2010年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信368より
先月の報告会から

君のいなかった30年

小 林   淳

2010年6月25日 新宿区スポーツセンター

■地平線の中でも、今回の「報告者」小林淳(あつし)を知る人は多くはない。地平線会議旗揚げの半年前、79年3月には日本を出ているからだ。私も顔を合わせた記憶はなく、観文研(日本観光文化研究所)の機関誌『あるくみるきく』に時折り載る、詩的な旅の便りの人、という印象だった。3年後の82年、913通目に当たる3月26日付の手紙を最後に消息を絶つ。

◆淳さんの父・新さん、弟の治(おさむ)さん、そして淳さんを良く知る人々が集まっての報告会。まず、彼と共に観文研に出入りしていた丸山純さんが、その頃の観文研の様子や、「周防猿回しの会」と彼の関わりに触れ、折りしもソ連軍のアフガン侵攻やイランの革命が前後した時期で、中東の地図が品薄となり、丸山さんが貸したバーソロミュー地図を持って小林さんは旅に出た、というエピソードなどを紹介した。

◆ここで三輪さんが観文研について簡単に解説。近畿日本ツーリストの一部門として、旅の文化の研究をする目的で、宮本常一先生を所長として発足。「研究者も、そうでない人も、色んな人が集まっていた」「宮本先生の『(かつて)村々には無用の徒がウロウロしていた。それは良い所ではないか』という言葉通りの雰囲気だった」と、当時を振り返った。

◆ここから、江本さんを進行役に“兄貴たちのリレー・トーク”のかたちに。まず「最初に旅の世界に引き入れた張本人」と紹介されて武蔵野美大教授の相沢韶男(つぐお)さんが登場。「47年4月から宮本常一先生に命じられてムサビの非常勤講師に。ユーラシア大陸まわってきたばかりだから、旅は面白いぜ、と当時は本当のことを学生に言っていた。そのことに責任を感じる」と語る。小林さんが一番興味示したのは、写真の技術だったという。「暗室作るのに水道管のパイプを配管するのなんか手伝ってくれた。まさかそれが旅の手段になるとは」旅日誌には現地で小林青年が写真現像、焼付けを仕事にしていたことがうかがえるという。

◆観文研時代、民俗学調査で小林さんと組んだ人々のメッセージがここで読み上げられた。須藤護さん(現・龍谷大学教授)は、その出会いから共同研究に至る経緯を語り、『あるくみるきく』奥会津特集号の写真の多くは小林さんの作品で、これらがデビュー作となったこと、また彼がフィールドまで徒歩でアプローチすることに拘り、東京から歩こうとしたことなどを紹介。「彼は通常の民俗学の常識を遥かに超えていた。寡黙で、一人黙々と作業に当たり、その写真は、『人間が生きるとは?』『豊かさとは?』を捉えていた」と回想した。

◆歩きと写真への小林さんの拘りは半端ではなかった。印南敏秀さん(現・愛知大学教授)は、メッセージの中で、「彼は対象を遠くから近くまで見て写真を撮った」「余分なことは話さず、頑固で、調査地まで歩いてゆくのも徹底していた」とコメント。

◆続く宮本千晴さんの記憶でも、武蔵野美術大学の学生が中心となった南西諸島の民具調査に、小林さんは写真係りとして参加。その頃すでに、しっかりした技術を身に付けているな、と感じたという。「とにかく寡黙だった」 地平線でもダントツに口数の少ない千晴さんが舌を巻くほど、彼の無口ぶりは際立っていた。「いきなりボソッと現れ、ただ座っているだけ。一番肝心な部分は殆ど喋らない。彼の調査能力については知らないが、独自の興味の持ち方やアプローチの仕方を持っていることは、皆が知っていた」(千晴さん)

