2006年7月の地平線報告会レポート



●地平線通信321より

先月の報告会から

狩って食うシステム

梶光一

2006年7月24日 榎町地域センター

<クマ研>

 梶光一さんはエゾシカの研究者だが、スタートはヒグマの研究だ。北海道大学のヒグマ研究会、通称「クマ研」。東京から北大に進学し、何か人のやらない研究をしたいと思っていた梶さんは、部員達の醸すユニークな雰囲気に惹かれてクマ研に入部。柔軟な脳ミソと体力に任せて、トライ&エラーを大胆におこなうヒグマの生態研究・調査の面白さにのめり込んだ。

◆日本最大の大型野生獣であるヒグマについては、その生息頭数はもちろん、行動範囲、エサ、生殖的なサイクルなど判らないことが多かった。昭和30年代に道内でパイロットファームが次々と作られ大規模な牧草地が造成されるまでは、人とクマはなんとか棲み分けていたのだ。しかし人が急激にヒグマのテリトリーに踏み込んだ結果、接近遭遇も増え、危機感を覚えた人々はこの時期大量にヒグマを殺した。当時は動物学の権威ですら“ヒグマのようなケダモノを生かしておいては文明国の恥”という論調だった。

◆クマ研は、こうした風潮に反発を覚えた学生有志が、「生態も良く解ってない動物にそういう断罪はないだろう」と調査を始めたのをきっかけに生まれたそうだ。もともと反骨精神から始まった、学生の任意団体なのだ。クマに電波発信機を仕掛けてテリトリーを割り出したり、食痕やフンの分析からエサの傾向を調べるなど、基礎データの蓄積に力を入れた。時間と、体力と、あたま数が揃うという学生の立場を生かした調査データは、現在も北海道の野生動物管理の上で大きな役割を果たしている。また梶さんを始め、専門的な研究者を輩出したという点でも社会に大きく貢献している組織だ。

◆梶さんが知床にヒグマ調査に入った70年代は、ヒグマを見つければ殺すという時代がようやく終わり、数を獲らなくなってきた時期だった。しかしまだクマの頭数は回復せず、痕跡を追って山を歩いていても、滅多にヒグマに出会えない。当時の調査の模様が紹介されたスライドには、冬眠穴や、クマがフキを食べた痕、雪の上に残された足跡など、様々な手がかりが写っているものの、クマそのものの写真はほとんど無い。

◆ところが、後半のスライドでは、カナダかアラスカで撮ったのかと思えるほど鮮明で、近距離から写されたヒグマの姿が記録されていた。実は90年代から道の方針は大きく変わり、「共存」がテーマになったのだ。時代の流れが変わった。その影響でヒグマの生息数も増え、人とヒグマの関係も、「気にし合うけど、互いに素知らぬ振りをする」関係に変わってきたという。

<シカ研>

 ヒグマに関する卒論で林学科を終了した梶さんは、クマ研の中に「シカ研」を立ち上げ、エゾシカの生態調査に着手した。群で行動をするシカは、ヒグマよりも、個人で行う研究対象には妥当と判断したからだ。エゾシカもまた、その生態は把握されていなかった。年間捕獲頭数から生息数の推移は推測できても、越冬地はどこなのかわからず、行動範囲もわからない。

◆明治期には絶滅の危機に瀕している。北方進出のために軍需用の毛皮の需要があり、肉は輸出用の重要な産業資源となった。当時は10万〜12万頭/年間という狩猟ペース。乱獲である。あまりに獲りすぎて数が減ったため、20世紀初頭から半世紀近く禁猟とし、戦後ようやく解禁になったという経緯がある。梶さんがエゾシカの調査を始めた70年代末はまだ回復期で、道内の年間捕獲頭数は約1500頭。やはり山中でシカに会うのは至難の業だった。78〜79年には梶さんは根室士別の黒牛牧場を拠点に、馬に乗ってシカの痕跡を追う調査をしている。シカの越冬地を探すのが目的だった。このとき乗馬を覚えた事が、後にチベット高原での調査研究に役立つが、それはまた後の話し。

