2010年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・370号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月15日。午前7時、ベランダに出した棒状温度計を見て、思わずほんとうか? と、うなる。21℃。長い酷暑の日々を過ごしてきた身には、この涼しさが信じられない。51℃を示したこともあるのだ。涼しい時間帯をねらって日に3回ほど麦丸を散歩させる習慣なので、東京のど真ん中のアスファルトがいかに危険なものか知っている。しかし意外や意外、昼近くになっても、気温は上がらない。ついに、来たのか、秋が?

◆きのうは、午後を民主党総裁選のニュースを追って過ごした。下馬評に反して小沢陣営の完敗とも言える結果だったが、国会議員のうち菅支持206人、小沢支持200人という数字は「ノーサイド」のきれいごとがいかに難しいか、を物語っている。ついでに言えば菅に較べて小沢一郎という政治家に破壊力、スピード感があるのはなんとなくわかるが、今必要とされているリーダーシップとは別なことのように思う。

◆きょう9月15日は「敬老の日」だ、いや、違う、ことしは20日だ。正確に言うと、2003年までは「敬老の日」は毎年9月15日だったが、祝日法の改正で「ハッピーマンデー」というのが適用され、2004年からは毎年「9月の第3月曜日」となった。今は15日を「老人の日」、この日から1週間を「老人週間」としている。

◆老人を敬う祝日は、日本独自のもののようだ。ネット情報によるともともと兵庫県のある村で「としよりの日」というのをつくった。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りよう」と、農閑期で気候のいい9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。これがやがて兵庫県全体から日本全体に広がった。東京オリンピックの1964年に「老人の日」と改称され、1966年に国民の祝日「敬老の日」となったのだそうだ。

◆この夏は不在高齢者問題が露見した夏でもあった。90、100才、120才といった高齢者が所在確認ができず、実はとうに亡くなっていたことが次々にわかった。中には親の年金を受け取りたいあまり親の死を隠し続けていた子どもたちもいる。長寿国日本の裏の顔がさらされた一連の所在不明事件だった。

◆自分も年寄りになったので、こういう事象にはいろいろ考える。考えるが、一方で、年齢を重ねる、ということが自分という生き物にとってはどんなことなのか、まだよくわかっていないことに、時に不安を覚える。

◆電子レンジにいつも取り忘れたコーヒーが入っている、という程度の老いは、とっくの昔に自分のものとしている。が、衰え、というのとは少し違うのだ。「衰えを伴う老い」というのは、ある日突然、音をたてて来るのだろうか? その時、自分はどう受け止めるのだろう。それとも、そんなものは来ない人生というのもあるのか。皆、そんなものなのだろうか?

◆お盆が明けた8月の終わり、野元甚蔵さんのお宅にお邪魔した。93才の野元さんは、去年、今年と2年続けて5月に地平線会議のために上京してくださった。その御礼と言いつつ実は遊び目的の押しかけ居候である。休暇をとって待っていてくれた次男の龍二さんのガイドで海には2日続けて潜った。枕崎の先、坊ノ崎の漁港近くの豊かな珊瑚礁の海は、青く、大小無数の魚たちが躍っていた。自分も無論「魚鳥」になった気分で漂う。切り立った岸壁に添って舞っている時は、まさに鳥の気分なのである。

◆鹿児島は、海も山もいい。ことしもある日、大好きな開聞岳まで野元さんの家から走って行ってみた。500ccのボトルを3本背負って熱中症対策とし、ほぼランニング・スタイルである。通常の登山口はかなり回り込まなければならないので手前の川尻からふるい登山道を試したら、いきなりヤブ漕ぎの様相となった。切り傷をつくりながら、苦労してなんとか開けた場所に出たら、目の前には美しい芝生の起伏が広がっている。なんとゴルフ場のど真ん中に出てしまったのだ。本来登山禁止コースだったのだろう。

◆平日ではあったが、遠くでプレーする人たちがカートで近づいて来る。一瞬、見られたくない、逃げなければ、と決意する。以後、監視カメラに脅えながら、まさにニンジャの心境で芝生から芝生へ、林から木立へ、と広大なゴルフ場を横切って走り抜ける。ゴルフ場で身を隠すのは簡単ではないが必死だ。いい齢して一体、自分は何をしておるのか、と思う。

◆なんとか抜け出て登山は諦めよう、と横を見たら、暗いトンネルが見えた。これが開聞岳一周道路というやつか。好奇心に駆られて入って行ったら、狭いし、真っ暗。ライトは点けたが、たまにやって来る車が怖いこと。結局15キロ以上はある周回道路を3時間あまりでまわってしまった。2010年、記録的な猛暑の夏。あちこちでおばかをやりながら、間もなく古希を迎えんとす。(江本嘉伸


先月の報告会から

ボーケンが目覚める時!
 〜子どもたちよ、冒険しよう!〜

三輪主彦 中山嘉太郎 坪井伸吾 丸山 純 埜口保男

2010年8月27日 新宿区スポーツセンター

■冒険とはどのように生まれるのか。その問いに対するヒントがこの報告会にはあったような気がする。8月恒例の納涼特別企画として開催された今回の報告会は、世界中で数々の冒険を繰り広げてきた5人を報告者に迎えて行われた。この7月に共著として『子どもたちよ、冒険しよう』(ラビュータ)を世に送り出した坪井伸吾さん、三輪主彦さん、埜口保男さん、丸山純さん、中山嘉太郎さんである。若い世代の視点を採り入れたいという狙いもあり、司会進行役には若手代表として大西夏奈子、加藤千晶の「地平線シスターズ(?)」が任命された。

◆前半は5人にそれぞれ15分の持ち時間が与えられ、子供時代のエピソードや現在までの活動についての発表が行われるということだった。「1番手はこの方です。さて、誰でしょう?」という司会の声とともにスクリーンに映し出されたのは、一枚の赤ちゃんの写真。まん丸の可愛い赤ん坊だが、5人のうちの誰なのかはさっぱりわからない。ところが会場からはすかさず「三輪さん!」と声が挙がり、これが正解。こんな感じで、それぞれの子供時代の写真を中心に話を進めていくという、面白い趣向だ。

◆三輪さんの人生での決定的な転機は大学時代に宮本千晴さんに出会ったこと。「これで世界が27倍に広がった」。大学を卒業して地学教師になったが、教科書の内容を教えているうちに、自分でも実物を見たことがあるような錯覚に陥るようになった。そこで「これはマズい」と感じ、退職して自身で旅に出ることを決心する。初の海外旅行となったカラコルム遠征を皮切りに、世界の各地を巡った。

◆そのかたわら、観文研の「あるくみるきく」や、向後元彦さんと出会いあむかす探検学校などの若手を"けしかける"(本人の表現)活動などにも参加してきた。一方で「奥さんと子供を連れてこなければ」と思った場所もあり、今はその"やり残し"を解消している最中だという。

◆2番手は中山さん。実家は農家だが、お父さんはよく新しいことにチャレンジする人だった。その血を継いだ中山さんのチャレンジは「トライアスロン」と「走り旅」。トライアスロンに出会ったのは大学生の頃で、宮古島トライアスロンで完走したのを皮切りに、2倍アイアンマン、3倍アイアンマンと距離を伸ばしていく。3倍アイアンマンでは制限時間ギリギリでゴールしたものの、ゴール後救急車で病院に運ばれた。本人は「当時はかなり練習していました」とサラリと言うが、その練習量は月220時間と半端なものではない。

◆その後、4倍アイアンマンを完走したのち、10倍アイアンマンに出場して13日間をかけてゴールした。通常のトライアスロンは水泳3・8キロ、自転車182キロ、マラソン42キロだが、その10倍、水泳38キロ、自転車1820キロ、マラソン420キロという、信じられない挑戦だった。

◆トライアスロンと並行して走り旅(ジャーニーラン)も手がけ、それが南米での走り旅、シルクロードの走破につながっていく。この走り旅を始めた頃に「あるくみるきく」に出会ったという中山さん。「僕はこれをもじって『見たい・聞きたい・話したい・走りたい』というのを自分のテーマにしてやってきました」。

◆3番手は坪井さん。子供の頃から釣りが好きで、バイクに乗るようになったのも遠くまで釣りに行きたいからだった。しかし実際に乗ってみて、バイクで走ることそのものが楽しいと気づいた。それから日本一周に始まって、北米横断、オーストラリア一周、ヨーロッパ縦断と、坪井さんの世界はどんどん広がっていく。いずれも「バイクのことも含めて何もわからない状態で始めた」という。「やってやれないことはない。大事なのはタイミングを逃さずにやりたいことをやるということだと思う」。

◆バイクだけでなく、鳥人間コンテストや人力車での東海道五十三次走破などにも挑戦している。ブラジルでは断食にチャレンジし、アマゾン川はイカダで下った。マラソンにも挑戦し、学生時代にホノルルマラソンに出場(ランニングパンツのことも知らずトランクスで走った)、100キロマラソンを経て、北米大陸横断にチャレンジする。あまりにも多くのことに挑戦し続けているが、本人は「とにかくどこまでやれるか試してみたかった。それが全て」と語っている。

◆4番手には丸山さんが登場。「冒険とは縁遠い」と言う丸山さんだが、中学・高校時代には洞窟探検に熱中し、縄ばしごを自作するなどしながら精力的に活動していた。当時読んだ『現代の探検』(山と溪谷社)は丸山さんの原点だという。大学時代は映画製作に精を出し、探検からは一時遠ざかった。しかし4年生になったとき、高校時代に知ったパキスタン北部の少数民族「カラーシャ」への興味が抑えられなくなり、休学してパキスタンへ向かう。

◆ところが実際にカラーシャの村へ行ってみるとすでにそこは一大観光地になっていた。ショックで帰ろうかとすら考えたが、カラーシャの葬式を目にして村に残ることを決心する。3日間ひたすら踊り明かすというその葬式に「得体の知れないエネルギーを感じて、その源をつきつめたいと思った」という。村では英語すらほとんど通じない。そこで、書き留めた単語を整理して「和・カラ辞典」を作った。「言葉なんて通じなくてもコミュニケーションは取れる。英語ができないといって旅に出ることを諦めてしまうのはもったいない」という呼びかけには、丸山さんならではの説得力がある。

◆トリを飾ったのは埜口さん。意外にも子供の頃は体が弱く、運動は大の苦手だったという。そんな埜口さんが自転車に乗るようになったのは、授業料がタダという理由で入った看護学校時代のこと。本当は早く学校をやめて海外に行きたかったのだが、資金集めのために看護師になることを決心して通い続けた。看護師を退職し、世界一周を目指してアラスカに渡ったのが23歳の春。「その当時は1?2年の旅のつもりだった」が、実際には6年間で70か国を巡る長い旅となった。

