2009年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信355より
先月の報告会から

14+1の三度の挑戦

ノムタイがチベットで見たこと

野元甚蔵

2009年5月22日 新宿区スポーツセンター

■河口慧海・能海寛・矢島保治郎・多田等観……。明治から昭和にかけて10人の日本人がチベットに潜行した。そしてその中の1人であり、昭和の難しい時代にチベット入ったのが、今回の報告者、現在92才の野元甚蔵さんだ。それらの事を私は、今回の報告会が予告されるまで、殆ど知らなかった。およそ70年前!近代史の教科書に書かれてもおかしくない様な事をされた方が目の前にいる!

 そう思うとすごく不思議な気分。貴重な機会に、緊張です。

◆立ちあがり挨拶をすると野元さんは、そのまま座らず話し始めた(途中で頼まれ、お座りに。ものすごくお元気!)。鹿児島県の開聞岳の麓の農家、時々漁師の家の三男坊として生まれる。農業高校を卒業したのは、関東軍により中国に傀儡国家の「満州国」が「五族協和」のスローガンと共に建国され、3年が経った頃。同郷のツテを辿り満州(の天津)の特務機関で、中国の情報を書き写すという仕事に就いた。数か月後、声がかかった。「蒙古に行かんか?」。

◆当時の国策として、モンゴル語を話せる若い人を育成することがあった。18才だった野元さんにとってモンゴルに行く事は、まさに「冒険」。しかし一晩考え、「どういう所か知らんけど、若いうちだ、やるだけやってみよう」。

◆野元さんを含め4人の青年が1人ずつ草原のモンゴル人のゲルに預けられ、一緒に生活を始めた。内蒙古のアバカから50キロ程離れた、資産家の役人・ニマメイリンの所に迎えられた野元さんは「ノムタイ(野元が訛って。ノムはモンゴル語で「本」、「学のある人」を意味するとのこと)」と呼ばれ、家族の一員のように生活をした。半年程で日常会話を喋れる様になり、ニマ家の人達とも仲良くなって、冗談も云える様に。だが会話よりも困ったのは、文字の勉強だ。持ってきたノートは2冊だけ。新たに入手はできず、同じノートに鉛筆→万年筆→墨と書いてゆき6冊分として使った。

◆20歳になった時、懲役検査の召集状が来た。検査は北京で行われ、まずは張家口に行かなければならない。ニマメイリンに馬を貸してくれるよう頼むと、血相を変えて「ダメだ」、「兵隊になんかなったら死んでしまう!」。当時、日本には兵役の義務があり、徴兵検査を受けないと「非国民」として厳罰が下される。けれど、野元さんはモンゴル語でそれを上手く説明する事ができなかった。

◆家の人が寝静まった夜、歩き始めた。星で方角を、犬に吠えられればそばに民家があると知る。狼と間違えられ、鉄砲の音が響いた。その時、「闇夜の鉄砲避けられぬ」という諺が浮かんだという。翌朝、ニマ家の家族たちが慌てて探しに出た。「止められた時は憎らしく思ったけれど、後から思えば、本当に可愛がってくれていたんじゃろうと、感謝の気持ちです」。

◆その頃の野元さんの写真がうつし出された。若々しく、前頭部を剃り、後ろの髪は束ね垂らしている弁髪姿。当時のモンゴル人の男性は、多くが弁髪だったそうだ(弁髪は満州族の習慣で1911年の辛亥革命で清朝が崩壊した後は不要だったはずなのに、奥地では根強く残っていたのだろう、と江本さん)。

◆すっかりモンゴル人風の野元さん。検査で疑われないように「特務機関の者だ」という証明書を書いて貰い、夜行列車で北京へ向かった。しかし日中関係は非常に緊張しており、中国の検閲は厳しい。野元さんは個室を利用し、念のため証明書を蒙古靴と防寒靴下の間に隠した。途中警乗兵が来たが、出発前に奮発したチップが効いたのかボーイが追い払ってくれ、事なきを得たという。