◆小林さんは「工夫の人」でもあった。「調査中、針生の人が色々な食糧を差し入れてくれた。が、ジャガイモなど、カレーにして食べても中々減らない。腐らせるとバチが当たる。そこで彼が擦り卸し、ピザ風に伸ばして油で揚げ、パンもどきの物を作った。これでジャガイモの山は急速に消費された」(須藤さんのメッセージ)

◆千晴さんは、小林青年の居候旅の意味を、「形に嵌った調査では見つからないものを、どうやって見つけ出すか。旅人の感覚で見るのではなく、相手の目で、その人生などが見えて来る。それ故の居候だ」と語る。その千晴さんが、「オレが云える事は殆ど云った」と断言するアドバイスの一つが、「手紙を書きなさい」だった。自分が知っている事は書かない日記と違い、手紙だとキチンと相手に説明しなくてはならず、両者は補完し合う関係にあるからだ。旅先からの900通を超える手紙と、この日、会場後方に積まれた『小林淳の旅日誌』(全413ページ、文字数にして50万字近く)は、その産物でもあった。

◆小林さんの旅のスタイルに決定的な影響を与えたのが、観文研仲間の賀曽利隆さんだ。「ぼくの73年12月から74年9月のアフリカコースに、彼は興味を持った。この時はヒッチハイク中心で、交通量の少ない場所では徹底的に歩き、3日間で120km歩いたこともある」。とことん軽装で殆ど金を使わない旅に、「10か月間、金無しで旅できるんですか!?」と彼は驚き、「アフリカ、面白ェーぞ」と熱く語る賀曽利さんの話やアドバイスを熱心にメモに取った。

◆無口ではあっても、小林さんの反応は「目の色で判った」という。「だから、こちらも何としても伝えたいと思う。彼のアフリカの旅の仕方は、寡黙な小林と饒舌なカソリが机を挟んで語り合った、あれから来ている」と賀曽利さん。それだけに「胸が痛む」と声を詰まらせた。

◆日本を出て1年9か月後の80年12月半ば、小林さんは、そのアフリカに足を踏み入れた。念願の地で彼は、出席者が「無口な彼が‥」と不思議がるほど、これまで以上に行く先々での人々との交流や居候旅の度を深めてゆく。「気易く仲良くなれない性格で、どうやって溶け込むのか。それを彼は国内で身につけたのではないか? 日誌に記された数多くの自然体の付き合いを見ると、言葉を超えて相手に伝わる何かが、彼には備わっていたに違いない。

◆千晴さんが、一言ずつ、噛み締めるように語った。「一人の若者が、段々、自分の訓練をしながら育ってゆくのだが、その時、周囲に色んなタイプの人達がいて、一人の青年の成長に関わっている。結果として、すごく色んな人がサポートしている、地平線会議も、そういう場の一つ。仲間が沢山いて、相互に教えあう。それが大切だと思う」 その点でも、小林さんは観文研の申し子であり、秘蔵っ子だった。

◆彼の現地捜索は、1回目が82年11月、5年後に2回目が行われた。「消息を絶った」との断定が遅れたのは、ご家族と観文研の双方に、「相手には連絡が入っているのでは?」との思い込みがあったためらしい。その3回目に当たる、90年秋の捜索時のささやかな慰霊祭の様子が、ビデオで流された。「『馬鹿野郎!』『ふざけんな!』という気持ち」(弟・治さん)の悔しさが我々の胸にも刺さる、本当に切ない光景だった。

◆ここから、父・新さんとの一問一答。江本:旅に出ると聞いたときは? 父:中学生の頃から寡黙になり始めた。親子の会話もなくなった。卒業後は、(民俗学調査で)一か所に長く居て、たまに家に帰ってくるだけ。アフリカに行くとは考えもしなかったが、「2年間か。帰ってこいよ」と軽い気持ちでOKした。江本:小さい頃から読書好きでしたか? 父:暴れたり、はしゃいだりしない、無口な子供だった。正月や祭りに甥、姪も沢山来たが、群れから離れて、一人で本を読んでいた。