◆旅の途中で登山にも熱中し、河野兵市さんらとアンデスの山々に登っている。「登山は高度順化。次に体力」と語る埜口さんからは、体が弱かったという子供時代を想像することはできない。「続けていれば結果はついてくる」と語る埜口さんの旅は、その後も世界一周の第二ラウンド、第三ラウンドと続き、今でも休暇を利用しながら世界を走り回っている。

◆ところで、今回の報告会には子どもたちの姿もちらほら。そのうちの一人である小学5年生の横山拓己君は、5人の本を読んでいて、中でも少年時代は体が弱かったという埜口さんの話が一番印象に残ったという。そんな子どもがおとなになって自転車で世界中を走ったというのが驚きだったそうだ。ご家族曰く「瞬発力はないけどコツコツがんばるタイプ」という拓己君。この報告会で何かを感じ取ってくれていたらと思う。

◆後半は5人それぞれに事前に答えていただいたアンケート結果をもとに、司会の2人がツッコミを入れるという形式で進められた。話が盛り上がったのは、「はじめて冒険したのはいつですか?」という質問に触れたとき。これに坪井さんが「『冒険』という言葉がどうにも苦手」と答えている。本人に言わせれば、「僕の根っこにあるのはただ知りたいという欲求であって、大冒険をしたいと思って始めるわけではない」という。さらに、「自分は冒険家ではない」と続ける。「冒険家と呼ばれるほど何かを極めたわけではないし、冒険をネタにしてメシを食ってるわけでもない。もし冒険家にプロとアマがあるなら、僕は間違いなくアマだし、アマでありたいと思う」

◆この「冒険家」という呼ばれ方について、他の4人も鋭く反応したのが興味深かった。例えば埜口さん。「この先に何があるのか分からない、ということをやったかどうかが冒険家かそうでないかの境目だと思う。なので私にとってはマゼランが最後の冒険家」と主張する。中山さんも「私自身は冒険家というよりも『挑戦者』という方が合っている」と語る。丸山さんは、洞窟探検に明け暮れていた中高生時代は冒険家ではなく「探検家」になりたかったそうだ。三輪さんは、著書の中で「冒険家や探検家という言葉はイメージが悪く、冒険家・探検家になろうよ!と大声では言えない」と書いている。

◆5人が口を揃えて「少なくとも自分は冒険家ではない」と言うその様子に、「冒険」というものに対するそれぞれの強い想いが見えてくる。そう考えると、「子どもたちよ、冒険しよう」という呼びかけも実に刺激的なものに思えてしまうから不思議だ。報告会では5人が「冒険しよう」と呼びかけるシーンがあったわけではない。にもかかわらず、この5人の報告には聴衆を「冒険」に誘う魅力と迫力があった。

◆特に胸に刺さったのは、坪井さんが発した台詞の数々だ。「(人力車の挑戦は)理由は何もなくて、ただやりたかっただけ」「やりたいことは閃きとして出てくる。それができるとかできないとかを常識で決め付けることはしない」等々。僕自身は、自分にはできないと勝手に決めつけていることはないだろうか。時間がない、金が無い、実力が無い、そんな言い訳でやりたいことを諦めてはいないだろうか。

◆僕は大学を卒業してすぐに仲間とともに小さな会社を起した。およそ冒険らしいこととは無縁に生きてきたが、右も左も分からずにただガムシャラに突っ走ってた当時は、まだ自分の中に冒険心のかけらがあったように思う。その頃の気持ちを忘れてはいないだろうかと反省する一方で、僕と同世代の若手に聞いてみたいと思った。5人の後ろ姿に何を見ましたか?(杉山貴章 ねぶたランナー)


報告者のひとこと
アマとチャリティ

■報告会では違和感なかったのに、翌日になって、ものすごくひっかかる一言があった。後半、冒険て何だ、って話がでた時に「僕はアマでいたい」と言ったことだ。まるでプロになろうと思えば、なれるけど、嫌だからならない、と言っているようだ。なぜ、あんなエラそうな言葉が出てきたんだろう。

◆北米横断マラソンでNYに着いた日、居候先の友達が「今日テレビ局の人と会うから、ついでに売り込んでやるよ」と出て行った。夜、帰ってきた彼はなんだか機嫌が悪い。理由は二つの局の返事が判でも押したように、チャリティをしろ、と言ったこと。一つの局では芸能人の

○が100キロ走って視聴率が取れたから、素人がそれ以上の距離を走っちゃうというのはねー。と言われたとか。TV局にとって視聴率が大事なのはプロとして当然。こっちも仕事としてやるなら、素早く対応すべきだ。

◆だけどそのためにはチャリティを手段にする割り切りが必要で、青臭い自分にはそれができない。そもそも道楽と思っていることに人の善意を利用したくない。以前某有名ランナーが大規模な市民マラソンを企画する段階をTVが追う番組があった。その中でランナーは、ダメだよ、もっと世間に強くPRできるテーマじゃないと、と、チャリティのテーマとして議題に上がった「難病」を、あっさり却下した。この人にとって大事なのはマラソンを有名にすることで、候補は本当に手段だった。企画が成功すれば、TVは視聴率を取れて、支援を受ける団体には募金が集まる。きれいごといって何もしないよりは、遥かに実のある話で、視聴者も幸せになれるのにね。後から、いろいろ考えていたら、そんな答えが出た。(坪井伸吾


月面到着まで残すは13165キロ

■指折り数えて定年を待つ私は、地平線会議でも公務員の中でも特殊な人間らしい。地平線には極力参加するようにしているけれど、到着は決って8時まぎわ。仕事を終えて、という行動がどうにも地平線では特殊らしい。公務員では、しごくまともな行動なんですが。そしてまた、定年迎えたら新人に仕事をゆずりゃいいものを、例外なく再雇用制度にすがりつく公務員世界で、定年即海外高飛びビジョンを展開すると、おそろしく異常に映るようだ。地平線じゃ、まともな発想なんだがなあ。

◆それにしても長いこと公務員やってきた。厚生省、法務省、千葉県と渡り歩いているうちに、もう25年が過ぎてしまった。人生の残り時間、はたしてあと何年あるのやら。過労死と背中あわせの環境だから、あんまり期待しちゃいないけど、宇宙のチリになることなく地球に帰れるか。自転車に乗り始めて34年。この8月末で、月面到着まで残すは13165キロ。地球にもどるにはあと40万キロだ。1年1万キロで、40年。小惑星を往復してきたはやぶさ君までは望まずとも、せめて月面ぐらい往復したい。

◆首尾よく帰ってこられたら、たぶん第850回あたりの地平線会議で報告できるでしょう。三輪さん、丸山さん、中山さん、坪井さん、そのときまた会同しましょう。大西さん、加藤さん、そのときはまた司会よろしく。(埜口保男


百姓はやればやるほど苦労も多い、学ぶことも多い

■当日の会場でDVDをいきなり持参して映したいと言い、対応していただいた丸山さんはじめスタッフの方には慌てさせて本当にすみませんでした。

◆報告会では自分の担当以外はほとんど喋ることがなかったので、今回は久しぶりに地平線の会場で雰囲気を味わう一聴衆になりきっていました。自分の発表時間はかなり映像で時間つぶししてしまいました。私の書いた本の内容は本のタイトル題名に合っていたかもわからないし…、冒険論もあまり考えていなかったので議論に積極的に加われなかった。ただ向後さんが「かつての冒険は未知の地域に出向いて行く。今の冒険はその自己の能力へのチャレンジ」と言っていたが、これで全てが納得いくような気がする。

◆かつて植村直己さんだって帯広に野外学校をつくろうとした。冒険の手助けをしようとしたのだ。もうその時代(20,30年前)でも現在言われている“冒険”だったし、向後論の冒険だったと思う。

◆今は桃やぶどうの畑を休みに手伝っているが、そこからつくる100%ぶどうジュース(もちろん泡だって発酵していい味になる)や自前の大豆から造った納豆も持参したが恥ずかしくて公開できなかった。百姓はやればやるほど苦労も多い、学ぶことも多い。だが失敗を忘れるくらいの楽しみも充実感も多いのは確かである。(中山嘉太郎


自分の立ち位置を見直すことのできた、有意義な時間

■どんな子ども時代を送ったからその後の人生がこうなってしまったのか?? なんてことばかり聞かれるのかと思ってアンケートにもいろいろ突っ込みどころを入れておいたのに、いざ蓋を開けてみたら、「冒険とは何か」を中心に、一瞬答えに詰まるような高度な質問が続いて、おおいにたじろいだ。話が肉体的な冒険のほうに行ってしまって話しそびれたが、じつは私もそれなりに「危険な場所」に行っている。

◆というのは、スライドで見てもらったギリシャ人援助活動家が、昨年9月にあの博物館の1階で寝ていたところ、武装したタリバン兵50人に襲われて拘束され、アフガニスタン側に連れて行かれたのだ。幸いこの4月に無事解放されたが、自分の命が200万ドルもの身代金+拘束中のタリバン幹部の釈放と取り引きされることになったら、どうしよう……。

◆孤立したマイノリティに深く肩入れすることは、このような事態に巻き込まれる覚悟も必要になる。自然の脅威だけでなく、人間の心の闇をどうくぐりぬけるのかも、現代の冒険ではますます大きなテーマとなってきているのかもしれない。ひさしぶりに冒険について考えを巡らし、自分の立ち位置を見直すことのできた、とても有意義な時間だった。(丸山純


旅に出ると、世界は広がりだけでなく上空、地下深くまで、すなわち3次元に広がっていることがわかる

■「先輩が教えてくれた27倍の世界を、私の能力では8倍ぐらいにしか拡げられなかった」とアンケートで答えたところ、「8倍と27倍はなんだ?」という質問が出ました。旅に出ると、世界は広がりだけでなく上空、地下深くまで、すなわち3次元に広がっていることがわかります。その一辺を2倍に拡げると23倍=8倍になり、3倍に拡げると33倍=27倍になると言いたかっただけで、数字にそれほどの意味はなかったのです。

◆質問の後で、実はこの世界は3次元じゃなくて時間軸、すなわち歴史を加えた4次元に広がっていると言わなければならなかったことに気がつきました。しかし言うヒマがなかったのでここで付け加えておきます。世界は4次元なので、一辺を2倍に拡げると24倍=16倍の広がりになるのだと。

◆ところで先日高名な物理学者さんに「この世界は何次元なのか」と聞いてみたら、「何次元でもいいんだ!」とおっしゃいました。「4次元までは見えるが、それ以上はなんだかわからない、でも無限にあるのだよ!」とのこと。物理学の世界では4乗どころではなく無限大乗の世界が広がっているようだ。旅に出ると、とてつもなく広い世界が見られるかもしれない。そんな思いで、世界を歩き回っているこの頃です。(三輪主彦


裏方の記
夏休みの夜、学校の校庭に集まって見た、夏の幻灯みたいでした

■あーあ! 報告会がせめて10時間あったらな! 一人15分間の持ち時間はあっという間でしたが、5名の報告者の皆さんの旅話や人柄がそれぞれ全く違う色で、ユニークで、おなかいっぱいでした。超スゴイのか超くだらないのかだんだん麻痺してわからなくなってきたりもしました。無謀な条件にもかかわらず、素晴らしい写真をぎっしり準備して下さった皆さん、編集して下さった落合さん、どうもありがとうございました!