◆検査の後、一年半暮らしたニマ家からブリヤート部落に移る事になり、今度はそこでロシア語が堪能なダシニマ氏との10か月程の共同生活が始まった。モンゴル語と日本語を教え合い、集落の子供達にもモンゴル文字や日本語を教える毎日。そんなある日、ダシニマ氏が「チンギスハーンの伝記を蒙古語で書いてみないか?」と言う。「とても無理」と断ると、にっこり笑って「物事はやってみないと判らないでしょう」。初めは間違いだらけだったが「慣れと云うのは恐ろしいもんで」、最後にはほぼ満点で書ける様になった。野元さんが後に「蒙古語1級」に受かったのがわかる話だ。一方、ダシニマ氏もその後日本に留学し、再会した時には流暢な日本語を話せる様になっていた。「そういう嬉しい思い出もあります」と、本当に嬉しそう、楽しそう。一語一語、大切な思い出を紐解く様に、野元さんのお話は続く。

◆モンゴル人は大のお酒好き。ある日所用に行き、一緒に来てくれた男性に小遣いを渡した。そして馬を並べての帰り道──。「バクシー(先生)!」と呼ばれ見ると、男性は懐から白酒の瓶を出す。貰ったお金で買ったのだ。一口目を呑んでくれと譲らないので、口に含んでみたら…「これがもー!焼けつく様でした」。それからも「バクシ!」「バクシ!」と瓶が空っぽになるまで、呑み合いは続く。本当はまったくの下戸の野元さん、「よく馬から落ちず家に帰れたものです」。

◆小休止の後、いよいよチベット潜行の話に。当時日本にチベットの情報はまったくなかった。誰か若者を潜入させよ、との指令が上部から出たようだ。折りから北京に滞在していたシガツェのタシルンポ寺の高僧・アンチンホトクトが帰郷するところだった。この機会にモンゴル語の達者な若者を「お供」としてチベットに、との指示が出たのだろう。

◆今度はチベットに行かんか、と野元さんに白羽の矢が立った。野元さん曰く、自分は一緒にモンゴルに入った4人の中で一番苦労したので選ばれたのではないかなあ。道中もチベット滞在中も、アンチンの秘書だった王明慶氏が野元さんの面倒をみてくれた。

◆「ヒマラヤ越えも省略しまして……」と残念そうに野元さん(本当に貴重なお話ばかりで、時間が全然足りないのです!)。ここからは、ダライラマ14世に絡んだ話に。野元さんがチベットに潜行した1939年というのは、ダライラマ13世の転生者である14世が見つかり、故郷の青海省からラサに入った年。ラサで14世の行列を拝観した、ただ1人の日本人が野元さんなのだ。

◆シガツェで王氏の家に逗留していたある日、中国で仕入れた品物を捌く為にラサへ行くという彼に同行。2週間近くかかる険しい行程を進み、初めてチベットの首都ラサに足を踏み入れた。そして滞在中、まだ4才の14世の行列に遭遇する。歓迎の人波の中、覆いのかかった4人担ぎの輿の中に14世はいた。外から見たってどんなお顔かは判らない。それでも集まった人々は拝み、満足して……。その時の情景が伝わってくる。野元さんのお陰で私は、自分にはただ遠かった70年前のチベットの事が、少しだけ身近に感じられるような気がした。

◆その時はお顔が判らなかった14世に、40年後、再び会う機会が訪れた。講演で鹿児島市に訪れ、西郷墓地に参拝されたのだ。「ああ、この方がダライラマなんだな」と人だかりの後ろで見ていたら、側近の人が「野元さんですね?」。「ハイ!」と進み出ると、14世は「あの時の行列に」と懐かしそうに、固い握手。その時の感激というのは!

