2005年8月の地平線通信



■8月の地平線通信・309号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙母の記憶が正しければ、60年間雨が降ったことは一度しかないそうです。今年の8月6日も、広島はこれ以上ないくらいとてもきれいに晴れました。午前8時15分、「平和の鐘」の音が、低く、おだやかに、平和記念公園から街へと広がると、人々はそれぞれに頭を垂れました。その間静まりかえった平和記念式典の会場には、右翼団体の声だけが拡声器ごしに響き、それを覆いかき消してしまうかのように、大木にへばりつく無数の蝉が、わーん、わーん、と鳴いていました。60年前は月曜日の朝。警戒警報が解除された直後でせわしく動き始めた街が、完全なる無音の世界に生まれ変わった瞬間でした。

◆私の母方の祖父母は原爆に遭っています。当日、建物疎開の当番で市内の中心部に行くはずだった祖母は、たまたま前日に手伝いに出掛けた郊外の親戚宅から帰る途中だったので爆心地での被災を免れました。原爆投下後、交通手段がなくなって仕方なく歩くと、全身をやけどして前ナラエの格好で歩く人(腕を下げると鬱血して手が痛くなる)、こぼれ落ちた自分の目玉を手のひらでにぎっている人、市内に近づくにつれ風景が凄まじく狂っていったそうです。爆心地から約4キロの位置にある自宅には昼ごろ帰宅。被災者が玄関口に詰め寄せ折り重なっていたので水をあげました。無心でいるうちに夜が明け、翌日からはトラックで死体がどんどん運ばれて来て、夏の太陽の下で一週間燃やし続けたそうです。祖父は、長崎の高射砲隊に所属し、9日の後に広島に戻ってきたので、ふたつの街を見ています。

◆…という事実を知ったのは3年前。トロントに遊学中、「海外の友人たちに話をすることになった」と口実をつくり、祖母の顔を見ずにすむ国際電話で初めて話を聞くことができました。それまで、彼女は記憶にぴっちり蓋をして、さらに紐でぐるぐる巻きにして、胸の奥に押し込め、誰にも言わずにいました。

◆トロントで衝撃的だったのは、原爆がすでに投下されていることが他国の同年代の若者たちにほとんど知られていなかったこと。図書館にも資料がなく、環境によって知り得る情報はまったく異なることを知り、何か、“伝える道具”があったらいい、日本の人が発信しないと誰もわからないままだ…。新しい気持ちが内側から湧いてきました。

◆帰国後、就職した出版社で「原爆写真 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」という日英2ヵ国語表記で“伝える道具”の編集に関わることが決まり、すごく嬉しいのと同時に、罪悪感が生まれました。祖父母が、原爆に関する写真や記録の類、もちろん原爆ドームも、残すことを心底いやがっていたためです。語り部となる人もいますが、固く口を閉ざし記憶を自分の外に出さないと決めている人が実際はほとんどです。

◆本のことは秘密のまま1年が経ったある日、NHK朝の報道番組から私と祖母に取材依頼が飛び込んで来ました。祖母に電話をかけ、本のこと、テレビ出演のことを話すと、「そういうのはとにかくいやなんじゃ」ひどく落胆させてしまい、私は自分の身内を悲しませてまで何をやっているのか?わからなくなりました。しかし三日後、再度連絡すると「もう好きにしんさいナ」と半ばあきれられ、その声には、いつもの気丈でいてあたたかみのある独特の優しさが含まれていたので、ほっとしました。

◆被爆60年、メディアには「継承」という言葉が飛び交います。原爆体験に限定していえば、「継承」はうまくいっていません。流れが変わり、これまで話さなかった人たちが口を開き始めても、受け取る私たちの準備ができていないことが多いようです。「ノーモア〜」の読者カードの8割は60代以上の戦争体験者。「後世に伝えたい、残したい」というさけびにも似たメッセージが書かれた葉書が毎日届きます。

◆私は片仮名の「ヒロシマ」が本当は苦手で、こわくて、最近まで、心の奥底ではそうっと忍び足で避けてきました。なるべく見ないように。触れる必要がないように。しかし、知らないからこそ恐れ、避けていたのだと気づき、やっと準備ができたような気がします。

◆西の空が赤く燃えてきた頃、原爆ドームそばの元安橋にもたれながら、夕凪の後のやわらかい風を感じ、海へ出ようとしないで逆流する今年の不思議な灯ろうの群れを見守りました。あの朝偶然生き残った祖母からいのちがつながって、偶然私は生まれ、亡くなった数十万人から生まれるはずだった幻のいのちは、無限の可能性を抱えたまま消えてしまった。ここまでつながったいのち、今後どこまでつなげられるのか?祖母が断言したとおり、原爆の記憶を私が追体験することは不可能だとしても、薄い理解を少しずつ重ねていきたい。受け止めたい。次へ伝えたい。あまり心配しなくてもいいからネ、と、ゆらゆら迷っている灯ろうを見てふと思いました。(大西夏奈子 編集業2年目の元気な太鼓打ち)



先月の報告会から
犬に引かれて北極圏
本多有香
2005. 7. 22(金) 榎町地域センター

 若い女性といえば、1kg痩せた太ったで一喜一憂する昨今の風潮ではある。ところが、冬のアラスカ、マイナス20〜30度の世界。鼻水で両頬を凍傷にしながらも、一心に熱き魂を「マッシャー」と呼ばれる犬橇使いに賭ける青春がある。本多有香32歳、新潟出身。この地平線会議発足と同じ8月17日が誕生日だ。

◆身を小さくしながら会場に現れた有香さん。アイドル系の目鼻立ちが愛らしく、一見未だ学生かと思わせる初々しさだ。人前で話をするのは初めてだという緊張感からか、会場作りにテキパキ動くメンバー達に気後れしたように挨拶して回る。しかし、その遠慮がちなまなざしとは不釣合いに盛り上がった肩の筋肉、惚れ惚れするような逞しい腕っ節。これらが、お嬢さんの道楽なんかではない真剣さをしっかりと見せつけた。

◆この春、朝日新聞(3/11夕刊)の一面を飾ったアラスカの犬橇ビッグイベント、セーラムラン。19日間1200kmに日本人として初参加し、完走した。セーラムランとは血清(セーラム)を犬たちが運んだ故事に由来する。1925年冬、ベーリング海に臨む街ノーム(Nome)は、ジフテリア蔓延に街全滅の脅威にさらされながら、悪天候ゆえ陸の孤島と化してしまっていた。残された唯一の到達手段が犬橇。見事、血清を運び人々を救った。セーラムランは、これを記念して毎年行われるようになった催しで、レースではない。列車で届いた血清を犬橇に託すセレモニーからスタートするこのイベントには厳粛な雰囲気が漂う。

◆犬たちは縦長に2列、合計12頭でネナナ、ノーム間を走る。種類はアラスカンハスキー。シベリアンハスキーより一回り小型だが、人1人なら1頭でも軽々と引く。有香さんの場合、時速約10〜15km、小休止を挟みながら5時間半程走り一日50〜70kmというペースで進んで行くという。中継地では学校などがマッシャー達の宿泊スペースとして用意されたりもする。

◆しかし、どんなに疲れていても犬の世話は各マッシャーが全て一人ですることになる。サポーターにより予め中継地点に運ばれた餌用鮭の生肉は、さすがの犬でも歯が立たないカチンコチンの氷塊状態だ。雪を鍋で煮溶かし、そこへ凍った肉塊を入れ水分補給も兼ね温めてやる。いくら極地犬とは云え、せめて温かいものを食べさせてやりたいからだ。一定の間隔でつないだ一頭一頭には軽く穴を掘り、これも前以って運ばれたワラを敷いて寝床を作ってやる。特に風が強い場合には、ブロックに切った雪を休む犬の周りに積んでやったりもする。勿論、出発の際は犬の糞、寝床に使ったワラなどの後始末もマッシャーの役割だ。

◆中継地点から毎出発時、ブーティーズと呼ばれる犬の足を保護する靴下を付けてやることも欠かせない。前の晩、外して手入れして置いたものを、かじかむ指で一つ一つ48の足につけてやるのは時間がかかる作業になる。

◆スノーモービルで橇と併走し、犬達とマッシャー有香さんの連係プレイを取材という立場で追っていったのが冒険家であり、大学助教授の九里徳康(くのりのりやす)氏。報告会後半は九里氏の写真を見ながら、別の視点からレースの解説がされていった。氏によれば、有香さんは横に並んで走っても、あまり会話もせず実に淡々と橇を走らせていたらしい。雪原では犬達の事しか見えていなかったのかもしれない。その都度走行を中断するわけにもいかず、犬達は走りながら用便するようしつけられている。九里氏曰く「最後尾で舵を操るマッシャーって、飛んでくる犬の糞尿を浴びちゃうんですよ!」「どっちみち凍ってますから!」と返す有香さん。豪快で爽快だ。

◆ガソリン臭さや大雪原にはミスマッチな騒音ゆえ不自然に浮き上がるスノーモービルに比べ、犬橇はマッシャーの掛け声と雪を踏みしめる犬達の足音だけだ。極地極寒の大自然にしっくり合い、思った以上に清々しい乗り物かもしれないと九里氏は言う。果てしなく広大な白の世界、カメラ目線の愛くるしい犬達と後方に小さく写る有香さんの姿は、凍て付く気温をついつい忘れさせ、まるで電車ごっこでもしているかのように微笑ましく見えてくる。今回27チームが応募した中、選考された13チームに入り見事な完走を果たした。カナダ、アラスカでは日本のプロ野球並み人気だという犬橇レース、次は更に距離を伸ばして1600kmのユーコンクエストを目指すという。

◆実を言えば、写真を見せながら前半に行われた有香さんの報告は、海苔も乗ってない盛りそばのようにあっさりと終わってしまった。しかし、そこは地平線会議、慌てる事なく、急遽代表世話人のE本さんがあれこれとポイントを聴きだすトークショウに早変わり。なぜ犬橇レースなのか?この根本的な疑問にも、答えはあっけなかった。十年程前の学生時代、航空券が安かったからと出かけたカナダ、イエローナイフで見た犬橇レースがむちゃくちゃ格好良かったから、と。

◆卒業後一旦は就職するが、イエローナイフ観光局に手紙を送り、マッシャーになる道を模索する。数ヵ月後、数々の優勝経験を持つグラント・ベック氏の下でハンドラーとして働く機会を掴む事に。ハンドラーとは、子犬から世話をし、かつレースでの何から何までを教え込んでいく仕事だ。カナダでこの契約が終わってしまった時、無給ででもハンドラーをする以外、居残るすべは思い浮かばなかったという。求め求めて、ついには1000kmの道のりを自転車でアラスカへと移動する。そしてこれも過去にいくつもの好成績を残すマッシャー、レイミー・ブルックス氏に出会うことになる。

