2023年4月の地平線通信

4月の地平線通信・528号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月10日。いつになく早起きして新聞を取りに行くと、空は晴れ渡っているが、風はひんやりして寒い。この後気温はどんどん上がり、20度を超える予想らしいけれど。

◆新聞もテレビもきのう行われた統一地方選挙の結果に追われている。私は維新の活躍に驚いた。大阪府と大阪市の首長に勝ったのもそうだが、奈良県知事の席も維新の山下真候補が奪ったのだ。東大、京大を出て、朝日新聞記者(1年足らずだが)を経て弁護士、生駒市長という経歴もものを言ったのだろうが、気になるのは「最大野党」立民の絶望的沈下ぶりだ。

◆ハワイに居住し、日頃は南米でフィールド調査にあたっている吉川謙二が、3年半ぶりに帰国、その歓迎会が3月28日、新宿で開かれた。この席になんと吉川君の娘さんがいたのでびっくり。そして今頃は帰路一直線かと思っていた63次南極越冬隊長、澤柿教伸さんが新宿の歓迎の席にいたのでほんとうに仰天した。え? ジェット機でもチャーターしたの? そんなことはない。経緯はご本人に聞いてください(2、3ページ)。80才以上の方は参加費免除とこの席では決められ、私は奢られてしまった。ありがとう、と申し上げるが、今後は平等に払わせてね。でないと参加できなくなるから。

◆4月5日、ムツゴロウさんが亡くなった。87才だった。とてつもないスケールの動物好きという点でひそかに敬愛するお人だったが、私にとって他人事ではなかったのは、お前さん、ムツゴロウにそっくり、と多くの人に言われ続けてきたからである。あ、ムツゴロウさん、と呼びかけて慌てて口をつぐむ人もいた。違うだろう、ムツゴロウはもっとインテリだよ。いろいろ裏の苦労はあったのだろうが、あれほど奔放に自分の王国を作って自分のペースで生きた人はいない。とてつもないマージャン師でもあったことなど私には及びもつかないけど。

◆4月7日、墨田区のたばこと塩の博物館に行く。面白い展示をやるので以前渋谷にあったときはたまに覗いていたが、川向こうに移転してからはすっかりご無沙汰だ。スカイツリーから数分と聞いていたので錦糸町駅からともかくスカイツリーを目指す。高さ634メートルという世界一のタワーに近寄るのは実ははじめてだ。2012年2月に完成したのに予約チケットを取るのが面倒だし、あまり人混みに入りたくない。この日も18時過ぎまでチケットは買えない状況だったのでツリーの根元だけ拝見して満足し、5分ほどさらに歩いて博物館に着いた。

◆「インドネシアの絣 イカット クジラと塩の織りなす布の物語」。1月21日から4月9日という長い期間の展示だったが、きのう終わった。佐藤安紀子さんの2月の通信の記事(通信をお持ちの方は、10ページ「スカイツリーの舌クジラと生きる村が出現」をお読みください)で知ったのについぎりぎりになっての見学になった。

◆「イカット」とは東部インドネシアで織られる絣(かすり)織物のこと。インドネシア東部ラマレラ島では男たちがマッコウクジラを手漕ぎの小舟で仕留める勇壮な猟が知られているが、女性たちは塩づくりや機織りで暮らしを支える。「イカット」とその代表的な作品で元沖縄国際大学教授の江上幹幸(もとこ)さんはパートナーの小島曠太郎さんとともに島に通い、1000点にのぼるコレクションを集めた。

◆お二人は2008年、浜比嘉島で私たちが行った「地平線あしびなー」に参加してくれ、素晴らしい写真で会場を圧倒した。その記録を『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』という写真満載のムックにまとめ、県教育委員会の賛同を得て沖縄の全500校の小中学校に贈呈した。私がスカイツリーまで出かけたのはそういうご縁もあったからだ。

◆ウクライナ情勢についてはメディアにかっての勢いはないが、アメリカのシンクタンクの「戦争研究所」は8日「侵攻するロシア軍の攻撃ペースが減速しつつある」と指摘した。ロシア軍の砲弾不足が背景にあるという。ウクライナの反転攻勢が予告されている夏前の時期、当面の戦況が気になるが、キーウはじめ電力は回復しつつある、というのは少しほっとする情報である。

◆この3年、毎月20日過ぎに出していたこの通信を今月はきょう10日に出す。コロナ禍でずっと休んでいた地平線報告会を再開するからだ。若い読者の中には想像できない人もいるだろうが、地平線会議は1979年8月にスタート以来、毎月毎月、旅や冒険のナマの報告会を実施してきた。もともとこの地平線通信は、その告知のためのメディアだったと言ってもいい。復活初回の今月は22日の土曜日午後(これまではずっと第4金曜日の夕方だった)、小松由佳さんを報告者として行う。最後のページ、長野画伯によるその告知は3年半ぶりの本来の使命復活である。[江本嘉伸


地平線ポストから

“生涯の南極”から帰ったら吉川さんがいた

■江本さま 地平線の皆様。2月1日に、樋口越冬隊長率いる64次越冬隊に昭和基地を引き継ぎ、すぐに砕氷船しらせへと収容されて帰路の船上の人となりました。お役御免となった越冬隊が船上でこなすべき残務と言えば越冬報告をまとめるぐらいのことしかなく、一年間の緊張が解けた反動でついつい自堕落な船内生活に陥りがちでした……。この隊に限らずこれはどの越冬隊でもそうなってしまう風物詩のようなものではありますが……。とはいうものの、南極海を東に進みながら海洋観測もしつつ大陸の外周をほぼ1/4周して過ごした50日間の船旅は、帰国後の社会復帰に向けてのリハビリ期間として、あらたな鋭気を養うよい機会となりました。

◆3月20日に西豪州のフリーマントルに帰着して、晩夏の緑がまぶしい中に人工的なビル群が建ち並び、人や車が行き交う光景に久しぶりに触れて、ようやく文明圏に戻ってきたことを実感しました。当初は、ここからさらに赤道を経て北上する日本までの航海に付き合わされるところでしたが、昨年末から西豪州のコロナ規制が緩和され、我々の豪州本土への上陸も特段の条件もなく許され、パースからは空路で帰国することが可能となりました。おかげで、下船した翌22日の深夜に羽田空港に帰国し、実に512日ぶりの帰還となりました。

◆一息つく間もなく、翌日からは南極研究をずっと共にしてきた極地研究所の先輩がたの定年退職記念講演を聴いたり、都立大学で開催された地理学会の春の定例学術大会での招待講演に出席したり、さっそく4月から再開する大学のゼミへの参加を希望する学生向けの説明会を開催したり、とめまぐるしい日々を送っています。まだ娑婆に順応し切れていないというのに、こうして強制的に国内での仕事が始まって、怒濤のように流れ込んでくる刺激に翻弄されています。

◆新年のご挨拶代わりに江本さん宛にお送りした1月のメールにも書きましたように、昭和基地で次の越冬隊の到着を待っていた我々は、11月以降に連続ブリザード攻撃に見舞われていました。昼夜におよぶ本格除雪作業は熾烈を極めましたが、その記憶は帰路に就いた船上にあってさえ多くの隊員の中にトラウマとしてとりついたままのように見受けられました。

◆今となってみれば、夏期オペレーション開始時に昭和基地に残留していたのがわずか26名、という越冬隊だったのです。前代未聞の大量の積雪という苦境にあえいでいた小数部隊を指揮する隊長として下した判断は、自分たちだけで問題を抱え込むことはせずに早々にギブアップ宣言を出すことでした。これによって、しらせ乗組みの自衛隊員や次期観測隊員たちに、同じ南極観測を担うもの同士としての一体意識を喚起し、隊次をまたいだ協力体制でこの苦境を打開することに成功できたのではないか、と思い返しています。

◆実は、私にとって今年は、最初に南極観測に参加してから30年目に当たっていました。その当時の観測隊は第34次越冬隊。それ以来、47次越冬・53次夏・63次越冬と、ほぼ10年おきのペースで昭和基地を往復してきました。はじめの2往復は先代のしらせで航海し、あとの2往復は現しらせ(二代目)での船旅だったことになります。34次越冬明けの35次行動は先代しらせが唯一接岸できなかった夏にあたり、はたして自分たちは帰国できるのだろうか?とまで思ったものでした。また今のしらせ(二代目)になってからの53次でも、再び接岸できない夏を経験しました。そのため、まるで私が乗船しているとしらせは昭和基地に接岸できない、というジンクスでもあるかのように揶揄されたりしたものです。

◆最近の研究で、昭和基地が位置するリュツォ・ホルム湾の氷状は、ほぼ20年を1サイクルとして厚くなったり開放になったりしているということがわかってきています。私の30年来の南極歴はこのサイクルのピークと谷底を忠実になぞっています。34次のピークに始まって47次で一旦薄い時期となり、再び53次で厚くなって、また薄くなったところで今に至る、という感じです。こうしてみると、私のジンクスも決して偶然の産物では無く、10年毎に南極を往復していたことによる、科学的根拠のあるものだったのでした。

◆一方、47〜48次は、リュツォ・ホルム湾の海面がすっかり開いて海洋観測が非常に順調に進んだ年でした。今回の越冬中にもそのときと同様に海氷が流されて沿岸氷上での活動には気を遣いましたが、前回の流出経験が生きて、監視体制の強化とそれに基づく予測的な先読み計画によってミッションを無事に完遂することができました。「亀の甲より年の功」とはよく言ったものです。

◆実のところ、こんなに長いスパンにわたって日本の南極観測隊に現役隊員として参加し続ける人はそう多くはありません。生き字引のようなレアな人間が現場に参加していたことは、公式記録とはちょっと違った視点で過去の経験から学ぶ術を若い世代に直伝する、という面からも非常に有意義なことだったのではないかと思っています。

◆おそらく私のしらせ乗船は今回が最後になるでしょう。でも、自分の研究テーマが南極の自然にある限りは、生涯にわたって南極との縁が続いていきます。南極観測の実施体制の変遷を見つめてきた立場として、その時々の様々な局面を体験してきた立場として、今後も観測隊や砕氷船の動向に関心を向けていきたいと思っています。こうして、30年間にわたる「しらせ」との付き合いに終止符を打ち、感謝と別れを告げて船を下りたのでした。