◆続いて、赤ん坊の頃からの写真が映し出される。既に祭り好きだったと云う2歳の時の三輪車姿。5歳、蓼科高原でのキャンプ風景。そして、旅先、Kafue(ザンビア)の人々の笑顔。その手作り写真葉書には、特徴のある手書き文字で、散文詩風の文章が書き込まれている。この時期、彼は盛んに写真の現像・焼付けを行っていたらしい。それを、自分で「旅のことばの鉱脈」と名付けた便りに添えていた。

◆読書家だった彼の蔵書1000冊は、家族の手で武蔵野美術大学に寄贈され、その後、常一先生の郷里の記念館に納められた。先年、同地を訪れたお父さんは、「幻の息子に再会した気がした」という。

◆最後に、小林さんが旅先から送ってきた日誌が廻された。ページ一杯にビッシリ詰め込まれた細かな文字に、見た途端、0.15ミリのロトリングを途中で買い求め、少しでも紙面を節約しようと、私も米粒に書くように日記をつけたのを思い出した。

◆『小林淳の旅日誌』は、彼が旅先から送ってきたこれらのノートを活字に起こし、一冊にまとめて製本したもの。その「まえがき」に、「1062日間の記録から選択して、印刷、出版したもの」とあるが、それでも単行本にすれば優に4冊分のボリュームだ。これをワープロに打ち込んだお父さんの執念と気力を思い、ただただ頭が下がった。

◆お幾つでしたか? そう訊ねた江本さんに、お父さんは「57歳です」と答えたという。「もう一度アフリカへ行きたい。もしかすると生きているかも知れない」 慰霊祭を済ませた今もなお、お父さんには、その思いがあるそうだ。この日、57歳で永遠に青年のままの旅人の歩みに、私たちは静かに耳を。[(小林淳さんとは3か月遅れで同い年の) 久島 弘


報告者のひとこと

旅や旅日誌がどう評価されようと、生きて帰って来なければ、あの三年間近い旅はなんだったのかと思う

■地平線報告会で息子と縁が深かった方々が語ってくださったことを聞きながら、親に見えなかった息子の裏の面を知ることができた。息子は旅日記の中でもよく「問わず語りに」ということばを使っていた。普段は寡黙ではあったが、自分が熱中した何かについては、自分から語り出すようなことはあり、それは親の見方とある程度一致するようだ。黙々と一人旅を続けながら、寡黙でその土地、その土地の人々に受け入れられ不思議なほど親切にしてもらったのは、あの子の特性だったのかもしれない。

◆ただ、今回の報告会で息子の旅や旅日誌がどう評価されようと、生きて帰って来なければ、あの三年間近い旅はなんだったのかと思う。6月22日の朝日新聞、天声人語の結びに「どんな旅でもつつがなく帰って来ることが何よりの土産なのだから」と書いてある通りだ。だからできることなら、土産話として本人の口から語らせたかった。そうしたら、あの第2、第3の故郷、タイのバンドゥーやザンビアのカフェの話を誰かが言われたように時間を無視してしゃべったであろう。一介の名もなき若者(当時)の旅報告会を開いてくださったことに深い謝意を表します。(小林新 淳・父)


耐えながら、言葉を選びつつ、次世代に旅が教えてくれる真実を伝えるしかない

■アフリカで行方不明となったままの小林淳君の報告会に出た。我々の仲間で、彼との最初の接点を持った者としての発言を求められた。会では正直に自分の気持ちを述べるしかなかった。彼の一件以来、教壇から本当のことを言うのが恐くなったこと。次の世代に嘘をつくわけではないが、旅の醍醐味や、経験したことを話すのが恐くなった、と話した。

◆何年経っても彼のことがよみがえる。父親の小林新さんが発行した淳君の旅日誌を読んで、フィルムの現地現像ばかりでなく、印画現像までしていたことを知り、後悔が一層深くなった。私の現地現像は、少ない旅費から、節約したくて行った。しかし小林君はさらに印画現像までしていた。これが滞在を延ばさせ、小林君の帰国を妨げたのではないかと思うからである。