◆逗留しているホテルにも来る様にと云われた野元さん。見晴らしの良いホテルの2階、桜島を背にし14世は「ニコッ」とほほえまれた。チベット潜行のことを「なぜ本にしないのか?」と聞かれたので、「自分がチベットに行って帰って来れたのはすべてチベットの人達のおかげ。もし本にしたらその人達にどんな迷惑をかけてしまうか判らない」と答えたという。すると、14世は何遍も頷かれた。そして、「日本もチベットも仲良くしていこう、とお別れしたわけです」。

◆2001年になって、野元さんは『チベット潜行1939』をまとめた。他の9人と違っているのは、当時のチベットの「農業」をしっかりと見て記録した事だ、と江本さんは言う。会場では14世から貰ったという指輪と数珠。そして昔、野元さんが関東軍に提出した極秘の報告書「入蔵記」のコピーが回された。現代のチベットに詳しい長田幸康さんのお話、遥々駆け付けてくれた野元さんのご家族の紹介の後、「今まで生きてきて一番大事なのは、『人と人との付き合い、信頼関係』だと思うんです」、と野元さんは言った。92年という年月の重み、鹿児島弁、そしてなにより、お人柄──。シンプルな言葉が胸に迫り、私はあわや泣きそうになってしまった。「それを伝えたかったんだけど、話が下手だし、頭も悪いし……」そう心配する野元さんに「とんでもない!」とばかりに、会場の拍手は暖かく、いつもより長く長く続いた。最後に「お互いお元気で。又、お会いしましょう」と云われると、またお会いするまではがんばるぞ!と若い私の方が奮起させられる。すっかり「野元さん」に魅了された、報告会だった。それから、私は思ったのだ。もっと歴史を勉強しなければ。その上で、もう一度チベットに行ってみたい、と。(昔、なにも勉強せずにチベットに行った事のある、加藤千晶


報告者のひとこと

70年前の私の体験が若い皆さんの少しでもお役に立ったのならこれ以上のことはありません

■地平線会議でお話しした時は少しも疲れを感じなかったのですが、その後千葉の長女のところで数日過ごし、鹿児島の自分の家に帰った時は、さすがに、ほっとしたというか、ちょっと疲れが出ました。いい経験をさせてもらいました。実は、どこでどう話を切り替えていったらいいかわからないままお話しし、話し終わった時は、なんとも自信が持てなくて、一緒に連れて行った娘たち二人が恥ずかしい思いをしたのでは、と一瞬気遣ったのです。

◆だから、あんなに皆さんのあたたかい拍手に包まれるとは思いませんでした。話し終えた後、若い皆さんが列をつくって私ごときの署名を喜んでくれ、握手を求められるなんて、想像もしないことでした。これまでチベットをテーマに何回か講演会やフォーラムに出たことがありますが、地平線会議の集まりはそれとはまったく違う雰囲気でした。

◆あの日、会場に入った時は、こんなに広い部屋で、と驚き、半分も席が埋まるだろうか、と心配しましたが、あとで聞くと椅子が足りなくて後ろで立っている人もいた、とのこと。それだけの方々が集まって下さり、ほとんど私語もなく話しを聞き入ってくださったこと、そして、思った以上にお褒めを頂いたことが嬉しいです。

◆70年前の私の体験が若い皆さんの少しでもお役に立ったのならこれ以上のことはありません。話しましたように、私の体験は実に多くの方々に助けられて、のことでした。危ない目にあいそうな時、どうにか切り抜けてこれたのは、すべて他人さまのおかげです。出会い、というものはほんとに素晴らしいですね。私の場合、家族にも恵まれました。離れて暮らしている子どもたちも皆気を遣ってくれて、ありがたいことです。

◆それにしても地平線会議、30年も休むことなくこうしたことをやってこられたとは、大したものですね。毎月の地平線通信を読んで(目が悪くて全文は読めませんが)、地平線会議にはいろいろな人たち、仕事も立場も年齢も性も違う人たちがそれぞれ一所懸命にやっていることにほんとうに感心します。今回報告会に出して頂き、一層その思いを深くしました。

◆これだけ多彩な人たちを一つにまとめているのは、並大抵なことではないでしょう。それをまとめている江本さんがすごい、とあらためて思いました。ありがとうございました。(野元甚蔵


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