
3月18日。私の住むマンションの玄関わきにソメイヨシノの巨木が聳えている。その樹が今や満開となり、何羽ものヒヨドリたちが枝から枝へ飛び回っている。ああ、春が来たのだ。
◆世界は春どころではない。アメリカのトランプ大統領は2月28日、イランの最高指導者、ハメネイ師を「歴史上最も邪悪な人間」と言い放ち、殺害したことを明らかにした。もちろんイランは猛反発、ホルムズ湾の船舶の航行を妨害するため機雷を仕掛けると脅しに出た。これに対してトランプは日本はじめ数か国に「艦船の派遣」を要請しているが、石油の供給をイランに依存する日本はじめ各国の反応は鈍くトランプは「それならもういい」と言い出した。そんな中で高市首相はトランプとの日米首脳会談のため明日アメリカに向かう。大丈夫か、高市。
◆「3.11」から15年になる。私が最後に現地に行ったのは2015年4月、バスによる移動報告会「ぼっかされだ里に花の咲ぐ」だからもう11年も現地に行っていない。「すまん、頼む」。福島行きで常に案内役兼運転手となってくれる渡辺哲さんにお願いしてこの14、15日の土日、久々に福島を訪ねた。折から32回目の東北往復をやってのけた77歳の鉄人ライダー、賀曽利隆もそのまま参加することとなり、さらには長く福島の現場で動物たちの救済ボランティアを続けている天栄村の滝野沢優子さんも加わり、賑やかな再訪となった。
◆常磐線の泉駅で渡辺君と合流、ほどなくバイクの賀曽利隆も来て車の後につく。塩屋崎の美空ひばり像がなつかしかった。そして、久之浜で津波に襲われながら立ち続けていた“奇跡の鳥居”は立派に囲われて新たな名所となっていた。久之浜から天神岬、波倉と行くともう第2原発はすぐ近くだ。夜は富岡駅近くのホテルに泊まったが、ここの朝食は午前5時、と聞いていまも早朝から原発で働く人がそれだけいるということなのだと思った。
◆翌15日は「とみおかアーカイブ・ミュージアム」を見学して夜ノ森駅〜大野駅〜双葉駅と動く。どこに行っても3.11当時その後の復旧ぶりについて詳細に説明する場所、そして克明な資料が準備されている。前に来たときには除染土を詰め込んだ黒いフレコンバッグの山がいたるところにあったが、今はどこにもない。すべて原発敷地内におさめたという。浪江町では牛たちのいる吉沢牧場を私としては初めて見学した。今も110頭の牛たちが元気にいると知って安心する。生き物の支援をやり続けてきた滝野沢さんは熱心に取材していた。
◆3人にお礼を言って帰りは、原ノ町駅から常磐線で。行きは2時間半ほどだったが帰りは東京駅まで4時間かかった。なんと特急はバスのように各駅に停まりながら行くのである。指定席は全線満席。大震災から9年も経った2020年3月14日、常磐線は全線開通したが、そのときの沿線の住民たちの喜びようがわかる。
◆私が3.11の現場に初めて行ったのは震災から1か月あまり経った2011年4月半ばだ。当時私たちは自然学校を核としたあつまりRQという組織の中に入って動き出していた。長期間入れるボランティアが必要だった。毎号この通信のレイアウトで力を発揮してくれている新垣亜美さんがその際、1番に手をあげてくれ(というより私に強く推され)、2011年3月25日から2012年6月まで1年あまりを南三陸の被災地の小学校で過ごした。苦労は多かったと思うが、あの被災地で長期間過ごしたことから得たものは少なくなかった、と思う。
◆自身も何度も現地に飛んだが、最初に被災地を訪ねたときの衝撃は大きかった。テレビなどで見てはいたが、ビルのてっぺんにバスが乗っていたり、そこいら中に船が乗り上げていたり(乗り上げ船と当時命名した)お墓に何台もの車がひっくり返っていたり。そしてズタズタにされた道路や鉄道の修復のために動き始めた自衛隊の皆さんの体を張った仕事に感動した。
◆地平線会議が東京以外で開催した拡大報告会は2008年10月25日から27日にかけて沖縄・浜比嘉島でやった「ちへいせん・あしびなー」が最後である。考えてみるとその3年後にはあの東日本大震災が起き、以後遠隔地でお祭りをやる発想はどこかに消えていた。今年の西興部村地平線はそういう意味でも大事な現場となる。この機会に地平線会議が体験した「3.11」をほんの少しでも伝えることも私たちの仕事かもしれない。[江本嘉伸]
毎月、このページは「先月の報告会から」というカット見出しとともに報告会で何が話されたか、書き手を変えて詳しいレポートが掲載される決まりですが、今月は違います。2月の報告会を休んだからです。思案した結果この秋に計画している『地平線会議 in 北海道』について特集することとしました。来月以降も随時西興部村での試みについてはお知らせしますが、半年後に迫った北の祭りにどうか声援をお願いいたします。[E]
■今年の北海道地平線開催のお手伝いさせていただいている酪農学園大学の伊吾田宏正と申します。2008年3月に「鹿撃ちサバイバル奮闘記」として地平線報告会でお話をさせていただきました。そのときと同様、酪農学園大学という北海道江別市にある大学で教員をしています。
◆私は1972年に神奈川県横浜市で生まれました。高校は江本さんと同じ県立横浜緑ヶ丘高でした。1浪して入学した横浜市立大学では、生物学を学びました。その傍ら、探検部に所属し、北海道の知床岬踏査、天塩川筏下り、鹿児島県の宇治群島での無人島生活実験、富士山の冬季登山(海抜0mから)、ネパール・チュルー西峰(6,419m)登山などをしました。チベットにも興味を持ち、インド・ラダック地方に個人旅行しました。
◆大学を卒業した1996年、斜里町役場に半年間臨時で雇用され、知床国立公園のヒグマやエゾシカの調査や対策をする業務に従事しました。これがきっかけとなって、それ以降は北海道を拠点に、子供のころから興味があった野生動物の調査研究活動をしていくことになりました。翌年からは北海道庁のエゾシカ調査プロジェクトに参加し、数十頭のエゾシカに電波発信器を取り付けて、追跡を行いました。プロジェクトのリーダーは地平線報告会でもお馴染みの梶光一さんでした。調査の結果、エゾシカの大規模な季節移動の実態を明らかにすることができ、その成果で北海道大学大学院の博士号を取得させていただきました。
◆さて、それから西興部村と関わる機会が訪れます。2004年当時、西興部村では猟区という制度を利用して、地域が主体となってエゾシカの資源管理をする取り組みが行われようとしていました。私はNPO法人西興部村猟区管理協会に所属し、その立ち上げに参画しました。主な事業となったガイド付きの狩猟と狩猟者教育によって、道内外から狩猟者などを呼び込み、雇用・宿泊・飲食など一定の経済効果が得られています。この事業を充実させるため、その後、村には射撃場とシカの解体場を整備していただきました。私は3年間、NPOの事務局長兼狩猟ガイドを務めましたが、2007年に酪農学園大学に移りました。猟区は私の弟、伊吾田順平が後を継ぎました。
◆その後も私は、学生の卒論調査や学生実習などを実施するために、西興部村に通っています。また、2015年から一般社団法人エゾシカ協会がシカ捕獲認証という資格制度を提供していますが、座学は酪農学園大学で、実習と試験は西興部村で行われています。この制度は、英国のものをモデルとしていて、シカの捕獲と食肉衛生に関するヨーロッパ水準の資格制度となっています。私はこの制度を立ち上げるにあたって、英国に渡って自らその資格を取得しました。
