2017年6月の地平線通信

6月の地平線通信・458号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月7日。起きてすぐ時計を見る。おお、9時すぎだ。この原稿があるので慌てつつ、少しほっ、とする。あとで説明するが、睡眠を続けて4時間取れると、よしっ、大丈夫だ、という気になる日々なのだ。飛び起きてパソコンを開く。よかった。待っていた原稿が入っていた。ギリギリだが、状況がわかっているので間に合った、というだけでありがたい。そして、本気の原稿がどんなに私には嬉しいことか。書き手のこの通信への信頼を感じる一瞬だ。詳しくは6、7ページを。

◆関東甲信越地方は今日7日、梅雨入りと宣言された。外はどんよりと曇り空、暑さがたいしたことないのは麦丸のために助かる。話題の棋士、藤井聡太四段がこの日、23連勝を果たした。まだ14才の中学生。毎回対戦がある日は昼飯に何を食べるか「勝負飯」が話題になっている。仕出しのお蕎麦屋さんの様子までテレビで中継される徹底ぶりだ。卓球では13才の張本智和少年が世界選手権でベスト8入りを果たし、「チョレイ!」の気合とともに話題を集めている。両親とも中国の卓球選手。こんなかたちで日中が張り合うのも時代のいい面での新しいあらわれではないか、と思う。

◆その中国ではこの日「高考(ガオカオ)」が始まった。「全国普通高等学校入学考試」のことで、大学(大学は中国語で「高校」という。高校を「高級中学=高中」というので高校受験は「中考」だ)受験はこれ一本に絞られるため、940万人が参加する。この2日間、道路は送り迎えの車で渋滞し、親や友人、教育関係者たちはにわか応援団となって盛り上がる。韓国ではすっかりおなじみの風景だが、中国の実情はそれどころではないらしい。学校の近くに親と住み込んで補修に通い、受験に備える子供も少なくないそうだ。勝ち抜いた優秀な若者が日本に来ていい仕事をする時代だ。

◆5月21日の日曜日、久々に角幡唯介君の話を聞いた。近くの歴史博物館で講演が行われたのだ。学生時代から地平線には来ていて以前はよく会う機会があったが、もの書きとしていくつもの賞を総なめにし、本を書き上げると次のテーマに向けて旅立つ彼にそんなには暇がない。なにか不思議な気持ちで話に聞きいった。今回のテーマは「極夜」。3月号の地平線通信で本人のレポートを載せているが、北極圏で太陽がいっさい姿をあらわさない冬、犬1頭との80日間の旅がどんなものだったか、私には実に実に興味深く、この日の話では物足りなかった。これは地平線の皆さんと是非本気で聞いてみたいぞ、と強く思った。いずれ角幡君にお願いしよう。

◆4日の日曜日は京都郊外、木津川のほとりの「そらともり」一家の田植えに飛び入り参加するつもりでひそかに燃えていたが、どうしても時間のやりくりがつかず、麦丸と四谷に残ることに。多胡光純・歩未・天俐(あまり)家族との付き合いは長く、昨年は頼まれて「多胡」という表札の字を書いた。田植えを口実に表札を確認し、かわいい天俐にも会いたい、と日帰り強行旅を企画したのである。しかし、機会はいくらでもある。またにしよう。

◆実は、麦丸の病状が簡単ではない。もともとの心臓の病気に加えて口腔内にできた悪性黒色腫瘍という打つ手がない病気が進行している。本人は11才の割には可愛く人懐っこく、意外に元気なのだが、私はひそかに覚悟を決めている。どうやって、本人の幸せな時間を長く保ってやれるか。そのために、深夜であろうと彼が眠れずに鳴くときはいつでも連れ出してやる日を送っている。幸い勤め人でないのがありがたい。

◆しかたない、とたけしの出る日曜昼のニュース番組を見ていたら、甲高い声が特徴の学者が独特のプーチン論を展開していた。あれ? きのう話したばかりなのに、そうか、録画なのだ、と気づいた。前日3日の土曜日は、今年も長野市の信濃毎日新聞に出かけた。「第6回 梅棹忠夫山と探検文学賞」の授賞式があるからだ。

◆ことしは選考対象43作品から6つの作品に絞られた。『外道クライマー』(宮城公博著 集英社)『動物翻訳家』(片野ゆか著 集英社)『漂流の島』(高橋大輔著 草思社)『雪と氷の世界を旅して:氷河の微生物から環境変動を探る』(植竹惇著 東海大学出版部)『チベット 聖地の路地裏 : 八年のラサ滞在記』(村上大輔著 法蔵館)そして、『シベリア最深紀行:知られざる大地の七つの旅』(中村逸郎著 岩波書店)の6つである。

◆受賞したのは中村逸郎氏の『シベリア最深紀行』だった。たけしとテレビに出ていた人だ。政治学者としてテレビに頻繁に登場する人としては意外なテーマで、内容もよかった。シベリアについて人々の心まで書いた作品はあまりない。ご本人の講演で実はテレビを持たず、風呂もなく、シャワーだけです、という言葉が印象に残った。へええ。(江本嘉伸


先月の報告会から

隊長はつらいよ

フーテンの和、ヒマラヤ、南極流れ旅

樋口和生

2017年5月26日 新宿区スポーツセンター

■風速50メートル近いブリザートが吹き荒れ、冬には気温マイナス36度に達する南極・昭和基地。越冬隊員30人は、途絶した白い大地で10ヵ月以上を観測に明け暮れる。「最大のミッションは、隊員全員をきっちり家族の元に返す」。第57次南極地域観測隊越冬隊長、樋口和生はさわやかな笑顔でそう口にする。だが、昨年3度目の南極に出発するまでには、意外な山ヤ遍歴があった……。

◆日曜夜のテレビ番組風にナレーションを書けばこんな感じだろうか。私が樋口さんの名前を知ったのは、2015年9月「ゾモTシャツ」のネット注文を受け付け始めてすぐのことだ。サンドと(いまは幻の)ローズウッドを札幌と立川に分けて1枚ずつ送ってほしいという不思議な注文があって、宛先を確認させてもらったのだった。マメな人らしく、その日のうちに返信があった。

◆次が翌年の8月。なんと「昭和基地の隊員にゾモTの注文を取った場合、『しらせ』の出航に間に合うか」との問い合わせ。なんとこの人、南極で越冬していたのだ。「無事届いたら昭和基地で記念撮影する」「越冬隊でゾモ1頭買うのもいいなどと話している」……結果、全員がゾモTを購入してくれることになり、秋に東京を出発した第58次隊が12月23日、57枚のゾモTを昭和基地に届けてくれた。

◆樋口さん、本当に南極にいるの?と思うほど、やりとりも振込もスムーズだった。私たちが疑ったためか、メッセージの最後にはこんな報告も。「ここのところよい天気が続いています。今日は海氷上に出て、積雪深と氷の厚さを測って旗を立て、旗の位置をGPSで測定したという作業の連続で、ルート工作を行なってきました。マイナス25度の寒さでしたが、日差しがあったのでそれほど寒くなかったです。ちゃんと南極にいますよ。」

◆さてその樋口さんがこの3月に帰国。満を持しての地平線報告会だ。用意されたスライドは286枚あるという。「妻は札幌に残し、立川市に単身赴任中。子供3人も成人して一家離散状態。とは言え、父親が家にいないのは昔から。趣味は山登り、山菜採り」と自己紹介が始まる。37年前の1980年「男は北へ行くべきだ。ギター1本担いで青函連絡船に乗るのが格好いい」と、北海道大学農学部畜産学科に入学して山岳部に出会ったのが樋口さんの山ヤ遍歴の始まりだ。

◆「山登りしているか酒飲んでいるか」の学生時代はあっという間に過ぎていった。スクリーンには当時の陽に灼けた若者たちの顔が並んでいる。入学早々に十勝連峰で合宿をしたときのものだそうだ。1980年ヒマラヤ東部のバルンツェ峰厳冬期初登頂に続き、1983年厳冬期ダウラギリ初登頂と華々しい成果を挙げた先輩たちはさっさと引退してしまい、樋口さんたち現役学生は1984年気楽にインドへ赴いて、ガンゴトリ山域のスダルシャン・パルバート峰(6,507m)に8人全員登頂した。インド隊に続く第2登だったという。

◆大学に戻った樋口さんだが、就職はまったく考えていなかったらしい。「どうしようかと思っていたら、ただでネパールに行ける話が転がり込んできて、それが『ランタンプラン』だった」。樋口青年の遍歴第2章の幕開け。2015年4月のネパール大地震で壊滅寸前になったランタン谷を支援するゾモTシャツをこんなに宣伝してくれた経緯がここでつながった。

