2014年12月の地平線通信

12月の地平線通信・428号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月10日。豊岡市神鍋の民宿「可愛人屋」の周辺は、あたり一面白いものに覆われた。つい2週間あまり前、地平線の仲間たちとのんびり散策した神鍋山の火口のあたりは30センチの積雪となっている。一気にスキーのシーズンがやって来たのだ。

◆豊岡通いはもう長いが、いつもはひとりなので、11月22、23、24日と地平線会議の仲間たちが次々に集結してくるのがなんとも頼もしく、楽しかった。植村直己さんが冬のマッキンリーに逝って30年になったこと、そして、今回は、植村直己冒険館の開館20周年の記念の年、ということで故郷の豊岡に公子夫人はじめゆかりの人々が集まった。15年前、ここで地平線報告会を開かせてもらった私たちは、3年前にはお茶の水の明大ホールでの「日本冒険フォーラム」をお手伝いした経緯もあり、再びここに来た。今回は冒険館に運ばれ、蘇った関野さんたちの「縄文号」の復活を讃える気持ちも大きかった。

◆その詳しい内容は、次ページからの特集記事をじっくり読んでほしいが、継続しているからこそ見えるものが確かにあるのだ、と私はひそかに感動した。たとえば、狭いリード(氷の裂け目)は「泳いでしまう」という荻田泰永君の発想は30年前の植村さんにはまったくなかったことだ。そして、岩野さんが2度南極越冬を経験した科学者だと知って、前方に座って熱心に聞き入っていたひとりのシニアの発言も興味深かった。

◆「もしかしたらあの時、私たちが動かなかったらいまの南極観測はなかったかも……」と切り出したのは、植村さんの大先輩、炉辺会の元会長で昭和28年に明大を卒業した中尾正武さんだった。「実は、こんなことがあったのです」と、参加者にはほとんど知らない歴史を語ってくれた。以下、中尾さんが私に書き送ってくれた資料を含め足早に記す。

◆1956年に始まった日本の南極観測は、昭和基地に毎年越冬隊を残して続行された。しかし、1961年になって「宗谷」の老朽化で一時打ち切られた。1961年の第6次隊は越冬計画はなく、全員帰還したのだ。以後、1965年の第7次隊まで日本の南極観測は中断された。南極観測はこのまま打ち切られてしまうのではないか……。中尾さんが豊岡報告会で口にしたのはこの後の展開についてだった。

◆新たに砕氷船を作り、南極観測を続けたい。当時日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)報道部員だった中尾さんに同じ日本山岳会員であった村山雅美さん(故人。第1次含め6回の南極観測に参加)らの観測再開の希望が伝えられ、動いた。南極観測を復活するためには巨額の予算が要る。影響力ある政治家を南極に連れて行けないか、と中尾さんたちは考えた。

◆結果、中曽根康弘、長谷川峻(故人。南極計画スタート時の文部政務次官)が同行を快諾。2人の政治家に加え、村山、中尾両氏にカメラマンの5人のチームで南極に飛び、南極大陸に10日間滞在、その間、南極点まで飛行機で飛び、2時間極点に滞在した。1961年11月20日のことだった。中曽根氏らは日章旗を極点のポールに掲げ、その一部始終は正月のテレビ番組で「極点に立つ、南極の日の丸」として放映された。

◆新たな砕氷船「ふじ」の建造がこのキャンペーンの成果として実現し、1965年出発の第7次隊からは、毎年観測隊が派遣され、越冬も行っている。豊岡の報告会でさりげなく飛び出した南極観測中断と再開の顛末。中尾さんの手紙には「荻田、岩野さん2人のお話も僕らの時代と半世紀をへだてて冒険、探検も変わった、との感を深く、感動しました」と書かれていた。

◆おととい8日、日本プレスセンターで「ガガーリン 世界を変えた108分」というロシア映画の試写(12月20日一般公開)を見た。ユーリー・アレクセーヴィチ・ガガーリン。若い人も名前ぐらいは知っているだろう。1961年4月12日、宇宙船「ボストーク1号」で人類初めて宇宙に飛び立った飛行士。テレビ放映もない時代、帰還は、パラシュートにぶら下がってひとり草原に降り立つ、という素朴なものだった。3000名の中から選ばれたガガーリンという青年の栄誉と孤独。アメリカとしのぎをけずり合っていたソ連の宇宙開発の勝利の一瞬であり、映画に出て来るフルシチョフの得意満面な表情が面白かった。ガガーリン自身は、1968年2月、ミグ15戦闘機で訓練飛行中、墜落死した。

◆そして、気づいた。1961年とは、日本が南極観測を中止した年だった、と。大学山岳部で山一筋の日々を送り、1年落第が決まった。私にとって1961年は自分が山岳部でほんとうにリーダーになれるのか、真剣に煩悶した年でもあった。「リーダーになって雪山を登る事についての心配で一杯だ」と1961年4月11日の日記に書いている。(江本嘉伸


先月の報告会から

地平線特別報告会 in 豊岡

2014年11月23、24日 兵庫県豊岡市・植村直己冒険館
 フロント原稿にあるように、2014年11月、数えて427回目の地平線報告会は、東京を離れて兵庫県豊岡市の植村直己冒険館で、冒険館の20周年記念行事とタイアップするかたちで行なった。セレモニーには地元豊岡市民、豊岡市長、市議会代表、植村直己夫人公子さん、植村さんの母校・明治大学関係者、東京・板橋にある植村冒険館関係者らに加え、野球の野茂英雄さん、関野吉晴さん、地平線会議代表世話人らが参加。次いで、場面を切り替え、全国各地から集まった仲間を中心に地平線会議が主催する「特別報告会」となった。植村直己冒険館での地平線報告会は1999年7月24日、地平線会議20周年記念集会が行われたのに次いで2度目。以下、特集のかたちで豊岡レポートをお届けする。まずは、中島ねこさんの「あらすじ」から──。

[メモ的あらすじ]

■天気に恵まれた勤労感謝の三連休初日。緑と紅のコントラストが美しい山あいを進み、午後の日差しが差し込む冒険館に到着。中庭には、海のグレートジャーニーで活躍した縄文号が鎮座。紅葉をバックに、いぶされつつあるイノシシ、シカ、ブタ肉を見守る縄文号クルーや助っ人の学生たちや彫刻家。昨日から、薫製棚を組んだり、燃料の木材を切り出したりとフル回転。明日来場者に提供するため、これから徹夜で火の番をする。少しいるだけで、“たき火の匂い”がくっついてくる。

◆近所のスーパーに夜の部の買い出し。夕方、到着した地平線会議代表世話人の江本嘉伸さんらと合流。吉谷義奉館長交え打ち合わせ。夜は民宿『可愛人屋』で但馬牛のすき焼き。

◆翌日、朝方にぱらついていた雨も上がる。冒険館に向かう途中、本格的ランナーを見かける。やはり(!)、福島県から参加、京都からはランで向かっていた渡辺哲さん。京都発22日9時34分、同日20時39分福知山着。そこからはノンビリペースで、冒険館に午前10時55分ゴール! 元気で空腹。

◆やがて地平線関係者たちが続々到着。『開館20周年記念 植村直己冒険館感謝祭』のもと、『地平線特別報告会 in 豊岡』の準備が始まる。多くの来場者が行き交い、芝生広場では地域によるバザーの豚汁やおにぎりなどを人々が笑顔で味わっている。クラフトやツリーイング、火起こし体験、呈茶などもあるようだ(来場者数約2,200人)。『冒険家たちのおもてなし』と称し、縄文号航海ゆかりのインドネシアカレーや一昼夜かけていぶした肉も、どんどん無料で提供。世界各地の塩や特製ソースと合わせる趣向。『森の音楽会』と題した本格的なブルーグラス演奏も祭りを盛り上げる。

◆427回目の報告会ではあるが、勝手の違いが課題につながる。一個ずつほぐすうち、どんどん時は過ぎ、13時30分、中庭で記念式典開始。中貝宗治市長はじめ、地元や東京から要職にある方たちが集まるなか、植村直己さんの妻、植村公子さんの姿も。間にトークショーを挟み、14時30分、報告会進行者の丸山純さんにバトンタッチ。報告者たちのプロフィールが掲載された地平線通信特別号を、付近の人々に配布し、特別報告会第1部がスタート。

◆帆を上げた縄文号の上から、関野吉晴さんの『縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと』。自然からの素材で舟を手作り。砂鉄を集め、たたら製鉄をし、やぐらを組んで木を伐り、パンダナスの葉で帆を織る。/30年前に廃れてしまった技を伝えて喜ぶお年寄り。学ぶ島の若者たち。/精霊への祈り。/民族・宗教・世代が違うメンバーで乗り越えた足掛け3年の奇跡の旅路。/舟の上でのハイセツ方法。/使わないと衰えていく感覚。太古の人のように五感を使いながら旅をしたかった。/例えば患者が診察室に入る時から診察は始まる。/海の色で深さを知る。/風まかせ、潮まかせ。自然には逆らえない。/科学でできるのは、自然を知り、予測を立て、対策を練ること。/恵みと戒めをもたらす自然を変えることなどできないことを、また痛烈に感じる。/自然さえ残していれば一からやりなおせる。人間に酸素は作れても、光合成はできない。/地球はわたしたちに関係なくできている。多分、ほろびるときも、わたしたちと関係なく。Q.目の前の未来について。超高齢社会に思うことは? A.健康寿命をいかにのばすか。走らず、歩く。自転車の方が膝を痛めない。ただし、単に長生きするのが目的ではない。5〜6歳短命になってもいいなら好きなことをすればよい。

◆第2部は小ホールに場を移す。テーマは『極地』。椅子を足し、70人近くがすし詰めで聴き入る。北極冒険家の荻田泰永さんによるビデオ上映。シロクマに遭遇し、声で威嚇。/無補給で限りある時間の中、乱氷帯をできる限り直進する。/「腕力よりも忍耐力」。/小さいリードはドライスーツで泳ぐ(参加者が試着し、会場を回ってくれる)。/気温−30度。水温の方がはるかに暖か。/体脂肪も消費カロリーに当て込む。体重15kg減。/資金繰りの苦しさ。/講談社から『北極男』刊。市長挨拶。「冒険の層の厚さがすごい」。そのまま後半も傾聴される。

◆元南極観測隊(通算2年4か月)、岩野祥子さんの話。プロジェクトX風ライギョダマシ釣り映像。観測史上新記録の魚拓。/南極大陸の成り立ち。地球の歴史を1年に例えれば、0.548秒な人の一生。/南極点到達争いの歴史。ぜひ知ってほしい南極探検家白瀬矗。/戦勝国優先の基地事情。領土権主張はできない南極条約。南極ベビー。/凍結された情報、南極観測の意義。/コケ100種、日本が発見した、湖底のコケボウズ。/海洋大循環。オキアミが減れば、地球の気候が変わる。/日本国民、地球人の自覚。東日本大震災では「仲間が大変だ」。/地域のつながりに身を置き、育む。

◆明治大学山岳部炉辺会元会長の中尾正武さんから、南極観測の初予算化や南極点1時間滞在の話。社団法人N.A.Pは、「冒険家は冒険だけに注力を」と、資金面で荻田さんを支える。

◆コーディネーターの江本さんが、岩野さんとモンベルで開発した女性目線のウエアのことや、荻田さんの苦しい資金繰りについて水を向けるうち、気付けば終了時刻の午後5時。少しだけ館内見学。2013年植村直己冒険賞受賞者田中幹也さん企画展をご本人と観る不思議。多くの語録展示が印象的。館内全般言葉の展示が目立ち、語りかけてくる。

