2019年6月の地平線通信

6月の地平線通信・482号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月12日。梅雨入りしてしばらく涼しい日が続く。6月は兵庫県豊岡市の植村直己冒険館への旅から始まった(8ページ野地耕治さんの原稿参照)。翌2日、豊岡から日本海に向かった。2日後、長野市で梅棹忠夫山と探検文学賞の授賞式がある。東京に帰らずに少し余計な旅をしつつ長野に向かうことにした。ありがたいことに冒険館の吉谷義奉館長と元館長の正木徹さんが車でつきあってくれた。

◆冒険館は、植村直己さんの偉業顕彰を目的として1994年4月に開館した。地平線会議では20年前の99年7月、写真展「地平線発 21世紀の旅人たちへ」をこの冒険館でやり、7月24日には「冒険の瞬間」のテーマで237回の地平線報告会を開かせてもらっている。植村直己さんの同級生だった正木さんとはその当時からの付き合いだ。吉谷さんと言い、遠い冒険館との付き合いがこんなに身近な状態で続いて来たのは、1にも2にも人とのつながりである。

◆舞鶴に寄り、海抜325メートルの五老スカイタワーに登った。日本海を見はるかす景観を解説する図面に「ナホトカ方向」と書かれている。影もかたちも見えないはるか彼方のナホトカがどうしてここに? 舞鶴は戦後間もない1945年10月、最初の引揚船「雲仙丸」が引き揚げ者たちを輸送したのをはじめ「興安丸」「白山丸」などが毎年のように日本人たちを運んだ。きちんとした引揚者名簿がなかったため、多くの家族が舞鶴に集まり、期待をこめて船を待った。「母は来ました 今日も来た この岸壁に…」あの当時、二葉百合子の歌う「岸壁の母」のメロディーが日本中に流れていたのを私は覚えている。1958年9月7日、最終引揚船「白山丸」の入港まで13年間にわたり66万人もの引揚者・復員兵を舞鶴は迎え入れた。私はいま、ようやくその埠頭に立ったのである。

◆小浜で若狭名物の鯖の「へしこ」を買って土産とした。青魚に塩を振って塩漬けにし、さらに糠漬けにしたもの。若狭地方、丹後半島の伝統料理で、保存食として重宝されている。帰宅して焼いて試食すると確かに香ばしく少量でご飯がいくらでも食べられる。館長たちと夕食を取って別れた。若狭地方は通過したことがあるだけで、ほとんど知らない。アメリカの前大統領が登場した時は大いに湧いた小浜市だが、トランプとなったせいか夜は駅周辺もなんともさびしい。明朝の電車の時刻を調べに駅に行ったら、7時過ぎというのに駅員は1人もいなかった。しかし、翌朝小浜から敦賀に向かう電車から見る風景は素晴らしい。ちょうど田植えを終えたばかりの時で車窓には緑の世界が広がった。

◆3日午後、長野市の信濃毎日新聞本社で第8回梅棹忠夫山と探検文学賞の授賞式が行われ、気鋭の作家、佐藤優さんが『十五の夏』(幻冬社刊)で受賞した。マルキシズム全盛の時代、どうして宗教者があれほど活き活きしているのか、が佐藤さんがロシア語とソ連世界にのめり込んだきっかけだったという話が私には興味深かった。ちなみに彼は同志社大学大学院神学研究科を修了して外務省に入省している。ソ連という時代をまったく知らない人が増えているいま、1975年、高校1年の夏、42日間をソ連、東欧の旅に費やした上下2巻、900ページの記録は多くの人に読んでほしい。

◆きのう11日、この通信の編集を8割方終えたところで神奈川県葉山町に向かった。1年前「風来坊のビジョンクエスト」で地平線に登場、事故で倒れていた鹿を素早くさばいて仲間たちと食べた逸話など豪快な自転車旅の話を披露してくれた青木麻耶さんからの誘いだった。あの麻耶さんが「本当にすごい子。ぜひ会ってみて」というのだから行くしかない。数日前ソロモン諸島から帰国して、急遽11日に葉山の個人宅で麻耶さんと2人のお話し会が企画されたのだ。チャンスを逃すことはない。海を見はるかす高台の家に近藤瞳さんは15キロほどのザックを背負って現れた。「どんな状況でも生き抜く対応力がほしい。絶賛ホームレス生活5ヶ月目突入な35歳独身」ああ、このザックがこのひとの全てなのだ、と小さく感動した。

◆1986年新潟県生まれ。中学から始めたバドミントンで福島県代表に。バドミントンに関わる人生を送ろうかと考え始めた矢先、衝撃的な出逢いが。「タイタニックを見てディカプリオに一目惚れし、あっさりバドミントンを捨てる」こういう紹介だけで目はテンになる。「大学は英文科へ。ディカプリオに逢うべく20歳のときに初海外アメリカへ。ディカプリオにもだけど、完全に旅にもはまった。内定を取り止め、自由を選び、ふらふらと旅をすること15年……」これは、地平線に来てもらうしかない。(江本嘉伸


先月の報告会から

マスードを巡るオデュッセイア

長倉洋海

2019年5月24日 新宿区スポーツセンター

■2017年、東京都写真美術館で「フォトジャーナリスト長倉洋海の眼地を這い、未来へ駆ける」が開催された。巨大なブズカシ(注)にしばし目を奪われたのち、会場に足を一歩踏み入れるとそこは長倉洋海さんの写真家人生の集大成の場、まさしく晴れ舞台だった。草の上に寝ころび読書する(あの写真)をバックに、うっすらと目を潤ませながらマスードを語る長倉さん。ギャラリートークの来場者皆、長倉さんの虜になった。

注)ブズカシ:馬上から山羊を奪い合う、アフガニスタンの伝統的スポーツ、敗者を尊敬するのが美徳

◆あれから2年、待ち焦がれた長倉さんが地平線報告会に登場。なんと1989年以来との事。今回は前半をマスードとの関わりを中心に、後半はフリーランスに転じてから今日までを駆け足で辿る。用意して下さった写真は240枚。話の流れからどれも外せないからとの事。

◆長倉さんは同志社大学探検部出身。在学中アフガニスタン遊牧民調査へ。それが彼の地とのご縁の始まり。卒業後、通信社に就職。在職中にボーナスをためて、撮影機材を購入。3年後の1980年、「戦場カメラマンになる」ため退社。若き長倉青年の思い詰めた姿が目に浮かぶようだ。フリーランスになって最初に向かった先はローデシア(現ジンバブエ)。厳しい人種差別政策で世界に悪名を轟かせていた。

◆黒人による抵抗が激化、初の選挙が行われても、大方のジャーナリズムの読みは戦争になるだろうというものだった。長倉さんも劇的瞬間を撮るぞと現地へ乗り込んだ。しかし意外にも政府と反政府ゲリラが協定に調印、平和裏に共和制に移行。世界的ニュースを撮り、世間の耳目を集めるどころかローカルニュースになってしまった。仕方なく次なる現場へ。200万の難民を生んだソマリア、そして、エチオピア領オガデンの西ソマリア解放戦線に従軍。イギリスのテレビクルーも一緒だった。

◆14歳のゲリラ少年兵の射ぬくような眼差しが心に突き刺さった。言葉もままならないため、何故兵士になったのかを聞くことも出来ない。ここで「自分は目の前の物を撮るしかないんだ」と思い知った。その後はベイルートへ。パレスチナ難民を取材するのだ。当時ソ連からかなりの援助を受けていたアラファト議長率いるPLOは、キリスト教徒からもシーア派の民兵からもかなりの反感を買っていた。結局ベイルートからの撤退を余儀なくされた。

◆その後長倉さんが遭遇したのは、キリスト教右派によるジェノサイドだった。キャンプまで4時間ほどと聞き、車に飛び乗った。キャンプはすでに包囲されていた。翌朝不気味なほど静寂に包まれているキャンプにやっとこ入りこんだ。泣き叫ぶ女性、100体近い遺体、レバノンの赤十字社がすさまじい臭いを放ち、膨らんだ体に消毒液を吹きかける。「写真を撮れ」「伝えてくれ」と訴える目がそこにはあった。デマが流されると生き残った人々が逃げ惑うのだった。