◆調理や暖房のエネルギー源を薪に頼り、村周辺の樹木を次々に燃料にしてしまう。そんなランタン村を憂いた貞兼綾子さんは、沢の水を使った水力発電システムの導入をランタンプランの活動のひとつにした。貞兼さんのやり方は、設備を置いてきておしまい、というわけではない。設備を維持管理するのは村の人たちだし、そのためには段階的にこの試みを知ってもらう必要がある。「電気ってなんだろう」最初は小さなもので薪に代わるメリットを知ってもらい、そしてゆくゆく臼で粉を挽いたり、パンを焼いたりできるようなものにしたい。

◆1987年、樋口さんは北大を中心とする氷河の調査隊の一員としてランタン村を訪ね、半分は氷河上でのルート工作など調査チームのサポート、半分は貞兼さんの手足として村の人たちと川から水を水車に引っ張り込む工事に励んだ。そして1キロワットの発電機によって、ランタン村初の電球の明かりが本村から少し離れたキャンチェンにあった唯一のホテル、ゴンパ(寺)、観測小屋に灯った。落差10メートル、100W電球10個分しか発電できない規模だが、それでも電気を初めて知る村の人たちが感電したら大変だ。

◆スクリーンに投影される写真には幸島司郎さん、貞兼さんらランタンプランの面々も。ランタンプランの男どもはみんな貞兼さんの魔力にやられてしまったのだな、と想像する。その貞兼さんが「針金をペンチでなくても切れる人」として選んだ樋口さんについて語る。電気の勉強をしたこともない樋口さんが、中学の理科レベルの知識で村の人たちと取り組んだ。

◆同じ目線で村の若者たちに伝えたからこそ、ランタンプランが引き上げた後も村の人たちが発電設備を運営することができたのだという。「最初の足固めを樋口さんが立派にしたのが今日につながっている。人選は間違っていなかったと改めて思う。でもその後、山にあれだけ深く関わって、こんな人になるとは思いもよらなかった。まるで別の人の話を聞いているよう」と貞兼さん。

◆さて北大調査隊と別れてネパール放浪旅の樋口さん、トレッキング中のロッジで出会った米国人から「地元では『野外学校』をやっている」と聞きなれない言葉を耳にして、自分にもできるかもしれないと直感する。帰国してから就職してネクタイは締めてみたものの、ワイオミング州の野外学校でどんなことをやっているのか行ってみたり、仲間を募ったりして、1992年に「北海道自然体験学校NEOS」を立ち上げた。

◆NEOS、その後の「ねおす」のことを樋口さんはあまり説明しなかったが、樋口さんと高木晴光さんを中心に北海道で始まった試みは、やがて自然学校の枠をはみ出して社会実験とも言えるユニークなネットワークに発展していく。東日本大震災の救援ボランティアとしていち早く釜石に拠点を構え、ねおすのメンバーが日本中に情報発信していたことが思い出される(余談ながら3.11当時樋口さんは南極越冬中だったが、ふだん地震のない南極で震度計が振り切れるほどの揺れを観測したという)。

◆樋口さんは山岳ガイドとして北海道中の山々でツアーを開催した。単にピークを目指すだけではない。「知的登山のすすめ」をタイトルに講座とツアーを組み合わせたのが樋口流だった。樋口家の子供たち、その友人たちも山に連れて行った。2000年の「知床冒険キャンプ」では頂上直下で子供ひとりが喘息の発作を起こして動けなくなり、ヘリで救助されたことがあった。「それまでは自分の思い込みで子供たちをひっぱっていったんですね。目の前の人が死ぬかもしれないと思ったのはその時が初めてだった。子供たちの心や体に寄り添っていなかったと猛反省した」。

◆これをきっかけに樋口さんの登山ガイドとしてのスタイルが変わった。「深い自然に一緒に行って、何かを感じてもらえばいい。子供たちが将来壁にぶつかったときに知床の山の風景や沢の情景をちょっと思い出してもらえば十分」。「北海道雪崩事故防止研究会」は、そのNEOSの活動と並行して樋口さんが仲間たちと共に1991年に設立、いまも毎年、雪崩対策のセミナーや講習会を行っているボランティア団体だ。いまでこそ「雪山三種の神器」と言われるうちのひとつ、ビーコンはまだ普及の黎明期。それをいち早く北海道の山々で使いこなしていたのが樋口さんたちだった。文部省登山研修所(当時)で講師を務めたことから山本一夫さんに誘われ、日本山岳ガイド協会に雪崩対策技術のカリキュラムを作り、検定を始めた。

◆北海道では2007年3月、積丹岳で起きた雪崩事故をきっかけに、日本雪氷学会北海道支部の「雪氷災害調査チーム」に活動が発展。痛ましい雪崩遭難事故が起きるたびに研究者の積雪調査を、アウトドアのスペシャリストである山ヤが安全面でサポートしている。ランタン谷の氷河上で研究者を手伝った経験が、このときも生かされた。研究会は1996年に教科書として『最新雪崩学入門』も出版。この本はその後2015年、山と渓谷社から雪氷災害調査チームによる『山岳雪崩大全』としてアップデートされている。

◆一方でヒマラヤも忘れていない。学生時代のスダルシャン・パルバート峰に続いて、1992年に北大山の会・北大山岳部隊として挑んだのがアンナプルナの北側にある国境の山、ヒムルンヒマール(7,126m)。外国人がほとんど入っていない山域で、道中もまた楽しかったと樋口さんは話す。イムジャ・ツェ(アイランドピーク、6,189m)には2003年「ねおす登山隊」を率いて、メンバー8人を全員登頂させた。初めての海外ガイド登山。しかし、自分の力量ではこれ以上は続けられないと思い、仕事として高峰に登ることはやめたのだという。

◆その山ヤがなぜ南極に? 1992年9月の報告者でもある吉川謙二さんの「アンタークティックウォーク」(1991年)を札幌で手伝い始め、「後援会北海道支部長」を名乗り始めたのが南極への関心の始まり、だそうだ。自然学校、雪崩事故防止活動、ヒマラヤに熱中した10年を経て、樋口さんを南極に誘ったのは北大の先輩で国立極地研究所の白石和行さんだった。14次越冬隊から数度にわたって南極に通い、「権威」とも言える先輩が「南極観測隊の野外での安全管理が危機的だ。これからはプロの力が必要だ」と熱く樋口さんを説得した。

◆「山岳ガイドの経験を生かし、南極に貢献できる」「異分野に能力を広げられる」「地球環境問題にも貢献できる」と頭の中に作文が一気にできあがった、と樋口さんは言う。<行くしかない!>スクリーンに大きな文字が浮かんだ。とは言え、熱意だけですぐに観測隊員になれるわけではない。研究者とタッグを組み、南極で活かせる能力と実績をアピールするのが早道だ。

◆北大低温研の大学院生に登山技術を講習したり、国際コンソーシアム「国際南極大学」の実習を担当したり、カムチャツカ・イチンスキー山の氷河学術調査隊で危機管理を担当……。こうして樋口さんは山岳ガイドの技術を「実績」化していった。白石さんだけでなく、北大山岳部の仲間たちにも当時の樋口さんを南極に引っ張り込もうとする機運があったのではないだろうかと推測する。

◆2007年11月の公募に願書提出、2008年2月の面接で内定。さっそく3月には乗鞍で「冬訓」だ。5月の健康診断では大腸ポリープが見つかった。面接も初体験なら、入院、手術も生まれて初めてだったそうだ。この時点ではまだ「隊員候補者」。正式決定までは不安だったという。年や職種にもよるが、競争率はそれなりに高いらしい。その難関を乗り越えて、6月「夏訓」、8月正式採用、12月成田から出発して、樋口さんの初越冬が始まった。この第50次隊への参加に続き、52次、57次と通算4年以上の「南極暮らし」を経験することになる。

◆当初は野外活動のエキスパートとして、ついには隊長として3回の越冬に参加した樋口さん。他にはどんな人たちが参加しているのだろうか。57次隊は女性5名を含む30人で越冬。気象庁の5名など12名が観測研究を行い、17名の設営隊員がそれを支えているのだという。

◆越冬拠点の昭和基地は南極大陸ではなく、約4キロの海峡を隔てた東オングル島にある。厚い氷が張った海峡はふだんならば雪上車で行き来できるが、それでも年によっては海氷が流れてしまい、危険なこともある。道路のない南極。安心して観測隊員が雪上車やスノーモービルで通れるルートを選び、目印の旗を立て、GPSで記録して雪上に「見えない道路」を作るのが、「野外観測支援」担当の最初の仕事だ。例えば大陸の沿岸ではルッカリー(営巣地)数カ所でペンギンを数える「ペンギンセンサス」が続けられており、これを途切れさせないためにもルート確保は不可欠。ちなみに南極ルールではペンギン5メートル、アザラシは15メートルまでしか近づいてはいけないのだそうだ。

◆動物だけでなく、オーロラ、地磁気、ラジオゾンデと昭和基地での観測は多岐にわたる。10月には約250キロ離れたみずほ基地へ「旅行」が行われる。片道1週間がかりの大旅行だ。岩野祥子さんの報告でおなじみになったSM100雪上車の内部は広く、まるで小さなクルーザーのよう。雪上車で燃料、食糧、トイレそれぞれが積まれたソリを牽いていく。内陸でマイナス30度を経験すると、昭和基地のマイナス15度がかえって暖かく感じるのだという。

