2025年5月の地平線通信

5月の地平線通信・553号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月21日。「コメは買ったことがない。支持者からいただくので売るほどある」と発言した江藤拓農相が辞表を出した。ああ、やはり。しかし、ほんとうにそれほどのことか?

◆4月の地平線通信を出した翌17日から19日まで北海道の西興部(にしおこっぺ)という小さな村に行ってきた。オホーツク海に近い紋別空港から車で1時間ほどの人口1000人ほどの村に出で何を見てどんな人たちと会ったか。14〜17ページの「今月の窓」で久しぶりに「1万円カンパ」のお願いとともに西興部村特集を組んだ。「地平線会議 in 西興部村」。実施は来年初秋の予定です。

◆4月22日、関野吉晴からメールが来た。「モンゴルから地球永住計画にメールが来ました。それを転送しますので、宜しくお願い致します。私は明日から3週間沖縄南西諸島で旧石器時代の旅です」。え? 3週間も南西諸島で?

◆そして、関野から転送されてきたメールがすごかった。「初めまして、Tsend Baatarkhuuさんから代理でご挨拶させていただいております。先生が1987年にモンゴルのアルハンガイ県の遊牧民を訪れた時の男子がBaatarkhuuという名で、現在デジタル開発大臣になっており、今度5月末に東京訪問の際に、先生とお会いできましたら大変幸いに思っております。先生のご都合の方はいかがでしょうか。デジタル開発大臣顧問のトゥグ」

◆アルハンガイ県はよく知っている。いろいろな遊牧民とも会ってきた。しかし、バータルフーという人は憶えていない。古い、分厚い取材日記をひっくり返してみたが、わからない。待てよ。深呼吸してメールを読み返し、父称の「ツェンド」という名にひっくりかえった。なんと、アルハンガイ県ではなくヘンティー県の羊牧民、ツェンドさんではないか!

◆私がモンゴルに初めて入ったのはモンゴルがまだ社会主義国だった1987年夏である。各地を移動取材する中で、ヘンティーの羊遊牧民(社会主義当時、羊、馬、ラクダなど家畜ごとに分業化していた)ツェンドさん・ツェデンさんご夫婦にはほんとうにお世話になった。取材ノートを見ると初めてお会いしたのは1987年7月18日。当時ツェンドさん49歳、赤銅色に灼けた精悍な遊牧民だった。「オトル」という、良質な草場を求めて羊たちを太らせながら移動する仕事の最中だった。

◆遊牧民の仕事で大事なのは何と言っても出産期に仔家畜をどう増やすか、だ。翌1988年3月18日、氷点下20度と冷え込む中、羊の出産期で超多忙なお2人を再び訪ねた。仔羊が毎日のように生まれる遊牧民にとって一番多忙な季節。食事をつくる暇もないので4000個ものボーズ(蒸し餃子)を作って外の箱にカチンカチンに凍らせて収納しておく、と言っていた。27歳を頭に10人の子を育てたツェデンさんはいわゆる「母親英雄」でもある。そのうちバイスガラン(17)、バットスフ(13)、バザルソク(8)、バートルフ(7)の4人がここにいた。

◆たっての願いで3枚の家族写真を撮る。すでに家族はどんな写真にするか決めていた。最初の1枚は勲章をいっぱい胸につけた晴れ着のデール姿の夫婦と真ん中に「ホルゴ袋(産み落とされた仔羊を収納するための袋)」を抱えたバザルソクの3人。背景に羊の群れを入れ、袋の中からは産まれたて仔羊が顔を出すようにしてだ。

◆2枚目はハシャー(板囲い)の中でこれまた羊の群れを背にした一家の写真。そして、最後の1枚は緑のオートバイにまたがったバイスガランの写真。昨年7000ツグルグで父が買ってやったという。「日本の新聞記者が2回も訪ねてくれた。俺はそれがほんとに嬉しいんだ」、別れが迫ったとき、ツェンドさんは髭面を私の頬に擦り寄せて言った。

◆そう。あの時の末っ子、Tsend Baatarkhuuがいまやモンゴルのデジタル担当大臣の要職にあるというのだ。ほんとうに、信じられない。大臣顧問のトゥグさんが当時の読売新聞の私の記事をメールに添付してくれた。ゲルの前の一家の写真の中の幼い男の子を赤ペンで囲み「これが大臣です」。差し上げた私の記事を大事に保存してくれていたのだ。

◆さあ、ほんとうに大臣となったバートルフに会えるのだろうか。夏5月。世界にはいい出会いがある。[江本嘉伸


先月の報告会から

火と氷の国の庭づくり

安平ゆう

2025年4月26日 榎木町地域センター

■今回の報告者はこの春に九州大学を卒業した安平ゆうさん。昨年8月から12月までの4か月半、交換留学生としてアイスランド大学人類学部に在籍。庭づくりを通して人と自然との関わり方を探究した。私にとって未知の国に興味が沸く。アイスランド語(発音も文法も大変難しいらしい)で書かれた通信552号の題字(長野画伯がアイスランド語で「地平線のかなた」と書いた)を読んでみて欲しいとの会場のリクエストに応えてチャレンジするゆうさん。和やかなムードで報告会が始まった。

◆アイスランドは国土の北端が北緯66度に位置し、ぎりぎり北極圏には入らない。人口は40万人弱。内陸部には海嶺(プレートが生み出される場所)が広がり、国土の大部分を溶岩台地が占める。島の中央部にホットスポットが集中しているのが特徴。約2千万年前に海嶺からマグマの噴出によって島になったのが現在のアイスランドで、地質年代的には非常に若い。直近では2023年にレイキャネス半島で噴火が起こり、3800人余りが避難、グリーンデイヴィックという町が半壊した。留学中にも2度噴火があった。地球のダイナミックなメカニズムと隣り合わせの国だ。

◆アイスランドと聞くと氷河一色のイメージだが、意外と緑豊かな場所も多いそう。風景は夏の北海道にも似ている。沿岸部の村や首都レイキャビクではガーデニングが盛んに行われており、その文化は18世紀にデンマークから導入された。年間を通して日照時間の変化が大きく6月の21時間に対して、12月の冬至では3時間程しかないため、ガーデニングに関して「夏の間を沢山楽しんで、長い冬を耐え忍び、春を楽しみに待つ」と語る方が多いそうだ。

◆『なぜアイスランドへ?』。そこには新型コロナ禍にもたらされた、かけがえのない出逢いがあったからだという。佐賀県基山町出身、五人姉兄弟の四番目に育つ。旅行をする様な家庭でもなかったため、漠然と遠くへ行きたいという気持ちがあったそう。中高生時代に星野道夫の著作やアイスランドを舞台とした漫画『北北西に曇と往け』に魅了され、旅への憧れを一層強くしていく。2020年に大学入学。パンデミックと重なりすべてが真っ白に。部屋に籠って体を動かさず、誰にも会わず、誰とも喋らない生活の中で気持ちは鬱々と。そんなときに精神的支えになったのが山岳部の活動だった。

◆オンラインの新入生勧誘で見せられた美しい雪山の写真に一目惚れ。「これは入部するしかない」と、迷わず山岳部に入部。山に初めて入った日から生活が正しく回り始め、きちんと食べて寝る、身体をしっかり使って筋肉を育てるといった感覚を取り戻していく。山岳部の活動をきっかけに、江本さんの特別講義に出くわした。講義の最後の「よければこの住所にハガキを書いて」との呼びかけに応じて一枚のハガキを書いたことが人生を変えた。地平線会議との交流が始まった。対面での報告会を休止していたあのときに、通信にたびたび掲載されるゆうさんの報告を、毎回楽しみにしていたのは私だけではないだろう。

◆もう一つ欠かせないのが、庭に興味を持つきっかけとなった、お母様が営むカフェの庭師さんとの出逢いだ。それまで庭とは人が鑑賞するための場所との認識だったが、庭師さんは生き物同士のコミュニケーションの場所として捉えており、土壌の性質の違いによって変化する植生に着目して庭づくりをされているという。庭師さんの考えに触れ、ゆうさんは雄大な景色の自然から足元に広がる自然に視点を移すようになっていく。

◆同時期にフランスの造園家、ジル・クレマンを知る。フランスの宮殿庭園に代表されるような、人がデザインしたものに植物を当てはめていく管理された庭とは違い、藪化した植生に人が合わせ、変化していく「動いている庭」を作庭した方だ。環境問題が世界的に議論し始められ、庭がエコロジーを現す象徴的な場所として、既存の造園観を180度転換したことで有名だそう。こうした数々の出逢いを通して、人と自然との関わりを探究する上で庭がフィールドになると考えたゆうさんは、人類学の視点から「庭」に取り組み始める。

