2004年6月の地平線通信



■6月の地平線通信・295号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙本常一さんの命日である 毎年1月30日、国分寺駅近くの寺で、常一さんの弟子や、ファンたちが集まる。私も地平線会議とバッティングしない限り、参加するが、ある年そこの常連である相沢韶男(つぐお)さんから本を頂いた。「この宿場、残して! 第1巻」ほか、ゆいデク叢書(相沢さんがつくった出版社)の数冊である。驚くべき本であった。相沢さんは、主役は大内の人なんだから、と通常大内宿をテーマにした講演などはやらない。が、本も何冊か出版したのだ。そろそろ話してほしい、とお願いしたのがことしはじめである。奥様が長く難病と戦っていることは知っていたが、地平線報告会が300回になる年なんだ、お願いだよ、と頼むと、やりましょう、と引き受けてくれた。

●5月10日、大内宿へ行った。福島県南会津郡下郷町大内。浅草から東部鉄道に乗って3時間あまり、会津鉄道の湯野上駅から、歩いて1時間、タクシーなら15分のところに、その集落はある。村の入り口に立ち、道をはさんだ、40数軒ほどの草屋根の美しい家並みを目のあたりにして、一瞬、ああ‥、と思った。30何年か前、ここに立った若者が「夢か幻か」と我が目を疑った江戸時代のままの宿場の風景がそこにあった。

●平日というのに、観光バスでやって来た人々がそぞろ歩きしている。人口200人足らずの大内宿にやってくる観光客はいま、年なんと80万人!8軒の蕎麦屋ほか土産物のお店もあちこちにあるが、観光客の去った夕方がいい、と相沢さんは言っていた。ここは一軒一軒、村人が住み、普通の暮らしをしているからだ。

●大内宿から帰ってすぐ、宮本千晴からの電話で節子夫人の訃報を知った。思い決めていたこととはいえ、家で最期を看取ることは、考えるほど簡単ではなかったらしい。そのことは報告会でも話してくれた。相沢韶男という生き方が、心にしみる5月の地平線報告会だった。

●岸本佳則君はじめ、かって神戸報告会をやった地平線会議のコアが大阪周辺にできつつある。以前から、一度大阪で報告会をやろうよ、とビールを飲みながら、話していた。ことしも6月に会うことになって、300回の年だ、どうせなら課題の大阪報告会をやってみよう、というふうに一気に急展開した。幸い、大阪在住のあの“ゆっくり超人”永瀬忠志さんが「リヤカー南米縦断」を終えて帰ってきたところだった。電話すると、懐かしさが先に立った。何も準備してませんが‥とすぐに引き受けてくれた。

●この後の展開は、見事と言っていいだろう。岸本夫妻、中島菊代、村松直美さんは報告会場と2次会場の確保に駆け回り、京都の松井由香里さんを加えて時間の制約の中で表紙つきの16ページの立派な資料を作ってくれた。

●地平線通信を復刻するための「復刻ML(メーリング・リスト)」が、大した力を発揮した。大阪には行けないんだけど‥と言いながら、東京の武田力君が報告会を開くためのノウハウを逐一、大阪組にアドバイスし、飛び交ったメールだけで300本に達したのだから驚く。実際、受け付け方法、マイク準備、プロジェクター設置のこつなどなど、25年やってきた地平線報告会には、すでに報告会スキルのようなものができていて、6月6日当日は、まさにいつもの地平線会議のやり方で進行したのだった。

●毎日、産経、読売の大阪版にも開催が告知され、自賛になるが、大阪の皆さんの奮闘で準備期間が1ヶ月もなかったにしては、見事な報告会だった。何よりも、永瀬忠志君のとつとつとした語り口が皆をとらえた。そういうわけで、東京はじめあちこちから集まった仲間のひとことを含め、今月の通信は、はじめての大阪報告会について、ページを割かせてもらった。

●地平線報告会は、今後も東京でもやるが、ほかの場所でもやる。とりあえずは、11月7日(日)の大集会に是非来てください。6日(土)も、前夜祭のようなもので盛り上がる予定です。1度も欠かさず手抜きもせず300回報告会を続けてきた地平線会議、やはり誇りに思う。[江本嘉伸]


地平線新刊?情報 坪井伸吾さんの傑作「アマゾン漂流日記」がマンガ化!! 小学館のビックコミックスピリッツ臨時増刊号、漫戦で36ページ掲載。発売は6月25日。「アマゾン川イカダ下りは、日本人3人と現地の大工でイカダを作ることから始めました。ですが、マンガは最後目的地に行けず、イカダを放棄してカヌーで脱出するところからです。川を3時間も流されて、この時ばかりはダメかと思いました。どうやって生還したのかは見てのお楽しみ」。



