2017年11月の地平線通信

11月の地平線通信・463号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月15日。「七五三寒気」という気象用語があるらしい。この週末は真冬の寒さに見舞われるそうだ。新聞、テレビは「希望の党」の小池代表の辞任と大相撲の横綱、日馬富士がモンゴル出身の幕内、貴ノ岩をビール瓶で殴打、2週間のけがをさせた事件を大きく伝えている。

◆先月の通信は10月11日の発行だったので22日の衆院選の結果はまだだった。「小池さん、走り通せるか」と書いたが、とんでもなかった。過半数である233人を超える立候補者を立てたというのに、結果は50人がやっと当選という惨敗だった。とりわけ、昨年の都知事選で「百合子、百合子」の絶叫連呼で名をあげた元検事の若狭勝の落選は象徴的だった。筋を通した、ということで、にわかに枝野幸男の株が上がり、野党第1党は54議席を確保した枝野の立憲民主が取った。

◆もちろん、最大の勝利者はさして汗をかくことなく完勝した自民党であろう。野党の側が勝手に自壊していったのだから。ただ、今回の選挙で立憲民主、希望が獲得した票を合わせると選挙前を上回る得票があり、野党が一本化できた場合は「84の選挙区で与党を逆転した可能性がある」のだそうだ。創業者としての責任を果たしたいと希望の党を統率する意志をなお明確にしていた小池都知事の突然の代表辞任。当面「小池抜き」の政局が展開する。

◆日馬富士の事件は、巡業先の鳥取でモンゴル人力士の親睦会の席で起きた。報道によると後輩の貴ノ岩に“説教”した際、スマホをいじりながら聞いている貴ノ岩に逆上「態度が悪い、と素手、灰皿、マイクで殴打した。白鵬、鶴竜もいたのに、「誰も止められなかったほどの」怒りだった、という。うーむ。相当の酒乱なのだな。正午のNHKニュースはトップでこの事態を伝えたが、当分「ビール瓶殴打事件」の波紋は広がるばかりだろう。3年前、法大大学院政策創造研究科に合格したことが話題となった横綱。「人間として、相撲だけではなく、いろいろなことを知っている大きな人間になりたい」と当時は語っていたのに……。

◆10日は高校の同窓会で「シウマイ」で有名な横浜の崎陽軒に行った。横浜中央郵便局と向かい合ったところにあり、ここにくるといつもかすかに胸がキュン、とする。とくにこの季節は。中学3年、高校1年の暮れ、この郵便局で年賀状の仕分けのバイトをしたのだ。私にとって初めてお金を稼いだ現場だった。手にした賀状の住所をチラ見しただけで、該当のボックスにものすこいスピードで賀状を投げ込む。もっぱら東京23区を担当した。当時は郵便番号などない。すべての区のボックスの位置を暗記し、はがきの住所を見て瞬時に各区別のボックスに投げ入れる技術を獲得した。確か時給30円だった。

◆高校は神奈川県立横浜緑ヶ丘高校という。1956年に入学した私たちは入学時254人いたらしい。唯一健在で、毎回ゲスト参加してくれていた英語のT先生がこの2月、逝去され、今回から完全に生徒だけとなった。参加は男21名、女18人。もちろん、今までで一番少ない。懇談の場なのに、思わず『新編 西蔵漂泊』という文庫本を出したことを宣伝してしまい、何人かから購入希望があった。こういう場で自分の本の宣伝がいいのかわるいのか、毎度少し悩む。

◆きのう14日は、中村保さんが「生涯スポーツ功労者」表彰を受けたことをお祝いする昼食会が新宿のホテルであった。長年の東チベット探検、海外の登山界との交流の功績が認められての表彰だ。登山界の大御所クラスのシニアが和風弁当を囲んでなごやかに歓談した。その中で中村さんたちがヘリでランタン谷を訪問する模様が映像で紹介され、私はあやさん(貞兼綾子さん)のあの谷の人と自然への献身をあらためて思った。

◆この通信でご本人に報告してもらった(5ページ)が、貞兼さんは、10月11日まで40日ほど現地に行って来られた。2か月あまり現地入りした春に次いでことし二度目である。70才を越したあやさんは、実に青春の体力を持っている。7つ(と、勝手に記臆している)のチベット方言を操る語学力には定評があるが、ひそかに瞠目しているのはその足である。長くネパール、チベットに通ううち、山道を歩く時のスピードは現地の人々に負けない身の軽さだ、と聞いたことがある。今回はコンパを修復する費用など数百万円分のルピー(かなり重いです!)を背負ってひょいひょい登ったそうだ。地平線の若者たち、貞兼さんの凄さを見抜きなさいね!!

◆支援母体の「ランタンプラン」の尽力を柱に私たちがささやかに協力したゾモTシャツ、トートバッグも谷の人々のために役立っていることがあやさんの話を聞いてわかった。ただ、チーズの貯蔵庫の建設など新たな展開のための資金が喫緊に必要だ。ランタン谷のために何ができるだろうか? 近く鎌倉のあやさんを訪ねて相談してこようと思う。経過は、皆さんにしっかりお知らせするので、どうか今からご協力を、とお願いしておきます。(江本嘉伸


先月の報告会から

祈りとワクチン

〜生老病死を巡る旅〜

神尾重則

2017年10月27日 新宿区スポーツセンター

■小池旋風失速に始まった10月第4週の終わり、神戸鋼のデータ不正、日産自動車の検査不正に続き、SUBARUおまえもかと驚きの金曜日は、2つの台風に挟まれて好天に恵まれた。夜の報告会には医師の神尾重則さんがネパール西部のドルポからさわやかな風を運んできた。

◆通信461号に神尾さんは『医療ボランティアで訪れた聖地ドルポの現実』と題して、8月のドルポ行きが予想外の冒険行になった顛末を書いている。「この祈りと自然に満ちた聖地にも中国からの物質文明と市場経済が本流のように押し寄せ、浸食されつつあることを実感しました。ドルポはどのように転生してゆくのでしょうか」……10月の共産党大会で2期目の習近平体制がスタートし、「我が世の春」を謳歌する中国の勢いに圧倒されるチベット、ネパールの人々が何を見つめているのか、神尾さん(以下ドクター)の言葉から発見できれば、と思った。

◆今夜のキーワードは「生老病死」。ゴーギャンの有名な油絵、『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか』にこの4文字の言葉が表されている。「老いをどう生き抜くか」「病をどう受け入れるか」「死をどう迎えるか」地平線の旅人たちにとって、いやすべての人にとって悩ましい問題であり、それを探求することが、生きる目的なのではないか。

◆神尾ドクターは1980年、ダウラギリ主峰に連なるツクチェ・ピーク(6920メートル)に南西陵から登頂した。山頂からは北西に広がるカリガンダキ峡谷が見渡せた。1900年、日本人として初めてチベット入りした河口慧海師もこの谷を経由している。2004年に見つかった慧海の日記からは、彼はヤンツェルゴンパからクン・コーラを遡ってヒマラヤを越えたことがわかった。

◆ドクターはその足跡をたどり、2005年にツァルカからティンギュー村に入り、パンザンコーラ沿いの村々を旅した。そして慧海も目指しただろう6024メートルのイエメンカンの肩、ネパールとチベットとを隔る5411メートルのクン・ラに到達した。ドクターはチベット潜入後の慧海の「医師」としての活躍にも注目する。『西蔵旅行記』によれば、慧海は張介賓の「景岳全書」を借り、それをバイブルに薬草の知識も身につけ、病人を診ることができるようになったという。冒険家であり、医師でもあった慧海の姿に、ドクターの貌が重なって見える。

◆縁を感じたティンギュー村の人々のためにドクターが仲間たちと始めたのが「ドルポ基金」。「村の役に立つ村の人間を育てる」ことを目標に、教育や医療の支援をしている。2002年に開設された医療センターの所長には、奨学生の第一期卒業生のソナム・サンモさんが就任し、いまも腕をふるっている。基金の目的をドクターは「個人から村へ横糸と縦糸を紡ぐ」ことと表現する。点でしかない個人的なつながりを、ドルポの縦横に広げることによってネパール政府の助成が行き届かない地域全体への面的な成果を挙げようとしているのだ。

◆話は本題、「生老病死」の「生」に入っていく。曰く、8世紀に書かれたチベット医学のバイブル「四部医典」に描かれた出産の生理学は現代医学とほぼ相違ないこと。曰く、ノーベル医学賞を受賞した大隈良典教授が発見したオートファジーの仕組み。曰く、ミトコンドリアDNAが母系だけからしか受け継がれない不思議。曰く、ヒトにとって生殖は遺伝子のシャッフルと過去の記憶を受け継ぐためのシステムである一方、ヒトは死によって遺伝子への変異蓄積を回避していること、などなど。

◆ドクターの話はタテにつながっているように見えて、実は横にドルポを始めとするドクターの巡礼遍歴にもつながっているから、頭をフル回転させないとついていけない。例えばドクターは自分のミトコンドリアDNAを解析し、3万年前のロシアのバイカル湖周辺が起源だと特定した。ドクターの祖母の祖母の祖母のまた祖母はマンモスハンターだったのかもしれないのだ。またヒンズー教の世界では創造の神ブラフマンと破壊神シバが、秩序を象徴するヴィシュヌとともに崇められる。これは合成と分解を繰り返して異常の蓄積を防ぐDNAの仕組みそのものではないかと神尾ドクターは指摘する。

