2005年10月の地平線報告会レポート




●地平線通信312より

先月の報告会から

天から海へたゆとうて11年

北村昌之

2005.10.28 榎町地域センター

世界にはいくつの川が流れるのだろうか。山の数だけ川が存在し、海がある限り川はあり続けると見るべきだろうか。山屋は未踏の山の頂を求め、川屋は未航下なる川を探し下る。パイオニアワーク。毎年、未航下の川が減る中、東京農大探検部はチベット高原に端を発し遙か南シナ海へと続く一筋の流れ、未だ全流航下のなされていないアジアの大動脈、メコンに目をつけた。

◆メコン川全域航下隊隊長、東京農業大学探検部監督の北村氏の報告は、意外にもいきなり遠征ゴール地点であるはずのメコン川の河口の写真で始まった。北村隊長いわく、報告会時間内にメコン源頭から河口までの5160km、その全てを紹介できるか分からない。予め準備した250枚のスライドの一番最後を見せておくと。

◆今、さらりと全長5160kmと述べたが、この実数も94年秋、東京農大隊がメコン川源頭位置を探し出し、中国科学院の認可を得てなし得た世界に提示されるメコン全長公式データである。農大隊は地理的源頭を求めるにあたり「長さ」「流域面積」「流量」の基準を設定し、源頭を確定した(その対局には民族的源頭がある)。話題の一つ一つが偉業であるにも関わらず、聞く者に驚きを感じさせる暇なく北村氏はとつとつと報告を続ける。

◆源頭を確定したらいよいよメコン全域航下だ。99年の第一次航下ではインフレータブルカヌーとラフトボート(パドルで操作するゴムボート)を用い中国の青海省玉樹蔵族自治州、西蔵自治区昌都地区を航下した。まさにメコン源頭の青い空の下、天空を漕ぎ下る。時に偵察不可能、人跡未踏のゴルジュ地帯こぎ抜け前進した。

◆02年の第二次航下ではラフトボートとカタラフト(オールで操縦するゴムボート)を使い雲南省迪慶チベット族自治州、徳欽県、維西リス族自治県を下った。前回よりも航下難航が予想されボートを変えた。水温10度前後の中、ドライスーツを着込み迫り来るclass4の瀬を下り、時にライニングダウン(犬の散歩のように、ロープにつながれたボートだけを川に流す)、さらにはポーテージ(ボートを陸上運搬する積載装備は400kgにも及ぶ)をして乗り切るが遅々として距離は伸びない。北村隊長がこぼした一言が重かった。「いくら川下りの練習をしても現場で瞬時に状況判断しその技術を使いこなせなくて意味がない」。わざわざ台風の日を選んで増水時の利根川上流域を練習場としてきた隊員たちだが、それ以上にメコンの流れが強烈だったということだろう。

◆04年の第三次にはカタラフトとカヤックを用い、中国チベット自治区を同じくメコン全域航下を狙うアメリカ隊とともに下る。コロラド川をホームとするアメリカ隊と組むことで技術交流も進んだ。4500mクラスの山々に囲まれた谷間を行くメコンは前回よりも難易度は高く、class4-5、5+の瀬が続いた。一日の航下距離23km、16km、8kmと日に日に落ちてくる。準備期間1年、航下日数8日という結果に終わった。

◆そして05年の第四次。中国雲南省西部、ラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムをラフトボート、カタラフト、カヤックさらに現地購入の竹舟、木製舟などを3度購入しメコン川河口まで到達する。実はこの遠征は頓挫しかけていた。前年オーストラリア隊がメコン全域航下を達成してしまったのだ。それを知り北村隊長はもはやメコンをやる意味はない、とさっくり諦めかけるが、会社を辞めてまでメコンに挑もうとする隊員たちの熱意に押され、結局メコンへ。すでに隊長の周りにはメコンの次ぎを夢見る川屋の若者たちがおり、メコン全域初航下という当初の目的の他にもやるべきことがあったようだ。

◆オーストラリア人によってすでに航下された川を行くことはそんなに恐ろしくない。北村隊長は言う。ブラインドカーブの向こうにどんな瀬が待っているのか、その心配度が低い。一度人がこなした所だから何とかなるだろうと。一方、航下されてない川を行くときは川の音に耳を澄ませ、常に川の流れを偵察し前進する。この方が苦労は多いがやはり楽しいとも。

◆渓谷を抜けてきたメコンはついに人の生きる大地へと流れ込む。ダム開発の基礎調査のため、川幅いっぱいに張られたワイヤーを避けながら航下する。その周りに広がる景色は次第に熱帯地方の様相に変わり、さらに現地舟がメコン川を行き交うようになる。今までのメコンはあまりに激流で川の交通手段がなかったのだ。

