2020年12月の地平線通信

12月の地平線通信・500号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月23日。朝3度と低かった気温は午後になって13度まで上がり、暖かく感じられる。それにしてもこんなに押し迫ってから地平線通信を出すのは初めてだ。明日はクリスマスイブだよ。そして何よりも今月は、いつもの号とは違います。ついにこの地平線通信、「500号」になったのだ!

◆もちろん、長く続けるのが目的だったのではない。「継続は力なり」という言葉は「耐える」感じがあって好きではない。何をやり続けるか、が大事なのであり、結果的にある日気がついたら500回になっていたというのが正しい。ただし、私だけが言えることだが、素晴らしい行動者の記録を追う仕事は私は1人になってもやり続けるだろう、と腹をくくっていた。

◆自分はたいした冒険者でもクライマーでもないことを骨の髄からわかっているからだ。できることはただ一つ。優れた行動者の持つ“いいもの”を世に発信し続けることしかない、と私は知っていた。日頃、私がともすると大声で“命令口調”の印象を与えがちなのは、私が、いいぞと思う行動者は得てしてシャイで静かで自分のことを大きく語らない人であるため、その人のために大声になってしまうのである。

◆今回、通信500号を記念して「300字原稿」を寄せてくれた人の中に北海道で牛を飼っている田中雄次郎がいる。都立清瀬高校で三輪主彦の教え子であった時代、何度か顔を合わせただけだが、大げさに言うと、生涯忘れられない若者の1人だ。1977年7月25日から9月29日まで宗谷岬から佐多岬まで66日かけて日本を徒歩で縦断した青年。当時の日誌が観文研(日本観光文化研究所)が毎月発行していた「あるくみるきく」という旅の月刊誌の「138号(1978年8月号)」に「日本縦断徒歩旅行」として掲載されている。

◆地平線会議で最初の探険冒険年報『地平線から1979発刊記念大集会』というのを池袋の西武百貨店でやったことがある。1980年11月24、25日の2日間で、この際田中雄次郎には「徒歩で20キロの荷を背に57日間で日本を縦断した若者」として登場してもらった。「歩行距離2751キロ。使用金40,001円。拾金1,105円」というユニークなひとり旅。実行は19才の時だった。43ページに及ぶ歩き旅の記録は「超貴重品」で外に出したくないが、どうしてもという人は私まで。コピーはOKです。

◆雄次郎はその後北海道に移り、酪農家に。機械化の進む酪農の世界でに設備資金は半端ではない。一言では言い表せない苦労を重ねつつ37才からはたちまで6人の子供を育てあげた。3.11の東日本大震災の際は、私たちRQの支援活動に遠くからジャガイモを送ってくれた。現在63才。だいぶ減ったとはいえいまも27頭の乳牛と暮らしている。

◆19才で元気に歩き通した青年がいまも地平線通信を読んでくれている。500号というのはそういう年月なのである。このほかにも河野兵市、中村進、坂野皓、谷口けい、恵谷治、長野淳子、神尾重則ほか、いまでは会えないが、けして忘れることのない多くの勇気ある、懐かしい仲間たちがいる。新たに地平線にたどり着いた人たちは私たちのネットワークがそうした人たちに支えられてきたことに時に思いをいたしてほしい。

◆そして、いままさに盛りの新型コロナウイルス。きょう23日、東京では新たに748人とこれまでで2番目に多い人が感染、日本各地で同じように感染が拡大しつつしり、医療の現場から「このままでは通常医療も崩壊する」と悲鳴が上がっている。世界ではイギリスを中心にウイルスの「変異種」がにわかに問題になっている。既存ウイルスより70%は感染力が強く、15歳以下の子供も感染しやすいというから脅威だ。フランス政府はイギリスとの国境でもあるドーバー海峡の閉鎖を決め、暮れの物流に大きな影響をもたらしている。

◆この1年、地平線報告会は1月の服部文祥、2月の延江由美子、3月の森田靖郎(観客なし)、そして10月の私、と4回しか開けなかった。これからもすぐには開けないだろう。しかし、前にも書いたが私たちは今まさに“世界史の現場”にいるのである。そのことを地平線の人たちは貪欲に感じ取って記録に残してほしい。コロナの時代だからこそ地平線通信だけはこれからも本気の内容で発信し続けたい、と私は思う。

◆この通信でコロナのことに触れたのは2月号のフロントが最初であった。「テレビ、ラジオの速報は繰りかえしある船の動向を伝え続けている」と、3800人を越す乗客、乗員を乗せたまま横浜港周辺を漂う「ダイヤモンド・プリンセス号」のことを書いた。あれからやがて1年、2021年はどのようなかたちで私たちの前に現れるのか。探険、冒険とは別な切り口で時代をとらえなけれならないのかは確かだ。(江本嘉伸


つうしん500まつり
地平線通信が500号となったことに読者の皆さんから「300字」感想を書いてもらった。42年前からの仲間も、つい最近地平線を知った若者もそれぞれの思いをこめて。

何があっても繋がり伝え続ける精神

■江本さん、そして通信発行に携わってきた皆さん、500号到達おめでとうございます。全くお手伝いできませんが、まだまだ続けて下さい。地平線通信の存在は今のコロナ渦中をはじめ多種多様な災害、戦争、犯罪、政治、経済、社会不安の中にあっていろんな立場の多くの人達のボランティア精神の気概と何があってもどこかで繋がり伝え続けてやるというナマエモ(499号久島氏の文章から引用)の迫力を感じてなりません。通信が続いている42年は私の修行を含めた牛飼い人生の時間です。先日恩師三輪主彦先生から「カソリのようないつまでも続ける偉大なバカ(尊敬の意味だと思います)」と言われました。自給自足。政治経済に動じない一農夫を目指し続ける勇気を私は地平線通信からもらい続けています。(北海道天塩郡豊富町 牛飼い 田中雄次郎 もちろん手書き)

祝う 地平線通信五百号

五百号に至るは世紀の快挙なり まさに天晴れ地平線通信
ゆげのたつ通信なればすぐ開き すぐ読むことを習慣とする
地平線通信よめば内外の 未知の話題に感じ入るかな
外(と)つ国に住まひし時も 地平線通信を読み励まされけり
この月の題字もまたまた面白く 持ち歩きたる地平線通信
    (福原安栄 生駒市 ハガキに手書きで)

■愛すべき地平線通信の第500号、おめでとうございます! わたしが初めて地平線会議の場に足を踏み入れたのは、第452号の通信が先輩たちの手でせっせと印刷され、封入されていた榎町地域センターでした。ちょうど4年前の今月です。その月末、報告会で光菅修さんの話を聴き、ベッドへ入る前に旅への興奮をしたためたときのこと、鮮明に覚えています。載せていただいた記事の題は、『地平線会議との出会いは、私の転機になるかも……』。その後わたしが日本を飛び出し、数え切れぬ程のボルネオでの記憶を手にした今日までの間に、50の新たな便りが送り出されたのですね。通信は根底をとめどなく流れる地下水のような存在です。今後もわたしの旅を後押ししてくれる力となりますように。(下川知恵 早大生)

■もはや通信というより、月刊地平線、です。先月の書き手は15人、先々月は17人、その前は26人、その前は25人。これだけの個性的な人の熱い言葉を毎月毎月集め、まとめ、印刷、発送し続けるのは、すごい。それも無償で。才気あふれるスタッフと、剛腕編集長江本さんに感謝。個人的には地平線アイドルのグラビアページを期待してます。(渡辺久樹

パイプのジョイントの役割

■1979年9月28日の第1回地平線報告会は、初代代表世話人の宮本千晴さんの挨拶で始まり、三輪主彦さんの報告が続いた。2分30秒のテレホンサービス「地平線放送」でその一部を放送したが、後に月刊誌『地平線放送だより』を発行する際、番組をテープ起こしした。なぜ地平線会議を創設したのか、千晴さんが語る肝心の部分が聴き取れない。「どこかで誰かが、パイプの○○○○の役を果たすことをやっていつづけていれば、それでいいのである」。何十回も聴き直してそれが「ジョイント」であると気づき、全身が震えた。なんと壮大、かつ現実的な理念なのだろう。あれから41年と4か月、私たちはパイプを繋げ続けて、500号を迎える。祝!(丸山純

不忘初心、不怠鍛錬

■500号、41年4か月。と聞いて、まず思うことは、回る、繰り返し続けることへの畏敬です。この間、月は地球を500回、回った。地球は1万5千回以上自転し、太陽を42回目の公転中。宇宙開闢以来、素粒子も銀河も星々もスピンを続けているらしい。その引き合い反発する力が化学反応、気象現象、生物活動に作用し、人々もそれに合わせて暮らしを続けてきた。探検、冒険家は、そのパイオニアワークを担ってきた。私の土佐の山仕事の師匠は言った。「戦後すぐ15歳から山仕事をはじめ、5年やって山で生きて行く覚悟ができた。10年で人に教え、20年で組の長をやる自信がついた。50年やって未だ初心で鍛錬中よ」

◆スマホをタッチすれば知識は瞬時に手に入るが、ワザは一生100年かけて磨かないと身につかない。チエは7世代200年土地に揉まれて根づく。地平線の方々が日々月々初心で鍛錬してきた種子が拡がり続くことを祈念します。地平線40周年記念刊の「風趣狩伝」の元本「風姿花伝」の世阿弥は、日々初心者のように新鮮に謙虚に、鍛錬に励むことが芸の上達に肝要と言ってます。宮本武蔵も「五輪書」で繰り返し同じように言ってます。この「風趣狩伝」の命名者も同じ思いがあったのでしょう。(山田高司

忘れられないふたつの思い出

■会場には数え切れないほど足をはこび、通信は隅々まで読んでいる。熱心なフアンのひとりです。しかし自分が発表したのは1回だけ。テーマはブータンの服飾について。忘れられないのは、客席に回した草木染の手織り布が戻ってこなかったこと。貴重な資料です。顔にはださなかったが「ひどい!」と怒った。が、今は思いなおす。その価値がわかって、大切にしてくださっているのではないか。

◆もうひとつの思い出は感謝の気持ち。NGO活動で20年以上通っているミャンマーの村がサイクロンで大きな被害をうけた。13万の死者・行方不明者をだしたサイクロン・ナルギス。江本さんの呼び掛けで100万円もの寄付が集まる。世界中から億単位の寄付が集まったとはいえ、小さな「団体」の貴重な寄付金だった。ミャンマーのパートナーにその旨を伝え、お金を渡した。この機会にもう一度、皆さんにお礼を申し上げます。(向後紀代美

go to 発送作業

◆500号達成! まずはおめでとうございます。毎回のキリ番のとき、何があったか。……なんて考えても思い出せませんが、今回は記憶に残りますね。「あれはコロナの年の年末だった」って。

◆約40年前、月例報告会の案内葉書として始まった通信は、いまでは地平線の2本柱の1つです。今回、カミさんとも意見が一致したのですけれど、報告会で話を聴いた、あるいは会場でちょこっと言葉を交わしただけの人々が、その後もずっと身近に感じられるのはナゼか。それは、本人が飾らぬ言葉で本音を語る、この中身の濃い通信があればこそです。会則も教義もなく、「その何たるかを説明せよ」と訊ねられても返答に困るナゾの集団・地平線会議。それが存続し得たのも、ひとえに通信のお蔭です。報告会だけで、この繋がりは保てません。

◆ところで地平線通信には、「発送作業」という楽しい儀式があります。原稿依頼から校正、レイアウトまで、多くの仲間が面倒な役割を分担して通信は作られていますが、その最後の達成感に便乗できる、「美味しいトコ取り」の現場です。たまに手伝いにゆく程度の私も、行けなかった時は、報告会を聴き逃したくらいに悔しい思いをします。コロナが収束したら、これまで「読むだけ」だった皆さんも、“go to 発送作業”へ、ぜひどうぞ。(久島弘

