2010年12月の地平線通信

■12月の地平線通信・373号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月8日。新聞、テレビは、内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者逮捕、そして歌舞伎俳優、市川海老蔵の前夜の記者会見を大きく伝えている。国際政治への影響、「知る権利」という点では、ウィキリークス事件のほうがはるかに重大な意味を持つが、六本木でのなまなましい傷害事件の“著名な被害者”が久々に登場するとあって会見場には500人の報道陣がつめかけた。100人ではない、500人だ。一方で金星探査機「あかつき」が周回軌道に入れるかどうか微妙な段階になっており(結局、ダメでしたね)、何はともあれ真珠湾攻撃から69年の節目の日、だというのに、若い歌舞伎俳優の言動が国家的スケールの関心事となっている現実は、しっかり見つめておかなければならない。あ、私もテレビで会見を熱心に見た1人です。

◆内部告発サイト「ウィキリークス」の登場は、一応メディアのはしっこに身を置いている者として驚嘆する出来事だった。数年前から存在してはいたらしいが、私にはチリの鉱山地下700メートルからの33名の生還と並んで2010年最大のニュースと思う。創設者のオーストラリア人、ジュリアン・アサンジは婦女暴行というおぞましい容疑で逮捕されたが、同時にふたりの女性とつきあったために、二股を怒った女性に告訴されたという情報もあり、犯罪の真偽は不明。いずれにしても、アサンジは「Time」誌恒例の「Person of the Year」に選ばれるだろう(12月15日に発表されるそうです)。

◆師走は掃除の季節だ。紙資料がてんこ盛りの部屋を少しは片付けようと、整理をやりはじめた途端、メモ帳がぎっしり詰まったダンボールが出てきた。パソコンも携帯電話も動画投稿システムもなかった当時、頼りとしたのは「メモ帳」ただひとつ。思わず、読みふけってしまった。

◆たとえば、メモ帳の1冊に「1978年9月12日、植村直己夕食会」という書き込み。北極点、グリーンランドの旅から帰還した植村さんを囲む会が日本記者クラブで開かれたのだ。「ご紹介の中でひとつ否定させて頂きます。私は英雄ではございません。優れた人間ではございません」と植村の冒頭の話を記録している。「日本が生んだたぐいまれな英雄」と毎日新聞の幹部が紹介したことに異を唱えたのだ。「北極点、グリーンランドが終わって何もない。さびしい。白紙に戻ってしまった気がします。自分はこれといったオマンマを食べる能力を持っておりません。非常に複雑な心境でございます」。

◆懸命に追って書いたのだろう、読み返してみてヘンに臨場感があって面白い。なぜひとり旅を?と聞かれて「人がきらいなのではないです。人は好きです。私はまずエゴです。他人の言うことを聞きたくない」「無銭旅行して稼いだお金でアマゾンを下ったとかアフリカの山を登った、とかいう時のほうが満足が大きかったです」

◆同じメモ帳の12月2日から4日まで、法政大学で開かれた関東学生探検会議につきあったことも記録されている。地平線会議を始めるきっかけとなった集まりで、日大・渡辺久樹、独協大・河村安彦、明大・吉田敏浩、法大・浅野哲哉ら今も顔を出す面々と話したことがメモ帳に残っている。「12月18日 三輪氏出発(トルコ) エジプト航空」のメモ。地平線報告会初の報告者となった三輪さんのことだ。翌日にはマングローブ緑化の仕事でクウエートに向う向後元彦一家のことがメモされている。

◆かくして1979年8月17日のメモには、宮本千晴、伊藤幸司、森田靖郎、岡村隆らが荒木町の我がマンションに集まり、“密議”した、とある。「地平線会議」の名称を決め、動き出すことを誓った日である。今ではこうして一応パソコンに情報を打ち込んで流せるようになっているが、つい先日まではすべて手書きだった。それらがゴミとなって我が仕事場を埋めている現状をどう改革できるか。

◆世界情勢を憂いつつ、にわか海老蔵評論家ともなる私は、昨夜のうちにスポーツ紙のサイトに「市川海老蔵会見ノーカット」動画が登場したことに驚いた。90分に及んだ長い会見の一部始終を自分の部屋で、勿論無料で見ることができる時代なのだ。記録すること、そして情報を伝達すること。それは私にとっても、地平線会議にとっても、大事にしてきたことだった。その大事な仕事に明日、何が、どんな方法が待っているのだろうか。12月24日、今年最後の報告会。ふるい“同志”から何かヒントが聞けるかもしれない。(江本嘉伸


地平線通信 SINCE 1979  発行 地平線会議
先月の報告会から

歩いて野宿して歩いて野宿して青春して野宿!

加藤千晶

2010年11月26日 新宿区スポーツセンター

■「今日は大物ですよ」 司会の丸山純さんには珍しい一言で、ほぼ満員の報告会が始まった。不定期で『野宿野郎』を出し、2か月前に出版した『野宿入門』が好調に売れている加藤千晶さんが、本日の報告者だ。楚々とした雰囲気に加え、控え目で滅多に自分を語らず、真面目で、今日もコチコチの緊張ぶり。どうしても『野宿』とは繋がらぬ、謎多き人…。「いつの間にか地平線にいたという印象。女性がなぜ『野郎』なのか、何を考えているのか知りたい」 丸山さんの言葉も、会場の人々の気持ちを代弁していた。

◆千晶さんが野宿に目覚めたのは女子高生時代。映画「イージーライダー」や「スタンドバイミー」の野宿シーンに、「これぞ青春!」と打たれたという。そこで、クラスメイトと一緒に、高校のある横浜から80km先の熱海目指して歩き始めた。そして、戸塚付近の道路脇側溝で初野宿。映画のような荒野ではなかったが、夜遊びの経験がなく、「夜は家で寝るもの」と思っていたから、「帰らなくても良いんだ」の発見は驚きだった。ただ、敷物の用意もなく、春先早朝の冷え込みで眠れない。仕方なく歩き始め、やがて迎えた夜明けの光景に「ああ、これが青春だ」と感動した。

◆第2弾の日光に続き、高3の夏休み、初めて長旅に出た。本人曰く、「進学の悩みからの逃避」。1日35kmを目標に、竜飛岬?下関の本州1600kmを縦断する計画だった。駅の待合室寝や道の駅寝を身に付けながら南下し、途中で相棒が離脱した後も、一人で歩いた。夜の田舎駅は、地元のヤンキー集団の溜まり場と化す。ジャージー姿にツッカケで原付に跨って現れ、メンバーが揃うと、またどこかへ出撃してゆく。けれど、廿日市駅(広島県)では午後10時を過ぎても動く気配がなく、緊急避難的に逃げ込んだ『障がい者』トイレで、初のトイレ野宿を体験。空間は広くて快適だし、何よりも鍵が締まるのが嬉しかった。

◆小部屋にひそんでいると、時折、他の利用者の声も聞こえる。千晶さんの観察では、用足しのオジサンのモノローグは、テンションも高低のいずれからしい。「俺はダメだ…」と呟くか、さもなくば陽気に歌うか。時には男女の痴話喧嘩も耳にした。お巡りさんの訪問も、野宿に付きものだ。大概は、問い合わせの電話に出た母の、「旅行です」の返答で家出の疑いは晴れ、「じゃあ、気をつけてね」で終わる。一度だけ、ビジネスホテルに泊まった。「ああ、これがビジホか」と思った途端、ポロポロと涙が出たという。「オープンスペースに泊まるのって、結構緊張してるんだなぁ」 ホッとしたことで逆に、頑張っていた自分に気付いたのだった。

◆スライドの32枚目は、駅前の、何の変哲もないタクシー連絡所。が、千晶さんは特別の思いで眺めた。「私、何やってんだろうなー」。予定が遅れて既に新学期となり、同じ高校生の通学風景を、ここで目にしたからだ。結局、ゴールの下関に到着したのは、新学期が始まって10日後だった。けれど、道はまだ延びている。その光景に、「もっと先に行きたいなぁ」と思っている自分に驚き、「楽しかった。大学生になっても続けよう」と心に決めて、進学野宿は終わった。

◆この旅では、特に旅費稼ぎのバイトはせず、貯めたお年玉などを資金にした。基本は、パン1斤を朝、昼、夕に分ける倹しい食生活。1日に1つくらいは食べ物をもらったものの、「交通費を除いて5万円」のツケが、体重7kg減となって現れた。

◆大学生になって最初の野宿旅では、四国を一周した。この時、駅周辺の食堂が、時間潰しに最適であることを知る。たむろっている地元の人たちと、「どうしたの?」「いや、実は…」のやりとりが始まり、「ちょっと○○さん、泊めてあげなさいよ」と店のオバサンが世話を焼いてくれたりする。地元の店だから、安全な人物を紹介してもらえ、他の客も成り行きを知っていて安心だ。

◆また、頼めばコインランドリーに泊まれることも発見した。閉店の施錠時に一緒に閉じ込めて貰い、店内のマンガを敷き詰めてベッドにする。人の厚意に甘えることの多かった女子高生旅の反省から、『大人の野宿』を決意した筈なのに、「コスっからくなりました」とは千晶さん。

◆就職を控えた大学4年生の時、またもや長い野宿逃避行に出た。2度訪れた四国では、何周もしている「遍路が人生になった」人たちに出会い、そういう生き方があるのか、と驚いた。「ここも廻っている人が多いから」それが北海道を選んだ理由だった。そしてこの旅でも、ライダーハウスで連泊しながらタコを獲っている青年、滞在先でローカルバスの運転手をしてる男性、毎日サケを釣っては、食べ切れない分をセッセと燻製している人などに会った。

◆千晶さん自身、「居候制度」のある徒歩宿に住みついた。廃校を利用した広い施設ながら、普段は客もなく、掃除が終わればマンガを読み耽る。ある日、痺れた脚でジャンプしたら、グキッと音がして骨折した。「野宿しないから体がナマったのかなぁ」 医者は入院を命じたが、それを振り切ってママチャリを買い、旅を続けた。