◆ラオスに入るとラフトなどボートを使うのをやめ現地人が使う舟で海へ向うことにする。付近に豊富に生育するバンブーを使い現地人とともに筏を作ることにしたが、調達したバンブーが川を伝い運ばれてきたときにはすでに筏になっていた。人々は風変わりな日本人に友好的だった。

◆バンブー筏は全長11m、幅2.7m。筏の操作は湯豆腐スプーンの様な竹製のパドル。以後、激流の中でラフトを自在に操ってきた川下りのプロ達は川下りというよりも漂流に近い川旅をしいられることになる。この怪しい筏は時に住民との交流を円滑にし、時には麻薬の密売グループと間違えられ拿捕され、日に何度も行き交うタンカーとの衝突を命からがら交わしたり、と波乱続きだった。

◆14日間バンブー筏で旅を続け、世界遺産の街、ルアンパパーンでは念願のフィッシャーマンズカヌー(長さ10m、幅0.75m、高さ0.45m)を購入した。バンブー筏よりも操作性がいい舟である。が、30cmほどの波を二回突っ込むとあっという間に舟は水面下に沈み、一人は川に流され、舟に残された二人は沈みかけている舟を両足で挟んで漕ぐはめに。

◆カンボジアに入ると大小の島々が中州を形成し、さらには雨期の影響で増水した。その水は川をながれるのではなくジャングルのなかへと吸い込まれていく。一度でもマングローブの根にカヌーが張り付いたら二度と本流に復帰することはできないだろう。本流から離れ一時細い水路に入りこむが幸運にも中型船に助けられた。

◆カンボジアに入国後、行きかう舟の形は川舟から海舟へと変わる。ラオスから旅してきたフィッシャーマンズカヌーに別れをつげ、カンボジア舟を購入する。一路ベトナムを目指し航行するが、「あやしいベトナム人がボートに乗ってきた」と密告され「外国人保護」という理由で警察の管理下に置かれた。

◆ベトナムに入国しゴール地点であるメコンデルタを目指す。問題は多岐に分岐したメコンの流れのどこをゴール地点とするかだ。最左岸の海岸をゴール地点と決め漕ぎすすめる。8月5日、メコンデルタ3大都市の一つミトーを早朝に出発。追い風の助けを受け海が予定より早く見えてきた。あと一時間ほどでゴールというところで、警察のチェックに。大型船以外は川から海へと出ること禁止されているという。悔しい幕切れではあるがここで東京農大メコン隊の活動は終わった。

◆メコン川源頭を探り当て、天から海へと5160kmに渡り川を旅する。学術的な意味合いもさることながら、一本の川をやり遂げる、その揺らぎ無い情熱の強さに打たれた報告であった。終始控えめだった北村隊長に今後の活動は?と聞くと「ヒマラヤの川をやる」。まだ手のつけられていない川がそこにはある。終わったメコンに執着することなくパイオニアワークに狙いを定める北村氏、そして東京農大の活動にこれからも期待したい。(Air Photographer 多胡光純)

隊長の執念と根気、真っ直ぐな気持ち

東海大学探検部OB 亀田正人(25)

 探検家・北村昌之氏のところへ遠征の勉強をさせてくれと直談判しにいったのは、今から4年前の冬の事になります。僕が東海大学探検会3年生の時でした。北村氏率いるメコン隊が隊員の募集を出しているらしいと言うことを聞き僕は東京農業大学探検部の門を叩いたのです。

◆その日から卒論にバイトに遠征の準備と勉強とトレーニングと3足のワラジを履いた年もありました。ラフティングガイドからデパートの売り子までありとあらゆるバイトをこなし、メコンでの遠征に3度同行しました。ついこの間の遠征では5ヵ月半もの長い間、寝食を共にし、様々な事を感じ勉強させて頂きました。

◆非日常の遠征において理不尽なことは多々あります。通常では考えられないことが起こるからです。集団行動ということもあり個人のわがままも許されません。当たり前ですがやってみると辛い時もあります。今回の遠征での事です。7月になり僕が25歳になった頃です。僕らはプノンペンに着いていました。逃げようのない日差しの強さと日々続く長時間の運動で疲れがピークに達していた僕はとうとう全身にジンマシンが出てしまいました。治る気配もないので完治しないまま川下りを続けました。連日のように吹く逆風やトラブルで距離も稼げず嫌気がしていました。

◆そんなある日の事、北村隊長の漕ぎにいつになく力が入ってないことに気づきました。その晩、彼は病院へ行き検査を受けました。ホテルに戻った彼に話を聞くと胆のうと十二指腸に炎症ができており寝返りするのもつらい状態だと言います。普段はその様な素振りを見せないので相当痛いのだろうと思いました。しかし、病院に行く前も行った後も変わらず、黙々と漕ぎ続ける北村さんの背中を見て彼の遠征に対する執念と根気、真っ直ぐな気持ちに心うたれ、パドルを握る手に力が入りました。これ以降腐っていた僕の気持ちが入れ替わりゴールまで漕ぎ続ける事が出来ました。