◆彼の下では無給でハンドラーをしてもう3年になる。当初40頭ほど預かったが、今では80頭をもこなすばかりか各々の性格、癖など全てを把握しているという。1頭1頭をレース犬に育ててあげていく事は、1日も休めない上随分と体力の要る仕事だ。しかし幼い時から動物好きだった彼女にとって、お互いを信頼で結んでいく代えがたいプロセスでもあるのだろう。いくら最低限の食住込みとはいえ無給では?という疑問が当然湧いてくる。100万200万円とかかるレース資金を貯める目的もあり、夏の間は新潟に戻ってアルバイトをしているという。会場及び恒例となった2次会の中華料理「北京」では、今一借りてきた有香だった彼女。その夜、地方からの参加者と共に華やかに3女で泊まっていただいた我が家では調子はすっかり全開モードにリセットされた。やっと、前評判通りのビールグイグイを見て満足満足。「犬達とは日本語でやってますよ!でもどうしても云う事聞かない時はグーで!」と拳を上げる。また、これも大好きだという花火は、眺めるのが第一の目的ではなく揚げる側での話。3尺玉4尺玉(直径90、120センチ)と、世界最大を製造する片貝煙火工業に掛け合い、打ち上げ職人のすぐ横で手伝っているとか。「真下からだと音が全然違いますよ!!」と。男のくせにとか女のくせにとか、彼女にかかっては初めから死語であって痛快極まりない。それにしても、今日はいったい何度目を丸くしたことだろう…。(藤原 和枝)



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イラン最古の教室と本多有香のこと
 九里徳泰(くのり のりやす)…8月3日メール


 お久しぶりです地平線の皆様。九里徳泰です。この7月末にイランに出かけてきました。イラン最高峰のダマバンド(5671m)登頂と、ペルシア文化を訪ねる旅です。この旅行は、ガイドとしてお客様8名を連れて登山するもので、これからこういうことを定期的に世界各地で行なっていこうと考えています。この山は、日本から7泊8日で登れる5000m峰として人気です。トラックで3000mまで入れるので、初日に4000mのアタックキャンプ、翌日に10時間かけて、5600mの頂上往復というハードな行程ですが登頂が可能です。8名中6名登頂というまずまずの登頂率で、ほっとしました(イラン人は50%ほど)。

◆登山の後、ペルシア時代の古都イスファハーンに行き、イラン最古の大学の教室を見学しました。それは、小さな中庭に5mほどのレンガ造りの大きな穴がいくつもあり、そこで先生(宗教者)が生徒に読み聞かせなどをしていた場所です。先生は立ち、生徒は地面に座って聞いていたそうです。5年前から母校の大学の教員となり年間1000人近くを面倒見ている私にはとても強烈なインパクトがあるものでした。

◆さて、7月の報告会の本多有香さんです。本年2月に現地アラスカで実際犬橇を扱う本多さんを取材し、その話を報告会でも少々しました。短くまとめると、ビール好き(軽くジョッキ10杯)、女好き(特に若くてかわいい子)、犬好き(ハンドラー=犬の世話役、としてはピカ一でしょう)、そしてチャレンジ好き(冒険心旺盛)の四拍子。加えてマイナス20度はあったかいというアラスカンにもなっています。将来が期待される???マッシャーです(ホント)。来年2月のユーコンクエストのルーキーオブザイヤーとらないと縁を切るといっているので、いけるでしょう彼女なら。

◆久しぶりなので私と地平線の話を江本さんよりせよと言われているので少々。おそらおそらく1986年のチベット高原自転車横断後のことなので、もう20年近くにもなります。当時は、報告会後の飲み会で、Eさんにどつかれ、Oさんに怒られ、別のEさんにも説教され…と散々な状態で、すでに深夜2時。電車がなくよく駅で寝てたことを思い出します。最近の報告会後は和やかなムードでいいな〜と思います。

◆私の近況ですが、10年単位で話しますと、90年から96年までの7年がかりの北南米大陸を人力で縦断し97年にオペル冒険大賞エポック賞をいただきました。そのときから冒険家を自分で名乗りすでに9年。北南米〜のあとは、母校中央大学の大学院にもどり学術の世界にいて、7年前に同大研究員になり、5年前に助教授になりました。

◆いわゆるタレント教授でもなんでもなく、こつこつアカデミアの世界で論文を書き、学会発表をするという地道なことをしています。昨年成果が実り学会で優秀研究賞をいただき、プロの研究者の仲間入りをしました。よく聞かれる「専門」ですが、基本は商学部なので経営学です。その後文学部で人類学を勉強し、大学院で総合政策を学んだので、環境学、政策科学が加わり、学際領域(学問横断的)です。対象領域は、環境、社会、経済の調和で、持続可能な企業経営、持続可能な観光といったものです。教えている講義は「環境経営論」「人類生態学」「リスクマネジメント論」。

◆冒険学をやらないのか?とよく言われますが、1年ほど集中して「九里徳泰の冒険人類学」(角川書店発行)を書きまして、学術ジャーナルに「冒険学入門」の連載を書いていましたが、それが休刊となりそれ以来途絶えています(3年前)。このような仕事に至った経緯は、冒険をしていて世界80カ国まわり、どうも地球環境や社会組織が人間行動により疲弊してしまっているということを目の当たりにし大学で研究をした、ということから始まります。

◆とはいえ、冒険をやめたわけではありません。1998年にムスターグアタに登頂。2000年に家族で3歳の子どもをつれてオーストラリア5000km自転車縦断、2001年に8000m峰のチョ・オユー登頂、2003年にシシャパンマ登頂。家族での旅、そして、ヒマラヤ登山に絞って冒険を続けています。大学の職のいいところは、まとまった休みが取れこういう活動ができることです(もちろん月給も魅力的ですね)。このように、大学と冒険、一見関係がないようなものかもしれませんが、私はその絡み合いを増幅させながら前進しています。冒険はどの分野にもあるものだと思います。


<地平線の知られざる風景>
 にわか非常勤講師、汗だく講義録
 丸山 純さんから…8月11日…メール

◆やっとのことで、待望の夏休みがやってきた。それも、2ヵ月以上の長期間! これまでずっとフリーランスで日曜日もお盆休みもない生活をしてきたのに、週に1回だけ大学で教えるようになったおかげで、夏休みの解放感とありがたさをしみじみと味わうことになった。とくに今年から、これまでのような少人数のゼミではなく、大きな教室で講義を担当するようになったため、精神的にも肉体的にも疲れ方が段違い。這うようにしてなんとかゴールにたどり着いた、というのが実感だ。

◆地平線の創設メンバーの岡村隆さんから、「おい、こんな人、地平線にいないか?」と相談があったのは、2002年の秋。創設4年目の新しい大学が独自のカリキュラムを打ち出したいと考え、「旅」の体験をベースにして教えられる非常勤講師を探しているのだという。何人か打診しているうちに「じゃ、お前もやれ」という話になり、最終的に岡村さんが「旅と探検論」を、地平線通信でおなじみの長野亮之介“画伯”が「エコツーリズム論」を、『森の回廊』で知られる吉田敏浩君と私が「異文化理解」を担当することになってしまった。

◆2003年の4月、緊張しながら教室のドアを開けた瞬間は、生涯忘れることはないだろう。やはり緊張した面持ちの中国人留学生が5人。うれしいことに日本人が1人いて、ホッとする。ぎこちない自己紹介を互いに続けるうちにいつしか空気もなごみ、なんだか盛り上がってきた。不思議なのは、彼らの視線だ。損得抜きの純粋な期待感とでもいったらいいのだろうか。仕事の場などでは感じることのない、まっすぐなまなざしが突き刺さってくる。これをきちんと受け止め、応えるには、かなりのパワーが必要だ。

◆このゼミ生たちと過ごした2年間は、ほんとうに楽しかった。わが家に呼んでエスニック料理を楽しんだり、秋の文化祭に屋台を出して手作り餃子の実演販売で大好評を博したりと、すっかりこちらも学生気分に浸ってしまった。自分の卒業式には出なかったくせに、この3月には黒いガウンに房付きの帽子というコスプレまでさせられて、彼らの卒業を見送った。

◆授業のほうは、「異文化理解」などというちゃんとしたカリキュラムがあるわけではないので、毎回ドロナワで準備をして臨むことになる。当日の朝になって、ようやく何を話すのか決めたことが何度かあった。中国人なので、文字にするとたちまち理解できるのだが、それを日本流に発音してしまうとほとんど通じない。しっかりとしたレジュメと、熟語へのルビ振りが不可欠。それに、いまどきの学生は話だけで1時間半も興味を持続させることが難しいため、スキャンしたり、インターネットを漁ったりして、ビジュアル素材の用意もたいへんだ。準備が手薄だと不安感がにじみ出るのか、言葉が空回りしてうまく伝わらず、落ち込むことになる。思いもしない中国人たちの反応に、こちらが“異文化理解”をさせられることもしばしばあった。

◆2年続けてゼミを受け持ったが、今年から講義を担当することになった。よし、これで日本人を教えることができるぞとうれしく思ったが、ゼミだと一人ひとりの顔を見ながら進められるのに、講義となるとそうはいかない。最前列で寝たり、おしゃべりするのもいて声を張り上げなければならず、体力を消耗させられる。通年のゼミでやった内容をどう半期の講義に押し込むかでも、苦労した。とくに残念なのが、イスラーム理解について不十分だったこと。ロンドンのテロのせいで学生たちの関心は高まっていたのに、なぜ世界がこんな状況になってしまったのか、きちんと納得させることができないまま中途半端に終わってしまい、力不足を思い知らされた。

◆“画伯”と合同授業のかたちで、田中勝之・菊地千恵夫妻+ラフカイ+ウルフィーをゲスト講師として招いて、狩猟民の暮らしぶりについて語ってもらった。関野吉晴さんのグレートジャーニーをはじめ、地平線のみなさんの話をずいぶん授業に盛り込んでいる。私自身の体験はささやかなものだが、異文化理解の総本山ともいえる地平線会議で得たものを惜しげもなく注ぎ込んでいるので、学生たちにはけっこう大きな刺激になっているようだ。

◆これまでは、地平線で得たものは地平線に返すという発想しかできなかったが、歳のせいなのか、しだいに地平線会議の外の社会にもさまざまなかたちで還元していきたいと考えるようになってきた。地平線カレッジや地平線スクールみたいなものが、たとえ一時的なイベントであっても実現できたらいいなと夢見ているところだ。


ともに旅する魂
ラフカイ、ウルフィーの父 田中勝之さんから…8月8日…東京の山里より


 7月25日、我が家に最後まで残っていた子犬のノチューが、高尾に引っ越して来た友人夫妻の元へと巣立っていきました。今では約5ヶ月間の子育ての奮闘が嘘のようです。

◆ところで子犬たちが居なくなり、ラフカイとウルフィーと千恵とぼくの静かな日常が戻って来た我が家の庭を見つめながら、土煙を上げ地面を転げ回っていた5匹の姿をボンヤリ回想していると、ときどきふと心に浮かんでくる想いがあります。5匹の肉体はウルフィーから種をもらい、たしかにラフカイの胎内で形作られ、出産というシーンを通してこの世界に誕生したけれど…僕の中には、ひとつの大きな疑問が引っかかったままでした。