◆1982年、戦場ばかり求めて、ここでもない、ああここでもないと旅を続けていた長倉さんに転機が訪れた。自分にしか撮れない写真を撮りたい、一箇所に腰を据えて撮影したい。向かった先は、ファラブンドマルティ民族解放戦線とアメリカが支援する政府軍が戦闘を交える中米エルサルバドル。内戦下のこの国に五か月滞在した。ペドロという男と出会った。彼から勧められた人権擁護委員会の粗末なオフィスを訪ねた。そこには「死体のアルバム」が用意されていた。

◆政治犯・行方不明者の死体が細部まで克明に記録されていた。海辺の町ラ・リベルタでは太平洋をさまよった挙句、海岸に打ち上げられた死体を目撃。ひとつで繋がっている海の向こう側で起きている現実。この事に言葉にならないものを感じた。薬莢と血の海、普通の神経では生きてゆけない。マスードに次いで長倉さんの被写体として知られる少女、ヘスースと出会ったのはサンサルバドルから数十分離れた難民キャンプ。長倉さんは彼女を20年取り続けた。支援は最初だけ。難民は次第に忘れ去られていき、それにつれてキャンプはスラム化していく。しかし彼女にとってこの地は人生の宝石箱。思い出が詰まった大切な場所。長倉さんは与えられた場所で懸命に生きる人々の暮らしの変遷を撮ることをライフワークとしたいと願うようになった。見逃していたことの何と多い事よ。エルサルバドルが長倉さんの原点となった。

◆エルサルバドルから帰国した翌1983年春、アフガニスタンへ。パキスタンのペシャワールでつてを求め右往左往してみたが埒があかない。パンシールエージェンシーで出会った、足を戦闘で失った義足の戦士の誘いに乗り、帰郷する彼らについてペシャワールを後にする。12日間かけてヒンドゥークシュ山中の岩小屋に泊まり、4800mの峠を5つ越え、やっとの思いでパンシール峡谷の入り口ショタルの町に辿りついた。

◆ジョン・リードの『反乱するメキシコ』に登場するメキシコ革命の指導者フランシスコ・パンチョ・ビリャを知り、人の心に迫るものを撮りたいと渇望していた。1980年の取材では、首都カブールの目前まで行ったが思うような写真は撮れずじまいだった。他のジャーナリストに水をあける事ばかりにとらわれていた。今回何を隠そう、英雄の誉高いアフマド・シャー・マスードに会いに行くのだ。

◆コネなど皆無だが、当たって砕けろでここまでやって来たのだ。彼に肉迫するべく、インタビューを試みた海外のジャーナリストは幾らもいたが、長倉さんは違う。インタビューしただけでは知れている。同い年の若者としてあなたを撮りたい。あなたから見た戦争を伝えたい。その事を通じて日本に届くことがあるだろう。やっとマスードに会えた時、その事を必死で伝えた。一緒に暮らしたいとも。

◆彼から「申し出有難う」の言葉をもらったのは、日本を出てから47日目バザラックの町でだった。その年は100日間行動を共にし、以来彼が亡くなるまで17年もの間親交を深め、過ごした日数は500日を超えた。マスード曰くアフガニスタンは「孔雀のような国」。美しい羽根をもっているが故に多数の侵略者がやってくる。シルクロードの十字路であるこの国を制するものは、中東・アジア・ユーラシア延いては世界を制する。

◆地政学的にロシア・中国・イラン・サウジアラビアとバックヤードにいくらでも睨みをきかせることが出来る場所なのだ。それ故大国の介入が続き、金と武器の投入により祖国は破壊尽くされた。長倉さんと出会ったとき、マスードは若干29歳、一万人以上のイスラム兵士を率いて、何度もソ連の軍を破っていた。2つの州の行政責任者でもあり、まさしく「国民的英雄」。当時、イスラム戦士側には9つのグループがあったが、彼の元には、多くの戦士がゲリラ戦を学ぼうとやってきていた。

◆後にマスード暗殺を企てたヘクマチャールは大学の先輩で、彼を含むリーダーは皆国外にいて、国内で戦うマスードは人々の信頼も厚かった。農民はザバルディー(郷土防衛隊)とマターリック(遊撃隊)に分けられていた。ラジオ局も開局していた。軍の中枢にもエージェントを多数送りこんでいた。マスードが慕われている一例をご披露。例えば老人が道端で手を挙げて頼み事があるといえば、直ちにジープを止めて話を聞く。マスードは年寄りを大切にする。

◆ジープはソ連から分捕ったボロボロなもの。エンジンは良さそうだが、乗り心地は最悪、道はボコボコ。今日はどこへ行くとは決して言わない。いつも助手席にさっと乗り、初めて行く先を告げる。ハビブとアモン二人のボディガードがもたもたしていると、さっさと出発してしまう。そして二人の腹心と120kmあるパンシールの5か所の執務室を回るのだ。夜皆が寝鎮まった後、一人で作戦を練る事もしばしばだった。

◆本の好きなマスードが読書に耽るのもこんな時間。詩を好み、チャーチル、ビクトル・ユゴー等々。こんな時マスード家の執事が、手招きして部屋へ入れと言う。すいませんと言ってもマスードは意に介していない様子。こんなに懐深く入り込む事が出来たのは驚きだ。毎度ほとんどカメラを意識しないマスード、恐るべき集中力の持ち主だ。写真を撮り終えて有難うと言って部屋を出る。こうしてマスードの素顔に迫る貴重な作品が生まれたのだ。

◆長倉さんもマスードの部下たちに慕われていて、良い関係を築いていたことが窺える。同じもの食って、口開けて笑って、泣いたからなあ。そういえば長倉さんのあだ名はオマル。「アラビアのロレンス」のベドウィン部族長アリ役を務めたエジプト出身の俳優、オマル・シャリフだ。アレクサンドリアのヴィクトリア・カレッジ時代のクラスメートがエドワード・サイードだ。

◆この大峡谷をソ連軍が制するのは容易なことではない。陸戦がだめならと空戦、ヘリボーン作戦に出る。お互い3か月、6か月、1年と我慢比べ、消耗戦になった。双方とも疲弊していた。こんな事をしていたら父祖の地が完全に破壊尽くされて、いずれ戦いに勝利する日が来たとしても住民が暮らせなくなる。ソ連と休戦協定を結んだ時には非難の声も大きかったが、マスードには未来を見据える目と頭脳があったのだ。

◆長倉さんがマスードと行動を共にすることになった初日、馬に乗ったベストショットを撮らせてくれた。これはドイツの写真ニュース誌「シュテルン」の表紙を飾った。軍服工場へも案内してくれた。これはいいぞ、じゃんじゃんいい写真が撮れるぞ、とぬか喜びしたのも束の間、翌日からはマスードを逃すまいと追いかけるのが精いっぱい。忙しいので他人をかまっている暇などないのだ。

◆こんな忙しいマスードだが、実は洒落もの。長倉さん曰く、スカーフの巻き方がなんか決まっているんだよなあ。アフガン帽、パコールもちょっと斜に被っているのもそう。こういう話を聞くと救われる思いがする。逆に、マスードは長倉さんをどう思っていたのだろうか。同い年ですから。マスードは敬虔なイスラム教徒、パンシール川で身を清め、仲間との礼拝の後、ひとりでの礼拝をおこなう事も多い。規定の礼拝後の祈りは自分の気持ちを神に伝える事が出来るのだそうだ。

◆良きイスラム教徒、神からの贈り物、良き世界人。これみなマスードを指している。選挙を行い、国民の声をしっかり聞く、マスードの政治モットーだ。優れた指導者であるマスードは、好奇心旺盛な人物でもあった。あるとき豚肉の味はどんなだ?酒を飲むとどうなるとのか?と質問が飛んできた。豚は安いです、牛は高いけどうまいですと必死に煙に巻いた。豚を食べていることも酒をのんでいることもわかっていて、帰れとは言わない。優れた司令官としての資質なのだろう。

◆月日は流れ、1992年アフガン情勢が大きく動き(マザーリシャリーフ無血陥落)、長倉さんは4月パキスタンに向かった。さらに情勢は急展開、「マスードのカブール入り」が迫っていることを知って、貨物便に無理やり乗り込ませてもらい、カブールに降り立った。そして4月29日、3000人の兵士を率いてカブール入城を果たすマスードの姿をカメラに無事収めた。マスードとの再会は、戦士の運転手が乗って待っていなさいと言われた車の中。あの写真がモノクロなのは、直前にフィルム泥棒にあったから。勝ち馬に乗じた輩も多数カブール入りし、中にはフィルムを抜き取る輩もいたのだ。

