
4月15日。どんよりした空だ。トランプとイランの対決で起きたホルムズ海峡の封鎖。日本にとっても生命線の石油の調達がとんでもないことになりそうだ。あのオイルショックが再現するのか——。
◆日本山岳会の会報『山』3月号(970号)に「会報デジタル化と、発送継続のご案内」という「お知らせ」が同封されていた。1905年に創立されて120年、現在会員数4000人、全国に33の支部を持つ大組織だが、12000円の年会費ではもたず、ことし7月から会報の配信をデジタル(電子データ)中心へと移行させる。ついては「紙の会報」を継続して希望する方には郵送も継続するが、その場合の印刷、発送の経費は負担してほしい、というのである。
◆ふえー、日本山岳会、ついにお前もか。地平線にも「そろそろ紙をやめたら」という声がないではないが、「紙で読めてなんぼ」と考える私は今のやり方を変える気は毛頭ない。世界から遅れつつあるのかもしれないが、まあ、それもいいではないか。
◆5か月後に迫った西興部地平線会議の打ち合わせで、関野吉晴、服部文祥と相次いで会った。まさに生涯現役を貫いているこの2人の参加は北海道の若い人たちに最大の贈り物ともなるだろう。長野亮之介、落合大祐も参加してあれこれ話しながら、うん、うまく行くぞ!とぴんとくるものがあった。ただ、西興部村含め北海道の人々の中にも素晴らしい人たちがいて是非登場してほしいと思う。あの賀曽利隆も田中雄次郎も来る。そうか。2日間ではもったいないかもしれない。
◆実行委員長の長野亮之介画伯のアイデアで大会の呼称は「モリズム」とすることにした。「地平線モリズム西興部」。期間をこれまでの2日間から1日増やし、「2026年9月4、5、6の3日間」としよう。詳しい内容についてはもう少し時間がほしい(6月下旬に現地で最後の詰めをする予定だ)。
◆関野吉晴とは長いつきあいだが、ご存知グレートジャーニーはじめ毎回ほんとかよ!と思わせられるすごい挑戦にびっくりさせられる。一貫しているのは、生身の人間だからこそできることに徹し、それを映像化していることだ。『僕らのカヌーができるまで』(江藤孝治監督)『うんこと死体の復権』(関野自身が監督)には探検家、関野吉晴でしか表現できない内容に溢れている。
◆関野との話し中、連れから電話入った。「まだ源次郎が見つからない……」。これから家族で上田に向かう予定だ。話を終えて急いで帰宅し、バス停からは思わず走った。だが、どうしたことか猫の源次郎が出てこない。え?そんなに家は広くないのにどこに潜り込んだんだ?。
◆笑い事ではない。必死に探したのに出てこなかったのだ。今日はもう出発できないか、と観念したとき、にゃあ、と出てきた。一体、3時間もどこにいたんだ? そんなに広い家でもないのに。10年来の家族の源次郎がどこにいたのか今もってナゾである。「猫は紙になる」というのが以来我が家の認識である。あれだけ探して出てこないなんて壁に紙のように貼り付いていたとしか思えないのだ。
◆ただし、3時間の失踪なんて2年前のナツ失踪事件に較べればお笑いものだ。服部文祥の狩りの相棒、ナツは2024年1月末、熊本の阿蘇山で行方不明となった。私は一度だけナツと会ったことがあり、『山旅犬のナツ』(河出書房新社 2023年11月刊)という本も読んでいたので当時本気で心配した。その心配を2024年3月号のフロントでしっかり書いたら印刷した翌日、「ナツ発見!無事」の一報が届いたのである。あのときの安堵感たらなかったな。ちょっとかっこ悪かったけど。
◆そのナツが西興部村にも来るという。わぁ!よかった。関野吉晴、服部文祥が無条件に参加を引き受けてくれる地平線会議は幸せである。[江本嘉伸]
■報告会は、江本さんの紹介から始まった。1978年12月2、3、4日の3日間、法政大学で開かれた「全国学生探検報告会」。新聞記者だった江本さんは3日間通い詰め、報告者のひとりだった学生・河村安彦さんと出会った。マッケンジー川を単独で下った河村さんの話は探検報告会の“目玉”として読売新聞の社会面に大きく取り上げられた。この探検報告会をきっかけに翌年1979年8月17日、地平線会議が正式にスタートした。あれから40年以上が経った。年齢を重ねても動き続けている地平線の仲間たちの生き方について江本さんは「人間として正しいこと」と呼んだ。目指してそうなったわけではない。ただ、それぞれが夢中で動いているうちに、気がつけば40年が経っていた。私はそういう人たちの場所なのだと思った。
◆渋谷生まれ、多摩川沿いの団地育ち。女子美出身の画家だった母が自然を愛し、幼い河村さんをよく川や空き地へ連れ出した。小学校高学年のころから多摩川で雑魚釣りを覚え、高校時代には1人で奥多摩湖まで通うようになる。バスで行って、帰りは駅まで10キロ歩く。釣りよりも、「その過程が楽しかった」と河村さんは言う。後にマッケンジー川を下ることになる人の原点が、駅の帰り道にあったとしても、不思議ではない気がする。
◆高校時代のある日、ふらりと寄った本屋で高木公三郎先生の『携帯ボートの楽しみ方』を手に取り、木と布でできた小舟で川を旅する紀行文に引き込まれた。大学1年で神保町のミナミスポーツに展示されていたファルトボートを見つけ、土方のアルバイトで貯めた7〜8万円で購入。毎週のように御岳へ通い、沈没しながら多摩川を下り続けた。20キロのカヌーをびしょびしょのまま背負って電車に乗り、濡れたお札を駅の窓口ガラスに貼りつけて切符を買う。笑いながら語るその情景は、若い日の川との付き合い方そのものだった。
◆大学時代に出会った2人が、河村さんの旅の姿勢をかたちづくった。クライマーから川下りへと転じた大倉大八さんと、河村さんの高校時代の同級生の従兄弟にあたる野性児の友人だ。2人に共通していたのは「旅」として向き合う姿勢だった。頂上でも最短距離でもなく、道中に広がる景色の中にいること自体が目的だった。大倉さんとの旅ではバーナーを一切使わず、すべて焚き火だった。北海道・手塩川を3月に下ったとき、畳ほどの氷が川面に立ち「このまま死ぬな」と思いながら薄氷の岸に大の字で張りついた話を、河村さんは笑いながら語った。「でも楽しかったです」。
