2017年4月の地平線通信

4月の地平線通信・456号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月12日。終日雨が降り続き寒かったきのうと打って変わって晴れ。午後1時30分、都内の気温は21度まで上がった。3月から4月にかけて怒涛のような日々(陳腐な表現だが、今回はほんとにそんな感じ)が続いている。

◆3月20日、『新編 西蔵漂泊』の出版を記念しての講演会と出版記念パーティーをやってもらった。元となる本が23年前の出版なので、講演と言っても新たに読み直して2時間の内容を構築した。それは、明治、大正、昭和という時代を考えることでもあった。登場する10人の旅人の個性の面白さもあり、自分で書いたものなのに、僭越にも、この本は多くの日本人に読まれるべき、と感じた。

◆同じ日、夕方に始まった「『新編 西蔵漂泊』の出版を記念する会」は、長く地平線会議を支え続けている丸山純、武田力らの渾身の“作品”だった。この日のためにどれほどの発想と熱量が注ぎ込まれたことか。私は丸山君の指示通りにしただけである。山岳会関係者など地平線会議のことをまったく知らない人たちは10才に満たない少年少女たちが活躍する姿にびっくりしたであろう。『新編 西蔵漂泊』の出版記念と言いながら「地平線会議」という挑戦がどのように成長してきたか、中途総括の趣きがあった。

◆24日は、455回の地平線報告会。ようやく地平線に登場してくれた花谷泰広君の話は充実していた。まさに、話すべき時に話してもらった、との感慨を持った。地平線では「誰に」報告者をお願いするか、がいつも大事なのだが、加えて「いつ」も大きな要素なのである。

◆翌25日の土曜日、朝から那須塩原駅に向かった。これから春山訓練に入る高校山岳部の生徒たちに「教科」の時間に話をすることになっている。テーマは自由に決めてほしい、という。山岳部がどうして素晴らしいか、というのが私が決めたテーマだった。幼い頃からコンピューターゲームを覚え、バーチャル世界を当たり前として育ってきた若者たちが、コンクリートの世界を離れ、土を踏み、風の音を聞き、ありとあらゆる自然の声に耳をすますことのすばらしさ、である。

◆自身の山岳部時代のモノクロ写真、チョモランマや極地の写真に続いて通い続けたモンゴルの大自然の人と風景をじっくり見てもらった。最後、思いがけず万雷の拍手が湧き起こり、それが長く続いたことにびっくりした。私の気持ちは高校生たちに伝わったのだ、と嬉しかった。

◆1日おいた27日の月曜日、今度は北陸新幹線に乗った。大宮の次は長野、次には富山に着いて富山地鉄に乗り換える。目指す立山の国立登山研修所に着くと、顧問のWさんから高校生たちの講演へのお礼を言われた。栃木の教員だった彼から頼まれての講演だったのだ。「お礼を言った矢先の話ですみませんが……」と彼は口調を変えた。「たった今、その高校生の何人かが雪崩に埋まった、との情報が入りまして……」。ええっ!? 私は呆然とした。

◆その後のことは、すでに皆さんもご存知だろう。栃木県高校体育連盟の春山安全登山講習会には、57人の高校山岳部員(いずれも1、2年生)が参加、那須温泉ファミリースキー場にテントを張り、3日間の合宿をしていた。3日目の27日は荒天で計画していた登山を中止し、ラッセル訓練に切り替えた矢先、雪崩が発生、7人の高校生と先生1人が帰らぬ人となった。安全登山のための講習会が最悪の事態を引き起こしてしまったのだ。あまりのことに言葉を失った。私の話をあれほど熱心に聞いてくれた少年たちが、今はいないなんて。

◆立山からはその日のうちに帰京した。いま、自分にできることは何か自問したが思いつかなかった。生徒も先生も私のことはしっかり覚えているだろうが、私自身は個人としては誰も知らない。当面じっと推移を見守ることしかできない、と悟った。私のことを知った新聞社から電話が来たが、書くべきことは自分で書きたい、と取材は丁寧にお断りした。

◆高校山岳部の生徒たちは人間的に優れた人が多い、と聞いている。未来を持つ若人のいのちを守れなかった、という点で山岳部の素晴らしさを強調した私にも大人としてのなんらかの責任はあるであろう。それをどう果たせるのか、考えているが、簡単な答えはない。

◆4月に入り、カナダ、モンゴルからの客が相次ぎ、慌ただしい日が続いている。咲き乱れる桜に感激する異国からの友人を案内しながらことしの花を見ることができず、冷たい雪に埋まった16才のいのちを考える。(江本嘉伸


先月の報告会から

登山を文化にしたい!

花谷泰広

2017年3月24日 新宿区スポーツセンター

■第455回の報告者は「江本さんから何度か声をかけられたけどまだ話せる資格はないと思って断り続けてきた」というアルパインクライマーであり山岳ガイドの花谷泰広さん。会場には母校信州大学山岳部の先輩や報告会参加は初めてという山関係のひとたちも加わって席が埋められた。パソコンの準備をしながら伸びをしている花谷さんに話かけると、「今日は緊張してるんですよ」という。

◆以前から地平線の報告はこれ以上ないタイミングで行われることがあると思っているのだけれど、今回も同様だ。江本さんから「花谷くんの報告会レポートを書いて」と携帯が鳴ったのは2月の終わりで、ウワサに聞いていた4月からの山小屋経営のことを思い出した。先鋭的な山登りで新しい挑戦をしつづけていくのは難しい。リスクの高い領域で、年を経ていくなかで、自分自身が心の底から納得できる対象を見出し続けられるのは突出した一握りなのではないかと思う。

◆40歳になった花谷さんが4月から七丈小屋の指定管理者になると聞いたとき、今までとは異なる新たな挑戦ではないかと驚いた。ふもとから1600mも標高差のある小屋で、管理や運営の経験がないにもかかわらずこの選択は、軸を変えた真っ向勝負の挑戦に見えるが果たしてどうなんだろう。今聞いておくべき話だと思った。花谷さん自身も山小屋運営についてほかではまだ詳しく語っていないはずだ。

◆報告は期待どおりというべきか、甲斐駒ケ岳黒戸尾根にある七丈小屋の指定管理者となるために会社を作り、社長になったというところからはじまった。「設立した会社のミッションは『登山文化の継承と発展に貢献して多くの人々が登山に親しめるようにすること』。今回は自己表現としてのクライミングの話はしません。もともと登山に対しては劣等感の固まりだったんです」。花谷さんから意外な言葉が続いた。

◆大学山岳部では3年下に横山勝丘さんら強い後輩がおり、上には馬目弘仁さんがいた。卒業して出会ったのが佐藤裕介さん。いずれもピオレドール賞を受賞した世界的にも屈指のアルパインクライマーだ。「彼らにフィジカルでは負けていなかったが、メンタルが違った」。植村直己に憧れて小学校の卒業文集にはすでにカンチェンジュンガに登りたいなど固有名詞を上げるほどだったというが「山野井さんは小学校の卒業文集にすでに無酸素でエベレストに登ると書いて、さらに上をいっていたんです」。

◆花谷さんにとってもうひとつの大きな軸である、若者をヒマラヤ登山へ導く「ヒマラヤキャンプ」をはじめたきっかけは、20歳のときに参加した信州大学のラトナチュリ峰遠征だった。現場では散々で、荷上げも一切できなかったのに頂上に立たせてもらう。くやしさを味わった最初の経験だったが、純粋に大きな山の頂に立てたことがとてもうれしかった。今の若いひとたちは連れて行ってもらう機会すら減っている。ならば、自分がはじめようと思った。

◆ヒマラヤキャンプで重視しているのは、どれだけ歩けるかと生活技術。それは自分の経験が基にある。大学山岳部ではとにかくいっぱい歩いた。最長は30泊31日の南アルプス合宿。基礎ができていれば応用が効く。山で重要なのは、この二つだと思っている。ヒマラヤ登山の師匠は信大山岳部の先輩である田辺治さん。極地法のエキスパートで、シェルパとの交渉など大勢をまとめることに長けた人だったけれど、一方でシンプルなアルパインスタイルはあまりやらなかった。最後にそれをやって、ダウラギリの雪崩で消えてしまったのかもしれない。

◆田辺さんとは日本山岳会の東海支部で冬のローツェ南壁にも行った。このとき、とても強い2人のシェルパと出会った。そのひとりがダワツェリンで、だれよりもフィジカルもメンタルも強かった。落石にビビっていると「死ぬときは死ぬんだ。神様しかしらないのだから恐れるな」と言われたが、本当に危ない場所ではさっさと引き返すことのできる良いクライマーだった。彼に「お前みたいに強いヤツをみたことがないから有名な登山家になれるはずだ」というと、山は金を稼ぐために行くだけだと言い切られた。当時の自分には実力以上の野心があり、世界的クライマーになりたいと思い、そういう目で世界を見ていた。

◆その奢った気持ちへの大きなしっぺ返しが28歳のメルー峰だった。ケガをして這々の体で帰ってきたが、この事故がなかったらその後の登山で自分は死んでいただろう。大して登れもしないのにそんな厳しい山を登っていていいのか、と突きつけられた気がした。でも、あきらめられなかった。そして2年後の30歳のとき再挑戦して登ることができた。

◆山頂で隊長の馬目さんと自分は大泣きした。馬目さんはメルー4回目。自分は2回目で大けがしての再挑戦だった。通常の登山では山頂は通過点で、感極まったことはこのときしかない。最後に岩を迂回したので登山自体は失敗だと思っているが、そのときは頂上が必要だった。なんとしても登って呪縛から解き放たれたかった。これを機に自分の登り方が変わった。30になって自分が見えてきたような気がした。

◆30歳でガイドもはじめた。昔は山岳ガイドと山小屋仕事だけはしないと思っていた。山岳ガイドは終わったクライマーの仕事、山小屋はどこにも行けない仕事だからだ。しかし、メルーで一緒だった岡田さんと黒田さんは当時すでにガイドで、自分の登山もできる。彼らを見てやってみようと思った。短期間でお金を稼ぎ、ほかは自分の登山に集中できる。今なら若いクライマーに勧めてもいい仕事だと思っている。富士山の強力(ごうりき)もやった。1回10万円。夏のガイドを含めると富士山には年間50日通った。

◆実はローツェの後、田辺さんから次の遠征に誘われていたが、メルーにどうしても行きたかったので裏切った。極地法から離れたいという気持ちもあった。それから10年たってからふたたび田辺さんとネムジュン峰の遠征へ行き、トップでルートを拓けるようになった自分の成長を感じて感慨深かった。その後、谷口ケイさんとアラスカに遠征した。

◆いままででもっとも心と体が一致していたのは2012年だ。パフォーマンスと気持ちが最高点に達したときだった。この年、フィッツロイとキャシャール峰に登った。フィッツロイはジャンボ(横山勝丘)がパートナーだったので登ることができた。キャシャール峰ではピオレドール賞を受賞した。

◆このときに、はじめて登山は出会いがあって登れるのだと感じた。自分の心と体が最高潮に達しているときにキャシャールと出会い、そこへ馬目さんと青木さんと一緒に行くことができた。現場のコンディションも良く、1週間天気が崩れなかったのも奇跡的だった。全てが味方をしてくれたと感じた。山は思いだけではなくて、いろいろなものが重ならないと登れないんだと36歳にしてようやく理解できた。2012年以降は、クライマーとしてそれほどコミットして登ってはいない。

