2018年6月の地平線通信

6月の地平線通信・470号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月13日。新聞もテレビもきのうのトランプ、金正恩による「米朝首脳会談」の話で持ちきりだ。「正恩氏「非核化」を約束 期限・具体策に触れず」(朝日新聞)」「米朝『非核化』確認 初の共同声明」(読売新聞)など、総じて前向きの受け止めだが、アメリカ国内の反響は「結局金正恩ペースだったのではないのか」と厳しい。

◆世界の政治指導者の出会いの組み合わせとして、おそらくトランプ・金正恩はもっとも“個性的な(異様な?)2人”であった、と私は思う。アメリカのゴールデンタイムの21時に設定された対面は、トランプにとって最高の見せ場であった。会っただけで十分、今後長く続くであろう交渉の号砲が鳴った、のだ、と私は考え、惠谷治がいたらどう辛辣にコメントするだろうか、と思った。

◆地平線会議のある意味“核的存在”だった惠谷治が5月20日夜、狛江市の病院で膵がんのため亡くなった。69才だった。惠谷は早大探検部OB。世界各地の紛争地を取材、さまざまな媒体でその成果を発表、北朝鮮をテーマとした多くの著作を発表してきた。地平線会議では1979年10月、第2回地平線報告会で「砂漠からサバンナへ 独立の戦火を追って」のテーマで報告者となったのをはじめ、40年にわたり、さまざまな場面に登場してくれた。

◆強い筆圧で書かれた「惠谷治の鉛筆書きのメモが私の手元にある。タイトルは「(仮称)探検年報の作成原案」。地平線会議発足当初、報告会以上に大きな仕事は「冒険・探検年報『地平線から』」の制作、刊行だった。編集長は森田靖郎。惠谷治は編集委員の1人として打ち合わせに何度も参加した。鉛筆書きのメモは、ある日の会合の内容をまとめたものだ。

◆「そもそもこの企画の発端は、日本人と地球とのかかわりあいを、可能な限り網羅し記録することに主眼があった。しかしながら、いわゆる探検、冒険は別としても主観的な旅を含めて数ある体験例をどのようにして、取捨選択するかという点で去る11月14日、編集委員で論議した結果、次のような結論が得られた。」と冒頭に書いた惠谷は以下、地平線会議にとって大事な規範を書き綴っている。

 ◆1 対象 国内外を問わず陸海空全フィールドでの体験を対象とする。方法論や学術的分野の目的、構成メンバーなどを問わず、あらゆる行為が対象となる。
  2 選択基準 地球を“ナメクジル”ように全ての行為を記載することは、不可能であり、無意味である。また、年報がある意味で信頼をかち取り、価値あるものにするために、下記の項目の少なくとも複数を満たしているものであり、我が探検界の慣習法的な規範、すなわら編集委員たちの独断と偏見のフィルターを通ったものに限る。

そして、惠谷治は次の9項目の行為を地平線会議の基準として書き残している。

 ◆1 さわやかな行為 2 感動させた行為 3 大自然とかかわる行為 4 なんらかの記録更新 5 極限状況の中での行為 6 発想のユニークな行為 7 職業の範囲を越えた行為 8 感動的な発見の経過・成果 9 現地レベルでの生活体験

年報は8冊で役割を終えたが、惠谷治のこのメモは根っこの心として今も脈々として受け継がれている。

◆7年前、70才になったのを記念して太平洋からテントを背負って富士山を超える3泊4日の登山をやって以来しんどい山をやっていない。代わりに身近な山で身軽な装備で藪歩きをやるようになった。甲斐の山の小屋を拠点に誰も来ない山に1人入り、3時間を上限として藪漕ぎをするのである。ウグイス、ホトトギスの清らかなさえずりに包まれて,折々の花々に和む。なんだか全く“世捨て人”の世界だが、それが私には意外にも心地よいのである。

◆迷わないように、廃道となったコンクリートの林道を進み、引き返しポイントを確認して藪漕ぎを開始する。尾根に取り付き、頻繁にルートを確認しながら登り、トラバースを敢行する。山の匂いに浸りながら途中、タヌキ、狐、シカなどの動物に会い、お互いびっくりする。1000メートル前後の低い山なのに、一度激しくガス欠、つまり飢えに襲われたことがある。以来、必ずおにぎり、あんぱん、お茶を携行するようになった。

◆5月はじめ、新潟県阿賀野市の五頭連峰に登山に出かけたまま行方を絶った37才の父親と6才の息子。29日になってうつぶせで覆いかぶさるように倒れた遺体となって見つかった。どんなふうに動き、そして動けなくなっていったのか。あの父と息子のことを私は忘れない。ことし3回目を迎える8.11の「山の日」の本当の意味はあの親子がどうしたら生き延びることができたか考えることである。

◆ここ2、3か月、地平線報告会に学生の姿が増えた。もともと日本山岳会など古い組織に比べて若い層が多いのが地平線の持ち味だが、それだけではない。詳しくは「今月の窓」を。(江本嘉伸


先月の報告会から

風来坊のビジョン・クエスト

青木麻耶

 +松本裕和
2018年5月18日 新宿区スポーツセンター

■毎号通信の報告者に取材してイラスト入りで紹介している長野亮之介さんだが、実はタイトルもつけているのだそうだ。内面までも写しとるイラストには毎号感心させられていたが、今回はタイトルにも唸った。「風来坊のビジョン・クエスト」。ビジョン・クエストとは、ネイティブアメリカンが自分の使命を知るために行う成人の儀式で、人里離れた場所森や荒野、砂漠などで一定の期間過ごし、人生の真の意味や目的について啓示を受けるのだという。

◆実は私は青木麻耶さん、愛称「まやたろ」さんをブログやお話し会で知っていて、その旅がただのチャリンコ旅ではないことに感銘を受けていた。その土地の人々の暮らしに触れながら、まやたろさんは、自然とともに生きる人間の知恵や伝統のすばらしさを体感し、そのなかで彼女自身の生き方を見出してきた。何を見て、何に惹かれ、日本に帰ってどんな生き方を選んだのか……そこがメインの話になるに違いないが、そのことをたった一言でタイトルにするなんて、すごいな、さすがだなぁ〜と感心したのだった。

◆まやたろさんは、1986年横浜生まれの寅年しし座、動物占いはオオカミで、「メッチャ肉食獣です」という。5〜8歳でアメリカ在住。京都大学では農学部森林科学科で、ボルネオの熱帯林で木の根っこから出る有機酸について研究。食への興味から畑サークルに入る。自然が好きで登山やネパールトレッキングもしてきた。大学時代、愛用のママチャリ、キャサリンに乗ってこれが最強と思っていた。

◆友人2人と琵琶湖一周をした時に、はるか前方に米粒大になったクロスバイクとマウンテンバイクの友人を追いかけながら初めて「ママチャリ最強じゃないかもしれない……」と思った。そして12万円で新しい相棒の自転車ジミーをGETする。ジミーで北海道へ一人旅したり、学生最後の夏休みに友人を誘ってヨーロッパを1か月自転車旅したり。いつでも停まれる自転車は、出会いが多く人の暮らしが見える。まやたろさんは、自転車旅に魅了された。

◆[これからどうしよう? その1]一方大学最後の夏休みを終えて、まわりに流されるように特にやりたいことも見つからずに就職する。銀座にある大手企業に入社。3万人の社員の1人になる。経理部に配属されパソコンの前に1日中座る日々と通勤満員電車のストレスで体調を崩す。ずいぶん土を踏んでいないことに気付き、漠然とだが、いつか田舎暮らしがしたいなぁ〜と考えていたことを思い出す。「いつかじゃなくて、それは今なんじゃないか」。

◆そこで1年半ですっぱり会社を辞め、田舎に移住してしまった。環境問題に関心をもっていたまやたろさんは山梨県のNPO法人都留環境フォーラムに就職。5人のスタッフの1人として、環境に配慮した農業、馬耕やエネルギー作りの発信などをする。「肉食獣です」というだけあって、肉が食べられるまでの過程に興味があり、狩猟免許(くくり罠)もとって狩猟を学ぶ。毛皮や革も無駄にしたくないと鞣(なめ)し方を勉強する過程で、アメリカ先住民の脳漿鞣し(のうしょうなめし)動物の脳みそだけで鞣す方法を知り興奮したという。

◆ここで、まやたろさんは農業や狩猟など、自然のなかで必要なものを自分の力で得る技術を学んでいる。これがその後、今につながる貴重な準備になっていたのだろう。山梨での生活は、興味深く充実していたのだが、いろいろあって2年半後にNPOを退職する。29歳になっていた。

◆[これからどうしよう? その2]まわりはどんどん結婚して家庭を築いていく中で、自分は彼氏も仕事もなくて2回目のこれからどうしよう?に直面する。逆に何にも縛られていない今こそ旅に出る時だと思う。幼少期にアメリカに住んでいたこともあり、旧友に会い、先住民のコミュニティや興味のあるところをマークすると南北アメリカ縦断が見えてきた。

◆資金面や治安の問題と飽きっぽい性格から行きたいところを優先した結果、カナダ・バンクーバーから西海岸をロサンゼルスまで走り、そこから南米ペルー・クスコに飛び、ボリビア、チリ、アルゼンチン最南端のフエゴ島・ウシュワイアまで走り、キューバ、メキシコに飛び、昨年5月帰国した。2016年5月18日出発352日約11,000kmの旅であった。うち、自転車で走ったのは180日。それと同じ位の日数を興味のあるコミュニティなどを訪ね、暮らしと文化に触れる旅でもあった。

まやたろさん、旅の印象に残ったベスト5を紹介
★5位 ○○を拾う──
  カナダ・ソルトスプリング島+米国オレゴン州 

 ○○に入るのは何でしょう、とまやたろさんが謎かけ。2回事件があったそうな。[Part1]バンクーバーからフェリーで3,4時間行った島で持続可能な暮らしをしているパーマカルチャーコミュニティを訪ね1週間滞在した。一人の女性が鹿を車ではねてしまい困っていた。誰かさばける人いないかなぁという場面に出くわす。すかさずまやたろさん「I’m a hunter!」。鹿料理を振る舞い喜ばれたという。[Part2]アメリカ・オレゴン州で峠道で倒れている鹿に遭遇する。触ってみるとまだ温かい。(これはフレッシュだ……いける!)と思い、キャンプサイトに後足1本を持って帰り調理して腹をすかした仲間のサイクリストに喜ばれた。都留で習得した技術が役立ち嬉しかったという。というわけで、○○に入る答は鹿でした。

★4位 ペルーの美しい染めと織り

 南米のペルーに飛んで、服装がガラッと変わる。クスコから30kmの町チンチューロで祭りをやっていた。皆が鮮やかな色彩の美しい民族衣装を着ていて感動した。その色のすべてがその土地で手に入る自然の天然の色だということを知り驚いた。染のデモンストレーションをしているところに行く。紫色は紫トウモロコシ。藻で黄色、タラ豆は銅で媒染すると青にという具合だ。サフターナという芋の根をすりおろして水で泡立てて洗剤にして羊の汚れ毛を入れると真っ白になる。石鹸より汚れが落ちる。サボテンにカビのような白いものが付いているのはコチニール(カイガラムシ)である。これは赤の染料になる。塩を入れるとオレンジ色に。更に火山灰土を入れると黒になる。レモン汁を入れるとピンク色になる。また、腰機(こしばた)をじっと見てたらやってみるか?と言われ後日訪ねていく。1日かけてチロリアンテープのような細い紐が少し織れた。実際に自分で作ってみると一枚の布を紡いで染色して織ることにどれだけの手間がかかっているかわかり値切れなくなったと……。

★3位 ボリビア・ラパスで初心者でも登れる6,000m級の山に挑戦。

 もともと標高が4800mある高地で、既に立っているだけでもしんどい場所である。チャリダーの先輩が薦めてくれたツアーで登る山はワイナポトシ6,088m。アイゼンをつけてピッケルで氷壁に挑みながら叫んだ「初心者向けじゃないだろう〜!!」。今まで生きていた中で一番しんどいと思ったが、その一番しんどいはすぐに塗り替えられるのだった……。