◆数多くの自由な生き方に出会った千晶さんは、彼らのライフスタイルに惹かれる一方で、自由と不自由がコインの裏表であることも痛感した。仲間の一人が車に接触した時、「ケガがなくて良かった!」と、みんな心から喜んだ。それも、保険に入っていなかったが故だ。野宿を日常にするより、趣味にして、「働いて時々野宿」でいこう。それが、約5か月に及んだ就活野宿旅の結論だった。

◆大学卒業後、千晶さんは資格を取って介護の仕事に就く。週3日ながら、一人暮らしする障がい者の夜間の付き添いで、拘束は16時間。年1回、1か月の休暇をもらって野宿旅に出た。社会人になって2年後、『野宿野郎』を出し始める。動機は、野宿から遠ざかってしまう寂しさと、「こんなことやってます」といえるモノが欲しい、との思い。このミニコミ誌が呼び水となり、人も巻き込んで、千晶さんの野宿遊びの新たな展開が始まった。都会の公園での野宿。渋谷駅のモアイ像前などで、寝袋姿で寝っ転がるパフォーマンス。自主制作ビデオ『野宿戦隊!シュラフマン』も撮った。

◆寝袋から眺めると、見慣れた光景が異空間となる。自由に旅に出られないなら、逆に身の回りを非日常世界にすればよい。母の誕生日にケーキを用意し、実家前の公園で“母子野宿”したが、その異空間効果で、普段は聞けない話も聞いたという。05年、『のじゅくの日』(6月と9月の19日)を制定。「6」や「9」を左右に90度回すと「の」になる、との洒落だ。

◆雑誌などでの紹介が増え、ドイツのメディアが取材に来たりもした。「日本では野宿が流行っており、サラリーマンが仕事帰りにやっているらしい」 先方のそんな期待に応えるべく、知り合いに頼んでモデルとなってもらったが、「富士山に登るのと野宿するのは何が違うのか?」の質問にはマイった。

◆07年秋からは、地平線チャリンコ族の熊沢正子さんと「1泊野宿」を重ね、河口から多摩川を遡った。デメリットの方が多い。そう思っていた女性の野宿も、女2人だと安心だし、警戒されることも少ない。川っぺりで暮らす、「ホームレス」の住まいにもお邪魔した。ガラもの拾いを生業とするオジサンは、「別宅に泊まればいいよ」と荷物を外に出して小屋を空けてくれ、その小さな空間で寝袋の脚を曲げて一泊した。草むらを畑にする人もいる多摩川の異空間ぶりは、面白く、豊かにさえ思われた。

◆この秋、都内の書店で、『野宿入門』の出版記念トーク&野宿を開いた。そのまま参加者と店の横で呑み会となり、地元の人も加わって盛り上がった。が、やがてお巡りさんがやって来た。書店の店長が謝り、「君らはウルサいから、早く寝てくれ」の注意だけで収まった。千晶さんは、『都心で野宿』ばかりが注目される最近の風潮に、少々疑問を感じていたという。しかし、この体験で、街なか野宿も土地の人とのコミュニケーションの場となることを知り、「これも良いではないか」と思い直したのだった。

◆報告を締め括る最後のスライドは、「たった1人の子供の通学のため、1日1往復だけ列車が停まる」という上白滝駅(北海道)と、波照間島(沖縄)のビーチ野宿の静かな風景だった。それは、今や「売れっ子」の彼女の、潜在願望かとも思われた。ほんわかしたイメージや脱力文体、時には奇抜とも思える彼女の活動も、実は単なる目眩まし。その原点は、極めて『地平線的』なのかも。謎が解けたような、深まったような…。

◆当の千晶さんは、2次会後、報告会場での表情がウソのような笑顔のまま、小雨パラつく中を3次会野宿の公園へと消えていった。[屋根fanだメンタリスト:久島 弘


報告者のひとこと
「わたしは一体全体なにを話そうとしているのだ。自分でも判らん」

■最初、自分の声がうらがえるわ震えるわで、どうしようかと思いましたが、と「が」で始まると、あたかもその後どうにかなったかのようですが、そうは問屋が卸さない。結局あんまり大丈夫にもならず、しばらくすると声は普通になったものの、「わたしは一体全体なにを話そうとしているのだ。自分でも判らん」と、おのれの言葉足らずさに愕然とし、もどかしさを感じながら、あれよあれよという間に終わったのであり、しかも途中途中で、「頼む、もーなんでもいいから時よ過ぎろ!」と念じたりもしており、まったくもってダメダメな報告者でありました。

◆思えば、10月にお話を頂いてから、身に余る大役、というかそれ以前の段階で、わたしは人前で話すということが、「ひえー、恐ろしい!」なのでありまして、報告会のことを三日に一遍くらいふと思い出しては(用意をするでもなく)、胃が痛くなる一か月間でした。だから当日、喋る前からすでに「ああ、胃も大事に至らずこの場に立てて、本当によかった。もう悔いはなし」、「わたし(の胃)、えらい、よくやった!」と思ったものです。ああ、どこまで、自分に甘いのか。と、そんな塩梅だったので、喋りながら「うー、もどかしい」と思う感情などは予想しておらず、「あれ、ちょっとだけ成長したかも」とびっくりしました。って、やっぱりものすごく自分に甘い、というか、スタートラインが後ろ過ぎやしないか。

◆思えば、受験勉強や就職活動という、若者を成長させたり節目になったりしそうな事柄(知らないからあくまでもイメージ)を、ただ「たいへんそうでイヤだなあ。それより楽しい野宿旅行してたいなあ」と、しないできました。それに対してまったく後悔はないし、心底そうしてよかったと思っているのだけれど……。

◆でも「自分はダメだなあ」という思いがあります。「でもまあ、ダメでもなんとかなるなあ」とも思っています。決して野宿という行為は褒められるものではないわけで、やはりどこかダメな感じが付きまとう。でも好き。そこも好き。褒められては野宿じゃない、って思うし。自分の性質にぴったりなのかも、などとふと考えました。

◆「ダメですみませんがそこをどうかひとつ」というような微妙なやりとりを必要とする野宿(旅行)を重ねることで、地元のひとや旅するひと、同じ場所で一緒に野宿をしたひと……一人ひとりをじっと見ようとすることを知って、わたしは少しずつ、ひとを好きになっていけたのではないか。他人のダメさを、より受容し、愛おしく思うようになったのではないか。って、たいてい自分のがより、ダメなんだけど。それは見なかったことにする。(加藤千晶


野宿」に寄せて
ノジュキストCの生態
━多摩川とその支流をめぐる歩き旅から━

■Cさんは朝、なかなか起きない。「おーい、日の出だよ」と声をかけても、「あーうー……もう少し、寝ていましょうよぉ……」と言って、温かい季節なら寝袋から両腕を出して伸びだけをし、また眠りに戻ってしまう。寒い季節は、そんな反応すらない。〈あーあ、せっかく、東京の畑の向こうから太陽が昇るところなのに〉などと、私は残念に思う。思うだけではなんなので、声に出して言ってみることもある。地面に寝転がったまま、誰かと一緒に、この国の首都のご来光を拝める機会なんて、人生にそうはないじゃないか。いや、Cさんの人生なら、けっこうあるか。じゃあ、しかたないか。

◆あれは去年の12月下旬だったか、野球場脇の芝生で野宿した朝、われわれの寝袋は霜でバリバリに凍りついていた。そこに朝日が角度を上げて射してくるものだから、じきに霜が溶けて、寝袋はズクズクに濡れてしまう。それを思うと胸がドキドキしてくるのだが、さなぎのままのCさんは8時を過ぎても羽化してくれない。私は我慢できずに、タオルでバッサバッサと、彼女の寝袋の霜払いをやってしまった。「はあぁ、ありがとうございまーす……」Cさんはそう言いながら、まだまだ起きないのだった。

◆やっと起き上がると、Cさんは寝袋に体を入れたまま、お湯を沸かしてラーメンを作ったり、どこからともなくチョコレートなどを見つけだして、うほうほと頬張ったりする。しかし、ここで油断して、のんびり気分に同調していてはいけない。私がパッキングに手こずっている間に、Cさんはさっさとトイレまで済ませて、〈出発はまだかよー?〉とばかりに、こちらをうかがっていたりするのだ。あれ、いったい、どこで抜かれたんだ? 多摩川野宿二人旅の朝は、だいたいこんな感じである。

◆Cさんは、どこを歩いていても、あまり現在地にこだわらない。というか、歩いた道筋を順序立てては記憶していない、らしい。「ほら、前に歩いたあの川は、この坂を越えたところでしょ。だから、丘陵を挟んで、すごく近いところに来ているわけ」なんて、地図を見ながら私が言うと、Cさんは「はあぁ、そうなんですか……。ところでそのときって、いったい、どこをどう歩いたのでしたっけ?」とのたまう。「ほら、○○駅から歩き出して、コンビニに寄ってから橋を渡って支流に入り、その先に遺跡があって」「遺跡? はあぁ?、行ったような気も……ああ! 行きましたよねぇ」という具合なのだ。

◆最初は、とぼけているだけなのかと思った。あるいは、いつも半分眠りながら歩いているのかも、とも思った。いやいや、どうやら地面の広がりに対する捉え方が、彼女と私では全然違うらしい、とわかったのは、しばらく経ってからだ。子ども時代から「探検記」「冒険小説」などをテキストにしてきた私は、地上に散らばるものを自分が歩いていく方向に、また時間の記憶を過去から現在に向かう形で、旅の行程を整理しようとする。それが普通だと思っていたのだが、Cさんはもっとランダムな感じのようで(ひょっとしたら「自分にとって、おもしろいかどうか」が記憶深度の基準になっているのかもしれない)、彼女にとってはそれこそが「普通」なのだろう。

◆Cさんの動き方は、ともすれば「いい加減」にも映る。土手下の斜面の歩きにくいコンクリにひたすら歩を進めているとき、ふっと消えて、いつまでも戻ってこない。後で確かめると、「川住まいの気さくなおじさんがいたから、おうちを見せてもらってきた」。あるいは川沿いの道の行く手にフェンスが立ちはだかって、私が迂回路を探してオロオロしている間に、ワシワシとフェンスをよじ登ってストンと向こうへ降りてしまう。つまり、心身のフットワークが軽いのだ。あまりに軽すぎて、年の離れた(そして身体能力が高くない)私は「ちょっと待ってよー」と言いたくなるときがある。けれどもCさんは、やすやすとは待ってくれず、「いひ」「うひょ」と、背中を見せて駆け出してしまう。こちらが頑張れば追いつく程度の、絶妙な速度で。そういう、心にくい人なのだ。

