2012年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信402より
先月の報告会から

ガレキの家に今日も花咲く

藤川佳三

2012年9月28日  新宿区スポーツセンター

■401回目の報告会、報告者は「石巻市立湊小学校避難所」監督の藤川佳三さん。震災から約1か月後の2011年4月21日から、避難所が閉鎖される10月11日までの6か月あまり。そこに通い、長期間泊まり込み撮ったドキュメンタリー映画は、東京での上映が終わり、現在は全国へ巡回中だ。

◆RQなどの活動で東北への関わりが深い落合大祐さんの司会により、報告会は始まった。石巻市立湊小学校(以後、湊小)の写真を投射したスクリーンをバックに、まずは自己紹介から。香川県出身の44歳。大学で上京し、卒業後は瀬々敬久監督の元でピンク映画の助監督などを務めた。監督志望で、2001年に撮った自主映画がぴあフィルムフェスティバルに入選。その後、自分の家族にカメラを向けたドキュメンタリー映画を撮り2005年に上映したが、監督の依頼も少なく、「もー、映画はやめようかな……」と思っていたという。

◆その思いを変えたのは、震災だった。最初、藤川さんは、震災直後から石巻市へ向かいカメラを回していた友人の撮影サポートという形で、避難所の1つとなっていた旧北上川にほど近い湊小へ。小学校の始業式などを映像に収めるのが目的だった。

◆湊小には当時300名もの人達が避難しており、校庭では自衛隊が活動し、ボランティアが行きかい「賑やかな所だな」というのが第一印象。まだ知り合いもおらず、どうしていいか判らない中で出逢ったのが、映画にも登場する工藤弘子さんだった。思ったことをはっきり言う女性で、ボランティアの人達が校庭で歌う「ふるさと」を聴き「何様になった気がして歌ってんの。帰るふるさとがある人が歌うものがふるさと。我々はここがふるさと。瓦礫の中」と怒る箇所は、映画の冒頭部分で印象的なシーンの一つだ。

◆カメラを持っているということで、その工藤さんに避難所や小学校の状況をマシンガントークで話された。教室は避難所になっているため、子供達が図書室で勉強する現状があり、教育委員会や学校に対して不満があったのだ。ほかにもボランティアで来た20代の若者に対し「自分探しに来る人が多い」とぶつける。工藤さんの姿などに接し、「ニュースで見る避難所とは全然違う」と驚いたという。

◆湊小では2階から4階まで、15教室に各20人程が暮らしていた。最初、藤川さんは廊下を通るのが精いっぱいで、教室の中に入っていけない。時間をかけて知り合いを増やし、雑談や冗談を言い合うことで徐々に仲良くなっていった。5月頃は、人が多く避難者自身も他の避難者がどうしているのか判らない状況。あちこち回っている藤川さんと、工藤さんなど子供を持つお母さん仲間とが、夜に情報交換の飲み会をすることもあった。そこで今後どうするつもりかを問われ、一方で「私達の現状を知ってほしい」という圧力も感じる。誰かが撮影を続けた方がいいと思うが、その地に暮らすことで撮られたドキュメンタリー映画、佐藤真さんの「阿賀に生きる」などの作品を観ている藤川さん、「軽はずみに始めたら大変なことになる」。それでも悩んだ末、自分が撮ることに決めた。

◆湊小には「JIM-NET」や「ピースボート」、「ヒューマニティ・ファースト」等いくつものボランティア団体が関わり長期滞在していた。最初はその人達と体育館の中で雑魚寝をしていたが、ボランティアではないため居心地が悪い。校庭に停めていた車に移動し、目立たないよう車中泊もした。朝6時30分、多目的教室で行われるラジオ体操に参加し、そこで参加者と一緒に朝食やコーヒーを頂き、8時から始まる班長会議に同席するのが朝の日課となった。2キロ程のカメラは、肌身離さなかった。

