
8月19日。このところ酷暑は我が家の周りからは遠のいていてありがたい。昨日は近くのラーメン屋に行ったら冷房が効きすぎて冷麺をすすりながら、しまった熱いラーメンにすればよかった、と「夏は冷麺命」の連れと話した。
◆地平線会議創設世話人、岡村隆が逝って1年。節子夫人以下息子の征さんご家族、娘の環さん、NPO法人メンバー3人など総勢5家族13人が8月10日、スリランカのマフェリ川支流に散骨した。「NPOの人たちが助けてくれ、息子たちはモルディブまで行ってこれて」と節子さん。岡村、よかったな。
◆一昨日8月17日はその法政大探検部OBの岡村隆、都立大山岳部OBの宮本千晴、関西学院大探検部OBの森田靖郎、早稲田大探検部OBの伊藤幸司らが四谷の我が家に集まって地平線会議を立ち上げた日だ。そうか。あれから47年か。そんな中、いよいよ北海道で地平線会議をやる日がきた。この通信に同封したカラフルなチラシ、「地平線モリズム西興部」を手にしてみてください。裏表いっぱいに9月4日から6日までのプログラムが書かれている。
◆どのパートも面白いと思うが「地平線モリズム」という言葉を意識してほしい。7月の報告者、山田高司が言い切るように、日本は森の国なのだ。北海道という地平線にとっては未知の森の村の素晴らしさを精一杯味わい、山の民に教えてもらおうではないか。この中で楽しみなのが恒例“地平線オークション”だ。土曜日の5日夕、鹿肉祭りの後に2時間あまりの予定。一体何が出てくるのか。実は私自身もすべてはわかっていない。
◆1つだけ明かすと豊岡市の植村直己冒険館から「植村直己さんがイノチかけてつかんだコトバ」というタイトルの植村語録を寄贈してくれた。植村さんは私と同世代の明治大学山岳部OBである。当時、植村さんの行動は毎日新聞が終始、紙面で追い、資金的にも支援していた。地平線会議の発足にあたり、「1万円カンパ」をお願いすると読売新聞記者の私には壁があったのだろう、やんわりとはぐらかされてしまった。
◆そして、植村さんというと私は司馬遼太郎さんを思い出す。植村さんは1984年、司馬さんは12年後の1996年、同じ2月12日に亡くなっているのである。はじめてお会いしたのは新聞社の役員応接室だった。チンギス・ハーンの陵墓探しをやろうとモンゴル科学アカデミーと読売新聞社の合同学術調査が始まろうとしていた。大阪外語のモンゴル語専攻だった司馬さんは作家の立場で協力してくださった。
◆後日、モンゴルの草原でお会いした。私のゲルで日モの考古学者と歓談したが、その時の私はよほど図に乗って見えたのだろう。帰国する便の中で日本航空の便箋に「江本大兄御直披」と書いた手紙を同行していた編集者に託してくださった。「キャンプのムードメーカーである大兄への助言です。考古学者を敬いなさい。大兄は一介の記者にすぎない」との内容で末尾に「むかし、13年間大兄と同業のしごとをした古き仲間の一人として 司馬生」としてあった。
◆以後、私は司馬さんが上京されるたび、「モンゴル会」と呼ぶ編集者の集まりに加わるようになった。チベットと日本人をテーマに書いた私の著書『西蔵漂泊』については葉書ぎっしりの丁寧な感想を頂いた。チンギス・ハーンの陵墓が見つからないまま学術調査が終わったことを報告すると「冬営に 草原の夢 残したる」の一句をくださった。旅を愛した司馬さんに地平線会議という活動について聞いてもらおう、と思っていた矢先の1996年、司馬さんは倒れ、帰らぬ人となった。まだ73歳だった。
◆地平線に戻る。神戸、山形庄内、会津、四万十、そして沖縄・浜比嘉島と日本の各地でその地の風土に学んできた地平線会議、ついに北海道に参上する。西興部村を初めて訪ねたのは20年あまり前だが、当時はこの地で地平線をやるとは考えもしなかった。ただ、鹿肉の缶詰が美味しくていくつも購入したのを覚えている。
◆何が起こるかやってみなくてはわからないが楽しみだ。[江本嘉伸]
■7月の報告者・山田高司は、北海道西興部村で開催予定の地平線会議 in 北海道のテーマ「モリズム」(森のイズム、森のリズム、森に住む)の体現者としての登壇である。山田といえば、世界中の河川を下ったパイオニアとしてのキャリアを誇り、地平線報告会にたびたび登場しているが、今回は“川の人”から“木を植え、森を造る人”へとそのスタンスを広げていった活動の変遷を追いつつ、彼が目指す「循環型環境保全」の想いと理念のビジョンを探る報告会となった。
◆山田は1958年高知県土佐清水市生まれ。東京農業大学拓殖学科(現・国際農業開発学科)に入学し探検部に在籍する。「僕は探検部の20期でちょうど創部20周年のプロジェクトを立ち上げようとの機運があった。地球の川を下る活動は先輩方から受け継ぐ伝統もあった。それならば自分は世界中の河川を繋いで地球を一周しようと考えた」。そのプロジェクトを『青い地球一周河川行』と名付けた。山田はジェームズ・ラブロックが提唱した『ガイア仮説』のイマージュを引用してアクションプランの定義を象徴的に示す。「川は地球の血管であり、森は肺、海は心臓。川下りの探検は地球の“血液検査”である」と。そして「まず日本から一番遠いところから始めよう」と、山田ら探検隊は南米に飛んだ。
◆1981年に南米三大河川、オリノコ川、アマゾン川、ラプラタ川を繋いで現地のカヌーで大陸を縦断。オリノコ川では強盗の被害に見舞われるも計画断念など微塵も念頭になく、ラプラタ川では鰐の足跡だらけの湿地帯をテン場にして「明日の朝は食われて鰐の腹の中かもなぁ」と笑い合ったというから剛気なものだ。今回驚かされたのは、山田らがアコンカグアを始め6000m級3座の登頂に成功していたことだ。山田曰く「初めから南米10座の登頂を目指していた。登山なんてものは10座狙えば3つくらいは成功するもんだよ」と。何とも破天荒な男だ。
◆南米遠征を終え、次に目指したのはアフリカ大陸だった。1985年から、セネガル川、ニジェール川、ベヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川の探検を成し遂げる。そしてこの経験が山田自身の行動を“木を植える”段階へと転換させる契機となった。ニジェール川を下ったときに山田はアフリカの飢餓に直面する。ニジェール流域の森林が砂漠化して、そこで暮らす枯れ木のように痩せた子供らに心が疼く。
◆「農大探検部の理念は『未知の土地の人と自然を愛し探求する。そして探検で得た成果(活動の経験・体験)は現地に返すことで発展に寄与する』。だから原点に立ち返って森林の再生に力を尽くそうと考えた」。遠征から帰国した山田は環境保全活動を行うNGOを探し、『緑のサヘル』と出会う。そうしてチャド(1991年〜96年)と、続いてルワンダ(1997年〜2005年)で植林を行なった。その間にも川下りは続行され、長江、アムール川、黄河、メコン川、セーヌ川、テムズ川、ライン川、ドナウ川、ポー川なども、その一部を下った。