◆そんなちあきさん、いや、Cさんが、時系列できっちり説明する旅行記ではない、野宿のハウツー本(?)である『野宿入門』を書いた。そして、自分がなぜそのような野宿愛好家になったのかを、時系列を(なるべく)説明する形で、「地平線報告会」を開いた。どっちもすごく頑張っている。なんか、こちらももっと頑張って、人生を楽しまなくちゃなーと思えてくる。そういう本であり、報告会だった。

◆Cさん、いや、ちあきさん、いろいろどうもありがとう。そして、これからも一緒に旅をしていきましょう、地平線会議の人たちを巻き込んで。(多摩川野宿旅since2007〜の同行者・熊沢正子


彼女がすごいのは、何をやらせても、体を使うことであれば人並み以上にこなせてしまうところです

■加藤さんとは野宿仲間ですが、ねぶた仲間でもあります。そして郡上踊り仲間であり、スキー仲間でもあります。マラソンも、ときどきは一緒に参加します。要するに節操なくいろんなことに首を突っこんでいるわけですが、彼女がすごいのは、何をやらせても、体を使うことであれば人並み以上にこなせてしまうところです。

◆青森ねぶたで跳人をやらせたら、地元の人と間違われるほどの跳ねっぷりを発揮します。郡上踊りはお免状持ちです(正調の踊り方ができる人にお免状をおくる制度がある)。彼女の人並み外れた行動力の裏には、抜群の運動神経と日本の伝統を理解するセンスが隠されています。ただ寝袋に入って喜んでいるだけの人ではないのです。

◆しかし一方で、面倒くさがりで計画性がなく、そして非常に飽きっぽいという大きな欠点も抱えています。その飽きっぽいはずの加藤さんが、野宿に対するこだわりだけはいつまで経っても変わらないのですから、これは実に不思議なことです。加藤さんが野宿のどこにそんな魅力を感じているのか、一緒に野宿すると少しだけ理解できた気になり、ああなるほどと納得してみたりしますが、多分それは早計というものでしょう。

◆知り合って5年以上になりますが、最近ようやく分かってきたのは、加藤さん自身は魅力だ何だということは一切まったく何にも考えていないということです。よく「野宿の何が楽しいのか」という質問にそれっぽい答えを返していたりしますが、単に自分の内面にあるものを説明できないので、普通の人でも理解できる回答を用意しているだけなのです。そういうことを考える以前の、もっと体の深い部分に野宿というものが根付いているのだと思います。

◆そういった自分の内面に渦巻く"何か"に、決して肩に力を入れることなく自然に接している辺りが、周囲の人を惹きつける魅力につながっているのかもしれません。ちなみに恋愛話について補足しておくと、加藤さんからは初恋の人の話を聞いたことがあります。野球漫画「ドカベン」に登場する殿馬一人だそうです。(杉山貴章


「野宿戦隊! シュラフマン(予告編)」見てみたい!

■「野宿野郎」は読んだことがなく、報告会後の「3次会野宿」に参加したことがなく、野宿の人は謎に包まれて(?)いました。報告はスライドと共にポツリポツリと進められ、いつの間にかその世界に引き込まれていました。派手な映像はなく本当に淡々としゃべっているのですが…。加藤千晶さんの人柄がにじみ出ていて興味深かったです。「人に興味がある」「歩くのが好き」と話していたのも印象的でした。そして感じたことは、野宿は自由! いつでも好きなところで(とはいえよい場所選びには経験がモノをいうようです)寝られるのは素晴らしい。野宿できれば旅も自由度アップ、色々なことから解放されるかも。都心で野宿、やってみると面白そう。日常が非日常に。他人事だと思っていたものが、なんだか身近に感じられた報告でした。それから「野宿戦隊!シュラフマン(予告編)」見てみたいです。ちあきさん、ぜひリバイバル上映をお願いしま?す。(札幌 掛須美奈子 上白滝駅に行ったことがない……道民として行かねば! 笑)


海や山や河原で焚火野宿を重ねてきたのに、そういえば久しく野宿をしていないなぁ

■『野宿野郎』という雑誌を知ったのは「地平線通信」か報告会、それとも編集長のかとうさんを地平線会議に誘った坪井さんから聞いたのか、よく覚えていない。そもそも雑誌が成立するほど読者(=野宿愛好者)がいるのかと疑問に思った気がする。「野郎」というからには編集者もさぞかしむさい男だろうと想像していたのに、良家の令嬢のような若い女性が編集長だったことにびっくり。

◆わたしが初めて野宿をしたのは中学2年の夏。実家のそばの河原に堀立小屋を立てて近所の悪友たちと2泊した。あいにくの大雨で川は増水し3日目の朝には床上?浸水となり、大慌てで避難したことを覚えている。そんな目に遭いながらも、家を離れて野外で眠る自由さに快感を覚え、社会人になってからは「焚火研究会」なる集団を結成して海や山や河原で焚火野宿を重ねてきた。

◆ほとんどはテント泊で、着の身着のままあるいは寝袋のみで眠ることはそう多くはなかったが、『野宿野郎』ではテント泊よりも寝袋一つでどこでも(たとえトイレでも)寝ることを野宿と称しているようだ。野宿の定義とは何か? その疑問を解くためにはるばる山形から報告会を聴きに来たのです(というのも嘘ではないけれど、毎年この時期に開催されている「アイランダー」という全国の離島の祭典を見にきたことがもう一つの目的)。

◆雑誌を出すくらいだから、かとうさんがかなりの野宿好きであることはわかっていたし、わたしも参加した「24時間ラン&ウォーク」で仮眠をとる時に、小脇に寝袋を抱えてうれしそうに走り去るかとうさんの姿も目撃している。しかし報告会を聞くまでは、高校2年の夏に野宿をしながら本州縦断徒歩旅行を果たしたことは知らなかった。旅が目的というよりも野宿を続けるためにひたすら歩き続けたのが真相らしいが、女子高生が50日以上も野宿を続けた こと自体「スバラシイ」のひと言に尽きる。

◆本人はかなり緊張していたようだが、報告会は終始かとうさん独特のほのぼのムードで進められ、野宿デビューから現在までの野宿遍歴をスライドでとつとつと語ってくれた。話のはしばしから、野宿(と寝袋)に対するかとうさんのなみなみならぬ愛情を感じたのはわたしだけではないはず。かとうさんの著書『野宿入門』の帯には「楽しい。ただそれだけです。」とあって、確かにそのとおりなのだろうなと思いつつも、社会人になっても自分の好きなことは続けるぞ!というしっかりとした決意が感じられてうれしかった。

◆そういえば久しく野宿をしていないなぁ。最後の野宿は、あるイベントで製作中のサンドアートを警備するために砂浜にマットを敷いて夜を明かした3年前の夏か。心地よい風に吹かれ満天の星を眺めながら眠りにつく…はずだったのに、海風と一緒に多量の砂が飛んできて顔も体も砂まみれになったのだった。報告会の直後に届いた通販のカタログにあの「着たまま動ける寝袋」が載っていたのはシンクロニシティかも。買おうかどうかまだ迷っています。(飯野昭司/山形県酒田市)

[追伸]サッカーJ1のモンテディオ山形、2年目の今シーズンは13位で残留が決まりました。山形の新しいお米「つや姫」もよろしく。


地面から見上げる世界

■僕が最初に加藤さんと会ったのは5年前のドカ雪が降った日だった。吉祥寺の旅本専門店で講演したとき、店長から「野宿野郎」というミニコミ誌の編集長が来るので、会ってあげて、と頼まれたのだ。「野宿野郎!」。イヤでも興味をそそられる破壊的なコピーだ。だが反面うかつに関わっては、危険なのでは、とも思った。「どんな人なの?」に対する店長の答えは「野宿が大好きな恥ずかしがり屋の25歳の女の子」。へっ? これは怖い。想像を超えている。てっきり体育会系ヒゲオヤジだと思っていた。

◆ドカ雪にも関わらず、講演会は大入りだった。客席に「野宿野郎」はいるはずだ。25歳女性、該当する人は多くはない。なのにどうしても分からない。話の終了後に店長に紹介され、目の前に立っても、やはりどこにも「野宿」の匂いがしない。「2次会に行く?」と聞くと「はい」と消え入りそうな声。一応誘ってはみたが、2次会の面子は異常に濃い。登山家、ウルトラランナー、世界一周ライダー、放浪釣師、etc。この中に放り込むのは可哀想かな。

◆ところが宴会が始まっても彼女は自然体のままだ。媚びる、でも、怯える、でも、ゴマする、でも、負けじと自己主張するでも、ない。へーと思った。この人はこういう人たちを過去に知っていて、無理せずに同化できるのだ。

◆「何を野宿だと思ってるの?」雑誌を作るぐらいだから哲学があると思って聞くと、意外にも彼女はうろたえた。すると横から「オレの場合はね?」と濃いおじさんたちが、がなりだし結局彼女の答えは聞けなかった。「もっといろんな人の野宿話聞きたかったら地平線会議に来ればいい。僕はいつでも会場にいるし、面白い人紹介するよ」。まあこれが加藤嬢地平線デビューのいきさつだ。これで合ってるよね。

◆さて問題の雑誌「野宿野郎」だが、僕はこれを一種のリトマス試験紙だと思っている。「野宿」という言葉は伊沢さんの「のぐそ」学と似た性質を持っている。生理的にダメな人は言葉を聞いただけで、拒否反応が出てしまう。生理的にだから仕方ないとはいえ、中身も確認しないで無視するのは失礼で、もったいない話だと思う。伊沢さんのキノコを地面から見上げた写真は新鮮だ。同じように地面から通行人を見上げると世界が変わる。