◆スチール写真を見せながら、話が続く。湊小では、神戸から来た「チーム神戸」がボランティアセンターを作っていた。阪神・淡路大震災の経験から「自分達で住める状況にしないといけない」と避難している人達に伝え、「報道によって支援を受けられる」といち早くNHKに入ってもらうように動いた。マスコミを遮断する避難所もある中、オープンな方針があったそうだ。

◆『希望の湯プロジェクト』と題してお風呂の支援を行ったのは、中越地震を経験した新潟県にある会社、「グリーンエナジー」。燃料は薪で、7人が付きっきりで沸かす。シャワー付きのお風呂は珍しく、とても喜ばれていたという。

◆映画に登場する人達も次々とスクリーンに映された。双葉郡富岡町から埼玉県に避難したものの避難所がいっぱいで、実家のある石巻に戻り、4月からボランティアとして湊小へ通っていた西原千賀子さん。映画ではこれまで持ちつ持たれつの、いわば共存関係にあったのに、急に東電への批判だけを口にし出した行政や住民たちへの違和感を率直に語っていた。

◆自転車屋の忠(ちゅん)さんは、石巻の友人を心配して関西からやってきた。何かボランティアをしたいと湊小を訪れ、避難所の人達が自転車の整備をしているのを見て、手伝いや整備の仕方を教えることに。そのため湊小には、市の職員が驚くほど、多くの自転車が集まるようになったという。他にも忠さんは、居酒屋「東助」店主の及川東助さんと仲良くなってお店の2階に住み、再建を手伝った。

◆そして70歳の愛ちゃん(村上愛子)の写真が。最前列でじっくり聞いていた江本嘉伸さんが「映画の主人公だよね」と藤川さんに声をかけたように、映画の後半部では、同じ教室に生活していた愛ちゃんと小学4年生(当時)のゆきなちゃん、二人の交流に力が入れられている。お互いを自然に思いやる関係を見て、藤川さんは「考えさせてもらった」と言う。

◆愛ちゃんとは、とにかく一緒にいて信頼関係を作っていった。地震、津波の話の他にも、古い一軒家で毎日花いじりをしていた若い時の話などを、たくさん聞いた。そうして、教室の中にいることが自然になり、かつての自分のように廊下を通る新しく来た人の視線などを感じ、「ちょっといやだな」と思う感覚も判るようになった頃……。藤川さんは「自分もここにいる人達と同じよう、正直に人付き合いをしたい」と思った。

◆また、避難生活の中で多くの人が震災の経験を喋り合っているのを見て、喋ったほうが楽なのかな……という思いも生まれたそうだ。映画の中には、ゆきなちゃんへ震災や避難所に対して尋ねるインタビューシーンがあるが、「(被災した子どもに直接質問することに対して)批判があることも判るが……」と前置きしつつ、「津波や震災を子供ながらにどう感じるか知りたい」「それを残すことに意味があるのではないか」と判断したからだと言った。

◆というのが前半まで。後半はスチール写真ではなく、映画には含まれなかったいくつかの貴重な映像が流された。まずは、地元の人が撮った3月27日の湊地区の様子。他は藤川さんが6ヶ月の中で撮影したものだ。4月21日に体育館で行われた始業式の映像では、前方で始業式、後方で炊き出しが行われている。それから図書室で工藤さんがボランティアの人達と一緒に「鮭サンバ」を踊る映像や、高校生の女の子が津波の被害を受けた自分の家と部屋を案内する映像。「希望の湯プロジェクト」をどう引き継いでゆくかの話し合いの一部分など。どれも地平線でしか見られない印象的な映像だった。

◆藤川さんが「これは何が起こっているのか」と思いながら撮ったという映像もあった。ボランティアが、生活空間となっている一つの教室に訪れ「一番元気になれる歌」とアンパンマンの曲(「アンパンマンのマーチ」)を流し、歌い踊ることを勧める一部始終を撮ったもの。猫耳を付け(させられ)、戸惑いつつも、せっかく来てくれたんだし、とそれに付き合っている人達の姿は、見ていていたたまれない感じ。そこをカメラが撮っていて、その場にいる全員がカメラも多分に意識している二重な感じが、とてもシュールだった。