★2位 忘れられないXmasイヴ 
  チリ・アウストラル街道

 パタゴニアの世界一美しい林道1,200kmはチャリダーに人気で世界中の自転車旅人に会えた。毎日キャンプサイトでは焚火をしたり、釣りをしたりして過ごしながら1か月以上かけて走った。仲間意識が生まれ世界一過酷な国境越えも旅仲間で協力できた。Xmasイヴの日、不思議な体験をした。自分は道路上に横たわっており、誰か覗き込んでいる。その時は、それが仲間であることも、自分が自転車旅をしていることも覚えていなかった。どうやら、転倒して頭を打ったらしい。この時に助けてくれたのも仲間だった。通りがかった車に町の病院まで運んでもらい、さらにCT検査をするために救急車で220km先の病院まで搬送された。コロンビア人のチャリンコ仲間がずっと付き添い、病院での手続きを含め通訳して助けてくれた。遠い街での忘れられないXmasイヴになった。

★1位 涙の宝石の道
  ボリビア・アタカマ砂漠

 砂漠の中に緑や赤の湖があるから宝石の道と呼ばれているが砂と岩の道が250km続く。高いところは標高5,000m、ただ息をしているだけでもシンドイ。吹きさらしの大地、想像以上の過酷さに旅に出て初めて帰りたいと思った。帰りたいと思っている自分が許せなくて泣きながら自転車を押して砂地を歩いた。ネットもつながらず、ただひたすら今までの自分と向き合う日々。

◆ツアーのジープが見かねて水や食料を恵んでくれることもあった。風除けがないからテントを張るのも苦労する。砂漠の中のホテルの横にテントを張らせてもらったら、夜中に従業員ベッドが空いてるからと中に入れてくれ、シャワーまで浴びることが出来た。翌朝朝食バイキングも食べていいと言われ嬉しかった。久しぶりのまともな食事だった。この砂漠で実は第4位のアウストラル街道での転倒の前に右半身を強打する転倒をして、このままここで死ぬのではないかという目に会っている。反対を押し切ってきた親の顔が脳裏に浮かぶ。運良く助けてくれた旅人の夫婦がいた。更に温泉が砂漠の中にあったので、湯につかると少し回復し前に進めた。この道の最後にラグーナベルデという緑色の湖がある。ここまで9日かかったがこの湖が見えた時はもう終わりだとうれし泣きした。生きていることをただただ有難いと思った。

※この旅のことは自費出版で夏を目指して執筆中。今回は話しきれなかったパーマカルチャーコニュニティ滞在記やキューバやメキシコについても書きますとのこと。詳細はまやたろさんのブログでご確認下さい。

 http://mayataro.hatenablog.com/archive

◆1年間の旅で様々な国の人に出会った。そこで気付いたのは、どこの国の人も自分の国のことを熱く語るのに対して、自分は日本のことを良く知らないということ。また、日本で手仕事やものづくり、伝統文化を引き継ぐ人、持続可能な生き方をしている人に会いたいと思った。北米南米旅と同じく、大事なのはルートではなく興味ある場所に行くことであるから、経済的にお金のかからない自転車をメインにするが、電車を使ったり、友達の車に乗せてもらったりもした。

【2017年8月〜11月 31都道府県約4,000km 日本再発見の旅】である

◆新潟と山形の県境にあるマタギの里、山熊田(やまくまだ)にシナ織を訪ねる。シナの木の皮を繊維にして織るシナ布は軽くて水にも熱にも強く丈夫だが、大変な手間と労力が必要で継承が難しかったが、若い人が村に移住して見直されている。

◆日本の藍染の本場徳島へ。本藍染の「すくも」(藍の葉を発酵させた染料)を作っているのは今や徳島で5軒しかないうちの1軒を訪ねる。

◆山梨の都留市で徳島の「すくも」を入手し本藍染を木灰自然発酵建てしている佐藤文子さんを訪ねる。囲炉裏のある暮らしで木灰がある生活だからこその深い藍色である。このような本藍染をしているところは全国で1%程で希少である。ちなみにまやたろさんがこの日着ていたシャツは佐藤さんのところで染めた本藍染で深い美しい藍色であった。

◆兵庫の姫路の市川沿いにあった白鞣(しろなめ)しの最後の1軒を訪ねる。塩と菜種油だけで鞣した乳白色の柔らかい肌触りの良い上質な革に感動する。

◆北海道に行った時に、エゾシカを食べたいなと念じていたら、また倒れていたエゾシカに出会う。本当は警察に連絡しないといけないが、そうすると処分されてしまうので、おいしく食べて供養した。

◆7年目の東北被災地を走る。釜石の友人はボランティア団体を運営して頑張っている。昔は釜石を出たくてたまらなかったが面白い人が集まり、地元釜石の復興について考えるようになったことにより気持ちが変わった。

◆気仙沼で出会ったばかりの人の家に泊めてもらうことになった。震災があったから恩返ししたい気持ちがあるのよと言われた。長い旅に出ていると恩を受けるばかりで心苦しくなることがある。そのことを打ち明けたら、あなたが来てくれて私たちの知らない国の話をしてくれるだけで恩返しになってるのよと言われ救われた思いがした。

◆山口県の平郡島で5人しかいない小学校で世界旅の話をしたら、皆持っていたテントに興味津々で……一緒に組み立てる。5人全員でテントに入った。

◆関門海峡の海底トンネルの出口で日本1周チャリダーをコレクションしている川崎さんに出会う。宿と食事をご馳走になる。おかげで初めてゲストハウスに泊まる。旅人に写真を見せたら売ればいいと言われ、小倉の商店街の路上販売の初体験をする。

日本の旅を終えてこれからどうしよう? と考えた時

 「最後に大分のイベントで出会った竹細工の人が気になってヒッチハイクで戻りました。いろいろあって先月から一緒に暮らすことになりました。エへへへ」って?! まぁ、いいか……というわけで、4月から大分県由布市でなるべくお金に頼らない持続可能な暮らしを共に始めたパートナーの松本裕和さん(以下愛称のまっぽんさん)が登場し、マイクを握る。

◆出身は静岡県焼津市出身で今41歳だが、若い頃から3年周期位に仕事を変わってきた。「僕なりのビジョン・クエストのアンサーが竹細工だった」。大分県別府には失業保険をもらいながら竹工芸を2年間学べる夢のような職業訓練校があり5年前に移住した。だから竹細工は今までで最長の5年になる。今は自営でやっていて、屋号は「+竹(PLUS CHIKU)」。プラスチックに代わり暮らしの中に竹を取り戻したいと始めた僕のコンセプトにぴったりなこの屋号を麻耶ちゃんが考えてくれた。

◆もともと竹は人が地下茎を掘って必要な所に人が植えなければ増えないから人里にしかない。今、竹を使わなくなり全国で放置竹林が問題になっているのはもったいないことだと思う。そこに素材があるのにも関わらず、限りある資源の石油製品を使い捨てのように使う矛盾。全国にある放置竹林を僕一人ではどうしようも出来ないので、竹細工の技術を各地に普及させるためにワークショップを開催してる。竹割包丁(両刃の小型の鉈)と鋸さえあればどこでも仕事ができる。

◆麻耶ちゃんはワークショップの良い生徒で才能があり覚えが良く、一度覚えた技を応用して腰かごを作ってしまった。こういう人を増やしたいと(竹の鍋敷き1,500円、蕎麦ざる5,000円が会場を回る)。新しい製品のスツール椅子は5万円ですが制作には材料取りに2日、加工して編むのに2日間要する。竹細工に適したものは3、4年目の竹で新しくても柔らかすぎるし古くても硬すぎる、節の長さもそれぞれ違うから適したものを探すのは難しい。使い捨てではなく、使い込むほどに味わいが出てくる。昔の職人のように30年もつ美しいモノづくりを目指している。

◆まだまだ話し足りない様子に「竹について語り出すと止まらない熱いところが素敵だなぁと思ってます」とまやたろさん。時折、二人の互いに見つめ合う視線が眩しい。目指している生き方や価値観が近くて一緒に暮らし始めた二人。4年前にまっぽんさんは古家付きの150坪の土地を150万で購入。雨漏りする屋根をふき替え、何とか住めるように修繕はしていたという。まやたろさんが4月半ばに来たときは家の中のことは後回しにして、まずは毎日ボーボーだった庭の畑の草取りと種まき、苗の植え付けをした。お金に頼らない暮らしを目指す二人にとっては、この畑こそが貯金であり未来への投資だからだ。

◆同じ意味でまっぽんさんにとっては竹の研究のためにいろいろな竹を植える囲いを作るために深くて長い土を掘り、丁寧にセメントで塗り固めることが大事だった。しかし、まだ雨漏りで腐った床は抜けている。トイレは傾いているし、台所は整っておらず、ロケットストーブで煮炊きし、風呂もない。竹が大事なのは理解しているつもりなのに、はやく生活環境も整えてほしい……。この1か月は葛藤が渦巻き、泣きながら歩いた「ボリビア・アタカマ砂漠」を3つ位抜けたように大変だったと、まやたろさんは言う。しかし、ぶつかり合いながらも二人はこの地に着実に根を下ろしているようだ。

◆鶏、チャボ、烏骨鶏などを飼い、日本ミツバチの養蜂も始めたという。庭にはびわ、柿、茶、桑、桜、イチョウ、よもぎ、どくだみ、山椒、せり、みつば、スギナ、クマザサ等たくさんの植物が生えている。こうした植物をせっせととっては酵素ジュースやお茶を作ったり、草木染をしたりもしていると後で聞いた。10年後の二人の暮らしがどうなっているのか、楽しみである。

◆最後に江本さんから、「法政大学の澤柿先生の教え子が、殆ど初めての地平線報告会体験で来ている。おそらくこれから大学を出て迷いながら進む10歳下の学生にアドバイスできるとしたら」と。以下まやたろさんの答えである。

 

■学生時代はやはり悩んだ。いわゆる良い大学入って良い会社入ってにとらわれていた部分も確かにあった。しかし、どの体験も無駄なものは一つもなかった。就職して辞めたことも、経験したからこそ合わないことがわかったし、いつかやろうと思っていた田舎暮らしにも逆に踏み出せた。都留での2年半で、農業・狩猟スキルだけでなく、スタッフの人数が少ないから広報から運営、報告書作り、会計までやらせてもらった経験は得難いものだった。

◆何がどこで生きてくるかはわからないからその時自分がやりたいと思ったことをやれば良いと思う。実は南北アメリカの旅に出た時に「旅に逃げた」という思いがあった。砂漠まで逃げたのにまた同じ壁が立ちはだかった。こんなに遠くまで逃げてきたのに結局、自分から逃げられないんだって気付き辛くてボロボロ泣いた。帰国してからわかったことだが、逃げて逃げてどうせまた同じ壁にぶつかるなら、逃げられるときは逃げていいんだと思う。乗り越えられるときに乗り越えればいい。

◆そしてまた今「砂漠」が目の前に……と笑いながら言う。試練と言うのは何度でもやって来るけど時が満ちた時に乗り越えられる。さて、この答えを大学生の諸君、そして今日集まった地平線仲間の皆さんはどう聞いただろうか?最後に司会の長野さんが「旅っていうのは多かれ少なかれビジョン・クエストでそれを一生やっている人もいるわけです」とさらっと早口で言った。その通りだよなと皆が思ったに違いない。まやたろさんの素直で芯の通った話にそれぞれの世代が持ち帰ったものは多かったはずである。まだ旅は続くのだった。(高世泉


報告者のひとこと

ひと漕ぎひと漕ぎ、焦らず……

■地平線報告会のために上京し、各地での竹しごと巡業を経てようやく大分に帰って来た。3週間放置した庭の畑は一面青々と茂り、草取りや苗の植え付けに追われてあっという間に1日が過ぎていく。レタスやパクチーは全盛期で、ビワ、ナス、トマトなども実りはじめ、これから夏に向けて庭でとれたものが食卓に並ぶのが楽しみだ。

 「風来坊のビジョン・クエスト」という素敵なタイトルをつけていただいた今回の報告会。かくいうわたしはプレッシャーに押しつぶされそうだった。そもそもわたしがはじめて地平線報告会に足を運んだのが今年の2月。報告会の内容もさることながら、二次会では他の参加者や名だたる過去の報告者から武勇伝を聞き、ひとりひとりのキャラの濃さやぶっ飛んだ内容にただただ圧倒されるばかりだった。40年という歴史ある地平線の舞台に、わたしのような新参者が立っていいのだろうか。さらに、前月の報告者である下川知恵さんが地平線史に遺るすばらしい発表をしたという噂を方々で耳にし、わたしのプレッシャーはさらに大きくなった。

 わたしは一体何を求められていて、何を話したらいいのだろうか。

 帰国してから1年の間、これまでも何度かお話し会や大学などで講演する機会はあったが、地平線の緊張感はその比ではなかった。反省点を挙げればキリはないが、嬉しいお言葉もいただき、こうした酸いも甘いもひっくるめて「通過儀礼」なのだと思った。新参者のわたしに声を掛け、このような貴重な機会を与えて下さった江本さん、素晴らしいイラストとタイトルでわたしのとりとめのない話をまとめてくださった長野さんには心底感謝している。

 自転車旅はとてもわかりやすい。一漕ぎ一漕ぎ自分の力でしか進めない分、その成果は見えやすく達成感もある。風に吹き飛ばされ、砂にはばまれ、自分の弱さを知る。屋根や壁があること、ご飯が食べられること、見ず知らずの人たちに幾度となく助けられ、今もこうして生きていられること。そうしたあたりまえの幸せにたくさん気づかせてもらった。伝統文化やものづくりに憧れ、自然に寄り添った生き方を求めていることも旅を通して再確認できた。

 そんな旅をきっかけに、「竹細工」という伝統的なものづくりに携わることになったのはある意味自然な流れのようにも思う。豊かな自然の中で野良仕事やものづくりに携われるなんて、まさに自分が思い描いていた理想的な暮らし。しかしそれが日常になると、旅での気づきはどこへやら、ついつい相手に求めすぎて、不満をぶつけてしまう。自由に生きてきた今までとは違って、誰かと生きていくということは綺麗ごとだけではすまされなくて、妥協や痛みを伴うこともあるけれど、だからこそ喜びも分かち合えるのだろう。

 いつも支えてくれる人たちへの感謝の気持ちと謙虚さを忘れずに、旅で得たビジョンに向かって、一漕ぎ一漕ぎ、焦らずじっくりと進んでいきたい。(青木麻耶


日本的モノ、伝統的なコト

 「自由に生きたい」若い時に誰もが思う事だと思う。そんな思いも年を取るごとに資本主義的な経済至上主義に流される中で忘れていき、多くの人が不自由ながんじがらめの生活を送っているのではないだろうか?