◆かつて旅行中に浮浪者になったときに、きれいな言葉を並べながら体中から軽蔑の空気を発している人たちにあった。見下される側はその空気に敏感で、当然そんな人とは仲良くなれない。報告会で加藤さんは多摩川の川原に住むおじさんと親しくなった、と言った。これは実は凄いことで、芯から優越感や差別意識がない人間にしかできない芸当だ。見えないけれど歴然とある社会の階層を、軽々と越えていける人はやはりカッコイイのだ。(坪井伸吾


十一月詠
 ゆず湯のゆず

金 井  重

夜を徹し テーホヘテホヘ 霜月の
   山の気ゆらす 神楽の囃子

赤鬼の 去りし舞庭に 鈴の音の
   ひらり若衆 市の舞清し

羽のごと 両手拡げて 鳩の舞
   小柄な老の 軽やかなソロ

湯ばやしの 大釜の湯浴び お祓いの
   喜びにわく 山も人らも
        奥三河御園花祭り

今年から ゆず湯のゆずは 庭のゆず
   湯気かきわけて ようご同輩

庭に出て 朝刊手に ふと見上ぐ
   月の丸さに 昨夜のこよみ知る

歌壇らん それぞれの選歌 いとおかし
   さもありなんと 選者のイメージ

くしゃみ出て 大臀筋に 痛さ走り
  今朝の冷え知る ショックの一瞬


地平線ポストから

“極地探検史上最大の謎”、フランクリン隊。彼らはどのような風景を見ながら死んでいったのか。その風景を垣間見てみたいと思う

■先日、雑誌の取材で某若手山岳写真家とともに北海道最北部に浮かぶ利尻島を訪れた。目的は名峰利尻山の冬の情景を写真に収めることである。利尻島は島というよりも海面から頂上が突き出した山の一部と考えたほうが適切で、よって気象条件は基本的に悪い。そのため取材日程には1週間もの幅を持たせていたが、幸運にも入島3日目に快晴に恵まれ無事登頂。当然、写真撮影も終了し、余った三日間は稚内で時間をつぶさざるを得なくなった。

◆そんなある日、市内中央部にあるショッピングセンター二階の小さな書店をぶらついていたら、ふと『北極海レアメタルを死守せよ』という米国の通俗小説が目にとまった。わたしは来年春から北極に行くつもりなので、現在、北極と名のつく本はすべて手に取る習慣になっている。小説は、隊長以下129人全員が死亡したフランクリン探検隊の最後のシーンから始まっていた。奇遇にもわたしの北極取材のテーマはフランクリン隊にまつわる予定なので、思わずページをめくる手が速まった。

◆極地探検史上最大の謎(とわたしが勝手に呼んでいる)フランクリン隊。1845年、欧州とアジアを結ぶ幻の北西航路を探すため英国を出発した彼らは、カナダ極北部に広がるジグソーパズルを引っ繰り返したかのような多島海のどこかで忽然と行方をくらませた。当時の名だたる極地探検家が何人も大掛かりな捜索隊を組んで行方を探し、十年以上の歳月を経てようやくフランクリン隊が残したメモ、数々の墓や遺品、白骨化した無数の遺体などが見つかった。その結果、現在の通説としては、彼らは1848年4月に北米大陸のグレートフィッシュリバーを目指し、その途中で全員が力尽きたとされている。『北極海レアメタルを死守せよ』でも、フランクリン隊が全滅したのは1848年だと設定されていた。

◆次の冒険旅行のテーマを北極に決めてからというもの、わたしはいろいろと北極探検に関する本や資料を読んできた。当初は越冬をテーマに北極を旅行するつもりだったが、資料を読んでいるうちフランクリン隊の謎に引きずり込まれてしまった。凍てつく荒野に残されたわずかな物的証拠、あいまいだが信頼に足るイヌイットの証言、今も伝わるオーラルヒストリー……。それらの鍵を、まさにジグソーパズルのように組み合わせると、実は通説とは異なるフランクリン隊の別の姿が浮かび上がる。あるカナダの研究者によると、彼らが全滅したのは通説とされる1848年ではなく、1851年であり、さらに彼らが全滅したのはキングウイリアム島付近の通称「飢餓の入江」ではなく、カナダ内陸部のどこかなのではないかという。

◆彼らは船を放棄した後、ハドソン湾会社のいずれかの交易所を目指して陸上を徒歩で脱出しようとした。だがその途上で飢えのあまりカニバリズムに走った。そのため後世の関心はこの目をそむけたくなるような悲惨でグロテスクな隊の末路にばかり向けられてきた。しかしわたしは正直言って彼らのカニバリズムについてはほとんど関心がない。わたしが心を揺さぶられるのは、隊の最後の生き残りがどこに向かい、どこで死んだのかということである。仲間の死肉を漁ってまで生きのびようとした男たちは最後、一体どこを目指したのか。彼らはどのような風景を見ながら死んでいったのか。わたしはその風景を垣間見てみたいと思うのである。

◆隊の最後の生き残りのリーダーは、イヌイットからアグルーカと呼ばれていたという。この人物が隊員リストの中の誰に当たるのか正確なことは分かっていない(クロージャー船長だとする説が有力ではある)。しかし約160年前、アグルーカとその仲間がただ生き延びるためだけに北極の荒野のどこかで人知れず格闘していたことは間違いない。南極大陸横断に失敗したシャクルトンは生還できたから英雄として自らの物語を後世に残すことができたが、命を落としたアグルーカはその物語を伝えることはできなかった。だが実は両者の間の本質に差異はないとわたしは思う。両者の行動の中にはおそらく同程度に、極地の過酷な自然により浮き彫りにされた人間の生のすごみを発見することができるはずだ。

◆北極について調べるうち、わたしは、アグルーカが伝えられなかった物語を、彼らの行方をたどることで書きたいと考えるようになった。もちろん彼らの末路は「極地探検史上最大の謎」なので、アグルーカの墓でも見つからない限り、その行方について決定的なことは分からないだろうが、それでも残された事実をもとにその行方を筋道立てて考えることは可能だろう。彼らに悲劇をもたらした孤立無援の荒野の真ん中に身を置き、その格闘の模様を心の中で感じてみたい。簡単に言うと、わたしは資料を読んでいるうちにアグルーカの物語に感動してしまったわけだ。取材対象に感動することは、ものを書く上での最低条件だ。

◆ところで、稚内の書店で見つけた『北極海レアメタルを死守せよ』であるが、結局プロローグを読んだだけで本は買わなかった。小説の本筋自体にはあまり得るものがなさそうだったからだ。その代わりに近くに並んでいた吉田修一の『さよなら渓谷』を購入、『悪人』にも劣らず心に沁みるラストに読後30分余韻にひたった。舞台が北極だろうが、国内の小さな渓谷近くの住宅地であろうが、人の心に訴えかけるのは、やはり人間の本質を浮き彫りにするようなストーリーなのである。(角幡唯介

★角幡さんがヤルツァンポー探検をテーマに書いた『空白の五マイル』は集英社の「第八回開高健ノンフィクション賞」を受賞、11月19日、帝国ホテルでの授賞式ではスピーチで「次は北極」と宣言した。12月5日の朝日新聞「ひと」欄でも紹介された。

さまざまなヤバイ経験をしてきた。死を寸前にした過去に想いをめぐらせつつヒマをもてあました入院生活。今、人生は素晴らしいと感じる。生きていることはなんと素晴らしいことか。それは、長い困難な旅の末に与えられたご褒美にちがいない

■たしか落語のなかで、こんなおちがあった。「あの世って、よっぽどいいところらしいね。逝っちまった連中は、だれも、もどってこない」。笑った。するどい指摘だ。戻ってくる事例としては臨死体験がある。が、それは「死」そのものではない。

◆この世に生まれた以上、かならず死が待っている。例外はない。興味深いのはふたつの違いだ。「誕生」には祝福がある、明るい。“天上天下唯我独尊”と唱えて生れたお釈迦さん、キリストさんの誕生は、ベツレヘム上空に輝く星の出現におどろき、占星術のえらい学者3人が探しにきた。それら嘘っぽい話をのぞけば、「誕生」はきわめて平凡かつ画一的だ。それに対して「死」はどうか。悲しい、暗い。だが心に訴えるドラマ性がある。近松門左衛門の心中ものや、シェークピアの「ロミオとジュリエット」を出すまでもないだろう。

◆ぼくが東京農大山岳部に入部したひとつの理由も、「死」のドラマと無関係ではない。農大山岳部にも所属していた松濤明である。冬の北鎌尾根。動けなくなったパートナーの有元克己を置き去りにできず、自分も死を選ぶ決意をした。松濤の遺稿『風雪のビバーク』は感動的だ。

◆「死」について考えを巡らすようになったのは、いつごろだったか。9月にうけた癌の手術のときではない。S状結腸の20cmを切除したが、ぼくはいつも楽天的だ(正直にいえば、癌細胞の転移は認められない、といわれホッとしたのも確かだが……)。思えば、過去に死を寸前にしたことは何度かある。ヒマをもてあました入院生活、過去に想いをめぐらせた。

◆大学1年の夏山。北穂高岳の山頂直下、急峻な雪渓で足をすべらした。やばい。次の記憶はせばまったゴルジュ状の岩場、そこにぶつかり空中を飛ぶ自分の姿だった。瞬間、ふたつの指令がどこからか聞こえてきた。キスリングザックを身体からはずせ。身体をひねって右側の緩斜面にむかえ。そこからの記憶はない。あとで聞いた話によれば、気を失って雪渓に倒れていたぼくが発見され、涸沢小屋まで運ばれたという。そこで岐阜大の医師によって頸椎骨折との判断がくだされた。一生、下半身もしくは全身がうごけなくなる可能性がある。またまた、まわりの人たちの助けがあって、小梨平まで担架で運ばれる。自衛隊のヘリコプターが待っていた。松本まで飛び、ただちに病院に運ばれた(幸いにも頸椎骨折の判断はあやまりで、頸椎打撲だった。それでも1か月近い入院を余儀なくさせられた)。

◆1963年、トゥインズ(7350m)登山のとき。カンチェンジュンガ氷河でヒドゥン・クレバスを踏みぬいた。一瞬気を失っていたようだ。気がつくと、10mほど上の雪面に丸い穴があき、真っ青な空がのぞいていた。手にしたピッケルはシャフトが折れ、腰につながるザイルは空間でたるんでいた。クレバスは一旦せばまり、ぼくはそこでひっかかったのだ。その部分がもう少し広ければ、ぼくだけではなく、ザイルを結び合っていたシェルパも、ともに奈落の底におちていただろう。

