2013年1月の地平線通信

■1月の地平線通信・405号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月16日。正午を過ぎても気温は4度と低め。おととい積もった8センチの雪が四谷界隈のあちこちにも残っていて、時折、シャリシャリとチェーンの音が響く。歩くのにも気を使う。登山靴用の固いビブラム底のシューズを履いているので少々の凍結には対応できるが、元気なわんこを連れての雪の後の街歩きは特別だ。

◆こういう寒い日は、安納芋とカブの葉のみそ汁がおいしい。安納芋は正月に指宿市山川町を訪ねた時、現地から送った。種子島原産のこの芋の甘さは、ほんとうは焼き芋にいいのだが、寒い日にはみそ汁も悪くない。

◆山川行きはもう10何度目になるだろう。今回も勿論、あの野元甚蔵さんにお会いするためだ。以前は毎年のように行っていた。はじめはチベット潜行者としての野元さんを取材する目的だったが、いつの間にかご家族全員と親しくさせてもらうようになり、夏の素潜りでの海底観察、近くの開聞岳への孫たちとの登山などかけがえのない時間を過ごさせてもらって来た。

◆不思議な運命のめぐりあわせでモンゴルからチベットへ、と青春の日々を旅することになった野元甚蔵さんは、貴重な日本の現代史の生き証人だ。陸軍参謀本部の指示でモンゴル僧に扮してチベットに潜入した経緯は2001年8月に刊行された著書「チベット潜行 1939」(悠々社)に詳しい。そうそう。あの本の出版記念会には「解説」を書いた私も参加させてもらい、指宿の立派なホテルでやったのだったっけ。

◆そんな縁もあって2009年、2010年と連続して地平線会議に報告者として来て頂いている。それぞれ「ノムタイがチベットで見たこと」「ノムタイの宇宙 70年前のチベットから日本へ」というタイトルで話してもらったが、よくも2年続けてはるばる東京まで来て、地平線の仲間たちに会ってくれた、と今更ながら感謝の気持ちでいっぱいだ。

◆3.11が起きて西日本方面が遠くなり、私にとっては久々の山川行きだったが、新年であったため、貴重な行事を目のあたりにすることができたのは幸いだった。「サンコンメ」である。鹿児島の1月の大事な行事のひとつに「鬼火焚き」がある。新春1月7日、役目を終えた正月飾りを集め、竹櫓とともに燃すのだが、ここ山川だけは、海辺でやるその「鬼火焚き」の直前に「サンコンメ」(名前の由来ははっきりせず、「三魂舞」「三五舞」などの説がある)の行事が始まるのだ。

◆それも山川町の野元さんちのある浜児ヶ水(はまちょがみず)地区だけで、隣接の岡児ヶ水(おかちょがみず)ではやらない。午後2時頃、旧農協前の広場に人々が集まる。子どもが多い。キビナゴを混ぜたダイコンナマスが参加者たちに振る舞われる中、頭に笠をかぶった若者が登場。持参した「五穀豊穣」「無病息災」などと書かれた半紙を貼付けた2メートルほどの孟宗竹を肩にしたままくるくる回り出した。何度も回転するように舞い、頃合いを見て地面にその孟宗竹を叩き付ける。子どもたちがどっ、と飛びかかるが、1回目は竹はヒビが入る程度で収穫はなかった。

◆次にもう一度舞い、踊り、思いきって孟宗竹を叩き付けると、今度は竹が割れて何かが飛び散った。こどもたちが一斉にとびかかる。見ると、さまざまな種類の硬貨が。事前に大人たちによって孟宗竹の中に詰め込まれていて、それが飛び散る瞬間を子どもたちは待っていたわけだ。ここを手始めに都合5か所で「サンコンメ」の儀式は行われた。

◆「はじめて500円硬貨取れたよ」と見せる男の子や「まだ11円」と手のひらを見せる幼い女の子もいて、微笑ましい。お金はすべて神棚に供えてその年の幸運を祈るのだという。で、いくらぐらい入れるんですか? そっと幹事さんに聞いてみると、1本1本の孟宗竹には銭を入れられるだけの細い「入り口」がくり抜かれており、厄払いなどのために大人たちが寄付してくれた硬貨を1本5000円ぐらいずつ詰め込むのだそうだ。5本で2万5000円なり。

◆最後は抽選で景品をもらった後、海岸へ降りて鬼火焚きとなる。後方に竹山(寝ているかたちが似ていることから別名「スヌーピー山」。「山と溪谷」誌上で日本の果ての美しいとんがり山として紹介された)を配して、見事な海辺の「鬼火焚き」でフィナーレ。竹の燃え残りを持ち帰り、門松のあった場所に埋めて行事は終わった。

◆「ほんとうに縁ですねえ」と、野元さんは私の興奮した報告を目を細めて聞き入っていた。「江本さんと東京の会で会って、それが縁でこんなにしばしば来てくれて、嬉しいことです」。あまり外出はしないが、家の中では自力で動く。たくわえていたヒゲを剃ると、つやつやして実に元気な顔になられた。安心した。

◆野元甚蔵さん、3月には96才になる。また、会いに行きますね。(江本嘉伸


先月の報告会から

約束の街の灯

岩野祥子 坂本雅信 上條大輔 渡辺哲

2012年12月22日  新宿区スポーツセンター

■399回目の報告会(2012年7月28、29日)を南相馬で開催するなど、1年を通して震災の被災地に目を向けてきた地平線会議。2012年最後の報告会の第1部は、東日本大震災以降、奈良県から宮城県東松島市に通い続ける岩野祥子さんと「JR仙石線沿線住民の会」「野蒜・宮戸地区復旧、復興を考える会」の会長として、在宅避難者を取りまとめている野蒜地区新町の区長さん、坂本雅信さんが登場した。

◆通信でも、東松島での活動をレポートしてくれている岩野さんは、これまでに2度、南極観測隊員として越冬。つい最近は東西400キロに及ぶ瀬戸内海を1週間かけてカヤックで横断するなど(通信404号、ぜひ読んでください)、行動力の人だ。

◆「関西でも、船酔いになりそうなくらいビルが揺れたんです。テレビを通じてオンタイムで入る被災地の状況を見て、倒れそうなくらいショックを受けて。これは大変なことが起きていると思いました」。3月11日をこう振り返る岩野さんが勤務するモンベルは、阪神・淡路大震災時にもアウトドア義援隊を立ち上げ、人・モノ・お金の支援に動いた企業で、今回もいち早く支援活動に関わっている。

◆後方支援部隊だった岩野さんが、最初に被災地に足を運んだのは4月中旬。モンベルの緊急支援拠点だった山形県天童市に入った際に2日間、塩竃市の浦戸諸島と東松島の東名、野蒜を回ったという。「避難所のホワイトボードに避難者数・外泊者・ヘリからの物資配布時刻・共同作業の有無などが書き込まれているのを見て、南極と似ているなと思いました」。

◆野蒜地区では、海に近い鳴瀬2中周辺の家はほぼ流され、学校の1階を突き抜けた津波によって裏の松林もガレキの山状態。「この頃はまだ見つかっていない人も多くて、自分が遺体の発見者になるのでは、と思うと怖かったですね」。

◆4月20日に関西に戻ったものの、海が憎いという気持ちと同時に、またここに来なければと思った岩野さんは東松島で支援活動をすると決めて、5月の連休に11日間の休みを取って野蒜地区に入るかを探していました。

◆ここで岩野さんに声をかけられ、会場から「東北のカソリ」こと賀曽利隆さんが登場。賀曽利さんによれば、野蒜は明治時代、政府が日本初の洋式の国際港をつくろうとした土地で、この計画が上手くいっていれば、仙台以上の港湾都市になっていたかもしれない、とのこと。

◆11日間、高台でキャンプ生活をしながら支援に参加したボランティアは述べ1500名。その最初の作業は、鳴瀬川沿いの堤防のガレキ撤去だった。「“この辺りの人たちは何度も泥棒の被害に遭っていて、正直、よその人に来られたくないと思っているんです。だからあなたたちは目立たないようにしてください”と、避難所になっていた定林寺の取りまとめ役の人にいわれて。それで民家から離れた堤防の謔、になって、少しずつ民家の泥出しも手伝うようになりました」。

◆そんな岩野さんたちのボランティア活動に力を発揮したのがソーシャルQ加人数や、参加メンバーの得手不得手に合わせて、頼まれる作業も増えていったという。住民の要望を受けて共同墓地を整備し、避難路をつくるなど、行政の手が回らないところまで手伝ってきたボランティアだったが、秋風が吹いてテント生活が厳しくなる頃から、仲間内でもいつまで活動を続けるのかという声が挙がり始めた。「リーダーも事務所もない自主的な活動をどうしていくか、一度区切りをつけようという話になって。今まで活動させてもらったことへの感謝として、東名駅前でパーティを開きました」。

◆野蒜地区ではこの頃までも、毎週日曜日にはボランティアの炊き出しが入っていたそうで、「食事が終わったらすぐ帰ってしまうのかと思っていたら、みんな最後まで残ってくれたので嬉しかったですね」と岩野さん。総勢150名が参加したパーティは、机や電気もすべて地元で借りて、3万円ほどの費用で開くことができた、とのこと。区切りのパーティ後は、グループホームを運営しているすみちゃん(伊藤壽美子さん)の好意で、グループホームで寝泊まりするようになったそうだ。

◆そもそも岩野さんが東松島に通い続けているのは、ある男性のことばがきっかけだった。「あまり笑わない、口数の少ないおじさんが、一緒にお酒を飲んでいるとき“復興は5年、10年というスパンのことだから、ボランティアにもその気持ちで、心のケアもするつもりで通ってほしい”、って。それからは来いといわれないけれど行くし、行けばカズヒラ(尾形雄平=おがた・かずひら=)さんは待っていてくれる。娘さんが2人いるんですけれど、わたしは3人目の娘のようになっています」。

◆被災地の人々との個人的な交流が深まる中、岩野さんは前述のすみちゃんから、仙石線の早期復旧を訴えるイベント「走れ仙石線」を実施したいと相談を受ける。「地元の人の想いが大切なのであまり口出ししたくなかったんですけど、みんなもなかなか手が回らないので、わたしたちは駅周辺の整備などを手伝いました。ただ、ボランティアの中には自分たちの活動実績のために来ている団体もあって。方向性がブレて不安になった時には決してブレない坂本さんに相談しました」。

◆震災から1年が過ぎ、家のリフォームや学校に花を植える活動を続けると同時に、岩野さんたちは松島湾でカヤック遊びを始めた。「1年目はとてもそういう雰囲気じゃなかったけど、いつまでも暗い気持ちでいても仕方がないし、松島湾は美しいし……。自然にカヤックをやろうという気になったんです」。ちょうどその頃、生活復興支援センターの人から仮設住宅の子どもたちが外で遊んでいないという話を聞いた岩野さんは、子どもたちにカヤックを楽しんでもらおうと「海遊びin月浜」を企画。「センターの人が(津波の被災地で)海遊びを後押ししにくいことはわかりましたけど、浦戸諸島で復興支援をしている畑中みゆきさん(冬季オリンピック・モーグルの元日本代表選手)に相談したら、“やろう!”といってくれて。アウトドア義援隊の仲間にサポートしてもらって実施しました」。

