2021年3月の地平線通信

3月の地平線通信・503号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月17日。都心の正午の気温は17℃。桜の満開までもう一息だ。ただし、果たしてお花見ができるのかどうか。新型コロナ・ウィルスについて世界保健機構(WHO)がパンデミック宣言(2020年3月11日)を表明して1年、期限となるこの21日で緊急事態宣言を解除できるのかどうか、東京、神奈川、埼玉、千葉の首都4都県で緊張が高まっている。

◆一度は終息に向かう気配を見せた東京は先週あたりから再び感染者数が増加し始め、きのう16日の新規感染者数は300人、きょう17日はなんと407人と急増、事態は予断を許さない状況だ。おまけに目立つのが「変異種」による感染の不気味な広がり。小学生など子供たちも感染すると言われている。

◆どういうわけか“科学先進国”だったはずの日本はワクチン対策が驚くほど遅れていて、せっかく“ワクチン迅速接種指揮官”に任命された河野大臣も打つ手なしの状況に見える。私のような年寄りですら、果たしていつになったら接種にあずかれるのか、いまだ見えない。

◆予断を許さない状況といえば、中国の露骨な海洋進出に伴う台湾海峡の緊張だ。きのう16日、バイデン政権下で初めての日米外務・防衛担当閣僚会合、いわゆる「2プラス2」が開かれ、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、対中牽制(けんせい)を前面に打ち出すものとなった。本心は中国と友好的関係でいたい日本だが、はっきり日米を基軸とする外交姿勢を打ち出したとも言える。台湾をどうするか。コロナ禍の戦いと並行して、いまや世界のトップをうかがう中国との付き合い方がまさに問われそうである。

◆3月3日。ひなまつりの日の朝日新聞夕刊を見てびっくりした人は多いだろう。なんといきなり一面トップに[「地平線会議」会報誌500号突破]の見出しなのである。さらに、横組みで[ユニークな「地球体験」触れる醍醐味]「本格派も愛好家も 活動を記録・共有して40年」と大きな字が踊っている。メディアに地平線会議が紹介されることはこれまでもあったが、せいぜい社会面、文化面、スポーツ面の片隅といったところで、今回のような扱いは全く初めてだ。信じられないことに、一面の3分の2を地平線会議が占めているのである。

◆早速あちこちから、電話やメール、ラインが飛び込んできた。どれも素晴らしい! びっくりだー! という感想が多かった中で「どうして江本さんのいた読売ではなく朝日が?」という素朴な疑問が目立った。私は自分の経験からなんとなくわかる。いわゆる“自社もの”にはこだわらない、という感覚が新聞記者にはあり、価値ある話題であればライバル社がからむものであろうとなかろうとかなり自由に判断するのだ。

◆もちろん理由は別にあるかもしれない。この際、書いたご本人に聞いてみるのが手取り早い、ときのう筆者の宮地ゆう記者に電話でお聞きした。宮地さんによると、最近の朝日新聞では夕刊の一面はカバーストーリーで行こう、という編集方針があるのだそうだ。もちろん、大きな事件など日々起こる国内外の政治、経済、社会的なマターは優先されるが、紙面が取れる場合は、下方に2、3本の通常の記事を掲載し、面白い話題をほぼ一面を使ってどーんと組むことになるとのこと。今回、私と会って話を聞き「地平線通信500回」は一面で行ける、と確信し、さらに宮本千晴、長野亮之介に取材して、よし!となったらしい。

◆実は、宮地記者は14、5年前から地平線会議のことを知っている。野宿野郎や糞土師のことを記事にしたこともある。何年か外国勤務になった折も、出版社の仕事をする母上が代わりに地平線通信を読んでいたとのこと。そういう人なので、私ははじめから安心して対応できた。そして、自分が一記者であったとしても、宮地さんと同じ感覚を持てるような気がした。自分でやっているので言い方は気をつけなければならないが、地平線会議という仕事はそういう扱いに値する、とひそかに考えるのである。今月は朝日新聞のご理解を得てこの通信の読者に「3月3日夕刊一面」を同封する。

◆新聞に大きく掲載されることを目的としているわけではないが、今回の報道で地平線のことなど全く知らなかった若い世代が関心を持ってくれるとしたら、何よりも嬉しい。42年やってきたのを振り返ってみて、自分はこの仕事を明日の世代に、今あるホンモノとしてしっかり伝えたいという気持ち、それだけでやって来たのだ、と感じている。

◆3月に入って、荒木町の我がマンションのまん前の割烹2店が相次いで閉店した。新型コロナ・ウィルスの影響もあるが、建物の老朽化がおもな理由らしい。いま跡地には何もない。そのうち夏の終わりか秋風の吹く頃、6階建てかそれ以上の新しいビルが建ち、我が家から空はまったく見えなくなるだろう。42年、地平線会議の誕生とともに犬たちと過ごした住まい兼事務所だが、いつまでこの街で暮らすことができるだろうか、とも思う。(江本嘉伸


3.11 その後の10年

東日本大震災の10年を振り返る

■2011年3月11日。東日本大震災の当日は、前日までの中山道の「宿場めぐり」を終え、伊勢原(神奈川県)の自宅に帰っていました。そこで大地震を体験したのですが、震源地から遠く離れた伊勢原でも震度5弱の揺れで、今までにないような不気味な揺れ方でした。すぐにテレビをつけると、衝撃の映像が映し出されていました。東北太平洋岸の各地が大津波に襲われている光景は目を覆わんばかりで、茫然自失の状態になりました。それからはテレビや新聞の報道を食い入るように見る毎日でした。あまりの衝撃の大きさで、体が動かなかったですね。

◆東北の太平洋岸に旅立ったのは、震災から2か月たった5月11日のことでした。すぐに行きたいという気持ちの反面、衝撃のあまり、体が動かないような状態だったので、なかなか足が動かなかったというのも事実です。ほんとうに大変なことが起こっているところに行ってもいいものか……、という迷いや恐怖もありました。しかしぼくには地図(ツーリングマップル)づくりという仕事というか、使命感に似たようなものがありましたので、まずは現状を見なくてはいけないと強く思いました。

◆ということでバイクを走らせ、「鵜ノ子→尻屋崎」を開始したのです。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。「鵜ノ子→尻屋崎」を走れば、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てまわれると考えたからです。バイクの機動力を生かし、どの道が通れるのか通れないのかを見極め、被災された東北太平洋岸の全地域に足を踏み入れ、それを多くのみなさんに伝えようとしたのです。

◆「鵜ノ子岬→尻屋崎」の第1日目は忘れられません。東京から常磐道で東北に入り、20時、いわき勿来ICに到着。常磐道はここまでまったく問題なく走れました。夜の勿来(いわき市)の町を走りましたが、ここでは大地震、大津波の影響はほとんど見られませんでした。JR常磐線の勿来駅に行くと、いつも通りの勿来駅でした。勿来駅前から国道6号で東北と関東の境の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして東北側が勿来漁港、関東側が平潟漁港になります。人影のまったくない勿来漁港岸壁の屋根の下にバイクを止め、その脇で寝ることにしました。

◆そこへ地平線会議の仲間の渡辺哲さんが来てくれたのです。渡辺さんにはカンビールと「バタピー」、「アーモンド&マカダミア」、「チーかま」を差し入れてもらいました。遠慮なくカンビールをいただき、飲みながら「渡辺情報」を仕入れました。渡辺さんの会社はいわき市内にあります。仕事の合間にバイクで福島県内をまわっているので、「渡辺情報」は正確で豊富でした。渡辺さんの家は楢葉町にあります。楢葉町のみなさんは全員、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で強制的に避難させられたのです。大地震の被害を受け、大津波の被害を受け、それに追い討ちをかけるように原発の爆発事故の影響をモロに受けた渡辺さんでしたが、二重苦、三重苦を吹き飛ばすかのような、いつも通りの元気さ、明るさが印象的でした。

◆鵜ノ子岬を出発して尻屋崎を目指したのですが、福島県の太平洋側の浜通りでは、広野町と楢葉町の境で国道6号線は通行止になっていました。警察車両がズラリと並んだ物々しさ。そこから北へ、南相馬までの迂回路は大変でした。林道経由で国道399号線に出ると、川内村、葛尾村を通り、浪江町の赤宇木から峠を越え、飯館村の長泥に下ったのです。赤宇木、長泥といったら、原発事故の影響で、最も放射線量の高いところでしたが、国道399号は通れました。長泥から林道経由で南相馬市に入ったのですが、浜通りは完全に分断されていました。

◆宮城県では阿武隈川河口の荒浜には入れたのですが、名取川河口の閖上は立入禁止で入れませんでした。石巻は甚大な被害を受け、残骸となった車の山があちこちにできていました。学校の校庭には、大津波で亡くなった人たちの墓標がズラッと立っていました。胸のしめつけられるような光景でした。石巻漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられていました。女川の惨状は目を覆うばかりで町全体が壊滅状態。瓦礫の山でした。

◆女川一番人気の水産物を売る「マリンパル」は廃墟と化し、女川駅や駅前温泉の「ゆぽっぽ」は跡形もありませんでした。気仙沼の海岸地帯には無数の大型漁船が乗り上げていました。その中をかいくぐってバイクを走らせたのですが、まるで迷路を行くようでした。岩手県に入ると、陸前高田のあまりにもすさまじい被害には声もありませんでした。高田松原は消え去り、海岸一帯に押し寄せた海水はそのまま残り、一大湿地帯のような状態でした。大船渡では高さが明暗を分けていました。大船渡港周辺の大船渡は壊滅状態でしたが、町続きの盛はわずかに高いので、ほとんど大津波の被害を受けていませんでした。

◆鵜住居(釜石)から大槌、山田まではバイクで走れば30分ほどの距離ですが、その間での大津波による犠牲者は3000人を超えました。このような大津波による惨状は宮古からさらに久慈まで続きました。青森県に入ると、八戸漁港や三沢漁港が大きな被害を受けましたが、白糠漁港(東通村)まで来ると、震災前と変わらない活況を見ることができてホッとした気持ちになるのでした。

◆東日本大震災から4年目の被災地をマイクロバスでまわった「地平線会議移動報告会」(2015年4月18日〜19日)も忘れられません。福島県内の「いわき市〜富岡町」を見てまわりましたね。大震災4年目の浜通りは、大きく変わりました。3月1日に常磐自動車道の全線が開通したからです。移動報告会がスムーズにできたのも、そのおかげでした。国道6号は通行止でしたが、常磐道の開通によって南北に分断されていた浜通りはやっとひとつになった感がありました。

◆浪江ICから国道114号で浪江の町中を走り抜けて国道6号に出ましたが、まさかこの区間を通り抜けられるようになるとは思ってもいませんでした。国道6号との交差点から海岸一帯の請戸地区に入れたのは、江本さんや案内してくれた渡辺さんの尽力のおかげで、許可証を取れたからです。東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で一般人の立入禁止のつづく請戸地区には、3.11の大津波の惨状がまだそっくりそのまま残っていました。海岸のすぐ近くにある請戸小学校は、幸いにも全校生徒が避難して無事でした。その後、福島県の「震災遺構」として残されることになりました。

◆請戸地区を見てまわったあとJR常磐線の浪江駅前へ。ここも許可証がないと、一般人は入れない地区でした。まったく人気のない駅周辺を歩きましたが、ゾッとするような不気味さを感じました。2011年3月11日の14時45分までは、町はにぎわい、浪江のみなさんはごくごく普通の生活を送っていたのに……と思うと、胸が締め付けられるような思いでした。浪江駅前の新聞販売店には、配達されずに積み上げられた地元紙の「福島民報」が残ったままでした。新聞の一面には「原子炉建屋で爆発」の大見出。3.11を境にして時間が止まってしまったかのような浪江でしたが、その後、町の避難指示が解除され、国道6号が通行可となり、JR常磐線が再開してからは復興が加速しています。新しくスーパーのイオンもできました。