◆地平線特別報告会は『夜の部』会場の可愛人屋へ。広間にボリューム満点のオードブルや炊き込みご飯のおにぎりが並び、まずは腹ごしらえ。吉谷館長差し入れのセコガニを、おかみさんの剥き方講習に学び、むしゃぶりつく。差し入れの貴重な各種酒類を、四六乃窯・友の会(彫刻家・陶芸家の緒方敏明さんの作品を通して創作活動に触れる有志の集まり)のぐい飲みコレクションでいただく。荻田さんへの質問。「北極では、何時に寝て、何時に起きるの?」「朝6時に起きて10時半ごろ寝る感じ」。約70m先、目が合ったシロクマに向けての映像と音声。「おいクマ! おーい、おーい、おーい!」。岩野さんへの質問。「こどもが喜ぶ話って?」「南極の話には食いついてくる。こんな世界がある、すごいよ、と伝える」。

◆夜の部には、エアフォトグラファーの多胡光純さんも報告者として登場。日本の桜、紅葉、流氷風景の映像。「自分の目で見たものを自分の手でまとめた」DVDを12月16日に発売。プロの音楽家とのコラボレーションにも取り組むこの頃。DVDのほか、ipadやカレンダーも立てられる、arumitoy作、木のスタンドも紹介された。

◆お腹も落ち着いたところで、メッセージが紹介される。「私の作ったお菓子が皆様の輪の中にあることを嬉しく思います……」。お待ちかねの甘いものが、ずらりと並ぶ。これが噂の、原典子さんお手製スイーツ! シフォンケーキ、オレンジケーキ、ナッツケーキ、ブラウニー、オレンジ&グレープフルーツピール。折角なので、なんと15年前の冒険館報告会が馴れ初めの夫妻により、ケーキ入刀。冒険館の職員のみなさんにもあらかじめお分けし、みんなで甘い幸せをいただく。

◆北海道、山形、福島、長野、岐阜、千葉、埼玉、神奈川、東京、愛知、大阪、奈良、和歌山、岡山、香川から、冒険館目指して集まった、世代もまちまちな地平線特別報告会 in 豊岡号乗船者たちと、たくさんの差し入れとともに合流してくれた冒険館スタッフの、リレートーク。ネパール旅の飛び入り映像も加わり、和やかな時間。歓談は夜中まで続いた。

◆翌朝は案外みんな早起き。しっかり朝食。ぽつぽつと帰路につく参加者も。個別に送っていただく。この2日間、冒険館以外の市の職員さんも、送迎ほか、地平線のお世話を休日返上で引き受けてくれた。8時30分、冒険館からバスを出してもらい、神鍋高原お鉢巡り。眼下には里を抱く山々が靄に浮かび上がる。冬まぢかの、すがすがしく香ばしい草の香り。

◆再び冒険館へ。吉谷館長に話してもらう。「距離ではなく、来て、盛り上げてやろう、という心が嬉しい」。地元出身の館長さん、中学時代、植村直己にはまるで興味がなかった。そして今も恐らく3分の1もわかっていない、と。/冒険館に関わるようになり、植村直己が、冒険そのものよりも人柄を評価されていることを知る。/伝えたいことは、『冒険の業績』、『こんな日本人がいた』、『チャレンジする心の大切さ』。/『頂点以外は評価されず、“かしこい”が先、“やさしい・親切”はあと』の日本だが、てっぺんよりプロセスを大事にしたい。「田舎はいいね」と言われるが、それは、そうした評価をブロックしているから。/植村直己は目を見て話し、にこっと笑い、相手を和ませた。/植村直己を知らない人が増えていくなか、日本人でいろんな冒険をしている人を、その心や言葉を、紹介していきたい。/来年、2度目の冒険フォーラムを企画中。力を。

◆田中さんじきじきのクライミング教室終了後の昼どき、参加者の保存の技のおかげで、昨夜のごちそうをまた楽しみ、江本さんの解説付きで、館内を見学。屋上のメモリアルウォールで植村直己の軌跡をたどれば、そろそろお開き。館長自らがバスを運転し、冒険館スタッフに見送られ、江原駅へ。帰宅後、窓口としてたくさんのやり取りをしてくれたスタッフからは、ねぎらいのコール。

◆何に価値を置くか、冒険館からの宿題。あたたかな気持ちが、お土産。翌日からは、断続的に雨が降り続いた。(中島ねこ


地平線特別報告会 in 豊岡レポート

歩き継ぐものたち

関野吉晴 荻田泰永 岩野祥子

2014年11月23、24日 兵庫県豊岡市・植村直己冒険館

第1部 「縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと」

■「みなさんこんにちは。関野吉晴です」。植村直己冒険館で行われた、地平線会議特別報告会・第1部。冒険館に寄贈され、久しぶりに組み立てられた「縄文号」が中庭で存在感を放っている。第1部の舞台は縄文号、会場はぐるり、その周辺なのだ。芝生の緑に映えるこの美しい白色の舟の上で、関野さんが話し始める。ジャケットは脱いでポロシャツ姿、先ほどまで参加されていた式典から一転、リラックスした雰囲気だ。

◆自分の腕力と脚力のみで、人類の足跡を逆から辿る「グレートジャーニー」。足かけ9年、2002年にこの壮大な旅を終えたあと、日本人が日本列島に辿り着くまでの(北方、南方、海洋)ルートを辿ったのが「新・グレートジャーニー」だ。海洋ルートを辿る「海のグレートジャーニー」は、「すべて自然から素材を採り自分たちでつくる」というコンセプト。木を伐採して炭を焼き、砂鉄を集め、たたら製鉄をして、日本で学生たちとつくったのは、斧、鉈、蚤、ちょうな。この5キロ分の工具を完成させるためには、150キロの砂鉄と、3トンの森林伐採をして焼いた300キロの炭が必要で、「これが私たちの文明の歴史ですね」と関野さん。

◆インドネシアの西海岸に渡り、マンダール人の舟大工たちと高さ54メートルの大木を切り出して、この縄文号をつくった。困難だったのは、隆起サンゴで消石灰、ココナッツでココナッツオイルをつくり、それらを混ぜ合わせてつくった漆喰による「塗装」(帰国後にも再び、傷まないよう塗り直した)。そして、いまここで堂々と広げられている「帆」だ。これは、30年前までヤシの葉の繊維を使って織っていたカロロという布。お年寄りにつくってもらうと、お年寄りは生き生きとして、一度途絶えた文化に若者も興味津々、村の人達が喜んでくれたという。

◆日本人4人と普段はマグロ漁師であるマンダール人6人、合計10人のクルーが、二艘に分かれて航海。1年(4月から大型台風多発前の8月の間)でインドネシアから沖縄まで約4700キロメートルを行く予定が、逆風や無風に苦労して、3年がかりで石垣島に到着した。

◆20代〜50代の年齢差に民族の文化の違い……、舟上で24時間生活をともにする中、大変なのは、やはり「人間関係」だったという。インドネシアでは上下関係を重んじるため、若者クルー(前田次郎さん、佐藤洋平さん。「冒険家のおもてなし」準備で連日徹夜、この時も、朦朧状態で来場者に鹿やイノシシの丸焼きをふるまっていた!)が注意をすると「恥をかかされた」と口をきいてくれなくなることも。

◆けれど、(本業のマグロ漁中に遭難して亡くなった一人を除いて)3年間同じメンバーで航海、ゴールができた。1年目にホームシックで脱走しようとしたクルーを、2年目に他のクルーたちが「同じマンダール人として恥ずかしい」と外すよう訴えたが、関野さんは聞かなかった。「みんなそれぞれ、長所も短所もある。励ましてあげるのが、友達じゃないか」。

◆舟の上での報告会の醍醐味。実際に使っていた素焼きの窯を見せながらの食の話や、前夜の講演会の時、「明日は舟の上で実演します」と宣言していた通り、アウトリガーの部分まで下りて、聴衆の方にお尻を突きだしてしゃがみ、「ここなら波が来れば『水洗トイレ』になる」と会場を笑わせる場面もあった。

◆一神教である中東のイスラム教徒には許されないことだが、マンダール人たちは、木にも山にも海にも、精霊がいると考えている。舵を海に差し込むことは、海を痛めつけること。つねに海の精霊に祈りながらの航海だった、という。ほかにも木を切る時、舟をつくる時、いつだって祈りがあり、縄文号は「祈りのつまった船だ」と関野さん。東京生まれの関野さんは、五感を使わずとも生きている世界にいる。五感は使わないと衰えてしまう。太古の人達と同じように旅をして、彼らがなにに苦労してなにに喜ぶのか、少しでも同じ感覚を得たい。だからこそ手作りにこだわり、五感を研ぎ澄まして、航海を行った。

◆濃紺、コバルトブルー、エメラルドグリーン。海図を見なくても、海の色を見れば深さはわかる。風向きも肌でわかる。夜間の方向は島影と星だけが頼りだが、曇っており月が見えない夜は勘を頼りに進み、早朝になって修正した。縄文号は近代ヨットのようには進まず、まさに「風任せ」。「自然には逆らえない」と痛烈に感じ、航海中、「神様の始まりは自然信仰だ」ということが実感できたという。太陽や山や海は恵みを与えてくれるが、人を懲らしめたり戒めたりもする。科学技術が進歩しても予測と対策がとれるだけで、台風も地震も抑えることはできない。

◆私たちは、科学技術で作り上げた現在の快適な空間、すべて失っても一からやり直せるが、もしも植物がなくなってしまったら一か月は持たないだろう。だからこそ、科学は自然をよりよくするために使うべきだ。青い空の下、風を感じながら聞く関野さんの言葉は、いつも以上に力強く迫ってくる(そして「一からやり直せる」と言い切れる、関野さんのかっこいいこと!)。

◆最後に江本さんが、医療の発達による日本の長寿化について尋ねると、「自分は延命処置はして欲しくない」と言うとともに、(健康寿命を延ばすには)「走るような無酸素運動はいけない」「自転車がよい」と、「ドクトル関野」に変身。時間も残り少なくなり、司会の丸山さんが話を受けて、「地平線会議には、(健康に悪い)ランナーがたくさんいる」と、京都から冒険館まで走って来たウルトラランナー・渡辺哲さんを紹介、和やかに終了、となりかけた時。「でも」と遮った関野さん。「なにかをするために生きるのであって、長生きが目的ではない。好きなことをやりながら生きるのだ」。柔らかくも、きっぱりと言い切った。祈りのこもった舟、縄文号と、共に立って。(ますます関野さんのファンになった加藤千晶

第2部「極地を歩く知恵━━あの時代と現在」

■快晴の空の下「縄文号」の前から、特別報告会の第2部は小ホールへ移動。ゴンドラ、犬ぞりと謎めいた展示物がそこかしこにある冒険館の中でも、なぜここに魚拓なのか、そしてオレンジ色のレインコートのようなものは何なのか、小ホールは際立って不可解な一角に……。予想以上の参加者の多さに、席があっという間に埋まり、廊下にも人だかりができた。

◆参加者の中には豊岡市の中貝宗治市長の姿もあった。謎の魚拓を前に歓迎のあいさつ。「植村冒険賞の受賞者にはよくこんな人が世の中にいるものだと毎年驚く」と話し、2011年に続く次回の「日本冒険フォーラム」開催と冒険賞の20周年に地平線会議の協力を求めた。いまの北極は、植村直己さんが目指した北極と様変わりしている。第2部は北極、そして南極に親しい2人の話。

◆「北極男」の荻田泰永さんは「北極点無補給単独徒歩到達」を目指している。定期便の飛んでいるレゾリュートからチャーター機でカナダ最北端近くのディスカバリー岬まで飛ぶ。植村さんの時代はそこより少し東のコロンビア岬がスタートだった。ディスカバリー岬から北極点まで直線距離で800キロ、スキーを履いて、そりをひき、ストックを支えに海の上に張った氷の上を歩く。南極と違い「足下が動いているのが北極の難しいところ」。海氷が動くことで生まれる乱氷帯をいくつも乗り越える。道はなく、その場その場でどこを歩くか決めなければならない。

◆彼の挑戦は地球温暖化とのたたかいでもある。ピアリーやナンセンの頃にも乱氷帯はあったが、温暖化によって「氷に堪え性がなくなった」ために、リード(氷の割れ目)が発生しやすくなっている。だから昔よりも難しい、と彼は言う。彼が目指す無補給単独徒歩に成功したのは20年前にノルウェー人の冒険家、ボルゲ・オズランドだけ。その後は成功例がなく、それというのも海氷状態が悪くなっているからなのだ。