◆それは、5匹の子犬たちが生後2週間で瞼を開き、瞳の輝きに個性や意志といったものが宿ったとき、その意識はいったいどこからやってきたのだろうかということでした。彼らの行動や表情を長い間見つめていると、それを単に科学的な視点で脳内の化学反応によるものと片付けてしまうことはできないような気がしてきました。今までも、ラフカイやウルフィーとの暮らしを通して、同様のことを想ったことはありましたが、今回は妊娠から誕生、成長を通して見つめることによって、ますますぼくの中のそうした想いが強くなりました。

◆ノチューが巣立って行った2日後、ぼくと千恵は愛知万博のカナダパビリオンで、もう何年も前にカナダ極北のマッケンジー河沿いにある先住民の村で知り合い、親友になったインディアンの友人、マイケルと再会しました。彼は伝統的なハンドドラム(太鼓)を大切に携え、祈りの歌を唄うためにやってきたのでした。そして聴衆を前に、ドン・ドン・ドンという単調なリズムと共に、彼の喉から発せられた歌は「魂への祈りの歌」だったのです。

◆その声は、単に喉や口という発声器を通して空気を振るわしているというよりも、胸のずっとずっと奥の方から彼という肉体の真ん中を通して振動する「魂の響き」のようでした。そしてドラムの叩音も、太鼓の表面に張られたトナカイの皮が入り口となって伝わってくる、魂のリズムのようでした。彼は演奏の間ずっと眼を閉じたまま、真剣な表情で、まるで見えない何かに語りかけているかのように唄い続けていました。傍で聴いているだけで、温かな涙が自然とこぼれてきました。閉じかかっていた心の扉が、彼の歌声とドラムの音によって、再び広く開放された瞬間、彼を通して届けられた「魂の声」は、それぞれの扉を通してぼくたち自身の中心へと浸透していきました。

◆そのとき、子犬の誕生から抱いていた疑問が、ふっと解けていきました。「彼らは、そこからやってきたんだ」何のためにやってきたのか、それは分かりません。きっとそれぞれの飼い主となった人たちが、子犬たちとともにひとつひとつ日々をたしかに経験していくことによって、いつか答えはやってくるのだと想います。子犬たちが巣立った今、ぼくと千恵は8歳になったラフカイと、1歳になったウルフィーと再び新たな旅をはじめようとしています。2匹はぼくたちと世界をともに経験するために、あの扉を通してやってきた「ともに旅する魂」なのだと感じています。5匹の子犬たちも、そうして旅をはじめたのです。そして、いつしか肉体の生命を終えたとき、それぞれが皆、また同じ扉を抜けて「魂の故郷」へと還っていくのでしょう。出会いや時空の共有は決して偶然ではなく、それぞれの魂の決意なのだ、そんな気がします。そうしてつながった魂は、決して離れることのない永遠の仲間なのだと想います。


17人の友の捜索─4畳半での執筆暮らし、そして次のステージへ
 小林尚礼(こばやし なおゆき)さんから…8月9日…メール

 夏ですね。この時季、4畳半一間の我が家は、外よりも気温が上がって耐えがたい状況になります。勤めをやめこの安アパートに住んでから7年になりますが、2年前ついに根負けしてクーラーを購入しました。いつの間にやら齢36、体力に任せた忍耐力は衰えてきました。

◆先月、山の専門誌「岳人」に連載していた「梅里雪山 17人の友を探して」が、最終回をむかえました。この記事は、中国の梅里雪山(6,740m)で遭難した友人を探すため、チベット人の村に1人で滞在したときのことを書いたものです。遭難が起きたのは1991年の1月、遭難したのは京都大学学士山岳会と中国の合同登山隊17人です。その当時、僕は京大の山岳部に所属していて、梅里雪山の隊には同級生や先輩が数多く参加していました。遭難直後は遺体が見つからず、それから7年たって初めて遺体の一部が氷河から出現します。

◆そのころフリーカメラマンになりたてで時間の自由になる僕が、捜索活動の中心を担うことになったのです。毎月モノクロ6ページの記事は、2004年7月号から2005年8月号まで13回続きました。取材開始から連載終了まで、まる6年。この間、他の仕事を同時進行させていたわけではなく、そのほとんどの時間を梅里雪山に費やしていたので、この連載は自分の6年間の集大成のように感じます。

◆1999年に山麓の村に通い始め、遺体捜索と並行しながら四季の写真撮影を続けて、一区切りついたのが2001年。その6月には、地平線会議で途中経過を報告しました。2002年からは、撮影した写真と紀行文を1冊の本にまとめるため、ある新刊雑誌にカラーの連載を始めたのですが、途中で雑誌が休刊してしまいます。やがてその出版社も倒産し、原稿料はほとんど回収できないという苦い経験をいきなり味わいました。

◆2003年は、4畳半の部屋にこもって原稿の続きを書きすすめ、1冊分の原稿を書きあげました。その原稿と写真をもって出版社を回ったのですが、なかなか企画が通らずまた1年が過ぎてゆきます。翌2004年の初め、ふとしたきっかけでその原稿が「岳人」の編集長の目にとまり、連載がスタートしました。 既に書き終えたつもりの原稿でしたが、いざ連載を始めると手を加えたい所がいくつも見つかり、原稿は大きく変わってゆきます。文章を書くという作業は、それまで言葉にできなかった思いや体験を、初めて自分のなかに定着できるような気がして、苦しいながらも充実感を感じていました。

◆それにしても、1年という時間は意外に長いものです。連載の序盤は、初の文章中心の連載ということで張りきっていましたが、中盤には元原稿からの変化が少なくなり中だるみとなります。それでも撮影時の手帳や全写真を見直し、原稿用紙20数枚の原稿をチェックすると、ひと月の半分近い時間はこの執筆にとられることになります。これで原稿料○万円とは効率悪いなと思い始めます。また、時間をかけて撮ったカラーポジの写真を、白黒で掲載せざるをえないことにも不満がたまってゆきました。

◆終盤に入ると、再び書き足したい箇所が多くなり、産みの苦しみを感じ始めます。段々と感想を送ってくれる人が少なくなることも、つらい経験でした。また、17人の最後の1人が依然見つからず、その状況で物語をどのように終わらせるか悩み続けました。やがて、連載開始以後におこなった捜索活動のことを書き加えて、元原稿にはない新たな最終回を書くことを思いたちます。その最後の1章を書くことで、それまで思いつかなかった言葉が生まれました。17人の骨を拾いながら本当は何を探し求めていたのか、聖山とはなにか、という問いに明確な答を出すことができたのです。1年間の連載をしなければ、捉えることのできなかった言葉です。その答を知りたい方は、岳人2005年4月号と8月号をぜひご覧ください。

◆2005年の今年は、僕が初めて梅里雪山を訪ねてから10年目になります。これまでに17人の遭難者のうち、16人が収容されました。確認されていない隊員はあと1人です。最後の1人が見つかったとき、梅里雪山と僕の関係は新たな段階に移るだろうと思うようになりました。そのときはそう遠くないと思っています。

◆連載を終えて、当初の目標だった単行本の出版が、手に届くところまで近づいてきました。写真家を志すときに夢みた「写真と文章が共鳴する世界」を作ることに、ようやく挑戦できそうです。単行本は年内の刊行を目指していますが、それに先立って梅里雪山の写真をメインにしたホームページを作りました。連載では白黒でしか載せられなかった写真をカラーで掲載していますので、ぜひお訪ねください。梅里雪山の概説と、70枚ほどの選りすぐりの写真を載せています。

  URL:http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/

◆最後に、今後の抱負をいくつか。本の出版が叶ったら、同時に梅里雪山の総決算としての写真展を開催する予定です。これまでは東京でしか開催しませんでしたが、次の写真展は京都でも開こうと思っています。関西に多い17人の遺族や親戚の方々に、梅里雪山の写真をじっくり見ていただきたいのです。来年からは、東チベットの人と自然の中に、より自由に入るための活動を展開してゆきます。梅里雪山の山麓をずいぶん旅しましたが、僕の心はいまだに山とともに暮らすチベットの人々に魅かれています。時代の波にのまれ、大きく変わってゆくこの土地を、しっかり見続けてゆきたいと思っています。

◆もう1つささやかですが、本づくりの目処がついたら実行したいことがあります。それは、東京での4畳半暮らしから脱出することと、独身生活に区切りをつけること。連載の終了とともに、人生の次のステージが見えてきました。<2001年6月の報告者>


腱鞘炎・ハルハ川戦争・喫茶店
 山本千夏さんから…8月5日…ウランバートル発

 地平線会議 お誕生日おめでとうございます。山本千夏@モンゴルです。ご無沙汰してますが、皆さんお元気ですか?モンゴルに戻ってから、すごく忙しいです。翻訳の仕事を張り切りすぎて腱鞘炎になり、利き腕の親指が動かなくなりました。モンゴルの整形外科医に、ギプスをはめさせられ、今度は薬指の神経がつぶれてしまいました。思わぬハンディキャップにもどかしさもありますが、友達やスタッフに支えられて、だんだん慣れてきました。失ったものを惜しんでも、仕事が片付くわけもないから、片手ブラインドタッチとか、左ひじの活用、両足の活用など、体を駆使して仕事をこなす毎日です。乗馬ツアーのアテンドができないのが何よりも悔しい。同居犬のソートン(シェパード3歳オス)がいろんなものの持ち運びをしてくれるのも助かってます。犬なりに仕事を手伝おうとしてくれてるのねぇ、う、ケナゲ。

◆さて、お仕事は順調ですよ!…と自慢話を少々。日本テレビで放送していた「anego」という連続ドラマの最終回(6月22日)でモンゴルのシーンのコーディネートを私の会社がやったのだー。ジャニーズの若手アイドル君が来ていたのですが、「この世にこんな美しい生き物がいるとは!」と目が合った瞬間に息が止まりそうなくらい輝いていました。砂漠の中を大疾走するシーンは、やらせなしで、500mダッシュを何度も、何度も撮り直ししたのですが、一言の文句もいわず、いやな顔もせずに、淡々と炎天下を少なくとも10kmは走ってました。人間、やっぱり走れなきゃだめだなぁ、とどこかの御大のお言葉をしみじみと実感。挨拶も言葉遣いもしっかりしていて、好青年でした。ジャニーズに対しての高感度が一気にアップしたロケでした。

