2025年11月の地平線通信

11月の地平線通信・559号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月 19日。朝5時の東京の気温5.5度。外に出ると、寒い! ことし初めて冬を意識した。そんな中でいつもより少し遅い通信をお送りする。

◆先日、この秋2度目となる高尾山に登ってきた。下りはケーブルカーでなく歩いて、と思い、勝手知ったる山道を下ったのだが、少し岩場っぽくなると足が止まることに我ながら呆れた。転倒するのが怖くてすぐ座りこんでしまうのだ。杖1本で楽勝、と思っていたのに連れの2本ストックを最後まで借りる始末。標高599メートルの高尾山。いまや自分の脚力を確かめる「試練の場」となりました。

◆歩いて行ける府中市美術館で『フジタからはじまる猫の絵画史——藤田嗣治と洋画家たちの猫』という展示をやっている(12月7日まで。1000円。月曜日は休館)。出かけたら期待以上に面白かった。藤田はじめ猪熊弦一郎、岸田劉生、香月泰男といった洋画家たちが思い思いの筆致で猫を描いているのだが、こうも猫のいろいろな表情を表現できるのか、と興味は尽きなかった。こんな展示を散歩がてら見れるのも府中暮らしのおかげだ。

◆たまたま今朝の朝日「天声人語」は、この猫展のことをテーマにしている。「藤田の猫はつんとすまして、おしゃれだ。猪熊弦一郎の猫はのびのびとして、楽しい。自由で気ままなのは熊谷守一猫である」さも猫好きと思える筆致だが、実家の三毛猫には触らせてももらえないらしい。我が家の源次郎も先月(あとがきで)書いたように母ちゃん一筋だが、ひっくりかえって腹をごしごしさせるくらいは私にさせるよ。

◆11月17日午後7時25分、小島亮一さんが逝った。何度かここで紹介したが、丸山純さんの妻、令子さんの父である。24日後、105歳になるところだった。バイオリンを始めたのは、一橋大学(当時は東京商科大学)のオーケストラ部に入ってからという。本当はフルートをやりたかったのにすでに埋まっていて、先輩から第二バイオリンをやれと言われてしぶしぶ始めたのだそうだ。

◆私に歳の取り方についてヒントをくれた人でもある。実は、私は小島さんがドリスデイのヒット曲「ケセラセラ」を歌うのを聴くのが大好きだった。♪When I was just a little girlI I asked my mother What will Ibe?♪は、私が山のテントでよく口ずさむ歌の一つで、記者時代も酒が入るとよく歌ってたから。病院ではなく最後まで自分の家で人生を全うされたことに家族のご苦労を思いつつ見事でした、と讃えたい。

◆10月末、西興部村に長野亮之介、落合大祐、車谷建太と訪れた。北海道で地平線をやるには主軸がその気にならなければ始まらない。そして、西興部村の特徴は行かなければわからない。現地で酪農学園大学の伊吾田宏正准教授と学生さんたちと合流、菊池博村長はじめ皆さんといろいろな話ができたのはほんとうによかった。今後、西興部村とのやりとりは事情を知る伊吾田宏正さんにお願いすることとした。

◆たまたま大きな鹿を仕留めた狩人がいて伊吾田さんの弟、順平さんが獲物を処理する場を見せてもらうことができたのは幸運だった。仕留めた鹿はその日のうちに処理し肉も部位ごとに切り分け、持ち帰ってもらう。頭を下に釣られた大鹿がみるみる剥がされ、肉になってゆく過程を仲間と呆然として見守った。西興部村行についての顛末は8ページからの特集を。きょう19日朝、西興部村はうっすら雪が積もり、気温は「マイナス1、2度」だそうだ。

◆そして、クマである。農家の柿の木に登って悠々と食べ続けるクマ。のどかに見える風景だが、この見事な野性を殺さなければならないのだ。やむを得ない事態とはいえ、なんだか、クマのニュースを聞くのは辛い。このテーマになると即座にチャンネルを変えたくなる自分がいる。あ、テレビも新聞も見ない人が増えているのだったっけ。[江本嘉伸


先月の報告会から

バレエから見たロシア

梶彩子

2025年10月24日 榎町地域センター

■職業、バレリーナです!と言い出しそうなぐらいバレリーナ然とした梶彩子さんが今回の報告者だ。実際はロシアバレエの研究者で、母校の東京外国語大学でロシア語を教えながら早稲田大学文学学術院で研究をしている人だ。

◆彩子さんはこれまで短期を含めると4回ロシアで学んでいる。1年間の語学留学、2年間の修士課程、そして博士課程在籍中にも1年資料収集のためロシアに渡っている。主に滞在したサンクトペテルブルク(以下ペテルブルク)は、18世紀初頭から1922年までロシア帝国の首都だった。4回の滞在期間にロシアでは大きな変動がいくつかあった。語学留学中にロシアはクリミアを強制合併しG8から離脱した。そして資料収集のための滞在前にコロナのパンデミックがあり、帰国後すぐの2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が開始された。彩子さんがロシアにかかわってきた15年余りというのは、1991年のソ連崩壊から欧米化・グローバル化してロシアが復活していき、それがまた徐々に崩れていった時期なのだ。

◆2歳のときにビデオで見たボリショイバレエの『くるみ割り人形』と『白鳥の湖』が、彩子さんをバレエ狂いと自称するバレエ研究者に駆り立てるきっかけになった。一巻のビデオが人生のテーマにかかわることになるとは、これをプレゼントしてくれたおじい様も驚いたのではないだろうか。その影響もあって9歳のときに習い始めたバレエだったが、バレエそのものよりも「今自分が踊っているバレエは、いつのどの作品から取られたものなのだろう」というようなバレエの背景により強く惹かれていった。

◆戦後日本に伝わったバレエは、他の国とは違う発展の仕方をした。男系継承する伝統的な舞踊に対し、富裕層の令嬢たちが“研究所”と称するバレエ団の組織を立ち上げたのだ。政府の援助ではなく、習い事として通う生徒やその父母の財力により成り立つ芸術として普及した。時代は変わり裕福な家庭の援助にばかり頼れなくなっている昨今、日本のバレエ界が抱える問題は深刻だ。難しい技術習得のために必要な制度が成熟していない日本では、職業的自立を目指す人は良質な教育を提供する海外のバレエ学校に留学し、そこのバレエ団に就職するのだ。そういう人たちにとってバレエ先進国であるロシアは魅力的な国なのだ。

◆彩子さんが札幌で通ったバレエ学校は、日本にバレエを伝えたロシア人バレリーナ、オリガ・サファイアの最後の教え子である佐藤俊子先生が開いた教室だ。サファイアはペテルブルク出身で、本名はオリガ・イワノヴナ・パヴロワという。日本のバレエの黎明期に重要な役割を果たしたロシア出身バレリーナの一人だ。彼女は1936年に日本人外交官と結婚して来日し、日劇でバレリーナとして活躍した。バレエ教室の入口には、大きく引き伸ばされたサファイアの写真が貼られている。幼い彩子さんはその風貌や衣装に心を奪われたという。また、佐藤先生がサファイアについて書いた著書、『「北国からのバレリーナ」——オリガ・サファイア——』を小6のときに読み、当時はもうなかったレニングラードという名の町に思いをはせたそうだ。また、愛読書だったハリーポッターに描かれているようなイギリスをはじめとするヨーロッパにも強く憧れるようになった。

◆中、高と英語が得意だった彩子さんはやがて東京外大を目指すようになり、志望学科をロシア語に決めた。入学後の2012年2月から1か月間ロシアに短期留学することにした。モスクワに3週間、サンクトペテルブルクに1週間滞在。将来どちらの町に留学したいかを決めるのが目的だった。最初に行ったモスクワ国立大学の寮の部屋は簡素でわびしく、設備も古かった。売店の店員の対応は辛辣だったし、通りで轢死体を目撃するなど、不便な経験や寒々しい思いをいろいろ味わったモスクワ滞在だった。

◆次に行ったペテルブルクでもあまりいい思いはしなかった。しかし、得難い経験はあった。特に印象に残っているのがモスクワのマールイ劇場で観た演劇『皇帝ボリス』だ。主人公ボリス・ゴドノフは歴史上の人物で、下級貴族から皇帝にまで上り詰めた人である。民衆からの圧迫や強迫観念により徐々に発狂していくという内容だ。恋愛や美を体現するバレエとは違い、演劇は現実的な人間の苦悩を表しており、やはり言葉の力はすごいと実感した。3年生の時にペテルブルクに1年間語学留学した。縁あって知り合ったおばあさんが管理するアパートに住むことになったのだが、この人にもソ連崩壊の傷跡が生々しく残っていた。ペレストロイカ後の社会体制についていけないことを危惧した夫が、病気の治療を放棄することで死を選んだのだ。

◆彩子さんは、著名な振付家グリゴローヴィチについて書いた卒論で東京外大を卒業した。グリゴローヴィチは、ソ連らしい壮大なバレエを作る才能が認められ、ボリショイ劇場で30年にわたり活躍した人だ。彩子さんは卒業後、サンクトペテルブルク国立大学の歴史学研究所という大学院で2年間学んだ。ここで学んだことが、ロシア留学の中でもとりわけ鮮明に記憶に残っているという。ロシアの大学の授業では、板書やスライドはほとんど使われない。先生がしゃべることをひたすらノートに取るというスタイルだ。期末試験も口頭試問の形式で行われる。なかなかロシア人のように話せるようにならなかった彩子さんにとって、心理的プレッシャーの大きい授業であり試験であった。この2年間の大学院生活の合間には、民間のバレエ教室にも通っていた。勉強だけではない充実した日々が窺える。修了を記念して撮った学科6人の写真と、学部全体の写真を見せてもらった。後者の写真がこの後忌まわしい事件を紹介する際に再度見せられることになる。

