2019年2月の地平線通信

2月の地平線通信・478号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月13日昼。東京の気温は5度。ひんやりしている。新聞もテレビもきのう公表された水泳の若きエース、池江璃花子選手の白血病罹患のことに大きなスペースと時間を割き、「本当にがっかりしている。オリンピックの盛り上がりが下火になるのでは」との桜田五輪担当相のあまりに無邪気で心を欠いた発言がまたも批判にさらされている。

◆今日の各紙朝刊の社会面では「植村直己冒険賞に岡村さん」の、顔写真入りニュースがひときわ目立った。きのう2月12日は植村直己さんが冬のデナリで消えた命日。14時、駿河台の明治大学紫紺館の会見場に11月に「“大発見”への一里塚」として地平線報告会をやってもらったばかりのその本人、岡村隆が主役として登場した時はおおっ!と、植村直己冒険賞の選考委員たちの慧眼にひそかに感謝した。

◆記者会見の中で、岡村は自分たちのこのような地味な活動が植村直己という冒険者の心を象徴するこの賞に値するとしてくださったことが嬉しい、活動を共にした仲間たちへの励ましとしていただく、と語った。11月の報告会レポートを読んでいる方には詳しい解説はしないでいいだろう。ただ少し補足させてもらう。豊岡を結んで行われた記者会見で、豊岡市の記者から「植村直己さんとの接点を少し詳しく教えてください」と言われ、モルディブ島で植村さんとの出会いを手短に語ったのだ。

◆トール・ヘイエルダールという世界的な探検家がいた(2002年4月18日、87才で没)。彼の新たな探検の成果を伝えるコロンボ発のAP電が1982年12月2日の朝日新聞に載った。「無人島の密林に古代の太陽神殿 モルディブ ヘイエルダール氏発見」という内容である。「コンチキ号による冒険で有名なノルウェーの探検家、ヘイエルダール氏は1日、モルジブ(まま)群島ガンハバドーのジャングルに囲まれた島で古代文明の遺跡を発見したことを明らかにした……」

◆この報道を見て岡村は「???」と感じた。いくら世界的な探検家だとしてももしかしたらこれは間違いではないか? 仏教遺跡を勘違いしたのでは? 14年前にモルディブ島に入り、三角帆をいっぱいにはった原始的な帆船で島々を巡り歩いた体験があるからこその岡村の疑問だった。ともかく現地に飛んで確かめねば、との使命感から勤め先に2週間の休暇を、と願い出た。そんな期間で終わる調査ではないことは承知でひそかに会社を辞める覚悟だった。

◆一方、この報道に関西のテレビ局が飛びついた。植村直己さんの冒険を支援している局で植村さんの北極点到達の際も終始支援していた。植村さんの次の目標、南極大陸横断が頓挫している時期でテレビ局は植村直己さんをメンバーに仕立てて“謎の遺跡発見”の撮影チームを送り出すことを決めたのである。このあたりの展開が植村さんにとってほんとうに良かったのかどうか。皆、善意ではあったが、植村直己というとてつもなくシャイで控えめな性格の冒険者にとってはどうだったか。

◆ともあれ、ヘイエルダールだけでなく敬愛する植村直己さんをも“敵”にまわさざるを得ない事態に岡村は呆然としたであろう。現地に乗り込むと仏教遺跡のように見えたが、現地の学者の中にはヒンドゥー教のものではないかとの主張もあり、結論は帰国後、日本の仏教学者の判断に任せた。小西正捷教授を中心とする「南アジア考古研究会」で写真ほかを検証してもらうと答えは、即座に出た。「なんだ、これは仏舎利塔(ストゥーパ)じゃないか」。あのヘイエルダールも岡村隆の情熱と眼力には敗れたのである。

◆以上の経緯は、おもに岡村隆が書いた『モルディブ漂流』(筑摩書房 1986年1月刊)からの引用による。この中で岡村は植村直己さんの気遣いについてもふれている。島のヤシ林にテントを張っていたテレビ・チームの植村さんに挨拶に行くと「いやあ、今回はテレビに引っ張り出されちゃいましてね」と言いつつ、隊長に掛け合ってもともとは招かざる客であるかもしれない岡村を食事に招いたのだ。きのうの受賞発表会見で岡村が植村直己さんとのいきさつを「長くなる話なので」と当初は語ろうとしなかったのは、以上のいきさつによる。テレビ番組は結論を鮮明にできない、迫力に欠ける内容だったらしい。

◆私は岡村隆たちの探検がある程度の成果を出せたのは、記録をしっかり残し続けてきたことが大きいのではないか、と思う。とりわけ1975年に観文研から出した『セイロン島の密林遺跡』という報告書(のちに2冊目も刊行した)だ。これは当時観文研にいた宮本千晴が「目の付け所が面白い、と感じて」応援して作った。軽印刷だったので宮本自身が暗室で何枚も写真を焼いたそうだ。スリランカという未知の場所の探検の成果をフォローする仲間たちがいたことは大きかったであろう。

◆図らずも今年も植村直己冒険賞が私たちの知り合いに決まったことを素直に喜びたい。70歳の若者、岡村隆、やったね! 授賞式は6月1日、兵庫県豊岡市の植村直己冒険館で。(江本嘉伸


先月の報告会から

「冒険王、70代も猪突猛走!!」

賀曽利隆

2019年1月29日 榎町地域センター

■大集会含めると報告会30回目の登場、「地平線の顔」とも言える我らが冒険王・賀曽利隆さん。今宵の会場は、駐輪場に数台のバイクが並び、何か高揚感に包まれている。初めてお会いした時と変わらない誠実さと熱量のままで、冒頭「今年9月1日に72歳になる年男です!」と挨拶されて驚く。道理で私も年を取る訳だわ……なんて思ってしまった。実は、1月29日の報告者が賀曽利さんだと知った時、流石だなぁ、江本さん!と感じた。日本中、いや世界中を飛び回っている賀曽利さんもこの日なら必ず捕まえることが出来るからだ。

◆なぜか、を書く前に34年前の最初の出会いについてひとこと。神田練塀町にあった日本観光文化研究所(以下、観文研)で、所員だった賀曽利隆さんは37才、新人事務局員の私は20代半ばだったのだなぁ。観文研を創設した宮本常一先生ほど隈なく日本を歩いた民俗学者はいないのではないだろうか。旅に捧げた人生は、旅に愛された人生でもあった。1981年1月30日没。享年73歳。

◆以後、東京・国分寺の東福寺で水仙忌という先生を偲ぶ会が毎年命日の1月30日に行われている。先生の故郷、山口県周防大島でも同じ日、縁のある人々が、島で満開を迎える水仙の花を供えて先生を偲んで集まる。賀曽利さんも毎年欠かさず参加している。ちなみに私は昨年の水仙忌で会って以来の賀曽利さんだったが、今回の報告会で配られた70代編日本一周の資料で2018年1月30日の賀曽利さんの軌跡を確認すると小仏峠越えをして国分寺の東福寺に立ち寄ったのがわかった。

◆そして翌日には高麗峠を越えている。そうだったんだ、あの日は普段と変わらない賀曽利さんだったが、日本一周中だったことに今頃気が付いたのだった。今年は地平線報告会(29日)の翌日が命日で39回忌になる。

◆会場スクリーンには2017年9月1日の古希70歳の誕生日にいつもの旅の起点である東京日本橋で黄色いスズキVストローム250に跨る賀曽利隆さんの雄姿が映し出されている。次いで、2017年9月23日、日本最北端の宗谷岬、12月4日、沖縄本島最南端の喜屋武岬など最初の15分程でスライド写真を見せながらリズミカルにザッと紹介していく。中にはバイクの後ろに若き女性を乗せているショットもあり、Vストロームはめちゃめちゃタンデムし易いんですよ〜〜もうルンルン気分で走りましたよ!と。本当に古希なのだろうか……。

◆冒険王・賀曽利隆さんの視点には宮本常一先生の教えとまなざしを感じる。観文研時代に私は山地食文化研究をしている賀曽利さんのフィールドである山梨県西原に雑穀食を訪ねに同行したことがある。宮本常一先生は調査をするときに、[1]高いところに登り全体を見渡す。[2]聞く前に自分の目で見る。[3]同じ話を3人から聞く。そのうち1人はおばあさんにすること。と言われていたと教えてもらう。おそらく賀曽利さんは日本を走るときにも同じようにしていたのではないだろうか。

◆今回の報告会のための資料は、「70代編日本一周(データ1,2)」「日本一周一覧」と地平線通信477号(前号)の7〜10ページのコピーも用意された。この前号掲載の賀曽利さん自身が書いた「一体どんな旅をしてきたのか70代日本一周顛末記」を読んで頂くと、実は今回はレポートを書く必要がないくらいに詳細な旅の記録になっている。地平線WEBサイトからも読めるのでどうぞご覧下さい。

