2015年3月の地平線通信

3月の地平線通信・431号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月11日。全国的に冷え込み、東京は朝方には氷点下0.4度まで下がった。日中はよく晴れ、気温は正午には9℃まで上ったが、日本海沿岸は大荒れ、東海、北陸地方と北日本は大雪だそうだ。

◆東日本大震災の節目の日だ。今朝の朝刊には「防潮堤37%未着工 被災3県 完成8%のみ」(読売)。「復興へ光を 避難23万人 災害住宅整備15%」(朝日)。「復興 途切れ途切れ(一面)」「黒い壁 果てしなく(最終面)」(東京)。そのどれにも「東日本大震災きょう4年」の大きな活字が添えられている。

◆「黒い壁」、とは福島県富岡町の除染された黒い袋の堆積の風景だ。先月も現地に行ったが、あちこちでこの袋の「格納現場」が見られた。双葉、大熊両町に建設予定の中間貯蔵施設に運ばれるこの袋はすでに同県内で「600万袋以上」あるのだそうだ。3.11の「負の遺産」と言える、膨大なこの黒い袋の堆積を是非、地平線会議の仲間たちには見ておいてもらいたい。実は、そう考えて4月の福島移動報告会を企画した。

◆NHKの朝の情報番組では「低認知被災地」という、聞き慣れない言葉が使われていた。4年前のあの日、甚大な被害を受けながら、ほとんど伝えられることなく、国の復興支援策も遅れがちだった北茨城市など茨城県北部の被災地のことを指す。

◆賀曽利隆さんの案内で福島県境の鵜ノ子岬から勿来、小名浜方面、と被災地に向けて北上したことがあるが、その際、東北に入る手前、茨城県側の「手つかずの被災」の状況に驚いたことがある。「被災3県(岩手、宮城、福島)」という言葉に反発を覚える(茨城、千葉などの)人が少なくないこともしっかり心にとめておこう。

◆一方で、あらためて震災遺構の存続が問われている。津波で児童ら84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の被災校舎について、8日の住民集会で地元住民が市に震災遺構として保存を求めていく見通しとなったことが伝えられた。いまや貴重なモニュメントとなりつつある南三陸町のあの防災庁舎も、向こう20年は宮城県が予算措置をして保存し、その上で協議するという。その方向でよかった、時間が経てば経つほど辛い思い出は、何ものにも代え難い“力”となるだろうから。

◆その一方で、できるだけ穏便に素早く撤去を、という動きもある。福島県の帰還困難区域となっている双葉町中心部を通る国道と役場の前の2か所にある「原子力明るい未来のエネルギー」、「原子力豊かな社会とまちづくり」のアーチ型の看板。原発と共存を図ってきた町を象徴するものだったが、新年度予算に撤去費410万円を盛り込むそうだ。うーむ、4月の移動報告会ではその看板もしっかり見届けておこう(ただし、その看板の見える六号線は車を止めることができないので一瞬だけ)。

◆遠くアラスカでは、熾烈なレースが始まっていて目が離せない。毎年3月にアンカレッジを出発し、2週間前後でノームまで1800キロあまりを競う「アイディタロッド犬ぞりレース」が今年も(確か第43回だったと思う)さる9日スタート、77のチームが出走した中にあの本多有香が入っている。当初は70位前後とゆっくりだった有香チームはペースを少し早め日本時間今日11日午後1時現在「60位」と順位をあげた。犬たちは16頭とスタート時から変わらず。

◆「地球上で最後の偉大なレース」と言われるアイディタロッド、いつかは自分の犬たちと走ってみたい、と有香さんは言っていたがほんとうに参加したのだ。肝心な時には連絡も寄こさず、いつもの有香ペースで。いかにも彼女らしい、と思いつつ、おおい、頑張れえ! と声援を送る。

◆犬ぞりレースのベテラン、アラスカ在住の舟津圭三さんは「アイディタロッドは、ユーコンクエストとはまた違うレース。後半に嵐がくると(日本の冬型の西高東低の発達した低気圧がベーリング海まできます)、結構厄介なのです。彼女も経験を積んでいるので大丈夫とは思うのですが」と伝えてくれた。

◆梅棹忠夫山と探検文学賞の選考会がきのう10日、都内で行なわれた。2011年に始まってもう4回目。国際山岳年日本委員会の仕事をした時、梅棹忠夫さんに学術顧問を引き受けて頂くなどおつきあいもあって、私も選考委員の末席をつとめさせてもらっている。事務局から上げられたことしの候補作は6点。『裏山の奇人』(小松貴 東海大学出版会)『祈りの大地」(石川梵 岩波書店)『北極男』(荻田泰永 講談社)『天、共に在り』(中村哲 NHK出版)『今西錦司伝』(斎藤清明 ミネルヴァ書房)『犬と、走る』(本多有香 集英社インターナショナル)だった。

◆地平線の身近な仲間の作品が2つも入っているとは嬉しい限りである。かねてから、行動者の多くが筆も立つことに感動することが多かったが、実はこの通信もひそかに文章磨きの舞台としてほしい、と考えている。どの本も素晴らしいので、是非手にしてみてください。結果は今月末に発表されることになっているので、今は言わない。(江本嘉伸


先月の報告会から

おトナリのイスラーム

丸山純

2015年2月27日  榎町地域センター

■2015年1月、「イスラーム国」と名乗る過激派組織による湯川遥菜さん、後藤健二さんの人質事件に、我々は戦慄した。長年パキスタンに通う丸山さんは、政情不安の中で自分も拉致される可能性を考えていただけに、他人事ではなかったという。同時に、日本のイスラーム報道があまりに乏しく、テロの印象ばかり目立つことに、従来から疑問があった。「今、何もできないことが悔しい」。後藤さんの澄んだ眼に射抜かれたという丸山さんが立ち上がり、イスラームを知る一歩としての報告会が実現した。

◆会場受付では、丸山さんが月刊誌『望星』に連載する新刊紹介の中から、イスラーム関連書籍の書評を過去47冊分集めた、抜き刷り冊子が配布された。イスラームへのガイドとして有難い資料だ。報告会は、知の泉からスラスラと湧き出るように進められた。とはいえ丸山さんは、もともとイスラームを「学問」の対象としてきたわけではない。ムスリムとして暮らす民衆の多くがそうであるように、生活者の日常としてイスラームに触れてきた。「研究」成果と称して主観を客観的事実のように権威的に断定する口調ではなく、あくまで一個人が生身で接した普段着のムスリムの姿を垣間見せる語りである。

◆さらに、巷で解説される「イスラーム対西洋」という二項対立にとどまらず、パキスタンの少数民族カラーシャの立場からイスラームへの目線を持つ点がユニークだ。丸山さんが家族付き合いをするカラーシャの人々はムスリムではなく、多神教を信仰する。彼らは多数派であるムスリムから「異教徒」と呼ばれ、圧迫される。両者は敵対する関係で、カラーシャの人々は、丸山さんがモスクに行くのを嫌がるという。にもかかわらず、カラーシャと過ごした丸山さんがイスラームにさほどの悪印象を持っていないことは、不思議でもある。

◆そもそも丸山さんは、カラーシャに出会う以前から、イスラームに親しみを持っていたようだ。中学時代に読んだ本多勝一『知られざるヒマラヤ──奥ヒンズークシ探検記』や梅棹忠夫『モゴール族探検記』に憧れ、本多のように改宗もアリかな、という気さえしたという。

◆1978年、丸山さんは初めてパキスタンを訪れた。乾燥した沙漠の空気、袖先がチリチリと焦げるような日差し、褐色の大地の向こうにそびえる雪山、バザール、モスク。「子どもの頃から行きたかったのはここだったんだ」。スライドには、当時の記憶のままのように、玉ねぎ型のモスクの屋根が色鮮やかに映し出された。感動する若き丸山青年の姿も見られた(結構イケメン)。イスラームの世界を目の当たりにした丸山さんは、「男気がある」、「古き良き日本の武士道みたい」と、しびれたそうだ。一方、町でまったく女性を見かけないことに驚いた。

◆同じパキスタンでも、カラーシャ族の住む土地は荒涼とした沙漠から一変、緑溢れる谷だ。木々の多い日本と同様、多神教を育む風土である。また、カラーシャの女性たちはスカーフをかぶらず、外を出歩くし、男性とおしゃべりもする。女性がいる当たり前のような光景には、どこかホッとしたという。以降、丸山さんはカラーシャの谷に通い、「おトナリ」のイスラームと接してきた。

◆カラーシャの社会では現在、イスラームへの改宗が進んでいるという。ムスリムとの結婚や、病院での「異教徒だと地獄に落ちる」との説得、ムスリム社会での就職や昇進のため、あるいはカラーシャ社会で人間関係をこじらせて飛び出す、といった動機で改宗するそうだ。イスラームの教えを重視するパキスタンでは、学校でもクルアーンを知らないカラーシャは不利だ。そこで外国の援助でカラーシャ独自の学校もできたが、援助がカラーシャに集中することで、かえってムスリムからの反感が高まる面もある。丸山さんの話を聞くかぎりでは、カラーシャの改宗は信仰というより生活上の問題であり、神というより社会経済的な安定を求めているように思える。

