2019年8月の地平線通信

8月の地平線通信・484号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月14日。台風10号が猛威をふるいそうである。鹿児島・種子島の南東約280キロにあり、最大瞬間風速は40メートル。きょう午後には九州南部が風速25メートル以上の暴風域に入る見込みという。

◆広島、長崎の原爆の日を含めて「語り継ぐ」という行為にひかりがあてられる日々である。私はほとんど戦争体験はないが、最近になって地平線会議に顔を出すようになった若い顔ぶれを見て、小さなことでも伝えることはある、と思い直した。その一つは、「防空壕体験」である。私の家族が住む横浜市の市営住宅は「豆口台」と呼ばれる高台にあった。丘の上の台地からゆるやかに下る斜面に二軒長屋ふうの木造家屋がいくつも立ち並ぶ庶民の街であった。

◆1945年5月29日、伊勢佐木町はじめ主要な街がB29型爆撃機による総攻撃を受けた「横浜大空襲」の際は、台地であることで難を免れたが、空襲警報が鳴ると、家の前の空き地に掘られた防空壕に逃げ込む日々日々は変わらなかった。あんなに狭い土地にどうやって掘ったのだろう、6人家族だった我が家以外に何家族もいたのだから2、30人の避難場所にはなってはいたのだろう。皆身を寄せ合って敵機が去るのを待った。

◆ある日、私が熱を出して動けないことがあった。3才年長の兄が心配して防空頭巾を私の頭にあてがい、「嘉伸を早く防空壕に」と懸命に叫んだ。兄らしい優しい表現であったろうに、その時の私の容体が結構悪かったのか、父が「いまは病気なんだっ!」と兄を叱りつけたことに幼い私はびっくりした。兄は私のことを心配してくれたのに……と、そんなことをやけにはっきり覚えている。

◆6才の年齢差で私たち4人兄妹はいた。終戦当時、私は4才10か月。1才年上の姉と3才年下の弟。育ち盛りの子供を抱えて両親はどんなに大変だったか。父は健康問題もあって出征せず、国内の守りに徹していた。優しい人だったが、子どもたちの教育には厳しかった、と思う。家には時に父の職場(地方貯金局という場所)の若い同僚が来て食卓を共にすることがあったが、そういう時も父は作法はきらんと守らせた。

◆いつだったか、食事の前の言葉を暗唱しないでお椀に箸をつけた青年に激しく怒り出した。「子どもたちの前でそんなことじゃダメだ」と言ったようである。当時、各家庭では食事の前に「食前の祈り」を捧げるのが通例だった。いまでもすらすらとその言葉が出てくるのは父の教えが徹底していたからだろう。『箸(はし)とらば天地(あめつち)御代(みよ)の御恵み(おんめぐみ)、君(きみ)と親(おや)との御恩(ごおん)を味わえ、いただきます』というのである。食に対しての深い感謝の気持ちをあらわす、という意味でそれを子どもの前で平気で飛ばしたことを、父は許せなかったのだろう。

◆8月5日正午過ぎ、高尾駅に着くと2人はすでに待っていた。今月報告者にお願いした山岳写真家の三宅修さんと我らがイラストレーター、長野亮之介画伯。駅近くの食堂で昼飯をしながらあれこれ相談する。地平線報告会は毎月、いろいろな人との出会いでもある。普段は私の家に来てもらい、カレーをすすめながら打ち合わせをするが、今回は「現場で話を」と三宅さんに誘われて高尾「いのはな列車銃撃事件」現場を訪ねたのである。終戦直前の1945年8月5日(まさに訪れた日!)、八王子市裏高尾町の旧国鉄中央線・湯(い)の花トンネルに差し掛かった列車が米軍機の銃撃空襲を受け、52人以上が死亡した。三宅さんは学徒動員でトラックで現場近くまで運ばれ、惨事に遭遇した。詳しくは画伯の紹介イラストとご本人による報告会におまかせしよう。

◆父を含めて多くの大人たちは戦争のことを語ろうとしなかった。どれほどの絶望を抱えて生き抜いてきたか。その絶望が深ければ深いほど他人には語りたくないものかもしれない、と最近は思うようになった。とくに最近、戦地での最も悲惨な事実、「飢え」のことがドキュメンタリーの中で語られるようになり、その思いを強くした。何よりも恐ろしかったのは飢えだった、とかっての兵たちは語り続けるのである。それがどんなに恐ろしいことだったか、私たちは理解しなければならない。

◆8月9日、上田市郊外の「無言館」を訪ねた。さきの戦争で没した画学生の慰霊の心をこめて1997年に開館した美術館。館主の窪島誠一郎は自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治(いまも98才で健在)とともに、のちには1人で全国を回って、戦没画学生の遺族を訪問して遺作を蒐集した。19才、はたちで散った画学生の作品がこうして残ったことに心うたれる、絵心とは人を救うと思う。

◆兄は幼い頃から絵心の持ち主だった。どうしても美校に行きたい、と2浪して東京芸術大学油絵科に入り、絵の教師として人生を終えた。登山や水泳で鍛えていたが、昨年食道癌で80才で没。その遺作展が家族によってことし開かれ、私はお気に入りの桜の花見のスケッチをもらった。(江本嘉伸


先月の報告会から

都会の山のハイジ

服部小雪

2019年7月26日 新宿区スポーツセンター

■小雪さんは、地平線報告会にも何度も登場されているサバイバル登山家、服部文祥さんの奥様だ。3児の母であり、イラストレーターであり、今年5月に出版された「はっとりさんちの狩猟な毎日」の著者である。以前狩猟をしていたこともある私にはとても興味をそそられる内容だった。はじめてお会いする小雪さんは、少女の面影を残したような、可愛らしくて素敵な女性だった。文祥さんが射止めたというのも納得だ。

◆「今日は服部文祥は来ませんので、気楽にお話してください」という司会の長野さんのフリに応えるように、文祥さんとの馴初めや、家族から見た冒険家の横顔など、写真やイラストを交えて「日常の冒険」についてお話していただいた。最初に流れたのはBSプレミアムの「グルメ百名山」。文祥さんに連れられて、小雪さんと長女の秋(しゅう)ちゃん、犬のなつが新潟の早出川を舞台に、5日間の「サバイバル登山」に同行するという企画。サバイバル登山では、お米と調味料以外の全ての食材を「現地調達」することで、その山を本当の意味で登ったことになるという。

◆6月、まだ雪の残る雪渓や、崖のように急な沢を登っていく。イワナを釣っては文祥さんが慣れた手つきで次々と捌き、あっという間に刺身や燻製に。採れたてのコシアブラはごま油と醤油で炒めて丼に。「頼もしすぎて出る幕がないのがさみしい」と小雪さん。久しぶりの山行はかなりハードで、野宿同然の夜には寒くてブルブル震え、帰って来てから高熱を出して倒れた。ここまでは「非日常」、ここからは「日常」の話へと移る。

◆秋田県大館市生まれ、小2までを東京・吉祥寺で過ごし、その後は埼玉県所沢市に引っ越した。幼稚園の時は大人しく、泥団子を作るのが趣味。小学校時代はクソがつくほどまじめだけどどこか抜けていて、好きな先生を喜ばせたいと思って学級委員になったこともあった。中学からは吹奏楽部でアルトサックスを始め、埼玉代表に選ばれるほど部活一色に。

◆転機が訪れたのは中3の時。友人から借りたカセットテープに入っていた佐野元春の「ガラスのジェネレーション」を聞いた時だった。「世の中にこういうものがあったのか!」と世界がひっくり返るほどの衝撃を受け、そこから音楽や芸術に目覚めていく。自分の想いを表現することに対する憧れ、他人とは違う道に行きたいという考えから「アーティストになりたい」と思い、わざわざ電車で1時間半かかる女子美付属高校へ。そこで油絵に没頭していく。

◆祖父も画家で、小3の時にはじめて油絵の具に触れた。15歳の時に描いた「心の窓」という絵は、「見かけは問題なくても心の中は複雑で、いつもどこかで孤独を感じている」当時の鬱屈した心情をよく表している。今でも残っている作品の中で一番好きなのは高校生の時に描いた、母が読書をしている絵。人物を描くこと、とりわけ「その人らしさ」が現れるような、何かをしているところを描くのが好き。その後大学に進学し、都会暮らしの疲れや絵を描くことに行き詰まりを感じた時、「アルプスの少女ハイジ」の世界や自然への憧れを思い出す。

◆そんな時に登山家・今井通子さんの新聞記事が目に留まる。「枝別れした沢を遡っていけば、源頭に出る。山に行けばこの世界の仕組みがわかる。それが自然に入っていくことの魅力だと思う」とあった。恵まれた環境の中で、どこか物足りなさを感じていたから「これだ!」と思い、迷わずワンゲル部の扉を叩いた。アジトのような地下の部室には、女子美らしいオシャレで個性的な先輩、存在感溢れるコーチ、山の道具や本が鎮座していた。それから4年間は、絵筆をピッケルに持ち替え、山ばかり行っていた。

◆大学時代の終わりに「岳人」の企画した座談会で、村田(旧姓)文祥さんと出会う。第一印象は「暑苦しい人」。オーラもそうだが、暑い日なのに革ジャンを着ていて、自意識過剰だと引いてしまった。向こうは一目惚れだったようだが、こっちは怖くてとてもお付き合いする勇気はなく、距離を置いていた。卒業後は中学校の美術教員になった。教員時代、村田くんと一緒に丹沢の蛭ヶ岳に山登りに行くことになった。

◆しかし間違えて違うホームに座っていたために、電車もバスも乗り遅れてしまい、仕方なくタクシーで行った。山を登り、体も冷えていたところに温かいミルクティーとおにぎりを食べさせてくれた。人に食べさせることが上手。「この人ちょっといい人かもしれない」と思ってしまった。この人は嘘がないんだろうな。人となりが分かり、リスペクトした。本の話ができる唯一の友達でもあった。

◆教員生活では「世の中の厳しさ」に直面する。美術を教える以外にも、生徒指導や保護者とのやりとりに心身ともにすり減らし、ワンゲルでついた自信も折れ、体重も38kgまで落ちてしまった。そんな折にK2から生還した村田くんと再会した。人生相談をしたところ「答えは簡単だよ。俺と一緒になれば必ず楽しい人生が待っている」と言われて妙に納得させられてしまった。今までとは全く違う、ずっと憧れていた生活への期待もあった。

◆結婚して驚いたのは、長男が生まれた直後に、「じゃあ俺は山に行くから」と放り出されたこと。わたしは180度生活が変わったのに彼は今までどおり。ひとりで何もかもやるのは、心身ともに大変でゆとりがなかった。文祥さんの処女作「サバイバル登山家」をはじめて読んだ時、彼がどんな想いで冒険に出ているのかがわかって、涙なしでは読めなかった。家族じゃない第三者の視点で読みたかったと思うと同時に、「この人は普通の人と違うからやっぱり応援するしかない」とも思った。自分の気持ちもぶつけたいけど、彼のことも理解したい。二つの感情にいつも板挟みになる。

◆日高全山縦走の時には26日間音信不通に。4歳の長男と2歳の次男を抱え、不安でいっぱいだった時に、「お父ちゃん死んじゃったんじゃないの?」「クマに食べられたかもね」と明るく言う長男にある意味救われた。次男を感情任せにきつく叱ってしまった後、涙目の次男に「お母ちゃん、怒りすぎてごめんなさいは?」と言われた時は、「見抜かれた」と驚いた。子供は、小さくても立派な「人」で、いろんなことを教えてくれる。

