2004年5月の地平線通信



■5月の地平線通信・294号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙年の11月、地平線報告会が300回を迎え、大イベントをやることは、地平線通信でもすでにお知らせしている。報告会は1979年に始まり、25年間、4半世紀の間、一度も欠かすことはなかった。79年は海外渡航が自由になってから15年目、その年海外渡航者数が400万人を越えたと書いた覚えがある。今は2千万人に迫ろうかという勢いだ。その間に日本人の目は大きく世界に開かれ、変わった。それを目的に地平線会議を始めたわけではないが、結果としては日本人の世界観の変化にかなり貢献をしたのではないかと思っていた。

◆しかしである。このたびのイラク人質事件でのお上やマスコミの対応が数十年前とほとんど変わっていないことに、私の自負はガタガタと崩れ去った。1962年、24歳の青年がたった一人、小型ヨットでサンフランシスコに到着した。彼はパスポートを持たない密出国だった。政府もマスコミも違法出国として非難し処罰されるだろうと伝えた。しかしアメリカは快挙として、この青年をたたえた。それを期に日本のマスコミは180°変換し彼は英雄になった。その反省もあってか、マスコミは冒険や探検などに理解を示すようになった。

◆地平線会議の報告会はマスコミやお上のお墨付きがあるなしは別にして、私たちから見てすばらしいかどうかで判断して行なってきた。参加人数が12人ということもあったが、最近は100人を越すことも珍しくない。世の中の人たちが冒険、探検、個人の旅に理解をし始めた証しだと私は考えた。「しめしめこれで私の遊びまわり人生も非難されない社会になってきた」とほくそ笑み、勤めを辞めて遊びの準備にとりかかっていた矢先だった。

◆若者たちは何であれ、見たい、聞きたい、体験したい、という強い思いを持っている。私も1979年アンマンからバグダッドへバスで行った。普通では観光ビザが出ず、電気技術者になりすましていたので十数回の検問では冷や汗タラタラだった。私は教師として「見てきたようなウソを言い」と言われるのがイヤで、歴史に名高いチグリス川の河畔でマスグーフ(鯉料理)を食べたかっただけだ。

◆もしその時に捕まったら、メチャクチャに言われたろう。言い訳を考えたかもしれないが、「だって行きたかったんだ」が本心だった。今回人質になった人たちの行動は様々に報道されているが、本当のところは「どうしても行きたかった」のではなかろうか。自己弁護のつもりではないが、そんな若者がいることはすばらしいことだと私は思っている。失敗したからと言って彼らを見せしめのようにいじめるなんてお国のやることではない。総理はまず「よくやった、感動した」と言う度量をもつべきだ。

◆しかし、マスコミに流されたのは、自己責任、救助費を払え、反日分子は自業自得、などの発言だ。私の周辺の人たちはあきれたが、世間一般はどうもお上、マスコミに同調している雰囲気だった。彼らは選挙で多数の信任をえているし、マスコミは世間の動きに敏感だ。勢いを得たお上は、さらに海外渡航の自由を制限しようともくろみ始めた。こりゃまずい。先人が苦労して手に入れてくれた「自由」は奪われてはならない。世界への目を閉ざしてしまったら、国家のためにもならないはずだ。お上の威光に逆らう意見が逆にお上を救うことになるかもしれないのに。

◆ここのところ世間の雰囲気はヒステリックだ。私の身近でも、こんな若者を育てた家庭、高校が悪い、国家に忠実な生徒を育成せよ、という圧力がヒシヒシと感じられる。違う、違う!「いろんなことを考える生徒を育てる」ことが大事なんだ。私はのん気に「さあこれから遊び回るゾー」と思っていたが、そうも行きそうもない。地平線会議を通じて、これまで通り「世界を駆けめぐるゾー」と発信を続けて行くゾー。とりあえず11月7日(日)の300回記念集会をお楽しみに![三輪主彦]



先月の報告会から(報告会レポート・296)
ワニーは何故道草をくったの
鰐渕渉
2004.4.23(金) 新宿区榎町地域センター

◆「あいつ案外可愛い声なんだよなぁ‥」彼が話し出そうとしたその時、隣に座っていた江本さんが、ふと囁いた。日本最西端から最東端まで3800kmを完歩したというのに、鰐淵渉さんこと、「ワニー」には少しの自負も、人を寄せ付けないオーラもなかった。そこには誰もを受け入れられる温かい空気と、場を和ませる優しい表情があった。

