2008年11月の地平線通信

地平線的遊びの庭から

夢の時間の3日間━━地平線の風の人たちは、島の人たちから歓迎もされ観察もされたと思う

■地球は遊び場、浜比嘉あしびなーで、遊ばしてもらってありがとう。ちへいせん・あしびなー。送られてきたチラシを見て、なんじゃこりゃと、思った。解説を読んで納得。あしびなー=遊び場。地球を遊び場として、良い子、悪い子、だだっ子、やんちゃっ子で遊んできた地平線仲間にとっては、いいネーミングだ。

◆浜比嘉島。なんでその島?の疑問もすぐ解けた。地平線仲間のハルミちゃんが沖縄の島に嫁ぎ、何人かはよく通っていると、風の噂に聞いていた。10月後半の3日間の滞在で、この島の魅力の一端を味わった。浜比嘉島の3日間は夢の時間。竜宮城にいってきた気分。海、空、森、洞窟、泉、神々、精霊、拝殿、音色、舞踏、香り、味覚、肌触り、老人、青壮年、子供たちが、一体となって不思議な多次元空間を構成していた。

◆今回の、ちへいせん・あしびなーの舞台まわしになっていた故宮本常一さんは、地平線の創設メンバーにとって多大な縁のある民俗学者「旅する巨人」。この島にも足跡を残されていると知った。私も若い頃、息子の宮本千晴さん初め常一さんゆかりの人たちから薫陶を受けて育った1人。最近、四万十で地域おこしに関わっていると、「土の人」、「風の人」、「水の人」という言葉をよく聞き、自分でも使う。

◆「旅する巨人」を 読むと、瀬戸内海の島で土の人として育ち暮らしていた宮本常一さんは、やがて、風の人となり日本中を民族調査で旅して回る。そして、晩年は水の人として、「忘れられた日本人」の原風景が残る日本の辺境の農山村、半島、離島の振興のために尽力している。風の人は、点から点への二次元の旅人。旅した土地の土の人の一瞬だけを一次元のように観る。土地に根ざして暮らす人は、三次元空間に時間の流れがつながり、四次元時空間を生きている。さらに自然界の神秘や精霊、先祖、神々などの多次元時空間につながっている。暮らしには、一日、1年、一生のサイクルがある。自然には法則があり、暮らしにはしきたりがある。これを犯せば、旅人といえども、最悪命さえ危ない。

◆私のふるさと土佐には、かつて、希人(まれびと)信仰があった。血の濃くなるのを防ぐため風の人がくれば、希人(まれびと)として妻を一夜のお伽にさしだし、子宝に恵まれれば自家の子供として大事に育てた。しかし、村に悪さするなり秘伝を持ち出すなどの悪人なれば、密殺した。土佐の山間部には今でも集落の出入り口にお茶堂がある。常にお茶がおいてあり、地元の人はここで一服するが、よそ者の見張り場所でもある。風の人は、ここから、見張られ観察されているわけだ。

◆今回の地平線 in 浜比嘉島でも、地平線の風の人たちは、地元の人たちから歓迎もされ観察もされたと思う。二次元の旅人は四次元の暮らし多次元の奥深さにつながれたかどうかは、参加した各人の胸の内。常一さんのように風は土に出会い水となることがある。皆が皆、そうであることはないが、オシム前日本代表サッカー監督が言うように、水を運ぶ人がいないと、華のある風の人と、土地に根ざす土の人は上手くかみあえないことがある。

◆水の人は、人から賞賛されるでなく、咲いた花や実った果実を人々が喜ぶのを、かげでこっそりみて、それを自分の喜びにできる人。今回のちへいせん・あしびなー。水の人は誰だったのか、全貌は分らない。何人かは、思い浮かぶ。この人たちが、誰よりも報われてほしい。風は、暴風でなく、心地よい微風であっただろうか。 これは、地元の人の判断、地平線会議の今後の付き合い方、アフターケアの問題。

◆何人かの島の人たちと話した。リゾート開発をめぐって、賛成反対微妙な雰囲気を感じた。日本は倭の国(わのくに)。「わ」には心の和、交流の輪、自然の環、解け合う話、巡る回、いろんな「わ」がある。昔の日本の田舎では、集落の大事なことは全員参加の集会でとことん話し合って決めたと聞く。賛成反対激論が戦わされ、結論が出ずとも、三日三晩もやれば、だいたい疲れてくる。そこで、ちょうどの折り合い点に落ち着き、これで行こうとなる。みんなの決定だからみんなで守る。忘れられる前の日本の田舎はこうやって「わ」をつくっていた。

◆島は、海に開かれており、海で閉じられてもいる。広くも狭くもある。島の将来が、多くの人々にとって幸あるものになってほしい。3日間のシンガリをつとめた、山田の報告。地元小中学生達約60人への「青い地球の川を旅して木を植えて」のスライドショー。 僕のこころは、少なからず2日前の平田大一さんの「島から世界へ」に揺れていた。いきなり聴衆の心をつかむ話術、管弦打楽器を自在に操り、歌い、いきいきと子供達を導く組踊の指導。2時間があっという間だった。平田さんには脱帽。僕は僕の自然体、平常心で、地元の子供達とやるよにうやろうと、開き直ったが、評価は子供達に聞かないと分らない。浜比嘉島の海ガキ達よ、元気でなー!!(高知 山田高司