◆写真はおしまいにして会場を明るくして390日に及ぶ70代編日本一周旅を、資料に沿って話していく。旅立ちの数日前にスマホを入手し、70歳にして初めてツイッタ発信しながら旅をした。だから全国のカソリック信者(賀曽利隆の熱烈ファンをこう呼ぶ。もちろん私も!)がカソリ捕獲のために待ち構える。出会った数は300人を超えるらしい。そして今日の会場にもたくさん来ているようで、話の途中で会場に向かって何回も□□さんココで会ったよね!△△さんアソコまで一緒に走ったよね〜懐かしいですね〜〜と声をかける。固有名詞がスッと出てくる記憶力は賞賛に値する。実はツイッタにまだ手を出していない私はこのことを知らなかった。カソリックとしたことが不覚であった。

◆2017年9月1日から12月17日までの94日間を第1部としてまず東日本から走った。これは60代日本一周の時の教訓で北海道や東北の雪を避けるためである。詳細はデータを参照下さい。基本的には海岸線を走り、何本ものループのコースを作り、内陸部を回った。47都道府県の県庁所在地は全部走ったが、それだけでなく「五畿七道六十八ヵ国(古代律令制の広域地方行政区画)」を意識してルートを作った。国の境が面白いんですよね!と目を輝かせて話す賀曽利さん。平成の大合併で国境が分かりづらい中で走ってゆく。六十八ヵ国が分かると日本が面白くなる。境川があったら要注意。境川は日本中にあるが何の境なのかなんて考えると面白いですよ〜と。

◆第2部は2017年12月20日からすぐ始まった。2018年12月31日までの296日間で「テーマ編」である。峠越えや温泉めぐり(混浴温泉ツーリングまで?!)、半島や岬めぐり、宿場めぐりをしながら街道を行く、島めぐり、冬の富士山一周、林道走破行(20本の林道でダート走行160キロ以上)など様々なテーマで日本を駆け巡った。3月11日にはライフワークにもなっている「鵜ノ子岬→尻屋崎」の20回目を走る。東北太平洋岸の全域の変わっていく姿を見てきた。また、日本の幹線道路の国道1号から10号までの国道走破行も忘れがたい旅になった。極力、一気走りでほとんど寝ない旅だったそうだ。またもや本当に古希?

◆資料をみてもらうと1日の走行距離が出ているが、だいたい300キロ平均で賀曽利さんの旅の走行距離にしては短い。それは日本一周の場合は、「走る行程すべてが目的地」だから、いろいろ見たくなり寄り道するからなんだそうだ。バイクはそういう旅が出来る乗り物であると。歩きじゃ、後戻りしたり寄り道する余裕がないでしょ、歩くのに精いっぱいで。もちろんそれぞれの良さはあるが、ものを見るにはバイクなんですよ。なるほどなぁ……。

◆12月20日に出発した第2部では、365日毎日バイクに乗るぞ!と勢い込んでいたが、4月25日にヤビツ峠越えしたあたりで右足がパンパンに腫れ上がり、GWは一歩も歩くことさえ出来ずに365日乗ることは叶わなかった。抗えない「老い」を感じて辛かったそうだ。しかし資料によると5月7日からまた走り出している。若い時にはこんなことはなかったが、加齢により自分の身体の使い方を教えられた思いだったとも。

◆しかし、6月になると賀曽利さんが立ち上げたツーリングマップル東北実走取材があり、痛いなんて言っていられなくなる。やはり地図は紙ですよね!と賀曽利さん。スマホ地図がうまく見れない私は大きく頷く。賀曽利隆の「70代編日本一周」2017年9月1日〜2018年12月31日全走行距離 9万3391キロ走り終えて賀曽利隆のひとこと「70代最高!!」

◆「日本一周」一覧 の資料を見ながら今までの日本一周を振り返る。今回は10回目の日本一周だったが、10年ごとの日本一周はまさに人生の節目を見るかのようだ。20歳の「アフリカ一周」から始まり20代は世界を駆け回る。日本に目を向けたのは20代後半になってから。結婚して妻と生後10か月の赤ん坊を連れての「シベリア横断→サハラ縦断」。シベリア鉄道の列車内でおしめを洗った思い出。まだ紙オムツのない時代だ。

◆3人で旅立ったが、3.5人になって帰国。次は日本一周したいと決めていた賀曽利さんは無事な出産を見届けると、家にあった10万円をかき集めて旅の資金にした。妻には「悪いね、それでは日本一周に行ってくるよ」と言い残して旅立つ。良くできた妻は気を付けてと送り出してくれたと(ここら辺は是非取材させてもらいたい)。「30代編日本一周」バイクはスズキハスラー50。64日間全費用10万円。全泊野宿の思い出深いものになった。

◆「40代編日本一周」看護師である奥さんに勧められて受けた肺がん検診の結果が出発直前にわかる。胸に腫瘍が見つかった。すぐに手術をと医師に言われたが、「日本一周に行った後ではダメですかねぇ」と。良い先生で、帰ってきたらすぐ来て下さいよと許可してくれたそうだ。92日後に病院に行くと、なんと腫瘍が大きくなっていないと先生が驚く。そこをすかさず「先生、実は来年、世界一周に行くので帰ってきてからではダメですかねぇ……」

◆先生の驚いた顔が見えるようであるが、良い先生で許可してくれた。自分の命はせいぜいあと10年だという思いが前のめりに旅へと走らせた。バンコク在住だった我が家(注:筆者の高世泉さんはジャーナリストであるお連れ合いの仕事でアジア暮らしが長い)にインドシナ一周の途上でやって来たのもその頃である。エネルギッシュな賀曽利さんのそんな胸中を今頃知る。40代後半になって逃げられず手術をすることになったが、開胸ではなく内視鏡手術ができるようになっていたのでダメージが少なくて済んだ。病理検査の結果も良性だった。強運な賀曽利さんだったが、幸運は続かなかった。

◆「50代編日本一周」は突然の心臓発作に見舞われ出発を1年遅らせた。「よくこれで普通の生活が送れますね」と医師に言われたが、薬に殺されると思い薬をやめて、不整脈を抱えて旅立つ。日本橋を出発してから13日目、四国の四万十川沿いの道を走っている時に、不整脈がピタッと止まっているのに気付いたそうだ。この時のバイクが250CCの単気筒エンジンだったそうで、病院で治せなかった不整脈がバイクで治せたと。心臓に良いバイクは単気筒らしい以来20年間不整脈は一度も出ていないし、心臓発作の再発もないと言う。

◆おかげで50代では「島めぐり日本一周」「温泉めぐり日本一周」なども出来た。特に温泉は1年で3063湯に入った。この記録はギネスに登録されている。1日10湯以上、1番多く入った日は27湯で、服を着る暇がないのではと心配になる。このギネス記録を破れる人はいないだろうと賀曽利さんは自信を持っている。「まず1年間遊べる人がそうは居ない。」「また温泉はお金と体力が必要。」確かに……納得。

◆バイクで氷点下の中を走って熱い湯に浸かり、30分ルール(バイクを降りてから乗るまでの時間を30分とした。)でまた走り出すと身体の内側からバリバリと音がするそうだ。この血管トレーニングで更に健康になったとか。ハードすぎてなかなか真似できない健康法だが、「バイク療法」という本を書くといいのではなんて声も聞こえてきた。「60代編日本一周」は「還暦」の重圧で押しつぶされそうになるが、20歳の賀曽利さんの「アフリカ一周」の原点に還るんだと乗り越える。

◆そして「70代編日本一周」迫りくる老いとの戦いの連続であったそうだ。それを乗り越えたからこそ、これからの10年に自信がついた。60代までは妻からも健診に行ってと言われたが、もう行けとも言われなくなった。70代は自由で生きやすい年代だそうだ。そして、よーし、80代編日本一周もやってやるぞ!!と少年のようにガッツポーズを決める賀曽利さんなのであった。皆さま、お互いに無事で生きて10年後の報告会でお会いしましょう〜〜♪(カソリックの高世泉


報告者のひとこと

「スマホは絶対に持たない」と言っていたカソリなのに……

 昨年の12月31日に「70代編日本一周」を終了させましたが、その直後に報告会で報告させていただけたのはラッキーなことでした。みなさんに話すことによって、大きな区切りをつけることができました。自分自身が一段、ステップを上がり、新たな地平の風景を見ているような気分です。「これでやれる!」といった70代への自信をつかむこともできました。そして「80代編日本一周」が視野に入ってきました。

◆昨晩(1月29日)の報告会には、我が「70代編日本一周」で出会った多くのライダーのみなさんが駆けつけてきてくれました。みなさんとの再会はうれしいものでしたし、みなさんに会うことによって新たな力をもらいました。じつは今回の日本一周ではスマホを使い、ツイッターで旅の様子を発信しました。それを見た多くの方々が「カソリを捕獲しよう!」ということで、日本各地で待ち構えてくれていたのです。