◆2016年4月には海峡に張った氷が流れ、基地からも海面が観測できるほどになった。10年ぶりのことだったそうだ。ドローンを活用して氷の動きを測り、野外での安全管理に生かした。安全管理と言えばブリザードで隊員の外出を制限する日数も多かった。南極は1年間ずっと雪との戦いです、とスクリーンには「愛車」パワーショベルで除雪する隊長の勇姿が。しかし時間切れでオーロラの動画が観られなかったのは残念。

◆一見楽しそうに見えるが、やはり「隊長」は大変でしたか?長野亮之介さんの質問に「出発前にはあまり頑張りすぎないようにしようと思っていたが、自分がこんなにも我慢強い人間だったことに後で気づいた。どちらかと言うと大変だった」と樋口さん。基地は快適になったが、自然は60年前と変わらない。広がっているのは、むしろ個人が持っている力とのギャップだと語る。

◆地平線報告会では吉川さんを始め、岩野さん、石井洋子さん、月風かおりさん、村上祐資さんとこれまで名だたる南極経験者が報告してきた。しかし「自分もひょっとしたら南極に行けるかも」とこれほどくすぐられた報告はなかったのではないか。樋口さん、「男は北へ行くべき」と言っていたのに、南極ばかりで北極に興味はないんですか? 恒例、瀧本柚妃ちゃんが椅子に立っての質問に樋口さんは苦笑。「寒いのに変わりはないんですよ……」針金を噛み切れるほどの隊長もさすがに歯切れが悪かった。(落合大祐


報告者のひとこと

地平線会議の場に集まる人たちは「人」が好きなんだろうな

■まずは、このような機会を与えていただいた江本さんをはじめ、地平線会議の方々にお礼を申し上げます。これまでやってきたことを自然体で話して欲しいというリクエストでしたが、地平線通信の過去の報告の内容を読むにつけ、地平線会議の場で私が話すべきことがあるのか心配でした。それでも、昭和基地にゾモTシャツを送っていただくなど、越冬中にお世話になった江本さんの依頼を無下に断るわけにも行かず、お引き受けすることにしました。

◆何を話そうかと思いあぐねて時が過ぎるなか、話を引き出すことが上手な長野さんから電話取材を受けるうちに、とにかくこれまでやってきたことを話し、それが今やっている仕事にどのようにつながったかを話そうと決めました。スライドを整理しながら話の構成を組み立てる作業を通して、改めてこれまでやってきたことを振り返ることができました。

◆ひとつひとつの活動はその時々で自分にとって大切なことだったり、やらなければならないと思い込んだりして進めてきたことで、その先を深く思い描いたり、何らかの哲学があってやっていたわけではありませんが、少し立ち止まって見直してみると不思議なことに一本の文脈が見え隠れしているように思えました。

◆作業を通じての気づきのひとつは、私の中の原体験のひとつが1987年のランタンプランだったこと、もうひとつはこれまで出会った多くの人に生かされてきたということでした。このふたつは常に自分の意識の中にあったものですが、それを改めて再認識することができたのは大きな収穫でした。

◆持ち時間が長いなあと思っていましたが、「2時間半なんてあっという間だよ」という江本さんの言葉通り、話し始めたら本当にあっという間に過ぎました。ただ、終わってみると、とりとめのない話をだらだらとしてしまったなとちょっと反省しています。そんな得体の知れないおっさんの話を興味深そうに聞いている会場の人たちを見て感じたのは、地平線会議の場に集まる人たちは「人」が好きなんだろうなということです。今回は私が一方的に話をしただけでしたが、これを機にここに集う得体の知れない人たちのことを私も知って行きたいと思った次第です。今後ともよろしくお願いします。(樋口和生


地平線ポストから

大事なことは「コンパッション(思い遣り)」だ
 ━━ダライ・ラマに謁見して

■ヒマラヤンクラブ創立90周年記念行事がチベット亡命政府のあるダラムサラで行われ、招待(と言っても費用は手弁当)されましたので出かけました。 ヒマラヤンクラブは1928年に英国人によりカルカッタで創立されました。現在の本部はムンバイにあります。会員はインド人800人、外国人400人、計1,200人程度です。創立90周年記念行事を今年と来年2月の2回に亘り行う計画で、先ずはダラムサラでダライラマ14世猊下の「特別講話」を行事の目玉として実施しました。4月22日から26日の4日間の日程で、47名が参加しました。日本からはインドヒマラヤの権威、沖允人さんも参加されました。

 4月24日午前9時にダライラマの宮殿に行きました。セキュリティー検査検閲は国際空港なみです。ダライラマの特別講話は和やかに進められ、質疑対話も行われました。開口一番「今日はヒマラヤンクラブの皆さんとのインフフォーマル(形式ばらない)な集いです。堅くならずにリラックスしましょう」と気さくに語りかけ、緊張を解すことから始まりました。

 ヒマラヤンクラブは持参したヒマラヤンジャーナルにサインをしてもらい、世界一美味のインド産マンゴ「アルフォンソ」をプレゼント、小生は会長の薦めで『ヒマラヤの東山岳地図帳』を贈呈、東チベット踏査について話をしました。これがダライラマの関心を惹きました。

 「自分(ダライラマ)は東チベットのアムド(現在の青海省)で生まれ育ったので懐かしいし、土地柄をよく知っている。しかし、中国共産党の厳しい締付があって……」と思い出の滲む口調で話してくれました。講演後の記念撮影では手を差し伸べ握手をしてくれました。ダライラマ82歳、小生と同じ歳です。1時間20分、瞬く間に過ぎました。

 政治にかかわる話は一切ありませんでした。ヒマラヤンクラブへの心のこもったメッセージ(親書)は印象的です。講話の内容について纏めてみました。

 「自分は東チベットのアムドで母親の愛情を一身に受けて育った。本当に可愛がれた。いつも背中におんぶされ、両耳を手綱代わりに使った。母の愛情が人格形成の原点である。1959年にチベットから逃れ、1960年にダラムサラに亡命政府を作ってから既に57年、インドは第二の故郷である。第一の故郷は勿論チベットである。

 最近中国の科学者の報告を読んだ。チベット高原・ヒマラヤにおける地球温暖化の影響は大きく、環境問題の大切さ、自然保護の必要性を強調。氷河後退による水資源の問題やダム建設に関連して、中国は他国に及ぼす影響を自覚し、対策を講じて欲しい。

 (宗教に関しては)いずれの宗教にも共通して大事なことは「コンパッション(思い遣り)である。イスラムのテロリストは最早イスラム教徒ではないし、ビルマのテロリストも仏教徒ではない(「コンパッション」はダライラマのキーワード)。チベットのラマ(僧侶)より、インドのヒンズー教の僧侶のほうが知識が豊富である。仏典のオリジナルは90%がサンスクリット語でインドで書かれている。

 時折アメリカの脳科学者と議論をする。チベットのメディテーション(瞑想)によって起こる現象は物質的な脳の機能を超える何かがあることを科学的に説明不可能ではない。例えばチベット仏教徒の僧侶が行うインナー・ヒート(念力で体内を温める)がそうである。自分は半分は仏教徒、半分は科学者であると思っている」。

 ダラムサラでの行事の一つとして亡命政府議事堂見学もありました。議員の数は1960年発足当時は8人でしたが、現在は45名です。チベットの三地区、カム・アムド・ユツァンから各10名、四宗派から各2名、ボン教2名、外国在住チベット人(アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、アジア)5名の構成です。1848年にイギリスの植民地支配下に入った標高1,700mの針葉樹林帯のダラムサラについての解説は省略しますが、人口57,000人、ホテルが林立、狭い坂道は交通渋滞がひどいです。観光客が多く、イギリス、イスラエル、アメリカからの欧米人が多く、日本人は韓国人より少なく、中国人は非常に少ないです。

 記念集会ではチベットのアルプス踏査についてのト−クの割当時間が僅か10分でしたので、『山岳地図帳』のパンフを配布して簡単に紹介しました。 早速3冊注文をもらいました。また、10冊持参した【ユンシス】No.019 「2017 ヒマラヤ越え黄金の飛行ルート」にはいたく興味を示してもらいました。足りなかったので、渡らなかった人に送ります。Ang Tshering Sherpaさんも強い関心をお持ちで、5月31日ー6月3日モンゴルのウランバートルで開かれるアジア山岳連盟UAAA Council Meetingで配布して頂きます。(中村保

P.S.:ヒマラヤンジャーナル名誉編集長Harish Kapadiaさんは今年11月に「アジア黄金のピッケル賞Lifetime Achievements Award」を授賞します。中村の推薦によります。ダラムサラの後、10日ほど情勢不安なカシミールをスリナガ−ルを起点に旅をしてきました。