◆いつもアフガニスタンを離れるとき、マスードとはこれが最後だろうかというセンチメンタルな気持ちになった。しかし本当に亡くなるとは思っていなかった。用心はするけれど、命を守る事に汲々としてはいなかった。2001年9月9日、マスードは暗殺されてしまった。多分アルカイダの手によるものと、長倉さんは踏んでいる。山本美香さんのおつれあい、フリージャーナリスト佐藤和孝氏からの電話でマスードのことを知らされた。テレビのインタビューに答える長倉さんは見るに忍びなかった。マスードと長倉さんの邂逅。運命の出会い? 親友? 惚れてしまった? 民族自決が何より大切ということ、大国の介入を受けない自由な国の建設を目指すマスードへの限りない尊敬の念。なんと二人の関係を表現したらよいものか。人との出会いとは何なのか。自分の周りで何かを感じ、今を人間として正しく生きていきたい。これからも多くの人との出会いを通じて、写真を撮り続けていきたいとおっしゃる長倉さんだった。

◆後編は駆け足でのスライドショー。長倉さんの原点、エルサルバドルで出会ったヘスース、マリのグランドモスクと市場、今冬訪れたシベリアのネネツ族(3家族で1000頭のトナカイを飼っている。長倉さん寒そうだった)、カンボジアのアンコールトム、アンドレ・マルローが国外持ち出しを図り逮捕され、ニュースになったレリーフ、クメールルージュ、タクラマカン砂漠、中央アジアの宝石サマルカンド(マスードの祖先ゆかりの地、長倉さんはマスードの背中を追いかけているのか、ご本人の表現では新しい発見、出会いを求めている)、ウズベキスタンのタシケント(ヘレニズム文化に触れる旅)、タジキスタン側からのアムダリア(アフガン側とタジキスタン側に間違いなく同じ風が吹いていた、シルクロードで繋がっている同じ民、国境とはなんだ)などなど。時間が足りなくて勿体無かった。

◆今春、長倉さんはパンシール渓谷を訪ねた。「山の学校」訪問、アブドラー、マスードの忘れ形見アハマッドとの再会。イギリスから戻ったアハマッドが「マスード財団」を切り盛りしているという。マスードが最後の一年を過ごした自宅を訪ねた。長倉さんの「地を駆ける」がこちらを向いて書棚に納められていた。ジーンときた。マスード廟の隣にはカフェができていた。若い人の感覚でいろいろやればよいのかもと長倉さんは言った。マスードの思いをかたちに出来れば嬉しい。子どもたち、アハマッドを見守る長倉さんは間違いなくお父さんの顔だった。

◆報告会の二日後、小松由佳さんの写真展を訪ねた。彼女が駆け出しの頃、長倉さんから贈られた言葉を教えてもらった。「一生貧乏でいい。一生撮り続ける」。何だか清々しい。(中嶋敦子


報告者のひとこと

惹き付けられたのはマスード

 アフガニスタンに10万のソ連軍が侵攻したのは1979年12月24日。その精強なソ連軍をついには撤退に追い込んだ中心人物がアハマッド・シャー・マスードだった。「パンシールのライオン」と呼ばれる、その英雄が29歳だと知った時、心は決まった。同年齢のマスードが「生きること、そして、死ぬこと」をどう思っているのか。彼の心に迫った写真が撮りたいと彼の拠点パンシールに向かったのは1983年だった。以来、17年間に渡り、500日を共に過ごした。

 私が惹き付けられたのは彼の人間性。戦いだけでなく、病院と学校作りに尽力した。ジープで移動中、老人が手を挙げると必ず車を止め用件を聞いた。少年が戦士に志願してくると、「学校に行け」と応じなかった。夫を殺された仇を取って欲しいという母子がジープの前に現れた時には「報復からは何も生まれない」と懇々と説いた。グループ間の対立で死者が出ている地方に乗り込み、相手の司令官を説得したこともあった。ロケット弾を腰に差し込んだ山賊のような男が徹夜の会談を終えて表に出て来た時には、マスードの肩に手を回し、笑顔だった。

 民族間の対立を乗り越え、大国や周辺国の介入を排し、国土の再建を目指したマスードだったが、2001年9月9日、米国での同時多発テロの2日前、アラブ人の自爆テロに倒れた。「彼には神の加護がある」と思っていたから信じられなかった。辛く悲しかったが、彼の「私が死ぬ時、それは神の意思だろう。ただ、それまでを懸命に生きたい」という彼の言葉を自分に言い聞かせた。

 目の前の現実に心奪われるのではなく、いつも先を見据えていたマスード。彼に「あなたにとっての勝利とは何ですか」と尋ねたことがある。その問いに「各勢力が戦争では解決しないと知り、皆で話し、平和を作り、国民が選挙によって将来を決める。それが私にとっても最大の勝利です」と答えてくれた。

 そんな彼の姿や生き方は、私に大きな影響を与えた。2004年から4年をかけシルクロードの旅に出たのも、マスードの後ろ姿を追ってのことだった。彼がどうして私を受け入れてくれたのか。その本当の理由はわからないままだったが、シルクロードを旅すればわかるかもしれないと思った。

 アフガニスタンとウズベキスタンとの国境を流れるアムダリアの河畔では、国境を超えて吹き抜ける風に、マスードが感じていたであろう「中央アジア」を想った。マスードの祖先の地である「サマルカンド」は「青の都」とも呼ばれるが、青タイルのモスクと空がまっすぐに宇宙と連なっていると感じた。タシュケントの博物館ではグレコローマン風のガンダーラ仏像はマスードによく似ていた。

 マスードが亡くなって今年ではや19年が経つ。今もマスードの写真を貼った車が走るカブールの街で、16年ぶりにマスードの息子アハマッドと会った。勉強していたロンドンから戻り、マスード財団のリーダーとして活動を始めたのだ。父親にそっくりのアハマッドと話していると、若い頃のマスードかと錯覚しそうだった。「アフガニスタンの若い人々に父の言葉や思いを伝えたい。是非、協力して欲しいと」と彼は話した。自分の欲ではなく、真摯に国の未来を想ったマスード。彼の生き方は、アフガニスタンの人々への大きな財産であり、将来への道標になるに違いない。私がこれから成すべきことが、アハマッドと会うことで見えて来たような気がする。(長倉洋海


際立っていた「長倉洋海の眼」

■長倉洋海さんの話は、上京して地平線報告会に通うようになってから聞いた中でも数本の指の一つにあげられるほど秀逸な回でした。お話しの主題は、アフガンのチェとも呼ばれるマスードとの交流を大量の写真とともに語る、というもの。通信最終ページのイラスト予告に書いてあった「今もマスードと新しい交流が続いているんです」の真相が最後に明かされたのには鳥肌が立ちました。9.11の直前に殺害されたマスードは幼い息子を遺し、若き日のマスードそっくりに育った彼の最近の写真が、そのすべてを物語っていたのです。

◆毎回、学生たちと予習ゼミをして報告会に臨むようにしています。ゼミ生たちはピュリッツァー賞もロバート・キャパも土門拳も、知らない、といいます。私は「ちょっとピンボケ」に感化された田舎のマセ・キャパ小僧でしたけれど、さすがにこれはヤバイと思ったので、フォトジャーナリストのことを理解する周辺情報としてゼミ生たちに念押ししておきました。

◆報告会の会場で買い求めた写真集「長倉洋海の眼」の巻末に、駆け出しの頃はピュリッツァー賞やキャパ賞をとって一気に世界の頂上に駆け上がることを夢見ていた、というふうな回想が書かれているのをみつけて、そうか!とも思いましたが、話を聞いてしまってからは、もうそれ充分でしょう、と言いたくなりました。

◆予告が載った地平線通信には、偶然か必然か、小松由佳さんの写真展の案内も掲載されていました。「これも注目!」とゼミ生にお勧めしたのはいうまでもありません。小松さんが師と仰ぐのが長倉洋海氏だと聞きます。当夜は彼女の写真展オープニングパーティーと重なったため、師弟同席が叶わず残念でした。岡村隆さんの情報によると、小松さんから長倉さんへの「ラブレターを預かってきた」ということも当日にはあったらしいです。

◆アンセル・アダムスのような風景写真とちがって、ジャーナリズムの写真は、そのストーリーと一緒に見るとその真価に触れられるもののような気がします。今回上映された写真は、「長倉洋海の眼」に納められたものが多く、ページをめくるたびに今回の話の余韻に浸ることができそうです。

◆江本さんが最後に「こんな話は普通じゃなかなか聞けませんよ」とコメントされていました。そういう言葉をちゃんと受け取ることができるようなゼミ生を育てるのが今の自分の役目なんだろうな、と思っています。ゼミでは「カリスマの懐に飛び込んでいって日常を撮らせてもらうようになるには、その写真家の人間性も重要、そこも実際に本人をみて感じるように」とたいそうなことを指導していたのですが、同様のことを江本さんもコメントされていたので、ちょっとホッとしたのもお恥ずかしい事実ではあります。(澤柿教伸

貴重な報告会、胸がいっぱいになりました!