◆「スマホは絶対に持たない」などといっていたカソリですが。今となってはスマホを持ってよかったと思っています。日本一周の第1部(94日)で出会ったライダーの数は全部で124人になりました。第2部(296日)では正確にはカウントしていませんが、おそらく300人は超えると思われます。昨晩、報告会に来てくれた何人かのライダーを紹介します。いわき市から来てくれた渡辺哲さんとは、いわきの四倉舞子温泉「よこ川荘」で出会うと3日間、一緒に走りました。奥会津をぐるりとまわり、新菊島温泉に泊まり、郡山からいわきに戻ったのです。四倉舞子温泉、新菊島温泉と連夜の酒宴でした。

◆古川(大崎市)から来てくれたtakedreamminさんとは古川から青森まで一緒に走りました。Akisanはただいま「世界一周」中。ウラジオストックからシベリアを横断し、ユーラシア大陸最西端のロカ岬に到達すると、バイクをいったんスペインのマドリッドに置いて帰国したのです。その最中に来てくれました。茅ヶ崎から来てくれた茅ヶ崎さんとは宇和島で出会いました。連休を利用して750キロ走ってカソリを捕獲したのです。それから3日間、四国を一緒になって駆けめぐりました。

◆藤岡から来てくれた女性ライダーの半蔵さんとの出会いは強烈でした。新潟から東京に向かったときのこと。ザーザー降りの雨の中、国道17号の三国峠のトンネル手前、新潟県側でぼくを待ち構えてくれていたのです。半蔵さんはずぶ濡れでした。そこから一緒に走りました。三国峠のトンネルを抜けて群馬県に入ると、猿ヶ京温泉の共同浴場の湯に入りました。高崎を過ぎると、中山道の倉賀野宿に行き、中山道と日光例幣使街道の追分に立ったのです。

◆やはり女性ライダーののりりんさんは、午前0時出発の日本橋に来てくれたのです。のりりんさんに見送られて、国道4号を夜通し走り、青森を目指したのでした。のりりんさんとはその後、楢葉の大楽院でおこなわれた焚火ミーティングで一緒になり、一夜を過ごしました。

◆戸塚から来てくれたtododesuさんとchobidesuさんのカップルは、我が「70代編日本一周」の最後を飾る「伊豆半島一周」に同行してくれました。12月30日の早朝、熱海駅前で落ち合うと川奈崎、稲取岬、爪木崎と東伊豆の岬をめぐり、伊豆半島最南端の石廊崎に立ちました。雲見温泉の民宿「三楽荘」に泊まったのですが、盛りだくさんの海鮮料理の夕食を食べたあとは二次会の開始。静岡限定生ビールの「静岡麦酒」や伊豆の地酒「花の舞」を飲みつくし、日付が変わったところで宴会はお開きになるのでした。

◆翌12月31日は黄金崎、恋人岬、旅人岬、御浜岬、出逢い岬と西伊豆の岬をめぐり大瀬崎へ。そこではまーすけさんが待ち構えてくれていました。報告会に三浦半島から来てくれたまーすけさんは大の「カソリ本」の読者で、20冊以上も持っているのです。伊豆半島一周を終えると、tododesuさんとchobidesuさんのカップル、まーすけさんと日本橋へ。21時15分、日本橋にゴールし、「70代編日本一周」を終えたのです。こうして地平線会議の報告会で日本一周中に出会ったみなさんに再会すると、愛おしさがこみあげ、胸がジーンとしてくるのでした。

◆報告会の後半はガラリと変えて江本さんとのトークショーになりました。江本さんは多くのライダーが愛用しているロードマップの『ツーリングマップル』を高く評価してくれました。というのはぼくはそのうちの『ツーリングマップル東北』を担当しているからです。地図に個性を! ということで、数多くのコメントを入れていますが、それらの大半は自分自身で実際に行って見聞きしたものなのです。夏には2019年版の実走取材や表紙撮影で1万3000キロを走りましたが、それも今回の我が「70代編日本一周」の第2部に含めています。

◆『ツーリングマップル関東』を担当している中村聡一郎さんと『ツーリングマップル九州』を担当している坂口まさえさんが報告会に来てくれたこともうれしいことでした。江本さんとのトークショーでは地平線会議発足時の話もずいぶんと出ました。四谷の喫茶店「オハラ」と「オハラ・パートII」で喧々諤々の議論をかわしたことや年報への熱い想い、報告会はカソリが担当することになったいきさつや記念すべき第1回目の報告者が三輪主彦さんだったこと、伊藤幸司さんの担当で地平線放送が開始されたことなどなど、過ぎ去った40年前を振り返ってみたのです。それにしても地平線会議、よくぞここまで続きましたよねえ〜、江本さん!(賀曽利隆)


賀曽利隆の「日本一周」一覧

先月号の通信でスペースの都合で載せきれなかった賀曽利隆さんの「これまでの日本一周」の記録を以下に再掲します。報告会では参加者全員に配布された資料。この鉄人の驚くべき行動力が伺える貴重な記録です。(E)

01=30代編日本一周
 1978年8月28日〜1978年11月16日(64日)
 「東日本編」、「西日本編」の2分割
 スズキTS50
 *18,981キロ

02=40代編日本一周
 1989年8月17日〜1989年11月16日(92日)
 スズキTS50
 *18,984キロ

03=50代編日本一周
  1999年4月1日〜1999年10月29日(122日)
  「西日本編」、「東日本編」の2分割
  スズキDJEBEL250GPSバージョン
 *38,571キロ

04=島めぐり日本一周
 2001年3月22日〜2002年4月22日(154日)
 「伊豆諸島・小笠原諸島編」、「本州東部編」、「北海道編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「沖縄編」の8分割
 スズキSMX50、スズキバーディー90
 *23,692キロ

05=温泉めぐり日本一周
 2006年11月1日〜2007年10月31日(296日)
 「関東編」、「甲信編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「本州東部編」、「北海道編」、「伊豆諸島編」の8分割
 スズキGSR400、スズキST250、スズキDJEBEL250XC、スズキスカイウェイブ400、スズキバンディット1250S、スズキDR−Z400S、スズキDR−Z400SM、スズキアドレスG125V
 *60,719キロ

06=60代編日本一周(第1部)
 2008年10月1日〜2008年12月27日(80日)
 「西日本編」、「東日本編」の2分割
 スズキ・アドレスV125G
 *19,961キロ

07=60代編日本一周(第2部)
 「四国八十八ヵ所・日本百観音霊場16,964キロ」スズキ・アドレスV125G
 「奥の細道8,642キロ」スズキST250
 「北海道遺産6,003キロ」スズキDR−Z400S
 *合計31,609キロ

08=林道日本一周
 2010年5月12日〜2010年9月10日(78日)
 「西日本編」、「東日本編」の2分割
 スズキDR−Z400S 15541キロ
 スズキ・ビッグボーイ 12,667キロ
 *合計28,208キロ

09=70代編日本一周(第1部)
 2017年9月1日〜2017年12月17日(93日)
 「東日本編」、「西日本編」の2分割
 スズキVストローム250 25,296キロ
 「日本一周プレラン」
 2017年8月1日〜2017年8月31日
 スズキVストローム250
 *4,174キロ

10=70代編日本一周(第2部)
 2017年12月20日〜2018年12月31日
 テーマ編の日本一周
 スズキVストローム250
 *63,648キロ

熱い感動を子どもたちに伝えてくれたカソリさん

マンガ「賀曽利隆」

■今回4コマ漫画を描かせて頂きました大堀智子と申します。私の賀曽利さんとの出会いは2011年の海外ツーリング、稚内〜サハリン〜極東ロシアの環日本海、そして翌年はマダガスカルを一緒に走りました。恥ずかしながら私はそれまで賀曽利さんを知りませんでした。

◆賀曽利さんの持ち物はカッパが入る程度の小さなリュックたった一つという軽装! 小物は米袋に入れる。「この米袋がね、ものを入れるのに丈夫でいいんですよ!絶対破れない!」。ボソボソの黒パンにニンジンのピクルスを挟みながら「この黒パンにこのピクルスを挟んで食べるのが最高に旨いんですよ!」。現地のものを喜んで食べ、「僕はねぇ、アムールのカソリって言われてるんですよ!」と訪ねた先々で名言が度々飛び出しました。

◆マダガスカルではクロコダイルがすむ川の水を汲んで沸かしたコーヒーを一緒に飲み、バオバブの森を縫うように走りました。ウラジオストックから日本への帰りの船に韓国の高校生が約30人乗っていました。あろうことか賀曽利さんはご自身で校長先生に話をつけて、彼らに自身の旅の話を披露すると言うのです。初めてアフリカ大陸を縦断したこと、旅への情熱その内容に私も興味津々! 時間を忘れて聞き入っていました。高校生達の驚く顔、嬉しそうな表情……。

◆その話を聴きながら、私の心の中にも抑えきれない熱い気持ちが湧き出しました。「この感動をもっと沢山の人と共有したい!」、そう思った私は勤務する小学校の子供たちにも是非お話をして欲しいとその場でお願いし、快諾を頂きました。旅から帰るとすぐさま職員会議でその意義と必要性を熱弁「夢を持ち、頑張れば叶えることができることの大切さを今の子供たちに知ってほしい! だって賀曽利さんは小4で大きな夢を抱いたのです」。

◆どうにか学校公開・地区公開講座として開催することになりました。当日、賀曽利さんは颯爽と黄色いスズキDR-Z400Sで来校。そして、そのバイクはなんと体育館の壇上へ。ライダーとバイクが登壇した授業など恐らく学校教育の歴史上初めてのことではないでしょうか? 賀曽利さんは子供たちの前でヘルメットと、あの小さなリュックを持ち、「みなさ〜ん、こんにちは! 僕が世界を走るときの持ち物はこれが全てです」初っ端からどよめき。2泊3日の林間学校だって荷物はこんなに小さくありませんから!