◆東松島での活動を語ってくれた岩野さんの話の後は、短い休憩をはさんで、野蒜駅で7年間、駅員として勤務していた坂本さんが登場。当事者が語る野蒜地区の再生・復興の課題を聞きながら感じたのは、被災者と行政の温度差だ。

◆東松島市で、津波で命を落とした方は約1100名。そのうち500名以上が野蒜地区の方で、さらに現在、坂本さんが区長を務める新町地区250世帯では150名の方が亡くなっている。かろうじて家が残った17世帯70名に行政の支援が入ったのは、震災から1週間後。冷蔵庫の中のものを持ち寄り、持ち主の許可を得て、流された車からガソリンを抜いて買い出しをするなど、自力で生活していた坂本さんたちは「水が4月中旬、電気が5月11日に復旧するまで、食事などを支給してもらっていましたが、電気が来ればなんとか生活できるだろうから、行政に頼らず早く自立しようと思っていました」と話す。

◆自立に向けて動き出した坂本さんが「JR仙石線沿線住民の会」や「野蒜・宮戸地区復旧、復興を考える会」を立ち上げたのは、野蒜地区町づくり協議会が独断で市に提出した高台移転の要望書に対して、自分たちの意思を伝えるためだった。「協議会が市に高台移転の要望書を出したのは5月11日です。でも、避難者が自宅を見に行き始めたのは連休頃で、とても移転要望書を出せるような時期ではなかったんです」。

◆在宅避難住民にとって、高台移転の要望が町全体の民意のごとく提出されたことは、まさに寝耳に水。「高台移転を否定するわけではありませんが、野蒜地区全体が高台移転すると広報したのは市のフライングです。今の場所に住み続けたい222世帯639名の署名を集めて、その意思を市長に伝えました」。

◆岩野さんの話にも出てきたように、野蒜地区の人々の生活に欠かせないのがJR仙石線だ。「仙石線は市民にとってほとんど唯一の公共交通機関で、通勤・通学の足が奪われたことで、現に2000人以上の人口流出が起きています。早期復旧を希望する12511人の署名もJRに提出したのですが、津波が来たら安全の保障がない場所に戻しても仕方がない、というのがJRの回答でした」。

◆移転については時間とともに住民の希望も変化している。2011年8月の時点で60%だった移転希望者が、11月は30%に減少。運河沿いの1700世帯のうち、当初の200世帯から、今は300世帯が戻っている。毎月、野蒜に通い、いわば定点観測をしている岩野さんも「(野蒜に)行くたびに家が建って、人が戻っている印象があるし、同じ場所に住み続けるか、家を解体するか、市がアンケートを行った直後はリフォームの依頼が増えますね」と話す。

◆移転促進地域である東名運河の北側は、津波危険地域として、[1]建築禁止地域、[2]建てるなら、鉄筋コンクリート2階建て以上、[3]リフォームしてもよいけれど、同じ場所に家を建てるなら床を1.5メートル上げなければいけない、という3段階の制限がある。「床上げには行政の補助はなく、そんなお金をかけるよりも高台移転しなさいと、いっているようなものなんです。市は7.2、6.2、4.5メートルと3つの防潮堤をつくるというけれど、高台移転を促しながらなぜ3つも防潮堤が必要なのか。建設業者のためなのでしょうか」。

◆防災よりも減災。津波が来たら逃げることが第一と話す坂本さんは、災害に備えて必要なのは無線と避難所、そして避難所への避難路の整備だと続ける。「12月7日の震度5弱の地震のときも、暖を取ること、車で行くことのできる高台の避難所はほとんどなくて、震災の教訓が何も生かされていません。まずは新東名のどこが避難所として適切な場所か、考えるべきだと思います」。

◆報道が少なかったせいか、あまり知られていないが、市の指定避難所だった野蒜小学校の体育館は、裏山にぶつかった津波が館内で洗濯機状態となって渦を巻き、50名以上の方々が命を落とした凄惨な現場だった。耐震補強をしている校舎の3階に避難していれば、多くの命が救われたかもしれないがそういう誘導はなかった。無念の思いが残る中で、家族も近所の人も助かった坂本さんは、「生かされた以上、何らかのかたちで役に立ちたいし、残った建物を津波遺産として保存し、ここで起きたことを語り継いでいきたいと思っています」という。

◆未だに店も、学校も何もない野蒜地区を「吉幾三の世界ですよ」といった坂本さん。野蒜地区に限らず、課題が山積みの被災地の人々にとって、定期的に足を運び続ける岩野さんのような存在は、“自分たちを忘れずにいてくれる人がいる”という精神的な支えになっているのではないか。二次会での、東京で暮らすカズヒラさんの娘さんや坂本さんとの打ち解けた雰囲気を目にして、通い続ける=継続の力から生まれる互いの信頼の強さを感じた報告だった。(塚田恭子

2部・福島の現実

■岩野さんの報告が終わり、休憩! 報告会前から会場の後方で甘い香りを漂わせていた恒例の原典子さんから差し入れケーキタイム!、っと思いきや、チベット研究者の貞兼綾子さんが毛皮の帽子を被って登場。「かわいいでしょう、お気に入りなの」と癒しの笑顔で2月2日に開催される「チベットの歴史と文化学習会」について説明。聞いているうちにケーキが配られ、食べながら学習会宣伝を伺う。贅沢!

◆そのまま報告会は進行し、「第2部 福島は今」へ。まず楢葉町出身の渡辺哲さんによる楢葉町の現状。2012年8月10日、「避難指示解除準備区域」となり、昼間の帰宅が許されて(夜間の宿泊はできない)以後、大きな変化はないが、放射性物質の仮置き場を建設中のため、除染で集められた土嚢が町に山済みとなっている。また電気は通っているが、津波の影響で稼動できず、水が出ない。下水処理場が問題なかった地域では水は出ている状態。

◆ここで2012年7月の南相馬報告会で中心的役割を果たした上條大輔さん。南相馬市は、自転車が放置されたままの小高駅の自転車置場の情景が報告会参加者へ深く印象付けられた町でもある。震災直後、小高区がまだ立ち入り禁止だった時から許可を得て自衛隊と遺体捜索や倒れた樹木の伐採に入っていた上條さんは、南相馬市だけでなく福島の現状を把握している。

◆たとえば、5年後まで立ち入り禁止となった浪江町は2万7〜9千人であった人口が5年後の解除で戻る人口を3〜5千人と予想している。帰還希望者の8割はお年寄りという。5年町から離れ、補償金を受け、生活を築いたらその後戻る人がどれ程いるか。その後誰もいなくなった町をまた復興させるのは至難の所業となる。上條さんはこの周辺エリアには希望の少ない見方をしている。

◆大熊町は6号線を入ると30マイクロシーベルト以上が測定され、浪江町山間部の畑土からは4万ベクレル以上が検出されている。そんな中、昨年12月17日から原町、小高、浪江、双葉、いわきまで関連事業者の通り抜けが許可され、業者・関連事業者は立ち入りが可能になった。放射線量や土から検出される放射線を目の当たりにすると、立ち入りを容易に許可してしまっていいのか疑問に思う。今は南相馬市が原発作業員の前線基地になっているが、5年後浪江町へ前線基地が動くと原発まで10kmとなり、目視できる程近くなる。「そこにあるものがどれほど恐ろしいか1週間程度滞在すればよくわかる」。

◆ガイガーカウンターの測定値だけで危険を判断するが、危険はそれだけではない現実が沢山ある。環境や進む現状に気がおかしくなると上條さんは言う。たとえば、今福島には賠償金や除染作業に払われるお金が膨大に動いている。末端では日当1万5千円程度だが、大手の関連企業へは6万も支払われている。そんなお金の情報を聞くたびに嫌気がさしてしまう。浪江が3地域「入れる地域」「数年後に許可」「全く入れない」に区分される予定だが、区分地区が中々決まらない。道路一つで補償額が変えられるせいだ。

◆「お金があっても行動範囲が狭められ、生きがいが無いと面白くない」。震災前から育林、障害を持つ子供のデイサービスを行ってきた上條さんは仕事師であり、自身の芯を持って仕事をしてきた。現在は林業も出来ず、さらにデイサービスでも子供達の居住地より放射線量の高い山へ子供を受け入れて良いのか疑問に感じ、継続を求められながらも保護者へ説明し、昨年5月に休業した。そんな自分のやりたい事が出来ない現状に気が狂いそうになると言う。お金があれば幸せか?

◆続いて渡辺さんへ話が振られる。「自宅へ再度戻るか」という質問に、家は戻れる状況であり、戻る意向。しかし、周囲の若い家族は戻らない事を選択するだろう。皆が酷い事態に直面しているが、問題は「汚染」から補償の配分や政治へと様々な事が複雑に絡んできている。

◆最後に毎年5月のGWには太平洋から日本海まで走る渡辺さん。「今から三島まで走る」との驚愕発言!「明日クリスマスなのに走るの? てっちゃん(渡辺さん)に誰かいい人いませんか?」と言う上條さんも渡辺さんに感化され、100kmマラソンに出走している。最後に二人の漫談で緊張していた空気が和らいだ。私も年1、2回であるがハーフマラソンを走っている。でもてっちゃんの話を聞くと自分はヒヨコどころか卵の中だ!「地平線の仲間ならフルマラソンぐらいは軽く走れないと」とえも〜んの言葉が個人的には染みた報告会でした。(四万十以来の仲間うめ、こと山畑梓


報告者のひとこと

報告をやらせてもらって、あらためて、記録すること、整理することの大切さを感じました

■報告会では、話そうと思っていたことの半分も話せなかった感じです。貴重な時間をいただいたのに申し訳なく思っています。ただ、報告会で話させていただいたことは、私にとってはとてもありがたいことでした。ひとつは、これまでの振り返りや整理ができたから。もうひとつは、野蒜の坂本さんが来てくれたからです。東松島の活動に関しては、江本さんが度々、通信に書く機会をくださったので、それが唯一のちゃんとした記録になっていました。今回、それをキーにしながら、それ以外の細かなことも、自分の手帳や日記を引っ張り出して拾い出し、時系列で整理しました。

◆そうしたら、今まで気づかなかった出来事と出来事のつながり、たとえば、集団移転説明会の後に、被災家屋のリフォームに向けての作業依頼が増えていたこと、などの関係性も見えてきて、あらためて、記録すること、整理することの大切さを感じました。一緒に活動してきたメンバーが数人、報告会に来てくれましたが、それ以外の仲間にも共有すべきだなあと思いました。

◆坂本さんが来てくれたこと。これはとてもよかったと思います。世間では、東日本大震災からの復興はすでに大部分において成し遂げられたと考える人が少なくありません。けれど実際には全くそんなことはないし、被災者のみなさんのやるせない気持ちの理由のひとつが、そうやって世間から忘れ去られていくことだと思います。

◆坂本さんは、震災当初から継続して地域のために行動し続けて来た人です。行動すれば必ず反目する人も出てきて、なんで?どうして?と思うこともたくさんあるし、無駄に疲れなければならないこともたくさんあります。いろいろ言われながらも、「今何をやらなければならないか」という核心を見据え、じぃっと行動し続けて来た坂本さんの姿を見ながら、応援しかできないけれど応援していよう、とよく思いました。