◆修士課程で研究したのがレオニード・ヤコプソンという振付家だ。ヤコプソンはレニングラード(現ペテルブルク)を拠点とした人で、権力や当局に媚びずに自分が作りたいものを作り、実験的なものも手掛けたそうだ。たとえば『タリオーニの飛翔』は、19世紀に流行したロマン主義バレエへのオマージュの作品だ。黒子のような役割の黒い衣装を着た男性四人が、女性を持ち上げて飛んでいるかのように見せる。ヤコプソンは、権力には愛されなかったが、死ぬまで自由な創作姿勢を貫いた不屈の振付家だった。

◆彼は帝政時代だった1904年にペテルブルクで生まれ、少年期にロシア革命を迎えた。革命の余波を受けて難民になった800人の子どもたちとともに、日本の船舶会社社長の勝田銀次郎氏が私費を投じて仕立てた船で、アメリカの赤十字社の支援のもと、世界一周の航海をすることになった。「陽明丸」と名付けられた船は、ウラジオストクを出発して室蘭に立ち寄った後サンフランシスコに渡り、パナマ運河を経由してニューヨーク、そこからフランスのブレスト、そして当時ロシア領だったフィンランドのコイビスト港に戻っていった。1920年に出発してから3年の歳月をかけてようやく子どもたちは故郷にもどることができたのだ。

◆まだバレエを始める前の多感な時期に世界を見た経験は、彼の作品にどういう影響を与えたのだろうか。しかし渡航歴がスパイ容疑に問われるのを恐れ、晩年になるまで口を閉ざしたままだったそうだ。日本とのゆかりがあるヤコプソンだが、ジャポニズムへの関心はなかったという。ただ一つ『ヒロシマ』という作品がある。丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻の『原爆の図』という有名な絵にインスピレーションを受けて作られたそうだ。原爆は冷戦下のソ連では奨励されていたテーマではあったものの、このバレエ作品は焼け爛れた原爆被害者の悲惨さや苦痛をリアルに描いたもので上演禁止になってしまう。踊り継ぐことでしか後世に残せないバレエだが、存命のダンサーをたどってなんとか再演できないかと彩子さんは考えているそうだ。

◆日本と意外なつながりがあるヤコプソンだが、彼を研究対象にしている人はほとんどいない。そんな中、ヤコプソンの一人息子家族がエストニアの首都タリンに住んでいることがわかった。タリンはペテルブルクと同様フィンランド湾沿いにある。彩子さんはニューヨークでその息子の息子、つまり孫を紹介してもらう機会に恵まれた。彼が日本に来たときに丸木美術館を案内し、今年の夏には彩子さんがタリンの息子一家を訪ねヤコプソンの資料をいろいろ見せてもらった。

◆彩子さんはこれまで、運の良さと人に恵まれたことだけで、ロシアという一筋縄ではいかない国の研究をやってこられたと感じているそうだ。しかし、ロシアに嫌気がさしたこともあった。その中でも特に衝撃的だった事件がある。それは彩子さんが2019年に修士課程を終えた1年後に起きた。同じ学年に才色兼備の女子学生がいた。名前はアナスタシア、愛称はナスチャだ。そのナスチャが、ペテルブルク大学歴史研究所の准教授に殺害されバラバラにされたのだ。二人は愛人関係にあったらしい。前述した修士課程の卒業写真では右端に、まるでウエディングドレスのような白い服を着て写っている。同級生にとって彼女は、きれいな人である以前に努力家で将来有望な研究者の卵だった。

◆彩子さんは彼女と個人的な交流もあっただけに、もっと打ち解けて語り合えていたらと後悔は後を絶たない。この犯人は、あるオリガルヒ(政治力と富を兼ね備えたロシアの新興財閥)と密接なつながりがあるといわれており、ナスチャの事件はもみ消されるのではないかと同級生たちは危惧した。オリガルヒに隠蔽してもらった別の愛人女性に対する暴行事件の前例があったからだ。しかし狂気に満ちた准教授が起こした、ここで詳細を伝えるのが憚られるような残忍な事件は、社会的な反響の大きさ故、隠蔽されることはなかった。隠蔽されなかったもう一つの要因として、警察官であるナスチャの母親自身が現場検証を行ったこともある。

◆そして彩子さんには、この事件が起こった背景に思い当たることがあるという。ロシアにはDVを取り締まる法律がないのだ。前述の通り、この犯人が女性を暴行するのは初めてではない。もしその当時きちんと捜査が行われ相応の刑罰を受けていたなら、ナスチャは死なずにすんだかもしれない。以前ロシアにも反DV法制定の動きがあったが、その最終段階で阻止した人物がいる。それが、ロシア正教会の総司教、キリルだ。阻止した理由は、政治の中枢を担う政治家の多くが日常的にDVを行っているからだといわれている。犯人はあと6年で刑期を終える。これもロシアの暗鬱な側面のひとつなのだ。

◆そして2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。同級生たちのうち、何人がロシアに残り何人が生きているのかもわからない。ロシアは絶望的な命のやり取りを、現在進行形で継続しているのだ。このような絶望感の中にあっても、彩子さんは研究者としてロシアを知ろうとしなければいけない。母校のロシア語科にはそれでも入学してくる学生たちがいて、彩子さんは学生と向き合うことで力を得ているという。

◆更に重苦しい話は続く。去年9月にペテルブルクに行ったときのこと。一見街並みは平和そうだったが、店内にはオーウェルの近未来ディストピア小説『1984』を思わせるバッグが売られていたように、そこここに密かな抵抗が見られた。“密か”にする理由は、戦争を公に批判すると「ロシア軍侮辱罪」に問われるからだ。

◆バレエ『白鳥の湖』はロシアのプロパガンダ芸術の一つであるが、この作品には別の文脈もあるという。ソ連時代にブレジネフが亡くなったときを皮切りに、国のトップが亡くなったときや有事の際には必ず、ニュース番組がこの白鳥の湖全編の映像に差し替えられるのだ。逆の見方をすれば、白鳥の湖が流れるのは国の一大事だということだ。1991年に、ゴルバチョフ大統領に対する8月クーデターが起き、ソ連崩壊につながったときにも三日間白鳥の湖が放映され続けた。

◆ところで『白鳥の湖』中に「四羽の白鳥の踊り」という場面がある。優雅に踊るシーンが多い白鳥の湖にあって、四羽の白鳥が手をつなぎ合って速い動きで踊り続けるこの場面は印象的だ。一般的に「四羽の白鳥の踊り」は決して白鳥の湖の代表的なシーンではないが、半ば強制的に見させられたソ連の人々にとっては、特徴的なこの踊りが脳裏に焼き付いたのではないか。そして今、この場面が引用されているという。

◆Noize MCという海外から発信しているロシア人ラップ歌手の曲に、「白鳥の湖協同組合」というものがある。この協同組合というのは、プーチンが自分の別荘がある地域に作った組織で、政府の要職は組合員で占められているというものだ。ライブ映像では、「四羽の白鳥の踊り」のメロディーにのせて、プーチンの失脚と白鳥の登場を願う歌詞が繰り返しがなり立てられ、大勢の観客が手をつなぎ会場が一体になって歌い踊っている。さらに過激な若いアーティストがいる。つい最近、ペテルブルク中心部のネフスキー大通りで、18歳のロシア人歌手Naokoが「白鳥の湖協同組合」をはじめとする反体制派の曲をひっさげ路上ライブを決行した。映像では彼女の歌に合わせ、若者たちが例のメロディーを歌っている。Naokoには13日間の拘禁刑が言い渡され、この後ロシア軍侮辱罪に問われれば10年ぐらい刑務所に入る可能性もある。

◆おそらくこれがウクライナ侵攻以来最も印象的なプロテストだろう。侵攻が始まったときNaokoは15歳だったはずだ。戦争のプロパガンダを聞いて思春期を過ごし、やがてそれに反発して「人間であり続ける」ことを選び、国内外のロシア人を勇気づけたのだ。ライブ映像でわかるように、プロパガンダに毒されることなく普通の考え方ができる若者がこんなにも多くいるというのは大きな希望だ。彩子さんは、一線を越えてしまったロシアが絶望の中にあっても、未来をあきらめるのはまだ早い、と締めくくった。[瀧本千穂子


報告者のひとこと

ハードルが高かったが、貴重な機会に感謝

■このたび報告の機会をいただき、初めて地平線報告会に参加させていただきました。これまで自分自身の経歴について人前で話すこともありませんでしたし、また、そのような立場にもないという躊躇がありました。さらに、ロシアやバレエというのは、皆様にはあまりなじみのないテーマで、加えて約2時間半の長尺ということで、色々不安もありました。江本さんと長野さんとの事前の打ち合わせで、わかりにくい箇所や話のすすめ方などアドバイスをいただき、準備の上で大変助かりました。

◆バレエを通じた「ロシア」というのは、正直私自身の中でも答えが出ていないテーマでもあり、準備をしながら、また話しながら、改めて自分がどのように考えてきたのか、向き合い方を再考する良い機会となりました。報告会やその後の報告会やその後の二次会では色々なコメントをいただき、少なからず興味関心を持っていただけたようで、大変嬉しかったです。

◆ロシアという大きな矛盾を抱えた国について語るのはとてもハードルが高かったのですが、一方でいろいろな形でロシアと関りのある方々がいらっしゃることを知り、興味深い体験談もうかがうことができました。いまだ戦争は終わらず、不安定な政情が続きますが、ロシアが隣国でありつづけることに変わりはなく、対話を断たないこと、そして学び続けること、知ろうとし続けることは大事だと改めて感じました。このような機会をいただきまして誠にありがとうございました。[梶彩子

