2011年7月の地平線通信

■7月の地平線通信・381号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月6日未明。ドイツでのW杯でなでしこジャパンがイングランドと戦っているのを横目で見ながら、この通信の最後の編集作業をしている。ああ、安藤がシュート!惜しくも止められた。午前2時。この時間に「ながら作業」もないものだが、何とか仕上げなければならない。月の第一週に地平線通信を出すことは滅多になく、普通なら13日の水曜日発行で多少余裕があるのだが、印刷、発送の場として使わせていただいている地域センターが「節電指令」で7月11日(月)〜15日(金)の5日間「貸室休止日」となってしまったのだ。

◆節電。「3.11」から4か月経った2011年夏、原発事故でパワーを減じた日本人はいかに電気を使わないようにするか、競い合うこととなった。扇風機がバカ売れし(それだって電気は使うのだが)、よしず、簾(すだれ)が必需品となり、「緑のカーテン」を作るゴーヤは苗が売り切れるほどの人気だ。なんという一斉横並び、軽佻浮薄、と言いたいが我が家はその全てをやっているので大きなことは言えない。暑さに弱いわんこがはぁはぁ言い出したらようやくクーラーを控えめにかける日常だ。地域センターの節電ぐらいつきあおう。

◆2時36分、イングランドに2点目をやられた。そして、この間に待っていたこの通信最後の原稿、関野吉晴氏の《「縄文号」「パクール号」台湾から日本へ》が届いた。興味ある、長いものだが、読み進むと、なかなか出航せず、最後には「続く」とある。うへえ。それにしても台湾からの出発地点が「成功港」とはできた名前だ。次号も大いに期待したい。

◆武蔵野美術大学の文化人類学の教授である関野さんは今回の航海の途中「中継授業」を2度試みた。当然、正規の授業と私は思いこんでいたが、それは大学側に却下された、という。その顛末はこの原稿に詳しいが、すべて手作りの2隻のカヌーが、現代に生きるわれわれに、とりわけ「すべて出来上がったもの」に囲まれて育った青年たちに、どれほど創造的、刺激的なエネルギーを与えるか大学側はわからないのだろうか。

◆6月26日の日曜日、ムサビへ行ってその「縄文号」「パクール号」と対面した私は素直にそう思う。ゴール地点の石垣島で一度解体して運ばれ、日本人クルー4人、インドネシアのマンダール人クルー6人によって、ムサビ12号館前の広場に組み立てられているところだった。これは、想像していた以上に素晴らしい造形物だ、と見た瞬間、感じた。それほど手作りのカヌーは美しく、ここまでやるか、と思わされた。東京近郊の人、いや大阪であろうとどこであろうと、動ける人は是非是非、2隻を見に行き、そして手で触ることをお勧めする。2か月ほど展示されているそうだ。

◆7月1日深夜から3日夜にかけては宮城県の女川町尾浦に行っていた。先月の報告会に登場いただいた保福寺住職、八巻英成さんの「将来モニュメントとするために、粉砕されないうちに尾浦の瓦を集めておきたい」という要望にこたえて地平線仲間と駆けつけたのだ。そこでの出来事は、通信でささやかな特集をしているので読んでほしい。

◆なでしこは結局2-0で苦杯をのんだが、女性とは思えない力強いシュート、キック力には刺激された。瓦ボランティアに参加した、ストリート・サッカーの賀曽利尚さんもおそらく眠らず見たことだろう。実はきのう夜、原稿とともにゴッホや山下清をイメージさせる色鮮やかな彼の絵が数点添付されて届いて驚いた。一度見せてほしい、とお願いしたのだが、色調、構成が素晴らしいのだ。31才になった賀曽利隆の長男、化けたな。

◆7時38分、メールが入った。「おはようございます♪ 体調をこわし、5日に退院できる予定が週末(9か10日。体調次第)になりました」シール・エミコさんからだ。長い間遠くから見守るしかない状況が続いていたが、6月30日、嬉しい様子が伝えられた。「☆抗癌剤治療3か月後の途中経過が出ました。癌細胞が小さくなっていました」「可能性がどんどんどんどん失なわれていく中でようやく手にした希望。どこまで効くかはわかりませんがこのチャンス、スティーブと一緒に最善を尽くしていきます。いまスタート地点に立ったところ! すべてはこれからです!」

◆できればすぐに仲間たちと会いに行きたい気分だったのでその後の様子をメールで聞いたところ、さきほどの返信だった。「感染症(院内ウイルス?)で熱だして大事とってます」というが、とにかく焦らず待とう。

◆登山家のラインホルト・メスナーが映画『ヒマラヤ 運命の山』の日本上映を機に久々に来日し、きょう6日13時から記者会見をする。1975年カトマンズで会って以来、何回かお会いしている。最先端を切り開いてきたクライマーが老年を迎え、何を話すのか、この原稿を送ったら青山一丁目の会見場に行く。(江本嘉伸


先月の報告会から

悪夢と忘れていた未来

賀曽利隆・高世仁

2011年6月24日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

★第1部 「鵜ノ子岬から尻屋崎まで 東北・太平洋岸の全被災地報告」
 バイク・ジャーナリスト 賀曽利隆

★第2部 「チェルノブィリ最新報告 そしてフクシマ」
 映像ジャーナリスト・高世仁

「鵜ノ子岬から尻屋崎まで 東北・太平洋岸の全被災地報告」
賀曽利隆

■今回は、貴重なお二人の報告会ということで6時半きっかりにスタート。いつも以上に賀曽利隆さんはテンションが高かった。地平線会議のイラストレーターだった三五康司さん(長野画伯が不在の時、常にカバーしてくれた)がリハビリ最中にもかかわらず奥さんに支えられて参加してくれたからだ。賀曽利さんは世界中で多くの人に出会っただろう。その一人ひとりをよく覚えており、そのつながりをともかく大事にする。探検家植村直己さんに出会った人で、彼を悪く言う人は誰もいなかった。賀曽利さんも植村さんによく似ている。一度でも会った人は誰もが彼のことを覚えている。先日岡山で恐竜研究の第一人者の方にお会いした。「三輪さんって、もしかすると賀曽利さんの仲間の?」と言われあとは話がスムーズに進んだ。賀曽利の威光だ。

◆昔私は高校の先生をしていた時、暴走族にいろいろ悩まされた。つい「俺は賀曽利にバイクを教えたんだぞー!」と言ってしまい、後に引けなくなった。賀曽利さんに話したらすぐに駆けつけてくれ「三輪先生がボクにバイクを教えてくれたんだ」と連中に言ってくれた。それ以降清瀬の町をバイクで走り回っている連中に挨拶されるようになった。まさに「虎の威を借りて……」の教師生活をしていた。若者のなかには「賀曽利なんかに負けてたまるか!」と気負って「サハラの会」を始めた連中もいたが、いずれも打ち負かされて「賀曽利ック」教徒になっていった。三五さんも前はバイク乗り、その後奥さんともども賀曽利ックの一員になった。

◆今行われている地平線報告会は1979年賀曽利さんが「生の情報を集めるためには本人を呼ばなければ……」という精神ではじめた。彼はその後すぐに旅に出たので後は私が担当していた。いまでこそ大盛況だが、ある年末の会はスタッフを入れても10人足らずだったこともある。長野君と「このまま減ると来年は0になるなあ」と心配していたが、「困った時の賀曽利頼み」という標語の通り、彼を呼ぶと100人近くが集まるようになった。

◆今回の震災で、会場の時間が昼間になり、4月、5月の報告会に人が集まらないことを心配した江本さんは「困った時の賀曽利頼み」の奥の手を出した。おかげで多くの人が集まった。今回またまた賀曽利さんは登場だが、前回以上に気合が入った。今回のテーマは震災後の鵜ノ子岬から尻屋岬を走る見る聞くの旅だ。

◆彼の旅の話は地図がないとほとんど分らない。福島浜通りから、宮城、岩手のリアス海岸、青森のさいはて岬までの入り江、岬、迂回林道を行く。彼の頭の中には東北中の道路、林道、海岸線、岬がびっしり描かれており、出会った人の名前をきちんと覚えているように地名に愛着を持ってしっかり記憶している。賀曽利さんの師匠である宮本常一さんの話も住宅地図にあるレベルの詳しさで日本中の地名、人名が次々と出てくる。

◆賀曽利さんの今回の話も「広田湾と大野湾の両側から津波が来て広田半島は島になったんです」と言われるがどんな場所なのか地図で探さなけりゃわからない。そんな地名が機関銃のごとく発せられる。私は、彼が作成にかかわった昭文社の「復興支援地図」のページを繰りながら懸命に地名を追いかけたが、しばらくすると地名なんかどうでもよくなり、彼のバイクの後ろにまたがって一緒の揺れの中で旅をしているような気分になる。かくして聴衆はカソリック教徒に洗脳されていく。

◆今回の旅は、小さな鵜ノ子岬からはじまる。勿来の関が海に突き出した岬で、ここから福島の浜通りが始まる。岬の下の勿来漁港で第一泊目の野宿。そこへ原発災害で避難民になった渡辺哲さん(前回報告者)が差し入れを持って来てくれた。「オイオイ被災者に世話になるなんて、立場が逆じゃないか!」と私は思ったが、そんなことは気にしない教祖は、「勿来港がほとんど被害を受けなかったのは岬があったからですよ!」という。岬は「御崎」の意味でそこには神社がある。

◆岬3点セットは神社、灯台、港で、ちゃんと揃っているところは今回も被害がなかったんですよ。……カソリ教義その1だ。美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑が建つ塩屋の岬も奇跡的に被害がなかった。ここにも灯台、港はある。将来歌碑の場所が「ひばり」神社になるに違いない。……これは三輪説。

◆原発で福島浜通りの道路は寸断され、渡辺さん他大勢の人が避難させられた。「バイク乗りはとことん行けるところまで行こうという精神が旺盛なんです」原発周辺のどの道路にも警備員や警官が立っていて先には進めない。原発を迂回し林道を通って広野から南相馬市へ抜ける。国道を経由すれば簡単だけど、20km圏ギリギリを進まなければ住民の辛さは分らない。福島県は浜通り、中通り、会津と3列に地域区分されるけど、今回通った阿武隈という地域を忘れていないだろうか。賀曽利さんは大好きな阿武隈を加えて4列が正しい福島県の地域区分ですという。……カソリ教義その2 阿武隈の山の中にはいい人達がいるんですよ!