◆日本徒歩縦断というと、最北端の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで歩き通すのが普通だが、ワニーの挑戦は違う。スタートは長崎県の神崎鼻、ゴールは北海道の納沙布岬。つまり「日本最西端から最東端まで」それも、わざわざ冬に向かっての挑戦だったのだ。

◆03年8月15日、終戦記念日、神崎鼻を出発した。始めは自分の体力、気力を考慮し、荷物をカートに積んでの歩行。愛用のバイクのサイドバックを使い、少しでも節約しようと荷物をまとめた。無理せず、長期スパンの計画だった。用意周到とはいかないが、決意を感じられる工夫を小さいところでも感じられた。

◆1日目張り切り過ぎたのか、47kmを歩く。2日目は疲れて16km。3日目は49km。初めは自分のペースをつかめなかった。足の薬指、親指、裏にマメができた。しかし、日を重ねる毎に、日の入から日の出まで1日平均、35km〜40km歩けるとわかるようになり、マメも出来なくなっていた。

◆毎日歩くだけが仕事である。1歩で69cm進み、1545歩で1kmを歩く。細かいようだが、誰もがやってみたら気付く日常的な情報なのかもしれない。旅の基本は野宿。夜中に公共のトイレに入り込み、洗面所に水を溜めてバケツシャワーを浴び、時には身障者用の広いトイレをちょっと拝借し、寝床にしていたという。夏の暑さとの戦いだった前半戦は03年10月3日、旅の中間地点である大阪の実家に到着し、終了した。

◆そして、03年10月23日後半戦、冬の北日本縦断が始まった。北海道に向けて、−15℃まで対応できる冬用寝袋、冬用テント、バイクのジャケット、と総重量25km荷物をザックに詰め込んで、今度は背負う。1日目は、8kmでばてた。荷物を軽くするため、電車に乗り、実家に戻っては荷物を組みなおし、また元いた位置に戻り、歩き出し…が数回。最終的には20kgまで減らした。1日平均20km〜25kmでペースを掴んでいった。

◆北に進むごとに、冬が近づき、日も短くなり、寒さも増していった。北海道に入る頃には、冬真っ只中。雪の壁の中を歩くと、吐く息が凍る。寝床はもっぱら駅。東北に入ったころから、駅の床に暖房が入るようになっていたし、電車も人も少なくて夜寝るには快適だったのだ。朝は掃除にきたおばちゃんと、ふと何気ない会話を交わし、人の温もりに触れられる。「もうちょっと居ていいと言われたことはあっても、追い出されたことはない」という

◆真っ暗な夜も、指凍る寒さの日も、毎日、ノートに鉛筆で旅日記を書き続けた。2月16日、最北地点の赤平市に着き、22日にはこの旅の最難関である狩勝峠へ。すごい吹雪の為3日間、寝床であったトイレに閉じ込められた。視界まったく利かず、世界はただ白。朝、「外を見たくない…」と、現状への拒絶反応が日記には書かれている。

◆04年3月20日、15時55分日本最東端、納沙布岬に到着した。ワニーの中に最初に出てきた言葉は「ありがとう」だった。達成する嬉しさのなかに、皆への感謝の気持ちや、寂しさ、いろんな気持ちが入り混じって涙が出てきた、という。終わってしまう寂しさのあまり、最後は1kmおきに写真を撮り、歩数を一歩69cmから60cmくらいにして、少しでも長くこの旅を続かせようかと考えたりもしたそうだ。

◆出発から163日、3795km、5483775歩。西から東へ繋いだ証に、出発前長崎県で拾い、一緒に旅してきた石を、ここ納沙布岬で放った。そして、こんな一首を読んだ。「憧れと 夢を抱いて 歩き行く 納沙布岬に 今我は立つ」体重は10キロも減っていた。[鈴木博子 今年の山岳耐久レース「招待選手」]


地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け付けています。
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●中畑朋子さんから…2004.5.2…カトマンズ発《E-mail》