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


先月号の発送請負人

■地平線通信558号(2025年10月号)は、10月15日印刷、製本、封入し、発送しました。作業を終えて、以前から気になっていた近くの公園前のカフェで夕食。ここは外見からは狭すぎるか、と見ていたのですが奥に10人は座れるスペースがあり、カレー、ハンバーグ、パスタなどゆっくり食事できました。汗をかいてくれたのは、以下の12人の皆さんです。地味な作業にこれだけの人が馳せ参じてくれるのはほんとうにありがたいことです。おまけにこの席で85歳の誕生日を祝ってサプライズの品物(渋沢栄一肖像の入った1万円札を模したタオルとハンカチセット!)が江本に贈られ、まったく予想していなかったのでとても嬉しかったです[E]。

 車谷建太 伊藤里香 渡辺京子 岡村節子 長岡のり子 長岡竜介 白根全 落合大祐 高世泉 武田力 中嶋敦子 江本嘉伸


地平線ポストから

バレエから考える登山のいま

■何年ぶりかで報告会に行ってきた。タイトルは「バレエから見たロシア」。以前からバレエの動きが気になっていた。ふるい話だが、40年ほど前に遡る。わたしは十代から二十代前半にクライミングをすこしかじったことがある。やりましたというレベルには到底至らず。すぐに才能がないことを悟り、きっぱりやめた。

◆うまい人の登りを見ていると、「バレリーナみたいな足さばきっ!!」とまわりからよく称賛されていた。いったいどこに力が入っているのだろう。そう首をかしげたくなるようなしなやかさ。動きが洗練されている。努力と根性で何度も何度もリハーサルを重ねてねじ伏せるように、ようやく完遂にこじつけるのとは真逆。念のため、執念と怨念で成功へ導くことも誰にでもできるわけではない。努力を継続できるのもひとつの才。ただここで論じているのは先天的ともおもえる美しい動きについてなので。いずれにしてもバレエもクライミングもつま先でほとんど全身を支えてピタッときまる姿には拍手を贈りたくなる。

◆さて報告会当日。印象にのこったことを二つ。バレエは体型というか骨格によって向き不向きが明確だそうだ。ロシア人は概してバレエ向きの骨格らしい。向き不向きの話は賛否両論でてくるだろう。どこまでめざすかにもよる。リクリエーションとして捉える人にはあまり関係ない話になるかもしれない。一般的にスポーツでオリンピック選手レベルになると、憧れだけで邁進したところでその種目に適した身体がなければ空回りに終わりかねない。努力のみでメダルを手にする例はきわめて稀である。ミスマッチは避けたい。といった意味合いの文章をスポーツ雑誌で読んだ。きっとロシア人はバレエに向いているのだろう。クライミングでもロシア人はなかなか強い。それと体力には自信ありと豪語するガタイの良い人より、「バレエすこしやってました」という華奢な人のほうがクライミングはうまい。

◆つぎに印象にのこったのは留学中に撮ったロシアの大学の建物。お城のような迫力。あとから調べてみたら、モスクワ大学本館の高さは240メートル。そういわれてもピンとこないかもしれない。東大の安田講堂の高さが40メートルだから、その6倍。立派な外観である。ところが大学の内側(部屋)の写真を見ると、ハッキリいってボロい。ふるいのでしかたないけれど、外観と内側とのギャップはすさまじい。見えるところと見えにくいところ、と。社会主義あるある。いや日本の社会だって。でも外観と内側とのギャップのなかにこそ真実は潜んでいたりする。

◆余談になるが、ことし還暦になったわたしの近況。腰痛もヒザ痛もさらに悪化。1年前には腰椎側彎症と診断される。ほとんど寝たきり。あいかわらず何もしていない。ここ1年ほど戦後のアウトサイダー系の登山家について調べている。誰もが知る植村直己や加藤保男といった主流からは、ややはずれる。プロでもなくかといって趣味という軽い言葉でも括りきれない。そもそも山を離れて日常では、いったいなにをして食っているのかよくわからない。一部の登山家やクライマーから伝説のごとく語り継がれている。

◆山岳雑誌などで話題になりながらも、二代目がなかなかあらわれない。登山家というよりも千日回峰行の修行僧にちかかったりする。すくなくとも体力や技術のピークだけでは登山の限界点とはならないのではないか、などと勝手に推測したりしている。江本さんはじめ地平線会議が発足したころからの人たちに伝説の登山家の話を聞いてみても、なかなかその人物の全体像がつかめない。わかりやすすぎるサクセス・ストーリーにならないところに、かえって人間味をかんじる。モスクワ大学の建物ではないけれど、ニンゲンもまた見えているところと見えにくいところから成り立っている。

◆あと今年の2月のほとんどはドカ雪の八甲田山でテントで過ごした。凍ったテントの中で粉になったビスケットをかじりながら伝説の登山家たちについてあれこれ考える。生と死の分岐点をゆく超克した人たちの世界観を考えるのに、暖房の効いた快適な部屋ではやはり相応しくないだろう。

◆彼らがめざしたものはいったい何だったのだろうか。そもそもめざすといった概念など、あったのだろうか。あるいは精神や肉体が極限まで追い込まれたときにかんじる山との一体感について。伝説の登山家について考えながら、自身の登山においてもあらたな気づきがあった。たくさん登っていろいろなところを訪れたからといって、かならずしも充足したとはかぎらなかった。

◆それと報告会当日の午前中は、冷たい雨のなか丹沢のかんたんな沢で超やさしい滝を登る。そのあと日本山岳会の図書室で伝説の登山家に関する資料あつめ。報告会の前日は府中でビルの窓ガラス清掃のついでに高尾山へ。駅から1時間ちょっとで山頂を往復。すごしやすくなった季節のためか、ものすごい数のハイカー。みんなヤマケイやピークスに出てくるお手本のようなウエアや登山靴に身をつつんでいる。でも足どりはバテバテのゾンビ歩き。歩くの遅えなぁ、と百回くらい舌打ちした。[田中幹也

氷河と文化の変遷を記録することの大切さ

■9月から10月にかけては、“グリーンランド濃度”の濃い期間だった。グリーンランド式のカヤックに乗って、ロール(いわゆるエスキモーロール)の技術を習得する団体「qajaq JPN」に関わること数年。大した技術もないまま、持ち回りで回ってきた代表職。その団体の年に一度の大きな催しものが10月にあるため、大忙し。おまけになかなか人が集まらず、どうしたものかと直前まで悩んでいた。

◆しかし蓋を開けてみれば、空手の昇段試験を兼ねてグリーンランド東岸の小さな町から来日中のカヤック仲間も含め、日本のあちこちから、多くの人たちの参加があった。3日間の催し終了後、笑顔で帰っていく参加者を見ながら、無事に催しを終えることができたんだ、という安堵感。しかし、一息ついて思い出すもう一つのグリーンランド案件。そう、地平線会議のことだ。9月の地平線報告会の感想を頼まれていた。慌てて書いて江本さん宛にメールを送ると、直後に電話。「今、地平線通信の発送をしてきたところなんだよ」。あ、やってしまった。それでも掲載してくださるとのことなので、改めて。

◆9月の地平線報告会は、グリーンランドのカナックで氷河の研究をしている24歳の大学院生、矢澤宏太郎さん。若手研究者で、しかも極地の研究。こんな人いるんだと、久しぶりに報告会に参加。ここ数年、アラスカで極地系研究者の研究に少々協力しているので、もしやと思い、開始前に話を聞いてみると共通の知人がいる。やはり似たような環境にいる人とは繋がっているんだな、と思う。

◆学部生時代は水産学部。大学院に入ってからは氷河の研究。一見何の関連もなさそうに見えるものの、水産学部では計量魚群探知機の研究、進学した大学院では氷河の研究で、アイスレーダーなどを使って解析をしている。どちらも自然相手で、さらに物理探査系の研究なので、すんなり移行できたのではなかろうか。そしてワンゲル部で山を歩き回った経験は、氷河、氷床の上を歩き回る上で、とても有益なことだったろう。

◆氷河の研究というと、山奥や人里離れた辺境の地が対象と思いきや、グリーンランドの北部のカナックという町に近い、人々が生活する場所のすぐそばにある氷河が研究対象。現地の人たちの生活と密接に関わる氷河の研究である。これから先も現地の人たちの役に立つような研究を続けていきたいとのこと。「人のいない南極や氷床のコアは興味がないです」という。この潔さが素晴らしい。いずれは「探検と研究を結びつけてできるようになれば面白い」と。果たしてどのようなものになるか、漠然としか思い浮かばないけれど、そんな面白そうなこと、ぜひ実現してほしい。

◆アラスカでは完全にスポーツや競技としてしか使用されなくなった犬ぞりやカヤックは、グリーンランドでは今も現役で移動手段や狩猟に利用されている(先日、グリーンランド東岸から来日した友人も、これらを使って猟に出ている)。地元の人たちの生活の術を学び研究活動に利用することで、より視野が広がり新たな発想が生まれてくるだろう。また、物理学的な成果と民族学とを融合した、新たな研究成果が生まれてくるかもしれない。

◆この先、果たして地球環境がどのように変化し、極地の生活がどのように変化していくのかは、誰にもわからない。温暖化がさらに進行し、氷河、氷床が減少し、現在とまったく異なった生活をしているのかもしれない。何らかの要因で再び気温が降下し、温暖化改善どころか寒冷な環境でさらに厳しい生活を強いられるのかもしれない。いずれにせよ、環境変化に伴う氷河と文化の変遷を記録していくことは、とても大切なことだと思う。

◆あまりに多くの期待をしてしまうけれど、まだまだ頭は柔軟で、思いもよらない発想も生まれてくると思う。最新の物理学の知識と、先住民の人たちの知識とを吸収、融合させて、新しい成果を生み出してほしい。[高沢進吾