◆このように、西興部村では関係機関と連携し、国内でも先進的な野生動物管理に関する取り組みを行なっていますので、今年の北海道地平線ではその内容もご紹介させていただければと思っています。[伊吾田宏正]
■さきほどからギャオンギャオンと動物の叫び声がきこえます。時刻は夜の8時。おそるおそる窓をあけ外の様子をうかがいました。
◆そこにいたのはキタキツネ。だだっ広い雪原にポツン。この時間ともなると車の往来もめったになく、日中も静かな所だけれど今夜は特に静かです。風もなく雪だけがちらちらと降っています。このけたたましさに多くの村人が同時に耳を澄ましているのではないかと思ったほど。やれやれキツネか。そんなに珍しくもないし寒いし見るのはもう終わりしようと思ったその時、突然一匹の真っ黒な子猫が家の角から上半身だけにゅうっと現れました。フリーズしてこっちを見てる。
◆この子は最近周辺をうろついているノラ猫の「ニャア」。勝手にそう呼んでいます。人間とは常に絶妙な距離感を保ち素早く逃げる子。そのさらに奥にはあのうるさいキツネ。何だかおかしなこの状況に聞きたいことがいっぱい。伝える手段もないままただただ見つめ合いどれくらい経ったでしょう。猫がふっと姿を消しキツネも立ち去りました。私は窓を閉め、この一連の出来事を早く誰かに伝えたいと思ったのでした。これが私のにしおこっぺの日常です。
◆そんなにしおこっぺ村で、最近活発な趣味のサークルに「和太鼓」があります。この土地で何十年も途絶えていた和太鼓の文化が2024年に復活したのです。メンバーは女性が多めの13名。驚くのはこの13名中3名が狩猟に携わっていて、先日もメンバーが仕留めた鹿のお肉をお裾分けでもらい美味しくいただいたのでした。それぞれが就いている職業も酪農家だったり介護職だったり様々。週に1~2回夜集まっての練習をしています。もしも屋外で太鼓を叩いたら山の反響ってどんなだろう、一体どこまで音が届くのか。その日もそんな事を思いながらドンドコやっておりました。東京から視察でいらっしゃったという地平線会議メンバーの皆さんに偶然にも再びお会いしたのはそんな夜のことです。
◆太鼓歴の超浅い私たちと音楽コラボしてくださるという、とてつもない、けれどとんでもなくワクワクしてしまうお話が持ちあがったのでした。当日いったいどうなるのか……未知すぎる領域。これは私たちにとって大冒険であります。皆さまにお会いできる日を心よりお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします![西興部ウェンシリ太鼓メンバー代表 藤田麻美]

《画像をクリックすると拡大表示します》 イラスト ねこ
■はじめまして。西興部村在住の主婦、伊吾田良子です。鹿皮の有効活用と村の特産品開発を目的として、西興部村で捕獲した鹿の皮をなめし、作品を制作しています。
◆江本さんから地平線通信への寄稿を依頼され、まず初めに思ったこと。それはなぜ私のような凡人に……地平線会議のメンバーは各分野でグローバルに活躍する方々ばかりという印象でしたので、そのような方々が目にする文章なんてとてもじゃないけど書けない!ということでした。しかし江本さんのエネルギーに圧倒され、また今秋西興部村で地平線会議が開催されるということで少しでも西興部村と私たちの活動が伝わればと思い引き受けさせていただきました。
◆私は2006年に出身地である茨城県から結婚を機に西興部村に移住しました。夫はNPO法人西興部村猟区管理協会(以下、猟区管理協会)ハンティングガイドの伊吾田順平、義兄は酪農学園大学で狩猟管理学を教える伊吾田宏正、義姉はシカの研究者。身近な人がみんなハンターという環境でハンティングに同行するうち、それまで特に野生動物に興味がなかった私自身も2009年にはハンターになりました。
◆初めてシカを獲ったときのことは忘れることができません。北海道では主に車を走らせながらシカを探す流し猟が行われますが、初めての猟では内心シカに出会わなければいいな、と思いながら車に乗っていました。しかし何度目かの目撃のあと、射程距離もバックストップも問題ない場面が訪れ、とうとう発砲することになったのです。狙いは親子のシカでこちらを警戒しながら見ていた母シカ。幸運にも一発で倒れ斜面から落ちてきました。同行者はやったね!と喜んでくれましたが、私は自らが発砲した弾でこんな大きな動物を殺してしまったという罪悪感も少なからず感じていました。倒れた母シカの傍から仔ジカが啼きながらしばらく離れなかったことが私をより複雑な心境にさせていました。
◆その晩、同行者を含め村人たちが集まってお祝いをしてくれました。その食卓には私が獲ったシカの心臓も。美味しい美味しい、とみんなで食べながら「命をいただくってこういうことなんだ!」とそのときに改めて感じ、撃ったときの罪悪感は薄れていきました。
◆そしてハンターになってからシカの皮がほぼ廃棄されている現状を目の当たりにし、もったいない、自分が獲ったシカ(いただいた命)くらいは最後まで責任を持ちたいという思いが強くなりました。お肉を美味しくいただくだけではなく皮も利用したいと、皮なめしに挑戦することにしました。当時の猟区管理協会会長に教わりながら初めて獲ったシカをなんとかなめし革に仕上げ、自分用の名刺入れと1歳の誕生日を迎えた娘にファーストシューズを作りました。自分が初めて獲った鹿の皮が愛着のある一品に生まれ変わったときはとても感慨深かったです。
◆皮なめしもレザークラフトも素人でしたが、こうした経験から2011年に西興部村元気な村づくり応援事業の補助金を受け「西興部エゾシカクラフトサークル」を立ち上げ、皮なめし研修やクラフトのスキルアップを重ねてきました。作業場所の確保や品質のばらつきなど課題はありましたが、2014年からは村内道の駅や近隣イベントで鹿革クラフトを販売するまでになりました。2016年に特産品開発と販売を猟区管理協会に引き継ぎましたが、サークルは現在も協会に協力し活動しています。
◆それまで皮なめしの作業には排水や臭いの問題のほか、ある程度のスペースが必要なことから安心して作業できる場所がなく、すべて手作業のため少数しかなめすことができませんでした。そのような中、村がこれらの活動を支援するため2018年に国の地方創生拠点整備交付金を活用し、「エゾシカ皮なめし工房」を新設しました。広さは約30平米で、主に脱毛や洗浄に用いる回転ドラム・ボイラーなどの設備があり、皮なめしの作業が効率よくできるようになりました。
◆皮なめしの工程をおおまかに分けると①余分な肉や脂を落とすフレッシング②石灰漬けによる脱毛③タンニン漬け④加脂・乾燥となります。今でもほとんどが手作業ですが②の脱毛期間が短縮され、それぞれの工程で必要な洗浄作業が楽にできるようになりました(それでもクラフトに使えるようななめし革にするまでに約1.5〜2か月かかります)。
◆西興部村にはすでに射撃場や解体処理施設があり、皮なめし工房の新設でハンティングや肉の活用に加えて皮の加工もできるようになり、エゾシカの利活用サイクルが整いました。
◆現在、年間30枚ほどをタンニンでなめしてキーホルダーやカードケース・コインケースなどの小物を制作しています。村内4か所(道の駅にしおこっぺ花夢、ホテル森夢、森の美術館木夢、ゲストハウスGA.KOPPER)のほか、北大マルシェCafé&Labo(札幌)、uminoba(網走)、ノースプレインファーム(興部)で通年販売しています。