◆無補給だと持っていく食糧の量で「締切」が決まってしまう。とにかく最短経路を行くのがいまの極地冒険の鉄則だ。乱氷帯は乗り越え、小さいリードは泳ぐ。オレンジ色のレインコートのようなものは、なんと氷の海を泳ぐための「ドライスーツ」だった。6月の地平線報告会では映像に映っただけだったが、荻田さんは今回、その実物を持参した。水の中に入るとぷかぷか浮く「着る浮き袋」。福島から来たランナー、渡辺哲さんがこれを着てみせたが、陸上ではダボダボの寝袋を着ているようで少し可笑しかった。

◆巨大なリードは寒冷地でも硬くならない特製フォールディングカヤックを使う。それを造った高嶋正裕さんも姫路から会場に来ていた。彼の冒険は様々なコーチに支えられたスポーツだ。このドライスーツがあったら「グレートジャーニー」も違う展開になっていただろうと関野吉晴さんも話した。関野隊がシーカヤックで通過したベーリング海峡も、ドライスーツとフォールディングカヤックがあれば、徒歩と組み合わせて横断できたかもしれない、と。荻田さんは今年の春、北極海の上を48日間苦闘して撤退した。「来年もまた北極点に再挑戦します」と彼はにやりと笑い、報告をしめくくった。

◆続いて東日本大震災の被災地ボランティアで「南極さん」と親しまれた岩野祥子さん。彼女は南極観測隊の隊員としてこれまでに2回越冬している。さっそく壁に貼られた魚拓に触れる。なぜ南極に魚? 実は昭和基地周囲の海ではライギョダマシという深海魚が釣れる。南極観測隊50周年の2007年、岩野さんたち越冬隊員は大物釣りの記録更新をと1年かけて準備した。彼女が編集したドキュメンタリータッチの映像には、厚さ1メートルを超す海氷に穴を開け、そこから糸と仕掛けを垂らす様子が写っている。会場から歓声が上がる。魚拓は138.3センチ、35.0キロという「日本新記録」のライギョダマシだった。

◆南極には地球上の全体の90%の氷があり、氷床の厚さは平均2200メートル。いちばん分厚いところで4800メートルもある。「富士山の上にさらに1キロも氷が載っている本当に氷だらけの大陸」だと彼女は言う。「氷だらけ」なことが、地球形成や宇宙の歴史にいたるまで科学上のさまざまな発見につながっている。例えば恐竜の化石からは、パンゲア大陸から分裂して南極大陸が現在の位置に納まるまでの経緯が推測できる。例えば南極では隕石が2万8000個も見つかっている(南極以外ではまだ5000個)。凍結保存されて風化しなかった隕石からは太陽系形成時の様子や小惑星の内部構造などがわかった。

◆厚さ3000メートルの氷を掘り出してみれば、太古の時代に降った雪から当時の二酸化炭素濃度や気温など大気の組成がわかる。驚くべきはその長い歴史の中でもここ200年での二酸化炭素濃度の急上昇ぶり。人間の社会活動が地球環境を変えている証左が氷からわかるのだ。最後は大急ぎになった。冬の気配がしのびよる外はすっかり暗くなっていた。(落合大祐


報告者のひとこと

私たち一人一人が掛替えのない、たったひとつしかない物語を紡いでいるのだと思います

■縄文号とパクール号を豊岡の植村直己冒険館に寄贈させてもらい、今回は縄文号が久しぶりに組み立てられ、帆を張って展示されてほっとしました。また各地から来てくれた地平線のメンバーに見てもらうこともできました。

 荻田君、岩野さんの北極、南極の話も聞けてよかったです。荻田君は次回は北極点に立ってほしいですが、まだこの先長いので、無理をせずにじっくりと進めてほしいです。これだけ懲りない人間なので、いつかはきっと北極点に立てると思います。

 岩野さんは私たち人類の生きている時間は地球史の時間軸の中ではコンマ5秒という話でした。同じように銀河系以外の宇宙の果てから見れば、地球の表面に住んでいる人間たちは本当にちっぽけな存在です。そういう違った時間軸、空間軸で自分自身を見てみることは必要だと思います。

その上で私たち一人一人が掛替えのない、たったひとつしかない物語を紡いでいるのだと思います。確かにちっぽけな存在ですが、決してつまらない存在ではありません。皆、輝く瞬間があるはずです。(関野吉晴

装備とは命そのものであり、人間の知恵と工夫の産物である

■自分にとって、植村直己冒険館は2回目の訪問だった。初めての訪問は今から二年ほど前だろうか。何の前触れもなくある日突然見学に行った私を、そのときの館長さんだった小谷さんが歓迎してくれて一緒に食事に誘っていただき、翌日には車で植村さんのお墓やコウノトリ見学など各所の案内までしていただいた。

 その時に強く感じたのは、豊岡の方々の植村さんに対する愛情だったのだが、今回の訪問でも同様の感動があった。冒険館の式典に来ているお客さんたちに若い方々が多く、そして人数の多さに驚いた。若い人たちにも植村さんの存在すら知らない人が増えている、という話を聞いたことがあるが、植村直己冒険館の式典に若い人が多く来ているというのは救われた思いがした。

 館内展示では、目の前に植村さんが実際に使用した装備類を見ることができるのだから、是非ともその装備の向こう側にある冒険の苦悩や試行錯誤に想いを馳せていただきたい。人間は弱い生き物なので、極寒の極地では物を持たなくては生きられない。装備とは命そのものであり、人間の知恵と工夫の産物である。装備は時代と共に変化し、それは冒険の手法の変化でもある。

 19世紀初頭のヨーロッパの極地探検家たちは、艤装された軍艦で凍った海に乗り込んで、舞踏会にでも行くような燕尾服の腰から刀剣をぶら下げ、粗末な防寒着で寒さに震えた。ナンセンやアムンセン、ピアリーなどが活躍した19世紀末からの英雄時代には、積極的にエスキモーの生活技術を探検に取り入れ、犬ぞりや毛皮の衣類を用いることで目覚ましい探検成果を上げた。

 植村さんの時代になって、単独での北極点到達が果たされた。飛行機の物資補給や極点からの帰路が飛行機でのピックアップなどは当時批判されたという話であるが、単独という手法の変化を追求すれば仕方ない話である。貧弱な装備に身を震わせた時代からの積み重ねがあってこそ、現在の無補給での北極点到達や、北極海横断などが実現できているのである。

 近年、北極海の海氷減少が著しい時代となって、北極点到達は難易度が増している。だからと言って北極点到達が不可能になったわけではない。これまで通りの、ある種マニュアル化された北極点挑戦手法では困難であるのならば、今の時代の新しい手法を自分で考えて産み出せば良いだけの話である。これまでの過去の探検家たちは、みんなそうやってできなかったことを実現させてきたのだろうから、自分もその末端に加わりたいと心から願っている。(荻田泰永

一生懸命向き合うほどに、人生はおもしろくなる

■「植村直己冒険館」「兵庫県豊岡市」という、行動者にとってあこがれの場所で報告者となれたにも関わらず、報告者に徹しきれなかったことが、若干、申し訳なかったような気がしている。地平線会議に出入りさせてもらい始めてようやく8年。その間、浜比嘉、明治大学、南相馬など、いつもと場所を変えて行われた報告会やフォーラムがあったけれど、はっきりスタッフとして働かせてもらったのは今回が初めてだった。

 裏方はむしろ好きな方で、スタッフとして参加できたことは正直うれしかった。その一方で、今回のメインは報告者であることも十分理解していて、スタッフと報告者との切り替えをいかにうまくやるかが課題だなと思っていた。豊岡入りするまでも非常に忙しかったし、豊岡入りしてからも、自分のことに集中できる時間はほとんどなかった。本番の段取りも直前まで相談していたから、最後は集中力で乗り切るしかないのだが、それにしてもあと1時間、自分だけの時間が必要で、当日の朝、早起きして夜の部の宴会場で最終調整をしていた。

 そんなことをやりながら、江本さんはやっぱりすごいなと思った。全体の統括のみならず、22日夜の関野さんの講演会や23日の式典への出席など、行くことが大事、そこにいることが大事という役割がたくさんある。多くの人と会って、いろんな話をして、頭の中をいろんな事象が巡っているはずだ。寝る時間だって減る(実際、22日の夜、江本さんが帰ってきたときにわたしはもう寝ていた)。そういう状況で、いちばん目立つところでいちばん重要な役割を果たしていけるのは、これまで相当数の場数を踏んできたからだろうと思う。

 わたしも1回ずつ、経験を積ませてもらっている。今回も貴重なそのひとつとなった。チャンスをもらえることが何よりありがたい。過ぎ去る時間は巻き戻せないしやり直しがきかないから、その瞬間に最高のパフォーマンスを発揮することをいつも心がけている。より少ないエネルギーでそれができるようになりたい。そうすれば今回みたいな状況でもうまくやれると思うし、余裕ができればまた別のところにエネルギーを費やせるようになる。一生懸命向き合うほどに、人生はおもしろくなる。そしてその基本は一歩一歩、着実に積み重ねていくことなのだと、今回も実感した。貴重な経験をありがとうございました!(岩野祥子


こんな建物だったのか! 行くべし! 植村直己冒険館

■特別報告会の内容や冒険館へのアクセスを案内するオープンな場を用意しようと、10月後半にブログ(http://chiheisen.net/toyooka2014/)を立ち上げた。となれば、どこかに冒険館の写真がほしい。建物全体とか、正面玄関がどーんと写った象徴的な写真がないと、こういうサイトはどこか落ち着かないのだ。

◆ところがいろいろと探してみたのに、そんな写真はどこにもなかった。どうやら正面玄関などなく、建物の全体を見わたすこともできないという、とても不思議な構造になっているらしい。Wikepediaを見ると、この建物は著名な建築家である栗生明氏が設計したもので、「構造物の大半が地中にあるユニークなデザインで、1996年度日本建築学会賞受賞、1998年の公共建築百選に選出されている」という。

◆実際に訪れてみて、なるほどと納得した。来館者がまず目にするのは、丘の上に細長く延びる、磨りガラスで造られた直方体の箱である。これはメモリアルウォールと呼ばれ、側面には写真や新聞記事が焼き付けられていて、植村さんの軌跡をたどることができる。えっ、冒険館ってこんな小さな建物だったのかと思ってエントランスに向かうと、じつはこの磨りガラスは地下を割って伸びる通路の上部(天井と側壁)を構成しているだけで、通路に沿って地下に思いのほか広い展示室が設けられていることが判明して、驚かされる。

◆冒険館のウェブサイトによると「約200mに及ぶまっすぐな通路は、大地を切り裂くクレバスを表現し、通路を主軸としてイグルー(雪洞)をイメージする展示室・映像ホールなどがあります」という。そうか、ここはクレバスの底なのか。上部から差してくるのが自然の光だというのは、いかにも植村さんにふさわしい。このエントランスをくぐるだけでも、冒険館に行く価値がある。

◆さらに驚くのは、入ってすぐ左に折れると、本館とはやや斜めの方向に並走する別棟につながり、そこは明るい陽光がたっぷりと降りそそぐ庭園に面していることだった。荻田泰永さん・岩野祥子さんに登場いただいた報告会の第二部をやった小ホールもここにあり、部屋に入ったとたん、クレバスの底がいきなり外界と通じていたような感覚に陥る。それに並ぶ小部屋では、今年の冒険賞受賞者・田中幹也さんの「ひとりごと」を中心に組み立てた、ユニークな企画展示がおこなわれていた。

◆この別棟と本館との間が中庭になっていて、その一角に縄文号がどーんと鎮座ましましている。下が緑の芝生で、吹き渡る風に茶色の帆が気持ちよさそうにはためく。報告会の第一部では、関野吉晴さんが軽々と船の各部を移動しながら、船造りの過程や航海の模様を楽しそうに語ってくれた。中庭の後ろ側には、翌朝、幹也さんの指導でみんながチャレンジしたクライミングウォールがある。