2026年初秋

地平線報告会 in 北海道 西興部村へ向けて

西興部村で実現した地元長老、青年たちとの交流
■10月28日、オホーツク紋別空港からレンタカーを運転して、オレンジと緑色の建物が建ち並ぶ西興部村を再訪した。今回は江本さんだけでなく、長野亮之介画伯と車谷建太師匠も一緒。村では先に着いた伊吾田宏正さんと、酪農学園大学の学生4人が出迎えてくれた。◆ゲストハウスGA.KOPPERの浅野和さんは今年5月に急逝した北海道ライダー小原信好さんの写真展を開催中。元村長の高畑秀美さん、西興部猟区会長の中原慎一さんだけでなく、「ウェンシリ太鼓」を数十年ぶりに復活した藤田麻美さんとも出会うことができた。◆翌朝、猟期に入って大忙しの伊吾田順平さんと共に、菊池博村長と吉田且志副村長に挨拶させていただいた。村に住む956人の人々の協力がなくては報告会は開催できない。村長応接室を埋めた10人の意気込みは十分伝わったように思う。◆午後には北大の赤嶺直弥さん、杉田友華さん、「ちえん荘」笠原初菜さんと五十嵐宥樹さんも合流し、アイデアを出し合った。たった2晩滞在しただけでこんな粒揃いに素敵な人たちに出会える場所は他にあるだろうか。北海道に、そして西興部に関われば関わるほど、もっとすごい人たちを発見できそうな予感がする。[落合大祐

20年前の西興部村での生活

■酪農学園大学の教員をしている伊吾田宏正です。10月に江本さんたちご一行を、研究室の学生4名とご案内しました。私は20年前に3年間西興部村に住んでいたのですが、今回はそのことを少し書きたいと思います。大学院を卒業した後、移住して、西興部村猟区の立ち上げに参画しました。当時は狩猟ガイドなど、シカの業務だけでは収入が少なくて、見かねた地域の皆さんが、役場の農業振興係や森林組合のお手伝いをする仕事を斡旋してくれて、なんとか凌いでいました。

◆シカを追うかたわら、村営の乳牛育成牧場で、人工授精させるため発情した牛を探し回ったり、一般民有林の除間伐の検査をしたりしていました。また休日には、山菜取りや釣りなどに連れて行っていただき、四季折々の村の自然資源を楽しみました。今思えば、それらの経験を通して、村の産業や自然を知り、地域社会に馴染むことができたと思います。

◆その後、猟区の仕事は弟の順平が引き継ぎ、2007年から酪農学園大学に移りました。村と大学は地域総合交流協定を締結していることもあり、私は今でもシカの調査研究や学生実習などで毎月のように村を訪れています。今後は地平線の皆さんが西興部村のことを知るお手伝いができればと思っています。[酪農学園大学農食環境学群環境共生学類狩猟管理学研究室 農学博士 伊吾田宏正

地平線の火を西興部村で囲む

■20年前に初めて僕が地平線会議と出逢ったとき、「人が輪になって、大切な火を囲んでいる」という原風景みたいなものを強く感じました。外の世界から見聞を持ち寄って、大切に皆で分かち合う。人類にとって原始的な情報伝達方式をブレずに堅持し続けてきた特有の純度の高さが今日まで地平線会議を支えてきたのだと思います。

◆そんな地平線会議村の長老・江本さんの「地平線会議を北海道でやろう!」の掛け声に背中を押され、このたび一筆書きで巡った西興部村でありましたが、クマゲラやエゾシカの暮らす森の気配に「遥か遠い世界に来ているな」と感じながらも、魅力的な地元の方々や北海道各地から集まった若き有志たちとの良きご縁に恵まれました。僕は人生で常々「すべては良き出逢いから始まる」と考えていますので、まずは皆で輪になれたことが何よりの今回の収穫と感じています。

◆地平線会議がこれまで大切にしてきた火を、今度は西興部村で皆で囲む。どんな景色が浮かびあがるんだろう……!? 内容はこれからですが、どうせやるのならさまざまな視点やさまざまな世代を織り交ぜて、皆が主役になって一緒に楽しめるお祭りにしたい。そんな想いが沸々と湧き上がっております![車谷建太

イラスト-2

 イラスト ねこ

西興部村の個性を知りたい

■江本さん御一行が西興部村に行かれるということで、私と笠原も村に車を飛ばした。北海道に住んで13年目で、初めての訪問だ。午後、皆が村の「鹿牧場」を見学する時間に合流。檻越しの鹿と戯れたのち(発情期の今は、雄鹿に角で持ち上げられる危険もあるらしい!)、ホテルに移動してキックオフミーティング。車谷建太さんとは嬉しい初対面。伊吾田宏正先生率いる酪農学園大生の前向きな瞳に、こちらもやる気が湧いてくる。ホテルへの道中、西興部村が一望できた。村の色であるオレンジと緑が目に楽しい。ここにどんな人が、どのように暮らしているのか。地平線会議と村がどのように交わり、何が立ち上がるのか。期待と、今は何もわからない不安が交錯する。

◆夜の懇親会で、元村長の高畑秀美さんと一献交えさせていただく。隣には伊吾田さん。20年来の付き合いというお二人が大切にしてきたこの村について想像し、興味は尽きない。北海道にいる地平線会議関係者としてできることは、まずは西興部について知ることだろう。ちえん荘から2時間は遠くない。またすぐに来よう。そう思った。今後、伊吾田さんやゼミ生の皆々様と共に、開催までの段取りをお手伝いできれば嬉しい。これからよろしくお願いします。[五十嵐宥樹 ちえん荘住人]

クマゲラが飛ぶ空

■北大環境科学院の杉田友華です。江本さんら地平線メンバーが北海道に来ると聞き、学部生のときからお世話になっていた皆さんに顔を見せたいと、私も西興部村を訪ねました。村の主要な道路を走っていて、何度野生のエゾシカを見たことか。建物の外壁はぽってりとしたオレンジや黄色が多いような。頭上にはクマゲラが鳴きながら飛んでゆく。「獣道が何本もあったの気づきました?」と酪農学園大学の元吉勇輝さん。確かに草木の生えていない細いラインが、怪しげに山に向かって伸びている。様々な生き物が私たち人間をじっと見ているような感じがしました。

◆「すっかり北海道に染まったね」と声をかけてくれた江本さん。「地平線はどんな小さなことも面白がれる才能がある」「自分がという出たがりより、他の人から学びとる人の集まりが地平線」と語ってくれました。彩りがあるからこそ、地平線は面白い。それを構成する「人」を見極める江本さん、流石だなと思いました。来年秋、西興部村での地平線。壮大なこと、特別なことはしなくても良い。自分らしさを表現する何かを考えてみたいです。北海道の若者が、なんでもありな「祭」をこの西興部村で築き上げてみます。[杉田友華 北海道大学環境科学院修士課程1年]

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何か面白いことが始まった

■先日西興部村で参加させていただいた『地平線会議 in 北海道』のミーティング。夕方に行われた話し合いの場が印象的でした。会が行われたのはホテルの小さな会議室でしたが、私にはなんだか、熱いエネルギーが渦巻いている場だったように感じました。地平線の皆さんからの「過去の『拡大版地平線』ではこんなことをしたよ」というお話、酪農学園大生の川合彗君からの「当日は一期一会を大切にできる空間を設けられないだろうか」という提案、江本さんからの「北海道の若者たちにはこの機会をうまく使って、行動してもらいたい」という言葉……。

◆飛び交う言葉たちをせっせとメモしながら、私はひそかに「何か面白いことが始まった……! 私もこのお祭りを思い切り楽しみたい!」という気持ちで胸を躍らせていました。数々の「お祭り」を実現してきたであろう地平線の大人たちの、どっしりと構える雰囲気はとても頼もしく、まだ何も決まっていないのに、なんだかうまくいきそうだと思えてしまいます。

◆今回は短い滞在でしたが、西興部村のことをもっと知りたい、そこに住む方々のお話を聞いてみたい、と思い始めています。今後時間を見つけて、また西興部村に遊びに行こうと思っています。[ちえん荘住人 笠原初菜

村の人びとの情熱

■地平線通信の読者の皆さま、初めまして。酪農学園大学 狩猟管理学研究室3年の磯沼祐吾と申します。以前から、環境教育などで先輩方が西興部村を訪れているのを見て、「自分も行ってみたい」と思っていました。そして今回、ようやくその願いが叶い、村を訪問することができました。実際に村へ入ってみると、想像していた以上に活気があり驚きました。オレンジ色の建物があちこちに並び、ホテルからは狩猟者たちが次々と出ていく姿も見え、「ここは普通の村ではない」と感じました。

◆その後、村を歩く中で、地域の歴史や訪れる人々の思いに触れ、さらにログハウスやGA.KOPPERなど、この土地ならではの施設も訪れました。印象的だったのは、村の人々がそれぞれの情熱をもって行動していることです。「自分にできることは何か」「どうすれば地域を盛り上げられるか」を考えながら動く姿に心を打たれました。

◆そのほかにも村を歩いているだけでも動物の鳴き声や姿を見ることもできました。特に夕暮れ時にはあちこちでシカの鳴き声が聞こえた時は驚きました。こうした人との出会いや自然との近さこそが、西興部村の魅力であり、西興部で開かれる地平線会議をさらに盛り上げる力になっていると感じました。[磯沼祐吾

本物の自然のすごさ

■こんにちは。酪農学園大学環境共生学類の狩猟管理学研究室3年生の元吉勇輝です。狩猟管理学研究室っぽい内容は同じ研究室の仲間が書いてくれていると思うので、拙い文章ですが私は私の思うがままに書いてみようと思います。