◆阿武隈山中を経て南相馬市にでる。ここから石巻までの海岸が今回の津波で一番被害を受けたところ。「もう世紀末の状態ですよ。こんなにひどい状況とは思わなかった」原発の影響で遺体捜索もできない地域がある。前回の報告で「行方不明の最後の一人まで探さなきゃ、災害の復興なんて言えないですよ」と言った彼の言葉を思い出す。すでに3か月たったがまだ行方不明者は数千人もいるのだ。賀曽利の怒りは消えない。私は松川浦の端にある鵜の尾岬が気になっていたが「松川浦なんて海ですよ!」長い砂州が津波で消え去り海とつながったらしい。

◆「亘理の鳥の海海浜の森なんかめちゃくちゃです」阿武隈川、名取川など川の出口の平野や仙台空港などは壊滅状態になっていた。「よくわかりましたよ。津波に対しては河口が盲点だったんです」……カソリ教義その3が展開される。伊達藩自慢の運河貞山堀も「あれを伝わって津波が入ってきたんですよ」と容赦ない。旧北上川の河口の町、石巻はもう地獄の状態です。こんなにやられるとは思ってもみなかった。

◆牡鹿半島から三陸リアス海岸が始まる。平成の大合併で石巻は大きなエリアになっていた。中心部はやられたけど無傷の場所もあり、そこを拠点に復興を始めることができる。しかし小さな町村は全域がやられたところもあり役場も町長も亡くなって自力ではどうにもならない場所もある。平成の大合併にもよい面があったのだ。前回報告者、八巻英成さんが住職の保福寺は目の前の出島が防波堤になって津波被害が小さかった。それと同じで日本三景松島も例外的に被害が小さかったのは、松島湾の前にある浦戸島が防波堤になっていたからだ。松島にはもう観光客も来ている。ひとくくりに全部の地域が被害にあった訳ではない。それぞれ現場にあった復興を考えなければならない。……カソリ教義その4。

◆陸奥国の国府だった多賀城は1100年前の貞観地震の時には津波に襲われた。今回多賀城市は大変な被害を受けたが、津波は45号線でとまり多賀城跡までは来なかった。だからと言って今回の方が小さい津波ではないが、過去の教訓が生かされていないことが見受けられた。貞観地震、今回の地震津波を100とすれば明治三陸地震は50ぐらい、1960年のチリ地震津波は10程度で桁が違う。……カソリ教義その5。今の大人はチリ地震津波の経験だけで油断が大きかったのではなかろうか。これまでの津波の遡上最高は明治三陸地震で観測された綾里の38mだったが、重茂半島姉吉では38.9mまで遡上した。しかし姉吉は誰も亡くならなかった。ここには「ここより下に家を建てるな」という石碑があり、地区の人は教えを守ってきたのだ。

◆さらに三陸のリアスの湾をひとつひとつ訪ね、現在の様子を見て聞いて歩く。「あるくみるきく」は賀曽利さんの師匠である宮本常一さんの教えだ。宮本さんはさらに「考える、話す、書く」も実践した。賀曽利さんは歩いた日数、走った距離では師匠を超えた。今回の報告でも分かったが「話す」のは賀曽利さんの方が上手だ。

◆「書く」については量だけは超えている。思索という点では「宮本学」が成り立つほどの人と比べるのは失礼と言われるかもしれない。しかし思索というのは深さと広さの積だと私は思う。お月さんまで2往復する距離を地球上で走りまわっている賀曽利さんの広がりは「賀曽利学」を創造するまでになっている。

◆震災後にさまざまな方々のレポートを見聞きしたが、ほとんどが未曾有、想定外、価値観の変革、生活の見直しなどだ。それらはマスコミで使い回された言葉だ。何年もかけ、この広がりを歩き走りまわってきた賀曽利レポートとは説得力が違った。3.11以降へなへな、ボー然となり、テレビに向かってブツブツ言うだけの生活を送ってきた私も、賀曽利ック教徒に戻ってそろそろ立ち直ろう。重くなった腰を上げなければと思っている。(「カソリック教」も「カソリ教義」も本人の言葉ではなく三輪が勝手に作った言葉です。今回賀曽利ックに再改宗した三輪主彦

「チェルノブィリ最新報告 そしてフクシマ」
高世仁

■東北沿岸部を隈なく巡り、被災地の近況を報告された冒険王・賀曽利隆さんに続いては、北朝鮮拉致問題の報道などでテレビ出演もされている映像ジャーナリストの高世仁さんが登場。

◆「奥さんともここで出会っているし、地平線会議にはいろいろ恩義を感じているんです」。まずはそんな発言で会場を和ませつつ、昨今のテレビ不況によって、これまで縁のなかったネット動画を通じて取材映像を配信するに至った経緯から、高世さんの報告はスタートした。

◆今回、高世さんがチェルノブイリを取材したのは4月初旬。フジテレビでの放映を前提とした取材だったが、実際の放映時間はわずか5分ほどだったため、他局への売り込みを検討する。「今年はチェルノブイリ25周年なので、きっと他の局も乗ってくると思っていました。ところが、福島第一原発がこういう状況のなかでチェルノブイリの映像を流すと、人々に不安を与えるだろうというTV局独特の配慮が働いて、売れなかったんです」。

◆その後、ネット上で動画配信するという選択肢を提示された高世さんは、無料公開することを決め、映像を5つのテーマに分けてアップ。予想以上の反響があり、CSや別の動画サイトでの放映、さらにはDVD販売の話も決まった。

◆まず、チェルノブイリとは、どのような事故だったのか。86年4月26日、チェルノブイリ原発は試験運転中、制御が効かなくなってメルトダウンする。その後、大爆発・大炎上し、黒煙とともに放射性物質をまき散らした。事故当時、ゴルバチョフは登場していたが、大半の守旧派は、事故を隠蔽しようと動く。ところが、翌日スウェーデンの観測所が高い放射線量を測定し、騒動になったため、ソ連は事故を公表。しかし、政府が国民に事故を知らせたのは1週間後だった……。

◆驚くのは、事故を発表するや、政府は一転、30キロ圏の住民をわずか1〜2日で強制避難させたこと。「この辺りは共産圏の強みなのでしょうね」と高世さん。首都キエフでは、学生は黒海に近いピオニールに4か月間疎開させられ、夏休みは9月1日から10月1日まで延長された。

◆ちなみに4月下旬といえば、春の訪れを待ちわびていた人々が、戸外に出て菜園の手入れを始める時期。加えてメーデーの大パレードなどもあり、結果的に、多くの人々が死の灰を浴びせられる事態を招いたのだった。

◆25年後の現在も、原発から30キロ圏は立入禁止区域(第1ゾーン)のまま。そしてセシウムの汚染度によって、第1ゾーン同様、全員退去しなければいけない無条件移住区域(第2ゾーン)、任意移住区域、放射能特別管理区域と、危険度によって4つの区域分けがなされている。

◆この基準で見ると、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3か国で1万km2、日本では800km2=琵琶湖の1.2倍の面積が、立入禁止区域になるという。

◆ここで、5つのなかから 1)「事故後の後始末」をテーマにした映像を上映。「あとどのくらい管理し続けなければいけないのですか」という高世さんの問いかけに答えることができない、担当者の困惑した表情が印象に残る。そのほかは 2)立入禁止地区に暮らす人々 3)ガンと生きる被ばく者 4)情報隠蔽と避難の実態、5)汚染土壌との闘い、という4つのテーマで編集されている。

◆リーマン・ショック以降、経済危機に陥っているウクライナでは、世界から支援を得るために、高世さんいわく“警戒しないといけないくらい”積極的に情報が公開されている。立入禁止区域のホテルに宿泊する、原発労働者と同じ食事をする、原発の建物内に入る……。そんなディープな「チェルノブイリ観光ツアー」も組まれている。ガイドもよく心得たもので、参加者の要望に応じて、放射線数値の高いホットスポットに連れていくとのこと。「その一方で、広大な土地で居住や耕作が禁じられ、ガンに苦しんでいるひとがいる。月並みなことばですけど、事故はまだ終わっていないと思います」。

◆今回の原発事故について、世界は、日本人の想像よりはるかに強い関心を寄せている。「ウクライナでも、老若男女問わず、どこに行ってもフクシマにものすごい関心を持っています」と話す高世さんは、取材を通じて事故の後処理には、いかに時間とお金と労力がかかるかがわかるにつれ、怖くなりました……と続けた。

◆「石棺を覆うための、世界最大の移動式ドームの建造費は1200億円。フランスの企業は100年、きちんと使えば300年使えるというけれど、そのためには15年ごとのメンテナンスに建造費と同等の費用がかかり、3000人以上のスタッフを要するといいます。普通の原発でも20〜30年かかるのに、事故を起こした原発は、廃炉にするにも130年かかるといわれるように、直接的な費用だけでも、気が遠くなるようなコストがかかるわけです」。

◆事故後、ウクライナで原発の被災者と認定された人数は約250万人。被災の状況や程度に応じて、40種類ほどの年金や補償金が支払われている。90年代前半には、国家予算の15%が直接的なチェルノブイリ関連の費用に充てられ、給料の19%がチェルノブイリ目的税として課税されていたそうで、こうした現実からも、原発事故が国と国民に、いかに多くの負担を強いるかがよくわかる。

◆もう1つ、高世さんの話のなかで強く残ったのが、「適応」ということばだった。原発から30キロ圏には、「強制退去させられたけれど、移住先ではとても暮らせない」と危険地域に戻ってきた老人たちが、今も300〜350人暮らしている。暮らしを賄う年金は郵便局から届けられ、週に1度は移動販売車が食料などを売りに来る。寂しいけれど、畑で野菜も育つし、空気はいいし、幸せに暮らしていると話す老人たちの、「政府のいう通り移住した人々はどれほど悲惨か」という言葉は、まさに日本でも、30キロ圏の住民の方々が直面している問題といえるだろう。

