ人も日本人も同じだ。といってもキャンプ内の話。キャンプでは蛋白源として肉、魚、豆類があったが、当時のキューバの食事は、肉はたまに配給があるだけ。政府は魚を食べるよう促していたが、キューバ人は好まなかったし、野菜もあまり食べようとしなかった。ともかく肉が出るとご機嫌だった。

◆キャンプでは私たちは同じ時間働き、同じ日程をこなした。昼休みはまずは昼寝。疲れてなければスペイン語を習ったり、日本語を教えたり、歌を歌ったり、楽器を奏でたり。休みの日にはキャンプに楽団が来て踊ったり、運動会や様々な催しを企画して交流した。月2回はキャンプの外に出かけ、工場、農場、学校、病院、保育所等を見学したり、観光や海水浴などをして過ごした。灼熱の太陽が照り付ける中、経験したことのない激しい労働に音を上げる人もいたが、若き日にこのような体験ができたことに、高齢者となった参加者は今、無条件で感謝し、いまも集まっては杯を交わしている。

◆では、キューバにとってこのサトウキビ刈り隊の成果はどうだったのか。結局砂糖生産の目標は達成できなかったが、キューバ側は生産高よりも、キューバ革命を理解してもらうことに重きを置いていたように思う。と同時に外国からのボランティアは、キューバ国民を鼓舞するのには大いに役立った。この後も、休日に学生や労働者がボランティアで生産に参加する形態は長く続いた。農業ばかりでなく建設労働にも隊を組んで参加し、短期間に驚くほど多くの学校、病院、集合住宅等が建設されていった。

◆サトウキビ刈りボランティアは、終了後の見学・観光旅行も含めて、70年と72年は3か月、71年は6か月だった。私が参加した71年は何故かカストロの気まぐれで、残りたい人は残っていいと言われ、仕事を辞めて参加した私は、半年は国営農場で働き、最後の半年は、司書の仕事を知っていたためサンタクララ市郊外にあるLV中央大学の図書館で働くことができた。おかげで図書館の同僚と月に一度日曜日にボランティアに参加し、キビの植え付けや草取りの他、住宅建設にも参加した。素人ばかりで大丈夫なのかと思うような仕事ぶりだったが、歌いながら、お喋りしながら、皆楽しそうに働いていた。

◆図書館では外国人の私を特別扱いせず、本物の銃に実弾を入れて、民兵として夜警にも立たせてくれた。ふだん賑やかな同僚たちが、民兵の時は少しは話をしても、絶えず四方に注意深く目をやり、ピリッと緊張した面持ちで立っていた。少しでも物音がしたり、動くものがあると素早く確かめた。アメリカからのスパイが入りかねない、キューバの置かれている厳しさを垣間見ることができた。

◆いろいろな経験をさせてもらったが、ともかくこの時代のキューバには、溢れんばかりの希望があった。どこに行っても好奇心旺盛な子供たちに取り囲まれた。人々は少ない物資を融通しあって暮らしていた。日本はすでに「一億総中流」と言われた時代。物の充足に虚しさを感じ始めていた私は、「人はたったこれだけの物で、かくも楽しく幸せに暮らせるのか」と目を開かせてもらった。この時期のキューバは、おそらくは近代社会において、世界に類のないほどの平等を達成した時期だったのではないだろうか。

◆その後のキューバは、冷戦構造の中、アメリカに対峙する社会主義国としてソ連から破格の援助を得て、途上国としては抜きんでた底辺の豊かさを実現した。革命直後から力を入れていた教育と医療はほぼ先進国並みだ。しかし、ソ連邦崩壊後、経済は壊滅的状態になり、アメリカの封鎖が続いて国民は塗炭の苦しみを味わった。

◆03年9月、32年ぶりにキューバを再訪した私は、経済崩壊により変わり果てたハバナの姿に、強烈なショックを受けた。あの頃、光り輝いていたハバナの町は、薄汚れて廃墟のようだった。人々の表情も、心なしか疲れて見えた。しかし子供だけは少しも変わらず、屈託なく明るい。一時暴動も起こり、亡命する人も多く出たが、それでも持ちこたえてきたのは何故なのか。決して強権的に国民を押さえつけてきたのではない。多くの国民は身を粉にして働くクリーンなトップを信頼し、粘り強さと我慢強さでこれに堪えた。ではどうしてそんなに我慢できるのか?

◆03年にキューバを再訪した時に訪ねた友人の話。「人間、生きていく上でそんなにたくさんのものは必要ないだろう。僕の暮らしは、日本に比べたらすごく貧しいかもしれないが、必要なものはみんな揃っているよ。確かに子供が中学、高校の頃は、あと一間欲しいと思った。でも、子供はすぐに大きくなって家を出ていく。ほんのちょっとの辛抱さ。今は妻と二人。たまに子供が帰ってきても泊まる部屋はあるし、僕はこれで十分だ」。

◆団地サイズの2LDKの家に、小さなテレビと玩具のようなオーディオ製品。酷暑のキューバで扇風機が回っている。これがカストロ議長より給料の高い大学教授の話である。そう。キューバでは「足るを知る」人たちが助け合って暮らしていたのだ。平等か、豊かさか。半世紀以上にわたってこの人類永遠のテーマに向き合ってきたキューバには、今後もずっとこの問いを続けながら国づくりを進めてほしい。キューバ人から、あのサトウキビ畑の青空のように澄み切った笑顔がなくならないように。

◆最後に、私が地平線会議に初めて顔を出したのは1980年5月、楠原彰さんのアフリカの話(「アフリカのリズムとにおい」)を聞きに行った時でした。その後82年にペルーアンデスのトレッキングで白根全さんにお世話になり、ツアーの後一人でパタゴニアまで旅しました。帰国して全さんのご紹介により、84年の報告会でその話をさせていただきました。その後すっかりご無沙汰しておりましたが、昨年友人から、地平線会議がその後もずっと続いている話を聞き、すごく感動して夏頃からまた参加させていただいています。30年分年を取りましたが、おかげさまで縮こまっていた世界が少しずつ広がっていくのを感じています。ずっと続けてこられた皆様に心より敬意を表します。(大野説子 1984年5月「パタゴニアの旅」報告者)


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