◆北海道、いいところですよね。緑豊かで空気と食べ物が美味しくて、冬は寒いですが夏は涼しくて過ごしやすいです。私は産まれも育ちも東京・葛飾で、少なくとも地元で自然があるといえるようなところはなかったので、初めて大学裏の野幌森林公園に入ったときの衝撃は凄まじく、成人男性がまるで子供のようにキャッキャウフフとはしゃいでしまいました。今でも一歩野山へと踏み出せば世界が色付いて見え、どうしようもなくワクワクしてしまう自分がいます。きっと地元では見られなかったある意味“本物”の自然に魅せられてしまったのでしょうね。

◆西興部村は周囲を山々に囲まれている、自然との距離が近い村だと思います。シカ肉料理も美味しいですしエゾシカを間近で見られるシカ牧場等、見所満載です。ぜひ報告会では私が魅せられてしまった北海道の自然、そして西興部村の素晴らしさを見て、感じてもらいたいです。自然はいいぞ![元吉勇輝

当日は、リストバンドを

■酪農学園大学環境共生学類4年生の川合慧(さとる)です。1年間で2回も地平線通信に寄稿するという貴重な機会をいただき、大変うれしく感じています。今年度からほぼ毎月西興部村を訪れており、行くたびに自然の豊かさを感じています。今回訪れた際には、10月28日の時点ですでに雪が降り始めていたことに驚きました。

◆西興部村での話し合いでは、今後の日程について議論した場面が特に印象に残っています。4月に江本さんと梶光一さんが来られた際には、まだ日程が決まっておらず、僕自身、先が見えずに靄がかかったような印象を持っていました。しかし今回、具体的な日程や沖縄県での報告会の話を伺い、西興部村で行う報告会は単なる話し合いではなく、もっと広がりのある取り組みになるのだと感じました。また、村民の方々も巻き込んで報告会を行いたいという話を聞き、とても面白そうだと感じました。

◆村民の方々と関わるきっかけをつくる方法として、村に住んでいる人と村外からの参加者を区別できるリストバンドを用意すれば、そこから自然な会話が生まれるのではないかと考えました。さらに、地域ごとや移動手段ごとに色分けをすれば、参加者同士でも互いの背景が一目でわかり、話のきっかけにもなるのではないかと思いました。[川合慧

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道産子の私も素敵に感じる西興部村

■地平線報告会のための西興部村視察に同行させていただきました、酪農学園大学環境共生学類、狩猟管理学研究室3年樋口小巻です。私は北海道生まれ北海道育ちの生粋の道産子です。小さなころから自然と触れ合ったり道内の自然を見て回ったことが私の今の人生を決める大きな経験となりました。そしてこのたびの西興部村訪問も、とても貴重な経験になりました。

◆今回が私にとって初めての西興部村の訪問でした。西興部村は北海道らしい自然の姿がすぐ隣にある、自然との距離がとても近い村という第一印象でした。実際、移動中の車内からエゾシカを何度も発見することができました。人のことなど知らぬ顔をして草を食むエゾシカに雄大な自然の一端を感じました。帰路ではヒグマの親子を目撃し、北海道らしい自然を目にしました。

◆森や山の横に宿泊施設があったり、狩猟者の利用する解体場や射撃場もある西興部村は、自然と関わりあう生活がとても魅力的な村だと私は感じました。来年の2月に実習でまた訪れる予定ですが、早く行きたい!と思う素敵なところでした。

◆今回の訪問を通して、『地平線会議 in 西興部村』に向けた皆様の熱意をたくさん知ることが出来ました。来年報告会開催、そして開催に関わることができるのを心から楽しみにしています。[樋口小巻


北海道地平線に向けた1万円カンパのお願い

2026年初秋に予定している北海道での地平線会議を成功させるため、1万円カンパを募っています。北海道地平線を「青年たちが集う場にしたい」、というのが私たちの希望です。交通費、宿泊代など原則参加者の自己負担としますが、それ以外に相当な出費が見込まれます。どうかご協力ください。[江本嘉伸

1万円カンパ協力者

(2025年11月19日現在)

賀曽利隆 梶光一 内山邦昭 新垣亜美 高世泉 横山喜久 藤木安子 市岡康子 佐藤安紀子 本所稚佳江 山川陽一 野地耕治 澤柿教伸(2口)神尾眞智子 村上あつし 櫻井悦子 長谷川昌美 豊田和司 江本嘉伸 新堂睦子 落合大祐 池田祐司 北川文夫 石井洋子 三好直子 瀧本千穂子・豊岡裕 石原卓也 広田凱子 神谷夏実 宮本千晴 渡辺哲 水嶋由里江 松尾清晴 埜口保男(5口) 田中雄次郎 岸本佳則 ささきようこ 三井ひろたか 山本牧 岡村まこと 金子浩 平本達彦・規子 渡辺やすえ 久保田賢次 滝村英之 長塚進吉 長野めぐみ 北村節子 森美南子 飯野昭司 猪熊隆之 岡村節子 加藤秀宣 斉藤孝昭 網谷由美子 阿部幹雄 高橋千鶴子 岡貴章 森本真由美 山本豊人 小林由美子 斉藤宏子 渡辺三知子 小林進一

★1万円カンパの振り込み口座は以下のとおりです。報告会会場でも受け付けています。
 みずほ銀行四谷支店/普通 2181225/地平線会議 代表世話人 江本嘉伸


ねこまんが

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8年ぶりの近況

■地平線通信で出産の報告をさせていただいた2017年10月から随分日が経ち、子どもは小学2年になりました。大変ご無沙汰しております。「今、何してんの?」に対するわかりやすい答えを持ち合わせていないので、今に至る経緯を振り返りながら近況をお伝えできればと思います。

◆モンベルを退社し、その後、現パートナーが経営する農業生産法人と青果卸の会社を手伝うようになりました。前回書かせてもらったときはその仕事にどっぷり携わっていた時期でした。なかなかにブラックな環境で、バイヤーの仕事も性に合わず、出口のないトンネルを走っている感じでした。先が見えず悩んでいたとき、心理学を教える先生に出会いました。半年間、講座に通い、並行してカウンセリングを受けた結果、本当はどうありたいかが見えてくるようになりました。それが2020年ごろの話です。

◆その後、起業塾とやらにも入り、ようやく自営・自立の心構えのようなものができました。行動しないと始まらない。何が必要かはお客様が教えてくれる。トライして、失敗して、相手に聞く。それを繰り返せば仕事になっていく。そんなことを教わったように思います。2021年3月に開業届を出しました。その時点では事業の内容はぼんやりとしか決まっていませんでした。一旦、カウンセラーを志しましたが、友人相手に数回試してみて、まだ早いとやめました。そのころ、ちょうどコロナ対策が強化されつつありました。年少組に上がった息子が4月1日を境にマスク生活に突入。鼻水だらだらの年頃なので、衛生面でも発達面でもマスク生活は悩ましく、マスク社会での身の振り方について真剣に考えるようになりました。そのときに、マスクのことで悩んでいるなら一度会ってみるといいと紹介されたのが、後の整体の師匠です。

◆会ってみて、マスクのことよりも、彼がしている整体の手技「治さない整体」「相手は変えられない、変えられるのは自分だけ」に惹かれました。もみほぐし系ではなく、触れる・さする程度の痛くない整体、自律神経を整え、体の中から整える整体です。心理学との共通性を感じ、この手技を身につけたいと思いました。元来、わたしは人づきあいが苦手で口下手です。しゃべる仕事は難しそうだけれど、体を通してであれば人と関われる気がしました。パートナーの協力も取り付けて、2021年6月から2年半、月5~6回程度、師匠の元に通いました。

◆学びながらお客様への施術も始めたので、整体業を始めてもうすぐ丸4年になります。今は、整体業を軸に、農業、パートナーの事業のフォロー、暮らし周りの環境整備などをしています。また、地域活動(行事、祭り、子ども教室)や防災士としての活動に加え、自主上映会やワークショップなどの企画、起業・事業化支援、講演など、多岐に渡る活動をしています。

◆さて、先日、東日本大震災のボランティア仲間に久しぶりに会いました。当時大学生で、「僕は海賊になる」と言っていた子が、3人のパパになって家も建て、「ローンを組んだのであと35年は仕事を辞められない」と語ったのには驚きました。でもそこに、日本社会の縮図を見た気がしました。飛びぬけた行動力と個性で走り回っていた人でも、社会に出て世間一般の軌道に乗ると、目に見えない檻から出づらくなります。日本社会は枠から出ない働き手のおかげで成り立っているともいえます。一方で、今のように混とんとした時代にこそ、海賊になりたい子をそのマインドのまま育てられればいいのにという気もしました。私は檻から出た今の暮らしを、大変気に入っています。

◆最後に、最近の関心事と取り組みをお伝えして終わろうと思います。月ヶ瀬で暮らして10年が経ちました。都市生活者だった私が農村生活者になり、強烈に実感し始めたのが、都市生活者とはわかり合えない感覚についてです。昨今、熊の問題も生じていますが、農村に暮らしていると、獣の圧力、山里の荒廃、気候の変動などを肌身で感じます。暮らしているからこそわかる感覚です。

◆国連の定義による都市人口率が、日本は2025年に93%になりました。日本は豊かな自然環境に恵まれたおかげで成り立ってきた国家です。その前提がすでに崩壊していても、93%の国民はそのことを体感できない。悪気なく知らないままに、自分たちの生活基盤を自ら破壊するような暮らし方や社会構造を誰も変えられない。農村からその様子を見ていると、ときおり、すさまじく絶望的な気持ちになります。