◆ 5ヶ月半、3500km。今考えるとあっという間でしたが川の上にいる時は楽しい事、悲しい事、辛い事、色々ありました。しかし人間とは良く出来ているもので今では面白おかしく楽しい思い出ばかりが僕の中に残っています。今後も面白い事は面白いと言えるよう本気で遊び続けたいと思います。

印象深かった、ゴール

農大探検部OB 石井邦彦(26)

 メコン川との出会いは、2002年の雲南省北西部編から。農大探検部の大先輩である北村さんが「今回は川岸の傾斜がきついので、川の偵察や、いざという時のエスケープに岩登りの技術も要るんだ」等と言って、当時沢登りや岩登りばかりやっていてラフティングは初心者に近い僕を誘ってくれた。また、テレビの撮影助手としての仕事を始めたばかりだったので、探検の映像を撮影しいずれは趣味と実益を兼ねられればと、喜んで参加した。以来、2004年2005年と3度の遠征、4年の付き合いにもなった。

◆その北村さんは、一緒に遠征に行く前は崇拝されるべき遠い先輩という印象だったのが今年の川下りの後半では、朝顔を合わせてもろくに挨拶をしないほど近い関係になっていた。もともと北村さんは仁義やわびさびの他に、「大筋でOK」という事にも重きを置いている人だと分析していたので、あまり多くを語らなくなっても基本的には楽しく、気分良く過ごせた。また、一緒に海まで行った亀田とは、年齢も近く同じく撮影を仕事にしていたので、面白いものを見つける度に互いにきゃーきゃー言いながら、漕いでは撮り漕いでは撮りしていた。

◆そのような仲間とのメコン川下りで、特に印象深いのはやはりゴール。「あそこを曲がれば、海の匂いをバシバシ感じるよ」と北村さんが言ってからが長かった。地元の人に、そこから先は波が高く小さい手漕ぎ舟ではいけないよと言われていた場所まで来た時、半分沈みかけた舟の上で、もうダメだと思い最後の瞬間をカメラで撮ろうとしたら亀田に後ろから怒鳴られた。「あと何分漕げるか分からないよ、漕いで漕いで」振り返ると、今まで何百時間と淡々と漕いできた舟の上で、皆これでもかと必死に漕いでいた。記録には残らない、いいシーンだと思った。

◆そして、警察に止められふてぶてしく北村さんが「俺等らしいや、いいよなみんな、しょうがねえよ」と、ゴールは突然きた。もともと波が高くなって舟が沈めばその時点でゴールにしようと事前に話し合っていたので。というか、あまりにも半年間が長くそれぞれが充実していたので、いまさらゴールだけはキッチリしようという雰囲気でもなかった。

◆いずれにしても、川下りがその土地では日常ではない、雲南省の山岳地帯でのラフティングから始まり。ラオス以降徐々に川とその土地の生活が一体化していき、僕らにとっても常に生活の一部となっていた、海へ向かって漕ぐ。という行為に、久しぶりに大きな意義を実感した長い一日だった。客観的な記録としては殆ど残っていないが、それぞれの色んな思いや重ねた月日がぎゅっと凝縮した、まさに記憶に残るいいゴールだった。

─報告会を終えて─

北村昌之隊長から編集長へのメール

 いつもご苦労様です。皆様方、縁の下の力持ちのおかげで無事報告できたこと感謝いたします。さすがに11年間かけてきたことを時間内に話すことは、難しく絞り込めず、聞き苦しかったかとおもいます。今回の報告ではメコン川を通して、探検の楽しさ、そして単独行と異なりい仲間と行う遠征の楽しさ(私自身、監督という立場上、仲間を育ててきたということもありますが)の二つに絞るつもりでした。

◆ご存知の通り多くの大学探検部は大学の課外活動の一つに位置ずけられています。大学としてもリスクの高く、成果のよく判断できないクラブに対してはその存在意義を明確にすることを求められ、常にリストラナンバー1のクラブに位置ずけられています。そのような中で八年前に大学、顧問の先生の要請で探検部の監督に就任要請され現在に至ります。今回、残念ながら大学側を納得するに値する「世界初航下」は逃しました。公的立場である探検部監督としては目に見える成果は残せませんでしたがその分、沢山の道草と仲間を作れたことが唯一の救いです。学生も若手OBもまだまだ、ホットな連中ばかりなので今後もたのしみにしていてください。私自身も未知なるフィールドを求め精進していく所存です。それではお体に気をつけてください。草々(11月6日)


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