◆キーワードの次は「死」だ。死はいきなり訪れることもある。2008年にはティンギュー村に向かう途中でメンバーの一人が倒れ、心蘇生を試みたが帰らぬ人になった。現地でヘリを3日待って、トリプパン大学医学部病理学教室で解剖したところ、死因は急性心筋梗塞・心室細動とわかった。そしてカトマンズの寺院で法要が行われ、荼毘に付されて彼は「千の風」になった。

◆分子レベルでみると人体の65%は水分が占め、火葬によって大半が水素と酸素に酸化分解され、蒸発する。遺体を60キロと仮定すると、蒸発した原子はどのぐらいの割合で地球上の大気成分に溶け込むのだろうか。ドクターは、故人に由来する原子の1個は大気中の原子2.6×10の18乗個に囲まれていると算出した。ちょっと想像がつかないが、人は死んでもまさに「千の風になって」私たちの周りを飛び回っているのだ。

◆誰も死んだことがないから、一般論として死について話すことは難しい。なのにドクターはこんなにもわかりやすく死を語る。人の生ははかないが、死があることで生は空虚にならない。はかないけれど、考えたり、愛したり、信じたり、悲しんだり懐かしんだり、寂しがったり、そして想像することができる。「われわれが宇宙を想像できることは驚きである」というスティーブン・ホーキングの言葉で、ドクターはキーワードの2つ目を締めくくった。

◆3つ目は「病」。今夏ドクターがドルポに向かった目的のひとつは、ティンギュー村でのHBV(B型肝炎ウイルス)キャリア調査だった。HBVは主に母子感染し、世界では約3億5000万人が感染しているという。出産時、乳幼児期に感染した場合、10〜15%が慢性肝炎に、さらに肝硬変や肺がんに進展する可能性もある。日本でも130万人前後(100人に1人!)が感染しているが、1986年からの母子感染予防事業によって減少、「ワクチンを適切に使えば、いずれHBVウイルスを撲滅できる」とドクターは話す。

◆8月にソナム・サンモさんや大谷映芳さんとともにマウントクーラ初等学校で実施した調査には、児童約100人が列を作った。この学校、日本でも有名なドルポ出身の画家、テンジン・ヌルブさんが作って運営しているのだそうだ。結果、106人中28名が陽性で「非常に高い」。ここまでは単なる医療調査団。ドクターの真骨頂は「これからどうしたらいいのか」と考え、基金の活動に生かすことだ。

◆ドルポでのHBV感染率の高さは、母親が若いうちに出産するためHBs抗原の感染力が高いこと、そもそもドルポの村々が閉ざされた空間であることが背景にあるのではないかと考えた。ひょっとしたら劇症肝炎で命を落とす乳児が多いかもしれない。しかし日本と同様にワクチンを投与すれば、母子感染、水平感染を予防することはできる。

◆ティンギュー村からの帰路、途中のドゥ・タラップ村で天候の回復を待って7日間の停滞を余儀なくされた。ネパール全土を襲った大雨のせいだ。いつやってくるかもしれないヘリコプターを待っているあいだ、ドクターは村のアムチ(チベット医)を訪ねた。チベット医学では脈診、問診、尿診、薬草を用い、「祈りによる癒しの力」を重視している。これは現代医学で言えば、患者と医者の良好な関係やバランス回復の重視に合致する。新たな医学的関心に手応えを感じているところにヘリがやってきて、ようやく窮地を脱したという。

◆後半はビデオで再開。ティンギュー村に行く途中、雨で増水した川を渡れず2日間待機した後にようやく徒渉する場面が。それでも水量はかなり多い。人では流されてしまうので、馬に乗って川を渡る。話を聞く方もみんな息を呑んでいる。幸いにして流される人はいなかったという。別の映像にはマウントクーラ初等学校でのチベット式の大歓迎。そしてさっき話に出てきたHBV検査。6歳から15歳まで106名の子供たちが列に並んで次々と人差し指に針を刺されて血を採取されるのは、映像を見るだに痛々しいが、出血はほんの一滴で、ほとんど痛くないのだそうだ。

◆キーワードの最後は「老」。医学的に言えば細胞数が減り、細胞内ではミトコンドリアが減少する。コラーゲンの減少で細胞は線維化する。疲れやすくなり、運動能力は低下し、反応が鈍くなる。しかし「老化」の仕組みは実はまだよくわかっていないのだという。2025年、日本は「老い」の津波に襲われると、ドクターは不気味なことを口にする。団塊の世代が75歳以上の後期高齢者に達する一方で若年人口は減り続けている。「医療の社会性、経済性が大きく変わる。時代性を見極めながら、生き残らなくてはならない」。

◆潜在的予備能力をいかに引き出すか。好例が100歳でも米ユタ州のスノーバードでスキー滑降をした三浦敬三さんだ。言わずと知れた三浦雄一郎さんの父上。見て聞いて覚えたことを、確かめ行動し表現することを繰り返す、つまり脳への刺激を反応に変える反復が多ければ、人は惚けずに長生きできるのではないかとドクターは言う。

◆一方で病に倒れることもある。「おそらくあなたはがんで死ぬ」とスクリーンには刺激的な文字。統計的には約3人に1人はがんに罹患するというから、あながち誇張ではない。がんは遺伝子の異常で、ヒトの細胞をクルマに例えればブレーキやアクセルの故障、クラッチの整備不良で暴走するようなものだ。そして医学研究の進歩で「がん幹細胞」がいわばがんの「女王蜂」であることがわかってきた。これを叩かなければがん細胞の増殖が止まらない。この解明に大きく貢献するのがノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授のiPS細胞の研究だそうだ。

◆チベット医学から見れば、がんの原因は血液の中の小さな有機体なのだという。もともとは健康維持に欠かせない有機体なのに、感情の誤った用い方、体質にふさわしくない食生活と行動、環境汚染の悪影響がそれに作用して、血液の中で人の体に悪さをし始めると解釈される。

◆がん幹細胞の研究にiPS細胞が有用なように、西洋医学は遺伝子を解明することでさまざまな成果を出そうとしている。そのひとつがゲノム編集によるAIDS治療だ。ドクターはかつて都立病院でAIDS患者の診断と治療にあたっていた。ゲノム編集でAIDSウイルスが標的とする細胞を改変し、ウイルスを寄せ付けなくすることができるのだそうだ。ゲノム編集は医療だけでなく、農作物や家畜の品種改良にも使うことができる。が、もし人の生殖系細胞に用いれば次世代に予期しない影響を及ぼす可能性がある。「ゲノム編集は核兵器に次ぐパンドラの箱」とドクターは話し、核兵器保有を独占しようとした5大国と、いまなお核兵器開発に野心を燃やす紛争国、とりわけ北朝鮮の暴走を危惧する。

◆かつて三輪主彦さんは「体力がつけば、知力もついてくる」とのたまった。座り続けることは健康に悪く、運動が認知症を予防するとドクターも言う。「山靴の紐を結んで外に出るのがいいのです」とドクターはドルポの話を続けた。足止めを食ったドゥ・タラップ村のゴンパ(寺院)はニンマ派だった。チベットの四大宗派のひとつだが、ドルポには庶民の支持が高いニンマ派の寺院が多い。村の入り口の荒れ果てた仏塔門をよく見れば、まんじの向きが逆だ。当地において左まんじ(卍)は、仏教以前にチベット各地に普及していたボン教の印。ニンマ派とボン教は混淆しているのだ。この土着の宗教がどこから来たのか、同じ鳥葬の風習があるペルシャのゾロアスター教が起源かもしれないとドクターは推測する。「古代環境が厳しいところで宗教が発達したのではないでしょうか」。

◆いまドルポでのブームは「冬虫夏草」だ。この数年、中国国内で爆発的な人気を博しているキノコの一種で、別名「天然のバイアグラ」、あの「馬軍団」も使っていたと言われる。それまであまり知られていなかったキノコの採取にチベット中の人たちが夢中になり、その影響が山を越えたドルポにも及んでいる、というわけだ。小さなキノコ1本が1000円から3000円で中国人バイヤーに売れる。それを目当てに、良質な冬虫夏草が採れる標高5051メートルの峠、コイ・ラに人々が群がる。祈りに満ちた聖地、ドルポにも物質文明と市場経済という津波が押し寄せている。

◆そのドルポにこの夏に行けたことを、神尾ドクターは奇跡のように喜んでいる。というのは、2015年12月、山スキーシーズン初滑りのルスツで転倒したのが原因で脳の手術をしたからだ。転ぶ直前までは覚えているが、その後30分ほどの記憶がない。気がついたときには帰りのバスの中だったという。直後の画像診断では異常なかったものの、2016年3月になってから症状が現れた。右手がしびれ、言葉もままならない。CTを撮ったところ血の塊が脳を圧迫していた。慢性硬膜下血腫。その状況でも自ら冷静に診断できるのがさすがプロフェッショナルだ。

◆手術ではドレーンで血腫を吸い出し、脳の圧迫を元に戻した。そんなことがあって、一時はもう二度と山には行けないと覚悟しただけに、「再びスキーもできるようになり、ドルポに行けるようになった」とドクターはこの上ない笑顔で話した。ゴーギャンから河口慧海、四部医典からゲノム編集、ホーキングから「千の風」、冬虫夏草からAIDS治療と、どこまでも続く脈絡のない話のようでいて、ドクターの「報告」はどれもが遠くネパールの奥地につながるある種の冒険譚だった。欲を言えば、ヘリで命からがらドゥ・タラップ村を逃げ出したハラハラドキドキの話も聞きたかったけれど、2時間ちょっとの報告会では全然足りなかった。(落合大祐


報告者のひとこと

星ぼしが煌めく夜空を眺めてみませんか?

