1998年8月の地平線通信



■8月の地平線通信・225号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信225表紙エガミの酢ぬた
●前号の高世仁さんの「ディスカバー田舎」に続けて、今回は私の田舎、南国土佐の足摺地方の夏料理「エガミ(ブダイ)の酢ぬた」を紹介します。

●冬なおテカテカ光る広葉樹林の山と幾筋もの小さな川がそのまま太平洋に落ち込んでいるこの地方で、貝やカニ、エビ、海藻など何でも食べる悪食の魚ブダイをエガミと呼ぶ。年間を通じて磯でよく釣れる代表的な魚である。料理方法は色々あるが、橘を使った酢ぬたが一番うまい。海の幸と山の幸の融合こそ、日本の農山漁村のご馳走の極致なのだ。

●かつて、日本の食は自然の命(エネルギー)を頂くという自然循環共生的アニミズム世界観の本道に繋がっていた。つい30年ほど前まで、日本全国津々浦々田舎の少年たちは狩猟採取盗賊民だった。私の子供時代も、海、山、川を舞台に日々神出鬼没にして変幻自在に暴れまわって自然の余り物を頂いていた。時々大人の作ったものも・・。

地球に優しくなんて気色の悪い奢った事は思わなかったが、十分優しくしてもらい、痛い目にも随分遭った。家や学校でよりはるかに多くのことをここで学んだ。以下、正当な狩猟採取文化が息づき、かろうじて自然の循環と人の暮らしが共に生きていた昭和30年代の夏休みの二日間にタイムスリップして、「エガミの酢ぬた」を釣りから料理まで思い出してみます。

●海の魚を釣りに行くのに、その前日は沢登りをするというのが面白い。餌にするサワガニを捕りに行くのだ。せみしぐれこだます樹幹の緑の木漏れ日揺れる沢筋を登り、水晶色の水が滑る黒や灰色や褐色の石を起こしていくと、赤いサワガニが逃げ出してくる。これを捕まえながら沢を渡る涼風に吹かれるのは暑い夏の日の午後に限る。2、3時間で2〜300匹は捕れる。

●翌日は6時に起き、弁当と竿とカニ桶をもって海に繰り出す。黒潮洗う足摺り地方の磯には、ハエと呼ばれる岩の小島が飛び石上に点在している。このハエには泳ぎ渡ってエガミを釣るのだが、釣れるポイントが決まっているので、潮目のいい日は朝早く行かないと既に先客がいる。岸より水中メガネを着けて海中の魚が珊瑚や海藻の間を回遊していくのを確認しながら目指すハエに泳ぎ着く。

朝早くが一番釣れる時間帯で、正午近くになると釣れなくなるし暑くなる。エガミは食いつくと竿の先が水の中にググーと潜り込んでいくほどによく引く。体色は赤褐色、頭が大きく出っ歯でけして見栄えのいい魚ではない。磯臭みが強く、一般にはあまり人気がない。

●午後、釣れたエガミを家に持ち帰り、早速近くの川でさばく。はらわたを川中に投げ込むとウグイやハヤやゴリなどが競って掃除をしてくれる。川でひと泳ぎ塩水を流してからの帰り道、橘の木に登って実を数十個採っていく。

この実はビー玉とピンポン玉の中間くらいの大きさで独特のキリっとした香りの酢が取れる。待ち構えていたばあちゃんとおふくろがこの酢と味噌を和え、ぶつ切りにしたエガミの切り身に裏の畑で採れた玉ねぎやズイキを切ったものを混ぜる。ニンニク、ミョウガ、シソ、サンショウなどを刻んでいれると更にいい香りになる。

これを冷蔵庫で冷やすと、エガミの身が締まって歯ざわりが良くなり、橘の酢がピリッときて、磯の恵みと山の香りが融合した至福の味になる。二日越しの狩猟採取の醍醐味はここに極まる。

●少しばかり行き過ぎてしまって、環境と人の心身が相乗的に共に病み続けている今、新たに模索する社会(関係性)のヒントがあの風景の中にたくさん盛り込まれていた気がしてならない。[山田高司]


地平線はみだし情報:山田さんは先月、その故郷の山ン中、自動車ごと崖下20mに転落(よく生きていた!)。全身打撲からやっと動けるようになった時に、原稿依頼を引き受けてくれました。ありがとう!