<シカ調査の手法>

 知床で調査を開始したものの、より効果的に調査ができる地域を求めた梶さんは洞爺湖の中島という島をフィールドに加える。限られた閉鎖系の環境だから、頭数の確認もしやすい。群の推移がわかりやすいなどのメリットがある。ここで梶さんはエゾシカの生態を調べるための様々な調査手法を開発した。西欧の事例を参考に、クマ研で培った手法を応用したのだ。

◆エゾシカの生息数を把握するためには、歴史的な数の推移を知る必要がある。いつ頃、どのくらいとれていたのか、農林被害がいつどのくらいあったかなど、聞き取り調査をかさねる。中島では1970年代に、人為的に3頭のシカが島に移されたという経緯が判っている為、その後の数の推移から、気象や食料との関係性が浮き彫りになった。

◆現状の頭数を知るためには視認による計数を行う。これはヘリコプターによる空中からの群の視認(ヘリセンサス)や、あらかじめ複数のルートと計測時間を定め、一斉に車を走らせてルート上に現れた個体を数えるルートセンサスなどがある。ルートセンサスは現在も有効で、道内167か所の設定ルート上で定期的に一斉頭数確認をしている。

◆しかし中島のような閉鎖的な環境では、大人数で追い出しをかけて数を数える「追い出し法」が一番精度の高い視認ができる。スライドで紹介された追い出し法の現場写真には、学生達が輪になって、原始人のようにシカを追い込んでいる様子が生き生きと記録されていた。

◆また、採食ラインといわれる食痕を追い、シカの食態を把握することで、群がどの程度まで環境変化に対応できるかを知るのも、数の把握につながる。シカは特定のエサに依存するというのが定説だった。だから個体数が増えると相対的にエサが減り、自然と頭数が調整されるというのがアメリカの研究者などの結論だった。

◆ところが、梶さんをはじめ、日本のシカ研究者の調査では違う結果が出ている。エゾシカの場合、環境によってエサを換えることで生き延びるのだ。基本的にはササに依存しているが、群の密度が高くなると、落ち葉や、ハイイヌガヤ、あるいは太い木の皮まで喰うことがわかった。

◆捕らえたシカに電波発信機を取り付け、群の行動範囲や個体の移動距離を測る手法も、ヒグマ調査の応用だ。90年代の道東部での調査では、100キロを超える移動をしたメスの個体が確認されている。

<なぜ人がシカの管理をするのか>

 梶さんをはじめシカ研の活動で蓄積されたデータをベースに、公金を使った体系的な調査が始まったのは1990年、梶さんが道の研究施設の職員に採用されてからだ。それまでの調査では以下のようなエゾシカの生態的特性が判明していた。

◆1.年に16〜20%の増加率。2.90%以上の高い妊娠率。3.幅広い食性。 4.群を成すので局地的な被害を引き起こす。5.越冬時の気象条件に生死を分ける。豪雪に弱く、群の絶滅がおこる。

◆100年単位で考えれば、シカの頭数は自然に増減する。しかし農林業被害や、シカと車が接触する交通事故が増え続け、人為的に頭数管理をせざるを得ない時期に来ていた。96年からは、道副知事を旗頭に、全道を挙げてエゾシカ対策を取り始める。そのベースデータとして、まず数の変動を把握することになった。

◆調査のヘッドに立った梶さんは、一番被害の多い道東地域をフィールドに、160か所で夜中に一斉に車を走らせ、ヘッドライトの中に浮かび上がるシカの目を数える「スポットライトセンサス」をはじめ、ヘリセンサス、ハンターや農林業被害地からの聞き取り調査を実施した。95年から03年にかけては、全長3010キロに及ぶネットフェンスを設置して頭数確認を行ったこともある。「おそらく、地球上で一番長い人工物ですよ」と笑う梶さんだが、その実施にかかる労力は並大抵ではなかっただろう。