◆2015年からはじめたヒマラヤキャンプは、ヒマラヤ登山の間口を広げたいと考えてやっている。行くからにはネパール政府が発表している未踏峰や未踏ルートなど情報が少ないところに行く。記念行事的な単発ではなく長く続けて連鎖を見たいので、自分のプロジェクトというよりは継続していけるシステムにしたいと考えている。

◆1回目の2015年は信州大学の後輩を連れて行った。2014年にネパール政府が解放した104座の未踏峰から選んだが、2週間前にネパールのクライマーに登られてしまったので第二登。去年のロールワリンカンは初登頂だった。ちょっと難しいかなと思ったがいつまでも未踏で登っているとはいえないので、ここを選んだ。

◆ヒマラヤキャンプでは「自分が行きたい山に行きたいヤツと行く」というところはブレないようにしている。履歴書を送ってもらうが書類だけではわからないので、選考登山をする。黒戸尾根を登って体力をみる。歩き方をみれば歩けるかどうかわかる。技術はあとづけでもいいが、体力と生活技術は長く歩いたり何日もテント生活をしていないと身に付かないのでそこを見る。

◆山の中で一緒に生活することも大事にした。日帰りの登山を繰り返しても仲良くならない。そして、リスク管理のためには人のスキルを信用しない。人間は必ずミスをする。一番信用していないのは自分。できるだけ客観的に自分を見るようにしている。現場では映像も撮る。山を登らない人にもヒマラヤの世界を見てもらいたいと思っている。日本人のほとんどは、ヒマラヤ=エベレスト。いろいろな山が沢山あるんだということを含めて伝えていきたい。本来は今ヒマラヤキャンプの第三回がはじまっているはずだが、今回はそこまでの気力がなく集めなかった。次は6月頃から募集をはじめて夏から秋にトレーニングし来年の3〜4月に遠征する予定。

◆現在は七丈小屋運営のことを中心に考えている。先代の管理人はひとりで20年間小屋を守ってきた。電気も水もなかったのをこつこつと快適にした。3年前に先代から誰かやる人がいないかと相談を受けたが、引き継ぐ人が現れなかった。理由のひとつは通年営業。1-2月は登山者がほとんどいないのに常駐しているので、それが足かせになっていた。2年前にまだ現れないと聞いたとき、ここに自分の拠点ができたら、これほど面白いものはないと思ってしまい、僕やりますと手を挙げた。

◆公的な指定管理者制度なので、公募したところほかに2人手を上げた。すでに山小屋をやっている人たちだった。普通の行政は、小屋経営の経験がある人を選ぶが、北杜市は僕を選んでくれた。唯一僕が通年やりますと手を上げたからかもしれない。しかし、自分がここに釘付けになるわけにもいかないので、パートナーを得て、先代の管理人も1年はいてくれることになった。

◆準備するなかで大変なことがようやくわかってきた。人に話すと今までわかっていなかったのかと笑われる。いま何が一番大変かというと許認可などで、食品衛生責任者や旅館業、消防検査などいろいろ資格をとらねばならない。先代の管理人が4月から従業員になるので現時点では法律的にはクリアしているが、そんな準備もしなければならない。

◆甲斐駒が好き。里山からはじまって、山岳信仰開山から200年の歴史があり、アルピニズムもある。山の要素全てがそろっている。秋は松茸がいっぱいとれる。これほどひとつの山で全てが味わえるところはあまりない。そこを発信したい。小屋の運営そのものは大変だけれど、七丈小屋が赤字になることなく、お客さんが来てくれると思っている。むしろそこが目的ではなくて、山小屋に手を出した一番の核心は「多くの人々が山に親しむように」すること。

◆今の登山人口を支えているのは中高年。今後、それらの人たちがいなくなると、廃業する小屋やショップがでてくる。それに対してまだ山の業界はなにもしていない。多くの人に山登りに興味を持ってもらうのが大事。山に関心のない人たちも山に行くようなシステムを作らねばならない。北杜市には瑞牆山、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳という魅力的な山々がある。それらを使ってやってみたい。自分自身小屋は素人だが、ガイドのキャラクターがあり、登山家というキャラクターがある。山小屋をキーにして、そこに広がる豊かなフィールドを使った取り組みをすることで、首都圏から2時間でアクティビティーができる場を提供でき、北杜市の活性化にも繋がる。

◆北杜市の自然は区分が別れる。里山、低山、2000mくらいの山があって、森林限界を超える山がある。こういう情報すら一般の人は知らない。里山のエリアは登山靴もいらない雨具もいらない地図もいらない散策路を歩けばいい。そこから先は低山エリア。登山靴も雨具もあったほうがいいと段階を踏んで行く。中級山岳エリアは一歩進めて、必要なスキルで区切る。さらにステップアップしたければ、情報を出して技術講習でお金をもらおうと考えている。

◆日本はいま、登山人口800万人くらいと言われる。将来は二人に一人で5000万人くらいに増えてもいい。山のふもとで遊んでもいいし、山頂にいかなくてもいいし、渓谷道で遊んでもいい。国土の7割が山。これだけ身近だったら、もっと入っていいはずだ。

◆小さいときは六甲山のふもとに暮らし、山と町の境目が少なかった。1時間程度歩いておむすびたべて帰ってくるというところから自分の山登りははじまった。今でも、山登りに対して抱いている感情は、当時とあまり変わっていない気がしている。

◆「山小屋のことを考えると次から次へとアイデアが湧いてきて」という花谷さん。今回の報告では、先鋭的クライマーでもある花谷さんが40歳という油の乗った年齢で既にクライマーとしての自分自身を詳細に振り返り、自ら区切りをつけていることを初めて知って驚いた。

◆一方、それができていればこそ、次なる大きな目標である小屋の経営やヒマラヤキャンプを含めた社会のシステム作りに邁進できるのかもしれない。小屋経営とシステム作りは大変であることに違いはないと思うけれど、とにかく楽しそうだ。(恩田真砂美


報告者のひとこと

語り忘れたこと

■もうずいぶん前から江本さんに報告会で話をしないかと誘われていましたが、自分にはまだその資格はないと思っていたので、ずるずると月日が流れてしまいました。地平線会議はホンモノの行動者、表現者が集う場所だと思っています。そんな場所で話をすることは、僕はまだ早いとずっと思っていました。ところが昨年夏に日本山岳会のイベントで江本さんにお会いした時は、今だからこそ話をさせてもらいたいと思ったのです。ようやく自分が進むべき方向が見えてきたからかもしれません。

◆柄にもなく、何となくいつもよりも緊張して話を始めましたが、話しだしたら本当に気持ちよく、自分の思いがスラスラと出てきました。皆さんが少し前のめりになりながら話を聞いてくれているのがよく分かったし、何と言っても気持ちを分かってくれるだろうという安心感がありました。150分という時間は長すぎると思いましたが、あっという間でした。本当にありがとうござました。考えてみればいい忘れていたことがあったなあと思い、ここに残そうと思います。

◆「登山文化の継承と発展に貢献し、多くの人々が登山に親しむ世の中を作る」というのが僕のミッションです。その中で、特に「継承」の部分でやらなければならないと思っていることがあります。それは江本さん前後の世代の話を聞き、それをちゃんと記録に残すということです。

◆山岳部などの組織がなくなることで、一番失われるのが先輩方の話を聞くことだと思います。この世代がやってきたこと、考えてきたこと、いい話もそうではない話も、本来ならば酒の席とかテントの中で聞く話だと思います。その機会がなくなってきている今の登山界の現状がとてもさびしいのです。大先輩方にインタビューをすることはとても責任重大だし大変なことだと思いますが、この世界で口伝がなくなってしまったら、本当に終わってしまうと思います。

◆インターネットじゃダメなのは分かっているけど、でもこれはインターネットの力を借りてできるだけ拡散させたいし(でも視覚ではなく聴覚に訴えかけるようなモノにしたい)、時にはリアルな機会で語ってもらえるような場を作りたいと思います。1979年からずっとそんな場を提供している江本さんと地平線会議は偉大です。ということで、江本さん。今度は語ってもらいますのでよろしくお願いします!(花谷泰広


地平線ポストから

ひかりの4月。東北の被災地も南の島も

■新緑が眩しい春です。のんびり日向ぼっこでもしたい所ですが、屋久島の学校では年度が終わってひと息つく暇もなく、毎日が大忙し! 毎年この時期は、異動で鹿児島へ帰る先生たちの引っ越しシーズン。業者も来るけれど、基本は自分たちで荷出しや掃除をします。「まずは○○宅、その次は○○宅……」と、軍手をして掃除セットを抱えながら教職員住宅の間を走り回るうちに、先生チームはだんだんと手際がよくなっていき、見事なチームワークを発揮するのです。新しく来られた先生の受け入れや荷入れをするころには、もうプロ並みになっています。

◆そんな風に団結して盛り上がったあとに来るお別れは、もう、本っ当〜に寂しい。港は島中から来た見送りの人でごったがえし、各校の校歌が別れを惜しむように響き渡ります。フェリーが岸からゆっくりと離れはじめると、島を出る人と見送り人とをつなぐ色とりどりの紙テープが長く長く伸びていき、やがて切れて海へ……。遠ざかっていくフェリーに人影が見えなくなるまで、ずっとずっと手を振り続けます。この時期だけ、船の汽笛は5回。「さようなら」なのか「ありがとう」なのか……。

◆島での暮らしは、出会いも別れも、本土よりはっきりと現実を突きつけられるような感覚があります。別れは辛いけれど、船が見えなくなると、もう次へ向かうんだぞーっという覚悟が決まるというか。私も3年間一緒に働いた先生方を見送った後、すぐに飛行機に飛び乗り、鹿児島、大阪経由で仙台へ。飛行機を3機乗り継いで、急ぎ足で宮城県南三陸町志津川に向かいました。

◆この春、震災のあった年に小学校へ入学した子ども達は卒業を迎えました。6年間という年月が過ぎる早さを痛感します。卒業式のDVDを見たら、女子も男子も袴姿の子が多くて驚きました。仮設住宅の集会所で、屋久島の知人に分けてもらったタンカンをしぼってジュースにしたり、自分たちで考えた卒業祝いパーティーをしたりして、仲間との時間を楽しみました。まだ先の長い復興への道、子どもの存在は何よりも頼もしいです。

◆駆け足でしたが、地平線通信でもおなじみのウィメンズアイのパン・菓子工房oui(ウィ)に立ち寄り、美味しいパンを買う事もできました。3月3日にオープンしたばかりの志津川の商店街にも行きましたが、品揃えも価格帯も観光客向けのようで、まだ住民の生活を支える場になっているようには見えません。それでも月に2回、朝6時から開催される朝市では、地域を盛り上げようと頑張っている人たちがいました。その中には、ロケットストーブで焼き芋をしながら、なじみのお客との会話を楽しむひーさん(石井洋子さん)の姿も。