◆ここからはアイスランドの自然環境と庭づくりについて写真を紹介しながらの解説。アイスランドの心臓部と呼ばれるシングヴェトリル国立公園。プレートが生まれる場所で北米プレートとユーラシアプレートの境界。歪みによって生じた窪地は湿原のようだ。他方で活火山も多く存在する。

◆地割れ噴火でマグマが沸々と湧き上がる様。噴火が起きても現地の方は冷静で、淡々と受け入れるという。アイスランドの自然と共存して生きている証なのだろう。目前に迫る氷河が融けて流れ落ちる様。物凄い水量と勢いが伝わる。氷河の融解と高低差を利用した水力発電で電力の7割を、地熱発電が3割を担っている。電力を100%自然エネルギーで賄っており、サステナブルエナジー先進国でもある。

◆レイキャビクの街並み。国民の約7割が暮らす住宅密集地。高層建築は無く、木々も多い印象。冬の池。街には地熱を利用した温水暖房システムが張り巡らされていて、建物側部の水は冬でも凍らない。野鳥の集団。冬に個体数を限定して狩猟し、クリスマスに食す伝統文化がある。野鳥が道路を横断するときには車は止まって待つそう。海と黒い浜辺。黒い浜辺の正体は玄武岩質の溶岩。夕暮れ時かと思いきや、午後3時頃だそう。日照時間の短さがよくわかる。

◆入植時(870年頃)と現在の森林比率分布(地図資料)。入植時沿岸部にかなり広がっている森林は一度0.5%にまで減少し、現在は2%ほど。原因は羊の過放牧と伐採。人が働きかけなければ植生が育ちづらい地理であることが理解できる。レイキャビク市内の川と針葉樹の森。川岸には針葉樹林が広がっている。これらはカナダやアラスカから輸入され植林されたもの。積極的に植林をし、市民の憩いの場としての森や資源を作っている。在来種白樺の森。日本の白樺が高く伸びるのに対して、樹高は160cm前後。成長速度が遅く、年輪が密。枝ぶりも細々として弱々しい印象だ。

◆溶岩台地に生える苔。苔の種類は600種以上。花を咲かせる植物が400種ほどしかないことからも多様性が窺える。噴火によって植物は焼き尽くされ一掃されるが、長い時間をかけて次の植生を育むことを繰り返している。苔むした地割れ噴火跡と現在進行形の噴火による焦土の対比。噴火により地衣類は消失、強風にさらされ更に土地が浸食される。土地を保護するために、グラスを輸入し土壌を覆う対策を政府レベルで行っている。郊外セルフォスのサマーハウス。日本の別荘にあたる。夏の間サマーハウスでガーデニングを楽しむことが多い。ゆうさんは個人の庭に関心を持って活動していたそう。しかし留学当初はつてもなく、ガーデナーとの出会いにしばし時間を要したという。

◆市内で一番大きな園芸店。多くのガーデニングの種を扱っているが、アイスランド原生種は1種のみ。ほぼ輸入した植物でガーデニングを行っている。園芸協会での植物交換会の様子。様々な小さな鉢植えが所狭しと並んでいる。個人で増やした植物や種を持ち寄って無料で交換し、情報交換する場。ここで熱心なガーデナー達と出会っていく。

◆アイスランド植物園。屋外の岩場に這うように住まうアイスランド元来の植生を再現している。国内に1校しかない園芸学校。温水パイプが引かれ、外気温が氷点下でも温室では柑橘類、バナナやコーヒーの木が育っている。国内の食物は殆どを輸入に頼っており、温室栽培を産業にとの試みはあるが、農薬使用の問題点もあり模索が続いている。プラント化された水耕栽培の様子。園芸協会のシードバンクと種の採集・保存の勉強会。原生種の種を保存し輸出すると同時に、輸入した種を一定期間保存し全土へ放出する活動も行っている。

◆市民ガーデナー個人の庭。風の強い北側には80年前からの木があり、その麓には次の世代を見越して計画的に植樹された樹木が並ぶ。南側には木を配置せず、南中高度が低い日光を効率的に取り入れている。また家の白い壁に反射する日光と、地熱暖房システムを利用して、実験的に温帯地域の植物を育てている。恵まれない土壌と厳しい気候の中で最大限の工夫を凝らした庭だ。これだけの努力が実らないことも多く、アイスランドの庭づくりは真に忍耐なのだそう。

◆コンポスト。良質な土壌の生成は難しいため、馬糞の利用やコンポストでの土づくりは重要。これまで埋め立てしていた生ゴミを活用し、行政も取り組みを開始したそう。朗報だ。40年かけて植林された私有地の森と個人宅の温室。個人レベルでの植林も盛ん。原生種の植生は背が低いため防風の目的として植林はとても大事だという。個人宅でも温室を所有し、苗を育て直植えの後、芽吹きを見守る。何年もの時間をかけて試行錯誤しているという。

◆ブルフェスのサマーハウス。溶岩台地での植林を実践している方の存在に驚く。困難な地であるからこそ芽吹いたときが本当に嬉しい、だからやりがいを感じているという。厳しい自然があるからこそ輝くガーデニング文化だ。カモンブラックバード。本来は冬にヨーロッパに渡る野鳥だが、ガーデニングにより餌となる木の実が増え、近年はアイスランドで越冬する。地球温暖化の影響もあるだろうが、生態系の変化にも注視が必要であろう。

◆ここで質問コーナーとなった。Q.どのような生き物がいるのか? A.野生動物はキツネやウサギ、白鳥、雷鳥などを見た。野生の熊はいない。特に野鳥は貴重で、毎年チケット制で権利を獲得した人のみ狩猟が許される。 Q.人口の推移は? A.デンマークの支配下で元々は漁業による交易をしていた。民族意識の芽生えと共に独自に利益を得るようになり1944年独立。後にアメリカ軍の駐留によりインフラが整備され娯楽も入ってきて、人口も増えたと聞いている。 Q.心の余裕はどこから生まれるのか? A.ワークライフバランスが大切にされ、家族との時間に重きを置いている。故に外国人はコミュニティーに入りづらい側面がある。プライベートを大切にする背景としてはコミュニティーの密度の高さ、自分たちの祖先や源を強く意識しているからだと感じる。 Q.グローバルな経済について。なぜ豊かな国・人間社会のイメージがあるのか? A.EUには加盟していないが、EUの経済圏にあり、大きな収入源は漁業と電力とツーリズム。自然エネルギーを活かしてアルミニウムを生産輸出している。近年は外資系企業のデータバンクも誘致。金融立国を目指すも、2008年の通貨危機により、国の政策をツーリズムに転換した。アイスランドの人々には家族やコミュニティーの深さから得る言語や宗教感、受け継がれる文化やアイデンティティーといった、生きていくための芯があると感じる。それが幸福度に繋がっていると考える。 Q.植生復活のために輸入するのはなぜか? A.土壌を浸食から護ろうとするときに在来種は根付きが遅い。目的に合う植物を輸入して試す過程にある。

◆しばし、アイスランド一周の旅の風景を紹介。ランドマナラウカ山系。黄土、白、ピンクのカラフルな硫黄の山肌が特徴的。エフロード(オフロードの意)の脇を走る馬。アイスランドの外周を一周している道路をリングロード、リングロードから内陸に向かう道をエフロードと呼ぶ。周囲は牧草地。リングロードから見た地熱発電所。硫黄の匂いが立ち込めている。牧草地の羊。海風にのってきた塩を舐めるため道路に出てくることもしばしば。

◆ゆうさんは環境保護・保全活動にも関心を持つ。環境NPO団体ランドバーンドの保全活動に参加した様子。風力発電所の建設に対する抗議活動として予定地をハイキングし、自分たちの目で素晴らしさを確かめ、広める活動。アイスランドの人々にとって土地はとても大切なものとして語られる。都市化が進むまでの貧困な時代を支えてきたのは土地であり、歴史的な礎である。この団体は風力発電所の建設は単に自然破壊だけでなく、民族の誇りとアイデンティティに反する行為であると訴えている。自分たちで環境を守ろうと声をあげる姿勢に刺激と衝撃を受けたそう。また若者中心の環境保護団体UUのメンバーとしても活動する。