◆「お百姓さんを生まれ育った土地から引き離せば、精神的にも肉体的にも大きなストレスになり、自殺やアルコール中毒の引き金になりかねません。飯館村でも、特養などは例外的にそのまま残す話になりましたが、実際、老人をいきなり違う環境に置いたらどうなるか。私たちは放射線量の方からばかり考えるけれど、避難したほうが、リスクが高くなる場合もあるのではないか。現地を取材したことで私自身、認識が少し変わりました」。

◆年齢によって放射能への感受性は異なるし、同じ30キロ圏でも、放射能の汚染度は場所によって大きく変わる。除染作業を行うなど、できる努力をすべてやった上で土地に居続ける方法を、そろそろ考える時期が来ているのではないか。高世さんは「適応」の前提について、そんなふうに話される。

◆3日で帰ることができるといわれ、住民票と現金を手にしただけの住民を強制避難させた政府を「共産主義国家」と非難するのはたやすいけれど、翻って日本政府や東電の対応、情報開示はどうだったか。

◆気象庁は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)で、放射能がどの方向に流れるか予測できたはずなのに何もアナウンスせず、放射能が気になる人々は、ドイツや韓国の気象庁の情報をチェックしていたこと。キエフで取材(4月初旬)をしたチェルノブイリ博物館のスタッフは、高世さんに「(福島第1原発は)絶対メルトダウンしている」と話したそうだが、政府と東電は、事故から2か月以上経った5月半ばを過ぎて、ようやくメルトダウンを認めたこと。「いつ家に帰れますか」と訴える避難所の被災者の方々に対して、すぐ帰れるかのような話をする政治家たち。「情報をきちんと伝えなかった点では、日本とソ連の対応は、それほど変わらなかったのではないでしょうか」。

◆そして原発は絶対安全、という前提で、事故に備えた対策がまったく取られていなかったように、(原発の)近隣住民、そして多くの日本人が、原発にあまりにも意識を向けてこなかったという事実。「福島第一原発が放出している放射線量は、チェルノブイリの15%に近づいています。違いもあるけれど、住民の再避難、土壌の表土の入れ替え、情報公開の遅さやその真偽など、フクシマとチェルノブイリは、まるでデジャ=ヴュのように似ているんです」

◆まだ、事故は収束していないのに、日本全体としては、何とかなるというムードや風潮が感じられる、と話す高世さん。「でも、見ればみるほど原発事故は大変なものです。放射能汚染という現実に適応して生きざるを得ないこと、その覚悟が必要だと、私は思っています」。

◆情報の出し方を検証すること。そして特に子どもの健康調査はしっかりやっていくこと。事故後の政府や東電の初動に納得がいかなかったと話す高世さんは、今後、やるべきこととして、その2点を挙げられた。

◆実は今回、高世さんが大震災を報道する際、取材相手は当たり前のことのように、こう口にしたという。「TV局は東電をはじめ、大企業から広告費をもらっているから、原発のこともちゃんと報道できないんですよね」。TV業界に身を置く者として、高世さん自身、もちろんその感じはわからなくはない。だが、国難といわれる大災害時に、マスメディアは本当のことなど伝えていないと、世間の多くが思っているとすれば、これからTVはどうなるのか、このままでいいのか。今回はそんな思いのなかで決断に至った無料公開だったそうだ。

◆「ネットで公開してよかったと思いますか」という江本さんの問いに、「社会的反響の広がり方を見ると、求められていた情報だったことは間違いないとわかりました。お金にはならないけれど、よかったと思います」と、応えた高世さん。

◆チェルノブイリの教訓をフクシマにどう生かすべきか。本題に加え、ネットの影響力がここまで強く、大きくなっているなかで、今後、テレビやマスメディアによる報道がどうなっていくのだろう。そんなことを考えながら聞いた、今回の報告だった。(塚田恭子

★高世さんがネット上に公開した映像、チェルノブイリ「フクシマへの教訓」1〜5はジンネットチャンネル http://www.jin-net.co.jp/jinnettv.htm から、または youtube http://www.youtube.com/user/takase22/ から見ることができます。

[地平線報告会の開会時刻についてのお知らせ]

■地平線報告会の開会時刻が節電に伴う会場の都合で、最近月によって変更されています。4、5月は14時〜18時と昼間の開催でしたが、今月6月はいつもの18時30分開会に戻ります。7月も目下18時30分スタートの予定ですが、猛暑のさ中、節電の影響がどう出てくるかわかりませんので念のため開催日直前に確認してください。地平線会議のウェブサイトには必ず告知しますので。なお、開催日ですが、7月はいつもの第4金曜日(22日)としますが、8月は27日の土曜日12時30分から16時とする予定です。たまには休日の午後、ゆっくりやろう、という趣旨です。どうかご了解を。(地平線会議


[先月の発送請負人] ■地平線通信6月号(通算380号)の印刷、発送に協力いただいた方は、以下の通りです。24ページの厚いものとなったのでありがたかったです。
  村田忠彦 車谷建太 満州 花田宏子 花田夏実 森井祐介 松澤亮 江本嘉伸 杉山貴章 野地耕治 大西夏奈子
★花田(旧姓三羽)さんは、6月24日に1才になる長女、夏実ちゃんを連れての参加でした。夏実ちゃんよく笑い、おとなたちを全然こわがりません。いい雰囲気で作業が進みました。ありがとうね。


報告者のひとこと

写真を「乗り上げ船」「巨大防潮堤」「原発事故関連」の三テーマに分けて見てもらいました

■大震災の2か月後、5月11日に出発した「頑張ってるぞ! 東北!! ツーリング」の「鵜ノ子岬→尻屋崎」ですが、その第1夜目はじつに印象的で忘れることができません。東京から常磐道でいわき勿来ICまで行き、東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬の勿来漁港で野宿したのですが、そこに4月の報告会で話してくれた渡辺哲さんが車で駆けつけてくれたのです。渡辺さん差し入れのカンビールとつまみで思いもよらない野宿宴会になり、夜中の漁港でおおいに語りあいました。その渡辺さんがいわき市から報告会の会場に一番乗りで来てくれました。今度は報告会の会場で、野宿宴会のつづきのようなノリで話すのでした。

◆今回の報告会では最初は話だけでいこうかとも思ったのですが、みなさんに「鵜ノ子岬→塩屋崎」の写真を見てもらってよかったと思っています。やはり「百聞は一見に如かず」といったところでしょうか。とはいっても何百キロもの東北太平洋岸の全域をわずか2、30枚の写真で見てもらうのは無理というもので、もうすこし詳しく多くの写真を見てもらいたいと何度も思いました。と同時に毎年のようにバイクで走っている大津波以前の東北・太平洋岸の写真も合わせて見てもらえたら…と思った次第です。

◆「鵜ノ子岬→尻屋崎」のあと「乗り上げ船」、「巨大防潮堤」、「原発事故関連」の3テーマの写真を見てもらいました。今回の大津波を象徴するような各地で見た「乗り上げ船」ですが、この言葉は江本さんの作った新造語。じつにうまくいい表した造語なので、これからも使わせてもらおうと思っています。

◆「原発事故関連」では「いわき→福島」の国道399号に焦点を当ててみました。その沿線で一番、強烈な印象で残ったのは川内村です。大地震にも大津波にもやられなかった阿武隈山地の川内村ですが、東電の福島第1原発の爆発事故の影響をモロに受け、村内のあちこちに「危険」、「立入禁止」の看板が立っていました。国道沿いの商店はすべてシャッターを下ろし、信用金庫や農協も休業中。放射能汚染の影響で田畑は荒れ放題。村はまるで死んだかのようでした。

◆報告会を終えて自宅に戻り、この原稿を書いていますが、書き終わり次第、「環日本海ツーリング」に出発します。東京から新潟まで行き、そこから日本海に沿って東北を北上。青森から函館に渡り、北海道→サハリン→ロシア本土→朝鮮半島と日本海を一周し、境港に戻ってきます。そのあとも東北の全域を縦横無尽に駆けめぐる予定でいます。大震災から6か月後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」もぜひともやってみたいと思ってます。これだけの大きな被害を受けた東北・太平洋岸なので、その復興は大変なことですが、その歩みをこれからもずっと見続け、応援しつづけていきたいと思っています。(賀曽利隆 報告会当日夜)

取材しながらどんどん怖くなった。「日本人は覚悟しなくては」

■今回のチェルノブイリ取材の結論は、「日本人は覚悟しなくては」だった。汚染地を車で走ると、放棄された農場と村々がどこまでも続く。事故原発の処理にはこれから100年かかり、運転の止まった原発に、これからもずっと大勢の人々が働き続けるという。250万人を超える被災者への補償は、国家財政を押しつぶしている。そして、多くの被災者が、今も、心と体へのダメージを抱えて暮らしている。原発事故とは、四半世紀という時間がすぎてもなお、これほど巨大な負担となって社会にのしかかってくるのか。国が傾くのではないか。取材しながらどんどん怖くなった。我々日本人も、これから、その負担を背負っていかなくてはならないのだ。ひるがえって、こんな事故が起きるまで、テレビはあまりにも原発の危険を軽視してきたと、業界で飯を食ってきた者として反省している。本来テレビに売るはずの取材映像を、ネットに無料で流すという「反逆」には、その反省も多少込められている。これをきっかけに新しい報道のあり方を模索していきたい。(高世仁