◆この商店街があるのは、津波の浸水地を10m近くかさ上げした商業地域です。あちこち工事だらけで茶色い志津川の町がぐるっと見渡せますが、3階建ての防災庁舎は盛り土に囲まれ、屋上だけが視線と同じ高さに見えます。不思議というか、異様な光景です。夏休みに再び訪れる頃には、今回会った子ども達も仮設住宅を出て高台の家へ引っ越している予定です。町はどう変わっているのでしょうか。

◆さて、バタバタと島に帰ってきた私にも、翌日から新生活が待っていました。島で一番大きい学校(児童数270名くらい)から、全校児童35名の小さな小学校に異動になったのです。海と川と山に囲まれた木造校舎。赴任して最初の印象は、子ども達がよく働く!ということ。入学式のあと片付けも、普通の学校は5、6年生が中心となって動きますが、ここでは2年生以上の子たちが自分のできることを探して一生懸命に働いています。給食を食べていたら窓の外に子ザルが来たり、近くの海岸には海ガメが産卵に来たりと豊かすぎる自然の中で、きらっきらした目の子ども達と過ごす一年間が楽しみです。

◆もちろん、気になる部分もあります。島の中でも地域性の強い集落、まわりは幼い頃からの知り合いばかりなので、ものを言わなくても通じる関係が出来上がっています。何事もはっきりさせずに頭を出さないようにする文化は、島で暮らしていくために必要な術でもあるのでしょうが、きちんと自分の気持ちや考えを伝え、人の想いを受け止め、話し合えるような力も、子ども達にはつけてあげたいです。えらそうなことを言って、まずは自分からですが(笑)。

◆島をぐるっと一周する一本道を45分かけて車で通勤しているとき、私は本当に島が好きなんだなーと思います。好きな土地で好きな仕事をして暮らして行けること、とても幸せです。いまの学校には複式学級があり、私が教員になるきっかけをくれた沖縄・浜比嘉島の比嘉小学校での想いがよみがえってきます。島での生活も5年目が始まります。知り合いも増え、たくさんの人に助けられて、つながりの中で生きてゆく事のありがたさに改めて気づかされます。原点に立ち戻り、素直な自分で頑張る一年にしたいと思います。(屋久島 新垣亜美

大震災から3年目。あやさんのランタン谷現地報告

【1報】3月15日

■地平線会議のみなさまへ。あと2日したらランタン谷へ出発します。2017年ランタン谷復興支援。私に課せられたミッションは二つあります。1つは、ランタン村に2つあったお寺のうち、形をのこして倒壊したキャンチェンゴンバの再建とゾモ支援。ちなみにもう1つのお寺は、村にあった大きなお寺で、大雪崩で影も形も消えてしまいました。キャンチェンゴンバの再建は、村人の強い希望で昔のままに再現します。伝統的な建物のほぼ全てを失ってしまった今、少しでも形が残っているものを再現したいという気持ちなのでしょう。内装(壁画)を含め、復元できるよう村人と力を合わせます。着工は4月中〜下旬、完成は村の6月4日祭り(=7月27日)前の予定です。この再建の資金は、日本主要山岳6団体からのご寄金1000万円を充てる予定ですが、円がぐっと目減りしていて、ちょっと不安です。

◆もう一つのミッションについて。地平線会議では知らない人はいないくらい有名になりました、ウシとヤクのハイブリッド、「ゾモ」。この購入をめぐって、今回カトマンドゥ入りした日にちょっとショックを受けました。家畜を売るものがでてきた、というのです。大きく2つの放牧グループがありましたが、左岸を移動するゴタルーたちの多くは60代以上の高齢者です。去年のチーズ研修で指導してくださった吉田全作さんも少しあやぶんでいらしたけど、的中しました。しかし、高齢者であることが理由ではありません。私たち外の人間が悪いのです。

◆カトマンドゥ到着の日、テンバたちが会いに来てくれて、今回の支援について話し合っていた時、村の新助役がいうのです。「外国人の中には年寄りや貧しげにみえる者へ簡単に10万、20万ルピー(1円=0.89ルピー)をやってしまう。自分たちが年間通して家畜を育て放牧し、これで得られる収入の半分くらいをポンと。これではゴタルーでやって行く気力や意味を失わせてしまう。ゾモを売るというのはゴタルー(放牧専従)をやめるということだ」。

◆不用意な支援は支援ではなくなるということです。子供達は独立しホテルや茶店を経営していても、自分はゾモを飼いミルクでバターやチーズをつくり、自分の生活は自分で支える。余剰分があれば孫たちに洋服の一つも買ってやりたい。これがゴタルーのここ何年かの暮らし方でした。家畜が一頭でも増えれば、それだけ収入も増えます。

◆ランタン・コミュニティ(Langtang Management & Reconstruction Committee、以下コミュニティ)

が震災後の外からの雪崩をうつような大小の支援の洪水のなか、一番苦労したのは、その支援が偏らないことと格差を広げないこと。それゆえ、ランタンプランを含めて支援を行おうとする団体に対して、厳しい審査をしてきました。

◆導入される事物の公共性、経済効果、持続性、社会への影響などを中心に質問し、適当かどうかを判断します。去年、ランタンプランは「ランタン酪農組合」という新しいシステムを導入しました。コミュニティはこれに厳しく反応したことを思い出します。コミュニティの委員長(テンバ・ラマ、私の息子のような関係)は、これが母親代わりの私に向かっていう言葉か!?というほど厳しい質問を浴びせました。一緒に参加いただいていた吉田さんに気取られないかと思うくらい動揺しました。新しいものの導入はこの社会では非常に慎重です。かつて水力発電を導入したときもそうでした。

◆コミュニティを通した支援とは別の、先のような外国人が個人に支援することや、子供たちの教育費を出資している外国人のスポンサーが、震災後子供の家族に家やホテル建設の費用を用立てることなどは、コミュニティの関知するところではありません。わたしたちが善意のつもりで差しのべた支援がどのように活かされるのか、個人であれ団体であれ、その社会に影響するということを忘れてはならないと思います。先の例のように、彼らの潜在能力を引き出すのではなく、潰してしまいかねないこともあります。慎重に行われるべきだと考えます。

◆翻って。113戸という最小規模の社会は、かつて農業や放牧、またその労働力を維持するためのシステムが機能していました。ランタン谷が観光化を進めるなかで、その機能は失われたかにみえましたが、今、テンバたちが外からの力に対して、開かれているようでも、内に社会を存続させるための維持機能が確かに作動している。そのように思えます。

◆さて、本題。今年3年目のゾモファンドは、去年の研修の件も含め、ゴタルーと直接話し合って進めようと思います。発足した酪農組合の事業に対し、左岸のゴタルーはそういう事情もあって、夏以降チーズ作りに参加していません。右岸のゴタルーたちは年齢も若く継続的にチーズを作って酪農組合に出荷してくれました。廃業してしまったものはしかたありませんが、すこしでも続ける意志のあるものにはゾモ1頭づつ、チーズの出荷をしてくれたゴタルーには2頭づつを考えています。

◆おそらく酪農組合への非協力者にゾモをあげる必要はない、という主張がでてくると思いますが、長い目でみて放牧形態が存続することを優先したいと考えます。ゾモTシャツで支援いただいているみなさんにも同意いただけるものと思います。

◆昨日大雪のランタン谷から下山してきた立教大学山岳部OBの宮坂さんが宿に私を訪ねてきました。「もう無いと言っていたけど、最後の1ヶを売ってもらった。すごく美味しいチーズです」と。嬉しいですね。4月25日、大震災から間もなく3年目を迎えます。ランタン村では、彼らの暦に従って、5月2日に慰霊を行います。これに参加してから一度日本に戻ります。

【2報】3月17日

――明日キャンチェンへ――

■ランタン村でミッションを遂行してきます。4月初旬に一旦下山、半ばすぎにもう一度ランタン谷に入ります。しばらくネット環境から離れます。ご容赦ください。

【3報】4月5日

――下山してきました――

■ミッションの前半を終えて、4月3日カトマンドゥに帰着しました。まだ雪の残るキャンチェンから新芽が吹き始めたランタン谷の下流へ、標高でいえばたった900メートルの差。

――ランタン報告 キャンチェンゴンバ再建委員会――

◆前半のランタン訪問では二つの重要な会議をもちました。ひとつは、キャンチェンゴンバ再建のためのもの。再建委員会を発足させ、聖俗一体で建設にあたることを決めました。もう一つはランタン酪農組合のゴタルー集会。これは別に報告します。村人たちは仮設であれ、モデル住宅であれ、宿やであれ、116戸ほぼ全員が屋根のある家で冬を越しました。お寺はまっさきに再建すべきだという意見もありましたが、自分の住む家がない状態では手伝いも難しいというので、2017年の着工になったしだいです。

◆見た目はかなり復興しているようにみえるランタン村ですが、村人の心の支柱、観光客のランドマークであるキャンチェンゴンバが村人一人ひとりの心の復興に役立てばと願っています。着工は、4月17日(チベット歴2月21日月曜)、カトマンドゥのカニン・シェドゥップリン寺院(通常ホワイト・ゴンバ)の座主チューキニマ・リンポチェの儀式(アルカ・ポチョー)をもって始まります。

◆この儀式はその地にいらした神を呼び戻し安寧を祈願するもののようです。通常のラマではなく密教の奥義を極めたもののみが行えるのだそうです。チベットではすでにこの儀式は行われていないときいています。工事期間は約4ヶ月、ヨルモ(ヘランブー地方)の寺大工に施工を任せます。壁の補強のほかは外観、内部の壁画ともかつてあったものと同じものを再現したいと思っています。もちろん柱や梁など残っているもは使います。内部の壁画の完成は1年後。落慶会にはまたチューキニマ・リンポチェにおこしいただくことになっています。

【4報】4月10日

――ランタン酪農組合――

◆ランタン酪農組合はゴタルーの生活向上と文化としての放牧経済を支援するために昨年立ち上げました。去年6月には、吉備高原吉田牧場の吉田全作さんに約17年ぶりに現地に入っていただき、約10日間にわたってチーズ作りの研修をしていただきました。今年のゾモファンドは、去年夏の成果から判断することにして、一人一人から3つの質問に答えてもらうことにしました。というのは、吉田さん伝授のチーズを作ったものは5名しかいなかったからです。

◆集会は3月28日、ユル地区のいつもの草地が会議場です。参加者は19名のゴタルー。牛飼いの親分と廃業したサンギェの2名が欠席したほかは全員。「ゴタルーをもう数年間続けるか?」家畜を預けていたものには結構きつい質問でしたが、あらたに現場に2人が復帰すると約束しました。トラック輸送業で成功した息子をもつトゥンドゥ・ワンドゥには「おまえの息子は金持ちになっている。もういいかげんやめて安楽に暮らしたらどうか?」と意地悪な質問をしてみました。「とんでもない。わしの食い扶持は自分で死ぬまで稼ぐ」と。

◆「なぜチーズを作れなかったのか?」薪とミルクを提供するから組合で作ってくれたほうがいい、俺たちは手もこのとおりで形にできない、等々、チーズを作れなかった理由はさまざまでした。しかし実際にはクリームセパレーターを自分たちで買い、バターやショシャ(フレッシュチーズから作る一種のブルーチーズ)を作って村人に売っていました。結構なお金になり、生乳を含めキッチンには欠かせないものですから村人も助かっていると思います。私はこれは一つの進歩なのだと捉えます。これまでごく家内的な需要であったものを混じりけのない(ウシの毛などが混入していない)商品として売る。「自分で作って売るゴタルー」これが復興放牧経済の基盤なのですから。