サーメル1才、ヨルダンで未知との遭遇

 「子連れ狼」という時代劇がある。三十年ほど前の番組だが、事情あって浪人となった拝一刀(おがみいっとう)と、その息子大五郎の親子が、出会いを重ねながら諸国をさすらい旅を続ける人間ドラマだ。

「ぼう、行くのだ」人力車に幼い大五郎を乗せてさっそうと街道をゆく拝一刀。その姿は、子育てってこんなものかしら?という妄想を私に植えつけた。いつか私が母になったら、子連れ狼のように「ぼう、行くのだ」とさっそうと二人歩む姿をイメージしていた。

 昨年4月、シリア人の主人ラドワンとの間に子どもが生まれた。内戦で政治に関与した罪で逮捕され、行方不明になって5年になる主人の兄の名をもらい、サーメルと名付けた。サーメルとはアラビア語で人と人とをつなぐ光といった意味だ。そのサーメルが一歳を過ぎた頃、私は「子連れ狼」的子育てイメージを体現するべく、母子2人で旅を計画した。目的地は中東の一国ヨルダン、5月末から1か月をかけ、シリア難民の取材だ。

 ヨルダンは死海や世界遺産ペトラなどに世界中から観光客を集める一方で、国境を北に接するシリアで内戦が2011年から始まり、難民が大量に流入している。2008年からシリアの沙漠の暮らしを撮影した私は、内戦後、シリア問題や難民の暮らしをフォトグラファーとして写し取っている。

 サーメルは1才1か月、つたい歩きをして、どこにでも行ってしまい、何でも口にいれる。子連れで写真を撮る不安があったが、パニック状態を覚悟の上での取材だった。

 ヨルダンの首都アンマンには夫の兄の一人(夫はなんと16人兄弟だ)ジャマールが住んでおり、彼の元に居候させてもらいながらの取材となった。ジャマールもサーメルと同じく、2011年にシリアで高まった民主化運動に参加し、政治犯として警察の取り締まりを受けてヨルダンへと逃れた難民だ。彼は難民キャンプで暮らした後、アンマンの路上でライターなどを売り、職を転々としたながら自立の道を歩み、現在では結婚して家庭を持ち、安定した暮らしを送っている。子連れでのこの取材は、現地でのジャマール一家の存在があってこそのものだ。

 フォトグラファーとして表現したいのは、シリア難民がここヨルダンで数年を過ごし、その暮らしや思いがどのように変化しているかだ。首都アンマン、またシリア国境に近いザータリ村に暮らす難民の家族を訪ね、話をお聞きし、写真を撮らせていただいた。

 またヨルダンでは、目にすることがなかった夫ラドワンの仕事を間接的に見ることもできた。彼は、中古自転車をコンテナに積み、日本からヨルダンをはじめとする中東に送る仕事をしている。こうした自転車はアンマンの他、大部分がザータリ難民キャンプ、アズラック難民キャンプに送られ、難民がキャンプの中で使っている。これまでヨルダンには一年半近くで約4,000台を送ってきたそうだ。

 ラドワンは自らもシリア難民の一人として、日本で働きながら仕事を通しシリアの人々と繋がれること、互いが豊かになることを目指している。

 シリア人は大家族が多く、かつて2240万人だった人口の半数は20才以下の世代だと言われる。子どもは皆の宝物、皆で育てるという意識があり、私が子連れで訪ねてもご迷惑になるという感覚を全く覚えないほど、シリアの人々はサーメルを可愛がってくれた。特に子供たちがサーメルを可愛がった。そうした雰囲気があり、安心して取材ができた。

 背中にサーメルを背負いながらの写真撮影や、サーメルがウンチをしたりおっぱいをねだって泣いたりで、決定的瞬間としてのシャッターチャンスを逃したこともあった。しかしそれ以上に、子連れだったことで人々とより温かなコミュニケーションを図れたことも事実だ。言葉をまだあまり話さないサーメルだが、身一つで現地の人々や子供たちとすぐに打ち解ける姿を見ていると、人間に最も必要なものは言葉ではないのかもしれないと思わされた。

 とにかく子供の柔軟性というものは驚嘆に値する。言葉を使わずとも相手の懐に飛び込み、受け入れ、受け入れられる。子供というのが無条件に受け入れられる存在であること、それを知るための旅だったようにも感じられる。

 この1か月の滞在、サーメルにはやらなくてはいけないことがあった。それは髪を丸刈りに剃ること、そして割礼である。昔の日本もそうだったように、アラブ社会では生まれた時に生えていた髪を一度剃ることで強い髪が生えるとされる。本当はもっと前にやろうと思ったが、マルコメ状態になる我が子の姿を見るのに抵抗もあり、延び延びになっていた。そして割礼。イスラム教徒の男子は生後半年で割礼を受ける。それにより、健全な成長がみられ清潔であるとされる。

 帰国する1週間前の夜、シャワーを浴びた後、サーメルの頭をバリカンで剃った。ジャマール兄が剃ってくれたが、最初に頭頂部から剃ったため、落ち武者のような髪型となり、その場の家族が皆笑う。やがて全て髪が落とされると、ツルツルに光る立派な丸刈りとなった。髪がなくなると随分印象も変わる。

 さらに翌日、ジャマールの妻の母に付き添われ、街の郊外の小さなクリニックにサーメルを連れた。ここで割礼を受けるのだ。それはクリニックとは名ばかりの、野菜市場の一角にある、一体何の施設かわからないようなクリニックだ。11時に予約していたがドクターがなかなか現れない。

 結局遅れること1時間。ようやく若い男性医師が現れ、サーメルのパンツを下げ、いよいよことが始まった。あどけない笑顔を振りまいていたサーメルも、数人の看護師にがっちり抑えられベッドに寝せられるうち、何か尋常ではないことが始まると理解し、不安げになり泣きはじめた。ドクターは慣れた手つきでまず局部に麻酔を打つと、皮を引っ張りハサミでチョキンと切った。そして患部に軟膏を塗り包帯を巻いて割礼は終わった。

 その間約1分半ほど。サーメルの割礼が終わるとすぐに次の患者である幼い赤ちゃんが連れて来られ、同じことが始まった。サーメルのように一歳を過ぎると、痛みにも敏感となり体も動かせるため、通常は生後半年ほどで割礼を受ける。日本ではこうした医療機関を知らなかったため、サーメルは今回このヨルダンでの施術となった。

 割礼ははたから見てもなんとも痛々しい光景だ。当の本人はよほど痛かったのか、サーメルはひととおり泣き叫ぶと、数時間の間ふんにゃりと体の力が抜けた。

 痛みのため、その日は一日中不機嫌なサーメルだったが、割礼を受けて男になったということで、大人たちは祝宴をひらいた。ケーキを買い、お母さんがご馳走を作る。こうして家族に祝われ、サーメルの割礼は無事終わった。

 ヨルダンからの帰途、私は飛行機から雲海を眺めながら、サーメルと歩き、出会った土地や人々のことを思い出していた。そのときふと、「子連れ狼」も拝一刀と大五郎だけで旅をしていたのではなかった、と思った。その土地土地で、地に根を張って生きている人々との出会いがあり、そこに大五郎は育てられ、見守られていたのだ。そして私も同じだった。

 サーメルにとっては初めての海外であり、ヨルダンでは様々な経験をし、驚きの連続だったろう。そんな驚きと感動の連続が人生なのだ。

 強く育て、サーメル。大五郎のように。いつか自分の足と目で世界と繋がれるように。

 かくして私たちの小さな旅は終わった。(小松由佳


うんこをめぐる異色の対談イベント!

■「うんこ漢字ドリル」シリーズが発売3か月で累計100万部に近づき、小学生たちにうんこブームを巻き起こしている今日このごろ(クソー あやかりたい♪)、おとなだって熱いんだぞ〜!