◆探検を続けながらも山田は環境保全活動へと傾斜していく。山田がロンドン大学の市民講座で地球環境保全の講座を受講していたときのこと。環境学の学者から「日本人の君がココで何をしているんだ?」と問われた。「今、我々は1万年以上続いた循環型自然環境の生態である“縄文シビリゼーション”と、鎖国によって海外の消費型文明の影響を避け続けた上で繁栄を得た“江戸ダイナスティ”の生活様式を研究しようとしているのに」と。そんな経験から山田の眼は日本へと向けられる。良い川と良い森があれば“縄文遊び”と“江戸暮らし” が実践可能だ。そういう場所を拠点にしようと考えた。
◆その答えは実は足元にあった。「始めは四万十川流域を拠点とすることには抵抗があった。故郷に近過ぎて。でも日本最後の清流とそれを育む森が残っていて循環型生活のロールモデルになり得る環境だった」。山田は環境NGO『四万十・ナイルの会』を主宰し、日本の林業の山仕事を学びつつ、自然との共生を目指す生活の実践を模索。そして四万十流域の活性化や環境活動のイベントを数々立ち上げたが、そんな山田の実践力と豊富なキャリアを頼って、国内外から環境団体や政治家の視察が多く訪れるようになる。おかげで年間に20〜30件もの企画書や活動プランの立案を余儀なくされることに……。政治家の視察の案内や立案プランの予算管理の責までも負わされ、山田は気力・体力ともに削られ疲弊していく。「木を植えるったって、花咲か爺さんもいれば、性悪な意地悪爺さんもいるんだよ」と、山田は嘆息する。
◆こうして山田が探検から環境活動に軸足を移していったのは、農大探検部の理念の体現に拠る必然ではあったが、その動機となったのは幼少期からの原体験と“血筋=山の家系”の影響が大きいと自己分析する。山田が生まれ育ったのは四国最南端の足摺岬。大河ドラマ化で話題のジョン万次郎の生誕地よりさらに10kmほど先端に近い漁港で、「俺の方が万次郎よりアメリカに近いんだ」と笑う。遊び場は磯の岩場で、そこで鍛えられたので、探検部のクライミング訓練など造作もなかったそう。また同市は海と山が隣り合わせになった地形が特徴で、市域の多くを山林が占めている。だから森林での遊びにも長けるようになり、子供時代のオヤツといえば磯で獲った魚介や山で罠を仕掛けて捕獲した野鳥を焼いて食べたという。小学生時代の友達の多くが林業に関係する家で、森で駆け回って逞しく遊ぶ彼らに憧れた。
◆また山田は日本の森の劣化を目の当たりにしてきた世代でもある。戦後の経済成長に伴い、日本の森は『拡大造林』という国策によって様相を大きく変貌させた。それは薪や製炭業の資源にしかならない照葉樹林を伐採し、建築資材として需要が急増し生育も早い杉やヒノキなどの針葉樹を大量に植林した。しかし安価な輸入木材の市場価値が優勢になると、人工造林の針葉樹の森は捨て置かれ“緑の砂漠”と呼ばれるまでになる。「多くの友達の家が生業としていたから拡大造林を一概に悪とは決めつけられないんだよ」。人が生きるためには森林環境と相剋関係にある宿命や矛盾を成長期に身に染みて理解したことも、現在の活動の礎ともなっているのだ。
◆山田が述べる動機のもう一つのテーゼである“血筋=山の家系”については、自身の人格形成に影響を与えた曾祖父の存在が大きいと語る。「曾祖父は“サンカ(山窩)の民”と関係が深かった。いわゆる『山師』で、山の森から木を伐り出すサンカの杣人を束ねて山林の現場を牛耳る親分的存在だった。喧嘩も強かったというし、山の荒くれ者たちから人望も厚かった。山や森を熟知し、国有林の視察に林野庁の役人が来れば案内もした。地元では村長より立場は強かった。そういう実力者じゃないと山師は務まらなかった」。土佐清水の平家の落人部落の流れを汲む“まつろわぬ民”の山人と深い絆を結び、貴重な山の資源を集約して川に流し街に届ける。そんな山の叡智を身に着けた血筋の大立者にシンパシーを抱くのも当然の成り行きであろう。
◆話は続く。「うちの話好きな婆さんから山の話はたくさん聞いた。そして婆さんは二十四節気と七十二候ごとに山に入っては、美味しい季節の恵みを採ってきて孫の僕らに食べさせるのが大好きだった。彼女は毎日同じ道を歩いて新しい自然を見つけていた。自然と共に生きることに関しては天才でしたね。爺さん婆さんは完全に持続可能な生活をしていた。お宮のある鎮守の森を中心に一里(4km)四方、つまり自分が歩ける範囲、で生活が成立していた。特に婆さんは歩ける範囲から外に出ずに一生を終えたが、その世界の内に深遠な宇宙があった。自然信仰の原型ですよ」
◆結論として山田は持続可能な循環型社会のキーワードを3つ挙げる。「自然崇拝」、「祖霊信仰」、「子孫繁栄の願い」だ。豊かな自然を畏敬の念をもって崇め、その恵みに感謝しつつ生きる。そして豊かな自然を残し伝えてくれた祖先に深く感謝する。加えて自らに繋がる地域の子孫繁栄を一番の望みとして自然と共に暮らすこと。これが持続可能で豊かな循環型地域社会を築く要点だと。
◆2018年〜23年の「イラクの巨大湿地帯(アフワール)探検」以来深く関わる世界最古のメソポタミア文明のギルガメッシュ叙事詩から例えを引いて世界の現状を説く。「現在の世界はシュメールから始まった“観察と実験の科学文明”の繁栄の絶頂期と、最悪の危機の両方に同時に立っていると思う。メソポタミア文明は森を殺すことから始まった。ギルガメッシュ王が都市建設のためにヨルダン杉の伐採に向かうが、杉の森の守護精霊フンババと対立し、策を弄して森の精霊を殺す。これが我々の収奪型文明の始まり。そして過去8000年で世界中の80%の原生林が消滅し、現在も生物の絶滅種が急増していて第6の絶滅期との説もある。一種の生命体が大規模環境破壊原因になっているという、地球史上類のない事態になっている。
◆我々はデジタル文明の絶頂期にいるが、自然と共生し持続可能な生活の実現の最適解は人工知能(AI)でも生成できない。しかし自然との共生モデルのビジョンや解決のヒントが、縄文・江戸の生活にあるのかもしれないとも思う。そして四万十川での活動を通して学んだ経験値が役に立つだろうとも予見している」。ティグリス・ユーフラテス川の河口付近(アフワール)と、多摩川と荒川を含めた江戸時代の環境が似ていて、山田は“江戸ポタミア”と洒落のめすが、日本文化が伝統的に継承してきた叡智をベースに思考実験や実践を通して自然と共生し持続可能な循環型生活環境実現へのヒントが得られるとしたら……、これは夢想なのだろうか?