◆班長会議の映像もあった。そこでは「A地域(避難所)」と「B地域(避難所じゃない人達)」という言葉が出てくる。被災地では、行く所がないから仕方がないと思うA地域の人達に対し、B地域、自宅に戻った人達の中には、光熱費や食事などA地域のほうが優遇されているという不満があり、どうしたらいいか問題になっていたのだ。校庭のゴミ箱に弁当の余り物が捨てられるのを見たB地域の人に「ここは恵まれている」と思われるなど、現地では判らないことだらけだったそうだ。

◆時間になってしまった。「そろそろまとめを」と藤川さん。避難所の6か月間は、長すぎて整理できない。映画は主に楽しい明るい部分を取り上げているが、そこに震災を乗り越えてゆく人間の力を感じた。湊小はボランティアが何度も戻ってくるような、生きるエネルギーのあった場所だった、と言った。

◆質疑応答は指名制。まずはRQで長く活動しており、南三陸町中瀬地区の方々の避難所となった小学校の隣の体育館に4か月住んだ経験もある新垣亜美さんが話をする。アンパンマンの映像を観て、複雑な気持ちになったという。やるからにはと居つづけたが、中々存在を認めてもらえず一年経ってやっと喜んでくれた避難所の人もいた、ということを思い出した。

◆「遠野まごころネット」に関わる杉山貴章さんは、今年5月の茨城の竜巻被害の時のボランティアと現地の現状にズレがあった話を。東北の被災地の支援で活躍した大勢のボランティアたちが馳せ参じたが、竜巻の被害範囲は限られる。手のあまったボランティアたちは時に「仕事探し」をしなければならず、中には結果的に苦情が出る支援も。被害状況、地域によって望む支援は異なる。双方が手探りでやってゆかなければならない中で、被災地と支援する側との中間に立つ人がどんなに大切か、アンパンマンの映像のように「ほんとうの現場」を伝えてくれることはとても大事だと思うという。

◆ほかにも、社団法人「RQ市民災害救援センター」事務局長としていまも東北を往復している八木和美さんらが実際の体験からボランティアについて話した。真っ先に話題が、「ボランティアのこと」になるのは、実際に行動し、関わってきた地平線会議の人達ゆえだなあと思う。

◆楢葉町民で現在はいわきに住む渡辺哲さんは、自分が体験した避難所の様子、8月に「避難指示解除準備区域」とされた楢葉町の現状を報告してくれた。それから映像について。映像ジャーナリストの高世仁さんは映画を観て、テレビでは出せない映像にショックを受けたそうだ。ふるさとの歌に怒る工藤さんや支援物資に群がる人達の映像など、“政治的配慮”によりテレビ(おそらく新聞でも)では伝えられない。自分のフィールドではリアリティーを削いだものにせざるを得ないと羨ましく思ったという。

◆映画、報告会で取り上げられたのは湊小という避難所に集まった人達のこと。津波の被害を受ける場所とコミュニティーの境目が同じではない中、近隣に住む人達の関わりはどんなものだったのか、どうしたらいいのだろう。疑問を持ったのは、宮本千晴さんだった。藤川さんは湊小にいたので詳しくは判らないが、地域+東京で新しい町を作って行こうという動きがあったようだという。

◆時間もなくなり、最後は映画の予告編を流して終わり。長期間の滞在によって培われる関係性や、映像の力を感じた報告会だった。いつもは野宿や馬鹿話しかしない仲間のことを、すごいなあ!と思えることは、とてもいいなあ。(加藤千晶