◆今回の報告会で坂本さん自身に話をしてもらうことは、聞かせてもらう我々にとっても貴重なことだし、坂本さん自身の力にもなるのではないかと思いました。報告会の後、ふたりで野蒜に帰る道々、息を吹き返したような坂本さんのパワー・元気を感じられたのは、本当によかったです。私自身がそうだけれど、応援してくれる人、味方でいてくれる人の存在は本当に大きいです。局面が厳しければ厳しいほど、そうです。

◆震災から1年10か月経って、泥出しや床板はがしのような、目に見える形での支援は実際ものすごくしづらくなってきています。報告会以降、2回、東松島に行っていますが、頼まれる作業はもうほとんどありません。最近は遊びに行っているようなもので、お茶っこして、夜は宴会をして、どっちにしても話ばかりしています。被災した人たちも、被災地に行くことをやめない私たちも、今をどう過ごすか、手がかりも手ごたえもつかみにくい中で何をしていくか、模索しながら、じっと我慢の時期かなあと思います。(岩野祥子

地平線報告会に参加して

■今回参加するきっかけを作ってくれたのがアウトドア義援隊の岩野さんである。東日本大震災においてボランティアの皆様方には大変御世話になり、ただただ感謝の一言につきます。アウトドア義援隊の皆さんには、震災後5月から今日迄、物心両面に渡って支援を頂いています。特に岩野さんとは、野蒜に来るたび尾形さん宅で飲む機会を通じて交流を深めているところです

◆そういう中で今回の話があり参加して、東松島市の現状や仙石線の問題や高台移転の経緯等を知って貰う事にしました。当日私は東京に早く着いたので、新宿駅に行って見る事にしました。それは私が元JR社員で平成11年から13年の2年2ヶ月を新宿駅改札で仕事をしていたからです。当時の人達に逢えるかと思い、探して見たが見つからず、聞く所によると現在は新宿駅改札は職員ではなく派遣社員が仕事をしているとの事でした。10年前とは駅構内内部も変わっており、時の流れを感じてしまいました。

◆その後、山手線に乗り高田馬場駅で待ち合せの江本さんと岩野さんと合流し、約1時間程お茶を飲みながら話をした後新宿スポーツセンターに向かいました。その日は午後5時から9時迄の3時間という事で岩野さんから震災後5月からの東松島市野蒜での活動報告があり、私の番となりましたが、震災時の話をはじめいろいろな話をしたかったのですが、10分の1も話ができませんでした。3時間という時間はあまりにも短く、思いの半分も皆さんに伝わらなかったのでは、と思っております。今後は、又話をする機会があれば参加したいと思っています。

◆私の後に福島の現状を話してくれた上條さんの話が印象に残っています。原発の補償金は一杯あるが、「ここでは自由があるようでまったく自由がない」との話がありました。この様な現状が続けば人間は働く意欲がなくなり人間がダメになっていくのではないかと思います。又、東電がその様にしているのです。この様な現状を見る時、私たちはまだ恵まれていると思います。本人がやる気があれば困難があってもいくらでも出来る事があるはずです。しかし、福島の人達は原発という人災で本人がいくらやる気があっても家に戻る事が出来ないのです。東電、そして政府の責任は重大です。

◆今回の総選挙において自民党が残念ながら大勝してしまい、又新たな原発を作ろうとしていますが、まったく言語道断です。仮に新たに原発を作ろうとした場合(作る筈がないが)東京都民は賛成するのでしょうか。そして、核のゴミ置場として認めるでしょうか。私は絶対反対すると思います。政府が危険である事が分かっているからです。

◆今後は私たちも30Km圏内にある女川原発の再稼動に反対をし、東松島市野蒜の復旧、復興に向けて、私の出来る範囲内で皆と協力しながら精一杯頑張って行きたいと思っておりますので、今後ともご支援、ご協力の程よろしくお願い致します。大変有難う御座居ました。(野蒜宮戸地区復旧・復興を考える会会長 坂本雅信

ひとり箱根峠を越えて

■2012年は東日本大震災後の様々な活動を取上げて頂き、有難うございました。現在、我が地元の楢葉町は除染作業及び一部インフラ(上下水道)復旧工事が行われておりますが、報道でもありましたように、除染で集めた土壌や落ち葉を不法に投棄したり、汚染水を回収せず垂れ流しする「手抜き除染」が横行しており、現地では怒りの声が噴出しています。

◆また、東京電力福島第一原発では、大量の放射能汚染水の処理が課題となっており、対策の要となる新たな処理設備の運転開始が大幅に遅れているため(当初は2012年9月稼働予定でした)、事故から1年10か月が経っても増え続ける放射能汚染水を安全に管理する抜本的な解決策が見出せていません。

◆こんな状況で本当に帰還できるのか、時間の経過と共に帰還を諦める人が増えていく事をとても心配しています。しかし、悲観的になっても前へは進んでいきませんので、2013年も住民として出来る事に積極的に拘っていきたいと思っております。

■番外編 日本橋〜三島宿 旧東海道走り納めラン

 12月の報告会後、2012年の走り納めとして、日本橋から箱根を越えて静岡県・三島大社まで、旧東海道を辿り約116km走ってきました。日本橋出発は午前零時。(カソリックなもので……)序盤は酔がまだ残っている状態でしたのでダラダラ走ってましたが、横浜駅を過ぎ権太坂あたりからリズムよく走れるようになり、藤沢の遊行寺(約51km)で夜明けを迎えました。

◆快晴の湘南海岸を横目に気分良く歩を進め、箱根湯本(約92km)には11:42に到着。ここから旧街道らしい雰囲気の残る石畳の峠越えが始まります。一気に箱根峠を越えようとしたのですが、手持ちの行動食が切れてしまいガス欠状態に……。そんな中、芦ノ湖手前の「甘酒茶屋」に辿り着き、頂いた力餅と甘酒は正に五臓六腑に染み渡る旨さでした。

◆そして芦ノ湖から箱根峠(約104km)を越えた後は一気に駆け下り、ゴールの三島大社へは16:45に無事到着しました。ここまで走ってきた理由、それは昨年末に厄除けのお守りを三島大社で購入したので、それを返納するためでした。その目的を果たせてホッと一安心です。その事を社務所の人へ話したところ、今年の後厄用に再度お守りの購入を勧められました。ということは今年も返納のため走ってお参りに来なければ……。そんなこんなで2013年も大いに走りまくろうと意気込んでおります。(渡辺哲


地平線ポストから

始末に困る若者たちよ、出てこい!!

■「山田さんは、西郷隆盛いうところの『始末に困る者』ですね」「何ですか、それは?」「西郷さんは『名も金も地位もいらぬ、命も惜しまぬ者は始末に困る。しかし、この始末に困る者でなければ、天下の大事は成せぬ』と言っています」

◆時は1995年某月、場所は都内のとある高級ホテルの大広間。イオン環境財団の設立5周年記念会が行われていた。そこで私は第1回イオン環境財団最優秀活動団体賞を受賞した。当時私が活動拠点にしていた「緑のサヘル」はアフリカ・チャドで砂漠化防止植林活動がメインの環境NGOとして1991年に設立。イオン環境財団も同年設立され、その事務局長のMさんから相談を受けた。

◆「世界中で木を植えているNGOを紹介してください。また、NGO運営していくために何が一番大変ですか?」世界地図が万遍なく埋まるように世界で植林や森林保護をしているNGO10数団体を紹介し、一番困っているのは、各種助成金や補助金は人件費が出ないものが多くその資金調達が苦労だと答えた。「じゃあ、うちはその人件費を出しましょう」と、この10数団体に300万円づつ助成してくれた。

◆これはありがたかった。現地日本人スタッフ2人分の人件費になった。最優秀活動団体の受賞理由は自然環境も政情も最も厳しいチャドで、住民や小学生たちと植林活動をし、実績をあげていると他の団体からの推薦が多かった、と説明があり賞状をいただいた。

◆チャドでの活動の前、延べ5年間、「パンアフリカ河川行」でアフリカの気候風土に慣れていた事が役に立った。各界のお偉方とおぼしき人たちの多いこの席で、その肩書きは忘れたが、鹿児島出身というこの人と私のこれまでやってきた事など雑談している時、上記の「始末に困る者」という言葉を知った。その後、「私たちは木を植えています」とのコピーを打ち出し世界中で木を植えている写真の看板とともに環境に配慮した製品販売でイオンは成長しライバル企業を追い越していった。

◆1992年にブラジルで地球環境サミットがあり日本の奥様方にもこの方向は受けたのだろう。助成を出す方、いただく方の両者にメリットのあるうまい金の使い方。今では、環境、エコへの配慮を言わぬ企業は珍しいくらいになったが、イオンはその先駆け企業の一つだった。私は5年で「緑のサヘル」を後輩に引き継ぎ、ナイルへ転戦したが、緑のサヘルはその後も各種助成団体から賞を受け、その度に高橋一馬代表から連絡があった。

◆さて、「始末に困る者」で、思い出した。島国日本の首都東京のとある喫茶店で、1979年7月、島国の枠に収まりきらない「始末に困る者」たちが集まって会議とも自由放談とも何とも言えぬ熱気だけは発散させる集まりがあった。私は農大探検部の(3年生がいないため)2年生チーフリーダーとして参加していた。一番の年少(20歳)で片隅でだまって、こんな人たちがまとまるのかなと、熱気はわかるが内容はよくわからず小さくなって座っていた。

◆探検,冒険、辺境好きの日本の枠にはまらぬ人たち(個性というより灰汁の強い強者が多かった)が、その行動の記録を残していこうと始めた集まりに「地平線会議」の名前がついたのが1979年8月。その頃、私は農大探検部の仲間たちと日本一の激流と言われる黒部川の全流航下に挑んでいた。2年後の1981年には、農大探検創部20周年記念活動として、3大河川オリノコ、アマゾン、ラプラタをつないでカヌーで南米縦断をする計画があり、その訓練で日本中の川下りで経験を積んでいた。

◆日本最大の激流、黒部はやっておかなければならぬハードルだった。その源流の鷲羽岳から海までの全流下りを決めていた。上の廊下、下の廊下と言われる北アルプスの立山、後立山連峰に挟まれた両岸断崖絶壁の峡谷が黒部の核心部にあり、沢登りとしても最高級難度にランクされていた。私たちは、川下りの訓練とともに沢登りの技術向上のため山岳部の先輩に頼んでロッククライミングの訓練もした。

◆丹沢、奥多摩、三つ峠、谷川岳一ノ倉沢とグレードアップして、黒部川に挑戦した。上の廊下の沢登りは事前訓練の成果で難なく遡行し、源流の鷲羽岳から下りはじめた。上の廊下は急激な増水に合い危機一髪な時もあったが完全航下、下の廊下の核心部を巻いたが、なんとか富山湾まで下った。

◆この川下りで、命を落としてもおかしくない場面は何度かあった。その後も、オリノコ河口の森でピストル強盗、パタゴニアのパイネ川の増水で橋が流され泳いでわたった時、コンゴ川で蜂の群れに30カ所以上さされた時、チャドで反政府軍の攻撃、四万十で軽トラで25m落ちた時。危機一髪は数えたらきりがない。