■昨日は貴重な報告会に参加させていただき、ありがとうございました。長倉さんのお話が終わった後は、本当に胸がいっぱいになりました。たくさんの素晴らしい写真、それにまつわるエピソード。その一枚一枚の長倉さんの丁寧なコメントにより、見た事のない色んな世界にどんどん引き込まれていきました。実は高校生の頃ムジャーヒディーンに憧れていたという過去もあり、それから全く別の道へと進んでしまい今に至るため、今回やっとあの戦士たちと生活を共にしたと言う長倉さんの生のお話が聞け、読みかけの本のページをやっとめくったような貴重な時間でした。

◆長倉さんの最後のお話も良かったです。マスード司令官もヴィクトル・ユゴーを読んでいたのを帰宅してから知り、今ちょうど読んでいる『九十三年』という小説に出てくる乞食テルマルクの言葉として「貧乏人とお金持ちがあるってことが、やっかいのもとでございますよ。こいつが、いろんなやっかいを生むのでございます。少なくとも、わたしめにゃ、そんな気がいたしますので。貧乏人はお金持ちになりたがるのに、お金持ちは貧乏人になりたがらない。そこが、いちばん肝心な要だと思います」と書かれており、「富の平等よりも、魂の平等を」が深く心に残りました。

◆こうしてみると世界中に真の人格者という人は散らばっており、良い思想は空(くう)を飛び、それをその人格者たちはキャッチしその地に伝承していくものなんだと思いました。なぜなら、自分自身の出会いの中にも、人望の厚い素敵な人は度々存在していて、だいたいみんなチャーミングです。高校生の時に、長倉商店塾に行きたかったなぁと憧れつつ、もっとお話も聞きたかったです。またいつかの楽しみにしております。ありがとうございました。(モリサチコ 尺八奏者)

16年前の写真展の思い出……

■僕が長倉さんの写真に初めて触れたのは、大学院修了間際の冬だったと思う。それは宮城県立美術館で開催されていたマスードの写真展だった。厳しい表情を浮かべながらも、どこか優しい雰囲気の漂ってくるマスードの写真達。僕は長倉さんの写真に魅せられ、何度も写真展に足を運んだ。そんな16年前の出来事を思い出しながら、僕は投影されるマスードの姿を眺めていた。スライドを繰りながらマスードとの思い出を語る長倉さんは、戦場の悲惨さではなく、そこに生きる人間の物語を切り取るような写真を撮りたいと彼と生活を共にしたという。

◆僕は流れるアフガニスタンの写真を見つめながら、いつ終わるとも知れない戦火の最中にいたマスードに想いを巡らした。厳しい表情をしたマスードの眼差しの奥に安らぎのようなものを感じたのは、僕だけだろうか。長倉さんは彼を「壁をつくらない人だった」と評した。僕のサタワル島出身の友人も壁をつくらない人達だ。周りを峻険な山々や大地に囲まれたアフガニスタンとミクロネシアの離島に生まれ育った者達の気質が似ているのはなぜなのだろう。マスードは生前「死はいつ来るか分からない。ただそれまでに懸命に生きれば神も喜ぶ」と語っていたという。「大切なのはどう生きるかだ」とも。

◆マスードの死から時が経った今、長倉さんはマスードの息子とアフガニスタンの孤児達を支援する活動をしている。マスードの眠る墓標の側にカフェを営む息子の表情は柔らかい。僕は彼の瞳の中に「マスードという生き方がアフガニスタンには確かにあった」ということを見出すことができる気がした。そんな今回の報告会は、ひとつの時代だけでなく、次の世代を撮り続けること、関り続けることで見えてくるものがあると感じさせてくれるものだった。2次会の北京で僕は長倉さんに挨拶し、16年前の展覧会の思い出を話した。

◆こうして写真の持つ可能性を教えてくれた本人から旅の軌跡を聞く機会を持てたことをとても嬉しく思う。帰りの電車の中で、僕は早速釧路で開催される長倉商店塾の夏期講習に申し込んだ。いつか長倉さんのような物語性を感じられる写真を撮ってみたい。(光菅修


先月号の発送請負人

■地平線通信481号はさる5月15日印刷、封入作業をし、16日新宿局に渡しました。今号は18ページとなり、皆さんの協力がありがたかったです。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 伊藤里香 高世泉 中嶋敦子 兵頭渉 武田力 青木麻耶 江本嘉伸 落合大祐


地平線ポストから

歩く道「みちのく潮風トレイル」全線開通と私の思い

 6月9日、宮城県名取市で「みちのく潮風トレイル」の全線開通記念式典が、原田環境大臣、4県28市町村首長が列席し盛大に執り行われた。みちのく潮風トレイルは津波が襲った三陸沿岸を貫く一本のロングトレイルだ。三陸復興国立公園を北は青森県八戸市蕪島から南は福島県相馬市松川浦までつないだ総延長1000kmに及ぶナショナルトレイルになる。

 北から辿ると、文字通り潮風を肌で感じながら歩く蕪島から種差海岸。海岸線から一気に標高740mへ登り太平洋を一望できる階上岳。岩手に入り“北限の海女”で知られる小袖海岸、海のアルプスと呼ばれ150mの断崖が連なる海岸線。潮が30m吹き上げる潮吹岩、極楽浄土に例えられる浄土ヶ浜の美しさ、本州最東端の魚毛ヶ埼や船越半島を辿る難易度が高いルート。先人たちの往来の記憶が刻まれた入江の集落を結ぶ「三陸浜街道」。鉄や金の鉱山跡。内湾の養殖。人の生業の風景。宮城に入り田束山、石投山から望む里山、牡鹿半島の小さな浜の暮らし、東奥三大霊場・金華山、網地島、猫を大漁の守り神とする田代島、日本三景松島湾の浦戸諸島の島々を歩く。陸奥の歴史を刻む多賀城址跡。伊達藩が築いた貞山堀を南下。標高200mの殿後稜線から海岸線を望み、福島に入り鹿狼山から野馬追の中村神社、相馬市街地を抜け南の起点の松川浦に至る。変化に富み、様々な暮らしや生業を感じ、地域の方と触れ合いが生まれる道がつながった。

 遡ること11年前の2008年、私は岩手・宮城内陸地震で被災し、避難指示で山を下され、「くりこま高原自然学校」という活動拠点を失った。ようやく避難指示が解除されて山に戻り、拠点を再建しようとした矢先の2011年3月11日に尋常でない揺れに襲われた。

 そして再びくりこま高原での活動を休止し、全国の自然学校の仲間たちと共に沿岸部の被災地の支援に奔走した。ある日、環境省東北地方環境事務所の当時の国立公園課長が私を訪ねてきて、グリーン復興プロジェクトの全容と共に「みちのく潮風トレイル」へかける課長の熱い思いを知る事になった。そして、被災地に構想を実現する為に微力ながら関わろうと私も決意した。

 環境省が歩く道をつくるという構想は50年前、当時環境庁参事官であった大井道夫氏がアメリカのアパラチアントレイルにならってつくった「東海自然歩道」から始まる。新幹線が開通し物も人もめまぐるしく動き始めた時代、この歩く道は人間性の回復をはかる一つの手段として、新幹線と全く反対の発想から始まったと大井氏は記している。しかしその後、九州自然歩道など全国に自然歩道網が設置されたが十分に活用が広がらなかった。