ちへいせん・あしびなー」に照準をあわせて『60代編日本一周』

■昨日(2008年11月11日)、「60代編日本一周」の「西日本編」を終えて帰ってきました。東京・日本橋を出発してから42日目のことです。125ccのスクーター、スズキ・アドレスV125Gで10171キロを走って東京・日本橋にゴールしました。△10月1日に出発した時は、10月25日〜10月27日の「ちへいせん・あしびなー(地平線会議in浜比嘉島2008)」にぴったりと照準を合わせて走り出したのです。本州、四国、九州とまわり、鹿児島到着は10月17日。鹿児島港からトカラ列島経由のフェリーで奄美大島の名瀬港に渡り、奄美大島を一周。10月20日18時40分に「フェリーあけぼの」で那覇港に到着した時は、計算どおりにいったので、「ヤッタね!」という気分でした。

◆まずは沖縄本島の一周です。時計回りで一周。本部半島の運天港からフェリーで伊平屋島に渡り、島を一周。伊平屋のシンボルにもなっている松の名木「念頭平松」を見、最北端の田名岬に立ちました。ここは沖縄本島最北端の辺土岬よりもさらに北で、沖縄最北の地なのです。その夜は伊平屋港近くの「伊平屋観光ホテル」に泊まりましたが、看板も出ていないような観光ホテルでした。夕食は魚三昧で、ミーバイの煮魚、タマンの刺身と魚汁。たまらない沖縄の味でした。

◆翌日はフェリーで運天港に戻ると、すぐさま今度は伊是名行きのフェリーに飛び乗り、伊平屋島の南の伊是名島に渡りました。伊平屋島は細長い島、伊是名島は円形の島で、形だけでいうと北海道の礼文島と利尻島に似ています。伊是名島を一周し、最後に「御庭公園」へ。そこには琉球王朝の第2尚氏王朝の祖、尚円王の像が建っています。尚円王が生まれたのは伊是名島。若き日の尚円王(金丸)がりりしい姿で海のかなたを指さしています。伊平屋、伊是名の2島は、「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)のときには荒天で渡れなかっただけに、よけいに心に残りました。

◆沖縄本島最北端の地、辺土岬に立ち、本島の西海岸を南下。東村の慶佐次湾では向後元彦さんのお顔を目に浮かべながら沖縄本島最大のマングローブ林を一望。沖縄本島最南端の地、喜屋武岬では、やはり浜比嘉島までバイクで行く途中の「もんがぁ〜さとみさん」にばったり出会い、2人で手を取り合って喜びました。沖縄はよく「辺土岬から喜屋武岬まで」といわれますが、本当の最南端はさらに南の荒崎。道なき道をかきわけて、「もんがぁ〜さん」と荒崎まで行き、沖縄本島最南端の岩場に立ち、そこで東シナ海に落ちていく夕日を眺めたのです。

◆こうして「地平線会議 in 浜比嘉島」前日の10月24日に浜比嘉島に到着。江本さんや長野さん、丸山さんらとの出会いは嬉しいものでした。「地平線会議 in 浜比嘉島」がどのようなものだったかは、江本さんや皆さんの報告にまかせ、ぼくはその間、どのように動いたかをお伝えします。

◆10月25日の第1日目は13時50分の開演でしたが、その前に朝一番で島めぐりをしました。浜比嘉大橋で平安座島に渡り、宮城島から伊計島の北端のリゾートホテルまで行きました。これらの3島は橋でつながっているのです。本島と平安座島は海中道路でつながっています。第1日目のイベントすべてが終了すると、民宿「ゆがふの郷」でみなさんとの盛大な飲み会。沖縄のビール、オリオンの生のジョッキを何杯もあけました。そのあとは沖縄の酒、泡盛。「民宿ゆがふの郷」での宴会は延々とつづきました。

●第2日目は朝食を食べるとまずは浜比嘉島めぐり。そのあとコザに行き、温泉銭湯の「中乃湯」を探しました。ここは外間晴美さんに教えてもらったところ。さんざん探しまわり、やっとみつけたと思ったら残念ながら定休日。12時前には浜比嘉島に戻り、「シルミチュー公園」での島民のみなさんとの交流会に参加しました。小豚の丸焼き、山羊汁はこれまた忘れられない沖縄の味になりました。モズクの天ぷらや江本さんおすすめのパーラーの氷ぜんざいもしっかり食べました。交流会はそのまま民宿「ゆがふの郷」での宴会へとつづき、島民の「しんちゃん」とは泡盛を一気飲み…。いやー、こたえました。

●第3日目はまずはフェリーで津堅島に渡り、一周7キロの小島をめぐりました。与勝半島に戻ると、勝連城跡からの眺めを目に焼きつけ、浜比嘉島に戻りました。そして比嘉小学校での山田高司さんの講演を聞き、丸山純さんの「デジカメ教室」では子供たちのすばらしい写真の数々を見せてもらいました。すべてのイベントが終ると、再度、コザの「中乃湯」に行き、若干、白濁したツルツル湯に入り、浜比嘉島に戻りました。その夜は「一軒家」(江本さんらの泊まっている家)での連夜の宴会。またしても泡盛を飲みつづけるのでした。