◆メインの展示室は、2日目の昼に江本嘉伸さんの案内でじっくり見た。いまと比べると当時の山道具はずいぶん貧弱だったことに、改めて感心する。イヌイットの服や道具類も多く展示され、現地を知る江本さんが使い方を詳しく説明してくれて、とても興味深かった。報道などでよく目にした、懐かしい植村さんの写真の数々に再会することもできる。

◆こうしたハードウェアの素晴らしさ以上に印象的だったのが、スタッフのみなさんの笑顔とおもてなしの姿勢だ。解散後、私たちを乗せたバスや車が三々五々と出発していくのを1台ずつ最後まで手を振って見送ってくださった光景は、忘れられない。お世話になりました。ありがとうございました。(丸山純


こんな2日間だった――豊岡特別報告会に寄せられた参加者の声、声、声

懐かしい人も,初めても人も、地元の人も

■前回は岡山からバイクで一般道を通ってきましたが、今回は車で高速道路を通ってきました.楽だったけど味気ない道中でした.参加者全員が敷地内で星座を見て、橋の下で夜露をしのいで野宿したのを思い出しました。今回は、懐かしい人も,初めての人も、地元の人もたくさんの人と言葉を交わせて楽しかったです。(北川文夫 岡山)

記録し続けることの大切さ

■大切なことは行動、次に記録があると改めて思えた。そう気づいたのは冒険館で見た植村さんが撮った北極フィルムから。犬ぞりに乗りながらソリをひく犬を撮った映像。激しく揺れていたが、意味を見た。感動や発見は高価な機材から導かれるものでは無い。問われているのはそこで活動したか、否か。12月16日、多胡の10年に渡る空撮活動を自身でまとめたDVDを3枚発売します。この星、この国の素顔を感覚的に知るテイスト。ご購入はwww.tagoweb.netにて。今後は飛んで撮って作品にして。自転車操業で空撮活動を積み上げていく所存です。活動資金に直結! よろしくお願い申し上げます(多胡光純 天空の旅人 京都)

心に残った吉谷館長をはじめとする冒険館のスタッフの“おもてなし”

■2000年1月に鶴岡市で「写真展・地平線発」を開催した際、写真を保管していた植村直己冒険館にはずいぶんお世話になり、すぐにでもお礼に行きたかったのに気がつけばあれから15年……。ようやく思いを果たせた気がします。帆を張った縄文号の上で語る関野さんの姿、北極男・荻田さんの迫力あるシロクマの映像、岩野さんの南極越冬話……。いずれも興味深いものでしたが、一番心に残ったのは吉谷館長をはじめとする冒険館のスタッフの熱意あふれる“おもてなし”。帰りの江原駅で、報告会の直前予習として読んだ『植村直己・夢の軌跡』の著者・湯川豊さん、そして植村公子さんにお会いできたのもうれしいサプライズでした。(飯野昭司 山形 「植村直己冒険館 どんぐりNO. 1123」)

しばらくナイジェリアです

■夜の部からの参加でしたが、久しぶりの地平線会議、なんだか、とても温かい雰囲気に包まれていて、千葉から豊岡まで足を運んだ甲斐がありました。冒険館の館長さんの差し入れのセコガニもすごく美味しかったです。また、同世代の荻田さん、多胡さんと直接話をすることができ、いい刺激になりました。年明けから仕事でナイジェリアにしばらく行くことになりますが、帰国した際には、また地平線会議に顔を出したいと思います。(光菅修 千葉)

10年ぶりの皆さんとの再会

■地平線のみなさんとの再会はほぼ10年ぶりでしたが、そんな時間のギャップは一瞬にして霧消しました。報告会の内容は今の自分の生活とはあまりにもかけ離れた異次元の世界のお話でしたが、こんな素晴らしい人たちとの出会いはこれからも大切にしていきたいと再認識しました。またお会いできる日を楽しみにしています。(松田仁志 大阪)

炎にあたりながら、とりとめない話を聞く、贅沢な夜

■夜の焚き火は人を蕩かす。「祭」の前夜に江原駅近くで行われた関野さんの講演会の後、翌日のために燻製を作り続けている緒方さん、大東文化大の佐藤くん、中間くん、出口くんの様子をみに、夜の冒険館を訪ねた。黙々とジビエの肉の番をする彼らの傍らで、黒潮カヌーの前田次郎くんが炭を焼いていた。ビール片手に野太い薪にがんがん火を点けて、いい頃合いにそれを熾きとして燻製の下に持っていく。その炎に当たりながら、佐藤洋平くんと加藤千晶のとりとめない話を聞いていると、お酒も入っていないのにほんわかいい気分になってきてしまった。今夜はもうここで寝てもいいかな。だが、その後日本海沿いの鎧駅までクルマを走らせることになった。続く。(落合大祐 東京)

寝不足なのに、嫌な顔ひとつせず、常に笑顔で、これでもかという気遣いを見せてくれた冒険館スタッフ

■特別報告会のいちばんの思い出は、冒険館スタッフ、市の職員と一緒になってイベントを作り上げることができたことだった。とは言え、連絡・調整は江本さんやねこさんがされていたので、私が直接やりとりしたのは10月6日のテンカラ食堂での打ち合わせと本番のみ。それなのに「一緒にやった」感が満載というのは、冒険館スタッフの熱心さとホスピタリティがどれほど徹底していたかということに尽きる。寝不足なのに、嫌な顔ひとつせず、常に笑顔で、これでもかという気遣いを見せてもらった。自分が主催者側に立つ時には、ぜひとも彼らを見習いたい。心からそう思った3撞(中)だった。それと、菊地さん家のみーちゃんとずっと遊べて幸せだった。(岩野祥子 奈良)

15年前に次ぎ、2度目の豊岡地平線

■地平線会議報告会in豊岡は前回に続いて2回目の参加でした。関野さん、岩野さん、荻田さんのお話しを聞きながら、他の方々の元気な顔にも出会えて大変楽しい時を過ごさせていただきました。(加藤秀 大阪)

周囲の反応からも、地平線会議への評価の高さを、改めて実感しました

■地平線報告会に顔を出すようになってから、かれこれ1年ほど経ちますが、未だに皆さんの凄まじさには驚かされるばかりです。特別報告会に対する周囲の反応からも、地平線会議への評価の高さを、改めて実感しました。純粋に冒険としてすごいと感じるものから、ともすれば、その記録が学術的な意味を持つものまで、幅広い話題が扱われ、いい刺激を受けています。何よりも、ご本人が実際に体験された、実感のこもった生のお話であるところに、その真の価値があるのかなと思います。そのように振り返る機会になりました。冒険館の皆様はじめ、お世話になった方々に、御礼を!(前田庄司 東京)

原典子さんのケーキにやっと出会えて

■「加藤文太郎に憧れ、植村直己の凄い行動にため息をつきながら、日高の山々に登っていた頃から30年、今ではすっかりインドア派でグウタラを決め込んでいます。通信を読んで、涎を垂らすばかりだった原典子さんのお菓子の数々に、この度やっと出会えて舌鼓。帰りに寄った道の駅で求めた柚子で、柚子ピールを作ってみました。こっそり隠し持って登った神鍋山の、お鉢で味わったグレープフルーツピールには及びませんが、一つお菓子のレパートリーが増えたかな?と、喜んでいます。」(遊上陽子 画家 大阪 「12月6日から1月2日まで、新宿プロムナード・ギャラリースペース605で3人展」)

素敵にぶっ飛んだ方々が至近距離で何気に飲み食い歓談されている不思議な空間

「縄文号」を目の前に関野吉晴さんの体験談に聴き入る。荻田さんの映像で初めて理解できた乱氷帯の有様。白瀬矗の志を継ぐハンサムウーマン岩野さん。一番搾りをがめつく握りしめていた私に爽やかな笑顔でご自分のを注いで下さったランナー渡辺さん。あっけらかんと野宿を楽しまれている千晶さん。贅沢な空中漫歩と岡山産雄町のお酒に陶然。酒が旨くなるお猪口の作者はほろ酔い加減。半袖に頑丈そうな素足の男性がさり気なくその方をフォロー。田中幹也さんだった。素敵にぶっ飛んだ方々が至近距離で何気に飲み食い歓談されている不思議な空間。江本さんはじめ、お世話下さった方々、ご一緒させて頂いた皆様、どうもありがとうございました。(本多京子 香川)

「長生きするために」と 『0.5秒の命』

 植村直己さん、まさに生き生きと行動した人。行方不明のニュースを知った時は、本当にショックでした。いつかは訪れたいと思っていたその記念館で、多くの方と久しぶりにお会いしました。「おお!みなさん年を取られたなぁ〜!!」、ということは私も……。

 「私はどこで、どんなふうに人生を終えるの?」。これは、最近の関心事の一つ。そして、「今、生きているということ」も不思議でならない。そのせいか、関野さんの「長生きするために」のお話や、岩野さんの「0.5秒の命」のお話が印象的でした。

 思いもかけない自然災害が多発し、無事に生きていることの有難さを感じる日々です。今回の参加者の多くは、植村さんの亡くなられた年齢をこえて、まだまだ行動中。そんな皆さんと一緒に年を重ねていきたいと思った2日間でした。(中畑朋子 岐阜・高山)

見事にラッピング&保存した久島+掛須さんにびっくり

■ただいま12月2日夕刻、明日がこの原稿の〆切と気付きました〜。なぜ気付いたかというと、豊岡で初めて会った緒方氏が、ふら〜っとテンカラ食堂に寄って、熱燗をちびちび呑んでくれたからでした〜ウレシッ!

 冒険館でのたくさんの出会いはおいといて、ステキ!!!と思ったのは、夕食に用意していただいた、心のこもった山ほどの食べきれない料理を、久島さんと掛須さんがびっくりするようなやり方と手際の良さで見事にラッピング&保存して、翌日のお昼にみんなで食べきったこと……スバラシイ!

 アレヤコレヤたくさんのものを受け取った2日間でした〜。ありがとうございます。(井倉里枝 大阪・テンカラ食堂)

吉谷館長の熱い思い

■前日タイ出張から帰ったばかりで、豊岡まで行くのはちょっと辛いと思ったが、白根全さんなんかいつも南米から戻ったその足で、地平線通信の発送作業に来てくれるではないか。バンコク〜羽田5時間半なんて白根さんからみたら国内旅行みたいなもんだ。確かに東京から江原まで4時間半かかった。

 報告会で印象的だったのは、一般来館者が関野さんの話を熱心に聞いていたことと、吉谷館長の熱意に触れられたこと。実は冒険館のことはいままでよく知らなかったので、地平線会議がずけずけ入っていくことに抵抗を感じていた。しかし、吉谷館長の熱い思いに、今まで以上に連携を深めていくことができればと感じた、短くて長い2日間だった。(武田力 東京)

なんと濃密な28時間だったか

■豊岡での2日間、いや、実際は朝10時39分に江原駅に到着して翌日の2時過ぎに解散するまでのたった28時間弱でしかないのに、なんと濃密な体験をすることができたのだろうと、いまだに感慨が湧いてくる。冒険館のみなさんとも、初めて地平線に参加した方々とも、何よりも十数年ぶりの再会となった仲間たちともあまり話をする余裕がなかったのは心残りだし、自分がやらかしてしまった拙い司会ぶりはもう思い出したくもない。それでもこんなに満足感があるのは、夜の部のリレートークも含めて、他では絶対に聞けないここだけの話を全国から来てくれたみなさんと共有できたからだろう。どの瞬間を切り取っても、ああ、これこそ地平線会議だと実感できる、素敵なイベントだった。(丸山純 東京)

