2017年1月の地平線通信

1月の地平線通信・453号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月18日。2017年初の地平線通信を送ります。この通信が皆さんの手元に届く頃、アメリカ合衆国の新大統領が就任する。1年前には泡沫候補に近い扱いだった人物がほんとうに大統領になってしまうのだ。本命だったヒラリー・クリントン候補のあまりに不人気(彼女ではアメリカは変わらない、との意識なんだろうか)がこのとんでもない新リーダーを引き摺り出す結果となったらしいが、それにしてもだ。

◆自信たっぷりの、好感度は低いが、雇用対策、テロ対策などへの期待度は高い、というヘンな新大統領。140文字で表現するツイッターが発信装置でそのフォロワーは2000万人とか。就任初日から「大統領権限を行使して」いくつかのことを行う、と新報道官はきょう表明したが、一体何が起きるのか。

◆新年を信州・上田で迎えた。我が奥さんの家があるところで、薪ストーブで暖まれるのがありがたい。大晦日には念願の太郎山に登った。上田の市街地を見下ろす標高1164メートルの山。長い間目の前にしながら、いつでも登れる気持ちがブレーキとなっていた。「山の日」にはこういう故郷の山に登るのがいい、とあらためて思った。

◆裏登山道のコースをたどったのだが日陰の山道は雪が意外に溶けずに残っており、積もっていておまけにあちこち凍りついていた。アイゼンの爪跡がしっかりついていて、なるほど簡易アイゼンがあれば楽なんだな、と下りで痛感した。頂上からは北アルプスの山々が一望でき、こんないい山にこれまで登っていないことを反省した。

◆家に帰ると、麦丸と源次郎が待っていた。マルチーズの麦丸はことし5月には11才になる。心臓の病気を抱えてはいるが相変わらず無邪気で時たま咳き込む以外は子どもの時のように元気がいい。源次郎は一昨年の9月、上田城の城跡で奥さんにまとわりついたことが縁で家族となった雄のキジ猫である。推定2才。捨て猫とは思えない見事なツヤ、長い美しい尾を持っていていまでは私にもよく懐いている。源次郎の名はもちろん真田幸村の幼名だ。

◆わんにゃん2匹をあやしながら車で東京に帰ると、なんとなく左目の上のほうに隈がかかったような感じが。近くの眼科が開くのを待って正月明けの4日、診てもらったら、明日この病院に行きなさい、と紹介状を書いてくれ、思いもかけない展開となった。翌5日、代々木駅前の眼科病院の院長は「今日か明日、どちらがいいですか?」と私に尋ねたのだ。

◆網膜剥離。手術は早い方がいいらしい。私はきょう、お願いしますと答えた。生まれてからこのかた入院というものを1日もしたことがない幸運児だが、今回もその必要はなかった。30分あまりで手術は終わり、帰宅した。ただし、当分は安静にし、「これ以上剥離しないように」飛び跳ねるようなことは厳禁です、と。もしや、あのすってんころりんが原因のひとつかも……。

◆太郎山の下りで私は凍った雪道に足を取られ、実に簡単にすってんころりんをした。底がつるつるに磨り減った古い靴がいけなかった。新しい靴を購入していたのに、けちったのだ。同行者がいるので正直に言うと「11回も滑った」んだそうだ。その都度多少は頭部に衝撃が走ったであろう。網膜の老化もあるのだろうが、自分の木体を支える筋肉量が落ちてバランス力を欠いていたことも間違いなく原因のひとつではないか。

◆日本老年医学会はこの5日、「65才以上は高齢者と呼ばず、75才以上としよう」と提言した。その通りだと思う。トランプを見ろ、70才であんなにぎらついていてなおなお好き放題やろうとしているではないか。が、この「高齢者底上げ措置」も私にはほぼ関係がない。外見も実質もまぎれもなく高齢者なのだ。

◆その後、経過は順調だが、左目にはガスを注入されているので、いつもぐるぐる動いている感じがある。辛いのはうつ伏せに眠らなければならないことだ。もう2週間、私は仰向けに寝ていない。やってみたらわかるが、うつ伏せに眠る、って大変なことだ。腕をどこにどうおけばいいのか。同じ姿勢でいるとそのうち足のふくらはぎがつってきたりする。

◆2017年、トランプだけでなく、天皇の退位問題などことしも内外にいろいろな事か起きるだろう。それに備えて目が回復したら私は真剣に筋肉を鍛える事を考えよう。皆さん、そんなわけなので雑事は手伝ってね。(江本嘉伸


先月の報告会から

星に牽かれて乱海を渡る

光菅 修

2016年12月23日 新宿区スポーツセンター

■2016年を締めくくる報告会。久しぶりに足を運ぶ地平線古参のメンバーや、報告者のお仲間も多数集結し、会場は熱気ムンムン100名超えの盛況ぶり。この春、パラオからグアムまで約2500km、約2ヶ月間に及んだ航海に伝統航海カヌーの乗組員として参加した光菅修さんが航海中の海パン姿で登場。開口一番「私にとっては初めての航海でした」の発言には「え!? ぶっつけ本番だったんかーい!」と取り急ぎツッコまざるを得ない。幼少の頃から水恐怖症だった光菅さんは、なんと先月末に初めてクロールで25m泳げるようになったらしい……。

◆趣味はムエタイ、サーフィン、絵を描くこと。普段は海外の発電所や化学プラント建設に携わる会社の現場監督として、これまで中国、タイ、サハリン、ナイジェリアなどサラリーマン生活の6〜7割を海外赴任先で働いてきたという光菅さん。「今回は皆さんに航海の追体験をして貰えれば……」と航海中に口ずさんでいた歌と共にスライドショーが流れると、会場は辺り一面大海原に浮かぶカヌーの船上へと様変わり。その臨場感が聴衆を一気に航海の現場へと誘ってゆく。

◆古来から伝えられてきた、星の位置や海鳥の飛ぶ方角等を頼りに風や海のうねりを利用して島から島へと旅をする遠洋航海術は文明の発達と共に衰退の道を辿ってきたが、40年程前にミクロネシアのサタワル島の伝説のナビゲーターであるマウ・ピアイルグ(通称パパ・マウ)が門外不出の航海術をハワイの人達に伝授したことから、近年世界各地で息を吹き返し始めている(別名スターナビゲーションと呼ばれる)。

◆そのパパ・マウの息子のセサリオが今回の旅のカヌーのキャプテンを務める。初参加の光菅さんを含めクルーは10名。うちミクロネシア離島出身者はキャプテン・セサリオとその息子ディラン(若干7歳!)、ミヤーノ、アルビーノ、ノルマン。パラオ出身者のロドニーとムライス。アメリカ人女性のエリーと日本人女性のカズ。ベテランから数回と航海キャリアはさまざまで、皆英語が達者な面々だ。

◆カヌーの名は「マイス」(皆と分かち合うパンの実の意)。全長15mで推進力の要となる大きな帆と重量100kgの大きな舵が装備されたシンプルな構造。中央にはキッチン、両端にはバンクと呼ばれる寝床が8つあり、船上作業は朝夜のシフト制なので、最大乗組員は16名程。通常ハンモックで眠るが、船の揺れと噛み合わない為に酔ってしまうので光菅さんはずっと平らなナビゲーションシートの上で寝ていた。トイレ(大)は後方部の出っ張りに足をかけてロープを掴みながら用を足すのだが、嵐の日に催す際には命がけだった。

◆今回の航海は5月22日に開催される太平洋芸術祭に参加するため、ミクロネシアの離島6島を経由しながらグアムを目指した。カヌーの補修や食料の積み込みなどの準備期間を経て、3月15日昼過ぎ、パラオを出港。地元クルーの家族達がいつものように皆を見送るなか「実は一番怖かった」と光菅さん。最初にしたのは棄権証書の契約書へのサイン。航海中、仮に亡くなった場合には、簡単な水葬をして海に流しますという内容。ワクワク感よりも「出港したら戻れない。やっぱり止めようか。」との不安の方が大きく勝っていた。

◆パラオを出港して直ぐに光菅さんは後悔することとなる。船酔いが酷く3日目には全てを吐き出し、持参した1ヶ月分の酔い止め薬を呑むことを諦めた。島に寄り出港する度にぶり返すので島に寄るのが怖かったと話す。それでもとにかく海は蒼く、時に幻想的な満月の下をカヌーは進んでゆく。船上作業は教えてはもらえない。見よう見まねでロープワークやタッキング(何度も帆の位置を変える)を覚えた。

◆最初に目指したングルー島(パラオから350km)には10日程で到着。ここは一家族しか住んでいない島。たくさんの海鳥が繁殖する時間が止まっているような場所。島に一家族で暮らすってどんな人生なんだろう? 光菅さんの体はヘロヘロだったが上陸の際には “ここから別の世界が始まるような感覚” を覚えたという。島人にとってウミガメは貴重かつ大好物な食料で、燃やしたヤシの葉に生きたまま丸ごと焼べて豪快に調理する。

◆卵は大きいイクラのような味わいで、肉の部分は牛肉に似ているがにおいが強烈なんだそう。たまたまヤップ島から漁船が来ていたこのタイミングで光菅さんは「ここで旅を止めよう」と思った。会社に戻らなくてはならないし、船酔いも酷い。しかし翌日の出港までに頼む機会を逃してしまう光菅さん……。この先大丈夫だろうか?聞いているこちらもだんだん不安になってくる。

◆次に目指すのは700km離れたウォレアイ島。舵取りは必ず誰かが就いていなければならない重要な任務だ。舵の前にはコンパスが設置され、教えてもらった星の位置を見ながら大体の角度を合わせて覚えていく。例えばングルーから東方にあるウォレアイを目指す場合、カヌーを真北と南東へ交互に蛇行させる必要がある為、北極星とさそり座を目安に操舵する。次第に星をみることでずれている角度が少しづつわかるようになっていったと話す。

◆嵐は突然にやってきた。一週間程最大5mのうねりが続き、時々セイル(帆)を降ろさざるを得なかったが、その度にカヌーは南に流された。2011年にはマイスがパラオからウォレアイまで4日間で通過したというこの海域は、ングルーからウォレアイまで結局3週間も費やす最大の難所となった。さらに思わぬ事態は続く。それは嵐の少しおさまった時のこと。タープの張り直し作業をしていたノルマンが突風に煽られた拍子にロープを掴み損ねて海に落ちたのだ。その直後にアルビーノが海に飛び込んだ。

◆深夜のシフトを終え、うたた寝中だった光菅さんは最初は何が起きたかわからなかった。波間から顔だけ出しているノルマンは自力で泳ぐそぶりを見せず動かない(この時ノルマンは高血圧状態で意識が朦朧としていたらしい)。セサリオが号令をかけすぐさまセイルを降ろした。風はある程度おさまっていたもののセイルを降ろす数分間でカヌーは進み、ノルマンの姿は30m後ろに流されていた。うねりは大きく時々彼の頭が見えなくなる。

◆その瞬間、光菅さんは「ああ、彼はこのまま死ぬんだ」とあたり前のことのようにその死を受け入れていたという。「彼がいなくなったらこの先のシフトはどうなるのだろう?」と次にやるべきことを冷静に考えている自分がいたと振り返る。指示通りにセサリオに手渡したロープは海に投げ込まれ、スルスルと波間を流れていった。その時のロープの白さを光菅さんは今でも鮮明に覚えている。やがてアルビーノがノルマンの元へ辿り着き、彼らは無事に助け出された。瞬時の判断とチームワークで難を逃れたが「何かあれば簡単に死んでしまう」と痛感した出来事だった。

◆ここで一旦時計の針を戻し、光菅さんがこの航海に至った経緯を駆け足で。2000年に石川直樹さんのPole to Poleの新聞記事を見つけ、スターナビゲーションの響きに魅せられた光菅さん。同年、アフリカ縦断を終えた後に「現地の人と一緒に働きたい」との想いから今の会社に就職。2006年にハワイでマイスの建設のことを知り、セサリオに直接電話してカヌー作りの手伝いに参加した。