◆自然に近い暮らしがしたいと思っていたが、結婚してはじめて住んだ平屋では虫、カビ、夏暑くて冬寒いという洗礼を受ける。でも子供が生まれてからは一緒に虫を観察したり、図鑑を読んだりしていくうちに虫と仲良しになり、世界が大きく広がった。身近な自然から季節を感じることも増えた。現在住んでいる家は、横浜・大倉山の斜面に建つ築45年の廃墟のようなボロ家で、土地の値段だけで購入できた。あちこち傷んでいたので床や障子を張り替え、壁に漆喰を塗って改修を進めた。

◆今回小雪さんが本を出版したのは、文祥さんがメディアに出るようになり、「家族は心配じゃないの?」「小雪さんはエライ!」とあがる声に対して「そうじゃない」と言いたかったから。冒険家が好き勝手することに対する、家族の複雑な感情や舞台裏を書いてみたいと思った。ベースは日記。書きためた日記は10年で20-30冊にもなった。思春期の頃の日記は全て燃やしてしまったが、子育てが始まってからの日記はどうしても捨てられなかった。

◆当時は大変で、文祥さんにぶつけられない恨みを日記に書き留めていたが、今になって読み返すと「いい時代を過ごしてきたんだなあ」「彼も頑張っていたんだな」と許すことができて、自分にとっても救いになった。文を書くだけでなく、新聞の切り抜きや気に入った短歌を貼ったりした、パッチワーク的な日記を作っていた。「文字」がいつも支えてくれた。

◆イラストの仕事は月に1回「岳人」に載る、ワンカット7000円のみ。でもその収入をもらうことが子育て時代の支えになっていた。絵を描いている時だけは主婦でも母親でもなく、自分自身でいられた。「サバイバル登山」を読んだ時からなんとなくその予感はあったが、やはり狩猟を始めることになった。ある日急に牡鹿の頭を持って帰って来た文祥さん。幼い秋ちゃんに脳みそを食べさせているのを見た時は「勘弁してよ」と思ったが、実際食べてみたらおいしかった。そんな環境で育ったので子供達も野生のものを食べるのには慣れている。狩猟は敷居が高いようだが家族がいたので割とすんなりはじめられた。

◆鹿の皮に残った肉や脳みそはニワトリや犬の餌にする。娘の秋ちゃんが学校をずる休みした時「お前な、休むなら鹿の頭叩いておけ!」と言われ、泣きながら鹿の頭骨を叩いていたこともある。肉の解体はやればやるほど上達する。近所の人たちも一緒にやることも。

◆お肉を切り分けるのは楽しくわくわくする作業。インドカレーが好きで、色々なスパイスを入れて鹿カレーを作ることも。こうして最後に美味しく食べることで、狩りに対するマイナスのイメージはなくなり、ありがたいことだなあと思う。鹿の頭や蹄がついたままの骨がウッドデッキに並ぶので、近所の小学生たちからは「あの家やばくね?」と噂になり「骨の家」と呼ばれている。

◆ある日、文祥さんが岡山の川でヌートリアをたくさんとってきた。ヌートリアなんて食べたくなかったが、持って帰ってきたので仕方なく料理した。食べてみたら意外とおいしい。スーパーに売っている肉は牛・豚・鳥だけど、肉って意外と幅が広いんだなと気づいた。お弁当に入れてみたら子供達にも好評。先入観を捨てるのは楽しい。もしかして一番のハードルは自分の先入観だったのかもしれない。

◆常に新しいことを考えたり企んだりする文祥さんが、今度は「ニワトリを飼う」と言い出した。はじめはヤギを飼う予定だったが、住宅地では難しいのでニワトリになった。子供達は大喜び。でも周りが盛り上がるとそこにブレーキをかけるように「臭いや鳴き声が近所迷惑にならないの? もう一度よく考えたら?」とマイナスのことばかり言ってしまう。それでいつも喧嘩になるのだが、実は内心楽しみにしていた。

◆ロードアイランドレッドという採卵用の品種をネットで買い、自転車で取りに行く。背負子に入れて連れ帰ってきたヒヨコたちはふわふわで本当にかわいい。ヒヨコは6羽来た。よく食べよく動く。餌は米ぬかと生ゴミ。4か月経って本当に卵を産んだ時は、「自分たちの出したゴミが卵になった!」と驚いた。野菜くずや残飯、土や虫、草がニワトリの身体を通って卵になり、自分の体に入る。卵を食べることは、ニワトリがどんな風に生きてきたかをそのまま自分の身体に入れているのも同然。

◆2011年の震災で放射能の問題が出て、野草や筍など今まで楽しみにしていたものが食べられなくなってしまった。今までスーパーで食べ物を買っていたが、こうした暮らしをはじめて、畑で育ったものやニワトリが産んだものは、大地の状態と密接に関わっている、土と自分の体がつながっていると感じた。ニワトリを通して自分が生きているカラクリが少し分かった。

◆ニワトリは見ていても面白い。おしりをフリフリして歩き、顔は野生的で恐竜みたい。足もゴツゴツしているが、裏は柔らかくてぷにぷに。「FIELDER」という雑誌に連載することになり、絵を描くために観察を始めた。6羽の中にもそれぞれ個性があり、上下関係もはっきりしている。パープルはとても賢くて地位も高い。プープは後から来たのでいじめられている。しばらくして雄鶏のキングがやってきた。雄鶏がいなくても無精卵は採れるし、声がうるさいので近所迷惑になると思って反対したが、文祥さんは有精卵を孵したくて、雄鶏をもらってきた。

◆結果的にキングの存在は素晴らしいものだった。絵的にも引き締まるし、野生の雄叫びには心揺さぶられるものがあった。はじめは怖かったが、娘が可愛がるので慣れてきた。文祥さんのことはライバル扱いして攻撃。だがいつもあっさり負けて、いじけて3日ぐらい鳴かなくなる。そんなところもかわいい。有精卵が産まれたので今度は人工孵化器で卵を孵すと、ぴったり21日で生まれた。ここでまた、「卵は本当に命だった!」と実感する。今まで命をパカっと割ってお椀の中でかき混ぜていた。自分の力で殻を割って出て来るが、中には生まれてこられないもの、生まれたけど立てないものもいて、ニワトリのたくましさと命の儚さを感じた。

◆こうしてニワトリを描くことでイラストレーターとしての仕事をすることができ、絵を描く楽しさを取り戻した。絵を描く時、最初は見ずに描く→確認→また描く、という工程で行うが、見るたびに知らないことに気づく。喜びの反面、知りたくなかったことも知ってしまう。ヒヨコは4か月ぐらいで若鶏になるが、普段スーパーで飼う「若鶏」はケージ飼いで身動きが取れないように無理やり太らされ、まだピヨピヨ鳴いている生後50日前後で出荷されている。「若鶏」といういいイメージで売り出され、今まで美味しいと思って食べていたが、自分たちが食べているものはなんだったのかを改めて考えるようになる。

◆野生肉を食べることや、ニワトリを飼うことはもともと趣味ではじめたことだが、「食べること」は「生きること」。つまり何を食べ、どうやって生きるのかということで、それにはいろんな葛藤が伴う。はじめて猟に同行した時、それまでは「がんばって獲ってきてね!」とウキウキして見送っていたが、実際に猟場に行ってみたら、のどかに暮らしていた鹿が、何も悪いことをしていないのに突然鉄砲で撃たれて平和な生活を奪われてしまった。自分が楽しみにしていたことが実は鹿の「死」だった、ということが分かり、どうしたらいいのかわからなかった。

◆その辺りのことはまだ自分の中で答えは出せておらず、本の中でもグレーゾーンのままになっている。「狩猟をしている人は仕留めた肉を食べる権利があるかもしれないが、わたしは殺すことはできない。誰かが殺してくれたお肉をスーパーで『ラクだから』と現金と引き換えに買って食べている」ということも考えるようになった。日本の家畜の現状がどうなっているのか、自分から知りたいと思って本を読んでいる。

◆とは言え「(肉は)野生肉だけでいきたい」という文祥さんに対して、「それは無理だろう」と思う。成長期の子供達にいろいろ食べさせてあげたい。たまに食べる分には刺激になるし、いい経験だが日常的に継続するのはなかなか難しい。今のところは野生肉があるうちはなるべく買わないようにしている。ただし、服部家のニワトリは類い稀に見る「一生を全うするニワトリ」で、その姿を子供たち(自分の子供だけでなく)に見せたい。学校でニワトリを飼わなくなってしまったのが残念。

◆生活の中に「死」が入り込んでくることを、現代の日本では見せないようにしている。本当のことをなるべく早いうちに経験しておいた方がいい。子供はとても柔軟な感性を持っている。父親が獲物を持って帰ってきても我が家の子供達は全然怖がらなかったし、解体もすんなりできた。逆に大人の方がかまえてしまう。ニワトリを孵した時、オスは淘汰しないといけないが、卵から可愛がって一生懸命育ててきたニワトリが段々とオスらしくなってくると「いやだなあ」と思う。

◆コケコッコーの練習をはじめる頃にシメなければいけない。子供達は平気だったが、その日は息が吸えないぐらい辛かった。オスもそれを察知して逃げ回るが、あっという間に文祥さんの手で殺されてしまった。家族みんなで羽をむしり、解体する。自分たちの飼っていたニワトリだから死んでもかわいい。最後まで歩いていた脚、いい餌をあげていたからか宝石のようにキラキラして見える内臓を見て嬉しくなった。鍋や焼き鳥にしてありがたく食べた。

◆卵から孵した子達は食べたが、初代の子達は半分ペットになってしまったのでさすがにシメられない。キングは現在9歳。そろそろ世代交代。次は烏骨鶏か? 鹿を食べた時も自然の味でおいしくて感動した。山のドングリや木の皮を食べているから山の味、幸せに生きていた味がする。それを体に入れると元気になる。死ぬ過程も目の前で見ているから気が引き締まり、しっかり生きないと、と力が湧いてくる。

◆はじめは狩猟も乗り気ではなかったがこれはなかなかできない経験だと思うようになった。「殺すこと」や「死」が生活に入ってくることは辛いけど、人生や生活が豊かになることでもある。そんな機会をもつことができたことは文祥さんに感謝している。実は遅れて会場に来ていたその文祥さんからも最後に一言。

◆「狩猟をはじめた当初は鹿が全く獲れず、飼った方が効率がいいのではとヤギを飼うことを検討したが、鹿が獲れるようになってからは骨や雑肉が邪魔になり、ニワトリを飼い始めた。雑肉が卵に変わるということ、実際に肉を食べさせると卵の味が変わることから、「食べ物の元は何か」を意識するようになった。配合飼料や鹿を狩猟・解体する手間賃も考えると、1個あたり30〜50円かかっているが、スーパーでは10円程度。一体何を食べさせているのだろうと思う。子供達も手がかからなくなり、自分も体力が伸びなくなってきたので、登山や探検的なことよりも、次のステージ(年寄めいたこと)を考えるようになってきた。今回小雪がこうやって話したのもそのターニングポイントなのかもしれない」と語った。

◆小雪さんのイラストレーターとしての観察力やユーモアが光る、楽しい報告会だった。二次会に向かう道のりで小雪さんとお話し、「本を読んだ時も思ったんですけど、あれだけのことをされて、よく出て行かなかったですね」と思わず言ったら、「逃げ出すのは簡単だけど、子供もいるし覚悟を決めるしかなかった。それにああ見えて彼結構優しいんですよ」と笑う小雪さんに、底知れない愛を感じた。文祥さんに振り回されながらも、最終的にはそれを受け入れ、楽しむ姿勢が素晴らしい。ニワトリを飼って卵を孵した時の感動や、命を奪うときの葛藤や罪悪感など、共感する部分が非常に多かった。