◆COP(国連気候変動枠組条約締約国会議)レイキャビクの会議の様子。生物多様性と気候変動対策を同時に考えるローカルCOP。イベントを開催するにあたり会場予約、司会者や各専門家のパネリストの手配、食事の手配等、様々な準備が必要だが、コンセプトの説明から概要が形作られるまで要した時間はたった30分。スピーディーさと環境保全に対する意識の高さを感じた場面だったそう。イベント最後の目玉として廃棄食材を利用して野菜のみの食事を振舞う。スーパーに快く協力してもらい材料を調達し、100人単位の食事を完成させることができた。「政府の気候変動枠組対策」と描かれた棺。会場の外では、年長世代の団体が政府の環境対策を痛烈に批判している。アイスランドでのこのような活動は環境問題だけに限ったことではないという。

◆大学内でのガザ侵攻への抗議活動。授業中の先生はビラを配りに来た学生のために、講義の残り時間を開放されたそう。こうした活動に無縁だったゆうさんは、声をあげることを目の当たりにして、何もしないことが罪だと意識したという。市民の草の根運動が盛んになったのは歴史的背景もある。1975年、女性によるデモ(当時は休日と呼ばれた)の様子(The Guardian紙出典)。賃金や社会的地位の男女平等を訴えた抗議活動だ。この年を機に世界初の女性首相の誕生、積極的な女性の登用に繋がっていくことになったという。

◆プライドパレード(元はゲイの社会的の向上と認知を目的とした)の様子。レインボーフラッグを手に大勢の人が祝福ムードで大通りを練り歩く。2010年には同性婚が合法化。政治的にもLGBTQの権利を認めており、ジェンダーの多様性に関して先進国的存在である。黙して語らずを美徳としてきた日本人との違いに驚くことばかりだ。

◆移民政策については、90年代にEUの経済圏に入ってから、市民権の得やすさや社会保障制度の充実(大学の授業料は年間75000円)も相まって、東欧諸国からの移民が増えたそう。現地の人々との摩擦もあり、知人は「外国人はウェルカムだが、長く居住して国の恩恵を受けているにも関わらず、アイスランド語も話せない人は歓迎しない」と語ったという。

◆ここで嬉しい報告があった。2日前にアイスランド大学院に進学することが決まったという。拍手が沸き起こる。「人類学の分野では研究対象の母語の獲得が必須。アイスランド語勉強します」と決意表明した。庭づくりしかり、ゆったりとした時間軸の中で進んでいく暮らし、本来の人間生活はこうあるべきなのだと感じる。ゆうさんの心を象徴するかのようなオーロラの写真と共に、アイスランド時間という言葉はないけれど、自分のペースで生きていいと感じることができたと、結んだ。これから一段深くアイスランドにはまる彼女を見守りたいと思う。[長岡のり子


報告者のひとこと

一生に残る経験を、ありがとうございました

■昨年アイスランドで過ごした日々のこと、庭への関心、現地の園芸事情など、様々にお話させていただきました。どうしてアイスランドに惹かれるのか、自分でもわかり切れないところがあります。ただあの強風が吹きすさぶ荒涼とした環境で、人が植物を育て、根を張り生きていることに心惹かれて、もっと知りたい、という気持ちになります。

◆正直に申し上げて、私は地平線通信の一ファンでしかありません。思い出すのはやはり江本さんのオンライン講義を受け、ハガキを書いた2020年のことです。コロナ禍がなければ、ハガキを書いて始まった地平線との出会いも、年末の黒百合ヒュッテでの長岡一家、高世泉さんとの邂逅もなかったのだろうと思うと、不思議でなりません。

◆地平線会議に出会えたことで、さまざまな世界線を生きる有象無象の人たちの生きざまに触れることができました。それぞれに足並みをそろえることなく行動をし続け、このコミュニティーが続いてきたのだと改めて実感し、すごいことだなと感じることしきりです。

◆同時に、地平線会議のこれまでを自分なりに掘り下げるほど、ここは生半可な場所ではないのだと感じます。通信を通して迫ってくる行動者の信念や気迫に、何度背中を蹴り飛ばされてきたことか(比喩です)。そこから立ち上がり自分の道を切り開かんとしているところですが、どうなるかわかりません。

◆習得を宣言し(てしまっ)たアイスランド語も、教材が高くて悲鳴をあげていますし、舌が回らず苛立ちます。こんな弱音を吐いている暇があれば、単語の1つでも覚えるのが吉ですよね。しばらくは、書類と格闘しつつ勉学に励みます。改めて、一生に残る経験を、ありがとうございました。[安平ゆう

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


地平線ポストから

ブルーベリー豊作!

■長野県松本市と岐阜県高山市で二拠点生活を送る中澤朋代(トモネエ)です。ちょうど1年前の2024年5月発行の地平線通信に、自らの進退を初寄稿してからはや1年が経ちました。父の他界を機に学科の立ち上げから18年力を注いだ大学の専任職員を辞して51歳で非常勤講師となり、人手不足にあえぐ中山間地にある実家のブルーベリー圃場を承継、法人格を整え、家族で切り盛りしてきました。「500本の収穫は人にお願いしなくてはとてもできず、人はいないが集落のお年寄りにお小遣い稼ぎ程度でも手伝ってもらい、少しでも日常の張り合いになれば」と語っていた抱負は見事実現、どころかかなり改善!その点は大変良かったのですが、想定外の変化すぎて、経営者という立場からいえば、激しい上り下りのジェットコースターにしがみつきながら、決断を繰り返す日々でした……。

◆農家経営の最初の課題は、人手の確保と収穫量を安定させることでした。これまでの取引経験からそうでないと販路開拓が難しいと知ったからです。近隣から離れた陸の孤島集落では買い物も病院も通学も給油も車で40分。20戸あまりで住民70人程度の高齢社会にあるので、摘み取りの人手確保は常に逃れられない課題です。そんな昨春のこと、集落に2つあったホウレン草農家の一つが廃業するとの知らせが突然あり、パートに勤めていた高齢女性3名を急ぎリクルートしたところ、我がファームへ来ていただけました。早朝からの作業も悠々こなし、しっかり体力のある皆さんで、願ってもない幸運です。さらに隣市から軽トラで30分以上かけて通ってきてくれる同年代のWさん、隣集落から通ってくれる別荘暮らしのSさんご夫婦などベテランの摘み子さんも引き続き引き受けてくださり、そこに別の隣市から元教え子も助けにきてくれました。ありがたいことです。なお、このスタッフの平均年齢は74、5歳で、夫に先立たれた女性も多い職場となっています。

◆次の課題は安定収量です。隣でトウモロコシ畑を切り盛りするHさんから「鳥よけは自分で設置できるよ」と手厚い指導をいただき、約30a(3千平米)の農地分の設計図を夜な夜な考えて計算しました。次に、母と2人でホームセンターで直径48.6mmの単管パイプ3mを計72本買い込み、お店の人に軽トラに積んでもらって自分でロープを縛り、低速で峠を越えて慎重に運びました。畑に降ろして、私がはしごに登りHさんに借りた道具で一本ずつ打ち込むのに、母には角度計で補助役を依頼。50cm打ち込み2.5mの高さでまっすぐ立った単管パイプの上端にロープを張りつなぎ、巨大な網を張るときには集落の皆さんに手伝ってもらいました。

◆こうして鳥よけ網も間に合い、毎朝3時間程度の摘み取りを20日間5〜6人に頼む計画で、最低時給を横目にソロバンをはじいていたところ、ブルーベリーの収穫が想定外に早く始まり、かつ生り年(なりどし)で開花も多く、晴天が続き、収穫期も長びくという異例の豊作の気配。結果として収量が30年来の平均値の二倍を超えるなんて、生り年だけでは説明がつかず、思わず「これまでどれだけ鳥に食べられていたのか、父よ!」と畑の真ん中で叫ぶ私。

◆ブルーベリーは一斉に完熟せず、熟した粒だけを一つずつ目利きして摘み取り出荷する果実です。摘み取り範囲やローテーションを考え、実りにあわせて、人と時間を追加投入することになります。人件費は想定の2倍以上に膨らみ、販路も広げていないし、保管先も足りない状況で果実の行き場に頭を抱えることに……。さらに、鳥よけ網設置からの連日作業は喜寿を迎える母には負荷が大きかったようで、足が疲労痛のまま収穫のハイシーズンを過ごさせてしまいました。日々が辛そうで本当にごめんなさい、自分の焦りに母を巻き込んでしまい懺悔の気分です。落ち込んでもいられないので恥を忍んで「応援してください!」とFacebookに投稿し、家族総出であちこちにもお願いしたところ、多くの知人・友人からたくさん注文をいただいて、応援メッセージまでいただき感涙。能登へと小分けにしてRQ災害センターに発送。安曇野で古い友人の先輩農家からは「豊作おめでとうございます。ブルーベリーは冷凍して年中販売できるから大丈夫」とのメッセージに「あ、これは農家としてめでたいことなのか」と腹をくくりました。急遽、業務用冷凍庫を2台購入し、連日の人件費増加と膨らむ経費におびえつつも、摘み取りだけでなく選別作業も人選してお願いして、収穫果実を全量ストックしました。