ボートを乗り回しているうちに池に落ちるという、恥ずかしい思いも

■豊岡市まで落合さんの運転する車に乗せていただき、燻製作りを手伝わせていただいたのですが、あまりお役に立てなくて、かえって緒方さんや前田さんたちの手を煩わせてしまったのではないかと思っています。到着してすぐにはしゃいでしまい、ボートを乗り回しているうちに池に落ちるという、恥ずかしい思いもしました。出来上がった燻製は多くの市民の方々が召し上がってくださって、とても嬉しかったです。地平線報告会には関野さんをはじめ、荻田さんや岩野さんら本当に様々な人生を送っている人々がいて、圧倒されました。緊張と疲れもあってあまり話すことができなかったので、後悔が残りました。本当に貴重な経験ができました。学生生活の中で忘れられない思い出となりそうです。(中間俊大 大東文化大学)

奮闘した燻製作り顛末

■今回、植村直己冒険館感謝祭、そして地平線特別報告会に参加できて、本当によかったです。初めて会った人と色々な話ができて、人との出会いの素晴らしさを感じました。また吉谷館長や冒険館の職員の方々が、大学生である僕らも快く迎えてくださって、本当にうれしかったです。そして一番最初に地平線会議の二次会で吉谷館長に僕らを紹介してくれ、このイベントに誘ってくれた丸山先生にも、また京都、東京と眠らずに僕らを安全に運転して送ってくれた落合さんにも大感謝です。

 僕らは金曜日に家を出て一足先の土曜日に豊岡市に着きましたが、まず関野さんのサポートをされている野地さんが出迎えてくれました。野地さんにはその後も買い出しに出かけたり、池に落ちた僕らをわざわざ温泉に連れて行ってくださったりと、とても助けられました。その後は、関野さんの学生だった前田さん、佐藤さん、鈴木さんと、美術家の緒方さんらと一緒に、豚や鹿、猪肉の燻製を作りました。

 燻製作りで大変だったのは、火をおこす準備をするところです。レンガで焼く場所を作ったり、木を削って燃やす材料を作ったりと、最初の準備が一番手間がかかりました。苦戦していた僕たちに声をかけてくれたのが緒方さんで、体調が悪いのにいろいろと教えてくれて、だいぶ土台作りがうまくいくようになりました。

 肉をのせてからは、火が燃えすぎないように見張り続けました。夜通しで交代でやりましたが、その間は関野さんと一緒に行動された3人の方たちとたくさん話をしたのが、強く印象に残っています。今回は関野さんと直接お話しする機会がなかったのは残念でしたが、関野さんのことや航海中の話などを聞け、いろいろと質問もできて有意義な時間でした。

 朝方に少し仮眠をとり、感謝祭や式典も終わったところで、地平線特別報告会が始まりました。関野さん、荻田さん、岩野さんという豪華な三人の方の話を1日で聞け、とても贅沢な時間を過ごすことが出来たと思います。ほとんどが信じられない話ばかりで、終始驚いていました。

 その後は民宿に移り、恒例といわれているリレートークというものを初体験しました。僕らには振られないと思ってかまえていたら、江本さんに前に出されて感想を言うことになりましたが、うまくリードしていただけて、困らずに終えることが出来ました。会場にいたすべての方が超豪華な人たちばかりで、改めて地平線会議のすごさと特別な場所というのを実感することが出来ました。たくさんの人と会話を楽しんだり、食事をしたりと、あっという間に時間が過ぎていきました。次の日も予定通り終え、帰宅の時間となってしまって、本当に残念でした。

 今回はとんでもない経験をしたと思っており、出発から帰宅までの5日間が本当にあっという間でした。そして地平線会議のすごさを改めて実感することが出来た5日間でもありました。この5日間は間違いなく思い出としてずっと残り、また今後の人生に繋がる経験となるに違いないと感じています。(出口卓司 大東文化大学)]

10年ぶりの冒険館再訪。

■新館ができ、近代的になった建物の中庭で縄文号に乗った関野さんのお話を聞けたことが一番(お話しさせていただき、さらに感激!)。海の上とはいかないものの、ムサビのコンクリートよりは芝生の上が似合っていると思います、確かに。そして、「地球時間0.5秒のいのち」。しんどさも一瞬。短いけれど重いことば。聞けてよかったなあ。おいしく楽しく濃い時間でした。地震の中、はるばる出かけて行った意味がありました。お世話になった皆様、ありがとうございました。(南澤久実 長野)

15年ぶりの豊岡特別報告会で、久島夫妻にカットしてもらった原典子さんの手作りケーキ

■1999年の夏に開催した「地平線特別報告会」には広島から参加しました。冒険館の素晴らしい施設の中で、江本さんのエベレストの話を聞けてすごくリアルに感じたことを覚えています。そして今回は開館20周年記念イベントでの「地平線特別報告会 in 豊岡」に参加することができました。報告会もその他の催しも、盛りだくさんでとても楽しめました。

 今回はスタッフとして参加したので、いろいろ勉強にもなりました。まずは、冒険館の方々の素晴らしい応対に接し、「おもてなし」とはまさにこういうことなんだなぁと思いました。本当にお世話になり、ありがとうございました。

 次に地平線スタッフの行動力と団結力にはびっくりしました。準備の段階からメーリングリストでいろんな情報を共有し、当日も何か問題がおきても素早く判断し行動する。いろんなことを協力しながら作っていくのを楽しんでいるようでした。この冒険館と地平線の力が合わさって、よりパワ−アップして大成功に繋がったのだと思います。

 民宿「可愛人屋」での夜の部も盛り上がりました。冒険館の人たちもたくさんの料理とお土産を持って参加してくれました。原典子さんの手作りケーキも美味しかったです。せっかくなので久島夫妻にケーキカットしてもらいました。15年前の冒険館での報告会で出会ったそうです。もしかしたら今回の報告会でも新しい恋が芽生えたかも。

 大いに食べて、飲んで、笑って、映像見て、交流してと、とても楽しい時間でした。お開きになってからも、みんな率先して後片付けに動いて、あっという間にきれいになりました。ここでも地平線のパワー発揮です。

 民宿の女将さんは、冒険館の館長に頼まれて引き受けたとはいえ、スポーツや音楽の合宿が目的ではない「得体の知れない団体」のことを少し不安に思っていたのかもしれません。翌日、朝早くに宴会場となった部屋をのぞいて、残飯がほとんどなく、きれいに片付けられていたことにびっくりされていたようです。

 ひとりで朝食の席についた私に「あんなに大量にあった食べ物は全部たべたの?」と聞かれたところをみると、「大食い人の集団」と思われたのでしょうか。残っていた食べ物を捨てずにきちんとビニールに分けて保存し持ち帰ること、またそういうことを得意としている人がいることを伝えるとすごく感心されていました。

 また「ゴミの分別は完璧だし、食器も種類別に分けてあるし、机もいすもきちんと片付けてもらってありがとうございました」と感謝されてしまいました。

 たぶんこの団体が「まともな人たちの団体」だと安心してくださったみたいです。

 民宿「可愛人屋」さん、大人数でお世話になり、本当にありがとうございました。

 そして、今回大活躍だった地平線会議の仲間のみなさん、ありがとうございました。(岸本実千代 大阪)

ブルーグラス演奏もとても気持ち良く耳に入った

■今回は11/22夜の関野さんの講演会から、11/24昼の田中さんのウォール講習会まで、11/23午前中の冒険館主催のイベント、夜の民宿での特別報告会も含め、ほぼ全てに参加させていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。どうもありがとうございました。

 今回の企画は、植村直己冒険館20周年記念式典と地平線会議特別報告会のコラボレーション企画でしたが、中貝豊岡市長、吉谷冒険館館長、他関係者の皆様がとても喜んで下さっていた(と私は感じています)ことが、私自身は何もお手伝いをした訳ではありませんが、とても嬉しく感じています。

 余談になりますが、11/23のブルーグラス演奏もとても気持ち良く耳に入り嬉しかったです。( 橋口優 東京 DONGURI No.01195 )

30年前の極寒マッキンリーのなかでも、最後に思ったのは生まれ故郷の但馬だったのではないだろうか…

■晩秋の但馬、そして植村直己冒険館は感慨深かった。11月半ばを過ぎた但馬は、ちょうど紅葉の時季だ。但馬を含めた山陰地方は、標高数百メートルの低い山々に田んぼが断続的につづく。朴訥とした田舎の光景がひろがるなかで、周囲の木々の葉は秋色に染まる。これは日本にしかない光景だ。

 植村直己冒険館のまわりも、木々の葉は鮮やかな紅色に染まり落ち葉が地面を覆っている。冒険館にあるクライミング・ウォールをちょっとだけ登って、それに飽きたらビール飲みながら冒険館周辺を散策。こっそり建物を攀じ登って高いところからも紅葉撮影。気分はまったり、秋のお花見である。まあクライミングはおまけだね。自分にとっては、クライミングよりも周辺の自然のほうが勝っていた。実質1日弱の超短期滞在ながら、満ち足りた時間が過ごせたのはたしかだ。

 やっぱり日本の自然がいちばん心やすらぐ。雄大なスケールの海外の自然や山を知るほどに、繊細さのある日本の自然にますます魅かれる。おかげで日本の山への夢もひろがった。日本海からの烈風と格闘しながらの厳冬の伯耆大山北壁も近いうちに行ってみたい。猛吹雪の吹き荒れる冬の津軽のリベンジも……。おおと、晩秋からいきなり厳冬に話が飛んだ。日本の山をふくめた自然の良さを再認識するきっかけになったのは、厳冬カナダ通いの賜物だったのかもしれない。

 植村直己も北極の氷の上で海外の高峰で、ときおり日本の自然を但馬の自然を思い浮かべていたのではないだろうか。もしかしたら30年前の極寒マッキンリーのなかでも、最後に思ったのは生まれ故郷の但馬だったのではないだろうか。晩秋の但馬、そして植村直己冒険館を歩きながらふとそんなことを思った。(田中幹也 東京)

人生の生き方というものを様々な方々から学びました

館で私は貴重な体験をさせていただきました。クレバスをイメージした冒険館、猪の燻製、植村直己さんの功績、そして貴重な体験を話してくれる方々など、私にはすべてが驚きでした。私は人生の生き方というものを様々な方々から学びました。彼らの話を聞き、そのフットワークの軽さといい、経験しようとすることに積極的であることに私はいつも驚かされます。私は普段は普通の大学生ですが、大学生のうちに経験できることはしたいです。植村直己冒険館での経験は一生の思い出となりました。地平線会議に参加できることに感謝です。これからもこの地平線会議に参加しようと思いました。(佐藤雄也 大東文化大学)

ヒッチハイク帰宅か、という状況を落合さんに救われました

■3人の方の講演も勿論ながら、2日目の冒険館見学が新鮮でした。私は植村直己さんが活躍された時代について著作を通してでしか知りませんでした。日本中で、子供にまで認知されている冒険家。植村さんの人柄が、冒険館の方の熱のこもったお話からも窺い知ることができたように思います。探検部員として得るものが多く、楽しい2日間を過ごすことができました。地平線の2日前に江本さんに無理を言って、参加メンバーに加えてもらって正解でした。ありがとうございました。最後に落合さんへ。行きの移動賃しか持たずに兵庫まで来た私を東京まで送っていただきありがとうございました。あわやヒッチハイク帰宅という状況でしたので助かりました。(滝川大貴 法政大学探検部 千葉)

京都から140キロを走って参加

■福島・いわき市の渡辺哲です。今回の豪華内容の報告会、とても充実した2日間でした。京都駅から冒険館まで約140キロを走り切り、私なりの報告会への参加が出来た事をとても嬉しく思います。報告会では荻田さんのドライスーツを試着させて頂き、何とも貴重な経験が出来ました。また、岩野さんの「0.5秒の時間」、改めて思い立った時に行動する事の大切さを痛感しました。そして吉谷館長さんの熱いメッセージは胸に響きました。私もランニング、バイクの分野で何か貢献出来ないか、今後行動していきたいと思います。(PS・関野さん、走り過ぎには注意します……。)(渡辺哲 福島)