◆皮なめし作業は時間も手間もかかり正直大変ですが初心を忘れず、今後も「私たちが獲り 私たちが鞣し 私たちが創る」をコンセプトに軽くてしなやかな鹿革の魅力を多くの人に伝えていきたいと思います。西興部村に来た際には、ぜひ商品を手に取ってその良さを感じていただけるとうれしいです。[伊吾田良子]
■酪農学園大学環境共生学類4年生の川合慧(かわあい さとる)です。私は生まれてからずっと札幌市で育ちました。中学生のころから自転車に乗ることが好きで、今でも時間があれば自転車であちこち走っています。2026年4月から西興部村役場で働かせていただくことになりました。
◆私が酪農学園大学の環境共生学類に進学したきっかけは、酪農学園大学附属高校に通っていたことと、高校3年生のときに担任の先生から「大学に興味はないか」と声をかけていただいたことでした。学校に隣接する野幌森林公園にヒグマが出没した出来事もあり、野生動物への関心が強くなりました。もともと高校生のころから狩猟に興味があり、大学に進学するなら狩猟管理学研究室に入りたいと考えていました。
◆西興部村には、2025年2月に大学の実習で村を訪れたことがきっかけです。その際、村の方々がとても温かく迎えてくださり、札幌とはまた違う、人と人とのつながりの強さを感じました。その経験から、こうした地域で公務員として働き、地域の力になれる職員になりたいと思うようになりました。その後、3月にゼミの伊吾田宏正先生から「西興部村で職員を探している」という話を伺いました。理想としていた地域で働けるかもしれないと思い、興味があることを先生に伝えました。すると先生が西興部村のさまざまな方々につないでくださり、ご縁があって就職することができました。
◆4月に伊吾田先生が江本嘉伸さんと梶光一先生を西興部村に案内された際に同行させていただき、村のさまざまな施設を見学したり、ギョウジャニンニク採りを体験したりしました。実際に村で過ごす時間の中で、ここで暮らしたら自然の中でさまざまなことができるのではないかと感じました。その後も、西興部村の小学生が自然について体験しながら学ぶ「ワイルドライフ教室」のお手伝いや、大学の実習のサポートなどにも参加いたしました。
◆西興部村で開催される地平線会議を、私はとても楽しみにしています。10月には江本さん、落合大祐さん、長野亮之介さん、車谷建太さんが来られた際にお話を聞かせていただく機会がありました。そこで、これまで自分が経験したことのないような話や、「自分もやってみたい」と思えるような話をたくさん聞くことができました。そうした話を直接聞くことができる場に参加できることを、とても楽しみにしています。
◆4月から西興部村で生活と仕事が始まります。まだまだわからないことばかりですが、地域の皆さんに支えていただきながら、少しずつ村の力になれるよう努力していきたいと考えております。[川合慧]
■2月18日から25日まで、夫の隆行と北海道鉄道旅に出かけていました。その間、西興部のGA.KOPPERには2泊。中一日で、そこからバスで往復して紋別の流氷を見てきました。
◆GA.KOPPERは今まで何度も宿泊していますが、冬は初。昨年泊まったときに、冬にバスで行って泊まったというライダーから話を聞き、私たちも冬に泊まりに行ってみようと思ったのが、今回の北海道行きの発端です。冬は不定期営業とのことで、あらかじめ営業日を確かめてからの予約。名寄から名士バス興部線に乗って1時間弱、現金払いのみで1070円、「民宿ひなた母校(ぼっこ)前」で下車すれば、そこはGA.KOPPERの目の前です。バス停は、以前の宿の名称。GA.KOPPERのご主人浅野和さんが陳情していますが、なかなかバス停の名前を変えてくれないそうです。2泊したので、夕食は違う内容。猟師でもある浅野さんが捕った鹿肉が、1日目はジンギスカン、2日目は油淋鶏の料理となって提供されました。とても柔らかく、味付けも美味! 浅野さん厳選のお酒と共に美味しくいただきました。
◆周辺の低山には雪が積もり、浅野さんは幅広のスキーのような道具を自作して、適度にトレッキング&滑りを楽しんでいるとのこと。私たちは次回の冬の訪問ではワカンを持参して、低山雪山ハイクを楽しもうかな、と思った次第。
◆9月の地平線会議、浅野さんも、とても楽しみにしていましたよ![古山もんがぁ~里美]
■中学1年の終わり、春休みになったちょうどこの時期に、気の合う友達と2人で北海道を目指した。常磐線の始発列車で上野駅を出て、各駅停車を乗り継ぐと夜中の青函連絡船に間に合った。函館に朝着いて、親戚の家に上がり込んでセンバツ高校野球をテレビで観た。23時すぎに発車する札幌行きの夜行列車に乗り込むのを伯父さんに見送られ、目覚めると倶知安や銀山あたりで雪景色に驚いた。札幌、岩見沢、旭川、音威子府と乗り継いで、3日目の夕方にカチンコチンの稚内に着いた。樺太への客船が出ていた岸壁まで凍えながら歩いて、こんな地の果てがあるのかと思った。北海道は遠いところだった。
◆それまでも家族と一緒に札幌や函館には何度か行っていたし、その後も自転車で一周したりしているから、北海道は決して知らない土地ではない。でも中学生2人で北を目指したこの汽車旅の印象は強い。夜行列車をホームで待つ寒さ、客車の床を這うスチームの暖房管、車窓の雪に驚いて二重窓に額を近づけたときの冷たさをすぐ思い浮かべることができる。
◆中学生だけで東京から来た、というと会う人みんなに驚かれた。東京から離れれば離れるほど、「東京」の引力が意識された。ラーメン屋のテレビで東京のグルメ情報が流れている。みんなテレビで東京のことを知っているのに、私たちは逆に北海道のことを、音威子府や稚内のことをまるで知らないのだ。北海道を旅する自分が、東京で毎日通学していた自分を観ている。旅の魔力を初めて感じた。
◆稚内からの帰りは名寄で興部へ向かう名寄本線に乗り換えて遠軽、網走を目指したから、途中で一の橋、上興部、西興部といった駅も通っているはずだけれど、雪に埋もれた景色しか記憶にない。昨年3月、「地平線会議 in 北の大地」の開催候補地のひとつとして梶光一さんが熱烈に推していた西興部村を数十年ぶりに訪ねた。レンタカーのハンドルを握って、下川から天北峠を越える。かつて列車で通った線路は国道の隣に細長い空き地として続いている。
◆中学1年の旅と同じ時期なのに、雪はかつてと比べ物にならないほど少なかった。けれど、歩いている人は少なく、寂しい場所に思えた。「想像以上に遠く、不便な場所です。この不便を圧してこの場所に集まる価値があるかどうか、と考えるに、西興部村はあまり勧められないように思います」。そう江本さんに報告のメールを書いた翌日は吹雪になった。
◆私の意見はみんなの意見を覆すに至らず、その後その西興部村で地平線会議を開くことに決まった。遠ければ遠いほど旅の魔力を感じることができる。不便を共有することが仲間をより近づける。9月の集いはそんな機会にできればいいと思う。[落合大祐]
賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口)神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一 岩渕清(3口) 那須美智 森国興 丸山純 関根皓博 三輪主彦 中山綾子 小村寿子 大嶋聡子 中島菊代 酒井富美 平靖夫 下川知恵 江口浩寿・百合子 河野典子