◆山田が植林に関わった地域が、現在では大きな森にまで拡大していてGoogle Earthで視認できるという。その事実を知ると自然環境との共生という超難題の解決も、あながち夢物語ではないのかもしれないと思える。山田の姿にはドイツの宗教改革者の言葉が重なる。「明日世界が滅びるとしても、今日リンゴの木を植える」(マルティン・ルター)。その希望の象徴であるリンゴの木に実を結ぶのが、人間の原罪の結実ではなく、“真の知恵の実”であることを祈るばかりだ。(文中敬称略)[三五康司]
◆ご縁あって賀曽利隆師匠と知り合ったのがキッカケで地平線報告会初参加(向後元彦さんの1982年第35回)。その後出入りするうちに何故か3代目地平線通信編集長を拝命するも、好き放題ヤラかして(押賣新聞とか……)、武田力さんから「変酋長」認定される。
◆行動の履歴としては、一風変わったアフリカ大陸横断を敢行して第114回報告会を担当。その後江本ハーン様を三跪九叩頭の礼をもって拝し、『読売新聞社第2次チンギス・ハーン陵墓探索行』にBC要員として加えていただく。モンゴルの草原で約4か月暮らした後にアジア大陸横断を目指し、戒厳令下のチベットに潜入して捕まったり、ダウラギリで温泉に浸かったり、ガルワールヒマラヤに登ってガンジス川源頭の氷河で沐浴したり……。各地で聖地巡礼などするうちにインドの沼に溺れてあえなく大陸横断失敗。その後は単発で向後さんに誘われベトナムでマングローブ植えたりしてました。
◆しかしアラフィフを迎えるころ、不摂生と激務が重なり脳疾患を発症、ついに「今夜が山」(by医者)を人生初登頂。何とか生還を果たすも、視覚障害と半身麻痺の後遺症を背負う羽目に。もうポンコツなので行動者としては戦力外だけど、報告会で白杖ついてる奴がいたらオイラです。

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イラスト 長野亮之介
■6月梅雨のはじめ、江本さんから電話あり。9月の地平線会議 in 北海道の「地平線モリズム」に向けて、露払いの話をせよとお達し。しばらく人前で話したことないので、長年の盟友長野亮之介画伯との対談ならできますと答えた。そんなこんなで7月の地平線報告会での対談になった。6月のある週末、白根全さんと長野画伯が館山の山田亭を訪ねてくれて話し合ったとき、今回の対談の内容は「地平線で対談するレレレのおじさん」になるなと思った。
◆2000年の地平線通信新年号に「過疎の村の成人式で講演するレレレのおじさん」という文章を寄稿した。当時住んでいた高知県十和村の1981年生まれの新成人65人に、私の1981年から20年間の川と森の地球遍歴の話をした。それまでは各大陸の河川探検別、アフリカ・チャド、ルワンダでの植林活動別に講演することはあったが、「青い星の川を旅して木を植えて」と題して20年分まとめて話すのは初めてだった。思わぬ好評でその後3年間、近隣の市町村の成人式に呼ばれた。
◆昨年、父が95歳で他界し、納骨のため高知県四万十市の実家に今年5月の連休に帰郷した。父母の写真と一緒に祖父母の米寿の記念写真をコピーして、館山の新居に飾った。祖父母の満面の笑みの写真を、白根、長野両氏は感心してくれた。明治維新、日本にやってきた外国人たちの日本の感想に「微笑みの国」と日本人を賛美する記録がいくつかある。それがうなずける自然ないい笑顔だ。極東の国の辺境、高知県南端の土佐清水市、明治生まれの才気煥発な「海の人」の娘が、「森の人」に嫁いで、森の暮らしに馴染み、昭和時代後半、孫たちに森と海の暮らしのチエとワザを語り教えてくれた話をした。7月の地平線対談のネタの一つは、これでいこうとなった。もう一つのネタの「ギルガメッシュとフンババの話」は後述する。
◆1980年代、「青い地球一周河川行」と題して、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの川を巡った。第一弾の「パンアフリカ河川行」はナイル源流の治安が悪くて入域できず中断。1990年代からチャド、ルワンダで砂漠化防止植林をしながら好転を待つ日々となった。大谷選手より20年早く「水(川)と土(森)」の二刀流を始めた。農大探検部の設立(1961年)の趣旨が「冒険探検の成果を現地に還元しなさい」であった。西アフリカの川で干魃のため飢えて痩せ細っていく子供たちにたくさん出会い、なんとかせねばと、植林プロジェクトに身を投じたのは自然な流れだった。5年間のアフリカの川旅で心身魂ともにアフリカに馴染んでいたことは、言葉に尽くせぬほど役立った。
◆当時のチャドは、治安、気候共に世界最悪のひとつと言っても過言でない状況だった。そんなところへ木を植えにいく若者を熱心に支援してくれる人も多く、欲しいと言えば大量の本を送ってくれた。手塚治虫の「火の鳥」、白土三平の「カムイ伝」、赤塚不二夫の「天才バカボン」全巻が現地の事務所の書棚の隅に並んだ。治安、気候が最悪な所で、「火の鳥」と「カムイ伝」はテーマが重すぎた。「天才バカボン」は繰り返し読んで飽きず笑い、いいリラックスになった。特に、バカボンのパパに邪魔されても、目ん玉つながりのお巡りさんに鉄砲ぶっ放されても「レレレのレー」と掃除を続けるおじさんに己を模した。1997年からは四万十で山仕事しながらアフリカ、アジアでの植林支援に通い、バイクやカヌーで行く人々を見送りながら「レレレのレー、気をつけて」と心から応援した。ハレの日はカヌーやバイクで旅したが、ケの日常は山道具を手に森の手入れに勤しみ山の暮らしの教えを習い、年末はナイル源流に通った。健康を害するほど大変な時期もあったが、充実した楽しい日々だった。何より、どこでも、いつでも応援してくれる「花咲か爺さん」や「人よし婆さん」がいて自分の祖父母を思い出した。
◆祖父母の自然信仰の教えは、以下の3つのとってもシンプルなものだった。①自然崇拝②先祖感謝③子孫繁栄。①めぐみ豊かで時に恐ろしい自然を畏敬し崇拝する。②めぐみ豊かな自然と、その付き合い方を伝えてくれた先祖を敬い感謝する。③めぐみ豊かな自然と、その付き合い方を子孫に伝え繁栄を祈る。この3つを持って、自然の近くで暮らす世界中の人々の所に行くと、すぐに親近感を持たれ溶け込めた。私の三種の神器だ。
