2011年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信384より
先月の報告会から

乱氷とツンドラ

角幡唯介

2011年9月23日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

◆「あっ、どうも、角幡といいます」。まだ6時過ぎだというのにほぼ満員の会場で、角幡唯介さんが話し始めた。地平線会議での報告は今回で3回目。1、2回目の報告、ヤル・ツァンポー渓谷の探検行を作品にしたものは、昨年の開高健ノンフィクション賞を受賞し、『空白の五マイル』(集英社)として出版された。この本は他にも、大宅壮一賞、梅棹忠夫山と探検文学賞と計3つの賞を受賞して、とってもすごいことに!

◆まずは新刊、『雪男は向こうからやって来た』(集英社)の話から。「ライターとして生きていく」と決め、再度ヤル・ツァンポーに挑戦するために、新聞記者を辞めた2008年。角幡さんは、ダウラギリでの雪男捜索隊に誘われ、「本にできたらいいな」と参加したという。

◆「雪男を見つけないと書けない」と殆どの人が思っているだろうが、「雪男はそもそもいないだろう」というのが、角幡さんの考え。もちろん現地では真剣に捜索し、見つけたいと思う。一方で、見てしまうのが怖い、とも。雪男を捜索中に亡くなった鈴木紀夫など、雪男に出会い「人生をかき乱された」男たちがいるからだ。その人達も追い、雪男を「現象」として捉えて書いたのが、この本だという。

◆この原稿は一昨年の開高健ノンフィクション賞に応募したものだ。その時は「半分賞を取った気でいた」ため、落選で「300万円をどぶに落とした感じ」。再挑戦の『空白の五マイル』で、受賞した。しかしこれが思いがけず3賞も受賞してしまったことで、面白いものを書かなければと、次へのプレッシャーを強く感じているという。「考え過ぎて、なんかもう疲れちゃったんですけどノノ」。

◆その、次作のテーマでもある、今回の報告、北極圏徒歩旅行の話へ。角幡さんは、2009年にヤル・ツァンポーに行くまでは、次はニューギニア島イリアンジャヤ(現パプア州)のジャングルの中で「判りやすい」探検をしたいと考えていた。しかし、ヤル・ツァンポーで「自分は死ぬかもしれない」という体験をすることで、「生とか死とかを直接表現できる場所」へと行きたくなったという。

◆そんな折、北極点無補給単独到達を目指す、荻田泰永さん(2010年7月「変わりゆく北極圏」報告者)から、「呑もうや」との誘いが。『岳人』のインタビュー記事を兼ねることにして、北極の探検史を調べるうちに、192人の全隊員が行方不明になった19世紀の「フランクリン探検隊」に惹きつけられた。

◆もともと、学生の時に読んだ、生き残った隊員の書いた「スコット隊」の記録、『世界最悪の旅』(中公文庫他)に衝撃を受けていた。その時は壮絶な自然環境の中、自分の命に無関心になっていく隊員の様に「人間ってこうなっちゃうんだ」と驚き、「絶対自分は極地になんか行けない」と思ったという。

◆思いの深かった北極。行って本にするならば、ルートにも「物語性がなければならない」と考える角幡さん。フランクリン隊は全滅したため、メモとイヌイットの証言しか残されていない。ならば同じ景色を見てみたい。今年は北極点を目指すには資金が足りず、北極の「どこか」に行こうとしていた荻田さんと2人で、1600キロ、フランクリン隊の足取りを辿ることとなった。

◆北極圏より少し南のイカルイットで耐寒訓練中、東日本大震災が起こった。スタート地点となるレゾリュートに移動してから、事の大きさをテレビで知る。ライターなのでその現場にいたいという思いもあったし、日本では多くの方が亡くなり死にそうな目にあっている中、フランクリン隊の死の現場を目指す自分に、後ろめたさを感じながら出発したという。

◆スライドの1枚目は、ルートを決めるのに重要な、衛星写真。情報が少なくてその時はぴんとこなかったが、衛星写真を見せてくれたウェインさんからは、レゾリュートでも放射線量が上がっている事から、「表面の雪は飲むな」と注意されたそうだ。

◆次に、装備の写真が。?40℃まで対応の化繊シュラフにインナーシュラフ。極地用のテントやおしっこボトル。それから「荻田スペシャル」の熊センサー(ホームセンターで売っている人が近づくと光る防犯用のライト)などなど。前半60日分の食料は、袋ラーメンやアルファ米、「美味しいので極地に行く方はぜひ買ってください」と角幡さんが太鼓判の高級ペミカンなどだ。これら食糧だけで10kg、一台のソリの荷物は100kg近くにもなった。

◆柔らかい雪の下に硬い雪が隠れており、5センチほどの段差さえも、ソリを曳くのには力がいる。出発して2日目、後ろを見ずにぐいぐい引っ張ったら、積んでいたスキーが折れてしまい、以降、ビスで止めたスキーで歩くはめに……。