◆カラーシャの改宗者も含め、一言でムスリムといっても、個々人の内実はさまざまだ。今回の報告会の柱の一つが、「多様なイスラーム」。宗派や土地の文化、近代化や西洋化の影響によっても異なる。宗派ではまず、スンナ派とシーア派に大別できる。ニュースでよく聞く基本的な語だが、混乱したままの方も多いのでは。「スンナ」は「慣習」といった意味で、「シーア」は「派」を表す。ポイントは、預言者ムハンマドの血統を重視するかどうか。血統を重視しないスンナ派が圧倒的多数派で、重視するシーア派が少数派となる。

◆スンナ派の中でも、パキスタンの「連邦直轄部族地域(FATA)」を占めるパシュトゥーン人は独特だ。「パシュトゥーンワライ」と呼ぶ部族の掟がイスラームより古くからあり、イスラームの慣習と渾然一体となって受け継がれてきたという。勇気と名誉を重んじる堅い掟には、客人接待や旅行者の護衛などが含まれる。この地域には中央政府の支配も及ばない。逃げ込んだウサマ・ビン・ラディンは、「庇護を求めた者は敵であっても匿う」という彼らの絶対的な掟によって守られた。

◆他のムスリムとは異なるこうした独自の結束が、過激派組織の温床を生むとも言われる。丸山さんは、過激派の狙撃にも屈せず女子教育の必要を訴えている17歳のマララ・ユスフザイさんにも言及。「あの勇気はどこから来るのかと衝撃を受けたが、彼女もパシュトゥーンなんです」。

◆一方、パキスタンのパンジャブ地方には、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の影響が根強い。我々の耳には、美しい旋律が響くコーランの朗誦はきわめて音楽的に聞こえるものだが、実はイスラームの主流の考えでは、人を惑わすとして音楽に否定的である。しかしスーフィズムでは、歌や踊りでトランス状態に入り、神との合一を目指す。映像には、世界各地のスーフィー教団による、ぐるぐる旋回したり、えんえんとお辞儀を繰り返したりする踊りが流れ、会場は密教的雰囲気に包まれた。

◆昨今ではそうした儀礼や宗教音楽の範疇を超え、ロックやポップスの歌手も登場していることには驚く。なんと、パキスタンにはコカコーラの出資による「コーク・スタジオ」というテレビ番組があり、スーフィーロックなど、伝統と最新の音楽を合わせた斬新なムーブメントが次々発信されて人気だという。ロックを聴いて育ち、宗教歌をロック風に歌う若者たち。過激派は怒り狂うとしても、これもまた、現代のムスリムの一面だ(それにしても、「コーク・スタジオ」とは、テロの標的にしてくれと言わんばかりではないか。かっこいいライブ映像はYouTubeで無料配信されているが、この戦略を文化融合と見るか、文化侵略と見るか……)。

◆多面的なイスラームの人々。日本の研究者間では、何かにつけて「クルアーンをアラビア語で読んでいない」との批判を向ける傾向もあるという。しかし、世界でムスリム人口が最も多いのはインドネシアであり、ムスリムでも必ずしもアラビア語のクルアーンに精通しているわけではない。誰もが神が定めた法源の解釈ばかり考えているわけでもない。「民衆のイスラームも、もっとクローズアップされていいのでは」と丸山さんは問う。

◆民衆の日常感覚においては、イスラームとは宗教というより「慣習」、「しきたり」だ。また、イスラームでは神と自分との一対一の関係を基本とする。神以外は皆等しい人間であるため、イスラームの聖職者(ウラマー)も「神聖」な存在ではなく、「ただの人」。クルアーンなどを解釈する「法学者」という位置付けだと丸山さんは説明する。どのウラマーの解釈に従うかは各自の判断であり、家族の中で異なることもある。

◆多様で、かつ個人的なイスラームが見えた気がした直後、丸山さんは一冊の本を掲げた。野町和嘉の写真集『メッカ巡礼』だ。世界中からメッカに集まるムスリム。金持ちも貧乏人も一様に、白装束をまとって、神殿の周りを巡る。表紙の写真では、その白が一つに溶け合っていた。「“多様なイスラーム”とともに、どうしても“一つのイスラーム”も伝えておきたかった」と丸山さん。圧倒的かつ平和的な白いうねりには、イスラーム世界の象徴を感じた。

◆平和な同朋意識こそあれど、当然ながら、過激な暴力性をもってイスラームを一元的に語るべきではない。過激派に最も被害を受けているのは、地元のムスリム達だ。それでもパキスタンの一般民衆において、米国への憎悪は、過激派への恐怖を凌ぐという。原因の一つが、国際法違反とも言われる、米国の無人機による空爆だ。市民の犠牲者数は米国の発表よりはるかに多いはず、と丸山さんは指摘する。特に結婚式や葬儀の列が誤爆を受ける。人々の怨嗟はつのり、タリバーンへの共鳴にもつながる。

◆また、イスラエルが繰り返すパレスチナ市民への残虐行為は、今やインターネットで世界中のムスリムの目に入り、人道的な憤怒が共有される。中東でもパキスタンでも、根源では西洋列強が土地の民族や文化を無視して勝手に国境線を引いたことが、紛争の火種なのだ。丸山さんは後日、過激派組織の「イスラーム国」が「国」を名乗る理由には、現存の領域国民国家を否定し、他の在り方を模索する意味が込められることを忘れてはならない、と強調した。

◆来場した『イスラム国とは何か』の共著者(常岡浩介氏との)である高世仁氏は、今回の人質事件について、「欧米の人質が次々と殺害される中、日本人に対しては裁判をしようとしていた。日本人は明らかに特別だった」と発言した。丸山さんも、「日本人が特別なのは平和憲法の力が大きい。アメリカ人の一万倍は安全だと言われてきた。西洋列強に屈せず原爆の惨禍から立ち直って経済大国を築いた日本に対し、親近感もあった」と続ける。

◆今回の報告会で私が再認識したのは、宗教対立と見える問題は、実際は強者(マジョリティ)に対する弱者(マイノリティ)の闘いだということだ。前回語られたキューバの社会主義革命は宗教と無関係だが、背景は共通する。西洋とイスラーム、イスラームとカラーシャ、スンナ派とシーア派。強者と弱者は入れ子構造だし、あちらの強者はこちらの弱者だ。人質事件は、日本もこの構造に無縁ではないと見せつけた。

◆また、日本に育った私は西洋の視線による情報を無意識に浴びてきたが、イスラーム圏の視線を知るほどに、西洋の論理を相対化する必要を感じる。たとえば、神の法だとされるシャリーア法(イスラム法)は、ローマに始まる西洋近代法とは別のはたらきをする法体系。近代法が機能しない事案も、シャリーア法では人々が納得する形ですぐ解決できることがあるという。日本でも近代法が入る以前の江戸時代までは同じようなもので、そう奇抜なことではない、と丸山さんは述べる。

◆日本では、ニュースにならない市井のムスリムを知る機会は少ない。女性の生き方など、イスラームに関して私はまだ無知である。しかし報告会を聞き、政治構造的な議論とは別次元で文化的理解は推進可能だし、より焦点を当てるべきだという気がした。(福田晴子


報告者のひとこと+ふたこと・みこと

やっぱり今回も、報告会には魔物が棲んでいた!

丸山純

■地平線報告会でしゃべるたびに、ひどく落ち込んでしまう。ああ、あれも話せなかった、これも言い忘れてしまったと、終わった瞬間から後悔の念がつのって、数日間はそのことばかり考えて過ごす羽目になる。講演や授業でしゃべる機会はこれまで何度もあったのに、ここまで不本意な思いをしたことはない。地平線報告会には魔物が棲んでいる!――かねがねそう思い続けてきたが、今回もまた魔物に捕まってしまったようだ。

◆魔物の正体を探ってみると、まずスライドの量が問題だ。なるべく多くの写真を見てもらおうと欲張りすぎて、写真の説明をするだけで精いっぱいになってしまう。おかげで、歴史や文化的な背景など、写真に写らない抽象的なテーマにはなかなか言及することができない。さらに、地平線会議という場を意識しすぎて、自分の直接的な体験をまず語らねばならないと力んでしまうことも一因だろう。本などで知った知識を披露することがどうしても二の次になり、奥行きのある話ができなくなる。

◆今回も、事前に用意した進行表を長野亮之介画伯に見てもらって、こりゃ、盛り込みすぎだよ、絶対に時間内に収まらないよと指摘されていた。それでも、なんとかなるさと始めたのだが、画伯の予測通り、これまでで一番、言いたいことが言えないまま終わる報告会となってしまった。会場まで足を運んでくださったみなさんには、本当に申し訳ないことをしたとつくづく思う。