◆いつころからか、祖父母の満面の笑顔と同じ顔を浮かべてくれる世界中の人々に出逢いにいくのが、いちばんの幸福感、楽しみになった。自然の近くで暮らす人が持つ世界共通の笑顔だ。「花咲か爺さん」の隣には「意地悪爺さん」がいて、「人よし婆さん」のそばには「人悪婆さん」がいるもので、時には「ここ掘れワンワン」の犬のように、苦労させられた。またあるときは「因幡の白兎」ならぬ「四万十のクロウサギ」よろしく一肌も二肌脱ぎ、もっともっとと脱がされ疲労困憊の時もあった。たくさんの申請書、報告書を代筆した。それも含めていい思い出になっている。
◆7月25日の対談が終わって、山田和也さん(農大探検部先輩、映像監督)が寄ってきて、「オマエ、盛りすぎ」と言った。話の数の「盛りすぎ」か内容の質の「盛りすぎ」か聞きそびれたが、今回は確信犯だった。四万十の山仕事の師匠たちや土佐清水の漁師の幼友達は「盛って」話を面白おかしくする。過酷で危険な肉体労働の休み時間の貴重な娯楽のひとときをたすけてくれる。ネタはすべて首から下(身体)で体験した話、大袈裟だが作り話ではない。
◆長野宅に前日から入り、翌日開演まで、生まれてからや先祖の話、世界中の川探検、植林のこぼれ話など話し続け、あとは長野画伯の引き出す裁量に任せた。惠谷治さん(早稲田大探検部OB、戦場ジャーナリスト、故人)の教えを守って、「感情は出さず観察だけを話した。思考は入れず行動だけを語った」(つもり)。大河のように蛇行したこれまでの人生の流れの中で、蛇行した先の細部に面白いことがたくさんあった。そのすべてを話していたら何日かかかるかわからない。長野画伯と話しながら、どこを削るかずっと考えていた。終わってから、うまく話せたか、何を話したかさえ思い出せない。「盛りすぎ」て、とりとめなく、まとまりのない話になっていたら、まっことごめんなさい。
◆最後に、「ギルガメッシュ叙事詩」について。メソポタミアで人類最初の文字で書かれた人類最古の神話の王様がギルガメッシュ。この王がユーフラテス川を遡って、森の番人フンババを殺しレバノン杉を切り出したことから文明は始まった。今、メソポタミアに始まったホモ・サピエンスの文明は、史上最高の絶頂期であり、同時に最大の危機でもあるようにみえる。人類史上、今ほど便利で快適で贅沢な暮らしは経験していない。今ほど大量の自然破壊も経験していない。我が世の春を謳歌しているが、SDGs(持続可能性)を免罪符のように語り、環境破壊と最終戦争の危機の課題をAIやロボットの最新技術に酔うことで先送りしているようにみえるのは、ついていけない私だけか?
◆各地で講演したころ、演題を任されると「青い星の川を旅して木を植えて」と題したが、サブタイトルは「木を植え 林を育て 森を愛で 川に託し 海に恋し 星を想う」だった。これからも、じっくり観察し、できる行動は続けようと思う。この春から館山市シルバー人材センターに登録し、草刈り班のゴールデンルーキーとして、相変わらず10歳年上世代、団塊世代に可愛がられる「レレレの日々」。休日は楽しく、森や海で遊び、観察し、行動している。その話は次回。[山田高司]
◆1899年、本多清六(日本林学の祖、東大教授、造園学者)が多摩川水源森林を調査した。当時、多摩川で繰り返された洪水と渇水の原因を探るためだった。明治の東京の発展のために多摩川源流の森林荒廃が進んでいることに警鐘を鳴らした。1909年、尾崎行雄東京市長が多摩川水源視察。これを受けて東京市で多摩川水源林購入開始。その後、購入は続けられ、現在も続いている。現在多摩川水源林(山梨県含む)の約50%は東京都の所有、東京都水道局の管理下にある。
◆本多清六は、1920年の明治神宮創建時の公園植樹責任者でもあり、100年経った現在、明治神宮の森と多摩川水源林の森は原生林に近づいている。あと100年で、原生林の様相になるだろう。多摩川で手入れが遅れた森と明治神宮の150年計画の森が相似している。森林の再生力を見抜いていた先人の観察力に脱帽する。
◆多摩川の森の調査をしながら、手入れの遅れた森林が気になり、休日に訪ねてきた。四万十では、源流の不入山の手付かずの原生林と200年自然のままに任せた自然教育林(国有林内)が相似している。奥多摩の森林でも同じ現象が進んでいる。東京都民は100年後、屋久島に行かず、ここの森と渓谷美を楽しむようになるだろう。30年前、屋久島の自然ガイドのプロはいなかった。後輩の野々山富雄(駒大探検部 OB)は、1995年から屋久島に移住し、たまに入る登山ガイドと他のアルバイト掛け持ちだったが、その後プロで食えるようになり屋久島ガイドの草分けとなった。今、屋久島の自然ガイドは150人以上いるという。いずれ、奥多摩のプロ自然ガイドも150人くらいになるかもしれない。
◆人気漫画『鬼滅の刃』の主人公は東京の雲取山付近で炭焼きをしていた設定。全国の森林内と同じく奥多摩の森の中にも炭窯の跡は多い。1960年代に、化石燃料の輸入が本格化し、燃料革命が始まるまで、日本は炭と薪が主要燃料だった。日本中の山間地の基幹産業は炭焼きだった。今は中東各国が世界の燃料生産地の役割を果たしているが、かつて日本の山村が、今の中東の役割を担っていた。燃料革命が起き、収入源の危機を救ったのが、国策「拡大造林」だった。
◆館山の森はマテバシイが多い。高知県では同じブナ科のカシが炭の優良木だったが、館山ではマテバシイが利用され、植林されたらしい。今、マテバシイの森を歩き、炭窯跡を巡るのが楽しい。四万十暮らしのときのように、いずれ炭焼きをしたい。燃料、環境問題を考えるきっかけになるかといえば、そう簡単ではない。日本人が消費するエネルギーを、日本の森のバイオマスに換算すると、3年持たないとの試算がある。そんなことを考えながら、南房総の森山海暮らしを楽しんでいます。
■7月の報告会にはもう一つの意義があった。昨年7月9日に急性白血病のため逝去された岡村隆さんの一周忌追悼の集いとして「偲ぶ会」が、二次会で催されたのだ。地平線会議創設メンバーのお一人であり、スリランカの仏教遺跡探索にご活躍された岡村さんを偲び40人近い人々が集った。
◆奥様の節子さん、ご子息の征さんもお見えになり思い出話を交わした。節子さんによると「岡村は生前、東京と故郷の宮崎、そしてスリランカの3か所を拠点に暮らしたいと申しておりました」とのことで8月には所縁の遺宝を携えてご家族でスリランカを訪問されるそう。
◆白浪五人男ではないが、我らが地平線会議には図抜けた才覚と行動力、そして天賦の人間力を誇る“タカシ三人衆”がいる。ご当人・賀曽利師匠がこう語る。「森本孝・岡村隆・賀曽利隆は“観文研三馬鹿タカシ”と呼ばれたんです。そして岡村隆・山田高司・賀曽利隆が“地平線三馬鹿タカシ”なんですよ! 当然この“馬鹿”は尊称ですからねー!」。つまり「偲ぶ会」は、正規地平線“馬鹿”三人衆揃い踏みであったわけだ。きっと岡村さんもお喜びだったことだろう。