◆お元気ですか。在カトマンズ丸3週間になりました。あと32週間。こうやって数えているうちはまだまだですね。宿と勤め先の往復です。先週からはその帰りにネパール語を習っています。

◆仕事はまだぜーんぜん見当つきません。とりあえず工場めぐりをしました。どうやら必要とされているところと、どうでもいいとこがあるみたい。でも、何かのためにこちらに来たわけなので、少しはわかる植物染めや絣織りをいっしょにやってみようかな、なんて考えているのですが。植物染めのパシュミナがあったら素敵でしょ。

◆滞在しているパタンという町のお祭りが先週末から始まりました。まだまだ続くようです。背の高い山車を毎日少しづつ引き回すのですが、倒れてしまったのでまた作り直すのだとか…。 祇園祭のルーツという説もあり。ということは私のホームタウン高山祭りのルーツ。おもしろいですね。象の散歩とすれ違うのを期待しながら出勤する毎日です。ではでは。


●4月から津田塾大生となった川堺恵生さんから…2004.4.25《E-mail》

◆こんにちは(^^)この間は、報告会に行けず済みませんでした。そしてメールも遅くなってしまい、ごめんなさい。私はみなさんのように立派な文章は書けませんが、18才の私にとって地平線会議は「未知の世界への入口」です。

◆地平線会議の存在を知ったのは、関野吉晴さんのグレートジャーニーをテレビで見て、それをインターネットで検索していた時でした。関野さんの旅(特にチベットあたり)は衝撃的で、私のいる現実とはまるで違う非現実的な現実があり、まだまだ知らないことがあると改めて感じました。ただ学校で授業を受けているだけでは知り得ないことを知ることができるのが地平線会議だと思います。


●4月から新聞記者となった菊地由美子さんから…2004.5.5《E-mail》

◆地平線会議の皆様、お元気にしていますか。私はもちろん元気じゃありません。入社して1ヶ月が経ちました。社会部に配属になりました。はじめ半年が司法担当で、後半が警視庁担当です。

◆新聞記者という職業が高尚なものだと勘違いしている方には是非とも申し上げておきたいのですが、これははっきりいって3K労働です。すなわち、キツイキタナイキラワレル。私は何が悲しくて毎晩のように弁護士のオジサマの尻を追っかけているのでしょう。しまいにはご近所の方に110番通報されちゃったりして。記者にもストーカー規正法を適用すべきです、まったく。そして、何の罰で週末の夜を泊まり勤務で潰さなくてはいけないのでしょう。地平線報告会にせっせと通っていた日々がいまや幻想のかなたに霞んで見えます。何しろ、6時半と言えば、さぁいよいよ第二部が始まるぞ、という仕切直しの時間であり、解放されるのは恐らく皆さんが家に着く頃。

◆受話器を叩きつけるように置くデスクの悪習や、瞬間湯沸し器のような上司に怯えていた本来のナイーブな私は、この1ヶ月で早くも影を潜めました。人間慣れるものですね。毎日、家畜のごとき扱いを受け、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、いつか世に出てやる! との思いでせっせと筋トレに励んでいます。

◆こんな人権の存在しない生活でも、なんとか潰れずにやっていられるのは、もちろんこの仕事の面白さを感じているからかもしれませんが、それに加えてこれまでに旅先であった人々の存在が支えになっているからだと思います。これくらいのことでメゲていては、何者でもなかった私に思いを託してくれたあの人たちの言葉が宙に浮いたままになってしまう、そう思い直すとエネルギーが沸いてきます。

◆そんなわけで、しばらく足が遠のいてしまうかもしれませんが、みなさん私を忘れないでね。ほんとに。お願いします。


●ホッキョクグマの絵葉書で安東浩正さんから…2004.5.3…キキクタルジュアク村(北緯67度35分)発

〈人生最大の危機!!〉極北カナダのバフィン島からの便りです。ここヌナブト準州は、ほとんど村というものがなくてバフィン島北部のクライドリバーを出発してからここキキクタルジュアク村まで400キロを、スキーで19日かけて歩きとおしました。村の近くでハンターに出会う以外、2週間近く人に出会うこともありませんでしたが、アザラシはよく見かけます。