◆あの東日本大震災からまもなく10年を迎えます。「あれからもう10年か……」と、月日の流れの速さを感じます。この10年間で東北太平洋岸の復興は急ピッチで進みました。災害公営住宅の大半は完成し、盛土をして地盤を高くした新しい町並みも、高台移転をした家並みもその姿を現してきています。万里の長城を思わせる大防潮堤の大半は完成しました。常磐道が全通し、現在では全線の4車線化工事が進んでいます。三陸道も毎年延伸し、全線開通が視野に入ってきました。

◆さらに高速道でいえば、「相馬〜福島」間の東北中央道の全線開通が目前ですし、「釜石〜花巻」間の釜石道の全線が完成しました。「宮古〜盛岡」間の宮古盛岡横断道路も、一部区間が開通しています。これらの高速道路は東北太平洋岸の背骨になるものですが、震災前にはここまで早く高速道路網が完成するとは夢にも思いませんでした。ズタズタに寸断された鉄道網も復旧しています。JR常磐線の全線が再開し、特急「ひたち」が被災地を走り始めると、すぐさま「品川〜仙台」間を乗りました。感無量でした。大津波で大きな被害を出したJR仙石線が復旧した時も仙台から石巻までの全線を乗り、高台移転した新線の東名駅、野蒜駅を見ました。

◆JR山田線の一部(宮古〜釜石)は三陸鉄道に移管されました。全線が開通した時は、「盛(大船渡市)→久慈」間の三陸鉄道の全線に乗りました。こうして次々に復興していく東北太平洋岸の「今」を見るのはうれしいものです。それだけに東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故さえなければ……という思いは、よけいに強くなってきます。

◆東日本大震災の10年目を目前にした先日(2月13日)のM7.3の大地震には肝を冷やしました。津波が発生しなくてほんとうによかったですね。それにしても10年前の地震の余震がM7.3というのは信じられないことでした。2011年3月11日のM9.0という本震の超巨大地震が、いかにすごいものだったかを改めて教えられたような気がします。M9.0というのは日本の歴史上、最大級の地震です。この時、地震のみならず「三陸大津波」を改めて考えてみました。

◆仙台以北の三陸海岸は明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、そして今回の平成三陸大津波(2011年)と3度に及ぶ大津波の大災害を受けてきました。それら3度の「三陸大津波」を乗り越えられたのは、三陸海岸の海の豊かさがあるからだと思いました。「日本の宝」といってもいいほどの豊かな海のおかげで、三陸の未来は限りなく開けていると思いました。

◆東日本大震災から10年の今年も、3月11日に「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。今回が第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になります。東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎」のほかにも、例えばいわき市や石巻市、大船渡市というように、各エリアごとに何度となく足を運んでいますので、この10年間で東北太平洋岸に行った回数は100回近くになります。そのうちの2013年と2015年、2016年の3回、『地平線通信』で「鵜ノ子岬→尻屋崎」を書かせてもらっています。それがぼくにとってはすごくいい記録になっています。

◆「鵜ノ子岬→尻屋崎」はこれからもやり続けますので、我が生涯を通してのライフワークです。今回の第26回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では目を大きく見開いて、東北太平洋岸の「今」をしっかりと見てきます。東北のみなさんと一緒になって、東北の復興を喜び合ってきます。そして帰ったら、『地平線通信』に「東日本大震災の10年後」を書かせてもらいたいと思っています。(賀曽利隆

南三陸に教わったもの

■2011年3月25日、車で宮城県内陸部にある登米市に向かった。地平線会議の仲間でもある広瀬敏通さんらが東日本大震災を機に立ち上げた「RQ市民災害救援センター」の東北現地ボランティアに参加するためだ。自分が行っていいものか迷いもあったが、江本さんの強い後押しで決心することができた。

◆夜だったので外の景色はあまり見えなかったが、東北に近づくにつれ、高速道路は地震の影響で波打つようになった。揺れる車中で「自分に何ができるだろう」と考えていたが、結局、「行ってみないと分からない」という結論しか出なかった。ただ、3年前に自分が父親を亡くした時にたくさんの人に支えられた経験から、「誰か一人の力にでもなれたら」という思いだけはあった。

◆夜が明けて、RQの東北本部である登米市立旧鱒淵小学校の体育館に到着した。辺りの山々や畑は雪で白く、一瞬で手がかじかむ寒さだった。体育館の中に自前のテントを張り、寝床を確保した後、さっそく全国から届いた支援物資の整理を始めた。ここから沿岸部の津波被災地へは、車で30分から?1時?間ほど。この時のRQは、津波被災地を回って物資を届けながら、物資が届いていないところを調査したり、片付けの手伝いに行ったりという活動をしていた。

◆実際に現地へ行くと、家は流されなかったが、車のガソリンが無かったり、家が流された人に申し訳ないと遠慮して、物資をもらいに行くのを我慢していた人も多かった。全国から集まったボランティアは皆必死で作業をしていて、傍に置いてあった広瀬さんのダウンジャケットが支援物資として持って行かれてしまったこともあった。とにかく常に緊張感が走っていて、思い返せば毎朝、江本さんが福島第一原発からの風向きや空間放射線量を調べて皆に情報提供してくれていたような時期だった。

◆体育館での物資の仕分けには、登米市の中高校生も手伝いに来ていた。「自分も何か仕事(おそらくボランティアのこと)をしないと」とつぶやく高校生、「彼女の町が流された」とうつむきながら黙々と作業をする青年。津波被災地の周辺に住む人々の心の傷の大きさを痛感した。地域の方々も、ボランティアのためにお風呂や食材を提供してくださった。

◆掃除や炊事をしてくれる人もいる。その姿を見ると、「自分にできることを一生懸命にやろう」と、励まされる思いがした。地平線会議の仲間も、何人も現地へボランティアとして駆けつけた。馴染みの顔を見ると、私も心からほっとした。東北に来ることができない人も、物資を送ってくれたり、応援の言葉をかけてくれて、心の支えになった。

◆?4月3日?、午前中から見知らぬ人が何名も体育館を尋ねてきた。「避難してきた人はどこですか?」と口々に言うが、何のことか分からない。少しして分かったのだが、南三陸町志津川中瀬町の方々が、二次避難で今日から隣の小学校の校舎へ入ることになったのだという。その話を聞いて、中瀬町の方の親戚や知り合いが尋ねて来ていたのだ。

◆この時に中瀬町のリーダーシップを取られていたのが、後に地平線会議でも報告者となってくださった佐藤徳郎さんだ。地域でまとまって避難して仮設住宅に入るために、区長として奔走されていたということを後から知った時は、その責任感の大きさと行動力に感銘を受けた。当初は様々な配慮から、中瀬町の方とボランティアとの接触は最小限にしていた。

◆佐藤さんの表情も、今とは違って険しいものだった。地域の方々と向き合ってその気持ちを汲み、統制を取り、一方で行政に対しても前例のない事態について意見を上げるという日々が休みなく続いていたのだから、無理もない。佐藤さんを支えたご家族も大変な思いだったことだろう。後に佐藤さんが「今動かなかったら、孫の代まで言われる」と半分冗談混じりで話してくださったこともあった。

◆そんな中、?4月7日の23時半頃?に震度6の大きな地震が起こり、登米市も停電し、水が止まった。中瀬町の方々は全員外へ飛び出して集まっており、ボランティアたちもすぐに駆けつけたという。私は東京の本部と連絡をしていて行くことができなかったが、その後、中瀬町の方々とボランティアたちは、お茶っこや足湯をしたり、子どもたちと遊ぶ中で、だんだんとお互い打ち解け合っていった。

◆中瀬町の避難所に差し入れられた食料をこちらにおすそ分けしてもらうこともよくあり、気づけばご近所付き合いのような、不思議な関係になっていた。それでも避難してきた方の中には様々な心境の方がいたのは確かだ。避難所周りの草取りをしていたおばあちゃんを手伝おうとしたら、「大丈夫だから」と柔らかく断られたことがあった。2年ほど後、その方から「あの時はごめんね、一人になりたかったの」と謝られた。彼女の気持ちに気づけなかったと、今でも心に悔いが残っている。

◆中瀬町の方々は、仮設住宅の建設地についても国を巻き込んで交渉を重ね、二次避難所入所から約4か月後の8月4日、住み慣れた土地に完成した仮設住宅へと移られていった。近所に知り合いがいることで、特に年配の方達はどれだけ安心できたことだろう。その後も集団高台移転地を巡って多くの議論があった。数年後、仮設住宅からは完成した公営住宅へ入居する方が抜け、先に整地された区画に移る方が抜け、賑やかだった場所に、だんだんともの寂しさが漂うようになっていった。そして2017年秋、仮設住宅の住人たち全員の移転を見届けて、佐藤さん自身も再建されたご自宅に入居された。

◆津波被災地で復興が進んでいく様子とは逆に、時が止まったまま胸に残っている景色がある。2012年7月末、地平線会議の仲間と共に福島県南相馬市を訪れた。沿道には除染土を入れた黒いフレコンバッグが立ち並び、畑の雑草は人の背丈を超えるほど伸びていた。小高駅前の駐輪場には、持ち主の帰りを待つ自転車が置かれたまま。町ごと神隠しが起こったような、異様な空気が流れていた。そしてそれが100%人災だということが、原発というものに関心を持ってこなかった自分の中にも重くのしかかってきた。

◆あれから10年。震災当時に知り合った中瀬町の子どもたちは、大学へ進学したり、地元の企業へ就職したりと立派に成長した。佐藤さんは、仮設住宅入居後に再開された農業をご家族で盛り立てていらっしゃる。今も東北に残り、それぞれのテーマを持って頑張っているボランティア仲間たちもいる。私は1年3か月間を宮城県で過ごした後、東北を離れ、今は屋久島で教員をしている。震災から10年を迎える今、多くの人の人生が変わってしまったあの日を思い出すことが怖い気持ちが自分の予想以上に大きくて、戸惑っている。

◆あの震災が無ければ、もしくは発生があと数週間遅ければ、私は今頃、地元の埼玉で教員をしていたはずだ。でも震災は起こり、さまざまな出会いや出来事があって、私はここにいる。今の私に何ができるだろう? 正直、東北のためになるようなことはできていない。今はただ、東北で出会ったたくさんの人たちの顔が思い浮かぶ。あの震災で得たものが今に繋がっているとすれば「目の前の人たち、子どもたちを大切にしたい」という思いだ。これからも東北を思いながら、自分にできることを考えて、そしてもっと広げていけたらと思う。(屋久島 新垣亜美

無人の町に置き去りにされた犬猫たちのことを、見なかったふり、できなかった

 「地平線会議」が大きく紹介されている、朝日新聞を見ました。42年、500号という数字は生半可なものではなく、その間、一号も途切れずに続けているというのは改めてすごいことだなと感心しました。夕刊の一面というのもすごいことですね。

 私が「地平線会議」のことを初めて知ったのは、30年以上前のバイクツーリング雑誌「OUTRIDER」のインタビュー記事でしたが、「こんな人たちがいるんだ!」とワクワクしたのを覚えています。その後、関わりを持たせていただき今に至るわけですが、今回の新聞記事でかつての私のように、「地平線会議」に興味を持ち、行動してくれる人が増えてくれるといいなと思います。特に、コロナ禍にあって大学にも行けない、バイトもできない、旅もできない若者たちに、何か届くものがあったのではないでしょうか。

 さて、東日本大震災から10年の節目を迎えました。

 毎年この時期になるとマスコミや個人のブログなど、あちこちで震災関連ネタをこぞって取り上げます。3月11日をきっかけに被災地のことを思い出してもらえるのはありがたいのですが、TV番組などでコメンテーターが、おかど違いの発言や、あまりにも無知な質問をしていたり、被災地にちょっと来ただけで物知り顔で語るのを見聞きすると、なんだかがっかりします。まったく状況を知らないし、興味もないのに、付け焼刃的に番組を作っているのでしょう。