 そして、日本にロングトレイルの必要性を訴えて、信越トレイルの設置を進めてきた加藤則芳氏がいた。彼はカナダのバンクーバー島ウエストコーストトレイルのように海岸線を通る道を三陸海岸につくる構想を描いていた。日本にも歩く文化を醸成したいという加藤氏の強い想いを環境省が受け、震災の直後からグリーン復興の取り組みのひとつとして始まった。

 私は東北に生まれ東北に育てられた。東日本大震災で被災した三陸の海と地域には強い思いがある。震災で多くのモノとコト、そして尊い命を失ったこの地に、この悲しいできごとを乗り越えてきた地域の人々をつなぐ1本の道ができた。全線開通に関わってきた人たちの想いを込めた「みちのく潮風トレイル憲章」。6つの憲章で何より違うのが、「震災をいつまでも語り継ぐための記憶の道」という一文だ。

 さる4月19日にトレイルの全線の管理・運用を担うヘッドクォーター「名取トレイルセンター」が名取市閖上(ゆりあげ)地区に開所した。震災以前には、多くの人が暮らす家があり町があった。そしてここでも多くの尊い命が失われている。センターで開所準備を進めていた職員が先日私に教えてくれたことがある。

 センターを訪れた高齢の女性がいた。震災前はこの敷地の一角に家があり住んでいたそうだ。自分が暮らしていた土地に新しい建物が建ち、どんな施設になるのか知りたくて息子さんと二人で寄ってくれた。閖上の昔話をし、旅が好きだからトレイルも歩いてみたい、自分はもうここに住めないけれど、こんな施設ができてくれて嬉しいと話してくれた。職員がうっすら涙しながら私に語ってくれた。また、震災を乗り越えてきたある漁師

さんはこう言った「三陸沖は暖流と寒流がぶつかり潮目ができるから世界三大漁場と呼ばれる豊かな海だ。沿岸のこの道を通じて人と人が交われば豊かな地域になるだろう」と。

 被災地の様々な思いを込め、地域や世界の人々から愛される東北のナショナルトレイルとして未来に継続させていくことが、野外教育・冒険教育・体験活動の社会的意義、社会関係資本の重要性を唱え続けて来た私にとって、今後のライフワークであると感じている。(佐々木豊志 特定非営利活動法人みちのくトレイルクラブ代表理事 青森大学教授 2016年5月、445回報告会「“生きる力”ってなんだろう?」報告者)

岡村隆さんの植村直己冒険賞授賞式に参加して

 2019年6月1日、兵庫県豊岡市の日高文化体育館で「第23回植村直己冒険賞」の授賞式が行われた。今年の受賞者は地平線会議に縁のある人なら誰でも知っている法政大学探検部OB・NPO法人南アジア遺跡探検調査会理事長の岡村隆さんだ。

 私は1999年、関野吉晴さんが第3回植村直己冒険賞を受賞した時にグレートジャーニー応援団事務局として授賞式に参加した。その当時、岡村さんは応援団の主要メンバーとして計画遂行に協力してくれていた。それからちょうど20年、今回は岡村さんの受賞である。これは是非お祝いに行かねばと豊岡の授賞式にお邪魔した。

 午後1時30分からの授賞式は植村直己さんの母校豊岡市立府中小学校3・4年生児童47人による合唱「チャレンジ」の声が会場に響きわたって始まった。何度か授賞式に参加したが、いつも本当に元気な声で、800人の来場者の気分も盛り上がるのだ。

 主催者・中貝宗治豊岡市長のあいさつは「受賞者を豊岡に迎え、記念講演でその業績を知ることで、植村直己さんの冒険精神を次代に引き継ぎたい」という気持ちがこもっている。

 つづいて冒険賞選考委員の作家・西木正明さんの選考評があった。「実は岡村隆さんとは古くからの知り合いで……」と切り出されたが、西木さんは早稲田大学探検部OBで1940年生まれ(植村直己さんは1941年生まれ)。1948年生まれの岡村さんと大学は違っても当時、探検部同士の交流があり、いわば探検界の大先輩である。

 選考の過程で冒険と探検の違いについて意見が活発に交わされたが、そのうえで選考委員全員一致で岡村さんの受賞が決まったそうだ。豊岡市が掲げる植村直己冒険賞の目的には「世界的冒険家である植村直己氏の精神を継承し、周到に用意された計画に基づき、不撓不屈の精神によって未知の世界を切り拓くとともに、人々に夢と希望、そして勇気を与えてくれる創造的な行動をした人、または団体に贈ります」とある。今回の受賞はその目的にぴたりとかなっていることに加え、実に50年もの間、ぶれることなく「探検のロマン」を追い続けてきたことにも強く言及されていた。ちなみに選考委員は他に石毛直道(国立民族学博物館名誉教授)、椎名誠(作家)、山極壽一(京都大学総長)、中貝宗治(豊岡市長)の各氏で、毎年交替で授賞式の選考評を担当している。

 その後、盾とメダルの贈呈、岡村さんの「ジャングルでの遺跡調査という地味な活動にまで目を向けてもらい感謝しています」という受賞者あいさつで授賞式を終えた。

 第2部の受賞者記念講演の演題は「道なき未知へスリランカ密林遺跡探検50年」。講演の内容は「法政大学探検部入部からスリランカ遺跡調査の歴史」「1983年にモルディブの遺跡調査で植村直己さんと出会ったこと」「2018年の遺跡調査報告」の3部構成で行われた。

 講演中、背後のスクリーンには常に写真と動画が映し出され、岡村さんのやわらかい口調とあいまって、会場の小中学生にもとてもわかりやすい内容で50年間の歩みが語られた。

 約1時間半の講演のあと、質問時間に移ったとたんに会場の中学生から一斉に手が上がる。その元気な姿に応えて岡村さんの答えもいっそうていねいなものになる。次の目標は?の質問に「小さな発見でも一歩ずつ前へ進むことを心がけてきた。来年にまた探検隊を結成してスリランカに出かけたい」と結び、終始なごやかなムードのままに3時間半の式典を終えた。

 このあと、岡村さんと関係者は植村さんの故郷・国府地区にあるコミュニティーセンターに移り、恒例の植村直己冒険賞「受賞者を囲む会」で地元の人々の手づくりの料理と進行でもてなされ、植村さんの生まれ育った風土を身をもって感じることになる。

伊豆大島で惠谷治さんの一周忌法要

 なお、今回の豊岡行きには個人的にもう一つの思いがあった。授賞式の一週間前、5月26日に私は伊豆大島にいた。昨年逝ったジャーナリスト惠谷治さんの一周忌法要と納骨に参加するためだ。惠谷さんには10年間グレートジャーニー応援団長を務めていただいた。

 大島には前日から家族・親族・知人に加え早大探検部OBの仲間たち、岡村さんはじめ現役時代から親しかった他大学探検部OBら31人が集まった。墓所は惠谷さんの探検活動の出発点でもある三原山中腹にある。眼下に広がる相模湾の大海原の先に、盟友だった映像ドキュメンタリスト坂野晧(早大探検部OB)さんが眠る伊豆半島が横たわり、彼方に富士山を望む絶景の地である。参列者全員の手で遺骨を土に返しながら、もし惠谷さんが岡村さんの植村直己冒険賞受賞を知ることができたらどれほど喜んだだろうか、あの魅力的な笑顔をもう一度見せてくれたに違いないと思うのだった。(野地耕治


岡村隆さんの植村冒険賞受賞を地平線流に祝う会のお知らせ

 6月1日(土)に今年の受賞者の岡村隆さんを迎えて「2018植村直己冒険賞」の授賞式が兵庫県豊岡市で開催され、約800人の聴衆を前にした記念講演もおこなわれました。地平線会議の創設メンバーでもある岡村さんの受賞は、私たちにとっても格別にうれしいもので、祝福の気持ちを表したいという声が多く聞こえてきます。そこで、地平線会議として、以下のような「地平線流に祝う会」を二部構成で開催することになりました。(丸山純