◆政治の迷走、経済競争の激化と貧富の格差の広がり、地球環境の一層の悪化。このままだと2020年代は多様な要因が限界を警鐘している。「始末に困る者ども」の出番がくる気がする。ただ、あえて危険を求めるのはただの無謀。次の2人の言葉をいつも頭においている。「困難は好きだが、危険は大嫌いだ」(ガストン・レヴュファ)「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」(孫子)、それでも「命は死ぬまでは持つのだから惜しんではいかん」(チャドの接ぎ木の師匠)とも言われた。

◆「事を成す者は、貧しく無名で若くなければならない」と毛沢東は言った。地平線会議は貧しく無名で若い人が、「始末に困る者」に変態する揺籃器のような場。始末に困る若者たちよ出てこい。(土佐・四万十川住人 山田高司

南三陸町で4回目の「子どもお泊まり会」と、被災地の「今」

■年末、3か月ぶりに宮城県南三陸町を訪れた。目的は仮設住宅集会所での「子どもお泊まり会」だ。住宅の目と鼻の先にある集会所での1泊2日。みんなでごはんを作って食べて、遊んで、お風呂に入って、寝る。それだけのことだが、子どもたちはとても楽しみにしていて、気づけばもう4回目の開催になった。

◆今回の参加者は、小学生8名。避難所にいた頃から2年近くの付き合いになる。手打ちうどん作りなどの企画も好評だったが、子どもにとってはこの場にみんながいることが一番うれしいようで、広いスペースで友達と思いっきりじゃれあっていた。ある子は「引っ越してきたの!?」と聞いてしまうくらい沢山の荷物を運び込み、昼間からベッドを作り、ライトや時計、ぬいぐるみ、カーテン、ハンガーなどを並べて見事に自分の部屋を作ってしまったのには笑った。寝る前の恒例・こわい話のときは身を寄せ合ってキャーキャー大騒ぎ。楽しい時間を過ごした。

◆子どもたちには、この故郷で仲間との楽しい思い出を多く作ってもらいたい。大げさだけど、こういう経験が町の未来にも何らかの形でつながっていくような気がする。この会は復興住宅ができるまで続けるつもりだ。今回は6名のメンバーで向かったが、江本さん(通称:ドラえも〜ん)も参加し、子どもたちにモンゴル語を教えたり、朝食にエモサンド(ホットサンド)を作ってくれた。今後も新たなメンバーを交えながら、東北に通い続けたい。

◆久々の沿岸部では、JR気仙沼線の代わりに8月から運転を始めた赤い車体のBRT(バス高速輸送システム)が目についた。不自然にガソリンスタンドが林立しはじめた地区は、建設中の三陸道の降り口予定地だ。中でも気になったのは、道端のコンクリートの山。いま、家の基礎の取り壊しが本格的に進んでいる。住人の方々はこれまでは自宅の場所がわかったし、ここが玄関で、居間、風呂場……と生活の様子も感じられていたが、それがただの平らな土地になるということは、やはり胸につまる思いだろう。

◆先ほどの仮設住宅に住む50代のYさんの所にも、先日、基礎の取り壊しに立ち会うかという電話が町から来たとのこと。高齢の父の「土地はなんとかならないか」という声に、どうにもできずにもどかしい。Yさんのご自宅は、40年前にご両親が頑張って土地を購入し、そこに建てた家だったという。跡地は買い取られて農地になる予定だ。埼玉の中学校に戻り、3学期最初の授業で、この現状について生徒たちに話をした。同じ時間に同じ日本でこんなことを思っている人たちがいることを、心の片隅においてもらいたい。

◆もう一つ考えさせられたのは、住人の「今」の時点での命の安全・安心が本当に守られているのだろうかということ。昨年の12月7日に起こった、東北地方で最大震度5弱の地震。三陸沿岸部では津波警報がでた。17時半頃だったため、親が仕事にでており、子どもだけで家にいたケースも多かった。

◆お泊まり会に参加した子のうちの1人はリュックに荷物を詰めて外に出てきて、行政区長に「逃げないの?」と言ったという。だが、区長としては、住人の多くが年配者という状況の中、避難場所に指定されている吹きさらしの駐車場に誘導するのは躊躇して当然だろう。未だに難しい判断をせまられる現場のリーダーがいるという現実が気になる。結局住人たちは寒空の下、駐車場に2時間避難していた。

◆「防災より減災」。12月の地平線報告会でも改めて感じたことだが、目の前の大切なもの、いま本当に必要なことを見逃さずに、復興が進むことを願う。(新垣亜美

高山では福祉と医療、エネルギー、そして東北関連の映画上映ラッシュです

■あけましておめでとうございます! 本年もよろしくお願いします! 高山は雪のお正月です。真冬日(最高気温が0度にならない日)が続きます。

◆年末の報告会、残念ながら参加できませんでした。昨年も、東北へ行けないまま終わってしまいました。身の回りのことにあたふたする毎日ですが、高山で「石巻市立湊小学校避難所」の上映会が決まりました。

◆昨年唯一参加できた8月の報告会。そこで藤川監督にお会いして、映画も観て、上映会できるといいなぁと何気なく思っていたら、急展開。藤川監督の高山在住の友人が上映実行委員会を立ち上げることになり、お手伝いすることとなりました。当日は、ペットレスキューや被災地の写真展、東北グッズ販売も行うという大きなイベントになりそうです。

◆ところでこの半年、高山では福祉と医療、エネルギー、そして東北関連の映画上映ラッシュです。人口10万人ということですが、中心部に住んでいるのはほんの6万人の小さな町。それでも、様々な立場の人たちが、映画という媒体を利用して情報を共有しようと試みています。観たかった作品ばかり。協力できるところはお手伝いしながら、「どれもこれもに関われるのが地方のいいところだな」なんて考えています。3月3日日曜日。藤川監督待っています!(飛騨高山住人 中畑朋子

2013・ぼくらは「山河一体」

森田靖郎

 ドイツの脱原発には、ドイツ人気質が大いに関係していると、ドイツ取材でわかりました。森で培われた高度な理性が生む「倫理」が、脱原発へと駆り立てたことは報告会で話しました。ドイツでは、多くの都市で公営の「都市事業団」が電力やガス等生活インフラを供給しています。ベルリンにはそれがありません。そこで、ベルリン市民が2万人の署名を集め、州条例の制定を求める市民発議によってベルリン市民エネルギー会議(BET)をつくり「電力を自治体に委ねてしまわないで、市民が関わる仕組み」を築きました。

 「地域のエネルギーは地域の住民が決める」というベルリンの行動が、3・11後ドイツ各地で広がり、原発の廃止か存続かが国民的運動に発展しました。その正念場となった議会選挙がシュトゥットガルトで行われ、「緑の党(グリユーネル)」が与党のキリスト教民主同盟(CDU)を破り、脱原発の口火を切りました。その後、主要都市で雪崩現象的に、脱原発派が多数を占めました。物理学者でもあるメルケル首相は原発擁護派でしたが、フクシマの事故後、「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」を設立します。

 その結果、原子力法を改正し、国内の操業中の原発17基をすべて2022年までに全面停止すると決めました。決めゼリフが「倫理が、科学・技術や経済より優先する」でした。倫理とは、思うに、人間の知恵と学習に基づく無形の信義ではないだろうか……。

 ドイツが「卒原発」に至るまでは、じつは長い道のりです。環境破壊で森が傷つくと人々は怒り、「緑の党」が立ち上がります。さらに、チェルノブイリの事故(1986)によって、6億人の人が放射線被災に遭い、ドイツのある州では先天性奇形が3000人も増えました。ドイツ人の倫理観に反するとして、シュレダー政権時の02年に、30年までに「原発ゼロ」を決めましたが、メルケル首相は8年短縮し、卒原発へと動き始めました。

 『チェルノブイリのオオカミたち』(北ドイツ放送、2011)というドキュメントをベルリンで観ました。事故後、人間を拒否した廃市チェルノブイリで、野鳥が廃墟となった住宅のベランダに巣をつくり、ヒツジや牛、シカたちが野生化して、どこから嗅ぎ付けたのか人間が敷いた境界線を超えてオオカミの群れが草食動物を狙っています。人がいない野生化した動物王国で自然界の食生が甦ったというドキュメントは、皮肉な末路をぼくらに教えてくれました。嗚呼!人間はなんて無力なのか。

 ドイツ人は放射能には、とくに過敏です。東西冷戦の緊張と肌身で向き合ったベルリンでは、核シェルターがいまも残されています。ヒロシマ、ナガサキを体験した日本人に対して、ドイツ人はフクシマ後「日本人が理性を保っている」ことへの驚きとともに「もっと怒りを!」と人間性をむき出しにしないことに疑問を感じています。フクシマ後最初の総選挙(2012・12・16)の結果、「脱原発」を先送りにして、目先の「経済」が優先されました。原発、核のゴミ処理……ぼくらのツケを、いずれ何とかなる、誰かがやるだろうと、「未来神話」という「空談誤国」(空しい言葉で国を誤る)で、後戻りしました。

 韓国のソウル特別市では「まず原発を一基減らそう」とわかりやすいスローガンで市民がボトムアップ(下から上へ)で「縮原発」を決めています。核クラブのフランスでさえ、「核エネルギーが安価だという神話の崩壊」を認め、オランド政権は25年までに原発依存度を50%(現75%)へと縮原発を決めています。卒原発までにはすくなくとも30年はかかります。「民意を反映しない政治は専横的」と、ドイツ人は「日本で起きた原発事故は他人事ではない。その解決策を共に考える義務と心構えがある」と、「ネガワット」と呼ばれる大幅な省エネを進め経済成長も維持することを実証しました。その脱原発市場で、価格破壊で市場を引っ掻き回し存在感を見せつけたのは中国人です。

 「地平線通信」では長野さんが絶妙なイラストと見事な短文で、次回報告会を紹介してくれています。ぼくにとっては、長野さんのページが「報告会の序説」であり、そこから「ぼくのワールド」は始まっています。

 「森に学ぶ“終わり方”の哲学」と表した長野さんは、ドイツと森と原発というテーマにとどまらず、「ドイツ三角、中国二極、日本人は円(まる)」とぼくの稚拙な日本人論を、見逃しませんでした。長野さんはさすがに「聞き出し上手」ですが、少し補足しておく必要にかられました。

 日本はモンスーン気候で四季があり、四季には初・中・晩と細かく分かれるほど空気感と生活感にあふれ、「わび」「さび」「しぶみ」などの感性を磨き上げてきました。一日のなかにも四季があり、時間帯によって変化があり、変わり目には霧、靄(もや)、霞などに包まれ、一瞬の「間」の変幻を見逃さない、それを味わう日本人独特の「無常感」を和歌や書画などで日本の固有文化をつくりあげてきました。

