2008年7月の地平線報告会レポート


●地平線通信345より
先月の報告会から

蒼天に幟を立てて

宮原巍(たかし)

2008年7月25日(金) 新宿スポーツセンター

■4月10日に、ネパールの憲法制定選挙に立候補した宮原巍さん。自ら2年前に立ちあげたネパール国家発展党(NRBP)を率いて戦ったけれども敗れてしまい、国政の第一党はネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)となった。ネパール国籍を取得してまでネパールのことを真剣に考え、行動している宮原さんて、どんな人なのだろう、と実は少々不思議な気持ちだった。他国で選挙に出るなんて、なんかミーハーというか、どこかぶっ飛んだ陽気な感じのおじさんを勝手にイメージしてしまっていたのだが、大間違いだった。

◆実際の宮原さんは、とても落ち着いていらして、マイクを持って語るのもなんとなく伏し目がちで、はきはき、というよりは、ゆっくり、という感じ。そして選挙に出るに至るきっかけや、気持ちを聞くにつれて、宮原さんにとっては、選挙への出馬もごく自然の流れなのだとわかった。突飛なことではなくて、ネパールを真剣に思う彼の信念の延長線上にあることなのだ、と。

◆20代のころから山が好きでネパールに魅せられた。その後ネパールの山の美しさから、「ネパールは観光だ!」と思い立つ。中国やインドと接しているネパールは、これからプロダクトの面ではとてもじゃないが太刀打ちできない。かわりに素晴らしいヒマラヤがあるではないか。

◆第4次南極地域観測隊員として南極へ行ってから人生観が変わったという。通信状況やら今とは全然違う当時を振り返る宮原さんはとても楽しそうだった。「リスクがあればあるほど楽しいじゃないですか」。エベレストの見える丘にホテルを建てようと思った時は、周囲の批判も覚悟していたが、反対は意外と少なかったようだ。ネパール政府からの補助金も得て、3年がかりで建設した。「正直、あのホテルは今でも商売になってません。高くてはお客が来ないからそこそこの料金なのに、高い、高いと言われててね、まあ一番高いところにあるのは確かなんだけど」。

◆そのホテル・エベレスト・ビューの全景については、たまたま今年初め、トレッキングでホテルにも泊まった地平線会議仲間の渡辺泰栄さんの素晴らしい写真が披露された。なるほど、エベレストがとても美しく見える、自然に溶け込んだ素敵なホテルだ。景観に負けないよう芸術作品を造るつもりで造ったそうだ。標高3885メートルという地で15の山々に囲まれているこのホテルは世界一高所にあるホテルとしてギネスブックに認定されている。

◆ホテルや旅行会社を運営する傍ら、1000日ほどかけてネパールをくまなく歩いた。その中でみた地方の貧しい農村の生活というのは、2500年前のお釈迦様が生まれた時と変わらないのでは? というほどの状況だったそうだ。そしてその一方カトマンズはすっかり都市化され、整備された環境でいわゆるお金持ち層が暮らしている。

◆ネパールに来る日本人はカトマンズしか知らないのにネパールはああだ、こうだ、とくだを巻く。宮原さんは、そうやってネパールを批判するだけじゃなくて、ネパールにこうあって欲しいと思うこと、主張したいことに向けて実際に行動したい、と思うようになった。その契機となったのが、1990年に王国ネパールが「民主化」したときだった。しかしその民主化の実際はひどいもので、政治家たちのためのものであり、国民のためのものとはかけ離れていた。1992年頃から政治の腐敗は急速に進み、内閣も10か月程で次々に交代、という状況を繰り返していて、安定はほど遠かった。

◆宮原さんはそんな状況を見るにつけ、自分の残りの人生があと10年として、このまま残りの10年も、やれホテルの稼働率やら組合の対策やらで頭を痛ませて終わってしまうのでは、本来自分が生きている意味がなくなってしまうのでは、と考えはじめた。しかし、いくら正論を唱えたとしてもお前日本人じゃないか、と言われては話ができない。思いきって国籍をとることにした。その後に政治的な発言をしたい、具体的にはネパールの国土開発プランを主張していきたい。そして政党を作ろう、と。

◆「思いつきのような気がするけれども、私にとっては、底流にあるのは、全て一つの延長線上にある気がするんですね。そもそもネパールに行った目的も、探検、冒険の精神みたいなものを何か具体化する、それから、その現状に触れて観光の仕事をする。政党を立ち上げて主張をする、全て延長線上にあると思っています」。

◆なんとか資金を作り、30代の若者たちと共同してマニフェストを作成し、立候補した。王様を日本のようにシンボルとして残し、国土を開発し、そして共和制でなくて議院内閣制を布くという、のが宮原さんの主張だ。マニフェストの英文の冊子を見せてもらったが、政治、経済、教育、外交、福祉と項目を立て、それぞれに詳しく主張が書かれており、ネパールの現状を理解していないと、とてもここまでは書けないものだと思う。国民性はすぐ変わるようなものではなく、政治形態はそれを十分に考慮した上で決めなければならない。国民性と歴史を考えずして共和制を布いている今の政府に宮原さんは不満そうだった。