★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸
■年度末の忙しさに追われています。毎年この時期は、イベントの映像配信や映像記録、納品がいくつも重なります。さらに今年は、映画の製作を11本抱えている状況です(いつもお尻に火がついているような状態ですが、不思議と疲れてはいません)。そのうちの1作品である新作ドキュメンタリー映画『森に聴く』は、3月27日から劇場公開します。先日チラシが出来上がったので、近況報告を兼ねて江本さんにお送りしたところ、数日後に江本さんから電話がありました。「忙しそうだね。忙しいと思うけど、地平線通信の原稿を書かないか」——そんな経緯で、僕はいまこの原稿を書いています。
◆2024年に公開した『おらが村のツチノコ騒動記』以来、僕はもういちど、一から始めるつもりで映像制作に向き合うことにしました。今までとは違う新しい自分に出会うために、どんな作品やテーマにも挑戦してみようという気持ちで。あちこちに蒔いた種が、いま一斉に芽吹いたような状況です。ほかの10作品は次のようなものです。ジャンルで大きく分けると、福祉が5作、民俗が2作、人権、医療、文化がそれぞれ1作です。
◆福祉の分野では、座り続けることが困難な人のための座位保持装置を通して「生きる姿勢」を問い直す作品。ダウン症の主人公が地域の中で暮らす姿を描く作品(映画編集として参加)。インクルーシブ保育を実践する保育園を取材した作品。カンボジアで障害児支援に取り組むボランティアを追う作品。そして特別養子縁組で二人の子どもを迎えた家族を取材し、「家族とは何か」を考える作品です(今年完成し、来年公開する予定)。民俗の分野では、100年前に貯水池と用水路を築き、100ヘクタールの土地を開墾した歴史を紐解く作品があります。
◆もう一つは、地平線報告会にも参加したことのある日本映画学校の卒業生、トウ・モエイさんが卒業制作として取り組んだ、中国・貴州省の少数民族の暮らしの物語です(劇場公開を目指し追加撮影中、映画編集とプロデューサーとして参加)。そのほかにも、人権ではハンセン病問題を扱う作品があります。これは当事者運動の先駆けとなった違憲国賠訴訟に関わった方のお話です。
◆医療では生殖医療のタブーに向き合う作品。日本ではいまだ認められていない代理母出産などを実施してきたとある産婦人科病院の物語です。文化では、もうすぐ誕生100年を迎える紙芝居の制作現場を取材した作品もあります。ときどき、自分でもいま何をしているのか追いつかなくなることがあります。それでも、一つ一つの作品に誠実に向き合うことだけは、変わらず大切にしていきたいと思っています。
◆どの作品にも語りたいことはたくさんあります。でも、いま一番お伝えしたいのは、やはり新作『森に聴く』です。日本列島にある四つの気候帯に広がる天然林を、森林、マングローブ、キノコなどの研究者たちとともに訪ね歩きました。取材の中で、樹齢500年以上の巨木に幾度となく出会いました。人間の寿命よりはるかに長い時間を生きる存在に触れ、その圧倒的な存在感に敬意を抱きました。
◆今作では共同監督として関わったほか、取材時はカメラマンとしても参加しました。肌感覚では直感的に感じる存在感なのに、映像として論理的に捉えることがなかなかできない。森は雄弁に語るのに、はたして自分はどこまで受け止められただろうか。その困難さを痛感した作品でもあります。幸い、取材先で一緒に森を歩いた研究者たちの言葉が、その存在を代弁してくれています。そして、みなさん森と同じように個性的で、とても面白い人たちばかりでした![今井友樹]
■地平線通信562号は2月18日印刷、発送作業を終えました。2月号は原稿が多く、22ページとなりました。レイアウト担当の新垣亜美さん、おつかれさまでした。終了後、有志は早稲田駅近くの洋食店でおいしい料理を楽しみました。発送に汗かいてくれた人は以下の皆さんです。
車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 中嶋敦子 高世泉 渡辺京子 長岡竜介 岡村節子 武田力 江本嘉伸

■ 旧体制の中で戦後を迎えた私たちは、旧体制の否定から民主主義の勉強をスタートしました。いわゆる教科書の旧体制を肯定している部分を黒塗りするというところから始めました。常に心に引っかかっているのは、その問題箇所を、GHQ米軍が決めているのか、日本側関係者が、米軍に忖度して決めているのかということでした。小学2年のときです。3年のとき新聞紙大の教科書が配布され、それを切って組むと小さな冊子となり、これが教科書でした。
◆そして事を民衆が決めるということを、学校自治会という形式で学びました。私が議長をやらされたとき、どうするのかまったくわからず、発言できずにおろおろしていましたら、教頭先生が発言のセリフを教えてくれました。自分たちでは議事が進められませんでした。やがてこれに徐々に慣れ、自らの言葉を発していけるようになりますが、そのためには自ら問題を考えなければならないというしんどい作業が必要であることを学びました。この自分の頭で物事を考え、消化していくという作業に移るまでには大変な苦労をしました。小学5年のときの話です。
◆そして、これにも少し慣れたころ、6年のとき、自治会の役員は、地域の6校からなる連合自治会に出席することになり、教頭先生につれられて行きました。現いわき市にあった神谷小学校の女子児童が議長でさっそうと議事進行をしている姿にすごい気後れし、発蚊の泣くような声で発言したのを覚えています。議題は各小学校が地域の農繁期にどのような農業支援の体制で臨んでいるかでした。私はいわゆるソカイ(疎開)であり、主体的に対応できない立場で往生しました。
◆次に神谷小学校を訪問したとき、ひそかに憧れていた議長が窓から乗り出して「花田くーん」と手をふられ、はにかむと同時に都会と田舎の差を感じて気後れし、神谷は戦中を克服しているというような感覚をもちました。これが私の民主主義の初めでした。難しい転換でした。
◆敗戦後5年目のときです。疎開先から東京に戻って入った中学は、カリキュラムや戦後民主主義教育などを含め、学校運営に試行錯誤をしていて、極めてユニークな仕組みでした。英、数、国、理、社は試験でABC3つのランクに分けられ、移動教室と称して、А組からH組まである自分の所属するクラスから自分のランクの教室に出向いて授業を受けることになっていました。ある意味、大学みたいでした。しかし、この5教科以外の図工、音楽、保健体育、職業家庭は自分のクラスでの学習でした。それだけの施設もないのにやっていたので、休み時間の移動は、ラッシュ時の電車のように混んでいました。これも旧体制から脱皮するひとつの試みでした。
◆そこでは同学年の各クラスから生徒が集まってきていますので、3年間一度も同じクラスにならなかった生徒とも、授業のランク教室で出会い、友達になれました。そのような生徒と生涯の親友になり、妻は彼の親戚であることから見て、休み時間中に1階から2階、2階から1階とぎゅうぎゅうな階段を移動して学んだことは私にとり、一生の宝となりました。このような中で、年に1時間だけ、民主主義を学ぶ時間がありました。そこで「三権分立」とか習い、初めて旧体制から変わった今現在の日本の正体を知りました。ショックでした。