報告者のひとこと

被災地には被災者と支援にきている人と二種類の人がいた。そのことは、とてもとても単純なことではなかった

■初めて石巻に入ったのは2011年の4月21日。知り合いもいないし、恥ずかしながら被災の状況をほとんど知らなかった。そんななか湊小学校で被災した方と知り合った。すると瓦礫だらけの街の景色が、「○○さんが被災した家」という見え方に変わった。そんな意識の変化から撮影をはじめた。

◆石巻では毎日が驚きの連続だった。避難所になっている湊小学校で、初めて遭遇することが次々とおきる。被災地には被災者と支援にきている人と二種類の人がいた。そのことは、とてもとても単純なことではなかった。様々なことが混在していた。それを映画としてまとめることができ、こうして報告会をやらせてもらえたのは本当に感謝の一言に尽きます。

◆報告会で言えたことは多くなかったが、被災者の本音とか、被災者がボランティアに来た人に気を使っていてその状況などを映像で出せたのはよかった。でも避難所でお酒を飲んで陽気になった人にカメラを向けて怒られたことや、「ずっとここにいるのになぜボランティアをしないのか」と親しくしていたお母さんグループにシカトされたこともあった。そんな話もすればよかった。

◆ある時、それまであまり話をしなかった人から「君はずっとここにいるけど、いつまでいるの」と聞かれ「避難所が閉鎖になるまでいます」と言ったら、「わかった、じゃあ、これから協力します」と言ってくれた。とてもうれしかった。

◆震災から1年と7か月たった今、被災者でもないボランティアでもない自分が石巻で半年間過ごしたことの意味について考えます。大事なのは、震災を伝えていく事。自分の目線で感じたことをこれからも映画の上映を通して伝えていきたいと思う。(藤川佳三


「石巻市立湊小学校避難所」を見、監督の話を聞いて感じたこと

■長期間にわたる、避難所での集団生活。あの独特な場の空気を久々に思い出しました。藤川さんが撮影した石巻市の避難所での日常やボランティアのようすは、私が滞在していた登米市の避難所でもほぼ同じです。両者で大きく違ったのは、湊小学校避難所には県外からも含めてさまざまな地域の方が住まわれていましたが、登米市の鱒淵小学校には南三陸町の一つの地域がまとまって来ていたことでした。

◆定員があるので希望者全員とはいきませんでしたが、特にご年配の方にとっては生活のうえでのストレスは大分違ったのではと思います。先日、復興住宅についてどの場所に住みたいか聞いてみたときも、「みんなと同じならどこでもいい」という答えが多く返ってきました。まだ50代の方でもそうです。理由は「年取ったときに、みんなに面倒見てもらえるからね」とのこと。こういうソフト面に配慮した対応は、行政まかせではできません。住人の声を素早くまとめられるリーダーの存在の大切さを改めて痛感しました。

◆仮設住宅に関しても、様々な地域の方が入ることで孤独死や犯罪などが問題になります。時間が経てば新しいコミュニティーが作られてうまく機能しているケースもありますが、理想はやはり、もとのつながりを活かすことだと思います。映画にもあったシーンですが、仮設住宅が当選した人からパラパラと避難所を出て行くと、避難所に残された人々は住処が決まらない焦りと、人数が減っていく中での掃除や食事等の共同作業で疲れきってしまいます。寂しいともなんとも言いがたいその光景を、私も気仙沼市で目にしました。

◆次の段階である復興住宅についても同じ事です。今後数年にわたって、住人が出て行く事で仮設住宅の自治運営についての課題はどんどん出てくるでしょう。自分で動ける人は出て行ってしまうので、弱者が多く残されるというケースも予想できます。つい先日お会いした仙台市のとある仮設自治会長さんは、「自分が最後まで仮設住宅に残ってみんなの面倒を見る」とおっしゃっていました。多くの人は避難所、仮設住宅、復興住宅の3回の入居時に、引っ越しや新しいコミュニティーで大きな負担を感じます。これがもしみんな一緒に移動するならば、次のステップを希望にして今を頑張る力に変えられます。ちなみに鱒淵小学校避難所では、2011年8月4日の閉所の日、ほぼ入居時と同じ人数で100名以上がそろって仮設住宅に移る事ができました。いまも集団で高台移転をと話を進めています。