◆南極観測隊での経験を通し、私は「地球人」なのだと思いました。人生の短さや自分ができることのちっぽけさを自覚したのも、地球という物差しで世界を眺めるようになったからです。子を持った身としては絶望ばかりしていられません。自分にできることをやっていく。それが何なのかを常に考え続けています。そのひとつとして、関野吉晴さんの映画「うんこと死体の復権」の上映会を12月20日、21日に奈良県と三重県で主催することにしました。本当にいい映画を撮ってくださったと関野さんには感謝しています。循環で成り立つ世界。命のバトン。普段、自然と関わる機会のない人にこそ観てほしいと願っています。関西にお知り合いをお持ちでしたら、ぜひ観に行ってごらんと、情報を届けていただけるとうれしいです。[岩野祥子

上映会の情報:https://i-works2021.jp/unko-to-shitai/

6年ぶりの香港、そしてなんと瑞々しい! 日本の山

■11月4日〜7日の日程で香港を訪れました。主な目的は香港国際眼鏡展示会への出展、そして同じ会場に参加している数百以上の現地のメガネメーカーや部品メーカーのブースを見て採用できるモノがないかの市場調査です。物見遊山でなく、全出展企業のブースをチェックしました。スマホの歩数計を見ると1日3万歩を超え、夕方には足がくたくたです。

◆業界的な内容は割愛しますが、中国企業の商売の熱心さ、アグレッシブさに非常に感銘を受けました。まず目つきが違う。相手の目をしっかりと見て、どんな小さな反応も見逃すまいとし、ほんの小さな可能性でも取りにこようとする。おとなしい人などいない。展示会の規模も日本で一番大きな眼鏡展の10倍以上もあり、アジア、欧米、インド等の順で世界中の人が集っていました。

◆中国メーカーと日本メーカーの一番の違いは、開発スピードです。日本企業はリスクを嫌い完成度が90点以上にならないと発売しないのに対して、中国企業は70点でも良しとしていち早く市場に投入しそこで得たノウハウを次の製品に活かしていくのです。数年後の市場シェアや完成度はどちらが上でしょうか(もちろん人命に関わる製品は慎重であるべきです)。

◆日本ではいまだに中国を少し下に見る風潮があると思いますが、中国人の熱心さ、スピード感、戦いの強さには見習うべき点も多いと思います。個々の製品の精度・完成度、それに伴うノウハウは日本の方が進んでいると知っているだけに、日本人としては歯痒い思いをしました。日本は現場特有の(消費者には伝わりにくい)細かい作り込みを重視しすぎて、消費者が求める肝心の製品コンセプトやそれに伴うワクワク感が疎かになっているような気がして反省しました。

◆11月8日、4時30分に起き、6時からいつものメンバーと恒例のナメコ採りに山に入りました。前日は関空経由で23時過ぎに自宅に到着したため体の動きがぎこちない。登山道を歩いている最中に、突然感動を覚えました。日本の山はなんて瑞々しいものなのかと。優しい湿度に、至る所にあふれる緑。赤や黄に色づいた木々の後ろには青く澄み渡った空。登山道脇のヒノキゴケの近くには山肌からしみ出たきれいな水が流れている。こんなにも植生が豊富で命が満ち溢れている日本の自然ってなに!?。

◆普段、当たり前だと思っていた目の前の風景に思わず心が躍りました。肝心のナメコの収穫はごく僅か。先導役の師匠によると夏の暑さが長引いたせいか、初秋に見られるツキヨタケが今もたくさん生えており、ナメコの発生は例年よりも1週間から10日ほど遅くなる模様。それでも思いがけない収穫が心に残った晩秋の一日となりました。[福井市 塚本昌晃


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったかや、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。

花崎洋(30000円 通信費未納&少額前払分です。山田淳ガイドが、将来、日本登山界の代表、さらには、スポーツ庁長官の職に就かれんことを) 藤田麻美(西興部村で太鼓打ちの練習をしている現場でお会いした女性。手持ちの通信を差し上げた。E )


国立登山研修所という現場

■山岳気象予報士の猪熊です。なかなか報告会に足を運べずにいますが、地平線通信を毎号楽しみにしています。私は、国立登山研修所(以下、研修所)で専門調査委員や、研修会の講師をしています。研修所は、登山リーダーを養成し、登山に関する調査研究を行っている国内唯一の機関です。私が江本さんと出会ったのも、まさに国立登山研修所の専門調査委員会でした。他の委員の方とは一線を画した江本さんの熱のこもった発言は、私の心に響き、勝手に尊敬の念を募らせていました。そんなとき、江本さんから地平線通信の購読を勧められ、2014年3月の報告会で登壇させていただき、地平線会議の大ファンになりました。

◆あのときのレポートを久しぶりに読み返して、会場との一体感や、とても爽やかな気持ちになったこと、「北京」での楽しい時間など、忘れかけていた大切な記憶が蘇りました。あのとき、緒方敏明さんが見たいと言ってくださった、子供のころに書いた「空想上の地図」をまだお見せできていませんでしたね。あれから両親とその家もなくなり、行方不明になってしまっています……。

◆早速、脱線してしまいましたが、今回は、江本さんとの出会いの場ともなった国立登山研修所の活動について書かせていただきます。

◆山に行くたびに、最近の登山者の“危うさ”について考えさせられます。今の登山者は、SNSなどで得られる断片的な情報や、他人の山行記録を頼りに登っている人が増えています。その結果、自分の頭で判断し、行動する力が弱まっている気がします。特に気になるのは、「リスクを想定する力」が欠けている点です。「こういう場面に遭遇したらどうなるか」「もし天候が急変したらどう動くか」といった想像力を働かせることができない。

◆気象の面でも同じことがいえます。最近は、天気アプリや登山指数などが簡単に見られるようになりました。しかし、多くの登山者がそれらの「天気マーク」や「登山指数」だけを見て安心してしまっているようです。残念ながら、それらを見るだけでは気象リスクはわかりません。気象情報を配信するアプリやwebサイトは増えているのに、遭難件数が増え続けているのはそのことを表しています。

◆登山中にも、自然が教えてくれるさまざまなメッセージやサインを受け止められない登山者の姿を、よく目にします。下ばかり見て周囲を見渡して登らない人も多いです。また、ちょっと夏山に登っただけの人が雪山に入ってきています。雪庇の上を平気で歩いていたり、急な雪の斜面をトレッキングポールで歩いていたりする姿を見かけます。大雪が降った直後に沢状の地形に入り込んだり、危険な場所を通過している先行者のトレースをそのまま辿っている人も良く見かけます。「コスパ」「タイパ」が重んじられる世の中で、地道に経験を積むことが軽んじられ、最短距離で結果だけを求める人が増えていて、遠回りすることで発見できることや、遠回りしたからこそ得られる充実感というものが忘れられているような気がします。このような人は、国内だけでなく、エベレストやマナスルなど8,000m級の高峰に登る人にも非常に多くなっています。山のことを調べたり、準備をしたり、知識や技術を習得する楽しさを放棄している感じです。

◆情報が氾濫し、動画やSNSで素人が誰でも発信できる時代なので、信頼できる情報が少なくなっています。こうした状況の中、私は、専門調査委員会のメンバーとして、気象予報士や山岳部の元指導者としての立場から、「信頼できる情報」を国立登山研修所から発信することの重要性や、都合の良い情報だけを利用することの危険性を伝えていくこと、最新の登攀技術の調査研究のための組織を作ること、組織に所属しない登山者が圧倒的に多くなる中、登山リーダーだけでなく、一般登山者に対しても実践的な研修を行える場を研修所が用意していくこと、研修所だけではマンパワーが少ないことから他の山岳団体との提携を進めていくことなどを訴えてきました。

◆現在は、全国の遭難データを警察庁や各都道府県警から集めて遭難の原因や傾向などを分析する調査部会のメンバーとして、過去の天候や気圧配置と遭難との関係について調査し、その結果から遭難を防止するための具体的な方策を提示しています。とはいっても、登山中のリスクを減らしていくためには、「現場百回」と言われるように、登山経験を積むことが何より大切ですし、体力やスピードなど自己防衛能力を高めることが重要であると思います。他のスポーツの場合は失敗から学べることが多く、「失敗することを恐れるな」という指導ができますが、登山の場合、難しいのは、1回の失敗で死に至ることがあることです。

◆そのため、経験を積む中でも最低限、命を守るために伝えていくべきことは伝えていく、ということが大切だと思っており、私が経営するヤマテンでもそのような動画を配信したり、山中で講習をおこなっています。講習では「雨や強風だから中止」ということはしません。荒天だからこそ学べるものがあるからです。今後、登山研修所は、組織に属さない登山者が増えていく中で、国内唯一の登山リーダー養成機関として、また登山の調査研究を行う組織として、信頼できるデータを公表し、安全登山のための指針を作っていくことなど、益々重要な役割を期待されていくはずです。

◆私は学生時代、国立登山研修所の大学生リーダー研修会に参加しました。研修中には、講師の南裏健康先生がパキスタンの大岩壁、トランゴ「ネームレスタワー」の単独新ルートからの初登攀に成功した後、パラグライダーでの下降中に墜落し、壮絶な救出劇がおこなわれた話をご本人から聞いたことが今でも忘れられない強烈な思い出になっています。大学山岳部ではいつも同じメンバーと登っていますが、他大学の研修生と何日も山で寝食を共にすることも新鮮で、とても楽しかった記憶があります。

◆研修会の実技講師陣は、非常にアグレッシブな登山をおこなっている方や、かつておこなっていた方がほとんどで、その経験を聞くことができる研修会は、参加者の満足度がとても高くて、ここから巣立っていた岳人も多く、登山をおこなっている方には是非参加していただきたいです。