どっしりと、いつもそこにある通信であってほしい

■屋久島はいま、コスモスと向日葵が満開だ。ブルーの海と花々を眺めていると、このゆったりとした時間の流れが本当に好きだと思う。一方で、新しい人やモノとの出会いの少なさや、島外の知人に会うことの難しさに、寂しさや物足りなさを感じてしまうこともある。そんなとき、毎月届く地平線通信は、私に刺激と懐かしい安らぎをくれる。ページをめくれば、地平線通信という太い木の幹の枝葉やそこにからまるツタのように、たくさんの書き手の思いが息づいている。それぞれの記事が独立しているようで根っこで繋がっているのは、長年続けてきた通信だからこそだろう。これからもどっしりと、いつもそこにある通信であってほしい。(屋久島 新垣亜美)

クジラは豊漁

■「アジアの感染症」は、あっという間に「世界の感染症」となり、毎年通っていたアラスカも一気に感染者が増加してしまい、今年は、クジラを始め、あらゆる猟を諦めざるを得なくなってしまった。そんな年に限ってあらゆる獲物が豊猟で、何か捕れるたびに現地から電話がかかってくる。羨ましいったらありゃしない。夏までには落着くかと思っていたが、全く先の見えないまま、年末になってしまった。「今まで、先が見えないまま生きてきたんだから、これまでと同じことだよね」と自分に言い聞かせつつも、せめてアラスカには行かせて欲しいし、面々の滋味深い話も直接聞きたいので、生の地平線会議ありきの地平線通信を期待したいものです。(高沢進吾 クジラ猟師見習い)

知りたいという欲求を突き詰めて

■地平線通信500号おめでとうございます。そして江本さんお疲れ様です。500か月ということですね! 40年以上にわたり続けてきたことはすごいこと、人も世の中の変化もある中で組織や集まりを40年以上一月も休まず続けるということ、つまりモチベーションを維持する大変な労力は容易ではないことです。あと8年3か月で半世紀になります。一昨年にマッケンジー川を40年ぶりに再訪し、つくづく世の中の進歩??により人が本性を見失ってしまい社会に埋没していく様を目の当たりにしました。地平線会議が人の知りたいという欲求を突き詰めて行く刺激のある報告を今後も続けていくことを痛切に願っています。(会津川小屋主 河村安彦

「通信」という響きがなつかしい

■コロナ禍中、四国愛媛今治の片田舎で地平線通信を励みに妙薬として仕事をコントロールしウルトラマラソンやトレランにマラニックと徘徊を楽しんでいます。ただし地平線通信に投稿されている方のように世界を股にかけた素晴らしい冒険や生き方はしておりません。普段のありふれた生活の中で、日々、気力を失わさないように前向きに「雨にもめげず」の如く、東に西にと奔走し小さな夢を叶えながら「徘徊」をこよなく楽しんでいます。

◆私は電波通信専攻で無線技術士や無線通信士の資格を保有しています。当地平線会議の地平線通信の「通信」という響きが遠い昔の電波学校時代の「電鍵=Key」(トンツー)との思いが重なります。良い響きです。いつまでも大切な言葉として使っていただきたいと考えます。当今治には四国霊場の札所が六か所ありますが、この札所を「札所走り」と名付け各札所をランダムに走っています。仏心(ほとけごごろ)を持たない私には恰好の練習場所です。(徳野利幸 今治市)

思い出す四万十ドラゴン

■ときどき痛みだす右膝。痛みと共に思い出すのは2007年の「四万十ドラゴンラン」のこと。そう、ウルトラじいじこと原健次さんが集合前に転んで指を骨折して、えもーんから「かずりん」と呼ばれるようになった時のことです。人力だけで196kmを下ったあの時、私の右膝は徒歩での2日目からキシキシ痛んで、とてもゴールまでみんなと行けそうもありませんでした。自転車に乗ってからピタリと痛みは消えて、無事太平洋まで完走できたのですが。だから、あれは私の小さな冒険の記憶。最後までやりきったという感覚は、その後の私を助けてくれています。地平線会議との出会いもここから。報告会の初参加は335回の広瀬敏通さん(当時は見知らぬ人)でしたから、まだまだ新参者ですね。(八木和美

おそらく人類史上の奇跡

■2020年1月の会議に初参加し、本音を言えば、かなりユニークな方々の集まりだと思いました。しかも、その500回の記録が全て活字に残っているということ自体が奇跡です。例えば……。現在の文明が滅んだあとの、映画「猿の惑星」のような時代を想起されたし。太陽黒点の変化等から地球規模の磁気嵐が発生し、電子媒体は全てパー。打ち続く天変地異により今の人類の文明が中断。あとの人類が富士山の火山灰の底から通勤電車を発掘。21世紀の東京に奴隷制度があったというのは、今や考古学会の常識です。その時、都内某所より「地平線通信」の束が発掘される。当時このような自由な生き方をするおびただしい人々がいたのなら、通勤電車に閉じこめられて亡くなった人々は何なの? 地平線会議に拠った人びとは何か特別な資格を付与された「精神の貴族」なのか? という困惑を22世紀の考古学会に与える可能性がある。地平線通信は、現在受け取っているフツーの人びとの「常識」をも爆破する威力を秘めた、人類史のレベルで奇跡的な存在だと思います。祝500号! 驚中断ゼロ!(豊田和司 詩人、広島県山岳・スポーツクライミング連盟理事長)

模索しながら答えのない着地点を探す

■地平線通信500号おめでとうございます。20代後半に地平線会議の存在を知った私にとって、地平線はほっとする場であると同時に、いつか勝負すべき場でもあると思ってきました。勝負するとは何かと問われれば、魂を削るくらいの熱量で考え行動することだと勝手に思っているのですが、まあ、長く会社勤めを続けていられるような自分には、そもそもそのような資質はないのかも。今年はコロナのおかげで、予定した海外の山旅に出かけられなかった一方で、図らずも勤め人には挑戦的な一年でした。リーマンショック以上のインパクトで変革が求められ、模索しながら答えのない着地点を探すのは、少しだけ地平線的であった気がします。(恩田真砂美

人生を賭けた表現活動

■登山は人生を賭けた表現活動である、と改めて考えている。我々には命に危険が及ぶ可能性のある登山をおこなう自由がある。そんな自由が許されているのは、登山者が自分で登山を終わらせることが大前提になっているからだ。はじめから救助を期待しているような登山者に登山の自由を許すほど社会は寛容ではない。だから他人の救助を期待したり、必要性の低い救助を要請したりすることは、登山の自由を捨て去ることにつながってしまう。でも最近は山でさえ管理された空間と考えるレクレーションの登山が当たり前になっていて……。「できるかできないかが自分の能力に帰結する自由」を求める登山者はもう古いんでしょうね。(服部文祥

敢えて安定した世界を離れて

■『地平線から1979』を初めて目にしたとき、新鮮な驚きにとらわれたことを思い出す。本書が出版された1980年は、60年代の高度経済成長も70年の大学紛争も遠い過去のものとなり、社会全体が安定期に入っていった感がある。この年、インベーダーゲームが大流行し、若者も大人もゲームの世界に没頭していた。そんな風潮に抗うようにして、未知への憧れを追い求め、辺境への旅を実行に移し、そして記録に残した本が出た。安定とか日常とは一定の距離をとりながら、未知への旅を模索する。その行動と記録が実に新鮮だった。爾来41年、編集者の熱い思いがあればこそ、そして私たち自身が新たな旅を指向し続けることで、「地平線報通信」も「祝!500号」の快挙となった。(神長幹雄

探検のヒントに溢れた宝の地図を見つけた気分

■地平線通信を初めて受け取ったのは4年前の秋。新宿スポーツセンターから札幌への帰路に何度も読み、手に滲む汗でヨレてしまった。様々な分野と地域で、最前線を走り続ける先達が紡ぐ言葉が檄となって飛んでくるように感じたからだ。探検のヒントに溢れた宝の地図を見つけたようで、迷走中の現役探検部員だった私は興奮した。

◆以来、手元には50冊ほどの「地図」が束になっているが、全巻の1/10でしかない。もっと早く知りたかったと悔やむこともあるが、先人たちの足跡を振り返れる立場にあることに感謝したい。『地平線月世見画報』と合わせて、誰が何をしてきたのか、辞書のように引いてみることも多いが、その度発見がある。歴史ある媒体に足跡を残せる幸運と責任を感じつつ、自分も挑戦を続けたい。

◆遠軽での造林作業は一段落し、1月からは伊豆大島でキョンの駆除に関する仕事に従事する。新年はかの三原山噴火口を拝み、抱負の達成を誓いたい。(北海道遠軽町 五十嵐宥樹

誰か「ステイホームだ!」と言ってほしい

に呼び止められる。先週収録したインタビューの取材相手が陽性だった、という。新型コロナである。これで何度目か。その担当者が言うには、保健所に相談した結果、2メートル離れた場所でマスクをつけてカメラを構えていた我々は濃厚接触者に当たらないという。唯一「濃厚」認定された記者は出勤停止だが、私たちは体調に異変がないかぎり通常通り仕事していいらしい。とはいえ、と迷う。症状は出なくても自分はウイルスを媒介している可能性はゼロではない。

◆仕事が停まらないだけではない。ステイホームだ、イエナカ時間を楽しもうとか言いながら、日頃から動き回っていた人たちは相変わらず街中や山の中にあちこち出没しているのではないかな。ただFacebookにも通信にも書きにくいし、ツイートも炎上しそうでなかなか表にできないんだよね。

◆そんな話を大阪の岸本夫妻にしたのはナニワ天六のテンカラ食堂で、なぜか私は緊急事態宣言が出た4月以降、各地での出張仕事が急増し、こうしてテンカラを訪ねるのも数回目なのだった。実は9月の鳥取には折りたたみ自転車持参で、大山の麓から三朝温泉まで走った。塩谷定好写真記念館にも寄り道して、植田正治だけではない山陰の写真文化の奥深さを知った。

◆その翌週、大分の佐伯では九州最東端を目指した。リアス式海岸の襞を越えて自転車で走るのはなかなか骨が折れた。いまも大阪での収録の後、釜石鵜住居復興スタジアムでのロケに向かっている途中だ。今回はトンボ帰りだが、11月の下見では宮古、山田、大槌、三陸と2014年に自転車で巡った場所を訪ねて回り、その様変わりをつぶさに見た。東北もずいぶん日が短くなった。

◆ひょっとしたら私が媒介しているのではないかと不安に思いながら、各地を回っている。こうやって感染の波がとめどなく広がっていくのを、ニューノーマルと言ってよいものか。誰か私の仕事を停めてほしい。ステイホームだと言ってほしい。(落合大祐

至福の鯛焼き修行

■見習いから始めて早15年。僕が毎月この通信の印刷作業を行っている榎町地域センター印刷室は、いつしか僕の心のなかで40年以上続く名のある老舗の鯛焼き屋と化している。ご存知、うちの鯛焼きの自慢はなんと言っても鮮度抜群の餡子だ。情熱のある農家を厳選し、その時節に最も適した素材を世界中の産地から瞬時に取り寄せている。頭から尻尾までぎっしり詰まった「濃厚な味わい」が評判だ。「伝統を守りたい。全国に発送するお客様に笑顔になって欲しい」。その一心で一枚一枚丁寧に焼いている。最近ようやく外はパリッと中はモチッと仕上げられるようになってきた。一流鯛焼き職人への道のりはまだまだ険しいのである。(車谷建太 新規見習い募集中!)