 僕のビジョン・クエストはどうしたら自由に生きられるか?ということだった。25歳ではじめてピースボートに乗り、それまで目を向けてこなかった社会問題や環境問題について知るきっかけとなった。そしてグローバルな生き方よりも、ローカルに生きる方が他者への依存が少なく自由であり、環境への負荷も少なく未来へ続く持続的な生き方だと気付いた。

 そんな考えから日本的モノ、伝統的なコトに関心が移っていった。

 石油製品が普及する前の日本では、身近にある天然資源だけで生活用品が作られ、壊れてゴミとなっても有害物を出すことなく土に還っていた。一方、現在の経済至上主義の消費社会では、人々が毎日ゴミを出しながら暮らしている。再生可能なゴミから埋め立てるしかないゴミ、はたまた何百年も冷却し続けなければならない核のゴミまで。

 このままではいずれ人類はゴミに埋め尽くされて地球で生きることができなくなってしまうのではないか?ゴミを出さない暮らしとは?

 そのヒントを宮本常一氏の著書や民族文化映像研究所の映像作品を通して一昔前の人々の暮らしに見た。そして電気やガスに頼らずとも作業ができ、竹という半永久的な天然資源を使い、萬のモノが作れる「竹細工」という仕事に出会ったことで、僕のビジョン・クエストに対する答えがようやく見つかったのだ。(plus竹 松本裕和


ゼミ生が青木麻耶さん報告会で考えたこと

 私たちは、法政大学社会学部の澤柿ゼミに所属する2・3年生です。自然地理学という理系寄りのこのゼミは、社会学部のゼミの中でもやや異質な存在で、日頃の教室での討論だけでなく、週末に野外巡検で出かけたり、夏休みには白馬村や十勝平野などで合宿をしたりもしてきました。

 この3月から、ゼミの一環で地平線会議の報告会に参加させていただいています。世界を舞台に活動を続けている行動者の生の体験を聞いて刺激を受けたり、報告会に参加する人々と関係を築いたりしながら、その世界にのめり込んでいきたい、という意図があります。これは、本ゼミを「探検と冒険ゼミ」と名付けた澤柿先生の思いから出たものでもあります。

 5月の報告会で青木さんの報告を拝聴し、ゼミ生がそれぞれ感じたことを話し合ううちに、<文化の交流・素敵な偶然・人との出会い>という3つのキーワードが浮上してきました。地平線通信に我々の感想を載せていただくにあたり、このキーワードにそって原稿をまとめてみました。(沼田・笠井・阿部・石井

 報告の中で、様々な世界の文化に触れていく様子が語られました。その核心のひとつに「文化の交流」という視点があることに気づきました。例えば、自然にあるものだけで染める南米の織物です。その技術の高さは、メディアを通じて聞き知ったりお土産として手に取ったりするだけでは知り得ないようなものでしたが、それ以上に、青木さんが染色のおばさんに1日中かぶりついていたという、おおせいな好奇心に感心しました。日本の藍染文化も、あらためて調べてみると大変面白いものでした。現在、徳島県には藍師が5人しかおらず、藍染工房も2軒のみだそうです。藍染はかつて「ジャパン・ブルー」と呼ばれるほど日本を代表するものであることも再認識しました。

 青木さんが暮らしている大分の竹細工にも興味をそそられました。現地の素材を生かした椅子、鍋敷き、そばざるなどの竹細工などはとても鮮やかで、その制作技術を瞬く間に習得してしまう青木さんの器用さは驚きしかありません。また、竹の粉末や繊維とプラスチックとを組み合わせた「プラス竹(チック)」という素材も開発されていたことを知り、そのネーミングの絶妙さとともに、竹の新たな可能性に感心しました。(島村・亀岡・須田

 相当辛かったであろうエピソードですら楽しそうに紹介される青木さんの話しぶりに、全てのことが楽しい思い出として残るのだと気付かされました。ゼミでお互いの感想を交わす中で、あるゼミ生が、青木さんの比ではとてもないけれど少し似たような経験をしたことを話してくれました。実家までの70 kmの道のりを自転車で走りきったというものです。パンクしたりサドルがお尻に合わなくて痛い思いをしたりして辛い行程だったそうですが、実家に着いた時にはそれまでの道のりが楽しいものだったと感じることができたそうです。このような体験があると、レベルは違うとはいえ、過酷な体験談により深く共感できると言います。

 また、日本で培った狩猟技術が旅の中で活かされたという話は、偶発的なことにもかかわらず、なにか必然性があったかのようにも思われます。きっとそれは、ふと訪れたことではなく、今までに経験したことが積み重なって青木さんの興味を引き出し、その興味を無視することなく行動に移したからこそやってきたことなのでしょう。『経験が経験を繋いで導いてくれている』という連鎖は、「素敵な偶然」ともいえるものだと思います。(大森・田中・飯野・島崎

 何度か自転車事故に遭い、意識を失って死にかけた話は強烈でした。そのときに助けてくれたのは、ともに助け合いながら国境を越えた仲間だったということが特に印象的です。国籍は違っても、自転車という共通の旅の形態を通して生死を左右するほどの深い関わりを持てるのは素晴らしい。私たちも、世界の人々ともっと分かり合い親交を深められるような、共通に取り組める何かにハマってみたいと思いました。

 世界の様々な人たちと触れ合い、親切な人たちに出会い、そして多くのことを教えてもらうことに対して、「もらってばかりで何も返せていないのが苦しい」と仰っていたのが心に残りました。ゼミ生の一人は、自分も周りの人たちにお返ししたいと思いつつ、何をしてよいのかわからないまま今に至っている、と思ったそうです。特に、青木さんが東北でお世話になった人たちの「震災で考え方が変わった」という話を聞いて、自分も震災復興に関わる活動をしたいという意思が一層強くなったと言います。(安藤・長島・竹中)

 最後に、今回の報告会は、日本にいるだけでは気づいたり味わったりできないことが世界にはたくさんあると気づかされ、面白いことにたくさん出会いたいと思うようになった素敵な講演でした。まずは、日頃の野外巡検などに受動的に参加するだけではなく、自ら計画し能動的に行動できるようになることが、今の私たちにとっては必要なことだと思います。地平線会議で報告されるような第一級のレベルにすぐに到達できるわけではありませんが、まずは身近でできることから始めて、立ちはだかるハードルに挑戦したり、自分にとっての未知の地域に出向いたりしながら、それぞれのストーリーを描けるようになりたいと思います。

 青木さんに感謝するとともに、次回以降の報告会に参加するのも待ち遠しく思っています。


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、そのほかに、4月から呼びかけしている「1万円カンパ」に多くの方々から協力をいただいています。通信費を別にしてきょう13日現在112万円にもなりました。地平線会議への熱い応援歌として感謝するとともに責任の重さをひしひし、と感じております。「1万円カンパ」にご協力くださった方々については、後にまとめてこの通信で公表させていただきます。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。江本の住所、メールアドレスは最終ページに。なお、通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。口座は、みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸です。

村田憲明/松田仁志(次からもう送っていただかなくてかまいません。長い間どうもありがとうございました)/中村易世/滝村英之/飯野昭司(10,000円 5年分。いつから払っていないのか分からないので……すみません)/北村敏(5,000円 通信費2年分。残りはカンパ)/前島啓伸(6,000円 ごぶさたしております。通信費振込みます)石川秀樹 20,000円(一部カンパ?)/新保一晃/山崎ふみえ/水落公明(3,000円 地平線通信を毎月お送り頂きありがとうございます! 今年度の通信費を送金させて頂きます。毎度ながら些少ですが1,000円はカンパということで……。どうぞよろしくお願い致します)/小石和男(4,000円)/吉岡嶺二(4,870円 通信費+α振込料差額)


惠谷治氏の告別式は5月27日(日)、渋谷区の代々幡斎場で行われた。ふるい友人、法政大学探検部OBの岡村隆氏が読み上げた弔辞がご遺族はじめ参会者の心をとらえる内容だった。地平線の仲間たちに広く読んでほしいのでその全文を本人の「注釈」つきで以下に掲載する。あわせて惠谷氏と多くの不思議な縁を持つ丸山純さんに個人的な追悼の思いを綴ってもらった。(E)

弔   辞

惠谷! 惠谷よ……。

 こうやって、お前に向かって直接呼びかけ、「おうっ!」という強い返事を聞くことが、もうないのかと思うと、そのこと自体がまだ信じられない。

 いまから四十八年も前、民俗学者の宮本常一先生が主宰する日本観光文化研究所で初めて出会って以来、いったい何回、いや何千回、こんな呼びかけと応答を、お互いに繰り返してきただろうか。

 

 お互いが大学四年で初めて出会ったとき、お前はすでに早大探検部の伊豆大島三原山火口探査隊を率いたリーダーとして、全国の大学探検部の世界に名を響かせていた。活火山の噴火口にザイルを伸ばして降りていくという、世界の探検史上にも類例のない、常識破りの活動を指揮したお前は、前年にモルディブ諸島の遠征から帰った俺から見ても、仰ぎ見るような、恐るべき存在だった。

 親しくなったのは、お互いの探検部が一年違いで遭難事故を起こし、その対応相談のため、俺が早稲田を訪ねたときからだったろう。そのとき、親身に相談に乗ってくれたお前に、見かけとは違う温かなものを感じ、また学ぶべきものを感じて、それ以来、俺はお前と会って話すのが楽しみになった。

 思い出すのは、一九七三年の春だったか、お前がアフリカ・青ナイルの源流地域の踏査行に、俺がスリランカのジャングルの遺跡探査に発とうというころ、中野サンモールのアーケード街にある喫茶店で会って、昼間のほぼ一日、酒も飲まずに延々と話し合った日のことだ。

 お互いの探検計画や、その後の探検的な人生への思いを語り合い、大学を出ても常識的な道を歩まずに、夢を追う生き方を選ぼうとする同志がいることに、俺は励まされ、その後の人生が決まっていった気がしてならない。

 その青ナイルで、お前が一時消息を絶ち、遭難かと伝えられたのは翌年だっただろうか。心配したが、お前はあっさりと姿を現し、心配は杞憂に終わった。それからは、自らの活動を「政治的秘境の探検」と位置づけて、ジャーナリストとなったお前が、アフリカの各地や中東、アフガンなどの紛争地帯に潜入し、いくら戦場を駆け回っても、無事に帰ってくることを疑わなくなった。なぜ、そんな確信が生まれたのかはわからない。だが、お前が、いまは亡き盟友の坂野晧とともに、テレビ取材でソ連侵攻後のアフガニスタンに潜入したとき、アフガンに土地勘のある俺がいざというときの救援隊長ということになったが、そのときもまったく心配はしなかった。