■今回の報告では、ドルポの風景をあざないながら、「生老病死」を巡る旅をしてみました。私たちの砂時計の砂の一粒は、今こうしている間にも落下し、生から死に向かって時間を刻んでいます。好むと好まざるに関わらず、世界はエントロピー増大に向けて流転しているのです。生きとし生けるもの全ては、いつか終焉を迎える。そう認識するところから、生命のもつ意味を探ってみるのも、一場の戯れと考えました。

◆そもそも時間とは、過去から未来に向かうもの。この「時間の矢」を特徴付けているのは不可逆性です。時間がしばしば川の流れに喩えられるのは、一方向に流れるから。この時間の矢が最終的に行き着くところは、はたして何処なのでしょうか?

◆iPS細胞の発見により、分化した細胞の可塑性というパラダイムシフトが生まれました。「成熟した細胞が幼若な細胞へとあと戻りすることはない」という古いドグマは崩れ、細胞の「生物学的時計」は、巻き戻しが可能であることが証明されたわけです。

◆ヒトの避けがたい終わりは死ですが、ひょっとして、時間にも終焉というシナリオは存在するのでしょうか。あるいは、未来から過去へと巻き戻すことは可能なのでしょうか。宇宙の語り手である物理学者たちは、時間と空間を説明するためのエレガントな理論と方法を捜し求めています。

◆さて、ドルポに蔓延していたB型肝炎ウイルス(HBV)。世界でも数億人が感染していると言われます。HBVの遺伝子の系統樹を見ると、ヒトとゴリラ/チンパンジーを区別しえません。すなわち、共通祖先はすでにHBVに感染していたことが示唆されます。HBVの起源はそれほどに古いわけです。ウイルスの暴走を食い止める宿主(ヒト)の免疫システムと、それを回避するHBVの分子メカニズムが、せめぎ合い拮抗しながら、両者は子々孫々と世代を超えて共存してきました。

◆しかし、ヒトは「ワクチン」という大きな武器を手に入れました。母子感染(垂直感染)が主な感染ルートであるHBVに対して、ワクチンの接種は極めて有効です。ワクチンを用いて母子感染をブロックする戦略で、HBVをヒトから根絶することは射程圏内にあります。HBVの太古からの歴史は、確実に終焉に向かっているのです。

◆時間の流れの中で、同じ場所に留まるためには、たえず全力で走っていなければならない。「鏡の国のアリス」には、赤の女王と競争するアリスの姿が描かれています。生き残るためには進化し続けなければならないことの寓意です。

◆そんなアリスとは相反して、ドルポにはゆったりとした時間が流れています。中国からの市場経済が流入しつつあるとは言え、未だに昔ながらの生活と信仰が息づいています。峠をはためく風の馬(ルンタ)は、現在・過去・未来の三世を圧縮して、輪廻転生の「祈り」を天空に運んでいます。

◆時には、「閑」が留まるおとぎの国に迷い込み、夜空の星ぼしが繰り広げる生と死のページェントを夢想したいもの。「我々はどこから来たのか? 我々は何ものか? そして我々はどこへ行くのか?」。酔余の一興、今宵は星ぼしが煌めく夜空を眺めてみませんか。(神尾重則

地平線ポストから

地平線会議のみなさんへ
2017年秋ランタン訪問のご報告

■今年は春と秋の2回、それぞれ2か月と1か月余り、ネパールを訪問してきました。春の訪問については、6月23日の地平線会議で報告させていただきました。

 秋のミッションは、9月2日から10月11日まで、春に村人たちと約束したことがどこまで履行されているのか、その確認のためのものでした。と、こういう上から目線の書き方が恥ずかしく思われるくらい、私の期待を大きく裏切ってくれました。日本を出るときは「果たして?」という疑わしい気持ちの方が勝っていたのです。

 今年の二つのミッション、懸案のキャンチェンゴンバ再建とゴタルー(放牧専従者)ひとり一人がチーズをつくる酪農家を目指すためにランタン酪農組合のサポートをすること。そのあらましをご報告します。

1)キャンチェンゴンバ再建

 結論から言えば、キャンチェンゴンバはほぼ完成しました。今年5月初旬に下山するときは、すべての解体作業が終わり、無傷で残った4本の柱とそれを支える天井部分が残っているのみでした。その後の作業は、現地から送られてくる写真で想像を馳せるのみでしたが、実際に目にすると村で建設中の家やホテルとは全く違っていました。鉄筋で補強された土台、厚さ90センチの壁、釘1本見当たらないすべすべの床、屋根はスレート(粘板岩)。建物全体は日本のお城の石垣のようにわずかに地面に向かって広がっていて、横からみると、ほんの僅か傾斜していて格好良いのです。

 私のキャンチェン滞在中に、米国モンタナで修行場を主宰しているチベット人のお坊さんが門徒衆40名を引き連れて、ランタン谷巡礼に上がってきました。各所で法要を行った後、この再建されたキャンチェンゴンバで最後の法要が執り行われました。ゴンバ再建委員会(在家僧5名、俗人4名、顧問5名)も村人も私も、お寺の祝福を受けたように思えて心から喜びました。外からみると小さな山寺のように見えますが、堂内の入り口に立つと静かで厳かな空間が実際よりもずっと奥行きを感じさせます。宗教施設と呼ぶにふさわしい気がします。高僧からも賛辞をいただきました!

 お寺の最後の仕上げは外壁の化粧。私が10月8日に下山すると知って、急ぎ各戸あらかじめキャンチェンの裏山から掘り出してあったサカル(石灰質の白土)をもちより、これを砕きミルクや水を加えてなめらかにしたあと、カター布やサンシン(香木)で壁に塗りつけます。壁塗りコテを使ってはいけないのです。この作業の数日前、下地の粘土塗装も行われました。これらの作業は村人たちの奉仕ですが、キャンチェン周辺に降りてきたゴタルーたちが中心になって働きました。付け加えるまでもないことながら、村人たちの作業中は、キャンチェンのホテルの女将たちから紅茶やバター茶にジュースなど絶え間なく差し入れがありました。

 外壁は、あと内部の壁画などが完成する来年4月ころに、もう一度白い化粧をするようです。寺大工や石工などランタン谷の南、ヘランブー地方からきた職人集団がゴンバ再建を担いました。それを監督しここまで完成に導いたのは差配のセンノルブと村人たち。そして、この再建資金を背負いあげたのは私(!)。春に300万ルピー、今回450万ルピー、合計日本円で800万円。最終的に1000万円と予想しています。このお金は日本の主要山岳6団体からのご寄附によるものです。みなさんのご協力に感謝申し上げます。

 村人たちは再建されたキャンチェンゴンバの門にとりつけたタンタン(鐘)の音を聞くと、鐘のあった元の寺サムテンリン寺(ランタン村ゴンバ地区/小さな集落はお寺もろとも大なだれで埋もれてしまった)を思い出すと言います。

 キャンチェン最後の日、遠くから白いゴンバを見ると、そっくり昔のままに再現できたのだなと、胸にこみあげるものがありました。

2)ランタン酪農組合

■ほぼ1か月のキャンチェン滞在中、ランタン=コラの右岸左岸、二つの放牧グループ「ツェルベチェ」と「ヌブリ」を訪ねました。テントを抱えて。ツェルベチェのグループは新しい放牧地「ハム」(4200メートル)、ヌブリグループは「ブランチェン」(4500メートル)でゾモ、ランゴー(雄牛)、ブリーモ(メスヤク)を放牧していました。

 嬉しかったのは、昨年はチーズを作ったものは右岸の5名のみでしたが、今年は新しくゴタルーに復帰した2名を含め19名全員がチーズ作りをしたことでした。女性も3名います。右岸は不足の用具を譲り合いながら。左岸のグループは60歳台が多く、最高齢はソナム・ギャルツェン(80歳)。9名のゴタルーは3つの班に分かれミルクを供給しあいながら、一番若いカンバ・ドルジェの指導のもとで作っています。左岸の東奥でも3名のゴタルーがチーズを作りました。

 今年のチーズ生産量は462.1キロ。去年の3倍近く。これをランタン酪農組合が買い上げ、仮の貯蔵庫にストックして来年初めころまで売ります。まだ十分な販売ルートがなく、貯蔵施設をもったワークショップの建設が急がれますが、これは改めてみなさんに提案させていただこうと思います。

 放牧地滞在中は毎日美味しいミルクコッフィーやキル(ミルクで炊いたご飯)など、厚いもてなしを受けました。牛とともにある暮らし。毎朝の乳搾りにチーズ作り、夕刻は四方4、5キロの範囲に放たれた家畜集め、そして夕方の乳搾り。厳しいけれども豊かな時間をもらいました。ご支援いただいたみなさん、そしてゴタルーたちへもありがとうと言います。

 多少、重複していますが、8月にリニューアルしたLangtang Plan HPで文中の写真をみていただけます。春と秋の報告はNewsletter No.2と3に載せました(https://www.langtang-plan.wjg.jp)。HPの担当は澤柿教伸さん。(貞兼綾子