◆帰国の日、パパ・マウが言った「来年お前も航海に参加するんだろ?」。マイスをサタワル島に届ける旅のことだった。翌年には伴走船から完成したマイスの航海を間近で見届け、サタワル島ではセサリオがナビゲーターに選ばれた任命式に立ち会った。カヌーに乗れなかった光菅さんをパパ・マウは「俺が若かったらお前を乗せてやる」と労ってくれた。その言葉が嬉しく、帰途につく頃には「自分の関わったマイスに乗りたい!」という想いが強く沸き上がっていた。

◆2013年、マイスが沈没したとの知らせを受け、パラオに船の様子を見に行った際、「いつか航海に参加したい」とセサリオに自分の意思を伝えると、彼は快諾してくれたのだった。2015年、光菅さんは精神的にも身体的にもバランスを崩してしまいナイジェリアの現場から帰国し、医師からは長期休業を勧められた。その時2007年のサタワルへの航海以降、何度も読んだ「海辺のカフカ」の物語の登場人物に自分を重ねた。自信をなくしていた光菅さんは「社会復帰する為に自分の心と体が耐えられる状態になっていることを確認したい」その一心でこの航海への参加を決めたのだった……。

◆航海30日目、ウォレアイ島に上陸。ウォレアイ環礁では戦中7000名いた日本軍の守備隊のうち5000名が餓死している。滑走路や防空壕や零戦をはじめ、未だに島には旧日本軍の兵器の残骸が残っていた。発電所やミクロネシア唯一の高校があり、離島の中の都会のような雰囲気。ここでは島の女性達も腰巻き一つの上半身裸で暮らしている。パンの実やロブスターなどの島料理を食べては、毎晩ヤシ酒を呑む。

◆船出前のセレモニーではクルー達には花の冠と首飾りがあしらわれ、体中にターメリックパウダーを塗ってもらった。このパウダーは日焼け防止の役割も担うが、元来遺体に塗る死装束としての意味もあり、かつて先人達が決死の船旅をしていたことを物語っている。航海の無事を祈願して歌ってくれた女性達による美しい歌声のシンフォニーは言葉の意味はわからずとも心に響いた。

◆次のイフルーク島には一晩で到着。ここはノルマンの故郷で親族達が豚を潰して歓迎してくれた。この頃から光菅さんは島を離れて前を向き帆を上げると、後ろの島が瞬時に記憶に変わるような感覚を覚えた。それは精神バランスをとるために自然と身に付いた“後退せずに前を目指そう”とする意識の変化なのかもしれない。雨が降るとシャワーの準備を始めたり、途方も無く暇な時間の受け流し方なども習得し、光菅さんは心身ともに航海にだいぶ馴染んできた様子。

◆さらに5日間かけてエラトー島を経由し、ほど近いラモトレック島に着く。日本人の血を引く人も多いこの島には日本人のお墓もあった。タコノキの葉を使い伝統的なカヌーの帆を織るのは女性の仕事だ。今では2、3人しか担い手が遺されていないという貴重な現場。男達がヤシの実の繊維から紡いだ糸で帆を繋ぎ合わせて完成させていた。

◆サタワル島は2007年に続き2回目、今回はマイスに乗っての訪問。さすがは航海術発祥の島、舟を漕ぐたくさんの子供達が迎えにきてくれた。何時しか光菅さんのなかで “いくつかの海と嵐を越えなければ辿り着けない神聖な場所” となっていたサタワル島。念願の航路、時間の重み。「やっと自分はこの島に辿り着く資格を得た」という感慨がこみあげたと語る。パパ・マウは2010年に亡くなり、この島で眠っている。セサリオはマウの16人中14番目の兄弟で、マウの曾孫達で賑やかな大家族が暮らしていた。サタワル島だけ海抜が高く、遠くまで見渡せるが故に、この島の人達が遠くを目指す土壌になったのかもしれない。他の島人よりも好奇心が高く心の垣根が低いことから、パパ・マウがハワイに航海術を伝えたのも納得出来ると話す。

◆たくさんの人達に見送られ、一路サイパンを目指す。光菅さんは既にだいぶ力まずに舵が取れるようになり、自分と舟の一体感を楽しむほどになっていたのだそう。マリアナ海溝を越えるうねりの高い海域だったが、900kmを5日間で順調に走破してサイパン上陸を果たし、世界の縁から日常に戻って来れた安心感に包まれたという。サイパンには時間調整のため12日間滞在し、グアムまでの3日間の航海には新しいクルーが10名程乗り込んできた。海の写真を撮ったりしていたという光菅さんは、初めての長かった航海の旅の終わりに万感の想いを噛み締めてシャッターを切っていたことだろう。出航から68日目、マイスはついにグアム島に到着! 翌日の祭りに備えて沖合に停泊したのだった。

◆航海のお話しは終幕を迎えたと誰もが思った時、光菅さんは神妙な面持ちで立ち上がり静かに話し始めた。実はグアム上陸の日の未明にクルー全員にとってとても悲しい出来事が起こったこと。それは優しく頼りがいのあるかけがえのない一人の仲間の命を失ったこと。その顛末を絞り出すように語ってくれた光菅さんの震える声から、いまだ受け止めきれない感情と故人への感謝の念が充分に伝わってきた。光菅さんには話すべきかの葛藤があったようだが、報告会でこの航海の話の事実を伝えきることは、何よりも航海そのものにとって大切なことだったように僕には感じた。

◆光菅さんのナビゲーションにより、観衆一同が時空を超えるような航海に誘われた報告会。何と言っても緻密に編集された15本のスライドショーは、まるで自分も本当に一緒に旅をしているようで圧巻だった。日々刻々と変わる海や空や船上の風景。航海の時系列で結ばれた島々の写真群は、島ごとの暮らし振りの違いまで感じることが出来て楽しかった。光菅さんの口ずさんでいた歌からは、航海中の光菅さんの心情が伝わってくるようで素敵な演出だった。

◆「周りを海で囲まれた時、自分がどのように感じるのかを知りたかった」。光菅さんがこの航海参加に掲げた動機は驚く程にシンプルな想いだった。自分が憧れた旅(対象)に対して、自分の抱くイメージ(仮説)と、現実とのギャップを埋める旅(実証)。「目の前の “体験したい”ものを消化していきたい」その好奇心は「食欲に近い」との言葉になるほどと思った。

◆思い立ったら現場に直行し、ひたすら純粋に全身で感知する一瞬の感覚。その一つ一つこそが光菅さんにとっての旅の醍醐味なのだ。「実際には船酔いでそれどころではなかった」と苦笑する光菅さん。水の恐怖を克服し、過酷で濃密な本物の航海を乗り越えてゆく姿はまるで彼の人生の大切な通過儀礼を見ているようだった。これからもたくさんの人達に貴重で本物の現場体験を届けていって欲しいと願っている。(車谷建太)


報告者のひとこと

地平線会議で自分の旅の話をさせて頂くことは、学生時代からの夢でした

■この文章を僕は今New Yorkに向かう便の中で書いています。今飛行機は五大湖の上空を通過するところです。あと2時間もすれば、JFK空港に着くでしょう。昨夜の地平線会議について、正直うまく言葉が出ません。ただただ会場に来て下さったみなさんに感謝したいです。

◆ミクロネシアの航海が終わり、5月に帰国して、まず足を運んだのが地平線会議でした。その場で代表世話人の江本さんからもらった「(地平線を目指すものとして)立派になったな」という言葉は、一生忘れないと思います。地平線会議で自分の旅の話をさせて頂くことは、学生時代からの夢でした。その夢に応えるために、昨日まで準備をしてきました。

◆実は報告会用の原稿は最終的に40,000字程になり、練習をしてみたら案の定時間内に収まらなくて、かなり削りました。それでも、昨夜は時間内に収まらず、話し切れなかった内容もあり、ライヴの難しさを知りました。2時間半という長丁場で、自分の個人的な話を会場に来てくれた人達に楽しんでもらうことができるのか、正直不安もありました。でも、終わった後、「楽しかったよ」とか「すごくよかった」という声をたくさんの方に頂きました!! 本当にありがとうございます!!

◆スライドに合わせて選んだ楽曲も、たくさんの方に褒めて頂けて、それも嬉しかったです。今回、地平線会議の場だからこそ、できた話もありました。終わった後、江本さんからも、「いい報告だった」と褒めて頂きました。報告が終わった後の会場のみなさんから頂いた拍手の音は、これからも忘れることはないと思います。今は満足感でいっぱいです。次の地平線はまだ見えませんが、自分が興味を持てることを大切にし、一本一本糸を紡ぐようにこれからも行動していきたいと思います。改めて、昨日はありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。(光菅修


報告会を聞いて感じたこと

■今回お話を聞いて、僕は「この旅ができて無事に帰れて満足しましたか?」と質問しようと思っていました。ですが、最後のクルーの死の話を聞き、このような質問をするのはやめようと思いました。亡くなったクルーが、どんな時にも弱音を吐かず見えないところで支えてくれた、とても大切な人だということが伝わって、その時どんなに悲しかったかが僕にはわかりました。

◆カメの丸焼きのシーンが残酷でしたが、島の人には生きていくために必要なものです。でも、僕にはとても食べられそうにありません。出発の儀式で体に塗るターメリックパウダーには、死装束の意味があることを知り、おどろきました。航海の無事を、みんなが強く祈っているということを感じました。航海をして終わりではなく、おはか参りや、お礼を言いに再び島に訪れたところまでが、今回の旅だとおっしゃっていたことが心に残りました。(長岡祥太郎 小学5年)

手作りケーキ、喜んでもらえてよかったです

 「継続は力なり」 これは夫原健次が座右の銘として壁に残した言葉です。

 まさに38年も毎月欠かさず通信を発行し報告会を開いて来られた地平線会議の皆さまにある言葉でもあると思います。

 12月の報告会のために2か月前に江本さんから「お菓子作れますか?」とお電話が入っていました。そろそろそういうお電話があるのかなと思っていたそのタイミングでした。

 今回は皆さんが切り分けて食べやすいようにとオレンジケーキとブラウニー、ロールケーキそして柚子の皮の砂糖煮の4種でした。

 私の予想では50人分位を目途に送らせていただきましたが、当日は祭日でもあり遠くからも大勢の方々が光菅修さんの報告会を聴きに集まられたそうで、皆さんで小さくちいさく分け合って味わってくださったと聞きました。

 私も何度か報告会には参加させていただきましたが、毎回純真な大人の限りなき好奇心の発表の場に身を置くことの心地よさを感じました。

 そんな皆さんの夕方の空腹を少しでもやわらげ和やかな雰囲気作りに一役買うことが出来たでしょうか。

 これからも地平線会議が多くの方々を巻き込み続ける存在でありますよう、通信の届く日を楽しみに待っています。(宇都宮市 原典子)  


報告会の後、3人の見知らぬ方から原稿が届きました。どうやら光菅さん自身が、自分宛に寄せてくれた感想を一人で読んでいるんじゃもったいない、江本さんにも送ってくださいと、ネットで呼びかけたようです。全文を掲載するのは誌面の都合で難しいため、ほんのサワリだけ紹介します。(「……」の部分を省略しています)

◆報告会に行けて、本当に良かったです。お話、とても引き込まれました。なかでも最後のお話がとても印象的で、生と死について感じ、考えるきっかけをいただきました。「彼は、人生の最高の瞬間に自分の人生を終えたかったのかもしれない。でも、それなら僕は、これからの人生でもっと最高の瞬間をつくれることを証明したい」と光菅さんがおっしゃっていたのを聞いて。生きることも死ぬことも意思であり、本人の選択次第なんだということをあらためて考えました。

 ……その他のお話もとても楽しく、海、空、夕日、朝日、色鮮やかなレイ、島の人たちの澄んだ笑顔、写真が綺麗で、旅の最中に口ずさまれていたという選曲のBGMも心地よく、なんだか光菅さんの旅を追体験させてもらったような不思議な時間で、私もまた旅にでたくなりました。[秋山洋子