 俺だけじゃない。早稲田の仲間や、お前が設立に関わり、初期の運営に携わった地平線会議の仲間たち、後輩たちもそうだったろう。いつも紛争地から平然と帰ってくるお前を見て、「ああ、この人は死なない人だ。そういう力のある人なんだ」と多くの仲間が思い込み、不死身の男の伝説がそこから生まれた。探検家として、ジャーナリストとして、情報分析の専門家として、まだ誰もやらない、やれないことをやってきたパイオニアのお前は、そうした不死身伝説にも包まれて、あらゆる場所でその中心に座を占めた。

 探検・冒険や旅の仲間の世界、取材・報道・出版の世界、テレビ・ドキュメンタリーの世界、かつてのソ連やイスラム圏そして北朝鮮などの研究の世界、さらには酒場の世界まで、それぞれの場で、常に大きな、独特の存在感を放ったお前は、関わった人々にとっては、それまで出会ったことのない、一度出会えば決して忘れられない人物となり、お前を囲む人の輪はさらにさらに広がっていったのだろう。

 この俺もまた、人生を通じて、お前のような人物に、出会ったことはなかったし、これからももう、出会うことはないだろう。強く鋭い、独特の風貌や、尾道弁を混ぜて発する大音声、どんなときでも発揮するリーダーシップだけを言うのではない。その外見のすぐ裏に張り付いていた含羞や愛嬌、他人を思う優しさや、労を厭わぬ協力姿勢……。それらを兼ね備えた大きな男を、お前以外には見ることはない。まして友人として持ち、さまざまに恩義をこうむり、それを誇りとするようなことはないだろう。

 

 惠谷、惠谷よ……。

 お前のような人物を友人に持てたことは、本当に俺の誇りだった。駆け出しの編集者として、お前の最初の著作を小さな本にできたこと、二十代から四十代まで、日本にいるときのほぼ毎晩を、共に酒場で過ごしたこと、関野吉晴のグレートジャーニーを共に支えて、関野を迎えに仲間とともにアフリカにまで行ったこと……。大声で怒鳴り合い、また嘆き合った日々を含めて、すべてが嬉しく楽しい思い出で、人生の誇りにできる日々だった。しかし、それは俺だけのことではないのだろう。

 

 惠谷、惠谷よ……。

 昨夜の通夜から今朝にかけ、ここには多くの分野で交わってきた先生や先輩、仲間や後輩たちがお前のために集ってきたぞ。俺が嬉しいのは、さまざまな場で道を切り拓いてきたお前の影響を受け、薫陶を受け、お前に学んで、お前に励まされ、お前に続いて、自分の道を、人生を切り開いている後輩たちが、分野ごとに大勢いることだ。

 だから恵谷よ、あちらの世界に行ったとしても、お前にはまだやることがある。先に行った船戸与一さんや坂野晧、竹内憲治といった仲間たちと楽しい酒を酌み交わし、そちらの世界を探検するのもいいだろう。だが、それだけじゃなく、まだここにいる俺たち仲間や後輩たちを、眼光鋭く見守って、精神がたるんでいるのを見つけたら、あの大音声を天から発して叱咤してくれ。背筋がシャンと伸びるよう、折に触れて叱咤してくれ。

 

 最後に、惠谷よ、惠谷治よ……。

 個人的にも、仲間と共にいるときも、お前には言葉では言い尽くせないほどお世話になった。思い返せば、あの中野サンモールの喫茶店で話して以来、俺が人生の岐路に立たされたとき、傍らには常にお前がいて、助言をくれて、背中を押してくれていた。長い旅に出るときや、職や立場を変えるとき、そして人生の悩みの淵にあるときに、心の広いお前の家族も共々に、窮地の俺を助けてくれた。俺がそれなりに夢を捨てずに道を歩んで、いま、ここにいるのも、お前がいてくれたおかげだということを忘れない。

 惠谷、世話になったな。ありがとう。本来なら、人一倍激しく見事な人生を生きて、病に倒れたお前への、ねぎらいの言葉も必要だろうが、いまはただ、その感謝の気持ちだけを伝えたい。

 ありがとう惠谷。本当に、ありがとう。

 

 平成三十年五月二十七日

 岡村 隆

弔辞の注釈(敬称などは略)

【日本観光文化研究所】東京・秋葉原の研究所内に、向後元彦、宮本千晴を中心とする探検・冒険・旅・山岳関連の一種のサロン「AMKAS」があり、大学探検部、山岳部のOB現役や賀曽利隆、丸山純ら冒険・探検志願の青年らが集った。のちの地平線会議の大きな源流でもある。

【早大の三原山火口探査隊】その概要と探検的評価については惠谷の「地底に太陽を見た」(朝日新聞社刊『探検と冒険』シリーズ第7巻所収)のほか、角幡唯介の最新著『新・冒険論』の冒頭に詳しい。

【一年違いの遭難事故】1970年早大探検部富士川遭難(1人死亡)、1971年法大探検部最上川遭難(2人死亡)。いずれもゴムボート川下りでの事故だった。

【一九七三年の春】早大を6年で卒業した惠谷にとって、青ナイル源流踏査は初めての本格的海外遠征、前年に法大を出た岡村にとってもこの年がスリランカ密林遺跡探査を開始する年になった。

【紛争地帯への潜入】エリトリア、西サハラなど独立戦争中のアフリカの解放区に通算4年滞在、侵攻ソ連軍と戦うアフガンの解放区にも3回潜入し、『アフガニスタン最前線』『西サハラ』など初期の著作で実態を伝えた。

【盟友の坂野晧】早大探検部同期の映像ドキュメンタリスト。三原山火口、アフガン以来、惠谷のすべての海外映像取材は坂野との共同作業だった(カメラの多くは明石太郎が担当)。坂野は関野吉晴の『グレートジャーニー最終章』の映像監督でもあり、テレビの海外ドキュメンタリー界の第一人者として、死後ギャラクシー賞特別賞が贈られた。

【地平線会議と惠谷】初期の主力事業だった年報『地平線から』(森田靖郎編集長)の編集は、惠谷が新聞各紙などから切り抜いて集める情報収集と整理作業抜きには成り立たなかった。留守中に溜まった膨大な量を含め、赤ペンとカッターを手に全国紙全紙や英字紙の山に連日向き合う当時の姿は、家族の目にも鬼気迫るものだったという。その赤ペンとカッターは葬儀場に併設されたギャラリーに他の遺品と共に展示された。また、当時はまだ読売新聞の現役記者で多忙だった江本嘉伸に代わり、三輪主彦とともに地平線会議共同代表を務めた時期もある。

【惠谷の最初の著作】1982年刊の『国境の世界最前線ジャーナリストの体験的国境論』(トラベルジャーナル新書)。岡村が企画した「旅行学入門シリーズ」の一冊で、このとき岡村が名づけた「最前線ジャーナリスト」がその後の惠谷の通名的な肩書きとなった。

【グレートジャーニーと惠谷】関野吉晴のグレートジャーニーを、フジテレビとの間に立つなどして終始一貫支えたのは応援団長の恵谷だった。足かけ10年の関野の旅の終結には、タンザニア・ラエトリの地に惠谷や坂野、街道憲久、白根全、岡村らが勢揃いして(事務局長の野地耕治だけは留守番)立ち合った。

【各界の後輩たち】各校探検部の後輩たちをはじめ、惠谷の影響を受ける形で、完全なフリーのジャーナリストとしてペンやカメラを手に紛争地や辺境に入る人々、現場を踏んで学者とは異なる視点で国際情勢を発信する人々、軍事知識を含めた情報の分析をする人々が、惠谷の後には続いている。桃井和馬や西牟田靖などはその一例だ。

サングラスの向こう側

 ――惠谷治さんとの個人的な思い出をたどる

■5月20日の深夜、岡村隆さんからの電話で、惠谷治さんの訃報を知った。5月の連休中に伊豆大島で開かれた三原山火孔探査50周年の記念式典にも元気な姿を見せていたと聞いていたのに、まさかこんなに早く亡くなられるとは……。惠谷さんは、私の人生に何度か決定的なインパクトを与えた人である。電話を切ってからも惠谷さんとの思い出が頭のなかに次々と浮かんできて、朝まで悶々と過ごすことになった。

◆私が最初に惠谷さんを強く意識したのは、1970年の夏、中学3年生のときだ。中2からケイビング(洞窟探検)を始めていた私は、生意気にも本多勝一さんの著作にかぶれて、自分たちのケイビングなんて探検ごっこにすぎないといつも思い悩んでいた。そこへ登場したのが、山と溪谷社から刊行された季刊誌『現代の探検』である。書店でその創刊号の表紙を手にして、ぶっ飛んだ。白いツナギとヘルメットにガスマスクを付け、トランシーバーを手にした隊員のすぐ後ろには、真っ赤に燃えたぎる熔岩湖が写っている。早稲田の探検部が三原山の噴火孔探検をやったことは雑誌記事などで知っていたが、こんなにも火孔底が間近に迫る地点まで降下しているとは、想像もしていなかった。これこそ、本物の探検だ! あまりにもカッコよく思えて、倉沢鍾乳洞の竪穴を降りる自分の姿をこの表紙の構図に似せて撮ってもらったのは、恥ずかしい過去である。この写真で惠谷治の名前は私のなかに深く刻まれ、ヒーローになった。

◆次に惠谷さんが私の人生に交錯するのは、大学に入った直後だ。探検部に入部するために早稲田に入ったようなものなので、さっそく部室に行ってみると、一人の先輩が相手をしてくれた。中学からケイビングをやってきたと告げると、ワイヤばしごは登れるかと聞くので、得意ですと答えたところ、「よし、決まった! お前は惠谷先輩のあとを継いで三原山をやれ!」と一方的にのたまう。部屋の隅にいた別の先輩と「しばらく三原山をやる奴がいなかったからな。これで早稲田も安泰だ」などと盛り上がっている。

◆ところが、高校3年の夏あたりから私のケイビング熱はどんどん薄れ、もう暗い穴ぐらはこりごり、広い世界に出て旅をしたいと思うようになっていた。このまま三原山をやらされてはかなわない。第一、惠谷さんとそっくり同じことをまたやるなんて、探検部らしくないではないか。結局、入部届けに名前は書いたが、部室に30分間いただけで二度と足を踏み入れることはなかった。それから2年間、私は探検とは無縁の映画作りに熱中することになる。

◆そしていよいよご本人にお目にかかったのが、1976年の夏、大学3年生のときだ。高校時代のケイビング仲間である神谷夏実らのチームが、新潟県にある日本一深い縦穴の白蓮洞で遭難した。台風の大雨が濁流となって流れ込み、竪穴全体が巨大な滝となって11名が地底に閉じこめられて脱出できなくなったのだ。このとき探検部時代からの盟友・坂野晧さんがテレビ取材のためにカメラマンとして一緒に洞内にいたため、惠谷さんが救難隊長として呼ばれることになった。

◆私が現場に駆けつけるとすぐ、最初のテラスまで降下して様子を見てきた惠谷さんが洞口から戻ってきた。わらわらと新聞記者たちが取り囲む。するといきなり「どうせテメェらは、このまま死ねば記事になると思ってるんだろう!」という大声が響いた。「俺はお前らの考えてることなんて、とっくにわかってんだ。仲間がもう何人も死んでいるからな」。ドスの利いた声に場が凍りつく。うわっ、これがあの惠谷治か! まるでヤクザ、どころか本物のヤクザじゃないか。その後、制止を聞かずに洞口近くまで入り込んでザイルを踏みつけた記者に、惠谷さんが殴りかかるのも見た。高校2年のときに朝日講座『探検と冒険』第7巻で「地底に太陽を見た」という惠谷さんの文章を読み、ほとばしる情熱を緻密な計画で実現するクールな戦略家だとイメージしていたのに、こんな人だったとは……。

◆この最初のぶちかましが効いたせいでもないだろうが、どの新聞も当初は好意的な記事を載せていた。惠谷さんがいつも大きな紙に図を描きながら現場の状況や救助活動の進行を的確に伝えていくのが、記者たちの信頼を得ていたのだと思う。ところが、水勢が弱まった機会をとらえて一人目が無事地上に出てきたとき、記者団のあいだで誰かが「助かったのか……」と残念そうにつぶやくのが聞こえた。さらに、ある通信社の山記者と称する一団が遅れてやってきて、ろくに取材もしないのに批判的な記事を流したとたん、論調が一変する。