◆「今年はチーズを作って、協同組合を支えるか?」全員が賛同しました。今年のシーズンからダワ・ノルブとシェラップが放牧地の上昇に同行し、チーズ作りの手伝いやゴタルーの世話をすることにしました。ダワ・ノルブはゴタルーたちとの生活にやる気満々です。

◆今年のゾモファンドはゴタルー一人ひとりに一律1頭のゾモを、昨年チーズを作った5名にはもう1頭、合計25頭のゾモを買うことを決めました。合計112万5000ルピー(約123万3000円)。集会の最後にダワ・ノルブが2016年の会計報告をしました。チーズの販売のみで言えば昨年度は58,680ルピーの赤字です。作ったものは全て売れていますから、今年度は集荷の時期を遅らせ、真夏は避けて8月〜10月の3ヶ月のみチーズつくりをすることに決めました。チーズ1kgのゴタルーからの買値は1,000ルピー、トレッカーや村人への売値は1,200ルピー。200ルピーは福利厚生(将来ゾモを買うときの頭金など)のためにプールしておくという計画です。昨年初年度のチーズつくりはトライアルとして、今年の酪農組合の運営に活かしてほしいと思います。ご支援いただいているみなさまへのご報告を兼ねて。(貞兼綾子

雪崩の記

■先日雪崩に遭った。場所は奥羽山脈北部に聳える岩手山(2038m)である。この山の盛岡の街からの眺めは、富士山にも似ていることから南部富士ともいわれている。「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。明治の詩人の石川啄木の歌うふるさとの山とは、この岩手山のことである。

◆入山したのは3月の半ば。冬のあいだは連日風雪に見舞われているはずの北東北の山も、3月に入るとしばしば穏やかな晴天に見舞われたりする。しかし条件の良すぎるときにすんなり登ったところで、ドラマがなさすぎておもしろ味に欠ける。低気圧の接近で山が大荒れになるタイミングを狙って入山する。人との付き合いじゃないけれど、山だって穏やかな顔のときもあれば大荒れの顔のときもある。内づらと外づら。ともに素の姿だと思う。

◆夜行バスで着いた盛岡の街は、朝から冷たい雨がしとしと降っている。街から見えるはずの啄木の言うふるさとの山はもちろん見えない。盛岡どころか関東もこれから雪になるかもしれないとの予報である。こんな条件のなかで山に向かったところで、いったい何しに行くのだろうか。山に行く前はいつも低気圧接近の空模様のように沈鬱になる。そんな鬱状態も最近では「期待などまるでない虚しい感覚」として受け入れる。迷い悩む時間として味わえるようになった。

◆登山口となるところでバスを降りると、冷たい雨はみぞれ混じりのさらに不快な雨に変わっていた。歩きはじめて2時間もすると全身びしょ濡れ。時間的にはかなりはやいけれど、低体温症にやられる前に行動を打ち切りテントを張る。夕方、冷たい雨やみぞれからようやく雪に変わった。ものすごく湿度が高い。テントのなかはサウナと冷蔵庫がごちゃまぜになったような、そんな不快さである。

◆朝起きると雪はすでに止んでいた。うす日がさしている。テントを撤収して歩きはじめる。案の定、重い湿雪のラッセルである。ワカンをつけてもときには胸まで没する。樹林帯が疎らになって岩っぽいところが出てきたあたりで、ワカンからアイゼンに履きかえる。

◆雪崩に遭遇したのは、その地点から100メートルくらい登ったところだろうか。どうやら自分で誘発したようだ。気がついたら自分のまわりの雪がスローモーションで動きはじめるような妙な感覚だった。自分の身体もまわりの雪と一緒にスローモーションで流されはじめている。上を見ると雪の斜面に大きな亀裂が入ったのが見える。大型冷蔵庫くらいの大きさの割れた雪片に身体が押されはじめて苦しくなった。このままでいたらヤバイ。ようやく自分が雪崩に巻き込まれているなと気づいた。

◆とっさに思いついたのは雪崩をくらったらとにかく泳ぐように雪の流れから脱するという話。ずいぶん前に飲んだ席で出てきた会話のシーンが、なぜかすぐに頭に蘇った。それを語っていた人は山屋でもなんでもなく、マンガで見た場面を笑い話として語っていたものだった。じっさいにそんな方法で助かるのかどうかわからない。でも気がついたら、必死で泳ぐように雪崩の流れから脱しようとしている自分がいた。この間はおそらく1秒も経っていないだろう。不思議なくらい鮮明に覚えているのは、生と死の分岐点にいるという濃密な時間だったからだろうか。

◆40〜50メートルくらい流されて身体は止まった。軽い打撲のほかにケガもなかった。下を見ると大型冷蔵庫よりもさらに大きな雪片がずっと下まで散乱している。身体がだいじょうぶなのを確認すると、なにも考えることなく降りはじめていた。しばらく樹林帯を下ってテントを張って温かいコーヒーを飲んだらようやく、その日のできごとをふり返る余裕が出てきた。

◆強い人は雪崩をくらってもそのまま登っちゃう。いや、ほんとうに強い人は若いときに天まで昇っちゃう。今回は当初予定していた奥羽山脈の長い縦走を急遽取りやめて短期の計画で入山したけれど、もし当初の予定どおりだったらさらに大きな事故に見舞われていたかもしれない。今朝のときに胸まで潜る湿雪のラッセルに自分ではめずらしくしんどいなあと独り言をいっていたのは、もしかしたら虫の知らせだったのだろうか。

◆あのまま流されていたら、沢をそのまま数百メートル滑落していた。正しい判断なんて、いつだって行動しない人あるいは終わった人の机上の空論にすぎねえ! 正しい判断ばかり求めるくらいなら、はじめっから山など行かないことだ!! そんなことを日記にずらずらと書き綴った。そして翌日、晴天のなかを下山した。盛岡の街に降りてから見あげる岩手山は不思議なほど美しかった。

◆自分は経験を重ねるたびに弱くなった。やればやるほど自信をなくしてゆく。追求するほど壁は高まるのだから。やればやるほど迷いは深まった。追求するほど種々の要素が増えるのだから。弱いときこそ強いとは、たしか聖書にあったのかな。でも自分は弱いときこそ弱かった。だから山が怖くなってきて、どんどん山から離れていった。でも山から離れるほど、山とのかかわりは深まった。なぜかますます山が好きになっていった。何ごともすんなりできてしまえばそれに越したことはないけれど、思い悩みながら進むのもそれはそれでおもしろいのではないかと思う。今回の雪崩で途中で止まったのは、自分にはまだまだやることが残っているという神からの導きだったのだろうか。(田中幹也

『新編 西蔵漂泊』の刊行に刺激されて綴る満州の思い出

■江本さんの新刊『新編 西蔵漂泊』上梓をきっかけに、書架から既刊本を降ろしてみた。

◆実は我が家は、祖父道徳、父俊夫と続いた大陸に繋がる家系である。祖父は直新陰流の免許皆伝であったことから、当時は租借地であった中国山東省の青島警察署の駐在剣道師範の職を得ていた。そうした関係から、父も叔父(父の弟)も青島日本中学校を卒業した。

◆その後父は、拓殖大学に学び満州(旧名であるが、本稿ではこの言葉にこだわって記述する)に帰り、新京(当時の名・現在は長春)の大同学院(満州新天地建設の為の官僚登竜門として設立された学園)に進み、満州国の役所に勤務することになった。昭和13年、日赤病院で生まれた自分の名前は、学院の所在地である南嶺にちなんで付けられたのだそうだ。

◆若き両親は、ハルビン、新京、ハイラル、鞍山と満州の各地を転勤して回った。幼かった自分には、碧空緑野三千里の世界の記憶は全くない。だが北満ハイラルでは、毛皮のシューバを着て、バザール(市場)に連れて行ってもらった。そこでマーチョ(馬車)を曳いた何頭ものラクダを見たことを、確かに覚えている。又、室内のことだが、釣りキチだった父が持って帰った、シチューカという名前の大漁の釣果を見たこと、ペチカで暖められた壁一面に、弟と二人でクレヨンでベタベタと落書きをしたこと、猛烈に吹き荒れる蒙古風を、母と一緒に窓から怖々と眺めていたことなど、断片的ながら色いろと思い出される。

◆あの大陸の赤い夕陽が、ゆっくりと時間をかけて、地平線の向こうに沈んでいく光景も、自分自身の記憶なのか度々聞かされて出来上がった画像なのか定かではないが、満州と聞くたびに鮮やかに浮かび上がってくるのである。最後に住んだ南満州鞍山のことは、物心が付いた頃のことだから、かなりはっきりと記憶している。鞍山製鉄所が建設されていた為に、多くの日本人が住んでいた。日本人街の住宅は当時としては考えられないほどに、インフラ整備が進んでいた。アカシアの花の香りが芳しく匂う町だった。そして隣近所に沢山の遊び仲間が出来た町だった。

◆昭和19年夏、父は召集を受けて関東軍に出征していった。その折、戦争に勝つまでは一時内地(当時の言葉で)に疎開していることに決めたのだそうだ。同年11月末、その為に内地から迎えに来た祖母と母の妹と共に、自分を頭に子供4人、大人3人が連れ立って、南満州鉄道、朝鮮鉄道を経て関釜連絡船で下関に着いた。途中寄り道して湯崗子(トウコウシ)温泉、釜山の竜頭山公園(後に調べて名を知った)に立ち寄っていった、引き揚げとは言えない物見遊山の旅行だった。

◆満州では自分は未だ就学前だったから、入学予定の鞍山市長大区住吉街の青葉国民学校で注射を受けただけ。翌年4月、母の実家の愛知県額田群幸田村(当時)で国民学校1年生になった。そして8月終戦。まさに間一髪の歳月だったのである。我が身に比べ、あの鞍山の幼馴染たちには、その後一体どんな運命が待ち受けていたのだろうか、そのことを思えば心が痛む。

◆敗戦により父はシベリアに抑留された。ロシア語が堪能であったことから、通訳として引き留められて、引き揚げてきたのは昭和23年末、以降は体調を壊して不遇な後半生を送ることになったが、己が身の不運を愚痴ったり、国策や為政者の是非について聞かされたことはない。酔うほどに、世が世ならば嶺二は緑林大学(実は馬賊の梁山泊)に入って、渺茫として果てもなき荒野を疾走していたのだろうと、冗談を飛ばしていた。

◆結局自分は、岡や嶺という文字を背負いながら、地平線を目指していくのではなく、水辺を漂う人生を遊ぶことになってしまった。代りに4代目である息子の建太郎が、別の大陸ではあるがカナダにわたり、トロントで永住権を得て暮らしているのも、我が家系に生を得た宿命だったのであろう。

◆長々と私事の回想を綴ってしまったが、亜細亜の夜明けともいえるあの時代には、西蔵漂泊の先駆者ばかりではなく、名もなき多くの意気旺んなる若者達が、理想の旗を掲げて、大陸の奥深くまで雄飛していった。興安嶺を席捲していったその先は、まさに無我至純なる若人が、天翔ていく天地なりだったのである。

◆昭和33年3月20日、父は50歳の若さで他界した。59年前のあの日は栃若(栃錦、若乃花のこと)の全勝対決決定戦の日だった。勝負が決まった後、親父は自分で沸かした風呂に入った。家族そろって夕飯の席についた。突然脳溢血で倒れた。そのままあっけなくサヨナラをしていった。相撲好きでもあった親父に連れられて、鞍山場所に行ったことも合わせて思い出される。割り込み話を書いてしまった。今年の命日には、ハルビン税関の制服の写真に、手作りの豚まんじゅう(当時はそう呼んでいた。餃子という正式の名前を知ったのははるか後日のことである)を供え、コウリャン酒の盃を上げた。「大いなるかな満州は」と口について出たのは、大同学院の校歌である。本文の中にも随所に引用したが、少々時代錯誤ともいえる詩句が誇らしく懐かしい。(吉岡嶺二 永久カヌーイスト)

31年“追っかけ”をやっている長倉洋海さんの写真展!