◆はじめまして。先週の地平線会議に出席させていただいた小島と申します。…発表者に任せきりではなく、スタッフさんがとても濃く関わっている姿が素晴らしいと思いました。発表中に投げかけていた質問もとても的を得たもので、長年の経験で培われたものなのだろうなとびっくりしました。たくさんの人の思いがこめられているのが伝わってきて、とても居心地のいい空間でした。

…光菅さんという方は、「人によく思われたい」「人にどう映るか」よりも、ありのままの自分をそのままさらけ出しているような、そんな印象を受けました。ムエタイやサーフィンなどチャレンジ精神旺盛な一方で、メンタルにやや不安定な部分もあり、アンバランスさを持った方ですね。ただ、あそこまで自分の内面をさらけ出せるのは、自己開示力が高く、自分自身が自分をきちんと受け入れているからなのかなと思いました。……[小島恵


◆はじめまして。…光菅君の大学時代の同級生で、一緒に美術部に所属していました。今は群馬で建築家をしています。…光菅の発表を聞き、彼が言葉を大切にしていることに感動しました。自分の身体の五感が感じたことを、なんとか言葉にし、聴衆に伝えようとしている。それは、武勇伝のようなものではなく、彼の口から出てきた等身大の体験談でした。自分自身を客観的に見、「〜と感じたのだと思います。」と述べる姿は、昔から変わりません。自らを物語の登場人物として語る故に、最初から最後まで聞き入り、小説を読んだような気持ちでした。

動画、写真、朗読といった、用意周到な彼の手法が彼の旅を追体験させ、波に揺られている心地でした。…光菅の「ぼーっとするのがうまくなってきた」という言葉に、立場は違えど共感しました。でも彼のそれは、感覚を研ぎ澄ませたその向こうに見える体験なのかもしれないとも思いました。……[藤野高志


地平線ポストから

何かを変えたい 2017年モンゴル冬景色

■昨年末モンゴルへ向かう飛行機で、玉ノ井部屋所属の十両四枚目・東龍関と隣の席になった。本名がトドビレクさんなので愛称がトドになったこと、力士がつくる料理はハンバーグでもなんでも「ちゃんこ」と呼ぶこと、朝青龍に憧れ14年前から日本で闘い続けていることを、缶ビール3本を速攻で飲み干し教えてくれた。落ち着いていて時々にっこり笑う、不思議な魅力のある人だ。

◆人生の半分を日本の土俵に賭けてきた東龍関が来日以降ほとんど里帰りできていないのを知って、私は昨夏わんぱく相撲で出会った少年力士ソソルフのことを思い出した。今月末開催の白鵬杯に出場する小学6年生のソソルフは、将来日本で横綱になるため、バヤンホンゴル県の遊牧民家族のもとを離れてこの春日本の中学校に入学する。

◆私がモンゴルに着いた12月26日、首都ウランバートル(UB)で大きなデモが決行された。SNSの呼びかけでスフバートル広場に集まった母親たちが、大気汚染の改善を政府に訴えたのだ。UBの大気中PM2.5濃度はピーク時で1985μg/1m3もあり、WHO推奨値の80倍で北京の5倍深刻(1月の東京は20μg/1m3前後)。病院は気管支炎の子どもであふれ、一つのベッドを8人の子がシェアしたという話も。一番の汚染原因は郊外に広がるゲル集落から出る石炭の煙で、白く霞んだ空気を吸いこんだときは私も絶望感でいっぱいになった。

◆大気汚染、病院や学校校舎の不足、若者に多い肝炎、不景気……。国内の課題が山積みのモンゴルは、対外的にも大問題に直面していた。昨年11月末にダライ・ラマ14世がモンゴルを訪れたことに不快感を示した中国政府が、外交を停止して圧力をかけている。モンゴル外務大臣が「ダライ・ラマをモンゴルへもう招かない」と中国に謝罪したので、今度はダライ・ラマを敬愛するモンゴル国民が怒っている。

◆ダライ・ラマはなぜやって来たのか? 2012年に亡くなったチベット仏教三大高僧のジェプツンダンパ・ホトクト9世がモンゴルに転生したとの噂が流れていて、ダライ・ラマもこれを認めた。9世が亡くなる直前、ダライ・ラマは「来世モンゴルで生まれ変わりなさい」と告げたという。広大な草原のどこかにいる10世はまだ幼すぎるので、公式な即位の発表は2、3年後になるとダライ・ラマはメディアに語った。もちろん今後きっと、中国側も別の10世をたてるだろう。

◆冷えきった経済が冬をよけい寒くしているように思えた。モンゴルは今年からドル建対外債務の返済をしなければならないが、ドルに対しモンゴル通貨トゥグルグの下落が止まらず返済額が一部膨れあがり苦しい。デフォルトを避けるためIMF(国際通貨基金)と中国のどちらに助けてもらうのか、もうすぐ結論が出るはずだ。草原は前年に続いて厳しいゾド(雪害)に襲われていて、マイナス56度を記録した地域もある。

◆そんな状況でも、年末のUBはクリスマスソングとツリーの飾りつけで華やか。モンゴルのクリスマスは12月31日が本番なので、ドレスアップして新年会へ行ってきたとか、家族でシャンパンとケーキを囲んだとか、みんな浮き足立って嬉しそう。のどが痛いと嘆く友人たちも相変わらず冗談好きで明るいし、子どもたちはりんごにペンを突きさしてPPAPごっこに夢中!

◆今回の旅の一番の目的は、『Mongolian Economy』という雑誌編集部を訪れることだった。この雑誌は経済や政治に関する話題を扱う独立系メディアで、モンゴルのマガジン・オブ・ザ・イヤー2016に選ばれたばかり。英語併記のため駐在外国人のビジネスマンにとっても貴重な情報源で、私も愛読者だったが、縁をいただいて昨年末から寄稿させてもらうことになった。6年前にこの雑誌を立ち上げた編集長と副編集長はウヌードゥル新聞の女性記者だった2人。彼女たちに男性記者たちも加わり会議室で輪になったとたん、「日本は世界で愛される牛肉をどうやってつくっているの?」「モンゴルビジネスに関心のある日本人は多い?」と次々質問が飛んできた。

◆派遣社員を辞め編集者・ライターとしてフリーランスになった4年前、モンゴル通いを11年ぶりに再開した。モンゴルのことを知りたくても日本で得られる情報が少ないので、都会でも草原でもモンゴル(っぽい)人を見かけたら声をかけて友達になり、いろいろ教えてもらっている。ばったり知り合ったモンゴル人は200人を超え、学生や会社員もいれば政治家や記者や画家もいる。彼らに脈々と流れるむきだしのラテン気質が、楽しいカルチャーショックを与えてくれる。

◆2017年は日本とモンゴルの外交樹立45周年にあたる年。モンゴルにとって初のEPA(経済連携協定)の成果が出始める(と思いたい)重要な時期だし、日本のサポートでできた新国際空港も(順調にいけば)オープン予定。新空港はUBの南西50kmにあり、現在のチンギスハーン国際空港より格段にグレードアップした施設で、北東アジアのハブ空港になることが期待されている。

◆政治的には友好関係にある国同士、一般の人たちの間でももっと交流や理解が深まったらいいなあ……! 人口300万人、経済規模は小さいけれど、「朝青龍」と草原のほかにもユニークなものがたくさんある国。日本の大相撲の現役横綱3人を独占し続けているというだけでも、すごい! 日本ではモンゴルについて、モンゴルでは日本についての話題がもっと増えるよう、私にも何かできないかとぐるぐる思案している。(大西夏奈子

「不沈空母」地平線会議の「受けたい授業」

■昨年8月号からの新米読者であるにもかかわらず、9月号に感想を掲載していただきました。「しっぽまで、あんこの詰まった鯛焼き」毎回おいしく感謝完食しております。さて、唐突ながら、予備校時代に毎回講談のような授業をされる日本史の名物講師がいて、私は面白い話に触発されて別の事を夢想し、夢想が終わると、またその授業に戻る、その繰り返しという稀有な体験をしました。ちょうど航空母艦を離艦した艦載機が、上空をしばし舞ったあと、また母艦に戻るといった具合です。

◆5回ばかり通信を読ませていただき、もしもこれらの報告会に立ち会うことができれば、同様の事が起きるのではないか、と思いました。報告会は、世界を旅した若者がしばし翼を休める場所です。しかし単に休むだけではなく他の人の報告を聴いたり、自分が報告する側になったりする。そしてまた飛び立って行く。その場自体が、何かに向かって波を蹴立てて進み、何かと戦っているような気がする。そしてその艦載機たちは時々ヒロシマに飛来し、爆弾ならぬ感動の雨を降らせる……。

◆私は広島県山岳連盟の「山岳辺境文化セミナー」という講演会の担当です。主担当となった2001年からの講師を敬称略で挙げさせていただくと、椎名誠(作家・映画監督)山田淳(登山家、当時セブンサミッツの世界最年少記録保持者)大田祥子(医師)岩崎元郎(NHK登山学講師)渡邉玉枝(登山家)関野吉晴(医師・探検家、2年連続)服部文祥(サバイバル登山家)山野井泰史(登山家)山本正嘉(大学教授・登山家)三浦雄一郎(プロスキーヤー)石川直樹(写真家)竹内洋岳(プロ登山家)角幡唯介(探検家)関野吉晴(3回目)高野秀行氏(ノンフィクションライター)

◆関野氏の時には江本氏に特別に仲介の労を取っていただき、感謝しております。それ以外の人選は、我々スタッフの協議で決めましたが、結果として、ほとんどが江本氏にご縁のある方々で占められていることに改めて驚きます。スタッフをすると、講師と身近に接することができ、「あれれ」と思うことがよくあります。例えば関野氏。大学の特別講師として年に1回来広するタイミングで講演会をセットしたので、大学側と連絡をつけるために大学の担当者の名前をお聞きすると、先生おっとりと微笑されてのたまわく、「知らない……」ええっー!

◆その時、「ああ、この方は自分の興味のあるエリアには、それこそ命がけで根源的圧倒的徹底的に肉薄を試みるが、それ以外にはまったくエネルギーを使わない超省エネタイプなんだな」と思いました。講師の方々が、我々に比べより本質的な生き方をしていると仮定するならば、それに驚く私の方が、人生や幸福というものについて、何かとんでもない心得違いをしているのではなかろうか……。

◆報告会の現場に居て私が夢想するのは、おそらくそのような事だろう。そしてそれは講師が誰であろうと、私の人生にとって「最高の授業」になるだろうと確信しています。(豊田和司 広島県山岳連盟事務局長)

3.11以後、高校山岳部の生徒が増えている……

■毎月、地平線通信の届くのを楽しみにしております。興味深いお話をたくさん読ませていただき感謝申し上げます。小生、長野県の高校で山岳部の顧問をしています。今から10年くらい前までは、どこの学校の山岳部も部員難で、拝み倒して生徒を募集しているような状況でした。ところが、ここ数年高校山岳部の生徒が増えているという実感を持っています。全部が全部増えているというわけでもないのですが、子どもの数が減少している中で、全国的な傾向としては間違いなく増加していると思います。

◆2011年に東北の地震とそれに続く津波で多くのものを失い、それに追い討ちをかけるように発生した原発の事故を目の当たりにし、科学文明の愚かさに気付いた子どもたちが、本来的な人間のあり方を求めているといったらおおげさでしょうか? あながちこれは的外れとは思えないのです。

◆豊かな自然の中に行くだけで、子どもたちはそこからいろいろなことを感じ、学んでいきます。そんな子どもたちと山へ行き、夢を語ること、そこに教師としての喜びを感じながら日々活動しています。(長野県:大西浩 高校教諭)


