2008年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信342より
先月の報告会から

西蔵から響く木霊(こだま)

貞兼綾子

2008年4月22日(火) 新宿スポーツセンター

 チベットと中国の関係が世界的注目を浴びた4月、チベット学者の貞兼綾子さんの報告会が開かれた。貞兼さんは、30年以上に渡りフィールド研究を続けている民俗学者。その方が何を語ってくれるだろうと、100名以上の参加者が集まった。中には、渡辺一枝さんや長田幸康さんを始めとするチベット通の顔も多くあった。

◆話はまず、過熱するマスコミ報道から。ラサで「暴動」の起こった3月14日を境に、チベット問題に関するメディアの表現が変わった。それまでチベット問題を正面切って扱うことはタブーだったが、そのタガが一気に外れたのだ。チベット問題が毎日報道されるようになった。だが、情報源は中国発のものが多く、チベットで本当に行なわれていることはほとんどわからない。そんななかで真実の報道が2つあったという。ラサのジョカン(大昭寺)と甘粛省のラプラン寺で、中国が実施した外国報道陣のメディアツアーの前に、僧侶が現状を「直訴」した映像だ。彼らにどのような厳罰が待つか、想像するだけで恐ろしい。僧侶は命を賭けて何を伝えようとしたのか。

◆マスコミは3月14日をチベット「暴動」とするが、実はその前の3月10日に事は始まった。この日は「ラサ蜂起」49周年の記念日。チベット人が毎年集会を開く日だ。今年もデモが行なわれたが、オリンピックの年の当局はすばやく制圧した。その火がくすぶり続け、14日に市民による激しい抗議行動として燃え上がったのだ。1959年のラサも燃えていた。中国側の策略に対し、ダライ・ラマの命を守ろうとするラサ市民が決起して、多くの血が流れた。それが3月10日のラサ蜂起だった。直後の17日、ダライ・ラマはこれ以上の流血を避けるためにインドへ向けて亡命する。チベットで3月に動きが起こったことには、必然の理由があったのだ。

◆中国政府は「チベットは歴史的に中国の一部である」というが、それは本当だろうかと貞兼さんは問う。1949年、中華人民共和国が成立、チベットは中国の一部と宣言した。1951年にはラサに侵攻して、17条の協約をチベット政府に押しつけた。宗教もチベットの政体の継続も約束され、また当時国連が定めた民族の自決権も保障されるはずだったが、それらは徐々に崩れ、終には消滅した。それ以来、人権と文化の抑圧が続いている。

◆歴史的には元(モンゴル族)と清(満州族)の時代に、中国とチベットが近づいたことはあったが、「一部」になったわけではない。元の時代はチベット仏教を介して施主とラマの関係になり、清の時代は中国側の全権大使2人をラサに置いたものの支配される関係ではなかったという。歴史学者の間では、「一部である」という中国の主張には何の根拠もないと言われている。歴史の検証が必要だと、貞兼さんは言う。

◆話は、貞兼さんが歩んできた道に移る。大学卒業後の1974年、28歳のときにネパールの大学へ民族学専攻で5年間留学した。チベットの研究をしたかったが、当時は文化大革命の中国に入ることができず、ヒマラヤに暮らすチベット系民族を研究対象にして、ネパールを広く歩いた。会場では、当時のモノクロの貴重な写真が上映された。それから現在まで、フィールドワーク主体の研究者としての活動が続く。上映写真では、温暖化による氷河湖決壊の問題や、探検家・関野吉晴さん(会場にいました)との旅なども紹介された。

◆数あるエピソードの中でも特に心に響いたのは「5秒だけの会話」。四川省デルゲへの道、カンゼ(甘孜チベット族自治州/今もっとも抵抗運動の激しい地区の一つ)郊外で、農作業をやっていたチベット人の男が漢語で何度も話しかけてきた。貞兼さんが「わからない」とチベット語で言うと、「ダライ・ラマはお元気か」とチベット語ですばやく聞いてきたという。漢族かどうか確かめていたのだ。貞兼さんもわずか5秒ほどで返事をした。その頃ダライ・ラマは、遠いインドの地で体調を崩されていた。男の気持ちに胸の詰まる思いがしたという。また別のとき、ラサのノルブリンカで、チベット人ガイドの説明を聞いていた。何度もやり取りをしていると、男は突然英語に変えて「私たちのことは外の世界でどう伝えられているのか」と聞いてきた。貞兼さんが手短かに答えると、男は何もなかったかのように観光の説明に戻ったという。こんな一瞬のやり取りが成立するのは、貞兼さんがチベット語を使いこなし、かつ相手に信頼されるからだろう。

◆ネパールの亡命チベット人のキャンプに、お世話になったお爺さんを10年ぶりに訪ねたときのこと。キャンプでは唯一のラサッ子。相変わらず質素に暮らしていた。なぜと聞くと「ダライ・ラマが国へ帰ろうと言ったら、すぐに出発するんだ。身軽なほうが良いさ」と答えた。どんなに時代や環境が変わっても、チベット人には脈々と伝わるアイデンティティーがある。転生者として認定された直後の少年カルマパ17世の写真が映った。貞兼さんは「次のチベットの星」と言った。