◆帰国直後には、うれしいサプライズがありました。世界をまたにかけて活躍している吉川謙二さんが久しぶりに来日されるということで、旧知の仲間が集まる会へのお誘いを受けたのです。帰国直後にSNSを通じて恩田真砂美女史からいただいたお声がけはあまりにもタイミングがよすぎて、この界隈の情報連絡の良さとフットワークの軽さにはいつもながらに驚かされました。のんびりと50日間の船旅を帰ってきた身には、これもまた、娑婆の進行ペースの刺激のうちの一つでもありました。

◆さて、南極にまつわる私の30年間を振りかえる話とも関係しますが、吉川さんを囲む会に参集した面々を前にして、今につながる様々な事の起こりが、南極通いを開始した30年前にすでに芽吹いていたことに気づかされました。

◆吉川さんとは、私が北海道大学の大学院に進学した前後の1989年から付き合いが始まります。吉川さんは、琉球大学で学んだ学部時代には、北大山岳部OBでもあり南極やヒマラヤの地質研究の権威として知られる木崎甲子郎先生の門下生でもありましたので、自ら「木崎門下というのは北大山岳部聴講生のようなものだった」とも回顧されています。その意味では、実際にお互いに出会う前からのつながりがあったのだともいえます。

◆南極で越冬したい、という憧憬に突き動かされて大学院にまで進学していた私は、そろそろ夢を具現化するために「研究者見習い」として動き出す時期に来ていると考え始めていました。その思いを込めて進学した研究室に博士課程の先輩として在籍していたのが吉川さんだったわけです。当時でもすでに多くの冒険行を実現していた吉川さんは、寒冷地の自然を探求する専門家を目指して調査研究の修行に励んでいたころでもあり、同時に、南極点への無補給徒歩到達計画のもくろみも水面下で進行させていた時期でもありました。

◆修士課程での研究テーマを探していた私は、進学直後の6月にはネパールのランタン谷へとまず向かってヒマラヤの洗礼を受けると同時に、貞兼綾子さんという大きな存在を知ることになりました。それから帰国した直後の夏休みには、明治大学山岳部顧問だった小疇尚教授が率いるスバールバル調査に参加させてもらうことになり、スピッツベルゲン島で修士論文のテーマに取り組むことになりました。

◆当時スピッツベルゲンでは吉川さんも地中氷の調査を進めていて、多忙な教授陣が短期で現地滞在を切り上げて帰国したあとに、時間も暇もふんだんにあった大学院生が二人きりで居残って、調査を続行したりもしていました。フィールドでの吉川さんのバイタリティに学んだ最初の機会でもありましたが、その調査団には南極観測のベテラン研究者も参加されていて、その方に自分の南極への思いをぶつける絶好のチャンスだ、と吉川さんから強く後押ししてもらったのが最大の収穫でした。おかげで、越冬隊に参加する話はトントン拍子ですすんで、修士課程を終えて博士課程に進んだ年にはもう、私の観測隊への参加がきまっていたのでした。

◆そして夢が実現したのが第34次南極観測隊。越冬期間は1991〜1993年。今から思えば、まさにこの年がキーとなる年だったのです。吉川さんが率いた「アンタークティックウォーク南極点探検隊」がこの期間とまるっきり重なりますし、さらに、昨年他界された写真家の白川義員氏が南極のほぼ全域を撮影したのもこの期間とバッチリ重なります。白川氏の撮影に同行していたのがAkimamaでご活躍中の滝沢守生さんであり、それともう一人、私の北大での卒論同期生であった新宮弘久君だったのでした。

◆実は、吉川さんが率いた「アンタークティックウォーク」の実質的な隊長格は、当時ずば抜けた登攀力で注目されていた明大山岳部の大西宏氏でした。しかし、南極行きを目前にしていた1991年のナムチャバルワ遠征の際に雪崩で亡くなってしまったのでした。先陣を切って深雪をラッセルしていた大西さんに雪崩が襲いかかったまさにその現場にいて、捜索・掘り出し・蘇生措置までしていたのが、最近「イグルースキー」として活躍中のNHKカメラマン米山悟氏です。その米山さんもまた、私の一つ上の北大山岳部の先輩であり、同じ地質学教室で先の新宮氏と3人で机を並べて卒論を書いた同窓生でもあったのでした。

◆ついでにいうと、日本山岳会の第1次パミール登山隊が1990年にコルジェネフスカヤ峰とレーニン峰に登頂していますが、今でも吉川さん共々付き合いのある明治大の佐野哲也氏や廣瀬学氏、そして成蹊大の滝沢守生氏がこれに参加されています。そのレーニン峰に私も1987年に登頂していて、米山さんが肺水腫で倒れるという我々のパーティが経験したアクシデントなどの教訓をこの隊にアドバイスしたこともあります。

◆吉川さんも今年で還暦を迎えるといいます。囲む会ではちゃんちゃんこを模した赤いダウンベストがサプライズでプレゼントされ、その返礼の挨拶の中で吉川さんは、「今」しか知らない若い世代に、脈々とつながる流れの中に今がある、ということを語り継ぐ必要性を説いていました。

◆吉川さんが日本に来るのはコロナ禍後初めてとのことで、かれこれ3〜4年ぶりだったということですが、南極越冬帰りで「浦島太郎」状態になっていた私にとっては、つい先日来の再会だったようにも思えます。この囲む会に参加されていたどの顔を見ても、30年来の縁を思い起こす方々ばかりで、この間に、研究者・編集者・ガイド・サラリーマンなど、それぞれの立場で蓄積されてきた深みと蓄積が感じられました。吉川さんはそういうものを「沈殿」させるのではなくて、溶液を引っかき回して浮遊させるアジテーターのような役割をいつも演じてきたように思います。今回もまさに、澱りきった様々なものを再び攪拌・反応させて新たな何かを生み出しそうな気配を十分に感じさせてくれました。

◆私が北海道から東京にでてきて、はやいものでもう8年になります。当初、東京での身の置き場に迷って、大学でのゼミ活動共々地平線にお世話になるようになりましたが、そのゼミも留守中にすっかり解散してしまっています。この4月からは在籍者ゼロからの再出発となりますが、地平線報告会もこの春から再開される、といううれしい知らせもいただいています。

◆報告会が開催されなかった期間の半分以上は竜宮城にいた浦島太郎の私には、これも大したブランクだとは思えません。それでも、この間にあったことを互いに振りかえってみたりこれから先の野望を語り合ったりする場があるということは、玉手箱を開いたときのように、多くの方々の澱り物を攪拌する場となることでしょう。そういう場に期待して、また頼りにもしつつ、ポスト南極の人生再開の一部を地平線に託したいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。[第63次越冬隊長 法政大学教授 澤柿教伸


吉川謙二 帰国
〜3年半ぶりの再会〜

吉川謙二さんようこそ

◆桜が散り始めた東京にアラスカから吉川謙二さんが帰国した。3年半ぶりだ。「恩田さん元気?」とメッセージがくれば帰国のお知らせで「ちょっと飲みに行こう」となる。声がけと店の手配をすすめ、新宿の古い居酒屋で集まった。吉川さんの友だちは、極地や山の関係者だけではなく、研究者など面識のない人もあり、いつも戸惑う。たまたま時間がとれた11人が集まったが、蓋を開けると極地にまつわる人たちだった。

◆5日前に南極から帰国したばかりの昭和基地第63次隊長の澤柿教伸さん、極地冒険家であり冒険研究所書店を営みアンタークティックウォーク南極点探検隊ソリの引受人である荻田泰永さん、白瀬ルートから南極点を目指すプロ冒険家の阿部雅龍さん、第三の極地エベレストに登頂した山本宗彦さん、極地の取材をするディレクターの廣瀬学くん、写真家白川義員先生と南極の撮影に同行した滝沢守生くん、北海道で植村直己・帯広野外学校を継承している高柳昌央くん、そして全員の活動に目を光らせてきたジャーナリストの江本嘉伸さん。

◆意図して声をかけたのは江本さんだけだ。コロナが落ち着いているとはいえ、80才を超えた江本さんに新宿まで出かけてもらっていいのか迷ったからだ。アンタークティックウォークのメンバーだった松原尚之さんと佐野哲也くん、調査隊の原田鉱一郎さんは仕事のために参加はかなわなかった。

◆吉川さんと初めて花見をしたのは31年前の4月。当時吉川さんが隊長で南極点を目指すアンタークティックウォーク隊の準備をしていたときだ。市ヶ谷の土手で小雨の降る中ブルーシートを張りその時も11人が集まった。アンタークティックウォークの隊員である吉川さん、松原さん、佐野くんのほか、今回も参加した滝沢くん、隊の動向を追いかけて本にまとめた永田秀樹さん、当時英字新聞の記者でその後極地探検を通じた教育プログラムを立ち上げた高野孝子さん。吉川さんの宴会芸は安来節で、二本の楊枝を下唇と鼻の孔で突っ張って変な顔を作りどじょうすくいの芸をするが、このときなぜか私もやらされた記憶がある。当時吉川さんは北大の大学院生で、飛行機で沖縄に飛び塾の講師をしており、そこで出会った彼女を連れていたが、今回は今年24才になるお嬢さんを連れてきた。

◆うれしかったのは、お嬢さんであるマヤさんの参加、そして荻田さんと阿部さんが加わったことだ。荻田さんは行き場のなくなった(でも歴史的価値のある)アンタークティックウォークの手作りソリを本屋さんに引き取ってくれた人だし、阿部さんはどこで手に入れたのかアンタークティックウォークの分厚い報告書を手にサインをもらっていた。ふたりとも吉川さんの次の世代を担う数少ない現役の極地冒険家だ。

◆こじつけになるが、極地の繋がりで私もウィル・スティーガーと一緒に犬ぞりでカナダの北極圏に足を踏み入れたことがあった。元を辿ると、この隊に参加したのは高野さんからのお誘いで、31年前の花見で初めて高野さんに出会ったことがきっかけだった。これには後日談がある。途中参加する隊員の代わりに、イエローナイフからコパーマインまで同行することとなり、極地探検家として名の知れた48歳のウィルと二人一緒の犬ぞりチームと同じテントになった。ところがウィルは「犬にはもはや興味がない。本を書くことしか関心がない。テントの外のことと犬の世話は全部やってくれ」と言い、時間があれば日記を書いていた。20代の私はこの著名な探検家に失望し、別れ際に「犬ぞりに興味がなく犬の世話もしないなんてひどすぎます」とメッセージを書き残した。今ふり返るといろいろな思いが巡る。犬ぞりで名を馳せた極地探検家が犬に興味がないということがどういうことか。だからこそ78才になった今も、犬ぞりではなく、単独で、ホッキョクグマの生息するカナダの原野を自力でソリを引き歩いているのかもしれない……。