先月号の発送請負人

■地平線通信452号、12月14日夕、印刷、封入作業を行い、15日新宿局に託しました。以下の13人の人が来てくれたのでスムーズに進み、「北京」で楽しく打ち上げました。皆さん、ありがとう。下川さんは初顔の19才、早稲田大学探検部の学生です。光菅修さんのトークを聞いて地平線会議のことを知り、駆けつけてくれたそうです。なかなか面白いことに挑戦しているらしい。詳しくはそのうち。
  森井祐介 伊藤里香 下川知恵 山本千夏 兵頭修 前田庄司 白根全 落合大祐 中嶋敦子 江本嘉伸 久島弘 光菅修 松澤亮


北極点行至難の時代 その最新情報

■いま、北極点への挑戦はこの数十年の歴史の中で最も困難になっている。私が最後に北極点への挑戦を行った2014年以降の2シーズンは、世界中で誰一人として実行できていない。実行したくてもできない現状があり、一つには近年の気候変動で薄くなった海氷の問題、そしてもう一つの要因が、カナダ側の飛行機会社が北極海へのチャーターフライト業務を停止したことだ。

◆北極点挑戦にまつわる現状を正確に理解するためには、まず、予備知識を幾つか説明する必要がある。北極点への挑戦を行うには大きく分けて二つのルートが存在する。カナダの最北端の陸地をスタートして北極海氷上を直線距離で約800kmを踏破する「カナダ側」と、ロシアのシベリア北岸にある島からスタートして約1000kmを踏破する「ロシア側」の二つだ。

◆それぞれのスタート地点から分かる通りに、北極点挑戦へのスタートは必ず「陸地」を出発するという暗黙のルールがある。高所登山と違って、海抜0mの北極海上では、平坦な海氷上であればどこにでも飛行機で降りることができる。極端に言えば、北極点からほんの100m離れたところに飛行機で乗り込んで、5分ほど歩いて北極点に到達して「俺は一人で歩いて北極点到達を果たした!」と言えてしまう場所なのだ。

◆陸地をスタートする冒険行の困難さは、踏破距離の長さと冷え込みの厳しい時期に出発することによる気候の厳しさ、荷物の重さ、海氷の動きの激しい箇所を通過するリスク、全てが詰まっており、その困難を乗り越えて到達することに面白さと意味があると、多くの冒険家たちは考えている。

◆カナダ側ロシア側のそれぞれのスタート地点は、人間が住む場所から1000km以上離れた無人地帯である。スタート地点までの移動に必要なのが、現地の民間航空会社が行うチャーターフライトだ。カナダ側であれば極地冒険の「聖地」レゾリュートからチャーターした飛行機が最終的に降り立つ場所が、北極海に面するカナダ最北端部のディスカバリー岬である。1909年に北極点世界初到達したとされているピアリーが出発したのは、その東にあるコロンビア岬。1978年の植村直己さんも同様だ。

◆ピアリーの時代はほんの6年前にライト兄弟が有人動力飛行を成功させた頃であり、北極での航空機利用が存在していなかった時代だ。彼らはニューヨークから汽船によって北極海沿岸まで自力で行き、年をまたいで北極点挑戦を行っていた。植村さんの時代となると、出発地点まで航空機で移動し、北極点到達後は再びチャーター機でピックアップを受ける、というのが一般的になった。

◆つまり、現在の北極点到達を目指す手法では、チャーター機の利用がどうしても必要になっているのだ。私が最後に北極点挑戦を行ったのが、2014年にカナダ側からだった。この年のシーズンを最後に、カナダ側でチャーターフライトを行っていたケンボレック社がチャーターサービスを無期限で停止した。植村さんの時代には、ケンボレック社とブラッドレー社という2社が存在していたが、ブラッドレーのあとを引き継いだファーストエア社が2003年にチャーター業務を停止して以来、ケンボレック社のみがサービスを提供していた。

◆そのケンボレックもチャーターフライトから撤退したことで、カナダ側の北極点挑戦は事実上できなくなってしまったのだ。なぜケンボレック社がサービスを停止したかと言えば、そもそもリスクの高い北極海へのフライトと氷上へのランディングが、近年の海氷減少もあってよりリスクが高まっている、と、保険会社が判断して航空会社が支払う保険料その他経費が増大しているため、と思われる。

◆しかし、まだロシア側が残されている。ロシア側から北極点に挑戦するには、北極海沿岸のセヴェルナヤゼムリヤ諸島のコムソモレツ島から出発することとなる。1000kmほど南の街「ハタンガ」からカナダ側同様に出発地点へチャーター機で移動するのだ。ロシア側では今でも変わらずにチャーターサービスは継続している。しかし、ロシア側からの北極点挑戦における最大の問題は、近年の急激に薄くなった北極海の海氷による影響をダイレクトに受ける、ということである。

◆北極海航路の利用も現実味を帯びる昨今、北極海氷の減少はロシア側沿岸が特に顕著である。2016年春にもイギリス人3人組がロシア側から北極点挑戦を計画して現地入りしたものの、出発地点コムソモレツ島の目の前が数十kmに渡って海が割れ、氷上を行くことが不可能となり出発できずに断念している。近年は、この例が非常に多い。端的に一言でまとめれば、海氷は安定しているがチャーターフライトが利用できないカナダ側、チャーターはあるが海氷が安定しないロシア側、という現状があるのだ。

◆私は、北極点挑戦は諦めていない。そして、挑戦するのであればやはりカナダ側であろうと思っている。ロシア側の海氷は、ギャンブル性が強すぎる。私はカナダ側でも挑戦の可能性はあると思っている。チャーター機に頼っていた出発地点までの移動を、ピアリーたちが行っていたように自力で行えば良いだけなのだ。これはまったく可能である。しかし実は、チャーター機が飛ばないことの最大の問題は、出発地点への移動の問題ではない。最大の問題は、いざ出発してしまうと、緊急時には一切の救助もピックアップも期待できない、という点に尽きる。

◆ピアリーの時代のように大人数の極地法で行くならまだしも、単独、無補給というスタイルでの緊急援助なしというのがどれだけのリスクを抱えることになるかは説明するまでもない。登山と違って、引き返せば安全地帯に逃げられる場所でもない。では、それでも北極点を目指すにはどうするか?というのは、細かく説明するとここでは欄が足りないのでまた後日。

◆北極点から111km(北緯89度)離れたロシア科学アカデミーの仮設キャンプ(通称ボルネオキャンプ)に空路で移動し、一週間ほどかけて北極点までガイドが案内してくれる「ツアー旅行」もあるが、これは個人旅行としては結構だが、世界の冒険的価値としてはゼロであることはこれまでの説明で分かると思う。ヒラリーステップの上までどこでもドアで移動してエベレストに登頂、みたいなものだ。とりあえず、北極点は様子を見ながら、今年末には南極に行ってみようかなと考えている今日この頃です。(極地冒険家 荻田泰永


■1月1日、南極から、素晴らしい写真とメールがゾモ普及協会宛に届いた。57次隊の樋口和生隊長からで、なんと隊員の皆さんがそろってゾモTシャツを着込んで写真に収まっている。南極の昭和基地でゾモ!その経緯は、地平線通信449号(2016年9月号)のフロントを読み返してもらうとわかります。こう書いた。
「8月29日、なんと南極からゾモTシャツの大量注文があった。第57次南極観測隊の隊長、樋口和生さんが越冬隊全員の注文を集めてくれたのだ。それも『57次』の数字に合わせて57着分……」
 58次隊の皆さんを乗せた船は無事ゾモTシャツを積んで昭和基地に到着。元日、歴史的な記念写真を撮って送ってくれた次第。
 以下、樋口さんの新年の挨拶。

「ゾモ普及協会 江本様 皆様
 明けましておめでとうございます。
 12月23日、58次観測隊が昭和基地に到着し、一緒にゾモTも無事届きました。
 ありがとうございます。
 早速わいわいがやがやとTシャツを分け、その日から早速着ている隊員もいました。58次隊到着後、ヘリコプターや雪上車で荷物を運び入れる作業が続き、なかなか皆が集まって写真を撮る機会がありませんでした。
 お正月は久しぶりの休日となり、今日を置いては記念撮影をする日を逃してしまうということで、お昼におせち料理を楽しんだ後にゾモTを着ての集合写真撮影となりました。
 30人全員が写真には納まりませんでしたが、南極の夏らしい青空の下で撮影した写真をお送りします。(中略)
 58次隊との越冬交代まで残り1ヶ月となりました。最後まで気を抜かず、安全第一で過ごしたいと思っています。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします」

樋口さん、皆さん、ほんとうにありがとうございます!!(E)

三陸町パン菓子工房ouiその後

■南三陸町に雪がうっすら積もり始めた12月、おかげさまで工房の建物がほぼ完成しました。南三陸杉材を使って棟梁が棚の造作まで手づくりし、地平線でも発表したひーさんは棟梁の手元としてお手伝い、内壁のペンキはボランティアのみんなで塗り、天井の竹は大家さんのお庭で切りました。

◆こんなステキな建物ができた一方、オーブンなどの機器をそろえる予算があと一歩!なんです。さらに広くご支援を募ろうと、1月9日にCAMPFIREでクラウドファンディングを始めました。下記のウィのHPトップページ、右のなかほどのバナーからリンクしています。

◆タイトルは、「女性たちと新しい働き方をつくる 南三陸にパン・菓子の共同工房を!」ぜひ、情報シェア、拡散して応援してください。リミットは2/18の深夜です。どうかよろしくお願いします。http://womenseye.net塩本美紀

南三陸、6年目の冬

◆2016年の年末、宮城県南三陸町志津川を訪れた。夏、冬と通っていると、まるで里帰りのような気分になる。中瀬町仮設の集会所で開く子ども達とのお泊まり会も、15回を超えた。いつも行き当たりばったりだが、地平線仲間でもある伊藤里香さん、小石和男さん、ひーさん(石井洋子さん)らの存在が心強い。子どもの成長は早く、震災のあった年の春に小学校に入学した子たちは、もうすぐ中学生になる。

◆他にも今回は成人式を迎えたり、春から高校や仙台の専門学校に進学したりと節目を迎える子が多く、変化の緊張感を感じて、私の心もちょっとざわざわした。そして変わっていくのは、子どもだけではない。6年間たくさんの思い出を作ってきたこの仮設の集会所が使えるのも、とうとう次の夏休みで最後になる。

◆昨年1年間で、南三陸町の仮設住宅に住んでいた方の多くが、山を切り開いて作られた高台移転地へと引っ越した。地区でまとまって避難生活を送ってきた中瀬町仮設の方々も昨秋、約80世帯のうち4分の3が高台へと移った。次の秋までには全員が引っ越す予定になっている。地平線報告会でもお話しいただいた佐藤徳郎区長の引っ越しは、秋頃になるとのこと。来年のお正月は、新しい我が家で迎えられることだろう。

◆佐藤区長は昨夏、自宅あとにビニールハウスを11棟新設し、すでに再開していた7棟と合わせて18棟のハウスでほうれん草栽培に汗を流している。この年末のほうれん草の出荷量は、やっと震災前と同等になったという。仕事の再建は、生活再建と直結する。町では仮設商店街が年末で営業を終了した。3月には沿岸部を約10mかさ上げした土地に隈研吾氏デザインの商店街がオープンする予定だ。住民の念願だったスーパーの建設もはじまる。住民が自宅に腰を落ち着けはじめた今、やっと本格的に町の将来を考えられる段階に来たのだと思う。ここが復興の本当のスタート地点なのかもしれない。道のりは、あまりにも長かった。

◆南三陸町で新しい暮らしが始まる一方で、町内の高台へは行かずに、仙台や隣の登米市へ引っ越した方も多い。今回、2年半前に仙台のマンションへ移ったTさんに久々にお会いできた。仙台駅まで迎えに来てくださったTさんは変わらぬ笑顔で、ほっとする。ご自宅におじゃまして、写真を見ながら昔話や近況を聞いた。

◆Tさんは仙台でも月に2回、近所のお寺のホールを開放してもらい、南三陸町から引っ越して来た仲間たちとお茶会を開いているそう。楽しく暮らしているようだが、集まる度に撮影しているという集合写真を見ながら出た言葉は「この人とこの人は、まだ旦那さんが見つかっていないの。この人は家族5人で車で逃げたけれど、津波に追いつかれて、孫と自分だけが何とか助かったと言っていた……」。

◆Tさんと一緒に暮らす9歳のお孫さんは、仙台生まれの仙台育ち。津波は経験していないが、南三陸町が嫌いだという。理由は「ばあちゃんをゼロにした町だから」。東北の子どもたちは、この先あの震災をどう学び、受け止めていくのだろうか。新しく変わっていくことへの期待と消えることのない傷あと、その両面をしっかり見つめていきたいと改めて思った6年目の冬だった。(屋久島 新垣亜美

チームarumitoy渾身の作、ビジョンムービー完成!