◆その一方で、「野生肉だけでいきたい」と言った文祥さんの気持ちもよくわかる。実は私もはじめて野生動物を食べたのは鹿の脳みそ(しかも生)で、すごく美味しかったのを覚えている。あの味が忘れられなくて狩猟を始めたと言っても過言ではない。家畜がどのように育てられているかや、野生動物がこれだけ増えていて、「駆除」されている現実、そして何よりも野生肉のおいしさを知った以上は、できるだけスーパーのお肉は買いたくないと思うようになった。今回小雪さんが持参してくれたお手製のヌートリアの唐揚げもとても美味で、今までタヌキ、アナグマ、ハクビシンなど四つ足動物はいろいろ食べてきたが、その中でもクセがなく食べやすかった。今はしばらくそうした生活から遠ざかってしまっているが、また近い将来、自然に根ざした暮らしを営みたいと思っている。(青木麻耶


報告者のひとこと

まさかこうした出会いが生まれるとは……

■地平線当日。いよいよだと朝からソワソワして行ったり来たり。そういえば今日の報告会に持っていくヌートリアの唐揚げを作るんだった。ヌートリアとは、西日本を中心に生息しているカピバラのような姿をしたネズミの仲間だ。

◆前脚2本を解凍し、赤身を骨から削るように外して、塩、酒少し、醤油で下味をつける。しばらく置いてから片栗粉をまぶして、フライパンの5ミリくらいの油で揚げ焼き。肉の端くれをベランダで飼っているミシピッピアカミミガメのブッタ(服部家に食べられる運命にある)に投げてやると、カメはすぐにパクつき、飲み込んでしまった。

◆「話の流れで文祥のことが自然に出てくるのはいいですが、あくまでも報告会の主役は小雪さんですよ」これは準備の取材の時に江本さんと長野さんに言われたことだ。私が特にそういう傾向が強いだけの話かもしれないが、家に長い時間いる者の欠点として、家族や雑事に振り回されて自分のことを見失いがちになるうえに(正確にはそこに逃げ込んでしまう)自己肯定感が低い。今回、江本さん達が、文祥の嫁サンではなくひとりの人間として私に向き合ってくれたことがとても嬉しかった。本の出版するにあたっては不安しかなく、まさかこうした出会いが生まれるとは夢にも思わなかった。

◆報告会には大学生くらいの若い人の姿も多かった。江本さんと同い年の両親や、地元の友人も足を運んでくれた。初めに、2年前にNHKで放映された番組(ディレクター:山田和也さん)の一部を流して、家族でのサバイバル山行の様子を紹介した。結婚後、子供が生まれてからは身動きが取れなくなり、休日くらいは家族で出かけたかったが、夫は年間120日ほど山に入っておりあきらめるしかなかった。学生時代に山登りに明け暮れて遊びきった感覚があったこと、何も知らないでボーッと生きてきたことが幸いして、地面と子供に密着して生きる日々は楽しかった。実際、子供の存在は時には嵐であり、時には美しい光であり、大自然そのものと接しているようだった。

◆「文祥さんを支えている奥さんは偉い」とよく言われるが、現実はそうではなく、むしろ逆という面もある。子供が3人いると経済的な問題は大きい。家族で生きるために都会で働く役目を夫が長年引き受けていたこと、納豆とネギをいつも買っておく以外は何も私に望まない、というおおらかさ、そういう点において、綱渡り的だったけれど、服部家の平和はどうにか保たれてきた。

◆夫が狩猟を始めるようになると、殺しの生々しさがダイレクトに生活に入り込んできて戸惑ったが、家族や友人と動物に感謝して美味しく食べることで意識は変わっていった。小学生だった娘は、国語の時間に「食べものは、生きものです」という作文を書いた。

◆現在、自宅の庭でニワトリを飼っている。文祥が強引にヒヨコを持ち込んだのが始まりだったが、世話はをするのは私と子供達。ニワトリもまた、野生の世界と人間界の境目にいるような存在だ。異種の仲間を迎えると、世界には様々な種類の生き物がいて、人間もその中の一種に過ぎないと感じるようになる。

◆『いのちへの礼儀』(生田武志著)によると、日本は畜産後進国であるらしい。工業化された環境でヒヨコがどんどん生まれ、年間約一億羽オスのヒナが廃棄されているという現実、卵を産むために狭いケージから一生出ることなくエサを食べさせられる鶏。私も大量生産、大量消費の社会の一部に組み込まれて生きているが、見えないところで起きていることを想像することはできる。残りの人生は、肉は買わないで魚のおかずを作る、など自由な選択をしていきたい。

◆地平線会議では自分でも信じられないほど本音をたくさん話すことができた。聞いてくださる方達がいたからこそ、引き出されたものだと思う。みなさんありがとうございました。(服部小雪 下のイラストも)

服部小雪イラスト

 都会の片隅に立つ大きな木があった。
 金曜日の夕べ、旅鳥たちが羽を休めに集まり、誰かの話に耳を傾ける。
 ウロの中には、昔から賢者フクロウが住んでいた。
(ふしぎなことに、木にはギョウザの実が成るのだった)


〜かく(書く・画く)ということ〜

 『はっとりさんちの狩猟な毎日』を読んで

 21世紀の日本が生んだ「行動する思想家」服部文祥氏から『獲物山II』をいただいた。添えられた手紙に、近日発売のこの本の紹介があった。『獲物山II』の最終章「登山家不在の家族の風景」は、服部氏が死後の世界に思いを馳せた「詩」である。死後の世界、とは自分が死後行くかもしれない「あの世」ではなく、自分の死後も淡々と続いていく「この世」のことである。管見によれば、そこに思いを馳せることのできる人種(今では絶滅危惧されない種と呼ばれている)の事を詩人と言う。この章に小雪さんの写真があり、知的な美人だったので、即アマゾンで注文した。

 この本で一番驚いたのは、服部氏が日高全山ソロサバイバルを敢行した時、既に4歳の祥太郎君と2歳の玄次郎君がいたこと(私は勝手に当時独身かと勘違いしていた)。読み返すと確かに山で出会った学生に携帯電話を借りて電話する場面があった。それまで二週間音信不通で、台風が北海道直撃。それからさらに二週間音信不通…。サバイバル登山家の妻とは過酷なものだ。『サバイバル登山家』が出版されて、それを読む場面、「おそるおそるページをめくった。山行記を読んでいくと面白くてぐいぐい引き込まれたが、やっぱりギリギリのことに挑戦していたことがわかり、胃が痛くなった。(中略)読み進めるうちに言葉を失った。この人は、命がけでやってきたのだ。山登りと文字表現で生きていく決意が本の中から立ち上がってきて、俗世間で満足を得ている自分との、永遠に埋まることのない溝を感じた」に、打たれた。この瞬間が、小雪さんにとってひとつの転機になったのではなかろうか。私がこの名著に出会ったのが、広島県山岳連盟の講演会にお呼びする契機ともなった。

 次に驚いたのは、「『モア』を食べる」。「秋の一番の仲良しはモアだった。学校から帰るとモアを抱っこしてどこかへ行き、親に言えないテストの点数など、秘密の話をしていたようだ。モアの背中のやわらかい羽毛で涙をぬぐっていることもあった。(中略)彼女は飼っている生き物が死ぬことには慣れているためか、静かに涙を流していた。私たちはモアを解体し、身体に野菜を詰めて、薪ストーブで丸焼きにした。かわいがっていた生き物を食べるのは初めてのことだったが、パリッと焼き上がった肉は味が濃くおいしかった。」これを読んで、関野吉晴氏のグレート・ジャーニーDVDで、ヤノマミ族が亡くなった人の骨粉をバナナ・スープに混ぜて号泣しながら飲むシーンを思い出した(このシーンでは、必ずもらい泣きしてしまう)。今回も、哀しみが、直下(じきげ)に伝わってくる。服部氏が、『狩猟サバイバル』の第六章で扉に掲げている西洋のことわざ、You are what you ate. (あなたはあなたが食べたものにほかならない)は、私はこれまで、身体はそうだが、精神は違う。精神は読書も含め、体験したことでできている、と思ってきた。しかし、服部家のように「ズルしないで」世界と向き合うなら、身体も精神も食べたものでできるのではないか? そもそも、身体と精神を分けて考えること自体が間違っているのではないか?と、考えさせられた。

 過酷な探検記、例えば角幡唯介氏の『アグルーカの行方』の中での、相棒の荻田氏との軽妙なやり取りを読むと、ユーモアも生き延びるための重要な装備の一部だという気がする。小雪さんも、ユーモラスな絵で自分自身すらも笑い飛ばしながら、かく(書く、描く)ことによって、「サバイバル登山家の妻」という過酷な生をしたたかに「サバイバル」していかれるであろう。家族とともに…。(豊田和司 広島県山岳連盟理事長 詩人)

小雪さん、心から応援しています!

■服部小雪さんの報告会、お疲れさまでした。参加させていただきありがとうございました。二次会でも、ご本人と色々お話ができてとても良い時間でした。実は服部ご夫妻とお話ができるとは夢にも思っておりませんでした。なぜなら私にとってはとても気になる、でもあくまでも「本の向こう側の方達」だったからです。

◆飛騨から15年前に移り住み、関東周辺で山登りをはじめた頃から雑誌などを読み始めるにあたり、夫が文祥さんの登山家としての考え方やオリジナリティーに共感して、2006年の「サバイバル登山家」から、ほとんどの本は購入し、『岳人』のコラムなども読んでいました。『アーバン・サバイバル入門』では小雪さんのイラストで、どんな処にの住んでいるかも詳しく描かれているし、度々雑誌には息子さんや娘さんと山に登っている記事もあり、我が家ではよく話題に上るのが服部家の話です。そしてもちろん、小雪さんの本もすぐに買ってきて、これは私も大変面白く読ませていただきました。

◆本の中での小雪さんの心情は、夫や家族に翻弄されつつも赤裸々に描かれており、おおいに共感できる面もあり、子育ての事、家族の事、そして文祥氏の違った面ものぞく事ができて、人間は奥深いものだと改めて感じました。勝手なイメージでとても逞しい方なのかと思っていましたが、小雪さんの細やかな心情に安心した感もあります。今回の報告会は話がさらにふくらんで面白く、時間もあっという間でした。小雪さんの観察力、分析力にも感心いたしました。現在の食肉事情なども勉強されているとの事でまた色々教えていただきたいです。

◆文祥氏の「父親像」というのも興味深かったです。子供相手に遊んであげるのではなく、本気で好きな事やりたい事をやっている父親は、子供自身も自分の好きな事を見つけられるのかと、また子供扱いしないという信念をもって接する姿勢が、素晴らしいと思いました。小雪さんにはまだまだ続く5人家族の食事やプラス動物たちの世話も、私の想像を絶する家事と労働だと思いますが、心から応援しております。(モリサチコ 尺八奏者)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。通信費振り込みの際、通信についての感想など付記してくれると嬉しいです。

高橋千鶴子/三澤輝江子(10,000円 毎月通信を楽しみにしています。知らない世界、新しい世界、文章を通して旅をしています)/永田真知子/小高みどり(10,000円)/鰐淵渉/天野賢一/吉岡嶺二(2,800円 ワールドカップ、オリンピックと続き、ヨットハーバーから締め出されました。2020年夏は水平線から遠ざかって過ごします)/豊田和司(御無沙汰しております。服部小雪さんのヌートリアの唐揚げ食べたかったです)


先月号の発送請負人

■地平線通信483号(2019年7月号)は、7月10日印刷、封入仕事をし、翌11日、新宿局に渡しました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。今月も車谷さんが早めに来て印刷にとりかかってくれ、助かりました。印刷をこなせる人が必要です。塚本さんは、いつもの通り福井から出張したついでの参加です。今月もラベル制作、印刷は杉山貴章、加藤千晶のお2人があたってくれました。皆さん、ありがとう。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 落合大祐 竹中宏 光菅修 杉山貴章 江本嘉伸 武田力 塚本昌晃


「岡村隆さんの植村直己冒険賞受賞を地平線流に祝う会」開かれる!