眠るのがもったいなかった「火番」

■野地さんに誘われるがままに、関野組に参加させていただいて、すごく楽しかったです。大東文化大学の学生さんらと縄文号クルーの方々と一緒に あーだこーだと対話相談しながらの薫製棚創り作業と森からの燃料調達や薫製火番とかのいろいろさまざまは、とてもとても楽しい日々でありました。野地さんが、いろいろと気遣ってくださり動いてくださったおかげで、おがたは、自分勝手なペースで好きなことばっかりしておれました。野地さんほんとうにお世話になりました。感謝であります。火番は、眠れなかったと言うよりは仲間との対話がおもしろくて「眠るのがもったいない」という気持ちが大きかったです。洋平さんの洋上カレーも美味。再会の縄文号に見入ってしまった、「手作り」人知の創造の進化(科学)の流れからは原発のようなものが「生まれるはずがない」と思う。宿では深夜まで地平線のスゴイ方々のお話を聴けて、すばらしかったです。田中幹也さんのクライミング教室に たった一分間参加しただけで、ぼくは後日二日間、全身筋肉痛です。軟弱です。ぼくは、館長さんの熱い本気さに、心打たれました。(緒方敏明 彫刻家 千葉)

初めてコブ付きで参加した特別報告会は、自分の地平線歴を辿り直す旅になった

 子どもと旅に出るときにはいつも何種類もの遊び道具を用意する。乗り物に飽きてしまった娘が大騒ぎする惨事を避けるためだ。今回はぬり絵に折り紙にシール付きの幼児雑誌、棒付きキャンディーやらのお菓子もたくさん用意した。会場まで5時間くらいかかる道のりに加え、着いた先でも大人しく報告会を聞かなくてはいけない今回の旅は、私たち親子にとってちょっとしたチャレンジだった。しかし、電車内はともかく、豊岡に着いてからはそんなものは全く必要がなかった。

 初日(22日)は早々に冒険館のボルダリングや輪投げで飽きるまで遊び、報告会当日は午前中からコウノトリの郷へ出かけ、さらに屋外に設置されたスラックライン(木の間に張ったベルト状のラインを綱渡りする遊び)や火起こし体験、植村さんと犬ぞりのマークが焼印された木の工作をして、関野さんたちの舟にも乗せてもらった。頃合いを見て館内の展示を見ようと誘う私に対し、娘は「森のたんけんにいこう!」と、あくまでも外に連れ戻した。冒険館の方々はなんてたくさんの遊びを用意してくれていたのだろう。存分に遊んだおかげで午後からの報告会は概ね静かに聞くことができた。翌日には皆と一緒にハイキングも満喫した。

 4歳の娘が報告会の内容をどれだけ理解できたのかは分からない。なにせ「何が面白かった?」と聞いたら、「お姉さん(岩野さん)と遊んだのが楽しかった」という答えが真っ先に返ってきたのだから。だが、その後に絵本などでホッキョクグマを見かけて「大きいお兄さん(荻田さん)のクマでしょ?」とか、「南極に恐竜がいたってホント?」「植村さんって犬ぞりして、そのあと死んじゃった人?」などと聞いてくるところをみると何かは残ったのかなと思う。むしろ、「あのお兄さんの北極」「あのお姉さんの南極」という経験をしただけで、もう充分だ。私自身も4歳児の目線で参加したことで、「地球ってすごい!」「大人って楽しそう!」と改めて新鮮な驚きがあった(そういえば、娘は「探検」や「死」という言葉をいつの間に獲得したのだろう)。

 子どもを得たからといって自然に素晴らしい養育者になれるわけではもちろんなく、自分にできるのは衣食住を満たしてやることくらいだと普段は思っている。ただ、最低限教えたいことがあるとすれば、それは「人生は生きるに値する」ということかもしれない。何も立派なことはしなくてもいいから、ただこの“0.5秒”を精一杯楽しんで生きて欲しい。そして生きるに値する人生と果敢に向き合っている人がここにはたくさんいるのだった(そう、あきれるほど果敢に)。冒険も探検もほど遠い私が長いこと地平線に惹き付けられているのも、たぶんそんな理由からだ。育児は自分の生育歴を辿り直す旅だと言われるが、初めてコブ付きで参加した特別報告会は、自分の地平線歴を辿り直す旅になったような気がする。地平線会議新人の“みーちゃん”をこれからもよろしくどうぞ!(菊地由美子 東京)

植村直己は生きている

 著名な冒険家のみなさんの講演や夜を通しての冒険話。本当に楽しかった。そして冒険館の方々、民宿の方々、地平線会議のまとめ役の方々、その他多くの関係者の皆さんの熱心な対応・歓迎には本当感謝の思いでいっぱいである。鈍行電車で名古屋から6時間かけていった甲斐があった。「植村直己」というキーワードで集まった全国各地の冒険好き。全国に散らばっている人々を一か所に集めてしまうほどの魅力。植村直己は生きていると確信した一日だった。現代の冒険好きな人間がつながり、もっとわくわくするようなことが起きるといいなと思う。(大西美幸 愛知)

舟をさわった感覚

■縄文号を見たかった。やっぱり実物を見てよかった。舟をさわった感覚が体に伝わってくる。古代人が大海原の未知の世界に向かっていく冒険を想像した。すべて自然からのものだけを使って手作りで舟ができあがっていく関野さんの話は小気味がよかった。今の暮らしはとても縄文時代には戻れないが、自然のものや捨てる物を工夫して利用することは楽しいものだ。(小森茂之 たき火愛好家 和歌山)

退職月と重なった豊岡報告会

■自分にとってこの月は退職月と重なり、父の故郷の豊岡に3度目の訪問となり親戚と墓参りを兼ねてのまたとないチャンスでもありました。いろいろ見てみたい気分になっていました。その甲斐あってか出石の寺の裏の小高い木のてっぺんに、こうのとりが止まったところを発見した時は感激しました!! 普通の観光客ならサギにしか見えなかったかもしれませんが、ここは豊岡、何気ない観察力で見えないものが見えてくる。冒険館もそのような存在であってほしいものです。丹波の黒豆と出石そば美味かったです。腰痛持ちで吸い玉療法が効果があることを経験しているので、モンゴル博物館にあった古い吸い玉器具にも感動。(石原卓也 東京)


【通信費をありがとうございました】

 先月の通信でおしらせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

■原典子(4000円 2年分です。よろしくお願いします)/野口英雄(4000円 当方カナダ在住、毎年帰国時に報告会を聞きに行かせてもらっています。2年分の通信費です。よろしくお願いします)/遊上陽子(20000円 豊岡でお渡ししようと思っていたのに渡せず。送金します。加藤秀と2人分です)


地平線の皆さん、ほんとうにありがとうございました。私は、元気に病気しています

■12月に入って、豊岡も雪が降り出しました。皆さんが泊まった民宿「可愛人屋」の付近も白いものに覆われ、火口の周囲をまわってもらった神鍋山は30センチの積雪です。あらためて、地平線会議特別報告会を植村直己冒険館開館20周年記念事業の中で開催していただきましたこと、ありがとうございました。当日ご来館いただきました皆さまから「冒険色のある今までにない催しでとっても楽しかった」との声を聞き、中貝豊岡市長はじめスタッフ一同喜んでいます。これも関野さんの舟上でのお話、荻田泰永さん、岩野祥子さん極地体験のトークなど地平線会議特別報告会ならではのことがあったからこそです。重ねてお礼申し上げます。

◆しかし、私の何よりもの喜びは、今回、一緒に催しをさせていただき植村直己冒険館と地平線会議が近くなれたことです。植村直己冒険館の30年後、50年後のあるべき姿(冒険者の聖地、チャレンジャーの拠点施設)に向け大きな一歩を踏み出せたことです。私たちは植村直己冒険館が多くの人に愛される冒険館になることの夢を持ち続けています。今後も地平線会議の皆様のお力添えいただきますようよろしくお願い申し上げます。

◆さて、江本さんが皆さんにお話しくださったので少し補足説明することをお許しください。私ごとですが、7年前から二つの癌(膀胱と胃)と一緒に生活しています。告知を受けた時は辛く苦しい日々を送りましたが、多くの仲間の勇気づけや私を診てくださっている2人の医師が手術後に必ず発した一言、「こんな病気で死なせるわけにはいかない」、また、毎回の手術後に「よし、悔いはなし」と言い放ってくださった言葉に支えられてきました。両医師とも植村直己さんの大フアンで、私が冒険館の館長と分かったときには、主治医が毎夜のように9時過ぎには病室に来て植村直己談義をしていました。

◆このたび、地平線会議の方から「日本一の冒険館への夢、応援しますよ。元気で頑張ってください」と言っていただきました。私への支えの言葉として大切に心に置きます。みなさんありがとうございました。私は、「元気に病気しています」。ありがとうございました。(吉谷義奉 植村直己冒険館長)

ひっそり座っていた野茂。館長のひと言ひと言が、あたたかい光のシャワーのように、心に降り注いで……

■近畿在住の私にとって報告会への参加は容易ではなく、2012年7月の東北・南相馬での報告会、今年3月に東京で行われた山岳気象予報士・猪熊隆之さんの報告会に続き、今回が3回目の参加となります。会場となった但馬・豊岡は、取材やスキー、有機農業の援農などで何度も訪れたなじみの地域。植村直己冒険館を訪れるのは初めてでしたが、自然豊かな公園の中にあり、とても心地よい空間でした。

◆開館20周年ということで、会場内外は若い子連れファミリーから中高年まで、大勢の人たちでにぎわっていました。その中に、元メジャーリーガー・野茂英雄氏の姿を見つけた時はびっくり! 記念式典でも最後列にひっそり座っていて……。じつは密かに尊敬していた私。駆け寄って握手など求めたい衝動に駆られましたが、あまりに自然に周囲に溶け込んでいたので声をかけられませんでした(あの謙虚さがたまりません)。

◆2日間、たくさんの人と会い、盛りだくさんの体験をして、正直、いろいろなごちそうをいっぺんに食べたあとのような疲労感がありました。でも、食べたものが胃の中で消化されていくように、じわじわと疲れは満足感に変わっていきました。この感じはいったい何なのだろう……と考えてみたら、それこそが私が地平線会議に漠然と惹かれてきた理由でした。

◆一見マニアックな冒険好きの集まり、のようでいて、学生も高齢者も、子連れもサラリーマンも芸術家もOKの懐の広さ、層の厚さ。著名な冒険家も、天然自然を愛する変わり者も、平場で交流できるフラットさ。地平線会議に来ると、強靱な肉体と精神を持つ冒険家も、私たちとかけ離れたスーパーマンじゃないんだとわかります。むしろ人一倍不器用で、変わり者で、だからこそ一途に冒険にのめりこむ愛すべき同志なのかもしれません。そして、そのことがうれしく、ちっぽけな自分の励みになるのです。

◆昼食は、紅葉に彩られた池の端で。懇親会で残った料理をワイルドに手でいただくという開放的な雰囲気も手伝ってか、ここでも何人かの人たちと自然に言葉を交わすことができました。そのひとりが通信でおなじみの加藤千晶さん。野宿野郎なんて言葉はおよそ似つかわしくないほどスレンダーで可愛くて……初日に初めてお会いした時には、緊張してあまり話せなかったのですが、ヤンキー座りで昼食をほおばっていると、たまたま正面にいた千晶さんが話しかけてくれました。冬に野宿して寒くないんですか?と質問すると、「じつはすごい寒がりなんですよ」と意外な答え。「でも、いいシュラフがあれば寒くないですよ」と。私も「いいシュラフ」がほしくなりました。もうひとつ意外だったのは職業です。自立障害者のヘルパーをしているということでした。