◆一方、摘み子のお姉さま方は「こんなに働かせてもらえるなんて思わんかったわ」と大喜びです。作業時間は皆さん手を止めずに、おしゃべりにも花が咲きます。仕事がなければ、日がな自家消費の畑の手入れとテレビの視聴で1日が終わってしまうけれど、家から歩いて行ける距離で、短時間に無理なく真剣に働ける毎日があること。販路はホテルやベーカリー、市場にも卸しているため、品質重視で緊張感を持って働いていただくご褒美に、休日は研修と称してお洒落して連れ立ち、果実を納める老舗ホテルのラウンジで「自社農園」の贅沢パフェを経費でワイワイ食べるのは、田舎暮らしの非日常としては楽しすぎます。

◆そんな皆さんの日々の笑顔がなんだかとても嬉しくて、ずっとお元気でいていただきたくて、まずはよかった!なのです。収穫後、夫婦ご健在の家はニコニコと給与明細を見て「貰うのはお盆の後がいいな、お盆前やと親類が来て使われてまうで(飛騨弁)」と、家計でなくへそくりとしたご様子。一方、こちらは夫と相談して新たな体験の取り組みを仕込みつつも、経営への不安が消えないまま2025年度に突入した感がありますが、集落の存続にはあと5年が勝負と始めたので踏ん張ります。まだまだ冷凍果実の在庫が残り、農家の手作りジャムは発送できますので、ご入用の方は本当に本気で連絡をお待ちしています! ちなみに30年間、化学農薬は不使用です。[中澤朋代@治助ファーム]


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったか、や、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです(メールアドレス、住所は最終ページにあります)。

上舘良継(3000円 カンパ含み。毎月の1面だけは小活字ですが、中は多く活字が大きくなり助かります) 石田昭子(毎月通信が届くのを楽しみにしています) 城山幸子(20000円 いつも楽しみに読ませていただいています。→城山さん、なんと懐かしい。確か海宝道義さん企画の「お台場ぐるぐる」もご一緒しましたよね? ぜひ近況など教えてください。江本) 藤本亘 村田憲明(毎月、届く地平線通信。海外にはなかなかいけなくなったけど、娘がアイスランド目指して一人旅。台湾〜タイ〜インド〜現在ネパール。ラインで送られる写真に安否確認しています。江本さん、身体に気をつけて若い人に刺激を与え続けて下さいませ) 池田真美(4000円 支払い遅くなってすみません。知人がいつも通信を見ていて私も購読したくなりこの度お願いしました) 滝村英之(3000円 通信費とカンパです。毎月報告会の要点を分り易く記して下さりありがとうございます。いつも楽しみにしています) 小林由美子(5000円 八ヶ岳南麓と府中市の変則2拠点生活です。山小屋では都会暮らしで不可気味な事やりたい放題。食べ物カスなど土に戻れる物は出来うる限り土の微生物に頼む。植物は出来るだけ園芸種を入れない。煙突掃除覚悟で燃やせる紙、木類はストーブへ。少ない種類の新鮮なモノを食べる。気分良し。出来るだけ! いい気持ちの努力を、今の自分、未来の人のためにしていく、楽しい日々に気付かせてくれる地平線通信ですね。もうすぐ10年目の田植え。がんばります) 北村敏(4000円 今回は少し遅くなりました。通信費とカンパです) 瀧本千穂子 城水千明 滝川大貴 長塚進吉 古山隆行・里美


習性?

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奈良展覧会 後記

■今回の展覧会も地平線の方々に見ていただけて、ほんとうに嬉しいです。ぼくにとっての展覧会は、「妄想の旅路の報告会」です。

◆「母の介護時代」は、年間200日くらい帰省していたこともあるので、ほぼ2人暮らしでした。ですので、介護時代の「母」からの影響と存在は多大だったと想います。「母」は、とてもリアルな存在でした。

◆旅は一緒には行けませんでしたが、母もぼくもそれぞれの「妄想」の旅をしており、ともに暮らしていると、母のこころの中の旅先が、だいたいわかってきます。「ぁあ、、、また あそこらへんへ 行ってるんやなぁ」とか。なので、母のこころのなかの感覚的な「そこらへん」へ行ってみる。すると、「やっぱり ここに おったんやねぇ♪」と、せん妄から、現実界の「いま」「此処」へと、いっしょにもどることが成せました。こころのピントをサーチしてゆく、そんな旅路でありました。

◆母の他界後、ぼくは、とても困りました。母との時間が重みを増していたぼくにとって、「世界」が消滅したみたいな感じでした。

◆妄想は、行ったり来たり、右往左往、足元定まらず、無重力を落下し続けてるような。行くところも、還るところも失っているような。不確かなタイムトラベル。リアルとリアリティの交錯。そのような旅路の経緯のなかで、ぼくは、「自分」を見つけてゆきました。

◆過去の創作ノート(1995)を久しぶりに振り返り、その頃の自分がたしかな「ベクトル」を持って、「今」「此処」へとつながっていることを知りました。その「つながり」を知ったときに、なんだか、自分は、まだ「創ることが成せる」と感じました。「生きることができる」というか。あたらしい「なにか」を できる、と想いました。自分が、1995年の頃のコンセプトをずーっと維持更新しつづけていたこと。自分が、「なにも」やめていなかったこと、あきらめていなかったこと

◆そして、すこしずつ すこしずつ つくりはじめることが成せました。ずーっと前の「自分」の手記媒体にレスキューされましたと云うことで、今回の「奈良個展2025」は、作者本人にとってポイントとなる作品を選んで、新作といっしょに会場空間を創ってゆきました。過去の作品は回顧するためではなく、「今の旅路」をめぐるために必要でした。全空間 いまここの「ぼく」です。

◆奈良「ギャラリー勇斎」での「ちいさくて おおきい おおきくて ちいさい」展覧会後記です。ありがとうございました。[緒方敏明

作品「罪と祈り」

■染織の専門学校を卒業して30年。在学中から、工芸的なモノを制作してきました。身に纏うモノ暮しの中で使うモノ。商品にする難しさが悩みでした。2年前に縁あって現代美術のグループに参加。使うという目的を考えない作品作りと向き合うことになりました。これが想像以上に興味深く、楽しんでいます。

◆五月初めに開催した東京都美術館でのグループ展では、筒状に織った裂き織りを制作しました。用いた素材は、古い喪服の着物の表地裏地、経年劣化(美化?)した和紙や板等。使い込まれたモノには、年月が作り出した美しさがあって、作品に力を与えてくれます。「大切な記憶が甦って、涙が出そうになった」という方が何人かいらっしゃって、思いもかけないその言葉に感動しました。嬉しかった。ありがたいことです。

◆展示のテーマは「人間を問う」。私の作品タイトルは「罪と祈り」としました。以下、作品に込めた想いです。「人はそれぞれの正義をもち、祈る。罪を犯すこともある。信仰の深さが善とは限らないし、罪人と悪人は違うようにも思う。人は矛盾を抱え、それはどこまでももつれ合ったまま。とはいえ、世界がよくなるように祈り、できることを考えていくしかない。誰も殺されない、殺さない世界のために。それは私の祈りだけれど」

◆還暦すぎて出会った新しい世界。広がったり深まったりして、さらにどこかにつながっていくかもしれない。いくつになっても毎日を新鮮に暮らしたいと思う。[ナカハタトモコ


長野亮之介カフェ個展「ケセラセラ」

日時:6/12(木)〜17(火) 12:00〜18:30
場所:器とカフェ「ひねもすのたり」(ワンドリンクオーダー)
  (阿佐ヶ谷駅北口から徒歩2分)


—— 連   載 ——
モンゴル音だより2025

その3 「Огцрох Амархан!(オクツロホ アマルハン!)