◆子供時代の写真を実家まで取りに行っていただいたり、アンケートや自画像を書いていただいたり(加藤千晶ちゃんが編集して冊子にしてくれました!)、わがままを聞いて下さったことにも感謝です。報告会最中は、タイムオーバーのドラを鳴らすたびに世界中を敵にした気分でしたが、もっと聞きたい!の思いを晴らしてくれる楽しい本が存在するので、罪悪感がへりました。

◆さてこのたび、江本さんから突然に電話をいただき、8月報告会の企画・進行をしろということでした。まさかと思ってのんびりしていたら、まさかまだ何もしていないのか!? と怒られました。千晶ちゃんと私は相当慌てました。私の場合は山も川も知らず素人で、「冒険」というものに一般人目線の好奇心はあっても行動の実績はないので、まずいどうしようと思いました。お話される方はもちろんのこと、聞き手の方々のことを考えても重責です。でも本を読ませていただき、明るいところばかり見えていた報告者の皆さんの、小さな頃の悔しさや苦い思い出話も出てきて……。えー! でした。敷居が高いと思っていた地平線会議が、少し等身にも思えました。こんなこと言ったら怒られるかもしれませんが、「冒険」話以上に、そこに駆り立てた人生の出来事だったり、順風満帆に見えても実は不満足だったり……。皆さんの生き様そのものに、ガゼン興味がわいてしまいました。

◆青木明美さんの真っ黒に焼けた息子さん颯人くんや、事前に本を読んで予習してきた横山拓己くんや、ダイナミックダンサーズの坪井友子ちゃんも参加してくれました。みんな、不思議なオトナたちの話をどう思ったかな? 今度会ったら聞いてみたいです。もうひとつ感動したのは、手術を目前に控えながら、「冒険の話をするっていうから来た」と奥様と会場にかけつけられた向後元彦さんの姿でした。みんなで一緒にめくるめく繰り広げられる「冒険」の話を聞きました。夏休みの夜、学校の校庭に集まって見た、夏の幻灯みたいでした。(大西夏奈子


事前の準備の裏側をちょこっと覗くことができ、たくさんのやりとりがあって当日の報告会ができているのだなあ、と、しみじみ感じました

■■「夏っぽくわいわい」したいので若手が企画進行を、と、ご指名を受けたのですが、私は「あわあわ」としているだけでした。大半を進めてくれた、かなこちゃんの、『子供たちよ、冒険しよう』の本に合わせ「子供たちも聴けるような報告会にしたいなー」ってところから話が盛り上がってゆき、子供時代の写真を見せてもらおう。また、当日はお仕事で来られなかった(妹尾)カコさんが「子供の頃のプロファイルを作らせてもらうのは?」という案を出してくださったことから、事前に報告者5名の方に、子供時代のアンケートをさせていただこうってことになりました。

◆わたしは、みなさんが、どんな子供で、成長し、旅や冒険(←ではない、と云われますが……)をされて、それがいま現在と、どのように繋がっているのか、ということに興味津津でした。写真やアンケートに加え、「子供の時の似顔絵を描いてほしい」とのお願いに、坪井さんは、「す、すごい!」って絵を。嘉太郎さんは「才能がなくってイヤだなあ」なんてぼやきながらも、チャーミングな絵を描いてくださいました。丸山さんの用意してくださった赤ちゃんの時の写真は、舌を出してお茶目な顔をしているもの。「いいもの見たー」と、興奮してしまった。埜口さんは、写真を自転車で実家まで取りに行ってくださったそうです(報告会にも自転車で駈けつけていらしたし、いつも自転車!)。三輪センセイは報告会前日まで会津へ行かれていたとか(いつも元気いっぱい、飛び回られている!)。

◆というわけで(って、あんまり繋がっていないけど……)、写真やアンケートをひと足早く見られて、いひひー。というのが、私の感想です。そんなんだから、当日もやっぱり役に立たず、あわあわしているだけ。小さくなっています。かわって、すごい報告者の方々が、きっちりと時間内にお話を収め、盛り上げ、楽しい報告会にしてくださいました。有難うございました。ひとりで報告会されても時間が足りないかもなのに、一回で5人も! 豪華だったなー。

◆今回、事前の準備の裏側をちょこっと覗くことができ、たくさんのやりとりがあって当日の報告会ができているのだなあ、と、しみじみ感じました。そういえば、当日会場の入口にあった「地平線会議報告会」と書かれたボードの字。あれは、お父さんの坪井さんと一緒に、早めに来ていた友子ちゃんが書いてくれたものです。当日もそうやっていろんな人が少しずつ動くことで、毎月の報告会ができている。凄いことだなー、と思います。(前に出るの無理です、の、加藤千晶


先月の報告会から・アンケート大公開!
8つの質問━━5人の冒険野郎へ一大アンケート!!

 「どんな子供だったんだろう? そして、いまこうあるのはなぜ?」。せっかくの豪華メンバーによる報告会。内容豊かなものにしたくて、5名の報告者を対象に事前にアンケート調査を行ないました。興味津津、伺った質問は以下の8つです。報告会当日に、プリントで配りました。報告順にそのご回答の全文を!(大西、加藤)

[1] 一番はじめに抱いた夢はなんですか?
[2] はじめて「冒険」したのはいつですか?
[3] 子供のころ、憧れたものやひとはいますか?
[4] 影響を受けた本はありますか?
[5] 初恋はいつ、だれですか? その顛末は?(なるべく詳しく!!)
[6] 子供のころ、なりたかったものはなんですか?
[7] 今のご自分がある、きっかけや転機が「このとき!」とあったならば教えてほしいです。
[8] 子供のころの自分が、いまの自分を見たら、なんて云うとおもいますか?

<三輪主彦さん>

 私は小学校五年生の時に広島県から東京に引っ越してきました。今で言えばイジメだったかもしれませんが、ヒロシマ=ゲンバクと気味悪がられて、だれも近寄ってきませんでした。ときどきしゃべっても「ひやい」=冷たい、「はまった」=落ちたなど方言をからかわれ、仲間に入れてもらうことはできませんでした。だから子どもの頃のことはなかったことにして、リセットして小学5年からの生活を始めました。50年間以上そうした生活をしていたので、子どもの頃の思い出は全く残っていません。野山を駆け回っていたはずなので、外に出れば体は適応するのですが、頭はまったく空っぽで初めて見た景色ばかりです。そんな訳で、子どもの頃を思い出すということを、あえてしませんでした。いま思い出そうとしてもどんな小学校へ通っていたか、どんな先生がいたかなど全く記憶にありません。とうぜん何を考えていたか、だれにあこがれていたかなど片鱗もみえません。記憶というものは、時々引き出しから出してながめるから薄れないで残るもので、一度も引き出さなかったら消えてしまうものです。ですから以下の返答は中学生以降のことです。[1][2][3]は前述の言い訳の通りで不明。[4]はシャーロックホームズばかり読んでいた。同じ作者の「失われた世界」は衝撃的な本だった。これで探検・冒険に目覚め、恐竜大好き人間になったかな? これが[6]、[7]につながるかな。でも「それ!」と実行に移せるような人間ではないので、ずるずると流れのままに来たのが今の自分。流れに逆らいたい気持ちはあったが逆らったことはほとんどない。[5]初恋はあっただろうが、全く記憶にはない。高校生になっても女の子と話したことはなかった。奥さんは小学校の同級生、大学生の時に電車で出会い、東京オリンピックを見に行った。奥さんの家でご飯を食べさせてもらって以来40年間ずるずると居続ける。[7]は本の中ではシャーロックホームズなのだが、大学の山岳部の部室で宮本千晴さんという本物の探検家・冒険家(本人は怒るだろうが、私は勝手にそう思っている)に出会った。世界が27倍くらいに広がった。[7]、ヒロシマカープが弱すぎて野球が嫌いになり、マイナースポーツだったサッカーに没頭していた高校時代の自分から見たら、「結構広い世界に目が開いたじゃないか」と思うだろう。今でも野球は嫌いだが。でも宮本さんに出会って以降の自分から見れば、「せっかく27倍に拡げてもらったのに、自分の世界は8倍ぐらいにしか広がっていない」という失望ばかりだ。


<中山嘉太郎さん>

[1] 夢?? 毎日遊びが楽しくて…… 夢などなかったような……。[2] 冒険?? あえて言えば親に逆らった大きな抵抗で、小学校高学年の時に塾へ行くのが嫌で逃亡したことかなあ。心配した親は畑の近くで勉強している私を見て驚いたみたいです。逃亡を企てたもののやはりいけないことをしたという後悔があって、道端で勉強していた私は、とても真面目だったと思います。ところで親への抵抗が冒険でいいのかなあ。[3] 長嶋茂雄かなあ、かっこよかったなあ。本当にかっこよかったよなあ。[4]  読書、勉強はした覚えはないので…… ないなあ。[5] う?ん、これといって覚えていないが…… しいて思い出せと言うなら…… 小学校2年ごろの同じクラスで彼女が一時入院して、その後登校して来て席が隣になった丸山さんかなあ?。最近地元の一宮町出身の高野義雄さんが社長の東京スタイルという会社に講演に行き、高野社長が「かずみちゃん(丸山さん)と同級生なの?」と言ってびっくりした(高野社長も丸山さんもみな同じ日川高校【今年30年ぶりに甲子園】丸山さんは東京スタイルの秘書室に勤務したことあったそうです)。地元の人だけどとてもあか抜けていました。今は主婦らしい。[6] 大工さん、今でもなりたいし…… なれそうな気もする。家をその頃新築していて、大工さんかっこよかったなあ。[7] 84年12月クリスマスごろの読売新聞で「トライアスロン宮古島大会開催」を見た時これだ!と思った。95年1月3日三輪主彦先生と話した時、何者だこの人は??と思った。[8] 絶対あんなオヤジに近寄りたくないなあ。