◆残念ながら党から当選者は出なかったものの、ネパール国民の1000人に一人からは支持される結果に。マオイストは未だに暴力を行使しており、民主化とは、遠い状況である。加えて今カトマンズの環境汚染は甚だしく、大気汚染、森林伐採、汚水と問題が多い。「これらの問題と貧困、すべて政治の腐敗が問題なんです」。宮原さんはネパール人としてネパールを批判している。

◆最後になって、還暦を向かえて挑戦したエベレスト登山の話に。8700メートル地点、酸欠で目が見えなくなってしまい、頂を目前にして下山を余儀なくされたとのこと。宮原さんの著書『還暦のエベレスト』には、「山屋」であるという気持ちを捨て切れなかったこと、そしてもうひとつ思い続けたこととして、「経済活動と安泰のみが生きる目的ではない」と、書かれている。なんとかっこいいことを言うのか…と、読みながら思わず口元が緩んでにやりとしてしまった。

◆「地理的な冒険ではなく、人間との接点でネパールを選び、人間社会との接点の中で仕事をしながら、向こうの人たちのネットワークの中に自分自身が入って、そこで仕事をするということを目標にしてきた」という宮原さん。個人的な話になって恐縮だが、私は自分の人生にどうやって冒険的な要素を加えるべきか、ずっと考えている。普通にサラリーマンするでもなく、かといって突っ走って、およそ社会とはかけ離れたところに行っちゃうのも嫌だ。「社会の接点の中での冒険」、今は具体的には思いつかないが、宮原さんのこの言葉は私のなかで大きなヒントとなった。

◆宮原さんは、私がこれからの未来でやりたいことを今現在まさにやっている、まさに「!」な人なのだ。それはつまり、「人間社会の接点の中で冒険的なことをしたい」ということ。思い返せば、「はだしのゲン」だってそういうコンセプトでやってきた。社会のなかに埋没するんじゃなくて(←これは麻田豊先生がよく言う台詞です)、でももう社会には戻って来れなくなるようなのも嫌で、なんだろう、常に挑戦していたいのだろうか。

◆宮原さんが特定の国に特化して活動してきた点も私には大きな刺激だ。私も、(あまり声を大にして言えませんが)パキスタンに対して自分に何か出来る事はないか、と思っている。今は就職活動をしていて、必死に印パと関わりのある会社や、仕事を選んでいる(まだ内定はもらっていませんが…)。今の私にはパキスタンと今後もどうにかして関わりたい! という闇雲な気持ちしかなく、しかもパキスタンに対してあまり知識もちあわせていない。宮原さんの「ネパールは観光だ!」のように、「パキスタンは○○だ!」なんてとても言い切れない。

◆社会の接点の中で、冒険的なことをする、自分の人生を自分で問いかけながら、常に問題意識を忘れない、そして実際に行動する。自分が74歳になってもまだこんなバイタリティがあるかどうか。なにより宮原さんの行動は、本人もおっしゃっていた通り、一本の筋が通っている。点と点を無理やり結んだ感じなど一切ない。そこが本当にかっこいい。

◆ 最後に会場の黒板に書いてくれた、宮原さんが心の中に留めている言葉。《老驥は櫪に伏すも 走は千里にあり 烈士は募年いぬれど 壮心は己だ止まず》 宮原さん、この精神を忘れず、次の選挙がんばってください!(橋本 恵 07年3月報告者 ウルドゥー一座座員)

[報告者のひとこと]

■「350回の節目に当たる報告会であるから、宮原さんに頼んだ」という江本総元締めの殺し文句に乗ってつい引き受けたのがその私の報告会であった。話し下手の私のことであるから、当然会が終わったあと消化不良を起した感じが残った。私が言いたかったことの一つは、日本人がもう3〜400年ぐらい前に探検の精神が旺盛であったら、ことによるとアムール川以北、レナ川以東の東シベリヤは日本の領土になっていたかもしれないということである。何しろたった140年前に、ロシアの皇帝がアラスカを720万ドルでアメリカに売ってしまうという時代だってあったのである。最も当のアメリカでさえ議会で問題になり、時のジョンソン大統領は「そんな冷蔵庫を買って何になる」といってつるし上げられたという。ところで、その頃すでにアメリカには冷蔵庫ってあったのだろうか? それはともかく、若しあの頃に、「地平線会議」の面々が揃っていて北方探検に志していたならば、きっと地球の歴史は変わった。

◆もう一つ、私は選挙に負けたひがみで言うのではないが、今のネパールの政治は国のことも国民のことも何も考えていない。政治に携わっている人たちは、ただただ権力を如何に手中にするかという争いに明け暮れしている。そう思えて仕方が無い。そしてその一番の犠牲者は弱者、すなわち貧しい人たちである。これが政治を覗き見した私の実感である。たとえごまめの歯軋りだとしても、蟷螂の斧であっても、残った人生はそのことを言い続けることに使いたい。この間の報告会で「地平線会議」の人たちに話を聞いていただいたことで、そのあと勇気をもらったような印象も残った。有難うございました。(宮原 巍


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