◆7月は北海道テレビの取材で「ハルハ川戦争」の激戦地に行ってきました。私は撮影の下準備に行ったのですが、車で10時間あまり、地平線を目指して限りなく続く緑の草原をひた走る、という快感を味わいました。モンゴル最東端にあるスンベル村に向かう途中で、夕立にあい、美しい虹を見て、大・満・足。車窓から見ると美しいけど、車から降りると、夕暮れ時はすさまじい蚊の大群に襲われます大草原。ぶわーっと音をたてて、全身にまとわりつき、傍目から見ると墨染めの衣を着ているかの如し。

◆さて、「ハルハ川戦争」とはなんぞや?恥ずかしながら、私も詳細は取材を依頼されるまでほとんどノータッチでした。大東亜共栄圏政策のもと、ブイブイいってた関東軍が満州国軍と共に、モンゴル国境内に侵入した国境侵犯がきっかけでおきた国境紛争。かいつまんでいえば、そういう戦闘でした。日本人の感覚からすると、河川は、なんか境界線っぽいですよね。東京都と神奈川県の境は多摩川だし、千葉県と東京都の境は荒川だ。東京在住者には無意識にそんな感覚ありませんか?でも、モンゴル人にとって河川は、「中心」で、川を中心に地方共同体が作られます。モンゴル語で「河川」と「中心」は同じ「ゴル」という単語を使っている、ということからも、そんな生活感に納得。

◆まあ認識の違いが要因だったか定かじゃないけど、とにかく日本軍は、宣戦布告なしで国境侵犯しました。(だから日本では「戦争」じゃなくて、ノモンハン「事件」なのです)長さ75km、幅35km、ソ連・モンゴル連合軍が陣営をはっていたハマルダワー丘陵上空では、400機以上の戦闘機がドッグファイトを繰り広げたとのこと。世界史上、こんな狭い戦場でそれだけ多くの戦闘機が上空をとびかった、ということは例に見ないそうです。

◆モンゴル軍が掘ったという塹壕跡がスンベル村の近くにいくつも残っていました。戦車1台分を15分で掘るのは日常茶飯事。自分の身を隠す穴は3分で携帯用シャベルで掘っていた、というスンベルの軍事資料館館長の展示説明にもびっくり。60年たった今でも美しい草原に無残な戦闘の跡として残っている、という事実も衝撃的でした。日本とモンゴルの政府間協約で去年から、日本兵遺骨収集団が組織され、今年は2回目の遺骨収集活動。当時通信兵だった方(現在88歳)もこの収集活動に参加しています。大日本帝国陸軍初めての敗北戦であったハルハ川戦争(「ノモンハン事件」)にふたをするために、本国への帰還を許されず、終戦まで、南方の玉砕・壊滅状態になった激戦地に配属されていたそうです。詳細は、テレビ朝日系列「テレメンタリー」という番組枠で秋に放送予定です。

◆これから、久々にJICAの通訳の仕事で、3週間ほど調査に行ってきます。並行してアパレルメーカー「ユニクロ」のモンゴルCM撮影のコーディネートもすることに…。そして、9月は、イヌワシ生態調査と、テレビ朝日系列「素敵な宇宙船地球号」の取材コーディネート。会社も4年目になり、モンゴルホライズンの名前でお仕事がくるようになりました。

◆ウランバートル市の中心地に喫茶店をオープンしました。国会議事堂のすぐ北側です。モンゴルの旅の写真をいっぱい飾ってます。名前はカフェ・アンド。「アンド」というのは、モンゴル語の「仲間」・英語の「And」・日本語の「安堵」をひっかけて、仲間が集まって、飲み食いだけでなくいろんなことをやったり、ほっと一息つける場所にしたいです。私はモンゴル全国を駆け回っているので、モンゴル国立大学の国際関係学部の学生達がきりもりしています。ドイツ語・英語・日本語・ロシア語・韓国語などバイリンガル、マルチリンガルなギャルが、試行錯誤しながらがんばっています。

◆みんなが自分の仕事に誇りをもって、仕事を楽しんで、新しいことにチャレンジできる場を作りたい。モンゴルで泣いて笑って、挑戦して、失敗して、七転び八起きをしてきた自分の目指していたものを、モンゴル人と一緒に作り上げている今、私は最高に幸せモンです。ちょっと遠いけど、ウランバートルにお立ち寄りの際は、ぜひ遊びに来て下さい。旅人カフェ「アンド」(定食・軽食・お弁当とおいしいケーキが自慢です。)ウランバートル市ザローチョード通り42-2.電話・976-11-323343です。


■走リーマン、坪井伸吾 水・水・水   8月9日…メール

 <あんたにはこの店がラスト・チャンスよ>
 コロラド州東部、小麦畑の黄色と青い空の2色しかない世界。そのド真ん中に小島のように人口100人ぐらいの村が数十キロおきにある。そんなゴーストタウンのような村には売店もなく、なぜか隣村のことを誰も知らない。バイクで旅していた時なら「何もなくて、サイコー」と叫べた景色だけど、一日に60キロ進むのがせいいっぱいのランニングの旅では、こんな景色は怖い。しかも2002年の北米大陸横断マラソンのデーターによると、このエリアでの最高気温は50度を記録している。50度!って砂漠じゃあるまいし、マジですか。州都デンバーを出て2日目、バイヤーから先が小麦畑だ。次の村はその名も「ラスト・チャンス」。昔ここでの何かの事件があったに違いない。バイヤーからラスト・チャンスまでは54キロ。その間は何もない。

◆バイヤーのガソリンスタンドで、この先の状況を聞いてみると「ラスト・チャンスなんて何もないよ。次に売店があるのはアントン。55マイル(88キロ)先。アンタにはこの店がラスト・チャンスよ」。カッコエエやん、おばちゃん。映画みたい。でも、てことは88キロ、水が手に入らない…。大丈夫かな。こんな時にかぎって店には1.5リットルのペットボトルが売ってない。ザックに入るのは4本。1.5があれば6リットルなのだが、1だと4リットル。以前ユタ州で110キロ無補給を4リットルで乗りきっているが、そのときは寒かった。今回は4だと明らかにヤバい。

◆でもどうしようもない。怖いので0.6リットルをもう一本無理やりザックに押しこみ、その場でコーラを気持ち悪くなるまで飲む。さあ行くか。ザックを背負うとズシリとくる。15キロ弱ぐらいか。これで走るの? でも行くしかない。外に出ると本場のヤンキー兄ちゃんに「きのうもアンタを見たよ。どこに行くんや?」と声かけられた。「NY」「NY!」「ど、どこから来た?」「ロス」「ロス? ロスって、あのロサンジェルスか?」「ああ」。ヤンキー兄ちゃんの目が尊敬と怯えの混じった目になった。「手を出せ」「へっ?」「いいから」。なんだか分からないけど手を出すと、兄ちゃんは僕の掌に25セント硬貨3枚と10セント1枚をのせた。「餞別だ。とっとけ。グッドラック」「あの〜、なんで」「いいから」。そう言い残すと、兄ちゃんはトラックをカラぶかしして去っていった。90円で、ここまでカッコつけられるのは凄い。でも、ありがとネ。さあ、行くか。

 <モンスターか、おまえは>
◆ハイウェイ70号線をくぐり小麦畑の海にでる。緩やかな大地のうねりに沿って道は進む。うねりの頂上に出ると地平線まで続く、新たな道が現れる。10時、気温35度。2時、38度。3時、40度。気温が上がるほど喉が渇き、水がどんどん減っていく。どこかでちょっと休みたいけど、日陰なんてどこにもない。アントンまで、まだ50キロある。こんなペースで水を飲んではマズイ。かといって我慢してると、ときどき目の前が薄暗くなってくる。おお、イカン。イカン。

◆5時、通りががった車が止まってくれた。「何してんだ?」との問いに「走っている」と答えると、正気か?、って顔。「大丈夫、ロスから走ってきたんだ。でも、もし水を持っているなら少し欲しい」「モンスターか、オマエは。分かった。水なら、ある」そう言って、ポリタンクの水をわけてくれた。これで水は4リットル。あ〜助かった。ありがとう。おじさん。7時、道端に休憩所のマーク。ベンチがあったので腰掛けてクツを脱ぐと、もう動けなくなった。せっかく涼しくなってきたのに、もっと距離を稼いでおきたいのに、体がいうことを効かない。本日のランは56キロ。

◆アントンまで、まだ40キロ。残りの水は2リットル。明日、晴れたらアントンまで水は持たない。日没まで待ってテントを張るが、湿気がひどく汗が止まらない。テントの外に出ると蚊の嵐。喉が乾いてしかたないけど水は飲めない。腹は減ったが、水無しで砂糖の固まりのようなパンを食べるのは、これまたキツイ。明日、アントンまで自力でたどり着ける可能性は3つ。第1は夜明け前に距離を稼ぎ、涼しいうちにアントンに着いてしまうこと。第2は、 「ラスト・チャンス」村に着いて店を探し、水を手に入れること。第3として、ラスト・チャンスになければ、その先の村リンドンまで行って、水を買う…。

◆雨が降る。翌朝4時に起きて、夜明け前の5時にスタート。だけど6時に地平線から日が上がり、7時には30度を越える。こりゃ今日もキツイ。7時過ぎにラストチャンスに到着。店は…店は、ない。四つ角に公衆トイレがある。やったー! 水道…水道…。くっそー、トイレだけかい。がっくりきて水を飲む。残り1.6リットル。いよいよヤバイ。100メートルほど先で庭に水をまいているおばさん発見。「その水を少し下さい」言いたいのに、こんなドロドロの格好で民家に近づいたら、おばさんびっくりするやろな、と弱気になり、どうしても言えない。その少し先にレストラン? らしき店発見。でも朝早いせいか、つぶれているのか閉まっている。どうする? アントンまで、あと32キロ。勝負をかけるか。この村でなんとか水を手に入れるか。でぇい! 勝負や。

◆まだ16キロ先のリンドン村で水が手に入る可能性もある。9時、暑い。顔にまとわりついてくる小さなハエに「オマエら、エエかげんにせー!」と怒鳴って、ハッとした。水がキレるという恐怖にかられて朝から4時間走りっぱなしだった。水も問題だけど、こんな走りをしたら体力も持たない。何か食べよ。でも、あるのは例の砂糖の固まりみたいなパン。これを乾きき口で食べるのは、ほとんど罰ゲーム。だー、キツイ。10時半、ついに最後の望みリンドン村が見える。ガソリンスタンドらしき、建物がある。やったー! と思ったが、近づくと廃墟。フラフラとそっちに行くと、レストラン&RVパークの看板。あははは、やったー!。ざまあみろ。だけど、その看板の指し示す先にあったのは、やっぱり廃墟。これは…。これはマジでヤバイかも。回りを見渡すと民家サイズの廃墟と化した何かの記念館があり、軒下にはベンチがある。とりあえずそこに避難。70キロぶりの日陰だ。ちょっと一服しよ、とベンチに横になるが、そこから記憶がない。 