 福島に住み、原発被災地を定期的に見て来ている私にとっては、「復興」、「除染」、「避難指示解除」、「帰還困難区域」などの言葉は日常的に氾濫していて、「3.11」だけが特別な日ではありません。この先何十年も続く長い復興の過程に過ぎず、年に1回の「3.11」フィーバーには、ちょっと白けてしまうのです。

 そんなわけで、今年の「3.11」は福島県内の雪山にスキーで登ってきました。午後2時46分に黙祷しただけで、あとはまったく普段通りの生活でした。

 ところで、私が動物保護活動に関わったのも、東日本大震災がきっかけでした。

 「福島に住む私が、無人の町に置き去りにされた犬猫たちのことを、見なかったふり、知らなかったことにして何もしなかったら、私はきっと自分を嫌いになる。一生負い目に感じて生きていくことになる」という思いで、10年間、続けてきました。正直、重荷だったり嫌な思いをしたり、そろそろ止めようかと考えたこともありますが、「地平線会議」の40年と比べると、まだ4分の1。もう少し頑張って続けることにします。あと30年、生きていられるかわかりませんけど。(滝野沢優子 福島県天栄村住民)

■追記:時間のあるときに、以下、見て下さい。2011〜2012の、動物レスキューの記録をスライド動画で簡単にまとめました。
  動画「ふくしまのいのちをつなぐ2」
 原発被災地での動物レスキューの記録です。2011〜2012年のものが多いです。

「災害救援集団すばる」スタートします

■仲間たちと進めてきた「災害救援集団すばる」の webサイト を2月16日に公開しました。「すばる」は「統ばる」とも書き、「集まってひとつになる」という意味の日本の古い言葉。おうし座の肩のあたりのプレアデス星団という星の集団です。中国では昴星は、天球二十八宿の西に位置し、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)の四聖獣のうちの白虎が守護しているそうです。ということで、すばるのロゴとキャラクターの白虎のイラストを、長野亮之介さんにお願いしました。

◆トラノスケと呼ぶには色っぽいので、なんとなく「オスカル」と呼んでいます。これからTシャツなどもつくる予定で、この白虎に守られながら、みなさんとつながっていきたいと思っています。応援よろしくお願いします!(ぺこっ) 今回、江本さんに「地平線通信に載せるなら、(クオリティは)わかっているよね」と脅され、プレッシャーとともにあれこれ思い返しています。

◆10年前の3月11日。東京の自宅で大きな揺れを経験し大勢の帰宅難民の姿を眺めた翌々日、私は心筋梗塞で入院中の石川県に住む義母の退院に合わせて帰省し、単調で退屈な嫁生活を送っていました。福島の原発が爆発したために滞在は10日間ほどになり、次第に東日本に起きていることとのギャップに耐えきれなくなって東京に戻りました。都内は計画停電中でイベントは軒並み中止、間引き運転の電車の車内も薄暗く銀座のネオンも消えた東京で、中止されることなく開催されたのが3月25日の383回目の地平線報告会でした。

◆翌26日、江本さんにつないでいただき、西日暮里に開設されたエコセン救援本部(後のRQ市民災害救援センター:以下RQ)でボランティアに参加しました。あれから10年。約1年後、運動体としてのRQは任意団体から一般社団に法人化し、私は成り行きで事務局長になり、何をすればいいのかわからない中で西日暮里と東北に通いました。

◆東北本部を置いていた宮城県登米市の閉校になった鱒淵小学校は、復興の拠点として活用するために、地域の人たちと鱒淵小学校運営委員会を設置して地域団体として着地しようとしていました。しかし、消防法などの問題(だけではありませんが)が浮上し、拠点を閉めることになりました。理科室に残されていた気が遠くなるような支援物資の山、工具、テント、お風呂、車などをほぼ半年をかけて処分し、登米市に鍵をお返ししたことなど、つい数年前の出来事のように思い出します。鬼籍に入った幾人かの人たちの顔も。

◆法人化したRQは、被災地の後方支援に加えて災害教育の研究と普及を掲げていました。が、その後も相次ぐ災害の発生に伴い、2014年から支援活動に動き出します。2014年8月に発生した広島の土砂災害でRQ広島。2015年9月に発生した鬼怒川の決壊による水害でRQ常総。2016年4月の熊本地震でRQ九州。2018年7月の西日本豪雨で再びRQ広島。2019年9月の台風15号の時のRQ千葉として、各地の仲間たちと活動しました。

◆被災の現場にRQを立ち上げて活動する時に私が目指していたのは、泥出しやガレキの撤去作業だけでなく、東日本大震災の時のように、助けがほしい人と支援者のニーズやアイデアがつながっていろんなチームが自然に立ち上がり、やがて地域に根ざした活動に着地するようなボランティアの姿でした。しかし……拠点を置いてボランティアを集めて活動するには、少なくとも中・長期で現地に滞在して、ニーズを集め、地域の人、社協、他団体などとの協働をコーディネートをする人、集まってきた一般ボランティアを現場でまとめる現場リーダー、拠点を運営する人などの人材がいなければ活動は立ち行きません。

◆本来、RQの強みからいえばそこは自然学校の人たちが担うべきところですが、台風や水害などの災害発生の時期は、事業体としての自然学校の繁忙期に重なることが多く、自らが被災の当事者でもない限り自然学校はあまりあてにできません。だから、被災の現場で「RQは何をしているんだ?」と他団体から訊かれても支援活動に参入できないことも。また、RQとして活動することになっても、現地で中・長期に活動可能なコーディネーターが不在では、途中でボランティアを受け入れることすらできなくなってしまいます。

◆「災害救援集団すばる」は、このようなうにゃうにゃな私と、小副川律子さんと村田収さんの3人で始まりました。彼らは、RQ市民災害救援センターのボランティア仲間でもあり、その後も各地の被災地域にボランティアで入りながら、東北の復興を見守り続けてきました。もし今どこかで災害が発生し、個人が災害ボランティアに参加しようと思ったら、どこかの支援団体から入るか、社協の災害ボランティアセンター経由で活動することになります。何度も被災地域に出向き、現場でさまざまな知識や経験を積んだエキスパートともいうべき人たちが、所属を名乗れるものがあったらよいのになぁ……。

◆私たちは、西日本豪雨災害の支援先の広島の拠点(のボロアパート)で、一緒に活動をするためにどうするかなどを話し合ってきました。それが具体的になったのは、2020年7月に発生した「令和2年7月豪雨」後です。ご存知のように、熊本県人吉市や球磨村などは、被害が大きく地元の人だけでは復旧作業が厳しい状況でした。にもかかわらず、新型コロナウイルスの感染の脅威から、今までのように県域を超えた支援活動ができませんでした。RQでも、感染予防の活動マニュアルをどう作成するか、感染者が発生した時にどう対処するかなど、オンラインでの会議は踊り、初動はいろいろ迷走しました。

◆私たちは現地での成り行きをもどかしく見守るしかできない中で、漠然としていた組織化の話を進めていきました。お盆の帰省も自粛中の2020年8月17日、エコセン理事で編集やデザインの仕事をしている山中俊幸さん、RQ広島の現地代表で広島修道大学教授の西村仁志さんを加えた5名で任意団体の設立総会を開催しました。

◆ちなみに、すばるはRQと袂を分かつために設立をしたのではありません。私たちは今後もRQのビブスを着て活動することもあるでしょう。他方で、軽やかに独自の活動を展開することも可能になりました。普段から災害関連の情報共有を行うことで、いざ支援活動が必要になった時、「災害救援集団すばる」チームが結成できれば理想的です。

◆東日本大震災から10年目の今年、私たちが活動をしてきたあの場所やお世話になったあの人たちはどうしているだろうか、と現地に住む人やボランティアの人たちの手を借りて、「3.11から10年」の動画を送っていただくプロジェクトを始めました。直接訪問したいのですが、それはもう少し先になりそうです。このプロジェクトから、RQ河北(後のリオグランデ)代表だったくりこま高原自然学校の塚原俊也さん、各地の被災地で活動を共にした和歌山大学職員の林美由貴さんが合流しています。

◆これをお読みの人の中で、すばるのwebサイトに掲載可能な方がいらっしゃれば、ぜひご一報の上動画をお送りください。また、今起こるかもしれない災害に対し、ゆるく個人がつながっておくために、SNS上にFacebookグループ「すばるトークルーム」を開設しました。前述の webサイト から見られます。こちらもご参加をお待ちしています。(八木和美

福島にはいま、最後の復興バブルが……

■地平線会議の皆さん、大変ご無沙汰をしています。福島県南相馬市の上條です。月日のたつのは早いもので震災から10年が今年でたつのですね。福島駅前のミスタードーナツで江本さんと話したのも約10年前だったのかと、びっくりです。この10年の間に福島県浜通り地区(双葉、大熊、浪江、小高、原町、鹿島、相馬、新地)は目まぐるしく変わり、津波、震災、原発事故による爪痕が残っている場所は本当に限られた場所だけになってきました。新しい道、新しい建物、新しい駅、新しい車、新しい企業、新しい人(笑)など、新しいものづくしな地域になってしまいました。

◆皆さんがバスで見学に来た当初からは想像できない程だと思います。その代表的なのが道路事情です。以前通行止めや規制のあった双葉町、大熊町、浪江町、飯館村は一部を除いて住むことも、通り抜けることも自転車でもバイクでもできるようになりました。沢山あった黒いフレコンパックの除染汚染土の山々は想像を絶する大型ダンプの数によりここ数年でほとんど無くなっている状態です。全て第一原発の敷地内に移動したようです。

◆仮置き場なのだと言っていますが、どこに移動するのでしょうか? 1日2千台近くの大型ダンプが福島県内を走っていたので、それと同じことが有るとは経費のことから想像できません。福島県沿岸部や一部の山間部では、太陽光発電や、風力発電が恐ろしい勢いででき、最近はバイオマス発電が県内にも沢山できました。まだまだできるそうです。上條が掴んでいる情報でも、いわき市から新地町の間に風力発電20基、バイオマス発電2基、メガソーラー3基です。

◆福島県は自然エネルギー推進県に手を挙げたらしく、投資家が喜んで要らないものをたくさん作ってくれています。福島県はやはり、電気を作るのが好きみたいです。原発事故でどれだけ被害を受け、苦しみ、悲しんだ記憶はもうないのでしょう。愚かな県です。あきれてしまいます。一昨年位から、最後の復興バブルが来ています。みんな口を揃えてあと2年だろうと言っています。その後は何もないでしょう。また震災前のいつ企業倒産してもおかしくない地域に戻るでしょう。

◆上條は現在も、林業、障がい児者施設を運営しています。毎日いろんな意味で戦い、ストレスを感じ頭が円形脱毛症でまばらになってしまいました(笑)。震災以降南相馬市から移住を考え続け、事業をやめようと考えれば考えるほど、やめられない状況になり現在に至ってしまいました。今最後の震災バブルでしょう。是非皆さん、機会があればまた南相馬においで下さい。案内をします。誰かが言いました、災害の後には仕事が生まれる、お金がおちる。まさにその状態です。皆さんとまた元気に会えることを楽しみに地域のためにできることを頑張ります。(南相馬住民 上條大輔

「気候正義」について

■10年経ちました。震災から約2年間は気象庁職員として、ロケットストーブを被災地にお届けするボランティアとして、ほとんどの時間を過ごし、南三陸町への移住を決めて退職してからの2年半は、移住のための「トラックハウス」作りに費やしました。移住してから5年半。ずっと南三陸町で暮らしています。地平線通信で南極と震災とロケットストーブのお話をさせてもらったのが2016年1月。そのころはまだ、トラックに「家」を積んだまま町内をうろうろしていました。