<坪井伸吾さん>

[1] [6]との違いが、ちょっと分かりにくいかな。何かが欲しい? だとしたら憧れたもの、になるし。絵、もっと上手に描きたい、で、いいですか。[2] 本のタイトルにもなっているのに「冒険」という言葉がどうも苦手。僕の場合は冒険というより「遊んでいる」という言葉のほうがしっくりくる。親に電話できいたら、2歳のときに1キロぐらい離れた駅前商店街で母親とはぐれて一人で家まで帰ってきたとか。家までには車ががんがん通る大通りや、踏み切りもあり、どうやって2歳児が一人で帰ったのか、またすれ違ったであろう町の人が幼児の一人歩きを誰も不思議に思わなかったのか、すべてが謎。親がいうのは、それが始めての冒険だろう。[3] ない。親に聞いても何かのマネをしていたことはないとのこと。しいていえば熊野の山奥に自分で作った家に住んでいたおじいちゃん、と、よく道を知っていた父親。[4] 子どもの頃となると、漫画。パプアニューギニアの仮面をテーマにした「オンゴロの仮面」。精霊と悪霊との戦い、アニミズムを破壊するキリスト教の宣教師、天然ガスを狙う日本の商社、研究のためには手段を選ばない文化人類学者、などが登場するすごい漫画。小学生が読んで理解できるのか、という気がするが、すごく気に入って未だに本棚にある。もう一冊は登山家が主人公の「クライマー列伝」。主役はどんな逆境に追い込まれても死なない少年漫画の世界で、主役も重要な脇役も次々と死んでしまうシビアなリアルさに驚いた。こっちも未だに本棚にあり今読んでも泣ける。はまる本。知人に強引に「読め」と押し付けたことが何度かある。[5] なぜこの質問があるのか、よく分からないけど、小学校低学年のころは毎年クラスに気になる子はいた。学年が上がりクラスが変わると、そのたびに気になる子は変わっていた。誰にも悟られないようにしていたから、当人はもちろん、誰も気づかないままだった。[6] これも悲しいくらいない。昔から遠くは見えなくて、目の前にあることに集中していた気がする。[7] 大学を留年したこと。留年しなかったら、なんとなく就職していたと思う。[8] 理解不能。世界の釣りには惹かれると思うけど、それ以外はあまりにも自分の世界とかけ離れていて興味が持てないと思う。すごいのか、おかしいのか、もよく分からない。


<丸山純さん>

[1] 未知の宇宙に、小型の宇宙船で乗りだすこと。[2] 中3の夏休み、五日市の観光名所でもある大岳鍾乳洞最奥の縦穴を降りて、上層と下層がつながっていることを証明しようとしたとき。このためにわざわざ30メートル以上もの縄ばしごを自作し、万全の準備をしたつもりだったが、ザイルを固定するためにハーケンを打ち込もうとすると、手でずぶずぶと根元まで入ってしまう。われわれが岩(チョックストーン)だと思っていたところは、落盤が折り重なるようにしてかろうじて空中に浮いていた、単なる泥の塊だったのだ! あちこちハンマーで叩き回っているうちに自分が置かれている状況がわかって背筋が凍りつき、落盤が崩れ落ちないよう粛々と撤退した。[3] 小学生時代:長嶋茂雄、アインシュタイン。中学生時代:ヘルマン・ブール、本多勝一。高校時代:梅棹忠夫、ポール・サイモン。[4] 小学生時代:『ツバメ号とアマゾン号』[全12巻](アーサー・ランサム)、『巨人の星』(梶原一騎・川崎のぼる)、『太平洋ひとりぼっち』(堀江謙一)。中学生時代:『洞穴学ことはじめ』(吉井良三)、『洞窟探検』(山内浩)、『一人ぽっちのヒマラヤ』(向後元彦)、『極限の民族』『山を考える』(本多勝一)、『何でも見てやろう』(小田実)。高校時代:『狼なんか怖くない』(庄司薫)、『知的生産の技術』『文明の生態史観』(梅棹忠夫)。[5] 小学校の同級生。2年生のときに突然転校してしまい、告白できず。[6] 小学校低学年までは宇宙船の操縦士、ロケット技術者。小学校高学年からは天文学者、物理学者、登山家、探検家。中学生以降は探検家、小説家、新聞記者。[7] 1)中2の夏、アポロが月に着陸した日、科学部の仲間たちと大岳鍾乳洞に出かけて立入禁止の柵をこっそり乗り越え、観光用に公開されていない「未知」の部分を泥だらけになってはいずり回った。これこそが探検(パイオニアワーク)だと、当時は思った。2)早稲田の探検部に入部しようと部室に出かけたら、「お前は惠谷先輩の後を継いで三原山の火孔探検をやれ!」と言われた。もう狭い穴ぐらはたくさんだ、広い世界に出たいと思って探検部に入ろうとしたのに、それで一気にやる気が失せて以後は映画作りに走り、探検から遠ざかった。3)大学2年の夏、高校時代の仲間の神谷夏実君らのグループが新潟県の白蓮洞で遭難し、その救援に駆けつけた。このときまではひそかに新聞記者に憧れていたのに、全員無事救出とわかったとたんにチェッと舌打ちするのが彼らのあいだから聞こえ、翌日の新聞には掌を返すように批判的な記事があふれて、幻滅した。このときの記者対応を引き受けたのが、地底に閉じこめられていた盟友の坂野浩さんを救助しにやってきた惠谷治さん。そのド迫力に、圧倒された。[8] だらしない。結局、やりたくないことから逃げて逃げて逃げまくるだけの人生だったんだね。


<埜口保男さん>

[1] 幼稚園まで:となり町に行くこと。自宅から200mぐらいのところに、子供心には大きな川があって、大人たちが泳いで向こう岸に渡っていた。あの向こう岸には何があるのかと、いつも思っていた。小中学校のころ:せめて人なみの体力が欲しいと夢見ていた。中学校のときは朝礼で2回に1回は倒れていたし、1500m持久走は7分かかってもゴールできず最下位。騎馬戦や棒倒しなど、悪夢だった。それが自転車レースで、全日本クラスでエントリーできたとき(42歳だったか)は、感動そのものだった。[2] 冒険と呼べるようなことはしたことがない、というか、その前に冒険と呼べる行動は地球から消滅した。本のタイトルは冒険をしようだが、もともと冒険ということばは好きじゃない。アウトドアーの世界は冒険ではなく、ただの道楽である。[3] 速いもの……特急電車や飛行機のたぐい。運動能力にすぐれたひと……といってもプロ世界ではなく、郡大会にいけるような同級生たち。[4] 世界地図帳。[5] 同級生の女子。同級生はおろか、在校生すべての自宅も家族構成も仕事も知っているような田舎なので、その後の流れもすべて知っている。彼女は私が移動中に同級生と結婚したと、他の同級生から連絡を受けた。意外な組み合わせだっただけに悔しいと記されてあったので、みんなが憧れていたんだなと知った。田舎に帰れば会うこともしばしばで、ふつうのおばさんになっている。[6] これはよく覚えている。父が商売をしていた関係で来客が多く、尋ねられるといつも「こだまの運転手」と答えていた。まだ新幹線の開通前で、当時最速の特急列車だったから。[7] 本に書いたとおり、父の事業の失敗で、事実上一家離散になったときだろうか。いかに私を安全に放逐するかで、母の一存で東京へ送り込まれた18歳がどん底だった。それから1年ぐらいで、この現状からどうやって抜け出るかを考えるようになれたのが、人生最大の転機のようなきがする。[8] ぼくの大人の姿なんかじゃない、絶対にちがうと断言する。そして仲介した人をうそつきだと非難する。それぐらい変わったのが自分でも分かる。世界一周から帰ってきて新聞に載ったとき、一番驚いたのは小中学校までで交流の止まってしまった先生だった。好きだった社会科の先生とはいまでも交流があるが、「あれだけの地理歴史の知識があれば、見たくなって当然だけど、だからといって現実には行けないものだ。俺がそうだ。ましてや、あの体の弱かった埜口君がなあ、ここまで変わるとはなあ」、と会うたびにいわれている。


地平線ポストから

わらをもすがる思いでつかんだ草だったが、これも、べろりとはがれ、両腕は体とザックの重さを押さえきれず、ズズズズザーッっと落ちていった。「ヤバすぎる」と思うより速く、岩から手が離れ、「ウワァー」という叫び声をあげた
━━サバイバル登山家、聖沢滑落・生還記━━

■8月10日、南アルプス中部、大井川支流の聖沢で滑落してしまった。理由は不明。単なる不注意で踏みはずしたのだと思う。少なくとも登山技術の限界ゆえではなかった。気がついたら、歩いていた岩壁のバンド状部分を、抱えるようにしながら、ずるずると落ちている途中だった。

◆その日は、9日間の予定の7日目だった。多少の疲労はしていたが、行動に影響を及ぼすほどではなく、天気は青空が見える曇り、時間は昼頃だったと思う。サバイバル登山だったため時計はなく、正確な時間はわからない。いつもと違ったことは、単独ではなかったことだ。今回の登山は「情熱大陸」というテレビ番組の取材を含んでいたので、動画を撮れるアルパインクライマーの平出和也(注:1月の報告者、谷口けいさんと仏のピオレドールを受賞)が同行していた。取材だったことが登山に与えたストレスはほとんどなく、あえてあげるなら、荷物がいつもより重かったことぐらいだろう。

◆滑落したのは、沢の上部で登れそうにない滝が出て、草や灌木がまばらに生えた岩壁を巻き上がっていたときのことである。上流にむかって斜めに登り、いい頃合いだとみて、下降点を探していた。ロープは出していなかった。登っているときにボルトなどいくつかの確保支点が目についたが、平出の力量も含めて私はロープを出す必要を感じなかった。

◆気がついたら、草付きのバンドを抱えるようにしながらも、ずるずると落ちていた。背負っていたザックは15キロを切るくらいだったと思う。沢床までは30メートルほど。足には何も感じなかったので、宙に浮いていたのだろう。落ちたら危険な場所であることは認識していたので、自分の状況がかなり「ヤバい」と思った。滑落を止めるべく、必死で岩壁を抱え込もうとした。映画とかマンガで、ビルや岩壁から落ちそうになってしがみつくシーンがある。あんな感じだ。ただドラマのようにはいかず、つかんだ草のかたまりが絨毯を裏返すように、根っこごとべろりとはがれてしまった。

◆「かなりヤバい」と思った。落ちたら死亡を含む大きなダメージを受けると予想できた。必死、懸命、真っ青といった状態で右奥の草付きに手を伸ばした。わらをもすがる思いでつかんだ草だったが、これも、べろりとはがれ、両腕は体とザックの重さを押さえきれず、ズズズズザーッっと落ちていった。

◆「ヤバすぎる」と思うより速く、岩から手が離れ、「ウワァー」という叫び声をあげた。自分の状況を平出に伝えるためだったが、単なる恐怖から出た反応だったのかもしれない。ザーッと落ち、すぐ少の下の岩の突起で弾かれるように宙に浮いて、身体が横転した。自由落下の感覚のなかで、何度目かの「ヤバい」が頭に浮かび、「オレの(死ぬ)番だ」と思った。言葉で考えるのではなく、矢継ぎばやにイメージが頭にあふれてくるという感じだった。