【お詫び】山田高司さんの名前が、地平線通信では山田高志となっていました。申し訳ありせんでした。



先月の報告会から・225
月へのベースキャンプ
続素美代
98.7.31 アジア会館

◆確か80年頃に「ちょっとエベレストまで」という本を読んだ記憶があります。内容は普通のウィークエンドクライマーが休暇をやりくりしてエベレスト=チョモランマの登頂に成功するというお話だったように思います。今回の報告者である続さんのエベレスト登頂はどことなくそんな軽いノリで成功してしまったような印象を世間に与えている感じがします。

◆偶然、飛行機で隣り合わせたドイツ人のクライマーに誘われて、90年、チョモランマへ行き、全く初めての登山なのに、キャンプマネージャーとして7000mを経験します。よほど、高所に強い体質なのでしょう。その後もヒマラヤ、カラコルムなどをトレッキングして回り、肉体も精神もヒマラヤに順化していくのを自覚します。そして92年夏、チョオユー(8201m)の無酸素登頂に成功します。これはもう立派な登山家でしょう。

◆93年夏、ブロードピーク(8047m)登山隊参加。95年春、日本大学エベレスト登山隊に取材班として同行。96年、IMAX(アイマックス)映画「エベレスト」出演のため、ネパール側よりエベレストに挑戦。天候の急変でエベレスト史上最大の悲劇があったことはまだ記憶に生々しいところです。ロブ=ホール、スコット=フィッシャーなど英雄の死、ベック=ウエザーズの奇跡の生還。そして、日本人女性としては二番目、女性最高齢の登頂者となった難波康子のサウスコルでの死。そうしたショックを乗り越えて登頂を目指しますが、咳込んで肋骨を折り、安全を優先する隊長の命令によりサウスコルで涙をのみます。登れる自信があったので、相当残念だったようです。

◆同じ年の夏、ラッセル=ブライス(ニュージーランドの登山家・冒険家)の公募隊に参加してチョオユーに二度目の無酸素登頂を成し遂げます。

◆97年春、ブライスの公募隊で再びチョモランマへ中国側からリターンマッチ。しかし、この年はBCからずーっと体調が思わしくなく、結局8400m地点で断念します。

◆98年春、三度、チョモランマへ(この時もブライスの公募隊)。今度こそは決着をつけねばならない。あの96年春に起こった諸々に区切りをつけねばならない。恐らくこんな気持ちだったのではないかと忖度します。4月中旬、ネパールのカトマンドゥから中国側に入ってBC建設。体調も良好で荷揚げにも参加。天候も概ね良好。そして遂に5月25日、チョモランマ山頂(8848m)に。「…多くの人の支えがあってこそ辿り着いたチョモランマの頂上だ。
『長かったなあ…』。これまでの思いが一瞬、頭の中を駆け巡った。…中略…。ただ気持ちはとても軽くなっていることに気がついた。何かとても大きな荷物を降ろした時のように…」(『山と渓谷』98年8月号』)。北稜ルートからでは日本女性初、女性登頂者としては日本で三人目の快挙が成し遂げられたのです。

◆こうして彼女の登山歴を追ってみると、至極当然のようにエベレストへ登れた気がします。年齢的にも30歳と、最も強い時期に当たっています。彼女の言葉によれば、90年から98年のエベレストに至るまでのほぼ三分の一の年月はヒマラヤに行っていることになるそうです。理想的といっていい順化(肉体的・精神的)の環境でしょう。エベレストに登るのなら、エベレストやその周辺でトレーニングをした方が日本でするよりも効果ははるかに大きいはずです。


◆高所登山には天性の素質をもっているようですが、二度とエベレストには登りたくないといっています。今後、彼女がどんな事をやるかやらないかとても気になるところです。また、山をやるもよし、月に行くもよし、全く違う何かもよし、何もしないもまたよし。

◆「エベレストに登頂したという経験は、その人間を幸福にするか不幸にするか」(『エベレストを超えて』;植村直己1982年より)[難波賢一]



地平線ポストから

■地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。

地平線ポスト宛先:
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方

●西村仁美さんから…98.4.10…ラサ発
◆E-メールで丸山純様宛に、チベットに関する質問をした西村というものですが…。その後、ご紹介いただいた長田さんに連絡をとり、アムド地方のことなど、いろいろアドバイスを受けることができ、無事、現地に行くことができました。今はチベットのラサにいます。お忙しい中、ご相談にのっていただき、本当にありがとうございました。



●在田加代子さん…東京都世田谷区発
◆地平線のメンバーの方には、ランナーが多く“完走Tシャツ"をたくさんお持ちの方も多いはず。たいていの場合、レースの日付入りで、白や明るくさわやかな色のTシャツが多いですよね!? 私は、真っ黒で日付なしの“完走Tシャツ"を手に入れました。

◆それは、6月21日『第一回サンディエゴ・ロックンロールマラソン』でのこと。コースの1マイルごとに、ロックンロールバンドが並び、生演奏の応援があるというマラソンです。最終エントリー1万9978人のランナーの中には、“全身プレスリー”の5人組(一人はプレスリーの曲をボリュームいっぱいにかけたカセットデッキを載せた台車を押しながら走り、一人は女性ランナーを見かけると声をかけながら走っていました)や、ずーっとお手玉をしながら走り続けている不思議なランナーなど、スゴイランナーの多いレースでした。

◆42.195kmを○時間もかけて走り終わった後、私はまだ走り続けていました。完走Tシャツを受け取るために! Tシャツはゴールしてから流れに沿って行けば貰えるというスタート前に言われた言葉を信じて。「Tシャツはどこ?」「完走Tシャツは?」と何人もの人に聞きながらやっと辿り着いた会場で手に入れることが出来ました。

◆帰国して数日後、大会事務局から郵送物が届きました――「完走Tシャツの受け取り場所がわかりづらく、もらえなかったランナーが続出のため『完走Tシャツ』をお送りします」という手紙とともに。

◆こうして、私の手元には真っ黒な(バックプリントあり)完走Tシャツが2枚も納まることになりました。ゴールの後も走り続けて良かった!!