◆3日目の夜には、白熊が出た。気づいた荻田さんがテントから花火で威嚇。すぐに銃を持ち追い払いに行ったが、角幡さんは初めての体験に焦り、手が震え、ヘッドライトを点けることすらできなかったという。

◆旅行中は、一日5000キロカロリーを摂取した。最初は身体に脂肪があり満腹に感じたものの、途中から空腹感が半端じゃない状態に。見渡す限り真っ白な氷海上を、たまに白熊や狼を見ながら進み、3日に1度の「イタリー飯(遠征中止になったイタリア隊の置き土産のラザニアなどにペミカンを入れたもの)」が大の楽しみだった。

◆「泣きながら食べた」と、次の写真。あれれ、唇から出た血が「つらら」になっている! 凍傷になりやすい角幡さん。靴下を5重履きにし、悪化しないように血管拡張剤を飲んでいた。そのためヘルペスになり腫れていた唇の血管も、拡張しちゃったらしい(さらにお尻の痔からも血が出て、一時は上下流血のどえらい状況だったそうです。ひえー)。

◆乱氷の多かった今年、乱氷地帯を越えるのは過酷だった。引き返すにも同じ時間がかかるため、進むほど「もう行くしかない」という状況になる。「進退の判断」をしつつ進むところが北極行の魅力の一つかもと思ったそうだ。

◆キングウイリアム島付近、フランクリン隊の船が流氷に捕まって上陸をしたポイントには、ほぼ同じ4月末に着くことができた。さらに進み、ジョアヘブンの手前、壊血病で瀕死の状態だったフランクリン隊がイヌイットと遭遇し、肉を分けてもらった場所へ。そこでは、「40人くらいの白人がセイルを張っていた。イヌイットは数日間一緒に過ごし、猟のために去った」という話がある。「この辺で『肉をくれ!』って言ったんだな」と角幡さんが思っていると、人がやって来た。「そうしたら、『ビスケットくれ』って荻田くんが言った」。すごい偶然だ。

◆ジョアヘブンに着くと、甘い物をたらふく食べた。オーラルヒストリーを集めているイヌイット、ルイカムカックさんにインタビューもし、「フランクリンの墓がある」という話などを聞いた。

◆「3人の生き残りがイヌイットの保護を受けたのち、南を目指した」という言い伝えもある。後半の旅行は、苔や背の低い柳が生えているツンドラ地帯を、南へと歩く。歩き始めてすぐに3つの村合同の釣り大会に参加する一幕も。

◆ツンドラ地帯では、人間の痕跡っぽいものも所々に見えた。南に進むにつれ、カリブーだらけになり、カモメや鶴の群れも。ライフルがあれば狩り放題、巨大岩魚は釣り放題。15cmほどあるガチョウの卵を採って来てスクランブルエッグにすると、「すごい」という感想しか出てこないほど、濃厚な味だったそうだ。

◆北極圏を抜け、ただのカナダへ。夏の溶けたツンドラの上を通れるか判らない。そこで持って来ていたのが、ゴムボートだ。スキーとソリは捨て、40キロほどのバックパック1つを背負って進み、川はゴムボートで渡った。しかし激流でないところはまだ氷が張っており、なかなかボートが進まない。つらら状の氷の上は二重構造で揺れに強く、渡れることが判ってからは、ボートをソリの様に曳いて進むことも多かった。ゴールのベイカーレイクへ着いたのは7月7日。103日間の旅行だった。

◆書くことは、仕事だし、やりたいことだ。けれどいま、冒険(探検)を本にすることはとても難しい。日本で冒険が社会的価値を持ち、その行為が社会性を帯びていたのは、植村直己の時代までであり、いまは完全に個人的行為になっている、と角幡さんは考えている。

◆本にするには社会性(共感できるストーリー)が必要だが、行為と表現の折り合いをどうつけてゆくか。それには「人が生きるってこと」を考えさせるものにするしかない。「なぜ冒険するか」の問いも「何のために生きているのか」と近しいからだ。『空白の五マイル』でそれは個人の行為の中にあったが、今回は「北極で生き抜こうとした人達」に仮託できるのではないか……。

◆けれどやはり、冒険(探検)を書くことの難しさがある。ストーリーが「自分の想像」を越えることがたやすい人へのインタビューなどと違い、自然の行為の中でそれを越えることは、身の危険とイコールで困難だからだ。角幡さんは模索中だという。

◆うわー、もうほとんど時間がない。ここで荻田さんがちょっとだけ登場した。「出発までは2人で歩く想像がつかず、ケンカ別れの心配もしていたが、淡々と無事に終わった」。角幡さんの「極地探検の才能」を丸山さんに聞かれると、「極地は技術(才能)ではなく、根性だから」ときっぱり。荻田さんのこの旅の報告も、聞いてみたいと思った。