 <「水をください」と、どうしても言えない>
 「ここ、どこや?」どうやら寝ていたらしい。ベンチから起きあがると目の前には巨大な小麦を運ぶトレーラが何台も止まっている。暑いな、温度計を見ると34度。時刻は11時半。日陰でこの温度ということは、ここから出るともっと暑い。そしてこれから気温はもっと上がるのも間違いない。でも熱があるのか、それ以上のことを考える力がない。横たわると、また寝てしまいそうになる。まずいな。水飲もう。残り2リットルとなった水を手にして、やっと状況が分かった。そうだ、これ飲んだらアントンまで残り16キロを水無しで行かないといけない。ちょっとだけ。舐めるように飲む。もうちょっとだけ。また舐める。そこしているうちに全部飲んでしまった。ヤベー。無くなってしまった。そこで、また記憶がとぎれる。次に気づいたのは1時間後、さっき水を飲んだのがよかったのか気分は少しマシになっている。静かになった、と思ったら、もうトレーラーは一台もなく、荷物検査をしていたと思われる車も走りだそうとしていた。しまった!。クツを履き、検査の車に走りよる。「水ください」とダイレクトに言えず、「この村に売店はないの?」としらじらしい質問をしてしまう。「知らんね。オレら、この村の人間じゃない」そのまま走りだそうとする車に「まっ、待ってくれ、水持ってないか」と聞くが「ない」の一言を残して車は走りさってしまった。とぼとぼと日陰に戻る。どうしよう? 無人島に取り残された気分だ。あらためて回りを見渡す。目にうつる家は全部で10軒ほどあるが、この村に着いてから村人の姿は一人も見ていない。もうこうなったら民家を直接訪ねて、水をわけてもらうしかないのに、どうしても助けを乞うことに抵抗がある。かといってアントンまでの16キロを水無しで走るのは危険すぎる。何か方法はないのか。ベンチに腰かけると、また寝てしまいそうだ。するとそこにさっきの検査車が返ってきた。車はベンチの前で止まり「ほら」と差し出された手には、400CCほどのコップに入った水。検査官はさっきの冷たい態度とは別人のような優しい顔をしている。氷水だろうか水はおそろしく冷たかった。少し舐めると、また我慢できなくなり、全部飲んでしまった。自分の持っていたすでにお湯になってしまった水とはまるで違う。胸のあたりが涼しくなり、それが血にのって上ってくるのか頭まですっきりする。さあ行くか。たかが、あと16キロだ。

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 雷雨。ひょう。暴風(竜巻?)。寒さに暑さ。おばけ。野犬。空腹。たった3か月ほどの旅なのに、悩みはつきなかった。しかしもっとも恐ろしかったのが水がきれること。夏の北米が暑いのは分かっていた。なのに暑いと大量に水を飲む、というあたりまえの事実がまるで想像できなかったのは、水で困ることがない日本に住んでいるせいかもしれない。

★40度以上の日が14日も!!★
◆アメリカ横断ランを終えて8月2日帰国した坪井さんは12日、3か月の記録をエクセルにまとめて送ってくれた。これによると、5月9日(現地時間)ロサンゼルスredond beachを出発、初日は19キロ走り、翌日から64キロ、52キロ、69キロと、以後毎日40ー60キロペースでひたすら走り続けた。夜は野宿かキャンプ場、そしてモーテル。通算77日目にあたる7月24日、springfieldまで走って旅のゴールとした。走った距離総計3323キロ。野宿15泊 履いた靴4足 疲れて動けなかった日5日 宿泊に使ったお金2259ドル。特筆すべきは異常と言うべき高温。最高気温44度 なんと40度以上の猛暑の日が14日もあった。「アスファルトが熱を持つせいか、天気予報で発表される気温と路上の気温は相当違い、だいたいプラス5度、時に10度近く違うことも」と本人は言っている。「危険なので外出を控えるように」との警告が出ていたほどの異常高温で、水なしランがいかにやばい挑戦であったか、がよくわかる。★そのほか遭遇した自然現象 竜巻 雹(ひょう)野性の鹿の群 体脂肪驚異の「5%」に。(E)

JFK国際空港の遭遇
 岸山ゴン、こと岸山克美(南米移民を追うカメラマン)さんから…8月3日…メール

  「大陸横断の勇姿」との機内写真を添えて

 サンパウロでの取材を終え、乗り換えのJFK国際空港で成田行きアメリカン航空167便の搭乗口で背後から突然、褐色の小柄な男性に声をかけられた。こんなブラジル人の知り合い居たけ?よくよく見ると坪井さんじゃん!もう大陸縦断のマラソン終えてたんだ。3ヶ月も炎天下に曝されているとこうも黒焦げになってしまうんだと絶句。搭乗は既に開始されていたが座席が離れているので、ここで訊いておかないと13時間後の成田到着まで四方山話が楽しめないと思い、しばしの間だが武勇伝に耳を傾ける。フライト中に黒焦げの坪井さんをパパラッチし、地平線通信のトップスクープ『勇姿の寝顔』と一面飾るべき千載一遇!これで自分も日陰暮らしからおさらばだ。座席で眠っている姿を確認、座席前まで行き至近距離でレンズを向けると薄暗い機内の中に白い目がギヨロとレンズを睨みつけた。本人、曰くトイレに行こうと思って目が明いたと言うが、陸亀すら息絶えるような過酷な大地を走りぬいた間に研ぎ澄まされた野生の感性では、とこれ又、感服。


怪人 中村吉広 の『いわき夏便り』
 坊ちゃん・下草刈り・ロシア語

★近況報告 其の壱
 本年度の地平線会議報告会の幕開けとなった1月の報告会から半年、様々な御助言や激励を頂きまして、チベット語と日本語を繋ぐ試みをした体験を駄文にまとめることにあいなりました。その駄文を山と渓谷社が拾って下さって、順調に行けば11月には本屋さんの棚に並ぶ運びとなりそうです。極力テーマを『坊っちゃん』翻訳に絞り込んで、報告会では語り尽くせなかったエピソードを織り込み、政治問題にならない範囲で書き上げました。「神秘の地チベットで振り回した蟷螂の斧!スリルと感動に満ちた、笑いと怒りと涙の物語。言語学的アドベンチャー・ドキュメンタリー!」そんな宣伝文句が浮かびますが、これでは内容がさっぱり分かりませんね…。ちょっとだけ、チベットの歴史や仏教関連の知識を準備して頂く為に、やや難しい講釈も入りますが、中国における少数民族問題の核心を突いて、それがそのまま日本語文化に跳ね返って来るブーメラン効果を狙っていますので、乞う御期待。

★近況報告 其の弐
梅雨明け前の猛暑の一日、田人町貝泊という地元いわきの山村で桜の苗木の下草刈りに参加しました。過疎の村を活性化しようと青年団の皆さんが企画した「苗木オーナー募集」の行事です。急斜面に足を踏ん張って玉の汗を流しながら、200人の仲間と一緒に二千本の桜と千本の栗の苗木を雑草のジャングルから救い出す大作戦でした。作業の後は、広場で鉄板焼きの交流会で、遠くからも参加した人達と冷たいビールで乾杯しました。用意された肉の中に羊肉が有ったのですが、残念ながら店で購入したオーストラリア産でした。

★近況報告 其の参
 7月14日から17日まで、ロシアのウラジオストクに小さな旅行をしました。四半世紀前にソ連を旅した頃には、厳重に閉ざされていた謎の軍港都市は、息をして歩いているだけでも感動ものでした。ロシアを考える時に、北方領土・満洲蹂躙・シベリア抑留と喧嘩の種しか無いみたいですが、ソビエト共産党政権が崩壊して新しい道を模索しているロシアを見直すのには、時代をぐっと遡って幕末から明治までの「日魯関係」を学んだ方が今の時代状況に合っているような気がしました。商売上は中国や韓国との結び付きを強めていても、日露戦争に勝った日本と交流を深めて極東地域を発展させたいと切望しているロシア人が多い事も知りました。戦争の記憶はスターリンのような執念深い人物にとっては残虐な復讐に直結しますが、日本はロシアが憎くて戦争をしたのではなく、ロシアの文学や音楽がどれ程日本の近代文化に影響を与えたかを考えれば、共産党独裁政権が消え、帝政ロシアでもなくなった新しいロシア極東部の未来を共に構想する仲間になる努力が必要だと思います。「極東共和国」の歴史を知らない日本人が多いのも困りますね。大学でロシア語を熱心に学びながら、いざ就職となるとロシア語の使い道が無い日本の現実に悩んだ人を身近に知っているので、極東ロシアからモンゴルを経て中央アジアに広がっているロシア語圏の重要性を思えば、こんな馬鹿馬鹿しい宝の持ち腐れに怒りを感じます。英語一辺倒の語学教育は、必ず日本を苦境に立たせる事になると心配している身としては、医師や弁護士などの職能と同等の地位を外国語の専門家に与えるべきだと思います。こちらにロシア語熱が無ければ、あちらでも日本語熱が冷めて行くのは当然です。日本人とロシア人が英語で語り合って極東地域が文化的に豊かになる筈は無いのです。「膠着語回廊」の北側には「ロシア語回廊」が張り付いていて、そこは地下資源と木材の宝庫で、北の海の幸と互いの距離の短さを考えれば、未来を模索してもがいている今のロシアに、ロシア語で結び付くチャンス到来だとも思いました。幸か不幸か中国は中ソ対立時代から、ロシア語を完全に駆逐するという大失敗をしているのですから、明治以来のロシア語教育の伝統を維持している日本には願っても無い好機到来です。ロシア語でマルクス・レーニンを読む人間は世界中見渡しても、きっと日本に僅かに生息するだけでしょう。現地のロシアには一人も居ませんし、社会主義などロシア人得意のジョークの種にもなりません。

◆ウラジオ見聞録を拙ブログ『旅限無』の支店『雲来末』に連載したのですが、驚くほど反響が少なくて非常に落胆しております。とは言え、ペンジケントの思い出を書いた時には意外な反響を頂きまして、とても嬉しうございました。因みに、地元のいわき市立美術館で『偉大なるシルクロードの遺産展』が8月28日(日)まで開催中です。「シルクロードに関する展覧会は日本でこれまで数多く開催されていますが、中央アジア(ウズベキスタンやタジキスタン)からこれほど大量の文化財を国内に持ち込むのも、またこうしたかたちで総合的に中央アジアの美術文化を展観するのも、今回が初めてです。」と美術館の鼻息は荒いのですが、基礎的な歴史と文化の知識が無いと有難みが分からないので、地元の友人から「是非、解説をお願いしたい」などと過分な誘いも頂いているので、丸一日、ソグドの風を堪能しようと思っております。情報ネットーワークをシルクロードに展開して栄えたソグドが、武力を持たなかったばかりに滅亡した歴史は、岐路に立つ日本にとって大いなる課題だと痛切に思います。ソグド語は最近、最後の一人を失って完全に消滅したようです。