◆そういう旅の作法が体に刷り込まれていたから、マッケンジーへ向かうことに抵抗はなかったと言う。学生時代のアルバイト帰り、八重洲ブックセンターで偶然手に取ったカナダ・ヌナブト準州の100万分の1の地図。そこには川と湖と沼だけの世界が広がっていた。アルバイト代を貯めては地図を買い足し、6畳間に敷き詰めた末に行き着いたのが、当時あまり知られていなかったマッケンジー川だった。1971年の単独下り(約3,400キロ)を皮切りに旅を重ね、2018年には盟友・大倉さんの死をきっかけに同じ川へ戻った。1983年の旅では妻と2人で水の澄んだ静かな区間を選んでいる。照れ臭そうに「自分がどんなことをやっているか、カミさんに見せるのもいいかな」と河村さんは言った。
◆2018年に再び北米を訪れた河村さんが目にしたのは、白人が地元のインディアンにログハウスの建て方を教えている姿だった。幻滅した。あのころの光景はなくなっていた。40億年前から存在するというローレンシア台地、その古い岩盤の上を流れるコッパーマイン川を、開発される前に自分の目で見ておきたい。そういう思いがこの川を選ばせた理由のひとつだった。
◆セロン川、バック川、コッパーマイン川。3本の川はいずれもコッパーマインの850キロに近い長さで、人のほとんどいない土地を下ることができる。バック川は激流の迂回箇所が20か所以上ある。コッパーマインを選んだのは消去法でもあったが、年に1〜2パーティーしか下らない川であることが河村さんにとってむしろ理由になった。70歳になった体が、動き出した。
◆7月10日、セスナでラック・デ・グラ付近に降ろされた。飛行機が飛び立つと、あとは河村さん1人だった。「心を落ち着けなくちゃ」と思い、コーヒーを飲んだ。岸辺にはまだ氷が残っていた。船はアルミのフレームに布を張ったファルトボートだった。前回の旅では帰国後に体重が17キロ減っていた。今回は食料をたっぷり積んで出発した。それでも10キロ落ちて戻ってきた。
◆旅の終盤、ブラッディフォールズという急流箇所で船をかついで陸路を迂回した。船を降ろしたとき、リブ(船の骨格部分)が折れているのに気がついた。アルミのパーツは現地での修理が利かない。組み直せなかったら残り15キロを歩くしかない。「ヒヤッとしました」と河村さんは言った。荷物すべて合わせれば80〜100キロになる。何往復もしながらようやく運び終えた。クルクトゥックの村に上陸したとき、旅は終わった。4週間の旅だった。
◆報告会の後、酒の席で河村さんはこんなことを話してくれた。旅の準備をする時間も、道中に出会う光景も、自分にとっては旅そのものだと。目的地に着くことよりも、そこへ至るまでの時間の中に本当のものがある、と。そしてマッケンジー水系にはまだ陸路で越えただけで川を下っていない空白がある。その空白を埋めて、いつか線を結びたい。河村さんはそう言った。頂上に立つことよりも、どんな過程を踏んでそこへ至ったかが、その瞬間の実感を決める。私はそう思っている。だとすれば、半世紀かけて水系の地図を埋めようとしている河村さんの旅は、まだ途中なのだ。[東雅彦 初めての報告会レポート、緊張しました]

イラスト 長野亮之介
‘■地平線報告会で報告をさせていただくのは、確か今回で3回目だったと思います。1978年にカナダマッケンジー川をピース川の上流からイヌビックまで漕ぎ下った旅の報告は法政大学で開催された全国学生探検報告会でした。この翌年に各大学探検部や山岳部のOBが主導して一般人を含めた既成の概念にとらわれない旅や探検、冒険の報告の場として地平線会議が発足したのでした。私が社会人になってから1981年、1983年、2018年と過去に下ったマッケンジー水系の旅毎に報告させていただいております。
◆1900年代後半の旅は、カナダ内陸部のインフラの整備が始まったころでした。カナダインディアンであるファーストネーションや開発初期の白人との混血のメティーが、ピース川がアルバータ州に入った中程の陸路から孤立した集落で狩猟や漁労を主体とした生活を送っていました。
◆今回のコッパーマイン川の川旅のきっかけとなったのは、2018年の旅でした。それは1978年の旅のコースを40年ぶりになぞった旅でした。しかし、そこで見たものは自分が再会したかったあの当時の、川に向いて生活している彼らの生活を期待していたのだけれど、インフラが整い、どう考えても原野や湿原に無理やり伸ばしたとしか考えられない道が彼らの本来の姿を変えていました。それは見るも無残な「近代化」という破壊の姿でした。数えきれないほどの愕然として呆然とする変わりざまを見て「マッケンジー水系の旅」というテーマの延長で、無垢な自然が残っている分水嶺の向こう側の旅も加えることにしました。
◆カナダ北西準州の東からヌナブト準州のほぼ全域そしてグリーンランドにかけて広がる40億年以上前の古い岩盤の大地はローレンシア台地と呼ばれ、岩盤が風化して無数の湖沼とそれをつなぐ水路そして地衣類と低灌木の世界。もう、興味を持てるような、地域に密着した人の生活を垣間見ることはあきらめました。かわりにいまだ定住する人もいないバレーン(不毛地帯)を流れる川を目指すことにしました。しかしそこは2025年末にアメリカ合衆国の大統領が食指を伸ばした貴重な鉱物資源が豊富に眠る土地なのです。
◆グレートスレーブ湖の北にある州都のイエローナイフの人口の80%が鉱山関係者です。私が旅したコッパーマイン川の源流に位置するLac De Grasの東には世界有数のダイアモンド鉱山があり採掘終了後は埋め戻すことを条件に巨大な露天堀鉱山がいくつかあるのは、Google Mapでもはっきり見ることができます。採掘の機械が動いている以上、もう原始の川ではないのかもしれません。このコッパーマイン川を下っている途中、突然銀色に輝くいくつかのタンクと建物が建っているのを見ました。おそらく何らかの鉱山開発の基地かもしれません。しかし今のうちに、行って、見て、聞いておかなければ瞬く間に見るも無残に変貌してしまう、そんな危機感をもって挑んだ川下りでした。
◆私のマッケンジー川水系の旅にまた一つの線が加わりました。しかしまだすべては完全に線が繋がってはいません。すでに今年で71歳、高齢者となって体のいたるところにガタはきています。が、少なくとも本流の流れだけでも線で繋げたいと次の計画を画策しているところです。[河村安彦]

イラスト ねこ
■地平線通信563号(2026年3月号)の発送作業は3月18日にいつもの榎町地域センターで行いました。16ページと原稿がやや少なめだったこともあり、いつもより早い時間に終えることができました。終了後は「ナマステヒマール」でおいしいカレーをいただきました。最後の3名は作業に間に合わず、カレー店で合流しました。