◆そういえば、このたび気づいたのですが、地平線会議って福祉系職種の方が結構おられますね。今回の報告会の世話役をして下さった中島ねこさんもそうだし、特別支援学校の先生をしながら染め織りをし、反原発活動もしているという中畑朋子さん(同部屋でした)もそう。ちなみに、私は大阪教育大で障害児教育を学び、脳性麻痺の自立障害者のボランティア介護を10年、障害者作業所で働いたこともあります。その後、高齢者福祉や農業などの専門誌を中心にライター業をしてきましたが、昨今は仕事が激減し、今夏より鍼灸院で全盲の鍼灸師のドライバー兼介助者のアルバイトを始めました。地平線の皆さんとこんなところでも接点があるとわかり、うれしいことです。

◆そして、最後に地平線会議のすごさに気づかせてくれたのは、地平線会議にシンパシーを抱いておられる植村直己冒険館の吉谷館長でした。植村直己の偉大な業績以上に挫折や弱さ、人一倍の努力やあたたかい人柄に目を向け、チャレンジの大小や結果よりもプロセスに意味があること、ひと握りのヒーローだけでなく、誰もが尊いチャレンジャーであるといったことを熱く話されました。そのひと言ひと言は、あたたかい光のシャワーのように、私の心に降り注ぎました。

 地平線通信読者になって3年目、報告会参加3回目にして、地平線会議がぐんと身近になった気がします。企画から当日の運営までご尽力された皆さん、本当にありがとうございました。(金谷眞理子 吹田市)


【先月号の発送請負人】

■地平線通信11月号(427号)は11月12日印刷、封入作業を終え、13日メール便に託しました。忙しい中、今月も多くの方が駆けつけてくれました。地味な作業ですが、毎月この瞬間に地平線会議活動の底力を感じています。駆けつけてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。初夏に大きな心臓バイパス手術を受けた森井裕介さんがすっかり元気になっているのに驚きです。
森井祐介 車谷建太 加藤千晶 伊藤里香 小石和男 落合大祐 久島弘 八木和美 前田庄司 福田晴子 江本嘉伸 石原玲 安東浩正 松澤亮


地平線ポストから

長寿(70歳以上)国際サッカーに参加して日韓関係を考えた!

■ 地平線会議とは35年、植村直己冒険館との付き合いは20年!

 この両者が一緒に記念集会を開くと言うのだから、何としても馳せ参じなければならない。しかも、渡辺哲くんが京都から140kmを一気に走る、という。私も少しは付き合おうかと考えていた。

◆ところが突然「韓国で行われる長寿国際サッカーのメンバーに推薦したよ」とのメールが入った。私はここ10年ほどオーバー60歳のサッカーチームを率いている。世の中には元気なじいさんが沢山いて、国内にも数多くのチームがあり、毎年正月に国立競技場で東西対抗戦までやっている。東京は人数が多すぎて70歳以上でないと推薦されない。やっと出場推薦を受け、年明けには国立競技場だ。しかし20年の東京オリンピックにむけ改築中で、西が丘の味の素フィールドに会場は変更になった。サッカー聖地ではないのは残念だが、まあいいか。その東西対抗戦にむけて最近は週一で練習に励んでいた。そこに国際試合のお誘いである。

■ サッカーとの付き合いは55年!

 「ムムーッ! 豊岡に行くか国際サッカーか!」少々迷ったが、サッカーは高校時代からで55年の付き合いだ。45年の付き合いの賀曽利隆さんにも威張ることができる。「賀曽利=バイク野郎」のイメージだが彼は高校卒業後もサッカー小僧だった。彼のチームに参加したこともある。毎試合得点のエースストライカーだったことを知る人は少ない。サッカーでも後れを取っていたが、ここで「日本代表」(?)になれば賀曽利さんを出し抜くことができる。そう思って豊岡はキャンセルし、韓国へ向かうことにした。メンバーはオーバー70歳+5人の68歳助っ人。各チームからの寄せ集めの16名、元日本代表級の人もいる。相手の韓国チームには代表選手もいるという。こりゃちょっと場違いのところに来たかな、という感じだった。でも技術は劣るが70歳にしては、かなり走れる。最近服部文祥くんが1500m走では負けないと豪語しているが、10年前だったら私も負けなかったぞ!

■ 2日で4試合だって!

 航空券以外の宿泊、食事などは、日本代表なのでご招待。でも予算の関係で3泊4日の短い滞在になった。その間にソウル、上海、吉林、済州島チームと4試合することになっている。日本で60歳以上のチームは15分ハーフでやる。ところがこちらは25分ハーフだそうだ。1試合50分。毎日1試合か! これはかなりきつい。ところがそれを2日間でやるとのこと。こちらは16人、着いた日にユッケとレバ刺しという生肉を食べた2人が下痢で参加不可。さらに高熱で1人が帰国。交代要員がほとんどいなくなった。韓国チームは地元なので2チーム作れる人数できている。これは明らかに不利だ。

 しかし初戦は元気でソウルチーム相手に4:2で快勝。これで調子に乗れるかと思ったが、午後の試合ではもうバテバテで1:5でぼろ負け。70歳で1日2試合は過酷だ。私の専門のマラソンでいえば午前午後でハーフマラソンを走るぐらいの消耗だ。これは公務員ランナーの川内くんでも無理かも。当然翌日の試合はグランドにいるだけでヨタヨタの感じ。中国チームも交代要員が少ないので同じぐらいの疲れだった。1試合目はなんとか2点で抑えたが0:2で敗戦。突然の変更で2日目は午前中に2試合やってくれとのこと。それに会場も変更に。会場はワールドサッカーで使われた天然芝のすばらしいグランドだった。数万人入る会場は韓国選手団の奥さん連が応援。でも通訳さんに聞くと「昨日あんなに呑んで大丈夫かしら」「呑みすぎだよ! がんばれ!」と変な応援だという。まあ家族づれで物見遊山の感じだ。

■ 70歳の試合でレッドカード

 最終試合は済州島チーム。ここは強そうだった。しかし前半はキーパーの頑張りで1点入れられただけ。前半終了間際で突然審判が笛を吹いて、赤い紙を出した。我らはレッドカードになるような反則はしていない。と思ったら相手側が2人同時に退場になった。後半は相手は9人。でもやっと1点入れただけで引き分け。試合後聞いてみたら退場になった2人はその後も激しく言いあいをしていた。「もっと走れ!」「お前に言われたくない!」……というような単純なきっかけだったらしいが、韓国の人たちの気質を見た気がした。日本人が嫌いで、ガンガン来たということではないのでほっとした。

■ バスが乗っ取られた?

 わがチームはフェアプレー賞で30万ウォンと楯をいただいた。閉会式後バスに向かった。我らのバスに応援のおばちゃんたちがすでに乗っている。座席には我らの着替えなどが置いてあるのに。抗議すると荷物をぽいぽいと車外に放り出した。何が何だか分からない。運転手もガイドも「しかたがない!」と肩をすくめる。そのバスがおばちゃんたちを送りとどけて戻ってくるまで待つしかなかった。

 ムムー、昨今日韓関係が悪いようだが、これは政治とか経済とかの問題ではないな。長寿者の国際サッカーを行えるような国力が備わってきたというが、まだまだ国際的センスは備わっていない。主催者はこのような国際大会を期に、長寿者の国際的センス向上を考えているのだろう。参加させてもらってありがたいが、あえて言うなら、ここのところの韓国でのさまざまな事故などの根底には、「相手のことを考える」というセンスの欠如があるだろうと考えた。これが解消するまでは日韓関係もスムーズにはいかないだろうな。ゆっくりやるしかないよな。でもいい経験をさせてもらったことに感謝。昨年12月には心臓が止まって入院していたが、後遺症もなく無事復帰できた。来年も元気なら、また参加したいのだが……。(古稀になった! 三輪主彦

花田麿公さんの文章に、母子で釘付け

■地平線通信427号が届いてすぐいつも通りフロントページを読み、普通なら次のページに行くところですが、なんとなくパラパラとめくると「柚妃ちゃん」、「ジョローチ」という文字が目に飛び込んできました! 瞬時にこれはうちの柚妃(ゆづき)のこととわかりましたが、でもなぜ? と思いながら一気に読みました。

◆私が生まれる前のモンゴルのこと、旅のこと、固い絆で結ばれたジョローチのこと……。花田麿公さんが初旅をされた頃から、モンゴルの人々の暮らしは大きく変わりましたが、決して知らないモンゴルではなく、私の見たモンゴルと繋がっているのだと思いました。まだモンゴルを知り始めた一歩目ぐらいですが、これからももっと、何度も見てみたい国です。

◆大相撲九州場所では、私と柚妃はモンゴル・アルハンガイ出身の逸ノ城という力士に注目していて、勝ったら喜び負けたらしょんぼりしていました。これは、遊牧をして暮らす逸ノ城のおばあちゃんが衛星放送で日本の相撲を観戦して、「孫が勝ったら喜び負けたら泣く」と言っていた素朴な言葉が気に入ったのでその真似です。うちで流行っています。逸ノ城は、父の長兄である博おじさんからアルハンガイ出身のかわいい力士がいるよと教えてもらって知った力士で、柚妃(注:幼稚園児、女の子です)は場所中毎日子供番組そっちのけで相撲中継を観ていました。

◆先週、我らがジョローチ(モンゴル語で運転手)のナラさんから電話がありました。「ウランバートルは寒いけど日本も寒い?」と聞かれ、「寒くないです。気持ちがいい天気です」と答え、柚妃は?という問いかけには「幼稚園」と答えました。これが私の精一杯で、その他の言葉はどんなにゆっくり言ってもらっても分かりませんでした。不意打ちのようにかかってくるナラさんからの電話に対応するためにも、来年アルハンガイに行って遊牧民と交流するためにも、まずは娘と一緒に単語力を身につけたいと思います。(瀧本千穂子

人生初の大きな買い物、そして「アイディタロッド」にエントリー

■お久しぶりです、犬ぞりの本多です。ここユーコンも、気温が下がり冬めいてきましたが、雪が全然足りない困った状況です。実は私の住んでいる所は、キャビンは自分で建てましたが借地です。かなり前から地主さんがここを売ってしまいたいと言っていて、今度の夏がタイムリミットでした。私には2つの選択肢がありました。出て行くか買うか、です。

◆地主さんが値下げして市場に広告を出してからというもの、競争もあり焦っていました。何処かに借りる土地を探しながら、買うための借金も考えたりと、色々動いてみました。でも、どうしてもみつからず……で、結局人生初の大きな買い物をすることにしました。5エーカーで10万5000カナダドル(約1100万円)です。6150坪くらい? この大きな買い物に踏み切れたのは、(銀行がダメだったので)貸すと言ってくれた何人かの友人と親、こちらのボス達のおかげです。時間は掛かると思いますが、協力してくれた優しい人たちを裏切らないように、がんばって返して行く気持ちです。今後のレースは借金返済で資金作りが難しいためほぼ絶望的と思い、今回アイディタロッドにエントリーしました。ベストのチームとは言い切れませんが、楽しみたいです。後は、雪が降るように祈る毎日です。(本多有香 カナダ・ホワイトホース)

素晴らしい! シェムリアップ州のカンボジアサーカス!!