◆岡村さん、念願が叶い雨過天晴の想いなのでは? きっとアチラの「天界仙会議」(命名:久島弘氏)でもご活躍のことでしょう。[三五康司]
■7月の報告会に参加しました。報告会への参加は昨年6月の賀曽利隆さんの報告以来、1年ぶりです。報告会への参加=ランニングの練習と決めているので、報告会前日の7月24日(金)の終業後に福島県いわき市を出発しました。途中雨に降られたりもしましたが、傘を差しつつ国道6号線を夜通し進み続けて、翌朝6時過ぎに茨城県の大甕に到着しました。約77kmを走り、大甕駅から常磐線に乗り込み一路新宿へと向かいました。
◆報告者の山田高司さんのお話を聴くのは、たしか2000年に福島県南会津で実施した「地平線報告会 in 伊南村」での大桃の舞台以来となります。お話の中で一番心に残ったのが、「探検・冒険は成し遂げた結果がゴールではなく、現地に還元すること」という言葉です。
◆世界中の川下りを実践されてきた山田さんは、砂漠化していく大地に植林することで森を再生させる活動をこれまでずっと続けてこられました。それによりグーグルアースでも緑地が確認されるほどに緑が拡大されたことを、とても素晴らしく思います。また、川下りの旅は下からの目線で旅をする、これは低いところから眺めると現地の生活がよく見えるということ。「高い所から見下ろせ」と宮本常一先生の教えとは逆の視点で、旅をする目線により感じることが違ってくることに新鮮さを感じました。
◆1年ぶりの報告会への参加となりましたが、報告会ならではの緊迫感や迫力にはやはり引き込まれますね。何かを伝えるにはフェイス・トゥ・フェイスがいかに大事であるか、ということを改めて痛感しました。
◆最後に。9月の北海道西興部村での「地平線モリズム」では、何かお手伝いできればと思っておりましたが、7月28日に発生した大地震の支援活動で熊本を訪れることとしました。みなさん、参加できずに大変申し訳ございません……。[福島県いわき市 渡辺哲]
■地平線通信567号の発送作業は7月15日、いつもの榎町地域センターで行いました。先月号は16ページとやや薄めでしたが、請負人の人数が少なかったため、いつもと同じくらいの時間がかかってしまいました。終了後は西洋料理「ブラスリー・ベール」でおいしい洋食をいただきました。みなさんおつかれさまでした。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。最後の人はいつものように、仕上がった通信の残部を引き取ることがおもな仕事です。
高世泉 中畑朋子 車谷建太 中嶋敦子 武田力 江本嘉伸
■地平線報告会には、2024年1月以来の参加だった。土曜日に開催されるようになり、地方在住の勤め人としては喜んだものの、いかんせんお財布的なハードルは残る。そのため他の用事やイベントなどとの抱き合わせを狙いがちだが、狙いすぎていると結局行けないことに気がついた。それでとにかく行けそうな日の目星をつけて、報告者やテーマを待った。7月、報告者は山田高司さん(聞き手は長野亮之介さん)、テーマは森。二次会では岡村隆さんを偲ぶ。行こう。きっと9月開催の地平線モリズム西興部に気持ちを繋げてもくれるだろう。
◆会場を見渡してみると、知ってる顔も案外多い。いや、どちらかというと似顔絵で知ってる顔、である。あの人も、あの人も、見たことあるよ(似顔絵で。話したことはないけれど)。山田さんのお話は、記念集会などで直に聞いたことはあるものの、ステージからではなく定例報告会の距離感でお話を伺うのは初めてである。そしてやはり、「あれ? 山田さんてこんなお顔だっけ?」と似顔絵とオーバーラップさせてしまうのであった。
◆私が山田さんを認識したのは2003年3月の地平線報告会 in 四万十ではなかろうか(とはいえ、参加することは叶わず、当時としてはまだ珍しいネット中継を垣間見、地平線通信でレポートを拝読したに過ぎなかったが)。その時の母体イベント『四万十黒潮エコライフフェア』の実行委員長が山田さんだった(という振り返りができるのも、地平線会議アーカイブのおかげです)。当時ご自身も『青い地球を旅して木を植えて』と題してスライド&トークを展開された。そのときから、私にとって山田さんは「四万十川」のイメージがまずある。
◆更にアーカイブでお名前を辿ってみると、1995年10月に「緑輪隊、ニッポンを走る」(日本縦断サイクルキャンペーンとアフリカはチャドでのNGO「緑のサヘル」の活動)、1998年1月に「再生の森から」、2000年9月に地平線報告会 in 伊南村で「川に流れて川を喰う」、 2008年10月に地平線会議 in 浜比嘉島「ちへいせん・あしびなー」で「青い地球の川をカヌーで旅して木を植えて」、2009年11月に地平線会議30周年大集会「踊る大地平線」で「記録すること、続けること」、2018年10月に地平線会議40年祭「恋する地平線 ヤケッパチでも続ける宣言!!」で「森と川に恋して」、2023年8月に「アフワール漂流譚」、2023年11月に地平線報告会500回記念集会「つなぐ 地平線500!」で地平線会議の歩みの発端でもある「78年12月の学生探検会議」、そして今回の「森のヒト」。その軌跡に、一貫して地球に思いを馳せ、活動されてきたことを改めて感じさせられた。また、地平線通信に掲載される各地の雄大かつ細密なイラストは、いつも旅のイメージを大きく膨らませてくれる。
◆報告会当日、「あの本は山田の本でもある。面白いよ」と江本さんから聞き、受付で入手した『メソポタミアのボート三人男』(高野秀行著 集英社刊)。個人的には「先生みたい」な印象もあった山田さんだったが、読み進めると、やっぱり「隊長」である。配付された資料に紹介されていたガイア仮説「川は血管、森は肺、海は心臓」を思い出しながら、西興部では、まずは森と、深呼吸でつながろうと思う。[中島ねこ]
■地平線会議のみなさま、はじめまして。北大山岳部OBの竹中源弥(28)と申します。7月の山田高司さん報告会にて地平線会議にはじめて参加しました。いったいなぜ僕が江本さんの『新編・西蔵漂泊』を読んで地平線会議に出てきたのか、その経緯も含めて自己紹介をする機会をいただいたので、あまり得意ではないですが頑張って自分語りをしてみようと思います。