 7月13日、「岡村隆さんの植村直己冒険賞受賞を地平線流に祝う会」が、報告会と二次会の二部構成(+α!?)で、幸せいっぱいに行われました。 報告会の会場・新宿歴史博物館には、地平線会議の創設メンバーから現役・探検部の若者など、年齢もまちまちな人たちの姿が。司会はこの会のほとんどを企画した丸山純さん! アシスタントの大西夏奈子さんと一緒に、「岡村隆」という人(の一端)を、『宝島』などに憧れた子ども時代から順を追って、紐解いてゆきました。本人のお話に加えて、探検部現役時代からの付き合いの関野吉晴さん、「探検で生きていきたい」と朝まで飲み明かし語り合った岡村さんの盟友・惠谷治さんの妻の惠谷真保さん、日本観光文化研究所で指導と援助を続けた宮本千晴さんなど、様々な方が登場。岡村さんとの関わりを、岡村さんを、語る形で報告会は進みました。

 法政大学探検部の後輩で人生のパートナーである岡村節子さんもお話を。結婚後、「自分の中で、人には言えない小さな覚悟を積み重ねていった」という節子さん、岡村さんの受賞は「本当に嬉しかった」と!

 丸山さんには、最近の岡村さんしか知らない人たちにもっと岡村さんを知ってほしいとの思いもあったそうですが、知らないことがたくさん。それでも氷山の一角って感じで、いくらあっても時間が足りない〜。

 最後に地平線会議からお祝いの品が。節子さんへは、岡村さんの観文研の後輩・高世泉さんから花束が、岡村さんには長野亮之介さんから象に乗ってスリランカを探検している岡村さんのカラフルな絵が贈られました。

 

 二次会は貸し切りの居酒屋。報告会後、いてもたってもいられずか飛び入り参加者も多く、総勢40名ほどが岡村さんをぎゅうぎゅう囲んで乾杯! 丸山さんの名司会によって、旧知のみなさんや、冒険家の荻田泰永さんや阿部雅龍さんを筆頭に、一人ずつ全員が岡村さんにお祝いを伝えました。岡村さんが照れてちょっと居心地悪そうに、でも嬉しそうにされているのが印象的。 

 人にまみれて、人に囲まれて、岡村さんは幸せ者だなあ。そして、お祝いしている人たちの、これまた嬉しそうな、幸せそうな、顔、顔、顔……! 結局、時間が足りないってんで二次会後も元気な面々は半数近くが三次会へ、さらに四次会へ突入する猛者もいて、もちろん岡村さんも明け方まで呑んでいらしたとのことです。すごいぞっ。(加藤千晶

野の大学院

■「地平線流に岡村隆を祝う会」で一番拍手したいと思っていたことを話すのを忘れていた。それは彼の隊の隊員構成の話だ。みなさんはとっくに評価し、前提として語っていらっしゃってたのだと思う。しかし私は失礼ながら「南アジア遺跡探検調査会」について普段ちゃんとフォローしていなかった。だから報告を聞きにいって、途中で突然気がついた。あ、話している若い人たちは、法政の後輩たちではない。隊に参加していたのは、いや隊を作っていたのは、1校や2校の学生たちではないのだ、と。現地の行動だけではなく、常時集まって学び、考えている。すごいことをやってくれてたんだ!と。

◆かつて関野吉晴の渡海の準備の発想と勇気に舌を巻いた。関野が若い世代に興味を持った。しかもこんな痛切な形で探険の原点を学ばせている! 大きなリスクを引き受けながら、と。岡村隆も、少し地味にだが、部や大学の枠を活かしながら見事に越えて、探険の温床のようなシステムを育てていたのだ。野の大学院だといってもいい。本人に言わせればなるようになっただけ、他に手はなかった、というかもしれないが、これは価値の視点を高め、夢を育てる! さすがだよ、岡村隆。若者たちの報告を聞きながら、私はなんだか嬉しくなった。(宮本千晴

嗚呼 タージ・マハル

■地平線流の「祝う会」があった次の土曜日、39年前に卒業した生徒たちのクラス会。7年ぶりに会った一人が、「岡村さんの受賞、よかったですね!」。彼女が大学2年生の夏にくれた絵葉書には“先生たちが観ていないタージ・マハルを観ました!”と。

◆私は、都立高校で35年間ほど世界史を教えてきた。受験校ではあるが決して進学校ではないという程度の普通高校勤務が長かったが、そこでは、3年生の選択授業2単位でタージ・マハルに触れる。年度による異動はあるものの、通算で3000人ほどにその話をしてきたことになる。受験校として触れるべき事項のバランスを考えれば、どの教科書にも出ている写真を示して、シャー・ジャハーンやムムターズ・マハルの名を出しながら、5分もかけずに通過する程度のものだ。が、私は35年間、毎年、ここで立ち止まってきた。

◆“アムカス探検学校というのがあってね……”、“アフガニスタンからデリーに戻り、明日は東京という夜が満月だったのさ。何しろ、ここは満月の夜が最も美しく見えるというらしいから、参加者たちは皆、アグラまで行こうと。俺も見たことがないから、当然。ところが、直前になって『西山サン、今夜、ホテルの地下1階でストリップがあるらしいですヨ』と囁いたのが、法政探検部の岡村君という……”、“で。タージ・マハルはいつでもだが、インドでのストリップは次があるか? ロビーと地下1階をウロウロしているうちに、幻想的なシルエットを満喫した連中が帰ってきたのさ”

◆某通信社に入った29年前の卒業生が、政府の要人(多分、森喜朗だったと)の同行取材中に、突如、その夜の先生と岡村さんの顔を想い出してつい笑ってしまった、とも。少なくとも、3000分の2程度は、私の授業が身についている。

◆もちろん、未だに私はタージ・マハルもインドのストリップも見てはいない。(暗駝亭西山昭宣

『モルディブ漂流』108ページ、132ページ

■午前2時、目を覚ました。ものすごい星空だった。1986年3月中旬、ベンガル湾のど真ん中。アンダマン諸島ポートブレアから乗船した貨客船は3日目。灼熱の船倉を逃れ、デッキの上に一人で寝泊まりしていた。軽量化したデイパックには、2着の着替えと蚊帳に水筒、そして、カトマンズの古本屋で手に入れた岡村隆さんの『モルディブ漂流』だけだ。

◆ 迷いなく突き進んでいたはずの道に、不安と戸惑いを感じ始めていた。アルパインクライミングをやっているつもりが、ヒマラヤに登ることよりも、キャラバンの途上の村や、暮らす人々に惹きつけられていた。その気持ちが本物かどうか、ヒマラヤから遠く離れた場所で確かめてみたかった。

◆岡村さんの本は、自分の気持ちにリンクした大切なページを除き、アンダマンのジャングルで焚きつけに破り、ハードカバー本が半分もないスカスカ状態だった。ベンガル湾の真ん中で、何千キロも離れ、通い慣れたヒマラヤを想っていた。鏡のような凪、マッコウクジラの群れが作る波は、夜光虫の青白い光を放っていた。星明かりを頼りに、108ページと132ページを読み返した。船は、水平線のアルデバランに向かって進んでいた。(庄司康治 早大探検部OB)

『望星』編集長を頼まなければ彼は…

■岡村隆に初めて会ったのはいつのことだったか、思い出せずにいる。彼のことを意識したのは、日本観光文化研究所の『あるくみるきく』の校正刷りで彼の原稿を読んだ時だとは記憶している。中身は忘れたが名文だった。ショートエッセイに描かれた故郷小林の情景が見事だった。こんなに上手い文章を書くやつがいるのだ、それも同年代で大学探検部、モルジブの海をフィールドにする男だという。会わずともリスペクトした。

◆以来、他の大学探検部出身者との付き合いの中でいつの間にか近しくなった。その付き合いに共通するのはそれぞれがそれぞれの探検を一生続けたいという思い。それでもそれぞれ生業は持たねばならない。岡村に『望星』編集長を頼まなければ彼は大小説家になっていたのではといまも思う。仲間だから彼に声を掛けたわけではない。編集者としても優秀だったことに尽きる。

◆仕事上では親しいそぶりを極力見せずにいた。社内や関係者に身内感覚で仕事をしていると誤解されたくはなかったからだ。彼がNPOを立ち上げたことも知らなかったし知らないふりを続けていた。いろいろな探検、冒険、旅、行動、遊びがあっていい。そのアプローチも意味付けも自由で多様で広がりがあった方がいい。地平線流に祝う会で岡村隆をまた少し知ることが出来た。記憶力、記録力、そして整理力もいまだ抜群な岡村のこれからが楽しみだ。(街道憲久

トキワ荘のように

■スライドに映された筋肉美に目を奪われた。高校で体操などで鍛えた探検部現役時代の岡村さんの肉体はバランスに優れた秀逸な筋繊維だ。僕は人を筋肉で見る。なぜなら、どんなに大義を振りかざそうが理論武装しようが、肉体は鍛錬を如実に表すからだ。鍛えた筋肉の持ち主以外はプレイヤーとして信用できない。岡村さんに対して、オシャレな白ひげのおじさん、という印象程度だったが、この年齢まで道を貫き通せるのは鍛えた身体あってこそだと確信した。

◆話を聞きながら、僕と岡村さんの相違点と共通点を探していた。大きな相違は強固な個で冒険と繋がる僕と、強固な結束の仲間で探検と繋がる岡村さんだ。僕は単独行を好み、全てを自分の手でやろうとし、剛直に進む個人事業主タイプ。岡村さんは、関野さんをサポートする事で仕事しながら探検と繋がり、自分の探検も進めるバランスの良い経営者タイプ。探検部でも山岳部出身でもない僕は独学で現場に出続ける事で学んできたし、やっている事を現場で協働してくれる仲間に出逢わないままきた。

◆対して岡村さんは具体的な人との繋がりを大事にし、トキワ荘のように仲間たちが結集している。探検部時代の青春がずっと続いてるよう。その光景は微笑ましく、羨ましい。だが実は共通点の方が多かった。農家で育ち牛車に乗っていた岡村さん、農家で育ちばんえい競馬の石ゾリに乗っていた僕。時代は違えども同じような少年時代を過ごしたのだろう。何より共通点を感じたのは、彼ですら「表現と発信の努力はしたほうがいい」と言うことだ。人に言わずにやる冒険探検行は素晴らしいが、僕は「行為は発信と表現をして型を成す」と考えている。僕らが誰かの冒険にと憧憬したように、僕らも誰かを憧憬させる役目を担っている。想いを持ち続ければ岡村さんのように輝いた大人になれるだろうか。僕はまだまだハナタレだ。(阿部雅龍

噂の地平線会議!