先月の報告会から(報告会レポート・297)
大内宿にかけた青春
相沢韶男(つぐお)
2004.5.28(金) 新宿区榎町地域センター

◆その名を初めて耳にしたのは7、8年前、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』をたどって大内を訪れたときだった。「この宿場が保存されることになった、そもそものきっかけはね……」と、囲炉裏端で始まった物語に登場する、“伝説の若者”。「古くて貧しいものはみな壊せ」が時代の合言葉だった高度経済成長期後半、「伝統的な暮らしの姿こそ後世に残すべき財産」と、茅葺き屋根の家が並ぶ集落のトータルな保存の必要を住民に呼びかけると同時に、外部へと発信していった相沢韶男さん。その人に会えるんだと、胸を躍らせ榎町地域センターに駆けつけた。

◆しかし、なぜ、そんな“建築史上の人”(知人の元建築学徒の言)が地平線報告会に? 謎は会場に入ってすぐに解けた。同窓会めいた、不思議に和んだ雰囲気の源泉は、地平線会議の母体の一つとなった日本観光文化研究所(観文研)OBの面々。その中には久々の宮本千晴さんの顔もある。そう、相沢さんもその昔、観文研に出入りしていた若き旅人の一人だったのだ。

◆武蔵野美術大学建築学科の学生だった相沢青年は、各地の有名建築を見聞する旅を続けるうち、最先端の現代建築より日本の伝統的な家屋に魅かれるようになっていた。そんなあるとき、調査で訪れた山梨県上野原町で、茅葺き屋根を葺く職人が福島県南会津郡下郷町の大内集落から毎年来ていることを知る。「屋根葺きの技術について、もっと詳しく聞きたい」。そこで彼は職人たちに会うため、1967年9月、大内へ向かうことになる。そして「まるで江戸時代のまま」の茅葺き屋根の集落に遭遇……。と、そこまでの「序章」は、観文研の元同僚、賀曽利隆さんと三輪主彦さんが、表紙が少し退色した『あるく みる きく』31号(1969年9月発行)をそれぞれ手にして紹介してくれた。

◆60歳となり、今は母校で民俗学と文化人類学の教授をしている“若者”は、作務衣姿で静かに現われた。「村(大内集落)とかかわって35年になりますが、これはその中で最高の、村からの褒美だと思います」。そう言ってかざしたのは、報告会の前々週の5月11日、難病と長期間におよぶ闘病の末に亡くなられた節子夫人のご霊前に届いたという香典袋。その上書きには「大内区 大内宿保存会」の名と、24人の住民の氏名が並ぶ。つまりは大内の公的組織からの香典と言える。「この35年間の村との付き合いは、すべて一軒一軒の家を訪ねて、一人一人と囲炉裏端で話し合う、という形のものでした。でも、初めて村人として扱ってくれた。これでやっと“村八分”になれたという気がします」。“他所者”でありながら、ある共同体と深くかかわり続ける道を選んだ人の、万感の思いが込められた言葉だった。

◆日本中の誰もが「豊かになりたい」と必死な時代、貧しさの象徴でもある茅葺き屋根を残そうと呼びかけるために通ってくる若者は、地元にとっては「やっかいな種」を持ち込んだ存在でもある。しかし、「ここをおしめの下がる村にしたいんだ!」(=何代にもわたって暮らしが営まれ続ける共同体になってほしい)との願いは、時間の奮いを経て徐々に村人に届いていく。思ったようにはいかない。ストレートに決まることもほとんどない。けれど、宮本常一氏直伝のフィールドワークの手法や各地を歩いて自ら体得した「村との対話法」が、少しずつ未来を開いていく。そんな様子が伝わる報告だった。

◆大内にも、じつはコンクリートの家が一軒ある。相沢さんが最初に来たときにはすでにあったというその家は、出稼ぎなどをして蓄えたお金でようやく建て替えられたもので、「そんな努力の結晶を、壊せとは言えるわけがなかった」。しかし江戸時代の面影を求めて年間80万人の観光客が訪れる今となっては、当の家の人にとっても悩みの種。「相談されて、私は何か植物でも植えて隠せと言ったんです。でも、それでは余計に目だったりする。そこで村人から出たアイデアが傑作だった。動物医の看板を出して、『只今往診中』としとけばいいっていうんですよ。参りましたね。茅葺きの村にコンクリートの家ならば西洋医じゃないか、ときた」。さらに年月が過ぎ、この家はついに今年中に取り壊されることになったそうだ。35年という気の遠くなるような時間をかけて、内側から熟していった一つの成果。それは、外からやってきた元・若者に村から香典袋が届くまでの道に重なる。

◆一度はトタンが被せられた家も草葺きに戻され、決まっていた道路の舗装もなんとかくいとめられた大内で、相沢さんが気になっているのは、本来は通路の中央に1本だけ流れていた水路が2本になっていること。これは明治時代の改修によるものだそうだが、宿場時代の姿として1本に戻したいという。「でも、この先それをどうするかは、子どもたちがやるんです。結果は子どもたちが出すんです」。10年後、20年後の大内の姿に期待できると確信した。[熊沢正子]


地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け付けています。
地平線ポスト宛先
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)