■Part 1:13:30〜16:00
 〈会場〉新宿歴史博物館 講堂(2F)
 〒160-0008
 東京都新宿区四谷三栄町12-16
「岡村隆クロニクル――探検家・岡村隆はいかにしてできあがったのかを探るトークショー」
岡村さん自身のトークと、人生の節目でお世話になった方々にお話をうかがい、探検家・岡村隆の形成過程を浮き彫りにします

■Part 2:17:30〜20:00
 〈会場〉四谷近辺の居酒屋(現在店と交渉中・後日お知らせします)
 「たかし亭斯里蘭譚――探検家・岡村隆と美酒を酌み交わしながらいろいろ突っ込む無礼講」
岡村さんに各テーブルを回ってもらい、探検論から現地裏話、人生相談まで、とことん聞いてしまいます

■会費:Part 1…500円/Part 2…4000円前後
 ※まだ店も決まっていないので、予算も確定していません。
■参加申し込み:Part 1…直接会場にお越しください(申し込み不要)
■Part 2…要申し込み(地平線のウェブサイトから申し込めるようにします)
■お問い合わせ:特設メールアドレスを一時的に開設します。何でもお問い合わせください。
■祝う会実行委員:丸山純・武田力・長野亮之介・落合大祐・かとうちあき・大西夏奈子・江本嘉伸


「2019第9回信州森フェス!」開

 第9回信州森フェス!が6月29(土)、30日(日)の両日に渡って開催されます。場所は長野県上田市菅平。

 《楽しんでいるうちにうっかり森の事を学んじゃおう》というコンセプトで始まった森フェス。

 メインゆるキャラの森野まつりくん、イラストは実行副委員長で地平線イラストレーターの長野亮之介が作成(会場限定販売の新作マグカップもありますよ〜)。

◆今年のテーマは「しゅしゅしゅの種」。seedの種や、生物種など「種」に関連する講演がメインです。
◆講演にはサバイバル登山家の服部文祥さん、糞土師の伊沢正名さんなど地平線会議ゆかりの強力メンバーも登場。服部さんは上田から二日間山中を歩いて会場入りする予定。
◆他にも料理研究家の枝元なほみさんや、在来タネの研究者、茅葺き職人のお話など、森フェスならではのラインナップが盛りだくさんです。
◆シンガー南正人さんや、ケルト&アジア系アコースティックユニットKURIの投げ銭ライブ、知る人ぞ知る《信州プロレス》公演、映画「パパ、遺伝子組み換えってなあに?」上映などもあります。
◆スタッフは皆手弁当で大手スポンサーの無い手作りフェスですが、例年二日間で1000人ほどの来場者が来ます。会場はバブル期に建てられた贅沢な元スキーロッヂで一見の価値あり。
◆入場無料、予約不要。菅平から送迎バスあり。詳しくはウエブで。https://morifes.jimdo.com/長野亮之介


子連れ撮影旅の苦労と歓び 

 ――写真展「シリア難民の肖像」を終えて

■5月22〜6月3日まで開催した写真展「シリア難民の肖像〜Borderless people〜」(リコーイメージングスクエア新宿にて)が終わった。昨年2018年夏にトルコ南部で取材したシリア難民の肖像写真展。インパクトの強い表現からではなく、むしろ淡々とした日常を生きる姿に、難民の抱える多様な背景を浮きあがらせた。写真はA1サイズ21点、アワガミファクトリー製の手すき和紙「びざん」にプリントし、和紙のしっとりした風合いと写真の柔らかい質感を重ねた。

◆二週間の会期中、実に多くの方々にご来場いただき、シリア難民について知っていただく機会を得たことは本当に幸福な時間だった。展示写真を選ぶまでは苦悩の日々で、数日間夜も寝られないほど悩んだ。そして見た目の美しい写真よりも、背景に深い物語を持った写真を選んだ。切り取られた一瞬の背後には永遠があり、全ての写真は物語を持っている。それらを想像性をもって伝え、各自の人生に投影するきっかけをつくることが、写真家の仕事だ。

◆写真展の開催は、ひとつの終わりではなく、むしろ始まりだ。写真展をしたその先で何をしたいのかが本質で、どんな表現をし、何を伝えたいのか。それによって何をどう変えたいのか、ということだ。写真を撮ることで私は人と人とを繋げたい。そして写真と関わる人々が、何かしらの形で人生が変化したり、幸せになることをしたい。写真活動によって集めた募金が難民に届けられ、生活支援に役立てられたり、希望を持つ一助になったら嬉しい。多くの人間の輪の中に皆が生き、自分もいる。それを写真を撮ることで感じ、実現したいのかもしれない。

◆撮影は12枚撮りの中判フィルムカメラ、ローライフレックスで行なっている。デジタルと比べると効率が悪く手間もかかる。経済的負担も大きい。だがフィルム写真にはデジタルとはまた異なる階調の豊かさがある。さらには撮影枚数が限られているからこそ、その一枚に全神経を集中させ、結果的に被写体との出会いが心に刻まれる。人と丁寧に向き合い、出会うことができるのだ。それは書道のようなもので、まず空間を整え、墨をすり、呼吸を整えながら一筆一に集中する行為と似ている。「墨をする余裕がなければ良い字は書けない」という言葉を聞いたことがある。写真も同じだ。永遠を投影した一瞬を切り取るために、そこに至るまでの丁寧な過程が大切だ。フィルムでの撮影はそうした意味でも、襟を正して被写体と真摯に向き合うことができるツールだと思っている。

◆ほかに時間をかけて被写体と関係性を築くことを心がけている。そしてなぜ写真を撮りたいのか、撮らせていただいた写真をどのように使いたいのかを説明し、理解いただく。相手が了承し“撮られる準備が整う”まで待ち、そこからようやくカメラを出して正面から撮影する。そういう意味では、シャッターを切ることは撮影のひとつの過程に過ぎず、人物と出会ったときから撮影はすでに始まっているし、その土地を離れても、その人物の表現を続ける限り撮影は続く。撮影とは、終わりのない輪廻のようなもので、空間や時間が分断された行為ではないと思っている。

◆子供が生まれて以来、海外での取材も子連れとなり、撮影はいつもパニック状態だ。被写体とじっくり向き合えない、撮影シーンが限られてくるといった苦労もある。だが子連れの撮影は、人々のコミュニティにより深く入り込めるチャンスを与えてくれ、何より母親としての視点から世界を切り取れるようになった。いつしか、私の写真の中には、たくさんの難民の母親や子供たちが写っている。子供を育てながら、私はこれからもシリア難民の姿を見つめ、写真を撮り続ける。生まれながらの不器用さと鈍感さもあって道は凸凹道が終わりなく続くだろうが、それでいい。本当に価値あるものは、時間の蓄積と、真摯な向き合いのうちに生まれると信じている。写真を撮り、生きること。その道を、ファインダーの向こうに映る人々と共に淡々と歩いていたい。(小松由佳

フォルクローレを小学生にプレゼント

■お元気でお過ごしでしょうか。品行方正楽団では、大変お世話になっております。先月1か月、兵庫県の伊丹市小学校の音楽鑑賞教室ツアーというのをやりました。5月7日から5月31日の期間、全17校、35公演の日程で伊丹市内の全小学校を回ったのです。プログラムは、ラテンアメリカ各国の民族音楽・フォルクローレから特に子供達にも楽しめるものを選んでおり、ベネズエラの国民曲『コーヒールンバ』や、アルゼンチンの山岳曲『花祭り』などが子供達の人気です。

◆メンバーは6名。長岡竜介/ケーナ・サンポーニャ担当。リカルド・ロドリゲス/チャランゴ担当。澁谷和利/ベース担当。日下部由美/アルパ(ラテンハープ)担当。寺澤むつみ/フォルクローレギター担当。依田真理子/フォルクローレパーカッション担当。会場は各校の体育館です。早朝学校に着くと直ぐにセッティング開始。リハーサルののち、一回目公演は低学年対象。1年生はまだこの時期幼稚園の雰囲気が残り、天真爛漫のぽやぽやで可愛いです。ドラえもんの主題歌なども一緒に歌います。

◆二回目公演は高学年対象。5、6年などは一見おとなしいのですが実はうわべだけで、いったんのると、メキシコの『ラ・バンバ』などでは一緒に大熱唱してくれます。伊丹市は阪神淡路大震災の時に被災し、新しい家屋が目立ちます。庶民的な商店街のアーケードだったある通りなどは崩れてしまい、現在はおしゃれなたたずまいの石畳の路に姿を変えています。大阪市のベッドタウンということもあり、各小学校の在校生は約600名から1,000名。少子化とは無縁の町のようです。給食が特にうまいとの情報もあり。