◆シロクマも多く、ある晩、テントで寝てる時にシロクマにおそわれました。ガサッと音がして目を覚ましたらすぐそこにシロクマの頭が! クマは僕に気づかずにテントの中をのぞいてましたが、そのスキに寝袋内に入れておいた「ベアスプレー」をかけて撃退しました。まさに九死に一生を得ました。ぼくの人生において最大の危機でした。

◆旅を始めたころはまだ夜中は暗くなり夜空にオーロラが乱舞してましたが、今は真っ暗になることはなく極北の白夜はもう始まっています。凍った海の雪原を歩いていると時々地図にない島があらわれます。氷山が氷の平原に閉じ込められているのです。なかなか沈まない夕陽に照らされ、淡いピンクに染まる氷のなんと美しいことか!

◆ここからあと180キロスキーで歩いて今回の旅もおわりですが、ここから先はクライミングで有名なトール東壁などある国立公園内でシロクマもいない安全地帯なので景色を楽しんできます。ニューヨークに1週間ほど滞在してから5月末に帰国します。

●シール笑みこさん&スティーブさんから…2004.5.1《E-mail》

◆地平線会議のみなさま こんにちは! 関東でお家さがししてたのですが、ご縁がなく、春から奈良の柳生近くで暮らしはじめました。いろりがあって、かまどでご飯、まきでお風呂をたく、築100年の古農家です。薬草をせんじ、野草をクッキングし、畑もはじめました。ムカデがポトポト落ちてくるんがたまにきずですが、イタチが部屋に現れたり、庭にタヌキがあそびに来たり、スローライフを満喫しています。周辺には歴史的なお寺や石仏が多く、ハイキングコースもたくさん。浄瑠璃寺も近くです。しばらく自然の中で充電します。近況まで。


●3月の報告会に初参加、4月には通信の発送作業を手伝ってくれた片岡恭子さんから《E-mail》

◆前日アラスカから戻ってきた片山忍さんに連れられ、2年4ヶ月ぶりに南米から帰国したばかりの私は、ヒマラヤにイエティを探しにいっていた志村真由美さんと、この3年麻雀しながら世界を放浪している坂井麻里さんとともに初めて地平線報告会にやってきました。

◆スペイン留学後、中米、そして南米をさまよいました。アンデスを自分の足で越え、アマゾンに船で分け入り、パラグアイ、ベネズエラで不法労働をしながら、南米大陸にあるすべての国を旅しました。ふと気がつくとスペイン語圏にもう4年以上もいます。忍さんとはベネズエラ、真由美さんとはチリ、麻里さんとはアルゼンチンで出逢いました。

◆報告者は滝野澤優子さんと荒木健一郎さんご夫妻。バイクにまたがるでなし、自転車をこぐでなし、はたまたリヤカーを引くでもなく、ましてや徒歩でもない、ごく普通のバックパッカーである私は、この日まで地平線会議なるものを知らなかったのです。海外逃亡するまで田舎で親不孝娘として肩身の狭い思いをしていたので、もっと早く知っていればと残念でなりません。

◆地平線との出逢いがあまりにうれしかったので、早速通信の発送作業に参加しました。作業後はさまざまな年代の素敵な"不良"のみなさんと語らいながら泡盛で乾杯! とたいへん有意義なひとときをすごしました。

◆ありがたいことに今年は仕事としてフィリピン、スペイン、ペルー、アルゼンチン、ベネズエラに滞在する予定です。年末年始にはギアナ高地のアウヤンテプイに登り、愛してやまない落差世界一の滝エンジェルフォールズの上に立ち、負け犬の遠吠えを世界に轟かせます。世界のどこかでなにかをやらかすごとに逐一通信にご報告させていただきます。また、帰国して関ヶ原を越え、東下りするごとに報告会にも発送作業にも参加させていただきます。これからもよろしくおねがいします。
http://kiokitok.hp.infoseek.co.jp