◆「不在者」。私には耐え難く重い言葉だった。しかし私は耐えながら、言葉を選びつつ、次世代に旅が教えてくれる真実を伝えるしかない。(相沢韶男


フィルムがない

■小林君にとって、奥会津の村々とそこに生きる人々は人間世界のひとつの原風景となったものだと思う。彼をそこに連れていった須藤護君が、そこで撮った小林君の写真について、「……その1枚1枚が、『人間が生きる』ということにたいして、また『豊かさとは何か』という問いかけにたいして、何らかのメッセージを発していた。本来の家族とは、村のお年寄りはいかなる人生を歩んできたのか、子供たちの将来は、このようなことを常にイメージし、どうしたらその思いを表現できるのか、思い悩んでいたのではないか。それが彼を寡黙にしていったのではなかったかと思われた。……」と言っている。卓見だと思う。口に出すにはあまりに多くの言葉が心の内で行き交っていたのだ。また友であった印南敏秀君は「……小林君は『写真は体力だ』といっていた。まずは対象を遠くから近くまで、また角度をかえて、よく見たうえではじめて撮影したからである……」と記している。その小林君がA4判400ページを超える旅日記を家族に残しながら、一本のフィルムも残していない。今回はカメラを持っていかないことにしました。最後に会ったときこう聞いた気がする。もしこの記憶が正しければ、これも「居候」と同様小林君がこの旅に賭けた探検の方法論だ。人はカメラで見てしまって、目で見たことを忘れる。人はカメラで見ようとするあまり、人の心を見る機会を失う。撮影は次の訪問のときだと。(宮本千晴


413ページにも及ぶ『小林淳の旅日誌』は、後世に残る!

■6月の報告会は「地平線会議」史上に残るものとなった。なにしろ報告者のいない、前代未聞の報告会だったからだ。1982年にアフリカで消息を絶った若き旅人、小林淳君に関係した宮本さんや相沢さんらの話を証言風に積み上げていき、その中から「小林淳像」を浮かび上がらせていった。司会をした江本さんの見事な構成力というほかはない。

◆事前に横浜の小林家を訪ねたとき、ぼくも江本さんに同行させてもらったのだが、その席で「私は地平線会議に命を賭けているんです」といった江本さんの言葉には迫力があり、そのひと言が小林君のお父さんの心をつかんだと思っている。

◆小林君は日本観光文化研究所(観文研)を抜きには語れない。国内の民俗調査でたぐいまれな才能を発揮していた小林君にある日、「アフリカの話を聞かせてください」といわれたときはほんとうにびっくりした。彼はこのままずっと日本国内をフィールドにしての調査行を続けていくものだとばかり思っていたからだ。ぼくはそれまでのアフリカの旅について、熱を込め、自分のすべてをぶつけるかのようにして語った。小林君は「カソリ流・旅の仕方」をメモしていった。

◆それだけに日本を旅立ってから3年、アフリカ・タンザニアの地で消息を絶ったとわかったときは「まずいなあ…」と、自責の念にかられた。その責任の一端は自分にもあると感じたからだ。その年の11月から12月にかけて小林君のお父さん、弟さんとの3人で「東アフリカ捜索行」を行なったが、彼の消息はまったくつかめなかった。

◆あれから30年、旅人・小林淳は今回の報告会によって不死鳥のように蘇ったと思っている。報告会の前日には、小林君から送られてきた旅日誌をまとめた413ページにも及ぶ『小林淳の旅日誌』も完成した。お父さんが渾身の力をこめてまとめたものである。そのページを1ページ、1ページめくるごとに小林淳の世界に引き込まれ、「これはきっと後世に残る!」と、そう直感するのだった。(賀曽利隆