◆無謀で杜撰な計画だ、お盆で大変な時期に地元に多大な迷惑をかけたのにちっとも反省の色がないなどと、どの新聞からも徹底的に叩かれまくることになった。ある放送局のヘリが洞口の真上に低空で居座ったため、トランシーバーが聞こえずに連絡に不備がでて、救助隊員の一人が転落して怪我をするという事故も起こった。まさに、惠谷さんの言った通りの展開となったわけだ。本多勝一さんを通して子どもの頃からいだいていた新聞記者への憧れは、これできれいさっぱりついえた。

◆次に惠谷さんと会ったのが大学6年生だった1979年の夏、地平線会議が発足したばかりの頃だ。四谷の喫茶店・オハラIIの奥の個室に入っていくと、顔見知りの観文研(日本観光文化研究所)の人たちは誰もまだ来ていなくて、惠谷さんがでーんと座っていた。たぶん、トレードマークのサングラスもかけていたと思う。思わずひるんだが、白蓮洞のときはお世話になりましたと挨拶すると、「おおっ、あんとき、あそこにいたんか」と笑って答えてくれてほっとした。

◆何度かオハラIIでの集まりを重ねるうちに、ふだんの惠谷さんはとても紳士的で、目上の人たちには折り目正しく接し、若い連中には横に座ってうんうんと耳を傾けてくれることがわかってきた。高校でラグビー部、大学で探検部と、体育会系で過ごしてきたせいなのだろう。惠谷さんは自分の考えを述べるより先に、まずみんなにしゃべらせて意見を出し尽くさせ、それから強い言葉で場をまとめていく。初期の地平線会議で、惠谷さんは重石の役割も果たしていたように思う。

◆1980年の1月、私は第5回目の地平線報告会の報告者となった。タイトルは「カフィリスタン非探検人間の探検行」。あんなに憧れていた探検部に入らずに、観文研に出入りし、秘境から観光地へと変貌したパキスタンの奥地で暮らしてきた。惠谷さんを意識して付けたタイトルで、入部しなかったエピソードも当然話したのだが、そのあたりをちゃんと惠谷さんはわかってくれていた。最後に司会の賀曽利隆さんから振られると「丸山純が探検部に入らずに、こうして一人でパキスタンに行ってきてくれて、俺はほんとうにうれしく思います」と締めて、会場の大爆笑を誘う。18歳の春からずっと心の奥に刺さっていたトゲが、このひとことできれいに消えた。

◆当時の惠谷さんは「戦場ジャーナリスト」という肩書きだったし、なにしろあの風貌なので、誰もが銃弾をかいくぐって決死のレポートをしてくる猛者というイメージをいだく。1979年10月の第2回地平線報告会(「砂漠からサバンナへ」)でも、緊迫感で体がしびれたようになったのをうっすらと憶えている。ところが惠谷さんの著書や原稿を読んでみると、そういう活劇シーンは最小限に抑えられていて、歴史的経緯や情勢分析がテーマであることがわかってくる。現場に行って歩き回るフィールドワークと過去のデータを緻密にまとめるデスクワークが渾然一体となり、独自の惠谷世界を形成しているのだ。

◆地平線会議の初期は、年報『地平線から』の刊行が活動の大きな柱だったが、その情報収集の大元となったのが、惠谷さんの新聞切り抜きだ。しかも1紙だけでなく、朝・毎・読・日経・産経の5紙全部を見ている。独特の骨太の字で書き込まれた日付と掲載紙名を見るたびに、ああ、これも惠谷さんの切り抜きだと、背筋が伸びる思いがした。

◆1989年頃、ちょうど地平線会議が発足して10年になるあたりで、初めて惠谷さんのお宅にうかがった。ある子ども向けの雑誌で、地平線の旅人たちを紹介するという連載が実現したからだ。江本嘉伸さん、賀曽利隆さん、岡村隆さんと取材して、4回目に惠谷さんに登場してもらうことになった。惠谷さんの部屋は北向きの六畳間で、鉄製の二段ベッドの上にも、こたつの上にも、床の上にも無数の本や資料が広げられていた。そして、部屋の隅や廊下などのスペースに新聞の束が壁のように積み重なっている。しばらく海外取材に出て留守にしていたので、こんな状態になっているという。わが家でも新聞の置き場をめぐって妻との攻防を繰り返してきたので、こんなひどい渾沌を許してくれる奥様はどんな人なんだろうと、うらやましく思った。

◆惠谷さんの部屋の本棚の上には、ずらりと頑丈な紙製のボックスが並んでいる。切り抜くそばから惠谷さんは日付と掲載紙名を記入して、ここに放り込む。台紙には貼らない。執筆時に必要になると、こたつの横に関連するボックスを持ってきて中身を漁る。このとき不要になった切り抜きは捨ててしまうそうだ。自分のなかに明確なテーマがあり、どんな情報を集めたいのかをしっかり意識しているからこそ運用できるシステムなのだろう。惠谷さんの説得力の源泉を、この部屋に見た思いがした。

◆2000年あたりから、私はちょくちょく呼び出されて、お宅にうかがうことになった。惠谷さんは、宮本千晴さんの影響で富士通のOASYSでワープロを始めた、生粋の親指シフト使いである。オアシス・ボケットという携帯用の機種も手に入れ、誰よりも早く海外取材にも持って出た。でもパソコンはMacを使うようになって、Macで親指シフト配列を使いたいと、リュウド社の「Rboad」という6万円近くする専用キーボードを買った。じつは私はこのRboadの開発に参加してベータテスターやアドバイザーを務めていたので、以後ずっと惠谷さんのMacのお世話係をしていたのである。

◆それから何年も経って、古い規格が廃されてもなんとかサードパーティの頑張りで動いていたRboadも、ついに限界がきた。Mac本体も古く不調で、買い替えるしかない。もうRboardは諦めると決めて二人で新宿のソフマップに行き、新しいiMacを買ってきた。電源を入れ、古いMacから設定を引き継ぐ。真っ先に惠谷さんが動かしたのがGoogle Mapだ。北朝鮮をどんどん拡大して、自分が旅したルートをたどっていく。「これはやっぱり地下のミサイル基地だな。怪しいと思ってた」。古いぼやけたモニターでは見えなかった地形の微妙な陰影が、真新しいiMacの高精細ディスプレイで浮き彫りになる。「おおっ、これも!」「ここもそうだ!」「ああ、一目瞭然じゃんか!」……こんな興奮した惠谷さんは見たことがない。帰りますと声をかけても上の空で返事をする惠谷さんを残して、私は玄関のドアを閉めた。

◆あっという間に紙幅を越えて膨大なものになってしまったが、サングラスの向こう側にある惠谷さんの知られざる顔を紹介したくて、個人的な思い出だけに刈り込んでここにまとめた。惠谷さん、生意気な後輩でしたが、かわいがっていただいて、ありがとうございました。(丸山純


論考 2018夏

 「米朝関係の蚊帳の外」ですか?
  花田麿公

■6月12日に米朝首脳会談が行われますが、この「地平線通信」誌が発行されたころには、同人の皆さんはその結果を承知しているものと思われます。ラストミニッツになったこの時点で、北東アジア人であり、日本人である個人として、これだけは考えておいていいのではと私自身が思っていることをつぶやきたいと思います。

◆米朝首脳会談の実現にむけた歩みのなかで、ワイドショーが一喜一憂するようないろいろのことが起きました。やはりテーブルにつく方が、昨年来の緊張状態に比べればはるかに有意義だと思いませんか。この際最大の圧力をかけ続けるなどの主張はほっておきましょう。今は外交の季節です。暴力は外交の後にくるもので、外交の前に来てはいけません。そう思いませんか。

◆これから交渉する相手をあしざまにののしるなんて、清少納言がはしたないと言うでしょう。世界は緊張緩和の方向を胸をなでおろして内心喜んでいるものと思います。アメリカには背後に、外交の「本筋」を見失わずに読める人がいるみたいですね。

◆三点について書かせていただきたいと思います。

(1) 米朝二国間関係の正常化

■一連の流れは、どうみても米朝国交の正常化(外交関係樹立をも含む可能性のあるもの)のプロセスには違いないと思われます。そのプロセスのなかで、朝鮮戦争を片付けなければならないでしょうし、半島の非核化とミサイル問題を解決しなければならないでしょう。これまでの例から言えば、普通は数時間の首脳会談でこのような問題が解決できることはなかったので、トランプ大統領もゆっくりでいいと言っているように時間がかかる問題でしょう。

◆でも、すでにこのプロセスで米国人3名が解放されるという成果がありました。もう一つの物語が韓国との間で進行していて南北間では、標準時を統一するとかいくつかの成果がでています。全体として北東アジアと世界にとって好ましい方向に流れていると、多くの方が感じているところではないでしょうか。しかし、これは今世紀前半という歴史の中で見通せば、米朝の当局者間で誰かがしなければならなかったミッションであることには間違いないと思っています。

◆国交正常化のプロセスを進めるということは、「アメリカの、アメリカによる、アメリカのための」外交であり、同時に「北朝鮮の北朝鮮による、北朝鮮のための」外交であるので、それ以上でも、それ以下でもないのではと思います。米朝二国関係以外の問題を持ち込みたがり、解決してもらおうとしても、お愛想は言うものの心中では無視したいのではないのかと思っています。

(2) 日朝関係の打開

■日朝関係の諸問題は日朝間で話し合う以外解決はできないのだと思っています。いつまでもアメリカ・パパの影にかくれて、隣との関係改善を話してもらう訳にはいかないのが外交の常識だと思います。アメリカ・パパでさえ関係をもっていなかったので、スウェーデンなどの利益代表をたてて話していたのですから。ですからトランプ・パパさん拉致問題話して下さい、と米朝首脳会談前に駆けつけてお願いしたり、事後にどうでしたとパパに聞いたり、ご近所の韓国に行ってどんな風だったのでしょうね、何か聞いてません?などと聞いたりするなど、外交の仕事をしてきた者として顔から火が出るほど恥ずかしいことに感じます。

◆そうでないと取り残される、蚊帳の外におかれるとの焦りがそうさせるのかも知れません。しかし、私たちの日朝関係は、米朝関係より先んじているのです。トランプ大統領が始めようとしていることの一部は日朝間でもう済ませているのです。焦る必要はひとつもないように思います。今から16年前の9月17日、小泉総理が訪朝して「日朝平壌宣言」に署名しております。これは私たちの財産だと思います。これを寝かせておくのは宝の持ち腐れだと思いませんか。

◆もし、米朝が一気に外交関係樹立まで行ったとしても、私たちには基礎があります。慌てず騒がずこの宣言にのっとり、交渉を再開して粛々と進めればいいのではと愚考しますが?

 では、かいつまんで同宣言の内容をここに紹介したいと思います。

 1.国交正常化交渉をする。
 2.日本は過去の植民地支配を反省しお詫びの気持ちを表明。国交正常化交渉において経済協力について協議する。
 3.日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題について、北朝鮮はこのような問題が再発しないよう適切な措置をとる。(注、拉致問題のこと)
 4. 北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため協力していく。朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため関連する国際合意を遵守する。

◆今必要なことはすべて書かれています。すなわち、新たな文書が必要なのではなく、できた合意を遵守し、内容を実現していく方策を講じることが必要なので、宣言はそれを求めています。双方とも怠慢であってはならず、一刻も早く継続して二国間の交渉をするべきだと思います。そのために、同盟国を含む第三国など周辺国の水面下を含む妨害に遭わぬよう慎重に進める必要はあるでしょう。

(3) 自前のチャンネルで交渉

◆そのためには自前のチャンネルが必要です。金正恩委員長も日本と交渉する意志があることを表明していますので、早急にとりかかればよいと思いませんか。日朝は日朝でやるべきであって、人任せにしない方がいいと思いませんか。シンガポールの米朝首脳会談は米朝の関心事であって、極論すればわれわれは参考程度に聞き置けばよいのだと思います。

◆早急に平壌に常駐の代表部を設置すべきであると思います。日中関係において「LT事務所」を設置した前例がありますし、モンゴルについては、頻繁なる相互訪問で基本的筋道を話し、細部は双方が出先をおいているモスクワで交渉したりしました。トランプ・パパにたのむような迂遠なことは一切不要で、自前でやりましょうよ。安倍総理が最大の圧力の強化を最後まで押しつけようとしてもトランプ・パパはもうその言葉は使いたくないと言いました。これも恥ずかしくてしょうがありません。自分でできることは自分でしたいものです。パパにしりぬぐいさせてはなりません。新井白石が聞いたら激怒することだと思います。

◆拉致ご家族は年々歳をとり、もうまったできない所に来ており、トランプ大統領にだってなりふりかまわずご協力を仰ぐべきとの議論ですが、それはよくわかります。だったら、16年前他国の邪魔に屈せず、平壌に素早く代表部を設置して話しを現地で交渉して進めるべきでした。なぜほっておいたのでしょう。失われた時間が悔やまれてしょうがありません。