◆気がついたら腹這いで岩が張った沢床に倒れ、水につかっていた。体を起こして四つん這いになると、顎から血がボトボトとたれた。四つん這いのまま、水から出た。呼吸が荒かった。ザックを下ろそうとしたが、ベルトがうまく外せなかった。少し苦労して、ザックを放りだした。体中に痛みがあったが、身体に致命的な機能障害はないようだった。

◆落ちてしまったことと、生きていることを平出に伝えなくてはならないと思い、対岸の岩を登った。大きな声が出せなかったが、何度かかすれたような叫び声をあげ、とりあえず声が届いた。平出が空身で岩壁をおりてきて、私を視認し、ザックをとりに戻ると言って、登っていった。私は自分のザックのところに戻って、しゃがみ込むと、ぶるぶると震えがきて、動けなくなった。頭の裂傷に手を伸ばすと、指先でもわかるぐらいざっくりと切れていた。

◆平出がどのくらいの時間で、どうやっておりてきたか、覚えていない。「どうですか」と平出。頭のケガに三角巾を巻いてくれた。「(動けると思うけど)ザックは無理だ」と告げた。ともかく、ゴルジュ帯を抜け出すべく、腰を上げた。だが、体全体に力が入らず、さっき登ったところが登れない。平出の確保で何とか這い上がった。その先は河原になったのでなんとか歩いた。

◆一番痛んでいる場所は左の脇腹だった。痛いうえに呼吸がくるしかった。5歩くらい歩いては喘ぎながら休み、大きな岩を乗りこえては喘ぎながら休んだ。二つのザックを背負った平出が抜かしていった。肋骨を複数箇所骨折しているのはまずまちがいなかった。左肺まで傷ついていたら面倒なことになると思った。喘ぎながらゆっくり進むと、沢通しに登れない小さなギャップがあり、右の壁に平出がロープを張っていた。「ほっ」と声をかけると、平出が私に気がついた。私は平出のいるところを指さして、とても登れないと、胸の前で×を作った。ぽつぽつと小雨が降り出していた。

◆「ちょっと休みますか?」と戻ってきた平出が言うので「今日はもう無理だ」と答えた。すぐに平出がタープを張り、ビバークポイントを作ったが、ゴルジュの中で良い場所は望むべくもなく、水流のすぐ横の堆積斜面をすこしならしただけだった。雨は激しくなり、みるみる間に水かさが増えていった。雷鳴がとどろき、水はもう足元まであがってきていた。平出はしゃがんでじっと濁流を見つめている。平出が隠し持っていた乾燥マンゴーをもらって食べた。とりあえず数時間以内に死ぬことはないな、と私は感じていたが、平出がときどき、のぞき込むように私の顔を確認するので、私はそのたびにニッコリと笑って、死んでいないことを伝えた。

◆夕立はやみ、増水も止まった。痛くて寝返りはまったく打てなかったが、寝ている場所が斜面だったので助かった。気がつくと空には星が出ていた。明日の今頃は病院に着いているのだろうかと何度も考えた。ヘリを呼ぶ、小屋まで行ってヘリを呼ぶ、自力下山する。大きく三つの選択肢が考えられた。歩けるなら自分で下りるべきだと何度も自分に言い聞かせた。ここからが本当の登山だ。都合が悪くなったらヘリコプターで下山していいなら、都合が悪いときにヘリコプターで登山してもいいことになる。

◆薄明るくなったところで、平出を起こした。苦労して靴を履き、出発。かなり気持ちを入れていたためだろうか、痛みは予想ほどひどくなく、何とか歩けた。昨日あきらめたギャップを何とか引き上げてもらい、その先もゆっくりだが、歩くことができた。500メートルほど歩くと、登山道に出た。予想どおり渓の最上部にいたようだ。

◆棒きれを杖がわりに、そのまま登山道を下山しはじめた。登山道は渓よりいくぶん楽に歩くことができた。数時間後に林道に下りたったときは、さすがに泣けた。東海フォレストのバスに乗り、バスを乗り換え静岡に出て、静岡市立病院の救急にいった。歩いてきたケガ人に対して病院の対応は冷たかった。大げさな野郎がきたという感じである。だが、レントゲンを撮ると、左肺が半分、血に沈んでおり、待遇がいきなり重症患者に格上げされた。

◆脇腹を打った衝撃で肺が傷つき、出血して空気も漏れているという。下山中、登りになるとすぐに息が上がり、ポコポコと音がしたわけだ。すぐに左脇に穴を開けて血を吸い出すドレナージがおこなわれた。肋骨骨折に関しては自然治癒しかないとのこと。肺の出血が止まったら退院。入院は4日間だった。

◆これまで何度か大きな滑落・墜落をしてきたなかで、今回だけの特別な体験があった。滑落中に「死ぬ」と思ってから、沢床で気がつくまでの数秒間、記憶がないことである。過去の墜落で意識の断絶はない。少なくとも私の自覚では繋がっている。走馬燈もスローモーションもなし。それはロープをつけていたので、死ぬとは思わなかったためだと思う。谷川岳一ノ倉のアプローチで私と同じくノーロープで滑落した友人と話す機会があり、聞いてみると、同じように「死ぬ」と思った瞬間から記憶がないといっていた。頭を打った瞬間ではなく、「死ぬ」と意識した瞬間から記憶がないのだ。おそらく防衛機制なのだろう。

◆記憶がないというか、意識が途切れていることが、数日間、私にすごくいやな感覚を与えた。「もしかして俺は死んでいるのでは」とふと思い、淡い吐き気のような不安感に包まれるのである。いま自分が現実だと思っている世界は死ぬ瞬間に見るという「走馬燈のような夢」もしくは「植物人間になって見ている夢」なのではないかと思われて、こわくなるのだ。夢にしては肋骨の骨折が痛すぎるし、息子たちのバカさ加減はどうしようもない。いろいろなつじつまが合っているので、おそらくずっと住んできた世界にちゃんと戻っているとわかる。だが記憶のない数秒のために、ほんの少し、数字にして0.001%くらい、本当に自分のいた世界の続きなのか信じきれないところがある。

◆ちょっと死にかけたくらいで繊細ぶってやがる、と思われるかもしれない。それでもいい。私は正直な告白をしているつもりだ。私は「生きるとは何か」を考えるのが好きである。同じくらい死ぬとは何かを考える。そして死ぬ瞬間にも興味を持っている。その自分が死ぬかもしれなかった瞬間に意識を切ってしまった。もし、もっと運が悪く、岩の突起か何かに頭を強打していたら、私は自分の死ぬ瞬間を意識することなく、気を失ったまま暗黒の世界に消えていたことになる。結果的に死から目を背けた自分が、私はただ許しがたい。

◆ただ、山で死んでいった友人が、意識を切って苦しんでいないのかもしれないと思うとすこしは救われる部分もある。さらに、これから死ぬ人のためにアドバイス。「岩から落ちて死ぬ瞬間とは、意識がなく、痛くもないと思われます。だから、こわくもない。人間はいつだって自分を甘やかすようです」。(服部文祥

『伊南川100キロウルトラ遠足』に374名が出走!!

■地平線会議のみなさまへ。これまで何度か三輪さんからお知らせがありました『伊南川100キロウルトラ遠足』が10月23日(土)に伊南川流域で開催されます。9月3日に申し込みを締め切り、無事定員(300名)以上の374名のエントリーが集まりました! 10月23日は地元の人からも……。

 最も紅葉が美しい季節です。チャンスがあればぜひ沿道の応援に! お出かけ下さい。(朝晩は冷たいが心地よい伊南から……酒井富美

緊急報告! ?スリランカ密林遺跡探査で大成果
大きく崩壊しながらも、このように明瞭に残っている大規模な遺跡を見たのはスリランカの遺跡経験41年の小生も初めてで、正直、「大物にぶち当たった」という実感と興奮とを味わった

■猛暑の日本から、さらに覚悟を固めて熱帯のジャングルに飛び込んだはずだったのに、そこは日本よりはるかに涼しく、体にも心にも優しい快適な場所だった。「私」をつくった場所への17年ぶりの里帰り、といえば修飾が過ぎようが、いささかの健康不安も抱えて乗り込んだにしては、スリランカの密林の空気が、音が、匂いが、手触りが、まるで故郷のそれのように感じられ、それだけで安心して私は遺跡探検に、そして隊の仕事に邁進することができた気がする。

◆探検の基地としたヤックレ村に、私を隊長とする14人の日本人隊員と4人のスリランカ政府考古局員が集結したのは8月11日の夕刻だった。「日本初のNPO探検隊」と銘打って欲張りな目標を掲げ、一般募集した人々と、長年の連携相手、考古局のシンハラ人フィールドワーカーたち(考古局探検調査課の職員)である。メンバーの最年長は、地平線の仲間でもある西山昭宣さん(67歳、早大アジア学会OB)、最年少は19歳の法大探検部1年生といった幅広い顔ぶれで、ほかには50代の法大探検部OBが3人、30代の小学校女性教師(青年海外協力隊OG)、漫画家志望の早大4年生(西山さんの教え子)、東洋大、東海大、立正大、麻布大、法大の各探検部員たち(うち女子学生1人)が加わった。このメンバーに野生動物保護局のレンジャーと、村で雇用した賄い夫、ポーター、遺跡情報提供者らを加えて、14日から調査地の密林に乗り込んだのだが、その前に村ではNPOとしての大事な仕事が控えていた。

◆「国の宝、人類の文化遺産である遺跡を、これ以上破壊しないようにしよう」。41年前、この国の遺跡と関わり始めて以来、私が見続けてきた遺跡破壊の惨状を何とかくい止めようと、まずは子どもたちに呼びかける啓蒙活動を、村の学校を舞台に始めたのだ。集まった先生方と生徒たちに考古局員と私が話をし、日本の子どもたちの絵の展示(隊員の女性教師が持参)や折り紙教室、学用品の贈呈を交えて、集会は盛況裡に終わった。

◆また翌日は私たち法大隊が37年前に調査した密林の仏教寺院遺跡が、地域開発ののちも保存修復されている場所へ出かけて、管理に当たる考古局員や、そこに新たな寺院を建てて住む僧侶たちに会うことができた。かつて藪のはびこる密林に必死でメジャーを伸ばして作図した伽藍配置図(1975年、観文研発行の報告書に収録し考古局にも提出)を見せ、その後の発掘と修復の苦労話や、地域開発の前に遺跡に入り込んで修行を始めたという老僧の話を聞きながら、37年の年月が溶解するような不思議な気分を味わった。それらを同行の若い学生たちに見せながら、いよいよ始まる探検の心の準備としたのだった。