◆夢を追い続ければ必ずや実現できるという賀曽利さんの講話は、児童はもとより保護者・地域の方も興味津々に聞き入っていて、授業はあっという間……、大好評で幕を閉じました。子供たちは夢を持つことって大事なんだ、信じれば叶うのだということを学んだとたくさん感想に書いていました。すっかりカソリック教徒の私。私の心に熱い炎をつけてくれる、みんなの心にすごい風を吹かせてくれる、そんな賀曽利さんの魅力を伝えたくて漫画にしました。今回、その機会を頂けたことに感謝しています。(大堀智子 小学校図工担当)

「フェイスtoフェイス」 の素晴らしさ

■報告会への参加は1年半ぶりとなります。2019年スタートの報告会は“レジェンド賀曽利さん”との事で、是が非でも行かねば、と強風警報が発令される中、バイクで東京へ向かいました。・会場では今回の「70代編日本一周」を通じて知り合いになった方と多数お会いしました。これは今回の旅で特筆すべき「ツイッター」のお陰です。

◆賀曽利さんご自身も”超アナログ人間”とおっしゃっていますが、軽やかなスマホ操作で 旅の模様を事細かく配信され続けました。正直な所、初めて賀曽利さんがスマホを手にしている時はビックリしましたよ(笑)。訪れた場所をはじめ、出会った方々、食事、温泉、峠、岬、街道、休憩時の缶コーヒー等々……。その配信数の凄さにはビックリです。まさに一緒に旅をしているような気分でした。

◆ツイッターにより賀曽利さんの行動が逐一把握できるので、待ち伏せするファンが急増(私もその一人です)。これにより出会いの場面が急増し、旅が益々面白くなったそうです。私が初めて賀曽利さんの日本一周に立ち会ったのが、1999年の50代編の時です。出発時の日本橋でのお見送り。そしてゴール時も日本橋へお出迎えに行きました。確か30〜40人程のお出迎えの人で、日本橋がごった返していた事を思いまします。あれからもう20年経つのですね。

◆また、2006年の温泉巡り日本一周では福島県の浜通りエリアに同行させて頂きました。東日本大震災後、立ち入れなくなったエリアの温泉や廃業してしまった温泉等を巡れた事は今ではどれも貴重な経験です。賀曽利さんに同行すると、様々な事を身をもって教えて頂きます。常々「旅は記録」とお話されますが、東日本大震災以降の被災地域を巡る「鵜ノ子岬〜尻屋崎」では震災直後から被災地の状況を細かく記録し、また定点的に写真を撮り続け、それらを継続的に配信されています。これ程被災地全域を継続的に見続けている方は、賀曽利さん以外おられないのではないでしょうか。何度も走る、見続ける、そして記録する事の大切さを痛感します。

◆そして「テーマを持って走ること」も旅を面白くする秘訣ですね。60代編日本一周では「四国八十八箇所、奥の細道、北海道遺産巡り」等様々なテーマで走られましたが、一つの切り口に拘る事により、今まで見えてこなかった世界に出会える面白さがあります。私事ですが2016年に賀曽利さんの勧めで東北の「道の駅スタンプラリー」に挑戦しました。全146箇所(当時)を約半年掛けて周りましたが、「道の駅」巡りを通じて、今まで走ってないエリアを走ったり、どのように効率的にルートを組んで走るか等々、頭を駆使しながら面白く東北を旅する事が出来ました。

◆報告会で賀曽利さんの話をお聞きし、自分自身「もっともっと駆け回りたい〜!」という気持ちが沸き上がってきました。人に何かを伝える、伝えられるのは、やはり「フェイスtoフェイス」なのですね。久しぶりに報告会に参加し、この場が何と有意義であり貴重な場であるか、認識を再度新たにしました。

◆報告会からの帰路、深夜の常磐道は正に極寒の中の苦行でした。人気のないパーキングにバイクを止め、缶コーヒーで体を温めていると「この寒さに耐えながらバイクを走らせるのがいいんですよ〜!」いつものようにニカニカと笑いながら、そんな賀曽利さんの声が聞こえてくるような感じがしました。これしきの寒さに根を上げているようでは、まだまた修行が足りませんね〜。賀曽利さん、くれぐれもお体をお大事にして、今後も走り回って下さいね。これからもしぶとく跡を追って行きますので、師匠どうぞ宜しくお願い致します!!(渡辺哲 福島県いわき市)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」は別に記載しています。通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。ただし、通信費の口座に1万円を振り込んでくださる方もいてどちらもありがたい、とお受けしています。

辻里映(10,000円 お世話になりました)/川崎彰子(5,000円 遅れて申し訳ありません)/北川文夫/小長谷由之/古山里美・隆行 /神山知子/中嶋敦子(5,000円 2年分+カンパ)/滝口建次(4,000円 2年分)/辻野由喜(4,000円 昨年の通信費払ってませんでした)/宗近朗/土谷千恵子/二神浩晃

貴重な拾得物を地平線に
毎月、気持ちを鼓舞してくれる記事満載の地平線通信ありがとうございます。少し遅くなりましたが、通信費として5000円を送ります。余分はカンパです。なお、通信費とは別に「1万円カンパ」を銀行に振り込みました。実はこのお金(5000円)は妻を送って駅へ行った時に拾得したものです。駅前交番に届け、3か月経過し、所有権が自分に移ったので、有効利用をと考え、地平線会議へのカンパとして使うことにしました。かって、スキー全盛期でゲレンデが賑わっていた頃は財布や時計を拾ったことがあり、また田沢湖スキー場へ向かう路上で箱入りバナナを見つけたこともあります。近頃はスキーをする人もめっきり少なくなり、全く何も落ちていません。大曲駅も同様、人口減で乗降客が少ないのになぜお金が落ちていたのか不思議です。そこでこの状況を考えてみました。秋田県は過疎、高齢化で年寄りが多く、おそらくこのお金をなくされた方もご老人であろうと思われます。駅構内の人の往来も少なく、すぐには人目に触れず、私が拾うことになったのでしょう。どうかみなさん、秋田県へ、そして東北へおいで下さい。また何かいいものが見つかるかもしれません。(秋田県 年金生活者 小泉秀樹


地平線ポストから

ドアを開ければ銀河エクスプレスケンネル

ホワイトホース発

■「このままでは職場のリフレッシュ休暇(5日間・今年度中)を取り損ねてしまう……」。焦る年の初め、ネットでユーコンクエスト&オーロラツアーを見つけ、マッシャー本多有香さんのレース姿が見られるかも、と300マイル部門に予定通り出場するか本人にメール。「ひどい雪不足で、若い犬たちが怪我しても困るので、レースには出ない。“レース関係なく”でよければ、その期間仕事入れてないので、遊びに来てもいいよ」と返事。出発約2週間前のこと。期限切れのパスポート申請、航空券の手配、大風邪を経てなんとか機中へ。旅のメモから様子を少しお伝えします。

◆2月2日午後5時過ぎホワイトホース着。荷物を待っているとゆかさんがふわり現る。日本で会うより小柄に見えた。アルコール類は販売時間外のため、あらかじめビール6缶買っといてくれる。家まで車で約50分。暗闇の中、22頭の犬たちが「だれ?」と吠える。-25度くらいと聞くが、薪ストーブで室内は暑いくらい。「ふだんは飲まないからそんなに」と言っていたゆかさんだが、程なく「ビール足りねー」。外に出ると、トウヒのシルエットの間に大きな星粒と星座。

◆翌日は予約してくれた野生動物保護区ツアーへ。ゆかさんも初。開始の午後2時まで、図書館でユーコンクエストの様子をチェックし、コーヒー飲みに。店はどこもいっぱいで、いつもゆかさんに無料でサンドイッチを振舞うインドの女性が営むお店へ。「今日はコーヒーだけ」と言うのに、私の分までサンドイッチと豆カレー、コーヒーをなみなみ。代金は頑として受け取らなかった。