 ゲルマン人が森の中で実体感を求め続けたのとは違って、自然の中に身を委ね、安らぎを覚える美学を日本人は生み出したのです。日本人の自然観は森でも畑でも自然に生きる動植物を「生きもの」として生命を思いやることから生まれました。道端で屋代を見つけると拝み、富士山や山の姿を見ると思わず合掌する、ご利益(りやく)なのです。日本人は、自然の世界を「万神殿(パンテオン)」と神が集う場所だと考えてきました。花一輪、虫一匹にも、万物に神が宿る「八百万(やおよろず)の神」として八方美人的な、まろやかで限りなく丸に近い「円」を「縁」と結びつける倫理観を生み出してきました。ドイツ人が父と子の精霊の三位一体なら、日本人は「山河一体」です。

 松尾芭蕉がもしいまの日本を旅し、福島県浜通りや敦賀半島の「原発銀座」を見たらどのように表現するでしょうか。「現代の造化(人間がつくった自然)」と言うかもしれません。自動車でも飛行機でも原発でも高度成長を一途に崇め、「富」を神の依代(よりしろ)としてきた日本人だからこそ、「安全神話」という「東大話法」を真に受けたのかもしれません。

地平線通信“印刷特別任務”の美味な見返り

■毎月行われている地平線通信発送作業の常連メンバーになっている僕は、比較的時間の都合がつくこともあり、ここ数年は印刷と折り機の作業も請け負っている。夕方4時に森井祐介さん宅に立ち寄り、レイアウト作業でほぼ徹夜状態だった森井さんからホヤホヤの版下と印刷用紙(2000枚程度)を受け取って、歩いて10分足らずの新宿区榎町地域センターへと向かう。

◆この時点では、僕の手元にはフロントページの版下がない。江本さんがこの瞬間にフロント原稿を執筆しているからだ。この日のうちにクロネコメール便で受け付けてもらうには、出来上がったほかのページを優先して刷り、印刷作業を円滑に遂行しなければならない。そんな程良い緊張感のなか、印刷室で一人、刷り上ってゆく印刷機の音を聴きながら、まだインクの乾かない皆さんの熱い文章に目を通しながら進める作業は、いつしか僕にとっての至福の時間となっている。

◆やがて村田忠彦さん、岡朝子さん、三五千恵子さんらのサポートを受けつつ、大方が刷り上がった頃に森井さんがフロントページを持って現れると、バトン繋ぎのミッションは完遂され、調理室での折り込み作業では皆でわいわい世間話に花が咲くのだった。

◆風の冷たいある日の発送作業で、「最近、おでんに目がなくて……」と江本さんに漏らすと、すかさず「おでんも良いかもね。今度作ってみるから家においで」とのお誘いが。“いつも印刷ご苦労さま”そんな江本さんの心遣いに甘えて、年の瀬の四谷三丁目にお邪魔する運びとなった。

◆小さなボリュームでクラシック音楽の流れる店内のテーブルに着き、暫し麦丸と戯れて挨拶を交わし、ビールを嗜む。テーブルに山積みされた店主の葉書や資料を横に追いやって出来たスペースに、大きな鍋で5〜6人分はあろうか、幻の“エモおでん”が目の前に!!! まずは汁を一口……。「んまい〜!!」。同席していた久島さんは、ジャガイモを見つめ、「全て面取りしてある……」と唸る。

◆江本さんは、おでん初挑戦にして「何となく勘で作った」というが、昆布でだし汁を取り、具材をそれぞれ下拵えし、火を通し、3日間とろ火で仕上げるクオリティは、調理の技術に長けていなくては辿り着けない経験値の成せる業だろう。満遍なく味の染み入ったおでんを頬張っては、笑みがこぼれ落ちる。

◆僕の経験上、この味は大好きだったおばあちゃんの味に限りなく近い。江本さんは僕のリクエストのために3日間もとろ火を……。そう想うと一層に美味しくなる。やっぱり料理への一番の調味料は愛情なんですね〜!!! 勉強になります! こうして“エモおでん”の除幕式は“鉄板”の太鼓判のもと、正式に執り行われました。あぁ、印刷作業やってて良かった〜。

◆この場をお借りして、印刷作業のスタッフを大募集したいと思います。毎月中旬あたりの水曜日になりますが、夕方お時間の都合がつきそうな方はご連絡をお待ちしています。歴代の刷り師(三輪主彦さん、関根皓博さん、森井祐介さん)から受け継いだ伝統技術を、手取り足取りで伝授いたします。簡単かつ楽しい作業ですよ^^。そして、皆さんも思い切って江本さんにエモメニューのリクエストをしてみては!? きっとご馳走さまの笑顔と引き換えに、江本さんは応えてくれることでしょう!!!☆

※追伸:江本さん、次回のエモおでんには是非とも「ちくわぶ」をお願いします〜!!(津軽三味線奏者 車谷建太


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。ただ、時に記載ミスも生じます。万一、漏れがありましたら必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
又吉健次郎(5000円)/小山田美智子/宮崎拓/ 花田宏子(10000円)/小池志津子/新保一晃/ 戸高雅史/那須美智(10000円 通信いつも楽しみに読んでいます。5年分の通信費を送ります)/中島恭子/山畑梓(10000円)


どの記録からも皆が楽しみながら「身体を張っている」ようすが、手に取るように伝わってくる地平線通信

■地平線通信が2012年に、とうとう通算400号を超えた。同じころ、田村善次郎さん・宮本千晴さん監修の『宮本常一とあるいた昭和の日本』(農文協)全25巻が出そろった。手元にある範囲だが、地平線会議がまとめた各種の通信の記録とこれを並べてみると、継続は力という表現がごく自然に湧き上がってくる。そして何やらとても懐かしい。

◆門外漢の自分が地平線会議の周辺にいて毎月の通信を待っているのは、どの記録からも皆が楽しみながら「身体を張っている」ようすが、手に取るように伝わってくるからだ。知的好奇心を原資として個人の力量に挑戦する。国の中であれ海を越えてであれ、限界を超え一歩でも前に行こうとする。そんな可能性に向かって挑戦する姿から元気をもらえる。

◆403号のあとがきに江本さんが、「地平線会議は行動的な青年たちの記録を意識してやってきたが、その青年たちもシニアになりつつある」とお書きになっている。しかし男女の区別なく、年齢の高低にかかわりなく、通信の文章は面白いし、やっていることがカッコいい。若手の活躍だって新手が途切れることなく続いている。地平線ならではの「伝え、統べる」道が示されているのだろう。

◆同じあとがきで江本さんは、角幡唯介さんの『アグルーカの行方』を推薦された。自分もため息をつかされた1冊である。そこで地平線会議の野次馬としてはこの際、池田知晶『ヒッチハイク女子、人情列島を行く!』(徳間書店)を「ぜひに」とお勧めしておきたい。これはハタチの女の子が1年4か月をかけ、北海道から沖縄まで単身、すべて無料の宿泊を求めながら、ヒッチハイクしまくった記録である。前記『昭和の日本』第25巻には田中雄次郎さんの「日本縦断徒歩旅行」という67日間の日記が載っている。ぜひヒッチハイク・ガールのそれと比較してみてほしい。

◆そういえば同じ第14巻に、宮本常一さんの「津波・高潮」という文章が載っている。そこには、近世300年の間に22回も巨大な津波が日本を襲っていること。なかでも三陸地方の津波では1896年に2万2000人、1933年に3000人もの死者が出たことが、くわしく書かれている。19世紀末の日本の人口は4000万人ほどでしかなかったことからすれば、明治の津波はさらにすさまじい。

◆東北大震災から間もなく2年、地平線通信の中身にある種の「凄味」を感じている。1979年以来の会議と通信の歴史に、これからどんな新しいページが加えられるのだろう。(亜細亜大学教授・小林天心


地平線カレンダー 2013 めでたく完成! 残部希少なり

毎年ぎりぎり発行が話題になる「地平線カレンダー」、今回は12月の地平線報告会でめでたく登場しました。今回も好評です。

◆地平線カレンダー 2013─ 樹水雲生回憶図絵 絵:長野亮之介/表紙& DTP:丸山純 発行:地平線会議/発行日:2012年12月22日

以下、長野亮之介画伯の「絵師啓白」から。
「机の前に6つのキャンバスを並べ、掴みかけては消える光景を追いかけながら、6点をほぼ同時並行で描きました。魅力的な都市や街の思い出も沢山あるはずなのに、筆の先に現れたのは樹木や水、雲、そしてさまざまな生き物たちの姿です。「回憶」とは、中国語で「思い出」という意味。どの国でも、固有の自然のなか に暮らす人々の姿が一番の思い出として残っています。」
★判型は例年と同じA5判横、全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。送料は6部まで80円。12部まで160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。葉書での申し込みも受け付けます(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。
★お支払いは郵便振替で、カレンダーの到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「地平線カレンダー2013代金+送料」と記入してください。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。地平線報告会の受付でもお支払いいただけます。


地平線カレンダー讃歌

記憶を辿り 想いが色になる 記憶ってどこにあるのだろう あのときのあのこと 森はどこにあるのでしょう こんなにたくさんの羊はどこにいるのでしょう 蓮の葉に降りそそぐしずくたち あのときのあの青と かのときのかの青は こんなにもちがうのか おもいでの息吹たち  どこにあるのかわからない記憶という まさにある「かの地」へと旅立つ まさに行く まさに観る 記憶を歩く体感が リアリティを生む 画家は「強い事実体感を描いている」 そうか これは目撃の絵だ だから 実写映像よりも強靱なリアリティが立ち上がる 情熱が輪郭を結び 人の気配が色となる ワクワクはこういう色をしているね ドキドキはこういう形をしているよ キラキラはこういう線なのだな 「こんなんだ」というリアル 「画家の自由」は間違わない 日本の民はもっと自分を信じたらいいのではないか この絵のように「自信を持って」 さわやかに 鮮やかに 思い出は たったいま彼方からやってきたばかりのリアル現実 此処は彼方 彼方は「はるかなる 今 此処」 今年は 毎月 画家の絵を見ながら リアルに生きよう 「こうだ」と言おう それにしても なんと あたたかい絵だろう やわらかく いごこちがよい(緒方敏明 彫刻家)

ネブリーナ峰、倒木に阻まれ登頂ならず

■10月下旬から12月初めまでギアナ高地に行っていました。ブラジル最高峰のネブリーナ山に登るためです。25年前にブラジル側から登ろうとして、一度失敗しています。ブラジル側からは道があるのですが、今回は道のないヴェネズエラ人も誰も登っていないというヴェネズエラ側からの登頂に臨みましたが、チェンソー、斧を100mごとに使った倒木だらけの水路で難航し4-6日の予定が11日かかり、あと3日で頂上というときには食料が足らず、諦めて帰りました。帰りはまたまた川の水が減り、今度はチェンソーが不調で、斧だけで倒木切りをしながらやっと脱出できました。食料はなくなり、ナマズその他の魚、ワニなどを獲りながらの期間でした。(関野吉晴 1月16日朝)

「愚者の楽園」に帰って、わずか30秒で31万人が逝った「ハイチ大地震の今」を思う

■相変わらず、平均すると毎年およそ半分は海外で過ごしている計算になる。日本から離れて、遠近法でこの国を眺めてみると、思い浮かぶのはただ『愚者の楽園』という一言に尽きる。新春を言祝ぐつもりでも、とてもそんな文章を紡ぐ気にはなれない超末期的な今日この頃である。