◆不注意のなせる事故である。穂高岳は夏山合宿の後半だった。すでに1か月近くを山で過ごし、体調は最高のコンディションだった。合宿の前半は剱岳での岩登り、さらに槍ヶ岳まで縦走した。穂高では滝谷でちいさな初登攀もやっていた。そこに油断があったのだ。トゥインズ登山でも似た状況にあった。前年の62年秋、マカルー直下のバルン氷河からカンチェンジュンガ氷河までを歩く(向後元彦『一人ぼっちのヒマラヤ』1964年、ベースボールマガジン社)。ヒマラヤにすっかり慣れたつもりでいた。やはり油断が事故を招いたのだ。

◆67年の東部ヒンドゥクシュでは慎重そのもの。チトラルで一緒になった京都府大山岳部の現役2人の助けを借りて、「安全な」登頂ルートをさがした。おかげで登山経験のないカミさん(紀代美)と農大探検部員2人も6000m峰の頂上に立つことができた。それでも「慎重」には限界がある。先鋭的な登山を続ければ、必ず「死」が待っている。そんな意味のことを深田久弥が書いていた。たしかにその通りだ。若くして逝ってしまった仲間のことを考えても、また確率論からも、それはうなずける。ヒンドゥクシュを最後に危険な登山からは足を洗う(スコットランドの最高峰ベン・ネヴィスやポナペ島の最高峰ナナラウトなどを登ったが、どれも「危険」とはほど遠い)。

◆子どもが生まれ、家族で世界の辺地の旅をした(向後紀代美『エミちゃんの世界探検』1972年、毎日新聞社)。それらは小さい子どもづれの旅としては先駆的なものだった。が、やはり「危険」とはほど遠いものだった。

◆アラビアで「マングローブ」をはじめたのは78年、38歳のときだった。沙漠の海岸にマングローブの森をつくろうとした。それは単に砂漠・アラビアというだけではなく、マングローブの植栽技術開発という意味でも、先駆的な研究だった。当初、成功の可能性はまったく不明。プロジェクトの経費だけではなく、家族の生活費もない。お金のことだけでも、ぼくは、その行為を「冒険」と評価した(向後元彦『緑の冒険』1988年、岩波新書)。

◆危険な行為から足を洗ったつもりだった。が、相手はマングローブである。フィールドはアジア、アフリカ、南北アメリカ、太平洋地域の熱帯・亜熱帯の海岸地域。これまでの30年間で、それらの大部分に足跡を残した。多くは小さなボートでの調査活動である。「危険」に別れを告げられるわけはない。幾度となく遭難に近い経験をした。

◆航空機の事故もあった。ベトナムのホーチミン空港。離陸寸前のボーイング737の車輪がパンクした。機体をゆさぶる激しい横揺れ。永遠に続くように感じたが、実際には10数秒のことだった(ちなみにジャンボ機でもエンジンのフル回転から45秒以内で離陸する)。機体は左に進路を変え、激しい縦揺れの末に滑走路わきの草原でとまった。緊急脱出で地上におりると、背丈をこえる土手が滑走路から続いていた。航空機がいかに急カーブをきったかがわかる。優秀なパイロットの判断と技術がなかったら、まちがいなく多数の死者が出たにちがいない。

◆思い起こせば、さまざまなヤバイ経験をしてきた。病気のことも思いだされる。冬のアフガン・イラン国境で発病した肝炎、吐血し1か月の入院を強いられたデング熱……。苦しかった。

◆いま、71才。平安な日々を満喫している。わが家の窓から見える広葉樹林の四季の移り変わり。それひとつだけでも、人生は素晴らしいと感じる。それは、長い困難な旅の末に与えられたご褒美にちがいない。生きていることはなんと素晴らしいことか。そんな幸福感にひたっている今日このごろである。(向後元彦

故郷大変貌の中で、在日チベット人ロサン・イシェさんの希望。チベットの風は日本にも吹いている……

■神奈川県に住むチベット人のロサン・イシェさんに腫瘍が見つかったのは、今年10月のこと。元は僧侶で、還俗して家族を持つようになったロサンさんは、在日チベット人コミュニティーが11月に横浜で行うデモの世話役を担っていたが、直前にコミュニティーの代表が辞任したために、世話役だけでなく代表まで引き受けることになってしまった。

◆もともと11月に横浜で行われたAPECのために来日する中国の胡錦濤主席に直接チベット問題を訴えたいとコミュニティーで企画したデモ。検査のためにデモ当日参加できないロサンさんほかコミュニティー幹事の面々と、ここ数年チベット人の活動を手伝ってきた私たち日本人スタッフが、荒川区に住む女性介護士、ドルマさんの小さな自宅でミーティングを開いたのが10月下旬だった。

◆ロサンさんのように、日本国籍を取得し、表舞台に上がれるチベット人は限られている。僧侶や留学生には政治活動は許されていないし、チベット本土出身で家族が中国当局の監視下に置かれているために自由に発言できない人もいる。だから、コミュニティーの幹事を担える人は限られてしまうし、こうした活動は仕事の合間にしかすることができない。そんな苦労をしてでも、自分たちのアイデンティティを守ろうと努力する姿に私は感動する。

◆今年2月の角幡唯介さんの報告に垣間見るように、「秘境」チベットにも大きな変化が顕われている。私が訪れた20年前とでは比べ物にならないので最近の動きだけでも列挙すると、2006年に青蔵鉄道がゴルムドからチベット自治区内のラサまで延長したのに続き、今年9月にはパンチェン・ラマの都、シガツェまでの延伸区間が着工された。またチベットの西端にあり、カシミールと接するガリ地区には7月、阿里昆莎空港が開港し、エアバスが成都から飛び始めた。ヤルンツァンポ中流部のロカ(山南)では51万キロワットの発電を予定するザンム(蔵木)水力発電所の建設が本格化し、11月にはヤルンツァンポの本流がせき止められた。

◆開発が進む一方、10月にはアムド(主に青海省のチベット地区)のレコン、ツェコ、チャプチャなどいくつかの町で高校生たちによるデモが起きた。原因は省教育部が高校の教科書を中国語のみにすると発表したこと。チベット自治区内の高校では既にチベット語の教科書がなくなっており、チベットの「中国化」は深刻な状況にある。

◆チベット本土のチベット人たちは、それでも亡命政府がインド北部のダラムサラにあること、そして世界中で非暴力を説くダライ・ラマが健在であることに希望を見いだしている。もしダライ・ラマが病に倒れたら? 亡命政府が権力争いに陥ったら? 希望を失った本土のチベット人たちがテロに走り、チベットがアフガン化することはないだろうか?

◆10月3日、亡命政府の次の主席大臣(カロン・トリパ)を選ぶ予備選挙が、チベット本土を除く世界中で行われた。現在のサムドゥン・リンポチェに代わる次のカロン・トリパは、任期10年のうちに「ダライ・ラマ不在のチベット」という亡命チベット人の歴史上かつてない課題を担う可能性が高い。来年3月の選挙で次のカロン・トリパが決まるが、予備選挙で22万票を集めてリードしたのは43歳のハーバード大法学博士、ロサン・センゲ氏。元首相でスタンフォード大学のテンジン・ナムギャル・テトン氏が彼を追い上げている。どちらも政治的な手腕に心配はないが、いずれにしても選挙に加われない本土の人々からの信頼が得られるかどうかが、「二つのチベット」の将来を決めることになるのではないだろうか。

◆各国首脳が横浜に集まり、厳戒態勢となった11月13日、チベット人たちのデモは140人の参加者を集め、神奈川県警だけでなく福島県警、群馬県警の協力の下で無事に行われた。胡錦濤に届けと、先頭で声を涸らしたドルマさんは、すぐに自分の勤務に戻っていった。ロサンさんの手術も12月1日、無事に終わり、まもなく退院できる見通しだ。チベットの風は日本にも吹いている。(落合大祐

負傷者の担ぎ下ろし顛末、破壊され尽くした避難小屋
   ━━鷹匠が秋の山で遭遇したこと

■最近たて続けに新聞記事になる出来事が私の身近で起きた。最初の事故は、紅葉も終わりに近づいた10月24日山形県と宮城県の県境にある大東岳(1366m)で起きた。それは山形市で小さな山の会を主催している友人のTさん(56才)から誘われた山行で彼とはこれまでも何度か飯豊山や朝日連峰の祝瓶(いわいがめ)山等に一緒に登っているのだか、置物のたぬきのような腹のつき出た体形やツェルトやシュラフカバーも知らずに、これまで何年も初心者を山に連れて行っていることに以前から一抹の不安を抱いていた。

◆案の定今回登るコースも彼自身一度も登ったことのない沢沿いのコースで、ただ登山地図を見て計画を立てたとのこと。面白山高原駅からすぐに深い渓谷沿いの登山道に入り、最初は順調に登っていたのだが、11時25分小沢を飛び石づたいに登るところで参加者の女性(55才)が大きな石の上で足をすべらせて転倒し、右の腰を強く打った。最初は単なる打撲ぐらいに思っていたが、いくら右足や腰をさすっても右足に全く力が入らないという。幸いその参加者の中に小児科医だが若い医者がいて、はっきり断定できないが骨折かもしれないとのこと。

◆救助を呼ぼうにもその現場からは誰の携帯もつながらない。私が駆け下りて救助隊を呼んでくることを提案したが、本人は大ごとにするのが嫌なようで呼ばないでほしいと言う。そして「おとうさんにしかられる。もう山に行けなくなる」と悲しそうにつぶやく。そこでどう搬出できるか皆で相談し、私とTさんと医者が交代で背負って運ぶことにする。下山するコースも登ってきた渓谷沿いの急斜面の細い道では万一足をすべらせたら二人とも深い谷に転落する危険があるので、かなりの登りになるがいったん南面白山の山頂まで登り返して運ぶことにする。