旅に出る者の業をしみじみと考えさせられた報告会だった

■いまとなっては記憶がはっきりしないが、小林君と初めて会ったのは、私が初めての旅から帰ってきたばかり、そして小林君があの長い旅に出ようとしていた1979年の初め頃だったと思う。観文研の一番下っ端同士という立場からすぐに仲良くなり、猿まわしの現場を体験してきたばかりのなまなましい話を何度か聞かせてもらった。自分が仕込んだゴロウの故郷であるスラウェシ島をまず訪ねたい、猿と一緒に旅をしたいと熱く語る口調に、自分にはとうてい及びもつかない、旅人としての器の大きさを感じた。

◆ちょうどソ連軍のアフガン侵攻とイランのホメイニ革命が起こった時期。旅立ちの直前になっても、当時アジアを旅するうえで不可欠だったバーソロミューの地図が手に入らないという。そこで、前年の旅で持ち歩いた私の地図を持っていってもらった。あのくたびれた地図がまだ小林君と一緒に旅を続けているのではないかと、思えてならない。

◆今回の報告会で驚いたのは、気安く君づけして呼んでいたが、小林君が私より2歳も年上だったことだ。また、彼が寡黙な人だったというのも意外だった。猿と旅について語る彼は、あんなに饒舌だったのに。

◆小林君は早くから外の世界に関心を向け、成長するにつれて長いあいだ家を空けることが多くなっていったそうだ。何を考えているのかも伝えずに、ふらりと出かけてしまう。そんな息子をなんとか理解したいと、いまもなお当時の足跡を追い続けるお父上の思いに胸が熱くなったが、振り返ってみると、それは私もまったく同じだ。青春期から家に寄りつかなくなった身勝手な人間は、日本で暮らす家族にとっては、不可解でやっかいな存在なのだろうか。そんな兄を憎む気持ちもあったと語ってくれた弟さんの台詞は、そのまま私の胸に突き刺さった。

◆旅に出る者の業をしみじみと考えさせられた報告会だった。(丸山純


捜索開始から29年間、怒りや憤りの感情から、兄の生き様や静かなる偉業を素直に認識する時期に来たようです

■「兄の身勝手で自己中心な行動の結果がこれです。こんな馬鹿げた話がありますか。私は家族を無視した兄を決して許さない!」。20年前の9月29日、小林淳の仮葬儀での私の言葉です。仮葬儀の終了直前の「親族からの挨拶」。父親から、弟の「おまえ」の本当の気持ちを出していいからと言われ、本音をぶちまけました。葬儀の1年前、母親は肺癌に打ち勝つことができず他界しました。

◆たばこや酒には一切縁のない母が肺癌です! 他人では量りしれない心労があったはずです。父親と私、妻の3人で母が生きるための空気を肺に送り込む最後のひと呼吸するのを看取りました。心肺停止の瞬間、真剣に病室の隅々まで見渡したことをよく覚えています。この世に産んでくれた母親を部屋のどこかで淳は見ているはずだ!……冷房の涼風が白いカーテンを吹き上げているだけでした。その時から「薄情な兄」を許せない感情が続きました。

◆私は父親とは違った気持でこの度の「報告会」に出席させていただきました。事前資料のまとめ、確認等の時間を重ねることによってそれまでの感情が大きく変化してくる自分を知りました。捜索開始から29年間、怒りや憤りの感情から、兄の生き様や静かなる偉業を素直に認識する時期に来たようです。

◆このような有意義な報告会を開催してくださった素晴らしい仲間(失礼いたします)の皆様が、真正面から兄を見つめてくださることに「羨ましい」とさえ思います。ご迷惑をかけっぱなしの宮本千晴さん、いつも相談にのってくださる賀曽利隆さん、そして夢にも思わなかった報告会を実現していただいた江本さんには心より感謝申し上げます。次は兄の愛したタイ・バンドゥー村へ足跡の確認に父を連れて行きたいです。(小林治 淳・弟)


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