◆さて、明日から学生時代以来、三十数年ぶりに南アルプスの深南部に行きます。どんなことが待っているのかワクワクします。[猪熊隆之

アイスランドのストライキ

■10月24日、女性のストライキに参加した。「女性の休日」として1975年に始まってから50年という節目だったこともあり、昼過ぎのレイキャビク市内はすごい賑わいだった。コブシを突き上げた運動のトレードマークが街中で掲げられ、公園や広場ではライブパフォーマンスや、スピーチが行われていた。他方、行進のあちこちであいさつや世間話が飛び交っており、アイスランドのコミュニティーの強さが感じられた。

◆いつもは穏やかな大通り「Lækjargata」と「Sóleyjargata」が、様々なパフォーマンスと、ボードを掲げて行進する人々で埋め尽くされていた様子は圧巻だった。特設されたステージには女性活動家とともにトランスジェンダーの女性が登壇し、多くの人が行進する道沿いには、移民の女性が抱える低賃金労働の問題を訴える女性の姿があった。

◆当日行われていたスピーチはもちろんアイスランド語だったが、ステージ脇の液晶には英語の字幕と、手話通訳の方が投影されていたので、私たちにも多少なりとも理解できた。これらを見聞きしながら、この活動がより包括的になっていることを実感した。

◆外から見れば、アイスランドは世界で一番ジェンダー平等が進んだ国だと称賛されているが、移民の増加に伴う社会状況の変化や性差に基づく暴力(家庭内暴力は特に話題になることが多い)など、課題は尽きない。これまで成し遂げたことを原動力にして社会を変え続けるエネルギーを浴びながら、日本の事を考えては頭を抱えたくなった。まずは学び、対話し、動かなければという気持ちだ。

◆アイスランドに来て3か月が経とうとしている。今日で大学の講義は終わり、あとはテストや課題を終えて秋学期が終わる。季節はとっくに冬を迎えており、一週間前の積雪を皮切りに、ぐっと冷える夜が増えた。日中は0度から3度ほどの気温が続いており、これから下がっていくらしい。大学近くのチョルトニン湖は凍り始め、だんだん日が短くなり、晴れた空は恐ろしいほど澄んでいる。この秋は一度も山に行けずに冬を迎えてしまい不甲斐ないが、今は講義とアルバイトに時間を捧げている。わからないことを発見する日々がとてもありがたい。模索が続くが、走りながら考えようと思う。[レイキャビック 安平ゆう

芋煮会と今年のクマ事情

■山形県、特に山形市周辺では9月10月は芋煮会シーズン。去年は奥能登にボランティアに行くためにお休みしたが、今年はアウトドア義援隊芋煮会に全国から仲間が集まってくれて賑やかに開催。東日本大震災の後に長く一緒に活動した仲間たちで、遠くは徳島から駆けつけてくれた。

◆地元民だけの場合は日帰りだが、遠くから来る人が多いため河原でキャンプして2日間に渡って食べて飲んで焚火して楽しむ。まぁ終始賑やかなので明るい時間帯は心配いらないのだが、今年はブナ大凶作で他の堅果類もだめ、ミズキやヤマブドウなどとにかく山の実りが全体的に悪くて山にクマの餌がない。

◆おまけに昨年はブナがよかったために今年春のクマの出産率は高かったので子連れが多い。以前ならブナはあまりならない年が多かったのに、3年前にもそこそこよかったから隔年で子熊が多く生まれたことになる。

◆つまり今年は去年親離れした若い小ぶりのクマと親子という里に押し出されやすいクマが特別に多い年といえるだろう。ブナがだめでもミズナラやコナラがよければここまで里に出ないし、一昨年に出産率が高くなかったらここまで出なかっただろう。つまり、今年はかつてない悪条件が重なった年なのだと思う。山の餌がなさすぎるために、警戒心が高くて里に出にくい大熊も出てこざるを得ない。山に近い場所のクルミとクリを食べつくし、柿や米、蕎麦を食べ始めた今、完全に人の行動圏が餌場になってしまった。

◆芋煮会の場所なんて最も危険な山沿い、河川沿いで、実際今回の場所もすぐ近くでクマが目撃されているので、芋煮会終わった後のゴミの始末の徹底だけでなく、夜間に食べ物の匂いがするものを徹底管理し、少し離れた場所のトイレに行く際にもすぐ外に出ず、ライトで周囲を確認するよう指導。

◆だが、いくら説明してもやはり危機意識には個人差があり、夜に一度全部片づけたときにチェックしたらビールの空き缶たくさん入れた袋を車の下に隠しているのを発見。その2m脇にテントで寝ている人がいるというのに! いまや市街地にも連日クマが出て被害者が続出している東北の現状は大都会住みの人にはやはりぴんとこないのか……。これまでは仕事や山に行くときにだけ気をつければよかったのに、今年は家の近くを散歩したり玄関を出ただけで襲われてしまうのだ。柿もなくなったらどうなるのやら。生ごみを前夜に出さないよう徹底しないと市街地も危ない。[網谷由美子

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熊を2回目撃しました

■朝晩は薪ストーブに火を入れるようになり、伊南川も一気に冬に向かっています。今朝はかなり冷え込み、外にあった車のフロントガラス表の面は真っ白に凍っていました。先日、数か月ぶりに、隣村の桧枝岐(ひのえまた)に向かいました。『地平線会議in伊南村』に出演いただいた、「山椒魚捕り師、曲げ輪職人」の故星寛(ほしゆたか)さんの仏様に手を合わせるために。村からの帰り道、25年前の地平線報告会でお世話になった大桃地区「大桃の舞台」を通り過ぎているとき、江本さんから電話をいただき、鳥肌が立ちました。

◆さて、世間を騒がせている「熊」ですが、伊南川流域も毎日のように村内放送から熊出没情報が流れてきます。私自身、生まれて初めて目の前で2回ほど熊を見ました。1回目は自宅玄関から20メートルくらい先の道路を横切る姿、2回目は隣村の小学校へ出勤中に自車の目の前を歩く姿を。先月末には南会津町内で初めて人身被害があり、その人物は近い親戚でした。1週間の入院から退院後、襲われた状況を聴かせてもらい、本当に命あってこそだと痛感しました。我が家の裏のトマト畑では、毎日のように畑を荒らす熊の存在があり、先日、罠をかけて親子熊が捕獲されました。本当に複雑な気持ちですが「熊」と「人」の共生について考えさせられる秋を過ごしています。

◆私事ですが、3年前に(地元の高校が統廃合によりなくなったため)村を離れて会津若松市の高校に進学した息子が、来春から首都圏(千葉方面)の大学に進学(予定)です。そのため、この夏に上京する機会がありました。私もかれこれ30年前には東京で数年間暮らしていました。が、今回は「宿探し」に翻弄されました。とにかく予約が困難、そして高額なことに驚きました。色々なサイトを探して、何とか住宅街の中にあるホテルを予約し、宿泊当日フロントへ行くと、私たち家族以外はほとんど外国の人たち! これが噂の『インバウンド』というやつなのかぁと。人口1000人余りの村とはまったく違う世界が都会には広がっていました。

◆日常は、ほとんど村の近くで動いていますが、ときおり(いや突然?)地平線関係者の方々が来訪してくれます。今年の5月24日には20数年ぶりに、シールエミコさんと再会! なんとオーストラリアから遠路はるばる伊南川「民宿田吾作」までスティーヴと仲間たちと泊まってくれました! 8月上旬には野地耕司さんご夫妻もお泊まりに! 10月上旬には海宝道義さん(2010年から10年間、伊南川100kmウルトラ遠足を共に創らせてもらいました)が南郷トマトを求めて遊びに! つい先日11月2日には、河村安彦さんと白根全さんが、南会津から尾瀬までの紅葉を満喫した後、我が家へ突撃訪問! たしか数年前のある日もお二人は突撃訪問でした。

◆ちなみに生涯旅人の賀曽利隆さんからも、数年に1度、ある日突然「富美さぁぁぁん、今日、1泊とまれますかぁぁぁ」と連絡をいただきます。ありがたいことです。感謝! 私の暮らす集落は、とうとう子どもは中学生が1人となり、村の小学校も全校生徒20人あまり、中学校も高校も統廃合でなくなりました。そんな地域で、週末は同居している95歳の爺ちゃんと90歳の婆ちゃんと畑で汗を流し、村の天然温泉で汗を流し、充実した時を過ごしているのかなと。しかし、超少子高齢化の現実は厳しく、地域を支えていく人材不足に頭を抱える人も少なくありません。限界集落のこれからを話し合う場を、仲間たちと創りはじめたところです。[紅葉も終盤に向かっている伊南川から 酒井富美


地平線カレンダー2026、申し込み受付中です

■長野亮之介画伯による恒例の『地平線カレンダー』、その「2026年版」が完成しました。今年の春と夏の2度にわたって訪れたカメルーンで眺めた風景や出会った人々を、さまざまなタッチで描いています。例年と同じA5判の全7枚組。表紙の裏に各絵のキャプションが載せてあります。売り上げは地平線会議に全額寄付され、今後の出版活動のための資金となります。

◆申し込みは地平線会議のウェブサイトか、はがき(お名前・送付先・部数を明記)で以下に。〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛。支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後に振り込んでください。

▼地平線カレンダー2026——伽迷流雲湧惑散歩(カメルーンわくわくさんぽ)/絵と文:長野亮之介/編集・DTP:丸山純/編集協力:武田力/頒布価格:500円/送料:1部・180円、2部以上・210円