大西夏奈子 

■5月13日夜9時、モンゴルの首都ウランバートルにあるチンギスハーン国際空港に到着した。16〜18日にスフバートル広場で開催されるブック・フェスティバルに、初めて出店するためだった。

◆到着した翌日、現地の友人たちが「バッグ」に関するジョークをやたらと口にするのが気になった。Facebookを眺めると、「私は広場に行く、みんなも行こう!」という書きこみを何度か見かけた。どうやら、若者たちがスフバータル広場に集まり、今まさにデモを始めるらしい。抗議の対象はオユンエルデネ首相。首相に辞任を要求するのが目的だという。

◆14日の昼、カメラを持って私も広場へ向かうと、そこには拡声器を手に聴衆に訴えかける若い男性がいた。ノーロクという独立系メディアでリーダーを務める青年だと、見てすぐにわかった。彼の前に座る参加者たちが手にするプラカードには「オクツロホ アマルハン」と書かれている。直訳すると「辞めるのは簡単だ」で、デモのスローガンらしい。ざっと見る限り、数百人くらいいるだろうか。彼らの目の前に国会議事堂がある。

◆なぜ、デモが起きたのか? ことの発端は、オユンエルデネ首相(40代前半)の息子(20代前半)の婚約者の女性が、インスタグラムに投稿した内容だった。それによると彼女は彼からシャネルのバッグや高級車を贈られ、プロポーズのときはヘリコプターを使って高級リゾートで花火を打ち上げてもらい……という贅沢すぎる生活を送っていた。これに対し、働いても働いても生活が楽にならない一般市民、とくに同世代の若者たちの怒りが燃えあがった。「20歳そこらの青年が、どうしたらそんな大金を使うことができるのか? どうせ父親からもらったんだろう、その金は国民の税金なんだろう!?」と。

◆ブック・フェスティバルの最中、広場の向こう側からときどき「オクツロホ アマルハン!」のシュプレヒコールが風に乗って聴こえてきた。出店最終日の18日夕方には、フェスティバルの敷地内を「オクツロホ アマルハン!」と叫びながら、若者たちが一周した。参加者の数は初日より膨れあがっていた。

◆退任を求める署名の数が4万人に届いたと数日前に聞いたばかりだが、広場で署名を集めていた担当者に改めて尋ねると「7万人になった」という。裏どりできていないので、この数を信頼していいのかわからない。しかし人口350万人の国で、抗議のうねりがかなりの勢いになっていることが伺える。

◆肝心の首相は、息子が自身でビジネスをしていることを強調しているようだが、国民は納得しない。汚職の話題が絶えない政府に対する絶望と怒りは、今に始まったことではなく、これまで何度もデモが行われてきた。ただし今回の特徴は、20代の若者が率先して拳を振りあげていること。「オクツロホ アマルハン」は果たして現実になるのか? これは革命の始まりなのだろうか?


先月号の発送請負人

■地平線通信552号の印刷、発送作業は4月16日、無事終了しました。今回も長岡のり子さんの手作りあんパン(運び人 長岡竜介さん)のほか、古山里美さんから登米のだし煎餅、落合大祐さんから「黒糖ドーナツ棒」の差し入れがありました。また、中嶋敦子さんのカトマンズ土産、ヤクのチーズが生ハム、パンとともにふるまわれ、いつにも増して賑やかに作業が行われました。

◆なお、印刷はセブンイレブンのマルチプリンター不具合で、別店舗でやりなおしたり、料金返金手続きしたりと初めてのトラブルに見舞われたため、およそ1時間遅れでした。中畑さん、車谷くん、大変おつかれさまでした。作業に参加してくれたのは以下の皆さんです。今回は直前に江本さんからの呼びかけがあったおかげか、久しぶりに参加してくれた人もいました。みなさんおつかれさまでした。あとは江本さんがあす寝坊しないことを祈ります。[この項、落合

 車谷建太 中畑朋子 高世泉 伊藤里香 久島弘 中嶋敦子 白根全 長岡竜介 落合大祐 塚本昌晃 古山里美 松澤亮 江本嘉伸

◆落合君の心配がもろにあたり、翌17日朝、江本が買っておいた羽田空港行きバスが6時40分武蔵小金井発車というのに目が覚めたのは6時25分。荷物はまとめておいたので5分後には飛び出し、連れの北村節子が車で飛ばしてくれたが折悪く赤信号がやけに長く目の前で空港行きバスは発車してしまった。すわ!と次に止まるはずの調布まで追っかけ、なんとかそこで乗れたが、なんと購入済み2000円のバスチケットは無効、もう一度2000円払うことに。皆さん、北海道行く時は十分寝てからにしよう。[E


江本さんが能海寛の故郷でなしとげたこと

■はじめて投稿します。いつも通信をありがとうございます。毎号の通信を読ませてもらいながら『地平線通信』が若さに溢れていることがなんといっても羨ましいです。ことし私たち能海寛研究会が30周年を迎えたのを機に機関誌『石峰30周年記念号』の巻頭に「地平線550号で考える能海寛のこと」という論考を江本さんに書いていただきました。研究会という狭い世界に閉じこもりがちな私たちにある意味衝撃的な内容でした。その原稿へのお礼の意味を含めて能海寛の故郷波佐(島根県浜田市金城町)と江本さんのつながりについて書かせていただきたい、と思います。

◆私はチベット探検の途中で消息を絶った故郷の学僧、能海寛の事跡を追う「能海寛研究会」の事務局長をつとめています。江本さんと初めてお会いしたのは、江本さんが『西蔵漂泊—チベットに魅せられた十人の日本人』の取材を精力的にはじめられた1990年秋であった、と思います。私が『求道の師 能海寛』(波佐文化協会刊)を発刊した直後であり、チベットを目指した十人のうち、ただ1人生きて帰れなかった島根県出身の能海寛という学僧に江本さんは深く心を寄せていました。

◆その成果が、1999年6月、『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂)として刊行され、金城町で当時の澄田信義島根県知事も参加されて、記念講演と合わせて出版記念パーティーが開かれたのは懐かしい思い出です。ドキュメントだけではありません。『西蔵探検家 能海寛』というマンガ本(画:南一平、原作・シナリオ:江本嘉伸)も2002年3月、波佐文化協会から刊行され、波佐で盛大に刊行記念の会を開きました。

◆そして、これらの著作とは別に地平線会議というユニークなネットワークの活動の片鱗を波佐にもたらしてくれました。1998年3月、ときわ会館で開いた写真展『地平線発——21世紀の旅人たちへ』(波佐文化協会主催)の開催です。写真展のもともとの企画者であった「ノヴリカ」の影山幸一・本吉宣子夫妻が会場設営のために遠路来てくださり、地平線会議の旅人たちが地球のあちこちで撮った写真パネル229点を8日間展示しました。

◆この年の7月には「旅と冒険フォーラム」(能海寛研究会主催)を開催しました。第1部は鹿児島の野元甚蔵さんと江本さんの対談、第2部では東チベットに何度も入っておられた中村保さん、アフリカでリヤカー旅をしてきた永瀬忠志さん、島旅作家の河田真智子さんに登場していただきました。

◆江本さんは波佐に来られて、明治屋旅館で宿泊される際には、必ず、早朝10kmばかり周布川(すふがわ)沿いにジョギングをしていました。聞くところによると40歳になられてからは「毎日10キロ、地球のどこにいても走る」と決められていたとのことです。氷点下35℃の冬のモンゴルや標高4000メートルのチベットの草原でも走り続けてこられたそうです。すごい人です。超長距離ランナーとして知られる海宝道義さんが企画した「しまなみ海道100キロ遠足(とおあし)」(福山城から今治までしまなみ海道づたいに100キロを走る)にも何度も参加され、完走された、と聞きました。

◆そういうご自身の体験からその昔、チベットの地を目指して歩き続けた能海寛の精神に学ぼう、と海宝さんに呼びかけユニークな試みを実現しました。2003年10月「能海寛のふるさと100kmウルトラ遠足試走会」を企画、江本さん自身も走られました。翌2004年の第1回、2005年10月の第2回と3年連続で参加され、いずれも完走されました。自分の足で移動することの大切さを、江本さんは、明治のあの時代、足だけで広大な中国大陸を歩き、チベットに向かった能海寛の旅に託して伝えたかったのだと思います。そして、江本さんは波佐の風景がとても気に入ったようで、国際山岳年(2002年)日本委員会事務局長として日本に「山の日」を提唱された際には波佐の風景がいつも心にあった、と言われていました。

◆地平線通信にはいちいち書かれていませんが、この30年、いかに頻繁に江本さんが能海寛の故郷を訪れてきたかこの機会に知ってほしい、と思います。2018年7月、「能海寛生誕150年記念シンポジウム」では基調講演、コーディネーターをつとめていただきました。あの日は新幹線も止まってしまう嵐の中でした。もう1人のゲストである、奥山直司高野山大学教授と2人をお迎えするため広島駅までタクシーを走らせたことも懐かしい思い出です。

◆能海の資料提供をきっかけとした江本さんとの交流は振り返ってもう35年になります。1979年8月の地平線会議の発足以来、1月も休まずこの価値ある活動を続けてこられたことにあらためて心からの敬意を表したい、と思います。[隅田正三 島根県浜田市]