◆高校に入り、現代社会には先生が二人おられ、佐々木先生が、現代の民主主義社会の具体を教えて下さいました。そこでは高卒後すぐ社会生活に入れるように、戦後の三権分立の国家のしくみ、経済の仕組み、はては手形の書き方まで学習し、経済動向をウォッチするひとつの指標として、日銀券つまり紙幣の発行高を常に見るがよいと教わり、かなりの年齢まで習慣になっていました。いまは日銀短観にきりかえています。
◆もう一人のソクラテスという愛称の中村先生は民主主義を教育するとの趣旨だったと思います。1年間通じてプラトンの『ソクラテスの辯明』という岩波文庫を読みその内容を教えました。ソクラテスの生き様を通じて、しっかりした民主主義の基礎を身につけることをねらっていたのだと思います。久保勉訳の現代版は難読漢字をひらがなにしていますが、私が学んだ旧版は漢字でした。例えば「なかんずく」は「就中」、「けだし」は「蓋し」などです。この類いの字を覚え、明治期の文献を以前より楽に読めるようになりました。
◆私は、上記のように戦後の混乱期にありながら、じっくり真理に立ち向かう小中高の先生方から、民主主義を学びました。「悪法も法なり」と遵法精神を全うして、友人たちの逃亡の勧めを拒否して死を受け入れ、民主主義を護ったギリシャのソクラテスは圧巻でした。
◆次いで、近代民主主義の祖ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』、『人間不平等起源論』などにより近代民主主義の発生を学びました。ちなみにルソーは私にとって大事な思想家で、いろいろ読みました。『告白録』、『孤独な散歩者の夢想』の方がルソーの人間的弱みが丸出しで、人間ルソーが丸見えで好きでした。大部な『告白録』はスタンダールの『赤と黒』に匹敵する感動を覚えました。
◆いま、ヴェネズエラを急襲して大統領を拉致し、同国の石油を意のままに所有するということをトランプ大統領がやりました。個人になおすと、強盗が武装して他家に入り、主人を拉致して、その家の財産を奪ったということです。それに対して民主主義国家のどの国も非難しませんでした。ですからつけあがり、今、グリーンランドがねらわれています。
◆戦後民主主義はアメリカに教わり、アメリカに頂いた憲法で護られたと言われていますが、アメリカは19世紀から覇権国をやめたことがなく、ダブルスタンダードであったことは歴史が示しています。アメリカ民主主義に幻想をいだくことをそろそろやめませんか。専制的覇権国にアメリカは非難されていますが、情けないと思いませんか。法と秩序は眼中にないのです。
◆これはアメリカでなくトランプ個人の仕業と一部では言っていますが、ベトナム、イラクをやったのはトランプではありません。戦後太平洋諸島で島民を他の島に移動させ傍若無人に核実験したのもトランプではありません。お題目のように各党、「日米同盟が基軸」と言っていますが、それは思考停止の合い言葉で真に愛国なら、そんな無責任な呪文は唱えないはずです。これからの時代は超高山のように行く手は厳しく、自力でしか上れません。覇権国に自国の運命を任せてはだめと気づくべきでしょう。
◆今、戦後民主主義のゆらぎが語られ始めていますが、私は確固として戦後民主主義を擁護したいと思います。戦後80年日本が戦争しなかったのも戦後民主主義のおかげです。日本の戦後民主主義に自信があり、これをゆがめる輩を許したくありません。戦後民主主義の日本は、一部覇権国が言うように軍国主義では絶対にないからです。それにいくつかある、覇権国については民主主義が存在していません。かれらにとやかく言われたくありません。わたしたちは、戦後民主主義の中で育ちました。それは近代アメリカからだけ教わったものではありません。ギリシャから始まる民主主義であり、イギリスの1215年のマグナカルタに始まる民主主義であり、フランスのジャン・ジャック・ルソーから学んだ民主主義だからです。

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■「ああ、この人はジャンヌダルクみたいになる人なんだ」。2020年のコロナ禍にエンゼルス戦で躍動する大谷翔平選手をテレビ越しに観てそう確信したのを覚えている。何故性別も国籍も違う例えになったのかはわからないが、突如日本から現れて二刀流で躍動する彼の能力は本場アメリカでもずば抜けており、当時から100年後もスポーツというジャンルを超えて語り継がれるポテンシャルを充分に秘めていた。
◆「絵画や白黒写真でしか認識したことのないような偉人が今この時代に存在するのなら、心に刻み込んでおきたい」。気がつけば我が家(母と姉と自分)は全員大谷翔平に釘付けの日々を過ごし、2023年WBC前回大会では「一生に一度でいいから母に彼の姿を見せてあげたい」一心で観戦した東京ドーム。選手もファンも心を一つにした空間で彼の特大のホームランを目にすることとなった。この一発が我が家に与えた影響は予想を遥かに上回り、その後は本場LAにまで迷うことなく足を運ぶ展開に。とにかく「母親がその一年すこぶる元気になる」というのが何よりも代え難い一番の収穫なのだ。
◆着実に偉人への階段を登り続ける大谷翔平が社会現象となって迎えた今回のWBC。もちろん行きたいけれど、前回優勝もあり「チケット販売サイト上で50万人待ち」という状況に失望していたところ、なんと姉が当選した。心の中で神様に手を合わせ、再び東京ドームに向かった第一戦。会場を埋め尽くす5万人の日本人と台湾人の光景に「あのチケット争奪戦を勝ち抜いた幸運な人たち」という付加価値が加わって余計にみなぎるパワーを感じる。2回表、満塁のチャンスで大谷選手が見事にホームランを放つと、観客席は雄叫びとハイタッチで揉みくちゃになる。日本チームはそのまま波に乗り7回コールド勝ちとなり、隣や後ろにいた台湾人ファンとお互いの健闘を讃えて固い握手を交わした。「これも歴史の1ページになるんだな」。そんな想いで夢中で観戦した夢のようなひと時だった。
◆僕のなかで近頃の大谷選手の気迫の籠った顔つきがだんだん不動明王に似てきているなと感じている。というか、「人間は徳を真に積み上げれば、一つの道をこれ程までに極めることができる」と不動明王が人間の姿をして示してくれているのではなかろうか。現に世界中の野球ファンを幸せにし、日本列島のお茶の間を明るくし続けている。その真意はともあれ、彼の満塁ホームランのご利益で我が家はこの一年を頑張れる元気で満ち満ちている。[車谷建太]

日時:4月5日(日) 午後2時〜4時半
※会場参加は満席。オンライン参加はまだ可能です。
※要申込み
内容:17世紀半ばに掘り築かれ、自然環境を保持するための大きな役割を担ってきた玉川上水は、開発や気候変動により荒廃が進んでいます。手遅れになる前に、この流れを維持する意義を問い直すシンポジウムです。
パネリスト:リー智子(地球永住計画副代表/アーティスト) 陣内秀信(建築史家) 石川幹子(農学博士) 新里達也(昆虫学者)
■発刊から早1年余り。ようやく手に取ることができたこの本、ずっと気になっていた。というのも私は以前、バックパッカーとして1か月ほどエチオピアを旅したことがあって、そのときに南部オモ渓谷の少数民族の村にも滞在したのだけれど、お酒を主食とするような文化の話はこの本が初耳。つまりは、「せっかくご近所まで訪ねていたのに、知らずに逃していた面白い文化」があったことを、どうしても放っておけなかったのだった。