◆講演の後半は、再びチベット問題に戻った。チベット文化圏全図が映され、抗議行動が起こった場所が赤い点で示された。4月5日の時点で赤点は50ヶ所以上。チベット亡命政府によると、死者は少なくとも140人、拘束されたのは3000人から4000人に上るという。その数は日に日に増えている。これは「飛び火」ではなく、もともと火種があって自ら燃え出したものだ。聖火リレーにも言及した。長野でどのような行動をとるか、日本人は問われているという(幸いひどい暴力はなく、善光寺で静かに祈る姿が印象的だった)。そして、聖火リレーの天王山はチョモランマ。ヒマラヤの高峰は、チベット人にとって神と同じ存在だ。彼らはどういう思いで聖火を迎えるのか、中国政府は人間としていけないことをしているのではないかと、貞兼さんは語る(5月8日に聖火は登頂。最後に掲げたのはチベット人女性だった)。その他にも、遊牧民の定住化政策などは人権蹂躙だという。そう語ったとき、貞兼さんの目が赤くなったように見えた。心が泣いているようだった。「私は、チベット固有の文化を守りたい。支持したい。学者としてそれをつないでゆかねばならない。私たちが理解することが、チベット人の力にもなる」と力強く言った。

◆わずか600万人程度のチベット人口に対して、13億人の漢族の圧力は圧倒的だ。果たしてチベット問題の解決などありうるのだろうか。それに対して1つの可能性を示してくれた。チベット問題について漢族がブログに書いたり、批判の声明をだす中国知識人が増えているそうだ。そんな中国内部からの動きが、1つの希望ではないか。そして、外の人がそれを理解することが大切ではないか。そう貞兼さんは言った。

◆講演終了時には、立見が多く出るほどの来場者数だった。重いテーマに質疑は活発ではなかったが、渡辺一枝さんが昨年のカンリンポチェ(カイラス)に巡礼者がほとんど来なかった異常事態を紹介して、当局による行動規制の疑いを示唆した。江本さんは、オリンピックの終わった9月以後にチベット問題がどうなるか注視したいと語った。関野さんは、貞兼さんがローカルチベット語を短期間で習得する能力を紹介した。

◆貞兼さんにとって、今回ほどチベット問題を強く語ったのは初めてだという。これまでは、チベット人の知り合いに危害が及ぶのを恐れて、公の場での発言は控えていた。チベットをとり巻く環境は変わりつつある。それは、僧侶たちが命を賭して声を上げたからに他ならない。その後にどんな結果が待つのか承知しながら、それでもなお勇気を出し、人間の尊厳を賭けて立ち上がった。そこには多くの犠牲がある。チベット問題への関心が一過性のものではなく、継続するように、私たちは努力してゆこう。(小林尚礼 梅里雪山からのチベット人留学生を応援しています)

[報告者のひとこと]

《Now let us return to Tibet(さあ チベットへ帰ろう)》

■報告会にてチベット問題についてお話する機会を得た。その世界に身をおくものとして、タイムリーに願ってもない場をいただいたと感謝している。この日の後、4月25、26日の長野、5月6日は東京での集会やデモに参加して、チベット人の人権及びチベット文化を擁護する立場から、サポーターたちの列に加わってFREE TIBET、加えてFREE CHINAの声を張り上げた。

◆北京五輪がカウントダウンに入るのと並行して世界中でこのような集会やデモが日を追って激しくなると予想するが、一方で、チベット人による過激かつ静かなキャンペーンも進行している。59年ラサ市民の決起の精神を喚起し、非暴力によって故国をとり戻そう! という「チベットへの行進The March to Tibet」だ。参加者は亡命チベット人がそのいづれかに属している5団体の有志たち。年齢20才から60才以上の主に男性。

◆今年3月10日にダラムサーラを出発。100人で行動を開始したが、すぐにインド警察に阻止拘束され、その後ももう一度阻止され、キャンペーンのスローガンも幾分ソフトになったようだ。しかし、行進は後続の者たちや釈放された者も後に加わって今も続いている。行進の模様はほぼ毎日インターネットサイトにアップされている。時折参加者のプロフィールなどを挟みながら、通過した地方の人たちとの交流の様子などが写真付きで報告され、グーグルの地図で追跡できるようになっている。ムービーカメラも同行している。

◆これを書いている5月9日、行進60日目、インド北部ウッタラクンド州ナイニタルNainitalまでやってきた。クマオン地方の一角。かつての大英帝国治下のリゾート地だ。メンバーはこの日、48名が加わり総勢313人になった。一行の行く手にはユネスコの世界自然遺産に登録されているナンダ・デヴィ峰やキャメット峰を擁する山岳地が対峙する。チベット自治区との国境線は目前だ。この先どのルートからアプローチするのか? 先頭は一行の最年長者の一人、67才の男性。彼がチベットから脱出したルートを辿っているのかも知れない。

◆この西からの行進隊のほか、東からも出発しているはずだ。あるいは全く別のルートもあり得る。地平線会議のみなさんにも注視していただきたい。タイトルは「the March to Tibet」への祈りの詩から。

◆長野画伯のNo.341の裏面イラストは永久保存にするつもり。(貞兼綾子)


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