◆こうした調査の上で打ち出したエゾシカ管理の基本方針は、「フィードバック管理」と名付けられた。曰く25万頭を適正な数値と設定し、50万頭を越えたらメスを獲り、それ以下ならオスを獲るというもの。この管理を維持するためには、常に頭数を把握する必要がある。ちなみに、98年の“道東地域エゾシカ管理計画”では、次のようなテーマが掲げられた。1.大発生を防ぐ 2.絶滅は避ける 3.狩猟による持続的収穫を維持。

◆この管理方針の結果、道東では頭数が抑制されたが、道南ではまだ増え続けている。管理方針は決まったものの、現実のシカがどの様な動態で推移するかは自然相手のこと。2004年には、非常事態宣言が出されている。

<エゾシカを林産物に>

 「いずれにせよ、今日本人が直面している大型野生獣との関係性は、過去100年で初めて出会う事態です」と梶さん。明治の大減少期以来、ヒグマはエゾシカを喰わなかったが、現在はしばしばエゾシカを襲う例が見られるという。「忘れていた味を思い出したんですね」と梶さん。エゾシカに喰いついたヒグマの写真も紹介されたが、これまでの、鮭を食うイメージとは違う肉食野生獣の迫力に満ちていた。

◆戦前までのエゾシカ生息頭数の動向は基礎データが少ないが、戦後少なくともこの50年弱で、世界に例を見ないほど頭数が回復した理由は、梶さんの示した植生図がわかりやすい。昭和30年の前後で、カシワの雑木林が、大規模に農耕地に開墾されているのだ。一方でエゾシカが越冬するために必要な針葉樹の林は昔も今もあまり面積が変わらない。

◆つまり冬の隠れ家はそのままで、夏のエサが増えたと言うことだ。環境がいい上に、繁殖率が高い動物が増えない理由はない。その上、以前に比べて狩猟者が高齢化し、数は減り続けている。「ハンターが絶滅危惧種」とは、最近何度か聞いた笑えない冗談だが、事実である。こうした現状もふまえた上で、北海道が手掛けたエゾシカの個体数管理システムは、生態系重視の日本の先駆的事例といえる。

◆管理システムはとりあえず整ったが、では、獲ったエゾシカをどうするかが問題となる。エゾシカの影響は、農業被害もさることながら、人工林の若樹の葉や新芽を好んで喰うため、森林再生を阻む一番の加害要因にもなっている。そこで梶さんは「エゾシカを林産物にしよう」と提唱する。

◆人との関わりのタイミングで、いきさつ上人為的に管理される成り行きになったエゾシカ。管理計画に沿って資源化を図られる以前は、「有害鳥獣駆除」という名目で狩猟対象となっていた。いわばゴミ扱いされていたのが現実だ。いずれにせよ人間の都合で殺すなら、せめて、なるべく無駄無く活用を図るのが、同じ生きものとしての礼儀だろう。今北海道では全道を挙げてエゾシカ肉の普及に努めている。地産地消をとりあえずの目標にしているが、東京にもエゾシカのステーキを出す店がいくつもあるそうだ。

◆「エゾシカを林産物に」とのスローガンは林学科出身という梶さんの面目躍如たるものがあるなと感心していたのだが、「歴史的には昔から言われたことだよ、勉強してないなあ」と怒られてしまった。実は私(長野亮之介)は梶さんの大学での後輩に当たる。81年に洞爺湖中島のシカ調査にも参加したことがあるのだが、梶さんの仕事の流れをよく知らなかった。今回体系的な話を聞かせていただき、初めて梶さんの仕事の全貌を知り、あらためて梶さんの研究者魂を実感した次第。ものすごく充実した報告会でした。

◆梶さんはこの四月から東京農工大学大学院教授に着任し、北海道を離れた。担当は野生動物保護学である。「とにかく今は、日本で野生動物の現場に携わる専門家が少ない。人材の育成が急務なんです」と梶さん。これから10年は現場に人を送り出す側にいるつもりと話す。学生時代から大学にいるより現場にいる方が長い人だったので、大学の箱の中ではなく、現場で人材育成に当たっている姿が、今から目に浮かぶ。(長野亮之介)


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