●土屋麻利子さんから…ラオス・ヴィエンチャン発
◆早1ヶ月こちらで過ぎてしまい、だいぶ慣れて動きまわっています。おかげ様で地平線通信届きまして、毎月来るのを楽しみにしています。職業訓練校ですが、順調に進んで今月いっぱいで建物すべてが完成となりそうです。8月から授業を始めたいので、今カリキュラムづくりに追われています。合間に買い付けの仕事も入っているので、なかなか忙しいですね。でも、言葉もできるようになって、だんだん楽しくなっています。



●菊池敏之さんから…
先年中は『オペル冒険大賞』にひとかたならぬご協力を賜り誠にありがとうございました。当活動が前年度を持って終了しましたことは先日書面にて連絡差し上げた通りですが、それに伴い、私も本来の一クライマーに戻り、山岳ガイドとして、またフリーのライターとして、新たな活動を開始することとなりました。至らぬこととは思いますが、長年携わりまた世話にもなってきた「登山」を、恩返しのつもりでできる限り多くの人に伝えて行きたいと思っております。



●野口英夫さんから…カナダ発
◆こんにちは、毎回地平線通信ありがとうございます。みんなが何かやっているのを読むにつけ、「とりあえず俺も頑張ろうかな」と思います。どんなことをするのにも、その下調べ、準備が大変なのはあたり前だけれど、日常に追われてしまうと、その日常の自分に満足してしまって、なんだか同じ日々の繰り返しで時がたってしまいそうです。

◆日本のサイクルスポーツ誌5月号の別冊に、MTBトレール特集、カナダよりの報告という記事を書かせていただきました。個人的には、このカナダの草レースを楽しんでいます。また、バンクーバー市郊外のグラウス山かけっこ登山競争(高度差約700m)があったので参加して、10歳代〜50歳代男子134人中9位になりました。30歳代では「もしかして3位以内かな」と期待していたのですが7位でした。30歳代のおじさんは強かったです。秋にも同様のものがあるので、3位以内を目指します。ちなみにトップは28分台、私は34分台で、過去最高は27分台だそうです。

◆毎年、毎年、秋と春に地域がら仕事を変えていて、昨夏は基本はガイドでありながら、生活のため日本食屋で天ぷらを揚げていたのですが、今年の夏はガイドの仕事の多いバンクーバーにやってきています。長年のウィスラーという山の中から車で2時間の街の中にやってきました。新しい花の名やら、鳥の名、バンクーバーの歴史やら勉強中です。秋にはまたスキーガイドのため、ウィスラーに戻ります。


地平線ミラクル
蜂蜜の奇跡!?

◆旅行していると、「単なる偶然」とは思えない出来事に窮地を救われることが、なぜか少なくない。そんな中で、「それが起きなければ、旅行の続行も危うかった」というような体験を『奇跡』と呼ぶのなら、文句なく蜂蜜との出会いがそれに当たる。

◆皮下脂肪ビンボーでカロリーの備蓄を持たぬ私にとって、旅行中の下痢は絶望とイコールだ。中でもカルカッタで取り付いてきたやつは、破滅的だった。副作用で頭がボケるくらいに強い現地製の抗生物質でさえ、2日もすると飴玉ほどにも効かなくなる。なすすべもなく、最初の4週間で10kgもの貴重な体重が、トイレのかなたへ流れ去った。

帰国直後、歯医者から「向こうでは随分固い物を食べていたんですねェ。出発前に、うちで金属かぶせたでしょ。すり減って、全部、穴あいてますよ」と言われて首を傾げたけれど、その後、下痢が復活した時に謎は解けた。痛みと便意をこらえるのに、いつも奥歯を噛み締めていたため、磨滅してしまったのだ。

◆バスとトラックを乗り継ぎ、クンジャラブ峠を越えてカシュガルに入った時、それまで小康を保っていたカルカッタ下痢が爆発し、腹の状態はどん底だった。2日、3日と、恒例の絶食を繰り返しても効果ナシ。情けなくて、泣きたかった。ここからなら、1週間ちょっとで上海に出られる。日本は近い。しかし、この状態での移動は無理だし、第一、下痢ごときで逃げ帰るなんて旅の美学が許さない。かと云って、このままでは体重がなくなってしまう。