◆岐阜県関ヶ原町出身、生きものや森の勉強を求めて北大林学科に入学しました。ところが新歓で惹かれた山岳部に入り、勉強そっちのけで岩雪氷に夢中の学生時代を過ごしました。特に日高山脈と層雲峡が好きで、カナダの氷や、ペルー、アラスカの山も登りました。
◆ペルーアンデス・タウイラフ南西壁(5830m)にトライしたのは2022年初夏です。実は2020年春(大学4年)に計画していたアラスカ・デナリ遠征がコロナ禍で中止となり、「海外の山」というものに飢えに飢えまくって大爆発しそうだった2021年(大学院1年)の僕に、2学年上の先輩(フルタイムクライマー)が声をかけてくれたのです。就職してしまうと1か月を超える海外遠征に行けないし、しかし博士課程に進む自信もない……と進路に悩んでいた僕は先輩の誘いに飛びつきました。
◆タウイラフは当時の自分たちの実力ギリギリの難易度でした。時間がかかりすぎて下降2日間の朝食はチョコ一粒を分け合い、夕食はお湯で空腹を紛らわせ、軽量化のためテント無しだったので北大伝統のイグルーを作って悪天を耐え忍んでの登頂、生還でした。充実感でいっぱいでした。しかし一方で、憧れのクライマーへの同化模倣願望の一心で続けてきたアルパインクライミングを以前のように信じ抜くことができなくなってしまいました。登山やクライミングは楽しい。けれど、年に一度の「勝負」としてのアルパインクライミングは別物だ。どうして死ぬ思いをしながらも登りたいと願うのか? 一生続けることはできない……。でも今はこれしか方法を知らない……。
◆2023年は北海道で修行と貯金に費やし、2024年春にアラスカ・デナリ(6190m)のカヒルトナピークス〜カシンリッジ縦走という未到課題にトライしました。パートナーは信州大学山岳会の同世代の2人です。過去にトライした2隊はいずれも日本人で、2008年隊は山頂直下で消息を断ち、2011年隊は雪崩地獄を命からがら脱出したそうです。なぜこのルートがいまだに解決されず残っていたのか?、その理由を僕たちも存分に味わいました。低酸素、低温、強風、10時間以上の行動の連続で体力の限界に達していた僕は、嵐の迫る8日目、夜間行動中の5000m強地点で低体温症により行動不能となりました。白夜といえども夜は太陽が翳り、動き続けなければ気を失いそうなほどに寒いです。2008年隊の遭難の謎を追体験してしまった僕ですが、仲間2人の介抱のおかげで回復してルートから脱出することができました。頂上はもう目前、そこで一生忘れない体験をしました。
◆このルートの終了地点は頂上と下山路の分岐点となっていて、行くのか退くのかの選択を迫られます。ルートの最中もそうでしたが、クレバス対策で1本のロープにつながっていた僕たちはそれ故に誰か1人の滑落を止められなければ3人全滅を意味する運命共同体でした。死ぬ可能性をも受け入れてそれでも頂上を目指すのか、それとも頂上を諦めて生きて帰ることを優先するのか。あろうことか僕たちは頂上をめぐって嵐の6000m地点で1時間近くも大喧嘩をしてしまい、最終的に絶対頂上派の1人をロープで引きずり下ろしながら頂上を諦めました。
◆日本に帰国してからも山やクライミングに通っていましたが、デナリ以前とは決定的かつ明白に自分のなかの何かが変わっていました。ペルーやアラスカでの地元ガイドとの温かな交流や、下山中に目にした草花ばかりを思い出していました。壮大な回り道をして大学入学時点の自分に戻ったかのような感覚でした。デナリ遠征を名刺にして山業界で就活しようと考えていましたがそれは止め、山岳部の先輩に懇願して今の映像関係の職に就きました。それが一年前です。
◆しかし、自分は本当にどうしようもない人間だなぁと感じるのですが、職が安定(?)して余裕が出てくると無性にまたどこかに出かけたくなってきました。山に通いすぎて数年間積読状態だった本たちを通勤中に読み進めていたのですが、西川一三を評伝した沢木耕太郎の『天路の旅人』を再読しました。西川一三を思い出したのは、頂上にタッチして即座に帰るアルパインクライミングとは対称的に、チベットの人々や文化に溶け込み8年もの期間を旅し続けた旅人の根源的な動機を確かめたかったからです。
◆はじめて読んだのは2020年コロナ元年の大学4年時です。誰もいない札幌市内の川べりで読んで、西川一三の生き方に心震わされていました。そのときから今まで見聞してきた河口慧海や多田等観といった人物群のそれぞれが具体的にいつ、なぜ、どのようにしてチベットに潜入し、それぞれが後世にどのように受け入れられているのかを時代の流れに沿って知りたくなり、彼らについて江本さんが書かれた『新編・西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』を手にとりました。そして実際に会って話が聞いてみたいと思い立ち、地平線会議に辿り着いた次第です。[竹中源弥]
■7月の終わり、秋の気配が迫っている。お花畑のピークは例年より少し早く過ぎたようで、色褪せたような淡い秋の色が徐々に広がってきている。
◆宿泊のお客さんの数は7月の終わりになると80人を超えてきて、土日には定員の100人近く、満室になる日も出てきた。涸沢のテント場も夏休み中の学生が多く見られるようになり、小屋の日中の売店利用も増えた。夏山本格シーズン、私は厨房から売店担当に変わり、宿泊客だけではなく通過するだけの登山者やテント場利用者にも食事や飲み物を提供するようになった。値段は街の物より高くなるが、はるばる遠い道を歩いてきたあとの癒しとして山の上での至福の時間を提供できているのは嬉しいものである。
◆梅雨明け7月の連休あたりからソフトクリームの提供を再開して、近年小屋の名物になりつつある期間限定のジョッキパフェサービスも始まった。朝6時過ぎには売店を開くが、晴れて朝から暑いと早いときには6時半頃からソフトクリームやパフェが売れる。この7月の半ばは雨が降らず暑い日が続いたため、ソフトクリームミックス(原液)の在庫が切れてしまうのではないかと危惧したこともあった。
◆山の上は資源が限られている。7月中は早くも水不足の影がやってきて、晴れが続く間は節水を心掛けている。今夏はお隣の涸沢ヒュッテさんの水場からも溢水をもらうようになった。まだ小屋では宿泊者以外にも飲み水を制限なく無料で提供しているが、状況によっては洗い物を少なくするために売店で使うお皿をプラスチック製の使い捨てにすることもある。天気が良い日が続くより、恵みの雨が降ることやそれによってもたらされる一時の涼しさを、小屋の人間は求めている。