◆最初私のザックをさかさにして背負うことを試みるが「痛い、痛い」と苦痛の叫びをあげる。ザックのフレームをはずして副木にしたりもしたが、これも背負っているうちに外れてしまう。50キロ近い人間を手だけで背負うのは相当な苦労で、足場の悪い岩場や大きな段差のある道では、数分もしたら腕が疲れてしまい交代を余儀なくされた。途中から一緒に参加していた大学生たちも背負うのを手伝ってくれたが、登山が初めての彼らの靴はみなすべりやすいズック靴だ。あっという間に皆の体力も消耗し、立ちくらみがしたり足がつったりする者が続出した。

◆それでもどうにかこうにか悪戦苦闘しながら3時間以上をかけて山頂まで担ぎ上げたのだが、そこから先がさらに悪い道で大きな石がゴロゴロし、人を背負った状態ではいつ転倒して二重遭難になってもおかしくない。秋の日は短かくもうあたりは薄暗くなり、Tさんに時間を聞くと4時半だという。普通であればここから1時間半ぐらいで下山できるのだが、怪我人を背負い、皆が疲労しきった状況では何時間かかるか分からない。間もなく暗くなること、下りのほうがすべって転倒する危険があることをTさんに告げ、再度救助を呼ぶことを提案した。

◆幸いそこからは携帯がつながり、私がいったん下山して11人編成の救助隊を現場に案内したのだったが、全員が下山するまで夜中の10時半までかかるという大がかりな救助作業となり、翌日の三面記事をにぎわせてしまった。後日彼女の怪我はやはり腰骨の骨折だったとのことで、相当痛い思いを長時間味わわせてしまい、反省すべき点の多い山行だった。

◆もう一つの事件は11月4日秋田県の栗駒国定公園内にある虎毛山(1433m)で起きた。この山は「虎」や「寅」の字が付く山では標高が最も高く、山頂には広々とした高層湿原や池塘が点在し、2階建ての避難小屋も建っている。人のいない静かな小屋が好きな私は、この小屋に泊まりたくて飼い犬のさくら(柴犬の雑種)と林道終点から登り始めたのは、ようやく雨が上がった11時半だった。

◆山頂までは約4時間のコースで、ゆっくり登っても夕方暗くなる前には小屋に着けるだろう。厚く落葉が敷きつめられた登山道をさくらはどんどん駆け登り、時々戻ってきては「遅いよ」という感じでまた登り返す。すると登っていくにつれ雪が現われ始め、中腹のブナ原生林あたりでは積雪は20センチ近くなってきた。もう登山靴も靴下もびしょ濡れである。嬉々として駆けまわっていたさくらも足が雪にもぐるので先頭を行くのを嫌がり、私の後についてくる。ちゃっかりした奴だ。

◆山頂近くなるとさらに積雪は増し、木道を踏み外すと膝まで潜ったりしてなかなか思うように進めない。それでもどうにか暗くなる前の4時頃ようやく山頂にたどり着いたのだが、そこは実に荒涼とした風景に包まれていた。北には栗駒山、南には神室(かむろ)連峰が今にも降り出しそうな厚い雪雲の下に横たわり、驚くべきことに小屋のすぐ近くには半ば雪に埋もれた兎の死体がころがっていた。胴体部分が喰われた兎の死体だったのだが、すぐさまさくらがその死体に喰らいつく。

◆さらに驚いたことには、小屋の入り口の扉は倒され、窓という窓はすべて壊され、内部には雪が吹き込んで3センチ位の厚さで吹き込んでいた。倒れた扉の上にはハンマーやスコップ、はしご等が散乱していたが一体何者の仕業だろう。まるで凶暴なならず者が破壊していったような有様だ。しかしゆっくり考えている時間はない。もう間もなく陽が落ちる。小屋の柱にかかっている温度計はちょうど0度をさしており、これから夜にかけてさらに冷え込み厳しい寒さが訪れるだろう。そして我ながらマヌケなことには、持ってきたのはいかにも薄い夏用のシュラフだ。

◆これから雪をかき出し、寒さに震えながら眠れぬ夜を過ごさなければならないのか。もうすでにこうしている間にも、寒さがゾクゾクと身にしみてきた。しかし、ここでふと思い出したのは、麓の秋の宮温泉郷にある小さな温泉旅館のことだ。以前仕事で泊まったことがあるのだが、1泊朝食付きで3800円という安さだ。今から急いで下ると私の足なら2時間ほどで下れるだろう。冷え切った体を熱い温泉で温め、ふかふかの柔かい布団で眠る。それはまるで地獄から天国に上るような魅力的な空想だった。このくらいの贅沢ならば罰はあたらないだろう。こうして暗くなりかけた急斜面の雪道を何度もころびながら、不気味きわまる山頂から逃げるように駆け下ったのだった。

◆翌日関係機関に連絡したところ、数日前に台風並みの強風がこの一帯で吹き荒れ、それで破損したのではないかとのこと。そして3日後の河北新報には、壊れた避難小屋の写真が大きな記事となって報道されていた。(松原英俊

「もうこのへんでいいだろう、自分なりに充分やったじゃないか」と悪魔のささやきに妥協?
   ━━田中幹也の憂鬱な冬

■もう1か月以上どこへも行っていないし何もしていない。原因は秋に患った2つのケガにある。まず、数年前より痛めていたがだまし騙し酷使してきた両ヒザ。10月下旬、スポーツ整形外科の診断は「半月板損傷」だった。そう聞いたとたん、駅の階段も手すりを使わないと歩けなくなった。悪いことは重なる。その翌日、右手を7針縫うケガに見舞われた。ビルにて宙吊り状態で作業中、誤って突起物にぶつけた。余談だが清掃作業のはずがビルを血に染めてしまった。いずれもたいしたケガではないが、行動半径は大幅に狭まってしまった。

◆とにかく11月上旬、奥多摩の沢登りに出掛けた。右手の抜糸はまだ。包帯を厚く巻いたまま。ヒザもかばいながらでないと歩けない。ドクターストップはもちろん無視。まあ、初級の沢登り。どうってことねえ、余裕のヨッちゃん!! そう豪語するはずだったが、惨憺たる結果に終わった。ちっぽけな滝ばかりにもかかわらず、すべての滝を高巻いてしまった(エスケープのこと)。傷の痛みは覚悟のうえだった。けれども、ダメもとで突っ込んでいた以前の自分はいったいどこへ行ってしまったのだろう。

◆何事も経験を積むと、リスクを避けようと本能的に保守的になる、という落とし穴がある。ほんのささいなできごとがきっかけで、自分の冒険が引退どきにさしかかっているのではないか、という気になった。落ち込んだ。そして引き篭もりがはじまった。1か月間、冒険、アスリート、傭兵、外人部隊などの本を読みつづけた。

◆自殺を選択するのもひとつの勇気。「もうこれ以上走れない」と遺書を残した円谷幸吉(東京オリンピックで活躍した長距離ランナー)のルポを読んでそう痛感した。真摯なトップアスリートにとって身体的障害は死にも勝る恐怖。あるいは、創作活動に生きる芸術家にとってアイディアの喪失も同様だろう。彼らが死を選ぶのは、むしろ必然的な結果。本質を失うことにくらべたら、死はちいさなものだ。そう解釈できない人は、失って困るほどのものを持たない空虚な人生を送る人たち。いずれにしても、自分に自殺を選択する勇気はなかった。喪失によって半狂乱になるほどのものも持っていなかった。ケガを通して、自分はしょせん中途半端な人間に過ぎないと証明された。

◆12月上旬、右手は完治したが、ヒザはいまだにリハビリへ通っている。前に凍傷で切除した足の親指をかばって歩いているため、まずは歩行練習からはじまった。完治する日がくるのかどうか誰にもわからない、と思えるほどリハビリの成果は出ていない。毎年恒例だった厳冬季カナダの旅は、いまの自分の頭からは消えた。毎日飽きずに眺めていたカナダ地図も、このところまったく目にしていない。生きることもなく死ぬこともなく低きへと安易へと流されながら、日々を送っている。

◆自分はこのままさらに低迷をつづけ廃人へと堕ちてゆくのだろうか。それとも、「もうこのへんでいいだろう、自分なりに充分やったじゃないか」と悪魔のささやきに妥協して枯れた大人へと成熟いてゆくのだろうか。考えはじめると、今日も眠れない。長い冬がいま、はじまろうとしている……。(田中幹也

[追記]自分とは縁もゆかりも無い、青山のおしゃれなカフェで、トークショーがあります。テーマは『チャレンジ』。わたしはゲスト出演(14時20分より)です。凄まじい寒波で重度の凍傷を患った厳冬季カナダ中央大平原縦断について話します。どんな展開になるのかはわかりません……。あとは、当日のお楽しみということで!!
 ■日時 12月12日(日)12時〜16時
 ■場所 東京都渋谷区神宮前5-51-1 アオヤマアイズ  TEL 03-5485-1012
 ■チケット 前売り/ワンドリンク付 2500円 当日はプラス300円(キッズ料金 小学生まで1500円 乳幼児は無料)

「体にぶつかる風に、重さが無い」これが標高4500mのチベット高原におけるファーストインプレッションだった
   ━━たごっち、2010年10月17日午前8時45分、チベット高原にて高度5055mのフライトに成功す! モーターパラグライダー飛行高度日本人新記録なり

■多胡です。今年の空の旅は厳冬の北海道羅臼、知床、サロマ湖からはじまり、春は福島花見山、夏は福島只見川、双葉、北海道の北竜、美瑛、南紀は熊野古道、中国長江6300kmと続き秋は福島は裏磐梯、新潟は松代、そして地元京都で締め、本年店じまい。まさに渡り鳥の一年だった。地上を旅し、その出逢いを胸に大地を俯瞰する。多くの人との出逢いと協力のもと自分の今があると、年の瀬を感じながら整理する2010年に思いを巡らせている。

◆多胡フライト史において今年はターニングポイントだったと言える。厳冬期フライトの技術・装備が確立できたことは前に述べたが、もう一つの問題、どれくらいの高度まで飛ぶことができ撮ることができるのかを見極めることができたのだ。2010年10月17日午前8時45分、チベット高原にて高度5055mのフライトを成功させた(モーターパラグライダー飛行高度日本新記録)。これは人の暮らしが存在する限界標高でのフライト成功といえる。耳学問でなく、実体験として高度5055mを飛べたことはこれからのフライト人生においてかなり大きい。対策改善の必要はあるが、地球上、人の暮らしが宿るすべての空間を自分のスタイルで飛んでいけるのだ。