そこで、流動食になりそうなものを探そう、と出かけた宿のそばのバザールで、ポリ袋にたっぷり入った蜂蜜が目に止まった。一瞬、なぜだかそれがブドウ糖点滴パックに見え、次の瞬間、ある考えが閃いた。「同じ糖分なんだから、点滴並に効くかもしれない」 早速、1袋買い求め、宿に持ち帰って紅茶に溶かして飲んだ。点滴替わりだから、1日でカップ1杯半、一口で糖尿病になりそうな分量を飲んだ。

結果はびっくり。その日は十数回トイレに立て篭もったものの、翌朝には軽い食事が、次の日になると普段通りの物が食べられるようになった。幸いその宿は、過酷なルートで辿り着く旅行者のお陰で野戦病院化しており、下痢患者がワンサカいる。試しに同室の者に飲ませたところ、彼らもみるみる元気になった。間違いなく、この方法は万人に効くのだ。

◆蜂蜜は、下痢菌を根絶はしない。しかし、有り難いことに、地場の純粋蜂蜜が見つからない土地のほうが珍しい。例えば旧ソ連などがその一例で、カルカッタ下痢菌を凍てつく大地に流刑地送りにしながらシベリア鉄道でモスクワを目指したが、そこにも蜂蜜はなく、オマケに情報提供者と西側スパイの密会防止のためか公衆トイレもなく、久々にツラい思いをした。

◆ところで、いろいろ試みた結果、蜂蜜が効くのは、当初考えていたような『ブドウ糖効果』ではないらしい。その証拠に、水アメ(成分的に蜂蜜に近い)を混ぜた安物では全く効かないし、なぜだか、100%ピュアな物でも、紅茶に溶かして始めて効果を発揮する。パンに塗って食べても全然ダメ。そして、量をケチっても効き目は薄い。つまり、カシュガルで何の考えもなく取った方法こそが、唯一の正解だった。[久島弘]



「旅と冒険のフォーラム」
島根県金城町で開催
江本嘉伸

◆参院選のあった7月12日、島根県金城町波佐の「エクス和紙の館」で、「旅と冒険のフォーラム」が、開かれた。金城町は、広島駅から高速バスで2時間ほどの中国山地にある町。明治の中期、河口慧海とまさに同時期にチベットへの潜入をくわだて、帰らぬ人となった能海寛の生まれた地で、今年は彼が神戸を旅だってからちょうど百年になる。それを記念して3月には地平線会議の写真展「地平線発」と「日本人の旅」をテーマにした私の講演会が催され、熊本地平線会議の同士たちが駆けつけてくれたことは、この通信でも報告されたのでご記憶のことと思う。

◆今回の試みは、郷土に発足した能海寛研究会が軸になって実行された。選挙と重なったにも関わらず120人の人々が参加し、一部、二部計5時間近くに及んだプログラムを真剣に聞いてくれた。たまたま私は6月から7月にかけて日本山岳会で「もう一つの世紀末−日本・チベットの知られざる交流史」という連続講座をやった直後だったので、夜行列車で東京から駆けつけた女性会員もいて感激した。

◆第一部は、鹿児島県の開聞岳山麓に住む野元甚蔵さんをゲストに江本が聞き役となっての対談「60年前のチベット体験を聞く」。農学校を卒業して満州に渡った24歳の青年がチベットの情勢を探れ、という特務機関の指示で、ひとりチベットに潜入し、1年半を過ごした時の模様が81歳になったご本人の口から生き生きと語られた。1939年から40年にかけてのことで、、これまでご本人直接の報告はほとんどなかったので、貴重な内容を聞く機会となった。金城町だけではもったいないので、できれば一度東京でも聞く場をもちたいものだ。

◆第二部は、「人はなぜ旅するか」のテーマで、地平線会議ではおなじみの3人が登場してのパネルディスカッション。リヤカー曳いてアフリカ大陸を横断した島根県出身の永瀬忠志さん、島旅人の河田真智子さん、近年能海寛の足跡をたどる旅に挑戦している中村保さんが、冒頭30分ずつそれぞれの旅と冒険の体験を語り、その後テーマに沿ってディスカッションとなった。

◆3人のこれまでの行動については、地平線会議の皆さんには、詳しく書く必要はないと思う。(永瀬さんについては、是非是非近況を知りたい、という樫田・鬼編集長の指示により別途インタビューを書いた)

◆パネラーたちには、チベットで不明のまま帰らなかった青年学僧をしのんで故郷にこのような研究会ができ、見事な成果をあげていることが刺激になったようだ。重度障害の夏帆ちゃんの母である河田さんは、似た境遇の仲間たちと組織している「マザー&マザー」の話を例に、帰らなかった者のことを思うことの大事さを語り、会場に強い印象を与えた。彼女の話では、会長を中心に年に一度ホテルに泊まり込んで「デス・スタディ」というのをやっている。亡くなった子どものことを忘れようとせずに、むしろ他者の前でも思いっきり話し合うことで、その子が生きかえる。能海寛の場合も、故郷の皆さんがこうして歴史を追い、その生涯を語り合うことで立派に生きているのではないか、というような話だった。