◆さて、あれから早や3年が過ぎた。といっても、大方は何の話だか見当もつかないだろう。1.12といえば、日本全国で15人(大幅に推定)ほどのみが気にするハイチ大地震の日である。わずか30秒で国内総生産の60パーセントが消失し、31万6000人が犠牲となったあの大惨事から3年目のこの日、日本の新聞にはベタ記事すら掲載されなかった。しつこくも、まだ忘れてはいないという意思表示を含め、この場をお借りして現状のさわりだけでもお伝えしておきたい。

◆150万人を越える被災者は当初から避難暮らしを強いられたまま、ほとんど放置、というよりは廃棄され続けてきた。飲料水の汚染によるコレラの蔓延や、強烈なハリケーンの直撃にもかかわらず、どこにも逃げる場所のない人々はただ耐えるしかなかったが、大統領官邸前にまで広がっていたテント村は昨夏以降急速に規模を縮小し、現在はほとんど空き地状態となっている。といっても仮設住宅にお引っ越しなどというおめでたい話ではなく、単に郊外に捨てられただけ。その数は35万人にのぼるが、この3年間で建設された住宅はわずか1250棟に過ぎない。

◆一時期は1万3000を数えた世界中からの人道支援組織もほとんどは撤退、もしくは大幅に規模を縮小している。つまりは、ハイチにおける援助活動にもすでに旨味がなくなったということだ。目ぼしい利権を多国籍企業に独占されたあと、展開するのは露骨なポスト震災ビジネスだけで、被災者の弱みに付け込んだ詐欺恐喝まがいの日常が蔓延する荒れ果てた惨状のみが広がっている。

◆話は替わるが、昨夏8月の1ヶ月ほど、9年ぶりでペルーを訪れたドクトル関野氏と行動を共にしていた。この3月から上野科博で開催されるグレートジャーニー展で展示する、インカ伝来の吊り橋をアンデスの村で調達したり、40年前からの付き合いとなるトウチャン一家を、アマゾン源流部のジャングルに訪ねたりしてきた。これまでドクトルの著書の中で見た人たちが、すっかり歳をとりながら目の前でしゃべっているのは、何とも不思議な体験であった。

◆それはさておき、その現場にほど近いペルーとブラジル、ボリビアの3国国境に当たる村に、ハイチから流れてきた被災民100名ほどが行くあてもなく溜まっている、というニュースがペルーのテレビで放映されていた。震災直後に隣国ドミニカ経由でエクアドルに逃れた難民たちで、何とかブラジルに入国して働きたいと、陸路でペルーを縦断し国境の村に約半年がかりの旅でたどり着いたという。といっても、実質的にはペルーに不法滞在している観光客という立場。ブラジルの入国ビザも就労ビザも持っていないため、どこにも行くあてのないまま、日々を無為に過ごしている。親切な村人に寝場所と食事を提供してもらっているが、強制退去は時間の問題だろう。

◆故郷を失った人々は、絶望の淵をたどりながらそれでも明日を夢見ることを止めない。地獄のような国に生まれ育った人々にとって、絶望などという贅沢なオプションはあり得ないのかも知れない。無意味さを思いながらもこの国の状況と較べてしまうのは、政治の無能やら既得権益の強固な壁やらによって翻弄される、愚者の楽園の住民という共通項を見せつけられるからだろうか。(カーニバル評論家 ZZz


【先月号の発送請負人】

 森井祐介 車谷建太 村田忠彦 岡朝子 古山里美 石原玲 杉山貴章 江本嘉伸 久島弘 中山郁子 石原玲さん、最近はまた受付仕事で頑張ってくれているのでありがたいです。皆さん、ご苦労様でした。


2013年新春のポストから

夏帆25才。四半世紀「生きる喜び」を写真展にしたい

■新しい年が始まりました。娘の夏帆(なつほ)25歳です。重い脳障害を持って生まれ、5歳まで生きられるだろうかと語っていたのが、嘘のようです。四半世紀「生きる喜び」を写真展にしたいのですが、この頃の夏帆は「いつ入院になるかわからない」レベルになり、なかなか計画が立てられず、です。そこでまず自費出版で写真冊子を作ろうと鋭意準備中です。

◆昨年は夏と秋に入院しましたが、いつもの小児科が満床で他の科に間借り入院でした。2回の入院で3つの科に「病棟難民」し、3回の医療過誤に遭いました。そのひとつは、夜中に夏帆が「あ??」と小さな声をあげ、私が起きて見ると、酸素マスクが顔からはずれていました。酸素モニターも指から外れ、警告音が鳴るナースステーションには誰もいなかったのです。もし、私が気づかなかったら……「植物人間になっていただろう」とのことです。

◆人の命を守ることが、こんなにも難しい社会になってしまいました。宮城の島々からは私が撮った写真のお礼にと、牡蠣や海苔が届きます。それは、「生きている。また来てね」という声に聞こえます。(河田真智子

ついに「清ら海ファーム通信」発行!!

■あけましておめでとうございます。1月1日は、うちの裏から初日の出を見ました。例年沖縄は天気が悪いのですが今年はいい天気で、港には初日の出を見に本島からたくさんの車が集まっていました。ここは旧暦なので正月の雰囲気はなく、静かな元旦でしたよ。

◆さて、冬は蚊が少ないので山仕事がはかどります。3日には、とうとう念願だった、牧場から旧比嘉小学校への山道を開通させました! 校庭は草ぼうぼう、台風で幼稚園校舎のトタンがめくれあがっていました。花壇も荒れ果て、さびしい気持ちでいっぱいになりました。

◆今年、体育館と古い校舎の取り壊しがあるんだそうです。跡地利用はまだ決まっていないらしいです。というか、情報がないのでなんにもわかりません。取り壊されるまでは、比嘉の子供たちを連れて行ったり馬を連れて行って草を食べさそうかなと思っています。

◆ところで、今年から通信を発行することにしました。その名も「清ら海ファーム通信」です。年4回発行予定。とりあえず第1号は25年1月1日発行、A4裏表です。会費は年間1000円で、通信の切手代と、ヤギや馬のために使わせてもらいます。うちの牧場を応援してくださっている方や、ヤギ飼いの仲間などに購読してもらいたいと思っています。

◆江本さんは、すでに会員ですのでよろしく! あと、長野さんも勝手に会員にしちゃいました。通信と会員証を送りますのでよろしくお願いします。では、また様子を見に遊びに来てください。あ、会費は、来た時でいいですから(笑)。では今年もよろしくお願いします。(沖縄・浜比嘉島住民 外間晴美

★確かに会員証送られてきました。浜比嘉島で頑張っている仲間のためにできるだけ多くの皆さん、会員になりませう。直接連絡とりにくかったら、会員に指名された江本か長野亮之介宛にどうぞ。(E)

ことしも、子どもたちと海と山を行き来する日々

■地平線会議・江本さんへ 地平線通信いつもありがとうございます。ひとりの人の旅手記や市民活動報告から、はっと気づかされたり、じっくりと自らを探っている哲学的な文章に出会うことができ、毎回、楽しみに読んでいます。

◆私たちは母子で葉山在住となり3年目。平日は葉山で、小5、小2の娘たちの学校中心の日常を過ごし、週末は山中湖。標高差1000m、海と山、街と自然、どっちもよくって、毎週、車で降り立つ地点で、戻ったことが嬉しく生活しています。

◆夫のマサ(登山家、戸高雅史)は山ガイドや講演活動の合間に、どちらかのベースに合流します。彼は登山道一直線の山屋でしたが、海で泳ぐのが、たまらなく気持ちいいらしく、葉山にいる時はほぼ海水浴。4月から11月まではフツーに遠泳し、厳冬期はボルダリングに集中。新しい世界に目覚めたご様子。

◆生業の「自然学校」は九州、関東、長野、福島と各地で開いています。各土地に暮らす友人たちの営みに招き入れてもらいながら、コースを開催していきます。地元の人たちの自然観や生活観を尊重しながら、キャンプや自然体験を提案していくと、なぜか、とても新鮮なコラボレーションとなり、お互いに感動的な、思ってもみなかった経験を分かち合える機会になっています。季節の移ろいに、相手を想い、呼び合うように訪ねる土地があることは、しあわせなことだと思っています。

◆思えば、ヒマラヤへと駆けていた時期と、さほど変わらない感覚で日常を生き切ることができるようになってきました。子どもが生まれてからは、ヒマラヤには通わなくなりましたが、冬の富士山でそりをしたり、西丹沢の源流部に入ったり、ダイナミックな自然そのものに触れられる場に、親子で遊びにいくようになりました。

◆子どもを連れるとは、生活の延長線上をいつも背負っていくこと。だからこそ、日常を切り離すことなく、自然を感じ、子どももわたしも、なにも特別でない、それがふつうの、無限の広がりに、自分を解放していくことができるようになってきました。子どもとゆくことは、とても楽しいことです。

◆久しぶりに江本さんから電話を頂き、変わらない声にほっと和んだのも束の間、近況を書くことになり、一転して、ものすごいプレッシャーです。江本さんのキラッと光る導きに、素直な気持ちで書いてみました。そんな時間を再び持てたことに感謝します。マサは本日、久重の登山ガイドから山口下関へ移動し講演です。私は子どもと少林寺を習いにいってきまーす。(葉山・週末は山中湖住人 とだか ゆうみ

今年も「どうせ出かけるなら東北へ」

■太平洋がバーンと見える部屋。そこで2013年を迎えました。12月28日の夜、横浜で仕事を終えたダンナをマイカーでピックアップして東北道を北上。石巻からは海岸線に出ました。石巻では再開した石ノ森萬画館を見学。2月11日までの特別展では震災時のラジオと新聞の活躍ぶりを伝えていて、常設展とともに見応えがありました。3.11の生きるか死ぬかの厳しい情景が改めて頭に浮かぶようです。

◆国道45号など海岸沿いを辿るとまだまだ津波の被害が生々しく残る場面にも多く遭遇します。でも、震災後、何度か同じルートを辿っていますが、来る度に新しいお店などができていて、そういうのをみると嬉しいし、復興・再開したお店巡りも楽しいものです。女川の寿司屋では女川で水揚げされたネタを使った美味しい握り寿司をお昼に食べました。

◆前は何にもなく寂しかった雄勝にも、硯屋、そば屋、商店ができていました。気仙沼で泊まった旅館は港から道を1本奥に入った場所で、当然津波にやられていますが、幸い建物が残ったので営業が再開できました。女将さんから津波の体験談も聞き、本当に助かってよかったと、私までドキドキしてしまいました。また気仙沼の復興屋台の居酒屋に入りましたが、21歳の若い店長が一人で切り盛りしてました。お店のこと、気仙沼のことを冷静に見据え、未来を描くこの若者に、こういう若者がいるなら気仙沼はきっと大丈夫!と思えてきます。

◆さて、海上に雲はあったものの美しい初日の出を見ることができた2013年の始まり。今年も「どうせ出かけるなら東北へ」のスローガンを胸に、ダンナを大切にしつつ、素敵な年にしていきたいと思います♪(旅する主婦ライダーもんがぁ〜こと古山里美 元旦 岩手県普代村の国民宿舎くろさき荘にて)