◆日朝関係が突出して好転するのを好まない周辺大国が少なくとも2国あったと私は個人的に考えています。6ヵ国協議の枠組みがその後できましたが、あれは日朝が直接交渉しないよう足かせとして働き、大国が日朝の動きを見張る巧みな仕組みに見えてしようがありません。

◆日朝関係打開の暁には、多額の経済支援が必要となり、アメリカは北朝鮮支援の意志は毛頭ないと早々に発表しています。日韓が負担するよう、トランプ大統領は両国に言ってあるそうです。湾岸のときのようにまた、米国は「私行動する人、あなた方支払う人」のような流れにしようとしているように見えます。日本企業の活躍の塲を確保することも見据えて日朝間で今の国力相応に交渉すればよく、ここはパパに反抗して、はいと返事したくないものです。

◆1972年9月に中国との国交正常化後、両国間の問題についてあらかた合意して交渉が完成したのは、1978年8月の「日中平和友好条約」によってです。6年かかっています。

◆日本とモンゴルとの間には国家承認問題、未承認国の主張する戦争状態であるとの主張とその終結の問題、未承認国との間で戦争状態が存在したと主張して請求される戦時賠償問題、戦後軍人軍属を含めた日本人の大量抑留、強制労働問題などがあり、1965年8月の意見交換開始から、交渉は7年もかかり、1972年2月にとりあえずと言う感じで外交関係を樹立しました。

◆しかし、その時は懸案にふれず、「外交関係の樹立は両国の経済的、文化的交流を促進するであろう」という趣旨の短いプレスリリースをしただけでした。とりあえず外交関係を樹立して、懸案はそのあとで解決しようということでした。結局、両国間の友好関係が促進するなかで交渉がスムーズに回転しはじめ、5年後の1977年8月「経済協力協定」を締結して解決することができました。内容は50億円を拠出して世界最大のカシミア工場の建設に協力することでした。同条約の第一条に以後一切過去に触れないとしています。12年もの長きにわたりました。

◆北朝鮮との関係も過去に蓄積した北東アジアでの経験にならい進めることができるのではないかと期待しています。海外の映像メディアなど入れ核実験場坑道入り口の爆破の場面を見せましたが、あれで核放棄、非核化だなどと世界のだれもが認めないでしょう。すくなくとも、外交関係が樹立され、政権存続の保障が得られたと北朝鮮が確信するまで、核の放棄など私には絵空事のように思えます。北東アジアの核保有国として、あるいは潜在保有国として存続していく方策を講じているように思えてなりません。ですから、交渉は長くなるものと思います。核については、私の予想が裏切られる現実が来て欲しいものです。(2018年6月7日)


先月号の発送請負人

■地平線通信469号はさる5月9日印刷、封入し、翌10日郵便局の集配窓口に渡しました。印刷局長の車谷建太さんが10ページに「80才のバースデーソング」という、レイアウト責任者の森井祐介さんの日頃のご苦労をあたたかく書いてくれているので是非読んでください。今回作業に集結してくれたのは、次の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 走出(そで)隆成 伊藤里香 高世泉 杉山貴章 兵頭渉 白根全 江本嘉伸 下川知恵 光菅修 落合大祐 武田力 松澤亮 埜口保男
走出君は早稲田の探検部仲間。最後に来た2人は北京直行組でした。


地平線ポストから

荻田泰永さん、植村直己冒険賞受賞式報告!

■6月2日、豊岡市の日高公民館で植村直己冒険賞の授賞式が行われた。今年の受賞者は単独無補給で南極点まで歩いた荻田泰永さんだ。オープニングは植村さんの母校、府中小学校の生徒たちの「Do My Best」のコーラス。市長あいさつのあと、選考委員の石毛直道さんの選考評があった。石毛さんは日本の探検家の草分けのような方だ。選考の理由を会場を埋めた中学生にわかりやすく説明してくれた。荻田さんのような若い冒険家、子どもたちに話をするのがうれしくてならないような石毛さんだった。荻田さんも、大先達の石毛さんのような方に評価してもらえたのはうれしいことだったろう。

◆賞の贈呈の後、荻田さんの講演会になった。聴衆は地元の中学生が主体だ。植村直己冒険賞は受賞者本人の栄誉はもちろんだが、小中学生に地元出身の植村さんへの敬意を呼び起こさせることも重要な役割だ。先輩の偉業に誇りをもって学生生活を送って欲しいというのが地元の方々の願いだ。

◆荻田さんは南極の話を動画を交えながら話してくれた。100kg近い荷物を満載したソリを自力で引っ張って1000km以上の距離を歩いた。誰もいない雪原で一脚を立ててカメラをセットしてその前を歩いている姿にみな感動していた。そんな大変ななかでよく動画をとる余裕があるなあと思ったのだろう。しかし荻田さんは、「南極点踏破は簡単でした」と言った。「ええー」と中学生は思ったろう。

◆荻田さんは「北極男」と称している。実は2001年から北極には15回行っているが、南極は今回が初めて。南極は大陸で氷は安定している。北極の氷は海に浮かんでいるだけでいつ割れるかもわからない。氷は動くので昨日北極点だった場所が今日も北極点とは限らない。動いた氷がぶつかって乱氷帯ができ、時にはリードと呼ばれる割れ目ができる。

◆北極の話は動画ではなく写真だった。割れ目に落ちたら助からない。と思っていたらドライスーツで泳ぐ準備もしてあった。乱氷帯は巨大な氷のブロックがごろごろしている間でソリを引っ張り上げる。「もういやだ!」という声が聞こえた。氷の山の間でソリがまったく動かないので写真だと思っていたが動画だった。押しても引いてもソリは動けないが、声だけは入っていた。

◆「この乱氷帯を犬ぞりを使って越えて行ったのはとんでもなく大変なことです。私にはとてもできません」と犬ぞりの植村さんの偉業を評価した。子どもたちは「そうなんだ、植村さんはすごかったんだ!」と誇りに思ったようだ。それは後の子どもたちの活発な質問から察するができた。

◆最後に今後のやりたいこと。1.小学生をつれて100マイル歩行、これは自分が受けた恩返し、いや「恩送り」だという。自分は大場満郎さんのおかげ極地に行けた。大場さんは植村直己さんお世話になった。恩は相手に返さなくていい。次世代に送ればいいという。その意味も込めて毎年小学生と歩いているという。

◆2番目は自分のことで、3度目の北極点無補給単独徒歩行を成功させたい。そして3番目、何を言うかと思っていたら「ハワイに行きたい」皆さん思いがけない言葉にどっと笑った。会場には奥さん子どもも来ていたのだ。話の後は質問タイム。司会者の方は手が上がらなかったら終了と思っていたようだが、続々と中学生が質問する。こんなに質問が飛び交う講演会はこれまでなかった。荻田さんの人がらだろう。地元の大人の方々も、中学生が目を輝かせていたと喜んでおられた。いい授賞式だった。(三輪主彦

小6の娘が、ついに荻田泰永さんの「100マイル」に挑戦!

■ご無沙汰してます! 暑いですが、お元気ですか? 明日(9日)は台風らしいですが……。私は冒険探検とは無縁の高齢者相手の福祉にどっぷり浸かっております。とうとう娘が、小6になりました〜ッ! 2年前、村上祐資さんの火星移住計画の報告会に当時、小6の息子と小4の娘を同伴。「北京」の餃子を食べさせ、荻田泰永さんの「100mile adventure」に行きなよ〜と推しましたが、餃子を散々たべたあげくに“俺にはサッカーがあるから100mileはいいや”と振られてしまいました。

◆それから娘が小6になるのを待ち続け、そして、めでたく「100mile adventureに行くっ!」とむすめ本人からの言葉が。愛川町の荻田さんの講演会にも伺い、写真も撮って頂き!もうすぐ、募集開始します!と教えて頂き、娘から、もうすぐ!ってヒントを下さったんだから、あとはママががんばって、メンバーに入れるかどうかだけだね! プレッシャーをかけられてしまいました。

◆というのも、100mile adventureは募集開始日不告知での先着順。荻田さんに言わせると、これが一番公平なのだと。どれだけ行きたいかの問題なのだと。仕事柄、四六時中、FacebookやTwitterの募集開始を確認できる環境になかったので、ドキドキそわそわの毎日でした。てっきり募集開始告知は昼間だと思い込んでいたので!そしたら、なんのことは無い、仕事帰りの21時頃に信号待ちの間に、Facebookを開いてみたら“20時くらいに募集スタート”。心臓バクバク、急いで路肩に車を停めて、Facebookを確認。“もう既に3人申し込んでいる(^_^;)あと4人”。今、この時間にも、日本中の親が申し込んでいる妄想と焦りで、申し込み画面に入力する指がもつれる(笑)

◆「申し込みを受付ました」。画面を見てやった!間に合った〜と、やっと呼吸が出来たような心持ちになりました。今回は、初の試みで、2コース開催。[1]新潟→猪苗代湖[2]猪苗代湖→日光。わたしとしては、[2]は南会津を歩くので、伊南村の酒井富美さんの事を思いだし、[2]を選んでくれないかな〜と、密かに期待していましたが、娘は[1]を選びました。なぜなら、新潟に行ってみたいのと、[2]のゴール日光は、秋に修学旅行で行くから!だそうです。

◆行きたい方に行かせないと、170kmも歩けないよな〜と思い[1]にしました。あぁ私なら富美さんの南会津に行くのになぁ……(笑)。でも、私の母の故郷は新潟。父の故郷は福島なのです。母は私が23の時に癌でこの世を去り、父が逝った時は娘は2歳だったので、私の両親の事は写真でしか知らないので、自分のoriginをたどる旅でもあります。

◆私は、26歳で女性5人でバイクでサハラに旅立ちましたが、娘は小6で女子6人+男子1人で170km歩きます。地平線では二世はイマイチと言われていますが、はてさて、どーなることやら! 娘は8月1日、新潟出発ですが、私は友人の言語聴覚士とオーラル特化型デイサービス「ハッピーマウス」を8月1日にオープンするので、娘は娘の旅立ち、私は私の旅立ちの日でもあります。母娘ともども決戦の8月は暑く熱くなりそうです! ランナー江本さんは、心配無いと思いますが、家の中でも熱中症にはなりますので、どうかご自愛くださいませ。ちょいとご報告まで!(青木明美

カラーシャの村から

■「もしもし。小原です。ブンブレット谷のナシールさんのところに先ほど着きました」。パキスタンの山奥のブンブレット谷から東京の丸山純さんへの国際電話の会話は、こんなありきたりなものだった。40年近くカラーシャに通った丸山さんが最後に村を訪れてから14年、地平線会議でその話を聞いた自分がひょんなことから訪れることとなった。

◆4月の下川知恵さんの報告会のあと、中華料理の北京で丸山さんらに見送られ、上海、ウルムチと飛行機で飛んでカシュガル。カシュガルから陸路、タシュクルガン、クンジュラーブ峠、フンザ、ギルギット、チトラルを経て丸山さんのカラーシャの家族、ブンブール・カーンのいるブンブレット谷に9日目に到着した。出迎えてくれたブンブール・カーンの息子のナシール・カーンとは挨拶もそこそこに丸山さんの新しい電話番号を紹介すると、携帯電話からすぐ日本に電話。丸山さんと近況報告をしばししたのちに電話を渡され、冒頭の会話となった。

◆秘境のようなところと思いきや、あっけなくカラーシャの村に着き、携帯電話で丸山さんといきなり話をすることになるとは思ってもみなかった。確かにチトラルから車で山道をジープで2時間揺られて行くところではあるが、今はもう秘境ではない。観光客も来ている。ただし、安全上の理由ということで、外国人にはカラシニコフを担いだ警察官がアテンドするのだが。

◆丸山純さんのカラーシャ族の話を報告会で聴いたのはいつのころだっただろうか。イスラム化されずに独自の言語と信仰と風習が残っている村に魅せられて、丸山さんは40年近くも通っている話だった。そんな面白いところもあるのだなと思いつつも、自分がまさか何年かのちに行くなんて考えもしなかった。丸山さんが最後にカラーシャを訪れてから14年。その空白の時間を少しだけ埋めるかのような1泊2日の短い滞在だったが、その村を訪ねることができた。自分の滞在と報告が次の丸山さんの訪問につながればいいなと。