■長倉洋海さんの写真展『フォトジャーナリスト長倉洋海の眼 地を這い、未来に駆ける』を東京都写真美術館で開催中です。展示写真170点、プロジェクターで上映する135点を加え、300点を超える大規模な写真展です。写真家にとっては、この東京都写真美術館での写真展こそ「最高峰」なのです。

◆見てきました! トークショーに合わせ、4回目! 私は1986年に長倉さんのフィリピンの写真展を見て以来、31年間の「追っかけ」をやっています。リアルタイムでほとんどの写真展を見てきましたし、ほとんどの写真集を見てきましたので、今回展示されている写真はどれも記憶にある写真です。

◆長倉さんの写真と出会った頃の私は29歳で太平洋の島へ核実験のあとを追って旅した頃でした。ビキニ環礁を追われた人たちが絶海の孤島キリ島に住んでいました。その写真を写真ラボの小さなコーナーで展示してくれ、私も写真を撮ることを志していた時期です。

◆今回の写真展では長倉さんの37年間の作品が展示されています。それを世界の歴史の動きと共に見ることができるのです。写真展は「空間の芸術」とも言えます。写真群で構成された空間に見る人が身を置くことによって体で何かを感じることができます。感じることはそれぞれの人の感性に託されます。それが会場に足を運ぶ醍醐味です。

◆長倉さんはアフガニスタンのゲリラ戦士「マスード」を撮り続けたことで知られ、世界の紛争地の写真を撮り続けてきました。また、人間の姿を捉え続け、現在は10数年前からアフガニスタンの「山の学校」の支援を続けています。それは、何を伝えたかったのか、というよりその撮影を支え続けたものは何だったのか? そういうことを知りたいと思っていました。それが、今回の写真展で見事に表現されています。

◆撮影の原点となったエルサルバドルの難民キャンプで3歳の時に出会った少女が20数年後に母親になった後に語った言葉に集約されます。彼女はいつも笑顔でいた。何故笑顔なのか?「父は1歳の時に戦争で亡くなり、祖父母やキャンプの人たちに助けられて育った。だから、まわりの人たちをいい気持にさせたかった」と応えるのです。今の「長倉洋海の生き方」を裏付けるものです。

◆これは私が感じた見方です。是非、写真展会場に足を運び、それぞれ人の世界を感じていただきたいと思います。恵比寿の東京都写真美術館で5月14日まで。(河田真智子

★追加情報
 ギャラリートークが会期中毎週土日、および5月3日4日5日午後1時よりあります。観覧料一般800円

シンゴジラに感動しました!!

■3月末から4月6日まで日本にいました。母の一周忌に出ることができなかったので、墓参りしたいと思っていたところへTBSから出演依頼が来て(交通費が出るので)、それに乗ってしまった感じです。

◆日本へ来る途中の機内で『シンゴジラ』を観て大興奮しました。他人に責任を押し付けるばかりで何も決められない官僚たち。あれは子供のための映画ではなかったんですね。こちらの日本人などから噂を聞いていた『君の名は』も観ましたが、画が綺麗というだけでつまらなく感じました。純真な心とか生き急がないで過ごす時間とかを私が失くしてしまったせいかもですが。

◆新潟の姉の家で、少し大きくなった甥っ子に会いました。たまに大人びた事を言うので、時間の流れを感じてなんだか感慨深いです。今回はJRパスという乗り放題切符を買ったので、移動が楽でした。それで久しぶりに岩手へ出向いて友人や恩師を訪ねてきました。歳をとった元教授陣はそれでも変わらない話し方と優しい態度で、私もついつい学生の頃に戻った気になりはしゃいでしまいました。

◆東京では、また図々しく江本さんちにお世話になりました。可愛い大西さんを見ながら、江本さんが忖度してくれたビールを飲み、エモいエモ煮しめを食べました(新しく覚えた日本語を使ってみたかっただけです!)東京はちょうど桜が満開で、良い気候の中気持ちよく過ごせました。

◆TBSの収録には、ガキじゃあるまいしと思われるかもしれませんが、江本さんが付き添ってくれました。本番前にビールを2.5本飲んだのですが(0.5は江本さんの飲み残し)、もっと飲めば良かったのかもしれません。トイレに行きたくなったら? とか、ゲップが出たら? とか心配し過ぎました。小池栄子さんが綺麗で、てっきり江本さんが得意の鼻血を出すのではないかと期待していたのに冷静で、逆に心配になりました。江本さん、健康状態は大丈夫ですか?

◆現在はユーコンに帰って、すでにペンキ屋として働いています。こちらもようやく雪解けシーズンになり、来月にはうちの私道がグチャグチャになると思います。うちの子たちはのんびりと日向ぼっこしています。色々ありますが、また、ゆっくりでも頑張って行きたいと思います。ありがとうございました。(本多有香 カナダ・ホワイトホース在住)

地を這い、未来へ駆ける長倉洋海氏の写真展と、30年ぶりの西アフリカのことなど

■2月中旬から一ヶ月ほど、西アフリカ界隈をうろついてきた。アフリカ大陸の東や南はたまに訪れるが、西アフリカは何と30年ぶり。今や知る人ぞ知る、知らないヤツは誰も知らない、あの原チャリ・サハラ縦断行以来のことだ。50ccの新聞配達バイクにガソリン水食糧スペアパーツその他衣食住のすべてを積み込み、パリをスタートしセネガルのダカールまで合計1万4255キロを走破。もちろん、こんなふざけたことをマジにやったヤツはおらず、自動的にギネス記録樹立となった。

◆ネットやGPSはおろか、ファックスすらまだ存在しない時代だが、それでも1972年のキング賀曽利氏によるバイク初縦断以来、あまたの踏破記録が刻まれてきた舞台である。生まれつきのへそ曲がりに加えて、親ゆずりの無鉄砲で子供のころから損ばかりしている身としては、すでに成されたことをなぞりたくはない。できる限り武装解除すべく採用したのが原チャリだった。

◆折しも、世界最強マシーンがずらり参戦するパリ・ダカール・ラリーの全盛時代。参加全車両に砂漠のど真ん中で追い抜かれ、3ヶ月後にダカールのゴール地点で、「パリダカなんぞ、原チャリで楽勝っ!」ぐらいのことはうそぶいてみたい、という不純な動機もあった。

◆わずか4.5馬力、平均時速20キロ弱の非力なバイクでは、世界最大の砂漠を相手にいくら頑張ってみても無駄なだけ、体力よりは頭脳が問われる世界だ。数百キロおきに点在するオアシスを結んで車の往来もあり、道路はなくとも前に走った車の刻んだ轍がサハラ越えのルートとなる。砂嵐で轍が消えてしまう場合もあるが、地図とコンパスを駆使すればとりあえず隣のオアシスにはたどり着ける。隣まで行ければ、たぶんその先にも行けるだろう。という具合につないでいけば、世界の果てまでも到達できる、かどうかは、やってみないとわからないところがミソだ。

◆深いソフトサンドではタイヤの空気圧を半分以下まで落として接地面積を増やせば、ほぼスタックせずに走破できる。スピードは出ないがその分たっぷり砂遊びが楽しめ、結果的にはパリダカを完走することができた。努力根性忍耐よりも創意工夫とセンスが問われる、という実例だろう。

◆ちなみに今回、西アフリカに何をしに、といえば、そりゃ当然カーニバルでしょ。評論家稼業の辛いところでもあるが、30年ぶりに再訪したギニアビサウは旧ポルトガル植民地で、アフロラテン系のリズムの故郷だ。参加者全員がバック転できるほどの身体能力と、暴発系リズムの切れのすさまじさ。アフリカンパワーが炸裂する言語化不能な世界だが、それはまた別の物語だ。

◆さて帰国翌日、時差ボケでヨレヨレのまま参加したE本氏の出版記念の宴で久しぶりにお目にかかったのが、件の賀曽利氏に加えて滝野沢優子氏と月風かおり氏だった。時代は違えどもバイクでサハラを越えた4名が一堂に会するのも、エモ人脈の恐ろしさだろう。

◆さらに、同じ円卓で隣合わせたのがフォトジャーナリストの長倉洋海氏。昨年9月にペルーの取材撮影に同行し、アンデスを一緒に歩いて以来の接近遭遇である。恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で、「長倉洋海の眼、地を這い、未来へ駆ける」と題された大規模な写真展が5月14日まで開催されている。1980年代のアフリカ取材から昨年のペルーまで、170点を越す作品群はまさに氏の集大成で、迫力と気合に満ちている。とりわけ、アフガンのマスード司令官を描いた一連の作品は、ただ凄いの一言に尽きる。これ、絶対に見なきゃ損です! 会期中の毎週土日と5月3、4、5日の全日13時からは、ギャラリートークもあり。

◆ついでのお知らせを一つ。昨夏に六本木ミッドタウンで催された「南米大陸いちばん遠い地球」写真展が、大阪の富士フイルムフォトサロンで4月28日から5月10日まで開催となる。関西方面の方はぜひお運びくだされませ。といいつつ、また来週から1カ月ほどペルー出撃となるぞ。では、さらば。ZZz-カーニバル評論家


[通信費、カンパをありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで江本宛て添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページに。 高松修治/

高松修治/又吉健次郎(5000円)/石田昭子(江本さんの「西蔵漂泊」は大分前によませていただきました)/北村敏(10000円 通信費2000円 残りはカンパ、些少ですが、たくさんの感謝とお礼です)/池田祐司(10000円 通信費をしばらく振替していませんでした。報告会にはなかなか行けませんが、通信を楽しく拝見しています。福岡市在住)/小長谷由之・雅子(10000円 過去数年分です。未払い分は分からないので、余った分はカンパで)/松中秀之(10000円いつも楽しみにしております)/池本元光(10000円 江本さん、いつも地平線通信ありがとうございます)/三輪主彦(10000円)/小林新(10000円 いつも新鮮な記事満載の通信お送りくださり、楽しみに読ませて頂いています。おそくなりましたが、通信費5000円カンパ5000円お送りさせていただきます)/横田明子/白方千攵(シラカタ・チズ)