■岡村隆さんの会では大変お世話になりました。結局3次会まで参加させていただきました。店には著者として若手の冒険家の方々、そして身体の治療では関野吉晴さんにお世話になっていますのでようやく念願叶い、「噂の地平線会議!」への参加となりました。岡村さんとも3次会で少しお話をうかがえました。その中で私が特に興味深く思ったことは、地平線の成り立ちや在り方です。場所を持たず、自由に人が出入りし、意見を交わし、それぞれの得意分野で役割を果たす、全てが個人の意志によるという点です。

◆5月に当ギャラリーでやりました緒方敏明さんの個展は、個人的には演出の仕方に疑問が残ったのですが、「作品」と「場所」がある中で、皆さまが自由に出入りし、自由に会話し、交わり、そこで醸成される「何か」を楽しむ!という、地平線スピリットを活かし作った「時間・空間」ではなかったかと思い至りました。1人では出来ないことも、2人3人と集まれば、さまざまな意見が集まり、実際の行動の範疇も広がりますね。

◆「抱月」もバーという枠にとらわれず、自由に形を変えていきたいと思いました。このたびはお誘いいただきありがとうございました。( 松島薫・神楽坂「抱月」オーナー)

岡村さんが丸山純の手で気持ちよさそうに捌かれている

■7月13日、午後1時半。岡村さんの「受賞を祝う会」は、まず「こんな子供でした」から始まった。そして、半年のスリランカ滞在で現地の人々とずぶずぶの仲になり、「ぼくは人を研究対象にはできない」と気付いた探検部時代。大学卒業後も、編集者の仕事を続けながら通った彼の地は、やがて終生のフィールドとなってゆく。そんな歩みが、数々の写真を背景に、仲間たち、節子夫人、盟友だった惠谷治さんの夫人・眞保さんらの証言を交えて語られた。

◆私にとっても初耳話が多かったが、不思議なことに、岡村さんの若い頃のエピソードに意外性は感じなかった。それは、「生きざまがブレない」「初心を忘れない」人柄ゆえだろう。個人史のPart 1から、焼鳥屋に場所を移してのPart 2では、その人となりが、旧友・知友の口を通して立体的に紹介された。編集者として作家やライターを料理する側だった岡村さんが、ここでも司会進行を務める名プロデューサー・丸山純の手で、にこにこと気持ちよさそうに捌かれている。その姿は見ていて楽しく、微笑ましかった。

◆明けて日曜日はエモ亭を訪問。昨年の「地平線会議40年祭・3分映画フェスティバル」で、みなちん監督と助手の私は審査員特別賞を戴いた。ようやく今日、副賞のエモカレーを御馳走になりに伺うのだ。そして更に3日後、私も北海道へ移動した。濃密だった週末の2日間は、当地でも繰り返し話題になったが、「進行表」も、その一つ。これは「祝う会」の2、3日前に、丸山さんから関係者宛に届いたもの。

◆添付ファイルを開くと、美しいフローチャートが現れ、準備段階や本番全体が、作業内容、担当者、登場人物へのQに至るまで、5分刻みに判りやすく図解されている。記憶貧乏の私にも、眺めるだけで各シーンが甦ってくるし、時間の都合でカットされた項目の多いことにも驚いた。毎度のことながら、丸山さんの用意周到ぶりは溜め息モノだ。これ自体が貴重な資料でもある。「ネタバレになる開会前は無理でも、終了後、参加者に配ればよかった」「そうだよ」で2人の意見が一致。疲労困憊のはずのPart 2の後も、老いを知らぬ面々にゴールデン街方面へ拉致されていったと聞き及びますが、丸山さん、くれぐれもご自愛下さいね。[まばゆい夏空は数日で去り、「もう秋ってコトないよね!?」の北海道より。久島弘

教育者

「お前たちのうち、もし誰かが死ぬようなことがあったら、俺は職を失うだろうしNPOもなくなる」

 私が3年次の夏、隊長としてスリランカへ渡る前に岡村さんから言われた一言です。この2011年隊は隊長の私を含めて学生8人のみ。経験者は私だけで、うち3人が1回生でした。この構成だけを見ても、岡村さんの心配は当然のことですが、当時サル並みの知性しかなかった私は、出国まで1か月を切っても一向に真剣になれぬまま、だらだらと酒浸りの日々を過ごしており、見かねた岡村さんから冒頭の一喝を賜ったのです。

 学生だけでフラフラ行きました、頑張ったけど死にました、では済まない。後ろで責任をとる大人がいる。モンキー野郎だった私でもそんな当たり前の“重さ”にようやく気がつくことができました。いま思えば人間への入り口はその時だったのだろうと思います。

 岡村さんは探検家、作家、編集者などと紹介されることが多いですが、私にとっては教育者です。スリランカ隊に参加していなければ、隊長として送り出してもらっていなければ、いまだに私はチンパンのままだったのかもしれません。学生の皆様、こんな感じの成長譚を面接で語れば受かるかもしれませんヨ。(2011年スリランカ隊リーダー 菅沼圭一朗) 

 二つのエピソード

■岡村隆先輩とは1975年以来45年もの間一定の距離を保ちつつ、スリランカの密林遺跡探検活動を共にしてきた。1985年、1993年、2016年、2018年の四度も岡村隆(以下敬称略)を間近で観察する機会を得て、生の岡村隆の一端を見る事が出来た。1976年私を含む学生4人によるスリランカ遠征は、岡村隆の直前の裏切りによってド素人の集まりで始まる事態となった。4人の気持ちは「岡村隆の成果を越える活動」の対抗心によって怪しい団結力が生まれた。

◆社会人になりその後も岡村隆と3度の遠征を共にし、今日まで半世紀余り岡村隆のぶれない信念、行動力、そして優れた統率力に引きつけられ、誰もが認める探検活動家の横顔を二つのエピソードで紹介することとする。

★わりと優しい岡村隆 1993年2人が途中参加で本隊に合流した際、日帰り調査でクタクタに疲れてベースキャンプに戻り村の共同井戸で水浴びをした時の出来事。境「岡村さん先に水を浴びてください」。疲れた先輩に気遣い横目で気持ち良さそうに水浴びをする岡村隆を見ていた時、岡村「境も疲れているのは同じだから」と言って井戸から汲み上げた2杯目のバケツを差し出す岡村隆。

★ずるい岡村隆 時は同じく1993年。夜明け前出発のパッキング中の出来事。各隊員は装備食糧を振り分けられ、40リットルのザックに20kg相当の荷物を詰め込んでいる時、ふと横でパッキングしている岡村隆のザックはサブザック。思わず境は「岡村さん少な過ぎませんか」と一言。岡村「俺は年寄りだから」の一言。学生隊員は無言でそのやり取りを見ているだけ。

◆誰も知らない、誰も言えない優しい岡村隆、ずるい岡村隆。それでも半世紀余り生涯の仲間を得た喜びを感じ、岡村隆の片腕として終わりの見えないスリランカの遺跡を目指す覚悟である。(武相文化財研究所所長 境雅仁

3分映画祭副賞のカレーをついに

■興味深く楽しかった岡村さんの「受賞を祝う会」の翌日、3分映画祭審査員特別賞の副賞のエモカレーをいただくため助手を伴ってエモ亭へお邪魔した。前日にたっぷり作ったという筑前煮、ハラノリコさんレシピのしょうゆ漬けきゅうりでスタート、ビールにも合い箸が止まらない。机の上の愛らしい写真は一時的に面倒を見ていたわんこだそうで、助手と亭主はその話で盛り上がった。

◆そして、出品作品を解説付きで観てもらった。「やっぱりこれは1回みただけではわからないね」とのこと。映画祭を思い返したり、モンゴルでの勇姿を収めた写真を見せてもらったりしているうちに、いよいよエモカレー、ハンバーグ付きで登場。「必ず入れる」というオクラをはじめゴーヤなどの野菜たっぷり、さっぱりして食べやすくとても美味しかった。

◆その後コーヒー、各種デザートともてなしが続き、満腹したが不思議と胃もたれしなかったのは野菜中心だったからか。その夜の便で帰道し翌日お土産の筑前煮とハンバーグを食べた。日頃のこういった食事もエモトさんの元気のモトなんですね。ごちそうさまでした![季節外れの熊出没情報が気になるカケスミナコ@北海道]

50年の友

■岡村隆さんとは50年以上の付き合いになる。私が一橋大学に探検部を創ったのが1968年、他大学の探検部の部室を訪れ、アドバイスを頂いた。結局は早稲田大学の探検部の合宿に潜り込むことになった。しかし法政大学の探検部の部室にも足しげく通った。初めての海外遠征をアマゾンに決めた時、同じ大学の鈴木顕定と法政大の増井外志と3人で行くことになったからだ。2度目のアマゾンも同じメンバーだった。部室に行くと必ず岡村さんがいた。モルディブをフィールドにしていると聞いたので、岡村さんは海のエキスパートと思い込んでいた。

◆その後私が南米発極北経由アフリカに己の腕力と脚力で旅をしたいと野地耕治さん(上智OB)に相談すると、惠谷治(早大OB)坂野晧(早大OB)、岡村隆(法政OB)、街道憲久(東海大OB)がグレートジャーニー応援団を作ってくれた。ほぼ同年代だが、共通点は裕福でないことと恐いもの知らずで知恵はある。一番若い惠谷治が応援団長になった。資金調達は苦手だが得意の安全管理が主な役割だ。頻繁に会うようになったが、打合せはさっさと済ませて、飲みに行くというパターンが多かった。年に一度は家族で集まった。私は日本にほとんど不在だったので、妻にとっては応援団は大きな存在だった。

◆幸い捜索隊を出すような事態は起こらなかった。応援団も役目を終え、解散した。その後、私は新グレートジャーニーを始めた。アフリカを出た人類は日本列島にはいつ、どのようにやって来たのか。その主要な3ルート、シベリア、サハリン経由北海道に至る北方ルート、朝鮮半島から対馬海峡を渡ってきた中央ルート、最後に東南アジアから海を渡って沖縄にやって来たルートだ。北方、中央ルートは命に係わる場所はなかったが、海のルートは難関があった。手作りのカヌーだったので物理的障害もあったが、マレーシア、フィリピン南部は海賊とイスラム過激派アブサヤーフが活動をしていた。そのため応援団復活、海に詳しい岡村さんに応援団長になって貰った。

◆団長の主な任務は安全対策だ。インドネシア領域は海軍大将と面会、何かあった時は動いてくれることになった。マレーシアはサバ州でロッジをもつ野村さんのおかげで、海上警察が、フィリピンは白根全が送り込まれ、沿岸警備隊の司令官とコンタクトして支援してくれた。国内では応援団長の岡村さん、事務局長の野地耕治さんが何かあったら動ける体制を作ってくれていた。インドネシアから沖縄までの4700キロを無事航海し終えることができた。

◆グレートジャーニー、新グレートジャーニー共に土地の人たちを含めて、多くの人に支えられて、活動してきた。その中で、ボランティアで最も重要な役割を果たしてくれたグレートジャーニー応援団にはいくら感謝してもし尽せない思いがある。実務は事務局長の野地さんが動いてくれたが、応援団長は私が危険地域を通過するときは、いざと言うときのため、待機していなければならず、惠谷さんはアフリカに出迎えてくれたが、「もう次はやりたくない」と言っていた。そのため海のグレートジャーニーは岡村さんに応援団長を頼み、引き受けてくれたのだ。

◆私も応援団の5人も地平線会議の初めからのメンバーだ。公私ともに友情をはぐくんできたが、残念なことに坂野さん、惠谷さんが亡くなってしまった。(関野吉晴


地平線ポストから

浜比嘉島からはいさい!