◆3年間は南三陸を出ないと決めていた、どころかほんとの定住すら果たしていないのに、南三陸にこられていた江本さんに熱烈にお願いされ、東京まで出かけてしまったんですよね。あれから、5年半。あいかわらず、ロケットストーブ で芋を焼いています。江本さんがことあるごとに「あの時の焼き芋は美味しかった」と言ってくれる焼き芋は、われながら、美味しいです。

◆もちろんロケットストーブは焼き芋のためにあるのではなく、日々の食事や、冬は洗濯(手洗いです)や湯たんぽ、最近では町内の羊牧場の羊毛を草木で染めたりと、あらゆる加熱処理に活躍しています。5年半暮らして、一度手放してみたガスや灯油や洗濯機や冷蔵庫はないままです。冷蔵庫がなくても、そのとき海や里や山で手に入る恵みで美味しく楽しく生きています。むしろ豊かです。

◆先日は手伝いついでに立派なホタテをいただいて、刺身やパスタでいただきました。牡蠣にわかめにタコに、なんとアワビまでいただけることもあります。「アワビは買うもんじゃない」と町民の皆さんが言っていますが、自分にそれが巡ってくるとは思ってもいなくて驚きました。「お互い様」でつながっている町で、何がどう巡っているのか、今でもよくわからないところはありますが、いただけたことは素直に嬉しいです。

◆食べきれないくらいいただくことがあれば、他の誰かにおすそわけして、また何かが巡ってくるのを期待します。お肉は、町内の放牧豚とロケットストーブで焼いたパンを物々交換に近い状態です。鹿肉や猪肉など山の獲物もおいしくいただいています。暖かくなってきて、バッケ(ふきのとう)が出ています。これから山菜が楽しみな季節です。

◆現金収入は相変わらず少ないですが、大工や電気工事、海に田畑に、牛豚羊、動植物の調査、子どもの体験活動など、あちこち首を突っ込んではお金以上のものをいただいています。今年度から「宮城県地球温暖化防止活動推進員」というのになり(温暖化防止というのもなんか変ですが)、南極や気候変動などのお話やロケットストーブづくりもあちこちでさせてもらっています。いただくだけでなく、返しもしたい。お互い様になってればいいなぁと思います。

◆人や自然と繋がって、できるだけ少ないエネルギーで楽しく美味しく心豊かに暮らしたいという理想は、自分なりのやり方でこれからも追求していきたいです。震災のあと、多くの人が「自然に生かされている」と口にしていました。酷い目にあったけど、大事なことを学びました。それを忘れることは、わたしにはできません。しかし、残念ながら「復興」にそれが活かされたとは言いがたい10年後の今です。

◆南三陸の美しく心地いい風景にも惚れたのでしたが、それはとくに海岸線で失われてしまいました。防潮堤や河川堤の工事は終わりが見えてきた感じで、海岸はぐるっと白い壁の風景となり、川も巨大な排水溝です。先日「世界の人工物の総重量が自然物の総重量を超えた」という研究結果を見ました。震災直後、うず高く積まれた被災物のほとんどが人工物で、それを重機がひとつひとつつまんで分別していました。これは人災だと思いました。

◆研究結果に、その風景を思い出しました。人工物では津波に立ち向かえないことを学んだはずなのに、また人工物のゴミを増やす。せっかく津波後の世界に適応してきていた自然物たちも破壊され、自然の理にかなわない人工物(防潮堤とか)に置き換わってしまったところも多くあります。わざわざ巨額のお金やエネルギーをつぎ込んで、わたしたちはどんどん自然とのつながりから切り離されているようです。震災の後、被災者の皆さんが助け合いながら生きている姿や、ボランティアなど他人の幸せのために動ける人を見て、人間ってすごいと思いました。その一方で、被災物の山や防潮堤を見ると、津波よりも人間が恐ろしいと思いました。

◆先日、「気候正義」について初めて学びました。気候変動について、これまで科学の方面からお話ししていたのですが、そもそも経済中心の社会や格差社会など、いまの社会構造そのものが変わらなければ解決はないということは強く思っていました。「正義」という言葉を得て、いろいろな問題がシンプルに見えやすくなった気がしました。不公正や不平等、格差や人権ということについて、いま改めて考えています。

◆南三陸に移住した理由の一つが、都市に暮らしていると人や自然とのつながりを感じることが難しいということでしたが、それが仕組まれたシステムだというのも間違いなさそうです。コロナは、人が自然とのつながりを切れるものではないと教えてくれるものでもあると思いました。

◆コロナといえば、南極観測隊も大変だったようです。前次隊は新型コロナ発現前に出国し、越冬という軟禁状態だったのでよかったのですが、昨年11月に出国した62次隊は、南極にコロナを持ち込まないよう、万全の対策を行ったようです。ニュースなどで知る限りでは、人員削減、隊員は出国前の2週間隔離の上PCR検査を行い、観測船は晴海と昭和基地の間を無寄港で往復、ということでした。ただでさえ大変な輸送や越冬が、さらに困難になったはずですが、観測隊に感染者が出ればそれどころじゃないですものね。

◆南極についての質問で「南極では風邪をひかないって本当ですか?」はよくある質問ですが、最近は「南極に新型コロナがいないのはなぜですか?」という質問が生まれました。チリの基地で感染者が出たようですが、そもそも隔離されてる状態なので、持ち込みさえしなければ安全なところです。62次隊も63次隊が到着するまでは、「風邪をひかない南極」ということで安心でしょう。

◆南極話で、ペンギン5mアザラシ15m以上近づけないルールというと、子供たちから「ソーシャルディスタンス!」という声が上がりました。自然界には自然界のルールがあって、ヒトも自然界の住人なんですよね。子どもすごいな。明日は2021年3月11日です。被災した人たちの思いもいろいろだと思います。ただ、ふたたび同じような悲しみや苦しみが訪れないことを願う気持ちは共通ではないかと思います。

◆2月13日の福島沖の地震は、災害が繰り返しやってくることを思い出させてくれました。明日は、あらためてそれを願う日としたいと思います。また、今後ますます災害が増えることが予想されていますから、震災に向き合った町の、失敗も成功も、それから「コロナ」もこれからに活かしてほしいと願います。(南三陸町住民 石井洋子

報告会のない日々

■報告会で月1回会える顔に会えなくなってから1年になる。相変わらず、あちらこちらに出かけているように見える私にも、多少なりとも変化があった。まず、コロナとは関係ないが、夫の会社が2月末に倒産して残務整理をした。1990年1月の地平線報告会のアジア会館のロビーで初めて出会って結婚してから31年目になる。

◆通信社の特派員時代から、独立してからの21年も取材で不在がちだったから、このコロナ禍の1年ほど一緒に食事を共にしたことはなかったような気がする。お互い様を承知で言えば食事をよくこぼすようになった夫68歳の横顔を見て、あれ、いつの間にか年取ったなとあらためて気が付いた。知的好奇心は今が1番らしくて自転車で図書館に通って、運動不足解消のために近場の古墳巡りをして、週1で市民農園に畑仕事に通う。元気でいてくれることに感謝しないと。

◆コロナで中止になって心底残念だったことに夏に予定されていたモンゴルでの仕事のキャンセルがある。私はこの10年ほど、介護教員の仕事をしてきた。介護保険がスタートした2000年頃に資格を取りキャリアアップしてきた。この数年は海外からの仕事も多くなり、元来、地平線的好奇心が旺盛なので少し無理をしても引き受ける講師が私くらいしかいなかったのかもしれない。 2019年から導入された特定技能制度の9か国の一つがモンゴル。

◆11月に初めて行ったマイナス30度のウランバートルではこれから毎月実施される資格試験のための教員養成講座の依頼だった。スタートして20年経過した超高齢社会になった日本の介護保険制度について、自立支援と尊厳の保持を掲げる重要性と成果。認知症対策などの内容を半年ごとに3ステップで展開する予定だった。厳寒のウランバートルでファーストステップを踏み、ホスピタリティ溢れるモンゴル人気質に触れて、「次は休暇を取って草原にも来てください」と夏の再会を誓ったのに……残念だった。

◆また、もう一つの仕事で週2、3回働いてた京橋のギャラリーモーツァルトも4月から5か月シャッターを降ろした。ギャラリーはアートがあって人が集う箱である。両方ないと成り立たない。アルバイトのきっかけは宮本常一の命日1月30日に縁のある者が参集して先生を偲ぶ会―水仙忌でたまたま隣同士になった教え子のオーナーと話したからだった。

◆20代に勤めていた日本観光文化研究所、宮本先生が取り持つ縁である。アイヌ工芸を扱うギャラリーは少ないが、やはり二風谷や山村文化とのご縁だ。今年はこの水仙忌も1981年に先生が亡くなられて以来初めて中止になった。1年に1回会えることの大切さを想う。2月には飛騨高山の3人展で地平線会議仲間でもある中畑朋子さんらの展示も盛況裡に終えてホッとしている。3月29日〜4月3日までブータン絵画展を私の企画で開催予定である。機会があれば是非足を運んで欲しい。ブータン絵師プンツォ・ワンディさんとブータン美術学校で学んだ日本人絵師ヨーコさんの夫婦2人展だ。

◆この1年の変化と言えば、オンライン講演会が増えたこともある。私もzoomとか苦手意識がある方だが、何回か参加した。ケニアナイロビともモンゴルウランバートルとも繋がることに感動した。その場に集えなくとも空間に制限されないというのは凄いことだなぁと可能性を感じた。

◆反面、やはり人と触れ合う、場を共有しないと伝わらないこと、集中力が持たないことも実感する。山極寿一さんの2月11日の朝日新聞科学季評「コロナ、縮む社交の場、文化の力奪うオンライン」で、『オンラインは情報を共有するためには効率的で大変便利な手段だが、頼りすぎると、私たちが生きる力を得てきた文化の力が損なわれる』を読んで、ハッとして最近日々感じる“疲れのようなもの”に思いいたった。『社会的距離を適切に取りながらも、私たちは「集まる自由」を駆使して社交という行為を続けるべきだと思う』。報告会の再開が待たれる。(報告会受付係、高世泉

震災から10年〜故郷への想い〜

■ 先月に引き続きの投稿となります。東日本大震災から10年を経た原発被災地について、住民としての思いをお伝えしたいと思います。

◆津波により地下の非常用電源が水没し、冷却機能を失い原子炉が水素爆発を起こした福島第一原子力発電所。その稼働は今から50年前の1971年、ちょうど私と同じ年です。当時の福島県浜通りの基幹産業は農業、畜産業、林業等で典型的な農村地域でした。そこに原発が誘致され、地域の振興は一気に加速していき、住民の生活も一変しました。原発稼動後は関連企業を含めると数十万人の雇用を産み出し、大規模なグランドや体育館、文化会館等 様々な施設が国からの交付金により建設されました。

◆そして「原発神話」も生まれました。原発が如何に安全かをPRする施設が建てられ、東電からの広報誌も定期的に配布されるようになり、徐々に原発の安全性を刷り込まれていったのです。そこに発生したのが東日本大震災です。大地震には耐え残ったものの、まさか津波により爆発事故が発生するとは想像もしておりませんでした。

◆地震直後、小学校の体育館に避難していた時のことです。夕方近くに東京電力の担当者がやってきて、事故の状況を説明する場が何日かありました。「いつまで避難していればいいのか、早く自宅に帰してくれ!」と語気を強めて担当者へ詰め寄る人もいて、体育館内は苛立つ住民で殺気立っていました。そんな住民に対し、東電の担当者は「あと2週間程でご自宅に戻ることができると思います」と説明していました。

◆すでに当分の間は戻れないことを担当者は承知していたと思いますが、我々の気を沈めようとしたためでしょう、そのような嘘を話していました。その事故から丸10年を迎えます。いまだに「帰還困難区域」として、住民が戻ることができないエリアが残されています。原発事故の最大の問題、それは故郷を奪ったことだと思います。