●片岡恭子さんから…2004.6.1…フィリピン・スービック発《E-mail》 http://kiokitok.hp.infoseek.co.jp

◆フィリピンはルソン島、スービックに来て早1週間が経ちました。これから3ヶ月住む宿舎の裏庭はいきなりジャングルで猿が出ます。すぐ近くには先住民も住んでいます。しかし、ここは家賃月16万円の高級住宅でメイドと運転手付き。泊まってはいけないのに寝袋を持ちこんでむりやり泊まりこんでいた東京アジト、月9800円で1.6畳のマンスリーオフィスとはえらい差です。

◆3月3日にベネズエラから帰国して5月25日に出国するまでの3ヶ月足らずの間、出演者コーディネートをやったラジオ番組に“カリスマ”バックパッカーとして、テレビの生活情報バラエティ番組に旅行ライターとして、旅行雑誌に南米で一番濃いバッカーとして出してもらいました。

◆以前、南米でやはりバラエティ番組の現地コーディネーターをやったことがありました。マスコミの中でも特にバラエティのスタッフというのはご想像どおり、冬でもアロハシャツを着ているような連中です。

◆前回はたった30分の番組にほぼ丸3日、一日中カメラをまわし、睡眠時間は連日4時間。今回はたった1分足らずの出演に打ち合わせが1時間。撮り直しに次ぐ撮り直しで結局3時間半カメラをまわしました。スタッフはもう3日間もろくに寝ていません。

◆先日、私のHPのオフ会を新宿でやったときのこと。バックパッカーの集まりとして雑誌の取材が入る予定だったのですが、編集の人は一向に現われません。ついに3次会に突入したところで電話を入れてみたところ、前の取材が長引いて来られないと言います。〆切直前で忙しいのです。

◆時間や言ってることがころころ変わったりと「まったく調子いいんだから」と思うこともしょっちゅうですが、許されない見せかけがやらせであるなら、彼らの見せかけは演出なのでしょう。これまでは軽率で嫌な感じを抱いていたギョーカイ人。しかし、寝不足でもカラ元気をふりしぼっている姿がそのように映るのだなあと少し足を踏み入れてみて思いました。


●田中幹也さんから江本嘉伸さんへ…2004.5.29《E-mail》

◆明日から3週間ほどノルウエーに行ってきます。半分ウダウダしながら、残りの半分で冬の北欧における冒険の可能性を探ってきます。


●鈴木博子さんから…2004.5.31…カイロ発《E-mail》

◆◆毎日何を着ていこうかなんて考えない、化粧もしない、髪の毛もセットしない、そんな生活が始まって、早三日。毎日、手で服を洗い、トイレットペーパーを丸ごと持ち歩く…日本に居た時間が嘘のように、旅人の習慣が自分の体に戻ってくる。また旅が始まった…カイロにいます。

◆インドにも似た雑然とした町並みの中で、絶え間なく押し寄せる男どもの目線、長袖にスカーフの異様な格好の女性たち、むさ苦しいとしか言えない肌に光が染付く程の暑さ、イスラム圏に来ていると実感しています。いつかのイスラム圏で見た景色が、どこかで出会ってきた暑さや風が、今の空気とオーバーラップし、心にグッとくる。心に残る大きな感情をここでもまた吸収し、体に残していきたいです。

◆エジプトといえば、ピラミッド?ツタンカーメン?それとも髭を生やしたアラブ人? イメージとはその中に身を置いてみると、いとも簡単に崩れ去ってしまうのだと気づく。もちろんであるが、目の前に転がる光景が全て現実の世界とかし、今まで抱いていたイメージは感情のどこかに仕舞い込まれてしまうのだ。ありのままに受け止め、感じ、心で整理するだけでいい。こんな簡単なことが気持ちよく、そして素のままでいられることに、とっても自分らしさを感じています。

◆これから南のアスワンに向かいます。気温は50度まで上がると言われている。死なないように(笑)気をつけて、世界遺産、アブシンベルを覗いてきます。


●村口徳行さんから江本嘉伸さんへ…2004.5.29…カトマンズ発《E-mail》

◆先ほどカトマンズにもどりました。5月15日、PM3:30、ローツェ登頂。5月24日、AM7:30、エベレスト登頂。ローツェでは落石の直撃をくらって左腕がだめになりムービーまわせず。エベレストではなんとか映像に収めてきました。たいしたことはできねえなと、そんな気がいたしました。渡邉玉枝さんは65歳で5つ目の8000m峰登頂です。たいしたもんだと思いました。荷物の整理など1週間ぐらいカトマンズに滞在する予定です。
特別寄稿
アユの時間と釣師の時間
森田靖郎

川べりの鮎宿は「鮎川荘」と名づけられた。数年前、鉄砲水で流された川(栃木県・余笹川)に天然アユが遡上したのは三年前だ。その記念に建てられた宿に誰かが命名したのだ。「鮎川荘か」釣師がつぶやいた。「アユ、かわいそうに聞こえるな」師匠がため息をつく。