◆じゃ、高度5055mを飛ぶってどんなことと思われるだろう。ただエンジン吹かして飛ぶだけでしょ? 扇風機の様なエンジンを背負って、サッカーグランドぐらいの広場を走ると白いパラグライダーがワッと広がってあっという間に飛んでいっちゃう、いつもテレビで見ているアレでしょ? と言われるかもしれない。

◆「体にぶつかる風に、重さが無い」これが標高4500mのチベット高原におけるファーストインプレッションだった。吹き流しは5m/sぐらいの風を受けはためいて見えるが、経験則としてある5m/sの風を僕の体は受けていない。2m/s位だった。地上でパラグライダーを風にはらませてみると、パラのラインの張りが弱く発生する揚力(浮く力)が劇的に頼りない。

◆標高4500mにおいて空気中の酸素密度は57%まで落ちる。つまり風(空気の波)が物にぶつかっても海抜0mと同じような抵抗は発生しない。だからパラも張りが悪く、揚力は形成できていない。例えばジェット機が高高度を飛ぶのは、追い風としてジェット気流を利用すると同時に、高高度の酸素密度の低い空域を飛び空気抵抗を減らす狙いも含まれている。つまり抵抗が無いから加速でき対地速度(滑空物の地面に対する速度)が低空域よりも上がる。その結果、同じ距離を飛ぶにしても時間と燃費を稼げる。じゃ、パラグライダーではどうなんだい? 揚力を発生させにくいということは離陸距離が伸びるのだろうか? 飛んだとたんに空気抵抗が無いからカッ飛んでいくのだろうか? カッ飛んだまま着陸体制に入ったときのスピードは制御できるのだろうか? 目の前にはどこまでも見渡せる標高4500mの平らな大地が広がり雲の形が行き交う風を写し出している。一体全体このスカスカの風を掴んで飛ぶということはどういうことなんだ?

◆エンジンを回してみた。低下した酸素密度の影響が顕著に出ている。酸素密度に合わせて供給する燃料を減らしセッティングを決める。エンジンは日本と同じ回転数で回るが、エンジンに送り込むガソリンが少ないから爆発力が無く、馬力は半減していた。エンジンの回転がプロペラに伝わり作り出される推力(風)もプロペラがかき出す酸素が半分なので半減。まるで強風モードだが弱風を送る壊れた扇風機のようだった。揚力の発生しないパラグライダー、馬力の出ないエンジン、推力の出ないプロペラ、低酸素に思うように動けない人間。負の要素が4つ、これがスタートラインだった。

◆2003年、マッケンジー川を初めて自分一人で飛んだときと同じヒリヒリした心境になっていた。久しぶりだった。展開が分からなすぎて抱え込む不安と踏ん切るタイミングを計りながら5000m対策をテストする静かな時間が流れた。結局2日見送り気持ちは決まった。標高0mと5000mの差を確実に知ることをモチベーションの核にしフライトに臨んだ。

◆父ちゃんが高度との戦いをしているとき、1歳になった天俐は日本の我が家でハイハイから二足歩行への脱皮に挑んでいた。スカイプに写る我が子は立ち上がるが一歩が踏み出せずユ?ラユ?ラと直立。重心を取るためにつり上がった両腕が奴らしい、慎重派だ。いつのまにか4本だった歯が8本になっていた。親は飛び暮れ、子供は子供で育ち、今年はかなり歩未と実家に負担がいった。年末年始はサービスてんこ盛りを確約しなければなるまい。2011年も1月から厳冬の只見川そして長江ロケが続くが多胡家一丸で乗り切るしかない。高高度フライトとハイハイの縛りから解放され、向かう先の展望は大いに開けているのだから。高度5055m続編は長江での活動がまとまり次第報告したいと思う。(天空の旅人 多胡光純

■追記:父ちゃんは飛び飛び三昧しているけれど、母ちゃんだって産休明けて展示会とか忙しいんだからっ。日本記録とか出しちゃって、鼻の下伸びちゃってるかもしれないけど、母ちゃんは自分企画のイベントの試行錯誤で頭の毛ぇ抜けそうやねんで。だから私もいつまでも床に這いつくばってる訳にはいかんのよ。たっちして、あんよして、早くイッチョマエになるっ! ご飯は既にイッチョマエ食べられるんだから! 今は母ちゃんがイベント中で忙しいから、父ちゃんが保育園にお迎え来てくれるし、ご飯も作ってくれるのー。サービスしてもらってるんだ♪(天俐 代筆・母)

初添乗仕事は、何の因果か、殴られ強盗に出くわした彼の地でした!

■先日はやっと地平線会議に出席でき、江本さんはじめ皆さんに挨拶できました。約7か月ぶりだったので、本当に皆さんに会えてうれしかったです。たくさんの方に社会人っぽくなったね?と言われ、照れくさいような、自分は意識していなくても周りからは「そうなって見えていた」ことにちょっとがっかりなような、そんな気分でした。

◆ 私は今某旅行会社の営業の中の南アジア・中国・東南アジア方面のセクションに配属されていまして、だいたい月に1度10日間前後の添乗に出ています。添乗員付きの高額なツアーには全く縁も興味もなかったのですが、長引いた就職活動の終盤に1社だけ受けてみた旅行会社にいい返事がもらえ、晴れて入社となりました。

◆入社して4か月目に行かされた初の添乗は、インドのヒマラヤの麓の村、マナーリーで高所にしか咲かないブルーポピーを探しに行く、というツアーでした。ここがなんと、私が2009年9月、ひとり低額予算旅で訪れていたところでして、その時殴られ強盗に出くわし、本気の手ぶら状態、果ては山中に捨てられ深夜に歩いて下山、という目に遭ったところでした。

◆会社に「インドのマナーリーに行け」と言い渡された時は、一体何の因果か、とふと考えましたが、事件のあった時私はパスポートも、1ルピーも持たない状態だったのですでに開き直っており、マナーリーの温泉にのんびり浸かったり、村人に「こんな目に遭った?っ」とぺらぺら話しては同情とご飯をもらって生き延びておりました。なので地理に関してはもはや地図いらずな状態だったので、まあよしとするか、と初の添乗に出かけたのでした。

◆それから8月にインド、9、10月はパキスタンと中国の国境越えのコース、11月は再びインド、とインドとパキスタンを中心に行かせてもらっています。日本全国から集まった10人ほどの人達との旅行は、とても楽しいです。みなさん何らかのテーマや、目標を持っており、旅行の出発前はかなり勉強されて来ています。なので添乗員も負けじと勉強せねばなりません。

◆おかげで仏教には詳しくなったと思いますが、チベット仏教が……難しいですね。いや、完全に理解したら悟りを得ることになってしまうのだからすぐに分かるようなものではないのでしょう……ということにしていますが。

◆目下、年末のバングラデシュのツアーに向けて準備中です。今はまだ先をしっかり見据える余裕がないのかもしれないです。ようやく仕事に慣れてきたという面もありますが、ほんとのところ頭のなかはパンパンです。これからどうするのか、どうなりたいのか、考えるが余裕ないです。でも意識しないとこのままずっと、こうだろうなって思います。本当に月日が高速で流れていっています。もちろんそれは悪いことではないと思いますが、なんでしょうか、ことは足りてももの足りない、そんな感じでしょうか。

◆「経済活動と安泰のみが生きる目的ではない」。この言葉は、2008年8月に報告された宮原巍(ホテル・エベレストビュー建設者)さんがおっしゃっていました。その時の報告会レポート、私が就職前に書かせていただいたもので、時々読み返しています。そして落ち込んだり、ああっ、ってなったり目の前がクリアになったりしています。なんにせよ学生時代に宮原さんを知ることができたこと、お話が聞けたこと、それに対する自分の意見をまとめていたことはとても良いことだったと思います。地平線会議に感謝です! それでは、また近況報告したいと思います。(橋本恵 元ウルドゥー語劇団団員)

『山ガール・登山ガール』

■ご無沙汰してます。竹村東代子です。先日のちあきさんの報告会も行けなくて残念でした。11月末に発売されたモノマガジン別冊のモノスタイルアウトドアで『登山ガール』という特集をしていて、その中にイラストレポを2ページ書いてます。『山ガール・登山ガール』というテーマで文章も全部書いています。昨今の山ガールたちについて、私なりに考察してみました。なかなかおもしろいレポになったと思うので、ご興味あれば見てみてください(^^)ではでは、また報告会でお会いしましょう!(竹村東代子 ムサビOG)


[通信費をありがとうございました]

 先月以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて払われた方もいます。万一、漏れがありましたらご一報ください。
菅沼進 長塚進吉 今利紗紀 山本美穂子 津川芳己 井倉里枝 小山田美智子


大晦日から新年の4日間、「黒百合ヒュッテ」のケーナコンサートに来ませんか?

■先日は、ルーテル市ヶ谷センターホールでのケーナコンサートにいらしていただき、ありがとうございました。お陰様で無事終えることができました。また、品行方正楽団の皆さまにも、全面的にサポートいただいたこと、心より感謝いたします。

◆大きなツリーが飾られ、クリスマスの雰囲気がただよう教会のホールでの、ラテンアメリカの音楽は、いかがでしたでしょうか。

◆さて、年末31日からお正月の3日まで、八ヶ岳で冬山ケーナコンサートを行います。今年で30年目。登山口から約3時間、標高2,450mのピアノもある山小屋まで、楽器、衣裳など自前で担ぎ上げます。

◆品行方正でおなじみの家内と、エルコンドルのギタリストの三人編成。日本の自然と、アンデスの山岳楽器であるケーナの音色の融合ができればいいなと考えています。

◆黒百合ヒュッテにて(小屋直通090-2533-0620)。茅野からバス。のち徒歩3時間。コンサートは期間中毎晩。

◆それでは、地平線の皆さまに、どうぞよろしくお伝え下さい。(長岡竜介 ケーナ奏者)

新聞記者になります!