注・中村吉広さんのブログ「旅限無(りょげむ)」
http://blog.goo.ne.jp/nammkha0716/)がすごい勢いで、更新されています。テーマは多岐にわたり、刺激的。一度ご覧ください。中村さんは、近くブレイクすると思われる注目株。問題は博識過ぎることかな。(E)

あれっ!マングローブが根こそぎ…
 三輪主彦さんから…8月10日…ベトナム・ハイフォン発メール

 8月10日、ベトナム北部のハイフォン市の海岸にいます。ACTMANG(マングローブ植林行動計画)の宮本、須田さんにくっついてきました。ACTMANGは地元の団体と協力して1995年からこの海岸に植林をしています。1990年代に植えたマングローブは立派な森になっており、現在はその前面の広大な干潟に植林をしています。今回は5月に植えた苗がどれぐらい育ったかなどの調査が目的でした。現地駐在の浅野さんは7月はじめにここに来て、森は緑緑して、苗も葉をつけて順調に育っていることを確認したそうですが、森を抜けて干潟に出て驚きました。「アレレ!」幼苗の支えにしていた棒きれだけが点々としているドロドロの干潟でした。ヒザ下までもぐるドロの中を、ジュボジュボと歩き回りましたが、生き残っているのはごく少数。ドロ水の水温が37℃、ジリジリと照り付け、木陰もまったくないところを動き回ってみたものの2003年以降の苗はほとんど全滅状態でした。7月30日に襲ってきた台風で根こそぎ持っていかれたようです。

◆ものには動じない宮本さんもさすがにガックリきていました。翌日も別の植林地を歩きましたが、どこも同じ。「努力はほとんど報われない」という格言どおりです。宮本さん曰く「一歩進んで3歩さがる、だなあ。」泥の中を元の土手にもどるのは難行苦行。冬山の深雪のラッセルを一人でやっているようなもので土手にもどったときにはへたり込んでしまいました。もう一度植え替えをしようにも残りの苗は某国際団体に高値で買い占められたのでお手上げ。お金があるボランティア団体は地元農業を圧迫しているのです。

◆遠くからみていると日本のマングローブ植林は順調に国際貢献の実績をあげているように見えますが、自然災害にやられたり地元との折衝などさまざまな問題を抱えながらやっとこさっこ活動しているのです。

◆体力的にも精神的にも疲れたので、気分治しにクックホン国立公園の山に行きました。そこでもヒルにたっぷりと血を吸われました。熱帯雨林の山登り編は次号に。南部のマングローブの森を見てから帰ります。


「先生、持って帰りたい!」
 後田聡子(のちだ さとこ)さんから…8月9日…ブラジル・レシフェ発メール 

 みなさま。ようやく自宅からメールができるようになりました。日本も暑いようですが、お元気ですか。ここレシフェは一応冬ですが、毎日タンクトップで過ごせる常夏の町です。夜になると、ちょっと涼しい風が吹いて快適です。そんな中でようやく2回目の引越しが終わったところ。

◆6月30日にサンパウロに着いて、日本人街のホテルに居ました。ほとんど日本食で、日本語ばかり話していて、いまいち外国に居る感じがしませんでした。ブラジルで炭坑節を踊ったりするなんて。7月に桜を見るなんて。サンパウロにはたくさん日系人が居るので、七夕祭りや桜祭りもけっこう盛大に行われています。

◆7月7日に当地レシフェに来ました。空港には6人もの日本人会の方々が出迎えに来てくれました。しかもバラの花束つき。口々に、ブラジルのお父さんお母さんと思ってね!と言って下さるので、すごく安心しています。とても親切です。お米とかしょうゆとか、なんでも持ってきてくれます。先週末に新任のレシーフェ総領事がいらしたので、日本人会による領事歓迎パーティがありました。吹き抜けの学校のイベントスペースで行われたのですが、宴もたけなわになると、演歌によるカラオケが目白押しで、面白かった。知らない歌ばかりでした。

◆レシフェに着く前から、受け入れ先が日本でいうマンションを探しておいてくれていました。ホテルだとしんどいだろうからという配慮でした。それから1ヶ月くらいかけて自分の気に入った部屋を探せばよいというふうにして下さっていたのでした。受け入れ先の方は一緒に何軒も部屋を回ってくれまして、ようやく今いるところに落ち着いたというわけです。だから2回目の引越し。

◆ 一度広げた荷物をまた閉まって、また整えるのは気力が要りますね。うちだけでなく、今は学校も引越しをしたところなので、どこにいっても片付けばかりしています。私の受入団体は、レシフェ日本文化協会といいまして、レシフェに150世帯ほどある日系人の中心です。ここが新しい建物を郊外につくりました。その中に日本語学校も入ります。それで7月末から机・いす・本などありとあらゆる荷物を移動しているのですよ。しかし、学校の工事はまだ完了していないので(ブラジルですからね。期日は守られない。)、出来ているところから荷物を入れて使用しています。平屋で、高齢者活動センターや図書室、ステージもあり、とても立派です。小さいながら校庭とゲートボール場(老若男女みんな大好き。)もあります。私はバスとメトロを乗り継いで1時間、泥棒に気をつけながら通っています。帰りは誰かが車で送ってくれます。優しい人ばかりです。

◆8月から授業をしています。私は成人の上級と初級後半、6、7歳の児童クラスを担当しています。自分1人ではなく、こちらの先生と一緒にチームで教えます。私のような若輩者でも、少なからずアドバイスできるところはあるようなので、ボチボチやっていきます。授業のほか、先生たちの勉強会や教材整備もしなくてはなりません。いろんな人がいろんな希望を持って学校に関わっていますから、今はまだ、みんなの話を良く聞いて、何に力を入れるべきなのか考えている段階です。大事なのは、笑顔でほめることだと思っています。疲れていても通ってくる学習者も試行錯誤している先生たちも、みんながんばっているのは間違いないですから。

◆8月6、7日とサルバドールという町で東北ブラジルの合同教師研修会兼児童合宿というのがありました。各地からバスに揺られて集まり、一緒に勉強したり出し物をしたりして交流を深めるのです。子どもたちは日系人だけでなく、ブラジル人もいます。ここで、1ヶ月間日本に研修に行ける子どもの選考会もします。作文を書いて、面接をして。選ばれた子はとても嬉しそうでした。みんなでキロロやSMAPの歌も歌いました。直前まで「もう疲れたー」と文句を言っていても、「はい歌うよ!」といって音を流してしまえば、案外大きな声で歌うのがいいところです。

◆ブラジルではお別れのときは、その場にいる全員と次々に抱き合ってほっぺにキスをします。ぎゅっと抱きしめながら、よその学校の子どもが「先生、持って帰りたい!」と言ってくれました。なんてかわいいんでしょう。とてもうれしかった。こうやって、学習者に励まされおだてられて、ついついがんばってしまうのです。ではまた…


23回目の屋久島から写真詩 『きみの胸に火 灯しに行くよ』 発刊のお知らせ!!
 中島菊代さんから…8月9日…屋久島発メール

昨年の大阪報告会の開催や『大雲海』の制作で活躍、7月の報告会にも大阪から駆けつけた中島菊代さんのはじめての本が完成した。
 暑い毎日が続きますが、お元気ですか?短い夏休みを利用して屋久島に来ています。 (今年3回目、久々に数えてみると通算23回目)初日には、遊びに来ていた地平線仲間の菊地由美子さんとも会うことができ、楽しい幕開けとなりました。 さて、先月の報告会でも紹介いただきました本が無事出来上がりました。あの時はまだゲラ段階でしたのに、お心配りをありがとうございました。せっかくマイクを持たせてもらったものの、緊張しまくって何も言えないままに終わってしまいましたが。(ふり返っても、そこの部分、白い霧がかかっております。しくしく)そのようなわけで、少し補足、と申しますか、改めまして紹介させてください。

◆写真詩・『きみの胸に火 灯しに行くよ』(新風舎刊)(B6版40頁 定価1680円(税込)→地平線価格1200円)という本をつくりました。3年半ほど前からインターネットで発信している写真詩(この言葉、江本さんからアイデアいただきました)の中から一部抜粋・再編集したものです。(HP:http://www.neko-te.net/

◆事の起こりは2000年の8月、屋久島に行ってからでした。何だか気になって通ううち、「発信しよう」と思いたち、メールマガジンやウェブサイトで写真や文を届け始めました。届け先は『不特定ひとり』です。とりわけメールマガジンにこだわったのは、『ひとりに届ける』というニュアンスを大事にしたかったからでした。

◆地平線会議との出会いも、そんな「屋久島病初期」のころでした。その頃も今も、「屋久島になぜ通うのか実はよくわからないけれど、行った方がいいと思うから通う」としか言えない私にとって、地平線会議というネットワークが心の味方となってくれたことは、きっとおわかりいただけますよね?また発信の方も、基本的には楽しいからやっているのですが、仕事ではなく、直接何かに結びつくわけでもないのになぜ?と自問することもあります。けれど自分の中ではかなり大事で、しんどくてもいろんないいものがたくさんもらえるこれは、さながら『部活』のようだとひとりごちています。(笑)

◆屋久島という扉を開けてからの日々と過去の自分をつなぎながら、感じたこと、考えたこと、気付いたこと(あるいは気付かなかったこと)などを自分の中に降り積もらせ、アウトプットしているような、そんな感覚で発信を続けています。それゆえ本の中味は屋久島一色というわけではないにしろ、わたしにとってやはりこの本は屋久島本と言えます。

◆『届け方に変化を持たせる』ことを目的とした今回の出版。新たな媒体を通して、今まで受け取ってくださってた人とも、新たに受け取ってくださる人とも、また『出会える』ことを、楽しみにしているところです。長々と書きましたが、7月の分も含めて、霧の隙間から言い訳させていただきました。こうして通信や報告会の場でご紹介いただけること、言葉にはできない嬉しさがあります。手に取っていただければ幸いです。(お問い合わせ先:

◆では、あと5日間、沢に山に海に、くり出します。コーディネートは屋久島に委ねて。(「屋久島病のねこ」) 

★この本、書店では見つかりにくいと思うので東京周辺の人向けに地平線会議として数10部預かります。薄くてちいさな本ですが、言葉と写真の不思議な魅力にあふれた一冊です。是非お手元に!(E)

白谷雲水峡で‘すこーん’と抜けたもの
 菊地由美子さんから…8月15日…メール

 「これは…、もしかしてやばいんじゃないか」。郵政民営化法案否決→まさかの解散・総選挙が頭をよぎった7月下旬、勘が働きました。何がやばいって、「今のうちに夏休みを取っておかないと、取れなくなる!」こと。解散=選挙準備に追われる、ということで、休みどころではなくなります。正直言って政治のことはちっとも分かりませんが、勘のよさには自信があります。

◆土・日に2日間の休みをつけて3泊4日。格闘の末、急遽もぎ取った夏休みに屋久島を旅行しました。緑の中に行きたい、と思いました。それから私を仕事へと引き戻す、悪魔のごとき携帯電話の通じないところに。