◆鉄砲水で地元の農家が流され、牛は数十キロ下流にある茨城県の那珂川の河川敷で発見された。あれから治水工事を繰り返し、天然アユが遡上するまでに回復した。

◆釣師にとって解禁は正月だ。日の出とともに、師匠がお神酒を川に注ぐ。今年も、竿をこの川で下ろした。一匹目のオトリをひき殺した。二匹目もひき殺した。例年のことだ。「アユがかわいそうだ」最後のオトリにようやくかかる。重いアタリにロッドがしなる。「越年アユか」アユは年漁といわれ一年で一生を終える。ところが、まれに年を越すアユがいる。オトリの二倍もある二五センチを超す二年仔の鮎は、まだ冷たい水温で眠りから覚めない。アユは、秋になると産卵のために下る。これを落ちアユという。

◆「アユは水温を感じて、人生の末路を悟る」師匠の言葉だ。アユの体内時計が秋を知らせる。だが、秋になっても水温が下がらない環境で、時々体内時計に反応しないアユがいる。これが越年アユだ。そもそも生物時間がある。難しく言えば脳内の視交叉上核がそれにあたる。生物は一キロの体重にあたり消費するエネルギーは生涯三十億ジュールと決まっている。約十五億回の心拍数だ。ねずみでもゾウでも人間も同じで、ねずみはゾウの十数倍の速さで生き過ぎる。アユはこれを一年と決めている。季節感のない異常気象のなかで越年アユは産卵の時期を見失ってしまったのだ。

◆「今年の放流アユは縄張り意識が強い」琵琶湖産と利根川を遡上する天然アユを掛け合わせたものだ。闘争心の強いDNAを持った人工産のアユはオトリに反応しやすい。

◆解禁で思い出した。ホンダの創業者である本田宗一郎氏は、自宅の池に四万十川から空輸したアユを放流し、政治家たちを招いて解禁日にアユ釣りパーティを開くのが恒例だった。政治家との交流を好まなかった本田宗一郎氏が、唯一政治家と接触を持ったのがこのアユ釣りパ−ティだけだったという。

◆田中角栄や福田赳夫ら、名だたる政治家がまるで小僧のようにはしゃいだ。日中国交正常化を成し遂げた田中角栄は、パーティで乞われ色紙に李白の詩にある「逆旅(げきりょ)」と書いた。逆旅とは宿屋のことだ。宿は客をもてなすと同時に送り出す場でもある。やはり、客のひとり湯川秀樹は、物質の最小単位である素粒子論をここで見出した。宿には客を泊める部屋がいくつかある。時間と空間があってこそ素粒子が宿る、また素粒子が存在するから時間と空間があると気づいた。まさに天地は逆旅であり、万物は過客である。アユにとって川は逆旅だ。一生を川に上り下ることに尽くすアユがいとおしくなった。越年アユを、川に戻した。「鮎川荘」を誰かが、「鮎恋荘」と書き換えていた。

もりたやすろう 「地平線から」初代編集長で地平線会議創設メンバーのひとり。ノンフィクションライター、釣師として活躍中。


大阪地平線報告会異聞

大阪報告会の前日、「しまなみ海道100キロ遠足(とおあし)」に参加した3人。ゴールの愛媛県今治城から、報告会当日午前5時30分神戸に上陸、大阪に向かった。

■しまなみ100kmは実に17年ぶりの100kmマラソンだった。風邪で思うように練習が出来なかったし当日も熱っぽかった。が、100km走れる事がわかっただけでもよしとしよう。(永瀬さんの)使用した3足の靴を見せてもらうと、典型的な“引っ張る人の靴”で走ったり歩く人とは底の減り方が全く違っていたのもおもしろい。[中山嘉太郎 14h26m36s]

■4回目のしまなみ海道、ことしもケータイを持っての出走だ。話しても息切れしないゆっくりスピードで走るので、普通の会話は平気。大阪の皆さんに心配させないよう時折、ねこさん(中島菊代さん)に様子を知らせた。そうはいってもラクではない。暑くて暑くて何度も氷水を頭からぶっかけてもらい、水分を補給しながらのラン。瀬戸内の海に落ちかかる夕陽がうつくしかった。[江本嘉伸 15h14m54s]

■100キロマラソンに無謀にも挑戦しました。練習は一週間前に8、10、25キロと3回走っただけ。25キロでは、走るどころか歩いてもキツイありさま。どう考えても100キロは無理なので、目標は50キロだったのですが、結果としては100キロ完走しました。どうなってるんでしょ。自分でも不思議です。でも無理と決め付けないでやってみてよかった。なんだか自信がつきました。[坪井伸吾 16h42m]




そういえば、こんなことも…。地平線会議1/4世紀こぼれ話

今月の「そういえば、こんなことも…。」は特別企画で2本立てです

◆「地平線会議」の記念すべき第1回目の「報告会」は1979年9月28日(金)。アジア会館において三輪主彦さんに「アナトリア高原から」というテーマで話していただきました。このときの参加者は99名。参加費は今と同じ500円。99名分の参加費4万9500円が貴重な「地平線会議」の収入になりました。支出は会場費が5300円、飲物代が20000円で、差し引き24200円が残ったのです。飲物代というのは、第1回目の「報告会」は「地平線会議」の発足式をも兼ねたもので、参加されたみなさんにコーヒーなどの飲み物を振る舞ったのです。