◆河口慧海のチベット行については誰でも知っているが、志なかばに倒れた34歳の僧のことは今でもあまり知られていない。そんなわけで、私自身は、もう何度も金城町行きを重ねている。[江本嘉伸]


不定期連載
地平線びとの声
 その2
永瀬忠志さん(42歳)

あの永瀬忠志さんが、今モンゴルの草原を歩いている。小さなリヤカーを曳いて。いったい、この人はどうして、もそもそ歩くことにこだわるのか。樫田編集長の密命を受けて島根県金城町でのフォーラムの現場で、日本人の旅への考え方に大いなる刺激を与えたリヤカー旅人の近況と、旅への思いを聞いた。(一部あとで電話で聞いた内容を加え、勝手に構成。文責 江本嘉伸)




――どうもしばらく。故郷の島根で会えるのは楽しいな。
「呼んでもらってありがとうございます。それも能海寛さんゆかりの町に来れたのだから私も嬉しいです」

――まず、地平線会議のみんなに永瀬さんの最近の旅の話を伝えたいんですが。
「最近はアジアのあちこちを歩いてるんですよ。まだ歩いたことのないところを、1年に1回ぐらいのペースで歩いてます」

――アジア旅の最初はどこですか?
「韓国ですね、87年の。釜山からソウルまで466キロをディバックを背負って歩いた」

――リヤカーなしに?
「ええ。できるだけ軽く行きたかった。バックも5キロぐらいにおさえて。でも、4日目には足痛くなってきて、そのうち胃も痛くなってきて・・」

――軽くては調子が出ないんだ。で、それでも歩きとおした?
「ええ。少しずつ調子出てきて。翌年はスリランカに行きました」

――88年ですね?
「そうです。西のコロンボから東のポッツビルまで360キロを9日間かけて歩いたんです。東のほうは、野生の象もいて、いい感じの自然が残ってました。でもパミール人とシンハラ人の内戦が続いている所ですから、あちこちポリス・チェックされて、その点ではしんどい旅でした。そのあとは台湾に行きました」

――同じ年に?
「ええと、88年暮れから89年正月にかけてですね。基隆(キールン)から台南まで536キロを14日かけて」

――うーん、よく行きますなあ。アジア一本槍で。
「ところが、89年5月には一度アフリカに行ったんです。モンバサに短い滞在でしたが」

――アフリカ、いろいろ思い出したでしょうね。今でも私ですらショックな思い出ですが、83年5月でしたかナイジェリアのカノで「田吾作2号」を盗まれましたよね。モンバサから6700キロも歩き続けて、一応アフリカ横断はやった、と思うのに、4年後再挑戦してサハラ砂漠を越え、パリまで行ってしまった。ううん、すごいなあ、と。

「盗まれた、とわかった瞬間は、よし、もう歩かないでいいんだ、とむしろさばさばした気分だったんです。毎日毎日、こんな辛いことやめたい、帰りたい、とばかり考えていましたから。でも、帰国するに当って、もう一度カノの町の、盗まれた場所に立ってみた。そしたら、無念さがこみ上げてきたんです。もう一度来よう、とその時決めました」

――アフリカの旅というと、あなたの旅の理解者でもあった、お母さんのことも忘れられないでしょうね。
「(うつむいたまま)・・・・・・」

――アフリカへの最初の旅から帰ったあと、お亡くなりになったんでしたね。
「・・・・・・」

――失礼。永瀬さんにとって、お母さんの存在はほんとに大きかったんですね。
「すいません‥、いろいろ思い出してしまって‥。母は私が帰ってきてまもなく病気になり1年後に亡くなったんです。2度目のアフリカ行きの時、父に『おまえが母親の命を縮めたんだぞ』と言われたのがこたえて。リヤカー曳いてサバンナを歩いていると、空に母親が雲のかたちで出てきて『おまえのせいではないけんな。がんばれよ』と言ってくれた気がしたんです」

――まさにその通りお母さんは、思ってくださっていたでしょう。金城の地元の人々の中で生きている能海寛のように、おかあさんもリヤカー曳く永瀬さんの中に生きてるんだ、と思いますよ。ところで、おかあさんも心配されていた結婚、無事果たされたようで、おめでとうございます。よかったら、どういういきさつで知り合った方か教えてください。
「北海道で仕事してたんですが、枚方市で私の講演があったとき、聴きにきたんです」

――へえ。遠くから来てくれたんですね。そのまま意気投合したのですね?
「まあ、そうです。結婚してそのうち赤ん坊も生まれて」

――失礼ながら、大収入があるわけではないのに、旅の明け暮れで家計は大変でしょうね。
「ええ、それは。たまに原稿とか講演の仕事がはいるので、つないでますが、まあ楽ではないです」