◆話が逸れてしまったが、吉川さんや古くからの仲間と、こうして30年後にも集まれるというのも、何か深い縁があってのことなのだ。若さをまぶしく思う年代になってやっと理解できるものもあるのかも。そんなことも書き残しておきたいと思う。[恩田真砂美

植村直己さんの夢を追い続ける野外学校を知っていますか

■「植村直己」という名が付く組織が全国に3つある。植村直己さんが高校生まで育った兵庫県豊岡市にある「植村直己冒険館」、学生時代から最後の冒険まで長く住んでいた東京都板橋区にある「植村冒険館」、そして南極犬ぞり冒険から帰ったら野外学校を開く予定だった北海道帯広市にある「植村直己・帯広野外学校」である。

◆僕がスタッフをしている植村直己・帯広野外学校は北海道帯広市の南西30キロに位置し、この基地からは広大な日高山脈の山々をのぞむことができる。基地の奥の戸蔦別川沿いに入ると日高山脈最高峰の幌尻岳をはじめ、戸蔦別岳、エサオマントッタベツ岳、札内岳、十勝堀尻岳などの多くの山々に登ることができる。

◆この野外学校は世界的な冒険家であった植村直己さんが1983年の夏に帯広を訪れたとき、当時の帯広市長に「南極犬ぞり冒険が終わったらこの日高山脈が見える十勝のどこかに野外学校を開いて、自分が体験した技術や知識を若い世代に継承していきたい」と語った夢から始まった。しかし、それから半年後の1984年2月、厳冬期の北アメリカ大陸最高峰のデナリ(マッキンリー)に厳冬期単独世界初登頂を果たした直後に消息を絶ち、帰らぬ人となってしまった。

◆そこで帯広の有志たちが「植村さんの夢を受け継いだ野外学校を作ろう」と立ち上がり、1985年8月に『植村直己・帯広野外学校』が開校し、以来38年目を迎えた。奥さまの植村公子さんが僕らの名誉校長先生であり、先日もお住まいである板橋で交流を深めた。

◆野外学校では小学5年生から高校3年生を対象とした「サバイバルキャンプ」「自然探検学校」と親子を対象とした「春の山道」「スノーハイク・カーリング(姉妹校である南富良野町どんころ野外学校と共催)」のプログラムが行われている。最近はコロナ禍の影響で十分な活動が行えず、活動も停滞気味であるが、なんとか頑張っている。

◆一番のメイン行事となるのが夏のサバイバルキャンプで基本6泊7日の行程で開催される。野外学校基地でテントの設営、炊事、たき火、ナイフの使い方、ロープワークなど野外活動に必要な基礎を学び、実際に日高山脈の懐に入って自分の食料を自分の手で調達する「サバイバル生活」や十勝幌尻岳(1846メートル)登山にも挑戦する。

◆このサバイバルキャンプを通して子供たちは「生きること、協力し合うこと、前向きに考えること、食料は簡単に手に入らないこと、命をいただくということ、計画をたてること、当たり前が当たり前でないこと」など書ききれないほどのたくさんの気付きを持ってくれる。僕らスタッフは子供たちに植村直己さんの心(植村スピリッツ)を今後も継承していきたい。

◆この植村スピリッツの原点は植村さんが学生時代に過ごした明治大学山岳部での経験が大きかったのではないかと思う。植村さんの後輩として僕も所属していた明治大学山岳部では、長期の山行を行うときは、食糧や燃料はしっかりと担ぎ、決して楽をしない。今のウルトラライトハイキングとまったく相反している。

◆それは山には優劣や、簡単も難しいもなく、高さやスケールこそ違えども山は変わらないからである。体力がある人にもない人にも山のきつさは変わらないし、装備がないからといって吹きつける風雨や吹雪は手加減してくれるわけではない。山は誰にでも平等である。だから自分が強くなるしかない。決して自分を過信することなく、準備を怠らず、あきらめずに地道に努力していくことが植村イズムの神髄ではないかと僕は思う。

◆何でもすぐに結果が出て、何でもスマホで解決できて、何でも合理的に考えることがもてはやされる時代だからこそ、自分で答えを探していく自然体験が大切なのではないだろうか。もしかしたら、正解などないかもしれないのだ。

◆植村さんは何を一番伝えたかったのかな。生きていたらどんな指示をされるのかな。植村さんにはなれないけれど、畏れ多くも植村さんになったつもりで、僕はいつも自問自答している。[高柳昌央 植村直己・帯広野外学校スタッフ]

地平線変わらず続いてることにすごさを

■江本さま こんにちは。吉川さんを囲む集いでお目にかかりました、NHK廣瀬です。「地平線会議」、自分が若い頃から変わらず続いていることに単純にすごさを感じるとともに、元気な若者たちが、旅を続けていることをうれしく思います。地平線の旅人たちをテーマに番組も出来るのではと思ったりしますので、またお知恵拝借できれば幸いです。今後ともよろしくお願いします。[廣瀬学 NHKクリエイターセンター]

遂に叶った吉川さんとの邂逅

■恩田真砂美さんのSNSタイムラインに、吉川さんが帰国するので歓迎会をやります的な投稿を発見。とにかく参加表明のコメントをした。お会いしたことはないが、どうしても直接にお礼をお伝えしたかったのだ。なにせ吉川さんたちのアンタークティックウォーク報告書にはお世話になったからだ。今でも南極遠征についてここまで詳細にまとめた書は存在しない。

◆吉川さんたちが踏破したルートは、現在の南極点遠征で最も一般的であるヘラクレスインレットから極点ルートにごく近いので、最初の南極点到達を目指す後進たちにとっても必読の書であり、日本語の極地遠征指南書として継承されていくだろう。何より隊のメンバーであった吉川さん、松原尚之さんなどが今もそれぞれの分野で挑戦し続けている、それが一番素晴らしい。

◆宴会では、吉川さんにビールを注ぎつつ、「阿部、いいぞ!」と注ぎ込みにお褒めを頂き、お礼もお伝えし、ちゃっかり報告書にサインを頂き、ホクホク顔で帰宅した。年を重ねても吉川さんの迫力はすさまじかった。

◆4月はノルウェーで友人の外国人冒険家たちとミニトレーニング、アムンセンのフラムミュージアムにも訪問するつもりです。[阿部雅龍


植村直己さんの母校・明治大学博物館で「山岳部から極点へ」展を開催中

明治大学博物館の特別展示室で、植村さんの冒険の原点である山岳部の活動の詳細と冒険の足跡をご紹介しています。農学部に在籍していた植村さんは生田校舎で学び、山岳部の部室がある駿河台校舎に通っていました。平成8年に解体となった「記念館」の奥深くにあった山岳部の部室の写真もご紹介しており、植村さんが山岳部にいたころと変わらぬ様子をご覧いただけます。また、大学博物館の常設展示のコレクションも一見の価値ありです。常に変化している御茶ノ水・神保町の町並みとあわせて、ゆかりのある場所で植村直己を感じていただければと思います。ぜひお出かけください。[植村冒険館 内藤智子]

■5月15日まで・入場無料・日曜祝日休館
■10時〜17時
 (土曜日は16時 入館は30分前まで)
■共催=明治大学山岳部
■明治大学アカデミーコモン 地下1階/明治大学博物館特別展示室
 https://www.meiji.ac.jp/museum/


父の赤いちゃんちゃんこ

■江本さん、先週はお会いできて光栄でした。このメールが4月5日の締め切りまでに間に合わなかった場合はお詫びいたします(昨夜帰国し、ようやくwi-fiがつながりました)。

◆先日の山の集まりでは、集まられていた皆さんの友情や仲間意識、はじけるような楽しさ、深い敬意を感じました。また、古い思い出話に花を咲かせつつ新しい思い出が生まれる時間でもありました。父についての好奇心そそられるエピソードを聞くことができたり、日本の還暦のお祝いで赤いちゃんちゃんこを着るという伝統文化も目撃することができました。日本語であれ英語であれ、私を仲間に入れようとしてくださった皆さんの努力に感謝しています。一緒に素晴らしい夜を過ごしていただきありがとうございました。

◆私が皆さんの友情を最も感じた瞬間は、集合写真を撮ったときでした。私の父は写真を撮影するとき、「チーズ」と言う代わりに「ウイスキー」というフレーズをよく使用します。これまでは誰も父と一緒に「ウイスキー」と言うことはなかったそうですが、この夜は笑いに包まれたなかで写真が撮られ、初めて「チーズ」ではなく「ウイスキー」の叫び声があちこちから聞こえました。

◆改めて、皆さんとご一緒できたお礼をお伝えしたいです。これからもよろしくお願いします。もしもカリフォルニアに来ることがあれば、ぜひご連絡ください![マヤ

Dear Mr. Emoto-san,
I hope this email finds you well. It was a pleasure to meet you last week and I apologize if this email is too late for the April 5th deadline (I just landed last night and got wifi). Feel free to use any or none of the following for your article on my dad:
My impression of the mountaineering club get together was one of friendship, camaraderie, rambunctious fun, and deep respect, old stories and new memories made. Intriguing stories I had never heard about my dad was shared and old tradition of Kanreki was observed in the form of a red vest. I appreciated the effort made to include me whether in Japanese or English and thank those that were there for a wonderful night. Perhaps what showed me the camaraderie of this group most was when we took a group picture, my dad has been trying to use the phrase “whisky” instead of using “cheese” happen in every group picture we took as a fun alternative to saying “cheese”, but until this night no one would say it with him. That night with laughter and inclusivity the picture was taken for the first time I saw with hoots of “whiskeyyyy” instead of “cheeesse”.
Thank you again for including me in your get together and please keep in contact and reach out if you ever come to California!
Best,
Maya

穴子とさくら

■桜吹雪、今日はちょうど九州大学入学式。ひどい風雨で福岡の桜もこれで終わりか!? 第528号を迎える地平線通信も最近は度々登場している九大山岳部の投稿で西日本勢の勢いを感じる今日この頃。こういった次世代の若者たちが、次の行動派として地平線会議を引っ張っていくことだろう。