◆さて、その本番の探検の場は、スリランカ中東部、マハウェリ川中流域の左岸(西側)に広がるワスゴムワ国立公園である。自然保護区として一般人の入域は厳しく制限され、私たちの場合は特別許可を得ての活動となった。ところが対岸のヤックレ村から南側の橋を迂回してゲートへと移動してみると、ヤックレ村民の入域は認められないという。これまで村人たちが密入域して遺跡の盗掘や密猟を繰り返したため、今年からとられた措置だというが、困ったのは私たちだった。

◆結局、ヤックレ村民は帰して、野生動物保護局が認める人夫を急遽雇い入れ、遺跡情報提供者の案内なしで遺跡探査に当たることになった。河岸に設営したキャンプから、聞いた情報と地図とコンパス、GPSだけを頼りにジャングルを踏査して遺跡を探すが発見できず、行く手には暗雲が立ちこめた。しかし、3日目には運良く目標とは別の大きな仏教寺院遺跡を発見し、調査することができた。

◆密林中の露岩上に築かれ、崩壊し果てた仏舎利塔や擁壁の跡、礎石や沐浴場の跡などを測量し、配置図の作成まで進めることができたが、これは猛暑と炎天の下、不慣れな学生たちを大声で叱咤鼓舞して動かした西山さんやOBたちの働きが大きかった。学生たちはそもそも、アプローチの障害となる倒木除去や伐採でも、大汗かいて斧や鉈を振るう私や年輩隊員を(未経験のゆえでもあろうが)、立って遠巻きにしたまま呆然と見ているような状態だったのである。

◆だが、そんな学生たちが奮起したのが、一応の成果を携えて西山さんらが帰国した後だった。経験者が(英語、シンハラ語の話者も)私だけとなり、あとは学生7人と考古局員だけが残った後半活動だったが、調査基地を国立公園の西側に移したことで新たな村人たちとの出会いがあり、学生たちも個性をむき出しにして探査に臨んだ。その結果、最後の最後に、とんでもない大規模遺跡の発見という成果をもたらしてくれたのである。

◆その「スドゥカンダ遺跡」(シンハラ語で「白い山の遺跡」の意)は、寄り合う小尾根と小さな谷の複雑な地形を利用して、500メートル×200メートルほどの範囲に広がる僧院遺跡で、各尾根ごとにいくつものテラスが築かれ、その上に本堂や経堂(講堂)などが建ち、それらを巨大な切石で整備された斜面の歩道と、それに沿った水道(切石の樋が小滝を形成しつつ通されていた)が結んでいた複合的な施設のあとが明瞭だった。大きく崩壊しながらも、このように明瞭に残っている大規模な遺跡を見たのはスリランカの遺跡経験41年の小生も初めてで、正直、「大物にぶち当たった」という実感と興奮とを味わった。

◆そしてその全体像は、私が大まかな見取り図を作成して(学生はこれが苦手)、各尾根の上部密林の探査を指示し、考古局員とともにコロンボに引き揚げた後、学生だけで5日かけて調べ上げたものだった。その連日の発見物語とさまざまなエピソードは、詳しく書きたいが紙数が尽きた。私が、学生だけを残して現場を去った理由や、コロンボと現場のやりとり、現代の学生たちの意外な姿、考古局員たちの苦悩と遺跡の今後の運命などを含め、またの機会にお話しできれば幸いである。(岡村隆

「そんな怖いことできないナ」
━━冒険おとな集会に、年長組の息子と参加して

■今回の報告会は「子どもたちよ、冒険しよう!」だと聞いて、うちの息子は保育園の年長で、まだまだおとなしく人の話を2時間も聞けないとはわかっていたが連れて行ってみることにした。うちの方からだと2時間はかかるので、帰りに週末の酒臭い満員電車で立たせて帰るのは無理と踏んで車で行くことにした。

◆さすがにいくら混んでも3時間あればと思っていたが、運悪く事故渋滞にはまり、まったく進まなくなった。そのおかげで「何だかわからないけど車に乗せられてどこかに連れて行かれるようだ」的な息子に、みちみち説明する時間をもてた(一応、事前に本の読み聞かせには挑戦したが幼児には難しすぎた)。今日はね「シルクロードを9400キロもひとりで走った人、パキスタンの田舎に32年も通っている人、36万キロも地球を自転車で走った人、アマゾン川をイカダで下った人、恐竜の発掘をしたことがある人」がお話してくれるんだって!ママはワクワクするなぁ♪と前ふりをすると、息子「ふーん。そーなんだ?????」とイマイチな反応。

◆そこで6歳児が理解できる内容に噛み砕きつつ説明(笑)。私の説明が悪かったのか、親の期待に反して息子にはあっさり「そんな怖いことできないナ」と。…まあ気を取り直して「恐竜の発掘」なんてすごくない?とふってみると「それはすごいと思う!ちょっと楽しみ!」と食いついてきた。これはいいぞぉと思ったが、事故渋滞の首都高速を捨てて夕方の都内の道をうねうねと走り抜け、やっとたどりついた報告会では三輪先生の恐竜のお話は終わっていた(トホホ)

◆会場に入ったとたん、息子「子どもたちへの話なんでしょ?子どもなんていないじゃん」と言われてしまった。たしかに見回しても半世紀前に子どもを終わっているような「オトナの中のオトナ」ばかりだった(笑)。そのあと息子は、6700キロ走った靴のニオイをかいだり、最近興味を持ち始めたパソコンをのぞきに丸山さんのところまで行ってみたり、シゲさんにお名前は? と聞かれたりしつつ、ひとりで会場を走り回っていた(やっぱりね)。でも、帰り道に楽しかったよと言ってくれた。

◆私が日本から脱出し始めた4半世紀前、地平線会議は名だたる探検家や冒険家、パイオニアの集団というイメージで私には相当に敷居が高かったが、世間では深夜特急やらバックパッカーが流行っていた。そのころから愛読していたバックパッカーのカリスマともいえるK氏の発行する「R人」という雑誌が休刊するという。K氏の体力の問題と若者の旅離れらしい。

◆当時から崇高な志も確固たる目的もなく日々の生活から逃げ出して、海外をうろついていた私はゆるーい「R人」が好きだった。しかし時代は流れる。「留学に消極的といわれる若者の「内向き志向」を打破しようと、文部科学省は従来の短期留学制度(3カ月?1年間)より短い間、大学生を海外派遣する「ショートビジット(短期滞在)」制度を来年度から始めるとか。

◆「お試し留学」で外国の魅力を感じてもらい、本格的な留学への呼び水にする狙い。初年度7000人の派遣を目指し、来年度予算の概算要求に17億円を盛り込む。」「昨今の男子大学生の卒業旅行の人気は温泉巡り。」だそうな。「こどもたちよ、冒険しよう!」…せめて旅に出ようぜ!(パスポート切れている青木明美)

PS.会場を回っていた三輪先生の人生の軌跡スゴロクを息子がほしがっています。願わくばぜひコピーください。(青木明美

★みわ人生スゴロク、秘蔵の1部を送ります。(E)

中国紙で小説『砂女』を連載し始めました

■信頼する取材パートナーの中国人が行方不明になったことは、「32年目の夏の、反骨」(2010・8)でお伝えしました。彼は、地下教会「黒い子供の家」の宣教師として「一人っ子政策」で「消える赤ちゃん」の存在を中国政府に訴えていました。僕は、パートナーの身の安全と行方を中国当局に求め、中国紙のインタビューを受けました。

◆新聞二面にわたるインタビュー記事は、僕のこれまでの著作を通し、「日本における中国人の犯罪」を取り上げています。「黄金を夢見た中国の若者たちが、日本で味わう地獄の現実」に、一攫千金の日本行きに歯止めをしようと記者は締めくくっています。掲載(10・7)後、「一人っ子政策による中絶」に反対していた人権活動家の一人が釈放されました。

◆8月から中国紙で小説『砂女』を連載し始めました。週一回、見開き8000字の長編を40回続けるつもりです。『砂女』とは、財産目的で日本人の夫を殺害(死体は発見されていない)、それを隠蔽するために二人の替え玉をも殺害して、殺人罪などで起訴された妙麗な中国人の女です。大阪発「替え玉殺人事件」として全国を賑わせ、東京に三年半潜伏していた殺人犯が捕まったのは2007年の冬でした。同時に、強盗事件として犯罪史上最高額の五億円強奪事件(実行犯中国人)が起きます。

◆二つの事件を丹念に追い、事件の根を掘り起こしました。「犯罪がビジネス」の標的にされる日本社会の弱点も見えてきました。有罪なら死刑になる被告は無罪を主張して大阪地裁で係争中です。だが、事件の根は深く日本社会にはびこり、ギョーザ事件をはじめ日本企業の乗っ取り、産業スパイ事件などが絡んで、底辺には中国国家当局の陰謀があると確信しました。今後は、国家犯として追及していくつもりです。ちなみに、真相に近づき過ぎると、連載が当局によって中止されることを編集者は心配しています。(森田靖郎

蛇のたたり、転倒3回、動物たちとの遭遇、そして地平線仲間たちとの邂逅
━━“林道の狼”カソリ、傷だらけの『林道日本一周2010』顛末

■9月10日、この日は「林道日本一周」の最終日。第1本目は福島県南部の奥西部林道。二岐温泉のわきから入っていく。ゆるやかな峠を越える林道だが、ここで何と蛇を踏んでしまった…。今まで何度も蛇を踏みそうになったのだが、最終日にとうとうやってしまった。蛇をひくと、何かトラブルが起きるのは今までの経験でわかっていたので青くなる。

◆つづいて西部林道を走り、最後は甲子・鎌房林道。国道289号旧道の甲子峠から入っていくのだが、ここが極めつけの難路、狭路。400のオフロードバイク、スズキDR?Z400Sと一体になって河原のような岩がゴロゴロした道を下っていく。13・2キロのダート(未舗装路)を走り抜けたときは、腕はカチンカチンに固まり、丸太のよう。このようなハードな林道を転倒ゼロで走り抜けたので、「やったね!」とガッツポーズ。

◆甲子・鎌房林道を走ったあとは新甲子温泉「ちゃっぽランド西郷」の湯に入る。暮れゆく那須連峰の山々を眺めながら湯に浸かる気分はたまらない。湯から上がると夕食。大広間でカレーライスを食べたが、食道が腫れあがったような感じで、飲み込むのが辛くなるほど…。「おー、きたきた」と思った。これが蛇のたたりか…。白河ICから東北道に入り、一路、東京へ。ゴールの東京・日本橋に到着したのは22時30分。これにて「賀曽利隆の林道日本一周2010」、終了。