◆あまりにも落ち込んでいるのを見かねて、ここでこうして機会を与えていただいたので、あの日、どうしても語っておきたかった話を三つだけ記しておきたい。

その1…一神教が生まれる大地

■今回の報告会を1978年に初めて出かけたチトラルから始めたのは、あの乾燥して荒涼とした風景をぜひ見てほしかったからだ。木がまったく生えていない裸の山々。人間ははるか川の上流から水路で分水して土地を潤し、木を植え、畑を耕す。水のないところには緑がなく、生活もない。あまりにも自然が荒々しく圧倒的で、人間はお情けによってその片隅でかろうじて生かせてもらっているに過ぎないのだ。誰のお情け? そう、もちろん神のお情けである。チトラルにいると、神はひとつなりとする一神教の教えが、すとんと胸に落ちてくる。このことを強調したくてわざわざチトラルを冒頭に待ってきたのに、言い忘れてしまった(やっぱり魔物のせいだ)。

◆チトラルからほど近いカラーシャの谷に行くと、山の斜面にはカシやヒマラヤスギの樹林帯が広がっている。豊かな緑のあふれる谷間を峠のてっぺんから初めて見下ろしたとき、ああ、だから彼らは独自の多神教を守り続けてこられたのだという思いが湧いてくる。谷でしばらく暮らすうちに、チトラルではばりばりにひび割れていた唇がいつの間にか治っていた。村を見下ろす高台には大神の祭壇がまつられ、村の真ん中には女神の神殿がある。村はずれの岩陰にはご先祖さまへのお供えが撒かれ、道の脇には儀礼に使われた焚き火の跡が残っていたりする。

◆沖縄の浜比嘉島をぶらついたとき、うちの村だったらこのあたりに……とふと見上げると、当然のようにウタキや小さな聖域が現われるのに何度も驚かされたものだが、チトラルの極度に乾燥した褐色の世界を旅していると、こうした原初的な宗教心の現われを見ることはない。さびしい、物足りないと思う気持ちより、一種のすがすがしさを感じる。

その2…モスクに行く人、行かない人

■イスラーム圏を旅した人なら誰でも、敬虔なムスリムは人間として信用できる、逆に酒を飲んだり、断食をサボったりするようないい加減な奴は信用できない、という経験則をお持ちだろう。

◆チトラルではお昼時になると、どの店も戸締まりして、みんながモスクへお祈りに行ってしまう。閑散としていたバザールである日、知り合いのガイドをつかまえて、あんたはなんでモスクに行かないんだ、悪いムスリムだなとからかった。あとでわかったのだが、彼はチトラル北部に多いイスマイリ派で、スンナ派のモスクに行くわけがないのだが、私を諭すようにこう言った。「神はモスクにはいない。私のこの心の中にいる。モスクへ行かなくても私は神に祈る。どこにいても祈る。神はそのことを知っている。神が知ってくれていれば、私は誰になんと言われようと気にしない」。そのときは、なに格好つけちゃって、などと茶化してしまったのだが、あとになって、彼はイスラームの本質を語っていたのだと気づいた。モスクへ行かないということで、冗談半分であっても「悪いムスリム」などと決めつけてはいけなかったのだ。

◆イスラームでは、神と人は一対一で直接結びついている。だから、きわめて個人主義的で、そこに他人が立ち入ることはできない。たとえば味醂を使った料理を食べてもいいのかという疑問に対して、味醂は酒と同様のプロセスで作られるのだからだめだと、あるウラマー(法学者)が自分の解釈を述べる。別のウラマーは、いや、煮きってしまうのでアルコール分は完全に飛んでいるから問題ないと言う(内藤正典著『イスラム戦争』より)。さて、どちらを信じるか。

◆自分が納得できるほうの言を信じればいい。世界最古の大学でスンナ派の最高権威とされるエジプトのアズハル機関が発するファトゥワ(宣告)を信じてもいいし、いや、うちの村のモスクの老ウラマーの言うことのほうが正しいと思えば、そっちに従えばいい。親子で、兄弟で、違うファトゥワに従っている例もよくある。

◆だから、異教徒へのジハードを唱えるファトゥワに共鳴する息子を、父親がそれは間違った教えだと止めることは、教義の上ではできない。自称「イスラーム国」(IS)によってヨルダン人パイロットが焼殺されたとわかったあと、アズハル機関のトップが「イスラームから逸脱した行為だ。奴らこそ残虐な方法で処刑されるべきだ」と強く非難したが、そう言われてもIS側は破門されたなどとはみじんも思わず、エジプトの大統領(選挙で選ばれた政権をクーデタで倒した)が任命するアズハルの言うことなんか聞いてたまるか、と考えている。

◆ダライ・ラマやローマ法王のような絶対的な宗教的権威は、イスラームにはいない。だから、過激主義者がクルアーンやハディースの字句を極端なかたちで解釈しても、それを上から押さえ込むことができない。神の前ではすべての人間は平等というイスラームの本質が、いまのような事態を招いていると言えるが、逆にそのことで新たな未来が開けるのではないかという期待も持てるのではないだろうか。

その3…女なんか獣と同じだと語る若者

■今回の報告会でも、女性の先生を養成するために設立された私立小学校や、買い物をしたことがない女性に機会を与えようと作られた男子禁制のショップを紹介したが、イスラームにおける女性の地位について語ろうとすると、どうしても西欧的なものの言い方になってしまって、自分でも歯がゆく思う。私が男なだけに、男社会の論理に陥るまいとする心理が働くからだろうか。

◆チトラル南部ではスンナ派が多数を占めるが、民家を訪ねても、改宗した元カラーシャや、妻が学校の先生をやっている家などの特殊な例を除いて、女性と会える機会はほとんどない。客人はゲストルームに通され、幼い少女たちが料理を運んでくることはあっても、大人の女性は出てこない。だから本当のところはわからないのだが、夫たちを見ていると、どうもかかあ天下の家が少なくないように感じられる。どこでも女性は大事にされているし、一夫多妻の知り合いは一人もいない。おおっぴらに外に出られないなど、社会的な制限はあるが、だからといって女性の尊厳をおとしめていると一方的に決めつけることはできないのではないか。イスラームにおける女性の問題が出てくるたびに、そう言い張ってきた。ところが、それはあくまでもチトラルだったから、そう感じられたのだ。

◆その若者はパシュトゥーン人で、武器づくりで有名なダラの村からペシャワールの街に出てきて、法律事務所で働いている弁護士の卵である。その頃、パキスタンはインドに対抗して核実験を敢行し、国中が盛り上がっていた。しかし彼は、政府の言うことなんか信じられない、ヒロシマ・ナガサキに行って、原爆がいかに悲惨なものであるか、自分の目で確認してみたいという。

◆そんなことを言うパキスタン人は初めてだったので意気投合したのだが、そのうち学校教育の必要性の話になっていくと、「あいつらは人間じゃない、獣と同じだ! 何も考えていない。ただ喰って、寝るだけの生き物だ」と吐き捨てるように言い出した。一瞬、何を言っているのかわからず混乱したが、彼が言う「あいつら」とは、同じ家に暮らす女性たち、母親や姉、おば、いとこたちだと気づいて、ぞっとした。だからこそ教育が必要なんだと言っても、聞く耳を持たない。女は劣っている、いくら教育をしてもムダだと言い張る。おいおい、あんたは弁護士になるつもりなんだろ。

◆これはイスラームの問題ではなく、パシュトゥーン社会が伝統的な家父長制のもとにあるからだと、頭ではわかる。しかしイスラームが広まっている地域には、家父長制が強く根をおろしているのも事実だ。若者でさえこんなふうに思い込んでいるのだから、保守的な地域に住むパシュトゥーンの女性たちの地位が向上するのには、まだまだ年月がかかるのだろう。しかし、のちに二人の幼な子を連れて一人で日本にやって来てしまうパシュトゥーン出身の女性画家と知り合いになったし、あのマララさんもパシュトゥーンである。誇り高く勇敢なパシュトゥーン女性が、女は獣と同じだと言い張る男社会にいつまでも安住しているだろうかという思いもある。

◆パシュトゥーンの本拠地であるハイバル・パフトゥーン・フワー州(チトラルもその一角)の州都ペシャワールでは、女性が買い物をしている姿をちらほら見かける。チトラルの王族の女性たちがペシャワールに滞在中、バザールに服を買いに行くのに同行したら、次々と立ち寄る店で丁々発止と男の店員とやりあい、心から楽しそうに過ごしていた。彼女たちがチトラルでバザールに買い物に出向くことは、ありえない。

◆これを、私たちはどう受け止めるべきなのだろうか。そもそも外部の者が口を出していいものなのか。それとも彼ら自身がやがて解決していくべき問題だと、こちらはじっと見守るしかないのか。イスラームについて考え始めると、いつもここで堂々巡りに陥る。

◆でも、どんな立場に立つとしても、あの広大な地域で1400年にわたって綿々と営みが続いてきた、イスラーム文明へのリスペクトは欠かせない。国益だの、日本の立場だのという議論は横目で眺めるだけにして、16億の隣人たちとどう付き合うかを考えていきたいと思う。


いろはにイスラーム

●不完全燃焼だったという思いが強く残っているので、この報告会でうまく伝えられなかったテーマをウェブサイトで少しずつフォローしていくことにしました。題して「いろはにイスラーム」。長野画伯のロゴのおかげで思いのほか立派なサイトになっていますが、まだまだ中身はこれから。月刊『望星』の書評や上映した写真、さらには押さえておきたいイスラームの「いろは」などを順次掲載していきます。http://site-shara.net/irohani/