■ついに!ビジョンムービー完成! arumitoyのコンセプト、ビジョンが3分の動画にまとまりました。arumitoyの向かう先を盛りだくさんのビジュアルと共に語っております。たくさんの人に見てほしい!そして共感してもらえると嬉しいです。自分がオモテに出てしまっているので、だいぶ小っ恥ずかしいのですが、伝えなきゃ伝わらないから。そしてもう、1人でできる範疇を超えてしまっているから。

◆どうやってやっていくのか、見当もつかないけれど、だからと言って何もしないという選択肢もない。これのために、やっていくんだっ! 仲間がいるから! 十数年前に、おもちゃ作家になるんだっ!と息巻いて日本を飛び出したあの頃のような情熱を久しぶりに感じています。昔と違うのはその情熱がとても穏やかである事。一人じゃないという事。小娘もダテに歳を重ねていません(笑)。

◆昨年は、夫婦そろって人生の棚卸をしておりまして、たくさん勉強しました。そして、最近ようやく自分の中に落とし込めてきている気がしてます。もう、心持ち次第なんだと。人間として、生き方も仕事もあるんだなと。地平線にはarumitoyの始まりからずっとずっと見守ってくれている人達がたくさんいます。本当に感謝です。私は恵まれているんだなぁって気づきました。

◆そんな変化の中で、私はずっとarumitoyの内部を引っかき回しておりました。スタッフを入れたり、ウェブをリニューアルさせたり、パッケージも一新させて、ビジョンの見直しも図りました。新しいステージに行くんだなぁとしみじみ思います。そんな風にようやくまとめ上がったビジョンムービーです。制作:多胡光純 撮影、構成、編集、音響、全部やってくれました〜。スバラシイデスネ! 絶対見て欲しい。チームarumitoy渾身の作です。http://arumitoy.net/vision/ 応援してください。(多胡歩未

我が家の表札

■改装した古民家での暮らしは一年を迎えようとしていた。季節を通じこの家の接しかたなどを学ぶ年でもあった。薪ストーブは300度を維持しないと母屋の暖はとれないなどがその一例だ。だが、一つ足りないものがあった。それは「表札」だった。市販のものは気が向かず、自作もどうだか……。保留状態が続いていた。

◆設置場所は決まっていた。アトリエと離れとの境に2メートルほどの高さのある門柱がドンドンドンと11本ほど並んでいる。門柱の材質はこだわり、アイアンウッドと呼ばれるウリンを採用していた。場所はそこだった。長期にわたり悩んだあげく、名案が空から降ってきた。我が人生の顧問・江本さんにお願いすべし!「一筆お願いします、できれば毛筆で」。

◆依頼の電話をかけると「俺の字でいいのかぁ〜」と謙遜ぎみだったが快諾だった。嬉しかった。実は手紙などでいただいてきた江本さんの字はときに難解だが、味のある筆感は唯一無二のものだと我が家のお気に入りだったのだ。依頼の電話から数ヶ月が経ち、江本邸へたちよる機会があった。すると白紙にかかれた苗字が11枚ほどあらわれた。「しまった!」と思わず心の中で叫んでいた。人にお願いすると言うことはこれほどの労力と時間を奪ってしまうのか......。

◆11枚をながめるに、どれもこれも味があり迷った。筆のかすれ感に江本さんの心情を想像させられた。毛筆でお願いして正解だった。本人いわく「もっと良い半紙をとりよせようとおもうのだが」。11枚の中からひとつを選ぶことを即答した。

◆表札の制作に入った。腕があり、毛筆の質感を表現できるアイアン職人をさがすと、なんと我が町内で活動している作家さんと出会えた。そして二週間後、表札は完成した。毛筆の文字がそのまま黒鉄に置き換えられていた。完璧だった。「多胡」の苗字は縦20センチ、幅9センチ、厚み3ミリで表現された。苗字の後ろから鉄棒が伸び、設置するとウリンの木からは5センチほど浮き上がったように仕上がった。今まで立ち並んでいたウリンの木に急に結束感があらわれ、途端に我が家の軸を得たような感を受けていた。お願いして良かった。

◆表札は東南の角地にある。朝日を一番にうけ黒光りしている。意外なことに、自身がへこんだり怒ったりしているとき、はたまた家族で喜び、または来客を迎える際なども表札を通じ江本さんに見守られていると言う感は、想像だにしてなかったので心強かった。表札の前を通るたびに背筋が伸びる思いでもある。悪いことはできない(笑)。これで人生の顧問との結束も世代をこえたものに相成りました! 感謝です!(京都府郊外木津川の畔在住 天空の旅人 多胡光純

地平線会議との出会いは、私の転機になるかも……

■12月の地平線報告会が解散し家路につく。冬の夜のひんやりとした空気の中、じんわりと熱を帯びた余韻が残る。参加一度目にしてすっかり心を奪われてしまった。地平線会議は噂に聞いていたものの、なかなか参加できずにいた。漸くここへ足を踏み入れるきっかけをくれたのは、つい2か月前に知り合った光菅修さんだ。今日は地平線会議でご本人が報告するというので足を運んだ。

◆天文航法を用い、2か月間で2500kmを旅した大航海を2時間半に凝縮した「ミクロネシアの航海報告会」。大学の講義では程なくとろんと眠ってしまうわたしも、光菅さんの話には終始釘付けだった。報告を聴きながら篤と追体験させてもらったが、いざ大海原へ出航する際の心持ちは計ろうにも計り知れない。ひとりの人間として大海へ繰り出すや、どんな感情に迫られるのだろうか。地上では幅を利かせる人類も、海の上ではあまりに無防備で儚い。

◆幼い頃に客船のデッキで見た、空と水平線の境界が溶け合う夜の海が思い起こされる。果てしない闇に身震いしたあの景色。振り返ると明るい客室があって安堵したものだ。旅中小さな帆船の上で何を想い、舟の上からはこれまでの日々がどのように見えるのだろう。報告は光菅さんの意気を端々から感じる非常に達意なものだったが、言葉の範疇でこの旅を理解することは到底できない。しかし光菅さんの言葉とわたしの想像との間に横たわる余白が、かえって聴衆の中の一人では物足りなくさせるような衝動を誘った。

◆この4月にはじめて「探検」というキーワードと向き合い、そして今日、はじめて「地平線会議」を訪れた。つい数か月前まで殆ど地元東京で完結していたわたしの世界は目隠しを外したかのごとく、今パノラマのように広がった。技術や能力ではなく、彼の人柄と人との繋がりが導いた船旅というのがまた素敵で、自分の足元からもそうした機会につなげていけるような気がした。

◆これまでは活字の向こう側にある、遠いダレかの物語だったのに。知らない世界を目の前で語られ、ふいに「わたしも、」と思ってしまう。むちゃくちゃおもしろい。地平線会議との出会いは、19になって間もないわたしの転機になるかもしれない。そんな気がしてならない。初めて出席した地平線報告会が光菅さんの報告でよかったと心から思う。次回の開催も心待ちにしている。(下川知恵 早稲田大学探検部1年)

38年前

■今年で38年目。地平線会議を支えて運営していただいている皆様方には頭の下がる思いです。発足当初、私は丁度社会人になったばかり。仕事にかまけて何もお手伝いもせず、今頃になって 活躍されている皆さんの報告を聞く場をいただいています。12月も参加させてもらいました。ありがとうございます。

◆地平線会議発足のきっかけとなったのは、確か1978年12月に法政大学で開かれた全国学生探検報告会だった。78年の夏にマッケンジーの上流ピース川から北極圏イヌビックまでカヤックで旅した私は、後輩の手配でこの探検報告会に参加したのだ。地平線会議は1979年8月に誕生、その後、2回マッケンジー川を旅し、1983年には夫婦で地平線報告会に呼んでいただいたこともあった。感謝しています。

◆さて、わが母校獨協大学の探検部は、私が入学した時すでに廃部となっていて、私はかって探検部が過去に存在していたことすら知らなかった。そこで三年の時に仲間とともに探検部を創部したのだが、私が卒業した翌年に又廃部になってしまったようだ。その後改めて創部され多胡光純君のような冒険映像作家が出たことは喜ばしい限りだ。と、言っても営々と続いているサークルではないので胸を張って獨協大学探検部OBとは名乗れませんが……。

◆もともと川釣りが好きだった。偶然、神田のスポーツ店にディスプレーしてあったファルトボートを見つけた。店舗では関心を示す引く客がいなく処分を検討しているところだったのと貧乏学生がアルバイト終わりまで取っておいてくれるようお願いしたので安価で譲っていただいた。どのように漕ぐのか、どこに行ったら漕げるのかという情報もないまま、競技艇の練習をしている奥多摩にそのファルトを持って行った。

◆案の定、転覆したまま一駅ほど流され濡れネズミで着替えも流されたまま帰宅した。駅員が濡れた千円札を切符売り場のガラス板に苦笑いしながら張り付けていたのを思い出す。強烈な挫折であった……!! おそらく、あのひとことがなかったら私の川下りはそれまでだったろう。

◆ある日、母親が八王子の人工池で行われる体験カヌーの記事の切抜きを持ってきて言ったのだ。「参加してみたら?」。あんなほうほうのていで帰ってきた息子を見たら、これ以上危険なことは回避させようとするのが普通の親だろうが、少し変わり者の母のアドバイスは、川下りに興味を持っていながら意気消沈していた息子の心に火をつけた。

◆参加者の中で唯一自艇を持っていることも練習意欲を駆り立てた。濁って淀んだ人工池での練習も苦ではなかった。家が中央線沿線にあったので比較的気軽に御岳駅までは行ける。週末の度に通いつめ競技練習をしているスラローマとも交流した。ただ奥多摩は川が狭い。練習の邪魔になるので気兼ねし、やがて秩父の長瀞に練習場所を変え通い詰めた。

◆寝袋をもって川の畔の公園のベンチなどで野宿をしながら川を下っていた。秩父のカヌークラブの人たちはストイックなスラローム練習だけでなくときどき上流まで艇を運んでショートツーリングなどを行う。細かく動くことができないファルトボートに乗っている自分にも声をかけていただきいろんな場面での川下りを体験させてもらった。そこから川を通して線の旅の魅力にはまってしまった。

◆そうした中で昨年亡くなった川の師匠O氏に出会った。著名なアルピニストでもあった氏だったが、川下りでも当時の最先端におり、一回りも年の離れた私を仲間として受け入れてくれた。そんな氏の後押しもあってマッケンジー川を日本人で初めて下ることになった。

◆初めて自分の活動を公にしていただいたのが地平線世話役の江本さんだった。折れ釘流の、自分でも判読できない字らしきものが並んだ“マッケンジー日記”を読んでいただいた。もらったアドバイスのいくつかが、他の大学探検部同様、川を下ることだけを目的としていた自分が、「その川を知ること」に視点を移すきっかけとなった。

◆自分の粘っこい性格もあるのか、同じ川を何回も下ることで好奇心が刺激されることを知ってしまった今、会津の山の中に週末の拠点を置いて小屋下を流れる只見川の上流の支流、西根川をベースに周辺河川や山を季節関係なく徘徊している。年頭の地平線通信への寄稿は若いフレッシュな発表者が多い中、こんな過去の話でいいのかなと思いつつ38年を経た私の近況を伝えました。(河村安彦