◆映像を見ての感想ですが、ビデオカメラを持って湊小学校避難所に入った藤川さん、映画を見た誰もが絶対に気になったのは、住人との関係づくりだと思います。実は、映画に登場していた工藤さんと新宿の映画館でお会いでき、先日お手紙をいただきました。そこにはなんと、「避難所生活の間に藤川さんが成長した」と書かれていました。

◆これは半分冗談、半分本当の言葉だと思います。見ず知らずのよそ者という立場から、理解され、信頼されるようになるまで、色々あったことでしょう。藤川さんのやり方を受け入れてくれる人もいれば、なじめなかった人もいるはず。でもとにかく、あの時期の避難所生活を映像で記録してくれたこと、本当にありがたいです。

◆私も避難所や仮設住宅で数多くのボランティア(よそ者)と出会いましたが、中には驚くほど自然にポンと住人の中に入ってしまう人もいたし、押し付けがましく見えた人もいました。人の輪に入るのは苦手だけれど、周りの目につかないところを掃除してくれたような人も。ほかにも、現地にいけなくても、手紙などで今でも長く付き合いを続けている人、準備期間を経て東北に移住を決めた人などもいます。

◆人との関わり方は色々あっていいんだな、と思います。関わる事が大事だということです。「絆」という言葉が流行っているけれど、いい面だけでなく、人付き合いのややこしさや面倒臭さなんかも全部含めて、切っても切れない「絆」なんでしょうね。私たちには押し付けがましく見えるボランティアも、住人の中には喜んでくれている人もいるし、来てくれているというだけで嬉しいという声もあります。

◆私だって、今でもまだ話しにくい住人の方もいるし、1年以上たっていきなり話しやすくなった方もいます。気配りのいたらなさから、ボランティア仲間からクレームが来た事もありました。当時はものすごくへこんだし辛かったけれど、視野は広がりました。

◆おかげで、7月からはじめた教員生活も、わりと落ち着いてできているような気がします。受け持ちは中3なので入試対策として面接練習などもしています。高校受験を前に、多くの生徒は生まれてはじめて自分と向き合い、社会の中での立ち位置についても意識しはじめているようです。私なんかが教官役をやって面接しても、汗をかいて倒れそうなくらい緊張しています。みんなかわいいし、がんばれって思います。そんな楽しい学校生活ですが、宮城県での体育館暮らし4か月間の影響で、いまでも体育館に行くと“生活感”を感じてしまうのが困りもの……(笑)。(新垣亜美

想像力を働かせて彼らのリアルな物語を身体にしっかり取り入れ、いつまでも身近に感じること。たぶんそれが、現地に行ったかどうかよりももっと大事なことなんだろう

■新聞記者として働いていた頃、岩手・宮城内陸地震の被災地に取材応援要員として派遣され、ある避難所に出向いたことがある。大した仕事もできなかったのだけれど、事件や事故取材のときと同じように、そこで求められていたのは「とにかく書きつなぐこと」。災害の規模にもよるが、発生後だいたい1か月くらいの時間的区切りまで、新聞は被災地の状況を報じ続ける。そのため、記者は毎日2回訪れる締め切りに向けて取材をする。あえて嫌な言い方をすると、朝夕の紙面を埋めるための“ネタ探し”をするのだ。

◆その結果、どういう取材をするかと言えば、被災者の話を聞きながら頭の片隅では記事になりそうかどうかを判別し、分かりやすい物語を選んではつまみ上げ、その他のものは無情にも切り捨てるようなことをしてきた。それも、はじめのうちは辛い現状を示すような話題を、ある程度時間が経ってからは復興に向けた明るい兆しが見えるとか、絆を感じさせるだとか、自分たちが欲しいと思うシナリオに沿った話題を選んで。