●また、今月の20日(金)に、イスラームについて語るスライドとお話の会を個人的に開きます。場所はJR中央線・西荻窪駅から徒歩3分半の「西荻南区民集会所」(定員40名)、19時から21時まで。会費は200円。詳細は上記サイトでご確認ください。


地平線ポストから

北極男・その後
ロシアからか、カナダからか?
━━簡単ではない北極点への道 2015年春の挑戦延期顛末

■「ケンボレックがチャーターを中止するらしい」。その知らせは昨年11月、北極点を目指す友人のアイルランド人冒険家から届いた一通のメールが始まりだった。極北カナダで冒険家たちのフライトサポートを行うケンボレック社が、冒険へのチャーターフライト業務を中止するという内容だった。カルガリーのケンボレック本社に問い合わせたところ、返答は「2015年春のチャーター業務は一切行わない」というものであり「2016年以降の予定はまだ決まっていない」ということだった。

◆私はこれまで、2012年と2014年の2度、カナダ最北端の岬から北極点を目指す800kmの無補給単独徒歩到達に挑んでいる。しかし、極地冒険の最高難度とも言える挑戦はやはり厳しく、2度とも途中撤退を余儀なくされ、2015年3月に3度目の挑戦を計画していた。

◆北極点挑戦のスタートとなる岬は、拠点のレゾリュート村から1000km北上した地点となり、その間はケンボレック社によるツインオッター機(双発のプロペラ機)のチャーターフライトが、現在までのところ唯一の現実的な移動手段であった。それが2015年春には使えないということになってしまったのだ。カナダ極北部で海氷上へのチャーターフライトが行える機材とパイロット、オペレーションを備えているのはケンボレック社だけであり、同社の協力が得られないとなると、現実的にはカナダ側からの北極点挑戦が行えないということを意味する。

◆以来、長年通い続けてきたカナダ側からの北極点挑戦を諦め、もうひとつの北極点ルートである「ロシア側」に目を転じ始めた。ロシアで同様にチャーターフライトを行う会社と連絡を取り、2015年春のロシア側からの北極点挑戦ができないかと模索してきた。

◆しかし、土地勘もなく現地の状況も知らないロシアでの話である、日本出発予定の3か月前にカナダからロシアへとすべての準備がひっくり返ってしまっては、あまりにも無理がありすぎると判断し、今春の挑戦は見送ることとした。ケンボレック社のチャーター中止によって、世界で3〜4隊は今春の北極点挑戦を計画していたと思われるが、そのすべてが実行できなくなっている。

◆なぜケンボレック社はチャーター業務の中止を決めたのだろうか? 推測の域を出ないが、高額のチャーター料を徴収しても経営として割にあわないと判断したと思われる。その要素のひとつが会社が支払う「保険料」の値上げだ。

◆以前よりも海氷が薄くなり、割れ目も多い北極海への飛行機ランディングはリスクが高まっている。また、ケンボレック社は南極大陸でも同様のチャーター業務を行っているのだが、2年前には3名が死亡する墜落事故を起こしている。リスクが高まり、直近で事故を起こしているとなれば、支払う保険料も自ずと上がる。2年前の南極での事故以来、ケンボレック社がチャーターに消極的だと感じていたのであるが、いよいよここにきて最もリスクの高い「北極海のチャーター」を中止したのだ。

◆今後、カナダ側での北極点挑戦は事実上不可能となってしまうのだろうか? 最も望ましい展開は、ケンボレック社が来年以降、再びチャーター業務を再開することである。ただ、個人的にはあまり期待できないと思っている。次の展開としては、別の会社が業務を引き受けて再開してくれることだ。元々、この地域では飛行機会社がいくつか代替りしている。1978年の植村直己さんと日大隊による北極点到達の際、チャーターを行っていたのはブラッドレー社だった。江本さんも搭乗したはずだ。

◆ブラッドレーの持っていた機材やパイロットを、カナダ国内線を運航するファーストエア社が引き受け、その後、2003年にファーストエア社がチャーター業務を廃止した際に、後を引き受けたのがケンボレック社だった。次の代替りの会社が現れてくれることを期待している。

◆北極点挑戦ルートの近年の歴史を振り返ると、78年の植村・日大隊の時代には、米ソの冷戦真っ只中ということもあり、西側国はカナダから、東側国はロシアからと政治的理由で分けられていた。90年代になると、欧米の冒険家もロシア側ルートを積極的に利用し始める。

◆その理由のひとつは、カナダ側は海流が沖から陸へと押し寄せるために乱氷が激しく難易度が高いのに対して、ロシア側は海流が陸から沖へと離れていくために乱氷が少ない。北極点までの距離はロシアの方が200kmほど長くはなるが、全体的な難易度の低いロシア側に目を向け始めたのだ。こうして「距離は短いが海流に逆行し乱氷が多く、氷は厚いカナダ側」「距離は長いが海流に乗って乱氷が少なく、氷は薄いロシア側」という特徴ができた。

◆しかし、2000年代からの著しい海氷減少でロシア側の海氷は以前に増して薄くなり、北極点を目指してスタートした直後にオープンウォーター(開水面)が広がり出発できない、ということがたびたび起きた。以降、この10年間は世界の冒険家たちはロシア側を回避し、カナダ側からの挑戦を行っていたが、チャーター問題でいま再びロシアへ戻る必要に迫られている。

◆そもそも、北極点挑戦に飛行機利用は必要不可欠なのか? と問われれば、現状の我々のスタイルでは必要不可欠と言わざるを得ない。かつてのピアリー(注:1909年、初の北極点到達をなしとげたアメリカの極地探検家)たちのように、すべてを自分たちの力だけで行き来するには、それなりの物資と人員が必要となる。飛行機の利用は、冒険探検をスポーツ化させることには貢献したが、旅の要素は失わせた。

◆北極点無補給単独徒歩という言わば「究極のスタイル」を望めば、旅の要素に余力を回せるほど生ぬるくはない。しかし、スキルを高めていくことによって、いつの日か「究極のスタイルで臨む旅」ができるのではないかという淡い願望もある。できなかったことができるようになる。それが冒険の根本だと思っているから。

◆まずは、2016年の北極点無補給単独徒歩への挑戦を最大目標に動く。ロシアかカナダかは分からないが、今年はロシアへの視察を行い、来シーズンどちらからでも挑戦できる体制を作るつもりである。(荻田泰永 北極冒険家)

トルコと「IS」、微妙な関係

■2月、10日ばかりトルコを旅した。隣国のシリア、イラクでは狂犬のようなISが力を強め、拘束されていた日本人2人が殺害されたばかりで、なぜこの時期にトルコなのか、まさか国境近くには行かないだろうな、と職場の同僚から何度も聞かれてのトルコ行きだった。実は昨年から長男が留学していて、その訪問を口実にして遊びに行っただけなのだが。

◆留学先のアンタルヤは地中海沿岸のリゾート地。冬とは言え東京よりずっと暖かく、古代地中海文明の「世界遺産」はオフシーズンでどこもガラガラ。内陸に2時間走ればスキー場もあり、これまたニセコと並ぶほどのパウダースノーを堪能することもできた。日本での心配が嘘のように平穏、安全、平和である。

◆町ではテレビがあるロカンタ(大衆食堂)でギュベッチ(煮込み料理)の夕食。17日のトップニュースはメルシンで起きた女子大生殺害。20歳のオズゲジャン・アスランさんが帰宅中に乗車したミニバスの運転手に暴行を受けて殺された上に、身元がわからないように遺体が切断、燃やされたという卑劣な事件。

◆世論は犯人の極悪非道さを批判するよりも「女性への暴力を根絶しよう」「女性蔑視を許さない」という方向に進み、性暴力に対する厳罰化を求めるデモに発展した。背景には男性優位の社会で、性犯罪に甘い司法があるという。あとで聞いたら長男の大学でも学生集会が開かれ、メルシンでの連日のデモにみんなで参加しようということになったのだそうだ。

◆2番目はイスタンブールを襲った大雪。市内交通だけでなく、空港マヒで空路も混乱し、私が乗るはずだった翌日の国内線も欠航になってしまった。温暖なアンタルヤにもこの翌日、26年ぶりの雪が降り、学校が休校になったとか。3番手が「国内治安法案」をめぐり、紛糾する国会。これは法案の是非もさることながら、靴を投げて文字通り乱闘する議員たちの映像が繰り返し流されていた。

◆というように、ISの “I” の字もないというのがトルコのテレビだ。10日いただけでは、世論の本当のところはわからない。徴兵制のトルコでは、兵役のために休学する学生がおり、大学でも「前線」のことは話題にしにくいと聞いた。その前線がシリア国境だとすれば、日本のマスコミのようにISの残虐さを強調する報道で無闇に恐怖を煽るようなことはできないだろう。