車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 久島弘 白根全 高世泉 長岡竜介 渡辺京子 古山里美 落合大祐 坪井伸吾 武田力 江本嘉伸

■この文書が掲載されるころは季節外れですが、雪について、北東アジアのテーマのひとつとしてとりあげたいと思います。この「東風吹かば」って西風よりも東風吹かせて自立したいというのがテーマですから。
◆さて、日本の雪についてですが、終戦翌年の冬東京に一時帰り、疎開先に夜戻ると、大雪で、クラスで2番目にちびの小3でしたので、雪に腰近くもぐりながら、深夜に一里ほどあるいたというか、雪をこいで帰宅した思い出があります。そして3月、家の軒に太いつららが下がり、ぽたぽたと春の日差しに水滴が大きなつららを伝いながら落ちて、地上につららの幅おきにくぼみをつくっていました。冬はたいてい扁桃腺炎で学校を休み、雪とつららを見ていました。
◆今年の冬、テレビにかじりついて見た日本の豪雪地帯は、当時のいわきどころではありません。当時いわきで川が結氷していたにもかかわらず、太平洋側でしたので、日本海側に比し、雪は少ないといえました。今年の日本海側はびっくりです。日本海側は豪雪地帯です。高校の人文地理の学科で学びました。モンゴルの乾いた一面の薄い雪が春まで融けず白一色なのにも閉口しましたが、しっとり重たそうな、したたかな雪も困りものです。
◆私が関係するNPO「北東アジア輸送回廊ネットワーク」のシンポジウムが新潟であったとき、シンポジウム終了時に、新潟駅で妻美智子と待ち合わせ、瓢湖に飛来する白鳥を見に行きました。磐梯山と猪苗代湖に飛来する白鳥は広くひろがって田園に居ましたが、瓢湖では湖面にいっぱいでした。ただ湖面はかもと白鳥が昼夜交代で瓢湖をシェアしていておどろきでした。
◆宿の番頭さんの話に、私の知らない雪の話がありました。東京では5cm雪が降っても交通混乱で大騒ぎだけど、ここでは冬こんなに積もるよと入口の扉で2メートルあたりをさしました。そして家の中は真っ暗で昼間も電灯をつけている。買い物に行くのも困難。街では雁木というものがあると、人文地理で学習した雪対策を持ち出しました。帰りに予定していた新発田で雁木を見てきました。
◆今冬、雁木が雪の重みでつぶれているのをテレビで見ました。雪対策になっていません。屋根の積雪の重みで民家がつぶれていました。1平米あたり200〜300キロあるそうで、雪下ろししなかったら、20〜30トンになり、2メートルも降ったら目もあてられません。乳頭温泉の積雪が5メートルで、街はこの雪原の下にあります、というのをテレビで見たことがあります。新潟出張のとき長岡の郊外は雪原の下に民家があるとの説明でした。今年の雪で民家、とくに空き家がつぶれていました。雪おろしできなかったところです。ひどいときに自衛隊の救助を得ていましたが、毎年では自衛隊もたまったものではありません。山形出張のときは、こんなとこ列車走っていいの、というような一面の雪原のなかを列車がばく進していました。
◆北欧のようなとんがった屋根にして自然に雪が落ちるようにできないものかとか、青森でリンゴの木が裂けて、回復に20年かかるとか聞くと、金沢兼六園の雪つりの技術移転はできないものかと素人考えをしています。住民が老齢になり、雪下ろしが困難になったのと、住民が雪下ろしをせざるを得ないので屋根の傾斜はほどほどでないと困るとか、雁木とか、高3の人文地理から何ら進歩していないことにむしろ驚きです。国土強靱化と言って、大企業に金ばらまく前に、日本海側の積雪問題を解決しましょうよ。国力をかけて、総力戦で対策すれば、国土はそうとう強靱化しませんか。屋根に自動雪かき機をとりつける、その雪を処理できる側溝の改善など、今の技術力でできないものでしょうか。
◆次に、地方の比較的大きい都市で、雪の重みで断線したので、停電で暖房がなくなり、おばあちゃんが歩きにくい雪道に命がけで出て、大通りの灯油屋さんに灯油を買いにとえっちらおっちら灯油缶さげて行く姿をテレビで見て、いてもたってもいられなくなりました。
◆日本の被援助国モンゴルでは、街には熱電所(パワーヒートステーション)があって、すべての家庭に高熱、高圧の水蒸気が大きな配管で供給されており、住宅で減圧して温水にしています。蛇口をひねると、24時間温水がでて、お風呂に入れます。60年前にウランバートルに出張したとき、すでにそれがあり、快適でうらやましかったです。
◆今、この設備を大きな街に作りませんか。今度はモンゴルの技術援助で。そうすれば、あのおばあちゃんは街に灯油買いにでなくてすみ、ぬくぬくとしておれます。暖房も温水をパネルと呼ばれるスチーム管に引けばそれでいいのです。そうすれば、日本海側の人材を他の分野で活かせるのではと考えます。東風を吹かせましょうよ。

■今年9月上旬に開催予定の地平線会議拡大集会の愛称が決まりました。「地平線モリズム西興部」です。開催地の西興部村は人口940人(2025年)。総面積の9割近くが森林で、かつては林業が盛んだった地域。村内には鹿牧場もあり、一方で狩猟区という野生動物資源を生かす試みにも取り組んでいます。そこで今集会の大テーマは森としました。「モリズム」という造語には、「森に棲む」「森イズム(主義)」「森・リズム」「森・プリズム」などいろいろな意味がかけられています。集会のプログラムは、現在作成中。今後順次発表していきます。[長野亮之介]
■2026年9月4日〜6日に予定している北海道西興部村での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを募っています。北海道地平線を「青年たちが集う場にしたい」、というのが私たちの希望です。交通費、宿泊代など原則参加者の自己負担としますが、それ以外に相当な出費が見込まれます。どうかご協力ください。[江本嘉伸]
賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口) 神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵 江口浩寿・百合子 河野典子 古山里美 河田真智子 野元啓一 野元伊津子 成川隆顕