◆ヘラジカやホッキョクギツネなど北の動物たちに会った後、ユーコンクエスト300マイル部門のゴールを観に。女性で唯一クエスト優勝経験を持つ、ゆかさん憧れのアリーさんがぶっちぎり。暗い中写真撮影。「こっちーこっちー」とゆかさんが視線を要求すると「ユカホンダ!」と気付いて、少し話をしていた。その後映画を観に行き(ゆかさんのドキュメンタリーも手がけた女性監督の最新作)、夜中は手配してくれたオーロラ観測ツアーへ。

◆昼前、ゆかさんと合流。咳をしていて、頭痛もあると言う。移してしまったか。持参していた風邪薬を勧めたが「飲まない主義」。ちなみに、日本帰国の際、ゆかさんの体調を心配したお姉さんが人間ドックを受診させたところ、オールAだったらしい。

◆ビールを買い込み、コミュニティセンターで水汲みをして夕方帰宅。犬たちは「あ、また来たのね」とあまり吠えず。マッシャー有香はトレーニングの準備。1頭ずつ連れてきてはラインにつなぎ、ブーティーを履かせていく。計10頭。結構時間がかかるなあ、と見ていたが、いざソリに乗ったと思ったら、あっという間に行ってしまった。残された犬たちの寂しげな遠吠え。「置いていったのね〜〜」。そこから約3時間半後(予定では4時間コース)、一行元気に帰宅。犬のごはんの後、冷凍パイクの切り身をメインに、キャベツや豆腐、きのこを入れてお鍋をしていたら、犬の遠吠えシャワーが降ってきた。「おいしかったよー、ありがとうー」。なんて幸せを感じさせる声。朝夕この幸せシャワーを浴びるのが楽しみだった。午前5時ごろまで話したり歌ったり。夜半にトレーニングに出ることも多いゆかさんはずっと元気。

◆翌朝「頭いてー、早く横になりてー」と言いながら、犬の朝ごはんを用意するゆかさん。薪ストーブ周辺に置いてある巨大な冷凍肉ブロックのシャーベット部分、ドッグフード、専用ミルクなどをバケツで混ぜる。犬たちの待ちわびる声。昼前にみんなの爪切りをする頃には、私が近づいても、ぐるぐる歓迎してくれるように。概ねシャイで、手を伸ばすと後ずさりする子たちもいる。なんか、似ている?†

◆午後からは頼まれたソリの修理のため加工機材を使わせてもらいに、ゆかさんが親しくする家族のところへ。定期的に清掃の仕事に行くほか、こうしたちょっとした修理や大工仕事を個人的に受けながら稼いでいる。知り合いだとつい安く請け負ってしまうこともあるようだ。その夜はトレーニングをやめて付き合ってくれた。

◆翌朝はエンジン全開のゆかさん。犬のごはん後、薪作りのためチェーンソーで木を倒し、さらに裁断して薪小屋に運ぶ。午後は湖のほとりに住むネイティブの女性に頼み、氷上釣りを計画してくれた。家を訪ね、伝統のヘラジカのスープとバヌック(パン)をご馳走になる。朝から働いたゆかさんは、食べられるタイミングで凄まじく食べる。

◆湖に出て、スクリューで穴を開けてもらい、ひたすら釣り糸を垂れる。諦めかけた頃、ゆかさんが大物パイクを釣り上げた。古くから伝わるお祈りを唱えてからパイクの頭を棒で一撃。さばいて人と犬のお土産に。夕暮れをバックに連なる山と浮かぶ細い月を車窓から眺めつつ帰路に着く。午後8時ごろ、空港近くのホテルで別れた。あれからまたトレーニングをしたのだろうか。

◆これからは、ドアを開ければ銀河エクスプレスケンネル。幸せシャワーが降り注ぐ場所。そこでは行動の全てが覚悟と潔さの具現。だから心打たれ、力になろうとする人たちがいるのだろう。(中島ねこ

「写真家たちのクスコマルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真」展で、イルマ・オスノの歌声を聴いた

1月24日〜2月12日 東京・三宿

■マルティン・チャンビの写真は、3年前白根全さんによって日本に紹介され、ペルー大使館での写真展には、写真好きの人や中南米に関心を持つ人たちが大勢訪れ、好評を博した。始まる直前まで、ネットで検索しても主催者のサイトにさえ何も出てこなかったのに、オープンした途端から書き込みがあふれ出て驚いた。それだけチャンビの写真は人々、とりわけ写真好きの人を引き付けるものなのだろう。前回の写真展は、以前「インカ帝国展」に出した大判・中判のプリントが未返却で、返却を迫られていた全さんが、返す前にもう一度見せようと企画したものだった。

◆今回はチャンビを中心に、日系2世のエウロヒオ・ニシヤマ、ほか同時代の写真家たちが写したクスコ周辺の人々がテーマで、20世紀前半のアンデスの暮らしを垣間見させてくれて面白かった。古い写真を見ていると、殆どの人が写真とは無縁に生きていた時代に、被写体になった人達は、文化的にも随分レベルの高い生活をしていたのだなと、いつも驚ろかされる。

◆私が行った2月3日のイベントは「アンデス写真とキャンドル・ライトの生音コラボ」だった。電気を消して床に置いたキャンドルで壁面の写真を漂わせ、音も生音のみ。そうすることで「感覚全体が鋭敏に反応」し、「聞こえない音が降り注ぎ」、「見えない映像が写真から浮かび上がってくる」というのが企画者のうたい文句。アヤクーチョに向けて放たれたイルマ・オスノの祈りを込めた歌声は切々として、地球の裏側まで届いたかもしれない。

◆私が南米を一人旅した80年代初め、アヤクーチョは極左武装組織センデロ・ルミノソの軍事拠点となり、多くの農民が殺されたり、村外に連れて行かれたりした。インカ以前の古い歴史を持つアヤクーチョに行って見たいという気持ちはあったが、私のような一介の旅行者が安易に訪れるところではなかった。その頃、イルマ・オスノはヤギや羊の番をして自由に暮らしていたらしいのだが、彼女が日本で出した『タキ アヤクーチョ』というアルバムの冒頭は、こんな詞で始まっている。

  「遠い日の道を見ている。
  あの道は一体何を隠していたのだろう。
  あの道から沢山の村人たちが旅立ち、帰る者はほとんどいない。」

◆彼女もまた12歳で姉と一緒にゲリラに怯えながら村を離れてリマに行き、働きながら学んで教師になった。さらにケチュア語や歌や踊りを村出身の人たちに教えていた。そうした多彩な活動の中で、「異能のギタリスト」と言われる笹久保伸と出会って日本に来たようなのだが、彼女が歌う詞の中には「別れ」「死」「滅亡」「苦しみ」「涙」「哀しみ」といった言葉が多く出てくる。先のアルバムの冒頭の文章も、次のように結ばれている。

◆故郷を去り他の世界に暮らしていても、祖先たちが大切にしたあの魔法の人魚たちはいつも私の横で戯れている。私が作る歌もまた祖先たちの歌なのである。」不本意にも命を奪われ、自由を奪われた故郷の人たち。その哀しみを歌にして伝える宿命を引き受けて、イルマ・オスノは秩父の山から発信しているのだろうか。(大野説子

ふんわり幸せな気持ちに

京橋で「にわう 飛騨展」開催ご報告

 飛騨高山で染め織りをしている中畑朋子です。2月4日から9日まで、東京では10年ぶりのグループ展を京橋の「ギャラリーモーツァルト」で開催しました。タイトルは「にわう 飛騨展」。「にわう」というのは飛騨の方言で「にぎわう」という意味。飛騨の町に立つ市のように「にわう」ことを願っていたところ、おかげさまでたくさんの方に気にかけていただき、また、足を運んでくださいました。本当にありがとうございました!