◆つづいて、質問タイム。極地装備への熱心な質問につづき、狩りへの質問が。実は「あれ」も「これ」も撃って食べちゃった、とのこと。それも次作で詳しく読めるだろうか(内緒かな)。どんなに角幡さんが悩まれようと、勝手なわたしは、読者は、早く読みたいよう!(加藤千晶

報告者のひとこと

事前にストーリーを作って行為をした場合、それは行為としては純粋ではないのではないか──行為と表現について考える──
 角 幡 唯 介

 報告会の最後にもちょっと話しましたが、行為と表現の問題について最近よく考えます。私のように何かを書くことを前提に冒険をしに行くと、事前にある程度、ストーリーのプロットを作って冒険の計画を練ることになります。

 つまり行為の計画自体は事前のプロットを下地にして進行するわけです。あらかじめテーマがあって、そのテーマを冒険行為を通じて表現し、そして作品にしようと考えているわけですから、現場に行ってみなければ作品にできるかどうか分からないという出たとこ勝負主義では、一生に一度の本ならまだしも、プロの書き手としての仕事にはなりません。

 この場合、難しい問題が二点あります。一つ目は行為の問題です。事前にストーリーを作って行為をした場合、それは行為としては純粋ではないのではないか、という問題です。個人的には純粋ではないと思います。冒険でも旅でも登山でもなんでもいいですが、こうした行為系のノンフィクションを書く場合は常にこの問題が絡んできます。

 書くことを前提にした場合、行為にかかわるすべての面白い局面が話のネタになり、それだけならまだ問題はないですが、話のネタにするために大なり小なり行為を作る、フィクション化するということを延々と続ける羽目になりかねないわけです。

 一番悪いのは、書くために自分で行為を演技するケースで、これではフィクションになってしまいます。しかしそこまでいかなくても、例えば、誰かとの会話との途中で、これは書くのに使えるなと思ったとします。その瞬間、次の自分の一言がフィクションになってしまうかもしれません。

 そういう微妙な境界線上にあるような行為と表現のせめぎあいが、書くことを前提に行為をするとあらゆる局面で発生するわけです。すると結局、それがどんなに細かな問題であっても、絶対に演技だけはしないにしようと決めたとしても、どこかで無理が生じざるを得ず、行為としての完全純粋を達成することはできなくなってしまうわけです。

 もう一つの問題は、こういうプロットを前提に行為を計画した場合、それは作品としてのノンフィクションといえるのか、という問題が出てきます。もちろんプロットを前提にしたとしても、行為をしている最中に起きた、あるいは体験した事実だけを書いているのですから、ジャンルとしてはノンフィクションなんですが、それはあくまで自分で設定したプロット(=想定としてのフィクション)上で展開されるノンフィクションであり、前提としてフィクションなんじゃないのか、と私なんかは思うわけです。自分でやっていてなんですがノノ。

 本当のノンフィクションのいい作品は、おそらくこのプロット(=想定としてのフィクション)を凌駕する体験や事実によって貫かれた作品なのでしょう。まったく想定できなかった事実、事前のプロットを次々と塗り替えるような体験。こうした出来事が連なることでいい作品は書けるのだと思います。そういう意味で『空白の五マイル』は事前のプロットを越えた体験でした。だからいくつかの賞をいただくことができたんだと思います。

 しかし、行為系のノンフィクションだと、いつも事前のプロットが覆されるような体験ができるわけではありません。これは書くことを前提としない登山や冒険で例えると分かりやすいでしょう。登山の場合は事前にあらゆるリスクを想定して行為に挑むわけですから、事前の想定を越えることが起きたら、死に近づくことになり、事態としては困ったことになります。だから通常、成功した登山というのは、プロットの範囲内で収まった行為であるといえます。

 そう考えると、登山や冒険の古典的な名作がなぜ、ぎりぎりの生還劇や脱出行が多いのかが分かってきます。成功した登山や冒険ではプロット内に収まった話なので、想定を越えておらず、ノンフィクションの作品としては大して面白くないわけです。登山や冒険でプロットを越えた力強いノンフィクションを書こうと思ったら、必然的に死に近づいてしまうわけです。このジャンルのノンフィクションが、行けば書ける、というふうにならないのは、こうした問題が大きいせいだと思います。

 ノンフィクションの作品が、どちらかといえば行為系ではなく取材系が多いのも、ここに理由があります。取材系ノンフィクションは稀有な体験をした人や、事情を知っている人を見つけて書くわけですから、取材先が勝手に自分のプロットを越えた話を披露してくれるわけです。取材を積み重ねれば積み重ねるほど、自分のプロットは崩され、物語に厚みがでます。

 じゃあ冒険してノンフィクションを書こうとしている自分はいったいどうしたらいいのしょう? それが目下、私を悩ませている問題です。どこかで想定外のことが起きるのを期待して、行くしかないのでしょうか。まったく困ったことです。


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