■江本さん地平線の皆さんこんにちは。もうすぐお盆。沖縄各地ではエイサー練習の太鼓三線が夜な夜な鳴り響き、チムドンドン(胸ワクワク)のシーズン。ここ浜比嘉島の比嘉でも毎晩エイサー練習です。今年も私は地謡(じかた。三線弾きのこと)で参加です。三線一丁で全員を踊らす醍醐味はなんとも言えませんねえ。エイサー本番は15、16日。空から淳子さんが見ているはずだから、淳子さんに届くように精一杯頑張ります。

◆さて、今回は6月30日に行われた比嘉ハーリー大会のことを少し。数年前、長野亮之介さんを隊長に地平線の有志が集い毎年のように地平線ダチョウスターズとして参加した頃は確か一度だけ予選通過を果たしましたが、最近は全沖縄から強豪が来るようになりレベルが高くなっています。それだけ見応えがある大会になって来ました。今年は47チームがエントリーし、予選通過は8チーム。一位の賞金は3万円。

◆島全体が心踊らす海んちゅの祭典、ハーリー大会は、ここ勝連半島及び島しょ地域では6〜7月半ばまで毎週末のようにあちこちで開催されています。他でも有名な糸満はじめ、漁村では必ずと言っていいほど行われています。夫の昇も毎年同級生チームでエントリーし各地にも遠征していましたが、ご存じのように昇は昨年11月に食道摘出手術を受けたくましかった体はすっかり痩せてしまいました。

◆が、普段から鍛えていたせいか、主治医も驚く回復力でみるみる元気になってきてます。水泳や自転車も始めて、やぎの放牧番も、以前と同じとはいきませんが一緒に頑張ってます。なんでもおいしそうにたいらげていた以前と比べれば今は私の半分以下しか食べられませんが、自分でも工夫してちょくちょく食べて体力を落とさないようにしています。今は石焼き芋づくりにはまっていて、毎朝作って自分のおやつにしたり人にあげたりしています。

◆今年は雨がほんとに多くて、梅雨明けしたあとも雨ばかり。じめじめが大嫌いなやぎたちの世話は大変です。また沖縄はこれから憂鬱な台風シーズンです。これを書いているまさに今も、台風9号の影響で風がごうごう唸っております。まあでもふたりでぼちぼちと、自然にもてあそばれながら、やぎにまみれながら、なんとかやってます。

◆そうそう、5月にNHKワールドが「やぎと山散歩」の取材に来まして、7月に放映すると言ってました。ネットで見られるとか言ってましたが見方がわからないのでどなたか見れたら教えてください。番組名聞いたけど忘れちゃった。確かこの辺を紹介する旅番組とか言っていたかな? ではまた!(浜比嘉島 外間晴美

追記:NHK WORLDの "J-Trip Plan" という番組の7/15回 "An Island Connection in Okinawa & Stunning Beach Scenery" に晴美さんと昇さんが結構長めに出演しているそうです。ネットで1年間無料視聴できるとのこと。

<ヒマラヤ170キロ踏査! グレートヒマラヤトレイルが番組に>

■3月から5月にかけて、久しぶりにヒマラヤに行ってきました。450回報告会でアルピニスト和田城志さんが話してくださったヒマラヤ全域横断ルートにとても関心があり、いつか行ってみたいと思っていました。今回、幸いにもその一部だけ、ネパール東部のマカルー山麓からバルン氷河を経てエベレスト山麓を巡りタシラプツァ峠までの170キロを取材することができました。

◆現在、ネパール政府はヒマラヤ全域横断ルートのネパール区間を「グレートヒマラヤトレイル」と銘打って海外からトレッカーを呼び込もうとしていますが、無理だろうと思いました。登山の素人にはとうてい越えることができない標高6000メートルの急峻な峠がいくつも出てきますから。でも、和田さんの報告にもあったように、8000メートル峰の数々を間近に仰ぎ見ながらヒマラヤを横断する、まさに天空を行くような素晴らしいトレイルでした。

◆撮影を担当してくれたのは、東京農大メコン隊の隊員で、現在はテレビカメラマンとして世界中を飛び回っている石井邦彦さん。そして、世界の優秀な登山家に贈られるピオレドール賞を受賞したばかりの日本を代表するクライマーの中島健郎さん。夜明け前のガチガチに堅いブルーアイスの氷壁をピッケルを打ち込みながらよじ登り、標高6000メートルの山頂から朝焼けのヒマラヤ山脈に向かってドローンを飛ばす。二人は、そんなふうにして2か月の間、ヒマラヤを撮りまくってくれました。そのモティベーションは、「誰も見たことがない画」を撮り、伝えること。シンプルではありますが、その愚直なまでの熱意がテレビ=「テレビジョン」の原点ではないかと思い知らされたロケでした。命がけで捉えた、ヒマラヤが光り輝く瞬間を是非ご覧下さい。(山田和也

      ◆      ◆      ◆

「地球トラベラー グレートヒマラヤトレイル」

第1話 天空の道を行く
 8月24日(土)午後7:30〜8:59  NHK-BSプレミアム
第2話 エベレスト 光の回廊
 9月21日(土)午後7:30〜8:59  NHK-BSプレミアム

◆4K放送もあります。
第1話 9月22日(日)午後8:30〜9:59 9月27日(金)午後4:00〜5:29 9月29日(日)午後2:00〜3:29
第2話 9月29日(日)午後8:30〜9:59 10月4日(金)午後4:00〜5:29 10月6日(日)午後2:00〜3:29
■ 4Kだとなおさらきれいです。うちには受像機はありませんが……。

釧路発長倉商店魂

■行ってきました「長倉商店塾」。朝一番の飛行機で釧路に向かい、駆け足で湿原を訪ねてから塾に向かいました。テーブルには丹精込めて育てたバラとマーガレットが飾られ、細やかな心遣いのもと塾生を出迎えて下さいました。5月の報告者、フォトジャーナリストの長倉洋海さんが主宰する塾、今年で5年目を迎えたそうです。あっという間の3日間、釧路のご実家で聴くお話は格別に心に沁みました。私は第I期を受講したので、メインテーマは「取材と技術」。サブタイトルは「撮り、書き、見つめる〜どう伝え、表現するか」です。難しいかなと一瞬思いましたが、何でも聞いてみよう、体験してみようの気持ちで参加しました。

◆講義の詳細は、釧路へ行ってのお楽しみ。胸にずしんと来た事を一つだけお伝えしたいと思います。それは長倉さんは、いかなる時も被写体としてカメラの前に立ってくれた人への感謝の気持と敬意を忘れたことがない方だという事です。そして後年、撮った写真を携えて再会の旅に出るというスタイルを貫いています。なんと誠実な生き方だろうと思わずにはいられませんでした。釧路の空と海は、高くて広くてロマンを駆り立てるものがありました。町の空気には異国を思わせるものがありました。

◆塾で出会った地元の方たちは皆、さりげなく温かい方たちでした。自宅に招いて頂き、夜遅くまでお喋りした日もありました。長倉さんの骨格は間違いなく故郷釧路で作られたものだと実感しました。パンフレットにこう書いてあります。来たれ、諸君!! 北の地へここで相まみえんいざ!! 惜しみなく自分の経験を熱く語って下さる長倉さんが待っています。あなたもどうぞ「長倉商店塾」へ!? 

◆今回長倉さん、アクシデントに見舞われ右手を骨折中。三角巾姿で熱弁をふるい、休憩時間にはお母様のもとへ。シャッターを押し続けて来た右手が一日も早く良くなりますように。お母さまのご健勝とこれからの撮影行の無事を願って釧路を後にしました。(中嶋敦子

★お詫びと訂正:482号のp3 下から10行目 「地を駆ける」→「地を這うように」に訂正いたします。長倉さん間違えてしまい申し訳ありませんでした。

18年ぶりのねぶた参加

■囃子方の掛け声に引っ張られるようにどんどん身体が前に行く。気が付けば跳人集団の最前列で声を張り上げながら、囃子に合わせて僕はステップを踏んでいた。18年振りの青森ねぶた参加だ。「ラッセラー!! ラッセラー!!」の掛け声に「ラッセラッセラッセラ!!」と追唱する。僕は枯れた喉で、振り絞るように声をあげた。全身から噴き出した汗で浴衣は重く湿っているが、そんなことは気にはならない。時々脳天を貫くような太鼓の音に意識を持っていかれそうになる。

◆一方で慣れない足袋と雪駄の組み合わせのために少し歩くだけで釘が刺さったように足の裏が痛む。でも、そんな痛みも跳ねているときだけは意識の外に追いやられてしまう。それがねぶたなのだ。ただただ跳ね、叫び、そして、煽る。他のものは何もいらない。未来も過去もそこからは零れ落ちていく。あるのは純粋な今だけだ。2年前に安東さんに誘われ、ようやく今年実現した参戦。初めは気恥ずかしくて声を上げることも、跳ねることさえも躊躇った。でも、2日目、どこか遠くでスイッチが入る音がした。そして、夏を追い越すように僕は跳ねた。(光菅修


━━イベントのお知らせ━━

一瞬の永遠のその先へ

〜シリア難民と暮らし、シリア難民を撮る〜
  フォトグラファー 小松由佳

 9月20日(金)19:00〜21:00 豊洲文化センター

■ミクロネシアの航海などを手がける海洋旅行家、光菅修さんがイベント企画してくださり、アフガニスタンの英雄「マスード」の撮影で知られる写真家、長倉洋海さんも対談のゲストに登場いただきます。

 私はシリア難民の夫を持ち、日本でサバイバル的な生活を送りながら、トルコ南部の難民を子連れで取材しています。昨年10月に生まれた次男が1才になるタイミングで、今年秋も2人の子供を連れて現地に取材に向かいます(予定)。子連れでの撮影は被写体に集中できず半分パニック状態ですが、子供にとっては自身のルーツを知る旅でもあり、シリア問題は私にとって自分の家族をめぐる問題です。

 難民と暮らし、難民を子連れで訪ね、撮影する。そうした活動を様々なエピソードを交えてお話します。内戦だけではないシリア、難民というだけではない生き生きとしたシリア人の姿をお伝えさせていただけたらと思います。

 また本イベントは恐縮ながら、今後の私の取材支援を目的として企画いただいたとのことで(光菅さん、事情をおもんばかってくださり本当にどうもありがとうございます!涙)、参加費「1000円+ペイフォアワード(カンパ)」を集めております。

 大好きな写真家長倉さんとの対談もあり、私自身が本当に楽しみなイベントです。皆さま、是非足をお運びください。どうぞよろしくお願いいたします!(小松由佳


ベネズエラの呪い その2

■Zzz@真冬の南半球ペルーより、暑中お見舞い申し上げます。くっそ寒いボリビア僻地を経由、陸路50時間がかりでチリの首都サンティアゴからリマまで一気に国境越え移動。幽体離脱状態のまま、明日からアンデス高地の秘密の氷河湖へ出撃する。落雷と転落水没事故に次ぐ3度目の正直となるかものその前に、前回に続き現地レポートを記しておきたい。