◆放出された放射線により、家屋や田畑、山林等全てが汚染されました。未だに線量の高い地域には家屋が残されたとしても元の生活をすることはできません。故郷を追われた住民はバラバラになり、地域コミュニティーは崩壊しました。避難先、移住先で周囲に知人がおらず孤立してしまう人も少なくないと聞きます。生業を失った人も大勢います。福島県は震災関連死者数が他県に比べ突出して多い状況ですが、これらに起因しているのではないでしょうか。

◆原発の誘致により、地域が潤い活性化したことは紛れもない事実です。原発の恩恵を受けて浜通りは発展してきました。ただ、今回の事故による代償は余りにも大きく、故郷に帰ることを諦めざるを得なかった方々の思いは計り知ることはできません。震災から丸10年、まだまだ復興途上です。(渡辺哲 楢葉町住民)


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。別にカンパしてくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの応援歌としてありがたくお受けしています。今回は、朝日新聞に報道されたことから通信購読希望が増えましたが、印刷、発送の余力に限りがあり、できるだけウエブサイトで読んでくださるようお願いしています。なお、長期間、連絡ない方は発送リストから外させてもらうこと、ご了解ください。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多い)ありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

平本達彦(ツウシン 、アリガトウゴザイマス。ネツトハイシンモ、アリガタカツタデス)/小林美子/土谷千恵子/海宝道義・静恵(10000円)/清登緑郎(5000円 通信費+αを支払させて頂きます)/大浦佳代(5000円)/小野寺ひとし(10000円)/水野雅章(地平線通信楽しく拝読させて頂きました)/高松修治/三澤輝江子(10000円 毎月、地平線のかなたにいざなってくださる通信の存在に感動しています。皆さんの原稿、まとめる・発送する全ての方々に感謝しています。江本さん、お元気で! 5年分です)/長塚進吉(4000円 2020年度、2021年度の2年分通信費)/多胡啓次(10000円 毎月の通信、楽しみにしています。しばらく通信費をお支払いしていなかったような!? すみませんです)/大西正一/内山邦昭(10000円 5年分 毎回楽しみに読んでおります。老骨の身となり自粛生活をしていると皆様が様々な方面で活躍している記事を見て本当に元気づけられます)

斉藤宏子(10000円 「500号、おめでとうございます!」別便で自家製の蕗ミソ、柿渋を原料としたあめ、10日以上柿渋水に漬けて殺菌効果を強めたマスク(近所の棟梁さんの手作り)、秩父のお酒・武甲政宗が。斉藤さん、熱い心をありがとうございます! 映像作家だった斉藤実さんは多発する海難事故での漁船員の死を防ごうと、海水を薄めて飲み続けたらどれくらい生き延びられるか、ゴムボート筏「へのかっぱ号」で命がけの太平洋漂流実験をやった人。1981年11月、25回地平線報告会で「へのかっぱ号の漂流実験」のタイトルで報告者になってもらった。14才の長男を連れて実さんと結婚した宏子夫人は敬虔なクリスチャン。穏やかで思いやり深かった海の冒険者への感謝をいまも口にし、1999年斉藤さんが亡くなった後も地平線会議を応援し続けてくれている)


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第3回

■向後元彦さんに引っ張られて学生時代から出入りしていた日本観光文化研究所(観文研)には、いろんな人がたむろしていた。多くは宮本常一先生のもとに集まる民俗学関連の人々だったが、宮本千晴さんや向後さんを訪ねてくる登山、探検、冒険志向の若者も増え、両者が入り混じるようになっていた。

◆大学卒業後の私はそこで、日本人の旅や探検、冒険、海外登山などの資料を集めるために雑誌記事をコピーするという時間給の仕事をもらい、その合間に多くの人の話を聞いた。最も多く一緒の時間を過ごしたのは、西山昭宣、三輪主彦、森本孝、伊藤幸司、賀曽利隆といった先輩方で、観文研に通っていたのは、これらの人々と会うためだったのか時間給を稼ぐためだったのか、いまとなってはわからない。

◆そのバイト仕事はやがて、数年前から向後さんの提唱で始まっていた全国の大学探検部の活動史を編纂するという作業が中心となり、史料編纂の方法を先輩方に教わりながら原稿化を進めた結果、観文研で正規の出版物として発行する前に、山と溪谷社の季刊雑誌『現代の探検』(第9号=最終号、1972年7月刊)に特集で掲載される運びとなった。それと同時に、私は観文研のAMKASグループ(向後さん提唱の「あるく・みる・きくアメーバ運動」)が進めていた「あむかす探検学校」で、一般参加者を率いるリーダーとしてアフガニスタンに行くことになり、この年の夏はそれで費やされた。

◆本来の目的地スリランカへの遠征に行けなかった夏、学生でもなくなった私はどこかに焦りや鬱屈を抱えていたはずだが、この年にアフガニスタンに行く機会を得たことは、大きな意味を持っていた。アフガンでは、ともにリーダーだった神崎宣武、西山昭宣の両先輩や一般参加者とも一緒だったが、旅行訓練のため各自が自由に動くという「探検学校」の方針のもと、多くの時間を1人で過ごすことができた。

◆前年に「インダス川を下る」という夢を抱いたまま最上川で遭難死した探検部後輩の遺骨(分骨)をインダス上流のカブール川に撒いて弔った後、バーミアンやバルフを巡って遺跡を見た。顔が削がれた大仏や崩れ果てた城壁に歴史を偲ぶと同時に、それらを発見し、調査する困難さを思った。それはとりもなおさず、スリランカの遺跡探検の夢に自分が繋がっていることを実感させる体験でもあったのだが……。

◆その「夢」と「現実」の相克が本格化したのは、アフガンからの帰国後だった。勉強や遊びとの境界線が曖昧な観文研の稼ぎでは家賃も払えなくなり、食い詰めた私は探検部先輩の平靖夫さんに誘われて奥志賀高原に出稼ぎに出た。ある建材メーカーの保養所がログハウスを造るので住み込みで手伝えと言われ、秋から雪が本格化する直前まで丸太担ぎと組み立てと屋根を葺くクマザサ刈りで黙々と日々を送った。

◆東京を離れ、スリランカ遠征の準備とも離れた私を気遣ってか観文研から手紙をくれたのは西山さんだった。やがて探検部の後輩たちが、「これでは遠征準備が進まない」と言って車で迎えに来た。私の卒業時から一緒に準備を進めていた後輩たちは、学生なりに探検の早期実現に夢を繋いでいたのだ。

◆さて、東京に帰ったはいいが、住むアパートもすでになく、荷物も同郷の友人に預けていた私は、後輩たちの住居を転々としながらビル掃除のバイト現場と探検部の部室と観文研を行き来するようになった。大学では先生方や職員が在学中と変わらずに接してくれ、観文研でも先輩方が探検調査に有用な知識や情報を授けてくれて、遠征準備は一気に進んだ。

◆年が明けると、装備や食料、医療品を求めての支援企業探しで忙しくなったが、家賃を払わなくていいので、生活はバイトの時給で十分だった。遠征用に食品会社が大量に提供してくれたスパゲティーやインスタントの乾麺、缶詰などで飢えを満たした。ビザが下り、装備輸送の船便が決まると、焦りや鬱屈は消え、田舎の親が心配していた「住所不定、無職」の立場も、いつのまにか気にならなくなっていた。そして、ようやく時が来た。

◆1973年の7月から11月にかけてのスリランカでの体験は、大袈裟でも何でもなく、まさに天国のそれだった。4年前から夢みてきたとおりの日々がそこにはあった。ジャングルの夜明けはとくに素晴らしく、いつも不思議な静けさに満たされていた。暑くて長い熱帯の日々ではあったが、朝もやがゆっくりと樹間を流れ,夜露に濡れた草木が葉先から水滴を地面に落とすその時間には、私たちにも本来の精気がよみがえった。脚絆を巻いた完全装備の足に草むらの露を絡ませながら歩く私たちの密林の旅も、日々この時間に始まるのが常だった。

◆日中でさえ陽の差し込まぬ暗い樹々の間を、時おりゾウの足跡の窪みに足をとられながら歩くと、やがて道のないジャングルのあちこちに、崩れ果てた遺跡が現れる。広く分布する遺跡地帯のなかで、運良く発見できたそれらの遺跡のひとつひとつを測量し、調査して記録に収めながら歩くのは、単調な作業とはいえ、「未知解明」の大きな喜びを伴っていた。それは、日々の暮らしの「糧」を思って過ごす日本での日々とは、明らかに異質な時間の体験だった。(つづく)


地平線ポストから

奥多摩の細道にて森羅万葉集を聴く

 2021年2月某日(青梅山火事の翌々日)、青梅市と奥多摩町の境の山道にて。

 「あー、びっくりした。いきなり森の中から出てくるから、クマかと思った。でもその服は消防の方ですか?」

 「ははは、すいません。オレンジの服ですが、消防ではありません。森林の測量や調査をしています。山仕事の服装といえば、昔は濃紺や深緑の目立たない色が定番だったのですが、近年は安全のために、黄、赤、橙の目立つ服装を勧められていますね。それにしてもこの冬は登山する人が増えた。若い人や家族連れも多い。これもコロナの影響ですか?」

 「ええ、コロナのため、東京から出づらいし、三密を避けるとなると、多摩の山かなと二人で山登りを始めました。同じこと考えてる人は多いらしく、アウトドアショップの人が客が増えたと言ってました」 

 「そういや、去年の夏も連日都心から奥多摩方面に車が連なって、大勢が河原やキャンプ場でバーベキュウしとったな」

 「ええ、私たちもその口です。それから山登りも始めました。バーベキュウや登山、キャンプは小ブームで山を買ってキャンプ場を始める人も増えているそうですよ。山で仕事できるなんていいですね、羨ましい」

 「うーん、仕事となると大変なこともあるぞ。夏は汗もつれで蜂に刺されるし、冬は風が痛いし雪でも歩かなならんし給料は安い。若い人はずいぶんやめていったよ。でも、東京の人は恵まれているよ。多摩川上流の森の半分はあなた方のものだから」

 「えー、どういうことですか?」

 「“多摩川水源の森”と“明治神宮の森”を検索してみたら面白い発見があるかもね。ヒントは“100年の森”(注1、注2)。宿題ね、では職場に戻ります。気をつけて楽しんでください」

 2018年9月某日、山梨県丹波山村の多摩川水源森にて。東京都水道局の方と。

 「明治神宮の森に匹敵する森なのに、もったいない。こんないい財産をパルプ換算なんて。ここは1909年から東京市が購入を始めて100年の天然林が多い。あと100年たてば荘厳な原生林になるよ。明治神宮は1920年創建で、樫、椎、楠の常緑樹がメインの立派な森になった。多摩川水源の森は、ブナ、楢、樺などの落葉樹が主で成長は遅いけれど、今じゃ全国に拡がった森林環境税の原型モデルなのに」

 「ええ、どういうことですか?」

 「今から20年前、林業は誰も後継者になりたくない冬の時代やった。全国一の森林率(84%)の高知県では、この森林をなんとかしようと考えた。しかし予算がない。そこで東京都の水道局管理の多摩川水源の森や横浜市の水源の道志川をモデルの一つにした(注1、注3)。

 つまり水道代に500円上乗せの森林環境税を始めた。市民からの提案の形で始め、その後も評価を県民に問う形で続いた。それが全国に普及したわけよ。ただ残念なのは国版は政府主導になって、ほとんどの国民は知らない。とにかくこの森はパルプ換算したよりはるかに価値あると思うよ。明治神宮の森に匹敵するくらいね。面積ははるかに広い」

 「私も知らなかった。そのこと是非、提案書を書いてください」

 「いや、わしゃ肉体労働に忙しい。まあ勉強は続ける」

 てなことがあって、日々鍛錬と観察の日々を送っています。奥多摩の草木の葉の一枚一枚から百年千年の物語を聴き、多摩川の石ころ一つ一つの万年億年の記憶に心傾ける日々です。若い時から肝に銘じて続けていること。科学する心技体を鍛錬して森羅万象に多情多恨であること。そのために大切な4つのこと、知り続けること、感じ尽くすこと、考え抜くこと、やり通すこと。「そりゃ、ご苦労」と蝶に笑われ、蜻蛉に見下ろされ。3月7日、白根全さんと氏の少年時代のベース、明治神宮の森を歩きました。(山田高司