メコンの本を「めこん」で出すという冒険

■山田高司先輩(地平線通信459号)と岡村隆先輩(地平線通信462号)に拙著『メコンを下る』の紹介を書いて頂いた北村です。まずは紙面を借りてお礼をさせていただきたい。「先輩方、売れない本をご紹介していただき、ありがとうございました」。

◆私の人生において二人の先輩は多大な影響を与えた人物である。山田高司先輩は言わずと知れた農大探検部OBで、私にとっては「直属の大先輩」である。先輩は学生時代には南米三大河川(オリノコ、アマゾン、ラプラタ)をカヌーでつないだ伝説の「南米水上縦断踏査」を皮切りに、卒業後も飽き足らずパン・アフリカ河川(セネガル、ニジェール、コンゴ、ナイル等)行を実施。1990年長江源流航行にも参加した「川のスペシャリスト」。南米、長江の報告書は完成度が高く、川下りの海外遠征する探検部員にとって座右の書になっている。

◆先輩にこれまで沢山の酒を飲ませて頂いただけでなく、大学探検部時代総仕上げとなった日本・モンゴル学生合同ヘルレン川全流航行踏査(156回地平線報告会)、そして卒業後に取組み始めたメコンにおいても多大なる影響、アドバイスを頂いた。岡村隆(法政大探検部OB、SARERS)先輩とは「面識があったか、なかったか」と聞かれれば、「ない」に近い。勿論、地平線会議などで数回、挨拶程度の話はしたことはあったと思うが……。ただ、先輩の著書に大きな影響を受けている。

◆小学2年頃、誕生日プレゼントに、少し背伸びして難しい本(小学生にとっては漢字が多い本)を買ってもらった。その名も「チャレンジ!最新アドベンチャー百科」である。その本の執筆・アドバイザーの一人が岡村先輩である。その本の袖には「大学探検部OBをはじめ、日本の代表的な冒険先輩が勇気ある行動マンのキミに、親切に、激しくアドバイス……」と書いている。この本の凄いところが日大探検部ユーコン川や早大探検部のナイル川水源探検が紹介されているだけでなく、「大学探検部」という文字が随所にでてくる。

◆この本を鵜呑みにして、小学生頃からまずは「大学探検部入部」を目指してしまった。大学時代にも多くの影響を受けている。農大探検部部室には農大のみならず、各大学探検部の報告書など資料が本棚に並んでいた。その中でも岡村先輩は、『全国大学探検部による戦後学生探検活動史(観文研)』、『セイロン島の密林遺跡 (観文研)』、『法政大学サハリン・ポロナイ川探検航下隊報告書』などの数々の素晴らしい報告書の執筆、編集などに名を連ねていた。私にとって他大学の偉大な先輩の一人であった。

◆現在もスリランカ、モルディブの密林遺跡の探検調査や遺跡保存の啓蒙活動を継続している岡村先輩は、正に探検部員OBの鑑(かがみ)である。このような偉大な先輩二人に、読後感想を書いて頂いた私は非常に幸運の持ち主と言えるかもしれない。振り返れば、『メコンを下る』も出版に漕ぎつけたのも幸運だったともいえる。これまで地平線報告会で3回(第183回、241回、315回)報告させて頂いた。その後はご無沙汰していたが、その間は出版へ向けスローペースで取組んでいた。この約12年間の出版までの経緯を少し紹介したい。

◆確か最後に地平線で報告を行ったのは2005年10月だった。少し寒かったと思う。それから半年後2006年4月、私は無職になった。春だというのに本当に寒くなった。残念ながら日銭を稼いでいた造園会社が閉店したのだ。さて、明日から何をしようか? 折角の機会だからまた、どっかに探検に行こうかとさえ思った。金はなかったが、時間はたくさんできた。実はこれまでメコンへ5回も遠征隊を派遣しているが、毎回10ページ程度の簡易な報告書で茶を濁し、本格的な報告書は作成してこなかった。

◆そう、本来ならば岡村、山田先輩達のようにしっかり報告書を作成しなければならないと思いつつも、次の一歩がなかなか出なかったのである。妻は立正大探検部OGで探検には理解がある。その妻に「ちょっと、メコンの整理をするからしばらく無職でいい?」と聞いたところ、「1年間位なら、いいんじゃない」と快諾。執筆を開始することになった。一番ネックとなるのが、「報告書」だと自費出版になる可能性が99.9%であることだ。金は無い。そこでイチかバチかとなるが「探検記」として執筆し、どこかの出版社に出してもらうしかない。

◆翌日からパソコンに向かう日が続いた。ここで断っておくが、私の苦手なものは[1]パソコン、[2]文章を書くこと、[3]人前で話すことである。[3]はさておき、パソコンの腕前はキーボードを指2本で打ち込む程度で、長文は書いたことはなかった。まさに「気合い」でキーボードを打ち込み、ねじり鉢巻きして執筆した。正に苦行であった。「幸運」なことは、資料がそこそこあることだ。「日記」、「フィールドノート」、「探検隊行動記録(探検隊日誌)」、「帰国報告書」、「専門誌等への寄稿文」等々。

◆私たち探検部員は入部直後から記録を取ることを躾けられている。それらの資料が活躍する時がやってきた。これらを参考に行動記録はできるだけ詳細に書いた。9か月後の2007年1月、全体8割の素稿が書きあがったところで、そろそろ出版社を探さなくてはならない。本棚を見回すと、ここ数年でメコン中・下流域を知るうえで購入した書籍が増えていた。その多くは「めこん」という出版社のものだ。実際に「メコン川とその流域の国々に関わる書籍を多数出版していたが、どちらかというとアウトドア系ではなく、人文系である。

◆「この出版社に蹴られたら、ヤバイナ」と思いながら出版社にいきなり電話をして、原稿を送付した。正に体当たり。こうやってメコンの本を「めこん」で出すという冗談みたいな展開がスタートした。出版社社長からは初打合せの際に「いつ出版できるか、約束はできないが、必ず出版させて頂く」と力強く、何だか、意味ありげな発言があったが、まずは、身銭を切らずに記録に残せることが「幸運」だと思った。

◆出版社の話によると、原稿の加筆、修正、専門用語解説、写真キャプション作成などゴールまでは道のりは長いと言う。しかし、そろそろ日銭を稼がないといかんと思った。ただ、編集者のリクエストにいつでも対応できるよう、後輩の紹介で、仕事が楽そうな公園管理をする会社に腰を掛けた。また、メコンの記憶が薄れてしまうとマズイと思い海外遠征も控えてきた。編集作業は、最初の数年はメコン上流の怒涛の流れのようにスピード感をもって進んだが、徐々にペースダウンし、後半は年1回程度あるかないか、まるでメコン下流の「鏡のような水面」のペースであった。

◆しかし、メコン川下りと同様に継続していれば、ゴールはそのうち来るものである。出版社からの年賀状には「今年こそ、出版したい」という決意がここ数年続いていたが、社交辞令とばかりに期待はしていなかった。しかし、ハッピーエンドは突然やってきた。今年5月上旬「来週月曜日に、刷り上りができるので見に来てください」という電話。声にならなかった。まるで白昼夢を見ているようであった。電話を切って我に返る。「あれ、本のタイトルは決まったんだっけ? 確か『メコンを下る』は仮のタイトルだったよな」。

◆約束の日、出版社に行くと束の厚い本があった。タイトルは「メコンを下る」であった。自分で言うのも何だが素晴らしい装丁だ。社長曰く「多くのメンバーが関わった作品のため、丁寧に作りたかった」と言っていたが、確かにこだわりを感じた。著者にとっては良き出版社に出会い幸運だと言える。初版は1200冊。そのうち1割が現物支給の著者の原稿料である。裏表紙を見ると、気になるお値段が……。

◆「5500円」! 正直に言って高い。それじゃなくてもニーズのなさそうな本である。貧乏な大学探検部員には手が届かないだろう。メコン川マニアか、探検マニアしか買わないであろう。気になって出版社社長に聞いてみた。社長曰く「全国市町村は約1700あり、各市町村の図書館が各1冊購入してくれれば、初版は完売」となるそうだ。ただ、こう言うことを「取らぬ狸の皮算用」というのだろう、妄想の域を出ていない。

◆何はともあれ、全国の図書館に入り、多くの人に読んで頂き「メコン川」、「大学探検部」に関心を持っていただければ幸いだ。「メコンを下る」を読んで「大学探検部に入部しました」という後輩が出てくれば、この上もない喜びである。(北村昌之 『メコンを下る』著者)

懐かしい再会の1日

■11月12日。懐かしい再会が詰まった日だった。久しぶりの海外の川の遠征のためにビデオ撮影の勉強をしている。先生は農大探検部の先輩、山田和也さん。12日午後、山田さんと善福寺公園に行くと、長野亮之介が主宰する山仕事仲間「五反舎」が野外劇をやっていて撮影練習をさせてもらった。体調不良と聞いていた奥さんの淳子さんも元気そう。近くに住む丸山純さんも愛犬を抱いてやってきた。みんな10年以上ぶりの再会。劇のあとの踊りがパワフルで楽しかった。長野画伯はタイコ担当で、一行のボスの貫禄があった。