【絵師敬白】市場の立つ日は路地に屋台がひしめき、赤土の未舗装路は途端に狭くなって、人々でごった返す。値段交渉をする人たちの言葉はフランス語か、はたまた国内に250もあるという部族語だろうか。景気づけに鳴らす音楽が幾重にも重なる。人混みに手押し車を割り込ませながら拡声器で惹句を繰り返す売り子の横を、バイクタクシーが警笛を鳴らしながらすり抜ける。喧騒から離れようと坂道を登ると、子どもたちがマンゴーの木に登って器用に果実を落としていた。色鮮やかなトカゲやさまざまな鳥たちの姿も見える。アフリカ中央部のカメルーン西部州。チャンという町を今年2度訪れた。あてどなく散歩しては出会う風景や人々。その印象を絵にしてみました。

【編者敬白】入稿時のミスと断裁のズレが重なり、表紙下に白い線が入ってしまいました。これもひとつのデザインと見なしていただけると幸いです。[丸山純


今月の窓

「トランプどころじゃない! 熊! 熊だよ!」

花田麿公 

■某県知事のこの言葉に九州育ちの妻が反応しました。九州に熊はいません。恐ろしいのでしょう。人を殺す熊が駆除されたと聞くとほっとはします。でも、熊の駆除に私は心が痛みます。どうしたらいいのでしょう。

◆高校1年のとき学校図書館のシートンの動物記にはまり、やがて大学に進み、和製シートン戸川幸夫にたどりつきました。そして就職して、動物好きの友人から戸川幸夫全集が出たことを教示され、ついに大人買いで全集を求めました。戸川の西表山猫もの、またぎもの、知床ものなど夢中でした。

◆戸川の、東北から都会にきた犬が秋の冷たい空気に触れふるさと目指して一目散にかけもどる『北へ帰る』の太郎の姿と、モンゴル育ちの次男が、11月の冷気の第一波に門口で深呼吸して、「ああほっとした。モンゴルに帰りたい」と言った言葉に重ねていたりもしました。

◆戸川は『マタギ』の他に熊ものをかなり書いています。6編知っています。『熊』、『羆の村』、『武尊の兄妹熊』、『熊犬物語』、『羆風』、『朝日嶽の瘤熊』の6編です。とくに『武尊の兄妹熊』は傑作で、戸川作品中の傑作の一編だと思います。今題名を書いただけで、人に飼われた熊の運命を思い心が震えます。

◆人里に熊がでてきた、畑が荒らされ、柿が食われてしまったと報じられています。『羆風』の冒頭にこんな一文があります。「人が食われた。人々は犯罪者である羆を“人殺し羆”“人喰い羆”と呼んで追跡をはじめる。羆は逃れようとして反抗し、再び傷つけ、殺し、そして最後に殺される。人間は訴える。『羆は突然にとび出してきて攫っていったんだ』と。その言葉の裏には“なんにもしなかったのに……”という意味と、“かわいい子供だったのに……”“いい人だったのに……”という同情とが含まれ憎しみを幾倍もに増大させる。だから殺害者の羆は、この場合、弁護のしようのない悪者となっている。ところで、もし羆に人間のように喋る能力が与えられたとしたなら主張するに違いない。『ここは、もともと俺の領分なんだ。おれの親父やおふくろがまだ赤ン坊だった頃から、いやもっともっと、ずうっと昔から、ここは俺たちの国だったんだ。そこへ割り込んできたのはお前たちじゃないか……。挑戦者はお前たちだ、仕方のないことさ』と」

◆この一節は真実をついており、わたしはシベリアの先住民とロシア人との関係にあてはめても読んできました。それはさておき、アイヌの人々もマタギも、熊を尊崇してきました。そして闘って打ち勝ってきました。戸川さんもその魂を描いてきました。マタギと羆の壮絶な闘いには『白鯨』のエイハブ船長と白鯨との闘いのように相手を尊崇しながら闘いを挑む姿があります。

◆いま、日本の東半分から北部にかけて森は熊にあふれています。人は動物愛護の精神で熊退治をしなかったからだとか、去年の木の実は豊作だったが、今年不作だったので熊だらけになったとか、温暖化のせいとか言っています。少なくともメディアで取り上げていないことが原因と私は見ています。ひとことで言えば熊の需要がなくなったからと思います。私の子供のころ、胃痛といえば「熊の胆(くまのい)」という熊の内臓による薬を飲みました。「熊胆(ゆうたん)」とかの商品名だったかと思います。昔からある「太田胃酸」は別として、「キャベジン」や「大正漢方胃腸薬」がありますので、「熊の胆」は今需要がほとんどないのではと思います。

◆そして、ひとかどの家にはどこでも熊の敷物がありました。私の一家が一時間借りしていた大分県の代議士先生のお宅にもありましたし、モンゴル大使館と公邸探しを都内でしたとき(明治いらい相手国の在東京大使館の物件探しに協力するよう外務省員が命じられたのはモンゴルのみです)、豪華物件にはみな熊の敷物がありました。当時でも熊の毛皮は70万円以上しました。

◆モンゴルで、ラクダが60万頭代から30万頭代に激減したことがあります。米国の製薬会社がラクダの内臓の一部を高額で買い付けたためでした。もう60万頭代に回復することは困難でしょう。需要があれば、動物愛護といっても、禁猟令を犯して闇ルートで販売するものが出てくるのが例です。

◆ハンターの数が1980年に46.1万人あったそうですが、2020年には21.9万人に激減しているのも(テレビ朝日)、一概に法律や、気候変動、木の実の問題だけではないのだろうと思います。いまどき熊の絨毯敷いていたら「昭和か」といわれのない時代の差別を受けます。とにかく熊の敷物は近年見たことがありません。ちなみに、生まれた場所、時代、年齢で差別されることにうんざりしています。

◆熊に棲み分けは今更できません。森は混んでいます。人間による駆除が進行したのち、熊と共存できる根本的撃退法を見つけるまで、このいやな闘いが続くのでしょう。熊のプーさんのぬいぐるみやテディ・ベアは、売れなくなるのではないかと危惧しています。とにかく棲み分けができることが理想ですが、当面駆除が主流となるのでしょう。そして私は、熊は尊崇して闘い、ねじ伏せる相手であることを動物作家戸川幸夫に学びました。

イラスト-6


エモの目

18歳、はじめての夏山

編集長が14歳(日記のスタートは1955年6月22日)から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します。

1956年8月1日(15歳)

◆家を7時23分のバスで出た。汽車の中では4時間20分、揺られた。郷里に帰るという学生と知りあい、デッキで風に吹かれているのは愉しかった。さすが山へ近づくほど涼しくなり、午前中の汗だらけの時間に較べて午後は楽な時間を持てた。

◆軽井沢からバスで碓氷峠まで行ってそこから歩いた。道は至極いい道でボストンバッグの女生徒たちもこれなら平気だろうと思ったが、時が経つにつれ、谷は深くなり、人にも会わず、半分ぐらいまで来た時は女生徒の中では少々苦しそうな人がいた。この頃は本当に谷は深く、全く静かで時々、ほんとうに時々啼くホトトギスとヤブウグイスの声が一層谷を静かにさせた。

◆しょっちゅう小川に出会った。僕は出会った川の水は全て1回は飲むことを決心し、それを実行した。それをそのまま見過ごすことはあまりに勿体なく思えた。空気は実に良い。すっきりして歩いている僕らにもしこの空気が都会のようであったら1キロも歩いて嫌になっただろう。何回も上ったり下ったりしているうちに、最後の川を見た時には荷物が増えていた。

◆金湯館は真に古く、水道はもちろん、電気もひいてないが、川から引いたのであろうか。冷たい水があり、その水で自家発電も行なっている。けれども暗い。前は山。途中まで1人で登ってみた。空には星がいっぱい、明日も良い天気だろう。(詩歌研究部の顧問の先生たちと霧積温泉ハイクに行った時の日記)


あとがき

■西興部村に入ったころ、アメリカではドジャース、ブルージェイズの第3戦が始まろうとしていた。にわかファンの私は大いに経過が気になったが幸いこの世界のことに詳しい車谷建太君がいたので逐一、経過は知ることができた。

◆1勝1敗で迎えた第3戦は延長18回の総力戦となったが、ドジャースが競り勝ちその瞬間を私たちは雪の吹き荒ぶゲストハウスGA.KOPPERで聞いた。しかし、その後ドジャースは連敗し、2勝3敗と背水の陣に。以後の経緯は皆さん、ご存知の通りだ。

◆いい歳をして北海道に飛んでいながらアメリカの野球を気にするというのもヘンだろうが何にでも興味は持つべし。私はほんの少しだが、カーリングのこともわかるぜよ。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ユーラシア歩き旅・序章

  • 2025年11月29日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「巡礼の道はマラソンコースみたいなもの」というのは坪井伸吾さん(62)。今年3月、長年勤めた郵便局員の仕事を辞め、ポルトガル〜トルコ約4000kmの歩き旅を決行しました。学生時代に人力車を引いて東海道を歩いたのを皮切りに、バイクや自転車での世界一周やアマゾン河を筏で下るなど、オリジナルな旅を続けてきました。

'05年に北米大陸横断ランを完遂。以来今年が20年振りの長期旅です。「面白ければ何でも良かったけど、一番やりたかったのが長距離を歩く旅でした」。今年4月にリスボンからスタート。サンチャゴ・デ・コンポステーラという巡礼の道を最奥から逆に辿り、フランスまで2800km。EUを出て東欧へ。

一日約40kmのペースで進みますが、巡礼の道を出るとルートは複雑。ボスニアでは地雷原に迷い込んだことも。「昔ながらの旅をしたかったけど、今は紙地図も手に入りにくく、宿もチケットもスマホ無しでは難しい。苦手なんだけど使わざるを得ませんでした」。いずれユーラシア大陸を横断し日本まで歩くつもりですが、イスタンブールまで歩いて一旦帰国中。

今月は坪井伸吾さんに、ヨーロッパ歩き旅を語って頂きます!


地平線通信 559号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2025年11月19日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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