(注1)1899年、本多静六(東大、林学者、造園学者)多摩川水源林調査、森林荒廃警鐘。1909年、尾崎行雄東京市長多摩川水源視察、東京市で水源林購入開始。現在多摩川水源森林(玉川上水より上流、含む山梨県)約50%を東京都水道局所有管理。
(注2)明治神宮の森、1912年明治天皇崩御、1920年明治神宮創建、本多静六、本郷高徳、上原敬二、造園植樹担当(昨年は150年の変遷計画の100年目)
(注3)現在の東京都の水源、多摩川20%、利根川と荒川80%、森林環境税のモデル。

祭りはいいもんじゃ

■「このパスポートは期限切れで失効している。お前は自動的に不法滞在だから、しばらく臭い飯を食ってもらうことになるな」 「えええええぇ〜、そっそんな〜! お代官さま、ムショ暮らしだけはご勘弁くだされませ〜」なんて寝ぼけた展開はただの春先の悪夢だが、実際パスポートを手にすることもないまま丸1年が過ぎていた。ふと気が付けば、2021年1月13日をもって現役パスポートはついに失効。物理的に海外渡航は不可能となってしまった。物心ついて以来、空白期間ゼロといえばやや大袈裟になるが、身体の動くうちは現役のつもりでいたにも拘わらず、その前にこんな事態に陥るとはまさしく予測不能の想定外だ。

◆思い返せばちょうど1年前の3月は、カリブ海に浮かぶ世界最貧国リストの常連ハイチ共和国を訪れていた。写真家の長倉洋海氏に同行して都合4回目となる現地へ飛び、祝祭都市ジャクメルのカラフルなカーニバルを撮影取材。昨年は31万人以上の犠牲者を出した2010年1月12日のハイチ大地震からちょうど10年目だったが、すでに世界はほとんどあの惨劇を忘れ果ててしまった。その後の現地は復興にかこつけた災害便乗ビジネス、いわゆるショック・ドクトリンの実験場と化し、そのえげつなさをこれでもかと見せつける場となっている。

◆一足先に帰国の途に就いた長倉氏を見送った後、フランス領マルティニーク島とグアドループ島に足を延ばし、泥臭いハイチとは大違いのオシャレなフレンチ・リゾート風の祝祭もカバー。ついでに、その二つの島の中間に位置するドミニカ連邦を訪れたころから、巷はすっかりコロナ一色となっていた。帰国後、長倉氏と「このまま国外に出られなくなったら大変だよねえ」なんて牧歌的な会話を交わしていたが、まさかそのまま現実になるとはやや能天気過ぎたのかも知れない。

◆で、しみじみ身体は正直だと実感したのは、長期間に渡る日本滞在が主要因と思われる身体反応症候群である。そもそも毎年確実に1月末から南方のラテンアメリカ方面に出撃し、倒れるまで集中して大騒ぎという身体活動が、この30年来すっかり定着していた。くっそ寒い日本の冬を避けつつ、この時期に合わせて事前からテンションを揚げ、肉体的精神的ピークが祝祭期間とシンクロするよう、無意識のうちに調整する習慣が備わっていたのだろう。

◆年明け以降、とにかくだるくて眠くて起き出す気力もわかず、集中力ゼロで本を繙いても頭に入らず、音楽を聴いてもまったく乗らず。過去30数年分のカーニバル撮影の集大成となる祝祭写真集を制作中にもかかわらず、作業にまったく集中できない。自分でも何がどうなったのか、どこか壊れてしまったのか見当もつかない。とりわけ、今年2月13日からのカーニバルが近づくにつれ、その症状はひたすら悪化の一途をたどった。この機会に世界全域のバーチャル・カーニバルを探訪俯瞰し、評論せねばと各地の祝祭をネットサーフしてみたが、結論から言えばただ一言、つ・ま・ら・ん! 現場がエライのは確かだが、どこもがそのまま終了撤収解散的悲惨な光景を目にすることになった。音楽と祭りはやはりライブじゃないとダメ、なのである。

◆現在、全世界でカーニバルが開催される都市はヨーロッパとラテンアメリカのカトリック圏を中心に、合計3650都市といわれている。ヨーロッパが約1500、カリブ海を含むラテンアメリカが約2000、その他オセアニアやアジア、先進国の大都会などが約150都市とされ、その極北に位置するのが夏の風物詩となった浅草サンバカーニバルだろうか。コロンブス以降ラテンアメリカ全域に伝えられ定着したカーニバルは、征服と支配の残虐な歴史のなかから産み出された「幸福な発明」と言えるだろう。これを奇跡と言わずして世界は語れまい。つまり私は毎年、奇跡の現場に立ち会っている訳だ。

◆ともあれ、人類は有史以来ひとときも欠かすことなく、歌や踊りや祭りを継承してきた。コロナ禍にあって、どれだけの人間が音楽やアートに救われたことか。やはり「祭りはいいもんじゃ」という先達の大巨人、宮本常一氏の貴重なお言葉を再確認しつつ、その後の地球の迷い方を模索せねばなるまい。コロナ禍という人類全体を覆う巨大なショック・ドクトリン=惨事便乗型資本主義が大絶賛進行中という認識がその前提となることは言うまでもない。国家の役割は「警察」と「契約強制」だけで、それ以外はすべて民営化せよと説くその原点は、1973年のチリ軍事クーデターが最初の応用例とされ、東日本大震災とフクシマが最近の例である。が、そのリストにトキオ五輪が加わりそうで、恐怖が怖くて恐ろしい今日この頃である。

◆なお、文末に彼の地の至近状況を付記しておきたい。ハイチ=感染者総数:1万2664名/死者:250名(以下同)。ブラジル=1152万5477名/27万9602名。メキシコ=216万6290名/19万4710名。ペルー=141万2406名/4万9003名。キューバ=6万2206名/373名(2021年3月16日現在)。 (Zzz-カーニバル評論家)

「冒険研究所書店」開きます!

■一昨年の10月より、神奈川県大和市に「冒険研究所」を構えている。20年の北極行で増えた装備類の保管場所として、私の事務所として、そして旅人や冒険者たちが通り過ぎていく交差点のような場所として活用しようと始めた場所だ。小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅東口、徒歩30秒という好立地。前の借主は雀荘を営んでいたらしい、100平米弱のなかなかの広さ。昨年の、コロナウイルスで小中学校の休校騒ぎの際には、近所の行き場を失った子供達を受け入れ、1か月間は毎日が小学生たちの溜まり場となっていた。

◆いま、その冒険研究所を「書店」にしようと考えている。1年前にそうやって近隣の子供達を受け入れてみて、改めてこの桜ヶ丘駅前を見渡してみると、まず書店がない。あるのはドラッグストア、コンビニ、年寄りたちがたむろする各種の病院(歯科、皮膚科、耳鼻科)、パチンコ屋、学習塾である。文化的施設が全く見当たらない。周辺は郊外の住宅地で、かなりの人口はある。駅の乗降客も多く見受けられる。なのに、書店がない。これは寂しい。

◆この2年ほど、私は随分と本を読んでいる。暇さえあれば、本を読んでいる。20年の極地冒険で体験は積み上げてきたつもりはあるが、同時に他分野の知識の欠落も実感している。それを埋めるように、本を読んできた。学ぶことはなんて面白いんだろうかと、改めて実感しているところでもある。

◆思えば、私が子供の頃は地域ごとに書店があったものだ。それも、駅前や郊外型の大型書店に淘汰され、さらにAmazonに代表されるネット書店の出現で従来型の大型書店ですら淘汰されつつある。しかし、その一方で個性的な個人書店や個人出版社が続々増えているという現実もある。集中と分散は、常に繰り返される。ネット一極集中の反動としての、再分散化の流れは必ず訪れるだろう。

◆それらの事実の総合として、私が出した結論としては「よし、俺が書店をやろう」ということだった。名付けて「冒険研究所書店」だ。ここに来ることが旅となり、ここから旅がはじまる、そんな場所を作ろうと思っている。古本と新刊を置いて、旅や冒険、探検を主たるテーマとし、小説、写真集、ノンフィクション、人文系、絵本などを揃えたい。

◆大型書店のミニチュア版を作っても仕方がない。一点突破の、他には真似できない代替不可能な書店だ。私が本屋を行うのであるが、本屋で私を行うのである。私個人の蔵書もたくさんある。とても売れない貴重な本であるとか、資料として重宝するものがたくさんある。それらは販売ではなく閲覧可能にして、必要な人には誰でも読めるようにしておきたい。もし、地平線関係者の皆様で、そうやって眠っている本を活用したいという方がいれば、お知らせください。

◆また、書店で出た利益の何割かは、毎年積み立てておいて、これから活動していく若い冒険者を応援できるような仕組みが作っていけないだろうかと思っている。私以外にも、そうやって専門性をもつ人たちが各分野で書店なりを始め、みんなで寄せ合って基金を作るというのも、良いのではないだろうか。

◆3月29日まで、冒険研究所書店の開設に向けた資金集めとして、クラウドファンディングを行なっている。CAMPFIREというクラウドファンディングサービスで「冒険研究所書店」(https://camp-fire.jp/projects/view/391907)と検索をかけていただければ、ページが表示されます。ぜひ、ご支援いただけたら大変助かります。(荻田泰永

スマホの魅惑と危険性

■ベストセラー『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン、久山葉子訳、新潮新書)を読んでいたら、次のような節があったので、送ります。「あたらしい情報、例えば新しい環境を渇望するドーパミン産生細胞が存在する、ということは、新しい情報を得ると脳は報酬をもらえるわけだ。人間は新しいもの、未知のものを探しに行きたいという衝動がしっかり組み込まれた状態で生まれてくる」

◆「新しい場所に行ってみたい」「新しい人に会ってみたい」「新しいことを体験してみたい」という欲求だ。私たちの祖先が生きたのは、食料や資源が常に不足していた世界である。この欲求が、新たな可能性を求めて移動するよう、人間を突き動かしてきたのだろう。

◆本の主題はスマホがドーパミンを出すように作られていて、スマホユーザはスマホを手放せなくなっているので、思考や判断、生活リズムへの悪影響があるというものです。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツは自分の子供には10代の前半まではスマホを持たせなかったというくだりも、彼らがスマホの「魅惑」をよく理解し、「危険性」にいち早く気づいていたということです。冒険渇望もスマホ中毒も人間生来のドーパミンなんですね。(岡山 北川文夫


先月号の発送請負人

■地平線通信502号は、2月17日印刷、封入作業をし、18日郵便局に渡しました。今月も「密」を避けて広く声はかけませんでしたが、印刷、発送だけは断固やります、という意志を持った面々が参じてくれ、時間内に作業を終えることができました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 伊藤里香 白根全 久保田賢次 光菅修 江本嘉伸


長野亮之介猫絵展今年も

■毎年3月に、京橋のアートギャラリー「メゾンドネコ」で開催してきた「長野亮之介猫絵展」、5回目を迎えた今年は「4月16日(金)」から開催することになりました。20日(火)までの5日間。12時30分から19時までです。土曜・日曜と最終日は17時に閉まりますのでご注意ください(今年は土曜日も17時までです)。

◆今回のタイトルは「佳猫遊月」。ギャラリーのオーナー・平きょうこさん作の物語に絵をつけた『おつきさんとねこ』がいよいよ完成するので(まだ描いている最中ですが)、その全作品を展示します。絵本の簡易版も刊行する予定。また、最近ハマっている野川などでのバードウォッチングをテーマにした絵も、なんとか間に合わせたいと思っています(これで今年の地平線カレンダーを作りたい)。(丸山純

佳描遊月(かびょうゆうげつ)