★3月の報告会で通信費を払ってくださった方の名は次号に(すいません。記録が行方不明になってしてしまい……)。


夏奈子が眩しく見えた日

■桜舞う4月某日、長女(6歳)は小学校入学の日を迎えた。背中が隠れてしまうくらい大きく真新しいランドセルを背負い、大きな荷物も手に抱え、別れ際に泣くこともなく、「ママ、バイバイ!」と、はしゃぎながら学校へ向かう娘の背中を、頼もしいような、少し寂しいような気持ちで見送っている。複数の大人に見守られながら、毎日送り迎えをしてきた保育園での生活を終え、親からとても遠い世界へ一歩踏み出してしまった感がある。

◆はたして学校に無事につけるのか、というこちらの不安をよそに、「ひとりで行けるのが楽しみ!」と嬉々として道に飛び出していく娘は、もう、親の腕の中よりも魅力的な世界を見つけようとしている。これからこの子にはどんな冒険が待っているのだろう。それを私はどれだけ見届けられるのだろう。

◆二か月ほど前の2月24日(金)、大学の後輩であり、地平線会議へ導いてくれた恩人でもある大西夏奈子氏の報告会に参加した。江本さんにも2015年6月に安産祈願エモカレーをご馳走になって以来会えていなかったし、花田麿公元大使もお越しになるとあってこの回の参加はどうしても逃したくなかった。最後に参加した2013年5月の山田監督の回以降、子どもは一人増え(計長女6歳、長男4歳、次女1歳の計3人)、今回は私一人での計画実行は難しく、夫にも協力を仰いだ。

◆会社は早退、保育園に行くも、明るい時間のお迎えに子供たちははしゃいでしまい、帰宅まで一時間近く要した。ようやく家に着くと、今度は長女がお菓子(流行のアニメのおまけつき)を買うことを報告会へ一緒に行く条件に提示してきた。急いでスーパーに寄ると、「おうちのトイレに行きたい」と長女。時間は18時を回ろうとしていたが、一旦帰宅して用を足させ、18時30分過ぎ、会場に駆け込んだ。長野さんが夏奈子の紹介をしているところだった。

◆ピンク色のデールを着た夏奈子はキラキラまぶしく、なんだか遠い存在にすら見えた。私自身、1995年の初上陸からほぼ毎年モンゴルに通っていたが、2008年の秋以降、モンゴルに足を踏み入れていない。身近だったはずのモンゴルがいつの間にか遠くなっているもどかしさも感じながら、羨望のまなざしで夏奈子の声に耳を傾けた。

◆3人の子どもたちにも報告会の場を経験してもらいたく席に座らせたがほどなくして「お外へいこう」と言いだし、何度となく会場の外へ手を引かれた。そのたびにそそくさと会場を出て子どもの相手をしたり、仕事と子守に疲れて帰りたそうな夫の気配を背中に感じつつ会場扉付近から中をのぞいたり、の1時間だった。夏奈子の話の4分の1ほどは聞けただろうか。それでも私は大いに満足であった。

◆理解できない人も多いかもしれない。大人メインの場所に幼子を伴って参加するということは、事前にできるだけの準備をしたとて、次々と大小の困難が降りかかる。そもそも子連れ参加NGの場合の方が多い。子連れOKだとしても、100%の参加は難しく、周囲にも気を遣う。理解や、誰かしらの手を借りないと実現できないことばかりでもあるのだ。

◆地平線報告会への参加は今の私にとっては至高のぜいたく品である。平日の、大方は金曜日という一週間の疲れもマックスの夜の時間に、子どものため「以外」の目的で家を空けるという非日常。報告会参加になんのハードルもなく、あわよくば報告会後の飲み会に誰の許可もなく、誰を不機嫌に待たせるわけでもなく参加できた日々は、今の私には無い。

◆過去に戻りたいというわけではない。常に思うのは、諸々の役割に縛られない自分を確認したい、ということだ。母親、会社員という道は自ら選んできているのは確かだが、私の場合、自分の素直な感情に従って行動できる場面が今はほとんどないように思う。日々の忙しさに埋没し、そもそも自分の本音が何なのかさえ、段々と見えなくなり、ついにはその存在さえも忘れてしまう。

◆そんな中、今年2月の地平線通信に掲載された、夏奈子の報告会の案内が目に飛び込んできたのだ。気持ちが突き動かされ、行きたくてそわそわする自分に気が付いた。思えばモンゴルに目覚めたのも、高校受験が望み通りにならず悶々としていた日々の中、たまたま目に入ったモンゴル乗馬旅行の広告だった。たった数10センチ四方程の小さな記事に、血が躍り、なにかに強烈に呼ばれているのを感じたのだ。

◆その時と同じように、わくわくする自分を見つけられたことだけでも嬉しかった。日々の雑多な諸々に縛られている自分など、ひょいと飛び越えたように思う。好きなものを好きという自分もいて良い。やりたいことに突っ走りたい自分も認めよう。地平線会議はいつもこうして私の手を引っ張り、一歩踏み出すきっかけをくれる。重い、重い荷物をいとも軽く持ち上げるパワーを与えてくれる。

◆子を持ってから身なりには気を遣えなくなったが、周囲の目は気になることが格段に増えた。第三者の他人からだけでなく、夫や家族からでさえも自分が親として(時に、「母親」として)模範的であることを求められているような気がしてしまう。そんな縛りの中でもやはり私は一歩でも半歩でも前に行きたいといつも思う。自分の行動に周囲から多少のクレームが付こうとも、小さな歩みであっても、挑戦することが確実に、次の新しい何かにつながると信じている。(内視鏡メーカー勤務 花田宏子 ※旧姓・三羽)

『新編 西蔵漂泊』異聞

3月20日に向けて、そしてその当日、起きたこと

■暖かな日差しが春の訪れを感じさせる閑静な住宅街を、いつもより少々よそ行きの格好に、下ろしたてのゾモトートバックを引っ提げて、ぽてぽてと歩く。道端に、早くも花で満ちた桜の樹を見つけて、愛でたりなんかして、ちょっといい気分。すきっと晴れた空、ふわっと春らしい風の吹くいい日和だ。3月20日、江本嘉伸さんの出された『新編 西蔵漂泊』の出版記念講演会へ向かうのだ。

◆地平線通信を読む多くの人が既にご存知と思うが、江本さんはつい先月に『新編 西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』を出版された。現地取材と史料をもとに、入蔵を志した10人の日本人の足跡を追う一冊だ。史料原文を折り混ぜながらも読みやすく工夫されており、また人物や時代背景が絡み合っていて面白い。二十数年前に出版された、立派な装丁の『西蔵漂泊  チベットに魅せられた十人の日本人 上・下』を大きく再構成し、文庫本として出版することでぐっと手に入れやすくなった。しかし「まるまる一から始めるのに変わりない、大変な作業だった」と江本さんは語る。それだけの熱量が込められた「新編」。ついに生まれ変わったこの本を記念する大事な日だ。

◆講演会場である新宿区立新宿歴史博物館に到着。受付のおばさんに案内され二階へ向かうと、同じく江本さんの講演を聴きに来たと見られる人たちが、既にたくさん集まっていた。しばらくするとホールが開場され、やっと顔なじみの丸山純さんや兵頭渉さんを見つけてちょっとホッとする。まもなく「本日満員のため、前から詰めてお座りください」という趣旨のアナウンスが流れる。そのとおり、開場されてしばらくは大事そうにとっておかれた長机の真ん中席も、開演時間にはすべて埋まってしまった。

◆江本さんは、二時間ほどの限られた講演の中で、本に登場する10人の人物像をわかりやすく、エピソードを交えながら面白く紹介してくれた。わたし自身、まだこの本の最後までは読みきれないまま講演を聴いたのだが、話の展開は「むしろラッキー」と思わされるほど、続きをそそられる内容だった。江本さん自身がその主役10人とどう向き合ってきたのか、彼らへの愛がトークの端々から感じられる。またそれを自分だけのものにするのではなく、誰にも開かれた一冊に仕上げ直して世に送り出すところにジャーナリスト精神を感じた。

◆講演会の後は、引き続き出版記念パーティー「『新編 西蔵漂泊』の出版を記念する会」の会場へ徒歩で移動した。ワンフロアまるまるの貸切で、円卓がずらり、脇にはビュッフェがずらりと並ぶ宴会場だった。会場に入ってすぐの角には、江本さん自身が撮影された、チベットの秘蔵写真が並ぶ。

◆スタッフの一人であるわたしは受付から座席への誘導をしていたのだが、武田力さんが気を利かせてマッチングした席順はナイスなものだったようだ。実はわたしの円卓も豪華な探検部席になっていて、ご活躍されたOBの方々とご一緒させてもらった。ここだけの話、この日最大の収穫といってもいいほど、その席での時間がものすごく楽しかった。

◆終始あたたかく、アットホームな雰囲気の絶えぬ会であった。始まりを告げる長岡竜介さんのケーナ演奏は余興にはもったいないほどだったし、パキスタン衣装とモンゴル衣装をまとった丸山純さんと大西夏奈子さんの司会は息がぴったり。圧巻は、なんといっても、瀧本柚妃ちゃんの堂々とした「かんぱーい!」の掛け声だった。驚かされた人は、わたしの他にもたくさんいたのではなかろうか!

◆原典子さんの手作りお菓子、ランタン村で造られるのと同じ岡山から届いた砲丸のようなかたちのチーズ、田中明美さんデザインによる「西蔵漂泊」ラベルが貼られたワインと、美味しいものが続々と出てくる中、宮本千晴、賀曽利隆、関野吉晴さんら地平線会議の草創期を知る皆さん、東チベット探検で知られる中村保さん、北大の高本康子さんらの熱のこもった、内容あるスピーチが続いた。

◆一人一人の名前の横に江本さんからの一言紹介が添えられた「参加者名簿」に、わたしはひそかに感動していた。長野亮之介、緒方敏明さんの2人の芸術家が手がけた掛け軸の贈呈、江本夫人・北村節子さんによるびっくりサプライズ(お祝いのケーキを開けると、花吹雪のように無数の紙切れが舞った……)。挙げればきりがないが、みんなが少しずつ気持ちを持ち寄って、江本さん自身も加わって、そうして大成された「出版記念会」以上のものだと感じた。

◆そういえばインドネシアからの帰国直前、やっとネット環境が整い、LINEでも確認しよう……とおもったその瞬間、ケータイに100件を超えるメールが舞い込んで来た。普段はあまり使わないメールの受信箱に、未読メールがずらりと並ぶ。確認してみれば、全て地平線メンバーからのメールじゃないの! 驚いている間にもメールが届く。なんと返信しようかと迷っているうちにも、またまたメール。一体1日に何度メールが行き交っていたのだろう。

◆なんの騒ぎかと思えば、その内容はほとんど、この「『新編 西蔵漂泊』の出版を祝う会」に向けた打ち合わせだった。メーリングリストを通して、受信箱の中ではまさに“話し合い”が繰り広げられていた。メール一通に、何人も反応する。それがまた早い。さらに、いくつもの話題が同時に進行しているからすごい。メールなのに、なぜかムンムンと放たれている熱気。会の進行、役割分担、食事、費用、当日準備、全てがここから始まり、着々とここで決められていた。いま改めてメールを見返すと、ナルホドこんなにも素晴らしい会になるわけだ、と純粋に感心したのだった。(下川知恵 早大探検部 19才)