■エモーンへ。11月に世界遺産のアンコールワットで28歳の誕生日を迎え、12月、アンコールワットマラソンに初参加するクエです(マラソンといっても10kmですが……)。アンコールワットのある、シェムリアップ州(の中心部)はカンボジアのどこの州よりも洗練されていると思いました。もちろん、首都プノンペンよりも! 道は整備され、オシャレな店もたくさんあります。ホテルもきれいでリーズナブルなものが多いです。かといって高層ビルは無く、「アプサラ機構」というカンボジア政府による文化遺産保護と地域開発を担う機関が上手くバランスをとっているのではないかと思います。

◆アンコール遺跡群を訪れてみると、仏教とヒンドゥー教の寺院が混ざっており、王によって宗教がガラリと変わってしまった歴史が残っていました。さらに注目すべきものは、首のない仏像。これらは、ポルポト政権時代に宗教を禁じたクメールルージュ(かつて存在したカンボジア共産党)が壊したそうです。以前聞いたことはありましたが、実際に胴体だけの仏像を見ると、本当におかしな時代があったのだなと思いました。

◆シェムリアップ州にはカンボジアサーカスがあります。毎日公演しており、せっかくなので見に行きました。このサーカスは、内戦時に難民キャンプにいた子どもたちがサーカスやアートで人々を楽しませようと発足したものです。バッタンバン州のサーカス学校で学び、フランスの支援によって現在まで洗練されてきたそうです。私が見たのは「ソッカー(女性の名前)」という演目でした。ポルポト時代を生き抜いた少女の物語です。

◆ソッカーお婆さんがタイムスリップして、内戦前の楽しそうな授業風景から物語は始まります。ところが、戦争が始まり、そしてクメールルージュがやってきます。クメールルージュ役はトレードマークである、全身真っ黒な衣装と赤いクロマ(スカーフ)を身につけ、死神のような真っ白な仮面を付けていました。きっと、当時の人達もこんな風に見えたのだと感じました。一体、ソッカーやその友達はどうなってしまうのか……一気にその世界に引きこまれました。

◆カンボジア人のアクロバットな技も素晴らしかったですが、それ以上にストーリー性やメッセージ性の強さに驚きました。音楽やアート(その場で演奏、絵を描き、場面をもりあげる)との連携も素晴らしかったからだと思います。他の演目も見てみたくなりました。シェムリアップ州で必ず紹介したい場所です。来月のアンコールワットマラソンの時は短期滞在なので見ることができなさそうです。残念! それではまた、近況報告します。(平成26年度1次隊 青年海外協力隊 水口郁枝


■イベント『のぐそ&野宿 ━━ 夢の「野」人コラボの夜』のお知らせ

●日時:12月20日(土)午後7時頃より●会場:中野駅北口から新宿方向へ線路沿い徒歩1分、レストラン『カルマ』の廃墟●出演者:糞土師・伊沢正名、野宿娘・加藤千晶●会費:1000円●問い合わせ:)●当日はそのまま屋内野宿にナダレ込みますが、会場は内装を全て撤去したガランドウの小部屋です。野宿希望者は寝袋(できればマットも)持参のこと。なりゆき次第で、後端技術研究家によるお話とワークショップがあるかも。


■服部文祥さん、新著『サバイバル登山入門』刊行!

 「獲って、食べて、登る! テントなし。時計なし。ライトなし。米と調味料だけを持って、シカを撃ち、イワナを釣って山旅を続ける。登山道には目もくれず、沢とヤブをつき進む。危険と隣り合わせの圧倒的自由。」気魄の書です。(デコ 2900円+税 2014年12月5日刊)


『映画の人びと』 報告会場で販売します!

■今月の報告者、渋谷典子さんの著書『映画の人びと』(バジリコ社 2400円+税 2013年11月刊)、アマゾンでも入手に時間かかる、と聞きます。三船敏郎、緒形拳、高倉健、吉永小百合、とキラ星のスターたちの個性的写真の素晴らしさもありますが、映画を作る現場での人々をとらえた文章がいい。品切れ気味のため、今回、とくにご本人に運んでください、とお願いしました。(多分、税分はディスカウント)


今年もやります! 地平線カレンダー!

■長野画伯が浜比嘉島に滞在中のため、まだカゲもカタチもありませんが、「地平線カレンダー・2015」をなんとか12月の報告会に間に合わせます。サイズ(A5判横×7枚)や価格(500円)は例年と同じ。「森」がテーマです。申し込みは葉書で、〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」まで。ウェブサイトからも申し込めます。


今月の窓

いまの時代、後端技術がいかに大事か

■植村直己冒険館での初日夕刻、『Part2』の会場に入った私は、並んだ御馳走に目を瞠り、同時に少しばかり不安になった。アタマをよぎったのは、2011年5月に都内で開かれた「日本冒険フォーラム」での、懇親会終盤の光景だ。我々参加者を迎えた美味しい地元料理の数々は、餓鬼よろしくガツガツ食ってもなかなか減らず、かなりの量が目の前で残飯となった。もし、事前に判っていたら、禿鷹セットを持参し、汁の一滴まで残さず回収。家でウェック瓶に小分けして煮沸殺菌の上、何日もかけてちびちび味わっただろう。その技術と自信が、私にはある。

◆そんなことを思案していたら、スーッと江本さんが寄ってきて、「残り物、何とかしような」と囁いた。他の参加者も気にしていたに違いない。宴がお開きになるや否や数名が率先して動き、私もパック道具を取りに駐車場の車へ走った。みんなで手分けして作業は進行。楕円形大皿のサイズに合う袋が足りず、焦る一幕もあったが、「手元にある物で何とかする」のが私の主義だ。皿の左右から袋を履かせ、真ん中で両者の口をヒートシールして密封、という急場凌ぎを考案。寒い玄関口で待ってもらった、ラップ買い出し部隊の落合さん千晶さんにも、お戻り戴く。

◆パックした料理は、一部を2階の小型冷蔵庫へ、残る大半を冷え込み厳しい駐車場の車に運び入れた。快晴で明けた翌日は、カミさんが車を建物の影に移し、その後に移動した冒険館のカンカン照り駐車場でも、私がデイパ標準装備品の幅広アルミ箔3枚引っ張り出し、ウインドシールドに貼り付けた。作業に手間取り、2人とも古谷館長の挨拶には少し遅れてしまったが。

◆そしてお昼過ぎ、立食ランチ会を開くべく皿を並べ、改めてその量に驚いた。この人数でも食べ切れなかったら、傷み易そうなこれとあれは『非電化真空パック』で家まで持たそう。食べながら、そんなことをアタマの中でシミュレーションする。心配していた味は、赤ん坊なみの世話が効いたのか、全く変わっていなかった。私の経験によると、最適の火加減で調理されたものほど、美味しさは長持ちするようだ。結局、料理は完売。僅かな残り物も、タイ式パック術で小袋2つに収まった。もちろん、食事中に「これ、大丈夫なの?」の声は上がらなかった。案ずるまでもなく、私のポリシー「賞味期限は己の舌が、消費期限は己の胃腸が決める」は、地平線メンバーの共通認識でもあった。

◆冒険館から戻った翌週、私は丸山純さんの授業に呼ばれ、若い人たちを前に、マイテーマの『後端技術』についてお話しした。その折り、準備周到な彼が、私の報告会(06年8月)の画像を発掘してくれた。講義の前夜、それらの古い写真 ── 生活用具や上水道、住居に至るまで、暮らしに必要な品の多くを竹から作り出すタイ北部の山岳少数民族たち。そして、お買い上げ品のミニチュア仏像に、その場でピッタリサイズのプラケースを手作りしてくれる、チェンマイの路上お守り屋さん── を見たとき、「ああそうか!」と私は合点した。

◆ラフ族の竹は、我々にとってのプラスチック製品だ。また、粗末な工具と小さな炎を操り、私の目を小卓の上に釘付けにした、あのミニ仏像屋。彼は、「熱で溶ける」という特性を知り抜いた、石油化学製品のエキスパートだ。プラ袋をヒートシールして、IPS細胞のように色々なものに変える工夫。折れたプラ製スプーンを、ほぼ瞬時に再生させるテクニック。あるいは、プラスチック製品の破損箇所を、その曲面に合わせたプラ板の“添え木”を作って修理する手法。これら私が編み出した後端技術は、すっかり忘れていたが、彼らと全く同じスタンス、センス、アプローチではないか。そう気付くと、なんだか幸せな気分に包まれた。

◆授業では、私が『インド的発想法』と名付けた思考術も紹介し、一例として、陶器製ティーポットのフタを回してもらった。この、針金を十字に掛けた不可解な細工物は、真っ二つに割れた破片を補修したものだ。何かが壊れたり故障したとき、私たちは、先ず「元に戻す」ことを考える。割れた物は接着し、切れた物は繋ぐ。が、インドの人々は、必ずしもそれに囚われないのではないか。元の形状に戻さなくとも、機能が戻ればよい。そのように発想するのではないか。このフタも、化学物質を使った接着剤は避け、歯列矯正風に針金を掛けて撚り上げただけ。それでも樹脂で固めたようにビクともしないし、何か有効な修理法が見つかったら、その時は針金を切ればよい。

◆彼ら学生たちが社会で活躍する頃、恐らく3Dプリンタも広く普及しているだろう。この現代版『打ち出の小槌』に、私は一抹の不安を抱いている。ドアストッパーが行方不明になれば、我々は、紙を厚く折って挟む、観葉植物の鉢で押さえる、ドアノブを紐で何かに括り付けて固定する、といった方法で切り抜ける。言うまでもなく、一つの課題に対して、解決法は幾通りもある。が、必要物が手軽に作り出せれば、つまり労することなく常識的解答が入手できれば、誰も知恵を絞ってまで変化球を捻り出そうとはしない。

◆冒険館で植村さんの遺品を見学したとき、私は多少のもどかしさを覚えた。所有者の手を離れると、モノは抜け殻になってしまう。展示品それぞれには、彼の工夫や拘りが籠もっているに違いない。冒険家でない私にその理解は難しいかも知れないが、例えば、いつ鍋はへしゃげたのか。現役当時からだとしたら、中身をポットに注ぎやすいから、そのままに? そんなことを訊きたかった。

◆植村さんや熱帯アジア圏の人々の創意工夫と、私のささやかな取り組みには、実は決定的な差異がある。彼らのそれが「必要は発明の母」的産物なのに対して、私にそこまでの動機はない。あるとすれば好奇心。そして、「なんとかしてやろう」と知恵を絞ることの、時間すら忘れてしまう楽しさだ。おまけに、テーマは身近に幾らでも転がっている。そのことを、私は今回、ますますモノが氾濫する時代を生きる学生たちに訴えたかった。多少とも伝わっておれば、と願うのだが。 [久島弘


あとがき

■今回のように遠隔地で地平線報告会を開く時、参加できない人のほうが圧倒的に多いだろう。そういう人たちにも現地の空気を知ってほしい、と広角度の発信を心がけました。短い時間だったのに、豊岡でのさまざまな個人体験と感想が溢れる通信となり、結果、20ページの大部となってしまった。読み直してみると、変化に溢れていて面白い。どうか、現地であったことを想像されてください。

◆何度も通っていながら、私自身は、植村直己冒険館という建築物に具体的な解説ができないまま今日に至っている。今回、丸山純さんがそのことを書いてくれたのが、ありがたかった。ほんと、不思議な建物なんです。あの冒険館は。

◆その建物を設計した建築家の栗生明さん、報告会を最後まで熱心に聞いておられた。そして、帰京して間もなくお葉書を頂いた。「先日は植村直己冒険館で大変お世話になり、ありがとうございました。地平線会議の皆さんの話は目からウロコが落ちるものばかりで興奮して拝聴しました。今後とも植村直己冒険館をよろしくお願い致します」

◆ありがたいことだ。フロントで紹介した中尾さんもそうだが、植村直己冒険館の未来を皆、少し心配している。エネルギーを落とさず、活動を継続している地平線会議への暗黙の“期待”を時に感じる。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

時代の渦を写す!

  • 12月26日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「人のエネルギーが集まるところに魅かれるんです」というのは写真家の渋谷典子さん(61)。山形から上京し、23歳でフリーの写真家として独立。東京に渦巻くエネルギーに魅せられて、70年代末から若者達の姿を写し始めます。竹の子族、ロックンローラー、ボクサー。当時コメディアンとして絶好調のビート・たけしも被写体に。

「若者が今よりずっとのびのびしてましたね」と渋谷さん。29才の時、映画のスチールカメラマンとして現場に入ります。まだ男の世界だった映画のバックヤードで五里霧中でシャッターを押しました。高倉健、三船俊朗、吉永小百合といった俳優達のそばで、銀幕の裏表に満つるエネルギーを記録します。

一方で「新宿」という場を継続的に撮り、チェルノブイリ以降、反原発の動きもテーマにするなど、常に時代のエネルギースポットを追ってきました。その軌跡は地平線会議の歩みとも重なっています。エピソード満載の渋谷さんのお話に乞御期待!


地平線通信 428号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年12月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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