◆さてなぜ私が九州にいるかというとコロナがだいぶ落ち着いてきて、ほぼ3年半ぶりに来日が叶い、年老いた親に娘を会わせるのが1番の目的、そして旅のテーマは穴子と桜。言うまでもなく日本を代表する魚と花と言えましょう。桜の時期に来日するのはそう簡単ではない。ついでではまず満開に合わせることはできない。作戦としては桜前線と一緒に北上しながら、花見を堪能し、その地域の穴子の料理を嗜むと言う、我ながら驚くべき素晴らしい企画。

◆必要なものはジャパンレールパスと各地に住む穴子料理リサーチャーになってくれた友人たち。ここで私ごときがウンチクをかますまでもないが、寿司は玉子と穴子で職人の腕を見ると言われるほど穴子の前処理は重要だ。なぜ穴子なのかと言うとスペイン語で言うコングリオ(大穴子)はチリの海岸地域で食べられる抜群に美味しい魚で、日本の穴子とだいぶ違い味は大鮃(オヒョウ)に似ていて顔は穴子だけど体形はタラのような魚だ。

◆チリでは青のり付きのフライが一番、私の大好物だ。日本漫遊の発端はこの1週間前のチリ出張にあった。そこで日本でどのように穴子を料理するのか興味がでてきたのだった。ユネスコのアンデスの気象タワー、永久凍土ネットワークの円滑な活動のため2年前に買ったロシア製バン(UAZ Bukhanka)は、手に入る唯一の4輪駆動バンでトラブルが多いのはシベリアで嫌という程知っていたが、1965年から変わっていないレトロなボディーに惹かれて購入した。

◆しかし、ロシアのウクライナ侵攻後部品が手に入りにくくなり、ついに今年から保険会社が保険対象から外した。ディーラーも店じまいのようだ。無保険になった車をチリ北部からサンチアゴまで運ぶアシスタントにうちの娘を呼んで、来日前に海辺を南下したのだった。その途上唯一の楽しみがとれたての大穴子というわけだ。日本では実に多様な玄界灘から瀬戸内、江戸前、三陸沖の穴子を煮たり、焼いたり、揚げたりそれは素晴らしかった。桜も伝統的な公園ブルーシート花見からお城花見、ヨット(沖から)花見、山里花見、温泉花見など、もう後悔はない。[吉川謙二


つむぎ、おる。

《画像をクリックすると拡大表示します》


―― 新 連 載 ――
旅のはなしのはなし

その1 気がつくと青森行きの夜行バス

田中幹也 

■ここ数年、山に行くたびに足がつる。とりわけ冬山の入山日はほぼ百パーセント足がつる。今年で58歳になる。加齢による著しい体力の低下。1月、2月は台風並みの爆弾低気圧がやってくるタイミングで、3度にわたり津軽の八甲田山を訪れた。毎回、足をつるたびに激痛がはしる。凍ったテントのなかでひとりのたうちまわる。

◆ここ10年、山が荒れるタイミングを狙って津軽の山――八甲田山、白神山地、岩木山、津軽山地――に入っている。なぜ悪天候を狙うのか。冬の津軽はもともと天気が悪い。ホワイトアウトも猛吹雪も、ほかにくらべて濃い。テントから数メートル離れると見えなくなる。利尻島の気象条件も悪い。北海道の自然は開放的で大陸的である。それに対して津軽の自然は閉塞的で日本的だ。それでいて異国感が漂う。このあたりは好みかもしれない。山って厳しいから難しいから知名度あるからといって充実するとはかぎらない。波長が合うかどうか。だから激しい風雪だったら利尻島はどうですかっていわれると蹴りぶっこみたくなる。でも利尻島の陰にかくれた冬の礼文島には行ってみたい。

◆冬の津軽に10年間で合計150日余、風雪の山でテントを張って過ごしている。天気予報で東北地方が大荒れと聞くとワクワクする。気がつくと青森行きの夜行バスに乗っている。猛吹雪のなか、背丈まで没する雪のなかをラッセルする。行けるところまで行ってテントを張る。通いはじめたころは山頂や踏破をめざしていたけれど、最近はどうでもよくなった。激しい風雪のなか、ただそこにいるだけで「余は満足じゃ」。ガツガツと山頂や目的地をめざすのではなく気に入った場所にテントを張って自然にひたるというスタイルは、もしかしたらカナダ通いでしぜんに身についたのかもしれない。カナダの山好きな人って達成感より充足感を求める。

◆特定の地域に数年から十年単位で集中して通う。そしてパタリとやめる。というのは、わたしのこれまでのパターン。偏っている。でも昭和のころの伝統墨守の一部の大学山岳部だって、かなり偏っている。平成に突如あらわれた山ガールだって異質だ。旅行会社の主催する日本百名山は、ときに怪しげなセミナーをおもわせる。山って誰かに選んでもらうわけでもなければ、まわりに合わせる必要もない。自分の行きたい山に向かえばいい。

◆さてはなしを足がつるにもどす。水分補給やこまめなストレッチなど対策はとっくのむかしからしている。足をつったときの薬はつねに持ち歩く。酷いときは通常量の2倍3倍を一気飲み。でも効かない。いやもしかしたら多少は効いているのかもしれない。ただ目に見えた効果はない。いずれにしても40歳代後半までは、足をつって苦しむことはなかった。

◆ここ数年はぎっくり腰にもしばしばみまわれる。ヒザ痛は二十数年の付き合い。もともと体力があるほうではない。三十代後半にガタッと落ちた。五十代後半のいまはジェットコースターのごとく降下。落ちるところまで落ちたらあとは這い上がるだけ。なんていうのはドラマや小説のはなし。気の持ちようだなんていう人は、あまりハードな課題には取り組んでいない。

◆最高齢の登頂記録だって当人の努力ももちろんだけれど、ガイドや取り巻きのスキルのほうが大きい。話題になる高齢者登山ほど、商業登山というビジネスとリンクしている。どのみち体力のピークは、十代後半から二十代前半である。

◆加齢による体力の低下はこの先さらにすすむ。自分はこの先どうなってしまうのだろう。もはや自殺する以外に道はないのか。あれだけやったからもうゆっくりしようというおもいはない。あるのは焦りのみ。自分はどうしていつもこのていどなんだ。山や旅を通してネガティブに思い悩む。もしかしたら、そんな行き詰まった状況をどこか楽しんでいるというのが「自分の山や旅」なのかもしれない。


先月号の発送請負人

■地平線通信527号(2023年3月号)は、3月20日の月曜日に印刷、封入作業を行い、新宿局に差し出しました。3月号も書き手が多く内容も多彩で、22ページと厚い通信になりました。それでも車谷さんはじめベテランたちの本気の作業で時間内に終えることができました。作業に汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。4月からいよいよ地平線報告会が再スタートすることとなり、会場準備の相談で久々に関根皓博さんも打ち上げの「北京」に駆けつけてくれました。長岡のり子さんの美味しい手作りアンパンが大好評でした。ありがとうございました。

 車谷建太 中畑朋子 高世泉 長岡のり子 中嶋敦子 白根全 久島弘 伊藤里香 八木和美 江本嘉伸 新垣亜美 光菅修 関根皓博


春の嵐の中、横浜の丘を徘徊した

■3月26日。雨時々嵐。悪天の中、午前10時、根岸線の山手駅に集結した。メンバーは、江本さん、香川大学時代からの仲間、クエ(杉本郁枝)と私の3人。四万十の縁で15年来の“親友”だ。久しぶりに会おう、ということになったがクエは静岡、私は埼玉、江本さんは府中。集まりやすい場所として横浜を提案したところ、江本さん生誕の地でもあるということで山手の歴史徘徊をすることとなった。

◆山手駅からいきなり坂道を登り、矢口台という丘の町に出た。江本さんがもうひとつ先の丘の建物を指差して「あそこが私の母校」と言った。神奈川県立緑ヶ丘高。こんな丘の上の高校に通ってたのだ。YC&ACのグランドなど洒落た施設は米国人が建てたものが多い。

◆やがて、小さな公園に出た。豆口台小公園という。なんとその公園に面するかっての市営住宅が江本さんの生まれた家だった。戦時中、狭い空き地には防空壕が掘られ、防空警報が鳴るたび、子どもだった江本さんは頭巾を被って逃げ込んだという。

◆ぐるっと回って別な坂道を登ると旧根岸競馬場跡に出た。かっては東洋一の馬場があったそうだが、いまでは「馬の博物館」になっている。しばらく雨の中を歩いて一度丘を降りると麦田町という町に。ずっと昔、横浜市電の車庫があったとか。そこからまた登ると有名なフェリス女学院に出た。

◆「山手」には日本初が集まっている。日本初のスポーツクラブ、競馬場、近代女学校、洋式公園にテニスコート、と挙げればきりがない。小さな丘がいくつもあって丘から丘へ歩く中、一瞬丘の谷間を見下ろす事ができ、合間に海が見える。

◆一方、天候は悪くなる一方で途中から雨風がさらに厳しくなってきた。傘は逆さ向きになり、クエの靴は水浸し。江本さんのハーフコートはびしょぬれとなっている。地図を見たくても雨風で開くことができない。小腹が空いた。木陰に立ちながらドライフルーツを分け合って小休止する。

◆そして昼過ぎに有名な外国人墓地に到着。花見シーズンは観光客であふれる外国人墓地前や海の見える丘は冷たい雨のせいで人がまばらだった。そのお陰で通常行列で入れないといわれる外国人墓地前の名店「山手ロシュ」に入る事が出来た。濡れて冷えてきたところ、豪華で暖かい食事にありつけた。ここで初めて地図を広げて徘徊ルートを確認。

◆地図ではただの住宅街だが実際歩くとなんとアップダウンの多いことか。食事を終えて江本さんが横浜支局時代(1968年頃!)に書いた2つの新聞記事を見せてくれた。どれもすっかり黄ばんでいる上、文字の小さいこと! コロナの集団感染が発生したダイヤモンド・プリンス号が横浜港に停泊していた時に地平線通信でも触れられた昭和43年4月14日の客船「さくら丸」の記事。台湾、香港を交通費、食費、宿泊料込みで5万円(最低料金)という格安で海外旅行へ行ける事を取り上げていた。港記者だった江本さんの最初の“特派員仕事”だったそうだ。