飛騨のモノづくりの仲間(木工:kino workshop片岡清英さんと片岡紀子さん・陶芸:しずく窯 中西忠博さん)と創った展示はとても温かい空間になりました。片岡さんはテーブルやスツール、盆や皿、ブローチ。中西さんはマグカップと皿。私はタペストリーや草木染のスカーフを並べました。飛騨に戻ってからこの4月で20年になります。想いの重なる作り手の方々と知り合えて、一緒に活動できること、ふんわり幸せな気持ち。

 今回、東京では初めて「裂き織り」の作品を見ていただきました。「裂き織り」というのは、細く裂いた布(5ミリから8ミリくらい)を緯糸に使う織物のことです。古い着物や布団の生地を使うことが多く、日本各地の豊かではなかった地域での、貴重な布を最後まで丁寧に使い切るための暮しの工夫でした。配色や風合いを愉しんでくださった方が多く、アジアの匂いを感じるという感想も。古い布が形を変えて生まれ変わるということが面白く、もっと作りたいと思っています。

 布好きな方が多い地平線会議。報告会でお会いしたら、ぜひ布の話をしましょうね〜(飛騨高山在住・中畑朋子

思わぬドカ雪に苦労

(通過点)の南極点

■南極点へ向け独り歩く。ソリが進まない。引くたびに100キロのソリが全て雪に潜る。こんな積雪の事例は聞いた事がない。一歩進む度にスキーが膝まで埋まる。南極で膝ラッセルなんて想定外だ。遅々としてペースは伸びない。このまま行くと食料が尽きる。自然の理不尽さに心から不条理を感じる。余裕で南極点まで着ける予定だった。そのプランが手のひらからこぼれていく。

◆日本人初のルートで無補給単独で南極点にたどり着く。そう公言してきた目標だ。やりきれるはずの目標。スポンサーや個人から4か月かけて必死で集めた実行資金の1500万の万札が白銀の世界に舞う幻覚が見える。このまま失敗したらどんな顔をして僕は日本に帰ればいいだろう。僕の努力と鍛錬が足りなかったのか。

◆北極圏グリーンランドで凍てつく海に落ちた。氷上に這い上がったあとの気温は−40度。死んでたまるもんかと海水で濡れてバリバリに凍ったウェアのまま氷上を2時間マラソンして体温を上げた。生き残ったからには南極点にたどり着く使命があると感じていた。毎年の遠征の度に危ない橋を渡り、崩れて這い上がり、強くなってきたつもりだ。その苦労も熱情も雪の中に溶けて行く。僕みたいな凡人はどんなに努力してもムダなのか。

◆南極大陸への経由地南米チリ・プンタアレーナスに降り立ったのは2018年11月10日。4度目の南米。チリは22歳の時に南米自転車縦断して以来だ。ザマァ見ろ、オレは戻ってきたぞ。そんな痛快な気持ちだ。22歳の時にパタゴニアで自分に誓った。必ず南極にチャレンジしに戻ってくると。パタゴニアにはカラファテというブルーベリーのような身をつけるトゲを持つ低木が生える。その身を食べるとパタゴニアに戻ってくるという伝説がある。

◆強風が吹き付ける地に生える実をついばみながら、金髪で生意気で若い僕は誓いを立てた。そして戻ってきた、この土地へ。プンタアレーナスには一週間滞在した。ここで南極行きの飛行機を飛ばす会社ALEとの最終ミーティングをこなし、南極での50日分の食料もここで揃える。南米でどんな食料が手に入るかは今までの経験で知り尽くしている。多くの冒険家たちは全ての食料を母国から空輸するが、輸送費が高額になる。資金がギリギリの僕にはその余裕はない。過去の遠征の経験が活きた。

◆最も困難だったのは資金確保だ。従来予定したルートでの挑戦は諸事情により変更せざるを得なくなった。ALEとの相談の結果、今遠征のルートが決定したのは7月。出発までの4か月で全ての資金を確保する必要があった。南極行き飛行機を予約するために直ぐに前払い金として100万を振り込んで欲しい、と連絡が来る。7月の時点で口座にあったのは108万円。そのうち100万はスポンサーから南極遠征用に頂いたお金で、実際に僕に残されたのは明日も食べていけないような残金だけ。

◆1月は現在最後に北極点徒歩到達を達成した外国人冒険家エリック・ラーセンたちとカナダ・ウィニペグの凍結湖で極地トレーニング。5月は人力車を引いて地元秋田一周。考えてみると遠征に年中出ていてはお金がある訳がない。この状態から大金を作るのは全くバカげているように思えた。今まで以上に忙しさが加速した。ストレスで慢性じんましんが再発。全身が発疹で膨れ上がりながらも、抗アレルギー薬を貪り、日本中を駆けずり回る、

◆目処がたったのは出国の数日前。その間もソリ引きを想定したタイヤ引きトレーニングを荒川河川敷で欠かさなかった。河川敷に行くには工場地帯をタイヤを引いて通過する。始めは気味悪そうな目で見ていた工場のおやっさん達だったが、日が経つにつれ、「今日もガンバっているな、見ると元気になるよ」と声を掛けてくれるようになった。

◆資金を確保し、装備品も揃い、体力もつけた。舞台は整った。遠征の概要について説明する。南極大陸ロンネ棚氷海岸線から南極点までの約900キロを単独無補給でソリを引いて歩く。このルートは主要ルートのうちの1つであるが、最も主流なヘラクレス入江海岸線からのスタートに比べると挑戦者はグッと減る。チームでも単独でも日本人の挑戦者はまだいなく、日本人初ルートという分かりやすいタイトルも付けられる。

◆単独無補給の達成者はわずかに2人のみ。想定では40日間の行程を見込み、正月に南極点に到達できる予定だが、念のために最大50日分の食料を積み込んだソリは110キロほどの重さになった。僕が目指すのは白瀬ルートでの南極点到達だが、実現するには一度南極点に立って実力を証明する必要があると感じていた。

◆南極にあるベースキャンプ・ユニオングレイシャーに到着したのは11月19日。ベースキャンプからロンネ棚氷までの飛行機が悪天候のためになかなか飛ばず、スタートに降り立ったのは23日のことだ。ロンネ棚氷までは他の冒険家たち4人と小型プロペラ機をシェアをする。フルチャーターすると費用が爆発的にかさむ為だ。

◆4人のうち1人はガイドでいわゆるガイド付き冒険で南極点を目指すチームだ。海岸線と言っても海側遠くに氷があるので360度何もない。Middle of Nowhere(何もない僻地)に自分たちを残すと直ぐにプロペラ機は去っていく。単独という定義に沿う以上、チームと時間を過ごしてはいけない。コンパスで方向を確認すると即座に歩きだす。

◆子供の頃から夢見た南極。果てなく続く雪原(ゆきはら)をいま歩いている。極地冒険を本格的に始めて5年。不器用な自分は随分と時間がかかったけどいま、憧れの雪原を踏みしめている。大気に降り注ぐダイヤモンドダストが照明。ギラギラと光を反射する氷雪が舞台だ。レッドカーペットを歩くよりもずっと豪華な道だ。観客はいない。それでいい。憧れた生き方をいま僕は生きている。その実感が幸福感を生む。夢は叶うんだ。

◆始まりは実に順調だ。行動時間5時間より始め12時間まで段階的に伸ばしていく。ソリも滑らかに進む。1週目で1日20キロ近い距離を稼ぎ出していた。持ち込んだ篠笛をテントの中で吹いて楽しむ余裕すらあった。全てが想定内。楽勝だ。このまま南極点まで駆け抜ける事に絶対の自信を持っていた。

◆異変が起こり始めたのは7日目からだ。ホワイトアウトに合わせてドカ雪が降る。夜中に起きて(白夜なので時計上での真夜中でしかないが)雪かきをしなければテントが潰れそうだ。積雪があれどペースが変わるほどではない。ところが毎日の積雪が止まらない。ロンネ棚氷方面は積雪が多い地域だが今シーズンは異常だ。雪量は日毎に増す。ソリの腹が雪面を擦りだした途端にペースが落ち始める。まだ雪は止まらない。

◆舟体が完全に埋まり始めた21日目。時速0.8キロのワーストレコードを叩き出した。食料と燃料が減っていくので20キロ以上軽くなっているのに関わらずだ。無理に引くと腰を痛めて継続不可能になりそうだ。チームなら交代でラッセルできるが僕は独り。全力で引いてもソリが進まないどころか、ソリの重さに負けて自分が前のめりに転ぶ始末。顔中雪まみれになりながら唇を噛む。実現の為にどれだけ尽力してきたと思うんだ。なぜ自分ばかりこんな目にばかり合うんだ。僕が何をしたっていうんだ……。

◆食料が日々減る。それをただ見ている事しかできない。どんなに時間がかかっても50日間で絶対行ける自信があった。その自信が日々なくなる。ホワイトアウトで1週間太陽を見ない事もあった。プレッシャーから不眠症になった。疲れているのに全く眠れない。350km地点で必ず通るチェックポイントに到達したのは31日目の事だ。20日かからない予定だった場所だ。残りは550キロあるが、もし雪が降らなければ無補給で到達できるだろう。もし雪が止まなければ食料が途中で尽きる。一か八かに賭けるのか。道中で1番の決断を迫られた。

◆食料が尽きる可能性を感じ、ここにある食料庫から追加で食料を受けることにした。これで無補給というタイトルは消える。追加食料を持とうとする手が震える。悔しい、悔しい。こんな例年にないことで意志を変えなければならない。自分が何を目指すべきかと考えていた。今は意固地に目標を押し通すべきじゃない。絶対に南極点に辿りついて白瀬ルート実現の道標にする事がなすべき事だ。達成するのとしないのでは全く違う。着くんだ、南極点。この悔しさを忘れなけばそれでいい。