■地平線会議のみなさん、こんにちは。上智大学探検部4年の井口と申します。以前、雲南省での自転車活動を企画した際に、安東浩正さん、江本さんをはじめ、地平線会議のみなさんには大変お世話になりました。みなさんのお話を聞いて、「世の中にはこんなにおもしろいことをやっている大人がいるんだ!」と感激したのを覚えています。にも関わらず、しばらくろくに顔も出さずに連絡を疎かにしてしまって、申し訳ありません。去年から世間の大学生と同じく就活戦線の荒波に揉まれていましたが、今年の秋にやっと朝日新聞記者の内定を頂くことができました。

◆今まで探検部では、登山、沢登り、激流下り、洞窟、無人島などの活動を毎週末と長期休みに行ってきました。特に、アラスカへの憧れとともに自転車活動にハマり、国内では北海道を二週間かけて海岸線沿いをぐるっと一周したり、海外では中国の「シャングリラ」をテーマに、雲南省のバーメイ村、徳欽、四川省の亜丁(ここは中国当局の規制によって到達することはできませんでした)を目指して42日間で約1300kmほどの旅をしたりしました。で、今回はネパールです。10月末から11月9日まで短い自転車の旅をしてきました。

◆この時期のネパールはダウンいらずで、都市以外でも英語が通じるため、旅行者にとっては(排気ガスとゴミの臭いと虫を気にしなければ)とても過ごしやすいところという印象でした。カトマンズとポカラの真ん中にあるムグリンからポカラまでの約110kmの行程で、一日10ルピー(1ルピーは約1.16円)で過ごさなければならなくなったことがありました。特にスリなどに遭ったわけではなくただ両替をケチりすぎたせいなのですが、ポカラまで現金両替所はなく、ATMはあれどなぜか自分のクレジットカードが使えず、途中で行動食と水も底をついてしまいました。

◆辛くて心が折れそうになっているときに、「ハロー!」と手を振って笑ってくれるネパールの人の顔を見ると、もう少しがんばろうという思いが湧いてきました。その後、何とか1ドル札で水を手に入れてから、ポカラの宿に着いたのは夜9時を過ぎたころでした。ポカラは去年のデータより物価がだいぶ上がったようで、1泊350ルピーで3日泊めてもらいましたが、観光地のレイクサイド付近の宿はどこも500ルピー前後まで上がっていました。

◆滞在中の5〜7日は「ディパオリ」というお祭り期間でとても賑やかでしたが、その一方でネパールの貧富の差の大きさも強く感じました。西へ行くほど「ハロー」の後に「ギブ・ミー・マネー」と言われることが多くなり(本当にルピーを持っていなかったのでどうしようもないのですが)、ポカラゲートをくぐった後に通ったポカラと、レイクサイド周辺のポカラの間には、見えない壁でもあるかのような違和感を覚えました。

◆一人海外旅行ははじめてで出発前は少なからず不安もありましたが、一杯のチヤではじまる朝のゆっくりとした空気と、人のしたたかさと明るさというネパールの魅力に今回もハマってしまいました。これからはお仕事でお世話になることもあるかもしれません。社会人になってからも地平線会議とのご縁を大切にしていきたいと思っていますので、未熟者ですがこれからもよろしくお願いします。(井口恵理


[先月の発送請負人]

地平線通信11月号の発送に駆けつけてくれたのは、以下の方々です。14名も来てくれ、作業はとても捗りました。

 森井祐介 車谷建太 久島弘 国見功 満州 松澤亮 新垣亜美 武田力 江本嘉伸 杉山貴章 今利紗紀 鯨岡美由紀 落合大祐 岡村隆

★いつものように、発送先リストは、杉山貴章君がまとめてくれ、深夜介護の仕事で水曜日は来られない加藤千晶さんが宛名ラベルを印刷、森井さんに送ってくれました。皆さん、どうもありがとう。


■地平線はみだし情報 彫刻家 緒方敏明さん、特製干支の兎、製作中。コーヒーカップも人気。


地平線会議からのお知らせ

「地平線カレンダー・2011」が完成!!

■先月の通信でお知らせした通り、長野亮之介画伯と丸山純氏による恒例の「地平線カレンダー・2011」が完成、11月の報告会場でお披露目されました(原画も持参して見せてくれた)。題して『熱帯国風霧雲饒之森巡遊行』。画伯が4月に旅したコスタリカの森がテーマで、図柄、デザインが、ひときわ斬新です。たとえば1、2月号は、長あぁい腕をしたサルがジャングルの樹間をつたっている情景。森のクモザルの群れに遭遇したのですね。3、4月は、なんだかネズミの大きいのみたいな動物が4匹、餌を求めて徘徊する図。カピバラ? いや、アグーチという大型げっ歯目の動物です。以後は略しますが、堂々たる「作品」であることをご理解ください。毎年、画伯と丸山君がどれほど気合をこめて制作しているか、地平線の仲間たちにはわかってほしい、と思います。このカレンダーは贈ると、とても喜ばれます。滅多にないものだからでしょう。是非1部でも入手ください。(E)

=地平線カレンダー入手方法=

★判型は例年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙を付けた全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。送料は8部まで80円。16部まで160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。葉書での申し込みも受け付けます(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方 地平線会議・プロダクトハウス 宛)

★お支払いは郵便振替で、カレンダーの到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「地平線カレンダー2011代金+送料」とご記入ください。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。次回の地平線報告会の会場でお支払いいただくのでもけっこうです。


時間が止まっていない━━「地平線カレンダー・2011」に思う

■江本さんの おっしゃるとおり 長野さんのカレンダー すばらしいと思います。ほんとに そのように思います。長野さんの描く絵の素晴らしさ。絵の魅力を実にうまく活かす丸山純さんの素晴らしさ。もっともっと、みんなに知らせたい。ぼくも買ってだれかにプレゼントしようと思います。去年のも友人にあげました。多くの方々に喜んでいただける贈り物だと思います。

◆ぼくは貧乏なので 今年もたぶん1部しか買えないです。だけども長野さんの描いたカレンダーが ぼく自身にとって いかに素敵かということとか その想いを書くことが少しできるかもしれないです。それは たとえば こういうことです。『あのとき、あの場所、あの体感、あの空気…』とか、画家があの時コスタリカにいた自分と今此処にいる自分を、時空壁を自由に行き交う、そのような特別な時間。画家は、過去と今此処のタイムラグを取り払うばかりか、絵の中の時も止めない。そうだ、長野さんの絵は、「時間が止まっていない」んですね。スゴい。

◆画面の中に大地や大気や風や陽光や芽吹きの匂い、鳥の唄、海の風の湿り気、とかとか。思い出す今の自分を世界へ飛ばす、その構図や色の工夫を「だいたいこんなもんかな」「ここはこうだろう」の その超絶な的確さ。いつも 「世界を観たい」という好奇心が先行している。一枚一枚を ほんとに楽しんで描いてらっしゃるのだなぁと思います。

◆自身の世界観を旅する画家はとっても気持ちよさそうだ。それは地平線会議の旅人の皆さんもきっと同じ、常に気持ちが先行している。いくら才能や技術が伸び磨かれようとも。生き生きと大好きが続く止まらない時間。そして、そのことがいかに難しいか。至難を楽しむ好奇心。自力で生み出した御自身の画風を確立しながら なお常に進化しづける難しさ。越えていくパイオニアワークそ極めるオリジナルの中のオリジナル。長野さんにしか描けない絵を 生み続けていらっしゃる。

◆コスタリカへ行った長野さんも羨ましいけど、画用紙の中を自由自在に旅する長野さんは、もっとずっと羨ましいです。 これからも ずっとずっと素晴らしい絵を生み続けてほしいです』(彫刻家 緒方敏明


[あとがき]

■はじめに、上のイラスト文中、伊藤幸司さんを「地平線会議の設立趣意書を起草した当人」というのは、少し違うので補足説明を。伊藤さんが書いたのは報告会300回記念に出した『大雲海』の冒頭に記録されている「地平線会議趣意書案」という手書きのメモです(これが実によくできている)。次のページに活字印刷された「地平線会議趣意書」があり、これは私が書いたものです。趣意書というと普通この文章をさすので補足しました。

◆フロントページをご覧になって何かに気づかれただろうか。ページ下に「地平線通信」の名が今回から入っているのです。どうしてか。実は、最近この地平線通信に関心を持つ人が増えているようで、しばしば「地平線会議読みました。面白いねえ」とか「地平線会議読むにはどうしたらいい?」などのメール、はがきが舞い込むのです。ご存知のように、この通信の売り物は、長野亮之介画伯の報告会予告イラスト+文章だが、加えてフロントの題字を毎号毎号、画伯がわざと判読しにくい象形文字で描いてくれている。

◆最終ページには大きく「地平線会議」としてあるため、これをこの通信の題名ととらえる人が意外に多いのですね。森井さんと相談して、今回「地平線通信」とフロントページ下方に入れた次第です。ご意見お待ちします。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

宇宙にひとつだけの輝くゴミ

  • 12月24日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

35年前から12年に渡って刊行された“あむかす旅のメモシリーズ”をいう本がありました。B6版、最低50ページ以上。各巻全ページが著者の手描き原版を元に印刷され、世界各地が舞台のユニークな日本人の旅の記録を世に発表したのです。ちなみに、最終第89巻の著者は金井シゲさんでした。赤い表紙が印象的なこのシリーズを企画・編集したのが伊藤幸司さん。

「社会的には価値が認められにくい行動でも本人にとってはキラキラと輝く宝石みたいなものですよね。その光を発信しておけば、いつか、どこかで、誰かを照らすかもしれない。メモシリーズはその精神で続けていたし、地平線会議の大きな柱もそこだったんだよ」。

伊藤さんは地平線会議の趣意書を起草した当人でもあります。ワールド・ワイド・ウェブが発達し、情報発信も検索も自在な今、輝くゴミをどんどん発信すべきだと伊藤さんは言います。本業のライター、編集者業と平行し、近年は山岳ガイドとしても膨大な記録を発信している伊藤さんに、記録と情報の扱い方と、伊藤流発信術を語って頂きます。お楽しみに!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信373号/2010年12月8日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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