おわりから二番目のごあいさつ
地平線会議は江本の天職である

 地平線会議の「地平線」という言葉は岡村隆君が提案したんだったと思いますが、そう決めたのはわたしです(笑)。なにしろ創設時で、年上ですから好きなように決められた(笑)。

 東ネパールのルンバサンバ・ヒマールの北のチベット国境の峠、五万分の一の地図にはウンバック・バンジャンと書いてありますが、現地で聞いた名はウンボ・ラ。そこから見たチベット高原の、冬なのに雪のない青い山並みの重なりが頭にあったからです。ヒマラヤの高峰よりも強い吸引力があった。

 で、江本君です。江本とは三つ峠の「地蔵」というルートのオーバーハングのあたりでぶら下がっているのを下から見たのがはじめての出会いだったと思う(注:宮本は当時都立大学山岳部、江本は外語大学山岳部)。地平線会議のことを私は真面目にはやらなかったけれども、江本はずっと続けてやってくれていて、何人もの若い人たちが熱心にそれをカバーしてくれている。その姿を見ていて、ある時から地平線会議は江本の「天職」だ、と思うようになった。江本君にもそう言った。 

 天職であることは間違いないんです。わたしがいうんだから間違いない。でもなぜそうなのか、みなさん考えてみてください。江本はジャーナリストなんですよね。プロのジャーナリストだ、ということがまずある。だけど、ジャーナリストは一般に「問題」を追いかけますよね。ところが江本は「問題」には関心がないんです。

 「人間」に関心がある。人間の美しさ、人間の素晴らしさ、人間の凄さに関心があるんですね。それも目立たないところで自分流にやっている、基本的に普通の人たちの秘めた非凡さ。そういう人類にとって本当に大事なことに非常に敏感な人なんですね。美しさへのあこがれが根底にある。それは奥さんを見ればわかる(笑)。 

 それでも何年か前までは、プロとして鍛えられたジャーナリストのいやらしさというか手練れのようなものが、まだ時に残っていた。いまはそれがなくなって、単純に素晴らしいものを素晴らしいと思い、人を誉め、皆に紹介したいと思っている。しかもそのことの裏付けをとり、組み立て、できるだけ客観的に伝えてゆくことをやっている。新しいジャーナリズムですよね。まさに天職なんです。

 これまでは体力が十分あったからやってこれた。できることならあと10年は続けてほしい、と思います。大丈夫だよね。頼むね。(宮本千晴

心地よい風

■江本さん、いろいろなところから色々の風が吹いて来ています。気持を滅入らすのも多々ありますが、江本風は、地平線会議風は、そして『新編 西蔵漂泊』出版記念会の風は心地よいものでした。江本さんの、久しぶりのお顔に出会い、“なつかしい!”思いがいたしました。“美しい方”にごあいさつ出来、“まー!”と少しびっくり……嬉しくなりました。洗練された方で。

◆斉藤実の帰天の折はほんとによくして下さり、改めて(初めてでしょうか……?)、感謝とともに江本さんのお人柄を、かみしめました。散歩に連れて行ってくださった犬は18才になり、猫を追いかけまわしていたのに、猫をジッと見て、シッポを振るようになりました。二食、散歩、サプリメントで、私の帰宅を迎え、ペロペロキスを、気が向いた時してくれます。

◆労作のご著書……参考文献の多さと、現地調査……心から頭を深く下げ、又まなざしが冷たくなくて、“シンパシー力”があってワクワクと読めそうです(まだ第二章の途中です)。物質的経済、科学、メール心理の昨今、それ等の暴走と生き様で、静かにNOというか、くい止めておられる方々のようで、優しさがある方々がお集りでしたね。江本さんは親分風ですが、親分の厚かましさが全くなくて、素敵です。

◆どうぞ、皆様のありようが(デモのように旗を振らず、大声を出さず、個人的でありながら“交り”がある)社会を清めて、うるおしていかれますことを祈ります。(斉藤宏子 「へのかっぱ号」で命をかけて「太平洋漂流実験」をやった故斉藤実さん夫人)


先月号の発送請負人

■地平線通信455号(2017年3月号)は、3月8日に印刷、封入作業を終え、翌9日、郵便局から発送しました。作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。今月も車谷君が早めに来て印刷を始めてくれたので助かりました。皆さん、ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 兵頭渉 石原玲 前田庄司 江本嘉伸 杉山貴章 光菅修 中嶋敦子 武田力 松澤亮


刺激を受けた、江本さんの「チベット紀行」

■江本さん、『新編 西蔵漂泊』の文庫本の完成、おめでとうございます。3月20日はまさに「江本嘉伸デー」でしたね。新宿歴史博物館講堂での『西蔵漂泊』の講演会は、宮本千晴さんと席を並べて聞かせてもらいました。明治から大正、昭和と戦前までのチベットに潜入した10人の日本人への江本さんの熱い想いがひしひしと伝わってきました。

◆そのあとの主婦会館プラザエフでの『新編 西蔵漂泊』の出版記念パーティーは、まさに地平線会議の拡大版のような様相でした。江本さんのおかげでみなさん方の絆がより深まり、近年になく気分が高揚しました。ぼくの座った席には滝野沢優子さん、月風かおりさん、白根全さんがやってきて、「サハラ縦断談義」をしましたよ。ぼくを含めて4人全員がバイクでのサハラ砂漠縦断の経験者。これだけの面々を集められるのも江本さんのすごさというものです。

◆記念パーティーではスピーチをさせていただき、ありがとうございます。そのときも話したことですが、1982年から83年にかけての読売新聞での江本記者の連載、「チベット五千キロ」には衝撃を受けました。20数回の連載を読みたくて新聞を読売に変えたほどです。『西蔵漂泊』は戦前までの日本人の記録ですが、戦後のチベットは江本さんが切り開いたといっても過言ではないと思います。新聞の連載記事はそれほどのものでした。

◆ぼくの小学生の頃の夢は「中央アジア」の探検家になることでした。学校の図書室にあった10何巻かの『中央アジア探検記』をすべて読みつくし、とくにシルクロードには強い憧れを持ちました。「チベット五千キロ」の連載は、我が中央アジアへの夢を呼び覚ますようなものでした。しかし当時の中央アジアの壁はじつに高く険しいものでしたよね。ぼくが実際にバイクで中央アジアを走れたのは江本さんの連載記事から10年たった1994年のことで、新疆ウイグルのウルムチを出発点にしてタクラマカン砂漠を一周しました。

◆タクラマカン砂漠南縁のカルグリック(中国名葉城)の町がチベット横断路への入口で、そこには西チベットの中心、阿里まで1000キロの道標が立っていました。その下にバイクを止め、「待ってろよ!」と、チベットの方向に向かって叫んでやりました。

◆ぼくがバイクでチベットを走れたのは、さらにその5年後の1999年のことで、中国製のバイクでラサから聖山カイラスまでを往復しました。それから10年後の2009年には西安を出発点にして敦煌から崑崙山脈を越え、ラサからチベットを横断し、全部で11の5000m級の峠を越えました。最後に標高5248メートルの界山峠を越えて新疆ウイグルに入り、カルグリックへと下り、中国西端のカシュガルをゴールにしました。このような我が「チベット行」の原点は、江本さんの「チベット五千キロ」の連載なのです。

◆江本さん、『ルンタの秘境』(光文社 1984年刊)は「チベット五千キロ」の読売新聞での連載が元になった一冊ですよね。『西蔵漂泊』につづいて、ぜひとも『ルンタの秘境』の文庫本化をお願いします。それともう一冊、『ルポ 黄河源流行』(読売新聞社 1986年刊)の文庫本化も。シルクロードの敦煌から南下し、崑崙山脈を越えると、黄河源流の青海の高原地帯、さらには長江の源流地帯を通ってラサに向かっていきますよね。チベットから崑崙山脈、タクラマカン砂漠、天山山脈、さらには内蒙古からモンゴルへと、アジア大陸内陸部の広大な中央アジアの世界に、新たな夢をみさせてくれた江本さんには感謝、感謝です。(賀曽利隆

関野吉晴さんのスピーチが嬉しく…

■今日は地平線会議代表世話人の江本さんの文庫版「西蔵漂泊」の出版記念パーティー。14時から新宿歴史博物館で「西蔵漂泊」に関する講演を聞き、その後、パーティーの会場へ。ここしばらくチベットに絡むことが多い。なんでだろう?パーティーが始まるまでは受け付けで名札を出席者に渡し、その後はビデオ撮影。撮影で忙しくてほとんど飲んだり、食べたりできなかったけれど、とてもいい会だった。

◆中でも個人的に嬉しかったのが、関野吉晴さんのスピーチだった。「自分の跡を継ぐような冒険者がもう現れないかと思っていたら、今40前後の人達がそれをしっかり継いでくれている。中々用事があって地平線会議に足を運ぶことができないけれど、最近そんな聞いてみたいと思わせる報告会が多い」そんなことを言ってくれていた。自分もその中に入っているかもしれないと思って、動画を撮りながら目頭が熱くなった。

◆自分自身でも今の40前後の探検家、冒険家、写真家は面白い人が多いと思う。そして、予想通り覚えてもらっていなかったけど、14年前に宮城県美術館で話をした写真家の長倉さんとも再会できた。そう言えば、今日いらっしゃっていた中山嘉太郎さん(植村直己冒険賞受賞者)の報告会が、自分にとっての初めての地平線会議だった。充実した1日。さあ、明日からも頑張ろう!!(光菅修 当日のFBの書き込みから)

追記:今トランジットでバンコクの空港にいます。直接ではありませんが、「西蔵漂泊」をダライ・ラマ法王に届けて来ました。午後の便で帰国します。(4月12日朝)

楽しかったし、うれしかったです

■江本さんのしゅっぱんきねんパーティーで、大西夏奈子ちゃんといっしょにミニトークをしました。夏奈子ちゃんがわたしにインタビューをしてくれて、わたしがモンゴルでなにをしたか、江本さんはどういう人かを話しました。わたしも夏奈子ちゃんも、モンゴルのみんぞくいしょうのデールをきて出ました。わたしはモンゴルの子どものぼうしもかぶりました。

◆ミニトークの後に、かんぱいのおんどをわたしがしました。とても大きな声で言えました。地平線会ぎにいったとき、色々な人から「上手だったね」と言ってもらえて、おどりたくなるような気もちになりました。こういうことをやらせてもらえて、楽しかったし、うれしかったです。(瀧本柚妃

家族5人で参加した出版記念会

■出版を記念する会、我が家は家族5人揃っての参加となりました。昨年11月に生まれた双子は、初めて電車での移動。長女を含めて、子どもたち3人と一緒に移動することは、想像はしていたのですが思いのほか大変でした。私は長女を背負って、赤ん坊の一人をだっこという状態。歩くときよりも、混雑した電車の中で、同じ体勢を維持することが結構きつかったです。

◆会場では、原典子さんや横山喜久さんら子育てのベテラン世代に双子を抱っこしてもらうと、やわらかな雰囲気に安らぐのでしょう、赤ん坊はすやすやと眠っている様子。おかげさまで、その間に私たちは安心して食事や飲み物をいただき、地平線で報告されたことのある面々のお話も聞くことができました。同じ子育て世代である菊地由美子さんと美月ちゃん親子、写真家の小松由佳さんとサーメル君親子も参加されていて、おてんば娘の長女にとっても楽しい会だったようです。