◆もちろん新聞では法案に関連してISの脅威が少しは報じられている。1980〜90年代のPKKとの闘争が落ち着いたというものの、治安当局の最大の頭痛の種は依然としてクルド人武装勢力であり、続いて1月にイスタンブールで自爆テロを起こした極左過激派DHKP-C、それに加えてISの侵入にも警戒しなくては、というのが与党の主張だ。

◆報道の自由をどうこう言うつもりはない。しかしトルコのマスコミが隣国のISを本当に怖がるあまりに報道を抑制し、オズゲさん追悼のデモなど他のことに国民の目を逸らせようとしているのではと思うのは疑いすぎだろうか? 20日、トルコ政府はシリア反体制派への装備提供と訓練協力で米国と合意したという。いつまでも対岸の火事を無視して平和を謳歌しているわけにはいかなくなるのでは。そんな心配は余計なお世話か。(落合大祐

━━3.11 今も……
高山でも、追悼の会やります

■3月11日が近づいてきました。先日、高山で地震があり、「4年前と同じだ」と感じました。あの年も、各地で地震が続いていた……。今、日本中が2011年の春を思っているはず。

◆高山でも、11日には数か所で催しが予定されています。震災の映画上映会や放射能を逃れて移住された方の講演会、ずっとボランティアに行かれている方のお話会等。私達の仲間では、追悼の意を込めたキャンドルナイトを企画しています。震災直後に高山から派遣された消防士の方のお話と、被災地の集会所の建設に携わった建築士の方のお話を伺い、これからのことについても話し合えたらと思っています。地元ミュージシャンの、平和や自然、世の中へのメッセージのライブもあります。

◆とはいっても、すっかり忘れている人がいるというのも事実。「3月11日」に全く反応しなかった知人には、本当に驚きました。追悼の会は、これからも続けていこうと思います。暖かい部屋や穏やかな毎日を、後ろめたく感じる心を振り切るためにではなくて。思い出すというのではなく、日々、思っていなければならないことなんですよね。(飛騨高山 中畑朋子

「縄文号」・もうひとつのストーリー
「残る物語にする」ために、私が心がけたこと

■「自然から素材を集めて鉄工具を作り、舟を作り、インドネシアから日本まで星と島影を頼りに航海する──」。関野さんの教え子の学生達を巻き込んで始めたこのプロジェクト。卒業生だった私は、舟を作るまでの映画「僕らのカヌーができるまで」のパート監督を引き受けていました。2008年から始まった「舟作り」が一年で決着し、日本ではプロジェクトに参加した仲間がそれぞれの人生へと歩み始めます。僕も舟のことは頭から完全に消えていました。撮影の依頼がきたのは2010年の年始、プロジェクト開始から2年目のこと。

◆「2か月くらいで帰ってくるつもり。舟が停滞すれば3、4か月くらいで帰って来れるかも」。関野さんはこう言いました。ぼんやりした話です。2か月かも。3、4か月かも。という数字の揺れに軽く不安を覚えました。ぼんやりした状態で現地に放り込まれた私ですが、撮影では具体的にさまざまな障害に出会います。なかでも海上での特有の困難は、舟と舟の間の移動の難しさです。

◆カメラは縄文号とパクール号と撮影船のどの船かに乗り込んでいるわけだけど、別の舟で起きていることは、記録できないのです。クルー達は泳いだり身軽に小舟を使って移動しますが、撮影隊の我々は機械を持っているために簡単に舟の間を行き来できません。縄文号で巨大な魚を釣り上げてもパクール号に乗っていたら撮れないし、逆もそうでした。舟の間を移動するには撮影船の小型ボートを呼ぶか、マンダール人クルーに頼んで小舟に乗せてもらったりします。頼まれた方は労働みたいなもので、こちらは「早くして!」と急かしますけど、ゆっくりゆっくり事が運びます。

◆夕暮れ近くになると舟は浅瀬に近づき碇をおろします。井戸があればクルーは泳いで上陸してしまいます。でも、私達はカメラを持っているので海に飛び込むことはできません。ですからクルー達を追いかけるのは大変です。私たちは当然陸での様子も記録しなければならないからです。拠点である撮影船に戻ってしまうと、縄文号とパクール号の中の様子は全くわかりませんでした。他の2隻は別の家のことのようです。彼らは会議しても全部事後報告ですから。それじゃカメラが同行する意味なんて無い。

◆今日は撮影しないでください、と乗船を断られることがありました。舟だけ撮ってればいいだろ、と思われたのかもしれません。いずれにしろその日は舟の外観しか撮れないわけで、こんなことで映画ができるかと、心底頭に来たこともあります。特に私達のカメラを嫌がったのは日本人の若い2人でした。カメラがあるとそれだけで気になる。リラックスできない。ということでしょう。八つ当たりのような態度をされることもありました。

◆まあ、でも、それはそれでこちらも図太く追いかけるしかないのです。仕事なので。嫌がられるのを承知でパクール号に乗り込む。あとは、どこまで我慢してもらうのかの匙加減を、繊細に考えていくしかないのです。

◆旅を終えたのは2011年。ここから私は3年かけて、PCのモニタと向かい合い続けることになります。映画の素材は800時間弱。航海はあまりに情報過多でした。2時間で表現するには「自然から素材を集めて……」という異常に長いコンセプト自体が足かせにもなりました。

◆一番危惧したのは共に航海したインドネシア人クルーの存在を描けないということでした。舟・海のことを熟知した頼れる存在。よく笑い、撮影にも好意的で、僕らにも気を使ってくれました。彼らは甘いものが大好きで、ぼんやり退屈そうにしているとミロに練乳を入れた「ミロ・スス(乳)」が振舞われます。日陰の無い海の上で、汗をかきながら甘くて熱い飲み物をすする。

◆コップを手元に置いて少しでも油断するとインドネシア人クルーのダニエルがすばやく洗って片付けてしまう。彼はまるで海の上の執事のようです。関野さんが舟の上でほったらかしているサングラスを、何度水没から救ったことか。ダニエルは生まれた子供の名前を関野さんに決めてほしいと申し出たこともありました。家には航海の写真が飾ってあって、僕らが訪問するたびに以前渡した映像の鑑賞会が始まるのです。彼らもそのように誇りに思っています。だから私は本当の様子、11人が皆で旅をする物語を作ろうと決めていました。

◆そんな中で起きた東日本大震災は衝撃的でした。自然と関わりながら旅をする「航海」の意味をも大きく揺さぶったのです。私は医療支援に向かう関野さんに同行し、津波が到達した境界の向こう側に足を踏みいれました。建物はなぎ倒され、車が商店の屋根に乗り上げ、漁船が家に突っ込んでいる。おびただしい数の物が散乱し、歩けないくらいに積み上っている。私たちは半壊した家で暮らす人たちの近くでテントを張り、過ごしました。

◆あの瓦礫の中で出会った、突然多くのことを背負わされてしまった人たち。息子が流されてしまい、翌日孫が生まれた老人。自立すると宣言して備蓄米を食い、瓦礫の中で芋を植えに出かけていました。支援物資を渡しに行くと、最低限の物はあるからいらない。そもそも水と米さえあれば生きていけるんだ。といって断るのです。自然の中で生きるとは何なのかをこんな切実な形で目の当たりにしたのです。

◆多くの事と出会いました。なのに2時間という映画の枠はあまりに短い。正攻法なら切り落とすべき要素を残したい。そのためには「残したい要素」を煮詰め、翻っては私たちの旅は何だったのかを0から問い直す作業が必要でした。それは時間がかかります。単純に自然を礼賛するのではないもの。単純に航海を素晴らしいと決めてかからない事。誰かが使い古した答えではないものを見つけるために。映画にはその成果が出ているはずです。(水本博之 ドキュメンタリー監督)

今度は、藁舟で……

 一昨年より国立科学博物館の人類研究部、南山大学の人類学研究部の研究者を中心にして、与那国研究会が始まった。4万年前に人類は台湾から沖縄に渡った。最終氷期と言われる2万年前でも陸続きになったことがない。ということは台湾から与那国島、あるいは西表島、石垣島に何らかの浮遊物に乗ってやって来たに違いない。

 この研究会はどの様に渡ったのかを研究、実験航海する研究会だ。舟も竹イカダ、丸木舟、革舟、樹皮舟、葦舟といずれにするか検討中で、当時の旧石器だけで作り、航海するというものだ。

 おそらく縄文号が通った道筋を通るものと思われる。

 この研究会で懐かしい人物と出会った。20年前パタゴニアからアフリカに向かう途中、ペルーのクスコに滞在していた。その時、クスコでガイドをしているという若者に出会った。これからチチカカ湖に行って葦舟を作り、湖を一周する計画だという。その後私はアマゾンに向かい、彼は4カ月かけて見事チチカカ湖を一周航行した。彼はその後、20年間葦舟にのめり込み、20m長のものを作り、太平洋や大西洋の一部に漕ぎ出し、日本全国で葦舟つくりのワークショップを開催している。葦舟と言っても実はチチカカ湖はカヤツリグサ、ハイエルダールのラー号はパピルスだ。その他イグサ、イネ藁、ススキでも作れる。