●このあと那覇からフェリーで石垣島に渡り、八重山諸島の島々をめぐるつもりにしていたのですが、何と有村産業のフェリーが廃船となり、石垣島には渡れなくなってしまったのです。これは沖縄にとっては大変なことです。結局、泣く泣く八重山諸島を諦め、那覇から鹿児島に戻り、九州の東海岸、山陰、北陸と通り、「西日本編」を終えて東京に戻ってきました。このあと11月20日に「東日本編」を開始。東北から北海道へと向かっていきます。(神奈川 賀曽利隆

ねえ、知ってた? 私たちってこんなに素晴らしい星に生きているんだよ

■生まれて初めての沖縄。ついに行くことのできた沖縄でした。その沖縄が浜比嘉島であったこと。様々な表情を、魅力を持つだろう沖縄の、ほんの一端でしかないだろうことを想像しつつも、「ああ、よかったな」そう思える4日間でした。

◆沖縄で南極の話をしました。熱心に耳を傾けてもらえたと感じています。話の後、「面白かったです。これからもがんばってください」そんな風に声をかけてもらいました。本当にありがたかったです。

◆私が南極を語る時、「ねえ、知ってた? 私たちってこんなに素晴らしい星に生きているんだよ」そういう思いを込めているつもりです。私が地球を愛する入り口は南極です。一番好きな場所だから。同じように個々の人に個々の入り口があって、それぞれのやり方で地球のことを愛してくれたら、地球の素晴らしさに気づいてくれたら、それが私の願いです。

◆浜比嘉は、すでに素晴らしい地球の一端です。南極帰りにはキツイ(のかもしれない)都会の日々を繰り返しながら、浜比嘉に来て、自分の感性で、自分の時を大切に過ごしました。朝、海に入り、夜も海に入りたかったけれどそれは我慢して、夜は波の音を聴きながら星空を眺め、気の赴くままにギターを奏でました。私の大好きな、かけがえのないこの星とナマでつきあえる時間。私にはとても大切な時間です。恐らく本当は多くの人にとって、自分たちの星とのコミュニケーションはとても大切なコトだろうと思います。

◆「生きる」ことって結構大変…そんな風に常日頃から感じています。この秋はいろんなことがあってちょっとタイヘン。そんな中、浜比嘉で過ごした地球時間は、ちょっとした休息でありました。大切なコトってシンプルだよな。あらためてそんな風に感じたトキでもありました。(神奈川 永島祥子

ンヌジグヮー(イイダコ)漁

■3日間、浜比嘉島には不思議が満ちあふれていた。三輪(主彦)先生と二人で山の中を走っていたら、腰にナイフを挿した鷹匠、松原(英俊)さんが現れたり、シルミチュー(神様の住んでいた洞窟)へ続く長い石段を登っていくと、染織家の中畑(朋子)さんが精霊のように座っていたり、ウルトラランナーの海宝(道義)さんと賀曽利(隆)さんの熱いペアが宴会を仕切りまくっていたり。不思議な組み合わせが島中で祭りを盛り上げていた。

◆そんな不思議ワールドで僕の役割は「モノ語り」の話し手の一人だった。ところが困ったことに僕には海外から持ちかえった「モノ」がない。悩んだ末見つけたのが海外の「お金」。「お金」というのはその国の事情や文化を反映していて面白いので趣味で集めている。その中からとっておきのニカラグアの1000万コルドバ(日本円で600円)を選んだ。これで話のツカみはもらったも同然だ。さてそれはいいとして、話の本筋には浜比嘉島の人に共感してもらえるものを出したい。島と自分を結ぶモノ。それは「水」だろう。魚、釣り、カヌー、水難、水に関わる鉤を次々出せば、どれかが島の人の心や体験にひっかかると思った。

◆舞台から客席はよく見えなかった。「お金」で笑いは取れたが、その後の反応はいまいち。世界最大のカレイの写真を出せば、漁師は身を乗り出すはず、と思っていたが、そうでもなかった。僕の話は島の人を楽しませることができたのだろうか? もし何かがひっかかっていれば、誰かが話しかけてくれる、そう思っていたら、とんでもない大物がかかっていた。シゲさんである。二日目の夜、民宿の庭で飲んでいたらシゲさんが隣に来て「今回の大集会のテーマは継承よ。鷹匠の素晴らしさはアナタに受け継がれているわ」とお褒めの言葉?をいただいた。