◆善福寺から四谷の江本さん宅を訪ねる。ここにウメちゃんがあらわれ、クエちゃんから電話が…。10年前、四万十ドラゴンランをやった時の香川大の女子学生。江本さんは女子大生たちに「エモーン」とあだ名をつけられ、いじられていたのが懐かしい。そのウメたちももう30代になった。

◆長野、丸山、それに白根全さんを加えると地平線会議初期(80年代前半)からの盟友。当時はみな20才代、地平線の中では若輩のペーペーだった。白根全さんとは1982年正月に南米南端のパタゴニア草原の強風の中で初めて出会った。南米三大河川行のグランドシートを切って手縫いしたツェルトと食事用のフォークをペグがわりにして遠く角みたいなパイネ山群を望む草原に幕営していたらフトン袋みたいなザックを背負って現れて「山田君?」と言った。

◆あれからお互いに世界中の辺境に行き回った。たまに東京で会う時は地平線の恒例の報告会だった。お互い貧しく、無名で若かった。今も大して変わらないが、歳だけはとった。「昔話はグチと言い訳と自慢になるからよそう」が全さんの口ぐせ。同感だからこのくらいにしておく。来年1月、12年ぶりに海外の川に行く。新人の気分だ。(四万十住人 山田高司


先月号の発送請負人

■地平線通信462号、さる11日印刷、封入作業をし、12日郵便局に渡しました。編集作業に時間を費やしてしまい、印刷の開始が遅れましたが、馳せ参じてくれた皆さんのおかげでなんとか仕上がりました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
兵頭渉 白根全 森井祐介 武田力 前田庄司 中嶋敦子 下川知恵 江本嘉伸 松澤亮 光菅修


[論考 2017]

北東アジアで本気で生きてみませんか

━━ウランバートルのシンポジウムから帰国して━━

■去る8月26〜27日ウランバートルで「ユーラシアにおける日本とモンゴル」と題するシンポジウムがあり出席しました。 市街から南に見えるザイサントルゴイの丘の麓がコリアタウン化していたり、韓国、中国の進出が激しく3年ぶりのウランバートルの変化に驚きました。でも東京生まれの故郷なし人間にとって、ウランバートルで友人、知人との再会は、心がほっかほっかになるできごとでした。

◆帰国してみると、北朝鮮をめぐり北東アジアの情勢が深刻化していました。何かいまいち重心をかけるには危うげで信頼性に欠けるように思われるトランプ大統領にぴったり寄り添い、彼をけしかける首相がいて、本当にこれからも私たちの北東アジアで生きていけるのかと不安が日増しにつのるのです。

◆今回は北東アジアについてウランバートルで友人たちと議論しました。やはり、北東アジアというこの私たちの地域についてもっと真剣に考えて見る必要がありそうだと思いました。私自身モンゴル問題からアプローチした北東アジアですが、北東アジアを避けては、本当はモンゴルも日本もなにも見通せないと身にしみて思うようになっています。

◆内モンゴルの作家インジナシの研究をしている国立大学のヒシグスレン先生とシンポジウムの際懇談しましたが、先生は自由に内モンゴルや中国東北の瀋陽市(モンゴル語でムクデン市、満洲国時代奉天市)に往来したり、日本を含む北東アジア各地と交流していました。前にはなかったことです。それまではモンゴルの人たちはヨ−ロッパ、米国、日本に関心の中心がありました。

◆当時は中国との交流はどこかはばかられていた感じでした。ところが今はあたりまえのことですが、中国や内モンゴル(モンゴル関係の人は南モンゴルと言ったりしますが地名ですから地図に載っている定着した表記にします)、韓国、北朝鮮、ロシア、特に極東沿海州、及び日本と自由に行き来して交流しているようです。まさにモンゴルが北東アジアで活き活きやっているとの実感を深めました。

◆日本が北朝鮮と国交がないので日本人である私にモンゴルの人たちは北朝鮮のことを話すのを遠慮しているところがありましたが、今回は違いました。ある友人は次のように話しました。「北朝鮮の若い人たちと話しましたが、彼らは日本のことを別に敵視していません。アメリカにおもねる嫌な奴らだと思っているだけだそうです。北朝鮮が戦っているのはアメリカで、彼らとの朝鮮戦争の終結を望んでいるだけと言ってました。アメリカは平和になれば撤収しなければならない極東の軍事基地を維持したいのだとも言ってました。口とはうらはらに協議のテーブルにつこうとしないととても不満げでした」

◆これは米国がリバランスといって、極東で軍備を強化し、バランスを変更したことを言っているのでしょう。北東アジア各国との外交でモンゴルほどうまくやっている国はないと思います。どこの国も一国ぐらい関係がうまくないものですが、モンゴルはちがうようです。日本は近隣国の韓国、北朝鮮、中国、ロシアとの関係でぎくしゃくしています。ぎくしゃくしていないのはモンゴルとだけだと思います。

◆モンゴルは各国とけっこううまくやっていて、北朝鮮とも各層にわたり自由闊達にお付き合いをしているように見えました。北東アジアに限れば日本は概して外交下手と言われても仕方ないなと思います。原因については後述するように、その国の専門家が世間に迫害されたからですが、外交を仕事としてきた者として悔しいかぎりです。

◆日常の経験として、お互い仲違いして話ができない人に何か要求しても反発されるだけで、話が進まないということがありませんか。そして憎しみや猜疑心ばかり増長して、ますます意思の疎通ができにくくなるような経験があると思います。いかがでしょう。私は幼稚園ですでに学びました。突き飛ばされ突き飛ばし返すとかならずケンカになりました。先生が仲裁にはいってくれておさまりました。

◆それを北朝鮮との関係に当てはめて考えると、政治家や関係者や、なによりも大人たちはなにやっているのだろうと、自分のことをまず高い棚に上げて思ったりします。ですから表だろうと裏だろうと話し合いそのものが絶対に必要なのではないでしょうか。このような話し合いこそが外交だと思いますがいかがですか。中国や北朝鮮外交の手をいま政治家にしばられた日本外交が可哀想に見えてきました。

◆北東アジアでは日本のパイプはとても細くなっているように見えます。政府と学者とオールマスコミの合唱で中国語専門家を外務省の担当から追放してしまって何年にもなります。永年かけて培ったパイプをずたずたに切り刻んでいるのをそばで見てきました。まさに北東アジア外交の自殺行為としか見えませんでした。でも厳しい忖度の日本社会で批判めいた発言などできませんでした。以後日本が北東アジアでイニシアティブをとるのを見たことがありません。

◆どんなに関係が悪くても、外交官が現地に飛び込むのを許容するだけの懐の深さを政治家にもってもらいたいと思います。昔は日本のトップに度量がありました。モンゴルの例を聞いて貰いたいとおもいます。1965年春、私が外務省で働きだして2年目のことです。先輩が、友人から聞いたけど夏にウランバートルで国連のセミナーがあるそうだ、行ったらどうかと助言してくださいました。私が躊躇しますと、モンゴルに行きたくて外務省に来たのではないのか、尻込みしているとチャンスを逃すよと背中を押してくださいました。

◆私は上司に掛け合うことにしました。当時、モンゴルの新聞を毎日読んでいたのは日本で私だけでしたが(その年モンゴルで日本のナウカ書店に新聞を入れるよう私が交渉してから一般に新聞が入りだしたのですから)、日本を最大の敵国としてほとんど毎日厳しい批判記事を新聞に掲載していました。私は母校外語大学の非常勤講師を当時兼任していました。学校にはモンゴル発行の書籍が数冊しかなかったので、教材を買えるかなとの思いもあってモンゴルに行く算段を相当なエネルギーを使ってはじめました。

◆当時モンゴルは日本とは「戦争状態にある」との認識であったことを後で知りました。外務省はその点を察知しておりましたので、上司は日本政府の公務員である私が行けば空港から監獄直行だろうと言いました。モンゴルに抑留された人から聞いたとして、監獄には水が張られていて立ったまま座れないとか、情報のない時代特有の負の情報が届いていました。

◆しかし、国連のセミナーということで日本国の公務員というより国連を重視するはずと私は見て、私はモンゴルを訪問することにしました。大変な準備の後、いよいよ出かけるときに上司が空港まで見送りに来て下さったので、どうして部下の見送りをするのですかと質問したら、君のことはこの世の見納めかも知れないと思って来たという話でした。ちょうど今、ISを訪問するような覚悟がいりました。

◆インドでモンゴルの査証をとろうとしたのですが、当時の駐インド日本大使館は係官は私どもをつれて行って最初の日はモンゴル大使館を一周して、今日はこんなところかと行って引き返したくらい、怖い存在でした。今年は外交関係45周年にあたり、あの訪問が外交関係樹立交渉のきっかけだったと思いますと無理してよかったと思わずにはいられません。しかし、個人的には父が逝った翌年でしたので、ISに行く人の親御さんを今思うと、当時の私はなんと無鉄砲な長男で、母はどんな気持ちだったろうと思います。親不孝の限りだったのだと胸が痛みます。

◆しかし、現在の北朝鮮は日本と戦争状態にはありません。日本の植民地支配から独立した国で日本は北朝鮮の旧宗主国ですから、イギリスのインドに対するのと同じようなことですので、むしろ逃げたり、見て見ぬふりするのでなく、現地に行って、今度は正当な関係を築かなければと考えるべきなのではと現役時代から愚考し、かつ職場でも申しあげたこともありました。