◆残りの550kmは24日間で駆け抜けた。食料を追加した分だけペースが少し遅くなったがほぼ予定どおりの行程だ。結果的に雪が降らなかったからだ。後半は寒波が来た。南極点に近づくと南極滑降風のカタバ風は弱まるが、一切弱まらなかった。−40度以下の北極圏で一度もならなかった凍傷を顔に受けた。極点にはALEの民間キャンプがあるが19日でシーズンオフで完全に閉鎖すると連絡があり、それまでに到着する必要があった。

◆最後は制限時間との戦いだ。このシーズンは僕が最後の南極点到達者になった。僕の後ろにもコンビが歩いていたが強制ピックアップになった。知る限りヘラクレスとメスナーから単独で8名が挑戦したが、達成したのは僕を含めわずかに3名のみ。ALE側から審査があり達成できる実力者しか挑戦できない南極では通常でない。

◆南極点に着いたのは僕の時計で1月16日。GPSの数字が南緯90度を指す。今まで写真で見たことしかなかった場所。南極点はプラトーに位置する。真っ平らな雪原に各国の国旗がたなびく。雲ひとつない南極晴れ。世界の果てに僕は立っている。感動はない。喜びよりも白瀬ルート実現のでっかい夢がムクムクと湧き上がってくる。金髪で凡人の大学生だってここまで来れる。もっと高い目標にだって手が届く。無補給ではなくなったが後悔は何1つとしてない。様々なトラブルが僕を成長させてくれたからだ。

◆到達した今だから言える。ドカ雪がなければ余裕で達成してしまっただろう。だが、それでは成長がない。何の痛痒もない遠征より痛みを伴う遠征の方がずっと良い。僕は強くなれたと実感できた。民間キャンプから南極点にあるアムンゼン・スコット基地の見学ができる。その誘いを断った。キャンプマネージャーは“断った奴は初めてだ。どうして?”と言う。僕は答える。「白瀬ルートを実現させて必ずここに帰ってくる。見学はその時の楽しみにとっておく。」

◆ここは通過点だ。努力すれば必ず白瀬ルートは実現できる。僕はそう信じてる。(阿部雅龍


先月号の発送請負人

■地平線通信477号(2019年1月号)は1月16日夕、印刷、封入仕事を行い、翌17日、新宿局に引き取ってもらいました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 長岡竜介 中嶋敦子 久保田賢次 伊藤里香 横田明子 兵頭渉 前田庄司 江本嘉伸 白根全 松澤亮
  このほかに名簿管理している杉山貴章さんが作成した宛名住所原稿をプリントのため加藤千晶さんが森井祐介さん宅まで届けてくれました。皆さん、ありがとうございました。


貴ノ岩の断髪式に参加して

■この1年はなんだったんだろう? 多くの相撲ファンにもやもやした違和感を残したまま、貴ノ岩関が引退した。2月2日に両国国技館でおこなわれた貴ノ岩関の断髪式には約370人の関係者(ファン枠の100人を含む)が集まり、一人ずつ、数ミリずつ、大銀杏にハサミを入れた。

◆生まれて初めて断髪式に参加することになった私自身は、モンゴル人の野性味に惹かれ、日本でもっとモンゴルの情報を紹介できたらと思い、7年前から現地と日本で彼らの取材をしてきた。そんななか、友人の紹介で当時貴乃花部屋所属の貴ノ岩関と知り合ったのが一昨年の9月場所最中だ。

◆その直後だった。まさにこれから番付を上げていくだろうと思われた矢先、鳥取での殴打事件をニュースで知り、それからは連日の報道をはらはらした気持ちで見守りながら、Facebookに流れるモンゴル人たちの怒りに心を痛めた。英雄である横綱日馬富士を引退させるきっかけになった貴ノ岩は悪者扱いだったのだ。結局、事件の真相は私にはわからない。現場にいた人たちのなかに友人知人がいたものの、彼らに当時の話をまだちゃんと聞けていない。この1年は、貴ノ岩関にたまに応援のメッセージをラインするのみで、返事は来たり、来なかったり。でもまさか、彼自身が加害者となって終わるとは。

◆断髪式は、朝11時からはじまる。国技館に向かう道すがら、両国駅で私の目の前にとまった車から鳥取城北高校校長の石浦監督とモンゴル人コーチのガン先生、そして貴ノ岩関の後輩にあたる同校卒業生の逸ノ城関がおりてきた。先生たちは鳥取から早朝の飛行機で来たという。式の開始直後には横綱白鵬関と元日馬富士関があらわれ、それぞれ土俵に上がった瞬間、来場者たちがいっせいにスマホで撮影した。男性ゲストがハサミを入れ終えると、貴ノ岩関が土俵の下におりて椅子に座りなおし、今度は女性ゲストの番に。土俵は女人禁制なのでこうするしかない。

◆自分の番以外は自由時間なので、私は真後ろのマス席にいたひっつめお団子ヘアのモンゴル人女性とおしゃべりしていた。いかにもモンゴル人らしい活発そうなその女性は断髪式のために来日したそうで、「私、バスカ(貴ノ岩関の名前)の姉なのよ」と嬉しそうに言った。最後の晴れ舞台に、お姉さんを含む家族やごく親しい友人を日本に招待したらしい。

◆女性たちが断髪を終えると、ふたたび土俵の上で現役の関取たちの出番。花道には袴姿のモンゴル人関取たちがずらり勢ぞろいで、現役力士のなかで最後にハサミを入れたのは弟弟子の貴景勝関だった。大トリは千賀ノ浦親方。何度も角度を変え大胆にハサミを入れて大銀杏を切り落とそうとするものの、なかなかそうならない。それはまるで人間の首を切り落とす光景のようで、ついに親方が大銀杏を手に持ち上げた瞬間はショックしかなかった。力士としての命がこれで本当に終わったのだ。

◆式のあとは地下1階の大広間に場を移して立食パーティー。ツーブロックの短髪に生まれ変わり、この日のために作ったというスーツを着て、元貴ノ岩関はふっきれたような笑顔だった。それ以上にはじけるような笑みを見せていたのが千賀ノ浦親方。夜の3次会にはモンゴル力士たちも駆けつけ、髷のない元貴ノ岩関だけが体格のいいサラリーマンのよう。この人は本当に関取だったのかなと不思議な感じになったけれど、モンゴル人がいっぱいのその場にこそ、ここはどこの国なんだろうと奇妙な感覚にさせられた。

◆ちなみに同じ両国国技館で2月11日に白鵬杯があった。世界8か国、1200人もの小中学生力士たちがトーナメントで闘う毎年恒例の大イベントで、主催はもちろん横綱白鵬関。昼休みに土俵上で白鵬関と元大関小錦関のトークイベントがあり、そういえばハワイの時代があったなあ、となつかしくなった。モンゴルでは大相撲に憧れる子どもが今も増えていて、まだモンゴル時代は終わりそうにない。

◆さて、2019年のモンゴルの旧正月は2月5日。元貴ノ岩関の家族は彼の自宅に泊まってお正月を祝い、数日後モンゴルへ帰国したという。土俵の上でもっと結果を残したかったという悔しさを誰より噛み締めているのはもちろん元貴ノ岩関本人のはずで、これからは俗世界で、苦労人のど根性を見せつけてほしいとただ祈る気持ちしかない。(大西夏奈子


1万円カンパ、ありがとうございました

■地平線会議40年を機に始めた1万円カンパ、今も協力が続いています。手弁当で続けてきた活動、今後もある種の覚悟でやり続けるしかありませんが、若い人に気楽に来てもらうには後方支援はほんとうにありがたい。カンパは4月まで続け全協力者氏名をあらためて掲載いたします。
  みずほ銀行四谷支店
  普通 2181225
  地平線会議代表世話人 江本嘉伸

なお、記名忘れは頻繁にあります。すみませんが気づいたらお知らせください。
 北村敏 中澤朋代 小泉秀樹 西山昭宣 重廣恒夫

◆日本山岳会の副会長 重廣恒夫さんからはこんなメールを頂いた。1980年のチョモランマ登山で彼は北壁隊のチームリーダー、私は北東稜チームの報道隊員だった。「ご無沙汰をしています。先日は、『風趣狩伝』及び地平線通信477号お送りいただき有難うございます。40年の歴史の詰まった報文に圧倒させられました。また、477号では「明石太郎」さんの名前を拝見して懐かしく思いました。彼とは、1988年の交差縦走で一緒でした。日本山岳会は2025年に創立120周年を迎えます。会員数が漸減する中、どんなテーマがあるのか模索中です(後略)。江本さんにも色々とご教示いただきたいと思っています。最後に、些少ではありますが、カンパをさせていただきます」。重廣さん、ありがとう。(