  ――絵本『おつきさんとねこ』・終章

 2021年4月16日(金)〜20日(火)
 会場:メゾンドネコ
  (東京都中央区京橋1-6-14 佐伯ビル2F)
  地下鉄銀座線・京橋駅より徒歩2分
 時間:12時半〜19時(土・日と最終日は17時まで)

●絵師の在廊予定などは専用ブログ(moheji-do.com/yugetsu)でご覧ください。このご時世なので、急な変更があるかもしれません。

94才の母とぼくのために作る「お母さんノート」

 ■朝日新聞夕刊、一面トップ記事、拝読いたしました。スゴいです「地平線会議」。すばらしい紹介記事♪ ですね。通信の「ふろく」で、記事を同封されたらいいとおもいます。さっそく宮地ゆうさんに私信してしまいました。「彫刻家って描いてくださってありがとうございます」って、そしたら「暗号が通じたみたいでうれしいです」って、さっそく返事くださいました。恐縮であります。

◆以下、近況です。「母親のこと」ようやく上京して、仕事場へ帰還できました。昨年末から ず〜〜っと宝塚の実家で母親のことをつづけてました。1月に上京する予定でしたが、外出禁止宣言も出たことだし。母親が徐々に元気に成って来てるので、今が「リハビリ」のチャンスと考えて滞在続行してました。母親は元気に成ってきてるとは云っても、ほんとうに少しずつ少しずつです。いつもいっしょに居るからわかる という程度。

◆「死にたい」と言ってる老人に「やる気」に成ってもらう、って難しいです。ぃや、ほんとうに死にたいはずが無い。のだけどノ。「94歳に生きる人が放つ、死にたいという気持ちが理解できるのか」と問われると、「わかります」とは、一致共感即答できる自己が無い。イメージが、及ばない。想像力が足りない。

◆老化って。年々、どんどん「自分が なにもできなくなってくる」。出来ていた「はず」のことが、どうしても「できない」。意志とはうらはらに「自分が、壊れていってる」感、とゆうか。誇りが、強引にむしり取られて行く というか。母親と毎日、話し合うのだけれど、やっぱり「想像」するしかない。それは、視てる者からしても、「老化」って理不尽というかノ。当たり前の「だれしも」、、とは、「納得できん」感じ。それを自身に受け入れて行く「母親の日々」を視てる。しか できてない自分 て感じ。一時的に「いっしょに居る」ということを やっているだけ。

◆母親は、2019退院時の要介護4から、「手すり歩行可能」まで、復活してきました。しかし、足腰が弱っていて、こけたら、立てない。だから実家の各所に鍋(とか鳴る物)が有る。「こけたら」それを叩いて「ぼくを呼ぶ」というシステムに成っている。「将来に希望を持とう」「苦手を克服しよう」「チャレンジ精神」「やる気を出して」、なんて94才に対して言えない。「何故、生きるのか?」なんてことを94才から 問われてるような感じ。すまんが「それ わからん」……。そっちが 言うなょ〜みたいな。困る。とにかくいろいろ話す。「知らん」から。

◆「お母さんノート」をつくってる。記録は、ぼく自身の自己鼓舞。で、母親と向き合って話してると「ぼく」自身が、今、此処に居るのは、「この人から来た自分」にほかならない、と想う。(緒方敏明

「Cold Place, Warm Heart」

■2月8日から5日間、日本一寒い町・北海道陸別町で耐寒トレーニングを実施してきた。去年はコロナにより大和雪原に降り立つためのチャーター飛行機を飛ばせなかったが、今年こそ飛ぶはずだ。だからこそ、寒さに対する感覚、挑戦心に燃える気概は常に鍛錬し続ける必要がある。陸別町は北海道の東部の内陸に位置する。日本で一番寒い町として有名で1978年2月17日にはマイナス38℃を記録。今でもマイナス30℃まで下がることがあるが、町のご老人たちの話では昔ほど冷え込むことは少ないそうだ。

◆陸別町が寒いのは盆地で冷気が溜まるのが一因だが、寒いだけではなく夏冬の温度差が激しい。夏と冬で60℃以上の気温差があり、年によっては70℃以上にもなる。国内有数の過酷な土地と言えるがトレーニング地としては最適だ。ここを開拓した民の渾身の働きがありありと目に浮かぶ。

◆一番冷え込むであろうこの時期を狙い羽田空港を発つ。女満別空港からの70kmをリアカーを引いて陸別町に向かう。昨年は札幌から宗谷岬までソリを引いて歩いたが積雪が少なく痛い目に遭ったので、今回はリアカーを使用した。ソリと同じく引く筋肉であることに変わりはあるまい。気温はマイナス25℃までしか下がらなかったものの、久しぶりにマイナス20℃以下の環境でテント泊できたことを嬉しく感じる。陸別町では町の好意で名物“しばれフェスティバル”の会場地で野営させてもらい、町長の歓迎も受けた。

◆駅舎には南極観測隊が使用した雪上車が置いてある。町の銀河の森天文台は極地研究所と相互協力に関する協定を締結しており、天文台では昭和基地ライブ映像の放映もしている。それを知ってこの地に来た訳ではないが、どこに行っても導かれるように南極の縁に紡がれていく。このコロナ禍にも関わらず町民に数多く優しい声をかけて頂いた。アラスカで感じた「Cold Place, Warm Heart.」の精神がこの地にも根付いているのを感じた。

◆5日間の短期トレーニングを終え、再び空港から空へ飛ぶと、僕の気持ちはすでにグリーンランドに向いていた。5月にはグリーンランド徒歩横断に行く。南極に最も近い環境と言えばグリーンランド内陸氷床の他にはない。内陸部は単独が禁止のため、外国人のガイドチームに加わる。僕にしては珍しい団体戦だ。氷河歩行もあるため、南極横断山脈越えの軽い予行にもなるだろう。費用は200万ほどかかりそうだが資金のアテはない。だが、資金が先じゃない、やりたいことが先であるべきだ。細かいことは後から考える。そして10月には南極だ。(阿部雅龍

新米母親から、初登場の安平ゆうさん、ようこそ!

■こんにちは。私事ですが、1月20日大寒、元気な第一子となる男の子を出産しました。妊娠中は10か月近く一心同体、行動主体は宿主の私でしたが、臍の緒が切られるとそうはいかず出産直後から24時間赤ちゃん中心の生活が始まりました。外界に出たばかりの赤ちゃんに新生児のお相手未経験の私、 初心者同士の生活はてんやわんや。

◆でも、出産・育児という新体験はとても楽しく、これからどんな経験をしていけるかワクワクしています。一緒に山登りや海遊びを楽しんでもらうには幼少期どうアプローチしたら良いか、などと勝手に妄想しています。夫は将来家族でユーコン川を下るのが夢だとか……。

◆2月の通信に登場した九大1年生、安平ゆうさんのレポートを「懐かしく」読みました。私も13年前、香川大学生時代に江本さん、地平線会議と出会い、自分には「ありえない世界」があり、「こんな大人」がいるのだと世界観が広がった人間の1人です。きっかけは2008年山田高司隊長率いる四万十ドラゴンランという四万十川196kmを人力で下る企画に参加した時。源流から河口までを徒歩、自転車、カヌーで下る中学生から70代までが参加した企画でした。

◆集合直前に転倒し、指を骨折したまま参加したヴィオラ奏者、面倒だからこの1週間は風呂に入らんという歌手みっちゃん、明日朝のスープがない! と夜中にボルシチを作り始める編集長E氏。等々、川下りだけでなく、愉快な人々と出会えた企画でした。仲間たちの間で「えもーん」といじられていた江本さん、この時はこんなにすごい人だとは思いもよりませんでした。

◆この出会いで安平さんの人生での選択肢は広がり、志に対して「それでいいんだ」と言ってもらえる人に出会えるだろうと思います。地平線通信から得た新しい世界観、山岳部の活動での自然体験で感じたこと、この新鮮な気持ちを忘れないでいて欲しいです。私も江本さんと交流し地平線通信と関われることになったのですが、この出会いが無ければ夫と結婚し、今に至らなかったかもしれません。

◆我が子が何に興味を持ち、どんな人生を選ぶかはこれからですが、この子にも良い出会いがあり、それを捉えられるセンサーを持ってほしいなと願います。その基盤がもてるよう、これからドキドキワクワクの育児をしつつ、自分も大人を磨きたいと思います。(赤ちゃんを抱きながら うめこと日置梓

大学の講義「世界が仕事場」から広がった世界

■はじめに私のかんたんな自己紹介をさせてもらいたいと思う。九州大学修士一年、大学院で農学を学んでいる。2020年度後期に開講された「世界が仕事場」で江本さんの講義を受講した。「あなたは扉を叩いたんです。簡単なことだと思っているかもしれないけど、そこには大きな違いがあるんですよ」。講義後、私は梅の絵が描かれた一枚のはがきに講義の感想を綴ったものを江本さんに送った。すると、江本さん直筆のお手紙とともに2020年5月〜2021年2月の地平線通信が送られ、間もなく江本さんから電話がかかってきて、上記の言葉を頂いた。

◆そして地平線通信への執筆を持ちかけられ、今こうして書いている。正直に申し上げると、手紙を書く機会と地平線通信欲しさに江本さんにはがきを送ったのだが、このようなつながりができるとは夢にも思わなかった。江本さんからの電話が切れた後、今からなにか始まるようなわくわく感を感じながらしばらくぼうっとしていた。拙文であるが、様々な活動者と並んで掲載して頂けるとは光栄である。

◆「世界が仕事場」で、私はあらゆる危険に挑む活動者を知った.幾度の危険を乗り越えてきた素晴らしい経歴をもつ活動者と同じ気持ちだと言い切るのはおこがましいかもしれないが,私の中にも活動者と同じ気持ちがあると思っている。やってみたい、その先に何があるのか見てみたい、という気持ちが常に自分の中にあり、時折後先考えずにその気持ちに突き動かされることがある。

◆やったことを後悔することはないが、やらなくても良かったと思うことはたくさんある。しかし、活動者の存在を知り、たとえ意味がなかったとしても挑戦したいという気持ちに向き合ってきて良かったと思えた。「世界が仕事場」や地平線通信で、活動者はエネルギーをくれる存在だと思った。彼ら自身が挑戦を楽しんでいたならなおさらだ。彼らの活動に触れていると、あまり深く考えず私の中にある衝動に忠実になれそうな気がする。

◆さて、パンデミックで様々な機会が失われてきた中で今どのように挑戦するか、考える必要があると思う。私の場合、今年度さまざまな機会が失われた。まず、ドイツ留学が中止になった。農学を学ぶためにドイツに留学しようと数年かけて準備してきたのだが、あっけなく渡航中止になってしまった。また、今年度大学院に進学したのだが、大学からの自粛要請で研究できない期間が続いた。

◆このように書くと、今の学生は可哀想だと思われるかもしれないが、そんなことはない。少なくとも私においては、パンデミック前後では、失われた機会より得られた機会のほうが遥かに多い。オンライン○○の恩恵である。現在、世界の有名大学が無料もしくは破格の費用でオンライン留学を開催している。私は、ドイツ留学が中止になった代わりに今、カリフォルニア大学のオンライン留学に参加し、講義を受けている。

◆九州大学には複数のキャンパスがあるのだが、オンライン講義になったおかげで他分野の講義を受けることができ、パンデミック前には知りようもなかった人々と交流できている。江本さんと繋がるきっかけを与えてくれた「世界が仕事場」を受けられたのも良い例である。大学に行けない間は、気象予報士や秘書検定など様々な資格の勉強も始めた。見知らぬ世界の大学生とクリスマスカードを交換するということも経験した。ここでは挙げきれないほど時代の変容の恩恵を私は存分に受けている。