原健次さんが教えてくれた地平線通信

■20数年ぶりで風邪をひき、ダウンしてしまった。寝込むほどでもなかったが、家業の造園の仕事もできないので、地平線通信を遡って読み返してみた。地球狭しと東へ西へ、南へ北へ、天空に高くそびえる山々の頂きへ登り、地底深く潜り、極北の地に単独で分け入り、灼熱の砂漠を歩いて横断するなど様々な命がけの探検や少々馬鹿げた感のある冒険もあり毎回大変興味深い。

◆地平線通信という名前は、今は亡き原健次さんを通じて知った。いろいろな資料を小脇に抱えて自宅から5、6キロの道のりを走って持って来てくれた中に通信もよく入っていた。『地平線からVol6』や『地平線月世見画報』『写真展 地平線発21世紀の旅人たちへ』なども読ませていただいた。皆さん文章もうまいし写真も実にいい。自分の行けないところや行ってみたいところにも行った気になれる。

◆こういう新鮮な情報をたくさん教えてくれたのが健次さんだった。化学者で、栃響のビオラ奏者にしてウルトラマラソンランナー、そして動植物に造詣が深く、他にも多くの引き出しを持っていて、それを折りに触れ教えてくれた。その健次さんが亡くなって来月17日で6年になる。近々仲間と一緒に彼の好きだった酒を遺影に捧げて、在りし日を偲びたいと思う。(宇都宮市 大塚善美

柚妃、厳冬の初テント泊

■大寒波の中、土日に日影沢でテント泊してきました。ちょ〜寒かったです! 朝起きたら自分たちの息が凍ったのがテントの中でダイヤモンドダストになって降ってきたのにはびっくりしました。柚妃大喜びです。そんな感じで柚妃のテント泊デビューは大成功でした。ところで、今月の報告会は休みます。報告会終了時間が柚妃の寝る時間なので、次の日学校があるときは無理なんです。通信を楽しみにしてます。(1月17日 瀧本千穂子


地平線カレンダー、好評につき、増刷しました!
12月の報告会になんとか間に合った「地平線カレンダー・2017」ですが、年内にほぼ完売の見込みとなってしまったため、新年になってあわてて増刷しました。凡ミスで「画猫点睛を欠く」になっていた表紙も修正してあります。なぜ今回いつになく人気があるのか、作り手としても不思議です。今年の『武蔵国玉川山上水寺蔵・叢猫戯画』は、前年の『幻州けものけ一座由来譚』の流れを汲むもので、これまでのようなリアルな旅の風景から離れて、虚構の「亮之介空間」を描いています。やっぱり今回は、登場するのが猫族ばかりなのが受けているのかなぁ。昨今の猫ブームも追い風になっているのかも。お申し込みは地平線のWebサイトで。葉書なら地平線ポストへ。1部500円、送料1部120円(2部以上160円)。もちろん、1月の報告会でも販売します。

2017年は猫年だった……地平線カレンダー礼賛

酉年だというのになんと、鳥は新年早々に 矢に射抜かれ 、落とされてしまう
あー 2017年は 猫年だった  そーだった そーだったよー
常識の拘束は解かれ、飽きることのない妄想へ誘われる
あっちとこっち いったり きたり
どこは いつだろう
なには だれだろう
 ◆
楽しいね 自由でいいね
猫も画家も みんな 真剣に「遊んでる」ね
真面目なんか へっちゃらだね

小さな世界を ひろびろと描きながら
想いは 止まることを 知らない
画家の内向宇宙 リアルは無限解放区

だけども
「ほんとうの世界」は いつも こちら側にある
感動や想像の種は それぞれの 自身の中
たのもしいのは  自分の想い
視る側が どれほどにも 画面へと 歩みいってゆける「絵」というのは
実は 水や太陽や季節みたいなものなのだろう
すてきな絵だなあ
 ◆
いよいよ 昨日は どこに隠されるのか
いまは いつも いまなのに 明日は かならず やってくる
だれもに 未知なる いちにちいちにち 365日分
緒方敏明 彫刻家)


新年のポストから

明けましておめでとうございます

ついに、ついに、私、ガンから解放されるの……?

■江本さんへ 新年明けましておめでとうございます。昨年の精密検査で、癌が見つかりませんでした。今年は「もしかしたら、私、生きれるの?」って明るい気持ちで迎えることができました。2回に分けて行われた23時間の手術(骨盤内臓全摘術など)から4年半。このまま再発転移がなければ今年の8月からは、医学的に「癌サバイバー」と胸を張ってもよいとドクターに言われました。まさかまさかこんな(好)展開になるとは……。ほんと、まったく想像もしていなかったのでただただ、ただただ嬉しいの一言です。

◆いまだに(怖くて)ピンときませんが、これも支えてくれた周りの人たちのおかげだと思っております。2009年の再再発・転移以来、癌によるうつ病で精神的にももがき苦しみました。長い間、一部の人としか会うことができませんでした(江本さんもその一部のお一人)。余命半年という癌の告知を受けて16年。2度の末期を経験しましたが、今年は癌を忘れ良い年になりそうな気がします。

◆ゆっくりですが、これからもマイペースでいきます。そしていつの日か旅の残りをめざします。ちびワンコと毎日散歩に行ってます(これが回復のカギかも?)。寒いのでご自愛くださいませ。久々に、近況まで。エミコ(⌒▽⌒)

ps、スティーブも元気にやっております。(オーストラリアから)

私たちはみんな、やまのこども

■江本さん、あけましておめでとうございます。いつも地平線通信を楽しみにしています。世界を舞台にした冒険活動記、震災から人と心に寄り添うことを自らの生き方に模索しながら暮しを紡いでいる方の手記。地平線通信を開くと、いまを生きる人たちの様々な情熱やメッセージに出会うことができます。日々の流れゆく時にふっと立ち止まって、自分の知らない時間軸に触れる。私は地平線通信を読む時間を大切にしています。

◆さて、今朝は朝3時に起き、家族4人でご来光登山へサクッと行ってきました。野外学校を主催する夫マサ(注:登山家、戸高雅史)、年末年始の富士山コースを終えてゲストが帰り、家族で食事を終えたのが1月1日夜10時半。翌日は珍しく家族だけの時間となり、ふたりの娘に希望を聞いてみたところ「おみくじを引きに初詣に行きたい!」と中3の娘。富士山から戻ったばかりというのに、マサが「だったらお山そのものに初詣に行こうよ!」「いいね!」と、これまた3日前まで北八ヶ岳の天狗岳付近へ雪山コースを終えたばかりの小6の次女が合いの手。

◆受験勉強に専念宣言でしばらく山から離れている長女も苦笑いで参戦挙手。「朝4時から歩き始めれば双子山ピークには立てるでしょ。よし12時に寝れば3時間は休めるよ」ってなことで、それぞれに、とっとと雪山準備開始1時間後就寝。4時に登山口到着。富士山は夜空に白く聳えておりました。上部に降った真っ白な雪が風に運ばれてそっと舞い降りている雪の登山道。ヘッドライトで足元を照らすと、キラキラと小さな結晶たちが交信してくれるように光を返してくれる。

◆「わーきれい! 妖精の世界みたい!」マイナス気温の寒さはなんのその、その美しい道を歩く心地を味わいます。長女はお気に入りの洋楽を口ずさみ、その歌は結晶になって山に降っていくみたい。彼女たちにとって、富士山双子山は生まれた時から四季を通して遊びに訪れている大地。双子山の登りに入った辺りから、娘2人は先頭を歩くマサと違うルートとりで、どうやらピークに直登するらしい。私はゆっくりと呼吸を楽しんで歩いていたので、3人のずっと後を歩き、(私たちは山に育ててもらってるなー)とぼんやり。

◆風の強いピークで、風を凌ぐのに大の字になって寝ている3人に合流。ご来光までの時待ち。寒くなったら、「走ってくるわー」といなくなる娘ら。こうした状況下を自分でやり過ごすことができるようになったと。子育てにおいては社会的常識もありますが、自然そのものに家族で遊ぶことを常としてきた結果がこのところ、楽しく実感できることがあり、私たちは親子登山をしてきたのではなく、山に遊び育ちにいってたんだなーとつくづく。私たちはみんな、やまのこども。さて、待ち望んだご来光。蒼の空から光の訪れが美しく放ち、黄金の日が明けました。富士山はいつも、どんな日もサイコーです! (2017/01/02 とだかゆうみ

謹賀新年

 皆様良い年を迎えられたこととお慶び申しあげます。

 アジアとの和解ができないことにいらだった一昨年、そしてその原因はアジアへの無知、欧米崇拝が極まった末のアジア無視なのか、維新に遡り考えさせられた昨年でした。

 年末のギャンブル法に驚かされました。背景はなんでしょう。米国では六十数人の所得が残りの国民の所得と等しいとの報道がありました。ある意味アメリカン・ドリームというか人生のかけに成功した人々の総取りが実現したともとれます。そして日本では株式取引をする十数%の方々の意向が政治を動かし、その方々の成功を「夢」が実現したと讃えるという「この国の形」ができあがったように見えます。つまり社会のしくみがギャンブルのような不安定な基礎のうえに成り立っていることのようだと教えられました。

 翻って所得の配分の方から考えますと、この世界は六十数人の方々や十数%の方々が富みを独占し支配する形で本当にいいのか、縄文時代に立ち返って考え直しても良いときがきたのではないかと思えてきました。今年のテーマになりそうです。

 私は今、質素をむねとし、コスト削減の対象を人間にまでしてしまうブラックな方々がいなく、新井白石のような引き締まった方がいる江戸に棲みたいと己の余命を顧みずこいねがっています。

 二十九年 元旦 横浜・花田麿公

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■この年末年始は北海道で夫の隆行と一緒に過ごしました。往復とも北海道新幹線を利用です。余談ですが、昨年の開業初日にも乗りました(o^-')b 31日は稚内へ。行ってみたら、観光協会は休み、飲食店は高級ANAホテルのレストランと焼き鳥屋以外すべて休み、宿は約40軒中7軒のみ営業です。私達が泊まった素泊り宿も31日は営業してましたが、その前後はずっと休業です。開いていたセイコーマートで 、ビールやお惣菜、カップ麺の蕎麦などを買い込み、宿で年越しの夕食としました。さて、元旦。バスに乗って最北端の宗谷岬へ! 私の予想30台を大きく上回り、バイクは80台くらい来ていました。チャリも最低3台は見ました。テントは70張りほど。気温マイナス3度。初日の出は雲の隙間からでしたが、何とか拝むことができました。岬からサハリンがはっきり見えたのが印象的でした。(もんがぁ〜さとみ・古山里美)

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■あけましておめでとうございます! 高原山の裾野にある廃校の宿“星ふる学校「くまの木」”の運営のため、東京から栃木県塩谷町に移住してはや6年。おかげさまで仕事はそこそこ順調。ありがたいけど、忙しい。県内の探索くらいはしたいなぁと思うのですが、それもなかなかままならず。でも、町場育ちのわたしにとって、農村での暮らしは毎日が冒険みたいなものかも。自然環境、人付き合い、子育て、そして仕事のやり方、どれをとってもこれまでの生活とは大違い、さぁ、今年はどんなトラブル、おもしろいことが起きるか(笑)。地平線通信、たくさんの人の人生の欠片を煎じて飲んでいる気持ちで読んでいます。いつもありがとうございます! よろしくお願いします!(栃木県塩谷郡塩谷町大字熊ノ木 特定非営利活動法人 くまの木 里の暮らし 加納麻紀子


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資で、紙代、印刷費、封筒代、郵送費、報告者の交通費などに当てられます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛にお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況を江本宛に添えてくださるとありがたいです。また、字が細かくて読みにくい方もいると思います。しんどい、という方は遠慮なく送付中止希望、と知らせてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