◆屋久島空港に降り立った途端にまとわりつく湿気を帯びた空気と、目に映る緑。その瞬間から、肩に入った力がしゅるしゅる〜っと抜けていくような気持ちがしました。新鮮な刺身に舌鼓を打つ夕食時には、なんだかずいぶん頭がぼんやりしてきて…。

◆旅に出てようやく、日常を遠ざけることができます。仕事をはじめてからというもの、24時間365日「臨戦態勢」みたいになっていた脳が、久しぶりに思考を停止した気分でした。特に埼玉に赴任してからは、いろんな壁にぶつかりました。なにしろ県内の事件・事故関係の取材を一人で切り盛りしなくてはならないので、会見と会見の間の1時間で「この原稿をやっつけよう」、というのは序の口。ひとたび事件が起こると、警察署で行われる会見に出て原稿を書き、現場周辺の地取りをしてまた外出先で原稿を書き…と、一つしかない体と止まらない時間をやり繰りしながら仕事をしています。

◆それに加え、先輩をも「使わ」なくてはならないという現実。もちろん失敗は許されません。「責任」と「気負い」。自然と、急がなくちゃ、一人でもしっかりしなくちゃ、と肩に力が入ります。そんな具合に、いろんなごちゃごちゃした事情に押しつぶされそうになって、そろそろ被害者意識がむくむくと膨らんできたところでした。

◆それが…、白谷雲水峡(映画『もののけ姫』の舞台になったところですね)に行った2日目、全部すこーんと抜けてしまいました。ややこしい日常の業務も、心がささくれ立つような日々のニュースも。何がどうなろうと大したこたあない、って。視線を足元から上げると、抱えきれないほどの緑の光景。360度苔のじゅうたんに囲まれていました。緑すぎるくらいの緑でした。自分の体液まで緑に染め上げられ、その中に溶けて自分の全部がむきだしになっていくような。

◆人間って、ものすごい自然を目の前にすると、ひどく孤独な気持ちになるんですね。しばらく呆然と立ち尽くすうちに、無性に誰かに出会いたくなってきました。一人になりたくて森に入るのに、森に入ると里の営みが恋しくなるなんて。苔むす森にはやさしい雨が降っていました。

◆家に帰ると、待ち構えていたようにポケベルが悲鳴をあげました。仕事の発生です。何はともあれ今日も、何千年もあの島を支えて続けてきた緑を脳裏に浮かべながら、ン十年前とちっとも代わり映えのない罪を犯し続ける人間の、哀しみといとおしさを、飽きもせず記録し続けている毎日です。(新聞記者2年目)


『僕の見た「大日本帝国」』夏の陣
 西牟田 靖さんから… 8月9日…メール


 今年も暑い季節がやってきました。毎年この時期、あの戦争のことがテレビや新聞、雑誌で取り上げられます。8月6日・9日の原爆記念日、そして8月15日の終戦記念日。しかし15日を境に報道は急に尻つぼみになります。たぶん今年もそうでしょう。おりしも今年は戦争が終わってから60年という節目の年です。そんな年に戦争を含むかつての日本、というものをテーマにした本を出すことができました。「僕の見た「大日本帝国」」(情報センター出版局)です。

◆2000〜2003年、追加取材も入れればその翌年までの間、僕はかつて日本だった国や地域を訪ねる旅をしていました。サハリン(樺太)、台湾、韓国・北朝鮮(朝鮮)、中国東北部(旧満州国)、ミクロネシア(旧南洋領)と。その旅を始めるまでは、当時のことを積極的に知ろう、とは思っていませんでした。平和な時代に生まれ育ったためか、その手の話を聞いてもピンとこなかったからです。

◆きっかけはたまたま訪れたサハリン(樺太)でした。そこここに残る「かつての日本」に衝撃を受け、興味を持つようになったのです。「かつての日本」とはなにか。良い悪い関係なくまるごと知ろうという思いが旅を通じて強くなっていきました。◆取材はともかく、執筆にかなり苦戦しました。近代史にさほど詳しいわけではなく、靖国問題など過去に起因する政治問題も突っ込んで考える、といった習慣を持っていなかったのです。筆が止まるごとに、自分の手に余るテーマを選んでしまったことに後悔しました。とはいえ、だいたいの旅を行程を終えた時点で書籍にする決心は付いていました。話をしてくれた各地の人たちの声を伝えることは僕の使命だと思っていたからです。苦心しましたが、そう自分に言い聞かせ、ほぼ1年がかりでなんとか完成させました。

◆戦前や戦中の体験談は月日とともに年々風化していきます。もちろん僕が聞いたことがすべてではありませんが、この取材により間に合ったという安堵感があるのも事実です。発売以来、好評を得ています。感想も20代から80代と幅広い世代にいただきます。貯金や原稿料収入以外に多大な借金を背負ってやっとひととおり旅を網羅することができたんですが、返済のあてもようやくつきました。雑誌の仕事依頼もちょくちょく入ってきたりしています。

◆しかも驚いたことにこのたび「新潮ドキュメント賞」という文学賞の候補に選ばれました。18日発売の雑誌「新潮45」には他の候補作も載っていますのでぜひご覧ください。なお受賞作の発表は8月29日です。諦めずにしつこくやっていれば人生タマにはいいこともあるもんですね。とはいえそういいことなんて続くとは思ってません。本が売れて以降も僕は引き続き風呂なしのボロアパート暮らしを続けています。 <2003年7月の報告者>

★おせっかいにも、ボロアパートの実態を迫ると「4畳半+3畳弱、杉並区、月27000円です」と教えてくれた。すいません、西牟田君。(E)

108回の富士登山で煩悩も飛び、4月からいよいよマッキンリー、いや、「マッキンゼー」へ
山田 淳(あつし)さんから…8月15日…メール


こんにちは。先日108回目の富士登山を果たし、すっかり煩悩も吹っ飛んでしまった山田淳です。最近、ちょっとしたことから始まったメーリングリストで江本兄とご一緒しているために指名がかかってしまいました。って言っても最近ガイド登山しかしてないから、報告するような近況もないんだけどなぁ。ま、簡単な近況報告を。

◆とりあえず、皆さんのご期待にそえず(?)いまだに大学生をやっております。7年目。まったく税金浪費してスイマセン。もう民営化されたから税金関係ないのかな?そんなわけで、昨年度内定をいただいていた会社からは愛想を尽かされてしまったんですが、なんとか別の会社に決まり、来年4月から勤める予定。目下のところ、「マッキンゼー」という、「マッキンリー」とよく似た会社の名前のせいで勘違いしてしまった周りの方々に、登山の会社でないと理解させるのに躍起です。一応、来年からはコンサルタントさんになる予定。まあ、すべての予定は未定です。終身雇用的な会社でもないので、5年後に何してるかも全く未定。登山ガイドだったりして(笑)。

◆最近は、もっぱら登山ガイドをやっております。富士山だけで108回ってことは、ガイド仕事全部で5000人近くのお客様とご一緒したことになるんですね。すごい数です。今年の秋にはランタン谷とカラパタールに行きます。もう、自腹じゃなく海外までいけるなんて!そのあとは、もしかしたら4回目のキリマンジャロになるかもしれません。初めに登ったときは、アフリカなんてもう来ることはないと思ってましたけど、すでに2回も登らせてもらって。最近は、キリマンジャロのガイドさんから「ツアー会社、起業しようぜ!」とメールが届くほどです。現在お客様5名ほどで、あと数名で催行決定?キリマンジャロ、行きたい人はぜひご連絡を。サファリを含めてお待ちしております。

◆ところで、ここ数ヶ月の自分の僕の生活のテーマは、「アトピーをステロイド使わずに治す」ことと「手術で中断していたクライミングを再開させる」こと。アトピー治すために、お風呂にビタミンC入れて塩素消してみたり、かなりの種類のサプリメントを毎日飲んでみたり、いろいろと実験しております。日焼け防止のために今夏は短パンTシャツから泣く泣く脱却し、ガイド中も暑い中長袖長ズボンを着続けているため、腕は驚くほどの白い肌!その甲斐あってか、ステロイド脱却時は一時的に悪化しましたが、何とか持ち直している今日この頃。とは言え、日々実験を楽しんでいるので、理由なく完治されても困るので、ぼちぼちとつき合ってます。目下のテーマは汗とどう闘うか。自分の汗が最大の敵です。

◆あと、手術以来1年半中断していたクライミングを再開しました。今のところ体脂肪率12%。ま、体力とか筋力とかを元に戻していくのが目的なので、とりあえずはバルクアップ期間。あまり過度なダイエットはしないようにしてます。浅草の靴屋で「アスリートにしては腹筋が少ない」って言われたのがショックで筋トレもがんばってます。この靴屋、タベイさん御用達の靴屋なんですが、とにかくすごい。僕の足の裏のコピーを一目見ただけで、「プロの登山家さんですね」と。その後、「いい足だけど、ちょっと腹筋が弱い」。お腹を手術したことまでばれちゃったというわけです。足だけでいろいろ分かってしまうのが楽しくて、登山のお客さんを何人も送りこんでみたのですが、「若い頃に捻挫しましたね」とか「若いとき、ヒールばっかり履いてたでしょ」とか「食べ物食べるとき、右側ばっかりでかむでしょ」とか。足だけでなんでそこまで分かるの!ということが次々と。足は第2の心臓ってホントのようです。外反母趾や足型の問題で登山靴に悩みを抱えている人は、ぜひ行くべし。

◆そんなこんなで、特に目立ったこともしておりませんが、日々楽しく過ごしております。最近は会社の研修で英語漬けの日々。ま、登山も就職もその他のことも、知的好奇心が原動力となっている僕としては、特に自分自身のスタンスはそのままに、相変わらずいろんなことに取り組んでいる今日この頃です。では。 (幼少からアトピーと戦う東大7年生)


冷夏のドイツ旋盤修行
前田歩未さんから…8月9日…ビラーベック(Billerbeck)発


江本さん。
 約2年振りにドイツ生活しています。ここから江本さん宛にメールを書くのも2年振り。ここのみんなに会うのも2年振り。おいしいドイツパンとチーズを食べるのも2年振り。ボスの仕事を手伝ってへとへとになるのも2年振りです。要は堪能しているのです。でも遊びに来たわけではありません。今回の渡独の大いなる目的の一つは旋盤技術を身につけて帰ることです。(旋盤とは木工のろくろのこと)ボスの仕事のお手伝いをしながら、arumitoy用のおもちゃの制作もしながら、ろくろマイスターの下に通っています。ろくろ師曰く、「練習あるのみ」という事なので俄然やる気!練習3日目あたりでちょっと腱鞘炎ぎみだったりしても平気みたいです。