◆もう一つは昭和43年4月30日付け「京浜読売版」の「2,000,000」という連載の1記事。横浜市民が200万人を超えた事を受けて連載が企画されたそうだ(現在の横浜市の人口は376万人)。記事にはロシア語の恩師で当時麦田町に住んでおられたルーマニア生まれのタチャーナさんが取り上げられている。横浜が好きで、山手の丘を好んで散歩する理由は「故郷にたくさん丘があり、山手を歩くと故郷を思い出すから」だそう。そして、東京からすると少し田舎臭いところも魅力とも。

◆開国してから山手に外国人居住区が出来、多くの洋館や文化、人が入り込んだ。震災や戦争で山手にある多くの建物が消えてしまったが、今でも外国人が多く住んでいるのは丘の魅力が大きいのかもしれない。

◆今回の徘徊名目は私たちが出会ってから15年目の節目ということだ。2008年の四万十ドラゴンラン(源流から太平洋まで四万十川196kmを人力で下った)で出会い、学生、独身社会人を経て2023年にはクエ、私共に一児の母となり仕事と育児に追われるライフステージに至った。普段子どもから離れて好きな事をする時間が中々取れない母業二人には贅沢な時間だった。道中それぞれの近況や色々な話ができたので春の嵐の中決行して思い出に残る1日になった。さらにその後誰も風邪をひかなかった事が一番良かった。また5年後に四万十会を開きましょう。[うめ 日置梓

3年ぶりの「県外」

■私にとって貴重だったのは、まず3年ぶりの県外だったことです。出産後コロナ禍になり、復帰した職場ではもちろん細心の注意を払う。そして母として一つの命の責任者になったことで、ちょっとした外出もハードルが高くなりました。息子も成長し、家族に1日預ける余裕も出てきたタイミングで今回の再会ができて本当に良かったです。横浜といえば観光のイメージしかなかった私を、江本さんやうめと歩いて周り、丘の街、歴史ある街だと感じました。丘って地図上じゃわからないんですね。実際に歩いて発見するのは楽しいですね。本当にあの日は私にとって貴重な1日でした!母を忘れて(?)楽しめました!! そして昨日、無事に中学校の始業式と入学式が終わりました。今年は一年生の担任です。[くえ 杉本郁枝

農業委員に応募してみた

■今年の旧暦3月3日は、4月22日。沖縄では「浜降り」といって、女性たちが海水に足をひたして邪をはらい、潮干狩りを楽しむ風習がある。一般に「内地」では磯の漁業権は厳しく管理されているが、沖縄ではサンゴ礁のイノーの恵みを集落で分かち合うことが多い。以前、JF宮古島で磯の漁業権について聞くと、「漁協が漁業権など振りかざしたら、殺されますよ」と笑われたのが印象に残っている。

◆そもそも日本の海岸は公共用地であり、だれも所有できない。では、農地はどうだろう。戦後の農地改革で一時的に国有地が生まれたが、今、農地はほぼ個人や法人の所有だ。しかし所有者の好きにできるかというと、ノー。農地の宅地化や売買・貸借には、市区町村の農業委員会の許可がいる。農地は食料供給の基盤であり、環境保全や災害の防止、教育の場、文化醸成などの「多面的機能」ももつ。その公共性が重視されているためだ(ゆえに多額の交付金・補助金も注ぎ込まれている)。

◆いわば「農地の番人」の農業委員会は、1951年に誕生した行政委員会で、公職選挙法により農家の投票で選ばれてきた。とはいえ実情は、家父長的な“おじいさん”の名誉職の色合いが濃かった。だが男女共同参画の流れの中で、2000年代から女性の参画が進む。すると女性委員たちは、地域活性化の活動にも取り組み始めた。女性委員が複数いる農業委員会は、明らかに風通しがよく活気が違った。やがて「女性委員は特別な活動をしてナンボ」という風潮さえ生まれ、「男性は従来の業務だけでも非難されないのに」と不満の声を聞くこともあった。

◆じつは私は、農業委員会の全国組織、全国農業会議所が発行する「全国農業新聞」の外部ライターとして、20年以上も取材し記事を書いてきた。一時期は女性農業委員の特集コーナーも担当。彼女たちの活躍、たとえば孤立しがちな農家女性がつながる場づくり、女性が通帳や名刺を持つ・家族経営協定を結ぶなどの地位向上支援、遊休農地での農業体験、食育や郷土料理の伝承、婚活支援などをじかに見聞きしてきた。

◆取材後に交流が続く方もいて、昨年出版した『農業者になるには』(ぺりかん社)という本にも、新潟県阿賀野市で農地の荒廃を食い止めようと奔走する女性農業委員を紹介させてもらった(この本では、新規就農の若手からベテラン有機農家まで8組のリアルな姿と農家の「なり方」を紹介。ご覧いただけるとうれしいです)。

◆女性農委が誕生した時期は、農家の高齢化と後継者不足、耕作放棄地の増加などが顕著になった時期とも重なる。2016年の農業委員会法改正で、農業委員のミッションは「農地利用の最適化」が柱となった。従来の業務に加え、高齢農家の農地を集積して「担い手」(耕作者)を定めることや、そのための集落単位の話し合いを支援すること、新規就農者を支援することなど、農地と農業を持続させる任務を負っている。

◆さて、長く農業の取材をしてきた私だが、先日、自分の住む東京Q区の広報に「農業委員募集」の告知を見つけてハッとした。23区と農業委員会を結びつけたことがなかったからだ。調べると7つの区に農業委員会がある。「これは農業への恩返しのチャンスかも。都市農業にも興味があるし」。私は、がぜん熱くなった。

◆2016年の法改正で、委員の選定は選挙から市区町村長の任命にかわった。「農業についての識見がある」なら非農家でも可。応募は、(1)JAなど団体の推薦、(2)個人の推薦、(3)自薦の3通り。私は(3)だ。さっそく書類を整え、区役所の農業委員会事務局に相談に行った。そこで私のワクワクは一気にしぼむ。対応したオジサン職員によると、これまで自薦者の登用はゼロ。例外的に全国農業会議所OBが農地法の顧問のような形で入ったのみという。

◆公募は形式だと明かしていいのか少し心配になったが、オジサンは「今回から、男女共同参画の法律がらみで女性を入れる。応募してみたら?」と軽い。これまで女性委員もゼロだったのか……。やや迷ったが、公募は茶番にせよ、好奇心半分で申込書を提出した。やがて区のHPに公開された応募状況を見ると、定員13人に対し、推薦12人・自薦7人。やっぱり……。JAの推薦者はすべて任命されるだろう。残るは1枠。全国農業会議所OBの再任でピタリとはまる。

◆今、都市農業が注目されている。2015年の都市農業振興基本法で、都市農地は「宅地化すべきもの」から「あるべきもの」に変わった。また、都内で非農家の就農はムリという常識をくつがえし、東京都農業会議の支援で2009年に初の就農者が誕生。その後も東京西部で就農が相次ぎ、100組以上に達している。ただQ区のオジサン職員は、聞いてもいないのに「区内での新規就農は農地が狭いのでムリ。高齢農家の畑は、企業に貸して体験農園にするのがベスト」と釘を刺してきた。

◆都市農地の公共性を考えると、自薦委員の任命も妥当だと思うのだが、さてどうなることか。審査は書類選考のち面接のはずで、今はその通知待ちだ。[大浦佳代

もっと野に出よう

■林業で働き出して2度目の春となりました。たくさんの命が芽吹き動き出すこの暖かい季節、自分という生きものの目指すところを再認識します。「もっと野に出よう、野で暮らそう」。

◆仕事柄、日中を山で過ごすことは簡単にできてしまうが、それを支える暮らしの衣食住がまだまだ山暮らしとかけ離れている。スイッチひとつで物を温めてくれる機械があったり、土汚れを受け付けないきれいな家の中できれいな衣に包まれて食べて寝たりする。非日常を楽しむ登山と同じように、山を降りてくれば整えられた便利な生活環境に戻る。自分の思いと暮らしに矛盾を感じて最近はなんだか苛立ってしまうのでした。

◆宮沢賢治の歌曲に「春はまだきの…」で始まる『種山ヶ原』という七五調の詩があります(全文は下記に)。私にとってお守りのようなものなのですが、たびたびこの詩を思い出しては、自然の一部のように生きることは幸福なことだとしみじみ噛み締めています。どうしたらそのように生きられるでしょうか。

◆すぐに暮らしを一変させることはできないので、理屈をこねていないで先ずはとにかく野に出ること。暇があれば野に出る、暇がなければ暇を作って野に出る手段を持つ。たとえば、狩猟免許を取ったり、テント泊からの出勤を試みたりしようと考えています。今からとても楽しみです。[小口寿子


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などどんなことでも結構です、ひとことお寄せくださると嬉しいです。

渕上隆/田立泰彦(5000円 残りはカンパ。コマツユカさんから“光”をもらっています)/石田昭子(森井祐介さんの記事がよかった)/清登緑郎(3000円)/笹谷遼平(5000円 地平線通信を読み、さながら曼荼羅のように繋がりを感じています。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます)/猪股幸雄/上舘良継 


救急医療の最前線にとどまります

■現場からの要望が強く、人事を統括する県病院局も押し切られた形で残留が決まりました。いましばし救急医療の最前線にとどまります。

◆さて、給料がどうなるのかが地平線メンバーとしては気になるところでしょう。結果は4月の俸給日にわかるのでお伝えします。ちなみに60歳定年後の再雇用、というシステムでは66%でした。これは一定額以上下げると高齢者再雇用助成金の対象者となってしまうため、そのぎりぎりのラインでとどめたものと思われます。

◆医療の現場では「5類になっても現状の感染対策継続」となっています。いましばらくは地平線報告会には参加できそうにありません。[埜口保男


「地平線カレンダー2023〜24」が完成しました

お待たせしました。恒例の「地平線カレンダー」の2023年度版が完成しました。今回のタイトルは『そこをまがると…――ふらんす猫見遊山』。昨年の9月に10日間ほど長野亮之介“画伯”はフランスに滞在し、パリ、マルセイユ、ラ・シオタの三つの街で過ごしてきました。毎日楽しんだのが、路地歩き。角を曲がると思いもしない光景が目に飛び込んでくるので、すっかりハマってしまったそうです。そんな街角の風景に、出会った猫と頭に去来したイメージを絡めて、6点の作品となりました。いつもと同じA5判横、全7枚組ですが、表紙裏には各絵の解説を収録し、計8ページとなっています。それでいて頒布価格は1部500円と、据え置き。送料は1部140円、2部以上は200円。お申し込みは地平線会議のウェブサイトか、下記まで葉書で(〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。お支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後に振り込んでください。[丸山純