◆参加者の内訳ですが「あむかす」が15人、「沙原の会」が10人、芝工大探検部が8人、法政大探検部が4人というのが主なところです。「あむかす」については前号でふれましたが、「沙原の会」というのは「三輪軍団」といってもいいようなグループでした。当時、三輪さんは都立清瀬高校の先生をしていましたが、一部の生徒たちの間では絶大な人気。で、三輪さんのもとに集まる生徒をそそのかし(?)、「沙原の会」をつくりあげました。

◆「沙原の会」の武田力さんや菅井玲子さんは「地平線会議」発足前からおおいに戦力として活躍してくれました。とくに菅井さんの美声は特筆すべきもので、「報告会」と同時に立ち上げたテレホンサービスの「地平線放送」(伊藤幸司さんが担当)のアナウンサー役を引き受けてくれました。菅井さんの声があまりにもきれいだったので(テレビ番組で紹介されたという理由もありましたが)、電話が殺到し、「地平線放送」は残念なことにパンクしてしまいました。

◆第2回目の「報告会」は恵谷治さんの「砂漠からサバンナへ独立の戦火を追って」で、このときの参加者は62人。第3回の「報告会」は街道憲久さんの「カナダ北極圏にしがみついた10年」。42人の参加者でした。恵谷さん、街道さんは「報告会」で話してくれただけでなく、「地平線会議」に1万円をカンパしてくれ(三輪さんも1万円をカンパしてくれました)、さらにそれ以降というもの、「地平線会議」の活動にもおおいにかかわってくれるようになりました。三輪さんは江本さんともども「地平線会議」を支える両輪になっていったのは、みなさんもよくご承知のとおりです。こうして「報告会」を重ねていくごとに「地平線会議」の基礎が築かれていきました。(つづく)[賀曽利隆]


◆大きなテーブルのある四谷の喫茶店「オハラII」へ、三輪主彦さんに連れて行かれたのは、私が大学4年の夏のことであった。三輪さんは都立高校の地学教師で、私は三輪さんの教え子だった。都内の大学に進学した私は、毎日のように母校へ通っていた。

◆母校へ足繁く通っていた卒業生は私のほかにも数多くいて、それぞれ部活動の後輩達を指導したあと、自然と三輪さんのところへ集まってくるようになった。それがいつの間にか「体力がつけば、知力もついてくる」を合い言葉に「沙原の会」として発足した。体力だけには自信のあった我々は藁をもつかむ気持ちで、師にあおられるまま国内外を放浪した結果、僻地や海外に定住した仲間も少なくない。

◆「ちょっとおまえついてこい」と三輪さんのひとことで行ったオハラIIには、「入れ歯の具合を試してでもいるかのようにモゴモゴ喋る(292号参照)」江本さんや向後元彦さん、宮本千晴さんら、主に大学探検部、山岳部のOBたちが集まっていた。まだ名前も付いていない地平線会議の、まさしく誕生前夜であった。しかし、当時探検部にも山岳部にも縁がなかった私には、わけの分からないことをいうオジサンたちにしか見えなかった。

◆そのような私を、なぜ三輪さんが連れてきたのかというと、高校時代地学部の部長をしていて、百葉箱の記録紙を毎週交換したり、職員室から勝手に鍵を持ち出して毎朝地学準備室を開けておいたりという地道な活動を評価されたからだと思う。その後、地平線会議が動き出してから、報告会や地平線放送などのプロジェクトの雑用係として、使いっ走りをすることになったわけである。

◆多少はパソコンが扱えるということで、それまで手書きだった地平線通信の宛名をラベルに印刷することになったのは1986年だったと思う。地平線通信の編集やレイアウトをするようになったのは89年の116号から、90年4月からは丸山純さんの尽力により“パソコン通信”の地平線HARAPPAも始まった。これらのことは、私のパソコンのスキルアップに大いに役立った。いま、人より少しだけコンピュータのことを知っているふりができるのは、地平線会議のおかげである。

◆四谷のオハラIIにも何度か通い、だんだん話の内容もわかるようになってきた。そして、名前の候補がいくつかあげられた。世界中を這いずり回るということから、まじめな顔で「地球をなめくじる会」などというのも出てきた。オハラIIはもうなくなり、沙原の会も解散したが、地平線会議は脈々と続いている。でも「地球ナメクジ会議」なんて名前になっていたら、25年ももたなかったでしょうね。[武田力]