宮崎拓(充実の通信、いつもありがとうございます)/加納麻紀子(5,000円 近況別記)/中嶋敦子(5,000円 うちカンパ3,000円)/南澤久美 /山本千夏/中村保(10,000円 若い人たちの活躍に期待してます)/金井重(20,000円 とりあえず今ひとりで外出は禁止されております。来年こそは、と心がけております。《ご家族によると、4月末、圧迫骨折で動けなくなり、いまは公園を歩く練習中という。頑張れ!シゲさん》)/尾上昇(10,000円 毎号1ページ、1ページ丹念に読ませてもらっています)/上延智子/ 中島恭子(5,000円 いつも皆様方の力強いご活動の様子を読ませていただいています。又メンバー方々の個性的な生き方を知り、頼もしく思っています。私も昨年きりのいい年齢になり、生活全般を縮小しなければと考え、残念なのですが、地平線通信の購読を本年をもって終わらせていただきたいと思います。長い間、楽しく読ませていただき、本当に有難うございました。これからは、皆様のご活動のご様子はホームページで読ませていただき たいと思っています。)/吉田文江(5,000円 すごい、やっぱりこんな元気な人たちがいるんだ!、安心した!と旦那と話しています。老いも若きも地平線は皆純粋! よかった、通信読めて)/山田盛久(通信購読希望します)/鰐淵渉/秋元修一(5,000円)/福原安栄(1996年の「200回記念大集会」のころから、ずっと愛読しています。ありがとうございます)/和田美津子/辻野由喜(今年もよろしくお願いします)


絵本「ヤマネコ毛布」

■あけましておめでとうございます!高山は雪のないお正月を迎えました。

 先月は久しぶりに報告会に参加。懐かしい方々との再会、嬉しかったです! 光菅さんのお話で印象に残った言葉。「島にいる間、本当に楽しいのだけれど、次の島に向けて出発すると、頭の中は前に進むことだけになっちゃうんですよ」。いつも全力で行動している方の言葉だと思いました。行動のきっかけとか目的とか費用とか、もう少しお聞きしたかったけど、次にお会いした時の楽しみにしておきます。

◆そして、お正月恒例の絵本紹介。「ヤマネコ毛布」(山福朱美著)は美しい版画の絵本です。旅立つヤマネコに森の仲間が、思い出を刺繍した毛布を贈るお話。サルと木々の間を渡り、オオカミと遠吠えし、トリを追いかけてフンを落とされ、ハリネズミと語り明かし、ヤマネコの森の暮しは充実していました。「過去を捨てない、けど引きずらない」。光菅さんの言葉を思い出しました。私自身が今、前へ進みたいと強く考えているから、ズンと胸にくるのでしょう。ヤマネコは森の仲間の思い出毛布を担いで歩きだします。

 今年も、逢いたい人、歩きたい場所を目指して、各地に出かけたいと思っています。皆さま、よろしくお願いします。 (飛騨高山在住 中畑朋子

ことしも山と音楽を

■江本さん、新年おめでとうございます。年末年始、私は『冬山ケーナコンサート』のため八ヶ岳に滞在していました。音楽小屋で有名な標高約2,500mにある黒百合ヒュッテです。この演奏は高校のころから欠かさず36年続けており、楽器、衣装も自力で歩荷します。今回は2016年12月30日に入山。雪は少なめでしたが、南アルプスはもとより、後立山や上越の山々まで美しく展望できました。その日から連続5夜の公演。天気にも恵まれお客さんも数多くいらっしゃいました。演奏は毎晩午後7時より約45分間。プログラムは『コンドルは飛んでゆく』、『花祭り』など、中央アンデスの曲が中心。妻のピアノとのデュオ編成です。 『黒百合ヒュッテケーナコンサート』は年に2回。この夏は7月8日(土)開催です。今年も山と音楽をキーワードに活動を続けてまいります。(地平線品行方正楽団団員 ケーナ奏者 長岡竜介

恒例賀状あらかると ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

■毎月、通信をありがとうございます。今年も楽しみにしております。生活は安定し、仕事も頑張れています。そんな時「江本さんの応援のおかげだな」と感謝しております。(下関市 河野典子

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■ご無沙汰しております。地平線通信は毎号熟読しておりますが、報告会に行けず残念至極。皆様の活躍を嬉しく思っております。気づけば第三次大戦の最前線にいた!などということのないようにと念じる年になりそうです。(越谷市 中村吉広

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■昨年もたくさんお世話になりました。ちゅらうみファーム手ぬぐいできました。詳しくはブログ見てね。(浜比嘉島 外間晴美

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■2017年、アジア有数の大河、メコン川を目指します。上流域のミャンマーからラオスへ。どんな旅になるのか楽しみです。(永久カヌーイスト 吉岡嶺二

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■昨年は色々と楽しませていただきました。私は国内自転車旅行に明け暮れ、6000キロ以上走りました。右膝人工関節の手術を受け、リハビリのつもりでしたが、やり過ぎ、再手術を受けました。山はどうもダメのようです。さて何をやるか、思案中です。(柏原市 和田城志

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■人生遍歴の夕べを迎えたこの頃、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を聴きました。彼の、青春の頃のうたをこの歳になってしみじみ共感いたしました。人間は「同じ心」と嬉しくもなりました。平和な世界を創りましょう。(埼玉県秩父 斉藤宏子

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■今年もよろしく。ヤンキースタジアムで、メジャーリーグ・サッカーを観戦してきました。(大阪 岸本佳則・実千代


地平線の森

葉っぱのぐそをはじめよう

 ━━「糞土思想」が地球を救う━━

  伊沢正名著 山と溪谷社 1500円+税

■糞土思想の一つに「ウンコになって考える」という幸せを求める死生観があります。臭くて汚いカスで死物でもあるウンコ。そして肉体も死骸となれば、ウンコと同じ有機物のカス。人間社会ではウンコの最後は焼却処理で灰になり、死骸も火葬で灰になる。しかし自然の中では、ノグソをすれば獣や虫に食われ、カビやバクテリアに食われて無機物になれば、最後は植物に食われて新たな命に蘇る。死骸も自然葬では同様に食われて命になります。

◆死骸もウンコも同じと考えれば、死は終わりではなく他の生き物に命を渡すことだと見えてきました。そもそも自分のこの命は、この身体は、多くの生き物をご馳走として食べ、それらの命を奪って獲得したもの。ならばせめて、死んだら命を返すのは当然のことでしょう。糞土思想にはまた、「ノグソは命の返し方」というのもあり、食べて奪った命は生きている間はノグソで返そうというものです。この二つは、生態系の無限の命の循環を断ち切らないための、生き物としての人の生き方の原理です。

◆これまで人類が追い求めてきた夢や希望・発展の歴史は、所詮あれが欲しい、こうしたいという欲の追求です。科学や医学の進歩でそれらを実現してきた結果、人口は肥大して極限を超え、地球規模での環境破壊や資源枯渇、食糧難、多くの生物の絶滅などを招きました。その一方で多発する大地震や津波、台風などでの巨大災害は、傲慢な人類への自然のしっぺ返しだと私は感じています。そんな難局をどう乗り切るのか。どうすれば自然と共生した穏やかな暮らしを実現できるのか。ウンコとノグソをベースに死と災害を見つめる中から、新たな生き方を提案する本が産まれました。

◆1978年から私は、仕上げにたった1枚のティッシュを使う以外はすべて葉っぱでお尻を拭き、90年秋には完全に紙を排除。それ以来、生の葉っぱだけでなく、枯れ葉や草の穂、花、キノコなども含めて拭き心地を探求し続け、紙を凌駕するものを数十種見つけ出しました。そこでウンコとノグソの大切さを広めるには、理屈で押すよりも楽しくて気持ち良い葉っぱノグソから始めるのが最善と考え、『お尻で見る葉っぱ図鑑』作りに取り掛かったのです。しかし葉っぱのデータ集めや写真取材が進展しても、多くの人にとって、特に街中に暮らす人々にはノグソ自体が難しく、なかなか出版のきっかけがつかめずにいました。そんな中、2010年2月の新宿歌舞伎町、ロフトプラスワンでの「東京ウンコナイト」に来てくれた緒方敏明さんが、街中での実践例を報告してくれました。風呂桶に拾ってきた落葉の中に屋内で排便し、庭に掘った穴に埋めるというものです。しかし世間の目には、変なオジサンの奇行としか映らないでしょう。ところが14年春、ついに運命の女神が現れました。

◆所沢駅から徒歩10分の街中に住む20代の女性が私の講演を聴いて感銘を受け、改良緒方式ノグソ法とも言うべき「恥じらいのバケツノグソ」を始めたのです。近所に残された小さな林から土と落葉をバケツに入れてきて、そこに脱糞して土を被せ、人目の少ない早朝や夕方以降に林へ返します。これなら誰でも何処でもノグソは可能! 山ガールや林業女子のブームに合わせて彼女を前面に押し出し、ちょっとオシャレな「ノグソ女子」のノリでいけるのではないか? 早速出版社に持ちかけたものの、案に相違してなかなか主旨が理解されません。

◆そうこうするうちに私は舌癌に冒され、下手すれば死という思いの中で参加した15年春の福島・浜通りを巡る移動報告会。東日本大震災ではトイレ問題の解決に提案したノグソ指導ボランティアが無視され、私には心残りがありました。そこで思いも掛けず、第2の女神が出現! 寝坊してバスに乗り遅れ、電車で追いかけてきた大西夏奈子さんです。解散間際の車中で口説き落とし、まだ出版も決まっていないのに本作りがスタートしました。

◆大西さんに助けられて執筆・編集を進めるうちに予想外の熊本大地震が起き、これまで考えられていた災害対策の不備が露呈しました。流せないトイレから携帯トイレなどで燃えるゴミに移行しても、焼却場の被災で処理不能。そして近未来に予測される南海トラフ地震では、駿河湾に面する富士市に全国の製紙工場の4割が集中するため、ここが被災すれば紙の供給も滞ります。出せない拭けない処理できない状況下で生き抜くには、命を返して自然も豊かにする葉っぱノグソこそ切り札です。そして8月末には国連大学のチームが災害リスクの世界ランキングを発表。海面上昇で国土消滅が危惧されるバヌアツやトンガには及ばないものの、日本は災害へのさらされやすさで世界4位。当初のノグソ女子から方針転換し、災害を生き抜く究極のトイレ術と、70種余の拭き心地データ付き葉っぱ図鑑、そして舌癌のお陰でしっかり死に向き合うことで深まった糞土思想の3本立てで、ようやく出版に漕ぎ着けました。

◆イラストはもちろん長野亮之介さん。そして装丁は「こんな本にしたいね」と大西さんと話していた、服部文祥さんの『サバイバル登山入門』を手掛けた三浦逸平さんで、予想以上の素晴らしい仕上がりになりました。(糞土師・伊沢正名

人力車で日本を走り回って近づく南極点 

■「身の程知らず」という言葉は僕の為にあるのかもしれない。2017年末に同郷の探検家白瀬中尉の足跡を伸ばしての南極点徒歩到達をする事で100年前の先人の夢を現代に実現する。それを目指して3年連続で北極圏の単独徒歩遠征に通い続けてきた。毎年の遠征は大変ながらも実現してきた。しかし白瀬ルートでの南極遠征実現の難しさに2016年のグリーンランド遠征帰国後は七転八倒していた。

◆節約の為に住んでいたシェアハウスを遠征前に引き払ったので、帰国後に住む家もなかった。遠征で貯金を使い果たしたので毎日を食べていくことすら厳しかった。遠征前は資金を作り出すために人力車の仕事の後に夜通しスタジアムのライブ会場片付けでパイプ椅子を両手に抱えて運んだ。休日は運送業のバイトをして台車を押して都内を走り回った。とにかく地味に汗を流すしかなかった。帰国の次の日には人力車の仕事に戻り、知り合いの家に転がり込んだ。