◆ところが実際、この本を読んで私のツボにはまったのは、件の、酒呑み文化紹介体験記そのものよりも、もっと奥の奥、その舞台裏の話だった。そもそも背景に、(テレビ番組の取材という)大きな資本が動いていることからして、私のようないっぱしのバックパッカーには知り得ない、別世界の旅の初期設定。なのに、いざ蓋をあけてみれば、そこに横たわっていたのは至極ありそうな話、って……。
◆文化の根幹には、人の心がある。異文化というのは、同じ根っこから生えた樹の枝葉が、なんらかのきっかけで分岐して異なる方向へ伸びた結果だと私は思っている。この本には、特異な伸び方をした枝葉の「先っちょ(=お酒を主食とする文化)」の話、と同時に、根っこの根っこ、そこにある「(人間の)根っこ」の話が綴られていた。そうしてたどり着いたのは、強さも弱さも孕む人間としての“共感”。たとえ欺きと受け取れるような事柄さえも、その源に、人間という生き物だけが持つ“優しさ”が見える気がした。まさに昨今の価値観の主流である「映え」だけを追いかけていては、ここまでは見えてこない。そしてどうやら私は、この「根っこ」に、期せずして酔っ払ってしまったようだ。高野さん、人間の、このどうしようもない愛しさのお裾分けを、ありがとうございます!︎[中井多歌子 ボイス・アーティスト兼ライター]
■3月14、15日、福島県楢葉町出身の渡辺哲さんから、エモっちゃんこと江本さんが福島の被災地視察に来ると聞き、急遽同行させてもらうことにした。さらに、冒険ライダー賀曽利隆さんも毎年恒例の鵜の子岬→尻屋崎ツーリングの帰りに合流、賑やかな道中となった。
◆江本さん、渡辺さんとは震災半年後の2011年9月、まだ津波の傷跡生々しい福島の津波被災地を見て回ったことがある。その後、2015年には地平線会議のバスツアーで原発被災地を巡ったが、江本さんが福島に来るのはそれ以来、11年ぶりだとのこと。
◆1日目はいわき市や楢葉町を周って富岡駅前の宿に泊まり、2日目は富岡町の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」、大熊町の「CREVAおおくま」など定番スポットのほか、国の殺処分命令を拒み、被爆牛を生かし続ける浪江町の「希望の牧場」、原発事故をアートで伝える南相馬市小高区の「俺たちの伝承館」へもご案内し、久しぶりに「地平線会議in福島」をやろうじゃないか、という話に発展した。
◆それにしても、85歳の江本さんのお元気なこと! 78歳の賀曽利さんに「まだまだ、これからですよー! 式内社巡りしましょうよー!」と、発破をかけられると、けっこうその気になった様子。9月の北海道地平線会議もあるし、やりたいことがいっぱいというのが若さの秘訣かも? 50代の渡辺さん、60代の私も、エモっちゃんのようにエモい高齢者を目指して、ガンバルゾ![滝野澤優子]
追記:田部井淳子さんをモデルにした映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』の裏話も興味深かった!
■レイキャビクの厳冬期は過ぎ、少しずつ春の訪れを感じています。今朝、本を読んでいた7時頃、窓の外から鳥の鳴き声が聞こえてきました。しばらく聞いていなかった、少し甲高く長い声。渡り鳥が戻ってきたのだろうと思い、まさに春の足音だと嬉しくなりました。学校前の道のわきに植えられた球根から、新芽が出ていることに気づいたのは3週間も前のこと。それから日に日に成長し、もう少しでつぼみが膨らみそうです。2月の中旬からは日光に熱を感じるようになり、嬉しくてありがたくて、隙を見て走っています。
◆とはいえ、天候は笑ってしまうほどの気まぐれ模様です。昨日までの1週間は、雪と雨が交互に降り、積もっては解け、道は凍ったりぐずついたりして、毎日違う歩き方でした。5分ごとに変わっていく空のもと、なるほど、アイスランド人は予定を立てないというのも納得だなとようやく実感しているところです。いうなれば雪時々雨時々曇り時々晴れ。ここでの鉄則は“wear properly”(意訳:適した服を着よ)です。時折山のようだなと思います。道具の意味や身体の使い方に意識的になる場所です。
◆アイスランド大学の修士課程で人類学を学び始めて、7か月ほど経ちました。昼間は学校に通い、夜と週末にはアルバイト、あとは勉強研究、その他諸々、という生活です。現在受講している講義は「民族誌」「アイスランド語基礎1」「文化人類学の理論(70年代初期まで)」「アイスランドの人類学」の4つで、毎週の読書課題とレポートに追われています。修士論文の調査も、試行段階ですが1月から始まりました。
◆さて、放課後のアルバイト先は土産物屋です。ダウンタウンの真ん中に位置しており、ひっきりなしに人が往来します。2000年代半ば以降、観光はアイスランドの成長産業で、勤め先は観光分野の労働組合の管轄内です。制度面の話をすると、EEA(欧州経済領域)、EFTA(欧州自由貿易連合)圏外の労働者は労働許可が必須で、特に学生に対しては週の労働時間が最大22.5時間という規定です。
◆アイスランドは物価もお給料も高く、今のところ生活をしながら少し貯蓄できるくらいにはお給料をいただいています。1月には閑散としていたのですが、日も長くなり、だんだん人が戻ってきました。免税手続きの書類発行の際に国籍を聞くのですが、アメリカ、イギリス、中国、ドイツやフランス、北欧諸国などからのお客さんが多いです。地元の人がいらっしゃった際にはアイスランド語を試していますが、今のところ失敗続きです。
◆仕事をしていて思うことは多々ありますが、3日前のことを紹介したいと思います。初老の男性客に、毛糸のブランケットがどこで編まれたのか聞かれました。タグの説明に情報がなかったためブランドのウェブサイトに行くと、レイキャビク郊外に紡績工場があることがわかりました。目の前のブランケットも掲載されていましたが、ウェブサイトのどこにも編まれている工程がなく、生産国もありませんでした。男性客は、やっぱりな、という目をして、ここで編まれたものがいいのだと言ってお店を出て行かれました。
◆男性の意図は断定できませんが、自分にとっては、目の前の商品がどこで、どのように、どの材料から作られているのかがわからないことに改めて気づかされ、無知を恥じました。原産国が明示されているのは、それ自体に「価値」がある場合のみ(グリーンランドの毛皮、アイスランド産の毛糸、ハンドメイドの製品など)で、量産型の製品には生産国名、原材料がないものが多くあります。
◆もちろん、こうした状況はここに限ったことではありません。他方で、モノを売りつけてご飯を食べている以上(その食料も約半分は輸入されたもの)、ざらりとしたものが心に滑ります。膨大な輸送網とエネルギーは環境負荷とともにあり、融け行く氷山の片隅に自分が生活しているのだということを忘れてはならないと思い至りました。
◆先述の男性客と話したあと、上述した紡績工場の見学ツアーを勢いで予約しました。何を変えられるわけでもありませんが、私が何を売ろうとしているのかについて、少しでもわかりたいと思います。