はじめての大阪報告会から(報告会レポート・298)
『田悟作4号』で南米大陸縦断8800キロ!
永瀬忠志
2004.6.6(日) 東淀川勤労者センター

◆大阪の報告会に、追い風が吹いた。3月に南米大陸縦断旅から帰国されたばかりの、“ゆっくり超人”永瀬忠志さんが、報告してくれることになった。

◆早めに来られた永瀬さんに、著書へのサインをお願いしたら、一冊ずつリヤカーマンを描いてくださった。机に向かい、ペンを持つとき手のひらが紙に接するところにハンカチを敷いて…。それだけでも人柄がうかがえる気がした。

◆「今回の旅を人前で話すのは初めてで、お聞き苦しいところもあると思いますが、どうぞよろしく」と、やや緊張した声での冒頭挨拶に、ぐっと身近に感じた大阪人も多かったのではないだろうか。

◆小学生時代に距離を伸ばしていった自転車移動を土台に、高校3年で地元島根〜大阪を野宿しながら自転車で旅した。「これをくりかえせば日本一周ができる」と思った。リヤカーを引きながら日本を歩いて人との出会いに感動し、「旅は遅ければ遅いほどいいなぁ」と感じた。旅の歴史は、脈々と今につながっているのだった。

◆22才で灼熱のオーストラリアを横断。「こんな苦しい旅は2度としない。これからは楽しい人生を送るのだ」とつくづく思ったが、ゴールが近付くにつれ、嬉しさ半分、寂しさ半分に。終わってみれば「アフリカにも行けるかも」と、思っていたのであった。

◆4年後、アフリカ大陸横断に成功し、さらにサハラ砂漠縦断に向かう折、ナイジェリア北部の「カノ」という町でリヤカーを盗まれ、旅を断念した。リヤカーがないとわかり、盗まれたと直感した永瀬さんの胸中は「やったー!もう歩かなくていい!」だった。が、カノに10日間滞在するうちに心境は変化し、今まで共に旅をしてきたリヤカーやキャンプ道具に思いを馳せる。そして「もう一度やりなおそう」とひそかに思うのであった。

◆6年後、一旦手にした教職を手放し、再びアフリカ大陸横断へ。2度目の旅路も、サバンナの動物に出会い、人々と触れあいながら進んだ。カノで記念撮影をし、いよいよサハラへ。

◆最高総重量200kgにもなるリヤカーを砂漠の砂に埋まらせながら、「俺は一体こんなところで何をしているのだろう」「リヤカーを動かすことが何なんだろう」「パリまで歩いていくことが何なんだろう」とぐるぐる思う。はっきりわかっているのは「ここで立ち止まっていても、何の問題も解決しない」ということだけだった…。

◆随所で和やかな笑いが起こる。誠実で、味のある話し方に、参加者はどんどん引き込まれていく。サハラの真ん中で一人、理不尽な風に怒鳴り、朝になると「また一日が始まる」と泣きながら歩くこともあった。376日かけて、パリの凱旋門に到達。11100kmの旅路だった。

◆2003年6月、南米大陸に歩を進めたのは、二人目の子どもが11ヶ月の頃だった

◆ぬかるみでタイヤに泥が何層もへばりついた写真は、旅の苦労をストレートに伝えてくれた。歩いて通れない区域は、トラックに乗せてもらったり、牽引されたりしながら通過した。タイヤがパンクしたときは、日系人に助けられた。地元の人たちに「ここからはジャガーがいるから危険!」と説得され、アマゾン川を船で下ることを決めた。

◆ボリビアでの反政府暴動に、コースを変えた。アスファルトの1本道では猛スピードで横を走り抜けるトラックに、ペットボトルを投げつけられたこともあった。

◆ベネズエラでごま粒ほどの虫にぼこぼこにされ、ブラジルで巨大なヘビやトカゲ、タランチュラとおぼしきクモに遭遇。ぱらぱら音立てて歩くアリに襲撃され、テントを20カ所ほどかじられた。夜、ワニの足音がすぐ近くを通り過ぎていった。

◆ボリビアからアルゼンチンでは、夕日と朝日に魅了された。ジャングルに星降るように、螢が舞っていた。ペンギンやアザラシ、アルマジロ。フラミンゴもよく見かけた。「早く旅が終わらないかな」と思った。04年3月15日、ついにアルゼンチンの南端、ウシュアイアに到着。8800キロ、266日間の旅が終わった。

◆「上手に話すことができなかったと思います」と、最初と同じように丁寧に挨拶をされ、南米大陸縦断リヤカー旅の報告は、幕を閉じた。途中、江本さんから絶妙なタイミングで入るつっこみ(?)に、東京での毎月の報告会を垣間見た気がした。来場者からも、いくつか質問が飛び、活気のある時間が流れた。

◆中でも、「アフリカのときと比べ、妻子がいる身としての今回の旅で、何か心境に違いはあったか?」という質問に、「家族がいることで、帰りたい気持ちは強まっていた。ジャガーを避けるかどうかの選択では、まず、幼い子どもの顔が浮かんだ…」と、言葉を詰まらせたのが印象的だった。