◆白瀬ルートでの南極遠征を延期する事を決断した。面目躍如とはなかなか行かない。南極遠征の1番の問題は約1億円にも及ぶ資金である。ほぼ全てが飛行機のチャーター代に消える。今の僕ではこの資金を調達する事が不可能だ。白瀬中尉が南極に降り立った場所はロス棚氷の上にあり、南極半島の付け根あたりから出発する一般的なルートからは1,000km以上も離れている。なので自分の為だけに飛行機をフルチャーターする必要がある。

◆またこの場所は飛行機が離陸する場所から離れている為に小さな飛行機では1回で飛びきれない。途中で着氷して燃料補給をしなければならない。そのための燃料デポのために事前に何度も飛行機を飛ばす。その分高くなる、と言うのが独占的に南極旅遠征のサポートをしているALE社(Antarctic Logistics & Expeditions)の担当者の言い分であった。新規ルート開拓の遠征をする隊は多くはないので彼らもどれくらいのコストがかかるか想定し兼ねるようだった。

◆ALE社のみが民間で飛行機を飛ばせる。ほぼ全ての冒険家たちはALE社を通して動く必要があるのだ。一社独占であるため彼らは強気である。自然環境の厳しい南極のフライトには大きなリスクがあるというのも理解はしている。基本的に彼らの言い値でやるしかない。綿密な料金明細を入れた企画書を作りたいのだが、トータルの金額しか教えてくれない。資金的な目処が立つまではメールを送っても返信すらない。料金詳細がないと企画書も作れない、応援してくれる人に説明もできない。四面楚歌な状況である。遠征の実現には情熱も努力も体力も技術も二の次だ。南極の沙汰も金次第なのだ。

◆たとえ資金が集められたとしても、150kg以上のソリを引いてクレバスの多い棚氷の上を長く歩き、南極横断山脈を越え、白瀬ルートの1500kmを歩いて南極点に立つことは至難の事であろう。全ては自分の努力不足のせいである。恩師の冒険家の大場満郎さんはパラセールで南極横断をした時に1億円を集めている。人にできるなら僕にできないはずがない。そう考えていた。それが正しくなかった。僕には大場満郎さんのような実力がない。人は人、僕は僕でしかないのだ。

◆白瀬ルートでの南極遠征を公表したのは4年前だった。その時に多くの人が、今まで100年以上継いだ人がいないのだから実現は無理だ、という判断をした。間違いなく身の程知らずであったに違いない。なら自分自身の丈を伸ばすしかない。人力車を引いて8ヶ月6000km歩いて日本を縦断する。鹿児島を出発して全国68箇所の神社一宮を参拝して南極遠征実現の“誓い”を立てながら。最終到着地点は秋田県にかほ市の白瀬中尉の墓前である。結局は僕の気合と根性が足りないから実現できないのだ。再度、気合を入れ直して人力車で走って走りまくって白瀬中尉にご報告に馳せ参じる。

◆人力車は冒険遠征のトレーニングとして大学を卒業して就職もせずに始めた仕事でもう10年目である。僕のような弱い人間が中途半端に就職などしてしまうと環境に依存してしまう可能性がある。就職しない事で退路を断った。20代の頃の遠征はノンスポンサーで人力車の給与で賄ってきた。畳3畳に2段ベットしかない部屋に友人と住んで節約した。スポンサーの話は幾つかあったが全てお断りさせて頂いた。20代は自己資金のみでやると決めていたからだ。若い頃の苦労は買ってでもしておきたかった。そこまでしてきた人力車だからこそ、一緒に走り抜きたいのだ。

◆20代の頃はContinental Divide TrailとGreat Divide Trailというロングトレイルを計6000km以上スルーハイクしている。歩くことに自信がない訳ではない。2018年末には南極点までソロで歩く。極地冒険においてソロとは単独・無補給である。これは白瀬ルートでの南極遠征よりも難易度も資金もかなり下がる。それでもソロで南極点まで歩いた人間は世界で20人と少ししかいなく、日本人で実現した人間もいない。この経験を積んで2019年末に白瀬ルートでの南極点徒歩到達を実現させる。本当に目指すべきは白瀬ルートでの遠征だ。

◆僕はいま34歳。志しを諦めて生きるにはまだまだ早いし、南極以外に僕が人生を賭けられるものはない。何よりも僕はまだまだ強くなれる。20代の頃のような狂気的な情熱はこの年ではないかもしれない。だが情熱の残渣は残っている。夢中で走って走って走りまくれば少なくとも南極点は近くなる。(阿部雅龍 秋田)


今月の窓

『寄り添いと受援力』

■2016年最後となる、452回目の地平線報告会に参加した。大阪に住んでいると、イベントには参加できても、普段の報告会にはなかなか足を延ばせないので、連休の開催はありがたかった。特別な場もいいけれど、地平線会議の真髄は、毎月毎月積み重ねられる“いつもの”報告会にあると思っている。

◆会場に着くと、年末恒例『地平線カレンダー』の紹介中であった。丸山純さん&長野亮之介さんのユニット『もへじ堂』による作製。『叢猫戯画(そうびょうぎが)』と題された挿絵は、猫目線の叢(くさむら)ワールド。絵師啓白には『未知の世界に求める旅の醍醐味は、遥かな異国だけではなく、足下にもあることに気がつく』と記されている。このカレンダーの売り上げは、地平線会議の運営費に充てられる。ちなみに、ふたりのギャラは、カレンダーの現物支給である。

◆見渡すと、同じく遠方在住の懐かしい顔もちらほら見受けられる。スタッフのみなさんは受付、席の補充、販売、案内、撮影などに忙しそう。参加者として、報告を聴くことのみに集中できる贅沢を味わわせてもらう。

◆満員であっても会場の空気はしんとして、聴く側の真剣さが立ち昇る。報告者の光菅さんは今後の展望を聞かれ、「場所や行為にこだわり続けるわけではない。そこに身を置いたとき、自分がどう感じるかに興味がある」と旅の動機を語った。地平線報告会に参加するということもまた、その場に身を置き、自分の心の動きを感じ、見つめるための行動でもあるという点で、どこか重なるように思えた。

◆私事だが、地平線会議に出会って16年が経つ。ちょうど屋久島に通い始めた頃で、自らに枠を設けることのない行動者たちに刺激を受けながら、さらに屋久島病を加速させた。どちらかというと人との関係を深めるのが不得手な私は、『人に寄り添う』をテーマとしメールマガジンを発行したり、HPを立ち上げたり、本を出したり、報告会で報告をさせてもらったりもした。

◆仕事では今、高齢者の権利擁護を担当し、相談支援も行っているが、そこでもまた『寄り添い』がキーワードのひとつとなっている。少子高齢化、単身世帯の増加、地縁・血縁の希薄化などを背景に、支援を必要とする人の抱える課題も複雑化・困難化し、一人ひとりに寄り添った支援がより一層求められる。

◆例えば、高齢者虐待の発生要因上位5位は、上から『虐待者の介護疲れ・介護ストレス』、『虐待者の障害・疾病』、『家庭における経済的困窮(経済的問題)』、『虐待者の性格や人格(に基づく言動)』、『被虐待者と虐待者の虐待発生までの人間関係』(厚生労働省 平成26年度 虐待防止法に基づく対応状況等に関する調査結果より)と続いており、家族全体への支援を視野に、個々人への寄り添いが必要となる。

◆先のメールマガジンは受け取ってくれることを前提に発行できたが、仕事に関しては同じ『寄り添い』でも、もちろん受け取ってもらえるとは限らず、むしろ鬱陶しがられたり、拒否されたり、下手をすれば攻撃にあうこともある。そんな日々の中、気になるキーワードに『受援力(=支援を受ける力)』がある。災害ボランティアなどを地域で受け入れる際に生まれた言葉だそうだが、元気な高齢者は支援の担い手に、と言われる昨今、他者に助けを求め、快くサポートを受けられる力が、生きていく上で欠かせなくなりつつある。寄り添い、寄り添われる(寄りかかる、ではない)暮らしの実現が、重視されていく気がする。

◆地平線会議で出会う人たちは、こと旅に関して、受援力が高いと感じることが多いが、この能力は、果たして旅以外の場でも発揮されているのだろうか。興味深いところである。旅は、当事者に何かをもたらすだけではなく、旅人を受け入れる側に『寄り添い』を生じさせるのかもしれない。

◆大阪に戻り、毎年恒例のライブに出かけた。『CDは売れない、ライブの時代』と聞く。いろいろな解釈があるだろうが、ここでも、人は身を置くことで感じられる何かを求めて、足を運んでいると言えるだろう。『日本人の探検、冒険、手作りの地球体験をできるだけ知り、記録にとどめ、関心のある人々のコミュニケートを促し、これから飛び出そうとする人たちに何かを還元したい』と、1979年に発足した地平線会議。青山のアジア会館で開催されていた頃からずっと、毎回が真剣勝負の報告会は、ライブの時代に呼応するもののように映る。

◆世界に例を見ないスピードで高齢化が進むわが国。少子化と相まって、私たちは日本にいながらにして、未曾有の事態を体験していくこととなるが、これは冒険と呼んでもいいのではないか、とひそかに思ったりしている。例えば、人口減少、空き家の増加、限界集落の出現、コンパクトシティーの奨励……。人々が暮らせるエリアはごく限られ、やがて国土のほとんどが森になるかもしれない。それ自体、悪いこととも言えない。そして、森はきっと、人々を新たな旅にいざなうのではないだろうか。足下に広がる未知の叢のように。

◆追伸:通信を読んではうらやましい、『原典子さんの手作りケーキをいつもの報告会でいただく』ことができて、幸せでした。そのケーキを、都会のロビンソン、久島弘さんが必殺仕事人のようにワイヤーを取り出して、美しく切り分けたことも、お知らせしておきます。(中島ねこ


あとがき

■新年早々、目が大変というのに約束していた仕事がいろいろあって、この通信を作りながら、あちこち走り回った。12日には国立登山研修所の専門調査委員会の会合で「研修所50年史」の編集打ち合わせがあり、その夜には上智大学のロシア語上級教室の打ち上げに参加した。

◆14日には日本山岳協会の新年懇談会に参加、山岳関係者と旧交をあたためた。この団体は4月から「日本登山・スポーツクライミング協会」と名を変える。スポーツクライミングがオリンピック種目となったため、競技団体の名も変えなければならないらしい。

◆そして、1番大変なのが、自分の昔の本が文庫化されることに伴う作業だ。25年も前に、私は『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』という上下の本を書いた。能海寛、河口慧海といった明治の仏教者から、地平線会議にも再三来ていただいた野元甚蔵さんまで個性あふれる旅人たちを追ったドキュメントだ。

◆その上下本を一冊にまとめ、買いやすい価格で新たに発行する。自分で希望したことでもあるのだが、2冊を一冊にすることになり、かなりしんどい編集作業をやらなければならない。ただし、「ウランバートルの邂逅」という序章のドラマチックな内容に引きずられた旧作とは違い、明治、大正、昭和と時代別にチベット潜行者を追っているのでわかりやすいし、面白い。早ければ来月末には本になります。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

風神雷神アイルランドを行く!!

  • 1月29日(日) 18:00〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「長丁場なので、スキルも大事だけど、それ以上に相性が大事。このヒトと思ったらもう、ナンパの勢いでした!」と言うのは杉田明日香さん(31)。昨年夏アイルランドで開催されたアドベンチャーレース、ITERAに、チーム風神雷神を率いて、日本人初参戦を果たしました。

8月16日〜23日の5日間、トレッキング、MTB、カヤックの全9ステージ、計542kmをノンストップで走り続ける苛酷なレースです。その上、夏というのに連日の風雨に見舞われました。真夜中に荒れた湖上でカヤックが転覆し、あわや、ということも。

「最高の仲間がいたからこそ、最後まで頑張れたレースでした」と明日香さん。小学校の教師をしながらアドベンチャーレースに魅せられて、5年で憧れの海外レースに臨んだ明日香さんの旅の顛末を語って頂きます!

★今月は日曜日、スタートは18:00です!


地平線通信 453号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年12月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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