◆東京なら、もうそれだけで十二分だ。でもここは浜比嘉島なのである。やはり島の人の声が聞きたい。音楽と芸能の地で車谷君の津軽しゃみせんは島の人との壁を越えていった。僕が同じものを求めるとしたら、それは釣りではないのか。実は釣りは、釣り情報誌に連載記事を持っていたぐらい好きなのだ。海外では釣り竿を持って水辺で立っていたら、いつも先生が現れ、釣りを通して魚や環境についても教えてもらえたものだ。初日にレンタカーから初めて浜比嘉島を見たとき、僕の目は島ではなく干潟で何かを投げている人に釘付けになった。投網じゃない。振り回して投げている。なんだあれは?◆あとからそれがイイダコ漁だと知った。イモ貝を何個かつないだ釣り針もない仕掛けを投げて引き、タコが乗ればそっと近づき素手で押さえつけて捕るのだそうだ。なにぃ! そんな技法も道具も、僕は今まで世界中で見たことがない。針がないのは、あの地形で仕掛けを引けば海草か岩に引っかかるからだろう。理屈はそうだが、タコに気配を悟らせずに間合いを詰める技にはゾクゾクする。自分でもあの漁がしたくなり、仕掛けに使う貝を探して浜を歩いた。しかし手ごろなイモ貝は見つからなかった。イモ貝でなければダメなのか。漁師に聞けばよかったのだが、気が弱くて言い出せないあたりが情けない話である。次回島に来るときは師匠を見つけて、あの技法をマスターしよう。そして「ンヌジグヮー漁」について教えを乞おう。(東京 坪井伸吾) 

現場至上主義万歳!━━地平線あしびなーに遊んで

■めったに人を褒めないことで有名なわたくしでございますが、このたびの地平線あしびなー、いやはや感動的ですらありました。実働部隊の若手諸君も含め、企画や仕込みから実際の現場まで、よくぞここまでという感アリ。当方も出張ったかいがありました。ほんとうにお疲れさま〜。とはいえ、やはり我がカーニバル人生20年分をたった10分間にまとめよとの理不尽極まるお達し、地平線会議じゃなかったらあり得ませんな。しかも、わたくしの場合は、年にたった4日間の勝負。カーニバル評論家の辛く厳しい現実を語るには、あしびなーを全部占拠せねば無理というものです。この一言に到達する前にドラが鳴って、軽く討ち死にとなってしまいました。現場に立ち続けることの凄さやら素晴らしさを伝えられなかったのは残念至極ではありましたが、今さらわたくしごときが言うまでもなく、あしびなーに集った全員が感じたことだったのではないでしょうか。てなわけで、やっぱり現場至上主義万歳!(東京 白根全 カーニバル評論家

荘厳な神域のシルミチューは、花の窟と同じ形式の拝所なのでは

■前田先生の案内で島の南、荘厳な神域のシルミチュー拝所に詣でた。琉球開闢の神アマミチューとシルミチューの住まいだった。108段の階段を上るとそこは岩壁で行き止まり。その琉球石灰岩の岩壁の凹所前で人は祈っていた。ここのところ私は日本人の信仰について考えることが多い。浜比嘉島に来る前、南紀熊野の「花の窟」に参拝した。日本開闢のイサナギ、イザナミの二柱のうち、イザナミを祀る社だが、そこには海岸の波で削られた大岩壁の凹所があるだけだ。人々はその前で祈る。神社が作られる前の古い形式の拝み場所である。シルミチューは花の窟と同じ形式の拝所なのではないか。昔、南紀熊野からは多くの修行者がホダラクを目指して小舟で西方をめざして死出の渡海をした。熊野の古い信仰は黒潮に乗って沖縄から来た。修行者はそれを確信し、信仰のふるさとを西の島に求めたのではなかろうか。沖縄の信仰がさらに西のニライカナイから来たのと同じように。

◆浜比嘉島には古くからの信仰、習慣、芸能が残されている。復帰前、民俗学者の宮本常一さんが、短時間の沖縄滞在に際してこの島をわざわざ訪れたのもむべなるかな、と思った。この島の魅力にとりつかれた外間夫妻、地平線会議の面々に島を紹介したいと考えた江本、長野、妹尾さんの慧眼にも脱帽である。さらに子どもたちを奮い立たせている平田大一さんにも感激した。これだけの島をつくってきた島の人々に感謝。島から帰って、「さて私たちは恩返しに何をしようか、いや待てよ、思いつきでよけいなことをしてはいけない」そんな思いが頭の中で行き来している。(東京 三輪主彦

あしびなーの奇跡

■浜比嘉島のある勝連町は合併でうるま市となり、わたしが名ばかりの代表をしているNPO沖縄ホールアース研究所がうるま市の仕事をしている。と言うもののわたし個人とうるま市は何もつながっていないのでこの話題はここでおしまい。

◆今回の「ちへいせん・あしびなー」では、「モノ語り」が出番だったが、並み居る旅人たちにわたしのカビが生えた旅の話をしても仕方ないので、自分がこだわってきた「暮らす」ということを話したいと思った。20歳の若造が一人、ツテも無く英語すら通じない南インドの荒野で井戸を掘り、小屋を立てて障害児たちと村を作り始めた軌跡はぜひ若い人達に伝えたかった。

◆「店もない、金も使う方法がない」生活で、同居の開拓者となったドラビタ族の若者に教わりながら綿花を自分で紡いで糸を作り、それを村人が布にして作ってくれた粗末なインド服と、ついでに帰国後に牧場を開いて後に羊の毛刈り全国チャンピオンになった時のでっかい鋏を、羊毛を紡ぎながら見せて話をした。久しぶりの紡ぎに時間をとられ、後段の話が出来なかったがそれは由としよう。