◆機会が失われた分,注力できる別の何かを求めているのかもしれない。たとえ、いくつかの機会が失われても、今の世は新たなチャンスに溢れており、アンテナを張っておけば挑戦する機会はあるのだと実感している。あまりにもSNSやメディアでネガティブな面しか出てこないのでここではあえてポジティブな面を書かせてもらったが、一大学生の実感であることを断っておきたい。

◆最後に、地平線通信という場で記録する機会を与えてくれた江本さんに感謝の意を表したい。先日の朝日新聞で地平線会議が取り上げられており、「君たちはいま、世界史の現場にいる。貴重な体験を記録しなさい」という江本さんの言葉が載っていた(2021年3月3日夕刊)。いつも思うことだが、江本さんの言葉は物語的で憧れる。

◆記録はとても尊いものである。私の生まれは1997年12月15日なので、地平線会議のwebサイトに掲載されている1997年12月号の記事を拝見した。環境問題はこのころから盛り上がっていたのか、このエッセイの筆者は今どう過ごしているのだろうか、など時間が違うだけでたくさんの感情が湧いてきた。江本さんをはじめとする地平線会議に携わる方々のおかげで、私は記録の重要性をまさに体感している。記録し続けることには大変な労力が要る。地平線通信は42年間一度も途切れず発行し続けている、というのだから驚きである。

◆私は3年前の20才の頃から毎日3行で「10年日記」を書いているが、地平線通信ほどの文章を毎日書くのは至難の業である。今回のような機会がなければ、ここに綴った私の想いは私の中でいつの間にか昇華していただろう。SNSの台頭などにより、ますます短くわかりやすく伝えることが求められる世の中で、地平線通信というすばらしい場で記録させてもらえたことをありがたく思う。(九州大学修士1年 平島彩香


今月の窓

令和の青年の胸に灯されたなにか現実離れのような灯火

 通信501号で、江本さんが九大での講義が好評のうちに無事終えられたとの記事を読んで嬉しく思い、コメントを寄せようとした矢先、講読している朝日新聞の3月3日付け夕刊の一面に地平線会議のことが掲載されました。最近の朝日の夕刊は毎日のニュースに埋もれた世の中の大事なことを掬い上げる作業をしており、ネット時代に新聞の果たす役割の方向性を示そうと努力しているように見られます。こんなとき、地平線通信500号刊行という偉業を取り上げての記事特集は、まさに時宜を得たものというべきか。

 江本さん、長野さん、宮本さんが写真入りで紹介され、関野さんはじめ、同人の面々が紹介されています。日頃、通信誌上でもっと驚くようなことを読んでいるので驚くような内容は特にありませんが、公平かつまっとうに地平線通信を評価していて嬉しく思いました。そして通信が世の中に果たしている役割について日本や世界各地の暮らしを「記録しつづけている」としているのも正しい評価だと思います。

 さて、江本さんの九大での講義について、遡及対象を地平線外の若い世代においた地平線の活動と捉えた場合非常に興味ある反応を江本さんが得られているように思われ、次のようなコメントを差し上げました。

 「テーマから見て、ご自身のご経験たっぷりだったのがよかったのだと思います。欲を言えば学生の反応ははがきでなく、LINEで求められたら、たくさんの反応があったと思います。はがきを書く学生は想像できませんので、もし一人でもいれば、奇跡のように思います」

 ところが、「はがき」で感想を寄せた学生が二名いたそうです。そのほかの手段を含めて、江本さんの講義に感想を寄せた学生が多数いて、江本さんはそのすべてにご自身のコメントを添えて返送され、私も読ませていただきました。極めて律儀な仕儀で、今時珍しく、いい意味での大学生に対するウブさがでているようで感服しました。そこで、次のようなコメントを再度さしあげました。

 「学生への回答拝読しました。部外者である私に読ませていただきありがとうございました。江本さんご自身の本音をぶつけられた様子が学生の質問よりうかがい知ることができました。学生たちは江本さんという人間に大いに興味をひかれたようですね。その意味で意味のある講義だったのではないでしょうか。それができる江本さんのものごと、とくに生への真摯な様を見せてくれている姿が心打ったのだと思います。

 真剣さ、ウソのなさに学生たちは魅了されたのでしょう。私が、一人でも学生のはがきが来たら奇跡と申しましたが、まさに奇跡が起ったのですね。それにしても長い回答を書かれ、やはりすごいです。大人が若者に対するにはそうであるべきで、それこそが真の教育者というべきでしょう。江本さんの講義を聴けた九大の学生はラッキーだったと思います。うちの大学生の孫にも聞かせたかったです。

 私が学生がはがきを書かないだろうと予想した背景はまさにネット社会の到来と関係し、新聞の消滅を予測させる社会現象から来ています。サンフランシスコ講和条約から開始し、跳んで、1956年いわゆるハンガリー動乱から新聞記事の切り抜きを始めましたが、今、病膏肓に入り切り抜きは拙宅の多くの場所をしめています。切り抜き材料の新聞を購読するので、販売所からおたくのように月極きちんとしてくれるところ少なくなりましたと言われています。新聞先細りの未来からすこし、いじけた予想をしてしまいました。でも江本さんは哀れな防潮堤をのりこえた大津波のようにネット時代の壁をぶち破り、学生の心をわしづかみにしてしまったのですね。痛快です」

 バランス悪く新聞記事切り抜きの話に触れているのは、ネットでないアナログの作業を自分もやっており、そのような愚直なやり方は、時流に乗らないやり方で、現代の学生には受けないだろうとの見方から、LINEならともかく、はがきは書かないのじゃないのとの予想をしたからでした。

 当初九大の講義の話があったとき江本さんは私に一部でモンゴルの話をしたいと述べておられ、私もこうしたらとの案をだせずに応対し、その一方で大学の短い一コマ、モンゴルの話をするより、最近山田和也監督の一連のヒマラヤ撮影行をテレビで見てかなりマイブームになっていましたので「山の江本」を出して欲しいとの気持ちがあったのも正直のところでした。登山、国際登山、冒険の神髄などを語れる人は少なくないと思いますが、歴史を俯瞰して探検を取り込み語れる人はそういないと思っていましたので。

 ところで、江本さんの九大講義の反応を学生から受けた時点で、アナログとデジタルの意思疎通の問題に関心が移りました。

 新聞社、とくに講読紙である朝日はネット新聞に切り替えるように言ってきますし、他の二紙もネットの有料読者になるよう勧めてきます。新聞のみならず本も電子書籍にかわりつつあります。銀行もまもなく全面的にネットバンクになりそうです。お役所仕事もマイナンバーカードでスマートになるはずです。

 でも、アナログは私にとって必要な面があります。私は専門をモンゴルにしてきましたが、ネットでモンゴル関係書籍など読んだり、参照したりする時代はまだまだ来ていません。そしてモンゴルではやっと紙の書籍出版の全盛時代に入り、いやしくも高等教育を受けた者は皆紙の著書の1、2冊はものしています。わたしもお誘いに乗って、モンゴルで共著や寄稿をさせていただいています。外交関係、日本モンゴル関係のみならず地方の村の100年誌までいろいろあります。

 ところで、モンゴルでは完全なスマホ社会で、携帯は最初は日本よりもむしろ先行していました。私の最初の携帯はモンゴルの友人が買ってきてくれたものでした。日本に帰国前に携帯は習熟しました。そんなモンゴルも電子書籍では日本に一歩譲っています。でも日常生活はすっかりスマホ時代に入っています。通信社はKDDI系の現地会社が最大手ですが、SIM交換で他社に簡単に移行できて最初から日本よりシステムがオープンで優れています。

 長男夫妻が大学生の孫と三人で拙宅にわれわれの「生存確認」にくるとき、話題の中で多少でも疑問を呈するような問題があると、三人一斉にスマホ検索を始めます。このような光景はどこにもあるものなのでしょうが、昭和は遠くなりにけりです。でも次男家族も含めてLINEのネットを構築していますので、日常はLINEでカバーされています。また次男は中国にいるので、中国製ラインである「ウィーチャット」を活用しています。確かに便利ですが、ネット通信はセンテンスが短いのが慣習であり、礼儀のようです。大学生の孫の返事は極度に短く、「ホエ」とか奇声に近いオノマトペが多いです。

 こんなとき、江本さんの講義への学生の反応と江本先生の対応は、極めて昭和的で、その枠で反応してくる学生がいる、しかも多数いることに一驚しました。また、やがて消滅の運命にあると思われる郵便はがきというアナログの極致が、たとえ二例であれ使われたことにさらに一驚しました。真摯な先生に真摯な学生が対応したとの構図に見えます。

 昭和の文化、スタイルとともに消えなんとしている私としては、一連の流れを快挙と思わざるを得ません。その意味でアナログがデジタルを押し切ったとというような気持ちでした。令和の青年の胸に灯されたなにか現実離れのような灯火が消えないことを願うのみです。(花田麿公 元モンゴル大使)

「十九の春」に思う

■地平線通信の発送作業を手伝わせてもらっている時、文章の一節が目に(心に)飛び込んできて読み入ってしまうことがある。前号では15ページの安平ゆうさんの文がそうだった。「この通信からコロナ禍で登山を我慢する人が一定数いることを知ったとき……」という文節。確か私もそんな我慢を書いた覚えがある。

◆そうか! 自分はさんざん山に通い続けてこられたから、回想や机上登山に逃げることもできるが、大学に入って、山と出会ってまもない安平さんのような若者にとってはそうはいかない。山に登れない、経験が蓄積できないということは悩みと模索の連続なのだ。「新しい生活様式」のなか、オンラインでの疑似体験も流行るかもしれない。

◆しかし、山でかく汗や、肩に感じる荷の重さ、心地良い風や景色、仲間との触れ合いの良さは実体験以外に感じられるものではない。私のような年配者の感覚だけで、若者たちの直接体験や人との出逢いのチャンスを奪ってはいけない。安平さんが、年末に初めて日本アルプス、白馬岳を目指したというくだりを読んで、「いきなり大丈夫かな?」と心配になりつつも、「生きていることを実感し、精神的に救われた気がした」という言葉に安堵もした。

◆通信への寄稿のきっかけは、九州大学での江本さんによるオンライン講義の感想を、葉書で送ったことだという。いい話だ……。「一銭二銭の葉書さえ 千里万里と旅をする♪」。田端義夫さんが唄った「十九の春」の歌詞が、耳元に蘇ってきた。私自身にとっても、通信を通じての「不思議な出会い」と気づきであった。安平さん、ありがとう。(久保田賢次


あとがき

■今月は締め切り日がはっきり伝わっていなかったようで、当日朝になっても連載原稿が届かず、一瞬心配した。どうやら1週間後でいい、と勘違いしていたらしい。なんとか間に合わせてくれたが、地平線報告会がない月が続いているので、どこか決まりごと、約束事がいい加減になっているかも、と反省する。お互い、気をつけましょうね。

◆朝日新聞に地平線が大きく取り上げられたことで、地平線通信の購読希望が急に増えた。筆者やスタッフのみなさんの毎月の奮闘ぶりを評価してもらえてすごくうれしいのだが、いまはコロナ禍で大勢が集まれないため、印刷・折り・封入作業は最小限にしたいという思いもある。紙に特別なこだわりがなければなるべくウェブサイトでお読みください、とお願いしている。別の自慢になるが、丸山純・武田力という私からすると稀有の才能がいるために、地平線のテジタル化は相当前から進んでいる。今月の新人、平島彩香さんが書いているように、自分の生まれた月に誰がどんな報告会をして、どんな通信が残されたのか、簡単に出てくるのだ。

◆もちろん紙の読者も大事で、そのことがあるからこそ皆頑張ってきたのだが、若い平島さんの文章から、地平線のウェブサイトもこういう読み方をしなくてはもったいないな、と教えられた。平島さん、ありがとう。4月はスタートの季節。さまざまな新しい世界に飛び込もうとする人々に登場してほしい。(江本嘉伸


■地平線マンガ『初夢の巻』(作:長野亮之介)
マンガ あの日のこと

《画像をクリックすると拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 503号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年3月17日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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