2004年1月の地平線通信



■1月の地平線通信・290号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙けましておめでとうございます。誕生から4分の1世紀、秋には300回目の報告会を迎える地平線会議を、格別にことしはよろしく!

●12月の報告会の中で恵谷治が言っていたように、地平線会議は発足当初「行動者の記録」に重点を置いていた。冒険・探検年報「地平線から」の制作は、その中核となるもので、最初の一冊176ページの「地平線から 1979」が出来上がった時(1980年11月末だった)の嬉しさは、いまもよく覚えている。

●年報はその後も充実し、厚みを増していったが、同時に次第に負担感も増えた。地球を行動する人々のすべてを記録する意気込みだったのだが、私たちの狭い網の目でとらえるには、日本人、そして海外の冒険者たちの行動、情報量は多すぎ、何よりも、つくり手自身が地球の果てめざして飛び出したい人間たちばかりだった。年報「地平線から」は、1990年に出した「第8巻」で休刊した。その後の軌跡を埋めるべく年報に代わる分厚い「DAS」が1996年に丸山純を中心に発行されたのは、ご存知の通りである。

●そのかわり、地平線報告会は1度も休むことなく開かれ、この「地平線通信」も1号も欠かさず発行されてきた。それだけではない、パソコンを早い時期に取り入れた丸山君のおかげで、いまでは、立派なホームページも出来ていて(「地平線通信メモリアル」をクリックしてみると、昔出していたはがきの通信を見ることができます。ふんどし姿の賀曽利隆を描いた、あの頃の長野亮之介画伯の名作も)、その内容は思わず自慢したくなるほどのものだ。

●活字年報という意味での「記録」は休んだままだが、人々の行動は、報告会の場で、通信のかたちで、そして電子情報として、連綿と記録され続けている。何よりもおもしろいのは、新しい旅人たちが来ることである。時には、知った顔がいない、とさびしい気分になる古顔もいるかもしれない。地平線会議は変わった、と思うかもしれない。が、実はそれでこそ地平線会議なのだ。

●日々、新たな時間が世界には流れている。知らない場所にひかれて人々が次々に旅立ち、何かをその身にたたえて帰り、私たちに話してくれる。大事なことは、地平線会議としてあり続けること、それに尽きるのではないか。

●1979年8月17日、四谷の私の家に世話人たちが集まり、夜を徹して「地平線会議」という名前を決めた時の独特の熱気を、時に思い出す。独特の、と言ったのは、皆、結構この手の試みをしてきた人たちで、内心こりゃ大変なことになったぞ、という思いを噛みしめつつ新たな挑戦をおもしろがっていたからだ。

●5年後、10年後はどうなってるかな、と言いながら始めた地平線会議。「発足25周年、報告会300回」を記念して、今年はいくつかの試みをやる予定だ。そのひとつは、この通信で丸山君が表明してくれている。他のことは、来月以降、徐々に。

●地平線会議を仲間と発足させた時、38才だった私は、いま63才になった。信じられない年令であるが(実は来年百周年を迎える日本山岳会6000人会員の平均年令でもある)、そろそろ次世代に引き継いで消える、なんて気は、目下はない。なぜなら、地平線会議はおもしろいから。三輪主彦や賀曽利隆など元気なベテランが張り合っている地平線では、誰もなかなかいい年寄りになれない。

●近況を少し。「国際山岳年」のまとめ本「われらみな、山の民」が、ようやく2月中には出来上がり、この4月には、「山」の問題を今後10年は追い続けようと、山の仲間や学者たちと「YAMA-NET-JAPAN」を立ち上げる計画だ。まったく関係ないことだが、2日間、12時間に及ぶキビシイ受講の末、1月16日には「甲種防火管理者」の認定証を得るという、輝かしい成果をあげもした(これは、マンション管理組合理事長をさせられている故の義務なんである。トホホ)。では、2004年に乾杯!![江本嘉伸]


地平線はみだし情報 神田道夫さんと石川直樹さんが太平洋横断に挑戦する熱気球「天の川2号」、今月6日に続き19日にも離陸



先月の報告会から(報告会レポート・292)
この素晴らしき世界
惠谷治
2003.12.26(金) 新宿榎町地域センター

◆北朝鮮は、核を持っているのか−。恵谷治氏の報告は、前宣伝通り北朝鮮の核兵器問題を中心に語られた。12月はじめまでロシアで行なった今回の取材の結論は‥?

◆氏はロシア在住の7人の専門家と接触を図った。幸運にも七件すべて、アポが取れた。そして7人全員が北の核の存在を否定した。世界の旧共産圏から学生・研究者を受け容れていたドゥブナ国際研究所の副所長は「北の学生は教育水準が低く話にならなかった」と言うし、クルチャトフ核研究所の関係者も北の技術の低さ、経済的困窮をあげつらった。しかし、北の脅威を低く見積もらせて日本の核武装を防ぐための政治的発言ではないか‥。「世界の話題は『日本はいつ核武装するのか』ということだ。日本国内の核に対する強い反発の空気は、全く世界に伝わっていない」