◆今や周辺も含めると、人口1000万人を越えるとされるペルーの首都リマ。調査当日の外出は罰金という厳密な国勢調査を実施している割に、実際の数値は不明なのも魔術的リアリズムの一端か。そのリマ大都市圏で、庶民の足といえば大小の乗り合いバスだ。郊外の砂漠にまで増殖した市街の端から端まで走っても料金は75円ほど、市内なら初乗り35円の格安料金だ。ワンボックスに満席20人も詰め込んでぶっ飛ばす小型バスは別として、大型バス路線で朝晩の通勤ラッシュ時を除く日中の時間帯にいつも出くわすのが車内セールスやらパフォーマーの活躍ぶりだ。

◆アイスクリームや菓子類を販売する普通の物売りはさておき、右や左の旦那さま風の口上を大声でがなり立てながらお布施を集める強要タイプから、ギター片手に自慢の喉を聴かせる吟遊歌手型まで、その顔ぶれは多々あり。小型のリズムボックスを首から下げて、車内ラップで乗客を盛り上げる芸達者やら、延々と自分の不幸を語り並べて同情を引く芸無しで昼間の車内は賑わう。

◆客観的な路上観察結果からすると、乗り込んでからひとしきりパフォーマンスして集金に回るまで、所要時間はバス停3か所通過で約7分。アバウト乗客10人に一人の割でお金を渡している。単価はほぼ全員1ソル=約35円以下だが、投げ銭合計は一回につき200円を超え、比較的効率のよい稼ぎといえるだろう。

◆車外に目を向ければ、交差点で待ち構えているのはまず窓ガラス拭きの少年たち。窓ふきワイパーとペットボトルの洗剤入りの水1本で、60秒足らずの信号待ち時間に手早く仕事を終える、こちらも1ソル仕事だ。さらに目につくのはジャグリングや物まね芸などで、週末はとくに数が増える。基本は日中だけだが、夜になれば火吹き芸など荒業を見せるものまで出てきて、信号待ちの時間を飽きさせることはない。

◆本日午後に目撃した新たなる芸人は、裸の上半身を銀ラメで塗りつぶしたタイツ男の二人組。真冬のリマの寒さにめげることもなく、赤信号の間のわずかな時間に思いがけない組体操風の息の合った技を披露してチップをたんまり稼いでいた。それぞれバス路線や地域で棲み分け、お互いのテリトリーを侵さずに収入の最大化を目指す生存圏が確立されているように見える。

◆ところが、近年その縄張りに侵入してきた新興勢力がベネズエラ難民たちだ。完璧に破綻した経済の故郷を脱出せざるを得ず、たどり着いた先でも何とか収入の道を模索してのことではあるが、地元の先達の職場を奪いつつあるのが現状でトラブルも増加。数が増えるに連れて競争は厳しくなるし、元手いらずの商売だけに誰でも参戦できるのが辛いところだ。

◆IT産業や医療関係などはすでに手に職のある有能なベネズエラ難民を吸収していて、そこには参入できない単純労働従事者が道端で物乞いせざるを得ない状況になっている。最下層ペルー人のさらに下にベネズエラ難民が定着する構図だが、赤ん坊や妊婦をダシに物乞いするヤツらは許せないと怒る貧しいペルー人も増えてきた。そんな状況のなかで急激に増殖しているのが、タクシーアプリを利用したドライバー稼業だろう。

◆ペルーでは90年代初頭くらいまで、道端で売られているTAXIのステッカーをフロントガラスに貼り付けるだけで、その瞬間から誰しもタクシーが出来るという緩い時代があった。かくいう私も、実はその昔タクシードライバーをやっていたことがあった。偶然知り合った日系人の修理工場経営者が、修理の終わった他人の車を勝手に使わせてくれたのをよいことに、まだ車も少なくのんびりした時代のリマ市街をブリブリ走り回ったものである。

◆ペルーのタクシーにはメーターが無く、利用者はまず行き先を告げて料金を交渉しなければならない。人数や荷物量と最短距離を素早く計算した駆け引きが必要となるが、所詮こちらはアルバイト以下のヒマつぶし。乗客に道順と料金を聞いて、などという不埒な運転手稼業から路上観察を始めたのであった。時代は替わり、今や一番お手頃な生業の一つとなっているのがウーバー運転手だろう。車のレンタル代とスマホの地図アプリさえあれば、誰しも簡単に参入できるとあってか、ベネズエラ人ドライバーの多いこと。

◆それに次いで増殖しているのは、自転車配送のフード・デリバリー産業だ。こちらも地図アプリと脚力勝負で、圧倒的に若い男女ベネズエラ人の有力稼ぎどころとなっている。というところで、また紙幅が尽きてしまったので、この続きはまた来月。何とぞ、よしなに。 Zzz-カーニバル評論家@真冬の秘国リマ市より

■カーニバル・トークのお知らせ

久保田麻琴プレゼンツ “ Life is a Carnival “ と題したトークライブを4回に分けて代官山「晴れたら空に豆まいて」にて行う運びとなりました。トークのお相手は第1回目9月30日が「音の錬金術師」こと音楽プロデューサーの久保田麻琴氏。2回目以降、ブロードキャスターのピーター・バラカン氏、ミュージシャンで当方のカーニバル弟子ナオト・インティライミ、アンデスやアマゾンのカーニバル話でドクトル関野氏も登場。お早目のご予約がお勧め、書籍化も予定されております。詳細は下記サイトをご参照ください。

 http://haremame.com/schedule/67179/
 YouTube https://youtu.be/r4LAIhEUh5U


地平線の森

海のジャーナリストの貴重な一冊

『漁師になるには』

   大浦佳代著 ぺりかん社 1170円+税

◆「漁師」を職業の選択肢として挙げるという発想が、そもそもなかった。親が漁師ならまだしも、全くの未経験者が漁師になってそれ一本で食べていけるとまでは、普通はなかなか考えられない。本書は「なるにはBOOKS」という職業紹介ガイドブックのシリーズとして出版されたものなので、漁師を志す人向けに書かれたものだ。しかし読んでみると、漁師という仕事の間口の広さを知ることができるだけでなく、もっと大きなテーマである「自分らしく働く」ということについて前向きに考えられる内容になっていることに驚く。きっと、著者の大浦佳代さんの思いに後押しされているところが大きいのだろう。

◆大浦さんは、5月の地平線通信で、お母さんの介護をめぐる家族の話を書かれている。家族間での感情の持ち方に疲れたり、励まされたりする姿には、私自身も共感するところがとても多かった。また、大浦さんはご両親の姿を見て自分や家族の将来(老後)について考え、自身のジャーナリストとしての仕事の価値についても思いをめぐらせていた。もちろんこれまでにも、仕事について自分の中で葛藤されたことはあっただろう。それでもきっと、大浦さんは海や漁に携わる人たちや暮らしが大好きで、たくさんの感動をもらっているから、この仕事を続けてきているはず。そんなふうに自分の生き方を貫いてきた大浦さんだけに、好きなことで頑張る人たちを応援したい、チャンスをつかんでほしい、という思いがつまった本になったのだ、きっと。

◆前置きが長くなったが、肝心な本の内容としては、日本の漁業の概要についてわかりやすく丁寧に書かれており、もちろん漁師になるために必要な資格や学校なども紹介されている。中でも特に興味深いのは、30代〜40代の10名の若手漁師へのインタビュー記事だ。岩手、宮城、神奈川、静岡、石川、三重、愛媛、長崎、鹿児島。大浦さんが自費で日本全国を取材してまわったという。漁師と聞くと、筋骨隆々とした男性たちが豪快にマグロ漁やカツオ漁に出て、不漁の日も大漁の日もある、自然に左右される厳しい仕事というイメージがある。でも、この本に登場する若者たちには一人ひとりのストーリーがあり、漁師に多様な働き方があることや、思いを形にできる仕事であることを教えてくれた。

◆例えば服飾メーカーから転職し、漁協が経営する定置網漁に従事している方の職場は、就業時間や休日が決められていて、固定給で社会保険もある、まるで会社員のような待遇だ。高齢化が進む業界の中で、若手を入れるために漁協が踏み切った策だという。自然相手の仕事でも、家族を養いながら安定した生活を送れる時代なのだ。

◆漁業には、積極的に新しい技術を取り入れることで状況を変えていける醍醐味もある。夜のサンマ漁にLED漁灯を使用したことで漁獲量が上がり、装備の軽量化による安全面の向上、さらにCO2排出量の削減で環境にもやさしい漁ができるようになったという例が紹介されていた。他にも獲れた魚の鮮度を保持する工夫をして商品の価値を上げたり、女性たちが水産物の加工や販売、食堂経営などで新たに起業していたりと、努力が成果に結びつく面白さが10名それぞれの言葉で語られている。

◆漁業の生産性向上を目指すだけでなく、地域の活性化に漁師が第一人者として関わっているケースもある。親の代からの貝やワカメの養殖業を続けながら、震災を機に漁業体験事業を始め、仲間とともに地域の観光業を支える1本の柱となった方。Uターンした地元で実家の漁業を継ぎながら、海の環境を改善するために国の交付金も利用して魚の住みかとなる藻場を増やす活動をし、小学校での出前授業や体験学習を行ったりドローンで環境調査をしたりと幅広く活躍している方など、人により力を入れている方向はさまざまだ。

◆漁師の働き方について、本書ではまだまだ多様なスタイルが紹介されている。家族経営で加工・販売までを手掛けるシラス漁師、季節ごとに獲物を変えて1人で操業する一本釣り漁の漁師、移住先の漁村で子育てが落ち着いてから海女になった元ダイバーの方など、それぞれが自分に合う働き方をしている。もちろん、どのケースでも「漁の技は言葉で伝えられず、体で教わるしかない」という漁師の職人気質は共通だし、本書でも漁業の苦労や厳しさはしっかりと書かれている。それでも好きなことに携わりながら結果が見える、成果を実感できる仕事というのは、大きなやりがいがあるはずだ。

◆漁業には大まかな形はあるが、どんな方向へ力を入れていくのかは自分次第。大切なのは、「自分が海や魚とどう関わりたいのか?」そして「何をどうしたいのか?」ということだ。信念をもってそれぞれの道で努力する生き方の素晴らしさを、漁師になりたい人だけでなく、自分らしく生きたい人たちみんなに伝えてくれる一冊だと思った。(屋久島 新垣亜美


今月の窓

人と人のつながりの大切さ

 地平線通信を長く読んでいます。地平線会議とは?と考えたとき、冒険を中心に結局人と人の関係をいちばん大事にしているのだなと思わせてくれます。それは編集長とそのまわりの方たちの人となりを感じるからなのかと思います。あるいは記事を書かれている地平線同人のかもしだすその背景にある人のつながりから感じるのかもしれません。でも、その関係はきっと筆者が仕事上、あるいは私的にお付き合いしてきた北東アジアの人びとについても当てはまると自信をもって言えます。

 もし、それがなければ、外交という仕事の末端で這いずり回ってこなかったと思います。2週間もルートだけあって道路のない草原や岩山のガレ場をランクルで走りまわり、川に沿って迂回すべきとか、いやあの山を左からまいた方が早いとか、黄昏の草原で運転手のバヤラーさんと議論して、また走りだすような旅などこりずに何度もしてこなかったと思います。

 そのような旅をしなければできない仕事が北東アジア、特にモンゴルにはあり、場合によっては命がかかるので、しばらくはいいかと思いますが、でもすぐ、ランクルに乗ってしまうのはその先出会う初めての方たちと旧知の友と会うようなな気持ちでなごむことができ、それがあっていい仕事になるからだったと今思っています。