ノロわれた話

■衆院選での自民党大勝に、いったい誰が勝たせるの?と怒り、微かな期待を寄せていた「琵琶湖のおばさま」の党の茶番劇にあきれ果ててノロイの言葉を吐いていたら、強力ノロ・ウィルスに襲撃されてしまった。3日間下痢と嘔吐と胃の鈍痛で苦しんだ。いわゆる感染性胃腸炎というヤツで、年末から全国的に大流行しているらしい。

◆罹ってしまったらとにかく水分を取って、身体に入った菌を上から下から出してしまうしかない。でもそうやって私の身体から出て行ったウィルスが別の人に取り憑いて、次から次へと広がってゆくので本当に厄介である。最大の予防法は手洗いだそう。石けんで指の股や爪の間、手首までしっかり洗えと言われるが、意外と盲点なのがすすぎである。きれいに洗うのはもちろんだが、それ以上に丁寧に流すことが大事なのだそうだ。

◆ついでにトイレの流しかたにも一言。流すときには必ず便器のフタを閉めて流してね。一滴の飛沫と侮るなかれ。とんでもなく強力な感染力なのだから。ところで、「洗い流す」と言えば、福島での放射能の手抜き除染が問題になっている。除染なんてできないよってわかってる人はたぶんたくさんいるはずなのに、原発被災の後始末はなんの解決もされないままなのに、国民の3分の2がアベのシンゾーさんを支持してるんだと今ラジオで言ってた。

◆株が上がったとか円安になったとか、それで「いいね!」って思えるのってなんなんだろう。ノロのことからいろいろ考えてしまう新年なのでした。なにはともあれ、みなさま今年も健康でご活躍ください。ウチの画伯ともども本年もよろしくお願いいたします。(長野淳子

今年はうっかり、フルマラソンに出るかもしれないし出ないかもしれません

■あけましておめでとうございます。昨年は年始から駅伝大会で汗を流し、出産以来控えていた夜の外出を解禁して報告会に参加し、知人からの依頼を機になし崩し的に仕事を再開するという変化の多い一年でした。母親をして、仕事をして、趣味のこともするとなると、とにかく時間は猛スピードに過ぎてゆきます。そしてたぶん、そのせいで「うっかり」ということをよくやります。

◆年末の「うっかり」の発端は、坪井さんとのランニング話でした。私はいつかウルトラマラソンに出たいので、少しずつ距離を伸ばせるようにしたいなどと口を滑らせ、坪井さんはだいたいこのような返答をしました。「少しずつなどと言っていてはいつまで経ってもできないので、とにかく出ることだ。俺も練習などはしたことがない」この言葉に私はうっかり感動してしまったのです。

◆そうだ。練習なんてしている場合ではない。とにかく出るのだ。翌日は三連休の中日にも関わらず、朝から原稿を書き、娘の世話をし、また原稿を書き、夫の世話をし、疲弊した脳みそにむち打ってまた原稿を書くという一日でした。その合間にリフレインする坪井さんの言葉。そうだ、とにかく出るのだ。そして向かった友人との忘年会で、私はうっかり「来年はフルマラソンを走る」などと宣言していたのです。

◆昨年中に出場した大会はいずれも、たかが10キロ程度のランニングでした。うっかりにも程があります。とにかくいろんな役割に疲れてマトモに思考が働かなくなっているのだろうと思われます。そうこう言っている間にもこだまするあの言葉。そうだ、とにかく出るのだ。出るのだ。出るのだ。……うっかり、どうしようもない話をしてしまいました。というわけで、今年はフルマラソンに出るかもしれないし出ないかもしれません。よろしくどうぞ。(菊地由美子

《ガンバ大阪の痛恨、ヴァンフォーレ甲府の驚異的昇格》

■皆さん、あけましておめでとうございます。ガンバ大阪がJ2に降格したおかげで今年はサッカー観戦の試合数が新記録を達成するのではないかと、密かに期待している岸本です。(説明:J2は試合数が多いのと、J1は土曜、J2は日曜開催で両方観戦可能なので)

◆昨年のガンバは開幕戦から負けが続き監督を替え、補強した外国人FWがゴールを決め続けても降格圏から脱出できず、最終戦にも負けてしまっては、結局本当に弱かったということなのだと、今は納得しています。

◆それに反して、江本さんの応援するJ2のヴァンフォーレ甲府は少ない予算から無名の選手たちで戦っているにもかかわらず「24試合無敗」という、驚異的な成績でJ1に昇格しました。大分の昇格と言い2012年はお金のないチームがJ1に昇格し、他のJ1昇格を目指すチームに希望を与えたのが良かったですね。

◆私としては来季のガンバ大阪が果たしてJ2で勝ち続けることが出来るのか、中心選手はチームに残ってくれるのか、サポーターはどれくらい減ってしまうのか等等、降格しても興味は尽きません。もちろん我が家では既に来季の年間チケットを申込済みです。今年は熊本や岡山、山形、札幌とアウェイ観戦に行けるのも楽しみです。その時は皆さん相手をして下さいね。(大阪住人・岸本佳則


新春特別レポート

私とその青年だけがゲルの上座に座っていることに気づいてはっとした

──11年半ぶりモンゴルに親友ターニャを訪ねて懐かしい夏の日々を回想する──

■大晦日の夜、成田からの直行便でウランバートル(UB)へ。モンゴルは11年半ぶり3度目、冬は初めてだった。外気はヒリヒリと冷たくこうばしい。街はクリスマスツリーだらけで、旧正月(今年は2月11日)なので1月半ばまで飾るという。深夜0時を過ぎた瞬間、街のあちこちで小ぶりの打ち上げ花火が上がり、新しい年が始まった。

◆元旦の朝、UB駅を鉄道で午前6時に出発。1年に1度運行する「初日の出列車」で、東へ95キロを2時間走ってハンガイに到着した。今回人に会うためモンゴルへの格安航空券を探していたら、4泊5日のホテルと3食つきで10万円をきるツアーを見つけてびっくり。そこにこの初日の出列車のチケットもついていたのだった。販売元のHISに安さの理由を尋ねると、創業者の澤田氏がモンゴルNo.1のハーン銀行株53%を取得して筆頭オーナーとなり、特別なコネクションがあるからだといわれた。

◆闇と星と青い雪原の中を光りながらゆったり進む列車は、まさに銀河鉄道だった。田舎の朝は-40度近くまで下がるので、焚き火の熱がありがたかった。この場所は初日の出鑑賞スポットになっているようで、百人以上集まっていたと思う。一直線の地平線から太陽がのぞいた瞬間、待ちわびた人たちが両手を上げ、幸せをみんなにふりまく意味をこめて「オーハイ!」と叫んだ。

◆2000年の夏。UBのアパートに滞在しながら、平日は語学学校へ、週末は草原へ出かけた。街にはパステルカラーのロシア風建築物が並び、道行く老若男女はみんな松ぼっくりの実を食べ歩いていた。日本に憧れる若者が多く、よく話しかけられた。街はのどかだったが、荒れている面も印象深かった。青空市場では、安い酒で悪酔いした男性同士が素手で殴り合い、どこへ行ってもマンホールチルドレンがいて、お金をせがまれ、断ると石を投げられた。

◆スフバータル広場で、ターニャという18歳の女の子と知り合った。父親がモンゴル人、母親がロシア人で、日本語の勉強が大好きだという。「来年は私の家族と一緒に田舎へ行こう」と熱心に誘ってくれたので、翌年夏もモンゴルへ行った。

◆田舎への道は、ロシア製のワゴン車に16人もの大人子どもで相乗りし、陥没だらけの道路をロデオのように激しく揺れて走った。出発から丸2日経つと野生のフタコブラクダが現れ、西南部のゴビアルタイ山脈にあるジャルガラン村へ着いた。山のゆるやかな斜面に、遊牧民のゲルが2つあった。

◆ゴビでは、ターニャの父親の従兄弟のツェデンバルさんと、奥さんのナンセルマーさんの家族にお世話になった。家畜はヤギ、馬、牛、犬がいた。朝は子どもたちに誘われて谷へ水をくみに行く。おもちゃのスコップやペットボトルのキャップで地道にすくいポリタンクに入れ、小さな背中にしょって、滑りやすい斜面の砂利道ではみんな自然に手をつないでいた。

◆昼は放牧。夕方にヤギたちが山の上から戻ってきたら、互い違いに並べて首を縄で固定して乳搾り。林で木を切ったり、砂丘の中の湖で泳いだり(誰も泳ぎかたを知らなかった)、ごちそうの日は男性の手でヤギを解体して、女性が腸を洗い血詰めのソーセージをこしらえ、ろうそくを灯しナイフ片手に無言で内臓鍋。骨の薄皮までしゃぶりつくして食べた。

◆子どもたちは10人くらいいて、男の子はモンゴル相撲の選手に憧れ、すぐにタックルしてくる。女の子は自分より小さな赤ちゃんを抱っこしていた。夜は天の川があまりに綺麗だった(「天の縫い目」という)。星がふるように流れ、そのたびに「私じゃない!」と子どもの声が聞こえた。人間は1つずつ空に星を持っていて、流れ星は誰かが亡くなる合図だからだという。

◆ターニャのお父さんがサイコロを転がし、「よし、今日だ」といった朝、総出でお墓参りへ出かけた。さらに高地にある石を積み上げたオボーに到着し、チーズなど乳製品をおそなえして、全員で歩いて時計回りに3周した。ターニャのおじいさんは勲章を授かるほどの銀細工の名手で、これは特別に作られた彼のお墓だった。UBから来た妻である76歳のおばあさんは、「来られるのはもうこれが最後」と泣き崩れた。

◆再び移動して別の山へ。眼下に真っ青な海が見えたが、水ではなく草原だという。むせるくらいに強い草の香りがするその場所で、おばあさんが突然でんぐりがえしをした。生まれた地点で3回回ると、1年間健康に生きられるそうだ。横では大人たちがせっせと石でオボーを作り、羊のくるぶしの骨を置いて、彼女のお墓が完成した。ターニャの弟のサーシャがお経を唱え、責任者に任命された。

◆ナンセルマーさんはかっぷくが良く、陽気でいたずら好きな女性。「ずっとここにいたい?」と彼女に尋ねられ、うなずいたら、ゲルの陰で友達と涼んでいた青年の前に連れて行かれた。「いい人だと思う?」とまた尋ねられ、今度は彼も一緒にゲルの中へ引っぱられた。どこからわいてきたのか大勢の人がどんどん入ってきて、重たい銀の杯で酒を回し飲みし、薄茶色い瞳の年配の男性が素晴らしい声で歌い上げた。宴が進み、ふと見ると、いつもにぎやかなナンセルマーさんが目を真っ赤にして涙をぬぐっている。おかしいと思い、私とその青年だけが上座に座っていることに気づいてはっとした。次は口づけとはやしたてられて逃げてきた。

◆誰と誰がつきあったとか別れたとか、田舎の妻を捨てて街の女と結婚したあの男はそれもだめになり本当にどうしようもないとか、人が集まるとそういう話ばかり。「あの子の父親は誰かわからない」という会話も何度もあった。夜這いの習慣があって、男性は目当ての女性を見つけたら、入口から何本目のオニ(ゲルの屋根棒)の下に彼女のベッドがあるか、昼の明るいうちに確認しておくという。