◆植村直己冒険賞受賞会場から足を運んでくれた冬季シベリア自転車横断の安東浩正さんはじめ、そうそうたるメンバーが「永瀬さんを見に」かけつけ、メッセージを送ってくださった。そんなすごい旅を続ける永瀬さんに、結局報告会では触れられなかった「なぜそこまでしんどい旅を?」の大疑問を、こっそりぶつけてみた。永瀬さんは、はにかんだ笑顔で答えてくれた。「長い旅の、ほんの短い間ではあるけれど、『よかったなぁ』と心から思える人や自然との出会いがあって、そのことが、次の原動力となるのかもしれません」…そんな『出会い』は、永瀬さんにとって、一歩ずつの旅でこそ、より際立ってくるものなのだろう。

◆最後に、報告会に関わられた全ての方たちに感謝します。本気の旅を、本気で伝える場に立ち会える幸せは、参加してこそ得られるものだと改めて実感した、地元での報告会でした。やっぱり生(なま)はすごい![中島菊代、通称・屋久島病のねこ]
地平線会議 in Osaka 資料制作秘話...
大阪報告会では配布された資料が好評でした。
中島菊代さん松井由香里さんとともに制作にあたった大阪印刷支局長からひとこと。

◆「う〜む。インクの色がブルーしかないんだけど....」資料作成の話題が出た時、最初に思った。職場に輪転機がある事がこんなに嬉しく有り難いと思ったことはない。案が出てから飛び交うメールの数々に感動したり、圧倒されたり。あっと言う間の準備期間。原稿入力をかって出てくれた松井さんが江本さんの尻をたたく...なんていうなかなか面白い(し、失礼..)光景まで見られ、ますますテンションは上がっていく。

◆二次会の下見兼ねてそのお店へ飲みに行こう〜という話で中島さんと盛り上がってた日は、必然的に原稿の最終打ち合わせとなった。少し遅れてお店に入った私の目に入ったのは、居酒屋のカウンターで場違いな雰囲気のオーラを出しながら資料の表紙と格闘、最後の追い込み中な中島さんの姿だった。

◆印刷部数は100部。表紙と裏表紙は浅葱色の用紙を使うことにしていた。あとA3サイズの原稿も1枚ある。とにかくこれ分からやってみよう。綴じる作業や説明がし易くなるようにとハンコで数字を打つ。輪転機の調子が悪いのか、歩き旅世界地図A3サイズの原稿にうまく数字が出ない...半分ほど刷った後に気付き愕然。でも妥協はしたくない..とやり直す。

◆輪転機は倉庫の中にあり、隔離されていたのが功を奏した。仕事内容とは全く関係のない作業。人気のない場所が密かに事を進めるに最適であった(暑かったけど..)。そして無事印刷が完成。地平線会議inOsaka資料の完成である。

◆そんなこんなで仕上がった資料。出来は如何に?ブルーのインクがかなり爽やかな仕上がりとなり、梅雨入りしたあの日に相応しかったかも?と自画自賛(笑)。予想を上回る方々に来て頂き、用意した資料が底をついてしまうという事態になってしまい、ちょっと残念だった。とにかく、いろんな意味で楽しく有意義な時間を過ごすことが出来、大阪報告会開催に感謝感謝。ほんとうにいろいろありがとうございました。[村松直美]


大阪報告会 参加者に聞いてみました
Q 「どうやって大阪まで来ましたか?」

▲土屋達朗 三輪先生の教え子です。今は和歌山県田辺市でヘリコプターのパイロットやってます。電車で3時間かかってやってきました。(報告会は)いつもは東京なのでなかなか参加できませんが、せっかく大阪でやってくれるというので何としても来たかったのです。

▲山脇由里 土屋さんに誘われてきました。南米大陸をリヤカーで旅された、どんな話が聞けるのか、とても楽しみです。

▲前田歩未 その昔、東京の地平線会議におじゃましたら、江本さんにそそのかされ、その後、私の人生の岐路には必ず登場する人物となってしまわれました。彼は実は、かわいいもの好きらしく、私のつくる木のおもちゃを手に取り、なにかたくらんだり…。

▲中島菊代 滅多に参加できない報告会が地元大阪で開催されるとあり、寝る間も惜しんで資料つくりしました!(うそ)。準備期間も含め、お祭り気分で楽しませていただき感謝です。

▲村松直美 ずっと参加したかった地平線報告会にようやく参加できました。しかも大阪で!!昨年の3月、山田淳さんの報告会の際とてもお世話になった恩返しが、少しできました?というより、楽しみすぎた気も…(笑)ありがとうございました。

▲岸本美千代 今日は1度ダンナと一緒に車で物の運搬をしました。そのあと一人で車を戻しに帰りました。その間、火事があったりして、かなり時間がかかりました。それから、新大阪まで行くときにもJRが人身事故があり30分足止めにあいました。結局、普通なら1時間で往復できるところが、3時間かかりました。あ〜 くたびれた。