 サハラ砂漠には太古の葦舟の岩壁画が描かれている。私がこの藁舟に魅力を感じたのは素材はどこでも手に入り、簡単な道具で作れるということだ。大型船も作れる。

 近々、もう若者ではなくなった長崎在住の石川仁氏に藁舟つくりを指導してもらうことになった。「グレートジャーニー」の名付け親ブライアン・フェイガンはオセアニアでもかつて樹皮船や葦舟が使われていたという。

 自分で藁舟が作れるようになれば、「海のグレートジャーニー」も様々な展開の可能性が出てくる。(関野吉晴


先月の発送請負人

曜日発送しました。今回は、初めて週末の作業、しかも江本、森井は別件で大事な時に会場の榎町地域センターにいられない状況でしたが、車谷建太さんのリードでスピーディーに作業が進んだ、とのこと。就学前の2人の少女が参加してくれ、大いに仕事してくれたおかげもありましたね。作業に参加してくれたのは、以下の皆さんです。土曜日の午後だから参加できた、という人もいて、たまには時間を変えてやるのもいいかも、と思った次第。皆さん、ありがとう。
森井祐介 車谷建太 福田晴子 前田庄司 瀧本千穂子+柚妃 中嶋幸子 松澤亮 菊地由美子+美月 江本嘉伸 杉山貴章 石原玲
■中嶋さんは、旧姓渋谷。結婚され、いまでは10か月の赤ちゃんがいるそうです。ウェブサイトでこの日の発送を知り、駆けつけてくれました。「久々に地平線会議に参加することができとても有意義な時間を過ごすことができました。妊娠、出産と家から出られない日々が1年半ありましたが毎月、地平線会議のホームページを読む事が育児中の息抜きの時間でした。子供は小さくまだまだ手はかかりますが、夫に協力をしてもらい今後も積極的に参加をして行きたいと思います」
■とくにふくろにいれてシールをはがすのがとてもたのしかったです。ぜんぶたのしかったのでまたやりたいとおもいました。みなさんにしごとがはやいとほめられてうれしかったです。ごほうびに北京にいってギョウザとはるまきをたくさんたべました」(柚妃 春から小学生)
■「シールはりしてたのしかった。みーちゃんおしごとすきなの。ゆづきちゃんもいっしょでよかった」(美月 来年春から小学生)


年の夜の珍客に沖縄の囲碁文化を教えてもらって……

■旧正月の前の日、こちらでは「トィシヌユルー(年の夜)」といいますが、またまた我が島に懐かしい方が訪ねてくださいました。その方とは、皆さんご存知、地平線通信レイアウトを担当する森井祐介さんです。「ちへいせん・あしびなー」以来だったのにもかかわらず、森井さんは路線バスを乗り継ぎ、浜比嘉島の我が家にひょっこりあらわれました。何度来ても迷う人もいるのに、うちをよく覚えていて下さったなあとびっくり。さすが地平線の重鎮、旅慣れたかんじで荷物は小さな布袋一つ。

◆庭のテーブルで自家製シークワサージュースを飲みながら、しばしおしゃべり。大変な心臓の手術をされたとのこと、通信や江本さんからの情報で少しは知っていたけれど、あらためて話を伺い、そんな大変だったとは知りませんでした。よくぞ生還されました。地平線にはホント、賀曽利隆さんといい三輪主彦さんといい不死身な人が多いですね。旅ができるまでになりよかったですねえと言うと、ゆっくりしたいけど仕事があまり休めないんだよ、と嬉しそうに笑う。

◆「ヤギ達に会いに行きますか」と、私の車で一緒に牧場へ。昇はおおかたのヤギ達を連れて遊牧中だったので、留守番の親子ヤギたちにエサをあげるのを森井さんが手伝ってくださいました。エサ入れの檻から草を出したとたん、それ!とばかりに留守番ヤギが檻の中に首を突っ込み食べてしまい、見かねた森井さんはずうっと檻の扉を押さえて番をしてくださいました。おかげで助かりましたよ(笑)。

◆その日はポカポカ陽気のとってもいいお天気。森井さんは晴れ男だそうです(どうりで)。明日は旧正月元旦ですよー、島ではいろいろ伝統芸能とかありますよー、泊まって行ったら、と言うと、うん、見たいけどね、いろいろ行くところがあるんだよ、とおっしゃいました。

◆「昔なじみのゴカイショを訪ねて回りたいんだよ」。ん?ゴカイショって? ゴカイショとは「碁会所」、つまり、囲碁を打つ人が席料を払って集う場所だそうです。麻雀でいうと雀荘ですかね。なんと、森井さんは囲碁に詳しく、沖縄にもあちこち知り合いの碁会所があるそうです。よくよく聞くと、今の仕事とは碁会所の番人で、教えることもあるんだとか。

◆沖縄は実は囲碁が盛んなんだということ、特に宮古島は囲碁が強いんだということ、最近は若い女性が増えていて、山ガールならぬ囲碁ガールだ、などといろいろ話を伺い、へええええええっと感心しきり。そうこうするうちに昇とヤギが山から帰ってきました。

◆「そういえば昔はおじいたちが囲碁を打っていた気がする」と昇。そうかー。今はみんな集まるとぐだぐだ飲むだけだけど、昔はそんなだったんだな。なんだか囲碁が習いたくなりました。「碁会所めぐりの旅」かー。テーマ、目的のある旅っていいですね。

◆さあ、これからまたバスで那覇にのんびり戻るということで、夕方、さっそうと手を振り旅立っていかれました。別れ際に「お元気で!」というと、森井さん「そうだな、私がいないと地平線通信は成り立たんからな」。そうですよ。これからも通信楽しみにしております。「森井さんの碁会所めぐりの旅」をぜひ、お願いします。

◆さて、翌日は旧正月元旦。朝起きるとすぐに、海岸渕の湧水地「ハマガー」に「若水」を汲みに行きました。その水で顔を洗うと若返る、心身が清められ強くなれると言われています。うちではアヒルとわんこ達にも飲ませています。朝9時からは区長はじめ島人有志による12か所の拝所廻り。途中のシルミチュー御嶽では三線と踊りの奉納があるので私たちも三線持って晴れ着を着て行ってきました(晴れ着はもちろん江本さんと北村さんから頂いた上等服です)。

◆今年も大勢の島人や観光客がたくさん訪れました。残念ながら平日なので子供たちの姿はありませんでしたが。今年はNHKも来て夕方のニュースで放映されました。旧正月は本島からも親戚たちがたくさん集まるので、夕方からは学校を終えた子供たちもたくさん島に来てにぎやかになってきました。みんなお年玉をもらって嬉しそうです。

◆夕方、島の三線の先輩の家にお呼ばれをして、たらふくごちそうをいただきました。漁師一家なので特に刺身の豪華なこと!! 面白かったのは、「孫の遊び仲間」という、本土から島に移住した若い家族が3組とその友達という若者もたくさん来ていて、旧正月を一緒に楽しんでいたこと。子連れでよく牧場に遊びに来るので私たちとも顔なじみ。三線弾いて泡盛飲んで、みんなで盛り上がりました。

◆その移住者のひとりは貝細工の工房をしていて、その工房に来る観光客もいて、島の活性化につながっていく予感。過疎が進むこの島に、新しい文化や考え方を持った人たちが移住してくれるとまた面白い展開になるなあと思いました。子供がいるとナイチャーが地元の社会に溶け込むのも楽なんだなーと思いました。うちは子供がいないけど、三線をやっているおかげで島の行事に呼ばれたり、学校で子供たちと交流できました。

◆そうそう、先日3月4日は三線の日で、夜から公民館で島人が集まって、私たちにも声がかかり三線弾いたり踊りを踊ったりして遅くまでわいわい楽しみました。あらためて三線に感謝です。

◆浜比嘉島は平和で申し訳ないくらいですが(とはいっても頻繁にオスプレイや軍用ヘリが頭上をかすめます)、同じ東海岸の辺野古では連日、基地建設反対の方たちが厳しい寒さの中頑張っています。海上保安庁の横暴ぶり、日本政府の非道ぶりは連日沖縄では報道されていますが、たぶん本土ではほとんど報道されていないのでしょうね。

◆沖縄人って、つくづく少数民族なんだな、と思ってしまいます。アメリカの植民地政策がいまだに尾を引き、日本政府によるトカゲのしっぽ切り政策が見え隠れしています。私たちは日々の生活に追われなかなか辺野古へ行けませんが、地平線の皆さんがもし沖縄に来ることがありましたら、ぜひ辺野古の現実を見に足を延ばしていただけたらと思います。そして高江も。そしてもちろん浜比嘉島にもめんそーれ。(外間晴美 浜比嘉島)

心臓バイパス手術の快復を確認できた浜比嘉島への旅

■沖縄へ行ってきました。2月17日から3泊。那覇市内のホテルが宿です。2008年の「ちへいせん・あしびなー」以来7年ぶり。今回のテーマは、浜比嘉を訪ねること。路線バスに乗ること。そして碁会所に行ってみること。ゆいレールの車窓から見る那覇は、さほど変わっていないように思われたが空港から旭橋駅までの車中は中国語がとびかっていた。7年前にはほとんど聞くことがなかったような気がするが……。