“あむかす”と“地平線会議”

■昔話を聞いてほしい。半世紀ほど前(1967年)のこと。ロンドンにいたぼくに宮本千晴からの手紙がとどく。文面は「帰国したら新設の観文研(所長宮本常一)を手伝ってほしい」。何を手伝うのか? 全国の大学探検部をつなごうとしたことがある。宮本とぼくも活動の中心にいた。だが企ては未完でおわる。印刷物“日本探検協会設立準備会「会報」準備号(1964年12月)”が残った。

◆観文研での最初のイベントは「探検会議」の開催だった。法政大探検部の協力で同大学の白馬山荘を使わせてもらう。1泊2日の会合、多くの大学探検部がやってきた。全共闘世代の「探検は帝国主義の先兵」なる意見も出た。が、それは少数派。活発な議論から「探検おじさんキャラバン隊」などが生まれる。“あむかす”(「『あるくみるきく』アメーバ集団」)もまた産物のひとつだった(ちなみに『あるくみるきく』は観文研同人がつくる月刊誌。専門家の高い評価をうけた)。

◆“あむかす”の活動は探検講座・探検関係資料のまとめ、そして一般公募による探検学校の開催(ボルネオ、小スンダ列島、インド・ネパール、ニューギニアなどにフィールドを求めた)そして地平線会議。それを支えた顔ぶれに“あむかす”の顔がみえる(三輪主彦、伊藤幸司、丸山純、賀曽利隆、岡村隆、関野吉晴、宮本千晴……)。嬉しい。(向後元彦

「只者ではない」方が集まる紙面が存在することに驚いた

■地平線通信を知ってから1年とたっていない。およそ1年前、ロシア語の社会人教室にご縁があって通わせていただくことになり、はじめて顔合わせをした際、あまりロシア語を話せない私に、「先生に日本語を話させてはいけない」と喝を入れてくださったのが江本さんであった。クラスの人は皆ロシア語で大学を卒業しており、対して私は圧倒的に勉強量が足りていない。授業の予習についていくことに必死であった。

◆そしてある日、江本さんから地平線通信をいただいて、このように多岐にわたる分野の「只者ではない」方が集まる誌面が存在することに驚いた。ロシア語の授業で江本さんのお話の端々からにじみ出る地平線通信に対する情熱は素晴らしく、新参者ながらメッセージを送らせていただく。500回おめでとうございます。(松本明華 千葉大生)

地平線は人生の教科書

■私は今受験の真只中である。志望校選択をするために、自分自身と向き合ってきた1年間だった。地平線報告会に参加し、様々な社会問題に関する考え方、多様な生き方、チャレンジ精神に触れてきた。その中で、学校だけでは決して学べない本物の授業が受けられたと思っている。その一つ一つが自分の志望校選びに少なからず繋がったと思う。これからも地平線は私の人生の教科書であり続けるだろう。(長岡祥太郎 中3)

今年も黒百合ヒュッテで冬山コンサート

■地平線通信は、地平線会議と関わりはじめた1990.3.10発行の125号からすべて取ってあります。並べると厚さ30センチ。スタンスを全く変えていない。そこが500号への継続の力だと感じます。

◆さて、音楽業界も疫病の影響を直接受けた一年でしたが、今年も冬山コンサートやります。北八ヶ岳、標高2,460mに位置する黒百合ヒュッテにて。12月31日から1月3日までの4ステージの予定。『ケーナの調べ、南米音楽コンサート』と銘打ち、42年連続開催しています。夏にも黒百合でコンサートを行いましたが、山小屋も感染防止に苦慮していました。接触回避、飛沫阻止、各所消毒。

◆『文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある』と寺田寅彦は述べています。極大なスケールの地震や、極微のウイルスの蔓延に現代の文明は対処できない。とすると、進歩を人間の身の丈に合ったものに留めると、天災は軽減できるのだろうかと考えさせられます。(ケーナ奏者 長岡竜介)

透明な封筒のまま読み始めることも

■通信500号! 毎月発行し続けていることに頭が下がります。印刷物は、電気に頼らずいつでもどこでも読むことができ、ありがたいです。封筒が透明なのもいいですね。一階の郵便受けから取り出し、上の階の部屋まで階段を昇りながら、フロントやあとがきを読むこともあります。ボリュームのある中身は、読むのに時間がかかるものの、お蔭で多くの方の近況・活動を知ることができます。報告会参加は年一回程度ですが、面識ある方の記事はよりイメージしやすく、ない方でも、興味深い内容には親しみを感じます。いつもありがとうございます。今月も楽しみにしています♪(掛須美奈子 千歳)

500回を経てアヤシイおじさんに

■自分自身は探検にも冒険にも縁がなかったのに、地平線会議の名前ができる前から、人生の3分の2にわたり関わらせてもらっている。その間、報告会に来た若い人が、その後探検家や冒険家となっていくのをみてきた。探検家とか冒険家とかそんな大それたものでなくても、あのときあと一歩踏み出せば自分の人生が変わっていた、などと考えてしまうことがある。

◆せめて地平線に来る若い人たちにはそういう思いをしてほしくないと、卒業間際の大学生に甘いことばをささやき悪の道に誘い込む怪しいオジサンに、500回を経てなってしまった……。(私のことばだけでそうなるわけではないでしょうが……武田力

通信1000号ではどんな言葉が紡がれているだろう

■地平線通信が500号を迎えると聞いて、およそ半世紀の歳月が積み重なっていること、その間に登場した人数などが漠然とだが浮かんで来て、唯々凄いことだと誰彼無しに敬意を払いたくなる。記念とか、けじめにこだわりはないが、500回、50年、半世紀となると少し立ち止まらざるを得ず何かしらの思いが交差する。50年前、私はカナダ北極圏にいた。マッケンジー河デルタの石油試掘前線を訪ねそのパワーと規模に圧倒されていた時、「ミシマ、セップク」のラジオニュースを聞いた。

◆その後はイヌイットの友人に会うための北極行を重ね、植村さんと日大隊が北極点を目指したとき取材に来ていた江本さんにイエローナイフで初めて会った。地平線会議が活動を始め、3回目の報告会でイヌイットの世界を話させてもらった。話が苦手で言葉が出てこなかった。いまは隠遁自粛生活なのでコロナ禍の影響はさほど感じないのだが、交差する思いが形にならない。魂が叫ぶ言葉に触れることもない。考えることが面倒になっている。言葉が虚しくなっている。老いとはこういうものか。それでも人が集い言葉が交わされることは大事なこと。通信が1000号を数える時、どんな言葉が紡がれているのだろう。楽しみだ。(街道憲久

これでいいのか? では何を?

■私は、いやおれは、地平線会議に何を期待したのか。自分の地平線、身近な仲間たちの地平線を越えてきた人たち、地平線を見つけ越えようともがいている人たちを見、話を聞き、こんな仲間たちがいると確認したいからだ。根底に自分に対する、自分の属する社会に対する、くすぶりつづけている問いがある。これでいいのか? これでいいのか? では何をどうすれば? という。(宮本千晴

バイク世界一周直後に出会った地平線

■1996年の神戸集会が、自分の初地平線だ。日記を見たらバイクの世界一周から帰国後9日目となっている。あの時はリヤカーマンの永瀬忠志さんの話が聞きたくて参加したのだった。ただ2次会まで行くつもりはなかった。そこは参加者全員が「俺の方が凄いぞ」と競い合っている場で、しんどそうと思っていた。周りの人が強引に連れていってくれなかったら僕はこっそりとその場から消えていたと思う。繋いでくれた方に感謝。

◆地平線にいる人は皆自分の世界を持っている。自分の世界に自信があれば、人を踏みつけて自分の立ち位置を確認する必要はない。居心地の良さは「自分とは違う人がいる」という事実を肌感覚で知っている人の集まりだからだと思う。(坪井伸吾

炎のある暮らしは楽しい

■2012年7月福島地平線報告会に参加し、そこで放射能汚染の現場を見て原発でつくられた電気は使いたくないと思った。それまでの節電の意識から電気の自給に目覚めた。ソーラーパネルで蓄電した電気を使い、パネルを増やしつつひと月の電力量が0kwを達成したとき電力会社と契約を切った。LPガスの使用も控えて薪と炭にした。雨天が続いた時は薪ストーブと七輪を多用して節電する。炎のある暮らしは楽しい。「電気がなくても、人は死なない。」(木村俊雄著)のである。5年目になる電気自給生活と自然エネルギーの利用はもう元に戻らないだろう。(和歌山県田辺市 年金生活者 小森茂之

懐かしい「ダイナミック琉球」!

■バイク旅が人生の軸だった私は、バイク冒険王の賀曽利さんがきっかけで地平線会議に関わるように。地平線会議のテーマは冒険に限らず、お陰で自分の幅も広がります。30周年会議では「ダイナミック琉球」のダンスを仲間と踊ったり(ダンスと無縁の私にはこれが大冒険!)、東日本大震災のボランティアは地平線と縁が深いRQの活動に加わりもしました。近年私はバイク旅より登山が多くなりました。2017年1月に八ヶ岳に登った時、同じ山小屋に松原尚之さんが泊まっていて、南極を歩いた話を聞いて印象に残りましたが、その時は地平線とは関連付けませんでした。通信496号でお名前を見つけ、地平線仲間だったとは、ご縁がありました!(古山里美

50歳にして気づいた「金は自然には貯まらない」事実

■「どうせ金なんて50歳になる頃には自然に貯まっているんだから、いま行かないでどうする!?」。30代前半の頃、そんな口説き文句で仲間をヒマラヤに誘い、幾人かが実際に仕事をやめて一緒に8000m峰を目指した。若いときヒマラヤに行きたかったが行けず、ようやく環境が整った頃には歳をとり、登る体力がなくなっている……。そんな先輩をたくさん見てきたから、「登れるときに行かないでどうする!」。そう信じていたのである。

◆月日は流れ、私も実際に50歳という年令に達してようやく気づいたことは、「金は自然には貯まらない……」。このしごく当たり前の世の中の理であった。そんなわけで、当時私の口車に乗って勤めを辞めた一人である奥田仁一(関大山岳部OB)などは、今でも私に会うと、「松原さんに騙された」、こう言うわけである。金は自然には貯まらない。そんなわかりきった真実に、あの頃の私はどうして気づかなかったのだろう?(松原尚之 山岳ガイド)

在宅勤務の悩み

■私の家はモノであふれている。子どもたちが集めた石や木の実、ダンボールの小屋のようなモノ。私の書籍やレコード。3歳児のコレクションはなかなかのもので、モノを所有する欲求は本能のように思えてくる。新型コロナの影響で、在宅勤務が働き方の主流になった。モノであふれる家は、仕事をするのに向いていない。収納と机の隙間、約50cm四方が仕事のスペース。隣の娘の机は、よくわからないモノが積み上がり、一種の生態系を形成。時々、崩れて、私の小さな机を侵略してくる。お隣さんはゴミ屋敷状態である。そんな状況の中、私はソローの「森の生活」を読んでいる。子どもたちが自由に遊べるような、自然に囲まれた家で暮らしたい。(山本豊人

モノを生まれ変わらせる面白さ

■私が染織を学び始めたきっかけの一つは、興味のある分野に真直ぐに向かっていく素敵な人達と地平線会議で出会えたこと。あれから30年。今は、新しいモノを一から作り出すより、生まれ変わらせるのが面白い。先日、友人から息子さんが学生時代に履いていたジーンズをもらい受けた。お連れ合いを亡くされた頃のご家族の思い出が詰まったジーンズ。ほどき、裂いて織る。多感な少年の姿を思い浮かべて制作した。仕上がったタペストリーを彼女に見せると、驚くほど感動してくれた。私も胸がいっぱい。30年前は、こんな着地点があるとは想像できなかった。継続することで起きる変化を愉しんでいます。地平線会議はどう変わっていくのでしょうか。(中畑朋子 飛騨高山)