◆そう考えるとそんなに怖いこともないと思います。現に全世界約206か国(ただし数え方により異なる)あるうち北朝鮮と外交関係を結ぶ国が166か国あります。イギリス、ドイツ、イタリア、スイス……とフランス以外のヨ−ロッパの国とはのきなみ国交があります。北アメリカは米国以外カナダ、メキシコが国交をしていると言う具合です。アジアではないのが日本、韓国、台湾だけで、他は外交関係があります。

◆その意味で北朝鮮は筆者がモンゴルを訪問したときとは比べものにならないほど広く世界に受け入れられている国で、すくなくとも当時のモンゴルのような訳の分からない国ではないのです。今でこそモンゴルとは赤ん坊まで普通に交流していますが、当時モンゴルは深奥アジアのわけわからない国というのが日本人一般の理解だったと思います。

◆中国と国交正常化する前、北京に貿易のLT事務所という民間機関をおいて、外務省員も行っていました。戦争状態にないのでできたのでしょう。北朝鮮にもこのような機関をおいて、意志疎通して徐々に時間をかけて問題を解決したらいいのにと思っています。とにかく中国人、朝鮮人、日本人は圧力をかけられればかけられるほど臥薪嘗胆して堪えて恨みをはらさでおくものかの精神であること、先の大戦で日本がとった行動を歴史に紐解くまでもなく理解していただけるのではないでしょうか。少なくとも筆者のような老人には身にしみこんでいる常識なのですが、どうでしょう。経験が生かされてないように見えます。

◆朝鮮戦争の休戦協定にサインしているのは、米側(国連軍ですが実質米国です)からMark W.Clark国連軍司令官,、William K.Harrison.Jr.米国軍中将、北朝鮮側から金日成北朝鮮最高司令官、NAM IL南日人民軍大将、中国人民義勇軍上席代表中国側から彭徳懐中国人民志願軍司令官の5名です。韓国が入っていないのにはいろいろ経緯があるようですが、北朝鮮としては相手は国連軍といえど米国のみでしょう。核放棄を条件に協議をしぶっている米国について、同盟国の民ながら意味不明と思います。一刻も早くわたしたちの北東アジアの緊張を緩和してもらいたいと思います。日本もトランプ大統領をけしかけるようなことは止めてほしいと想います。

◆私は個人的には北朝鮮の核保有という現実を認めて、それを前提に廃絶の道を探り、核兵器被災国民として核廃絶を主導していくのが良策のように思っています。唯一の核被災国というのは日本の重要な外交資源であると考えています。でないと子供、孫の世代まで平和な北東アジアを残せないとあせっているのは年のせいだけでしょうか。

◆筆者自身のとても重要な現場である北東アジア。現場を這いずりまわってこつこつやってきた者として、日本の皆さまに北東アジアで本気で生きてみませんかと呼びかけたく思います。北東アジアをもっと身近に思っていただくことはできないのかとの思いはつのるばかりです。隣近所の国々なのですから。それにしてもこれらの国々についての情報がなさ過ぎます。アメリカやヨ−ロッパのすみずみまで報道されているのに。

◆「北朝鮮の真珠湾攻撃」がアメリカに追い詰められた日本のように始まらないうちに、わが総理は武器製造業者である米中露をけしかけるような火遊びはやめていただきたいと日本の老人として心から願わずにはいられません。(花田麿公 元モンゴル大使)

テコンドーに打ち込む日々

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■11月11日夕刻、「明日来れる?」のお電話。「いや、明日はテコンドーの試合で……終わり次第向かいます!」の流れからテコンドーについてお話しさせて頂きます。上京してから始めたテコンドー。華麗な蹴り技とスピードある連続蹴りを見て純粋にやりたい!と思い即入会。始めて五年。生活の大事な要素です。まだ日本ではマイナー競技の為、習える地域や環境は少ないですが、海外ではかなり人気の競技。見栄えが良いこともありますが、韓国の熱心な普及活動のかいだと思います。

◆韓国の大学にはテコンドー学科があり、テコンドー塾のようなものもあるそう。大学生は在学中に指導者として数ヶ月で色々な海外の道場にも行くようで、実際道場にもよく大学生が先生として来ています。語学が出来なくても韓国語でバンバン指導して来るところにバイタリティーを感じます。ヨーロッパ、アフリカ、西アジア、米国等々結構幅広く普及しているようです。

◆さて今回、全国レベルではなく一般の人が楽しめる第一回船橋市民大会が11月12日に開かれ、出場しました。普段型(プムセ)の練習がほとんど。今回は人数の調整で声がかかり、折角だからと気軽に組手(キョルギ)にエントリー。組手なんて数年ぶりです。試合内容は散々でした(大柄な中学生に負けてしまった。でも、2位!)が、大合唱のように子供たちが応援してくれそれが一番嬉しかった。動くものを蹴る練習も頑張ろうとまた目標ができました。

◆地平線会議に足が遠退いていた中、今回このタイミングでお声がかかり、12日の試合後にえも〜ん宅を訪問。ほぼ10年ぶりに四万十の隊長との再会もありました。お話しできる機会にえも〜んの奇跡的な勘と惹き付ける力を感じています。出来るだけ頻度よく顔を出させてもらいます!!(うめこと、山畑梓

入籍しました!

■えもーんこんにちは! 静岡のクエです! お元気ですか? 麦丸も元気ですか? 私事ですが、先月入籍をしまして、水口から杉本に名字が変わりました。報告が遅くなってごめんなさい。新しい生活がスタートしたのですが、私は相変わらずの仕事人間で、全然家事ができていません(涙)。旦那とその家族の協力でなんとかやっています。私も、えもーんみたいな料理上手な人になりたい!! またご挨拶に伺いますのでそのときは、レシピを教えてください。それではまた!(クエこと水口郁枝、転じて杉本郁枝

★入籍、おめでとう! 理科の教師の仕事も忙しそうだし、新婚生活も何かと大変だろうから地平線通信読む時間ないのはわかりますが、麦はもういないんだよ。(e)

通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくれた方もいます。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。

豊田真美(10,000円 通信費およびカンパとして。東日本大震災直後の地平線報告会に参加させていただいて以来、ずっと通信を送付していただいておりました。なかなか読むことが叶わない日々が続いているため、この度をもって通信を停止していただくようお願いいたします。江本様、皆さまの益々のご活躍をお祈りいたします。ありがとうございました)/久富ゆき(3,000円)/野口英雄(いつも楽しみに読ませて頂いています。更なる継続期待しています)/笠島克彦(10,000円 通信費です)/三好直子(5,000円 イラストも写真もなく、字がぎっしり。いまどきなぜ?と思いますが、実はとっても読み応えがあります。どうかこのかたちで続けてくださいね)/江川潮(5,000円 2度にわたる網膜剥離と麦丸君の死。江本さん、頑張ってください。心配してますよ)/兵頭渉/小原道夫/池田裕美/又吉健次郎(相変わらず家から一歩も出ないで金細工の仕事をしているので、毎月送られてくる地平線通信は日本と世界を知らせてくれる大事な情報源です。隅々まで一字も残さずよみます。来年米寿を迎えますが、今後とも通信を頼りにしています。那覇市住民)/中村保(10,000円 いつもカミさんに「江本さんに通信費払った?」って言われるんです、ときのう14日、新宿京プラザホテルでの「生涯スポーツ功労者表彰祝賀会で」)/国枝忠幹(4,000円 本年度の遅延分+ほんのお礼の気持です)

■江本さん、いつもお世話になります。10月7日、山岳辺境文化セミナーで広島においでのことは存じていましたが、所用で欠席し、申し訳ありませんでした。JAC(日本山岳会)広島支部報を10数年間編集してきましたが、私の中に江本さんが心のよりどころとして道しるべの存在だったように思えます。「国際山岳年」の宮島フォーラム(2002年9月21日)の懇談会で歌われたことを思い出し、第1回国民の祝日「山の日」講演(2016年8月11日)で再会した懇談会で所望したところモンゴルの「旅ゆく鳥」を昔日の歌唱で披露されたことは懐かしい限りでした。一方、講演された関野吉晴さんには合わせて4回お会いし、そのつど漫画として支部報に出し、上京の際、墨田区文花の「関野吉晴探検資料室」にも訪れました。これも江本さんと地平線会議のご縁です。私は2018年1月1日発行予定の「JAC広島支部報No.66」で編集のバトンを譲る予定です。月刊誌「地平線通信」を今年度末(〜2018年3月)で送付終了としてください。今年度(2,000円)分とお礼の2,000円を加えて振り込みました。ありがとうございました。(国枝忠幹 漫画の腕はプロ級)


地平線の森
ヤマガタの何がここまで素晴らしい通訳者を惹きつけたのか

『あきらめない映画 山形国際ドキュメンタリー映画祭の日々』

山之内悦子 著/大月書店 刊 2000円+税

■2年に1度行なわれている「山形国際ドキュメンタリー映画祭」が、去る10月5日から12日の日程で開催された。1989年に山形市制100周年記念事業の一つとして始まったアジア初の国際ドキュメンタリー映画祭は今回で15回目を数え、今ではアムステルダムやスイスのニヨンに並ぶ世界でも有数のドキュメンタリー映画祭として認知されている。