★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。
市村やいこ 渕上隆(ツウシンヒ1ネンブン) 小松斉(10000円 新聞とも週刊誌とも違う内容に毎月刺激されています。これからも楽しみにしています) 石田昭子(通信が届くのをいつも楽しみに待っています) 宮部博 (5000円 通信費1年分+カンパ) 石原卓也 (5000円 2年分+カンパ) 金子浩 天野賢一 原田鉱一郎
■「地平線会議 in 北海道」で後援させていただきます、「西興部ゲストハウスGA.KOPPER」オーナーの浅野和(わたる)です。簡単に自己紹介をさせていただきます。
◆北海道札幌市出身。少年期は文武両道を目標とし、名門校進学コース一直線でしたが今おもいかえすとオートバイと音楽に出会ったタイミングが人生最初の脱線ポイントでした。寝ても覚めても明日なき暴走を唱える愚かな少年とバイクとの関係は、やがて街乗りから旅乗りに変容していきました。走るフィールドは高校時代の北海道周遊を皮切りに、日本列島縦断、やがて海外を想うようになり、バイクと過ごす特別な時間は徐々に日常の時間へと熟していきます。
◆そして20歳になり、陸上自衛隊第7師団第71戦車連隊に入隊。入隊の動機は恩師への罪滅ぼしと自身の更生でした。4年間の任期を完遂して貯めた軍資金を握りしめて北米、中米、南米大陸、サハリン(樺太)を自分のバイクで単独縦横断する経験を授かりました。金がなくなると現地で働き、金がたまると再び旅に出るという放浪症は重度で帰国後も治らず一般企業就職は皆無。
◆あらためて国内をバイクで漫遊しているときに日本酒の魅力に出会った私は気がつくと、飲む側から造る側の立場になっていました。冬季に働き夏季に遊ぶスタイルが病みつきになり「半年蔵人、半年旅人」という合併症はリハビリしても完治せず、更に社会不適合者に……。
◆2009年は妻と一緒にバイク2台で富山県の伏木港からロシアに入国してユーラシア大陸を横断しました。その翌年、日本においても漂泊生活が続く中、あるとき「住む場所を探してみる」というスローガンを抱きはじめます。北海道ツーリングのときに何度も訪れていて馴染みのある「西興部村森林公園キャンプ場」に長期滞在していると気さくな地元の人と仲良くなれました。程よく楽しいフワフワした立ち話が無自覚のうちにトントン展開していて、正気に返るとキャンプ場の管理人を季節雇用で請け負うことに決まっていました。はれて住所不定無職から西興部村の住人に昇進したのです。どこかで求めていた「憧れの村民」という願いが日本の小さな村で叶いました。
◆その数年後に旧上興部中学校(現在のGA.KOPPER)と縁がありました。かつて旅人として温かく迎えてもらった恩情を、宿主になって返したい。ここの卒業生にもう一度足を運んでいただきたい。そんな思いをもって仲間たちと廃材を活用したDIYリノベーションを始動。廃校宿の開業のテーマは「Back To Basic」。元に立ち返り今を大切にしつつ、ないものはつくる。今は家族3人で築80年の木造校舎と対話しながら充実した学校生活を送っています。
◆そして9月に、地球規模で活動されている地平線会議の皆様と自然豊かな西興部村が合流する機会をいただきとても嬉しく思っています。この大きな流れと動物たちからのメッセージを感じながら自然と創出されるであろう新しい物語を楽しみにしています![浅野和]

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地平線通信の常連、ジャーナリストの高世仁さんが大変な本を書き上げた。『拉致 封印された真実』上下2巻(旬報社刊 上巻367ページ、下巻364ページ 各2600円+税)である。誰もが知っているが、誰も正確には知らない「拉致問題」。地図、写真を多用し、その暗部に切り込んだ一書である。以下、多忙な高世さんに自著について書いてもらった。[E]
■本書『拉致 封印された真実』を書こうと決意したのは2年前である。出発点は単純だが重い問いだった。なぜ拉致問題は、これほどまでに停滞しているのか。2002年の日朝首脳会談で5人の被害者が帰国したとき、多くの日本人は「解決への道筋が見えた」と感じたはずだ。だが現実は期待を裏切った。その後、新たに帰国した被害者は一人もいない。北朝鮮との公式協議は2014年を最後に途絶えたままである。長年帰りを待ち続けた親世代は次々に亡くなり、いま政府認定の未帰還被害者の親で存命なのは、90歳の横田めぐみさんの母・早紀江さんただ一人となった。長すぎる空白は問題の風化を招いた。若い世代の中には、横田めぐみさんの名前すら知らない者も少なくない。このままでは、拉致問題は未解決のまま歴史の闇に埋もれかねない。その危機感が私を突き動かした。
◆私がこの問題と関わり始めたのは1997年だった。韓国に亡命した元北朝鮮工作員に取材し、「平壌で新潟から連れてこられた日本人女性を見た」との決定的な証言を得た。これは横田めぐみさんに関する初の目撃証言として社会に衝撃を与え、政府によるめぐみさんの拉致認定へとつながった。ここから拉致問題は、日本の政治と外交を左右する重要課題へと一気に浮上していった。いわば問題に火をつけた当事者の一人として、現在の“惨状”を傍観することはできなかった。
◆30年近くに及ぶ取材の蓄積と新たに入手した非公開資料——それらをもとに、膠着した現状に風穴をあけるべく本書を執筆した。北朝鮮が隠してきた虚偽と、日本政府が封じてきた不都合な事実。その双方を徹底的に検証した結果、日本側で解決を阻んでいる元凶は、構造化された「隠蔽」と「タブー」であることが浮かび上がった。
◆2014年、北朝鮮は二人の拉致被害者が生存しているという極めて重大な情報を日本政府に伝達していた。ところが、驚くべきことに、政府はこの二人に直接面会して本人確認を行うことすら拒み、今日までその事実を国民に伏せ続けている。「まさか!」と思うだろうが事実である。
◆二人とは神戸出身の田中実さんと友人の金田龍光さんである。二人とも家庭の事情で児童養護施設に預けられて育った。田中実さんは政府認定の被害者17人の一人でありながら、声を上げる家族がいないためその名を知る人は少ない。当時の政府関係者は二人を“見捨てた”理由として、「8人死亡」という北朝鮮の回答のままでの幕引きを受け入れることができなかったからだと弁明するが、私が精査した非公開情報によれば、その説明には重大な疑義がある。