◆今回の「林道日本一周」をスタートさせたのは5月12日のことだった。「西日本編」と「東日本編」の2分割でまわり、78日間で2万8208キロを走った。その間では全部で313本の林道を走り、ダート区間の合計は2283・4キロになった。日本列島縦断分ぐらいのダート距離。われながら実によくやったと自画自賛。「(こういうことができるのは)自分しかいないな!」と「林道の狼カソリ」はまだ人通りのある日本橋で吠えるのだ。というのは、林道を走るのはそう簡単ではない。大半の林道は地図にものっていないので、自分で見つけだし、入口を探さなくてはならない。それが通行可能かどうかも、走ってみなくてはわからないような林道がかなりあるからだ。今回、1日で最高15本の林道を走ったが、それができたというのも林道を知りつくしているカソリならではのこと。

◆林道が通行止めや通行不能になっているのはあたりまえ。それだけに旅のプランを決めるのが、すごく難しくなる。1本の林道が走れないばかりに、すべての予定を変更、もしくはキャンセルしなくてはならないこともたびたびだ。宿を決めるのも午後、それも夕方近い時間が多い。それだけに何でもキチンと決めてやる人には向かない世界。いつも頭をやわらかくし、どんな状況にも対応できるようにしなくてはならない。それがまた何本もの林道を走りつなぐ「林道ツーリング」のおもしろさになっている。

◆林道をバイクで走るためには、オフロード走行用のバイクでないと難しいし、それなりの装備が必要だし、それなりの走りのテクニックも必要になってくる。難路・険路はあたりまえの世界で、ほとんど人も車も入ってこないような道が大半だ。そこでもしトラブルに見舞われたら、自分の力でもって抜け出さなくてはならない。自分の力が大いに試される世界でもある。今回の転倒は3回。一番、大きなダメージを受けたのは四国山中で、左コーナーをまわった瞬間、落石の大岩が道を半分、ふさいでいた。激突を避けるために急ブレーキをかけると同時に転倒。左半身を強打し、あまりの痛みにしばらくは動けなかった。左足首の焼け付くような痛みが薄らいだところでヨロヨロと立ち上がり、バイクを起こして走り出したが、目のくらむような深い谷に落ちなくてよかったと、心底、胸をなでおろすのだ。

◆林道では様々な動物たちに出会える。鹿や猿との遭遇は頻繁だ。群馬県の小中新地林道では、10メートルほど先の林道を横切る熊を見た。バイクに乗っているときの熊との出会いにはまったく不安、恐怖を感じることはない。というのは驚くのは熊の方で一目散に逃げていくからだ。熊のツヤツヤした黒光りした毛皮が目に残る。岩手県の草倉林道ではニホンカモシカの親子に出会った。親の方はすぐさま林道わきの茂みに逃げ込んだが、子供の方はバイクの走る方に逃げていく。やっとここなら大丈夫というようなところでジャンプ一番、茂みに飛び込んだ。ここではさらにもう1頭、ニホンカモシカに出会ったが、1本の林道で2度もニホンカモシカに出会ったのは初めての経験だ。

◆猪にも何度か出会った。大物猪だったり、ウリ坊をゾロゾロと引き連れた猪だったり、まるで林道を遊び場にしているかのようなかわいらしいウリ坊だ。

◆今回の「林道日本一周」では、「地平線会議」の仲間たちにも、あちこちで出会った。滋賀県の大津では、「地平線通信7月号」に「小林淳君のこと」を書いてくれた龍谷大学教授の須藤護さんのお宅に泊めてもらった。奥さまの手料理には感動。その翌日は龍谷大学の講堂で須藤先生の教え子、300人ほどを前にしてカソリの一連の旅を話した。須藤先生のおかげで謝礼&交通費をいただき、それが旅の資金の一部になった。

◆北海道の豊富では三輪主彦先生の教え子、田中雄次郎さんの牧場を訪ねた。6人の子供たちはすっかり大きくなり、たくましくなっていた。福島県南会津町の伊南では民宿「田吾作」を訪ねた。ここの女将さんは丸山富美さんだ。現姓酒井富美さん。四国の人なのに、もうすっかり奥会津の人になりきっている。ご主人を紹介してもらい、3歳になる元気いっぱいの健太郎君と遊んだ。とれたてのキューリに味噌をつけて食べるうまさは民宿「田吾作」ならではのもの。長野県の野沢温泉では、山岳マラソンの「トレイルラン」に参加した鈴木博子さんに出会った。信じられないような山岳ルートを何時間もかけて走りきる「トレイルラン」にはもう言葉もない。「スゲー」の一言。

◆福島県いわき市の舞子温泉では「よこ川荘」に泊まったが、そこには渡辺哲さんが来てくれた。東京から福島に移ってもずっとバイクに乗りつづけている。その翌日、渡辺さんは三森林道の入口でぼくを待ってくれていた。福島県天栄村では滝野沢優子さんの家に泊めてもらった。優子さんとご主人の健一郎さんとの話ははずみ、滝野沢家の冷蔵庫を空にするような勢いでカンビールを次から次ぎと飲み干した。さらに3本のワインを空にしたところでダウン……。「地平線会議」の仲間たちが我が「林道日本一周」に花を添えてくれた。みなさん、ありがとう!(賀曽利隆


[先月の発送請負人]

地平線通信8月号の発送作業(8月11日)に参加してくれたのは、以下の方々です。多忙な、酷暑の夏にも関わらず、16人も来てくれたことに感謝です。ありがとうございました。

森井祐介 青木明美 加藤千晶 三上智津子 関根皓博 埜口保男 白根全 江本嘉伸 安東浩正 杉山貴章 緒方敏明 武田力 坪井伸吾 坪井友子 久島弘 坪井敬子


向後元彦氏、手術後9日目で退院

大腸ガンの手術を目前に8月報告会に現われて驚かせた向後元彦氏、2日後に入院して大腸ガンの大手術を受けたが、経過が良すぎたか、あっという間に退院した。以下ご本人のモノローグ。

■大腸S状結腸がガンでふさがっている、ということでお腹を切りました。報告会の翌々日、8月29日に入院、31日に手術したんだ。お腹のあばらの下あたりを縦に20センチほど切って大きくなっていたガンを切除してもらった。麻酔時間を入れると5時間、手術は2時間半ほどだったらしい。麻酔がさめたらカミさんが横に座って手を握ってくれていて、ああ、よかったな、と思った。

◆医師になるべく歩きなさい、と言われて2日目から少しずつ歩くことに。10メートル、20メートル、そして50メートル、という具合に。それから傷口に消毒なんかしないんだよね。2日目からはシャワー、風呂に入るんだ。2週間は病院にいるはずだったんだけど、結局、9月9日に退院させられた。

◆いわゆる入院というのは、若い時に穂高で落ちて頚椎打撲でヘリで運ばれ、松本の病院に入院した時、デング熱にかかった時、ぐらいしかないんだけど、ほんとうに死ぬ、と思ったことは、今回を含めてほとんどないね。地平線の皆さんも死を目前にした経験を持つ人は多いだろうけど、ほんとうに死を「感じた」という人は滅多にいないのではないかな。石川直樹君が書いた「最後の冒険家」を読んで太平洋に着水して漂流する時なんか「死刑宣告」されたようで、少し近いかもしれないな。冒険とは何か、に関わるテーマをやったのだから、一度「死」を地平線でテーマにするのはどうかな、なんてぼんやり考えている。

ラインダンス 金井 重

梵字川の みやまの奥の 湯殿山
 山の気浄し 千四百年

霧うごき 小雨にけむる 御神体
 奇しき霊験 人ら語らず

先達も 宿坊も静けき鄙(ひな)よ
 今に伝えし 修験の大道

杉山の まなかにおわす 五重塔
 たくみの技に 木もれ日ゆれる

あえぎつつ みどりの山道 のぼりきて
 奥殿拝す 拍手高く

うら盆会 村に町にも 離島にも
 先祖の霊と まれびと集う

盆の入り シャッター下す 店通り
 残暑の熱気 ラインダンスのごとし

ふるさとの 山河に向う 帰省子よ
 君は会えるか 祖霊と物の怪

 父島二首

海みてる だけで好しという友ありき
 我も浜にて 一日すごせり

延々と ラピエ隆起し 島生れぬ
 地球の国産み 天空の青  《ラピエ 石灰岩のこと》

◆先月号の「久見の夜神楽」の中で「緞帳」を「蚊帳」とミス入力してしまいました。正しい言葉で再掲します。重さん、申し訳なし。

姿かくし 水平線を 赤々と 
 染めし太陽 緞帳のなか

毎日が創作活動?靱帯再建手術とリハビリの夏 
怪我で「得たものは沢山あり、失ったものは何もない」

■■7/29に膝前十字靱帯の再建手術を受け、3週間程入院していました。さる3/14ホワイトデーの山スキー中に受傷してから4か月、手術を受けたら今年のチベット遠征は行けない、しかし手術を受けなければ遠征で100%の力を発揮できないか命にもかかわるかも知れない、と葛藤を繰り返し、同時に納得のいく話をしてくれる医者に出会うまで5つの病院と「膝の権威」と言われるドクターを訪ね歩いていました。

◆どんなに手術の腕が良くても、患者と対話してくれない医師とは共に歩いて行けない(勝手に「治療=共に歩く」ものと解釈してる)、と思っていたので。結果、手術はとても楽しく、全身麻酔はイヤだと言う私を受け入れてくれた先生は、内視鏡のモニターを見せ、いちいち説明してくれながら、クラゲみたいに漂っている切れた靭帯を抹消し、ハムストリングを切り取り出して細工し、骨に穴をあけて靭帯を再建するという一連の工事をしてくれました。

◆術後の麻酔が切れてからの苦痛ときたら、人生最辛。座薬も点滴も飲み薬も痛み止めは効かず、筋肉注射を(ヤク中になるからあまり打てないと言われながらも)2回打ってもらう。恐ろしく痛かった。以前、ヒマラヤの壁の中でパートナーにした注射も、こんなに痛かったのかーと初めて知りました。ヤク中になっちゃ不味いと、次の晩は全ての痛み止めを拒否したら一睡も出来ず、医師に「なんで昼間は大丈夫なのに夜はこんなにも痛く辛いんでしょうか」と尋ねたら、「山だって夜のビバークが長く辛く感じるんじゃないの?」と言われ、納得でした。

◆さて退院して早3週間、私は何をしていたか……普段向き合うことの無いモノゴトとの直面を楽しんでいる、とでも言いましょうか。遅々とした段階のリハビリは、大の苦手の筋トレにも至らず(やってはいけない行為があまりにも多い)、病院のリハビリ室では仲間と出来たことも、一人黙々と繰り返すのは私にとってはなかなかの我慢合戦です。

◆それでも定期的にリハビリの先生と話すことはいちいち気付きのキッカケでもあり、自分の体と向き合うことがじっくり出来ていることにも感謝です。当たり前のように普段やっていたこと(さっさと歩くとか、階段の上り下りとか)が、何故出来ないんだー というショックに始まり(step0)、10日前には出来なかったバイク漕ぎが、出来るようになった(step1)だけで嬉しい。とは言え、物理的なリハビリのみ続けていたら、自分の精神が破壊されるであろうことは分かっており、退院一週間後に、10日間アラスカへ出掛けてきました。

◆紅葉の絨毯に白い峰々、ベリー摘み、動物達との遭遇、オーロラ、etc.心のリハビリ最高でした♪? また、退院してすぐに身柄を拘束され、NHK『グレートサミッツ・夏の特番』収録体験をしました。スタジオ収録も初めての体験(最初は拒否しましたよ、もちろん)、今井通子さん、みなみらんぼうさん、夢枕獏さん、滝田栄さん という素晴らしい人達と場を共有、そしてテレビというメディアを通して、幾らかの人にでも山の魅力が伝わったのかなあと、初体験を振り返っています。?