◆昨年の伊丹市の音楽鑑賞会は、アフリカのパーカッショングループだったそうで、今年は南米。音楽教育も西洋一辺倒ではなくなっているようで、世界各地の文化に広く目を向けられる先生方がおられるのは、うれしいかぎりです。私の吹いているアンデスの葦笛ケーナは、日本の尺八と基本的に同じもの。インカと日本の共通項の一つかも知れません。地味な曲なのですがペルーの代表曲の『コンドルは飛んでゆく』は、今でも子供達に人気があります。渋好みで笛好きの日本人のDNAは、まだまだ健在のようです。(ケーナ奏者 長岡竜介

■追伸 [山のコンサートのお知らせ]<br> 毎年かかさず続けている山小屋の音楽会です。今年で39年目。アンデスをはじめ、南米各地の音楽をお楽しみ下さい。
★長岡竜介、のり子、祥太郎山のコンサート『南米音楽の夕べ』八ヶ岳・黒百合ヒュッテにて。
7月6日(土)午後7時より演奏
JR茅野駅下車 バス渋の湯下車 徒歩3時間 
長岡竜介 ケーナ/サンポーニャ/ボーカル 長岡のり子 ピアノ
お問い合わせ 黒百合ヒュッテ直通 090-2533-0620(長岡竜介)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。

南澤久実/白方千攵(10,000円 通信費3年分+カンパ)/モリサチコ/山池信義(4,000円 2年分)/内藤智子(10,000円 5年分)/橋口優(4,000円 2年分)/松本典子


ミニ個展「J. 風そよぐ庭から」

 6月13日から18日にかけての6日間、長野亮之介君のミニ個展「J. 風そよぐ庭から」が開催されます。会場は昨年秋と同様、JR阿佐ヶ谷駅北口すぐにある器とcafe の店「ひねもすのたり」。日によって、終了時刻が異なりますので、ご注意ください。

 13[木]・14[金]・15[土] 12:00〜23:00(カフェ営業/夜カフェ)
 16[日] 12:00〜17:00(カフェ営業)→★
 17[月]・18[火] 12:00〜18:30(カフェ営業)
 「カフェタイム」では飲み物が、「夜カフェ」では飲み物とお食事が提供されます。各日とも1オーダーをお願いします。
★6月16日[日]はカフェタイム終了後、18:00より20:30まで、「長野淳子さん祥月の夕べ」を開催します。会費は2,000円(黒糖焼酎飲み放題、酒持込大歓迎)。6月18日の命日に向けて、長野淳子さんの思い出を語り、彼女が愛した「庭」のその後についての報告を聞きたいと思います。ご予約は「ひねもすのたり」へ電話かメールで。

器とcafe ひねもすのたり
〒166-0001
東京都杉並区阿佐谷北1-3-6-2F
phone 03-3330-8807
email
http://ひねもすのたり.com/

[絵師敬白]野趣あふれる庭をめぐる風に乗って、今年も蝶がひらひらと飛ぶ。蝶は魂の象徴や化身ともいわれる。じゅんこが愛した庭は、足しげく訪れるたくさんの友人たちのおかげで生き生きしている。この春は新参の植物も幾つか顔を出し、雨上がりにアマガエルまで現れた。じゅんこの望みだったベランダと縁側はこの春に建て替えてヒノキの香りを放ち、庭を縁取る竹垣も皆で作り直した。自分が撒いた思いの種子が、庭から新たな出会いや楽しみを生んでいる様を天から眺めて、じゅんこは微笑んでいるだろうか。6月18日の命日に向けて、じゅんこの庭から想を得た絵を少々描いている。

●在廊予定など詳細はブログをご覧ください。https://moheji-do.com/j-niwa/M


現地報告
屋久島豪雨とガイドの仕事

■先日、5月18日。屋久島では50年に1度の大雨が降りました。ガイドを含む300人以上の人たちが山中に取り残され、翌日、幸い無事、全員、救助されました。今回、その屋久島にいた者として、そのご報告をさせていただきたいと思います。自分はその日、休みで現場には上がっていませんでした。しかし、ガイド仲間やお客様は、たいへんな災害に遭われたわけです。

◆実は、その前日から、「明日は大変な豪雨になるぞ」、という予報は出ていました。しかし、その当日、朝は小雨。正直、もし、あの状況で自分が、その場にいたら、出発していたかもしれません。屋久島の縄文杉行について、ここで説明しておきます。現在、その登山口、荒川口は夏場、一般車両(レンタカー、ガイドの車も)は通行止めです。排気ガス規制、駐車場不足、交通事故問題など様々な要因から10年以上前からそうなってます。

◆つまり登山口行きのシャトルバス、営業車(貸し切りバス、タクシー)、特別な業務、緊急車両以外、登山口にはいっさい入れません。シャトルバスの帰りは午後3時からなので、中止の判断をして、登山口に戻ってもその時間まで下山できないわけです。そして、その当日の朝、小雨。大雨や洪水の警報が出ていれば、シャトルバスも運休、ガイドも出発しないという申し合わせは出来ていました。

◆でも、その時、雨がひどくなかったら? ガイドとしての判断は、非常に難しいです。お客様としては、せっかく来たんだから、縄文杉には行きたい。遠い離島で、なかなか来られる所じゃないですもんね。お金もかかるし、山行するには最低2泊3日はかかる屋久島。普通の社会人であれば、それだけの休みをとるのも、難しいでしょう。

◆晴れの日のお客さんはみな、「晴れててよかった、私、雨だったら行かなかったわ」とか、「雨だったら途中で帰ってたわ」と、おっしゃいます。で、雨の日のお客さんに、「今日行くの止めますか ?」と聞けば、みんな、「行きたい」と、おっしゃいます。それは、すんごく、よくわかります。ですから、山行催行、中止の判断は非常に難しわけです。ガイドとしても、せっかくいらしたのだから連れていってあげたい。また、ぶっちゃけの話、中止になったら、ガイド料金はすべて返金しますので、ガイドには、まったくお金入りません。

◆その中での判断。その当日、出発してからの判断で中止し、帰ったところもあります。バス、タクシーを呼ばなければならないので、大変ではありますが、不可能ではなかった。ですから、あとになって、その結果から、「判断ミスだった」「行ったガイドが甘かった」という声もあります。そう言うのは簡単です。でも、と、思います。危険を感じたら、撤退する、生きていれば、また挑戦することができるから。それは地平線の皆様なら、誰もが熟知していることだと思います。

◆でも、その判断って、ものすごく難しい。自然は、ほんの一瞬で、美しいその姿を変え、牙を剥きます。どんなエキスパート、熟練者、プロフェッショナルであっても、その一瞬の差で、命を落としてきた方が多くいる現実は皆様ご承知の通りです。だとしたら、「止めれば」、最悪の事態には陥りません。死ぬことはないでしょう。でも。「止めたら」、先には進めません。なにも見られません。

◆人類の進歩は危険を顧みない好奇心によって支えられてきました。それは一面、かなりの「ラッキー!」でした。たまたま運が良かっただけかも。でもそれすべてを否定してしまったら、人の今はなかったでしょう。で、今回の災害に戻ります。では、どうすればいいのでしょうか? 屋久島の観光、山行、すべてを否定、中止することは、不可能だし、無意味です。としたら、これからの災害被害を最小限に抑える、現実的な考証をすべきでしょう。

◆例えば、前述の車両規制をもっと強化し、少しでも天候危険の場合は早く通行止めにする。あるいは、町までの交通機関を早い時間でも配置しておく。今回のケースも帰りたくてもバスがないから帰れなかった、という事情もありました(タクシーを呼ぶことは出来ますが、300人からをタクシーですべて早い時間に運ぶことは、現実的には非常に困難)。しかしながら、とにかく今回の豪雨は想定外の大雨でした。