『石峰30周年記念号』を拝読して

■能海寛研究会機関誌『石峰30周年記念号』を拝受いたしました。ありがとうございます。体調思わしくなく、めったに外にでず、階段も降りません。同誌をお送りいただいたというので、半月ぶりにプラのリサイクルを出すことにし、外にでました。ピジョンボックスいっぱいの郵便、ちらし、夕刊の中に、同誌を発見しました。

◆江本さんの力のこもった巻頭論文を一気に読ませていただきました。嬉しく、楽しくなどの形容はあたらない、いわば厳粛にとでもいうような気持ちで読ませていただきました。江本さんのご活動のほぼ全貌が理解できるように書かれていると思いました。何となく江本さんのこれまでを知っているように思っていました。それは地平線通信の巻頭文を読んでいるからだと思います。でも知らないことがいくつかありました。例えば、能海寛のマンガの原作まで書かれていることなどです。

◆また、記念号はとても勉強になりました。濃縮されて記事がつまっています。特に河口慧海と能海寛の関係、清末のヒマラヤへの関心、石峰掲載データなど見ているとすごいの一言です。能海への熱情が伝わってきます。驚きです。翻ってモンゴル関係でこのような情熱を傾けた一点勝負の研究団体はないように思います。うらやましい限りです。西蔵はヒマラヤという高山と西蔵仏教があるからでしょうね。それに理念、哲学があります。そこを江本さんが目指したのはやはり先見の明ありでしょう。

◆モンゴル、西蔵、新疆という内奥アジアに目がくらんだ1人として、江本さんの西蔵はとても理解できます。そしてモンゴルへと関心が拡大されたのも理解できるところです。私も膨大なモンゴル関係書籍の他に、チベット関係の書籍を40冊ほど所有していますし、シルクロード関係の書籍を30冊ほど所有しています。内奥アジアのくくりは、なんとなく人に言えない雰囲気できました。人も私をモンゴルに押し込めようとしているように感じてきました。でも、モンゴル青春まっただ中の時代にも、時事通信出版で「モンゴルよりシルクロード本を書いて」といわれ、心がおおきく揺れたことがあります。モンゴル担当事務官でしたので踏みとどまりました。内奥アジアには夜に咲く毒の花の香りがプンプンしていました。なのに、江本さんは真正面から、昼間に追い詰めるようにされておられます。

◆私のモンゴルへの入口は井上靖の『楼蘭』でした。明大前駅の近くの古書店で文藝春秋に掲載された『楼蘭』を発見してからでした。シルクロードをさまよい、スウェン・ヘディンに懲り、外語大学のモンゴル語に流れつきました。一年生のときフン族匈奴同族論の学会における論争史をまとめ、生意気にも鍵が「九姓ソグド」人にあると突き止め、内陸アジア史研究会誌に投稿しました。ですから江本さんのテーマである『西蔵漂泊』上下を頂戴したとき、心の奥に内奥アジアを秘めている方は私1人でないとのえも言われぬ発見感がありました。ずうずうしく言わせていただけば、密かな同志感です。それとともに上下の大部を書かれた江本さんはさすが一流記者だけあると憧れのてっぺんにあり、うらやましかったのを覚えています。

◆それが30年になり、その間、関連の活動を休みなくされてこられた様子が『石峰』誌からうかがえ、賛嘆の限りといった心境でおります。体力、智力、行動力が備わっておられて、このご活動ができたのだなと思いました。やはり、現代の哲人の1人かも知れません、江本嘉伸さんは。

◆お互いもう高齢ですが、体をいたわり、これからも元気で活動を継続されるよう願います。[花田麿公

イラスト-2

  イラスト ねこ

10年ぶりの地平線

■2015年に法政大、そして同探検部を卒業して以来、10年ぶりに報告会に参加した。地平線との縁は、岡村隆さんが隊長を務めたスリランカ密林遺跡調査の2010年隊の活動報告がきっかけだ。1年生隊員として少しだけ壇上で喋らせていただき、その後の二次会でパキスタンや北朝鮮など各地を深く知る皆さんの体験談に驚かされた。ちょっと海外に行って旅慣れた気になった自分を「まだまだだ」と戒め、報告会にときどき通うようになった。探検部では南米ベネズエラの密林に潜むとされる巨大猿の未確認生物「モノス」の伝承を調べる遠征を2回行った。2度目の遠征を終え、間もなく就職した。

◆何度かの転勤を経て、この春に4年過ごした大阪から戻ってきた。早速足を運んだ地平線は当時とまったく変わらない姿で続いていた。ただ、登壇された安平さんの話は新鮮だった。少し遅れて入室した際に流れていた、SNSで繋がった友人と国を回られていた写真は、どこを切り取ってものどかな風景。多様な質問によどみなく答える安平さんのお話もあり、アイスランドに一度は行きたいと思わされた。10年どころか40年以上続く集いの場が健在だったことも合わさり、土砂降りの外とは裏腹に晴れ晴れした気持ちになった土曜日だった。

◆今は新聞社で報道カメラマンをしている。2023年から戦闘が続くスーダン紛争に関心があり、昨年秋にアフリカ最大の難民受け入れ国・ウガンダの難民居住区を取材した。約1500kmの逃避行を経て居住区に辿り着いたスーダン難民たちは、爆撃で傷ついた体を十分に治療できず、戦闘や家族を失ったトラウマに苦しんでいた。他にもコンゴ民主共和国や南スーダンといった隣国からの難民や、国内でも反政府武装勢力「神の抵抗軍」(LRA)に誘拐された元少年兵を撮るため各地の居住区を訪ね歩いた。約1か月半、ウガンダ国内をほとんど1周する旅程になった。上京してすぐに地平線に足を運んだのは、久々の長旅で懐かしい気持ちになったからかもしれない。

◆沢や雪山は仲間と細々と続けている。初任地の甲府支局時代に山で電話に出られなかったことが災いして上司から「登山禁止令」を出され、一度は山とも疎遠になった。近年は少し持ち直したものの、長女も産まれてまた危うい日々だ。ライフワークのネイチャー撮影と合わせて何とか続けたい。

◆久々の地平線、覚えていてくださった方もいて嬉しかったです。転勤を機にまた通わせていただきます。[滝川大貴

地平線で繋がっていることへの驚き

■北海道大学環境科学院に入学して早々、地平線通信の読者で北大探検部の赤嶺直弥くんに声をかけてもらいました。偶然同じ授業を受けていて、通信で北大に進学すると書いていた私の名前を覚えていてくれたそうです。何度か探検部の活動に参加させてもらい、探検部OBで2019年6月の報告者である五十嵐宥樹さんにもお会いしました。先日は五十嵐さんらが所有する「ちえん林」にお邪魔して、白樺の樹皮剥ぎを体験させてもらいました。次は「ちえん荘」に伺い、ゆっくり話ができたらと思っています。

◆地平線通信を介して繋がりが生まれることに、日々驚いています。3月の報告会レポートを書き終えたとき、江本さんが「自己紹介の意味もあり、通信は大事な武器になるよ」と言ってくれましたが、まさにその通りでした。北海道に来て、地平線会議を知る人に何度も出会い、みなさん本当に良くしてくださいます。冒険家でも探検家でもない、普通の女子学生の私を受け入れていただき、ありがたく思います。通信への投稿、報告レポートの執筆を任せてくれた江本さんには深く感謝しています。来年の地平線北海道では、西興部村にたくさんの仲間を連れて行きたいです。[杉田友華

イラスト-3


エモの目

「青春日記 〜中高生編〜」

編集長が14歳(日記のスタートは1955年6月22日)から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

1956年5月11日(15歳)

◆懸念されたカリエスの心配もなくなって父さんはもう非常によい。来週からは勤めに出るそうだが当分休ませてあげたい。大体、僕等は父さんがもし亡くなったとしたらどれほど生前に孝行しなかったことを悔やむかわからない。ついでに考えると何故兄さんは「もう一生懸命でやるだけやります」と言わないのだろう。毎日ゴロゴロしていて母さんが怒るのも無理はない。そう言ってくれたら父さんばかりでなく僕等まで嬉しい。まさか兄さんは「父と子」のバザーロフのような虚無主義者ではあるまい。

1956年6月24日(日)(15歳)

◆今、午前4時15分 心配していた雨も降っていない。行ってくる。しかし、帰ってきた頃は足が棒だろう。トラックに早く乗りたい。《神奈川県主催の丹沢登山教室に申し込んでの丹沢表尾根登山。駅から山麓までトラックで送ってくれた》