◆この週末には、日本登山医学会の講義にケーススタディ(高所での凍傷)として参加させていただき、お医者さま達とディスカッション出来たこと、意見をもらえたことも、とても有難い経験でした。もう一つ、日本山岳会+日山協の『The Expedition Day』トークセッションでは、普段なかなか聞くことの出来ない、他の冒険者(挑戦者?)の心の内や考えていることを聞けたのも刺激的で、こういう機会に感謝でした? こんな風に、普段の健康な身体であったら、「そんなの興味無いし、そんな暇あったら山に行きたい」という私ですが、怪我をしたお陰で、ふと立ち止まって私を取り囲むモノゴトとちゃんと向き合うことが出来、見逃していたかもしれない出会いが沢山ありました。

◆入院していた時に、「怪我をして失ったものと、得たものは何ですか?」というインタビューをされて、気付いたことは、「得たものは沢山あり、失ったものは何もない」ということでした。またまた新たな冒険の始まりですね? 明後日から、(これはちょっとやり過ぎなんですが)キリマンジャロに行って来ます。やっぱりこんな時じゃないと、そんな山にも行かないだろうな……。(谷口けい 9月13日)


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以降、通信費を払ってくださった方々は以下の通りです。万一、漏れがありましたら、必ずお知らせください。通信費は1年2000円です。

荒木利行 スラニー京子 永井マス子 村田忠彦 桜井恭比古 塚田恭子 安東浩正 荒川紀子 三科さとみ 山本明璃 中山嘉太郎 前田敏機・京子 多胡啓次・幸子 多胡光純・歩未


[1万円カンパ その後]

 ありがとうございました。
 戸高雅史・優美


“無謀険家”・風間深志チーム、ついに4年ごしの挑戦にゴール!「ナショナル・アチーブメント・アワード」を受賞!! 
?サキのスウェーデン報告?

■相変わらず詳細もわからぬままとにかく飛び立つ。目的地はデンマークのコペンハーゲン。現地についてから連絡しよう。だって相手は冒険家(無謀険家とも言う)風間深志。コペンハーゲンからルンド(スウェーデン)までは電車で約40分。けれど地理のわからぬサキと相棒マサ(山崎昌範 頚椎損傷)。拙い英語を必死に話し、電車に乗ってルンドに行くのも一苦労で目的の電車に乗るまで20分はかかった。

◆ルンドの街について風間一行に連絡をとる。明日の待ち合わせ場所はルンドから約60キロ離れた『Astorp駅』に決まった。翌朝目的地の駅を探す。が、見つからない。駅員もいないので、聞ける人もいない。乗る電車も不明。とにかく北へ! 電車に飛び乗った。 Astorp駅は片田舎の寂れた駅だった。パン屋で遅めの朝食を摂って駅でポーっとしていると向こうから見慣れた顔が。少しやつれた印象があるが、『がっはっは!よく来たなぁ!』と風間さん。それから片足のテツ(田中哲也)、Dr正田と一緒に自転車を漕いでやってきた。

◆2010年9月9日朝、風の強い中最後の40キロの行程を自転車4台連なり黙々と漕ぎだす。向かい風が強すぎて呼吸がしづらい。北海道のような、のどかな景色の中、多くの車が向かう方へペダルを踏み続ける。4年間に渡る風間の世界キャンペーン、第3弾から加わったテツ・マサ・サキのゴールを「運動器の10年」最終総会が行われるホテルの前で、10か国程の人達が待ち受ける中迎えた。とうとう終わった。無事で何より、風間さん。

◆「運動器の10年世界会議」は61か国の患者と整形外科医の集まりで、9日?11日の3日立てになっている。1日目は患者の会、2日目、3日目は医師のカンファレンスやプレスリリースが行われ、これまでの活動報告、ならびに今後の懸案事業の計画などについて、熱心な報告/発表会が行なわれた。

◆なか日の10日のディナー・パーティーの席上において、今年度と、これまでの本活動の推進に多大なる功績を残した各”アワード”を発表。その中で、過去4年間にわたり、国内は元より国外まで広く「運動器」の大切さを普及して活動した功績が認められて、我々、日本チームが「ナショナル・アチーブメント・アワード」の賞を受賞した。カナダはこれから更に10年間かけて運動器の大切さを伝える活動をするそうだ。日本も負けてはいられないよね。今後の動きに乞うご期待!!

◆9月8日に日本を出発して隊に合流した私ですが、就職してしまった(横浜市体育協会)ので結構フラフラです。1週間の休みを取る直前、スポーツ事業部のイベント『横浜シーサイドトライアスロン大会』で日曜日は早朝から夜まで直射日光ガンガンの中働き……出発前夜にパーティー用に着物を引っ張り出し、パッキングして、女の子が1週間の海外旅行に行く荷物の量じゃないだろ!って言われるような、たった10キロのバックパックを担いで行ってきました。

◆13日の9時に成田着いてスウェーデンとの気温差10度程。湿度がすごくてまた北欧に逃げたくなりました。そして、今朝、重たい体を引きずって出勤しているところに江本さんから電話。「20時までに原稿書いてね?」って今、20時30分です。すみません。(骨肉腫のサキこと今利紗紀 9月14日20時30分)

★4年間にわたった風間深志と仲間たちによる「運動器の10年日本委員会」世界キャンペーン活動は以下の通り。
1 ユーラシア大陸横断(2007年)
2 アフリカ大陸縦断(2008年)
3 オーストラリア大陸横断(2009年)
4 日本縦断駅伝(2010年)
5 北南米大陸縦断・スカンジナビアの縦断(2010年)
 日数は延べ350日。総走行距離は66,300km。 この間に多くの先進的な病院・施設を訪問し、自分たちの活動をアピールした。

わずか8日間の里帰り

■9月3日、2年ぶりに里帰りしました。念願のグリーン・カードを7月に入手、わずか1週間の里帰りです。今回は、奮発して新幹線(のぞみ以外)、特急に1週間自由に乗れる「JRパス」を買いました。3万円と、私にとってはでっかい出費でしたが、それだけのことはありました。新潟の実家に帰って食べた刺身のおいしさに感動し、パスを使って10年ぶりに盛岡に日帰りで行ってきました。

◆岩手大学農学部農業生産環境工学科の仲間たち11人が集まってくれたんです。久々の再会に話が弾みましたが、さすがに皆、歳とった。同じ教室で過ごした友達の中には中学生の親になっている人もいて、人生いろいろだなあ、と感じました。「盛桜閣」という有名な焼き肉屋で盛岡レーメンを食べたのは最高でした。太めでこしのある麺で、今でも毎日でも食べたいです。盛岡からいったん新潟に戻り、東京、名古屋、と走り回りましたが、食べ物については日本はすごいですね。何もかもおいしい。

◆ホワイトホースでは4星のホテルでジェニターの仕事、つまりホールや会議室、レストラン、トイレの掃除をしています。それだけではお金が貯まらないので町のカフェで皿洗いも。仕事先で食事は出るのですが、バーガーなどパン系のものばかり。カナダでの食事は至極素朴です。ホワイトホースには「フードバンク」という食料サービスシステムがあってそこで豆の缶詰、卵、ラーメン類などをもらいます。IDカードを見せると月1回はもらえるんです。

◆今から帰ります。13頭の犬たちとのトレーニングが待っています。お世話になりました。エモカレー、エモニシメ(注:筑前煮のこと)おいしかったです。(9月10日 成田空港にて。本多有香


[あとがき]

■8月の地平線報告会は特別バージョンとして5人の猛者に出てもらったため、この通信も特集のかたちとした。偶然、ひとつの本を書いたという縁での5人報告会だったが、個性溢れる面々で、予想通り面白かった。

◆「赤ちゃんの頃の写真を捜して」「アンケートに協力して」、と準備段階から5人に迫ったのは、通信編集スタッフの大西夏奈子、加藤千晶さん。彼女たちのアイデアと司会進行があって報告会は一層多彩、楽しい内容となった。皆さんにありがとう、と申し上げます。

◆シール・エミコさんからもらった朝顔の種が見事花をつけました、というメールと写真を、この夏何人かの方から頂いた。一番最近のはきょう15日昼、彫刻家、緒方敏明さんからで「エミコさんの朝顔が やっと開花したのであります。嬉しかったです。なんだかホッとしたし。良かったです。猛暑で咲く前に枯れてしまうんじゃないかとかハラハラしてました。」と青い朝顔の写真を添付して。

◆エミコさん、猛暑の中での闘病、タイヘンだったでしょうが、あなたの撒いた種は日本のあちこちに花開いていますよ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

Tシャツ、ジーンズ山ノボラーの福音

  • 9月24日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

[ディズニーランドかフジサンかっていう選択肢で山に来るヒト達に、高価な山道具を揃えろっていっても、ムリがあると思いません?」と言うのは、登山家で山岳ガイドの山田淳(あつし)さん(31)。いまや年間40万人の富士山登山者。その大半は全くの初心者だと山田さんは言います。

「でも、だからこそせっかく山に向いた足をリピートさせたい」。山田さん自身、子供の頃は喘息持ちでひ弱でした。運動部には入れず、中学の時たまたま入ったワンゲル部で知った自然との触れあいに感動した事がきっかけで、後に七大陸最高峰登頂の最年少記録(当時)を達成したいきさつがあります。

「装備さえ整っていれば、誰でも山を楽しめるのに、Tシャツとジーンズで登ると大変だから、一回でイヤになっちゃう。あと1〜2回登れば山登りが日常に近づくのに」と山田さん。学生時代富士登山ガイドを5年つとめながら、登山人口を増やすことと、安全登山の普及を自分のテーマに定めました。

東大卒業後外資系コンサル会社に勤めていた昨年、トムラウシ山での遭難事件を知ります。こうしてはいられないと、3年半の会社員生活をやめ、今年の2月に起業。冒頭の命題の答えとして山道具のレンタル会社をはじめました。なんとシーズンの3ヶ月で約2000件の需要が!! この型破り、掟破りの起業のてんまつに御注目!!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信370号/2010年9月15日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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