――アジアの旅、その後は?
「91年にジャワ島に行ったんですが、イヤな目にあいました」

――おいはぎ?
「ええ。それも2回も。ジャワ島を横断するつもりでジャカルタを出たんですが、二人組が金くれ、金くれってついてきた。はじめは無視したんですが、そのうちナイフを出してきた。これは本気の強盗だ、と小銭を渡してその時は切りぬけたのですが、歩き出したらまもなく、同じ二人がまた待ち構えていた」

――それで今度はもっととられた。でも、無事で何よりだったね。
「ほんとに。でも、イヤなものでした」

――もう、こんな旅やめよう、とは思わないんですか?
「そういうこともありますが、でも時間がたつと、またどこかへ行きたくなる」

――そういえば、北極へもリヤカーもって行ったんでしたね。
「93、95年の2回行きました。テント、寝袋、リヤカーもって」

――河野兵市さんと会ったんでしょう? 彼、たまげてましたよ。乱氷帯をどうやってリヤカー引っ張るんだろうって。
「以前から南極大陸にリヤカーで挑戦してみたい、という夢を持ってまして、北極で寒さの体験をしたかったのです。そう簡単ではなかったけれど。ああ、95年にはマレーシアのマレー半島縦断をやった。408キロを11日かけて歩きました」

――で、当面はどこを目標に?
「モンゴルです。実は来週出発する予定。北から南まで歩いてみたい、と」

――北というとアルタンボラクあたりから?
「そう、そういう名前です。25日あればゴビ砂漠を抜けて縦断できるのでは、と思っています」

――リヤカーはなし?
「小さいのを持って行きます。郊外のホームセンターで36000円だったかな、買いました」

――長々とありがとう。元気にモンゴルの旅を楽しんでください。帰ったら、電話してね。




アンケートはがきから 4

今月もしつこくアンケートはがきのコーナーです。掲載した項目は次のとおりです。

●「何か手伝ってくれますか? 近況」/「何者?」/「すまい(市町村)」 「お名前」


●最近卒論作成中ですが、1月なかばには解放され、その後はフリーです。卒業後もしばらく自由人なので、自分にお手伝いできることがあれば喜んでお手伝いしたいと思います。/立正大学探検部4年(関東学生探検連盟前資料係)/埼玉県蓮田市 波多野仁晴

●私はアジア会館のすぐ近くに住んでおりますので、本当は受付のお手伝いくらいは出来るのですが、今は母が高齢で介護しており、出席するのもままならない状態ですので、通信を楽しみに拝見致しております。少し時間が出来ましたら何かお手伝いさせて頂きたいと思います。勝手なお願いですがよろしくお願いいたします。/主婦66歳。広瀬ヨシエ様にお誘い頂き出席するようになりました。20年来ヘロドトスの歴史を始め、玄奘三蔵などアジアヨーロッパの東西交流を勉強しておりますので、この会は楽しみです/東京都港区 原田久子

●毎号楽しみに拝見しております。マスメディアで加工される前の一時情報に近いものが得られるのが魅力です。遠方故、なかなか報告会には出られず、また近頃は冒険的外遊とも御無沙汰ですが、「通信」で様々な考え、活動を見て、自らの糧にしたいと思っております。/大日本図書(株)大阪支社勤務/大阪府交野市 服部知司

●何の手伝いも出来ずに申し訳ありません。会費だけで運営できるとは思っていません。三輪さんはじめ毎月何年間もお世話して下さる方々の奉仕の精神に甘えていることも理解しています。私に出来ることは当然の義務として会費を納めさせてもらう位です。値上げしてでも続けて下さい。1人でも多くの地平線会議ファンが協力的でありますように。多謝。/自称山遊人、自称地平線山岳会会長(会員小生1人)/兵庫県神戸市 藤原謙二

●一生懸命通信を読みます。必要なら愛読者を増やします。/地平線通信から「元気」をいただいているオバサン。高野さんにアコガレ金井シゲさんに感服しているヒト/千葉県市川市 堀内満津枝

●発送作業などは比較的得意です。パソコンは使えません。/フリーの編集者兼ライター/東京都三鷹市 中村易世

●肉体なら提供しますが…/第119回報告者/東京都狛江市 中西純一

●4月から可。呼び出して下さい。ネズミ講組織の報復を受けて悲惨な年だった。しかも暮れには親の懇願に負けて家を買ってしまった。地平線らしくない年だ。/現千葉県技師、といってもタダの看護士/千葉県千葉市 埜口保男

●学生なので、夕方や夜などでよかったら、お手伝いさせていただきます。ご連絡下さい。/立教大学経済学部3年に所属。夏にモンゴルに行ってそのとりことなり、モンゴル語を習ったり、モンゴル植林のNGOに参加しています/東京都世田谷区 後田聡子