非日常を体験した人が、それを体験しない人に伝えることの大事さ

■人間は本質的に冒険心を持っていると思うが、高度にシステム化した社会の中で生きる場合は、システム違反の行動は嫌われることが多いだろう。それでも、社会の規範から外れたことに生きがいを見出す人たちがいる。社会規範から見れば、好ましくないことでも、やり遂げた行動を見れば、誰でもが感動する。行動者本人も、多くの人に知ってほしいと考えている。

◆地平線会議の活動は、非日常を体験した人が、それを体験しない人に伝えることが重要なポイントだと思う。私自身は体験できないが、行動者たちの危機を回避する場面や、粘り強く行動し続ける姿勢が、私の心に活性化の灯をともす。このような活性化を得られることが、地平線会議の魅力だ。(北川文夫 岡山)

人生の山小屋

■旅人が集まる地平線会議っていうのがあってね」、20代の長旅の途中で出会った人が教えてくれた。「だけど、なんか俺らとは違うなあと」とも。気ままに旅して、長居したいところで日銭のために働く。私が出会った旅人たちはそういう形が多かった。大学探検部出身や山ヤが多い地平線は旅するテーマや視点を問われる場だと、参加してみて感じた。

◆たしかに違う。しかもホンキのホンモノでないと通用しない。「よっしゃ、私も」と意気込んだり「ち、みんなエリートじゃん」といじけたりの行ったり来たりで30年以上。それでも時々顔を出さずにはいられない、今では人生の山小屋みたいなところだ。崖っぷちにいても、その灯が見えればほっとする。(熊沢正子

通信を裁断しスキャナーで自分のパソコンに取り込んで、データベース化

■記録を大事にする地平線会議では、私が初めて参加した報告会が1985年6月28日とすぐ見つけられます。味を占めた私は過去の地平線通信を裁断しスキャナーで自分のパソコンに取り込んで、データベース化をしています。そうすると誰が何を書いたか行動したかが、すぐ検索できます。しかし唯一わからないのが自分の日常の行動です。

◆自分の記憶ほど当てにならないものはないと身に染みているので、最近は10年日記やEvernoteにせっせと記録しています。その結果、今や私と会った人の日にちも場所もすぐにわかります。ぜひ試しにいつ会ったか聞いてみてください。スマホさえあれば即座にお答えします。(岸本佳則 大阪)

地平線会議のこれからを思うとぐるぐる

■なんだかあやしい熱気のアジア会館にギリギリ足を踏み入れてから約20年。まだまだ新参者の私だが、おこがましくも考えてしまう。今と未来を捉えたテーマやキャスティング、そして編集の技。報告会も通信もこの上なく、それゆえ「これから論議」も進みにくく……。さまざまなカタチを体験し、今後を考えるのも一案かと、現編集長総監督で、重鎮の皆さんに責任編集を交替で担っていただけないものかと贅沢に夢想したり。一方、オハラIIからの熱が、時代とともに変わりながらも共通の動機とならない限り、もう展開は難しいのではないかと思ったり。音頭取りが必要、そう、鍵は世話人の存在。で、思考は冒頭に戻り……。(中島ねこ

地平線通信が40代ならば元気いっぱいの若者

■喜界島に住んで9か月が経ちました。離島生活にはすっかり慣れましたが、いまだに風習や文化に驚かされています。先日2日がかりの味噌造り体験に参加した時のこと、120kgを麹造りから7人で仕込む本格的な「製造体験」。70歳以上3名、60代3名、30代(私)での作業で、ここは私が頑張らねば!と思ったものの当時妊娠8か月の身。妊婦は大人しくしていろ、とお姉様方に20kg、30kgの原料を運ばせ、立ち作業のみ許可をいただきました。

◆島では60代は若手、お年寄りと呼んで良いのは80歳以降。70代で「

○青年部」と呼ぶ集まりもあるそう。今回のお題でこのエピソードが浮かびました。ヒヨコにもなっていない私ですが、地平線通信が40代ならば元気いっぱいの若者。これからも多様な変化の渦中でも皆さんの熱い思いと知恵で紡いでいっていただきたい。私もそこに少しで関わることができればと思います。(うめ、こと日置梓 喜界島住人)

地平線会議よいつまでも

■ヤマケイの小さい記事に「地平線会議発足」とあった。何てかっこいい。必ず参加したいと思った。1979年は私が親元から羽ばたいた年。スリーマイル原発事故・ソ連のアフガニスタン侵攻もこの年。通信発送日。榎町に近づくと真っ先に印刷室を見上げる。階段の途中からリソグラフの高速回転の音。いました車谷さん。そうこうしているうちに森井さん(永遠の文学青年)登場。いつの間にか仲間が増えて、今日も無事作業終了。その後「北京」で円卓を囲みほっこり。お仲間の意外な横顔に出会うこともしばしば。地平線会議よいつまでも続いてと近頃は祈るような気持ちだ。(中嶋敦子

病気の仲間がいるといいですよ

■漂着物趣味で一緒の、小島あずささんから、勧められて、地平線報告会には何回か参加しましたが、リウマチで、体力が失くなっていったこともあり、「地平線通信」を読むだけの立場に。最近届いた通信でパラオから帰ってきた結核の方の記事を読み、とくにうるうる。病気の仲間がいるといいです。「コロナだけはかからないで!!」と、注意をうけている患者さん、たくさんいますよ。私もそうですが。皆の連帯感は、病気の孤独を薄めます(リウマチも、友の会がある)。「ゆーちゅーぶ」は、見ない。これからは、たごさんの、みますね。

◆私はこの頃インスタで、「アリババの海賊流木店」やっています。コロナなので、私にできること、始めました。(京馬伸子

『1年生』

■地平線通信が創刊された1979年9月、ぼくは岐阜県可児市の小学校に通う1年生だった。それから40余年を経て500号を数えるうちに、ぼくは父になっていた。今朝、登校を拒む息子ダイホと、ひさしぶりに学校まで歩いた。桜の樹の下をふたりで通ったとき、ふと6月の入学式の記憶が蘇ってきた。ダイホもこの春から1年生。あの日を思い出しながら、入学式にはやっぱり桜の花が似合うと思った。

◆ダイホの息子、つまりぼくの孫が小学校に入学するとき、ぼくはまだ走っているだろうか。地平線通信は続いているのだろうか。第1000号が配られるとき、この500号が出た年の桜の葉がしげった入学式と、息子と歩いたこの朝のことを、もういちど追想してみたい。(二神浩晃

好きな宛名シール貼り

■こうした地道なことが500回も繰り返されて来たと思うと、ただただ感謝しかない。いただく一方だった「地平線通信」。少しは役に立ちたいと、退職後は、よほどのことがないかぎり、印刷・発送の手伝いに出かけると決めた。とはいえ、まだ10回ぐらいに過ぎない。私にできることは手作業の製本と封入ぐらいだが、一番好きなのは宛名シールを貼ることだ。旧知の人のお名前を見つけては「元気かな」と空想する。報告会で話を聞かせてもらった方の宛名を貼っていると、声や口調、心に残った言葉まで耳元に蘇ってくる。あっ、もうひとつ大好きな仕事があった! 完成した封筒を二つの大きな袋にまとめて運び出す時だ。翌日、江本さんが郵便局の人に渡すとのことだが、作業場所から「どっこいしょ」と担ぎ出す時の、肩と腕を締め付ける重さがいい。私より若くて力持ちの人がいたとしても、これだけは譲りたくない。それは地平線の歴史や広がりが詰まったズシリとした重さを味わえる瞬間だから。(久保田賢次

地平線会議よ永久不滅であれ

■通信500号、おめでとうございます。継続の力は旅人たちの記録を「歴史に遺してゆく」という江本さんの強い意思と、それを支えるスタッフたちの力によるものと敬服します。地平線会議発足と同じ頃、私は島の愛好会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を立ち上げました。30年は続ける、そして30年で終わりにすると決めて始めましたが、発足9年目に重い脳障害を持つ娘・夏帆が生まれました。障害児を育てながら島に通う仕事を続け、島の会も運営することは、正直どうしようもなく大変な時期もありました。30年解散時には人生の安堵感がありました。地平線会議は「旅」という大きな世界を次世代に伝える使命を持っています。それゆえ永久不滅であらねばなりません。(河田真智子

結核の治療の中で明日を見据える

■ちょうど4年前の12月、学生の頃からの夢がひとつ叶った。それは地平線会議で自分の旅を報告させてもらうことだ。あれから4年。ハワイ航海がコロナで中止となり、今はパラオで感染した結核の治療をしている。人にも会わず、ほぼ引きこもっての生活が続いているからだろうか。ネガティブな想いが溢れてきて苦しい日々が続いている。

◆そんな日々の中で出身大学から書類を取り寄せる準備をはじめた。早稲田大学のビジネススクールへの受験のためだ。年齢的に今更学んでも無駄かもしれない。将来に対する不安も大きい。金銭的な負担も大だ。何より試験に受からないかもしれない。それでも治療の終わる4月から新しい挑戦をはじめたいと思っている。(光菅修

もののはずみで、15年あまり

■15年も前のことになるが、ものの弾みで「地平線通信」を作ることになった。なんとなく作ったものが受け入れられて以来、毎月作り続けてきたのだが、1回か2回、入院のため「通信」作りを休んだことがあった。地平線会議の仲間は多士済済。自分がいなくとも「通信」を休んでしまうことは考えられない。というわけでピンチヒッターの人の創ったものをみると、遊び心があふれていて、とても楽しいものであった。

◆ずいぶん長い間創り続けていて思ったことは、真面目の塊の「通信」であったように思う。これは編集長の性格なのだろうが、もっと「遊び心」があってもよいのではないか……。「通信」に付き合って15年あまり。500号といわれて思ったことである。それにしても、最近、服部小雪さんがときどき登場する……。(森井祐介


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパしてくださった方もいます。新型コロナウイルスの猛威で報告会が開けない以上、通信はいい内容で発行し続けると決意している地平線会議。通信費とカンパはその志を理解くださった方々からの応援歌としてありがたいです。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多い)ありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

馬場健治(10000円 いつも楽しく読ませていただいています)/田中雄次郎(10000円)/藤原謙二(10000円 江本嘉伸=地平線会議 「天職」に敬意を表します)/宮崎拓 /鰐淵渉/秋元修一(4000円)/小泉秀樹(5000円 500号発行おめでとうございます。自分と同年代の方々の記事が多いので、読みながら元気をもらっています)/川崎彰子(5000円 送金が遅れて申し訳ありません)/寺本和子(16000円 通信費何年も払っておらず申し訳ありません。…寺本さん、2018年4月に入金してくれてますよ)/原田鉱一郎(11月22日 1000円 12月17日1000円…原田さん、毎年通信費ありがとう。一度江本宛てメールください)/阿佐昭子(4000円 コロナの中、元気の元はやっぱり地平線だより。多分、前年の通信費未納入かと思われますゆえ、とりあえず2回分です。今年もお疲れさまでした!…阿佐さん、去年6月に4000円入金してくれています)/新堂睦子(10000円 エベレストが少し高くなりました)