◆5時26分横浜駅行きの電車に乗った。上星川というところに着いた。小田急本厚木駅まであと45分くらい。2両の小さな電車。一番前にリュックを背負った小学生が立っていて、その父らしい男が水筒を持って座っている。僕の前に外人が1人、3人連れの日本人の男女が座っている。ナタを持ってリュックを床に置いて。手に持っている本を見ると「丹沢」と書いてある。3人とも僕と同じ運動靴。

◆鶴ケ峰駅。「野沢屋」とか「反町東映」とか書いてある広告でまだ横浜市内とわかる。それでも田園風景がだんだん大きくなって僕の目に映る。空は曇っていて、これでは丹沢も見晴らしがよくないだろう。前の3人は読売新聞を広げて日曜クイズというのをやっている。「こんなのわかんねえなあ」とか言っている。女の人は可愛い顔で、笑うともっと可愛い。

◆いま、6時15分、希望ヶ丘駅に着いた。家はだいぶあるが、畑が広々として美しい。少し涼しいな。山が見える!! 丹沢だろうか。下の方は雲がかかっているが、広々とした畑と調和して見事だ。どこが本厚木かわからないのでノートをしまう。6時45分本厚木駅。山の方の空が晴れてきた。良い気持ちだ。家ではまだ寝ているだろう。

◆6時57分、小田急に乗り換え。さっき海老名で降りた3人が前の車両に乗っている。山ははっきり見える。しかし、雲が多い。集合場所の大秦野駅へ7時15分着。今、僕の見ている山はすっかり雲も取れ、はっきりしているけれどもう8時になってしまった。45分間もぶらぶらしているわけだ。

◆ようやくトラックが来た。子どもの参加は僕1人だけだ。女性が5人。荷台で1時間20分ほど揺られる。10時15分、大平山へ着く。ワイシャツがいつの間にかびっしょり。手帳にも水がしみている。お姉さんにアメをもらった。よく持ってくる。キリで何も見えない。女性たちははじめからバテていた。とにかく歩き方がゆっくりで、歯がゆかった。

◆11時、三の塔、通り過ぎ。12時、行者ヶ岳。昼食を食い終わったが、飯が冷たく風も冷たいので寒い。セーターを着た。ホトトギスの啼き声がほうぼうから聞こえる。キリが周囲を包んで山は全然見えない。空と陸の区別が全くつかないのだ。キリは煙のように押し寄せる。

◆足は案外平気。1時半、塔ケ岳(塔ノ岳)へ着いた。少し雨が降っている。キリは最高潮。そばに近づくまで大きな山小屋が見えなかった。塔ケ岳山荘に入る。そこのお茶のうまいこと。こんなにうまいお茶ははじめてだ。大勢の人が小屋に入ってお茶を飲み、語り合っている。良い雰囲気だ。

◆3時20分前、キリが晴れて周囲の山の雄大な姿が見える。3時6分、全くキリ晴れた。富士も裾野から頭の方まで少し顔を出していた。水、神の水。


今月の窓
2026年初秋

地平線報告会 in 北海道 西興部村

西興部村訪問記

■地平線通信4月号を出した翌日、北海道に飛んだ。3月報告者、梶光一農工大名誉教授が同行してくれるという贅沢な旅。結果的にそれがありがたかった。西興部村へは2度目になる。最初は20数年前だと思う。マタギサミットを主宰している田口洋美さんに同行しての訪問ですでにエゾシカを獲って食べるシステムは実践に移されていた。家々の屋根、壁がオレンジの色に統一されたヨーロッパ風のたたずまいが印象的な美しい村。旭川ちえん荘の皆さんはじめ多くの北海道関係者と相談してきたが、いま、地平線が学ぶ現場としてはオホーツクに近いあの村が一番ではないか、との思いが強まり、再訪を決めた。人口1000人足らずの村が日本中に吹き荒れた町村合併の嵐を乗り切り、村を維持してきたことへの深いリスペクトもある。

◆現地では旧知の伊吾田宏正酪農学園大学准教授(2008年3月地平線報告者)が教え子の上原佐登さん、川合慧さん2人と待っていてくれた。まさに鬼に金棒である。西興部村の菊池博村長、吉田且志副村長ほか村の皆さんとお会いして地平線会議とは何か、どうしてこの地で地平線をやりたいのか、刷りたての地平線通信552号を差し上げて説明し協力をお願いした。村に住んでいる伊吾田さんの弟、順平さんも2日間本気でつきあってくれた。この短い旅で見聞きしたことは、川合さんが以下に正確にまとめてくれた。あらためてありがとう、を申し上げる。さぁ、皆さん、2026年初秋、西興部に行こう![江本嘉伸

西興部村で鹿肉を食べながら、日本の野生動物問題について考えませんか?

■酪農学園大学環境共生学類狩猟管理学研究室の准教授をしている伊吾田宏正です。出身は神奈川県横浜市で、江本さんの高校、神奈川県立横浜緑ヶ丘高の後輩になります。2008年3月に「鹿撃ちサバイバル奮闘記」というお題で地平線報告会で西興部村のエゾシカ管理の取り組みについてお話しをさせていただきました。面積の8割を森林が占めていて、酪農業も盛んな西興部村は、エゾシカの良好な生息地となっています。村全域は2004年から鳥獣保護管理法に基づく猟区に指定されていて、エゾシカのガイド付き狩猟による地域主体の野生動物資源管理が行われてきました。

◆私は北海道大学でエゾシカの季節移動に関する研究で博士号を取得した後、2004年から3年間、西興部村猟区の立ち上げに参画しました。その後は、弟の順平が後を継いで、猟区の運営を担っています。主に本州方面から年間100名以上のゲストハンターが村を訪れ、200頭前後のエゾシカを捕獲して、地域経済にも貢献していただいています。

◆2007年に酪農学園大学に移った後も、西興部村を研究フィールドとして、学生たちとエゾシカの生態や捕獲などに関する調査をしています。本学には、野生動物学コースがあり、西興部村ではエゾシカの捕獲や解体などに関する学生実習も実施しています。さらに、私が理事をしている一般社団法人エゾシカ協会が英国の制度をモデルに創設したシカ捕獲認証制度の実習フィールドとしても活用されています。これは、近年慢性的な社会問題となっている野生動物との軋轢に対する専門人材を育成する画期的な取り組みといえます。

◆このように、総合的な野生動物管理のフィールドである西興部村で、地平線報告会が検討されていることをとても嬉しく思います。来年ぜひ一緒に、西興部村で鹿肉を食べながら、日本の野生動物問題について考えませんか?![伊吾田宏正


〜 北海道で学ぶ学生たち 〜

「西興部村へ地平線会議上陸」を実現させたい

■先日江本さんの西興部村視察に同行させていただいた酪農学園大学大学院博士課程1年の上原佐登と申します。西興部村を何度も訪れている私にとっても、新しい出会いと学びの多い視察でした。以下に簡単な私の自己紹介と西興部村についての簡単な紹介を記させていただきます。

◆沖縄県の宮古島という小さな島を出て、大学進学をきっかけに北海道の大地で生活し始めて7年目になりました。両親の趣味の狩猟に影響され、野生動物に興味を持ち、酪農学園大学の環境共生学類に入学を決めた私にとって、北海道での大学生活は毎日が刺激的です。特に大学構内にて人生で初めて野生のエゾシカを見たときの感動は忘れられません。

◆そんな体験もあり大学3年時には、エゾシカの研究者で、過去に地平線会議で報告したことのある伊吾田宏正准教授の「狩猟管理学研究室」に所属することになりました。研究室に配属されてからは、日々様々なフィールドでエゾシカに関する調査・研究を行っています(私個人としての研究対象はエゾシカではなく、インドクジャクなのですが、その話はまた別の機会にさせていただます)。

◆今回視察した西興部村も我々の研究室が以前から調査をさせていただいているフィールドの一つです。初めて調査で村に行き、広大な牧草地に大きなエゾシカの群れを見たとき、北海道のスケールの大きさに圧倒されました。さらに研究室としての調査だけでなく、環境共生学類の野生動物コースの学生実習も毎年夏と冬に実施しており、私は伊吾田先生の補助として参加しているので、年間3〜4回ほど西興部村に行く機会をいただいていることになります。

◆しかし、何度訪れても毎回新しい学びや発見があるのが西興部村だと感じています。冬は1m以上の雪が積もる中、樹皮剥ぎをするシカや雪の上のシカの足跡などを観察できます。夏は袋角が大きく伸びてきた夏毛のシカが、デントコーン畑や牧草地周辺に出てくるのをどう防いだらいいのか考えます。春は小さな子鹿を連れたシカを横目に山菜を探したりもします。

◆地平線会議が西興部での報告会を実現されるとしたら季節は秋を検討されているとか。参加する皆さんが、秋の西興部村でどんな生き物や景色を見て楽しんでいただけるのか今からとてもワクワクしています。「西興部村へ地平線会議上陸」が実現した際には、皆さんと一緒にエゾシカ肉を食べ、お酒を飲みながら、色々なお話ができるのを楽しみにしています![上原佐登

西興部村に就職したい!