◆山形映画祭では、世界各地から応募され選ばれた作品が上映されるインターナショナル・コンペティション(IC)とアジア千波万波(NAC)をはじめ、毎回多彩な特集上映が組まれ、会期中に上映される映画は160本以上(2017年)にのぼる。ICやNACの上映後は監督や関係者が舞台に立ち、観客との質疑応答を行なう時間が設けられているが、きわめてマニアックなものからごく素朴なものまでさまざまな質問が飛び出してくる。質疑応答は苦手という監督もいるようだが、一度映画を観ただけではわからない舞台裏を製作者の口から直接聞くことができるのは映画祭の醍醐味といえる。

◆監督や観客には日本語を解さない人もいるため、質疑応答には英語や中国語などの通訳がつく。この本の著者で英語の通訳や翻訳を生業とする山之内悦子さんは、第1回の山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下、著者と同じく「ヤマガタ」と呼ぶ)にたまたま仕事で派遣されてヤマガタに魅せられ、30年以上住んでいるカナダから(ときには自費で)毎回欠かさず参加し、とうとう本まで書いてしまうほどヤマガタ愛にあふれた人だ。

◆ヤマガタの何がそこまで彼女を惹きつけたのか。一般的に通訳者は黒子に徹し無色透明の通訳をしなければならないのがこの業界の常識だそうだが、観客と一緒に映画を観た後に受けた自分の気持ちを切り離して通訳することはできないと山之内さんはいう。ところが、ヤマガタでは通訳者も一人の人間として自分自身の感情を入れて通訳することが許され、むしろそれが好まれるらしい。

◆とはいえ、前述のとおり質疑応答ではどんな質問が飛び出すかわからない。事前に映画を観てある程度予習し、上映前に20分ほど監督と打合せて英語のアクセントや癖に慣れるとともに、監督の意図することをきちんと伝えられる通訳者だという信頼を勝ちとって(これが一番大事)舞台に進む。質疑応答では質問者(回答者)の言葉を理解し、それを瞬時に最も的確な英語(日本語)に変換しなければならないため、1秒の弛緩状態もない緊張が続き終わるとヘトヘトになるそうだ。通訳というのはじつに身体に悪い仕事なのだ。

◆それでもヤマガタに通い続けるのは、監督や審査員、あるいはスタッフやボランティア、常連の観客などの“仲間”と会わずにはいられないからといい、これまでに出会ったさまざまな物語が綴られる。さらに話は映画祭の作品選定や審査にも及び、とりわけ1993年のヤマガタで開催された「世界先住民映像祭」が実現するまでの経緯と、それに水を差した“事件”の顛末を思い入れたっぷりに書いている。

◆1993年は国連が定めた世界先住民年で、日本では世界各地の先住民族が集う「二風谷フォーラム」が開催され、山之内さんも通訳として参加した。これをきっかけに先住民問題に関わるようになったといい、カナダの先住民事情にもふれている。学生時代を北海道で過ごしたわたしは毎年のように北海道へ通っていて、93年の夏は萱野茂さんの資料館で数日後にフォーラムがあることを聞き、旅の予定を変更して二風谷へ戻ったのだった。

◆どの国の先住民も境遇が似ているせいかどこか似た雰囲気をもっていたことを思い出す。本を読み進めるにつれ、わたしが会ったことのある数少ない監督の何人かと山之内さんが親しいことを知り親近感をいだくようになったが、四半世紀前の二風谷で交差していたことにはさすがに驚いた。

◆山形映画祭の終了後、映画祭に参加した海外の監督を庄内に招いて上映会をするようになって18年になる。ちょうど10回目となった今回はインドの二人の監督の『あまねき調べ』という作品を上映したが、その通訳を山之内さんが無償で引き受けてくれた。映画はもちろん監督のトークも心に残るいい上映会となり、その後の懇親会や翌日の羽黒山も楽しんでもらえたが、それもヤマガタに精通した通訳がいたからこそ。山之内さんは、的確な通訳をするには、話者がどんな世界観のもとに言葉を使っているかをつかみその立場を理解することが肝要だという。

◆この本が出版されたのは2013年の映画祭直前で当時も読んでいるが、先日読み返したら前回は気がつかなかった著者のヤマガタへの強い思いと優しさを感じた。山形国際ドキュメンタリー映画祭や通訳に興味のある人はもちろん、異文化コミュニケーションに関心のある人にもぜひ読んでほしい一冊である。

◆余談になるが、『あまねき調べ』はじつにすばらしい映画ですっかり惚れこんでしまった。事前に2回、映画祭でも2日連続、さらに庄内の上映会でも観たので、監督から(自分たち以外では)世界で最もこの映画を観た人とのお墨付きをいただいた。近くで上映する機会があったらぜひ観てください。(飯野昭司 @庄内ドキュメンタリー映画友の会)

《はみだし情報》8月5日にある展覧会の対談で関野吉晴さんが鶴岡へ来るという情報をつかみ、関野さんと対談相手に了解をいただいて同日の夜に『縄文号とパクール号の航海』の上映会を開催し、関野さんにはトークもお願いした。その成果?もあって、11月18日から24日まで開催される「おいしい鶴岡 第2回食の映画祭」では『カレーライスを一から作る』も上映されることになった。まだ観ていない方はこの機会にぜひ鶴岡へ。

半径500メートルの辺境まで食料の“狩り”に出かける日々

■秘境だ、探検だ、などという言葉が踊りがちな誌面で告白するのは気が引けるのですが、わたしは最近ひきこもっています。平日の5日間は自宅から半径500メートルの範囲内でほぼ完結します。それどころか、キッチンを中心に半径5メートルの小さな円の中で終わってしまう日もあります。それで済ませたいとすら思っていたりします。

◆昨年12月に次女が誕生しました。6年ぶりの赤ちゃんだからでしょうか、「珠のように可愛いとはこの子のことか」と毎日思っています。マジです。長女のときは、特に3歳くらいまでは慣れない育児にとにかく必死な感じでした。そりゃあ可愛いとか楽しいとか思う瞬間ももちろんあったのですが、振り返ると髪を振り乱して必死になっている自分の姿がまず思い起こされる。

◆でも、一度は経験して先が見えていることには誰しも多少の余裕をもって向き合えるもので、後追いが激しくなってトイレに入るたびにギャン泣きされても、ひどい夜泣きで30分おきに起こされても、「後追いね、はいはい」「夜泣きってやつね、知ってる」と、(やはり髪を振り乱しながらも)受け流すことができます。

◆とはいえ、手がかかることは確かで、自分の仕事なんて遅々として進みません。パソコンの前に座り始めて15分したら赤子が「(腹減った)キー」とぐずりだし、離乳食を用意して食べさせてまたパソコンに戻って10分したらオムツがプーンと臭い出す。オムツを替えてまた仕事に戻って15分後には「(眠い)ピギャー」と言い始め、やっと寝かしつけて落ち着いて座ったと思ったら30分後にまた「うえーん」。そのうちに小1の長女が帰ってきて、やれお腹が空いただの、宿題を見てくれだのと始まるのです。

◆To Doリストは消化しきれぬまま翌日に繰り越され、また書き足されていくばかり。夜、寝落ちする寸前に「なんだか毎日に余白がないんだよなぁ」とぼやいている時間が唯一の余白だったりして……。だから無駄に外出する余裕なんてないんです。抱っこして歩くのも重いし。でも、楽になったと思うこともあります。

◆そのひとつは、とりあえず子どもを産むか産まないかの決断からは解放されたなという思いです(もちろん3人目以降の決断があってもいいはずですが、わたしとしては実現可能性の低いオプションです)。女の人は20代以降いろんなことを言われますよね。「結婚しないの?」に始まり、結婚したら「子どもは?」、一人産んだら「二人目は?」って。

◆いまの現役世代の女は仕事をしているだけでも、子どもを育てているだけでもダメ。産み、育て、かつ目一杯働かないと“輝いて”いない、もっと“活躍”できるはずだ、とプレッシャーをかけられます。さらには、子どもは一人でも不十分で、「二人以上産まないと義務を果たしていない」そうなのです。こんなことを、マンションの掃除のおじさんや、たまたまバスに乗り合わせたおばさんにまで何度言われたことでしょうか。ああ、うっとうしい!

◆そんな反発もありつつ、「実際問題、仕事も抱えながらあの乳幼児育児をもう一度やるなんて、わたしには無理ゲーだわ」と思って先延ばしにしていました。でも、保留中の重い決断は、その存在だけでこっちのHP(体力)をじわじわと削ってくるもの。そのうちにタイムリミットもちらついてきて「えいやっ!」と産んでしまった。そしたら、なんと珠のように……(以下略)。

◆子育てとひと言に言っても、一度目のときとは見える景色がずいぶん違うと感じます。当たり前ですが、それは人によっても違うはず。子育て経験の有無や出産時の年齢、地域の環境や経済的状況、パートナーが関わる度合い、さらには子どもとの相性など、条件がちょっと違うだけで、その経験の意味はきっとガラリと変わってしまう。そのことがちゃんと実感できてよかったと思います。

◆なーんてことを言うと「だから案ずるより産むが易しだよ」と言われそうですが、やっぱりままならないことは、ままなっていないわけで! 保育園にはたぶん入れないし、そうなればできる仕事も限られてくるでしょう。「子ども一人につき教育費2,000万円」という現実がずっしり重みを増してきます。

◆こうやって内面では「ああ可愛い」と「どうしたら……」の間をオロオロと行ったり来たりしながら、目の前のタスクをせっせとこなしていくしかありません。答えのでない問題はとりあえず棚上げして、あのぷにぷにのカタマリに頬ずりしてから半径500メートルの辺境まで食料の“狩り”に出かけてきます。(菊池由美子