先月号の発送請負人

【先月号の発送請負人】

■地平線通信499号は11月19日に印刷封入作業を終え、20日に新宿局へ渡しました。新型コロナウイルスのご時世で大勢が集まるのは避けたいのですが、手数があれば作業は早く終わります。そういう状況を察してくれて今回も以下の12人が駆けつけてくれました。久々に三輪主彦さんも来てくれたのですが、みんなのやる気に驚いたようです。RQでの知り合い、小石和男さんも久しぶりに顔を見せてくれました。500号を超えても地平線通信の印刷、発送は大事な現場であり続けるでしょう。◆駆けつけてくれたのは以下の皆さんです。毎回必ず来てくれる人に頭が下がります(編集仕事に徹夜に近い状態が続く江本自身は作業がほぼ終わる頃、駆けつけるので作業の役には立たない)。「密」を避けて今月は二次会はやりませんでした。
森井祐介 車谷建太 白根全 中嶋敦子 小石和男 久保田賢次 三輪主彦 伊藤里香 二神浩晃 阿部雅龍 坪井伸吾 江本嘉伸


「母ちゃんのためなら、エンヤコラ!」
   ──「続 人間の土地へ」

 人間は、未知なるものに惹かれ、それを知ろうとする存在だ。たとえ先が見えず、大きなリスクが待ち受けているとしても、見たことのない世界を見たいと願い、知らないことを知ろうとする。そして、私もまたそうした1人でありたいと思ってきた。

 ヒマラヤ登山、土地をめぐる長い旅、内戦下のシリアの取材やシリア人男性との結婚など、振り返れば、「安定」とは程遠い方向へと歩いてきた。判断を迫られるとき、自分にとっていかに未知の要素が強いか、より不確定要素が高いか≠求めてきたように思う。

 9月に上梓させていただいたノンフィクション本、『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)。ヒマラヤに登り、シリアの沙漠の暮らしに出会い、内戦を目撃し、難民となってゆく人々の姿を記録した一冊だ。人間が土地に生きるとはどういうことなのか、普遍的な問いをそこに投影した。

 本の売れない時代、さらに売れにくい分野の本ではあったが、大変ありがたいことに重版が決まった。地平線の皆様をはじめ、多くの方々に応援いただき、一つの作品を世に出せたこと、そして多くの方に読んでいただける機会をいただいたことに心から感謝している。

 それにしても本を読み返してみると、よくこのでこぼこ道を来たものだと、めぐり合わせの不思議を思う。私たちが歩く道は、無数の選択の連続のうえにつくられるが、一方で、もしかしたら、私たちは流れにただ舟を浮かべているだけなのかもしれない。流れはときに速く、悠々と、私たちを知らぬ土地へと導いていく。

 シリア難民の一人である夫と結婚し、8年目を迎えた。夫は2013年に来日してからなかなか日本社会に馴染めず、現在は逆に、「馴染まないで生きること」を試みているようだ。

 夫は、シリア中部の沙漠にルーツを持ち、2011年まではラクダの放牧業に従事していた。内戦が起きなければ、彼は今もラクダと共に沙漠を歩いていただろう。

 夫はアラブ人が「人生の価値」と信じる「ゆとりの時間」を重視し、「意図的な低収入」を実践している。日本の伝統や資本主義経済になじまない夫の流儀は、外から見るには観察していて面白いが、家族として一緒に暮らすには限りなくサバイバルでもある。だが、そんな独特の視点からは気づきも多い。

 最近の夫との論争の的は、保育園だ。保育園に子供を預けることが、親の生活を通して、子供が世界を知る機会を奪っている、というのである。子供は親と過ごすことで、家族の文化や仕事、世界観という最も重要な部分を吸収するのに、その姿を見せないばかりか、その重要な役割を他者に任せるなんて何事か! この土地に生きるための知恵や文化を子供に教えられていない、というのだ。

 かつてのシリアでの暮らしは、沙漠とオアシスの家を季節ごとに往復する悠々自適たるもので、アラブの伝統とイスラムの教義、そして沙漠という唯一無二の自然に彩られていた。

 夫も家族もほとんど学校に通わず、文字の読み書きはできなかった。する必要もなかったようだ。学ぶとは、学校で知識を得ることではなく、生活を通し、沙漠という風土に生きるための知恵を自ら五感で経験し、継承することだった。

 本当の知恵は、生きた人間から、その姿を見たり話を聞くことで、自ら感じ、醸造するもの。夫にとってはそれこそが「子供を育てる」ということで、親が子供に与えられる最も重要な仕事なのだった。代々沙漠に生きた彼の一族が、そうやって土地との絆を結んできたことを思う。

 夫はキャリアや経済的安定に関心がなく、むしろお金では買えないもの、お金では測れないものにどこまでも価値を置いている。いかに家族で団欒するか、いかに時間をかけて何かをやるか。効率や速さは重要でないばかりか、むしろ心の余裕を侵害する悪だと考えている。だから経済至上主義には染まらない。そんな夫の姿に疲れ、ときに変人扱いし、「せめてちゃんと働くか家事・育児に協力せんかい!」と迫ったこともあった。しかし最近では、時流に流されることのない人間のひとつの豊かさを体現しているようにも思える。

 コロナ禍のもと、写真の仕事に窮した私は、ウーバーイーツ(デリバリーサービス)の配達員としての新しいキャリアをスタートさせた。夕食後、2人の子供たちを電動自転車の前後に乗せて、ひたすら自転車をこぐ。子供を連れるのは、夫が預からないからという切実な事情もあるが、子供たちが行きたがるからだ。

 そのうち子供もこの仕事を手伝ってくれるようになった。「こんにちは、ウーバーイーツです」と店やお客様に元気よく挨拶する係は長男で、次男は坂道の登り坂で、「ママガンバレ、ママガンバレ」と言って応援する係である。そして長男には、一回の配達につき50円を与えている。長男は車を買うといって貯金をしており、もう3000円ほど貯まっている。

 夜の街を走りながら、心に響くのは美輪明宏の「ヨイトマケの唄」だ。「母ちゃんのためなら、エンヤコラ!」。こうしてウーバーイーツの配達を子供と一緒にし、ここに生きる姿を見せる。ちょっとだけ、夫の言葉を意識してみる。シリアでは沙漠の放牧で子供に人生を教え、日本ではウーバーイーツの配達で人生を教える。なんたる違いか。どうしようもないが、今はこれでいいのだ。

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 「よきことはカタツムリのように進む」。インド独立の父マハトマ・ガンディーの言葉だ。人間にとって真に価値あるものは、時間をかけて実現されるものだとする。

 この言葉からインスパイアされ、新刊『人間の土地へ』の裏表紙にサインさせていただいている言葉がある。

 「人間の土地へ、カタツムリのようにゆっくりどこまでも」。

 全てにおいて速さや、経済価値を求められる現代。だからこそ、カタツムリのような歩みで、じっくりと物事の真実を見つめる。うまくいくことも、いかないこともある。だが、信じて時間をかけ、心をこめる。そのような向き合いでしか見えてこないもの、形にできないものがきっとあるはずだ。

 カタツムリのようにゆっくりと、しかし未知なる世界へと進むのだ。(小松由佳


イラスト 服部小雪

「継続は力だ!」異聞

■改易とは所領や家禄屋敷を没収することで、江戸時代の刑罰では蟄居より重く切腹よりは軽いとされる。転封は所謂お国替えで、所領を転じる処分の意。戊辰戦争敗北後、薩長の芋侍に朝敵といぢめられた会津藩弐拾八万石には、青森の下北半島にわずか三万石の所領となる斗南藩転封の命が下り、事実上の改易処分となった。

◆「白河以北一山百文」、すなわち白河の関より北は山に値もつかぬ荒地とされたが、謹慎が解かれ辛うじて家名存続を許された藩主松平容大公に従った旧藩士の第一陣四千七百余名が移り住むこととなった斗南は、想像を絶する厳寒不毛の地であった。漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はすべて帝の治する地)に因むとされるが、南すなわち薩長政府と斗(闘)う意との口伝すらある。

◆飯盛山で腹を切り損ねた白虎隊十石三人扶持足軽の江本八郎左衛門伸嘉は、藩主に付き従って見も知らぬ極寒の地の住民となった。もとより米の実る土地も気候風土も存在せず、貧乏藩士は日毎の食事に事欠く日常に自ら慣れるほかなかった。家老ですら芋しか口にできぬ日々、卑しくも武士の家系なら爪楊枝を銜えてでも耐えてこそ、戊辰の役に倒れた藩士方に顔向けできるものと信じ、空腹を水で紛らわす日常が続く。極貧の足軽は烈風吹き荒れる北の海辺で、蝦夷地から流れ着く昆布を拾い集めるのが唯一の生業となった。

◆一晩中吹雪いた翌朝ですら、暴風に吹き飛ばされた雪は平地にはほとんど積もらない。風下の吹きだまりには、五尺を越す雪壁が岩のように固く締まって聳え立つ。暗いうちから海岸で凍り付いた昆布を掘り起こしていた伸嘉は、かじかむ両の掌に息を吹きかけながら思わず独り言ちた。「こんな生活がいつまで続くのか。藩公さまへの忠義奉公をいつまで保てるのか。この思いを継続できるのだろうか。継続は疲れる!」

◆すぐ横で昆布を拾い集めていた同じ足軽組の三輪家三男、主水之介元彦は吹きすさぶ風の音に聞き違えたのか、「そうだっ、継続は力だ!」と返した。訛りのひどい漁民や近在の百姓町民と昆布の代金交渉で行き来のあった元彦は、すでに八戸訛りに耳慣れた分だけ会津弁から遠ざかりつつあったが故にそう聞き違えたのかも知れない。これこそ、ただの聞き違えが蓋し名言「継続は力だ!」となって世に倦み出された瞬間であった……、というのは真っ赤なウソ。山本周五郎気分で書き殴ってはみたものの、文才の無さのみが際立つ駄文にしかならぬものなり。

◆おっと話はまた最初から滑りっぱなしだが、お題は地平線通信500号を寿ぐ一文を寄せろとの指令であった。で、思うにリョフノシュケ画伯のイラスト原稿料を合算すると、いったい幾何の大金になるであろうか。通信発送に参集する交通費の合算は、40年分でどのくらい貯まったことか。それを言うなら年報や通信の原稿料と編集経費は、なんてキリがなくなる。ハガキ通信時代から、とりあえず日本滞在時は発送業務参加をお約束としてきたから、500号のうちたぶん3分の2弱(超大幅に推定)はオレが封入発送した勘定になる。どーだ、まいったか。とりわけ拡大見開き版以降の印刷発送は、年報発行を編集長の力不足で継続できなくなった罪滅ぼし、という超個人的位置付けなのであるって初めての告白。年寄りの恥ずべき愚痴と言い訳の典型であろうか。が、マジに継続は疲れる!