◆「私はウンコを流さない!」撃って登るサバイバル登山家・服部文祥さんと、「ウンコを武器に責任を問う!」ノグソ歴44年目突入の糞土師・伊沢正名さんによる異色の対談イベントが開催されます。命を奪う狩猟と命を返すノグソ、おふたりはこの日が初対面だそうです。伊沢さんいわく「服部さんの生活はまさに俺の理想形。命というものについて、かなり深い話になっていくと思う」。ところで伊沢さん、最近はご自宅の庭に「ノグソピア」なるノグソの楽園を創造中。人目を気にせずノグソを楽しみ、ノグソ愛好家たちがのびのび交流できる理想郷になるみたいです。(大西夏奈子

   ★    ★    ★    ★

「糞土師・伊沢正名×サバイバル登山家・服部文祥トークイベント」

 日時:6月16日(金)19:30〜(18:30開場)
 場所:阿佐ヶ谷ロフトA(定員100名)
 共催:山と溪谷社・デコ
 ◎前売券1600円(eチケットで発売中)、当日券2000円
 詳細:http://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/66884


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページに。

 通信いつも感動、考えさせられます。ありがとうございます。通信費とカンパ、よろしくお願い致します。函館市から)/中村易世/絹川祥夫(3,000円 地平線通信、届きました。ありがとうございます。やっぱり若い人の活躍を見るのは気持ちがちょっと踊りますね。あの風間さんが息子さんとレースに出ているようですし、角幡さんの通信もあるし、戸高さんの名前もあったし、しばらく楽しみます。今日、通信費1年分ですが、振り込みました。残り1,000円は、お手伝いの皆さんのお茶にどうぞ。年金爺さんなのでささやか過ぎてごめんなさい)/奥田啓司(平成29年度通信費)/森美南子(2017年度分通信費です)/横内宏美(6,000円)/林与志弘19号/中橋蓉子・野元菊子(20,000円「江本さん、ご縁ですねえ」と亡父の言葉を思い出しつつ、スタッフの皆様にいつも元気を頂いています。ありがとうございます。菊子、蓉子の2人分です。野元甚蔵さん長女・次女)/田中明美/貞兼綾子/杉田明日香(4,000円 2年分)/金子浩(5,000円 2年分+カンパ)/神長幹雄(10,000円 ほんとうに1年に1回程度の参加ですが、出席歴だけは長くなりました。まさに「細く、長く」のお付き合いでしたが、報告会を聞いて、雑誌や書籍の企画が実現したことも何度かあります。最近は私も旅に復帰、行動者に刺激されながら今後も旅を続けようと思います。地平線会議、がんばれ!)


ポイントホープで鯨を引き揚げた日

■5月1日、前々日に茨城のキャンプ場で14年振りにカヌーイストの野田知佑さんと再会を果たした僕は一路成田空港に向かった。アラスカのポイントホープに向かうためだ。アラスカの北極圏ではこの時期に北極海の氷の割れ目(リード)を抜けて、ホッキョククジラが南から北へと泳いで行く。僕は以前から興味のあったエスキモーのクジラ漁に参加するために幾つもの機体を乗り継ぎ、ポイントホープに降り立った。ロス、アンカレッジ、コッツヴューを経由してのポイントホープだ。

◆街外れの駐機場に降り立つ前にその小さなセスナは赤いクジラの鮮血で染まった白い氷床の上を旋回した。吐く息は当然白く、周りは溶けかけた雪が白く大地を覆っている。僕は居候させてもらう家に着いた後、今回訪ねた高沢進吾さん(25年ポイントホープに通い続けている人で、2015年の9月の地平線会議報告者)がクジラ肉の解体作業から戻って来るまで当てもなく村の中を歩いた。

◆高沢さんと知り合ったのは、葦船航海で知られる冒険家の石川仁さんの主催するイベントだった。今年ポイントホープに行くことを決めたのは、温暖化の影響なのか年々海氷が薄くなり、クジラ漁の開始時期が早まっていて、比較的長い休暇を取れるGWに合わせて訪問することが今後難しくなりそうなこと、そして、来年以降は仕事柄、自分がどこにいるのか分からないからだった。

◆そして、今回事前に高沢さんにお願いし、彼が居候している家のガレージに滞在中住まわせてもらうことになった。じゃあ、なぜクジラ漁なのかと言えば、明確な理由は自分の中にはないのかもしれない。ただ自分よりも大きな存在、命と向き合ったときに、自分がそこで何を感じるかを知りたかった。そして、今まで足を踏み入れたことのなかった極圏の景色を自分の中に取り込みたかった。

◆そんな極北の白い靄の向こうに太陽が霞んで見えるポイントホープの街路では自転車に乗って遊んでる子供が時折見えるだけで、村全体が静寂に包まれていた。そんな街中を僕は時折エスキモー犬に吠えられながら、外周を歩いた。すると街の外れにある巨大な貯水タンクの向こうに氷雪の大地からそびえ立つクジラの顎の骨が見えた。それは僕の記憶を揺さぶった。そうなのだ。この村は生前星野道夫さんがクジラ漁の取材に来た村だったのだ。

◆僕はひとしきりそのクジラの骨を眺め、家に戻り、丁度肉の解体から戻ってきた高沢さんと合流した。そして、翌日からクジラの肉の解体や運搬に絡む仕事を手伝わせてもらうことになった。ホッキョククジラの肉は大きくは表皮の部分であるマクタックと赤身に分かれる。小さなブロックに切り分けられた肉はジップロックで家の冷蔵庫に保存され、入りきらない分はオールドタウンにある地下貯蔵庫に保管される。

◆井形に組まれ、中に赤い血と油にまみれたクジラの肉が眠るその貯蔵庫の入り口は、僕には異界への入り口のように見えた。食事は当然のようにクジラがメイン。朝起きてから獲りたてのクジラの巨大なステーキを頬張り、レンジで少し温めたマクタックには生姜醤油をつけて食べた。黒いその表皮は弾力があり、小さくしないと噛み切ることはできない。味は貝類に近いだろうか。脂身の部分を少し残したそれはとても味わい深いものだった。

◆そして、到着3日目、クジラが獲れたとの連絡が入る。僕達は急いで着替えをし、スノーモービルで乱氷帯を抜け、北極海に面した氷床に向かった。そこには既に尾ひれを切断され、これから引き上げられようとしているクジラが待っていた。僕はクジラを引き上げるロープを掴み、村の人の掛け声に合わせて、その巨大ないきものを引っ張った。それはまるで地球そのものを引いているような気分だった。

◆その個体は約7メートルほどで小柄な部類だったが、それでも少しずつしか引き上げることはできない。なんども滑車を調整し、やがてその黒いいきものは氷床の上に引き上げられ、その場で解体が始まった。目の前で赤い物体に変わっていくクジラ。黒い皮膚の下は分厚い白い脂肪で覆われていた。そんな解体を眺める僕に獲れたばかりのクジラの皮膚であるマクタックが配られた。僕は夢中でそれを頬張る。それは僕が星野道夫さんのクジラ漁の文章を読んでから、ずっと味わってみたいと思っていた肉だった。

◆僕は脂肪を取り除き、黒い皮の部分を咀嚼した。その間にもどんどん解体は進んでいく。いつの間にか目の前にあったクジラの黒い姿は辺り一面の血溜りと頭骨の部分だけになった。僕は西日が差す中でその赤い頭骨を眺めた。するとその頭骨を解体に参加していた人達が海に向かって押しはじめた。少しずつ揺れながら、海に進んでいく頭骨。やがて頭骨は氷床の際から海に沈んでいき、それと同時に歓声が沸き起こった。「また来年戻ってこいよと頭骨を海に還しているんだ」とひとりの男性が説明してくれた。

◆結局僕の滞在中、ポイントホープで捕獲できるクジラの10頭中の4頭が捕獲され僕はその全ての引き揚げ作業に参加することができた。4頭中、3頭は15メートルほどの大きなクジラで、ポイントホープを発つ前の晩獲れた2頭を引き上げるため僕は17時発の飛行機の時間ぎりぎりまで徹夜でクジラを村の人達と一緒に引き上げた。帰り際、居候をさせてもらった家の家族から「今度はいつ来るんだい? 6月にはカグロックというクジラ祭りがあるし、また来なよ。いろんなものが食べれるよ」と声を掛けてもらった。直ぐにはまたあの場所に行くことはできないかもしれない。それでも、また近い将来にあの白い大地に足を運び、氷の上でクジラを待ちながら日々を過ごしたいと思う。(光菅修

花田麿公さんからの手紙

『新編 西蔵漂泊』の刊行に際し、モンゴル大使として活躍された花田麿公さんから心のこもったメールをいただいた。3月20日、出版記念の会を開いてもらった日だ。私信ではあるが、大使までつとめた人が地平線会議の現場に登場し、原稿を書いてくださる、その心が読める文章なのでご本人の了解を得て、掲載させいただく。(江本)

  ★     ★     ★     ★

江本嘉伸 様

 『新編 西蔵漂泊』ご出版おめでとうございます。

 出版記念パーティーを欠席し申し訳ありません。心からお詫びいたします。先の二冊(1993年、94年に刊行された『西蔵漂泊』上下巻のこと)のときは出席させていただいたのに本当に残念です。あらためて、ご労作を頂戴しありがとうございました。解説に前の2册にさらに手をいれられたとありましたが、拝読してみるにかなりその後の知見、お考えがはいり、古典としてできあがっていることに驚きました。

 私が探検という言葉を使うことは地平線の方、ことに江本さんに使うことはかなりはばかられるのですが、「探検」ということの本質に迫った希有の書籍の一つになっていると感じました。その意味で江本さんが羨ましいです。「江本先生」というべきかもと思います。

 予想外かも知れませんが、私自身は高校時代から西域(私は絶対にサイイキと読みます)にのめり込み、方眼紙を貼りついで大きな西域地図を作成していていつか探検にと考えておりました。登山は不戦敗ですが、探検、冒険は大好きで、人には言えませんが職務を通じて密かに実行してきました。外語の非常勤講師をしているときに早稻田の西域の大家松田壽男先生が同様にモンゴル語の非常勤講師として来て下さっていて、私の地図にここらを掘れば宝がでると教えてくださいました。