●2人目の出産のために実家に里帰りします(1〜3月)。ただ今、子育てで日々過ぎていってしまってますので、そのうちみなさんと遊べる機会があれば、是非と思っております。何もお手伝いできなくてごめんなさい。/ただ者/東京都小平市 楠藤和江

●南極大陸横断したとき、航空券を地平線トラベルの渡辺さんから購入しました。その時、地平線通信を知り、以後愛読しています。/29歳までチャリダー(5大陸横断)現在30歳で会社員/東京都大田区 中島健太

●7月の報告会を最後にアジア会館へは行っていませんが、毎月の通信でのサマリーを楽しみにしています。今後もよろしくお願いします。/神奈川県横浜市 二木康裕

●社会人になって3月で1年になります。自転車メーカーの営業をやっておりますが、なかなか慣れてこない…。旅にはたいへん興味がありますので、顔は出したいなぁとはおもいつつ日々過ごしております。/23歳、男/神奈川県大和市 長野健

●遅れまして申し訳ありません。名簿の削除はしないで下さい。毎日お金という数字ばかり見ています。毎月お送りいただいている「地平線通信」の世界、清涼剤のひとつです。/会社員/神奈川県川崎市 永井マス子

●今のところ身辺が忙しく手伝うことは無理です。大変申し訳ありません。/東京都大田区 難波賢一

●楽しみにしています。近況:平日朝〜職場、夕〜自宅で酒。休日朝〜自宅で活字かTV、夕〜自宅で酒。/?/神奈川県川崎市 西山昭宣

●“受身”一辺倒で大変申し訳ありません。通信を含め貴会の活動には継続的に関心だけは持っています。いつもありがとうございます。/(株)ルックジャパン編集長/東京都世田谷区 西村邦雄

●毎回楽しく拝見しています。いつもありがとうございます。4月より社会人1年生となります。それまでは山や旅行で家にはほとんどおりません。それ以降でしたらお手伝いできます。/日本大学山岳部4年生/神奈川県川崎市 西尾暁子

●何か出来る事ありますか?/昔はよく旅に出ていた。31ヶ国。今は山屋/埼玉県浦和市 中島達哉

●来年の盆休みにカシュガルからサマルカンドまでツーリングを計画中。手作りなので中央アジアの情報が乏しくて大変です。下見にも行かなきゃと思っていますが…。お金も稼がねば!/バイクのりです/神奈川県横浜市 生田目明美

●昨年は久しぶりに山岳レース(奥多摩)に完走しました。その後はまたブクブク体型です。さて、今年は何をするか? 南アルプスあたりの縦走(ランニング)、中部日本分水山脈走破、久しぶりの外国脱出etc.考えることは色々あるのですが…。/山梨県一宮町 中山嘉太郎

●何か出来る事があったらと思いますが仕事が忙しく報告会に出席することで精一杯です。ところで地平線会議、いいですね、独特の雰囲気があって普通の会社の空気と違って刺激になります。2001年世界放浪の旅目指して頑張ってます。これからもよろしくお願いします。/26歳独身、建築会社勤務。学生時代から地平線のウワサは聞いてましたがやっと実際に出席することが出来感動している今日このごろ。学生時代は自転車日本一周、オーストラリア縦横断、富士山、立山山スキー滑降等々やってました。しかし今は…トホホ。悲しいサラリーマン、だけど…。/埼玉県川口市 沼倉拓永

●「地平線通信」毎号楽しみに読ませていただいています。ここのところアジア会館にずっとご無沙汰しているので「地平線通信」だけが唯一のつながりです。217号出し続けたということはすばらしいことです。送っていただいて感謝はしています。/創立まもない頃、ハガキ通信の版下と宛名書きをお手伝いしていました/東京都保谷市 那須美智

●今のところ自分の活動でいっぱいです。「ツールド・シルクロード20年計画」という20年がかりの旅も5年目を無事に終えました。1999年にはカシュガルからトクマクへの天山越えがあるので、高度順応のトレーニング、サイクリングのトレーニングで日本をかけまわる予定です。/正直者(よくバカをみています)/東京都国立市 長澤法隆

●私も同人誌やグレートジャーニー応援団などで三輪さんにはとても及びませんが、ずっと同じ様なことをやってきました。重要なのは何よりもお金、そして、ほんの一握りのヒトの情熱です。どちらかが欠けても成立しません。決断の時かもしれません。/編集者。グレートジャーニー応援団事務局/東京都新宿区 野地耕治