▲藤田光明 岡山の自宅から、第3セクター、ローカル線を乗り継ぎ、新幹線の駅まで20Kmを1時間、そこから新大阪まで200Kmを1時間、すごい格差だ(笑)。

▲北川文夫 前日、岡山から市民団体のツアーで岐阜県の徳山ダムの視察に行き、名古屋に宿泊。2日目の行程を抜け出して新幹線で新大阪まで来ました。報告会のビデオ担当なので、ビデオカメラと三脚かついで旅しました。

▲飯野昭司 夜行の高速バス(山形〜大阪)に乗って12時間かかって着きました。ほとんど眠れなかった。今夜もそのバスで帰ります。

▲坪井伸吾 前日、江本さんと一緒に、しまなみ街道100kmを走ってきました。まだ足が痛いです。

▲藤原和枝 熟年ドリームバスで東京から来ました。若い人が乗ってるので、いやな感じがしました。

▲三輪主彦 東京→京都→日高町・植村直己記念館(安東さんの授賞式)→神鍋高原ブルーリッジホテル(高級ホテルだぞー)→(12Km走って)→江原→京都→大阪

▲金井シゲ 東京から夜行列車で米原へ。そこからJRで琵琶湖東岸の高月に行きレンタサイクルで神社仏閣めぐり(70Km)。木之本でもレンタサイクルで観光。次に船で琵琶湖の竹生島へ。島内をまわった後、琵琶湖西岸の今津へ行き、湖西線で京都、大阪と5泊7日の旅をして会場に着きました。

▲鰐淵渉 名古屋の新居→(下道をバイクで4時間(200Km))→堺の自宅→電車を乗り継いで→堺駅から友人の車で会場まで到着。

▲赤坂英郎 いやーおもしろかった。すごいこと考える人がおるんやな。またこんな催しがあったら誘ってな。

▲斉藤嘉彦 長野の白馬出身です。国内はオートバイ、海外は自転車で旅しています。南米大好きです。

▲シール・笑みこ 6月5日の植村記念館で、安東さんの受賞をみて、4時間かけて大阪の実家へ深夜0時過ぎ到着。翌日昼過ぎに家を出て、会場に到着。アヤシイこと書きたいけど、何もありましぇーん!

▲安東浩正 前日に植村直己冒険賞授賞式があって、当日は植村さんのお墓をお参りしてから記念植樹。午後から奈良に住んでる鳥取大学山岳部の後輩の車に便乗して会場に駆けつけました!

▲永瀬忠志 地下鉄御堂筋線できました。


●大阪報告会実行委員長から…報告会終了直後のメッセージ

◆あっという間に大阪の報告会も終わってしまいました。振り返ると夢中で楽しい一ヶ月でした。今はちょっと虚脱感が漂っていたりしています。昨日は本当に多くの人が永瀬さんの話を聞きに、そして生の永瀬さんを見に会場に集まってきました。地元の新聞に掲載されたおかげで、地平線会議のことは何も知らない方が半数を占めていました。それも中高年の方が多かったのが特徴的でした。

◆参加者数が100人と聞いたときには、それまで人数は二の次とは思っていたのですが、やはり大勢の人に来ていただけたのは嬉しかったです。今回の報告会で特筆すべきは立派な資料でしょう。中島菊代さん、村松直美さん、松井由香里さん本当にご苦労さまでした。東京の丸山純さんと武田力さんの的確なアドバイスのおかげで無事報告会をやりきることが出来ました。ありがとうございました。

◆安東浩正さんをはじめ多くのすごい方に来ていただけることは解っていましたが、事前には知らなかった飯野昭司さんや金井シゲさんが来てくれていたのも大きな喜びでした。永瀬さんの報告をきっかけにして本当に多くの人が楽しみながら準備し、そして集まり楽しく語り合える場を持つことが出来本当に良かったと思っています。これが地平線会議の醍醐味ですね。それを毎月、25年間欠かすことなく続けている地平線会議は本当に凄い。[岸本佳則 大阪報告会実行委員長]




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

見上げればシロクマ

6月25日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

 「一面の白い氷原では、シロクマはグレーか茶色に見えるんですヨ。アザラシは黒。遠くに黒以外の色が見えると怖くて……」というのは冒険サイクリストの安東浩正さん。この4月5日〜5月24日にかけ、カナダ・バフィン島で600km、30日間、ほぼ無補給のスキー踏査を実行しました。凍った海上を行くルートには、もちろん一本の木も無く、現地のハンターにも滅多に出合いません。そのかわり……。

 「シロクマの領域。うじゃうじゃいる彼等のテリトリー内でいかに出合わないか、がサバイバルの技術。僕の経験はとても自慢できるものじゃありませんけど……」。

 第8回植村直己冒険賞を受賞し、次の旅を模索中の安東さん。今回の旅は自主トレのつもりでしたが、予想以上に雄大な自然の造詣物に目をうばわれました。夜中に侵入してきたシロクマとのてん末をはじめ、密度の濃い極地人力行の話をお楽しみに!


先月の発送請負人 三輪主彦 藤原和枝 関根晧博 村田忠彦 野地耕治 森井祐介 武田力 江本嘉伸 片岡恭子 落合大祐


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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