[絵師敬白]ラ・シオタは南仏の古い港町。狭い路地から見上げると、空がオレンジ色に染まっている。悠然と歩くトラ猫の後をついて路地を抜けると、ビストロの黄色い灯りが夏の遅い夕食時を告げていた。昨夏のひととき、パリと南仏の街をそぞろ歩いた。フランスの街の細い裏通りは秘密の抜け道のよう。小さな扉の陰におばあさんが座っていたり、隠れ家のような店に出くわすことも。次の角をまがると、今度は何に出会うだろう。


他人の為に頑張る自分をカッコイイと思い生きていく

■南相馬の上條大輔です。震災から12年が経ち振り返ればあっという間だった気がします。上條が住む南相馬市のある福島県の浜通り地方の沿岸部はどこも壊滅でしたが今や一部を除いてどこも綺麗で津波や地震で壊滅した所とは思えないほどです。街の中の様子も、やはり一部の立ち入り区域を除けば更地が増え、立派な公園や住宅地ができ、すっかり様変わりをし、地域は復興で元のようになってしまった気がします。

◆しかし、この12年間の間に2回も大きな地震があり、12年前の地震で被害を受けなかった家もその後の2回の地震で半壊や全壊の被害を受け、ダメ押しでショックを受けている人も多々います。地域から出ていく人も若干います。もう疲れたと。人口も移住者も増えてきて若干ながらですが増えているみたいです。

◆全国どこでも同じ、コロナの影響でホテルや旅館、飲食店は軒並み閉店、相馬市では観光名所の松川浦湾周辺のホテルや旅館が震災からの復興を目指して頑張っていたところ、地震2回、コロナで閉館が続いています。

◆東日本大震災の最大の問題点である、放射性物質は、今も地域によっては残っている場所もありますが、もう以前のように気にする人は多分全国にも一部のうるさい人を除いていないことでしょう。今はコロナでみんな放射性物質のことは忘れているようです。  

◆除染事業は最後の難所原発周辺の立入区域以外はもう完全に終わり、あの忌々しい黒い通称「トンパック」は見なくなりました、作業員宿舎も解体や空き家が目立ち他県ナンバーも少なくなり、本当に変わってきました。しかしながら、福島県はエネルギー再生の先頭に立つべく再生エネルギー特区にしてしまったので、ただでさえ狭い地域に山を切り崩し、畑を手放しメガソーラーが恐ろしいくらい有ります。

◆人の心はもっと変わり、今や仕事が少なくなった業者や、仕事がなくなってきた人々の中には原発周辺地域の人々や法人を妬み羨ましがる人もいます。実際に最近の新しい東電と国との補償検討で又黙っていても軽自動車が買えるくらい1人当たり賠償金がもらえるそうです。原発に近い市町村にあるほど仕事量は沢山あり、100億を超える売上のある会社がゴロゴロあります。

◆有名外国車や大型の高級自動2輪や豪邸など目にするものも最初はびっくりでしたが今はなんとも思わなくなりました。

◆震災前に息も絶え絶えで、震災需要で持ち直した会社も結局その間に稼いだ利益を維持できず、元の木阿弥、後継者もいなく、引き際を考え閉鎖をした法人もあります。

◆上條は、震災後もあちこちに行ってみたりしていますが、南相馬市の鹿島区や原町区にて相変わらず、林業と障害児者の施設の運営をしています。震災後職員不足や除染前で休んでいた施設も再開しそれなりに忙しくしています。

◆ここ5年間良いことは無く、あの手作りの山小屋は原因不明の火事で消失、翌年、高速道路での後方からの追突事故で死にかけ等散々な次第です。まぁ仕方ないですが。

◆上條の中で震災後考えが大きく変わったとここ7〜8年くらい前から気づいた事が有ります。それは物欲や自分だけの楽しみや喜びに全く興味がなくなったことです。

◆今本当に大変です。家族の事では大変な事はないですが、一番頭が痛くて悩んでいるのが障害児者の居場所、雇用、養育問題です。そして地域における雇用問題です。本当に頭が痛いです。

◆震災後家族優先で埼玉の実家に避難した数か月間の間にもっとできたことがあったはずで、自分を必要としてくれた人がいたのに自分が逃げた訳です。今でもその事を悔やんでいます。だから今は自分でできる事を苦しくても自分の時間がなくなっても、後をついてきてくれる人ができるまで南相馬にいるつもりです。

◆自分だけの喜びや楽しみは問題が解決したその後です。もしできなくても諦めます。自分の人生もう後悔はしたくないし、自分の力を出し惜しみしたくない。自分で行動し悩み、苦しみ、泣いて眠れない日もあるけど、他人の為に頑張る自分をカッコイイと思い生きていくことにしました。

◆毎日こんな感じで、今日4月1日施設の子供たちのために、お昼ご飯20人前とお赤飯を30キロ作りました。[上條大輔

4年半ぶりのランタン行き

■エモノトモシャさま、みなさま。しばらくご無沙汰いたしました。予定通り3月8日にネパールでの1か月の滞在を終えて帰国しました。

◆なかなかこの社会への復帰が難しく、帰国後数日間は目が覚めると「ここはどこか?」「そこにいるのはテンバなのか、ギャルボなのか?」を確認することから始めなければなりませんでした。そのあとから腹痛と下痢が1週間余。ネパール由来のジアルジアなる寄生虫を持ち帰ったか!と思いましたが、病院のみたては「食あたり」。ものみな美味しそうに見えるのであれもこれも食べたのがいけなかったのでしょう。整腸剤を飲み続け、先週あたりからようやく普通に戻りました。

◆4年半ぶりのネパール行。ひとことで言えば行ってよかった。行かなければわからないことばかりでした。もっとも心配していたのは、コロナパンデミックに伴うロックダウン中のネパール社会、その窮状は想像はしていました。とりわけ、観光に偏重したヒマラヤの経済にどれほどの打撃だったか!と。しかし事実は少し違ってました。彼らは力強く生き抜いていたのです。放置していた畑を耕し、チーズ工場へ供給するミルクで自家製のバターや昔から作っていた乳製品を作り続けていたのです。このハードシップをやり過ごすことができたことの理由の一つに、人的な往来に加え、穀物やジャガイモなどの収穫物や種もみを譲り合うなど近隣の共同体との連携もあったと思います。2015年の大震災後、ラスワ郡北部、中間山地の村落共同体の間で生まれた新しい動きです。

◆2023年4月25日はランタン村民の4分の1の人命を奪ったネパール大震災から8年目。私のネパールでの復興支援もこれが最後のつもりでしたが、若干の宿題が残りました。当面、彼らの新しいツール・Messengerを通して意思の伝達を図ります。2023年のネパール行については近日中にランタンプランのウェブサイトに掲載する予定です。

◆以下は、蛇足ながら。《訃報》大江健三郎さんに続いて坂本龍一さんが亡くなられました。文学や音楽を通してなんと多くの勇気あるメッセージを送り続けられたことでしょうか。お二人に中国政府が弔意を表したことも特筆すべきことかと思います。個人的には大江さんの『新しい人よ眼ざめよ』や『治療塔』(続編の『治療塔惑星』)は特に好きでしたし、後期青春時代(?!)に励まされもしました。「集団自決」をめぐって岩波書店と大江健三郎さんが名誉毀損で訴えられた裁判中、当時の神保町・信山社裏手の建物の一室で行われていた支援集会に参加したことが思い起こされます。[貞兼綾子

すり身と識字教育

■すり身プロジェクトを続けるため3月末からコートジボワールのアビジャンに来ています。今回は初の、そして大きなチャレンジがあります。すり身を学びに来た女性と連れてくるこども、両方を対象に「識字教育」をやってみよう、ということです。

◆すり身ワークショップは1000人育てるまでつづける、という目標でいま235人の卒業生を送り出しました。わずか1週間の研修で魚のすり身加工技術、商品開発、マーケティングや衛生、魚の栄養価までを教えるのですが、ワークショップのあと交通費を渡す際、自分の名前が書けない女性が実に多い。学校に通えず、文字を学ぶ機会がなかったのです。国の平均識字率は5割ですが、漁村女性は約2割。連れてくるこどもたちはほぼ全員が文字を知らず、貧困の再生産とはこういうことなんだ、と明るい笑顔の裏側を知る思いがしていました。

◆そこで今回はすり身と識字教育を同時に行うことを計画しました。難しいことではなく、文字を好きになって自分の名前が書けるようになろう、というチャレンジです。そして昨日、2つの学校関係者と話しあい、この国の識字教育を教えてもらいました。どちらも日本同様に3、4歳から幼稚園で時間をかけておこなうものですが、すり身プロに来る女性たちには時間がありません。親が来なければこどもも来ません。

◆今回の目標は「自分の名前が書けるようになろう」です。すり身ワークショップのすき間時間、早朝や夕方、日曜日などを使ってやってみることにしました。先生役は、これまで育てたすり身研修生のリーダー格の女性たち。彼女たちが、2つの学校の先生たちから識字教育の基礎を学び、ワークショップのすき間時間に教えるという取り組みです。間に合わせのような取り組みですが、とにかく文字を学ぶきっかけをつくりたい。学ぶことがなかった人生に、「すり身ワークショップで文字を学んだ」という実感と自信を持って生きてもらいたい。それが私たちのチャレンジであり願いです。

◆次のワークショップは6月からスタート。文字を知らないことを恥ずかしいと思う人は多く、まず参加してもらうことが第一です。「自分の名前が書ければ、こどもたちや家族の名前も書けるようになるよ」と励まして進めてゆきたいと思っています。[アビジャン 佐藤安紀子

ミゾとミゾラム

◆私のせいで人生を狂わせた同級生がいる。Tくんもその一人だ。香港やタイのバンコクを起点に各地を旅していた学生時代、大学でもそのことをあちこちで話していた影響を受けて、Tくんは卒業後インドへ旅立った。が、経由地だったバンコクに「沈没」し、日本語教師や貿易の仕事を始めて10年以上も居着いてしまった。