今月の窓

じゅんこのにわ

■東京都小金井市にある長野淳子さんの庭はまるで小さなトトロの森のようでした。築50年の古い木造2階建て、縁側の前に広がる庭には、ソメイヨシノ、イチョウやアオギリの高木が育ち、季節になると夏ミカン、カキ、グミ、クワ、ビワの実がなり、真ん中には小さな畑がありました。それは武蔵野の里山そのものでした。

◆庭のシンボルは古い竹垣の角に立つソメイヨシノ。両手で抱えきれないほど大きくて、毎年満開の花を咲かせます。玄関の左脇にあるイチョウの大木は、たくさんの銀杏の実を落としてくれます。淳子さんが子供の頃この庭は一面芝生でお母さんが丹精込めた花壇や藤棚があったそうです。時が過ぎ、この庭は、飼猫7匹にとってのモグラを捕る狩りの場であり、草むらに身を隠す野生の庭になっていました。

◆昨年5月、淳子さんが抗ガン剤治療を止めて自宅療養を始めた頃、淳子さんから五反舎に庭の木を剪定してほしいとSOSがありました。五反舎とは淳子さんをはじめ夫である亮之介さんや私も参加している森林ボランティア団体です。月に2回高尾の国有林で枝打ちや間伐作業をしています。植林地での間伐には慣れている五反舎ですが、市街地の大木の剪定には専門の機材や技術が必要で難しい作業だと思われました。

◆淳子さんの心配は「庭が荒れてきて近所に迷惑をかけたくない、強風で木が倒れるのが心配だ」ということでした。あらためて庭を見てみると、確かに玄関左脇にあるイチョウの木は10mを越える高木となり近所のシンボルタワーのようになっているし、玄関右脇の梅の木は向かいの家の梅の木と絡まり道を挟んでアーチを作っている。隣の家に枯れ葉を落とすヒマラヤスギ、裏の家の屋根に覆いかぶさるエノキ、ムクノキは家の居間にくい込んでいました。ほとんどの高木が直径30cmを越える大木になっています。

◆5月24日、私の古くからの友人で「大地の再生講座」を主宰している造園家・矢野智徳さんに淳子さんの庭を見てもらいました。矢野さんの大地の再生講座とは、土の中の水と空気の循環を第一に考えた土地改良事業で、ワークショップ形式で日本中に広まりつつあります。

◆その頃はベッドで横になっている時間が長くなっていた淳子さんでしたが、この日は居間の籐椅子にゆったりと座り、庭を眺めながら矢野さんや私たちに、「今の庭は木が大きくなりすぎて心配、庭の風の通りが悪く湿気が溜まって蚊が多く庭に出られない。実る果物を自由に採れるような楽しい庭にしたい」とゆっくりとした口調で話し始めました。開け放たれた縁側から見える新緑の庭の前で、自分たちの足元にある小さな自然について矢野さんとゆっくりと語り合う淳子さんの姿が忘れられません。

◆矢野さんは、「この庭は、周辺がコンクリートの道に囲まれて植木鉢のような状態になっている。植木鉢の底穴がだんだん詰まってきているので、庭に生える草木が水と空気を求めて根を必死に伸ばし枝を伸ばしている状態である」と言いました。工事をして土の中に空気と水が通るようになればこの庭がもっと良くなる。これで淳子さんの心配もなくなると思うとホッとしました。

◆6月12日、淳子さんが危篤状態になり、ほとんど寝たきりになりました。昼間は、駆つけてきた友人たちがベッドのそばで淳子さんに付き添っていました。夜は亮之介さんと淳子さんの妹が交代でベッドの傍で食事して眠ったそうです。18日に静かに息をひきとるまで、そんな時間が流れていたそうです。庭とつながる淳子さんの部屋にはいつもそよそよと風が入り、鳥の声、セミの鳴き声、猫の日向ぼっこ……。庭の気配を感じながら淳子さんは最後の時間を過ごしていたのですね。

◆23日のお通夜の朝、高尾の森が好きだった淳子さんのために、五反舎の有志が鉈と鋸を持って高尾駅に集合。淳子さんの祭壇へ供えるヒノキの枝を用意するためです。たくさんの方がヒノキの枝を手に取って淳子さんにお別れを言ってくださいました。

◆7月1日、8月12日、延べ30人が参加して「じゅんこのにわの再生講座」を開催しました。「じゅんこのにわ基金」には多くの方が募金してくださいました。まず、風通しをよくするために低木を剪定し、同時に敷地内の建物や高木の周りに深さ30cmの溝を掘ります。土に空気を通し空気を追って水が通っていくようにするためです。山のようにでる剪定枝を機械でチップにし、砕いた炭と一緒に溝に入れ込みます。最後に高木のイチョウ、ヒマラヤスギ、アオギリ等の剪定を矢野さんが行いました。今、庭の中は山と谷のようにデコボコしています。風が抜け、日当たりもよくなりました。春になって草木が芽生えてくるのが楽しみです。

◆今年1月、有志が集まって竹垣を作り直しました。これは亮之介さんの念願でした。青竹の清々しさがとっても美しいです。2月早々には総ヒノキのベランダと縁側が完成しました。淳子さんが生前に中野の大工さんに注文していたのだそうです。桜の咲く頃、このベランダから眺める桜は素晴らしいことでしょう。これからも庭のメンテナンスを続けながら、変わっていく庭を愛でおいしいお酒を飲みたいと思います。興味のある方はぜひご参加ください。

◆淳子さん! 退職したら家で寺子屋をやりたいと言っていましたね。亮之介さんも最近そんな話をしていますよ。(本所稚佳江 じゅんこのにわ世話人)


あとがき

■フロントで書いたことに関連してもう少し。岡村隆たち「2018年 スリランカ密林遺跡探査隊」の報告会が2月2日、文京区の拓殖大学で開かれた。私のほか宮本千晴、三輪主彦、野地耕治ら地平線の仲間たちも参加したが、3時間の予定では終わらず30分以上もオーバーする熱のこもった内容だった。

◆宮本がとりわけ感心したのは隊の編成についてだった。私もまったく同じ感想を持つ。どうやってこういう広い範囲で青年たちを結集できたのだろうか。以下、テーマ別にこの日の隊員たちの役割を紹介しておこう。

◆「幻の遺跡・百年ぶりの発見!」を目指した計画の全体概要と経過報告及び隊員紹介 岡村隆」「動画による活動報告 木村亮太 拓大探検部4年」「ヤラ自然保護区のフィールドと探査について 吾郷章次 日大探検部3年」「遺跡について 橋富啓嘉 日大探検部3年 石田康太郎 拓大探検部」「マルワーリャ遺跡と先住民岩絵について 中森あさひ 法大探検部3年」

◆「ドローン導入と活用についての報告 甕三郎 副隊長 法大探検部OB 中森あさひ 法大探検部」「土器調査について 鈴木慎也・考古学 東京高専助教」「渉外報告 松山弥生 青年海外協力隊OG 小学校教諭」「探査方法に関する今後の課題 境雅仁 武相文化財研究所主宰 法大探検部OB」これらの隊員たちが今後も遺跡調査をどう展開してゆくのか楽しみだ。

◆報告会の会場、3月は今月と同じ新宿コズミックセンター。4月からいつもの新宿区スポーツセンターに戻ります。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

沼(ぬま)のイラク、源(みなもと)のトルコ、水旅珍道中

  • 2月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿コズミックセンター 大会議室
いつもと場所が違います。

湿地帯には集落がないんですよ。だから僕の好きなブラブラ歩きができなくて」と言うのは“辺境ライター”の高野秀行さん(52)。古代メソボタミア文明を育んだチグリス、ユーフラテス川が合流するイラクのペルシア湾河口付近には、最大で四国ほどの面積に広がる大湿地帯があります。

アラブ系民族が水と共に暮らしていましたが、サダム・フセインの時代に反政府勢力の拠点となったため干上がらせてしまった。それが2年前に復活したのです。「アラブなのに水の民って興味津々」の高野さんは旅の師と仰ぐ山田高司さん(60)と共に昨年一月現地に入りました。

山田さんは農大探検部出身。南米三大河川航下をはじめ、アフリカ、中国など川渡の経験は群を抜き、環境問題にも造詣が深い地平線会議同人です。二人は湿地帯の住民から大歓迎され、名物の「コイの円盤焼き(高野)」に舌鼓みを打ったものの、舟がなくては自由に移動もできません。

一旦帰国した二人は、今度はクルド民族が暮らすユーフラテス川源流のトルコを8月に訪ねます。源流と支流の“聖なる川”の約500kmをカヌーで下りました。クルド人の住むクルディスタンを「最下層の視点(山田)」から見る旅はオモシロイ発見に満ちていました。

今月は高野さんと山田さんに珍しい水の旅の報告をして頂きます!

今月は会場がいつもと違います。御注意を!


地平線通信 478号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年1月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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