◆そうして1、2週間の“出張”を終えて自分の任地に帰ると、振り返る間もなく慌ただしく次の取材に取りかかる。自分が記事に取り上げてきた人たちがどんな風に生きてきたのか、ゆっくり膝を突き合わせて語り合うこともなければ、その後どう過ごしているのかということも知らない。そんな、誰にもどこにも深く関与せず、自分は何にも失わずに安全な場所から表面をなぞるような取材を自分はしてきたのだな、といま思う。

◆映画「石巻市立湊小学校避難所」には、報道に切り捨てられてきたディテールがたくさん詰まっていた。それらはテレビでは決して見られない映像だ。唱歌「ふるさと」を歌う合唱団に憤慨し、送られてきた支援物資に対して「こんなのタダでもいらない」と悪態をつく工藤さんや、東電と共存してきたはずの周辺住民が手のひらを返して批判し始めたことに対して違和感を露わにする西原さん、ピクニック気分で来てほしくないと言った男性たちは「でも、自分の子供には見せたいよね」と本音をつぶやく。

◆だけどそれ以上に、ささやかな誕生日祝いをするゆきなちゃん一家の様子や、体操したり、一緒にパンを食べたり、花瓶に花が生けてあったりする日常風景の積み重ねが圧倒的なリアルさを持って心に残った。だって、それは同じ時間を過ごした者だけが見ることのできる特別な風景だ。

◆どうしたらこんな映像が撮れるんだろうと思った。「映画を撮りたいと思って現地に入ったが、人としてつき合いたいと思った」と、藤川さんはさらりと言ったけれど、その2つを両立させることって結構難しいことなんじゃないだろうか。カメラを向けた瞬間、撮る側と撮られる側という見えない壁ができるような気がするからだ。藤川さんは、出会ったそれぞれの人のこれまでの道のりや人間関係など、震災の話だけではなく様々なことを聞いたとも話した。変に構えることなく、見えない壁の向こうに自然にすっと入っていけるところが藤川さんの人柄なんだろうし、その結果として、いろんなシーンに立ち会えているというところがこの映画の優れたところなんだろうと感じる。

◆映画の終盤、仮設住宅に移ったあいちゃんが床に崩れ落ちて涙を流すシーンは圧巻だ。あいちゃんはやっと泣くことができたのだな。そう思って、観ているこちらも緊張の糸が途切れてしまった。「津波で凍った心が溶けたから、涙ばっかり出る」。たぶん、思いっきり涙を流すことなしには受けた傷から本当に立ち直ることはできない。だけど涙は、報道なんかが撤収して、共に暮らした仲間とも離れたあとの一人きりの時間にやっと訪れるものなのだ。

◆東日本大震災はこれまで、「取材にもボランティアにも行けなかった震災」として自分の中にあった。だから、いつも分かった風な気にならないようにと考え、引け目のようにすら感じていた。テレビ報道をどれだけ見ても「行ってみなければ分からない」と思っては、飛び出しそうな気持ちに幾重にも蓋をして、子どもを置いてまで行く理由がないのだから、と自身を納得させてきた。

◆自らの身体を晒していないから、身近で起きていながら“死者何万人の未曾有の震災”などというぼんやりしたイメージがどこか霧のように覆っているのだとも思っていた。けれど、「行ってみなければ分からない」と頑なに思っていたのは、裏を返せば報道が伝えないリアルがたくさんあるはずだと思っていたからに他ならない。自分自身が報道をちっとも信用していなかったのだ。

◆映画を見て、あいちゃんにとっての震災、ゆきなちゃんにとっての震災、それぞれの登場人物にとっての震災という物語が自分の中に残った。想像力を働かせて彼らのリアルな物語を身体にしっかり取り入れ、いつまでも身近に感じること。たぶんそれが、現地に行ったかどうかよりももっと大事なことなんだろうと、この映画は気づかせてくれた。(菊地由美子


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