◆「やりたくてしょうがない」を久しぶりに感じています。嬉しい限りです。ここにはいつもそれがあるんですよね。フシギです。自分の時間の流し方を再認識させてくれます。ノベルト(ボス)の人間的な大きさは相変わらずで、そんなオトナになりたいと、また改めて思わされています。再びひょっこりやって来た私を当然のごとく受け入れてくれ、さらにアトリエも使わせてくれ、その上旋盤の練習ができるようにと手を焼いてくれ、私はこの人にとって一体何なんだろうと今さらながら思ってしまいます。彼にとってはなんのメリットもないはずなのに!ここに来る前に電話で「今年の夏も行っていい?」と聞いたら、「そんなことをいちいち聞くな!」と言われてしまったのを思い出し、さらにナゾは深まるばかり…。(笑)

◆今年のドイツは冷夏です。雨が降ったら寒いぐらいです。小麦の刈り入れは終わり、つくつくの畑に飛び出してしまったうさぎが慌てて緑のとうもろこし畑へ逃げ込む光景をまた見かけるようになりました。街も人も変わらずここに存在し、ホームタウンへ戻ってきたような気にさせてくれます。2ヶ月滞在予定で、残すところあと3週間です。えらいこっちゃと、残された日々の少なさに慌てふためいて、やる事全部やって帰るゾ!と息巻いています。この生活を終えて京都のアトリエに戻った時、何を感じるのか、楽しみです。帰国する頃には日本の夏が多少和らいでいますように。(新進木のおもちゃ作家)


森とチョコレートの思い出
 8月15日 江本嘉伸


 ことしも夏が過ぎてゆく。8月の前半は、木々の間を舞う稀少種の蝶や、鳥のさえずりを聞きながら、毎日ゆっくり森を走った。あちこちに張りめぐらされた廃道やけものみちを距離5、6キロに区切り、高低差を考慮して私は誰も入り込んでこない「秘密のルート」をいくつか設定している。相棒であったわんこたちはいなくなったが、彼らとの日々を思い出す道でもある。強い陽射しにさらされる見晴らしのいい尾根と違って、森は暗いが、ひんやりしている。戦争の記憶を日本中でほじくり返す8月、その森の暗さが子ども時代のある風景を思い出させた。

◆愛知県知多郡旭村(おそらく地番はまったく変わっているだろう)。半年ぐらいだったと思うが、終戦直前、父方の故郷であるその村に疎開していたことがある。前は広い田圃、裏手はこんもりした森、という、いま思えばほとんどトトロの世界だ。あぜ道を歩いていて、後足をヘビにくわえられたまま必死で逃げようと泳いでいるアオガエルを救うため、懸命に石をぶつけて引き離そうとしたり、田舎家の井戸に入り込むカメやヒキガエルを触ってみたり、そこは好奇心の対象にあふれた世界だった。

◆裏の森を抜けると、切り拓かれた草地があって、近所の子どもたちと一緒にそこに遊びに行くことも多かった。が、その森の中を通るのが暗くて怖いのである。年長組も同じらしく皆で大声で歌いながら行くのが常だった。クマやイノシシが出る場所ではなかったし、怪談話のようなものがあったのだろうか。自然への畏怖のようなものが子どもの中にも育っていたのかもしれない。

◆私のいた田舎家の近くの子どもたちは田圃の向こうの集落の子どもと仲が悪く、互いに出くわすと慌てて稲の中に隠れたりした。時には石の投げあいまでやったのだから激しい。さて、疎開先でのことはこのように結構記憶していることが多いのに、「終戦記念日」となるとからきしダメだ。

◆1945年8月15日当日、私は4才10か月の子どもだった。日本中が慟哭、またはひそかに安堵したのだから何か特別な印象があってもよさそうなものだが、その日のことはまったく覚えていない。せっかく歴史的瞬間に居合わせたのに、と今になって思うが、仕方がない。敗戦というのは「概念」であるためにわかりにくかったのかもしれない。子ども時代はとくに、「行動」を伴う体験のほうが、身体に刻まれ、残されるのではないか、と思う。

◆疎開先での体験を含めどういうわけか8・15以前のことは断片的だが鮮明な情景として残っている。熱を出して寝ていた時、「空襲警報」のサイレンが鳴り、心配した兄が差し出す防空頭巾(これは当時皆もっていた)をかぶって近くの狭い防空壕に避難した時のこと。ゲートル(軍人用の脚半)の巻き方を練習したこと。疎開先で養祖母が「ちょっと、いただきますよ」と言って他人の畑のサトウキビを折って背中の私にくれたこと…。

◆食事をとる時のせりふは、いまも暗記している。ちゃぶ台(折りたたみできる食卓)に正座して「はしとらばあめつちみよのおんめぐみきみとおやとのごおんあじわいいただきます」と言うのである。漢字まじりで書けば「箸とらば天地御世の恩恵み、君と親との御恩味わい、いただきます」。君とは天皇のことであろうが、4才の子にわかるわけない呪文を毎回繰り返すのだった。

◆8月15日を期して、こういう食前の挨拶はなくなった筈だが、そのあたりのことも記憶にない。おとなたちは、神であった天皇の突然の「人間宣言」に戸惑い、呪文をやらなくてもよくなった理由を子どもたちにうまく説明できなかったに違いない。

◆私は1947年(昭和22年)に始まった「新制教育」の1期生でもある。6才の子どもに先生は絶対の存在だったが、いまにして考えれば、あの尊敬すべき教師たちはどんなに混乱しつつ、新らしい教育システムを迎えていたか、と思う。当時教室が足りないため「早番」「遅番」の2部授業だった。頭の構造がどこかでおかしいのか、私は入学早々自分がどのクラスに属するのかわからず、学校に向かう途中で下校途中の同級生に「江本君、今日はもう終わったよ」と言われてすごすごとまわれ右したことがよくあった。

◆成績はとくに悪かったわけではないが、頼りない子どもではあった。というより、食べ物のない時代、ひもじい、という感覚が身体中を襲う日々だった。母親が内職の下駄と交換に進駐軍に勤める婦人から頂いた初めてのチョコレートは、もう死んでもいいくらい、おいしかった。育ち盛りの4人の子を育てなければならなかった親はさぞ辛かっただろう、と思う。

◆そんなある日、アサヒグラフだったか、原爆被災地の生々しい写真特集を見て、総毛立った。べろべろに垂れ下がった皮膚、「水を、水を」と叫びながら死んで行った人々…。すさまじい写真が並んでいた。「ゲンバクって、こういうのか…」と子どもの心に恐怖が湧いた瞬間だった。ひもじさぐらい、どうってことない…。

◆戦後60年。ひんやりした森を走りながら、いい歳になって、よくこんなことやってるな、と思う。私の父の世代なら非国民、または頭がおかしいヤツ、と見られたであろう。いわゆる「小国民」でもなく「焼け跡闇市派」でもなく、「団塊の世代」でもなく、ほんの少し戦争の匂いを嗅いだことのある私は、いまなお、いつでも逃げられるように足腰ぐらい鍛えておこう、としている。


「海に向けて11年がかりのメコンの旅」
 ラオスDPR チャンパーカック 2005.6.31
 農大探検部監督 北村昌之


前略 ごぶさたしています。
 ラオスに入りはや2ヶ月が過ぎました。雨季も本格的になり、毎日雨の中を現地で購入したカヌー(80ドル)でひたすら漕いでいます。ラオスの人々は親切でどこの家にいってもたいてい泊めてくれ、おまけにメシまでごちそうしてくれます。そのあたたかさに後押しされ、残りの川旅を楽しむつもりです。カンボジア北東部は多少治安が悪いらしいので気をひきしめて下ってこようと思います。あと2ヶ月すればインドシナに到着するかと思います。それではお体に気をつけて。早々。


 久々に夏便りを特集した。突然の依頼を気持よく引き受けてくれた書き手の皆さんに感謝。それぞれ思いがこもる文章を書いてくれた。見出し、肩書きなど編集長が勝手につけた。失礼の段はお許しを。レイアウトをすべて引き受けてくれた森井祐介さんに特別に感謝します。(E)

通信費振込みのお願い
 原稿書き、印刷、発送まで皆さんの汗で毎月、送っている地平線通信、勿論、切手代はじめ経費がかかります。毎回ぎりぎりの予算で発行していますので、通信費は生命線です。1年2000円。どうか支払いの協力をお願いします。きちんと継続して振り込んでくださる方もいますが、うっかり忘れたまま数年を過ごしてしまう方もいるようです。つましい地平線財政の負担を軽くするためなにとぞ継続してお支払いくださるようお願いします。万一、不要の方は一言お知らせください。振込みは、下記の郵便振替口座でよろしく。

  郵便振替
    口座番号:00100-5-115188
    加入者名:地平線会議

<309号の内容(敬称略)
1頁…大西夏奈子。2頁…犬に引かれて北極圏-本多有香→藤原和枝。3頁…イラン最古の教室と本多有香のこと→九里徳泰。4頁…にわか非常勤講師、汗だく講義録→丸山 純。5頁…ともに旅する魂→田中勝之。6頁…17人の友の捜索-4畳半での執筆暮らし、そして次のステージへ→小林尚礼。7頁…腱鞘炎・ハルハ川戦争・喫茶店→山本千夏。8,9頁…水・水・水→坪井伸吾。40度以上の日が40日も→(E)。JFK国際空港での遭遇→岸山克美。10頁…坊ちゃん・下草刈り・ロシア語→中村吉広。11頁…あれっ!マングローブが根こそぎ→三輪主彦、「先生、持って帰りたい」→後田聡子。12頁…「『きみの胸に火 灯しに行くよ』発刊のお知らせ!!→中島菊代、白谷雲水峡で‘すこーん’と抜けたもの→菊地由美子。13頁…『僕の見た「大日本帝国」』夏の陣→西牟田 靖、108回の富士登山で煩悩も飛び、4月からいよいよマッキンリー、いや、「マッキンゼー」→山田 淳。14頁…冷夏のドイツ旋盤修行→前田歩未。15頁…森とチョコレートの思い出→江本嘉伸。16頁…「海に向けて11年がかりのメコンの旅」→北村昌之



■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

青罌栗(ブルーポピー)の彼方へ

8月26日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)


1980年、ヒマラヤのツクチェ・ピーク(6920米)の頂に立った神尾重則さんは、同じネパール国内のドルポ地方を北西に望み、川口慧海師の旅に思いを馳せました。それから四半世紀。神尾さんは、ドルポの人々に教育・医療の援助活動を行うNGO「ドルポ基金」の医師メンバーとして、度々現地を訪れるようになりました。

今年五月には活動の合間を利用してクンダ峠(3800米)に登頂。かって慧海が越えたルートの一部です。「奥ドルポで初めて青いケシを見つけたときは感無量でした。登山家として憧れ、医者としてはチベット医学の象徴として。西洋医学徒としてはチベットの医療体系をそのまま受け入れられないけど、我々が忘れていた視点あるのも確か。生老病死をしっかり受けとめる哲学を感じます」。

今月は医師で登山家の神尾さんをお招きし、チベットの山々と文化への思いを語っていただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付で!
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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