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の通りです。2年分、5年分まとめて振り込んでくれた方もいます。当方の手違いで1か月遅れの記載となってしまった方にはごめんなさい。万一、記載されていない場合は必ずお知らせください。
■京馬伸子 田邊壽 長瀬まさえ 安田春子 小高みどり 池田祐司「地平線ならでの視点、いつもうならされています。通信費2年くらいためました。すみません」松原英俊「地平線通信や岳人で冒険フォーラムの感想等を読みました。私もとても楽しかったです。またよろしくお願いします」橘高弘 斉藤孝昭 古山隆行・里美 秋元修一 水落公明「いつも地平線通信をお送りいただきましてありがとうございます。ひきつづきよろしくお願いします。私の友人も何人か被災しましたが、幸いなことにみな無事でした。しかし4か月たった今でもかなり不自由な生活を強いられているようです」高司優子 田中昌二郎


地平線ポストから

来春、比嘉小がなくなります

■江本さんこんばんは。今日は浜のハーリー大会(注:浜比嘉島は「浜」と「比嘉」の2つの区から成り、ハーリーも区ごとに行なわれる)でした。全沖縄から65チームが参戦しました。昇のチームは惜しくも予選落ち。かなりレベルの高い大会でした。来週は比嘉のハーリー大会ですが私は母の法事で里帰りします。お時間が合うようでしたらお会いしたいと思いますので連絡させていただきます。

◆さて地平線の皆様、はいさい。大震災のあった3月からはや3か月半。地平線の仲間が被災地で活躍していることを通信で読んで、頼もしく思うと共にもどかしい気持ちもあります。私もバイクで東北は何度も訪れたところ。朝市や温泉、林道、山、海、松林、砂浜。今でも頭に浮かんできます。金も暇もない私ですが日本の南の端から応援しています。

◆実は3月はここ浜比嘉島でも激震が走りました。震災からわずか1週間後の3月18日、うるま市議会は浜比嘉島はじめ伊計島宮城島の小中学校すべてを廃校にし平安座島に統合する案を可決しました。地平線あしびなーの3日目の舞台、山田高司さんにお話をしていただいたあの比嘉小学校は、他の8校とともに来年3月をもって廃校になるのがほぼ確定しました。いまだに信じられない思いです。

◆地平線の皆さんには署名にご協力いただいたにもかかわらず、残念な結果になってしまい申し訳ありません。今になって思えばもっとやりようがあったのにと後悔ばかりです。もっと必死に市長はじめ教育委員、議員にわかってもらえるように動けばよかった。もっと一生懸命島のひとみんな一丸になって学校を守ればよかった。こんな強引で拙速なやり方されて、もっと必死に世間に訴えればよかった。

◆議会は市長派がほとんどで、採決の日に議会傍聴にいきましたがこんな大切な時に居眠りしている議員が1人2人ではありませんでした。あっけないほどあっさり可決。そして1年後に廃校? 信じられない。私は週に1度、小学校で三線を教えてもう3年目になります。どういう訳か、今年度は教師が総入れ換えで前年度から引き続き残っているのは教頭と校長だけです。中学校もほぼ総入れ換えになりました。小学校に行っても私が知っている先生はもうほとんどいません。

◆教育委員会は「学校統合準備委員会」なるものを作り、新しい校歌、スクールバスなどの話し合いをPTAと進めているようです。広報には「新しい校名を募集中! 選ばれた方には賞品を差し上げます」だと。学校がなくなったあとは地域がますますしっかりしなければ。伝統文化の継承は子供たちにかかっているのです。なくなってから大切なものに気がついても遅いんだよね。もうじわじわと比嘉から人口の流出が始まっています。学校がなくなったあとの比嘉は想像もつきません。というか想像したくありません。正直来年の4月が来るのがこわいです。(浜比嘉島 外間晴美 7月3日)

★ハーリー(爬竜)は、毎年旧暦の5月4日頃に沖縄県各地の漁港で行われる行事。爬竜船(はりゅうせん)を漕ぎ競い合うことで航海の安全や豊漁を祈願する。2年連続比嘉ハーリーに参戦してきた「地平線ダチョウスターズ」、今年は休戦する。

「日本冒険フォーラム」の成果を豊岡市で

■兵庫県豊岡市の植村直己冒険館では、5月15日、明治大学、地平線会議などの協力で行なった「日本冒険フォーラム」の成果を紹介展示する試みを7月末から11月までの予定で、同市内の冒険館で開催する。日本冒険フォーラムの内容をパネル等で紹介し、「なぜ今冒険をテーマとしたフォーラムをもったのか、実施したことから見えてきたメッセージなど、読んで、少し考える展示にしたい」と、小谷館長は話している。関西方面の地平線会議関係者は是非この機会に足を運んでください。詳細はあらためて後日お知らせします。植村直己冒険館の電話は、07969-43-4299。


8月の地平線報告会は土曜日です

■8月の地平線報告会は「27日の土曜日」に行ないます。夏休みの一日、平日は参加しにくい人たちが週末休みに気軽に来れるように、との趣旨です。報告者、テーマは未定ですが、この季節にふさわしい内容を、と考えています。どうか、曜日をお間違いないように。


[特別寄稿]

「縄文号」「パクール号」台湾から日本へ
関野吉晴

出発前夜――――――――――――――――

 なかなか寝つけなかった。昼間は南風が強く吹いていたが、夜になって夕立があり、風が弱まった。そのため風が吹けば飛ばされてしまう蚊が上半身にまとわりついていた。顔、頭の周囲にまとわりついて、甲高い機械音の様な羽音が耳ざわりだった。

 シベリアやアラスカなど、寒い地方の蚊ならば夜はおとなしくなる。またうるさければ寝袋なり、毛布をかぶっていればいい。ところが風がない亜熱帯の夏となると、何かをかぶると暑くてたまらない。

 防虫薬を肌が出ている顔や首、腕などに塗れば蚊を防ぐことができるが、腕時計のバンドを溶かしてしまうような防虫薬を塗りたくなかった。

 しかし、寝られない理由の多くは蚊ではなく、興奮だった。明日300km近くをノンストップで走り続け、国境を超え西表島まで辿りつこうと計画していたからだ。今まで島から島へと渡り歩いていた。海峡越えや島の間が離れていても120kmを超えることはなかった。明日は一気に300km近くも走る。かなり気が昂ぶっていた。見知らぬ所に遠足に行く前夜の子供のような心境だ。不安と共に初めてのことに挑む緊張感が頂点に達していて、目は冴えきっていた。こんな経験は久しぶりだ。

 皆は宿に泊っていたが私と渡部純一郎はカヌーのすぐ近くにある、公共の物置き場に泊っていた。下はコンクリートで、高い屋根がついているだけの風通しのいい大きな建物だが、がらんとしていて滅多に寝泊まりする者はいない。

 ここ成功港は幸先のいい名前だが、カジキマグロの突きんぼ漁の集結場になっていて、台湾南部でカジキマグロを射止めようとする船と漁師はここに集まって来る。トビウオ漁の漁期が終わり、今はカジキマグロ漁が盛んだ。銛をカジキマグロで狙う射手が立つ、船首から突き出たお立台が特徴の漁船が盛んに出入りしていた。

 私たちのカヌーは二艇で、10人の乗組員が分乗していた。日本人乗組員が4人、インドネシアのマンダール人乗組員が6人、たまにメンバー換えをしていた。日本人だけになったり、マンダール人だけになることはなく、通常は日本人が2人ずつ分乗していた。日本人同士では日本語を、マンダール人同士ではマンダール語を話すが、共通語はインドネシア語だ。若い前田次郎と佐藤洋平はインドネシア語をかなりマスターしていたが、私は日常会話を越えられずにいた。

 マンダール人たちはインドネシア領内では、それこそ手のひらの上の様に海を熟知していたが、国外に出て以来、その日どこを通って、どこまで行くかの決定は私に任されていた。日本人3人に意見を聞き決断をする。

 成功港を出たら、一気に日本を目指すことに対しては4人の意見は一致していた。エンジンのついた船が台湾から沖縄に行く時、通常は花蓮から与那国島を目指す。しかし私たちのカヌー、特に小さな縄文号には弱点があって、後方からの風や真横からの風ならば走るが、少しでも前方からの風だとお手上げで、風に対してのぼっているように感じても実際は風に押し戻されて、結果的には後退している。思い切り漕ぎを入れれば若干の前風でも進むが、船体が重いので、思い切り漕がなければならない。カヤックのようには、長く漕ぎ続けられない。

 花蓮から与那国島を目指すと、よっぽどいい風でないと、黒潮に押し流されてしまう。そのまま行くと尖閣諸島に行く。行ってみたいが、海上保安庁に阻止されるだろう。曳航でもされたら最低だ。そこで、花蓮より200km南の成功港から出航しようと決めた。若い乗組員たちはもう少し台湾本土を北上してから与那国島を目指したいと思っていた。成功港から出発するにしても、私が主張する一気に石垣島ではなく、与那国経由で石垣島に向かいたいと思っていた。成功港から与那国島までは220km、石垣島までは320kmある。100km違うので、その差は大きい。しかし、石垣島に行く前に波照間島に寄れば、270kmになる。若者たちはその50kmの差は大きいと思っていた。「まだ長距離をコンパス、GPSなしで走れる力、自信はない」と思っていた。しかし、私はたとえ与那国島に着けても、それから東にある西表島、石垣島に行くのはカヤックなら簡単だが、縄文号では、よっぽどいい風が吹かない限り難しいと思っていた。

 出発前日の夕方に武蔵野美大の学生たちに向かって中継授業をしていた。正規の授業として、大学側に相談したが却下された。その理由を聞いた。「電波の状態が悪くて中継がうまくいかない可能性がある」という理由だった。私も90分の講義すべてを中継でするつもりはなかった。40〜50分は現地から私が作成した映像資料を送るつもりだった。中継を受け取ってくれる講師も決めていた。また実際に送った映像資料は届いた。「どのように中継授業をするのか」と聴取されれば、それに答えられたし。「電波の調子が悪くて……」と言う返答にはならなかったはずだ。しかし前例を作ると、私の講義すべてがアマゾンから、アンデスからと、中継になってしまうのではないかと思ったのかもしれない。