●先月の報告者鰐渕渉さんから…2004.5.5《E-mail》

◆こんにちは、江本さん。鰐渕です。昨日、徒歩旅の出発点となった、長崎県・小佐々町の本土最西端、神崎鼻を再訪してきました。出発の時と同じ、雨上がりで風の強い岬に改めて立つと、様々な想いがよみがえってきます。ここから約3800Km先の納沙布岬から持ち帰った小石を、神崎鼻の海へと放ちました。本当に歩き切ったのだなという充実感を再び味わうと共に、これで西から東へ、東から西へと繋ぐ旅の締め括りとなりました。




そういえば、こんなことも…。地平線会議1/4世紀こぼれ話

◆「地平線会議」が発足したとき、ぼくは「報告会」を担当しました。この「報告会」の元になったのが「あむかす集会」です。偉大なる民俗学者であり、偉大なる旅人でもあった宮本常一先生のつくられた日本観光文化研究所にぼくは足繁く出入りしていましたが、そこでは月刊の『あるくみるきく』を出していました。

◆「あるくみるきく・あめーばー集団」を略しての「あむかす」。毎月1度の「あむかす集会」では、旅人としての目を養おうと植物や鉱物、地質などの専門家を講師に招き、話を聞いたあとは講師の先生と一緒にフィールドワークに出るというものでした。これがけっこうおもしろいもので、ぼくはこの「あむかす集会」を担当していました。

◆で、地平線会議が誕生し、ぼくが毎月の報告会を担当するようになったとき、「あむかす集会」の手法、ノウハウなどをそっくりそのまんま取り入れることにしたのです。ハガキ通信の発想も、アジア会館を会場として使ったのも「あむかす集会」ゆずりのものでした。報告会の初期のころは、「あむかす集会」に参加してくれた方々が多く来てくれました。ほんとうにありがたいことなのですが、いまだに来つづけてくれている方もいます。

◆「地平線会議」発足時のメンバーをみると、宮本千晴さん、向後元彦さん、三輪主彦さん、伊藤幸司さん、岡村隆さんと、ぼくを含め、なんと6人もが「あむかす」のメンバーでした。「あむかす」以外といえば、江本さんと森田靖郎さんだけです。

◆宮本常一先生は1981年1月30日に亡くなられました。それから8年後の1989年3月31日に「あむかす」の母体となった日本観光文化研究所も閉鎖されました。宮本先生は亡くなられたあとも、多方面に大きな影響を与えつづけていますが、地平線会議にも、地平線会議の報告会にも、その流れは脈々と流れ、伝わっているのです。若き冒険家が大好きな宮本先生だっただけに、地平線会議の諸活動、さらには今年11月の第300回目の報告会などは、きっとあの世で大いに喜んでくれることでしょう。(つづく)[賀曽利隆]


地平線報告会、ついに大阪で開催!!

 突然ですが、大阪で地平線報告会をやります。それも、南米縦断リヤカー行、8800キロの旅から帰国したばかりの永瀬忠志さんを報告者に迎えて。

■日時:6月6日 午後3時から6時まで(報告会) 6時から9時頃まで(2次会)

■場所:会議室ミニヨン(大阪市北区神山町2-1 Tel 06-6312-3385)
    http://www8.ocn.ne.jp/~mignon/ 大阪駅から徒歩10分の場所です(仮予約済み)

■会場費:500円(ただし不足した場合にはカンパをお願いするかもしれません)

■問い合わせ  E-mail :

以下、世話人の岸本佳則さんのメッセージ。

◆1996年8月に神戸集会を開いて以降、全国各地で報告会が開催されてきました。それぞれの報告会はどれも印象深く皆さんの記憶に残っていることと思います。また、東京以外で報告会を開くことも今では特別なことではなくなりました。

◆ここ数年、大阪では江本さんが来られた際に地平線のメンバーが集まって飲み会を開くことが半ば定例化してきました。通信復刻プロジェクトにも関西在住の方が何人もいるように、東京の報告会には出席できなくても地平線会議との接点をもたれている人が関西で増えてきていると感じていました。

◆今年の秋には東京で25周年の記念集会が開かれるわけですが、関西在住で大集会に参加したいと思っている人が大勢おられ、準備するとなれば協力していただけるに違いない人の顔が何人も思い浮かぶのであれば、8年ぶりに関西で報告会を開いても良いのではないか。神戸集会が終わって以降ずっと皆さんから言われ続けてきていた、「次はいつ関西で報告会を開くの?」という質問にようやくこたえられる時が来たようです。