◆ともかくも多彩なスピーカーと話題があふれた「モノ語り」には存分に楽しませてもらった。ところで、このあしびなーは地平線渾身のイベントにふさわしく、それ自体がひとつの「モノ語り」となっていった。わたしが注目したのはこのイベントが浜比嘉島の比嘉地区という地域をあきらかに変えていきつつある事実だった。わたし自身、95年から沖縄でかなり密度の高い地域活動をしてきており、那覇と名護に団体も置いているが、それもずいぶん時間をかけて徐々に地域を動かしてきたと思っている。それがちへいせんあしびなーという3日間のイベントで地区の皆さんが大きく影響を受けていることを感じた。事前に江本さんを筆頭に地平線の猛者メンバーが心を尽くして足繁く通い、ここまでの下地を作ったことは否定できないが、何よりもあしびなー本番のパワーが見事に結実したことは確かだろう。沖縄の本島ではこの10数年の間ですら本土化ともいうべき大きな社会変化が進行し、同時に美しい風土も自然も損なわれていった。それを目の当たりに見てきたわたしには、酔いも手伝ったか、浜比嘉島が奇跡のような島に思えた。肝高の物語りや、比嘉のエイサーの歴史を見ているとその実感は高まるばかりだ。浜比嘉島が護り、未来に伝えていく宝を、あしびなーは図らずも本土から大挙してきた地平線たちとともに島んちゅ自身が確認する場に成ったのだろう。これからもこの島に思いを持ち続けて見ていきたい。(静岡 広瀬敏通 ホールアース自然学校代表

特有の言葉と食べ物を持つことは、民族の誇りに繋がる

■10月22日那覇入りし幾つかのグスク、うたきを廻り独特の曲線石垣構築の見事さに感嘆した後、24日昼前、勝連城跡一の曲輪に立った。紺碧の海の先、浜比嘉島が遠望され、手前の浅瀬には独特のノッチの入った琉球石灰岩のキノコ岩。説明書には琉球王国統一の過程で、15世紀、首里に最後まで抵抗した英雄、肝高の阿麻和利の逸話、初めて知ったこの王が絶景の天守から毎日、毎日何を想っていたかと……。

◆ここでの想いが平田大一氏演出の高校生の驚嘆すべき組踊で目の当たりにするとは想像すらできなかった。それほど「ちへいせん・あしびなー」は感動に満ちた会議であった。プログラムのいずれもが感動、感激、驚愕。「旅の一品・地球からのおみやげ」、貴重な一品を示しながらのエピソードの披露、宮本常一の「一枚の写真から」継承することの大切さ、いずれも旅のプロフェッショナルによる話は迫力があった。彼らは端からそう見えるだけで本人はそう思ってなく、その時その時に最大限の楽しみを求めて行動しているように感じられる。

◆翌日のシルミチュー公園でのかき氷屋台のおばさんまで動員したガチマヤー交流会。比嘉集落ならではの自然と人との共存を保つシマの人々の生きる術に加え、豚の丸焼き、山羊汁、ドラゴンフルーツ、ジーマミ豆腐。文化の要と言えば食べ物、それぞれが育て、受け継ぐ必要があることを実感させてくれた。特有の言葉と食べ物を持つこと、これは民族の誇りに繋がる。浜比嘉島で地平線会議が開かれることは無いかもしれないがまた戻って来たい。本当に参加して良かった。(栃木 原健次

10分という壁と闘ったモノ語りの世界から、広大なエラブウミヘビの世界へ

■「地平線モノ語り」で私たち8人に与えられた時間は、わずかに一人10分。うー短い。こんな短い時間でなにを話せというんじゃ。私の真骨頂は、実際に遭遇した生き物たちとの体験談。10分という壁を征服するのは至難の技だった。

◆開演直前の舞台裏では、私の次に登場するカーニバル評論家の白根全氏とこんな会話をかわしていた。「私はおとすから(風前の灯火、滅びへの道、私が死んだら)、お前であげろ。」「よし、わかった。」彼からは自信にみちた返事がかえってきた。あーそれなのになんたることか。キューパに降り注ぐ太陽よりも明るく大きな花火を打ち上げなければならないというのに、これではしょぼしょぼと光ってぽとりと落ちる”線香花火”ではないか。

◆しかし、とにかもかくにもそれぞれが個性を出し合い、無事終わった「モノ語り」だったが、私が嬉しかったのは「すごくおもしろかった」と言ってくれた外間夫妻や、「私ももう床屋には行きません」と駆けよって声をかけてくれた女子高生(『肝高の阿麻和利』に出演)がいたことだ。たった三人だけでもそう思ってくれたのなら、もうなにも思い残すことはない。翌日には、私の沖縄行きのもう一つの目的だった座間味島でのサバイバルキャンプに旅立った。

◆訪れた慶良間の海は、眩しいほどに輝き、変わらぬ美しさで私を迎えてくれた。そして海に潜り、ヤスや見釣りでさまざまな魚を狙い、岩の窪みやサンゴのすき間などを丹念に捜しながら貝を捕った。今回は大物こそ捕れなかったが、良型のハナアイゴやヒレナガハギ、モンガラカワハギ、ハリセンボン等の魚やサザエ、タカセガイ、クモガイ等の貝も多く捕ることができた。