◆ナシール・カーンの案内で、丸山さんの書いたカラーシャ特集の『あるくみるきく』(1985年・日本観光文化研究所刊)を片手に、掲載されてる写真と現在の様子を対比しながら村を撮影して回った。だがナシール・カーンにこの14年間の変化について聞くが、今の村の様子を語る表情はどこか寂しげで冴えない。抗うことの出来ない変化が村にあったことは着いたばかりの自分でもわかる。

◆村には伝統的な木造家屋ではなくブロック積みの観光客向けと思しき建物がそこかしこで建設中だ。村の中心から下に降りればイスラム教徒の住人も多い。朝晩とアザーンが響き渡る。カラーシャの女性の民族衣装もかつての草木染の渋い色合いではなく化学染料の派手なものになっている。あたりまえだが14年前のカラーシャの村ではない。カラーシャ族はアレクサンダー大王遠征の末裔であるというファンタジーにもとづいてギリシアの団体の援助で建てられた大きな博物館と学校も、伝統的なカラーシャの建物とは程遠いデザインだ。それでもそこに通う子供たちは楽しそうなのだが。

◆本当はもう数日ブンブレット谷に滞在していろいろと調べたかったし、話も聞きたかった。しかし今回の旅は、南京に留学してるパキスタン人の友人に同行して、ラマダンまでに彼の実家のペシャワールまでカシュガルから2週間で陸路で帰るというもので、先を急がねばならなかった。そんな弾丸旅行の道中、丸山さんの通ったカラーシャの谷に来ることが出来たのは嬉しかった。滞在が短かった分、また来る理由も出来た。次は観光客の多い5月のジョシ祭でなく12月の静かなチョウモス祭のころに訪れたい。そして丸山さんのカラーシャ訪問がそれほど遠くない未来であらんことを。

◆今回の旅は他にも面白い話が多いのだが紙面が尽きた。いつかまた報告が出来ればと思う。(小原直史

エベレストから帰らなかった友へ

■栗城史多。これほど登山界に嫌われた登山家もいなかっただろう。事故の翌日の5月21日、彼がエベレストで亡くなったと、事務局の小林幸子さんから聞いた。先に生まれただけで尊敬に値しない私に、「猪熊先生!」と懐いてくれた後輩を失ったことはとても哀しい……。礼儀正しくて、愛嬌があって、そして人の言うことを聞かなくて、いつも前向きで、最後まで自分を貫いていった。エベレスト終わったら茅野で必ずご馳走するから祝杯をあげよう! その約束も果たせなかった。

◆出会ったときは、正直、彼のことが好きではなかった。それは「単独」という言葉を使うこともそうだったし、彼の登山スタイルに対しても。彼には色々、説教じみたことも言った。「単独」という言葉が表す意味や、登山のルールのこと。そして、2009年にダウラギリの登山中、撮影のために貴重な好天の一日を使ったこと、C1〜C2という雪崩のリスクがある斜面に長くとどまったことなどに対して。

◆そのときに、彼の目的がエベレストの無酸素登頂ということだけでなく、むしろ「冒険の共有」にあったということを知った。「登山は他のスポーツと違って、試合中のプレーを生で見せることができなかった。でも技術が進歩した今は、自分の登っている姿を世界中の人に届けられる。自分が登っていることを通じて、人生の色々な山を登っている人に勇気を与えたい」というのが彼の口癖だった。実際に、彼の動画を見て、勇気をもらっている人が沢山いた。彼を応援しているのは、登山者ではなく、ニートたちや、目標を見つけられず、苦しんでいる人、壁にぶつかって悩んでいる人であった。彼は思ったに違いない。「彼らの目標になりたい。ニートだった自分が夢を見つけたように。夢を見つけるために一歩を踏み出すことに」

◆登山のリスクと、自分が果たしたい夢、どちらを天秤にかけるか、難しい問題だ。山は無情だ。ちょっとした判断のミスが命を失うことにつながる。私も何人もの友人を山で失くしていた。私なんかよりずっと慎重な仲間が雪崩で命を失っている。ただでさえ、リスクの多い、無酸素での高所登山に、撮影という作業が加わることはリスクを増やすことになる。私は彼を止めるべきか悩んでいた。でも最後まで、撮影しながらの登山をやめろ、と言うことはできなかった。

◆それからも色々あった。彼はネット上などでバッシングされていた。そうした中、彼は「単独」という言葉を使ったことに責任を感じていたのかもしれない。あるいは、登山界のルールに則った「単独」登山をしたくなったのかもしれない。彼の登山は、ノーマルルートからヴァリエーションルートへと転向していった。国内での登攀経験も少ない彼に対し、その後挑戦することになるシシャパンマ南西壁やエベレストの北壁、西稜のリスクについて語ったこともある。

◆また、指を切断することになったエベレスト西稜のときは、強風で絶望的な状況の中、それでも突っ込んで行った。あのときもっと強く止められなかったのかと何度思ったことか。冒険とは未知のものに挑戦することだけど、明らかに実現性が難しい登り方をエスカレートさせていった彼を止めるべきであったろうか? しかし、今回の南西壁への挑戦では、唯一、心を許していたクライマーである花谷泰広氏にすら打ち明けなかったというから、私ごときが何を言ってもダメだったろう。彼と、そこまでの信頼関係を作れなかった自分の度量のなさを改めて情けなく思う。

◆彼は「一流の登山家」ではなかったかもしれない。それでも8,000m峰を複数、無酸素で登頂していることから、体力があり、高所にも適応できる力はあったと思う。彼が「冒険の共有」に目的を置いているのであれば、ヴァリエーションルートの無酸素登頂にこだわる必要がなかったのではないかとも思う。非常に困難なルートに挑戦し、成功したとしても、彼を応援している多くの人は、それを自分のこととして受け止めることは難しいだろう。むしろ、「凡人(失礼!)でもここまで登ることができるんだよ!」という姿を見てもらった方が良かったのではないだろうか。指を失っても挑み続けたエレベスト。義務ではなく、本当にエベレストを好きで登っていたことを信じたい。

◆一方で、彼からはビジネスについて色々教えてもらった。あれだけ登山界から批判を受けながら(もちろん彼の方にも問題はあったと思うけど)、多くの企業からの応援を取り付けた実力は本当に尊敬している。登山家よりビジネスマンになっていたら成功していたかもね(笑)。ネパールの大地震のとき、私がSNSを通じて多くの方からいただいたテントを、首都のカトマンズから被災地へ送るすべがなくて困っていると、「自分がネパールに行くので被災地に運ぶ!」と力強く言ってくれた。その決断力の早さも見事だった。

◆彼がエベレストに何度も挑戦しているとき、登山界で応援している人は本当にわずかだった。それなのに、亡くなった途端、友人だと言う人が沢山出てきた。君と一緒に映っている写真を載せて。また、週刊誌が彼の名前を使って、登山とは関係のない特集を組んでいるのを知った。正直、複雑な気持ちだった。

◆最後にちょっとだけ文句を言わせてくれ。今回、「エベレストにまた行くよ」と一言も連絡がなかったのは寂しかった。8度目の挑戦、自分にも共有させて欲しかった。これまで予報を通じて、色々な山に連れていってくれてありがとう。来世では一緒にどこかの山に登ろう! さようなら。最後に、栗城君をずっと影で献身的に支えていた栗城事務局(株式会社たお)の小林幸子さん。彼女のことが心配です。今はただ、お疲れ様でした、という言葉をかけたい。(猪熊隆之 山岳気象予報士)

ちゃんと生きているひとの考えや行動

■江本さん、ここのところの報告会。とっても、想像的、創造的だと想います。前回の下川知恵さんも、今回の青木麻耶さん、松本裕和さんも。ぼくは、毎回感動して、そして 打ちのめされております。下川さんのときは、手作りの籠と吹き矢が、実際に会場に有ったでしょう? 籠はスゴいって想った。美しいです。吹き矢は、どうやって真っすぐを創り維持してるのか、岡村隆さんと「ビックリだね」と話してました。

◆吹き矢は、ちゃんとしてないと死活問題。持ち重りしてもいけないし、身軽に森を歩ける道具。生死に切実な道具を思考創造するとき、「人力」が、ここまで精度を極めることが出来るんだと想った。(必用の)「イメージを現実的に(実社会に)形にできる」という真の技量。そのうえ、手創りの「生活必需品」は、どれも、自然界から創られて、自然界へ還って行くという、循環の中に活きてる創造力。物も想いも 止まらない 終わらない。想像力は、ずーっと ままに流れに乗ってる。そのような創造力は 自然界循環を なにも邪魔しないのだなあと想いました。

◆5月の報告者、青木麻耶さんは、神々からのギフトを逃さない人だと想いました。旅の道中、ご褒美みたいに肉を置いてある。「よく頑張ったな」「もっとガンバレよ」みたいなメッセージか。スゴいなと想う。褒美は、本人にだけわかるように置かれている。ってゆうか、「わかる」技量を身に付けた当人にしか価値がわからない物。動かぬ鹿を目撃した瞬時に もうすでに「食べる」ことは内心に決まってる。「刃物をひとつ持ってる」だけで、そういうことが「想える」ことがスゴい。ぼくなんかは、鹿が肉に成って、調理されて目の前に出され、「料理」として目撃するまで、ものごとの価値も意味もわからんです。

◆ちゃんと生きているひとの考えや行動は、ぱっと観、とても変にみえるのかもしれない。でも、考えてみると、なんもかも正論。美味しい食べ物がプレゼントされて、それを必用な分量だけ持ち帰って、仲間にふるまう。鹿は森に還す。まったく、正しい。優しい、そして、なんだか強い。「いただきますのありがとー」。自然界の一員としてのひとの想いが「形」や「色」に成るのは とても美しいのだなあって。大量生産の工業製品も、利潤効率優先だけではなくて、そういうところをいつも起点念頭にしたらいいのになとか想う。

◆そんなふうに、実際に「現物」が、報告会場に巡るとき、ぼくは有無をいわせぬリアルな納得をさせられてしまいます。もちろん、報告者の方々(本人)のライブな言葉の背景があるからこそ現物への視力や触覚が、同調できるのですが。今回は松本さんの竹の作品が報告会場を巡りました。実用品は、とても美しいです。視力によるものだけでは無くて、目を閉じて、手の触感が美しい。作品の重さが、美しい。

◆民族博物館や郷土資料館へ行ったときもそう思う。積み重なる経験値により工夫更新された道具は美しいと想います。昔の農具とか、すごく美しい。絵画や彫刻は、要らないなと想うことがあります。たとえば、「(博物館にでは無くて)台所に松本さん作の竹笊が有る」、そのことそのものが、空間や日々の感受に安らぎや優しさや労り豊かを育んでゆくと想う。一点一点の作品から発する「何か」から、世界が、ちょっとずつ育まれてゆく感じ。毎日、道具を使う人との感受の呼応。使い込むごとに、やがては、なくてはならぬ物(生活の風景)となる。優しい温かい生活が育まれてゆく。それが実用という意味や価値ではないだろうか。とか、想いました。

◆手創りが美しい。ぼく的には、ひとことで云うと「竹が こうなるのか」という驚き。そして「(目前の)この竹笊は、一年前には、世界中のどこにも無かったのだ」という驚き。ひとつひとつの手創りの作品には、どれほど小さな作為であれ、同じ時間が二度と無い。行為の軌跡はいつも新しい。だから「作品」と云えるのだと想います。丹念に吹き込きこまれてゆく。小さな固有の積み重ね。緻密丁寧に完成されてどの作品にも「美」が宿る、その出現は松本さんの手の 最初のひと編みからこつこつと始まったのだなあということが 直接的に知れて 感動しました。

◆江本さん、地平線会議ってスゴいよ。(緒方敏明 彫刻家)


地平線40年祭、10月14日(日)に決定!

■地平線会議発足40年を記念する祭(仮称)を10月14日の日曜日、東京・青山の東京ウィメンズプラザホールで開催することに決めました。時間は午前9時から午後5時までです。当日は夜のイベントはなし、とし、遠路参加される方々のために前日13日の土曜日、別な場所で“前夜祭”的な企画を考えます。本番を含めて内容についてはこれからあれこれ知恵をしぼり(かなり思い切った企画をやりたいですね)、皆さんにお伝えします。(地平線会議


「信州森フェス!」6月23、24日開催!