 中国のエツインゴルからモンゴル側に入るルートで、退任しなければ、2002年の夏臨時の国境関所を開門して中国大使同行で行けるところでした。

 スヴェン・ヘディンの探検集、プルジェヴァリスキーの探検書は愛読書です。白水社の中国辺彊の旅シリーズ、西域探検紀行全集、別巻の深田久弥先生の中央アジア探検史は宝物です。ですので江本先生の漂流はまさにそこを突かれたと思いました。10人のうち半数は読んでいました。

 正直ウランバートルで初めてお会いした際、西藏に行ったと江本さんが言われたときはいやでした。自分も、と思っていましたのでさきがけて行った方々に若いときは嫉妬しておりました。

 「探検」とはひ弱な私に似合わないようですが、探検は心がひ弱でなければできると思っております。モンゴルの地方出張は飛行機でよかったのですが、すべて探検スタイルをとりました。もちん野宿も含めて(野宿は報告していません)。

 そこで江本先生の本ですが、政治的、宗教的、財政的な理由で行かざるを得なくなった人や、自分の気持ちを高めて行った人がでてきます。でも彼らはほんとうは「行きたい」との衝動だけが本当の理由だったのではと私は勝手読みし、ご本から読み取ろうとし、そして読み取りました。

 私が家族を思う心は江本先生もご存知のとおりですが、カバンをもって「つっつっつ」とウランバートルのアパートをでて、目的地知れずで西に歩いて家出したいという突き上げる熱情にかられたことが2度あります。あれは何なのか、これが探検の本質をさしているのではと密かに疑ってきたのですが、この本で、この疑問がますます深くなり、恐ろしさを覚えています。

 私にはそんな本でした。

 私の方は日本モンゴル外交関係45周年の新宿でのあの夜(注:ことし2月24日の大西夏奈子報告会「むきだしモンゴル!!」に花田さんは参加、貴重な話をしてくれた。詳しくは通信455号を参照)以来、モンゴルづいていて、人が結構訪ねてきましたし、モンゴル・アカデミーの友人が下関からきて、新横浜に迎えて、泊まっていただいたり、今の私の体力では追いついていけない状態になり、今、家族にも遠慮してもらって引きこもっています。

 さらに、アカデミーの友人に触発され、1921年の革命頃の史実に関し、新進の学者の著書や今のモンゴルの学者と意見を異にするため、その疑問をはらすため多くの文献にあたったり、さらに、たまたま私が読んでいた、社会主義時代の歴史学者で、旧知のナツァグドルシ先生の清朝時代の地方社会制度の「ソム、ハムジラガ、シャビの牧民」という本を読書中であるのが件の先生に見つかり、自分もまさにその本をウランバートルから持参して下関で読んでいるところと聞いて、彼より早く精読しおわるぞと頑張ってしまいました。まさに年寄りの冷や水で枯れることができず浅ましい限りです。(花田麿公

町長も駆けつけた、楢葉町ライダー100人集結公園!!

■6月2日(土)、3日(日)に故郷の福島県楢葉町でライダーを集めたキャンプMTG開催が開催されました。バイク雑誌社主催のイベントで“鉄人ライダー賀曽利隆さん”をゲストとしてお招きし、全国から約100名のライダーが楢葉町に集まりました。楢葉町は東日本大震災から1年半の間、警戒区域となり、住民の立入りが一切制限されました。今回の会場の「天神岬スポーツ公園」は鬱蒼とした雑草が生い茂り、芝地は荒れ果て、無残な姿に変わってしまいました。しかし、2015年6月に避難指示が解除された後再び整備されました。そんな復興途上のこの地にライダーを集め福島の現状を見て欲しい、そんな思いを縁あった雑誌社の方にお話したことがキッカケで今回のイベントを実現させることが出来ました。

◆当日は絶好のキャンプ日和。久しぶりにサイトいっぱいに張られたテントを見て、胸が熱くなりました。賀曽利さんの音頭で早々に焚火をスタート。楢葉町若手有志による「すいとん」が振る舞われ、役場職員のライダーも駆け付けてくれました。そして、そこにはなんと楢葉町長の姿も。聞けばこのイベントに合わせ大型自動二輪免許を取得されたそうです。

◆缶ビール片手に焚火の周りで賀曽利さんと談笑している町長の何とも楽しそうな顔が、とても印象に残りました。皆さんも焚火を囲んで呑んで騒いで、とても楽しそうでした。キャンプ場がこれ程賑やかになったのは、震災後初めてではないでしょうか。そんな皆さんの笑顔を見て今回開催出来てホントに良かった、としみじみ思いました。賀曽利さんはいつものように(?)焚火の脇でごろ寝で朝を迎えたようです。

◆翌日は解散後、「被災地爪痕ツアー」と称し、約30台のバイクを連ね被災地を案内しました。今回特に見てほしかったのが、国道6号線のバイク通行止め箇所。福島第一原発の南北約14kmの区間は放射線量や防犯上の理由から未だにバイクでの通行が出来ません。また、桜並木で有名な「夜の森」地区も回りました。ここは帰還困難区域とバリケードで区切られ、住民の帰還見通しが立っていない場所です。原発事故によるそれら現実の姿を是非見て頂きたかったのです。

◆参加者の多くは楢葉町はもとより、震災後の福島県を初めて訪れるという方が殆どでした。中には被災地をバイクで走る事に抵抗感がある、とおっしゃる方もいましたが、我々ライダーはバイクで被災地を走る事、そんな日常的な行動が何よりの復興支援となる事、そして見て感じた事を周りの方に是非とも伝えて欲しい、そんな事をお話させて頂きました。

◆今回のイベント開催にあたり、町役場の関係者はじめ、多くの方々のご協力を頂いたことを付記します。軽トラ3台分の大量の薪は地元の木材屋から提供頂きました。そして「すいとん」の振る舞いの準備のため、前日から材料の仕込みを町の若者が手伝ってくれました。そんな方々の協力で今回のイベントが開催出来たことが本当に嬉しく思いました。また来年以降もキャンプイベントが開催出来るよう、そして今後も地域復興の一助となる活動が出来ればと考えております。(福島県楢葉町 渡辺哲

鳥海山こそ、私の一名山

■新緑のブナ林に囲まれた林道を進むと、やがて木の間から二等辺三角形の鳥海山の端正な山容が五月晴れの空にそびえ、いやが上にも気持ちが高まる。地平線通信457号の巻頭に鳥海山矢島口の様子が詳しく書かれていたので、ついお便りをしたくなりました。私もメモをたどると鳥海山の初登から今年が丁度50年目になる。勤めて2年目に山のベテランに誘われて登ったのが最初。以来、各登山口から登り、一日二登や吹浦海岸から矢島への山頂越えなどを試み、100回以上登っているが、もっぱら“わかりやすい登山”(451号参照)を旨としてる。

◆自宅からのアクセスの良さでどうしても矢島口(祓川コース)が多くなる。5月から6月中旬のこのコースはスキーの大ゲレンデとなり、特に5月の連休中は全国から山スキー愛好者が集まり、祓川の駐車場は大混雑。この駐車場から山頂が見え、どこでも好きなように登れるし、下降も好きな斜面が選べるのでスキーの上級者でなくとも十分楽しめる。山頂と駐車場が一本のシュプールでつながり、途中に登り返しや、樹林帯がないのが鳥海山スキーの魅力だ。

◆以前はシールを付けて2時間半で登ったが、最近は3時間を超えるようになってしまった。しかし、まだ動けるので、天気予報に晴マークが出るとじっとしてはいられない。昨日も最高の天気のもとで一滑り楽しんだ。「日本百名山」を2度登り、よくどこの山が一番良かったかと聞かれることがある。それまでは考えたこともなかったが、今では私の一名山は「鳥海山です」と答えることにしている。実際、百名山の中でもその名に違わない名山だと思う。

◆今年は雪が多く(消えるのがおそい?)まだまだスキーが楽しめる。雪が消えると様々な花が見られるが、花は矢島口より鉾立口や酒田口の方が良さそうです。ぜひお越し下さい。(秋田県 年金生活者 小泉秀樹

台湾月琴と津軽三味線のケミストリー修行、楽しみは朝食!!