◆真相はもっと冷酷なものだったと思われる。家族の支えもなく無名に近い二人を救出しても、めぐみさんら主要被害者の安否が不明のままであれば、世論や家族会の激しい批判を招く。政府は政権支持率という狭い政治的損得から、生存情報を握りつぶしたのであろう。もしこれが横田めぐみさんや有本恵子さんの生存情報であったなら、政府はこれほど冷淡に放置しただろうか。答えは明白である。
◆田中さんの妻は日本人で、彼女もおそらく拉致被害者であろう。金田さんの妻を含めれば、計4人の拉致被害者の生存が示唆されていた可能性がある。二人はすでに70歳代半ば。「生存」と通知された拉致被害者を、政府がこれほど長期にわたって見捨てている現状は、人道上の犯罪に等しい。
◆さらに深刻なのは、拉致問題をめぐるタブーの存在である。なぜこれほど重大な事実を大手メディアは報じないのか。そこには政府、家族会、支援団体から成る「三位一体」の構造があり、そこから逸脱する言説は排除される。異論を報じれば取材制限などの圧力がかかる。その結果、扱いの難しい重要情報は公に出ることなく埋もれていく。近年、行き場を失った機微な資料がフリーランスである私のもとに集まるようになった。既存のメディア空間の機能不全こそが、本書執筆の直接の契機である。
◆本書では、拉致問題を覆う「封印」を可能な限り解いた。しかし書くだけでは不十分である。停滞を打破するには、具体的な行動へとつなげなければならない。その第一歩として、5月1日午後2時から衆議院第一議員会館第一会議室で、「日朝交渉の進展のために ストックホルム合意12年目の課題」と題する院内集会を開催する。石破茂前総理ら国会議員にも出席を要請し、広く一般参加も呼びかける。一人でも多くの人に拉致問題の真実に触れてもらい、硬直した現状を動かす試みになればと願っている。[高世仁]
■気づけば、わたしは興行屋になっていた。この1年間をふりかえると、小心者のわりに大がかりなイベントをいくつかやっていて、自分でも驚く。具体的には、第1回日本モンゴル映画祭を共催し、モンゴルのドキュメンタリー写真家と新宿で写真展を開催し、写真集『Glimpse of us』の発行者になり、結成30周年のモンゴル伝説的ロックバンドNisvanisのライブを渋谷で主催したりした。
◆本業の書籍編集やライティングと並行しているが、やってみてわかったのは、本づくりとイベントではスリルの質がまったく違う。イベントの恐ろしさは、結果(収入)が当日まで読めず、終わればやり直しもきかないこと。モンゴルからゲストを招聘するときはビザが無事出るかドキドキし、音楽ライブでは酔った若者たちが暴走しないかハラハラしたりも。
◆準備段階では、クオリティの高い催しにすることに心を砕くが、慣れない作業の連続で時間とプレッシャーに追われる。しかしどれだけ良い内容でも、客席が埋まらなければ成立しない。数百万円単位の費用が動くなか、わたしは資金計画も曖昧なままで博打のように始めてしまうため、肝も背筋も財布も凍りつく日々になる。
◆本づくりとイベントではカタルシスも異なる。原稿の仕事は、読者からの反応が見えるまで心もとなさが続くが、レビューやメッセージをいただくと一気に救われる。一方イベントは、その場でお客さまの熱をダイレクトに五感で受けとれ、強烈な炎となって記憶に残る。人と人がアナログな空間で反応しあい、お互いの人生に何かを残していく感覚は、デジタル世界だけでは得られない宝物だ。
◆そして今もわたしは、そのスリルとカタルシスのあいだを綱渡りしている。昨年に続き第2回日本モンゴル映画祭を主催しており、3月に新宿K’s cinemaと横浜シネマリンでの上映を終え、4月17日から5月7日までMorc阿佐ヶ谷、6月6日から大阪・第七藝術劇場へと続く。
◆ずっと報告会へ行けていない引け目もあって、実は先月号の地平線通信で映画祭について告知することを遠慮してしまった。すると、新宿の劇場にわざわざ足を運んでくださった江本さんから「どうして教えてくれないのか寂しい気持ちになった」と叱っていただき、目が覚めた。
◆思えば昨年の映画祭は、今年以上に未知の連続で不安いっぱいだったものの、地平線会議の皆さまがたくさん映画を見に来てくださって、その場でわんわん泣きたいほど嬉しく、ありがたさが身にしみた。今年もSNSで見て駆けつけてくださった皆さまに心から感謝しています。
◆今回のラインナップ7本のうち、大阪アジアン映画祭で主演俳優賞を受賞した『サイレント・シティ・ドライバー』を除く6本が日本初公開。反響がもっとも多いのは『MONGOL』。清朝支配下のモンゴルにおける格差恋愛をきっかけに激動の歴史が動いていくが、現代モンゴル社会に通じるメタファーが数々登場して興味深い。
◆ほかにも、岐路に立つ遊牧民家族の『狼は夜やってくる』(2026年アカデミー賞国際長編映画賞オーストラリア代表作品選出)、廃れつつある鷹匠文化を継承するため青年が奮闘する『SHUVUULAKHUI 〜ハヤブサと男』、国民的ヒップホップグループの誕生秘話を描く『TATAR』など、ドキュメンタリーとフィクションが交錯する多彩な作品が並ぶ。『リモート・コントロール』と『Bedridden 〜寝たきりを選んだ男』は、個性的な存在で知られるベテランのビャンバ・サヒャ監督による作品だ。
◆Morc阿佐ヶ谷では、上映後に30分間のトークイベントも実施。4月26日関野吉晴さん、29日ボルドエルデネ・バータルジャブさん(馬頭琴・ホーミー奏者)をお迎えするほか、今後も追加予定。最新情報は公式サイト(mongolianfilmfest.com)およびSNSをご参照ください。トークイベントがある日はわたしも会場にいるので、お会いできたら嬉しいです![大西夏奈子]
■北村節子さんの『ピッケルと口紅』(ヤマケイ文庫)を読ませていただきましたが、いや〜、おもしろかったですよ。さすが北村さん、一気に読み終えました。序章の田部井淳子さんの書かれた北村さんとの出会いの短い文はいいですね。読めば読むほど効いてくる。第1章のエベレストでは登頂した田部井さんと山頂をアタックできなかった渡辺さんとのやりとりが心に残りました。まさに人間ドラマを見ているかのようで、山の世界の話というよりも、人間社会の縮図を見ているかのようでした。北村さんは女子登山隊のみなさんをじつにうまく描いている!