 昨年の秋、私の講義を受講していた延べ1400人の学生に、中継授業の是非についてアンケートを書いてもらった。90%が条件なし賛成、あとの10%は中継を仲介する講師がいれば賛成というものだった。反対する学生は一人もいなかった。「今年受講したので、来年は私たちは受講できない」と言って不満を漏らす学生は多かった。大学当局とは違い、実験的なことを好む学生は多いようなので安心した。

 課外講座は放課後に行った。300人以上の学生が集まった。成功港の縄文号とパクール号の前で行ったが、近くに製氷工場があり、騒音がうるさかったし、強風が吹いていて条件は悪かった。しかし、先に送った映像資料をもとに現状を話した後、スカイプと携帯電話を駆使して講義した。後半は質疑応答で、カメラでカヌーや他の乗組員を映しだした。他の乗組員に対する質問も多かった。この日は2回目の中継授業だったが、前と同じように講義が終わった後に拍手が起こった。

 この日、与那国から伴走してくれるエンジン船が到着していた。あらたけさんと2人の乗組員が私たちの中継授業が終わるのを待っていた。明日の打ち合わせをしたいが中継授業が2時間続いたのでいらいらしていた。

 中継授業が終わった後、すぐに打ち合わせを始めた。私の、一気に石垣島に向かい、場合によっては波照間島に寄るという案は一蹴された。西表島の東側はサンゴ礁地帯で、浅いので無理だという。かわりに西表島の西側まで行って一服した後東に向かい、石垣を目指すという代案を考えてくれた。反対するものは誰もいなかった。西表島西部までの距離は直線で280kmある。まっすぐには行けないので実際には300km以上走ることになる。初めての長い距離に気分が高揚していた。途中で風が止まったらどうしようという不安もあった。私たちのカヌーは風がなければ潮に流されるか、錨を下ろして待つしかない。しかし今回のコースでは錨を下ろせないので、潮に流されるしかない。

成功港発前――――――――――――――――

 朝起きると、再び新しい決断を迫られることになった。ルソン島の西側にあった熱帯低気圧が台風になり、時速20kmで北上しているというニュースが飛び込んだ。熱帯低気圧の存在は知っていたが、中国に進み、消失すると思っていた。もしも北上して台風になったら困ったなと思っていた。私の甘い読みに対して、よくないコースをたどりそうだ。

 私たちは台湾東部を北東に進む。台風3号が北上を続ければ、台湾の西側を進み、やがて私たちと並走し、追い越していくことになる。幸い台風は小型で風速15mの暴風圏にも入らないようだ。しかし小型とはいえ台風だ。うねりも大きくなり、風も強まるだろう。私たちは台風が発生したらどこかで避難することにしていた。昨年は7月中旬に台風1号が発生した。その後も台風の数は少なかった。しかし今年は台風1号によって出発を遅らされた。台風2号の時はバシー海峡の中央部バタン島で9日間待機しなければならなかった。そして3号の到来だ。今年は台風が多いだけでなく、私たちに近寄ってくる。

 ここから石垣島まで伴走してくれる翔太2世号の船長あらたけさんを交えて緊急ミーテイングを開いた。今日も明日も風速10〜12mの南風が吹くという予想だ。絶好の条件なのだが、3日目の12日に、台風が私たちより北上した時、どんな風が吹くかが問題だ。

 不安は2つ、

 1.北上している台風3号が、複雑な動きをして、東に寄ってきたり、最悪の場合は私たちのほうに進路変更してくるのではないか。

 2.3号が私たちより北に進んだ場合、北寄りの風が吹くのではないか。北寄りの風が吹くと、縄文号は潮だけが頼りで、目的地に向かって進めない。あらたけさんが与那国島の気象観測台の知り合いに電話をした。

 1について、「3号が変則的な動きをすることはないだろう」という判断だった。

 2については、台風3号が北上した場合、北寄りの風は吹かず、私たちのいる台湾の東側は南西の風になるだろうという予想だった。予想をうのみにするわけではないが、3日間の風が、1日目南風、2日目南風、3日目南西の風と願ってもない条件がそろった。

 あらたけさんも判断に迷っていた。今日の朝9時に、花蓮から出入国管理官が車でおよそ200km南下して、やってくる。成功港は国際港ではないので、出入国管理事務所はない。わざわざ出前で、管理官がやって来てくれる。あらたけさんは安全がかかわっているので、管理官に断って出発を遅らすことは可能だという。

 若い前田次郎、佐藤洋平は出発を延ばしたほうがいいと思っていた。不安げな顔をして決断を待っていた。一方いつもは最も慎重な渡部純一郎が「行きましょう」と言う。私も「こんないい風を逃したら、次のチャンスはいつ来るか分からない」と思っていた。出航手続きが済んだらすぐに出航することになった。(続く)


縄文号とパクール号の実物をムサビで見せてもらって原発のことを考えた

■東京に進出すると意気込んでいた4月、東京勤務2日目にして埼玉通勤を命じられたうめです。埼玉の研究所では毎日研究実験の日々。大学でその分野の基礎は学んでいましたが、知らないことばかりなうえ、毎日がスピーディー! μgの物を扱っていた次は何キロもの液体を担いで振ったり混ぜたり……体は疲れていても本当に楽しい日々でした! できればずっと研究していたい……でも世の中甘くはないですね。7月から東京支店へ帰ることとなりました。

◆さて、6月25〜27日の間、先日日本に上陸した縄文号とパクール号の組み立て作業を見学させてもらえるという情報をもとに、作業現場の武蔵野美術大学へ行ってきました。インドネシアを出発してから3年間の期間を経て日本に上陸した2隻の船体は堂々と大学構内の広場に組み立てられていました。26日の時点では、帆がまだ張られておらず、少し残念でしたが、細い船体にビンッと伸びた長いアウトリガーが格好よく、帆がない舟でも十分貫禄がありました。

◆私たちが到着した時、インドネシア・日本の両クルー方が作業を終え、遅めの昼食をとられていました。その他にもいろいろな人がおられましたが、どなたがクルーかは一目瞭然。船に乗っていた人はみんな同じ綺麗なチョコレート色になっていました。もう少し色白だと思っていた関野さんもこんがり焼けて、一瞬別人のように見えました。でも、雰囲気は以前と同様で、柔らかい話口調でした。

◆2隻には約20種類の木が適材適所に使われており、船体は想像以上にしっかりしていました。でも、それは大学構内で見るからの話。大海原でこの帆船が人と自然の力で海を渡ってきたと思うと、このプロジェクトの壮大さをしみじみ感じました。丸木舟作りから日本に至るまで、色々なことがあったと思いますが、船の前に皆さんに集まってもらって撮った集合写真からは皆の満面の笑みと仲間の強い連帯感が感じられました。

◆房総の浜辺で砂鉄を集め、たたら製鉄をし、斧、鉈、チョウナなどの道具を作り、それらの道具を持ってインドネシアの島に渡り、船体となる巨木を切り倒し、船大工さんの協力で目の前にある2隻を作ったとは信じられないことです。そして、何よりも、現代の科学技術に頼らない、昔からの航法による本番の航海。今の技術ならもっと短期間にできてしまうことですが、人力で行うと実行にはすごく時間がかかります。さらに万全を期しても自然の力にはかなわない現実があります。実際、天候の条件さえ良ければ、航海も実際はもっと早く日本に到着できていたといいます。

◆今、日本を、そして世界を揺るがせている原発は人や自然の力を度外視してエネルギーを出してきました。快適で便利な私たちの生活は、相応の危険を背負いながらのものだった、とも言えるわけです。技術の革新で便利になった今の生活をガラリと変えることは難しいですが、この生活が当たり前なのではない事。それを支えているものは何かを常に意識していなければならないと、化学を学んできた私は感じます。

◆化学研究者の卵として化学を学んできて思うもうひとつのことは、化学反応は必ずしも邪悪なものではないという事です。使い方や方針を間違えばとてつもないことが生じてしまいますが、自然現象や生命活動もいうなれば化学反応の塊です。それをうまく使えば道は開けると思っています。今働いている会社は化学薬品を扱っており、その中でエネルギーを上手に使えるような事を将来はしたいと思っています。縄文号、パクール号の実物を見てそんなことを考えました。(生物・化学大好きな、うめこと山畑梓

追伸:私も社会に出てお給料をいただいています!そこで、今までお世話になってきた地平線会議にカンパさせて頂きます。どうぞ今後ともよろしくお願いします。(1万円+通信費2000円を添えて)


六月詠
石見銀山

金井 重

トンネルの 小さきをくぐり 下は海
  山陰本線 二輛のディーゼル

崩れたる 石垣石碑 点々と
  歴史を秘めし 銀山の道

今はなき 垣内に住む 家族らの
  日々のくらしや 思うだにいとし
 ★垣内=天領時代 柵で囲まれ出入口には番所が置かれた

ふみ出して ライトたよりに 背をちぢめ
  この闇堀りしか 間歩の冷たさ
 ★間歩=坑道・坑口

暗き穴 ここにあすこに 口あけて
  間歩のあかしを 語るがごとし

なだらかな 馬の通いし 道消えて
  石の急坂 大久保間歩へ

ヘルメット 長靴はきて ライト手に
  地下も頭上も 手掘りの間歩ゆく

山と川 みどりの中の 伯備線
  備中神代あり 吉備に入りしか

登りきて 年輪しみじみ 円通寺
  鉄鉢を手に 若き良寛
 ★円通寺=良寛が修行し「印可の偈」をうけた寺

国仙和尚の 木像拝し 墓おがみ
  長連寺辞す しぐれの中を
 ★国仙和尚=良寛の師

県都岡山の 路面電車も スマートに
  六層の天守 漆黒の烏城かな


作業をすればするほど、息が合ってくる
――女川町尾浦『屋根瓦集めボランティア』顛末

■作業2日目。「ヒラ!取っ手!マル!カド!」……地平線的瓦業界用語(瓦の形に応じて勝手に命名)を掛け声に、屋根瓦がリレー方式でどんどん運ばれ、積まれていく。初日の闇雲な動きが嘘のように洗練され、次々手元に来る瓦を流していると、眠気に襲われるほどだ。