 当時、携帯のない時期で、ウランバートルでルートをGPS機器にインプットして、星辰を頼りの旅より進歩したと思いつつも、当初計画の通信衛星数が原子番号と同一なのでイリジウムといわれ、モンゴルの方たちもそう呼んでいた通信機を頼りに、ルートを苦心してたどり、到着が一日遅れになったりして走っていました。

 そんなあるとき、貴方が通ると聞いたと言ってルート上で半日以上ラクダの乳酒をもって待っていてくれる人がいたり、あなたが来るというので、ウランバートルに帰るのを延ばしましたなどという人がいて、その気持を思うと、いまでもこみ上げるものがあり、草原に帰りたくなります。そして、自分の父が昔あなたにお世話になった、と言われ、幸福感につつまれます。人と人のつながりだなとつくづく思います。

 人と人とのお付き合いのほかに国と国のお付き合いがあり、その仕事は外交という職業になります。しょせん人がやっているのだから、国同士のお付き合いも同じだと私を含めてよく言います。しかし、違うところもあります。いまの外交は近世ヨ−ロッパで生まれ発展し、諸国がしっかり守ってきた「プロトコル(儀典)」というものに支えられたやり方で発展してきており、それにより、相手に公式の礼儀、気持ちを伝えることができて、言葉はいりません。

 それは国同士の「作法」と言えるかも知れません。これは任せて下さいプロの仕事ですと言える種類の作法です。

 北東アジアには北東アジアの外交プロトコルがありました。遣隋使小野妹子もその作法にのっとり607年に波濤を越えて随に到着し翌年608年にたまたま洛陽に滞在していた煬帝に謁見して、例の「……恙なきや」の国書を提出したのだと思います。その礼儀がしっかりしていたからこそ、失礼な国書を持参しても無事に交流が拡大していったのだと思います。

 江戸時代には新井白石が古書に鑑みて、日本側が厚すぎる儀礼をしていることを発見して訂正したり、諸事今の外交でも原則としている相互主義にのっとって改訂しても、儀典の原則にのっとっていたからこそ、恨まれず、朝鮮通信使の来訪が継続したのだと思います。

 前にも書きましたが、1965年国連セミナーに代表代理で出席するため、初めてモンゴルを訪問したとき、モンゴルと日本との関係はモンゴルの理解では戦争状態でした。ですから、私のような政府の役人は空港から牢屋に直行だとおどされて、覚悟を決めて初の外国出張にでました。

 私を世話して下さるモンゴル側の方は到着からモンゴルを離れる前日まで自分の身分をあかさず、接してきました。ホテルで食事時になると電話で「ホーロンド オルヨー(食事しましょう)」と言ってくるのですが、こちらがとぼけて、どなたですかと聞くと「あなたの友達です」と応えるのみで、そのときは薄気味わるかった記憶があります。でも、その方は上機嫌で丁寧、プロトコルにのっとって「便宜供与」をしてくださいました。この方はモンゴルではヤポン(日本)とあだ名されるほど日本人に似ている外務省員のロブサンリンチンさんであることが後に分かりました。ちょび髭がポイントでした。最初から最後まで滞在が不愉快なことはありませんでした。キチンとしたプロトコルでした。

 後に、ツェデンバル国家大会議幹部会議長(元首)兼人民革命党第一書記も出席して行われた1981年のモンゴル革命60周年記念レセプションが政府主催で政府宮殿で開催されたとき、外交団の席へ向かう私の背広の尻尾を後ろから引いてモンゴル外務省の席につかせたのもこのヤポンさんでした。巡回してきたツェデンバル議長も日本の外交官がなぜモンゴル外務省の席にいるのかねとからかい、笑いながらその柔らかい手で握手してくださいました。

 モンゴルの方は冗談が生活に染みつき、いつも人を笑わせる冗談の応酬をして生活を楽しんでいます。とんがったこともユーモアや軽い皮肉の冗談のオブラートにつつんで話します。これは外交団の集まりにも欠かせない習慣で、モンゴルの人びとは天性の外交官だと言えます。私も彼らの輪の中で鍛えられ、私自身が作ったモンゴル語冗談も、多少皮肉があっても暖かく迎えられました。たとえば、「モンゴルでは青信号は進め、黄信号は注意して進め、赤信号は危険だが進め」というようなものです。また、日本の川柳の私のモンゴル訳「孫は来て嬉し、行って嬉し」は大受けでした。

 外交官は場所を問わず、ユーモアや上品な皮肉によって交流して自分の本意を伝える努力をしています。昔や地方はいざしらず、いまの都会や東京はとんがりすぎているように思います。

 先日経産省の事務室に、韓国から背広ネクタイをきちんとつけた2人の紳士が、両国間の認識のずれについて調査意見交換するために見えました。整理されてない、きたなくだらしない印象の大学の部室みたいな部屋で、大学のクラブ活動の部員みたいなだらしない服装の人びとが黙って対座しているのを見ました。しかも北東アジアの常識、お茶のいっぱいも出していません。私は同族として顔から火が出るような恥ずかしい思いをしました。敵対しているときこそ侮られないよう、従来のその国の国民との関係は壊さないよう、プロトコルはしっかりしなければなりません。なんと世間知らずの独りよがりの応対なのかとびっくりしました。近頃こんなに驚いたことはありませんでした。外交の国際常識にまったく無知であることを全世界にさらしてしまいました。明治以後、営々と築いてきた、外交プロトコルが一日で崩れた瞬間でした。

 ところが、これにはおまけがつきます。別の日わが大臣が興奮して駐日大使に「失礼だ」とどなりつけたと報道にあったことです。テレビでは顔を真っ赤にして興奮しておられました。突き刺すような批判をユーモアでつつみ、相手が宿舎に帰ってからなるほどと膝をたたくような言葉が思いつかなかったのでしょう。近隣国は地元です。地元で子孫が暮らせないようなへまな外交を時の政権や政治家がしてはこまります。一般国民や外交関係者が相手国民との間に営々と築いてきた関係を好き嫌いで感情に出して破壊してはいけないと思います。外交は好悪で判断せず正否で判断すべきと思います。

 そういえばわれわれの社会では最近余裕ある対応が皆無になりつつあるようで残念です。随の煬帝は小野妹子を呼びつけて怒鳴ることをせず、「今後無礼なものがあれば上問するな」と命じたそうです。直接使節を怒鳴るようなことは古代のプロトコルにもないようです。

 近隣国との関係を営々と築き、人的財産、知的財産をストックしてきた官民の専門家の財産は、お金にかえられない国民の財産です。そういうことを長年やってきた地域専門の外交官や民間の専門家が、近隣諸国との関係が崩壊しないよう戦後やってきたので今日までもったのだと思います。でも崩れるのは瞬間です。大臣のひとどなりでなのです。

 私が現役時代の職場では、1人でアフリカの数か国を担当されている方もいました。某商社の欧州駐在員が6000人いたといわれた時代、外務省全体で3311人(電話番号と同じ数)の定員を目指していました。本省は1500人ぐらいでした 。ですから私がモンゴルを1人で担当している時期が長かったとはいえ、贅沢と言われたこともあります。

 誤解を受けそうな言い方ですが、私が去ったらどうなるのか真剣に心配してました。後任を育てる意味もあり、また、毎日発生するモンゴル問題の諸案件を上司に報告したいので、と上司に申し出たら、花田さんの頭の中が「日本の情報」で、必要なときに、アウトプットしてくれればいいと言われました。自分を失う危険について担当として心配するという変な状況に追い込まれていました。モンゴル無視、重要でないから普段のアウトプットの需要がないと嘆いたものです。

 ところが、数年前、韓国語専門家で積年の努力で知識の蓄積が多く、情報通で、重要な知己を築いてこられた方が総領事就任1年ちょっとで退任になりました。日韓間の問題で政権のために詰め腹切らされたというのがもっぱらの噂でした。もしそうだとしたら、『韓国』がいっぱいにつまったソフトを日本国民は一瞬で失ったことになります。

 時の政権により日本が継続性のないその場限りの外交をやる時代に入ったようです。最近の日本周辺の諸問題はこれが原因の大部分と私は感じています。退職後、10年続けた北東アジア関係のNPO法人である「NEANET」の会長を5年前に退任したのは、営々と築いたものを政治があっさり捨てるのであきれたからでした。日本の周囲の国との関係は、国民の財産だと思います。それを傷つけ破壊することは一政権がやってはならないことだと思いませんか。そのような関係を築きあげた外交官や多数の国民の方々の営々とした営みによる財産なのだと思っています。北東アジアの地元を大切にしない今の風潮と政権の外交政策を危うく思っており、やがてトランプ氏に「捨て札」として切り捨てられるかも知れません。(花田麿公


あとがき

■ちょうど20年前の1999年8月14日、大袈裟ではなく身の毛のよだつ現場中継に遭遇した。丹沢山系玄倉川の増水による13人もの「川流れ」事件である。わずか1日半で1か月の8割の雨が降った。前日から中州にキャンプしていたキャンパーたちに警察、消防団から再三、撤退するよう警告が出たが、キャンパーたちはいっさい聞かず、気がついた時には取り返しのつかない事態となっていた。

◆「早くヘリを呼べ!」「救助がお前らの仕事だろ」などと暴言に近い言葉が飛ぶが、救助隊は近づけない。7、80メートル離れた中州はみるみる水にのまれてゆき、最後は激しい流れに皆飲み込まれていった。何よりも許しがたいのは、この中に1才から9才までの子ども4人が含まれていたことだ。決死的な救助作業の様子とその結末はYouTubeで「玄倉川水難事故」と検索すれば生々しい現場の様子が出てくるので地平線のみんなはぜひ見ておいてほしい。3.11以後とりわけ「いのちの現場」を考える資料として私は自分にも見ることを強いている。とくに母親が腕に抱いた幼い我が子に口づけする場面は……。

◆今月の報告会のあと、二次会は原則やらないつもりです。めいめいが自由に集うのはいいのですが、報告者の三宅修さん、遅い時間には帰っていたい、とのことなので。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

山は裏切らない

  • 8月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「山を見ると、あの日の阿鼻叫喚の惨状を思い出して、はじめはイヤだったんですけどね…」と言うのは山岳写真家の三宅修さん(87)。敗戦直前の8月5日、学徒動員で働かされていた東京八王子市でのこと。山に囲まれた高尾の鉄道線路上で、一般旅客列車が米軍のP51ムスタングに空襲銃撃された大事件の現場に遭遇しました。

当時三宅さんは13才。バリバリの軍国少年で、日本が負けるなんて全く想定外でした。敗戦後、世の中は価値観がひっくり返り、三宅少年の心には人や社会への不信感が澱のように溜まります。

東京外大のシャム語科に進んだ三宅さんは友人に誘われて山岳部立ち上げに参加することに。最初の合宿で谷川岳のマチガ沢を登り、雄大な風景を見ていた時“あの日”のトラウマがすーっと溶けていくような気持ちになりました。「ヤシの実の殻が壊れるような感じ」でした。

それ以来山にのめり込みます。思いを記録する手段として写真を撮りはじめました。「山で生きていきたい」という思いに取りつかれた三宅さんはいくつかの職を経たあと、知遇を得た詩人・哲学者の串田孫一氏に誘われ、山岳文芸誌「アルプ」創刊に関わり編集長を務め、やがて山岳カメラマンとして独立します。

作品の構図には人や人工物を一切写しこまず、山だけを撮るという方針を貫き、今も現役で山に通う三宅さん。地平線会議が発足して40年が経つこの8月、三宅さんに戦争と山と写真家人生について語って頂きます。必見必聴!


地平線通信 484号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年8月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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