◆翌日、浜比嘉へはバスで。手元の「バス運行時刻表」は平成14年11月現在とあるが、平成27年のバスはどうなのだろう、ターミナルの遠距離バスの時刻表をみると、さほど変わっていなかった。午前9時50分、屋慶名行きのバスに乗る。乗客は自分だけ。屋慶名に着くまでに10人ほどの乗客があっただろうか。

◆浜比嘉へはバス停の近くにいたタクシーで島の入り口まで行くことができた。比嘉の外間さんの家まで10分ほど歩く。「ごめんください」と声をかけると、晴美さんが「まあ、森井さん」と、びっくりしたような大きな声をあげて飛び出して来た。電話で知らせておいたのにね。

◆庭先の腰掛けに座り込み、はちみつ入りのジュースをごちそうになり、すぐにヤギの牧場へ。2、30頭いるヤギたちは晴美さんの姿をみると、メエメエと大騒ぎ、きっと食事の時間だったのだろう。晴美さんは餌箱から草の束を抱え、囲いの中の餌箱のなかめがけてぶん投げる。ヤギたちはお行儀よく食べるのではなく、餌の上に飛び乗ってもりもり食べる。しばらくすると昇さんが小型トラックの荷台に草を山盛りに積んで現れた。ヤギたちの何匹かは囲いを抜け出し、トラックの荷台の草をムシャムシャ。

◆積んで来た餌の始末をして、家に戻る。外間さん夫妻は食事を済ませ、コーヒーを淹れてくれた。おいしいので何杯もおかわり。午後4時、時間になったので帰ることにする。島を巡るマイクロバスに乗り、橋を渡ったT字路のところで途中下車、あやはし館まで海中道路を歩く。この道路の車は途切れることがない。この地域では、明日が旧正月。新年を家で迎えたいという人たちの思いのせいなのだろう。

◆昨年5月、心臓の血管のバイパス手術を受けた。今回、さほどの疲労感もなく長時間動き続けることができたのは、経過が良かったということか。1年前だったらこれほどスムースに動けなかっただろう。沖縄行きは、手術の結果の確認といっていいでしょう。

◆ここで、江本さんはじめ、いろいろお心遣い、ご心配をいただいた多くのかたがたに心からお礼を申し上げるとともに、体調が快復し、通信作りを楽しむことができるようになったことをお知らせしたいと思います。(森井祐介

常磐自動車道が開通しました!!

■3月1日(日)、東北太平洋岸を縦断する常磐自動車道の「常磐富岡IC〜浪江IC」(14.3km)が開通しました。東京から仙台までの全線が、ついにつながったことになります。東日本大震災で福島県内の工事が遅れていたのですが、地元住民にとってはほんとうに嬉しいニュースです。

◆そして、バイク乗りとして個人的にありがたいのは、高速を利用すればバイクでも震災前のように北上する事が可能となったことです。これまでも国道6号線は、福島第一原発周辺の富岡町〜大熊町〜双葉町間(約14km)は車での走行は可能になっていましたが、バイク、自転車、徒歩での通行は禁止されているのです。常磐自動車道は「東北自動車道」に比べ、冬場は降雪の影響を受けにくいため、物流の効率化にも大きく寄与するでしょう。

◆福島県では、除染で出た放射性廃棄物を保管する「中間貯蔵施設」への搬入が今月から開始される予定なのですが、その輸送ルートとしての役割も、今後大きく担うことになるものと思われます。

◆ところで、3.11当日は、青森まで被災海岸を北上する賀曽利さんと長沢峠のドライブインで合流し、翌日は宮城県南部周辺まで被災地域を見て回る予定です。(楢葉町住民 渡辺哲


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含ませてくださった方もいます。皆さんの支援はそのまま紙代、印刷費など通信制作に活かされています。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

堀井昌子(5000円 カンパ含め)/佐々木陽子(10000円)/長塚進吉/荒川紀子/新保一晃/長澤法隆/塚本昌晃/小石和男(5000円)


地平線会議からのお知らせ

■4月に予定している「福島・浜通りを巡る移動報告会」について、あらためてお知らせします。2月末にいったん締め切りましたが、希望者が予定(27人)をオーバーしたので、バスを大きくして40人程度までは参加できるようにします。
 希望者は、江本宛てメール(pea03131@nifty.ne.jp)で申し込んでください。全員の氏名を提出して立ち入り許可証を取得しなければならない地域にも入る予定ですので、早めにお願いします。
★目的 原発事故で居住及び立入りが制限されているエリアの4年経過した現状を見て回る。浪江町など特別許可を取得しなければ入れない地域にも入る。
★時期:4月18(土)、19(日)
★予定する行程:4月18日(土)午前11時 常磐線いわき駅集合 楢葉町、富岡町で放射性廃棄物の集積場、バリケードにより分断された地域を視察する。
 宿泊:いわき蟹洗温泉4月19日(日)
 大熊町、双葉町(福島第一原発の立地自治体 国道6号線で通過だけ許されている)、浪江町 津波に被災した小学校、放射線量を計測する「スクリーニング場」への立寄りなど。
★解散:19日16時 福島駅の予定
★経費:バス代 7000円 宿泊費(食事含め):10000円
 ■参加希望者には別途詳しく案内メールを送る予定。


当時は「ボランティア」という言葉はなかった
━━『キューバ砂糖キビ刈り奉仕隊』・送り出した旅行会社からの報告━━

■地平線通信2月号に白根全さんの報告会レポートと、そのすぐあとに、大野説子さんの「キューバ・砂糖キビ刈り隊の思い出」が掲載されていた。全くの偶然だが、自分も当時この隊に多少の関係があり、その頃の話を別のところにちょっと書いたばかりだった。そこで大野さんのレポートを見ながら、私の立場からの砂糖キビ刈り隊を振り返ってみたい。

◆この隊を募集した「日本キューバ文化交流研究所」(以下キューバ研)の主催者は山本満喜子さん(1912-1993)という女傑である。彼女は大正時代の総理大臣だった山本権兵衛の孫娘。戦前からヨーロッパ・南米・メキシコ方面とのかかわりが深く、1959年のキューバ革命前後からは、カストロ、チェ・ゲバラとも親しい交流があった。山本さんがキューバ研に拠って砂糖キビ刈り隊の募集に至った経緯は、大野さんの報告どおり。

◆隊の募集が始まった1969年当時、キューバ研の事務局長だったのが藤本敏夫(1944-2002)である。彼は同志社大学で自分の1年上、「新聞学研究会」というサークルで一緒だった。藤本は反帝全学連委員長として全国的な運動を率いていたが、当時はその流れから距離を置きつつあり、何がきっかけだったのかは不明だが、キューバ研で山本さんの仕事を手伝っていた。

◆私は大学を出て小さな旅行会社に入り2年目。藤本から連絡があって「隊の募集をやる。旅行会社にいるなら渡航手続きなど一切を手伝え」ということだった。それでしばらくの間、白金にあった山本さんの自宅でもあるキューバ研に通うことになったのである。キューバ研には実に様々な人たちが出入りしていた。右も左も関係なし、学生運動の連中はもとより、官僚や政治家、ジャーナリスト、音楽家や作家、企業経営者など、まったく「満喜子の梁山泊」とでもいうべき人脈だった。

◆70年早々に隊の募集が始まると、新聞などが好意的な記事で紹介してくれたこともあり、申込者はあっという間に100名になろうかという勢いだった。ところが3月末、「よど号ハイジャック事件」が起きる。隊への参加申し込み者には学生運動にかかわっていた連中が少なくなかったし、よど号事件、学生運動、キューバ砂糖キビ刈り隊という関連の「風評忌避」などもあり、最終的には50名を超えたあたりで落ち着いた。

◆私の会社へも公安警察の係員が2人、隊員のリストを見せてくださいとやってきた。手土産というのか菓子折りまで下げて、とても低姿勢のご挨拶だった。当時はまだ旅券をとること自体そう簡単ではなかったものの、キューバ大使館から隊員への入国査証はあっさり発給された。(ただし、キューバまでの同行を希望した私にはサトウキビ刈りの仕事をするわけではなかったせいか、発給してもらえなかった)。

◆隊は羽田バンクーバーメキシコシティリマブエノスアイレス、というルートを飛んでいたカナダ太平洋航空で日本を発ち、メキシコシティでキューバ航空に乗り換え、ハバナまでという空路をたどった。途中バンクーバーで1泊、メキシコシティでも1泊か2泊したと思う。

◆メキシコ出発時、私は空港のキューバ航空機のタラップまで隊を見送りに行った。出発前に隊員全員、個別に前後左右からの顔写真を撮られた。出発待合室で隊員は皆ゆかたに着替え、手を振りながらタラップをあがって行った。日本からの若者たち、砂糖キビ刈り奉仕という親善使節団を率いてキューバ入り、といった山本さんなりの気概があったものと思われる。