◆7月1日深夜、18人が4台の車に分乗し、東京から保福寺のある宮城県牡鹿郡女川町尾浦を目指した。「頑張ってるぞ! 東北!! ツーリング」(第4弾)に続く「環日本海ツーリング」途中の稚内から一旦戻った賀曽利さん号に乗せてもらい、リアルな被害状況や解説を聞きながら、ぜいたくに北へ進む。早朝、三陸自動車道の矢本PAで全員合流し、賀曽利夫人差し入れの愛情おむすびを頬張り、緒方さん手製のたけのこ煮や、高世萌さんが持ってきてくれたサクランボをつまんだ。

◆高速を下りて女川町に向かうにつれ、道路脇には瓦礫などがうずたかく積まれ、無残な建物が立ちつくすように点在していて、被災地に初めて足を踏み入れた私には、理解を超えた光景が広がっているように感じるが、「ずいぶん片付けられた」らしい。コツコツと少しずつでも、一定の時間を置いて訪ねれば変化がわかるほど、確実に歩みは続いているということなのだろう。車を降りると腐敗臭がする地域もあり、酷暑の作業の更なる厳しさが思われた。

◆女川に入り、海辺の集落に立ち寄る。残った家も、倒れた家も、一様に“ぐちゃぐちゃ”。鈍る思考を抱えたまま、保福寺に到着。今回の依頼者、八巻住職が笑顔で迎えてくれた。畳敷きの大広間で、打ち合わせをする。依頼内容は『屋根瓦集め』。海辺の集落250軒のうち、5軒以外は取り壊しの指示が出ている。その作業が始まってしまう前に、何かできることはないか、と考えた結果、辿り着いたとのこと。

◆作業方法について具体的に確認し、午前9時半より開始するも、今ひとつ作業手順の要領を得ないままお昼となり、お寺に戻る。賀曽利夫人のお赤飯をいただき、パワー回復。午後には手際も随分良くなった。梯子をかけて男性陣が屋根に上り、バールやワイヤーカッターを使いながら瓦を引きはがしていく。梯子の途中で中継しながら、約10人ほどが寄せた車まで手渡しリレー作戦で運び、最後の人が積んでいく。積み方も、流れを中断しないよう素早く、しかも次に降ろしやすいようにするためコツが要るが、こちらもだんだんこなれてきた。かくして、現地で合流した3名含めた21名で、『屋根からリレー→車に積む→お寺に運ぶ→車から降ろす→指定場所に積む』を、数台の車を行き来させながら繰り返した結果、1400枚(アジャル氏数える)の瓦が回収された。

◆夜はバーべキューを楽しみ、今回の活動についての意見交換もなされた。集めた瓦に想いやメッセージを描き、お寺に保存する構想だが、詳細については、住職自身可能性を模索しているところだ。一時は200人余りの人々の避難生活を支えた(詳しくは地平線通信6月号を参照されたい)、若き住職の気概に共鳴して参加した私たちは、これからの動きも見守っていくことだろう。

◆2日目、またもや賀曽利夫人差し入れのパン(ほんと、ありがとうございました)で朝食をとり、掛け声も高らかに、午前中だけで昨日分の瓦を集めた。作業をすればするほど、息が合ってくる。昼食のエモカレーをおかわりしてまた元気になり、午後からは賀曽利さんの仲間も3人加わって、計約4000枚(推定)の瓦がお寺周りに積まれることとなった。

◆午後3時、一旦終了。落合さん差し入れの甘いドーナツが体に染みる。その頃自転車で現れた埜口さんを含めた計8人が残り、あとのメンバーは帰路についた。もうちょっとやりたかったなぁ、と思う。ぐちゃぐちゃだけど、あらぬところにあらぬものが散らばっていたり、ひっかかったりしているけれど、海や木々を目にしながら、軽トラの荷台に乗っかって風に吹かれていると、「いいところだな」と思えた。帰りに立ち寄ってもらった大川小学校でも、凄惨な現場に衝撃を受けた。献花台が置かれ、おそらく亡くなった人たちが身につけていたであろう、泥色をした衣類が並べられてあった。けれども、夕刻の北上川と背後の山と空の色合いがとても美しくて、やはり「いいところだな」と感じた。

◆その後は賀曽利ドライバーの予告時間どおり東京に無事到着。翌朝一便で大阪へ戻り、時々意識を失いながら仕事をしたが、なんとなく、見える風景が今までと違っている気もする。むりやり行ってよかった。八巻さん、みなさん、ありがとうございました。(中島菊代

【今回の参加者】(敬称略・順不同):賀曽利隆、賀曽利尚、緒方敏明、落合大祐、落合理人、村田忠彦、江本嘉伸、長野亮之介、塚田恭子、アジャル、熊沢正子、加藤千晶、宮川竜一、竹村東代子、高世萌、車谷建太、山本豊人、三輪主彦、飯野昭司、シェルパ斉藤、桑原和浩、下田義見、森本聡、埜口保男、八巻英成、中島菊代

今後も、地平線と八巻さん、そして東京と女川の窓口の役目を担い続けたい

■まずはじめに、地平線会議の皆さんと共に今回の企画に着手できたことを嬉しく思う。地平線の方々と一緒に汗を流し、同じ屋根の下で寝食を共にしながら親しくなれた事は、僕にとって歓びだった。良く知らない人同士が、自己紹介もそこそこに、チームワーク良く働けたのはなぜか。それは「ひとつの目的」を共有していたからだと思う。

◆その「目的」を初めに言いだしたのは、保福寺の八巻英成さんだ。彼が、「やりたい」と思ったことを周りの人に伝え、人が人を呼んで実現に漕ぎ着けたその様子は、実に見事であった。彼の熱い想いが、あれだけの人と瓦を集めたのだ。

◆個人的に残念に思った事もある。それは、八巻さん以外の被災地の方と、皆が話す機会を持てなかったことだ。八巻さんが、はじめ地平線で話をしに来てくれたのには「現地の生の声を聞いて貰いたい」という気持ちがあったはず。だが今回、僕自身、地元の方々の生の声は、ほとんど聞けなかった。他の参加者のみなさんもそうだったのではないか。

◆港で漁業再開の為に浜掃除をしている漁業組合員の方々の横で、笑顔で瓦を集め、軽トラックに乗って風を切って走る度に、僕は多少の違和感を感じた。またこんなこともあった。寺での昼食後、みんなが昼寝をしているとき、喪服を着た方たちがやって来た。たまたま顔を合わせた僕は「こんにちは、ボランティアで来た者です」と声を掛けたのだが、少なからず居心地の悪さを感じたのだ。僕たちは、本当に彼らの役に立てているだろうか?僕達がヘルプしたい相手に、僕たちは受け入れられているのだろうか?……時間を掛けてお互いの気持ちや意向を理解し合えたらと願っているのだが。

◆2日目の夕方、多くの参加者が帰り、残ったのは4人。だが、新たに心強い仲間が加わった。小牛田まで輪行してやってきた自転車の埜口保男さん、そして賀曽利さんの仲間の桑原和浩さんほかライダー3人組だ。3日目、3人組がみんなのために作ってくれた朝食を取った後、八巻さんも加わって瓦集めを開始。少人数ながら、半日で初日1日分位の量を集めることができたのである。

◆復興までは五年十年とかかる。今回の地平線会議の瓦集めも、復興を目指す活動の一つにちがいない。しかし今、やっとそのスタート地点に立てたに過ぎないのだ。僕がたまたま保福寺を訪ねた事がきっかけで始まったこの瓦集めプロジェクト。僕は今回のプロジェクトで、地平線と八巻さんの意向を調整役として結びつける努力をもっとするべきだった。僕は今後も、地平線と八巻さん、そして東京と女川の窓口の役目を担い続けたい。(宮川竜一)

「地平線会議」はすごいぞ!

■女川町尾浦での1泊2日の「瓦運び」から帰ってきました。いやー、じつに中身の濃い1泊2日でした。保福寺での夜はまるで地平線会議の合宿のようでしたし、朝のお寺のお勤めでは「般若心経」をあげたのですが、それは「四国八十八ヵ所めぐり」の日々を思い出させるものでした。

◆尾浦では感動の出会いがありました。1日の仕事を終え、クタクタになって漁港でひと休みしたときのことですが、1人の漁師さんと言葉をかわしました。まだ若い漁師さんで潮風に焼けた肌ときれいな歯並びが印象的でした。漁師さんはぼくの腕につけた「地平線会議」の腕章を見ると、ちょっと驚いたような声で、「20年ほど前まで出ていた『地平線から』の地平線会議ですか」と聞くのです。「たしか8巻まで出ましたよね。毎年、新年にヒマラヤの氷の湖で初泳ぎをする人の記事を読んで、えー、日本にこういう人がいるのかと、すごい元気をもらいました」

◆漁師さんのそんな言葉を聞いて、今度はぼくが驚く番でした。そしてその後の「地平線会議」の説明をさせてもらいました。「残念ながら『地平線から』はその後、出せなくなってしまいましたが、毎月の報告会は欠かさずにやっています。来年には400回を迎えます。我々のメンバー、20人が尾浦にやってきて、今、瓦集めをしています」。漁師さんももちろん、そのことは知っていて、「がんばってやってください」と励まされた。

◆漁師さんは最後に、「(地平線からの)第4巻目を人に貸したのだけど、返ってこないのですよ」といったのです。それを聞いて、何とか送ってあげたいと思いました。名前も聞いていないのですが…。(賀曽利隆)

★4巻というと『地平線から 一九八二』ですね。残部あるかも。探しておきます。(E)

長距離運転ボランティアを買って出て

■女川でのボランティア活動募集の要請を聞いた時、6月の報告会で被害状況やもう72才だが、幸い、車の長距離運転には慣れている。すぐ江本さんにメールした。

◆「下記要領で賛同させていただきます。[1]車提供小型トヨタヴィッツ5人乗り長距離の後部座席3人は厳しいかも。[2]運転手往復とも私1人で可毎年妻の実家十和田湖まで700Km1人で往復、走りなれたコースです。今回の距離は約350Km〜400Kmですので、上記半分の距離です」