◆時にはすぐ目の前を横切る猛毒のエラブウミヘビにドキリとしたり、殺人貝の異名をとるイモガイを恐る恐る海中で拾い上げたりしたが、今回一番の収穫だったのは大きなスイジガイを見つけたことだ。その名の通り、「水」の字の形をした貝で、南の島では魔除けとして軒下に吊るされているが、私にはこれが初めての出会いだった。

◆誰もいないサンゴの浜で流木を集めて小さな火を起こし、毎日その日に捕った貝や魚を喰らう。そして夕闇がせまる中、濃紺に染まる広大無辺の海と、その海のかなたに静かに眠りにつこうとしている島々をながめやる時、たまらないほどの自由と喜びに全身が満たされる。自分はつくづく自然の申し子なんだと思わずにいられない。

◆島を去る日、海岸近くの道端で2羽のカラスが何かに飛びかかりながらさかんに攻撃を加えていた。駆けよってみると中位のカニを襲っていたところだ。すぐに助けだし海に帰してやったが、あと1分通りかかるのが遅かったら間違いなく食われていただろう(もっと大きいカニだったら私が食っていたのだが…)。だから今は雪も間近い山形で、カニの恩返しを今か今かと待っているところなのだ。(山形 松原英俊

グローバル化した世界では伝統と近代化の問題が短いスパンで顕在化している

■地球のあらゆる場所を知っているひとたちが、それぞれの世界観をもって小さな浜比嘉島に集まった。私たちの知らない世界が数多くあり、それぞれがかけがえのないことを知った。私たちはインドネシアのレンバタ島という小さな島にあるラマレラ村の捕鯨世界を語った。クジラを生活の糧として生きるひとたちがいまでもいること、地球上の小さな村で伝統をかたくなに守りながら生きているひとたちがいることを私たちはみんなに知ってもらいたかった。

◆発表では触れなかったけれど、15年間通い続けた村に近代化の波が一気に押し寄せ、ここ数年は村と伝統漁法の変化を中心に調査をするようになってきた。プレダンという木造帆船が2003〜2004年にかけて動力化され始め、手漕ぎで獲物を追う方法はしだいに失われつつある。過渡期にあたる2005〜2006年のマッコウクジラの歴史的な不漁を経て、漁法のみならず村の暮らしは2007年から急速に変化してきている。その変化とリンクするように、海外の環境保護団体がラマレラ村に関心を寄せ始めている。2007年の“WWF”などによる海洋環境調査、そして2008年には“クジラ・イルカ保護協会”による反捕鯨・脱捕鯨の推進運動が日本の報道でも大きく取り上げられた。

◆ラマレラ村がクジラからはなれて生きていくことはないが、伝統を守りそれを若い世代に継承しながら、新しい漁法とよりよい暮らしの道を模索しているいまの段階はとてもセンシティブな時期である。環境保護団体などが今後どのように村にコミットしてくるのかを注意深く見守る必要がある。

◆一気にグローバル化した世界では伝統と近代化の問題が短いスパンで顕在化している。浜比嘉島に集まったひとたちの知っている世界も同じような問題を抱えているのではないか、多くの発表や意見を聞きながら私たちはそのことを考えていた。

◆「ちへいせん・あしびなー」の一週間後、琉球新報は比嘉地区に一大リゾート化計画があることを報じた。わたしたちにとって快適な「とっておきの場所」はやはり狙われていたのかと妙に納得した。浜比嘉島の半分は別世界となり、やがて快適な場所として知られることになるのだろうか。そして開発されないもう半分の地は……小さな島で伝統を守りながら生きていくことはやはり難しいのかと、改めて考えて いる。(宜野湾市 江上幹幸・小島曠太郎

神々との約束を守り、神を拝む伝統が今も生きて暮らしの中にある島

■さすが神の島。10月25日からのちへいせん・あしびなーは、神も寿ぎ、最高のお天気で歓迎して頂きました。

◆大海原に誘われ、初日の朝、海岸線にそって歩き出しました。この風、この空気、これが浜比嘉島だと、一歩一歩に心がゆるやかにほぐれていきます。海はどこまでも青く、土曜日ということもあるでしょう、海岸線に人の姿はありません。ふと気付いたら車から降りる男性に出会いました。

◆ここはどの辺りですか、とちへいせん・あしびなー製作の地図を出して男性に聞きかけると、いつの間にか地元の女性が現れ、男性と挨拶してさっと見えなくなりました。男性が彼女はノロです、と何気なく呟くように言います。その女性が昼からの地平線集会に現れたのです。女性はとうに子どもが独立し、夫とふたりの今の暮らしは神事が中心だそうです。私は明日の浜比嘉たんけん隊でもきっと何かに出会える予感でわくわくしました。