◆コロナ禍で足止めを喰らって、否応なしに来し方をふりかえってみると、思えば地の果てまであちこち行ったものではあるが、それより何より今さらながら「旅するほどの世界かよ」と思わざるを得ない。コロナが世界を覆い尽くすはるか以前、たぶん21世紀の始まりと共に、パンデミックはすでに始まっていたのだ。グローバリゼーション、言い換えれば広域多国籍帝国主義という業病である。レッセフェール(為すに任せよ)が合言葉のネオリベラリズムで装飾を施された、搾取独占の疑似奴隷制経済最優先イデオロギーもどきが地上を覆い尽くした今、世界中どこにいっても同じファーストフード店舗が並び、同じ清涼飲料の宣伝が流され、同じファストファッションに身を飾るガキどもがうろついている。

◆なぜあれほどに辺境としてのキューバに入り浸ったか、今さら振り返ってみればマックもスタバもピザハットもなく、アメックスも使えない世界の例外ぶりがひときわ新鮮で際立っていたからだろう。弱いものを犠牲にした国の発展はあり得ない、という国是を崩さなかった髭の指導者フィデルは、コロナ時代の世界をどう俯瞰しただろうか。もはや例外を極めるにはスマホを捨て、ネット接続とGAFAsの存在を許さぬ環境を目指すかしか選択肢はない。未踏峰が存在しなくなったのちバリエーションルート開拓に走った先達の苦悩に似るが、さらに普遍化していることは確かだろう。コロナ時代のパイオニアワークなんて新たなテーマが浮かぶ今日此の頃、どこかでカーニバルやってくれないと評論できないじゃん。(Zzz@カーニバル評論家)

写真展「ノースウッズ━━生命を与える大地」を終えて

■会期は2週間だが、当初の予定の2月から数えると、およそ9か月に及んだ長い長い写真展が終わった。「コロナ第3波」の見出しがメディアに踊る中、全日在廊したが、体調を少しも崩さずにほっとしている。来場者は延べ13,040人。フジフイルムスクエア全体の入場者数ではあるが、6月の自粛明けからの最高記録らしい。1日平均900人以上が訪れたことになる。確かに平日も10時の開館時から人の流れが途切れることはなかった。現在、新規感染者数が連日記録を更新しているが、幸い会場のスタッフや設営業者からも、クラスターが発生したとは聞いていない。

◆20年かけてやっと実現した大伸ばしでの個展。作品を見てもらうだけでなく、しばし立ち止まり、これまでの人生を振り返るのにも大きな意味があった。まだ海外の自然への興味を持つ前の高校時代の同級生や恩師と会うと、自分でも内面の変化に驚く。赤点で呼び出しをくらうほど苦手だった英語を使って仕事をしているのだから人生わからないものである。

◆浪人時代や、写真家への道を諦めていたときなど、苦しいときに出会った仲間との再会には涙が出そうになった。人生にも地層というものがあるなら、あの頃の日々はくっきりとした層となって蓄積されているはずだ。そして、今の活動の基礎を育んでくれた一橋大ワンゲルの同期や先輩・後輩も大勢駆けつけてくれたのは心強かった。同じ釜の飯……とまではいかない人も多いが、似た体験を持つ同志として言葉を交わす以上に通じるものがあった。最後に、地平線会議で報告をしたからこそ出会うことのできた新しい仲間も大勢いる。これから時間をかけて絆を深めていきたいと願う。

◆出会いそれぞれに書きたいことはあるが、1人だけ紹介したい。それはりんたろうくんとの7年ぶりの再会だ。地元の世田谷文学館が主催する芦花小学校のワークショップで初めて会った時、彼は小学5年生だった。その翌年、同校を授業で再訪すると、昼休みを利用してクラスメートの女子と一緒に会いにきてくれた。そしてなんと「ノースウッズに行ってみたいからさ。連れてってよ」と直訴してきたのだ。横にいた女子たちの「何言ってんの?」という驚いた顔もよく覚えている。

◆小学生の頃の一年は長い。その間ノースウッズに行きたいという願いを持ち続けてくれたのだ。自分の講演や作品が人の心に憧れを育むことができたなら、それはどんな賞よりも栄誉あることだろう。嬉しかったぼくは、なんとか彼の夢を実現できないかと準備して、翌2013年に実際に北米へ連れて行った。あくまで個人の集まりという体裁だが、当時の担任と校長までもが参加してくれた。

◆さらに星野道夫さんのオーロラクラブのスタッフや文学館の学芸員も手伝ってくれた。結局、あの時一緒にいた女子2人も連れて行くことになった。みうみちゃんとさきちゃん。事前に説明会を開いてリスクを説明した上で、親同伴でない旅を保護者が承諾してくれた。すべては理解ある大人たちのサポートのおかげで実現した旅である。その後、高校に進んだりんたろうくんだが、訳あって中退したらしい。でも今は努力して大学生になったのだと教えてくれた。体は大きくても感受性の強い子だったからいろいろあったのだろう。

◆聞けば、あの旅をはっきり覚えていると言ってくれた。人生の励みになったのだといいが、“言い出しっぺ”の彼のおかげで素晴らしい体験をさせてもらったのはこちらの方である。聞くと、中断していたアイスホッケーも再開し、今度はカナダの大学に留学したいのだという。彼のこれからの人生にエールを。ぼくも次の10年が勝負だと思っている。地平線通信500号という節目にこうして原稿を書くことができる幸せを感じている。また報告会に呼ばれるよう、良い旅を続けたいと思う。(大竹英洋

高島屋での個展、無事終わりました

■お忙しいなか そしてコロナ社会のなか 会場まで足を運んでくださって それぞれのさくひんと向き合ってくださって ほんとうにありがとうございますどうか みなさま お体を大切に お元気にご活躍されてください。またぼくは、いつも大仰/幼稚でごめんなさい。実社会のことも無知でごめんなさい。なんとかかんとかあれやこれや自己鼓舞していないと 自分の心身が「妄想の深淵辺境」でバラバラ粉々に分解してしまいそうになってしまいます。すいません。

◆江本さん いつも ありがとうございますぼくは、いままで (本気真剣な)展覧会のたびに 発症入院手術のくりかえしでした。そういうことが重なると創作そのものが怖く成って来ます。妄想への潜行が恐怖になってきます。今回の旅路は、江本さんと地平線の仲間たちに助けていただきました。実社会に生還することができました。ありがとうございます。ほんとうに かなり 大変でした いろいろ蓄積疲労困憊満身創痍な感じ(笑)。日常の経済的なことや 「立ち退き」(引っ越し先探し)のこととかまだぜんぜん解決してないけど。いま、「生きてる」し。だいじょーぶ。

◆本日 作品たちが 帰宅しました。さっそく梱包を解いて安否確認。みんな元気でした。よかったです。おつかれさまです。ぼくは、「創作」だけしか仕事をしていないので、実際的には、作品が売れなければ まったく収入にならないのだけれど、帰ってきたら来たでやっぱりうれしい。今回の価格設定(1点20万円以上が多かった)は、高島屋企画部と相談のうえでの決定です。海外向け価格だったのか、コロナの影響なのか、あまり売れませんでした。

◆でも、商売のスペシャリストの「高島屋」が、売れなかったのだから、これは、もう、現在の美術市場はお手上げ状態なのだとおもいます。おおざっぱに云うと「2年間働いて、50万円ほどの収入」て感じです。ちょっと、日本で生活するには、厳しいです。作品と展覧会は「成功」しても、興行(販売成果)は芳しく無いです。まぁ、ぼくの展覧会は、毎度そういう感じです。作品の評判は、毎度、とてもいいです。もちろん、売れる物をつくれば「売れる」と想います。それは、当たり前だとおもう。

◆しかし、そうなってしまうとその行為は、もはや作品ではなくて「商品」だと おもう。「販売価格を先に決定してからつくる(描く)」なんてことは、アーティストはしないです。あらかじめ 子どもの値段を決めてから 生んだりしない。だから、画廊から、創作中に価格についての問い合わせが入ると、モチベーションが、かなり低下します。妄想の辺境から、いきなり、現実に引き戻される感じ。探検の僻地で、突如コンビニやファミレスが登場する感じ。

◆「ヤラセ」感というか。もう創れない。とか、描きつつぼくの次に高島屋で個展を開催するアーティストは、なんと、もう、完売しています。展覧会前に完売しているのです。てゆーか、描く前に売れてる。作品のタイトルを公開した時点で 売れてしまうのです。いま、超売れてるアーティストです。彼も ぼくの展覧会に来てくれて、好評で感動してくれました。おもしろい絵を描くアーティストです。いろいろ話し合うことができました。アーティスト同士は、向き合って おたがいに話し合います。って、こうゆうことを 描いちゃってて いいのだろーかとか おもうけどま、いいか。

◆ぼくは、まだ疲労困憊満身創痍です。たぶん年内疲弊。芸術給付金の申請が 明後日の11日までなのに、まだ、できてないです。むずかしい。日本は、なにかと 手続きがむずかしいとおもう。説明書だけで30ページくらいある。そして、申請作成してる時間が無い。持続化給付金は、真面目に申請してしまったので、20万円しか出なかった。立ち退きもせねばならないし。母親の介助も帰省せねばならないし。(緒方敏明

ランタン谷の牧民たちへの支援、ありがとうございました

■昨日は10センチ、今朝は20センチの積雪。まだ降り続いています。ちょっと風が吹くとまるでブリザードのように雪煙が上がり、リビングの外は何も見えなくなります。全てが初体験!! 当方二人とも元気で暮らしていますので、ご安心ください。通信500号! ざっと計算して41.6年間。すごいなと思います。ここまで継続された関係者各位にお祝いとご慰労を申し上げます。

◆そして、この機会にお礼です。これまでみなさまからゾモTやゾモトートバッグ販売を通じて、ランタン村復興支援に協力いただいてきました。先日、お約束の5年を機にゾモ普及協会店じまいのご挨拶が田中明美さんから関係者宛に届きました。明美さん、真心のこもったご報告ありがとうございます。そして12月5日は、落合さん他ゾモ普及協会の4名にはるばる「十二月に語る平和」@鎌倉恩寵教会へお運びいただきありがとうございます。あいにくのお天気でお申し込みの2割くらいはいらっしゃらないことを想定していましたが、ご予約のほぼ全員、といっても定員50席が埋まりました(定員オーバーの71名)。私の主催では珍しいことです。

◆今回のイベント主催3団体ではそれぞれにゾモグッズを扱ってもらってきましたから、3巡目くらいの人もいて、あまり売り上げにご協力できませんでした。それでも押し売りのように持って行っていただきました! 明美さんが若干キズのあるXLを誰かにというので、視覚障害のある友人にあげようと思ったら、「いえ正価で!」。¥2000 払ってもらいました。

◆そういう感じで、鎌倉でも藤沢でも都度販売にご協力いただいてきました。主体はパワフルな主婦たちです。色もいろいろあり、可愛いデザインなので由来を聞かれ、売り子の主婦たちも上手に説明していたと思います。自慢ではありませんが、彼らの間で「ゾモ普及協会=ランタン村支援」を知らない人はいないのではないかと思います。

◆現在ランタン村は、コロナ感染拡大のあおりを直接受けていて、皆大変な状態です。カトマンドゥに住む息子(テンバ)も自宅待機が続いています。観光が主な収入源である村人やカトマンドゥのネパール人にとっても想像を絶する厳しさに置かれていて、冗談に息子が「コロナで死ぬ前に餓死しちゃう」というのも現実にあるかもしれません。コロナ感染拡大の影響で、現地へも行けず。断片的な情報ではお話になりません。これまでの復興支援の5年を振り返ると、最大の支援は「現地へ行くこと」だと気付きました。チベット正月(来年は2月12日)明けの訪問を期待していますが、このままの状況では難しいと思います。

◆土地が緩み、ゾモたちが子供を産み始める=搾乳可能になる4〜5月頃か。いずれにしても、私にとっては最後の訪問になる気がします。彼らの牧畜文化が継承され、しかも自立した運営を可能にする。そういう希望と期待を込めての訪問になると思います。その時はもちろん、明美さんたちに託されたキッズ用のゾモTを持って行きます。ようやくお金の目処がついて、ストップしていたゴタルーたちのランタン酪農組合センターハウスの建設も再開されました。組合長が11月中には完成させると豪語していましたが、先日届いた画像では外装内装まで完了。あともう少しのところまで来ています。