◆日々の経験と出会いを一つずつ受け止めて言葉にしつつ、楽しみながら生活し、学んでいこうと思います。[レイキャビクから 安平ゆう]
■今日は東日本大震災から15年目。多くの人の人生を変えた日。心から合掌せずにはいられない日本人全体にとっての悲しい記念日だ。ただ悲しむばかりではなく、皆で力を合わせた復活の記念日と考えたい日でもある。
◆そうした日に、私にとっての記念日を考えてみた。喜びの日、人生を変えた日とはいつだろう……そう、初めて地平線会議を知った日だと思いついた。1989年秋、と思う。そこへ行けば、何かわからないけれども、自分が目指しているものに出会えるのではないか、との思いでアジア会館へ向かった日。社会に出て3年目、自分が何者になろうとしているのかわからない27歳にとって、学生時代にその名を聞いた「地平線会議」には何か、手がかりがある気がしたのだ。
◆その日の報告会開催について、新聞記事を見たのがきっかけだった。白根全さんのアフリカバイク縦断をとりあげた記事だったと思う。アジア会館で、その日の報告者の一人は三輪主彦先生だった。トルコの話だったと記憶する。羊を抱く子どもたちの写真が映し出され、「この子たちは羊を抱きながらなんと言っていると思いますか?」。「かわいい? 違いますよ、おいしそう!なんです」と説明する三輪先生の笑顔がいまも目に浮かぶ。
◆その日の最後に、「明日、奥多摩でキャンプをするから、参加したい人はきてください」と非常にラフな紹介があった。誰でも参加できるキャンプ! 誰も知り合いのいない私が、参加してもいいのかしらと思ったが、次の日、私は奥多摩駅にいた。何かに突き動かされて行ってしまったのだろうと思う。しかし、駅までたどりついて、ハタと考えた。どうしよう、やっぱり帰ろう。そして、次の電車で帰ろうとしていたところ、到着した電車から降りてきたのが、前日の三輪主彦先生と奥多摩キャンプを紹介した江本嘉伸さんだった。なんという偶然、なんというタイミング! 私は三輪先生と江本さんに、まさに「拾われて」、キャンプ場へ連れて行ってもらうことになった。
◆ほどなくして、地平線会議の周年イベントを開催するという。新参者の私に出番などないところ、寸劇をやろうという話がもちあがり、私に江本さんの娘役という光栄な役柄が回ってきた。ハゲチョビンのカミナリ親父と、旅に出たがるやんちゃな娘。脚本の長野淳子さんからのご指名だった。淳子さんとは、三鷹高校の先輩、後輩の間柄だったことから、声をかけてくれたのだろうと思う。淳子さんの脚本は秀逸ながら、演者がド素人で練習もわずか。まさにドタバタというしかない寸劇だったが、何かに突き動かされて地平線にやってきた私は、目指すべき何かとは、夢や空想ではなく、試行錯誤しながらも何かを生み出そうとする具体的な人間活動なのだと知る機会となった。
◆あれから36年。私は本業の編集をベースに、東北エリアで地域力を生かした活性化、日本の漁業取材、アフリカ女性にすり身加工技術で自立支援という活動に向かうことになった。多くの人との協同作業だ。その間、地平線会議はいつも私に刺激を与えつづけてくれた。それは、人生は「何者かになることに意味がある」のではなく、「自分が突き動かされる何かに向かい歩きつづけることに意味がある」と教えてくれる場だったからだと思う。生活の場ではない、修行の場とも違う。いまの自分の生きる姿勢を考える場、気づきを与えつづけてくれる時間だからなのだと思う。そんな場所、他にはない。[3月11日 佐藤安紀子]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。
平本達彦 平井凱章(5000円) 田立泰彦 尾上昇(10000円 昨今の探検、完全に行動に行き詰まっているようですね。アルピニズムも奇人の部類になりつつあります)
■「日本で唯一、世界中でも二人しかいないカーニバル評論家」なんぞという胡乱な看板を掲げてうろつき回ってきたが、誰がなんと言ってもやはり現場はスゴくてエラい。今年のカーニバルは世界最弱通貨と化した円安経済状況下の苦渋の選択で、割と身近なパナマを選択した。広義のカリブ海文化圏に属し、かつ南北米大陸のつなぎ目で両方の文化要素が混在する地でもある。
◆グレートジャーニーのダリエン地峡踏破以来、コロンビアは複数回訪れていたがパナマは久しぶりだ。超高層ビルがそびえ立ち、荒れ果てた市街もすっかりオサレに変貌を遂げている、ようにも見えるが、場所によって表通りの一本裏は危ないから歩くな状態は変わらず。カーニバル会場はシンタ・コステーラという海岸通りだが、事前に触りだけ調べていたプログラムは大幅に変更。ポジェーラというシックな民族衣装の女性や、動物に扮した子供のパレードもドタキャンらしい。
◆シャワーキャップで防水仕様にしたカメラ一台レンズ一本だけを手に、初日の水かけイベントを偵察しに行ってみたが、給水車が満員電車状態の大群衆に放水するだけの、芸も技も皆無のびしょぬれ大会だ。直射日光が降り注ぐ30度超の気温のなか、踊りまくる水着姿の酔っ払いの群れからは、湯気が立ち上り霞んで見える。とても撮影できる状態ではなく、撮りたい被写体も見つからない。3時間遅れの深夜のライブステージも、DJが繰り出すレゲトンの間抜けたサウンドに、ラッパーが煽り立てるだけの大騒音罰ゲーム状態だけ。内陸のラス・タブラスという街が町内美女対決で知られるが、そもそも大渋滞の陸路で片道10時間超、タクシーのチャーター代が往復1000ドル! もうこの時点で即敗退決定となる。
◆コロナ禍以降に訪れたカーニバル現場を思い返してみると、ブラジルのベロ・ホリゾンテやボリビアのサンタ・クルス、仏領ギアナのカイエンヌと、どこも一味違う渋い選択だが、以前とはどこか違うように思える。ろくに写真も撮れないままパナマを後に、ペルーの居候先に寄り道してから帰国の途に就く間、ずっと考え続けていたが、とりあえず試論として気付いたことを挙げておきたい。
◆どの祝祭空間でも共通しているのが鉄柵や金網の増加と、警備の軍隊や警察官の増員である。同時にどこも有料スペースが拡大設置され、一般大衆に対する制限が増えている。要はカーニバルの商業イベント化で、本来なら主役を果たすべきはずの民衆を排除する、祝祭のテーマパーク化とも言い換えられるだろう。期間限定で出現する祝祭空間が持つハレ=非日常の聖なる魔術が効力を失い、スポンサー企業の宣伝の場を提供したり、権力に阿る構図が見えてくる。格差社会がカーニバルにまで持ち込まれ、今やその終焉に立ち会っている気がするほどだ。
◆それに加えて、スペインやポルトガルの植民地はどこも自動的にカトリック化が進められたが、現在その領域を奪う勢いで布教を広めているのがエバンヘリコ、いわゆるキリスト教プロテスタントの福音派だ。なかでも、宗教極右の南部バプテスト連盟など、原理主義福音派はトラ珍大統領の最大の岩盤支持層で、強硬な政治勢力でもある。聖書以外の書物は読まず、飲酒はご法度、祭りや娯楽を拒否する頑な生活態度を堅持し、旧約聖書のハルマゲドン=滅亡を待ち望む選民思想で差別的な言動を隠さない。
◆信者の献金で豊かな経済力を誇る彼らは、世界中で勢力を拡大しつつある。福音派人口の増えたアンデスやブラジルの田舎町では、カトリック行事であるカーニバルがやせ細り、力を失うさまが顕著だ。トラ珍の周辺に巣くう福音派実力者で、最悪な存在が国防長官ピート・ヘグセス。戦争長官とも呼ばれ、身体中に極右過激派のシンボルのタトゥーを散りばめた確信犯だ。