◆ということで、江本さんと相談して突然ですが6月6日日曜日に大阪で報告会を開くことを決めました。東京ではいつもの通り6月に報告会は開かれますが、月に2回報告会があっても良いのではないかと思っています。[岸本佳則]

永瀬忠志さんについて

◆ご存知アフリカをリヤカーを曳いて徒歩で横断した猛者。03年6月から04年3月までベネズェラからアルゼンチンまで8800キロをリヤカー「田吾作4号」を曳いて南米大陸縦断を果たし、このほど帰国。オーストラリア、2度に及んだアフリカ、そしてアジアの国々、最後に南米大陸。いずれも「田吾作号」を曳いての歩き旅。48歳になった永瀬さんの旅の全容は、興味深々ですが、今回の旅について本人いわく、「動物との遭遇に緊張しました」。とりわけ、ワニ。そして、蟻。いったい何が…?[Emo]



松田仁志さん、驚異のサブスリー22回達成!!

◆地平線のウェブサイトを置かせていただくサーバーを管理する松田仁志さん(48)が4月11日の長野マラソンを「2時間58分12秒」で走り、なんと22回目のサブ・スリーを達成した。サブスリーとは、フルマラソンで3時間を切るランナーのことで、地平線会議最強を誇る三輪主彦も2回しかやっていない(江本は1度も。ぐすん)。これは、すっごいことです。[Emo]

▼松田仁志のフルマラソンデータ▼出場回数:37回▼うち完走34回(途中リタイア3回)▼ベストタイム:2時間43分32秒(1987年防府読売マラソン)▼サブスリー回数:22回



地平線会議発足25周年・
地平線報告会300回記念大集会のお知らせ

◆1979年8月17日に誕生した地平線会議は、この夏で25周年を迎え、同じく9月24日に第1回をスタートさせた地平線報告会は、まもなく300回を越えようとしています。

◆振り返って、多くの人に支えられてきたとはいえ、よくもまあ、途切れることなく続けてこれたものだ、と世話人一同、いささか感慨があります。

◆このふたつを記念して、以下のように、大集会を開くことを決めました。具体的な内容は、今後、随時お知らせします。東京周辺の皆さんは勿論、遠くに住んでいて、普段は参加できなかった人たちに、是非馳せ参じてほしい、とお願い致します。素晴らしい内容になる予定です。どうか今から、カレンダーに書き入れておいてください。

  日 時 2004年11月7日(日) 全日

  場 所 新宿区立牛込箪笥地域センター大ホール(400人収容の立派なホールです)
      新宿区箪笥町15 Tel: 3260-3677

  交 通 都営大江戸線牛込神楽坂駅下車1分(ほとんど駅の真上です)




■今月の地平線報告会の案内(絵:長野亮之介/文:江本嘉伸)
地平線通信裏表紙

大内宿にかけた青春

5月28日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

昭和42年9月27日、武蔵野美術大学建築学科4年に籍を置くひとりの若者が、その村にはじめてやって来ました。「中に足を踏み入れて、腰が抜けるほど驚いた」と、大学生は後に回想します。道をはさんで40軒ほどの大きな草屋根の家が建ち並ぶ風景は、まさに江戸時代の宿場そのままだったのです。

福島県南会津郡下郷町大内。その最初の強烈な印象は、「命の続く限り大内に通う」と、若者に決心させます。日本中が茅葺屋根を貧困の象徴と捉え、トタン屋根に変え、「鉄筋コンクリートこそ最高建築」という神話が蔓延した昭和の後半、若者は「この宿場、残して!」と村人やお役所に訴える行動をとりました。

いま大内は、その美しい茅葺屋根を見たい人々が年間80万人も訪れる、希有な村となりました。5月の報告会は、まさに青春をかけて宿場の村と関ってきた相澤韶男(つぐお)さんに来ていただき、大内宿への思いを語って頂きます。


先月の発送請負人 関根晧博 森井祐介 村田忠彦 片岡恭子 川堺恵生 三輪主彦 藤原和枝 武田力 江本嘉伸


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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