◆そのTくんから突然電話がかかってきたのは15年ほど前のこと。「いますぐ洗礼を受けてキリスト教徒になるにはどうしたらいいか」。曰く、タイのチェンマイでの貿易で知り合ったミャンマー人女性と婚約したが、ミャンマー政府は異教徒の外国人との結婚を認めておらず、自分が女性と同じキリスト教徒にならないと結婚証明書が発行されない、キリスト教徒はミャンマーではマイノリティなので役所から厳しくチェックを受ける。証明書がないと日本に連れて帰ることもできない、と。

◆NLDが力をつけてきたとはいえ、言論弾圧の続くミャンマー。あの字形がかわいい?ミャンマー文字はとても読む努力ができず、私にとっては未知の国。そのときは「一人でまじめに教会に通いなさい。がんばれ」と伝えて終わり、その後滋賀県の実家に帰ってきたTくんとこの3月に再会するまで、その結婚騒動はすっかり忘れていた。25年ぶりのTくんの隣には、年下のかわいい奥さん。それで思い出した。関西弁を上手に話すその女性、アレイさんが15年前の国際結婚の相手なのだった。

◆学生時代の思い出話もそこそこに、二人のなれそめを興味しんしんで聞く。その後Tくんは何度か滋賀の地元の教会に日曜日ごと通ったが、なかなか洗礼を認められず、むしろミャンマーに残ったアレイさんが役所と交渉して結婚証明書をもぎ取ったのだとか。ヤンゴンでの結婚式ではTくんが知らない名前で奥さんが呼ばれ、それで戸籍名とは別にミゾ語の氏名があることを知ったとか。

◆ミゾ語とは何ぞや。ミャンマー東部のインド国境に暮らすミゾ族が使う言葉で、そこには19世紀に英国人伝道師によってキリスト教が伝えられ、伝道師たちがミゾ語を表記するのにアルファベットを用いたせいで、以来ミゾ族は英語も抵抗なく受け入れている。ミゾはインド側ではミゾラムと呼ばれていて、その州都のアイゾールはミャンマーのミゾ族にとってもいつか訪れたい「聖地」だ――。

◆あれ、この「ミゾラム」はなんだか聞いたことがあるぞ。2020年2月の地平線報告会、延江由美子さんの資料に出てきた。延江さんの赴任地、ナガランドと同じくインド北東部7州のひとつだ。延江さんの話はインド止まりだったけれど、当時の宣教師はミャンマーにもキリスト教を伝えていたのだ!

◆地球儀を見れば一目瞭然だけれど、インドの奥地はミャンマーの少数民族地帯と背中合わせになっている。同じ部族が国境の両側に暮らしていても不思議ではない。ネットの発達で私は「世界がわかった」つもりになっていたけれど、そんな世界はほんの狭い範囲で、本当の世界はもっともっと広いのだとビンタを食らった気分になった。

◆「ミャンマー人」と一括りにするなかれ。まるでパズルのピースがはまるようにアレイさんのアイデンティティが想像できて、急に親近感が湧いた。Tくんがアレイさんと結婚して帰国してから10年以上が経つが、この間、夫妻を頼って兄弟姉妹8人が来日し、Tくんの知り合いの工場で働いているそうだ。ロヒンギャの人たちが群馬に住んでいるように、ミゾラムのコミュニティが滋賀にある!

◆後日延江さんに、Zoomを使ってその8人の話を聞いてもらった。ミャンマーの少数民族事情は複雑で、アレイさんは祖父母の代にチン州から移住してシャン州で育ったという。シャン州でもミゾの人々は結束して暮らしており、その根っこには教会がある。牧師を目指す若者も多く、ミャンマー国内でも特に教育が遅れている地域で子供たちに勉強を教えたり医療活動をしながら布教しているのだそうだ。ムスリムのロヒンギャと異なり、クリスチャンが排斥されることは少ないという。

◆日本では教会に行く機会がないが、週末には故郷の料理をみんなで作って食べている。シャン州にも納豆があり、炒めてサラダに入れて食べたりしているそう。今後もミゾ語をはじめ文化を伝える活動を日本でしていきたいとのこと。

◆延江さんとTくんのおかげで思わぬ発見をした。いまのミャンマーは軍事クーデターや映像ディレクターの久保田徹さんの拘束など、キナ臭いニュースばかりが伝えられていて褒められた国ではないが、そんな国も多様な人々のパッチワークでできているのだと見る目が変わった。いつかミャンマーからインドへ国境を歩いて越えられる日が来ることを祈ろう。[落合大祐

外に出てわかる3年のブランクの深刻さ

■前回の続きとなる南半球の現場から。3年ぶりのカーニバルに選んだ出撃先は、サンパウロ、リオ、サルバドールに次ぐブラジル第4の都市ベロホリゾンテ。ミナス・ジュライス州の州都で、近年ブラジル系ラテン音楽マニア注目のミナス音楽の故郷だ。他とは違った際立つリズムや演出が見られるかと思っていたが、結論から言えば音楽もパッとせず地味でゆる〜い祝祭であった。カーニバル評論家の基本的立場としては「カーニバルに優劣はない」のがお約束なのでこれ以上の論評は避けるが、ともあれ3年ぶりの完全解禁祝祭は世界最悪のコロナ禍を生き延びた歓喜、笑顔と生命の喜びに満たされた佳きものであった。

◆それより何より3年間のブランクの深刻なこと、勘を取り戻せぬまま終了となった感が大きい。そもそも、この街の街路区画は放射直行型という縦横碁盤の目に45度斜めの通りが組み合わされた超複雑な都市構造で、路上観察徘徊探索が機能しない。治安状況も見極められず、3人以上の悪ガキ風がたむろしていると襲われる気がして腰が引ける。加えて、久しぶりの現場でポルトガル語もスペイン語も空回り。当然知っているはずの単語が浮かばず、あわわわわっと言っているうちに会話終了。リハビリにはしばし時間が必要となりそうな今日此の頃なり。

◆ところで先月号の通信発送請負人お手伝い係の欄に「特筆はこの3年、皆勤賞だったZzzがいないこと。なんとカーニバル取材についについに行ったのだ」との記載があった。3月は太平洋の彼方で参加不能だったが、正直に申告すると実は1回だけ欠席があるのでこれは正確ではない。2020年3月ハイチほかカリブ海の島々のカーニバル取材から帰国して以降、コロナ禍で海外渡航どころか屋外散歩すら憚られる世の中となってしまったが、個人的に日本滞在中は最優先で通信発送に参加というのがお約束。やや無理くりやり繰りで毎月律義に参加してきたが、皆勤賞の栄誉は車谷建太くんだけで、当方は次点の残念賞です。

◆毎月の報告会が開催不能の状況下で、手に汗握る現場からの声は途絶え、通信はそれに代わる役割を担うこととなってきた。書き手の表現力やら集中力が試される場ともなってきたはずだが、加えてアナログ紙媒体の編集印刷発送に尽力してきた面々の労を多とすべし。それにしても、当初は元気な顔を見せてくれていた森井さんの不在は、ただただ辛く切ない。[Zzz-カーニバル評論家@黄色いお星さまボタンの謎解きは次号にて!]


森井祐介さん追悼
森井祐介さんのことをみんなが語った
長年地平線通信のレイアウトを担当してくださっていた森井祐介さんが、3月16日に84歳でご逝去されました。訃報を受け、全国各地の仲間たちからメッセージが届いています。

森井さんのお墓参りをしてきました

■江本様 先日は森井さんの葬儀に参加させていただきありがとうございました。森井さんにはいろいろお世話になりました。私のDTPソフトは安価なものでしたが森井さんはすでに高級ソフトを駆使していました。私も使い方を教わりたかったのですがそのソフトが買えなくて涙をのみました。森井さんの技術は私にとって遥か彼方でしたが、今の若い人は大したものですね。もうきちんと継承しているのですから。江本さんの人材育成が素晴らしいのだと思います。

◆ところで本日花見を兼ねて森井さんの墓参りをしてきました。江本さんも昔通学していた東京外語大への道脇の「飛天塚」に眠っています。森井さんが江本さんとも私たちとも縁のある場所に眠っておられること、不思議な感じがします。

◆先日の葬儀のときに取り仕切りをしてくれた米山さんと話をしたところ、森井さんが「もやいの会」と生前契約をしていたことを聞きました。もやいの会は田口幸子さんのイスラエルのキブツ時代の仲間の松島如戒さんが設立した日本で最初の生前契約システムです。私たちも立ち上げのときに「すがも浄苑」でお手伝いをしたことがあります。関根晧博さんはなんと専属カメラマンとしてあちこち飛び回っていました。人生なんの縁があるかわかりませんね。

◆4月15日に森井さんを偲ぶ会が行われるとのこと。参加したいのですが、4月10日から沖縄に行きます。私の教え子が今那覇に住んでいてシーサーと狛犬の関係を調べたいというのです。彼が数日間車を出してくれるというので少し回ってみようと思っています。もう車を運転することがないので、旅行中はいつも若い人に頼っています。[三輪主彦

66才でレイアウトデビューした森井さんに学ぶこと

■今年1月、地平線通信の発送に参加した数日後、ひどい腰痛と股関節痛にみまわれました。屈めない。しゃがめない。かといって椅子に座っても横になってもだるい。靴下をはくのがつらい。ジーンズのゴワゴワが腰にあたっても不快。初めての難儀。そういえば、通信発送の時にKくんが腰痛を訴えていた。腰痛ってうつるの?