◆翌71年は第1陣・第2陣の2グループに分けて日本を出発した。したがって72年の隊は第4次隊となり、73年には参加申し込みが少なくなって隊は成立しなかった。現在であれば多分奉仕隊というよりボランティアというコトバが使われたであろう。手元にある当時の募集要項(72年のもの)を見ると“Brigada de Zafra Voluntaria”というスペイン語が併記されている。「砂糖キビ・ボランティア隊」の意味だが、その頃はまだそのようなコトバ、表現が日本になかった。

◆さて、当時の40万円といえばおそらく現在の300万円くらいに匹敵する。1968年新入社員だった私の給料は、月額2万6000円だった。そんな大金を積んでまでも、若者たちがキューバまで出かけた、という事実に今更ながら驚かざるを得ない。記録を繰ってみると、1970年の日本人出国者数はまだ66万人。現在のざっと30分の1という数字である。もし今世界のどこかで、しかもアメリカが最も嫌がる国へ、「食糧生産国際ボランティア隊募集」があったとして、当時の30倍、日本の若者3000人が、自費300万円を投じて参加するだろうか。

◆69年は南米ボリビアでゲリラ活動中のゲバラ(当時39歳)が、政府軍につかまり銃殺された年である。彼は当時世界中の若者の間で圧倒的な人気だった。いまだに彼の顔がプリントされたTシャツが世界各地で売られている。少佐を表すひとつ星が染め抜かれたベレー帽、長い髪、濃い眉毛の下の鋭い眼差し。まさしく理想的な革命家としての若き英雄は、今なお圧倒的な存在感である。1971年に『チェ・ゲバラ伝』を書かれた三好徹さんにも、よくキューバ研でお目にかかった。そんなゲバラ人気があったにせよ、この砂糖キビ・ボランティア隊というのは、日本の海外旅行黎明期に括目されるべき大事件だったのではなかったか。

◆東西冷戦という国際政治の状況下、アジアではベトナム戦争があり、欧米では相当先鋭的な学生運動が吹き荒れていた。新聞には大森実や開高健をはじめとする気鋭のジャーナリストたちが、戦場から命を懸けたレポートを書き送っていた時代でもある。あれからほぼ半世紀の日本、社会、マスコミ、学生たち。日本における「イスラム国騒ぎ」とは何か。半世紀の変化には驚嘆すべきものがある。(小林天心 北大客員教授)

今月の窓

屋久島てんでんこ

■3月11日、屋久島の小学校で東日本大震災の話をする。この1年間担任してきた子ども達とも、あと数日でお別れだ。初めての担任で至らない事だらけだったと思うが、今の自分にできることは精一杯やりたい。

◆周囲130キロのこの島では、山と川と海と空が繋がっている。屋久島と言えば苔むす森や山が有名だが、私は海も好きだ。朝の通勤時間は、坂を上りきった所から今日はどんな海が見えるのだろうと毎日楽しみにしている。穏やかな海、キラキラと眩しく光る海、激しく荒れる海、灰色のどんよりした海。波が金色から銀色に変わっていく瞬間の幻想的な光景に出会ったこともある。海を見ると不思議と心が落ち着く。

◆海岸を見るだけでも、地域によってその様子は様々で面白い。山奥から流れ出る大きな川の河口は、削られた花崗岩でできた美しい白い砂浜になっている。他にも丸く磨かれた黒石の転がる浜、褶曲した堆積岩が連なる岩場。人々はよく使い分けている。夏には子ども達であふれかえる「白浜」と呼ばれる川辺には、人々が庭に敷くために白い砂を集めにくる。

◆月5000円で借りている我が家の屋根には、海で拾ってきた直径20〜30cmの丸い石がドン、ドンと何十個か置かれていた(先日、大家さんが石が転がって落ちたら危ないと言って、撤去された。気に入ってたのになあ)。そしてどんな表情の海でも、見るたびに必ず思い出すのは、あの日のことだ。

◆地平線会議のつながりのおかげで、私は東日本大震災の後1年3か月間を宮城県で過ごす事ができた。あれから丸4年が経つが、東北から遠く離れた南の島にいても、震災で思い知らされた自然の脅威、そして人間の力の小ささを忘れることはない。毎日海を見るたびに、頭の片隅では目の前の海があの大津波のようになる可能性を想像する。

◆30年以内に70パーセントの確率で発生するという「南海トラフ地震」が起こった場合、屋久島には最大15mの津波が押し寄せると言われている。学校は海抜わずか4mにあり、すぐ横は大きな河口だ。大津波が来たら、二階建ての校舎はひとたまりもないだろう。昨年の4月には、地域ぐるみで初めての津波避難訓練が実施された。海上保安庁や消防も出動する大規模な訓練で、私も教え子たちと一緒に高台にある陸上競技場まで走って避難した。

◆でも実際に大地震が起こったら、きっと海の様子を見に行く人がいるだろう。大津波の歴史が伝わっていた東北でさえ、津波を見に行ったり、逃げ遅れた人を助けに戻って波に飲まれた人がどれほど多かったか。海を目の前にしたこの学校に通う子ども達には「とにかく逃げなさい」と、伝えたい。

◆南海トラフ地震の場合、屋久島への津波到達は地震発生の約40分後と言われている。落ち着いて避難すればきっと命は助かる。そして家族の中に年配者や幼い子ども、体が不自由な方がいたら、どう逃げるかを話し合っておいてもらいたい。素直な子ども達だからこそ真剣に考えてくれると信じて、同じ海で繋がっている東北の話をしようと思う。

◆東日本大震災では「どれだけ助け合えたか」が美談になった。しかし実際は「どれだけお互いの迷惑をがまんできたか」が重要だったという話を聞いたことがある。はっとさせられた。最近は人に迷惑をかけることや、自分が傷つく事から必要以上に逃げているような風潮がある。助け合いは普段の人や地域との関わりで生まれることも、子ども達と考えたい。

◆4年前、東北では「被災地」というよりも「知り合った方々の故郷」として現地に向き合ったことでショックを受けた。大切な人を失った悲しみは、多くの人が共感できるだろう。でも、故郷をなくした悲しみがどれほどのものか……。その悲しみは、土地との結びつきの強さに比例しているのだと思う。土地から恩恵を受けていることを、どれだけ感じて暮らしてきたか。お金にたよって都会で生きてきた者には理解できない部分も大きいはずだ。

◆でも悲しめることは、そこでの喜びを知っているという事でもあり、ある意味幸せなのだ。屋久島での暮らしも、自然抜きには考えられない。梅雨や台風、変わりやすい天気などの厳しい環境や自然災害も「自然の営みの一部」ととらえ、それを受け止めてこそ「共に生きている」と言える。

◆被災地で忘れられない思い出がある。ボランティアを引き上げることになった時、江戸時代から続く契約講の会長が、お礼にと地元の水産高校の校歌を歌ってくださった。漁師の魂がこもった歌だった。歌にあわせてお母さん方が踊りだし、周りの人たちの合いの手が入り、それに負けじと歌い手の声がますます響く。みんなが同じ船に乗っているような一体感に包まれていった。不思議と涙がこぼれた。私はこの人たちの「誇り」に感動したのだ。津波で多くのものを失っても「自分たち」という強い何かが残っている。そんな彼らが羨ましかった。

◆東北でボランティアをしながら「お節介や自己満足ではないか」、「本当にやるべき事から逃げているんじゃないか」と不安にもなった。それでも居続けられたのは、「大変なときに誰かが側にいてくれて、本当にありがたかった」という、かつての自分の経験を信じていたからだ。人のありがたさを痛感したあの時から、「自分にもできることがあるのでは」とひとまわり強くなれた気がする。3月11日は追悼の気持と共に、周囲の方々への感謝の心を持って迎えたい。(新垣亜美 屋久島住民)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

鳥の眼と森の心

  • 3月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「匂いの話で盛り上がったんですよー」というのは、エアフォトグラファーの多胡光純(てるよし)さん。パートナーの木のおもちゃ作家、歩未(あるみ)さんと初めて出会ったのは地平線300回記念大集会の会場でした。「僕がモーターパラグライダーの修行をしていた時期と彼女がドイツで木工作家に弟子入りしている時期が同じで、出会った途端に意気投合。それぞれエンジンオイルの匂いや工房のアマニ油の香りで、歩いて来た道を語り合ったんです」。

結婚してからは映像と木工という異なった創造活動ながら、互いに刺激を請け合ってきました。「私は彼の世界に影響を受けないよう突っぱってきたところもあったんです」というのは歩未さん。「自分の世界をひとりで伐り開いてくるのがホントに大変だったから、強がってた。でも同様に独自の道を開拓してきた彼が外に出ては新たな刺激を受けてくる姿をみて、私もいろんなことを受け入れるようになったかな」。

最近ふたりは“やっぱり日本プロジェクト”立ち上げを宣言しました。鳥の眼で世界を見る尺度をしっかり持つ為に足元の暮らしを見直したい多胡さん。日本の森の間伐材を生かすおもちゃ作りに挑戦したい歩未さん。ふたりのバイオリズムが一致した結果の新たな動きの予感です。

今月は多胡光純さんと歩未さんに作家としての道のりと今後の展望を語って頂きます。


地平線通信 431号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年3月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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