◆かくも長きに渡るご支援。ゾモの絵を描いてくださった長野亮之介さん、ゾモグッズ製造の鶴田洋二さん、各所で展覧会や講演会を開いてくださった関係者各位、そしてエモノトモシャ(江本嘉伸)さん&ゾモ普及協会のみなさま、地平線通信を介しての多くの友人知人の皆様からの暖かいご支援。皆様の善意のお気持ちがが形になり最終的に良いご報告ができるようにあと一踏ん張りしようと思います。それまでは見届けていただきたいと願っています。お礼の言葉にもなりませんが。(大雪の日に取り急ぎ ランタンプラン・貞兼綾子

ゆっくり行動半径を広げてきた地平線会議、そして私

■地平線会議は、探検・冒険から登山、旅、さらには民族調査まで、世界を舞台に活動を続けている行動者たちのネットワークとして始まったと理解していた。発足は1979年8月だが、設立直前に法政大学の講堂で、関東の大学探検部の学生や若いOBたちが中心になって集会が開かれた。私もミニ講演を頼まれた。この集会が一つのきっかけになったと聞いている。

◆その前にも信州白馬の法政大学の山荘で、全国の探検部の学生、OBが集う会議があった。常に法政大学が会場になっているのは法政大学探検部の創設者平靖夫さんやOBの岡村隆さんにコーディネート能力があったからだろう。その前の年に一橋大学に探検部をつくったばかりの私も末席に参加して、先輩たちの話に耳を傾けた。

◆さらに辿れば、観文研の存在が大きい。ここには民俗学の研究者の他に、大学探検部・山岳部の出身者をはじめ、国内・海外のフィールドでの体験をかさねた人たちが集まっていた。私もここに出入りしていたが、ここで出会った宮本千晴さん、向後元彦さん、向後紀代美さん。岡村隆さん、恵谷治さん、森本孝さん、賀曽利隆さん、街道憲久さん、三輪主彦さんは、地平線会議発足時からの中心メンバーとなっている。

◆初期の地平線報告会では、探検、冒険関係の人や、江本さんが山岳部OBであり、日本山岳会のメンバーでもあったので、山やさんが多かったような気がする。参加者の多くが、どこかで顔を見たことがあった。ところが、しだいに一般の人たちの参加も増え、現在では、ごくふつうの勤め人から主婦、リタイヤ組まで、多彩な顔ぶれが増え、報告者の顔ぶれも探検冒険だけでなく、すそ野を広げて、環境保護、ボランティア等多種多彩になってきた。特に東日本大震災以降はその傾向が強くなってきたように感じる。

◆実は私も地平線会議と共に進化(シンポではないので悪い方向に行くこともある)するかのように、ここ20年近く、探検、冒険に片足突っ込みながら、行動半径を広げてきた。武蔵野美大で教職の仕事をすることになったという事情もあるが、学生たちと「一からカヌーつくり」「一からカレーつくり」をして、映画作りをしたり、足元を見たいと、生地に近い鞣し工場街木下川で一職人として働いたりした。ここ5年は玉川上水の生きもののリンク、生物多様性に興味を持ち始め、武蔵野美大で保全生態学の講義を持っていた高槻先生の指導の下、調査を続けている。

◆タヌキを中心に玉川上水の調査を始めた。玉川上水にはタヌキがいる。同じところに糞をする。ため糞という。その糞を栄養にして様々な植物が芽吹き、生育する。そこに糞虫その他の虫が来て、分解したり、食べる。それらの虫を食べに小鳥、カエル、トカゲがやってきて、それらを食べに蛇やフクロウ、そしてオオタカが集まってくる。それらの動物の糞や死体も他の動植物の栄養となる。その繋がりを見る一環として糞虫調査がある。その繋がりの中に私たちヒトもいる。その繋がり、生態系に私たちヒトはどのように関わったらいいのか。私たちヒトは自然にどう向き合っていけばいいのかを考える糸口を見つけられると思った。

◆糞や死体に虫と聞いただけで、「汚い」「くさい」と思う人が多いはずだ。この虫は私たちが鼻つまみ者として敬遠する虫の代表格だ。動物の生活はドラマチックなことは少なく、毎日は食べることと排泄することの繰り返しであり、最後には必ず死に至る。そしてそれを分解する生き物がいて、「土に還る」ことができる。鼻つまみ者の虫たちは、生き物の循環の中心的な役割を演じている。

◆玉川上水には珍しい動物も、希少な生き物もほとんどいないと聞いた時、少しがっかりした。しかし、当たり前の動物なり、植物なりを、その形、色、行動をとことん調べていくと、その美しさに気づき、生き物のリンク(つながり)を調べていくと、新しい発見もあると教わった。どんな生き物がいるかはわかっていても。どのように繋がっているかはほとんど分からない。「ほとんど分かっていない」という言葉には私はすぐに反応し、血が煮えたぎった。

◆以下は告知です。年の瀬も迫った今月最後の日曜日27日の午後から1月にかけて、私が代表をしている地球永住計画とダーウィンルームの共催で6人の糞虫、ダニ、変形菌【粘菌】、ハエ(ウジ)、シデムシ、ゴリラ(ゴリラは鼻つまみ者ではないが研究者の山極寿一さんは相当量のゴリラの糞洗いに時間を割いてきた)の研究者に賛同していただき、全6回シリーズ&全体シンポジウム「嫌われ者、鼻つまみ者、日陰者の生きものたちの復権」を開催します。(関野吉晴)(次ページ参照)


関野吉晴からのお知らせ
オンライン開催

嫌われ者、鼻つまみ者、日陰者の生きものたちの復権

糞虫、ダニ、シデムシ、変形菌、ハエ、ウジ……。嫌われ者、鼻つまみ者、日陰者と思われがちな生きものたちを地道に観察する研究者たち。研究を積み重ねることによって何が分かったのか。他の生き物たちとどのようにリンクしているのか。シンポジウムでは、われわれヒトはこれらの生きものとどのようにリンクしているのか。私たちは他の生きものたちとどのようにリンクしていけばいいのかを話し合っていただきます。(文:関野吉晴

司会:関野吉晴/地球永住計画代表・探検家・医師
     清水隆夫/ダーウィンルーム代表
会場:下北沢・ダーウィンルーム〈2F〉ラボ
料金:第1回〜第6回&全体シンポジウムの各回は共に2,500円税込  学割(大学院以下)2,000円税込
※お申し込みなど詳しくは以下のリンクへ
  https://chikyueiju-darwinroom-symposium.peatix.com
参加方法:お申込みサイトでチケットを購入されるとZoomのリンク・URLを送ります。
共催:地球永住計画・ダーウィンルーム

全一括チケット15,000円税込 学割(大学院以下)12,000円税込
第1回 2020年12月27日〈日〉14:00〜15:30
 青木淳一さん/ダニ
第2回 2021年1月9日〈土〉19:30〜21:00
 増井真那さん/変形菌
第3回 2021年1月16日〈土〉19:30〜21:00
 高槻成紀さん/タヌキ、コブマルエンマコガネ
第4回 2021年1月21日〈木〉20:00〜21:30
 倉橋 弘 さん/ハエ
第5回 2021年1月23日〈土〉19:30〜21:00
 舘野 鴻 さん/シデムシ
第6回 2021年1月30日〈土〉14:00〜15:30
 山極寿一さん/ゴリラの糞分析
全体シンポジウム 2021年1月30日〈土〉16:00〜18:00
・登壇者が全員参加で話し合う

【登壇者プロフィール】

● 青木淳一/あおき・じゅんいち
1935年6月19日生れ、動物学者。土壌動物学者。横浜国立大学名誉教授。ササラダニ類の分類学および生態学を専門とし、この類の分類学で日本の水準を高いものにした。

● 増井真那/ますい・まな
2001年東京生まれ。5歳で変形菌(粘菌)に興味を持ち、6歳から野生の変形菌の飼育を、7歳から研究を始め、小3で「変形菌の自他認識」という研究テーマを見出し今日まで取り組む。高1で単著『世界は変形菌でいっぱいだ』(朝日出版社)を上梓。高2で国際学術誌Journal of Physics D: Applied Physicsに査読論文掲載。受賞・講演・出演(NHK「又吉直樹のヘウレーカ!」他)など多数。慶應義塾大学環境情報学部1年。孫正義育英財団 正財団生。日本変形菌研究会、日本菌学会、日本生態学会会員。

● 高槻成紀/たかつき・せいき
1949年鳥取県に生まれる。1973年東北大学理学部卒業。1978年東北大学大学院理学研究科博士課程修了。東京大学大学院農学生命科学研究科助教授、東京大学総合研究博物館教授、麻布大学獣医学部教授などを経て、麻布大学いのちの博物館上席学芸員、理学博士、日本哺乳類学会理事。

● 倉橋弘/くらはし・ひろむ
国際双翅類研究所 所長。生物多様性の生物学(自然史)“ハエとヒトとのかかわり合いの生態学”。子供の頃より昆虫採集に熱中し現在に至る。高校時代に“落ちこぼれ状態”から「生命の實相」を読み、劣等感を克服し、立ち上る。金沢大学理学部に入学、生物学教室でハエ学の世界的権威堀克重教授から、ハエの生物学を学ぶ。金沢大学医学部解剖学教室助手を経て、国立予防衛生研究所衛生昆虫部に出向、国立感染症研究所昆虫医科学部媒介生態室長を経歴して定年退職、現在、国際双翅類研究所所長、国立感染症研究所客員研究員、環境省希少野生動植物種保存推進員、王立ロンドン昆虫学会、日本昆虫学会、日本昆虫分類学会、日本衛生動物学会など各種生物学関連学会会員。理学博士、医学博士。

● 舘野鴻 /たての・ひろし
1968年、神奈川県横浜市に生まれる。札幌学院大学中退。幼少時より熊田千佳慕氏に師事。1986年北海道へ渡り、昆虫を中心に生物の観察を続けるが、大学在学中に演劇、舞踏、音楽と出会い舞台に上がる。その後、舞台美術等の仕事をしながら音楽活動と昆虫採集を続ける。1996年神奈川県秦野に居を移してからは、生物調査の傍ら本格的に生物画の仕事を始め、図鑑や児童書の生物画、解剖図プレートなどを手がける。絵本に『しでむし』『ぎふちょう』、『こまゆばち』(澤口たまみ・文)『なつのはやしのいいにおい』、生物画の仕事に『ニューワイド学研の図鑑生き物のくらし』『ジュニア学研の図鑑魚』、『世界の美しき鳥の羽根鳥たちが成し遂げてきた進化が見える』などがある。

● 山極寿一/やまぎわ・じゅいち
1952年生まれ。前京都大学総長。アフリカの各地でゴリラの野外研究に従事し、その行動や生態から人類に特有な社会特徴の由来を探り、霊長類学者の目で社会事件などについても発言してきた。著書に『家族進化論』(東京大学出版会)、『暴力はどこからきたか』(NHKブック ス)、『ゴリラは語る』(講談社)、『野生のゴリラに再会する』(くもん出版)など。

【司会プロフィール】

● 関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。「地球永住計画」代表。1975年一橋大学法学部卒業 。1982年横浜市立大学医学部卒業。1999年植村直 己冒険賞受賞。2000年旅の文化賞受賞。2013年 国立科学博物館(特別展)「グレートジャーニー・人類の旅」開催。武蔵野美術大学名誉教授。アマゾン川全域を下りアマゾン川源流を探検。1993年から10年の歳月をかけて約5万3千キロ「グレートジャーニー」を歩くなど 、多くの前人未到の探検を成し遂げた。

● 清水隆夫/しみず・たかお
1953年四日市生まれ。米国でスポーツウェアデザイナーとしてスタート。帰国後ヤマハ(株)との合弁会社設立に参加、ヤマハ・スポーツウェアを企画・開発した。デザイナーとして多くのブランドのデザイン企画を行い、母校の武蔵野美術大学非常勤講師、1995年ザ・スタディールーム創業などを経て、現在ダーウィンルーム代表。