◆私たち夫婦にとって恩師である関野先生にも、双子の顔と長女の成長ぶりをお見せすることができて良かったです。江本さんの著書の出版を記念するという機会に、家族揃っていろいろな人に会えたこと、私たち家族にとっても良い記念となりました。「新編 西蔵漂泊」は子どもたちへの必読書として、文字が読めるようになって、中学生くらいになったら、ぜひ読ませたいと思います。(山本豊人

“地平線”という形のないつながりをまとめる不思議な引力

■2017年3月20日はチベット・江本デーだった。江本さんの「『新編 西蔵漂泊』の出版を記念する会」の前に行われた新宿区立歴史博物館での講演会は、現在もチベットに魅せられている日本人が少なくないことを物語る熱気があった。1997年に私たちが写真展「地平線発」と写真集を企画させてもらい20年にもなるが、出版記念会では懐かしい顔に再会でき、あの時代が甦ってきた。

◆能海寛の故郷島根県で写真展を開いたこと、『A LINE 地平線の旅人』を企画出版したこと、兵庫県の植村直己冒険館には写真展の作品を収蔵して頂いている。出版記念会のGテーブルは、写真家とライダー席だった。「西蔵漂泊」の甲州ワインを飲みながらクラス会のように盛り上がった。会場に展示されていた江本さん撮影の写真がフォーカスしているのは人間だ。

◆“地平線”という形のないつながりを形而上的にまとめる不思議な引力をもつ江本さん。西蔵に潜入した先人の足跡をまとめた大巻の完成を祝して、老若男女120名ほどの多様な顔触れが一堂に会した、江本さんらしい祝賀会だった。(影山幸一・本吉宣子


《トークイベントのお知らせ》

■みなさま御無沙汰しています。すっかり家族ライターになってしまった西牟田靖です。最近、手がけているのは、子どもに会えない父親の苦悩やシングルマザーの苦境、離婚調停や冤罪DVなど、旅とか探検とはまったく関係のないテーマばかりです。

◆1月にはそのテーマで新刊を出しました。『わが子に会えない離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)という本です。これは妻との別離によって、自分の子どもと会えなくなり、苦悩している父親たち18人に話を聞いて回ったインタビュー集です。辺境に行かずとも日常にもドラマがあります。

◆4月24日月曜日、本屋とイベントスペースを兼ねた下北沢の「本屋B&B」で、『わが子に会えない』発売記念のトークイベントを開くことになりました。トークのお相手は『空白の5マイル』で鮮烈なデビューを飾って以来、八面六臂の活躍を続けている角幡唯介さん。1人娘を持つ良きパパでもあります。

◆地平線の人たちからしたら当然かもしれませんが、グリーンランドの探検のため、半年とか家を空けるわけです。家庭をそんなには省みず取材に精を出してしまい離婚し、子どもと離れて暮らすようになった私からすると、危なっかしくて仕方ありません(苦笑)。彼を心配するがあまりどうやって探検や執筆、そして家庭を両立しているのか聞いてみたいとお願いしたところ、異色のトークが今回実現したというわけです。もしお時間ありましたら、ご来場よろしくお願いします。(西牟田靖)

『わが子に会えない』(PHP研究所)刊行記念「ノンフィクション作家、二人が家族を語る」
 日時:4月24日 20〜22時(午後7時半開場)
 場所:本屋B&B(東京都世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2階)
 入場料:1500円+1ドリンクオーダー(500円)


今月の窓

栃木県高体連雪崩事故に思う
 ━━事故を風化させない安全教育の充実こそ

 3月27日、栃木県の高体連主催の講習会でのラッセル訓練のさなかに発生した雪崩により、8名の尊い命が失われてしまうというきわめて残念な事故が起こってしまった。今なお怪我の治療にあたっている方も大勢いると聞く。まずもって亡くなられたみなさまのご冥福をお祈りし、お悔やみを申しあげるとともに、けがをされた皆さま、また関係されている多くの方々にお見舞いを申し上げます。

 長く高校山岳部の顧問をしているという立場上、事故発生直後から、マスコミや(私が顧問をしている)長野県をはじめとする様々なところから取材や問い合わせを受けた。軽々にものを言うことはできないが、報道などで分かってきた部分で推察すると、いくつかの疑問や残念なことに思い当たる。端的に言えば、「『なぜあのような状況』で、『なぜあのような場所』で、『なぜあのような訓練』が行われたのか」ということに尽きる。今後の登山界に重大な影響を与えるであろう今回の事故に対しては、再発防止に向けてきちんと総括しなければならない。

 この事故のニュースを聞いて即座に脳裏に浮かんだ事故がある。それは、28年前(1989年)の3月、長野県山岳総合センターの主催した白馬村遠見尾根で行われた高校生の「冬の野外生活研修会」で、研修中に発生した雪崩により研修生として参加していた教諭1名が亡くなったという痛ましい事故のことである。あの事故の教訓が生かされなかったのはなぜかと思うと、痛恨の極みである。改めて事故を風化させてはならないと強く感じた次第である。

 一方で、加熱するマスコミ報道の中で、巷ではビーコンの不所持などが声高に言われているが、そこではビーコンがいかなるもので、それが一台いくらするものかなどを理解したうえで話題にされているとは思えない。ビーコンがあたかもレーダーであるとばかりに、雪崩を感知し、その危険性を教えてくれるものだというような認識で、「持ってさえいれば安全」と思われているふしさえある。冬山登山をする者にとって、ビーコンは送信機能と受信機能を切り替えることのできる電波の発信・受信機であり、その使い方に熟知しない限り、決して使いこなせるものでないこと、まして雪崩感知のレーダーなどではないということは周知の事実だ。

 私が顧問をしている大町岳陽高校は、冬山に入山する際、長野県山岳総合センターから善意でお借りして山行ができる(センターでは高校生の講習のためには無償で貸し出しをしてくれる)というメリットを有しているが、普通の学校ではこのようなことはあり得ない。平均で1台約6万円のビーコンを高校山岳部の必携装備とせよなどというのは、高校山岳部の活動実態を理解しない机上の空論である。ビーコンを持っていたか否かは重要な問題であるには違いないが、しかしそれは問題の本質ではない。

 高校山岳部というのは一つの文化である。そしてその文化の継承は顧問の力に負うところが大きい。高校山岳部が社会人山岳部や個人的な山行と大きく異なる点は、それが高校在学中の3年間に限定されることと、それを指導・引率する顧問が存在することである。3年間の中で生徒をどう育てるのか、顧問の指導如何、力量如何でその活動内容や中身も大きく変わってくる。高校生の冬山登山はスポーツ庁の通達で原則禁止の措置が取られている。しかし、登頂を第1目的としない冬山で様々な体験をさせることは、生徒にはかけがえのない経験をさせることであり、夏冬問わず安全登山の技術を教える上では、きわめて重要な機会である。

 12月から4月、山域によっては6月まで、雪に閉ざされる信州の山をフィールドにする山岳部の活動にとっては、雪の中での活動は避けることのできない現実である。だからといってそこで活動しないことは、安全教育の立場からしても極めて問題があるのではないだろうか。できうる限り安全を確保し、保護者や学校に丁寧に説明して理解を得た上で、山行前にも事前学習を積み、ステップアップしながら様々な生活技術や雪山での体験を積ませていくことは、自立した登山者を目指すということを目的として山岳部の活動を行っている私にとっては生命線でもある。

 事故後最初の長野県教育委員会の定例会で、原山隆一長野県教育長が「登山に親しむのは非常に大切だが、前提として安全を保つための基準作りが必要である。冬山に入るのを一切禁止することはあり得ない」と述べたこともこの延長線上にあるものと理解している。その一方、いくつかの県で自粛や中止が相次いでいる。

 冒頭述べたように、事故が起こってしまったことは、きわめて残念なことであるし、そのことに対しては率直に受け止めなければならない。だが、だからと言って全面的に禁止ということでは、登山界にとっては大きなマイナスである。この事故に関しては、今後様々な角度から検証がなされ、語り継がれることになろうかと思うが、日本の登山界の背負わされた重い十字架として、事故に遭われた方々の死が無にならないようにせねばならない。そしてそれは危険だから禁止という短絡的な方法をとることではないはずだ。危険だから禁止ではなく、危険だからこそ安全教育を徹底しなければならない。そのことが、今、改めて求められているのではないだろうか。(大西浩 高校山岳部顧問)


あとがき

■あらためて、3月20日の「『新編 西蔵漂泊』の出版を記念する会」を開いてくれた皆さんにありがとう、を言います。あちこちのテーブルがなごやかに盛り上がっていて、いちいち私も仲間に入れて欲しくなるいい雰囲気が出来上がっていました。そんな時、この集いは自分のためだけではないのだな、たまにはこういう集まりをやったほうが皆が元気になるんだ、と確信しました。

◆宮本千晴氏らと地平線会議立ち上げた時、私は38才でした。それからまさに38年、人生のちょうど半分を地平線会議という得体の知れない活動とつながりに費やしてきたことになります。いい歳になったので、ひそかに世代交代できないものか、と画策もしたのですが、案外難しいんですね。千晴さんには「天職だ」と決めつけられたし、当分しこしこやるか、と開き直ることにします。

◆高校生の雪崩遭難で急遽「今月の窓」を書いてもらった大西浩さんは国立登山研修所の専門調査委員仲間です。信大を出て、一貫して高校山岳部を育てることに情熱を燃やし、「中信高校山岳部かわらばん」という読み物(不定期刊行と言いながらもう608号を数えている)を書き続けている山男先生。私は、実は高校に山岳部を牽引する教師がいることがどんなに大事か、ということをあちこちで書き、話してきました。今回の遭難があった後でもそう考えています。大西さんはその代表バッターのような人です。

◆今月は「地平線の森」は休載します。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

迷ったら丘に登れ
  〜親子二人のダカール・ラリー〜

  • 4月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「毎日が規格外でした〜」と言うのは、今年一月に開催された第39回ダカール・ラリー(*)に参戦し、見事完走を果たした風間晋之介さん(32)。14才からモトクロスレース(特殊バイクによる未舗装コースでのスピードレース)を始め、16才で渡米。25才頃までプロレーサーとしてモトクロス一筋の人生でした。怪我で第一線を退いてからは、日本の俳優養成所に入り、役者の世界に転進して現在に至ります。

「結婚して子供ができたとき、自分の子供の頃からの夢を叶えたくなった。父と二人でパリ・ダカを走りたいという夢です」。晋之介さんの父親は、バイク冒険家の風間深志さん(66)です。'82年に日本人として初めてパリ=ダカ−ル・ラリーに出場し、クラス6位入賞を果たしました。今回晋之介さんのレースに深志さんはチーム総合監督として参加。「父は憧れの存在だったので、とても心強かった。道に迷ったら丘に登り、五感を澄ませて正しい道を探れ、というような実践的なアドバイスも役立ちました」。

親子二人で挑んだ苛酷な耐久レースはどんな思いを孕んでゴールに至ったのでしょうか。お楽しみに!!

(*)'09年から南米で開催。今年はパラグアイ〜アルゼンチン約9000km 12日間のレース


地平線通信 456号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年4月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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