◆第2章のシシャパンマでは、北村さんの生活環境が激変します。おーととで驚かされますよね。子連れの男性との結婚。それでも新聞記者をつづけ、山も登りつづける。すごいですね。エベレストではまだかけ出しの「ナマイキ新人」だった北村さんはシシャパンマでは女子登山隊の副隊長。第一級のクライマーに成長しています。頂上アタックは田部井さんと北村さん。それが登頂直前になって田部井さん1人になったときの落胆ぶりは容易に想像できます。それを抑えて田部井さんを称賛する北村さんに痛々しさを感じてしまいました。この章では『あるくみるきく』の「シシャパンマ」(176号)登場がうれしいことでした。
◆第3章はガラリと変わって北村さんと田部井さんの2人旅。読んでいてホッとした気分になりました。「人間、やりたいようにやらなくてはいけませんよねえ〜!」と、本の向こうの北村さんに声をかけたくなったほどです。インドのマナリの山旅はよかった。マッキンレーでは「女同士の山旅」から男性を交えた山旅を経験する北村さん。それが第4章の南極へとつづいていきます。南極の最高峰ビンソン・マシフも男性を交えた山旅。北村さんの「ホント、オトコはあたりはずれが激しい」には思わず笑ってしまいます。それをこの章の最後で見ることになるのです。南極では「ポリッジ」には相当まいったような北村さん、それだけに「極地風雑煮」はよけいおいしく感じられます。それとビンソン・マシフの山頂で食べた「ヨーカン」。
◆第5章はニューギニア。六大陸の最高峰を登った田部井さんは七大陸目(オセアニア)の最高峰カルステンツ峰を目指します。同行するのは北村さん。「絶体絶命」のピンチを乗り越え、2人での「起死回生」の登頂かというところで失敗。その後、田部井さんは登頂に成功。第6章での北村さんの名言はコレ。北村さんは長野県、田部井さんは福島県の出身だが、2人は「血統書つきの田舎っぺ」なのだというのです。まあ、それをおいて「七大陸成就」を成しとげた田部井さんは北村さんとヨーロッパ・アルプスに登り、最後はアイガー。2人は山頂で布地に黒いマジックで101歳と書いた旗を振りました。2人合わせて101歳。感動的なシーンで本書は終わります。
◆著者の北村節子さんは会社を辞めることなく、新聞記者をつづけながらこの一連の山岳行を成しとげました。すごいことではないですか。社内では「奇跡の人」と呼ばれたそうですが、「読売新聞」という新聞社の懐の深さも感じます。全編を通して田部井淳子さんを表に出し、田部井淳子像を描こうとしているのですが、読み進むにつれて北村さんの行動の面白さ、観察眼、考え方に惹かれていきます。良い本をほんとうにありがとうございます。[賀曽利隆]
■賀曽利さん、拙著『ピッケルと口紅』の嬉しい感想文をありがとうございました。この本の原本初版は、1997年。雑誌「岳人」に「女性の山旅を楽しく書いてくれ」と頼まれて連載したものです。全体が漫画調なのはそのため、かな。このたびの文庫本はその再版です。
◆当時、山岳図書はもう、悲壮なお話のオンパレード。「厳しい登攀を」「必死で頑張り」「時に指を失い」「友を失い」〜〜って、それは事実なんでしょうが、素晴らしい、というよりは痛々しくって切ないばかりでした。そんな私が驚いたのは日本では1980年に翻訳が出た『ちょっとエベレストまで』(原題『The story of twelve who climbed Mount Everest』)という本(アメリカ人の登山家、Rick Ridgeway著=名前がまた山屋そのもの!)。激しい登攀の記述はもちろんですが、主眼は個性的なメンバーのあれこれを愉快な筆致で描いた「楽しいやり取り」に置かれ、読了後は筆者と爽やかな満足感を共有できたのです。
◆それまで、自分のお気楽・順風満帆な山遊び(怪我なし、事故なし)にへんなコンプレックスを抱いていた私は、「あ、これでいいのね」「そうよ、山遊びはこうでなくちゃ!」という思いを強くし〜〜〜それがこの「ピッケル本」にも出たのだと思います。
◆ですので、まことに能天気な顛末記ですが、それをこんなに読み込んでくださってどうもありがとう。笑って読んでいただければとってもハッピーです。[北村節子]
■ポルトガル、リスボンのドミトリー。大きな窓から庭を見ていると前触れもなく雨が降る。そういえば去年もそうだった。 宿の近くのスーパーに行く。果物は安い。オレンジを手にする。少しづつ感覚が戻ってくる。
◆知っている町にいる安堵がある。去年、ユーラシア大陸の西の果て、ポルトガルのロカ岬からトルコのイスタンブールまで歩いた。EU圏内に滞在できる3か月ではすべてを歩ききることができず、2か所の空白地帯ができてしまった。そこを埋めるために今年も来た。ならば途切れている場所を繋ぐ地点、フランスのリュピュイに戻るのが筋だ。でも僕は今、なぜかリスボンにいる。
◆2か月前、アルベルガべーリョからメールが来た。去年、雨で携帯を壊し、前歯が抜け、前日の宿にメガネを忘れ、追い込まれていた僕を助けてくれたパウロさんから、遊びにおいでよ、という誘いのメールだった。心が動いたが断った。今年の僕のスタート地点がフランスから西に向けてだからだ。しかし日が経つにつれ、その言葉がジワジワしみてきた。試しに一度、ポルトガルに行ってからフランスに戻った場合に航空券の金額はどれくらい違うのか調べてみる。差額は2万円ほど。
◆フランスからの再スタートの前にポルトガルに行ってもいいかもしれない。旅ってそういうものじゃないのか。この流れに乗ったほうが面白いことが起こる予感がする。パウロさんは確か先生でありファド奏者でもあったはずだ。何かおみやげは? 知り合いのポルトガルギタリストのCD。できることは? 旅の話ならできる。できる、というか僕が話したい。去年、ニューヨークで英語で話してみた。海外で講演する。それは前から挑戦してみたい夢で、ニューヨーク在住の大学の後輩がその段取りをしてくれた。
◆ヨーロッパでも話してみたい。去年は言葉に詰まったら後輩が助けてくれた。しかしパウロさんは英語とポルトガル語。この条件で可能だろうか? 勝手に想像しているとワクワクする。恩返しではなくてワガママなんだけど、正直にメールしてみると、やりましょう。私の生徒集めます、と、話が進む。