◆26日、比嘉港前に集まった私たちに今朝の新聞をみて那覇市から来たという人たちも合流、前田一舟さんの案内で、まず島一番の拝所、海に向かってぐっと拳を突き出したようなみどりのアマミチューに向かいます。岩盤の上を歩き、岩の下をくぐった先の小さな岩山、アマミチューの墓は、ハッとするような清浄な気に充ちていました。繁みの下には真っ暗なガマ(空洞)が口をあけています。神に仕えた人の住まい、奥には人骨もあるそうです。

◆島には12の拝所があり、清水が湧き出る霊場も、学問を助ける拝所もあります。この学問の拝所から山の上まで登るのも12の拝所の順路になっているらしいのです。やっとのことで登った山頂からは、太平洋を一望し、アマミチューの拝所も手にとるように見えます。遥かニライカナイから島を目指してお出で下さる神の姿がくっきりと目に浮かぶ海の青さです。

◆島を歩けばどこでも神の気配を感じます。神々との約束を守り、神を拝む伝統が今も生きて暮らしの中にあります。正月の初拝みは12の拝所を回るそうですが、今日は5番のシルミチューで最後になりました。ここも長い石段を登って拝所です。手すりにすがり、たどり着いた霊場は濃い緑の中。シルミチューは静かに鎮座し、目に見えないパワーに人々は安らぎます。安らぎの中で今日巡ってきた拝所の数々を思い浮かべました。

◆伝統を守ってきた島人と、伝統に回帰する外からの人々が混じり合うことを想像しました。もう想像でないその一歩、小さな一歩は動き出している喜びを大事に抱きながら、石段をそろりそろり下りてきました。(埼玉 金井重

90点の出来。よき旅人は情報とよき刺激を地域住民にもたらす

■楽しかった。こうした集会のあとに残りがちの、ある種の気まずさ、懺悔に似た反省、がまったくなかった。点数をつければ90点。高い得点の根拠は、ほかの参加者からの指摘があるだろう。ぼくが云いたいのは、満点としなかった理由だ。

◆これは10年前の1998年、ベトナムの小さな村で催した<コンサート・植林・シンポジウム>と共通する課題でもあった。ベトナムの開催地となった村は、ホーチミン市カンザー地区の一角、ベトナム戦争(ベトナムではアメリカ戦争と呼ぶ)のとき、アメリカ軍の“枯葉作戦”によって3万ヘクタールのマングローブ林が消滅したところである。戦後、植林によって森をみごとに再生させたベトナム人の偉業を考えるために“企て”が実施された。

◆コンサートは満月の夜にひらかれた。喜納昌吉とチャンプルーズ、加藤登紀子、新井英一、それに加えて3人のベトナム人歌手が出演し、日本からの160人とおよそ4000人の村人が日越の音楽を楽しんだ。翌日は村人たちとマングローブ植林をおこなう。会場は、さらにホーチミン市に移され、「ベトナムの村から環境・平和・人間を考える」と題したシンポジウムが開された(司会、パネリストあわせて10名。うち喜納昌吉、川満信一は沖縄から、金井重、辻信一、向後紀代美、わたしの4人は「地平線会議」関係者)。ベトナムでの開催というハンディを考慮に入れれば、この「企て」もまたかなり高い得点がつけられよう。

◆そこで、つけることができなかった得点について言及したい。それは、おしかけていった私たち(浜比嘉では地平線会議、ベトナムではマングローブ植林行動計画)のこと。わたしたちは、会場となった村・地域にたいして、いったい何だったのだろうか。宮本常一はいう。よき旅人は情報とよき刺激を地域住民にもたらす。今回の企てがそのようなものであったか否かは、これからの検討に待たねばならない。(神奈川 向後元彦

4日間で生徒たちが撮ってくれた写真の総数は、2224枚!!!

■仕事との絡みがあってなかなか参加表明ができなかったので、いざ行けるとなったときに、ジレンマに陥った。浜比嘉島はもちろん、沖縄に行くのも初めてなのに、地平線のイベントに参加しただけで帰ってきてしまうのでは、なんとももったいない! しかし、人間関係も予備知識もないままただ島をぶらついても、得られるものがほとんどないのはわかっていた。

◆そこで思いついたのが、「デジカメ教室」である。これまで知人のカメラマンと組んで、デジカメ教室の出前をする「デジカメK太倶楽部」(K太=ケータリング=出前)という活動をあちこちでやってきたが、それを比嘉小学校でやったらどうだろう。子どもたちならではの視点でいまの島の姿を記録してもらえれば、島をたっぷり見る時間のない私たちにとっても得がたい情報になるし、生徒たちにとっても新たな発見があるかもしれない。趣旨をお話ししたところ、下地校長をはじめ教職員の方々もおおいに興味をもってくださり、またキヤノンマーケティングジャパンからも機材貸与の協力が得られることになって、当初のプログラムになかったデジカメ教室を実施する運びとなった。

◆24日の金曜日、5〜6年生の12名の生徒たちが私たちを迎えてくれた。地平線会議の紹介や写真を撮ることの意味などを少し話したあと、カメラの操作法を解説する。いまの子どもたちはこうしたデジタル機器には慣れていて、すぐにマスターしてしまう。最後に担任の金城睦男先生が、これから3泊4日にわたって預かることになるカメラの扱い方について、噛んで含めるように話してくださって、ありがたかった。