◆ただし、ここ3、4年、毎年「50年に1度の豪雨」が報道され、「それつまり毎年、例年の豪雨じゃん」と、つっこみをいれたいところです。ですから想定外という言葉はあまり使いたくはありません。が、とにかく一気に降ったところがあり、それまでの降雨量、積水量はあったものの、車の通れなくなる土砂崩れは、昼の迎えシャトルバスが上がってきた後、という事実は留意していただきたいと思います。また、テレビなどでは、あまり取り上げられませんが、被害にあったお客さんはみな、「ガイドさんがいてよかった、助かった」とおっしゃっていました。

◆ガイド付きでないお客さんも多数おられましたが、あの状況のなか、28人のガイドがあの場にいて、状況を確認、判断、指示、連絡がとれたこと。それが最悪の事態に陥らなかった大きな力であったと確信しております。その屋久島ガイド仲間に、自分は大きな信頼と誇りをもっております。ゆえあっての連続投稿でした。ただ様々な憶測、批判、などが飛び交う中、地平線の皆様には、その屋久島で状況を見ていた者の話も伝えなければ、と考え、書かせていただきました。(野々山富雄 屋久島ガイド)


今月の窓

お金は見た──欲動の資本主義・目撃史

 ニッポン資本主義は“黒船”から始まりました。あれから150年、「明治=起、大正=承、昭和=転、そして平成=結」と“起承転結”なら“令和=起”なのか──。

 西洋文明にキャッチアップ──切磋琢磨しながら資本主義グローバル・スタンダードに対応してきましたが、気がつけば、恐慌、バブル、マイナス金利、低成長、積み重なる国家負債そして巨大な格差……。アメリカに迫る勢いのGDPも年々下がり続け、中国の半分、ひとり当たりのGDPでは23位(先進資本主義国では最下位)と、ニッポン資本主義の凋落ぶりに、「来た道の延長線上に未来がない」ことを覚悟しなければなりません。成長神話、安全神話に偏り過ぎて、ペラい未来観に“不安の時代”にもがく日々です。

 資本主義は恐慌とバブルのくり返しです。そのたびに金融システムを循環させ、イノベーション(産業革命)を起こし、資本主義は生き延びてきました。そしてAIが人間の労働を奪う“第四次産業革命”の時代へ……。“現代の黒船”といわれる“グローバリゼーション”に、資本主義は生き残りを求めましたが、欲動のままに動く“市場”に富の独占のような格差社会が民主主義をも危うくさせると、閉塞感から抜け出せません。

 さらば社会主義──資本主義は勝ったかも知れませんが、納得したわけではありません。

 この数年、文明末の現場を歩き、ヨーロッパ、アメリカそして旧ソ連、社会主義圏、中華文明圏から地球上で最も幸福な国々の北欧へと……。不確実性に満ちた成長なき時代をどのように生きるのか、低迷からの脱出へと資本主義の出口へ、焦燥感に煽られ時空を超えた旅の果てに辿り着いた『欲動の資本主義』──卒論です。

 実力以上の株価(バーチャル資本主義)に、生活が向上したという実感(リアル資本主義)はありません。合理的な投資と無軌道な投資との境目のない強欲むき出しの金融資本主義を生み出したのは市場経済システムの欠陥ではなく、物質文明のなかで限りを知らない人間の欲動か──。物質的な豊かさは、人間を幸福にするのか、資本主義のあり方が問われています。大量生産・大量消費の経済社会の過程で失ったモノもあります。資本主義を支える中間層は労働が商品と化し、賃金は横ばい、富の分配が固定化し、格差は広がる一方です。

 “知識人の阿片”『資本論』──賞味期限の資本主義に、マルクス経済学が見直されています。「資本家の善悪ではなく、自己中心的な行動をとるのは資本主義の宿命である」と、資本主義の矛盾を指摘したのがマルクシズムです。「資本論」は反資本主義ではありません。マルクシズムは、労働者、大衆より先に知識人の心情をとらえた“精神の経典”、資本主義はマルクシズムのなにを学んだのか……。

 限りない欲動を目撃した“お金”の資本主義自分史──「明治維新=近代化の夜明け、大正デモクラシー=民主主義の芽生え、昭和敗戦維新=戦争放棄の経済大国、平成グローバリゼーション=資本主義の延命」そして“令和デジタルテクノロジー文明”は“レジェンド・オブ・資本主義”へ、人間と科学が主従関係を争う神の領域へ未知なる文明との遭遇、“起”の始まりです。「歴史をやれ、旅をしろ」に従い、過去を予測し、先人の教え、専門家の文献、文明や歴史の現場を歩いて“未来のルーツ”を探った実感です。

 資本主義は“お金”がすべてです。“お金”には恐慌、バブル、戦争そして環境や精神の荒廃など、さまざまな根源が潜んでいます。“お金”は貨幣だけでなく、財テクとしての機能を持ち、再分配されず投機へと、欲動を駆り立てマネーゲームを正当化しています。お金は、国家や企業に競争を強いる性格があり、金融システムは成長し続けることで機能します。働くよりリターンが大きい投機へ、不労所得がまかり通る資本主義をこのまま放置しておくわけにはいきません。「モノは捨てても、情を捨ててはならない」──“令和=起”の変革へ踏み出すには、若ものの危機感とイノベーションです。

 「低く暮らし、高く思う」──日本人は本来「清貧を尊ぶ思想」を持っていたと、先人の言葉に物質万能の社会で欲動のままに動くいまの時代をいかにして生きるか、極意を授かった気がします。お金が見た欲動の資本主義──お金はビジネス、投機などの経済活動だけでなくさまざまな夢と幸福と未来を創造、時には破壊を覚悟して人間が生み出した不滅の産物です。しかし資本主義という魔物は「欲動のままにまかせれば、資本主義が資本主義を壊すこともある」その現場を“目撃”してしまいました。次なるテーマは、急速なITの普及、生活インフラのネット化によって社会統治という“監視社会”“管理社会”の到来に「フィルターバブルから解き放て──ネット民主主義」です。(森田靖郎


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あとがき

■写真家の大村次郷さん(1941年生まれ)は最近しばしば地平線報告会に顔を出してくれている。長倉洋海さんの報告会にもイタリア取材から帰国したばかりなのに駆けつけてくださった。そして「長倉さんとはNHKスペシャル『新シルクロード』をつくった間柄です。話を聞いてみて改めて持続してものを見る目の大切さと、マスードに育てられた写真家だと思い知らされました。その彼が学んだこととして『ジバードはおのれとの戦いで、平等というのは富ではなく魂である』と言い切ったことばが心地よく聞こえました」と感想を書き送ってくれた。

◆手紙は続く。「岡村隆さんとも会いましたが、彼が『望星』時代に2本、9年間にわたって月刊誌の連載をやった仲です。植村直己冒険賞のことはことのほか嬉しいことでした。その植村さんとは生前親しくさせてもらい、エベレスト南壁の石を頂いています。海外から戻るたびに電話をもらっていました。イタリアから戻り、地平線通信をみて長倉さんのことを知り、駆けつけました。今は、岩波書店『科学』など連載を2つ持ち、飛び回っています」何歳になっても仕事をするべし。大村さんの手紙を読みながらそう思った。大村さん、ありがとうございます。

◆長野亮之介さんのフロントの題字はカレン語で「地平線ニュース」の意味です。五十嵐宥樹さんに聞いてもらいました。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

地雷の向うの精霊の山

  • 6月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「現地でもほぼ知られていない謎めいた“聖なる山”なんです」というのは五十嵐宥樹さん(25)。ミャンマー東南部、カレン州とカヤー州の境に位置する神の山、トティコ(2623m)の探検を目指して準備を進めている、北海道大学の大学院生です。

故郷の福島県郡山市から雄大な自然に憧れて入学した北大で、ひょんな事から探検部へ。J.C.スコットの著書を読んで興味を持った東南アジアの少数民族を調べるうちに、20世紀初頭の宣教師の記録文献にミャンマーのトティコを“発見”します。

'16年に探検部の活動として現地に予備調査に入りますが、現地は長く紛争が続いた地域。まだ地雷の多数残り、ミャンマー人ですら容易に入域できません。現地での聞き取り調査では、山麓には山を守る17の神聖な村があるとか、山にある特別な植物を下界に持ち帰ると、翌日には消え失せるなどの不思議なエピソードも。

調査を進めるうちに、なによりも現地や在日のミャンマー人の人柄に魅かれるという五十嵐さんに、精霊の住む山の魅力を語って頂きます!


地平線通信 482号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年6月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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