◆歩き旅より、こっちの方が面白くなってしまい旅の準備が適当になる。まあなんとかなるだろう。ポルトガル講演会。果たしてどうなるか? その話はまたこんど。[坪井伸吾 日本時間4月7日朝]
■2026年3月29日晴れ。府中の浅間山を散歩。ここ4年間毎年3月末にE氏、クエ(杉本郁枝)、私(ウメ、日置梓)の3人でハイキングすることが慣例化されつつある。これまで雨、いや嵐の中の散歩が続いていたが4回目にして初めて晴れた。今年はE氏散歩コースにて開催。散歩中、そういえば出会って何年目かな?とE氏。そろそろ20年くらい……? 出会いは四万十ドラゴンラン(全長196キロの四万十川を源頭から太平洋まで徒歩、自転車、カヌーで降る。山田高司さんが隊長)だったが……。そういえばすべて地平線通信に記録があるのでは!?と思い帰宅後確認すると正確かつ当時の参加者の感想などしっかりと記録が出てきた。
◆出会いは2007年3月18日。四万十ドラゴンラン(通信329号参照)参加から。当時クエ、ウメは香川大学3年生。多少無理をしても翌日疲れたなんて言わない。24時間を自分の活動に使える時間セレブであった。ドラゴンランで出会った人々の個性・多様性に私は度肝を抜かれたと同時にこんな大人がいるのか、生き方があるのか!と目が覚める思いだった。 集合時点で近くをランニングしていたウルトラじーじが転んで骨折したまま参加し医者にヴィオラが弾けなくなるぞと言われて慌てて棄権して東京に帰ったり、キャンプの夜中に酔っぱらって(?)ボルシチがないなんてありえない!と夜中にお料理が始まったり(眠くて寒かったです)。トイレ休憩後、出発時にE氏がいないと皆で捜索すると近くの喫茶店ででコーヒーを啜られていたり。
◆そして翌2008年4月のドラゴンランにも3名は参加し、同年6月E氏がしまなみ海道100kmマラソン出場後、帰路で香川を経由いただき3名で瀬戸内アートの島として知られる直島に日帰り観光へ。そこで最終フェリーを逃し島に残留となる(通信343号参照)。仕方がないので誰もいない波止場でお土産の焼酎を開け、ペットボトルキャップで乾杯。今後の進路や他愛もない話をした。そこで手持ちのお菓子の箱の隅にクエウメにくれたE氏の一筆が「心奥に 火は絶やさざり 青あらし」(※)。どんなに年をとっても青春の青い光は持ち続けなさいと激励を受けた。また、「君たちは君たちのままでいいんだよ」とも言っていただいた。
◆そして10年後に思い描いている自分がそこにいるか、またはまったく違う道を歩んでいるかを確認するため、再会を約束した。当時E氏68歳、クエウメ22歳。そして約束の2018年は四万十同窓会と称して3人で松山から四万十楽舎を訪問。9月下旬に少し早いE氏78歳のお祝いをした(通信474号参照)。
◆クエは10年前に決めた通り教員となりカンボジアで教員指導も経験し、新婚。私は化学品メーカーに勤め仕事中心の生活になっていた。好きな化学に触れ続ける方向性は変わらなかったが思い描いた毎日ではなかった。ただ、憧れていた山歩きに少し触れることはできていた。そして10年後また会うことを約束。
◆さてその10年後は2028年。出会って20年は2027年3月。22歳は選択肢が多く見通しはなかったがやればできる環境があった。今年40歳。家族ができ、当面は子育てに奮闘する未来が見える。この先の選択は一人では決められなくなった。ただ、家族をもってまだ6年。これから家族での選択を楽しみたいと思います。この20年の経過を共に共有できる人たちがいることを幸せに思います。そして、この20年の要所で地平線通信に記録を残す機会をいただけたことに感謝いたします。この頃消えかかっていた青い火、今回記録を読み返すことで思い出しました。今度は家族がいる形で絶やさぬようもう一度燃やしたいと思います。[日置梓]
(※)1964年、東京オリンピックの年。読売新聞に入った私は当時夕刊のコラム「よみうり寸評」を書いていた名物記者、細川忠雄さんと知り合った。東京外国語大学の先輩(細川さんはフランス語専攻)ということもあって、23歳の駆け出し記者(トロッコと呼ばれる)の話をよく聞いてくれ、前橋支局転勤が決まって挨拶に伺った折、「この火絶やすな」と書いて心付をくださった。2年ほどして近況をお手紙した際「いただいた言葉、いまもしっかり胸にあります」と書いたら返信の中で書かれていた一句が「心奥に 火は絶やさざり 青あらし」だった。駆け出しの気持ちを忘れるな、というメッセージだったのだと思う。今も一瞬も忘れることはない。ウメ、クエ、十分伝わってなかったようだが、あの言葉は私ではなく23歳の私が大先輩からもらった大事な一句なのだよ。[E]
■江本さんと出会って20年目の年に入りました。私は教員生活17年目となり、一応学校では中堅のような立場となりました。1年のほとんどが時間的にも、精神的にも余裕がない日がほとんどです。しかし、地平線通信を読むと、パンチをくらったり、じわじわ感動したり、膝カックンされたり、頭の本棚が整理されたりして、日常がぼんやりするのを防いでくれます。
◆仕事柄、学生(安平ゆうさん、探検部の皆さん)が書いたものや、教育に関することを書いてあるものに注目してしまいますが、例えば中山綾子さん(通信561号)のデンマークの幼稚園では「子どもは対等の人として扱う」、小中学校では「不便なことがあれば自分たちの意見で学校を変える」という現状と、岩野祥子さん(通信559号)の「日本社会は枠から出ない働き手のおかげで成り立っている」という言葉で、私たち教員は自分たちの都合のいいように子どもたちをコントロールしようとしていないか?とよく考えるようになりました。
◆山岳気象予報士の猪熊隆之さん(通信559号)は天気アプリで安心してしまい、自然が出しているサインを受け止められない人が増えていると書いていました。教員の言うことがすべてではなく、自分たちでおかしいと思ったところや不便なことを語れる、どうすればよいのかを考えられる子どもたちを育てていきたいと感じました。そんな子どもたちを受け止める覚悟も必要ですね。[静岡 杉本郁枝(クエ)]