◆27日の月曜日の昼休み、いよいよお待ちかねの「プリント実習」だ。なんと、一人で650枚も撮った子もいる。カメラとプリンターをつないでボタンを押すだけで、はがきサイズのプリントがどんどん出てくると、歓声があがった。絵はがきのような、整った構図のきれいな写真ばかり選ぶ子。逆に、こんなものにもカメラを向けたのかと驚かされる子。子どもたち対象のデジカメ教室ではいつもそうなのだが、大人には絶対に撮れない、素直で自由な視点の写真に、嫉妬を感じてしまう。

◆その後、山田高司君の講演のあとで写真をスクリーンに大きく上映して、この写真は何で、どんな気持ちで撮ったのかを一人ずつ発表してもらって、デジカメ教室はひとまず終了した。この4日間で生徒たちが撮ってくれた写真の総数は、2224枚。どれも、浜比嘉島のいまをとらえた貴重な記録だ。ミニ写真集やミニ写真展といったかたちでなんとかこれを形にして、地平線会議のなかや島のみなさんとのあいだで共有していきたいと考えている。みなさんのご協力をお願いしたい。

◆最後にひとこと。今回わずかながら島の暮らしぶりに触れ、浜比嘉の風景のなかを歩いてみると、学生の頃から通い続けているパキスタンの山奥の村と、どこか共通するものがあることに驚かされた。この人の立場はうちの村の××さんそっくりだ、この祈りの場所ではここに立ってこんなふうに歌い踊るのだろうなどと、すっとわかってしまう。風土も歴史もまったく異なるのに、小さな伝統社会というものはかくも似てくるものなのだろうか。人間の営みの不思議さを感じるとともに、浜比嘉から学ぶものがパキスタンで生かせるのではないかという思いも湧いた。(東京 丸山純


全て手作りで出来あがってゆく「場」、記録をとる真摯な姿勢

■浜比嘉島で地平線会議があるらしい。島のぜんざい屋でうわさを聞きつけたのが9月の頭の頃だった。ふと職場で「地平線会議」のホームページをこっそり覗いてみた。時間が無かったので、「地平線会議とは」というページをさらっと読んだ。会員制を取らず、あくまでも個人の集合体である。と書かれている。これは容易ならぬ事だぞと、まず思った。目に焼きついたのが、「すべての活動が、有志の手弁当によって運営されています」という一文だった。外間晴美さんに電話を掛けて「何かお手伝いさせて下さい」とお願いした。

◆23日の朝、レンタルハウスへ行くと、そこには地平線のメンバーがいた。外の人達が右往左往している中、代表世話人の江本さんが人懐っこい笑顔で歓迎してくれた。「この人好きだなぁ」と第一印象。何か、暖かい。準備日は二日しかない。やる事は沢山ある。手際の悪さも感じた。あーでもない、こーでもないのやり取りを横で見ていた。しかし、一つ一つ着々と出来上がっていく。何から何まで手作りである。「本気」を感じた。みなさんの真剣さを初めて理解して、興味半分でいい加減に関わっている自分を恥じた。

◆25日当日の朝、会場では一日の流れの確認が行われていた。私はもちろん一参加者として参加費を納めたが、驚いた事に主催者である地平線会議のメンバー全員が参加費を払って参加するという。更に、スタッフであっても、みんなこの場を楽しもう、なるべく全員が参加しようという事だった。

◆「これだ!」と思った。手弁当の醍醐味は、ここにあるのではないか。誰かの善意を犠牲にして成り立つのではなく、みんなが同じ立場に立って共有する為の手弁当だからこそ意味があるのだ。とそんな事を思った。「地平線会議の姿勢」と、全て手作りで出来あがったこの「場」に心底感心してしまった。

◆この日の報告会は、素晴らしく、何もかもが心に響いた。何度も何度も熱いものがこみ上げてきた。三日間、私は本当に幸せな時間を過ごした。たいしてお役に立てた覚えはまったくないのだけれど、皆さんから「ありがとう」や「お疲れ様」と声を掛けていただいて、とても恐縮してしまい困った。色々考えたけど、素直に受け取る事にした。

◆私が感心したことがもう一つ。それは、「記録をとる」という事への真摯な姿勢だった。「記録をとる」という事は、とても難しい、面倒くさい、大変な作業だと私は思う。だから、地平線のメンバーは、すごいと思った。後で知ったのだが、記録をとる事は、地平線会議の意義の一つであるようだ。とても納得してしまった。(しかも、30年も活動を続けているというのだから想像も及ばない話である。)

◆最後に地平線会議の皆様へ。沖縄へ来てくれて本当にありがとうございました。地平線会議と出会って、私は人間の暖かい愛を感じました。素晴らしい感動が沢山ありました。とにかく感謝の気持ちでいっぱいです。今回のテーマに、「継承」とあった。私は、確かに何か大きな愛を受け取ったように思う。これは、何なのか。地平線会議から受け取ったこの何かを、これからの自分の行動の中に見つけて行こうと思う。(沖縄市 野崎晶子


実際の地平線通信では、見出しの両脇にトランプの「クラブ」のマークが入っていますが、これは機種既存文字で文字化けの可能性があるため、省きました。


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