◆家族は私が本当に役立つのか、と心配したが、江本さんから即座に「頼みます」と返信メールが来て決定。テレビ・新聞で、連日目にする悲惨な報道に何も出来ない自分に「もどかしさ」を感じていた矢先だったので少しは役立つかも、と嬉しかった。連日仕事で疲れている若い戦力を安全に現場に案内するのもささやかなボランティアとなるだろう。

◆当日は、山本、竹村、宮川の三君を乗せて疾走、明け方さすがに少し眠気が出たが、高速道を降り展開する瓦礫の街に眠気は吹っ飛んだ。現場では、若い人たちの間に入って瓦集めをし、リレーで運ぶ作業も皆で頑張った。行ってよかった。疲れをはるかに超えた収穫のあった数日間を今や思い出しつつ味わっている。(村田忠彦)

瓦集めとリハビリ

■ボランティアの1か月ほど前、サッカーによるケガが原因で歩くのも困難な状況が続いていた。震災によるストレスと梅雨の気候が体のバランスを崩して怪我につながったのだと病院の先生から言われたため、運気を変えるため家の大掃除をした途端、急激に体の調子が良くなり、日に日に怪我も治っていくのが実感できた。

◆そういう状況で、母親から地平線会議が瓦集めのボランティアをするという話を聞き、部外者で知識や経験もない自分が行ったら邪魔になるんじゃないかとためらいがあったが、ボランティア→掃除→運動につながればいいかなと、7月2、3日の2日間参加させていただきました。

◆沿岸部に足を踏み入れると、そこには新聞やテレビで見ていた景色が目の前に広がっていた。歩けばがれき、手を伸ばせばがれき、

泥や魚の腐敗臭にたかるハエの多さに初めて現実を突きつけられたものの、絶望的に思えた景色の中に花が咲いているのを見つけ、新しい命が生まれていることに希望が持てた。

◆保福寺をベースに行った瓦集めの作業は、屋根に上ってバールとペンチで瓦をはがし、側で受け取った人が梯子で待ち構える人に渡し、それを地上で4~5人がベルトコンベアー方式で車のトランクに積み込む。お寺まで運んで下ろして並べるまでが一連の流れとなった。1日目の午後にこのシステムが確立すると、収集ペースも格段に上昇し、同じように見える瓦でも5、6種類くらいの形があり、瓦のどの位置を持てば効率良く手渡しできるかも身についていった。

◆屋根の上にも何度か登ったが、想像以上に高い景色が広がり、瓦のないむき出しになった屋根は足場が悪く、少しでも気を抜けば足を踏み外しそうだった。こうして1日目に約1400枚、2日目にはその倍以上を集め、4000枚以上の瓦がズラッと並ぶのを見ていると不思議と足の痛みもどこかに忘れ、何ともいえない救われた気分になった。

◆生まれて初めて行ったボランティアが被災者の方たちにどこまで役立つか分からないが、何か力になりたいという純粋な気持ちと、瓦を集めるという一体感に間違いはなかったと思う。今回は20人ほどの輪であったが、大きな和の心、大和魂をもつ日本人だからこそ神様からこの試練を与えられたのだろう。現時点でこのボランティア活動がどう転ぶかは誰にも予想できないが、美しい姿を取り戻した女川の町に東北に、一日でも早く住民の方々の笑顔が戻ることを切に願う。(賀曽利尚 路上サッカー選手 編集者)

ありがたかった後方支援

■瓦ボランティアをメールで呼びかけたところ、関西在住の極地探検家、山崎哲秀さんから、「6月25日に講演を一件してきました。講演料の一部を瓦集めボランティアにかかる費用に使って頂きたく」という趣旨のメールとともに1万円が振り込まれました。貴重なカンパ、ほんとうにありがとうございました。活動の経費に充てさせていただきました。

◆横須賀の青木明美さんからは、地平線会議気付で保福寺に麦茶、スポーツドリンクの2種類の飲み物が2ケース送られてきました。青木さんは当初瓦ボランティアに参加予定でしたが、娘さんが発熱したため、大事をとって参加を見合わせ、心を贈ってくれたわけです。感謝です!

「きずな」を絶たなければいけない状況にある「フクシマ」――南会津からの近況報告

■(地平線通信の恵谷治さん、高世仁さんの原稿にあるカタカナで書かれた「フクシマ」の文字が深く心に残りました)この土地に暮らし始めて丸11年が過ぎようとしています。この春の大震災、原発事故から、フクシマの暮らしが一変したのはいうまでもありません。そんな今、私の身辺で起きていることを届けたいと思います。

◆まず南会津は、地震の被害は殆どなく、原発事故以降の放射線量も県内では低い数値と言われています。この「数値が低い」という言葉は地域住民に安心感を与えていて、地元紙や町の広報誌も「大丈夫」の言葉を大きく伝えているように感じます……。

◆今暮らしている家は民宿を営んでいることもあり、風評被害に対する不安は、やはりあって7月半ばから始まる「伊南川の鮎釣り」にも、どれくらいお客様が来てくれるかと。ただ、南会津とは比較にならないほど県内の観光地はツアーがなくなり、喜多方方面のラーメン屋さんなどにも閑古鳥が鳴いている話を聞くと、震災後に伊南まで泊まりに来てくれるお客様には「感謝」の一言です。

◆家業の他、地元の小学校で非常勤講師をしていることもあり、福島県内の全ての学校は、放射線量に繊細にならざるを得ない状況です。学校では毎朝、放射線量測定機で数値を測り、県に報告しています。福島の中通りから原発に近い小学校は校庭での授業もできず、プールも使用不可となり、外で遊ぶことにも規制があるということで南会津に避難してくる児童もいます(だいたい父親は家が原発に近くとも仕事を続け、母親もしくは祖父母と避難している小学生や園児が多く見られます)。

◆息子(4才)の遠足の日、避難している子のお母さんが2か月ぶりに娘に会いに来ていました。母親は原発の自主避難地域にある工場で働いていてとにかく職場を辞めることはできないという理由で社宅に一人で暮らし、両親と祖父母と娘と弟は伊南に避難、そんな選択を涙ながらに話してくれました。

◆地平線関係者とRQの活動を見させて頂きながら、津波に全てを流された地域へボランティアで駆けつけている姿に心が熱くなります。そこでは色々な人と人との「きずな」が生まれていて、再訪するボランティアの方々もいる。そんな行動に感動しています。そして今、フクシマでは、家も家族も(家畜もペットも)あるなかで、離れ離れになっていて「きずな」を絶たなければいけない状況にある人たちがこんなにいるということも、身近にあると心が痛みます。

◆私はフクシマに暮らしているからこそ、原発について放射能について、もっと学び考え続けていかなければいけない。もっと知らなければいけないことも沢山あるはず……。これから先、どこで、どんな生き方を選ぶことができるのかということさえも考えさせられています。今、フクシマの南会津にいるからこそ、自分にできることを探していきたい。そう思っています。(7月16日の鮎解禁を目前にした伊南川から酒井富美)

福岡、明大ホール、フランス・アンジェ――健次の残してくれたたくさんのご縁

■6月29日アクロス福岡シンフォニーホールで九大フィル第186回定期演奏会を聴きました。曲目は第100回記念定期演奏会と同じ「第九」。43年前に健次の大学院進学のきっかけにもなった曲です。少し前に事務局から九大フィルOBの健次の訃報を伝える会報と一緒に今回の演奏会の案内も同封されていました。きっと本人が元気だったら聴きたかっただろうなと思うと急に突き動かされるものを感じました。

◆前日宇都宮から新幹線で博多駅に降り立ちその日は久しぶりに伯父の家でくつろぎ、当日は朝から会いたかった友人たちと過ごし夕方の演奏会を健次の写真と待ちました。大学生がステージに登場し1曲目の「大学祝典序曲」が始まるとビオラのパートに若き健次の姿が重なりました。次の「第九」もソリストや合唱団がステージを飾り最高潮のうちに大きな拍手がわき起こりました。聴きに来て本当によかったと心から思いました。43年前の彼に会えたのですから。

◆そしてステージにはもうひとつ嬉しいことが待っていました。バイオリンのパートにかつて健次と同じ時代を過ごした友人がOBとして賛助出演していたのです。今回の九大フィルの記念誌を作る際にもこの方に頼まれて彼は段ボール一杯の資料を届けていました。演奏後楽屋にその友人を訪ねたのは言うまでもありません。そして資料は九大フィルに寄贈することになりました。

◆5月には明治大学での「植村直己冒険フォーラム」会場を宇都宮の友人7人と千葉の姉夫婦まで誘って訪ねました。会場の各シートには子ども達が折ったコウノトリが飾られ、フォーラムでは江本さんの話の切り口が4人のパネリストの興味深いユニークな話を引き出し満員の会場にどよめきや笑いが何度も起きました。その後送っていただいた地平線通信にはその時の様子がきちんと報告されあらためて「地平線会議」の物事へ取り組む姿勢を垣間見た思いでした。

◆この10月には健次のマラソン仲間が海外旅行に誘ってくれました。出来る時にいろいろなことをするといいからと背中を押してくれたのです。彼の残してくれたたくさんのご縁を感じます。先日東京でミニクラス会がありました。別れ際に地平線通信3月号(「原健次さん疾走す」)と葬儀の会場で江本さんが参列者に用意してくださった「原健次さんが抱え続けた壮大な世界」のコピーを一人ひとりに手渡しました。帰りの電車の中で読んでねと言いながら。こんなに一生懸命生きて駆け抜けて行った人がいたことを知ってほしかったからです。

◆今朝早く電話のベルに起されました。フランスのアンジェというところに住む健次の友人からでした。彼からは健次が亡くなってから何度も電話をいただいていました。以前健次がヨーロッパ遠征の際泊めて頂いて意気投合したアスリートであり詩人、作曲家、マイム家(体を使っての表現者)……でした。