■台湾の人々の暮らしと音楽が知りたくて、初めてこの地を訪れてから早9年。とある港町での路上演奏がきっかけで、巡り合えた台湾を代表する音楽家「陳明章」老師(60)とのご縁に支えられ、この5年間、台湾月琴と津軽三味線のお互いの伝統楽器の魅力を伝えるべく「友好音楽交流演奏会」の開催を台北と青森双方で重ねてきた。3年前から僕は陳老師率いるバンド「福爾摩沙淡水走唱團」に新メンバーとして加入し、ツアー演奏や録音作業のため、年数回の訪台の度に老師の家(妻と9歳の息子の家族構成)に延べ150日ほど居候させて頂いており、陳老師一家には本当の家族のような絆を感じている。

◆クラシックやフォークに始まり、台湾に伝わる北管音楽、南管音楽、月琴音楽、台湾歌劇、原住民音楽などのあらゆる流派を学び尽くし、これからの台湾音楽を牽引する正真正銘のマイスターである陳老師には、生粋の台湾人の血が流れている。彼と共に過ごす日常生活には、常に何処か気楽で、“決してブレない人生を謳歌する価値観”と、音楽家故の“真剣に台湾の未来を見据える眼差し”が交錯していて、僕にとって老師は音楽以前に人生のあらゆることを学ばせて貰う台湾のかけがえのない恩師だ。

◆台湾の朝。母息子が出掛けるや否や「建太、今日は何が食べたい気分だ? 赤肉麺か? 排骨麺か? それとも搾菜麺か?」。淹れたての高山茶を啜りながら老師は決まって僕に尋ねる。老師には日替わりの“お気に入り朝食ルーティン”があって、僕がそのルーレット役を毎朝務めているのだ。会話はもっぱらブロークンな英語である。鼻歌混じりのドライブで街に繰り出すと、そこは400年前から栄え続ける市場のあるローカルエリア。老師の生まれ育った台北北部の“北投”は比較的緑の多い温泉地として知られている。

◆様々な食べ物の混じり合った独特な香りが充満する朝の市場は、威勢の良い売り声が飛び交っていてとても賑やかだ。パッチワークのように敷き詰められた果物や、吊るされている家鴨を横目に路地を歩くと沢山の飲食店が軒を連ねる。共働きの多い台湾人の外食率は高く、どのお店も朝から様々な客層で繁盛している。

◆数ある朝食シリーズのなかでとりわけ僕のお気に入りは油飯の店だ。油飯とは餅米を豚肉、干し椎茸、干し海老、揚げ葱で炊き上げたおこわで台湾で人気の朝食メニューなのだが、老師は毎回赤肉麺と青菜痩肉湯に厚揚げと煮玉子を注文する。それぞれの小ぶりの椀に注がれた豚肉麺と野菜のスープ。どちらのスープも透明で大蒜と生姜と干し海老が効いているも微妙な味の違いがある。日本人の僕の舌には、一口目はとても薄く感じる。

◆なので、そぼろ肉のタレのかかった厚揚げや煮玉子に交互に箸を運びながら食べ進めてゆく。すると、さっき迄薄いと感じていた感覚は消え去り、優しい味付けのスープの向こう側から何とも言えぬ旨味が湧き出て来るようになり、結局毎回最後に飲み干す頃にはずーっとスープにしがみついていたい程の名残惜しさに包まれている。この味覚の逆算の発想は、一口目に勝負をかける近頃の日本のラーメン店の味に慣れ親しんでいる僕の舌に衝撃的な感動を与えてくれた。

◆勿論、この手の美味しさは氷山の一角で、骨付き豚肉の唐揚げの入った排骨麺には半熟のピータンが、魚出汁の効いたビーフンには牡蠣と海老の唐揚げが、牡蠣の煮麺には豚のホルモンが…。という具合に、日本でも昭和の食堂によく見受けられた一皿50〜100円程のお惣菜文化が台湾の朝食の現場では健在で、飽きることのない主役勢の脇を相性抜群の小皿陣がしっかりと固め「食べ合わせの美学」の絶妙な演出を醸し出している。

◆台湾ブームで台湾料理の美味しさは周知の事実となった昨今、台湾人の一日の活力を満たし続けるローカル朝食には、まだまだ未知なる美味しい発見が隠されているかもしれない。(車谷建太 津軽三味線弾き)

★告知★

8月に恒例の音楽祭が開催されます。どちらも東京から遠いですが、素晴らしい内容ですので、もしお近くに来る際にはお立ち寄りお待ちしています!

◎8/6 「第3回 日本台湾友好音楽祭」
 会場  弘前ヒロロ3階 イベントスペース
    14:00〜16:00

◎8/27 「台湾月琴民謡祭」
 会場 北投温泉博物館
    夕刻より


先月号の発送請負人

■地平線通信457号(2017年5月号)は5月10日に印刷、封入作業を行い、翌11日、郵便局に託しました。今回も多くの仲間が駆けつけてくれました。汗をかいてくれたのは以下の方々です。
 森井祐介 加藤千晶 小石和男 兵頭渉 坪井伸吾 伊藤里香 前田庄司 下川知恵 杉山貴章 江本嘉伸 中嶋敦子 福田晴子 松澤亮 武田力
   作業を終えて、いつもの「北京」で餃子やラーメンを味わいながら語り合いました。作業には間に合わず、北京だけ参加の人も大歓迎されました。皆さん、ありがとうございました。


今月の窓

「シェーン・カムバック!」
地平線初参加、報告者後輩から熱いひとこと

■遠く北の大地から憧れ続けてきた地平線会議の報告会に、ようやく参加することができた。大学入学以来30年間を過ごした北海道から東京に移住して3年目の春のことである。もともとその気があっただけに、いづれ地平線会議に出席することになるのは、ただ時間の問題にすぎなかったのではあるが、デビューとなる今回のきっかけは思わぬところからやってきた。報告者である樋口和生さんから「ランタン谷から帰国したばかりの貞兼綾子さんが会いたがっているので来ないか?」とお誘いのメールをいただいたのである。貞兼さんのご要望とあっては馳せ参じない訳にはいかない。ふたつ返事で「行く」と応えた。

◆東京に出てきてすぐの2015年4月末にネパールで大地震が発生した。「ランタン村が壊滅した」とのニュースを受けて、その実態を把握しようと、ヒマラヤの氷河を研究するコミュニティメンバーがそれぞれ独自に初動調査を開始していた。「北大にいればすぐにでも現地へ飛んで調査を開始できたのに」と、東京転職の我が決断を苦々しく思った瞬間でもあった。

◆指をくわえてただ見ているわけにも行かず、新しい職場への順応・整理もそこそこに、自分なりにできることはないかとネット情報や研究仲間と情報交換にいそしんだ。大まかな状況が見えてくるにつれて、ランタン村を壊滅させた驚異的な自然現象の正体がいったい何なのか、という謎は逆に深まるばかり。個別の研究者の動きを横につなげて協力していく体制作りの必要性を感じ始めていた。

◆そんな折り、いち早くランタン谷に入って支援を開始していた貞兼さんと樋口さんから、現場の実態を報告する会を開催したいので協力してくれないか、との相談を受けることとなった。ちなみに貞兼さんと樋口さんは、ランタンプランというNGO活動を通じて旧知の仲である。都心にキャンパスを構える私大の利点はこういう時にこそ発揮すべきと考えて、転任したての大学の事情もよくわからぬまま、当局にかけあってなんとか報告会の会場を確保することができた。

◆この会合は、最終的には雪氷学会が主催者となって開催され、初期の調査活動で得られた情報をとりまとめるとともに、一般の方々とも共有し、今後の研究・調査・復興対策にむけた方向性を検討する場として活用された。

◆さて、樋口さんと私は同じ北大山岳部出身。入部1年目の冬合宿にリーダーとして連れて行ってもらって以来のつきあいである。北大山岳部では、何年在籍していようとも、学部を卒業するまで現役部員扱いされる。インドヒマラヤへの遠征登山やアジアを放浪をしてきた樋口さんは、休学や留年を重ねて6年生となっていたが、それでも冬合宿にかりだされて1年生の面倒をみていたという訳である。現役6年目というのは北大山岳部ではそこそこ普通の存在ではあったのだが、1年生の私には、ヒマラヤ遠征と放浪帰りの大先輩は雲の上の憧れの存在であった。

◆『隊長はつらいよ・フーテンの和(カズ)、ヒマラヤ、南極流れ旅』。講演者を紹介する「「地平線通信457号」の予告記事を読んだ瞬間、「やられた!」と唸ってしまった。北大山岳部30年来のつきあいの中でも、樋口さんをそのように評した話はとんと聞いたことがない。しかしこのフレーズには妙にしっくりくる響きがあって、すっかり納得してしまったのである。

◆「ネクタイを締めての勤め人はこれまでに2年くらい」と今回の報告で自ら振り返っていたように、当人の経歴は、まさに風に吹かれるがごとく、通常の社会生活からはややはみ出しながらの人生であった。それでも結局は、国家事業である日本南極地域観測隊の越冬隊長を務めるほどになるのだから、どこか一筋通ったものがないとそうできるものではない。世間並みの肩書きにはよらない本物の信頼感、そのような兄貴肌の人柄がどのように醸成されていったのかを改めて振り返ることができる、とてもよい講演であったと思う。その意味で「フーテンの和(カズ)」のキャッチフレーズは、格好の前振りとなっていたのであった。

◆北大山岳部は、1984年にダウラギリI冬季初登頂という一大事業を終えた後、時代の趨勢に沿うかのように、ライトエクスペディションへと海外遠征登山のスタイルを変えていく。長大なキャラバン隊を擁した旧来の遠征登山スタイルからの脱却過程の中核には、常に樋口さんの姿があった。海外遠征登山が一息ついて、樋口さんが次に取り組んだのが、高木晴光さんとともに立ち上げた野外活動支援団体「ねおす」である。