■酪農学園大学環境共生学類の狩猟管理学研究室4年生の川合慧です。出身は札幌市です。同大学の自転車部に所属をしていて、自転車で長距離のサイクリングをすることが好きです。自転車で目的地などを決めずに走ったりしています。

◆大学の実習で2025年2月9日から2月12日の間、滞在したのが初めての西興部村でした。そして、4月17日から4月19日に、江本さん、梶さんを案内するお手伝いで、伊吾田先生たちと訪れたのが2回目でした。今後は、6月上旬に西興部村の小学生向けの環境教育などの手伝いに行くことも予定しています。西興部村の村民の方々はとても接しやすく人柄も暖かいので、西興部村役場に就職することを考えています。

◆4月17日から19日に西興部村を見て回り、西興部村は他の地域と違う魅力があると感じました。村全体が猟区になっているため、住宅街のすぐ近くにシカ肉処理場などがあります。そこで解体されたシカの皮もクラフトなどに加工され、村のお土産やふるさと納税の返礼品になっています。他にも養鹿場があり、シカを間近で見ることができる施設もあります。村の建物は条例に基づいて、屋根が緑色で、壁がオレンジのものが多く、海外の街並みのような色合いです。村の周りは自然豊かで、山などもとてもきれいな景色でした。村全体がシカを中心とした自然との共存を目指していると感じました。[川合慧


1万円カンパのお願い

■地平線会議がいよいよ北海道に上陸します。価値あるイベントになると思いますが、遠隔地での開催はどうしても経費の問題がのしかかります。空港から現地を往復するためのバスチャーター料などかなりの出費が予想されます。今回はとりわけ若い人を中心としたものにしたいのでなおさらです。そこで、久々に「1万円カンパ」を募ります。若者を応援したりイベントを盛り上げるために、ぜひご協力ください。

■「1万円カンパ」の振込先は以下の銀行口座です。協力者のお名前は毎月の通信で報告いたします。[江本

みずほ銀行四谷支店 普通 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸


地平線会議 西興部村視察報告

作成:川合慧 令和7年4月25日 

◆参加者

江本嘉伸、梶光一、伊吾田宏正、上原佐登(酪農学園大学大学院博士課程1年)、川合慧(酪農学園大学3年)

◆2日間の流れ

4月17日 16:00〜17:15 西興部村役場にて地平線会議の説明、意見交換
対応者:菊池博村長、吉田且志副村長、西興部村養鹿研究会高畑秀美さん、西興部村猟区管理協会中原慎一会長、伊吾田順平事務局長

4月18日 9:00〜15:00 施設の視察
ライフル射撃場、道の駅フラワーパーク花夢、GA.KOPPER(宿泊施設)、西興部公民館ホール、鳥獣処理加工センター「西興部ワイルドミート」、森林公園ログハウス、森林公園キャンプ場、鹿牧場公園

◆西興部村の特徴

紋別郡西興部村は北海道オホーツク総合振興局管内に位置し、面積約308km2の酪農と林業の山村。人口は2025年3月時点で937人。今年開村100周年を迎えた。2004年10月にほぼ全域に鳥獣保護管理法に基づく猟区が設定され、エゾシカのガイド付き入猟事業や野生動物管理の担い手育成事業などが行われている。景観条例によって、公共施設など多くの建物の外観がオレンジ色(壁)と緑色(屋根)などに統一されている。

◆施設概要

1.ライフル射撃場
平成26年9月15日から利用が開始された。日本では、猟区内に射撃場があるのは西興部村だけ。猟友会西興部部会に管理されている。

2.道の駅フラワーパーク花夢
4月〜10月の間、約500種類の花が見られる。屋内には大型のからくりオルガンがあり、ステージで58体の木の人形が動いて、何十本もの木製の笛に鞴から風を送って演奏する。毎週火曜日が休館日。https://www.vill.nishiokoppe.lg.jp/section/kamu/kamu.html

3.GA.KOPPER(ガコッパー)
元中学校の建物を使った宿泊施設で浅野和さんが運営している。学校裏には竪穴式住居がある。浅野さんはバイクで国内外を旅した経験があり、全国からライダーなどが訪れる。GA.KOPPERの部屋は1部屋ごとに特徴があり、壁に羊の毛が入っている部屋や、酒樽の中で寝る部屋などがある。ワーケーションルームもある。食事の提供もある。自炊も可能。https://gakopper.com

4.西興部公民館ホール
ホテル森夢に直結しており300人収容可能。ステージがあり、ステージ後ろに吊り看板がある。パーテーションを使うことにより、半分に分けることが出来る。

5.鳥獣処理加工センター「西興部ワイルドミート」
村内で捕獲されたエゾシカやヒグマなどが食肉処理される。村内の田尾商店で購入可能。革なめし加工施設が隣接し、加工された革小物がホテル森夢や道の駅で売られている。

6.森林公園ログハウス
ログハウスは1棟につき8人まで宿泊可能。ベッドが5台、貸し布団が3組ある。キッチンがあり自炊可能。ユニットバス付き。

7.森林公園キャンプ場
キャンプ場はログハウスに隣接しており、約30m×40mの芝生となっている。キャンプ場にはBBQ用の東屋が3セットあり、1つ当たり10人程度利用可能。

8.鹿牧場公園
森林と牧草地を含む約7haの敷地に現在約20頭のシカが飼育されている。観光用に餌が販売されていて、餌やり体験ができる。

◆宿泊施設について

宿泊施設名  宿泊人数  ホテル森夢との距離  食 事 
GA.KOPPER 20人 5.4km あり
ホテル森夢 約50人 あり
森林公園ログハウス 16人 400m なし
森林公園キャンプ場 400m なし

◆その他の施設とホテル森夢との距離

施 設 名  距 離 
ライフル射撃場 7.5km
道の駅フラワーパーク花夢 6.7km
鹿牧場公園 3.9km
西興部ワイルドミート 600m
セイコーマート(コンビニエンスストア) 400m
Qマート(スーパーマーケット) 300m

あとがき

■取材を日常の仕事としてきたため、中学生時代の日記だけでなく記録ノートがどさりとある。フロントで書いたモンゴル遊牧草原での出会いも古いノートを引っ張り出して事実を確認することができた。何度か断捨離を考えたことがあるが、捨てないでよかった。

◆モンゴル通いの中でこうした取材ノートが貴重なのは、「社会主義時代とは何であったか」との記録でもあるからだ。モンゴル人民共和国は1924年に誕生し、1990年に崩壊したが、私はまさにその現場に居合わせたかたちである。

◆今月の報告者、北村節子氏はこの1、2年幕末から近年までの日本女性の山登りの足取りを丹念に追っている。いつか本になるのだろう、と思うが今月の報告会でその片鱗が窺えるのではないか、と思う。半世紀前のエベレスト話とは別に昔の、そして現代の、女性たちの行動意識を追っている北村報告に私も期待している。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

天空の頂に憧れて

  • 2025年5月31日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「初めての山は中学の学校登山。アイロンかけた白い綿のトレパンで木曽御嶽だわョ」というのは北村節子さん(75)。長野県営林署員の父の赴任先、南木曽での体験でした。「すっごく楽しくて、山ってすごい!って」。

昆虫や草花好きの優等生少女の目からポロリとウロコが落ちました。お茶の水女子大時代は単独山歩きに熱中。夏休みは北アルプスで林野庁のアルバイトに明け暮れ、冬山にも挑みます。

読売新聞社に入社した70年代初頭、発足直後から話題の“女子登攀クラブ”がエベレストに挑戦の報が。早速取材した田部井淳子副隊長に一目惚れし、即座に隊員に志願します。記者も登山家も駆け出しの北村さんは当時25才。会社に長期休暇を取って参加した隊は、幾多のトラブルを越え、75年5月16日に女性世界初登頂に成功。

北村さんは田部井さんと妙にウマが合い、以降も世界七大陸最高峰をはじめ、アイガー、シシャパンマ、マッターホルンなど各地の高峰でバディを組みました。

女性のエベレスト初登頂から50年の今月、北村さんに女性登山の歴史や、大好きな山にまつわるアレやコレ、ココだけのハ・ナ・シを語って頂きます!


地平線通信 553号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2025年5月21日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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