◆ある時は電話口で健次のために作った歌をギターをかき鳴らしながら歌ってくれました。毎回長電話になり、電話代を気にしながらも健次の知られざるエピソードやいろいろな話を心地よく聞いていました。冒頭のコンサート会場での写真はその彼が私にお守りにしてと言ってパウチして送ってくれたものでした。ある友達は「原君のはなしをしたら何日もかかる」と言って笑っていましたがきっと私の知らない驚きのエピソードがみなさんの中にたくさんあるのでしょう。少しでも永くみなさんの心の中に生き続けさせてほしいと願います。(原 典子 7/3記)

三五康司、脳出血から復活するの記

■久しぶりに6月の報告会に参加することができて嬉しかった。昨年の4月以来だから、1年以上のご無沙汰だった。しかも報告者が鉄人・賀曽利隆さんとあらば、自然と足取りも軽くなろうというものだ。思えば、初めて地平線報告会に参加したのが1985年の賀曽利さんの南米大陸一周のリポートだったな、などと、柄にもなくしんみりと思い出に浸りつつ、JR高田馬場駅から新宿区スポーツセンターへの道を辿ったが、通い慣れたはずの道が暗く、行き交う人々の顔も見にくい――。これは震災の節電のせいで街が暗くなったせいばかりではなく、私が視覚障害者になってしまったためなのだ。

◆冒頭に参加することが“できて”と記したが、これは文字通り参加したくてもできない状態にあったためだ。昨年5月に突然脳出血を患い、緊急入院をするはめになった。元来の高血圧体質を放置しておいたのが主要因だったが、今思えば、大きな仕事が重なったところに深刻な親の介護問題が生じたりとストレスが溜まり、結構無茶をしていた時期でもあった(後のMRI検査で脳の血管奇形も見つかった)。

◆出血を起こしたと思われる瞬間の、あの、後頭部の一部の空間が“クシャッ!!”と潰れるような生々しい不快感と、時間の経過につれて次第に左半身の機能が凍りついていくような禍々しい恐怖感は忘れ難い。その後、救急病院のベッドで意識が復した時には、左半身が完全に麻痺して動けなかった。そして移動する場合は、車椅子にベルトで固定させられている状態で、筆舌に尽くせない不自由さを嫌と言うほど味わったのだが、それだけではすまなかった。

◆出血で脳圧が上がった状態が長期間続いたために視神経が強く圧迫されて機能障害を起こしてしまったのだ。次第に低下する視力と狭まる視野――。「全盲になってしまうのか」という恐怖感に精神を刻まれる日々は凄まじい体験だったけれども、不幸中の幸いとでも言おうか、右目の視力は失ったが、左目の視力はわずかばかり残ることとなった(視力障害と視野狭窄は酷いが)。そんないきさつもあって報告会に参加できなかったのだ。

◆戸山公園内に入ると、ほとんど真っ暗闇で、カミサンに手を引いてもらわないと右も左も分かりゃしない。それでも会場に着きドアを開けた。すると先にいらして準備をされていた賀曽利さんが駈け寄ってきてガッシリと握手をしてくださった。「いや、会えて良かった!本当に心配していましたよ」。篤いお見舞いの言葉が嬉しい。そして江本さんも「思ったより元気そうだな。自分で歩けているし」とニッコリ。三輪先生はコッチに来て座れ、と席を空けてくださる。

◆この時、自分の足で歩けるようになって良かったとしみじみ思った。実は発病時医師からは「自立歩行は難しい」と言われていたのだけれど、リハビリ病院での健闘の甲斐あって、なんとか普通に歩けるまでに回復することができた。(しかしリハビリはシンドかった!)。

◆開催時間が近づくにつれて、おなじみの面々が増え、私を見つけて握手とお見舞いの言葉をかけてくれる。その温かなひと言ひと言と触れ合いが心に響き、「この場に、還ってこれたんだ」という熱い気持ちがこみ上げてきた。思えば地平線会議からは、自分の生き方に多くの影響を受けてきたと思う。バイクに乗り始めたのは、地平線キャンプで賀曽利さんの50ccバイクでの日本一周の話を伺ったのがキッカケだし、江本さんにはモンゴルに下っ端の人足として連れていっていただいたし、地平線に来なければアフリカ大陸横断にもアジアの貧乏旅にも出なかったかもしれない。

◆報告会が始まった。賀曽利さんの旅人の眼差しが、凄惨な東北の現実を伝え、高世仁さんのジャーナリストの眼がチェルノブイリとフクシマの近未来を描き出す。いずれも辛くシビアな現実ではあるけれど、久々に“旅心”を強く刺激されてしまった。

◆でも、もう思うようには旅に出られんのだよなぁ……。賀曽利さんに「残念ですけどバイクに乗れなくなっちゃいましたよ」と嘆いたら、「三五さんの分まで僕が走りますから!」と力強く励ましてくださったけど、一瞬とても悲しそうな表情をされたので、あぁつまらないグチなんて言うんじゃなかったと後悔した。

◆今回の病気によって失ってしまった大切なものを思うと、やはり哀しい。甘えかもしれないけれど、思うように旅に出られなくなった辛さや痛みを本当に分かってもらえるのは、やはりリアルな旅を続けてきた仲間なのだと思う。さっき気持ちの琴線に熱く触れた響きがその繋がり合いだったら、とても嬉しいのだけれども。

◆話は少し変わるけれど、先日仕事で(徐々に社会復帰を図ってます)、放送作家の小山薫堂氏に「3・11について思うこと」というテーマでインタビューに行った。その際に同氏は“普通の価値を再発見”することの大切さについて語った。「今回の震災では、多くの日本人が普通の生活の大切さを再認識させられたでしょう。日々の生活で当たり前にあると思い込んでいた“普通の価値”を再発見(再認識)することによって、暮らしはより豊かになるし、豊かにそして深まるような生き方を考えるべきだ」(TBS発行『調査情報』誌501号特集記事より一部引用)と。

◆“普通の価値を噛みしめることの大切さ”は、同氏が脚本を担当した映画『おくりびと』の主要テーマでもあるのだけれど、自分のようにこれまでの生活で当たり前のように使えていた身体機能をいきなり喪失すると、普通の生活のかけがえなさと有り難みが本当に身に沁みる。だから同氏の発言が確かな重みをもって痛感できた(震災で平安な生活を根こそぎ奪われた多くの方々とは比べるべくもないのだが……)。

◆報告会が終わり、最後に江本さんが「三五、できれば来月もまた来いよ。待ってるからな」と言ってくださって、鼻の奥がツーンとなった。最近特に涙腺が弱めなのだが、五十近いオッサンが涙目でグスグスやってても様にならないのでグッとこらえたけれど、こういう言葉を気軽に掛けてもらえる“絆”が地平線会議にはあることの幸せを、素直に嬉しく感じた。これもまた自分にとっての大切な“普通の価値の再発見”だったように思う。そして、もう遠くには行けなくなってしまったけれど、月末の金曜日に出られる旅があるという喜びの“大切さ”を、これからも噛みしめていこうと思っている。(三五康司)

★追記:こんなプライベートな内容を通信に書くのは躊躇われましたが、「お前さんの病気を気に掛けている人もいるんだから生還を報告しておけ」という江本さんのご厚情に甘えました。

[あとがき]

■「RQ市民災害救援センター」が第2フェーズ(7月から)に入るのを期に6月30日、「RQシンポジウム」が東京・国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれた。RQのこれまでの活動とボランティア体験者の報告、そしてRQのこれからを語るプログラムで充実した内容だった。とくに南三陸町歌津地区伊里前契約会会長の千葉正海氏、気仙沼市のNPO法人森は海の恋人副理事長畠山信氏、そして、南三陸町志津川中瀬地区区長の佐藤徳郎氏の参加はRQへの信頼のあらわれと言え、意義深かった。

◆やや遅れて前方の席に座った私の携帯に「おつかれさまです」とのメールが入った。「江本さんの後ろに、私の母、おば、妹がすわっています」なんと新垣亜美さんからだった。中休みの時、後ろを振り向くと亜美さんに似た母上もこちらをすでに知っていた感じで互いに挨拶。RQ登米本部での亜美さんの大活躍は誰でも知っていて、この日も「各地ボランティア拠点の活動報告」のトップバッターとして報告した。

◆被災地を代表して参加した3人のうち、佐藤さんとは私も登米でお会いしている。RQ登米本部のある旧増渕小学校の避難所に暮らしていて、「足湯」サービスをお手伝いした時、一緒に足湯をしたのだ。住民からもボランティアからも深く信頼されている佐藤さんが、翌日は亜美さんの自宅に泊まる、と聞いて心がほころんだ。ボランティアは信頼されることが何よりもの宝物だと思う。

◆会場で無料サービスされたおいしいカレー、実は地平線仲間の新井由己さん、そのパートナー、香取薫さんの作品だった。250名もの参加者が全員満足したのだからこちらもすごい。(江本嘉伸)

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

探検ゴコロは眠らない

  • 7月22日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「探検家になって、世界を股にかけて歩き回っているはずだったけど…」と言うのは丸山純さん。地平線会議創設メンバーの一人で、編集者、ライター、DTPクリエイター、教育者、民族学研究学徒など多彩な顔を持つ才人です。幼少期のボーイスカウト体験から探検を志し、小学生から洞窟探検を始めた丸山さん。早稲田大学進学後、より広い世界を期待して、探検部の門を叩きますが、洞窟探検が主流だった当時のムードに抵抗を覚えて入部を断念。梅棹忠夫の「文明の生態史観」に出会って民族学に目覚めます。

'78年、アレキサンダー大王の末裔が住むという伝説が残るパキスタンのカラーシャ族のもとへ何気なく出かけたところ、その文化の奥深さにハマってしまいます。以来33年、他の場所に見向きもせずひたすらカラーシャの地に通い、交流を深め、記録を続けて来ました。現地の二世代に渡るつきあいの中、内外から起きる文化変容も目撃してきた丸山さん。今月は丸山さんの探検論的文明論です。必聴、必見!!


地平線通信 381号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年7月6日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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