◆ところがいざ夜になると、間違えて母親の布団にもぐりこんでしまうこともあると笑い話になっていた。深夜に訪問者が来ても、ほかの家族は寝たふりで知らんぷり。妊娠しても誰の子なのか特に聞かないそうだ。知り合った56歳の遊牧民女性は、夫に先立たれてからもどんどん子どもが生まれ、13歳になる11番目の末っ子を溺愛していた(長男は40歳)。

◆激しい嵐の夜は緊迫した。ツェデンバルさんは銃を持って長男の16歳バートカを連れ、朝まで帰らなかった。嵐でパニックになった家畜を狼が狙っていたので、トラックの座席から夜通しで見張る。翌朝は濃い霧で一面白くなり、近くの山が雪化粧をかぶった。しとめた狼を大人が誇らしげにかついで歩くと、しっぽがぴょんぴょん揺れるのが面白いらしく、子どもたちが大声で笑いながら後ろをついて歩いていた。

◆ゴビでは、体に不調がない人のほうが珍しかった。ナンセルマーさんは扁桃腺がひどく腫れ、医者の女性が「悪い血が宿っている。5分間流せば治る」と説明して親指を傷つけた。落馬で怪我を負った人も多かった。後遺症で足をひきずる男性、頭を強く打ちわが子の記憶をなくした女性。不慮の事故により育児ができなくなった場合、ほかの誰かが子どもを引き取るという。

◆誰もなかなかUBへ帰ろうとしない。「火曜日は戌の日だから旅には凶」とか、「これから悪い天気になるから」とか、毎日旅立ちが延期になっていたが、本音はただ田舎を離れたくないだけのようだった。そうかと思えば突然「すぐ帰る」。当時、病気になったタルバガンが媒介するペストが地方で発生し、数箇所の地区が数週間封鎖され始めた。ここでつかまると子どもは学校に戻れなくなる。

◆UBに戻ってからは、郊外のターニャの家でお世話になった。ターニャは5人兄弟の4番目で、長男のヴィチャは警察官、長女のイラは2児の母、次女スヴェタはテレビ関係の仕事をする1児の母。弟のサーシャはまだ学生だった。

◆街に着いてまずしたことは、ピアスの穴をあけたこと。ゴビの女性たちから「女なのにピアスをしてないなんて」とあきれられ肩身がせまかった。その話になると、長いフワフワの髪をかき上げ、飾りをつけた耳をスィスィが得意げに見せてくる。彼女はシングルマザーのスヴェタの3歳の娘で、派手なママを真似して口紅を塗るのが好きなおませさんだった。わんぱくでえくぼが可愛いスィスィの将来を楽しみに思った。

◆「またすぐモンゴルに来る」といったのに、翌年私はカナダで1年近くふらふらし、その後忙しく働き始め、ターニャは2児の母に。この11年半の間、手紙やメールで連絡をとりあってきたが、頻度は次第に減っていった。ところが昨年、幽霊部員だったfacebookに2人のモンゴル人から友人申請が届いていた。1人はサングラスをかけた大きな体のアレクサンダーという青年。もう1人は上目遣いでポーズをきめるバトゲレルという少女。サーシャとスィスィだとわかった瞬間、心にぼっと火がついて、いてもたってもいられなくなった。

◆久しぶりの対面は、嬉しさと恥ずかしさで直前までそわそわしたが、抱き合って笑えば時間の壁は一瞬で消えた。現在ターニャは、郊外のレンガ造りの家に、旦那さんと6歳の長女と4才の長男、そして14歳になったスィスィと住んでいる。9年生のスィスィは学校に通いやすいこの家に同居していて、やんちゃな子どもたちの面倒をよく見ながら、ターニャの手伝いもてきぱきこなしていた。

◆夜は家族みんなが集まってくれて、それが何より嬉しかった。華奢だったサーシャは縦幅も横幅も大きくなり、腕には大きな魚のタトゥーが。一部の若者の間で流行っていて、自分のほしいものや家族の名前やチンギスハンの絵を彫るそうだ。

◆スヴェタは再婚して新しい旦那さんとの間に2人の女の子が生まれ、4人でマンション暮らしをしている。よちよち歩きの妹をスィスィが愛おしそうに抱っこしていたのを見て、安心した。田舎でも街でも、大人は集まっておしゃべりに夢中になり、その輪の中を子どもが動き回り、大人にたくさん抱きしめられてキスされる。そうしてべとべとになった子ほどよく成長するのだという。

◆サーシャは大学を出たものの「仕事がない」。ターニャは「社長に賄賂をあげればいい会社に入れる」。別のモンゴル人によると「仕事がないことはない。やりたがらないだけ」。建設現場などのきつい肉体労働は、中国や北朝鮮からの出稼ぎ労働者が低賃金で活躍しているという。彼らは現場と寮を往復するだけなので、街では見かけられないそうだ。

◆高級マンション地区には外国人が居住する「ジャパンタウン」があり、ターニャの友達はそこで週2回掃除のアルバイトをしていて、1回分の給料が4000トゥグリク(=270円)。「経済が右肩上がりのモンゴル」をイメージしていたが、「稼ぐのは大変」と話すターニャを見ていると、好景気の影響がどこまで届いているのかはまだよくわからなかった。

◆驚いたのは、街の女性たちがすごくオシャレになっていたこと。韓国のメイクやファッションが流行し、世界的ヒットとなった「江南スタイル」を子どもたちは上手に踊る。車は韓国製と日本製のシェアが高く(2000年時点ではロシア製をよく見た)、ターニャの旦那さんは1990年製のランドクルーザーに乗っている。日本で10年以上経った中古車が、モンゴルで売られるという。今回マンホールチルドレンを全く見なかったのだが、政府や国内外のNGO等の支援で生活を改善できた子もいれば、隣国へ人身売買で売られていった子もいるそうだ。

◆昔住んでいたアパート周辺の景色は意外にも変わっていなかった。しかし中心地のスフバータル広場の周りにはガラス張りの外資系高級ホテルが建ち、街の南部はマンションの建設ラッシュがすごかった。政府は、2030年完成を目指して都市計画を進めている。UBの地下鉄建設や、ゲル地区の住人をインフラが整うマンションへ移住させる10万戸計画もその一環だ。

◆金銭的理由でやむなく郊外でゲル暮らしをする人が増え、北部の山肌にはゲルが白いふじつぼのようにびっしり広がる。ゲル地区の面積は拡大し続け、そこで燃やす石炭で街は煙たくなるばかり。モンゴルでは18歳になると、居住する地域内で0.7ヘクタールの土地を国から提供されるが、ターニャの場合はUBに空き地がなくてもらえなかった。余談だが、「2012年12月21日ゲルを持って草原へ逃げれば人類滅亡の危機から生き残れる」という噂が流れ、ゲルが飛ぶように売れたらしい。

◆エネルギー分野でモンゴルの話題をよく目にする。2011年5月の毎日新聞に、使用済み核燃料などの世界初の国際的な貯蔵・処分施設をモンゴルに作る計画を日・米・モが進めているというスクープ記事が出たが、この報道をきっかけにモンゴルで反対運動が起こり、9月にはモンゴル政府が計画断念を発表した。孫正義氏による「アジアスーパーグリッド構想」も。アジア各地を直流の高圧送電網でつなぐというスケールの大きな話で、UBに会社を設立し、ゴビで風力発電の調査を始めるという。

◆今年は世界最大規模の鉱山が本格稼動予定。経済はますます活性化すると言われている。2011年の実質GDP成長率は17.3%で世界2位の伸長率。2016年には1人当たりGDPが1万ドルの大台を突破するという予測もある(2011年は3,070ドル)。昨年末に東京で開催されたモンゴル投資セミナーでは、海外向け投資家たちが真冬の視察ツアーに興奮して申し込んでいた。北朝鮮と韓国の両方に大使館を置くという意味でも、モンゴルはこれから世界の中でユニークな存在感を増していくと思う(期待をこめて)。

◆帰りの飛行機は朝出発だったので、晴れた上空から、ねずみ色で覆われたゲル地区がよく見えた。盆地で風が吹かないのも原因らしい。「空気と水が悪いから、早く子どもを産まないといけない」と話していたターニャは、3人目の赤ちゃんが5月に生まれる予定。婚約者がいるサーシャも同じ頃父親になる。帰り際に聞いたら、スィスィの将来の夢は「お医者さん!」だと教えてくれた。動きやすくなる夏、また行きたいと思っている。(大西夏奈子


あとがき

■2013年最初の地平線通信をお送りします。この16ページとは別に、ちあきんぐ、かなこんだ両人による特別号が発送されるはずである。内容はまったく知らないので、コメントしようがないが、できれば皆さん、ことしは少しずけずけと通信の感想を書いてやってください。言葉は人を元気づけるから。

◆えも、えも〜ん、エモノトモシャ、くるみまるなどなど、状況、相手によっていろいろな呼ばれ方をしてきたが、昨年10月以来、「ウラジーミル」という新たな呼び名がついて少しもじもじしていることを告白します。

◆近くの大学の公開講座のチラシを家人からもらい、そうか、ロシア語をきちんと学び直すこともいいかも、と申し込んだ。大学でロシア語を専攻したのはしたのだが、山岳部人生に明け暮れていたのでまったくの落第生だった。正直、しっかり「勉強」した記憶がない。

◆社会主義時代のモンゴルに行くようになって、当時のモンゴルの知識人はロシア語を自由に話したので、多少実戦では磨いているが、さて、本当のロシア語力は? という実力なんです。で、ロシア人の女先生に面接したら、上級クラスと指定された。そして、ここではひとりひとりロシア名を持っているのですよ、と言われて「ウラジーミル」に。

◆1時間30分の授業中、日本語をまったく話せない。モスクワ勤務経験や留学経験のある元商社マン、学生たちが大半で、週1回とはいえ、実は大層緊張する時間なんです。でも、そんな時間が持てたことにひそかに感謝もしている。今のクールは明日が最後(通信も大事だけど、ほんとうは宿題をやってないのが気になる!)だけど、春のクールも受講しそう。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

00810(ゼロゼロハットリ)殺しのライセンス
〜死ぬのは奴等か??〜

  • 1月25日(金) 18:30〜21:30
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「殺しは慣れますね」というのは、狩猟ハンターで登山家の服部文祥さん(42)。現代の利器に頼らず、テントもライトも時計すら持たない“サバイバル登山”を'99年から実践する服部さんが試行錯誤の末に辿りついたのは、狩猟で食料を自給しつつピークを目指すスタイルです。

山中で大型獣と一人対峙し、ふるえながら引き金をしぼり、格闘しながらナイフでとどめをさす。そこに見えてきたのは、意外なほど身近な“死”の存在でした。「動物や植物の“死”とひきかえに毎日生きてるのに、自分と死はカンケーないって顔をしてるのはオカシイですよね」と服部さん。「手を血に染めて食べると“死”は平等で静かで偶然だと思う。日々生きて行動するということは、死のリスクを日々当り前に背負うことなのかも」。

便利な道具に頼らないとしながら銃を持つなど「ツッコミどころ満載」ながら、3.11後の日本人の生き方について深く考えさせるハットリ流山の歩き方について語って頂きます。お楽しみに!


地平線通信 405号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年1月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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