◆涸沢にはお花畑を巡るパノラマコースという周回できるコースがある。のんびり景色を楽しみながら歩くとおよそ1時間はかかるが、私はこのコースをできるだけ毎日1回、30分ほどでジョギングすることを意識している。限られた休憩時間のなかで、程よく登り上げて息を上げ汗をかくことができるし、咲いている花の様子を日々観察しつつ、その向こうに雄大な穂高岳や涸沢槍の岩壁を眺められる、お気に入りのコースである。
◆ちなみに私が特に好きな高山植物であるチングルマは、カール内では標高差関係なく雪解けの進んだところから開花が進み、すでに7月半ばには綿毛になっているものもあれば、8月に入ってまだ花咲くところもあり、長い期間その姿と変化を楽しむことができる。今後も秋にかけてどんなふうに景色が変化していくのか、観察していくのが楽しみである。[小口寿子]

イラスト ねこ
■福岡出張のスーツケースにはトレッキングシューズを忍ばせていた。低くてもいいから海の見える山に登ろうと目星をつけていたのが熊本県上天草市の次郎丸嶽と太郎丸嶽。だが、出発直前の7月28日に熊本県でM7.1の地震が発生。熊本市内の親類はすぐに連絡ついて、特に被害なし、電気などインフラも問題なしと確認できたが、震度7を観測した氷川町、宇城市などでは家屋倒壊が多数、水道・電気も復旧していないという。
◆まあ登山は無理でも行けるところまで行ってみよう。土曜日は御船町の中心部にあるビジネスホテルに泊まることにした。部屋は7階だが、余震でエレベーターが停まる可能性があるので、できるだけ階段を使うよう掲示されている。水道は出るが、水質検査がまだなので、とミネラルウォーターを渡された。併設の大浴場は被災者を無料で受け入れていて、夜遅くまで大混雑だった。夜には震度4の余震が突き上げた。
◆日曜日の未明に出発。爆発事故のあった嘉島町のイオンモール熊本周辺を迂回し、宇土半島の北側を抜けて、上天草へ。古い家屋が崩れて道路を塞いでいる1か所を除いては、被害は見られなかった。杞憂のまま天草五橋を渡って松島町の登山口に到着。目指すは兄の太郎丸嶽より100mほど高い弟、次郎丸嶽の山頂。とはいえ397m。低山ゆえに気温下がらず、朝から暑い。
◆誰も入っていないので登山道は少し荒れている。クモの巣を払い、ヘビやトカゲに怯え、蜂から逃げながら高度を上げる。急に開けたと思ったら巨大な岩が出現。それをよじ登ると、真下の里山、その向こうに八代海が見渡せた。島原湾の上方に雲仙も見える。来てよかった。
◆地震で被災された方々、事故に巻き込まれた方々には心よりお見舞い申し上げ、早期の復旧を祈るばかりだが、この天草だけでなく阿蘇や通潤橋などあまり被害がなかったのに観光客がパッタリというところも熊本県内には多い。まずは「ここは行けた」「大丈夫だった」から、そのうちに「こんなに賑わっていた」というニュースを早く見聞きしたいと思う。[落合大祐]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。
高橋千鶴子 長野恵(5000円 通信費2000円と3000円カンパです。毎月とても楽しく読ませていただいています) 木下聡(6000円 通信費3年分です。いつもありがとうございます。毎号興味深いです) 三輪主彦 樫田秀樹 豊田和司(3000円 通信費1年分+カンパです。よろしくお願い致します) 永井マス子(報告会の25日は熱中症が怖くて残念) 猪股幸雄
■2023年の7月、この本の著者まつしたゆみこの絵ハガキ展を開催したギャラリーブロッケン(小金井市)に江本さんが登場してくださったおかげで地平線通信を購読するようになり、東京外語大山岳部のほぼ最後の部員たちと江本さんとの再会、ラーマーヤナの渦に巻き込まれていた地平線会議創設期の学生探検部の浅野哲哉さんと江本さんとの再会、という不思議な展開が繰り広げられました。
◆このご縁について地平線通信547号(2024年11月)に書かせていただきましたが、江本さんとの再会から3年後の今月8月に彼女の作品やエッセイ、イラストを詩画集として出版することができました。これは出版業界を知らない私には未踏の登山でしたが、多くの人たちに助けられてようやく実現できました。
◆奇しくも北海道西興部での「地平線モリズム」を来月に控えたタイミングです。北海道つながりというご縁でぜひこの本を手にとっていただけたら幸いです。全国の書店で注文取寄せ、ネット書店で購入できますが、北海道は釧路に本社を構えるユニークな大型書店コーチャンフォー旭川店で扱って下さるようです。今から「地平線モリズム」の報告を楽しみにしています。[ささきようこ]
『コトノハ雲の音色——流れる雲の如く』 まつしたゆみこ著 交易館 1800円+税

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16日時点で参加登録者は87名になりました。西興部村に来られる方向けの情報を、モリズム特設サイトに掲載しています。今後更新しますのでご注意ください。

https://www.chiheisen.net/morism/
■9月はじめに迫った北海道西興部村での「地平線モリズム西興部」の成功のため1万円カンパを進めてきました。皆さんの支援のおかげで、目標の100万円をかなり超えました。はるか北海道の西興部村の皆さんにご協力をお願いしてから、多くの方々が賛同し協力してくださったこと、ほんとうに感謝申し上げます。なかには村にお住まいの方からの志も寄せられています。イベ ン ト が無事終わるまでカンパの口座は開けておき、終えた段階で閉じさせていただきます。どうかよろしくお願い致します。[江本嘉伸]
賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口) 神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵 江口浩寿・由利子 河野典子 古山里美 河田真智子 野元啓一 野元伊津子 成川隆顕 神長幹雄 中嶋敦子 桃井和馬 光菅修(2口) 田島裕志 河村安彦 五十嵐宥樹 笠原初菜 恩田真砂美 滝野沢優子 西牧結華 谷口尚武 花岡正明 北村カズヒコ 吉野透 山田まり子 中村保 日野和子 松尾清晴 清登緑郎 木下聡 外間晴美 久島弘 掛須美奈子 北村昌之 濱哲哉
★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸
■私は北海道深川市で小さな馬を1頭飼っている。名前をフーペという。もうすぐ2歳になる女の子である。自宅の庭で飼育しているのではなく、同じく深川市内で馬を2頭飼っているHさん宅に、フーペを置かせてもらい、一緒に世話をしている。こうしてフーペを含めた3頭がそこでは一緒に暮らしている。
◆6月某日、「地平線会議 in 北海道」の主要メンバー(と思われる)7名が馬たちを見学しに来た。馬を見たいという客人を、私はいつも柵の中に招くようにしている。柵の外からでも馬は見えるし触れるのだが、より近くで馬の大きさや暖かさを感じ、時に圧倒され、客人も馬の群れの一員であると、客人ら自身にも馬にも感じてほしいからである。地平線メンバーと私も馬たちの群れに混じり、草を食べる馬を眺めながら話は尽きなかった。意外と知られていない「馬とはこういう生き物」という話を、皆さん関心を持って聞いてくださり、楽しい時間だった。
◆地平線会議なるものの存在については、北大探検部出身の五十嵐宥樹君から聞いていた。通信を読ませていただいたことも何度かあったが、このようなマニアックな内容かつここまで質の高いものが有志活動としてこれだけ長く継続されていることが驚きだった。何よりその文章、どれも寄稿者の実体験に基づく生の声である。月並みな言葉になってしまうが、世の中には本当にいろんな人がいて、各々の考えでもって、いろんな探検・暮らしをされているのだと思い知らされた。
◆私自身の暮らしも、あまり一般的とはいえないかもしれない。馬好きが高じて、馬を飼い、馬と働いている。ただ馬を飼うのではなく「馬と働く」ことにこだわっているのは、そのほうが馬と関わっていられる時間が長いからだ。そもそも、特別好きでもない仕事をして、余裕ができたお金や時間で好きなことをする、という割り切りスタイルは自分の性に合わない。それでも一時は森林系コンサル会社に1年半勤めており、現在「働く馬のコンサルタント」を名乗っているのはその経験からくる部分もある。ただ、「コンサル」というと多くの人は身構えるらしいというのは後から知ったことで、「何でも屋さん」とかに変えようかと考えてもいる。
◆「働く馬」とは具体的に何なのか紹介したい。競馬や乗馬や動物園、人間社会における馬の仕事は多種多様だが、私が特別「働く馬」と言うときに指すのは、山から丸太を搬出する「馬搬(ばはん)」、田畑を耕す「馬耕(ばこう)」、そして馬車、馬橇(ばそり)など、何か荷物を牽引する仕事をしている馬のことだ(あくまでも私の使い方で、正式な定義というものはない)。モータリゼーションの波に押し流されてしまったこのような仕事とそれをする馬たちだが、現代日本でもなお一部の地域で存在し、じわじわとその数を増やしている。すべてを記し切れないが北海道内の話をすれば、厚真町には馬搬林業家がおり、豊浦町には馬耕農家がおり、札幌や帯広では馬車が定期的に運行されている。
◆私はといえば、大学馬術部で馬にハマって以降、観光牧場での実習や大学院での馬研究、さまざまな働く馬と馬方(うまかた、働く馬を扱う人)との出会いを経て、遂に自馬フーペを迎えたのが一昨年のこと。現在はフーペと共に深川市内のこども園に出張してこども達と遊んだり、イベントに呼んでもらって触れ合いを提供したりというのが主な仕事だ。フーぺの牽引トレーニングも少しずつ行っており、いずれは市内に所有する山林で馬搬したり、友人宅の畑を耕したり、最終的には自家用車を手放して馬車生活に切り替えたいという野望もある。
◆フーペとの仕事以外にも、馬搬作業や馬車の仕事に入ることもある。馬を飼育している方への助言や、馬の調教(のようなこと)、馬イベントのとりまとめなど、今は趣味の延長でやっているようなこともいずれは立派な仕事になれば嬉しい。このようにとにかく、馬とのことなら何でもやっていきたい。だから働く馬のコンサルタント(何でも屋さん)なのである。
◆9月の「地平線モリズム」にフーペと共に参加させていただく運びとなった。西興部は森林調査のアルバイトで一度訪れたことがある。狩猟も盛んなところで、宿泊したホテル森夢にはハンターらしき人の姿もあったのを覚えている。ちなみに私も新米ハンターで、鉄砲を撃ったことはあるが鹿を仕留めたことはまだない。
◆いちばん好きな食べ物は?と聞かれれば鹿肉と答えるくらい鹿肉が好きなので、鹿肉祭に今から心躍らせている。3日目には、一昨年〜昨年にかけて深川市内に所有する山林で行った間伐(馬搬含む)について、施業の舵を取ってくれた五十嵐君と共にお話しさせていただく。この山林は祖父から受け継いだもので、山に興味もなかった私が大学院時代に馬搬を見学したことをきっかけに通い始めた、最高の遊び場であり仕事場である。それでは地平線モリズムにて、皆様にお会いできることを楽しみにしています。
■ことしも8月5日、武蔵小金井駅前のホールで開かれた東京農工大ピアノ部の第123回「Concert of the Error」を聴きに行った。「しろうと集団なので間違い(Error)を恐れずに音楽を目一杯楽しもう」という趣旨のピアノコンサートで60年前に始まり、年に2回演奏会を続けているという。
◆聴くのは無料、演奏中を除けば出入り自由というので客席は家族や私のような市民が思い思いの姿でのんびり座っている。聴き手によってはもちろん巧拙はわかるのだが、皆さん一応ほぼ音符も見ずにショパンやベートーベンを弾きこなすので私には素晴らしく聞こえてただ羨ましい。今回の演奏者はなんと154人! 60年もこんなピアノコンサートを続けているとは素晴らしいではないか。
◆9月は西興部村に行くので通常の報告会は休み、次の報告会は10月23日(金)18時30分の予定です。通信発送日は10月7日、あ、私の誕生日だ。[江本嘉伸]
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地平線通信 568号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2026年8月19日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
emoto@chiheisen.net
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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