下関からのはがき

江本さん、お元気ですか? 下関在住の河野典子です。「麦と私は幸せな相棒でした」。この言葉は私の中にすっと入ってきて、ホッと安心できるような感覚を覚えました。

 仏教(浄土真宗)では人は死んだらみなお浄土に迎えられると言われています。この世では苦が多い毎日を過ごすけど、お浄土は安心できる場所であり、みなお浄土に迎えられるから、その守られた(あみだ様が守って下さっている)毎日をしっかり生きていくことが大切である……。麦丸ちゃんもきっとお浄土の仏となり、江本さんのことを見守ってくれていますよね。

 今回の通信に「カムチャッカ未踏峰登頂」の話がありましたよね。目標にしていたことを100%達成できなかったけれど、それでもあきらめずにいれば、きっと何か先が見えてくるという思いがしました。来春高校受験を控えた娘にイライラしている自分が何だか……。

 「所詮名まえのない小さな山を登っただけ」とは誰も思わないし、たとえそうだとしてもその体験は誰のものでもない、井上さんたちの財産ですよね。他人にほめられなくてもいいんです。自分の中で満足できる生き方ができれば。いつも通信に救われている私は幸せなんだと再確認できました。いつもありがとうございます。(下関 河野典子 看護師)


今月の窓

生ききりたい

 私はIV期の虫垂ガンで、肝臓と腹膜とリンパ節に切除不能の転移を抱えています。「余命半年」「残念です」という言葉を聞いた日から、「生きること」は切実な問題となって私の前に降りてきました。それまでの私は快眠快便、なんでもおいしく食べ、よく働きよく遊び、健康であることに何の疑いもありませんでした。

 平均寿命くらいまでは普通に生きるだろう。いやむしろ長生きしすぎてぼけたらどうしよう。80歳を過ぎて認知症を患った父親を8年間介護した経験から、不安があるとしたら、長い老後生活を想像したときにふと感じるもの、それだって何十年も先の話でしかなかった。世界ではテロが横行し、日本では東日本大震災で何万人もの方々が亡くなられ、原発によって土地を追われる現実を目の当たりにしたときに、明日どうなるかわからないと強く感じたはずなのに、それでも自分の死はずっと遠くにあって、リアルに考えたことなどまったくなかったのです。

 明日が来るのは自明のことで、当たり前のように今日を生き明日を生きるのだと思っていました。いやあ本当に愚かですよね、あんなにニコニコして油断していたなんて。全然当たり前なんかじゃないのに。

 3月3日に大腸の原発巣と卵巣を摘出し、今は命の時間を少しでも延ばすべく抗ガン剤治療をしています。日々の暮らしは穏やかな夫と8匹の猫たち、家族や友人達に支えられ静かに過ぎていきますが、過酷な治療にはしばしば心が折れそうになります。

 ガンという病の恐ろしさは、身体を蝕むものが外から侵入した細菌やウイルスの異物ではなく、自分自身の細胞そのものだということです。私の身体の小宇宙で何かが起こっているのか全く自覚のないまま、それは深く静かに変異していたという感じ。いい子に育っていると信じていた我が子が、ある日突然盗んだバイクで夜の学校に乗り込み窓ガラスを割って暴れ回るようなもので、母としては子どもの小さな変化に気づかなかった自分の鈍感さを呪い、「これ以上暴れないでおくれ、よしお〜」と取りすがって泣く訳です。でも一度グレてしまった彼はどんどん不良仲間を増やして悪さを繰り返す。陳腐なたとえですが、ガンとはそんな病気だと思います。

 現代のガン治療のスタンダードは、手術・抗ガン剤・放射線の3本柱です。「今はすごく科学が進歩してて、色々な治療法が生まれているからね。絶対よくなるよ」病気になってから何度か聞いた言葉です。iPS細胞を始めとして、確かに科学の進歩は目覚ましく、暴走するガン細胞を初期化して元に戻すことができる日が来るかもしれない。保険のきかない先進医療も実際にたくさん行われているし、私自身一回何百万もする治療を勧められたこともあります。

 ただそれらの治療はエビデンスがないと言われるし、何より経済的に継続不可能です。ガンはできた箇所、進行のステージ、年齢などで治療法が異なる、本当にパーソナルなもので、選択肢は限られています。その中で抗ガン剤は、グレまくる子どもたちを叩いて叩いてなんとかおとなしくさせる先生みたいなものです。でも実はこの先生、どの子がグレていてどの子がいい子なのか見分けることができないのです。見境なく攻撃してしまうので、ガン細胞だけでなく正常細胞も相当なダメージを受けることになります。いわゆる抗ガン剤の副作用です。「過酷な治療に心が折れる」と言ったのはこのことです。

 私は今、2週間に一度50時間連続で抗ガン剤の点滴を受けています。そのために胸に円盤状のポートを埋め込みました。そこに画鋲のような針を刺し、直接静脈に薬を流し入れるのですが、その日が来るたびにドMの女王になったような気がします。朝の満員電車で病院に行き、検査・診察を経て、午後から副作用止めの5種類ほどの薬を4時間かけて入れます。それが終わるとバルーンに入った抗ガン剤が取り付けられて、針を刺したまま夜のラッシュに揉まれながら家に帰ります。

 針が取れるのは2日後の夜。その間は寝返りも打てず熟睡はできません。点滴につながれて生活する3日間が辛いのはもちろんですが、その後は激しい疲労と下痢に苦しめられます。自在にコントロールできていた排便が困難になり、何度も繰り返し下痢をするので、お尻はただれいつもズキズキと脈打つように痛みます。当然主治医に訴えるのですが、先生は「そういう副作用があるんですよ」と言って大量の下痢止めと座薬を出してくださるわけです。副作用は他にも様々経験しています。手足がしびれ爪が割れる、口角炎、舌の味蕾がおかしくなって食事がまずくなる。髪の毛がなくなる寂しさも味わっています。「副作用」の一言で片付けられるたびに、「仕方ないでしょ。だってあなたガンなんだから!」と言われているような気持ちになるのです。「抗ガン剤で殺される」と主張する本がバイブルになる一方で、トンデモ本として激しく批判されてもいます。

 胸に針刺して生活するよりも、枇杷葉の上にコンニャクのせてお腹をあっためる方がずっと癒されるのは確かです。でも命を弄ぶような事件が毎日報じられるにつけ、私は最期が来るまで出来るだけのことをして生ききりたい。私のハゲ頭を撫でて「オランウータンの赤ちゃんみたいだね」と笑う能天気な夫(褒めてます)と一日一日を積み重ねて生きたいと思います。(長野淳子


あとがき

■10月の報告会に、長い知り合いだが、報告会では久々の顔があった。長野淳子さん。亮之介画伯の奥さんである。来てくれたのが嬉しく、神尾重則さんの報告(実にいい内容だった!)のあと、前に出てもらい、近況を話してもらった。高校の国語の先生である淳子さん、いまは学校を休んで自宅で静養している。結構大変な病状なのに、淡々と、堂々と穏やかに皆にむかって話した。

◆淳子さんは、ガンと闘っている。そういう人に原稿を頼んでいいものか、とためらったが、報告会の夜の様子なら大丈夫かも、とお願いした。あの時話したことを文字にして、と。淳子さん、即座に引き受けてくれた。ありがたかった。そんなわけで今号の「今月の窓」は私としてはいつにもまして大事なページです。

◆都立三鷹高校の同級生だった亮之介・淳子の結婚式は楽しいものだった。2人を題材にした映画を仲間で作り、会場で放映してみせてくれたのである。二人は当時26才。誰もみな年齢を重ねるのだが、若い、若いと思っていても時間は過ぎる。あれから33年も経ったのだ。

◆先月だったか、少し前のこと。東小金井の自動車教習所で高齢者講習を受けた際、そうだ、長野夫妻の家は近くだ、と気づいて連絡、久々に立ち寄らせてもらった。二人ともいて、8ひきの猫ももちろんいて、なんだかゆっくりした気分になったのが不思議だ。木立に囲まれている庭では野菜を栽培していて、縄文人の気配を漂わせているのも嬉しい。淳子さんの食事は亮之介がいっさい引き受けている。私はつくづく彼がサラリーマンでなくて良かった、と思った。「ほんとうに、そうなの。いつもいてくれてありがたい」淳子さんもそう言った。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

遙けきマボロシの頂

  • 11月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「ツンドラの湿地帯を甘くみてましたね〜」というのは井上一星(いっせい)さん。この夏、早稲田大学探検部カムチャツカ遠征隊を率いて40日間の極東ロシアの旅を行いました。東西冷戦の影響で'90年頃まで入境が制限されていたカムチャツカ。同地のコリャーク山脈最高峰、レジャーナヤ山(2500m)の外国隊初登頂を目指しました。

しかし許可問題で現地出発が遅れ、大雨で移動手段の変更を余儀なくされ、その積載量制限で持ちこめる食糧が半減。ようやく着いたB.C.は廃墟となっていました。ツンドラの泥濘で疲労困憊の隊員たちに残された時間も少ない中、隊は目標の変更を迫られます。

ドローン2機を持ち込み、探検の一部始終を“作品”にしたいと臨んだ学生遠征隊の顛末やいかに? 隊員6名全員参加で報告して頂きます。


地平線通信 463号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年11月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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