■2011年にスタートした「信州森フェス!」は、《楽しみながら森の事をうっかり知ってしまう》ことを目指して始まった、広大なスキーロッヂを借り切って展開する二日限りのお祭りです! 今年のテーマは「木・土・逢・楽(きどあいらく)」。メインステージはバンド演奏と声楽とDJと講演などなどが次々と展開する、通りすがりで楽しめる室内路上パフォーマンス空間。今年はここに関野吉晴ドクターが登場します、お立ち会い!講演テーマは《なぜカレーライスを一から作るのか》です。

◆講演前にはもちろん、関野さんが武蔵野美術大学の教え子たちと企画したドキュメンタリー映画「カレーライスを一から作る」の上映もあります。また、地平線会議の報告者“糞土師”伊沢正名さんの講演もお見逃しなく。《のぐその実践ワークショップ》も予定されていますし、関野さんの乱入もありかも。ほかにも、写真家の田淵三菜さん、トレイルランナーの山田琢也さん、森林生態学者の紙谷智彦さん、ギターを弾く分子生物学者津田吉晃さん、森林学の博士で京都のお寺の住職である泉浩業さんなど、興味深い人々が二日間に渡って登場します。ちなみに長野亮之介はスタッフとして立ち上げから関わり、森フェスのメインキャラも作りました〜。大手スポンサー拒否の混じりっけ無し手作りフェスです!(長野亮之介

◆   ◆   ◆   ◆

「信州森フェス!」
 日時:6月23日(土)<10時〜20時>
      24日(日)<10時〜17時>
 場所:長野県上田市菅平高原プチホテル・ゾン タック別館フォーレス館/入場無料(映画は有料1000円)

★詳しくは以下ホームページに掲載されているパンフレットを参照してください。
  https://morifes.jimdo.com/


ランタン酪農組合のチーズ貯蔵施設とセンターハウスの建設に新たな支援を!

■地平線通信469号で現地からお伝えしましたが、2018年春のランタン訪問のミッションは二つあって、一つはキャンチェン・ゴンバ(寺)の再建。これは予定通りに運び、4月25日、大震災の3年目に落慶会を催すことができました。村を襲った大雪崩の犠牲となった175名の村人もこの山寺の完成を喜んでくれただろうと思います。施主は、当日集まってきた村人から祝いと感謝のカター布をいただきました。息苦しいほどの数でした。

◆もう一つは放牧専従者(ゴタルー)たちとの話し合い。搾乳のシーズン前に今年の酪農組合の方針を決定するため、5月13日、村でゴタルーたちと会議を持ちました。驚いたことに参加者たちは席上、次の提案をしてきました。

 (1) 放牧グループを3つに分け、それぞれが共同して乳製品を作る。

 (2) 自分たちが作れる乳製品は3種類、バターも加えると4種類だ。

 (3) 目標はシーズン通して3000kg

 (4) 当分ゾモ購入のことは考えず、ランタン酪農組合の設備を充実させて欲しい。

◆2016年に岡山の吉田全作さんからチーズ作りを教わったゴタルーたちは、この2年間で自分たちが作る乳製品が新しい何かを生み出すのではないかと気づき始めたのです。この提案は、過去30年以上、私の知る家畜に寄り添う彼らの生活史の中で、初めて出会うものです。(4)の酪農組合の設備とは、キャンチェンの貯蔵施設の建設とゴタルーの拠点となるランタン酪農組合センターハウスの建設です。設備を整えるまではゴタルーを支援し、その他の点では全て彼らに任せようと考えています。

◆ミッションの2本柱のうちの一つは、皆さんからのご協力によって完成することができました。もう一つのゴタルー支援。新しい意気込みで出発した彼ら自身にとっても、今は踏ん張りどころ。なんとか私も踏ん張って、酪農組合に不可欠の施設(2施設の建設費約480万ルピー)は完成させたいと思っています。心苦しい限りですが、皆さんからのご支援に期待するものです。

◆新たな支援のお願いをするにあたり、来る7月初め、今回のランタン訪問とこれまでのランタンプランの支援活動の報告会を行います。ずっと支援し見守ってくださっている地平線会議の皆さんにも是非お集まりいただきたいと思い、以下お知らせします。(貞兼綾子

  

━━━ランタンプラン活動報告会━━━
大地震から3年、村人は自立に向けて歩みはじめた ランタンプラン2015〜2018

 1:報告:ランタン谷2015〜2018春 貞兼綾子
 2:大なだれのメカニズム 澤柿教伸(法政大学)
 3:村を襲った懸垂氷河のゆくえ 奈良間千之(新潟大学)
 4:ヒマラヤのミジンコ・映像とトーク 竹内望(千葉大学)、坂田明(ミュージシャン・映像出演)
日時:2018年7月1日(日)13:30〜16:30(開場13:00)
場所:JICA市ヶ谷ビル2F 国際会議場
定員:100名(事前申込不要)〈直接会場にお越しください〉
参加費:無料
主催:NGOランタンプラン
お問い合せ:090-3397-1239(樋口)
  E-mail:
【カンパの窓口】郵便振替口座:口座記号番号:02720-7-102137 加入者名:ランタンプラン


今月の窓

 「探検と冒険ゼミ」の挑戦

■今年の3月から、地平線報告会に法政大学社会学部のゼミ生を連れてくるようになった。報告会で聞いた内容をゼミの題材として取り上げて見識を深めることが主な目的である。その数も次第に増えて,5月の報告会には十数名が参加してくれた。報告者の青木さんにはゼミ生らの感想を直接送ることができ、本号の地平線通信にはゼミ生たちが議論した内容を掲載していただいている。

◆このゼミを主催する私は、「氷河地質学」を専門とするフィールド研究者である。これまでに越冬を含む計4回の南極観測を経験しつつ、グリーンランド、ヒマラヤ、パタゴニアなどで野外調査を実施してきた。極寒や低酸素下での調査活動を「極限のフィールドワーク」と呼ぶ人もいる。極域寒冷圏研究の中心地は自他共に認める北大である。そこの山岳部員であった学生時代から通算すると30年の歳月を札幌で過ごしてきたことになるが、2015年に諸般の事情で法政大学へと転職することとなった。

◆主に大学院生を相手にしてきた北大での理系研究最前線からすれば,大規模私大の社会学部という、分野も対象も180度転換した環境に飛び込んできたといってもよい。そこで新たに主催するゼミを「探検と冒険ゼミ」と呼ぶことに決めた。自らの専門性には一旦蓋をすることになるが、「Be Ambitious」の精神に引き続いて、法政大学が掲げる「自由を生き抜く実践知」へと社会への約束に応えられる人材を育てる仕事をしようと思った。

◆法政大学には伝統も実績もある山系団体があるのは皆さんもご存じの通り。関係者に旧知の方もあれば奉職してからつながりができた方々もあるにはあるものの、私自身が直接コミットしているわけではない。それでも、法政大学の学風からすれば「探検と冒険ゼミ」という大それた標榜もそれほど違和感なく受け入れてもらえるだろうと期待したところもある。

◆ただこれだけの表題を掲げてしまったからには、背水の陣を敷いての再出発の覚悟でもあり新たな挑戦への覚悟も意味する。実際の所は、ゼミ初の卒論生を出したこの3月の時点でさえ、さまざまな戸惑いや試行錯誤が続いている有様。かくたる状況の中で、遠く北の地から憧れつづけてきた地平線報告会に顔をだすことができるようになったことは、数少ない救いであった。

◆この間、2015年に発生したゴルカ地震でのランタン村の壊滅という大事件にはじまり、その実態解明や復興にむけた専門家からの助言をしたり、ランタンプラン事務局として貞兼綾子さんをお手伝いしたりしている。ゾモファンドなどを通じて支援していただいている地平線諸氏とも次第につながりもでき、お上りさん気分からぬけだすよい刺激にもなっている。

◆ゼミ開設の翌年に国民の祝日「山の日」が施行され、あちこちの関連行事に2期生たちを差し向けた。「2002年国際山岳年(IYM)国内委員会」のお手伝いをした経験と、その後の一連の動きを注視してきた経緯があったからである。「山の日」という課題設定には、ゼミが掲げる「探検と冒険」の本質に迫ることはもちろん、山岳レジャーの動向、登山界の抱える問題、里山などの地域問題、サステナビリティ、祝日法に関する国政の動き、世界の山岳地域の動向、等々、様々な切り口が生まれることが期待され、まさに社会学の課題としてはうってつけだと思った。

◆社会学を専攻しているとはいえゼミ生まだ2年生。最初のヒントを与えてやらなければ動きだせない彼らに、IYM2002日本委員会事務局長でもあり後に「山の日」制定委員でもあった江本さんの論文を紹介した。『山岳文化15号』(2014)に「祝日としての『山の日』は何を意味するのか、山の世界は2年後の実施に向けて何をするのか」と題して掲載された論考である。

◆この論考での江本さんの主張を一言で言ってしまえば、「山の日とは命を考える場である」ということ。あの3.11の未曾有の大災害を経て、一旦は消えかかった「山の日」制定の動きを復活させた経緯にもつながる江本さんの「気付き」に基づくものであった。この「重い」論考を、学生たちはどう消化して「山の日制定」の課題に折り込んでくれるだろうか、と見守っていたが、出てきたレポートを読む限り、消化不足かまったく手も足も出なかったという惨憺たる結果であった。

◆「山の日」の施行に沸いた当年の一連の動きを見ていても、江本論考を的確に反映しているものは多くはなかったのが実情であり、ゼミ生たちの能力不足に帰結するのは酷なのかもしれない。しかし同時に、江本さんに直接教えを請うことが最良なのではないか、と思い始めたきっかけともなった。

◆那須の雪崩事故もまた、雪氷災害調査に携わってきた身としていたたまれない悲しみと痛みを感じる出来事だった。東京五輪を契機にスポーツ振興や経済発展を図ろうとする政府の意図はあけすけだが、「山の日」も結局はそのような路線でしか語られなかったように思う。3.11や那須雪崩を教訓に今後進むべきは「命を考える力」あるいは「生き抜く力」を育成していくことだと思っている。「極限のフィールドワーク」を実践してきて「自由を生き抜く実践知」の教育現場に身を置く今、40年にわたって続く地平線会議の底力をお借りして「探検と冒険ゼミ」の個人的な挑戦とゼミ生たちの成長にご協力をお願いしたい。(澤柿教伸


あとがき

■フロント原稿の続きで藪漕ぎの話。藪漕ぎを始めた動機の一つは、昔、京都一中で今西錦司、梅棹忠夫らがやっていた「ジャンジャン」に刺激されたからである。登山道があるところは登るに値しない、と元気な中学生たちは考え。藪を漕ぎながら進もうとする時「はい、ここからジャンジャンやー!」と、かけ声出しながら登ったそうだ。「ジャンジャン」の語源はわからない。

◆そんなレベルには到底及ばないが、人がぞろぞろ行く山道はもういい、と少々ひねた気持ちもあり、短い距離でジャンジャンを試みている。ただし、そんな箱庭みたいなところでも怖いのが道迷いで、ある日とんでもない綺麗な草地に出てしまい、呆然とした。なんとゴルフ場のはじっこだったのである。鬱蒼とした藪からいきなりグリーンに出て、途端に自分が遭難した気分になった。ゴルフ場は広く、出入り口がどこなのか、まったくわからないのだ。最後はゴルフのおじさんに出口に連れてってもらったが、遠くて恥ずかしかった。

◆丸山純さんの文章に出でくる1989年の『こどもの光』連載「地球たんけんシリーズ」は、地平線のウェブサイトで読めるようになっている。トップページ左の紺色の帯から「Members」コーナーに入ってください。地平線会議のウエブ探検、1995年から記録されているので実は結構面白いですよ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

チベットの磁力・魅力・魔力

  • 6月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「子供の頃うちに出入りしていたチベット人は、大きな笑い声で、楽しい人達という印象でした」と言うのはチベット言語学者の星泉さん。母親がチベット研究者でしたが、その後、泉さんは特別チベットを意識しませんでした。言語学を専攻する大学3年のとき、フツーの旅行のつもりで行ったインドで人生が一変します。

母の縁で訪ねたチベット難民キャンプで厚いもてなしを受け、言葉の面白さ、文化の奥深さにハマリました。「例えばチベット語は《〜であります》という文末表現がいくつもあって、それぞれに話者の関与の程度が表されるんです。ヨーロッパ系の言葉にはない特徴です」。言葉の背景の文化にも関心が及ぶと、特に牧畜文化の言葉がわからない。

フィールドワークを重ねるうち、3500mもの“何もない”環境に展開するチベットの牧畜文化には、驚く程多様な言葉の世界が発達していることがわかってきました。ことわざも多く、豊かな説話文化もあります。

今月は「チベットは楽しい!」という星泉さんに、チベット文化の魅力を語って頂きます。


地平線通信 470号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年6月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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