◆思えばぷー珍のウクライナから、ネタ珍のガザやトラ珍のベネズエラにイラン侵攻と打ち続く暴挙に、我々はいつの間にか慣らされてはいないだろうか。理不尽な状況にも歯止めが一切なくなり、思考停止と過剰適応の危険な日常と化していないか。正気を取り戻すためにも、カーニバルの復権の有効性を信じたい今日この頃である。[Zzz-カーニバル評論家]
■東日本大震災から15年目、カソリの「鵜ノ子岬→尻屋崎」は3月7日に始まった。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬だ。3・11の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域を見てまわる「鵜ノ子岬→尻屋崎」、今回が32回目になる。バイクは前日、横浜港で引き取ったスズキのVストローム250SX。「アフリカ大陸縦断(ナイロビ→ケープタウン)」の8445キロをノントラブルで走破した我が相棒だ。
◆13時45分、鵜ノ子岬を出発。1日目の宿は石巻の「サンファンヴィレッジ」。ここで同行してくれる渡辺哲さん、古山里美さんと落ち合った。2日目は女川、雄勝と見てまわり、悲劇の現場の大川小学校で手を合わせる。南三陸、気仙沼を通って岩手県に入り、復興とはほど遠い陸前高田と元気さを取り戻している大船渡を見比べ、釜石から宮古へ。宮古の「グリーンピア三陸みやこ」に泊まった。
◆3日目はまずは小堀内漁港へ。ここは3・11の大津波で最大波高37.9mを記録した。久慈を抜けて青森県に入り、八戸を通過。三沢を過ぎると雪に降られたが、路面に積もるほどではないので助かった。そして14時30分、尻屋崎に到着。鵜ノ子岬から778キロ。岬への道は冬期閉鎖でゲートは閉まっているが、我々3人はその前で万歳をして尻屋崎到着を喜んだ。ここからは「鵜ノ子岬→尻屋崎」の復路編。「三沢市民の森温泉」で泊まると、バイク仲間の渡辺恒介・幸恵さん夫妻と三沢市内の居酒屋でおおいに飲み、郷土料理を食べ、「下北半島」を語り合った。
◆4日目はまずは八戸の蕪島に行く。ここはウミネコの繁殖地。蕪島神社は産卵のために戻ってきた3万羽ものウミネコに占領されていた。その鳴き声がすごい。青森県内では海辺の県道1号を走ったが、この一帯は大津波の被害を受けることはなかった。岩手県に入ると久慈から小袖海岸へ。ここは日本の海女漁北限の地。大津波で流された「小袖海女センター」は再建された。普代村から田野畑村にかけての黒崎、北山崎、弁天崎の絶景岬、「海のアルプス」を思わせる鵜の巣断崖を見て宮古に戻り、重茂半島に入っていく。姉吉は本州最東端の地。ここは3・11の大津波では最大波高38.9mを記録。姉吉には昭和三陸大津波(1933年3月3日)の津波記念碑が建っているが、それには「此処より下に家を建てるな」とある。姉吉の皆さんはそれを守り、今回の大津波では一人の犠牲者も出さなかった。重茂半島をまわり終えると、山田の「うみねこ温泉 湯らっくす」に泊まった。
◆5日目の3月11日は帰宅する渡辺哲さん、古山里美さんと三陸鉄道の陸中山田駅前で別れ、船越半島をまわる。巨大防潮堤に囲まれた大浦漁港が目に残る。そのあと大津波で甚大な被害を出した山田、大槌を見てまわり、鵜住居では釜石市の東日本大震災犠牲者追悼式会場で献花した。大船渡では港公園の祈りのモニュメントの鐘を鳴らし、東日本大震災発生時刻の14時46分にはサイレンの鳴り響く中、1分間の黙祷をした。大船渡では末崎半島の碁石岬、陸前高田では広田半島の広田崎に立った。岩手県から宮城県に入ると三陸道で石巻まで行き、「サンファンヴィレッジ」に泊まった。●6日目は牡鹿半島を一周し、奥松島の宮戸島をまわる。JR仙石線の野蒜や東名の旧駅跡を見て松島から塩釜へ。陸奥の一宮、鹽竈神社を参拝し、仙台からは県道10号を南下。盛土して堤防の役目も果たす県道だ。町が壊滅した閖上では日和山から復興の様子を眺め、再建された閖上湊神社を参拝。宮司の伊藤英司さんはバイク大好き。コーヒーを飲みながら閖上談議。亘理から海沿いの道を南下して福島県に入り、相馬の蒲庭温泉「蒲庭館」に泊まった。●7日目は福島県の浜通りを南下し、いわきの四倉舞子温泉「よこ川荘」に泊まる。宿には渡辺哲さんが来てくれ夕食を共にした。8日目の11時、鵜ノ子岬に到着。「鵜ノ子岬→尻屋崎」の往復、1947キロを走破。これにて32回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」は終了だ。大津波の痕跡はほとんど見られなくなったが、東北の復興はこれからもずっとずっと見つづけていきたい。[賀曽利隆]
■ワールド・ベースボール・クラシックの決勝が18日、アメリカとベネズエラの間で行われ、ベネズエラが3-2で優勝した。優勝候補筆頭だった日本は準々決勝でそのベネズエラに5-8で負け、あっさりと消えてしまっていた。
◆大谷翔平の活躍で私のようなにわかファンを含め高視聴率をあげていたWBCだが、今回NHKはじめテレビ局が放映できなかったため、あまり推移がわからないまま終わってしまった。NETFLIXという大手配信会社がすべての権利を握ったためで、今後もいいプログラムにはこういう事態がついてまわるのだろう。
◆世界は今のところ、トランプのような「ひたすらお金大好き」人種の手で動いている。そういう現実を見据えつつ自分のペースを変えずに生き抜きたい。[江本嘉伸]
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原始の川をパドる愉悦
「遭難を楽しむ旅だったねー」と言うのは河村安彦さん(71)。昨年7月〜8月、カナダ北極圏のコッパーマイン川845kmを約一ヶ月かけてカヤックで単独航下しました。獨協大学探検部時代に川下りにハマり、'78年にマッケンジー川へ。 「八重洲ブックセンターで、ヌナブト準州の100万分の1地図を見つけたのがきっかけで原野の川に憧れを。北米三大河川の中で一番情報もなく、大自然の匂いがしたから…」。以来マッケンジー水系にこだわるカヌー旅を続けてきました。川旅を始めて40年目にあたる'18年の航行では、水系周辺の人の暮らしや環境の激変にショックを受けます。 今のうちに、まだ原始の姿を留める風景を見たいと、分水嶺の北側にある人跡稀な流域を5度目の旅に選びました。湖沼群が続く前半部はサンドフライというブヨの大群に悩まされ、大好きな釣りもロクにできない始末。人に会わないかわり、カリブーの群れに遭遇したり、激流にチン(沈没)してコンパスと地図の一部を失い、水路に迷ったことも。「でも重ねてきた経験のおかげで冷静に対応できたよー」。 今月は河村さんに、マッケンジー水系の魅力と、今回の旅で見えてきた川の変化についてお話し頂きます。 コッパーマイン川単独川下り https://www.youtube.com/watch?tv=0v2lpej317Q |
地平線通信 563号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2026年3月18日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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