◆運動不足に違いない。水泳を習っているスポーツジムで、手当たり次第にヨガとピラティスとジャイロキネシス(これは初耳のエクササイズ)の初心者クラスに通うことにしました。ちなみに、『ヨガはインド発祥。瞑想を目的とし、呼吸を整えながら身体・感情・精神の健康を改善するもの。ピラティスは、ドイツ人ピラティス氏が考案した、元々はリハビリが目的の運動。インナーマッスルを強化し姿勢やバランスの改善を目指すもの。

◆ジャイロキネシスは、ニューヨーク生まれ。ダンサーのためのヨガと呼ばれ、体幹を鍛えバランス感覚を養い、身体を良好に維持するのが目的』ということらしい。レッスンに参加してみると、硬くて筋力のない身体。おまけにバランスも悪い。いやはや、いやはや。それでも、二か月続けてみると痛みはほとんど解消。姿勢や歩き方、身体の癖が人を作るのだと実感。ヨガマットも購入したし、ウェイトトレーニングも追加でスタート。身体が変わっていったら面白いな〜。楽しみ楽しみ。

◆楽しみといえば、茅ヶ崎ゆかりの人物についての学習会。久しぶりの勉強が面白い。茅ヶ崎にあった結核療養所南湖院(なんこいん)で平塚らいてうがのちの伴侶に出会ったとか、その伴侶が手紙に書いた「若い燕」という言葉が「年上の女性の愛人になっている若い男」の意味として使われるようになったとか。旅館茅ヶ崎館で脚本を執筆していた小津安二郎はほとんど毎日お鮨を食べていたとか。元々興味を持っていた人物たちのたくさんのエピソード。講義を聴くだけでなく、当時の日記を精読する方法を知り、自分の手で解明していくのは新鮮でした。今も、次の課題で頭を悩ませているところ。

◆一番面白がるべき染織は、「充電中」という便利な言葉でごまかしながら、あまり制作できていません。言い訳をせず手を動かさなくちゃ! 先日、現代美術作家と話す機会があり、強い刺激を受けて構想だけは浮かんできました。今までの工芸的な作品だけじゃなく、美術的な作品を制作できたら!と目論んでいます。工芸と美術の違いを考えて、両方制作できたら最高だな〜。

◆ところで、先月亡くなられた森井さんのこと。辿ってみたら、18年前の2005年7月号に初めて「レイアウト:森井祐介」とありました。当時66才! 現在の私よりちょっと年上、大して変わらない年齢。どんなお気持ちで引き受けられたのかをお聞きする機会はないままでした。毎月の編集のたいへんさを見かねてと想像しますが、「楽しそう やってみようかな〜」と思わないとできないお仕事。どちらかというといろいろ手放し始める年齢から、18年も続けてこられたのは並大抵のことではないですね。いや本当は、やりたいことだけをやり始める年頃なのかもしれません。森井さんのレイアウトデビューの年齢を知って、最近始めた楽しいことが、ずっと続けられるような気持になりました。

◆関東を離れていたおととしまでの22年間、参加した報告会はたぶん数回。それでも変わらず地平線会議を身近に感じていたのは、毎月届く通信と江本さんからの突然の原稿依頼の電話のおかげ。今、発送作業に参加するたびに、遠い町で通信を受け取っている方々に想いを馳せています。そして、報告会の再開、本当に嬉しくて楽しみ![中畑朋子

ふらりと島に現れた森井さん

■こんにちは。昨日左目の白内障手術しました。先月の誕生日で還暦になって、もうおばあの仲間入りです。

◆浜比嘉島で「地平線あしびなー」が開催された数年後、突然森井さんがひとりでふらっと我が家に立ち寄ってくれました。バスを乗り継いでたどり着いたということで、「いやー、なかなか時間がかかるねー、でもバスの旅は楽しい」と。昇がかまどに火を入れお湯を沸かし、豆を挽いてコーヒーを入れ、しばしのゆんたく。「お、本格的だね」と言ってくれたのが嬉しかったことを、昇は覚えているそうです。

◆私はそれまで森井さんが囲碁にあんなに詳しい人と知らなかったのです。沖縄には、囲碁仲間を訪ねる旅なんだと言いました。あちこちの囲碁クラブを訪ねるのだと。「囲碁の道場破りだねー」と言ったら笑ってました。

◆すると昇が、「そういえば自分が幼い頃、縁側や家の前で、おじいたちが囲碁みたいのをしていたような」と言うのです。「そうだね、昔は沖縄は囲碁が盛んだったんだよ、今も宮古島などは囲碁が盛んだよ」ということでした。「へえー! そうなんだー!」という話がポンポン飛び出して、私は、「森井さん、地平線報告会で囲碁旅の話、してくださいよ」と言ったのを覚えています。森井さんは、「自分は裏方だよー」って笑ってた、と思います。

◆コーヒーを飲み終えて、「じゃ、これから伊計島行きのバスに乗るよ」と言って別れました。またいつか囲碁旅の途中でうちに寄ってくれると思ってました。森井さん、お会いできて嬉しかったです。ぐそー(あの世)でも囲碁仲間を見つけて楽しく過ごして下さいね。おつかれさまでした。[浜比嘉島 外間晴美

森井さんがテンカラ食堂に来てくれた日

■キャップをかぶった小柄なおっちゃんが、ゆっくりと引き戸を開けて入ってきました。「森井です」とおっしゃいましたが、目の前の人の佇まいと、あの緻密な、文字組のパズルのような地平線通信のレイアウトをする方とイメージが重ならず、すぐには一致しませんでした。

◆2018年3月29日(木)。森井祐介さんが初めてテンカラ食堂に来てくださった日です。武田さんと岸本夫妻も来られて奥の座敷はにぎやかでした。その日の定食はチキンピカタ・ポテトサラダ・小松菜のナムル・ごはん・味噌汁・漬物。翌日の夜も森井さんは来てくださって、今度はカウンターの端に座られて少し話をすることができました。大阪の碁会所を訪ねる旅だと聞きました(定食:しのだ焼・ほうれん草と新玉ねぎのおひたし・おからサラダ・ごはん・みそ汁・漬物)。

◆次に来てくださったのは2018年11月20日(木)。その日に乗ったいくつかの電車の切符をカウンターに並べて、大阪を走るチンチン電車・阪堺線に乗れたと嬉しそうでした(しのだ焼・小松菜おひたし・さつま芋といんげんの胡麻和え・ごはん・みそ汁・漬物)。

◆最後に来てくださったのは2019年7月30日(火)。いつも早い時間にふいに来られて、「僕は呑めないから、すみません」と、定食を注文してくださいました(チキンピカタ・小松菜とアゲの煮びたし・白和え・ごはん・漬物・みそ汁)。森井さんと何を話したかあまり覚えていません。調理や接客をしながらなので、あまり話せていないのかもしれません。それでも、もの静かでやさしく、茶目っ気のある人柄に親しみを感じていました。

◆そのあとコロナがやってきて、お店は閉めたり開けたり、時短にしたり、持ち帰りのお弁当や、朝ご飯をやってみたり、右往左往しながら、またふらりと森井さん来てくれる日がきたらいいなと思っていました。扉の前に笑顔で立っている森井さんを思いがけず見つけることがもうできないのは、さびしいです。

◆そして、4回しか来ていないのに、たまたまだけど、鶏肉と小松菜ばかり食べさせてしまったことに気づいて、うっ(-_-;)となりました。[大阪・テンカラ食堂 井倉里枝

★5月でテンカラ食堂も9年です。自分でもビックリです。地平線のみなさんにも応援していただいて、ほんとうにありがとうございます!

森井さんイラスト

 イラスト 井倉里枝


森井祐介さんとのお別れ

◆3月18日のお別れの日、あまりに早い火葬時間に驚きつつも、お骨になった森井さんにお別れができたことに安堵しています。ただ、自分の中にまだ言葉にならないざらっとした思いもあります。たぶん、自分の中にある仏になるための儀式がなかったことへの違和感かと。

◆落合斎場は、一昨年9月、突然逝ってしまった夫を見送った場所でもありました。最後に森井さんの遺骨を抱えた葬儀会社の人を見ながら、夫の納骨の際に直前まであたふたしたことを思い出しました。納骨は故郷の金沢の菩提寺で行いました。今となっては笑っちゃうことですが、ずっとその日がくるまでの私の心配事は、骨壷がお墓に収まるかどうかだったのです。というのも、故郷での火葬ではあんな大きな骨壷ではなく、もう少し小さな壺に一部だけ入れてお墓に納骨します。だから、刑事ものとかテレビドラマを観ながら「デカイ遺骨だなぁ。東京の人のお墓はどんな造りになっているんだろう」と思っていました。

◆金沢では、前日に住職に相談し、火葬場の売店に骨壷が売っていると聞いて購入。四十九日の法要後、その小さな壺に入れ替えてなんとか納骨を終えました。残りは、自然素材の白い布に入れて同じお墓に入れなさいと住職に言われたので、サラシの骨袋(これも売店で購入)に入れて収めました。

◆森井さんも、小さなものに入れ替えて納骨され、残りは寺院の本部で供養されるそうですね(と、葬儀会社の人が)。それを伺って、そりゃそうだろうなと妙に納得した日でもありました。[八木和美


あとがき

■毎号、このページの奥付には編集長以下編集スタッフの名を記録している。先月号までは必ず森井祐介さんの名も含まれていた。3月16日に逝かれ、斎場でのお別れも済ませたので今月からは外させていただく。そう言いながら、実は私自身は毎日森井祐介さんの笑顔と向き合って暮らしている。

◆3月18日、落合斎場でのお別れの際、森井さんの素晴らしい笑顔が飾られた。2008年、浜比嘉島で「地平線あしびなー」をやった際、丸山純さんが、金井重さんと森井さんに並んでもらって“笑顔の2人”を撮った。そこから森井さんだけを拡大したのだ。最後は妹のしのぶさんに贈られたが、江本さん、保管しておいて、と私のもとに来ることに。

◆親や兄弟との肖像とは違って、なぜか森井さんの笑顔はけして飽きることがなく、いまも生き生きと微笑みかけている。なんとも不思議なことだ。この15日に森井さんと頻繁に会っていた餃子のおいしい「北京」でささやかな偲ぶ会を開くが、その際もこの笑顔がみんなをなごませてくれるだろう。

◆久々の長野画伯による報告者紹介イラスト、これぞ地平線通信! という気持ちにさせてくれた。ありがとう。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

沈黙の街

  • 4月22日(土) 13:00〜15:30 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「これがあのパルミラ……」フォトグラファーの小松由佳さん(41)が3年ぶりに訪れたシリアの古都は、穴の空いていない家がなく、アイスクリームのように溶け落ちたコンクリの廃墟が数キロも続いていました。IS(イスラム国)に占拠されたため政府軍の空爆を受け、8割が壊滅。世界遺産の都市遺跡も破壊されています。人がここまで残虐になれることがショックでした。シリアは現在観光ビザを発給しておらず、シリア人の夫の親族訪問ビザをようやく入手しての入国。内戦以降のシリアを今見るべきと決意し、死も覚悟していました。滞在中は警察の監視下におかれ、1日15分しか外出できない軟禁状態。もちろん野外での撮影は禁止でした。

3年ぶりに復活する報告会第一弾は、昨年7月〜10月にかけてトルコ南部のシリア難民とシリア国内を訪ねた小松由佳さんで幕開けです。現地の人々の内側に寄り添ったお話に乞御期待!!



地平線通信 528号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2023年4月10日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section