【お問い合わせ】好奇心の森「ダーウィンルーム」/tel:03-6805-2638/mail: /世田谷区代沢5-31-8/下北沢駅から南へ徒歩5分


凍った大地を追って

その14 (最終回)

■この14か月の連載はあっという間だったが、予期せぬパンデミックとかアラスカやハワイのファーム運営、退職などいろいろなことがあった。江本さんにチャンスをいただいてよかった。書くことは整理すること、次へのステップを考える時間を持つことができた。久しぶりに日本語を書く楽しみも味わった。ありがとうございました。

◆この地平線通信も今回でなんと500回! 『地平線 大雲海』(0号〜300号通信の全記録の入った本)”も素晴らしい集大成だと思ったが、あれからもう200回! 凄いことだ。地平線の今までの出版物や写真集など、20歳から今までの文章や写真が残っているのは恥ずかしいようで、ありがたいことだと思う。日本の海外渡航自由化以降の“自由な旅”が始まった70年代以降激動の40数年の記録がほぼ収まっている。我々の今の旅の原点ともいうべき70年代は実に面白い時代だったと思う。当時の歌謡曲も“花嫁”や“岬めぐり”など歌詞のほとんどが旅をテーマにしているのも面白い。

◆地平線会議を始め、本多勝一さん、藤木高嶺さんの「極限の民族」シリーズ、池本元光さんらのアドベンチャーサイクリストクラブなど次々に海外へ飛び出す下地ができていった。なかでも渡航自由化の前年1963年の堀江謙一さんのヨット、「マーメイド」は画期的だったと思う。堀江さんのサンフランシスコ到着以降自由渡航の考え方も変わっていっただろう。堀江さんは実に豪快で丁寧な人だ。縦周り(北西航路)世界1周の後、芦屋で一緒に食事をする機会があったが、“吉川くん、見渡す限り海氷に覆われても、心配せずそのまま進めばいい。いつか必ずや開氷面が現れる”と助言をいただいたことがあった。その後もいろいろなところからお便りをいただいたのを思い出す。

◆いろいろな旅の記録(歴史)がこの通信では、切り取られて保存されている。新聞も当時の事実を記載して、記録するという意味で、似たような性質があるが、人と人のつながりやその後の人生への影響という意味では、この通信が一枚上を行くだろう。シカゴの地元新聞トリビューンによると1897年11月にナンセンがフラム号北極海漂流のあと、シカゴ大学で講演したことが記事になっている。ただ、そこに22才の大学院生アーネスト・リフィングウェルが聴いていたことは新聞には書かれていない。

◆アラスカで地質系の仕事をしていればリフィングウェルはあまりにも有名だが、一般的には知られていない人物だ。彼は1906〜14年まで北極海のフレックスマン島で暮らし、アラスカ北部の地質、海岸侵食、その他膨大なレポートをアメリカ地質調査所(USGS)から出した。レポートの重要性からみれば、当時の探検家の中で抜群だ。シカゴ大学でのナンセンの講演は北極の美しさ、アドベンチャーを勧めてはいるが、テニソンの詩Ulyssesを引用して、野心的な冒険に意味はなく、科学調査の必要性を全面にだしたものだった。

◆この講演の後リフィングウェルの人生は大きく変化することになる。彼はその後幾多の北極探検隊に加わり経験を積み、ついにアラスカへ科学調査隊を組織して、エンジンもない帆船でアラスカの北に島嶼があるか調べに行く。不運なことに北極海に乗りだして、すぐに大陸棚が終わり、島の可能性がなくなる。あとは地道な測量調査を強いられた。リフィングウェルが出かけた1906〜14年は北極点、南極点到達など“事件”が集中した時期でリフィングウェルのまわりの“同期”の探検家も大成していった。

◆ちなみにアムンセンがユア号で北西航路通過後バローに着いた時、最初にユア号に乗船してレモンを差し入れたのがフレックスマン島に向かう途中のリフィングウェルだ。彼はその後結婚して二度と北極に行くこともなく、自伝を書くこともなく、米地質調査所やカリフォルニア工科大学からの仕事の誘いも断り、エクスプロラーズクラブのボードメンバーも辞退し、目立たない残りの人生を送った。

◆私は強くこのリフィングウェルの生き方に惹かれる。幸運なことに数年前リフィングウェルの伝記(On the Arctic Frontier)が出版された。私はそのエピローグに文章を載せるチャンスがあった。そこで私が言いたかったのは、金や名声のため冒険するのと探究心や情熱で探検するのとの違いを彼こそは如実に実践したと。

◆さて、トナカイソリに話を戻そう。結論から言うと、トナカイで旅をするのは難しい。トナカイソリで移動はできるが、本来の目的とする他のことがほぼ完全にできなくなる。行動パターンがトナカイに依存してしまうからだ。探検史から見ると、トナカイを使ったことが一度だけある。北東航路で有名なノルデンショルドが1872年に北極点を目指して3台のソリ(サーメと3頭のトナカイ)で出かけたことがあるが、全然話にならず、数百キロ進んだだけで、結局1頭だけでスピッツベルゲンへ戻ってきたぐらいだ。

◆1888年のナンセンのグリーンランド横断も初期の構想でトナカイを使って横断する予定だったが、早い段階で挫折した。ユーラシアの北方民族は今もソリや乗鹿として利用はしているが、基本的には生活の範囲内で、遠くに出かけるためのものではない。また60年代にスノーモビルが普及して、それさえも壊滅的に変化して今日に至っている。ちょうど飛行機ができて犬ぞりに頼っていた北方民族が、限定的にしか使わなくなったのに似ている。

◆約120年前にアラスカでユーラシア型のトナカイ飼育が紹介された。郵便もスペイン風邪のパンデミック前まではリレー式にトナカイ・ステーションを作り、運営されたこともあるが、便宜性から結局は犬ぞりと飛行機が優った。なぜなら、沢山のトナカイステーションの維持に途方もない多くの人材、トナカイが必要だったからだ。

◆実際にトナカイは、どのくらいの距離をどのくらいの重さを引っ張っていけるのか? 明らかに犬ぞりより牽引力がある。去勢した1頭の4歳トナカイが楽々200kgのソリを曳き100m5秒台で、18kmを1時間かからず走るのだから、犬の比ではない。ただし長距離となると持久力がなく100km以内で交代か休養させないとならない。長距離では組織的なリレーステーションがあれば、犬の倍以上の速さで大量の物資を運べるが、なければ、スピードも牽引力も犬以下となる。

◆リレー式はトナカイにかかわらずどの動物でも(人間でも)当然効率のいい輸送方法だ。1925年のノームに血清を届けたセーラムランの時20人のマッシャーがのべ150頭の犬を使って1085kmを125時間で走り抜けた。普通なら10〜14日はかかる距離だ。かつて西アラスカからカナダのマッケジー川河口まで3千頭のトナカイをカナダ政府に売るため移動させたことがあるが、1日2km、3年かかった。私が30頭のトナカイを連れて2週間で500km移動した時も1日せいぜい30〜40km、途中で何度かトナカイ休養日を設けても3頭はついてこられなくなった。

◆途中で永久凍土の研究やらボーリングをやろうなんて夢また夢のはなしだ。では、最後に調教されていないトナカイをソリ引きまで持っていくには、どのくらい大変なのか? 答えは人間側にある。馬でもそうだが、調教で大切なことは、動物を調教することでなく、扱う(乗る)人間を教育することである。この言葉に尽きる。あばれ馬に手を焼いている飼い主の代わりに、調教師が乗ると見違えるように従順な馬になる。

◆言語を理解するというか、心を読むというか、良い調教師の大抵は幼少期からその動物と暮らしてきた経験が生きる。トナカイも結局のところトナカイではなく操る側の問題なのだ。牧場を始めた頃、トナカイ遊牧民がなかなかヒントを教えてくれなかったが、口では教えられないのだ。トナカイの性格は千差万別、扱いはそれぞれで変わるが特定の人を信用することに最近気付いた。

◆トナカイ遊牧民たちと少し時間を共にすれば、乗り方や操作法が部族によって変わり、ソリを見れば部族がわかるようになる。同じ仲間同士ではトナカイの扱い方、道具を共有することができ、出発までに準備する手順に慣れていて、遠くから来たトナカイでもロープが絡まったりすることもない。結局のところ、その動物の習性、行動パターンを自然に理解しているかどうか?ということになる。その動物が犬のように高等になればなるほど、操る側の教育が減っていく。

◆もう一つトナカイ旅行の問題に毎朝放牧したトナカイを集められるか?という問題がある。答えはトナカイを熟知した民族でも集められない時がある。また、夜中に狼などが出没した時には、群れがバラバラになり、数日かけて集められれば幸運だと言える。また、集めるとき直線でもいいからちょっとした柵や崖みたいな一方向が塞がった場所がないと集めるのが数百倍も難しくなる。だから1日の終わりは地衣類が豊富で、あとで集めやすい地形的特徴のあるところになる。大平原でトナカイを集めてハーネスをつけるなどということは地元民でも難しい。

◆最後になってしまったが、人との出会いに感謝して、この連載を終えたいと思う。私はアムンセンが1927年に来日した時に会ったことのある日本人を2人知っている。一人は加納一郎さんで、もう一人が小張一峰先生だ。加納さんの時代は極地に赴く時代ではなかったが、日本の極地探検を考える上で、その思想はのち木崎甲子郎先生ら極地科学者にパラダイムシフトを与えた。小張先生は内科医で台湾のコレラ対策で感染症(当時は伝染病といった)の防止に尽力した。今でこそ台湾は対コロナ封鎖の優等生だが、コレラやその他伝染病で苦しんだ歴史があったからだと思う。

◆小張先生とは95歳で他界されるまでの20年間、アムンセンの講演話や天測、自身に注射をするコツなど様々なことを学んだ。GPS にショックを受け、一緒に買いに行ったこともあった。その小張先生が住んでいた首里のマンションは、当時首里城はなく、一番高く那覇が見渡せる高層マンションだった。眺めが飛び切りよく、木崎先生と人間は周りが見渡せるところに住まないといけないと話し合ったものだ。その後木崎先生がこのマンションに住むことになった。私のファームがどこも景色を最優先されているのはこの頃の影響だろう。

◆さて、まだアンデスに少なくとも5年はかかるだろうから、今後どういう出会いがあるか楽しみだ。それではみなさん、今まで読んでいただきありがとうございました。おわり。



あとがき

■500回も通信を出してきて何が見えたのか、と自問しつつ記念すべき20ページを送ります。今月の目玉は50人の書き手による思い思いの一言集ですが、もう一つある。私からの突然のお願いを快諾し、14回も書き続けてくれた偉才、吉川謙二の連載がついに最終回となり、それにふさわしい内容で締めくくってくれたことです。

◆私は吉川原稿は地平線会議のこれからを考えるいろいろなことを含んでいると思う。時間があれば彼の連載を一度読み返してみてほしい。前向きに生きる。そのことを吉川君ほど何気なく実践している人は滅多にいないです。吉川謙二、ほんとうにありがとう。

◆そしてレイアウト一手引き受けの森井祐介さんにあらためて深く感謝したい。私より2歳も年長ながらその精神の若さをいましばらく維持して私を助けてほしいです。ありがとう。(江本嘉伸


■地平線マンガ『大きなつづらの巻』(作:長野亮之介)
マンガ 大きなつづらの巻

   《画像をクリックすると別タブで拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 延期 します

今月も地平線報告会は延期します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 500号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年12月23日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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