●春から秋までウガンダにドラムの製作に行っていました。/どらまー(ミュージシャン)、旅人/埼玉県大宮市 のなか悟空

●お手伝いしたいのは山々なれど、なんせ遠き屋久島のこと。なかなかできません。写真展も是非やりたいのですが、忙しさにかまけなかなか進みません。もし、遊びでも何でもこちらへ来るようなことがあったら、是非連絡下さい。宿とかお世話しまっせ。/「緑のサヘル(砂漠化防止のNGO)」屋久島保養所所長、といーことにしといて下さい。「屋久島ガイド協会」のメンバーでもあり、宮ノ裏岳、縄文杉のガイドなんかもやってます。/鹿児島県上屋久町 野々山富雄

●いちおうMACとフィルムスキャナー、ふらっとベッドスキャナー等あって、原稿のTEXT化や入力は出来ますが、なにぶん東京から離れているのでむずかしかも? もし出来ればお手伝いしたいですけど…。最近はオフロードバイクでそこらの山を走ってます。/東京農大探検部OBで沢登りに足を踏み入れ30歳になりました。他の人が感心する事をやったといえば、北朝鮮の白頭山の撮影で写真家の岩橋さんのアシスタントをしたことや、中国青海省にメコン川の源頭を探しに行ったくらい/群馬県妻恋村 岩崎昌成


●緊急速報! 高世仁さん、提訴される!

◆第204回報告者の高世仁さんは、現在、拉致疑惑を中心に、北朝鮮問題の取材に取り組んでいる。◆問題の発端は、タイで見つかった「スーパーK」と呼ばれる偽ドル札。この犯人として、カンボジアで捕らえられたのが、元赤軍派で「よど号」ハイジャック犯の田中義三氏だ。なぜ、北朝鮮から出れないはずの田中氏がカンボジアにいたのか?◆北朝鮮の工作員では・・。偽札事件も北朝鮮ぐるみでは・・。この疑問から本格取材が始まる。ついには、亡命した元工作員から、横田めぐみさんが存在する証言も引き出す。これらの取材結果は、テレビ朝日の「ザ・スクープ」などで放映されているが、今回、タイで公判中の田中義三氏らが、報道内容は事実無根として、高世仁さん、高世さんの会社の「日本電波ニュース社」、「テレビ朝日」の三者を相手取り慰謝料7600万円の損害賠償を求める訴えを起こした。「この裁判に負けたら、日本のメディアの調査報道そのものが規制されることになる」◆高世さんは、闘うことを決めている。


樫田編集長主催 キャンプのおしらせ
ここ数年、地平線の仲間でキャンプに行くと、いつも幹事をしてくれる樫田秀樹さんが、今年も計画してくれました。20人用のバンガローを借りる予定でので、参加希望者は樫田さんまで連絡して下さい。釣もできます。
ひにち:9月12日(土)〜13日(日)
ばしょ:星竹山荘キャンプ場(秋川沿いのキャンプ場です)
    東京都西多摩郡五日市町戸倉 TEL:0425−96−0478
    JR五日市線 武蔵五日市駅よりバス「西戸倉」下車徒歩10分
    武蔵五日市駅よりタクシーなら約10分1400円くらい

参加希望者は→ 樫田秀樹 TEL/FAX:03-3550-XXXX
            E-メール:E-mail :


「ナージャの村」再上映!!

◆チェルノブイリ原発汚染にさらされた村の暮らしを追った「ナージャの村」については、何度かこの通信で紹介した。放射能汚染で「危険区域」に指定され「立ち入り禁止」となったベラルーシ共和国の自分たちの小さな村から出ることを拒否し、居残って農業の暮しを続ける6家族15人の日々を、写真家の本橋成一氏が監督して映像におさめたものだ。◆8月10日、そのナージャがやってきた。3日前に着いていた姉のスベータと二人、3週間の日本の夏休みである。ナージャ、今11歳。素朴な、健康そうな少女だ。◆「ナージャの村」いまは全国で自主上映の輪が広がっているが、東京では15日から28日まで、「BOX東中野」で午前10時の早朝上映のみ再上映される。関心のある方は、この機会にぜひ。[江本嘉伸]



■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信225裏表紙 8/28
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



バイクキャラバン、
青の都へ
ウズベキスタンの一都市、サマルカンドは、かつてシルクロードの最重要オアシスの一つとして栄えた古都です。2500年前にゾグド人が開き、その後アレキサンダー大王に征服され、チンギス・ハーンに破壊されてから14Cにチムール帝国の首都として再興されました。イスラム文化の華ひらく町は、青いモスクが立ち並び、「青の都」と呼ばれました。

この夏、一団のバイクツーリングチームが、シルクロードを通って「青の都」へ向かっています。これまでもタクラマカン砂漠一周などを行っている“ツーリングクラブシルクロード”が母体となった「キジルクムキャラバン」チームです。8/6に中国のカシュガルを出発。キルギスタン、カザフスタンを通って、8/15にサマルカンド到着の予定。バイクでは世界初の試みです。

今月はこのクラブの会長で、計画の立案者の生田目(なまため)明美さんをお迎えし、帰国後ホヤホヤのレポートをして頂きます。オモロイデー!!



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