◆これもまた、自然体験型環境プログラムやエコツーリズムを本格的に具現化した先駆け的な活動であった。私は、時を同じくして大学教員としてのキャリアを開始し、北海道アウトドア資格制度の人材を育成する講座を大学院の中のコースで始めたばかりの時期でもあった。民間NPOのねおすの活動は、大学院教育プログラムの中でもおおいに参考にさせていただいたし、相互に協力もさせていただいた。

◆職業としての社会的認知度がまだ低かった頃から山岳ガイドの世界に飛び込み、志を同じくする若手のガイドらを束ねて協会を設立したり、本業の傍らで雪崩事故を防止する啓発活動を開始したりと、時代を先取りしたそれらの活動は、20年あまりを経た現在まで地道に根を張り続け、アウトドア界にしっかり定着するに至っている。

◆特に、阿部幹雄さんと一緒に始めた雪崩事故防止の活動は、雪崩ビーコンの普及に貢献しただけでなく、世界の雪崩事故防止活動の最先端技術を日本に導入することにつながり、さらには雪氷学会をも動かして、専門家とガイドからなる雪氷災害調査チームの設立を果たしている。チームが始動した直後の2007年11月に北海道十勝連峰で日本山岳会の雪崩事故が発生し、できたてホヤホヤのチームが調査のために出動する事態となった。世間の注目が集まる中で的確に陣頭指揮をとる樋口さんの姿に、このチームの真骨頂と可能性の広がりを思い知らされた。

◆実はこの頃、樋口さんは、積年の夢である南極にむけて水面下で活動を続けていた。「南極観測隊の安全管理は危機的状態にある」。観測隊を統括する国立極地研究所上層部のそうした声を聞いて「これまでの自分の経験を生かせば貢献できるかもしれない」と思ったのが夢実現への突破口であったという。雪氷災害調査チームが始動した翌年には、記念すべき第50次南極観測隊のフィールドアシスタントとしての役職を勝ち取って、1年半にわたる昭和基地での越冬の任に赴くこととなった。折しも、「宗谷」「ふじ」に継ぐ3代目砕氷船「しらせ」が第49次隊の輸送を最後に退役し、その後継となるべき次期砕氷船(のちの「2代目しらせ」)の就航が間に合わなかったために、オーストラリアの砕氷船をチャーターして昭和基地入りするという困難な時期に相当していた。

◆ようやく南極への切符を手にした樋口さんは、観測隊内でもただのフィールドアシスタントではなかった。半世紀にわたって連綿と続けられてきた南極観測ではあるが、その確固たる継続性と引き替えに硬直化した慣例主義がはびこってしまっていた。特に野外装備の更新はまともに再検討されることなく、登山界ではすっかり時代遅れとなったナイロン製のヤッケやオーバーズボンなどが未だに使い続けられていたのである。

◆心あるフィールド研究者は、信頼する最新装備を独自に持ち込むことで自らの命を守っていた。樋口さんは、たまたま同時にフィールドアシスタントとして採用された阿部さんと協力して、旧態依然とした観測隊事業部を説得し、個々の隊員のための装備を刷新させることに成功する。デジタル化やIT化が進む中で、遙か南極の現地情報も即座に世界中に発信されるようになった。

◆観測基地での生活の様子や隊員たちの振る舞いが各種メディアに登場する機会も増えている。その中で、各種アウトドアメーカーがしのぎを削るファッショナブルなアウターに身を包む観測隊員の凜々しい姿をみることができるのも、個人装備が刷新された副次的恩恵の一つであろう。

◆装備に限らず、救助技術や基本的な野外行動技術に至るまで、南極観測に必要とされるスキルを見直して訓練方法などを改善する努力を続けてきた。完璧を期すために、次の隊員公募に昭和基地から応募して、帰国からわずか半年の日本滞在を経て再び昭和基地に赴く、という気合いの入れようである。

◆先に紹介した雪氷災害調査チームには、北海道や全国でも有名な山岳ガイドが名を連ねているが、その中から、佐々木大輔さん、立本昭広さん、奈良亘さんなど、南極観測隊に参加する強者たちを次々と輩出するようになった。こうして、研究者が実施する野外活動の安全を支える役割をプロの山岳ガイドが担う道筋がつけられることになったのも、樋口さんの功績のひとつである。ついには、南極観測に関わるようになって足かけ10年目にして、樋口さん自身が越冬隊長の重役を担うこととなるのであった。

◆南極観測隊は昨年で発足60周年を迎え、すっかり安定期に入っているが、それぞれの派遣母体を背負ったサラリーマンの集合と言っても良いくらいにもなっている。隊員個人は確かに有能で情熱的でもある。けれども、決して「選ばれた特別な人々」ではなく、むしろ「任務を帯びたサラリーマン」といったほうがぴったりくるのが実情である。そのために噴出する問題も多い。

◆「また南極に行きたい。ただし隊長でなければ」。他分野の専門家集団とのつきあいの中でプロジェクトを進めることに精通しているはずの樋口さんにしてこの言である。極地研究の最前線である昭和基地は、近代設備が充実しつつあるのと裏腹に、むしろそのような設備があってかろうじて活動を維持している側面をより強めている状況にあるといってよい。一人一人が自然と対峙しながら生き抜く力を磨いてきた「山ヤ」の時代はすでに過去のものとなってしまった。そんな時代だからこそ、樋口さんのようなリーダーが求められたのだろうとも思う。

◆越冬隊長の重責を終えられた今現在は、確かに「男はつらいよ」の寅さんの心境であろうが、そこに至るまでのはみ出し人生の実態は、むしろ伊丹十三監督の映画「タンポポ」に登場するラーメン版「シェーン」ことゴロー(山崎努)さながらの、リフォーマーかつイノベーターであったといえるだろう。「お兄ちゃん、どこいくの?」「シェーン・カムバック!」と叫ぶ子女を背中に、フーテンの和(カズ)が次に目指すのは果たしてどこなのか、これからのご活躍にも大いに注目していきたいものだと思っている。(第34・47・53次南極観測隊員 法政大学准教授 澤柿教伸 さわがき・たかのぶ)


あとがき

■今月もハラハラしながらの通信制作でした。原稿は黙って入ってくるものではなく、書き手と何度かやりとりし、書き上げてもらった後もよりよきものにするため、いろいろ相談しながらの作業です。でも、なんとかやりとげた時には、心底ほっとするのです。

◆ダライ・ラマに謁見した中村保さんの原稿、カシミールの旅の貴重な記録の部分は、紙数の都合で掲載できなかったことをお断りします。インドから帰ったばかりというのに中村さん、4日から17日まで四川省に向かわれた。四川大学での講演、「幻の山」 尼色峨 (5546m)探査がテーマ。82才、見習うもの大きいです。

◆樋口和生さんの報告会に関連して原稿を書いてくれた澤柿教伸さんの登場はありがたかった。実は、2002年国際山岳年の時、若手として私たちの国際山岳年日本委員会(江本が事務局長だった)を支えてくれた人です。最近、東京に移り、今回初めて地平線会議に参加してくれました。それにしても樋口和生さんはじめ、貞兼綾子さん人脈のすごいこと! 大げさでなく、日本という国の最もいい質を静かに紡ぎだしてきた人、ですね。今月の地平線報告会、その貞兼さん本人の語りを是非聞いてください。

◆地平線通信の購読希望が静かに増えつつあります。なので、ふるくからの人でも最近音沙汰ない人はゆっくり発送停止とさせてもらいます。継続したい方は何かの意思表示を。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ランタンの希望のひかり

  • 6月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「行くたびに新たな展望が見えてくるのよ」と言うのは、チベット学者の貞兼綾子さん。ネパール中央部、ヒマラヤ山麓の小村、ランタン村に、この30年通ってきました。電気も無かった村に、小水力発電による電力自給システムを導入するなど、援助ばかりに頼らない自立支援《ランタンプラン》を続けています。

'15年4月25日におきたネパール大震災で、村は雪崩で人口の3割を失う被害を受け、一時期はカトマンズへの全村避難を強いられました。「外へ出たことがあらためて“ランタン文化”への帰属意識を高め、村の復興に向けた動機になっているみたい」と貞兼さん。

復興を急ぐあまり、危険なデブリ(雪崩堆積物)の上に家を建てる人も出るなど、安全面、環境面の問題は山積みではあるものの、ヒマラヤの被災地では最も早いペースで未来に向かって動き出しています。地元の伝統文化による産業復興を掲げて貞兼さんが立ち上げた“ゾモ・プロジェクト”も始動しました。

今月はこの3〜5月に2ヶ月間現地に入った貞兼さんを中心に、協力者の樋口和生さん、澤柿教伸さんを交え、現地の様子や、ランタンプランとは何かなどを報告して頂きます。


地平線通信 458号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年6月7日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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