■人類未踏の「白瀬ルート」での南極点到達を目指していた冒険家、阿部雅龍。彼が脳腫瘍のため死去したのは2024年3月27日のことだった。前年の夏、阿部雅龍は突然のひどい頭痛に襲われ、緊急入院の結果、悪性脳腫瘍・ステージ4だと発覚した。手術前、彼は「南極よりも困難な旅に出てくる。そして必ず帰ってくる」と話していた。しかしわずか半年後、逝ってしまった。享年41歳という若さだった。あれから二年が経ち、今年3月27日、三回忌を迎えた。
◆阿部雅龍とは同郷で同い年。地平線会議でもよく顔を合わせ、共通の知人も多かった。そして共感し合えるスピリットがあった。さしたる深い話をしなくとも、“自分が信じる道を、ただひたすらに突き進んでいくだけ”という信念が、互いにあった。彼が亡くなったと知ったときは、ただただ寂しかった。彼が夢を語る姿をもっともっと見たかった。夢を追う彼とともに私も走りたかった。でも彼は、“阿部雅龍を生きる”という冒険を、冒険人生を確かに生き切ったのだ、とも思う。
◆阿部雅龍が脳腫瘍で倒れたのは2023年。折しもその11月から彼は、人類未踏とされた「白瀬ルート」での南極点到達を目指していた。その踏破は、故郷秋田の先人である探検家・白瀬矗(しらせのぶ)の意思を引き継ぐための、10年以上前からの彼の夢であり、最終目標だった。この挑戦が終わったら、故郷秋田に冒険学校を作りたい、とも話していた。白瀬矗や大場満郎氏(冒険家。世界で初めて北極と南極の両極を単独徒歩で横断)から、冒険者としてのスピリットを学び、受け継いできたように、今度は自分がそうしたスピリットを次の世代へと繋げていく。そのための活動をしたかったのだろう。しかし、現実はあまりにも残酷だった。あんなに元気だった彼が、10年来の夢の実現のその目前に倒れ、脳腫瘍の最終ステージだと宣告を受ける。一体誰が、それを予想しただろうか。
◆阿部雅龍はいつも、「最後に笑って死ねる生き方がしたい」と話していた。「いつかは来ない。常に今しかない」とも。そんな思いで、彼自身が日々を駆け抜けていたはずだ。4歳で父親を交通事故で亡くした彼は、人間の命が有限であることを誰よりも知っていたはずだ。
◆病状が判明し、手術をする直前の2023年9月5日、彼は最後のSNS投稿をしている。その一文は以下の言葉から始まる。「実は南極前に過去最高難易度の冒険に出ることになりました」。そして最後に、こう語っている。「南極と違い、自分が望んだ冒険ではないけど、病気という冒険に自ら勇気を持って立ち向かいます。今回の舞台は南極ではなく病魔であるだけです。今までどんな逆境にも負けずに笑顔で立ち上がってきました。受け身ではなく自ら選んで挑戦者として闘う。それが阿部雅龍という男であり冒険家を職業とする人間の生きる姿勢です」
◆私はこの文を、何十回と読み直してきた。その都度、彼らしいな、と思う。脳腫瘍のステージ4だと宣告され、手術しなければならないことを受け入れたうえで、それでも彼は、白瀬ルートに行くことを最後まで信じていたはずだ。最後の最後まで、彼は冒険者だった。そして本当に、肩書きにそう書いていたように、「夢を追う男」だった。その生きざまは、最高にカッコ良かった。
◆阿部雅龍が旅立って二年が経つ今、彼が与えてくれたもの、残してくれたものの大きさに改めて気づかされる。夢を抱き、まっしぐらにそこへと向かう真摯な姿勢。誰よりも努力すること、情熱を持つこと。仲間を募り、愛し、夢を共有すること。私にも、阿部雅龍から受け取ったものがある。それは、ひまわりの花のような彼の笑顔とともに、心の中で輝いている。私はそれを胸に携えて、これからを生きていく。スピリットを、しっかりと受け継いでゆく。三回忌の今、改めて彼に呼びかけたい。「友よ、ありがとう。冒険よ、永遠に」。
■今月発売のおなじみ『山と溪谷』5月号は、表紙を含め「上高地特集」だ。今更、と思いつつご存知河童橋から見上げる吊り尾根、水面にキリが流れる梓川、新緑の木立ちなど写真に胸がしめつけられる思いがある。あの尾根、この谷、何度遊ばせてもらったことか。
◆普通自称「山屋」は現役時代は上高地の良さを知ろうとせず、その美しい場を早く通り過ぎるようにする。でかいザックを背負えない年齢になってはじめてその地の素晴らしさに感動し若き日の思い上がりを反省するのだ。
◆足の骨折で先月「報告者のひとこと」を書けなかった平靖夫さん、まだ入院中なので今月もお休みです。それにしても彼が岡村隆と作った『戦後学生探検活動史』(1973年 600部)、いまも時折ページを開くが労作である。[江本嘉伸]
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森に育まれた暮らし
「物々交換で生きていけたらさいこうですね〜」というのは笠原初菜さん(32)。北海道で「ちえん荘」という共同生活の場をベースに、時間や経済に追われない柔軟な暮らしのあり方を探っています。 父親が南富良野町郊外で野外学校のガイドをしており、幼少期の遊び場は森の中。様々な人たちが出入りする学校の丸太小屋で過ごした犬家族のような共同生活が原体験にあります。「留学していたモンゴル人の子どもたちと遊び回ったり、カナダ人スタッフの英語に憧れたことも」。小学生の頃は毎夏、家族で人のいない浜辺にキャンプを張り、一週間ほどたき火で生活する行事も恒例でした。 北海道大学で文化人類学を学び、修士課程ではネパールのランタン村に留学も。社会問題にも関心が募り、フィールドワークも生かせる職として新聞記者になりますがなじめずに退職。そんなときに大学探検部の仲間たちと旭川で始めたのが「ちえん荘」でした。名称は林業を志すパートナーが命名。「チェーンソー」や「遅延」などをかけ、ゆっくり自由に議論を交わし夢を語れる部室のような場です。 現在は南富良野に拠点を移し、新たな方向を模索中。初菜さんはイス張り職人の修行中。この秋開催される『地平線モリズム西興部』にもスタッフとして参加します。今月は初菜さんに、北海道の森に育まれた暮らしについて話して頂きます! |
地平線通信 564号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2026年4月15日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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