◆そんな氏が北の核武装を疑問視したきっかけは、エリツィン時代にエネルギー相を務めたミハイロフ氏と会った時だった。

◆気分屋と言われる、口の重い元大臣から本音を引き出すべく、氏は遠回りに話を始めた。話題がKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)に及ぶと、突然元大臣が饒舌になった。「KEDOにロシアを入れないのはけしからん」。そうか、それを訴えたくて会見を許したのか……。一気に質問した。「北の核についてどう思われますか」「そんなもん、あるわけない」明快すぎる。政治的意図のある発言ではないのか…。が、次の言葉が鍵となった。「しかしダーティーボムの可能性は充分にあるから、北の脅威に変わりはない」

◆北朝鮮の脅威を低く見積もらせるための発言ではない。純粋に北の核保有の可能性を論じているのだ!ダーティーボムとは放射性物質をまき散らし目標一帯を汚染する、いわば核爆発しない核兵器である。原爆の惨禍はないが、放射能汚染された土地は復旧困難、しかも製造ははるかに容易である。

◆インタビューした7人のうち3人がダーティーボムの可能性を指摘した。「彼らの話に政治的意図はない。北は核を持っていないのだ。それをあたかも保有しているかの如く見せかけ、外交カードに使うのが北の計略だ。『北は核を2発持っている』と自分はさんざん言ってきたが、北の計略にまんまとはまっていたのだ」持論と一転して「北に核はない」の結論。重大な見解が地平線報告会で明らかにされたことになる。

◆後半は、「政治的秘境」を追い続けてきた恵谷さんのダイナミックな半生が語られた。行動早稲田大学で探検部に入部し、三原山の火口探検やナイル源流の探索に行ったが、より危険の中に身を置くことを求めた。予測できる危険にきちんと対処できる人間になりたかったという。報道者としてエリトリア解放戦線のゲリラに飛び込んだ。スパイではないかとの疑いを晴らすのに3ヶ月かかった。ようやくゲリラ組織に入り込む。ゲリラは恵谷青年が行軍についていける体力を持っているか値踏みする。恵谷青年はゲリラが本当に自分を守ってくれるか観察する。そして初めての出撃。ついに人間を認められたことが嬉しかった。

◆「砂漠からサバンナへ・独立の火を追って」とのタイトルで第2回地平線報告会で話をしたその直後に、ソ連がアフガンに侵攻。1980年代にはアフガンに何度か潜入した。バックアップはない。自分しか頼れるものはない。やることはいつも同じ、自分を認めさせる事だ。

◆世界中で多く使われているのはソ連製の武器だ。ソ連製は構造がシンプルで扱いやすい。そのソ連邦には 3回(連邦崩壊後も3回)入った。警察組織の目が光っている当時のソ連で、。唯一ソ連軍の武器を撮影できるチャンスである革命記念日の軍事パレードで、警察に目を付けられながら、命懸けでシャッターを切った。チェルノブイリ原発事故の際には、放射能測定器を手に現地へ飛んだ。報道関係者は近づくことが禁じられていたため観光客として空港に降り立ったが、空港に降りたって早々、測定器は強い放射能の存在を告げた。逮捕の危険を冒して植物や土のサンプルを採取した。

◆グラスノスチとともに氏の10年かかって収集してきた情報は誰でも知り得るものとなってしまった。氏はすぐさま対象を北朝鮮に切り替えた。広大なソ連に較べれば小さい。頭に叩き込むべき地理も人名も少ない。北朝鮮を専門とする人々は北の情報が少ないと言うが、旧ソ連と比べれば、情報は遙かに入手しやすい、と氏は言う。

◆どんな場所に行くにも、行く前はひたすら情報を集める。「マニアックに」集める。そして文字を覚える。文字を覚えて単語の音が読めるようになれば、発音、語彙、文法はついてくる、という。あるときアフガンのゲリラに同行していて、兵士が書類を読んでいるのに気づいた。それを覗き込み、地名と数字が書かれていることを知った。各地の兵員数が書かれていたのだ。彼らは字を読めないと思っているから気にしないが、字が読めれば、こうした貴重な情報も入る。

◆ホットニュースの「フセイン拘束」について質問され、氏はこの一件を「米軍の情報分析の勝利だ」と見る。一人の人間がある瞬間に決定的な情報をもたらしたのではなく、少しずつ情報が集まり、ついに候補が絞られたので作戦を敢行したと見る。米軍の情報分析がそれほど優れているなら、どうしてビン・ラディンは捕まらないのか、との問いには地形の差を指摘した。ビン・ラディンは山に逃げ込んだ。フセインは里にいた。

◆私が恵谷さんの報告をリポートするのは2度目だが、詳細な情報をもとに機密に迫る報告会はサスペンス小説さながらの緊張感にあふれる。小説と決定的に違うのは、これが恵谷治という実在の人間が身を危険にさらして集めてきた事実だという点だ。報告会後、榎町地域センターを出てシガーに火を付けた恵谷さんに銘柄を訊くと、「ピースだ」と言ってshort peaceのブルーのパッケージを見せてくれた。静かに煙草をくゆらす姿は、やはり「veteran」そのものであった。[松尾直樹]

地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け付けています。
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●鰐淵歩さんから…2004.1.6…青森県・大間崎発

鰐淵さんは8月13日、日本最西端の長崎県神崎鼻を出発、冬とともに北上していた。1年前の「地平線会議イン四万十」にわずか2時間参加するため大阪からバイクで往復したつわもの

◆こんにちは、鰐淵です。11時32分、本州最北端、下北半島の大間崎に到達しました!東京・日本橋より40日目。とうとうここまで来たゾという思いで胸が熱くなっています。明日いよいよ北海道に上陸します。今まで以上の厳しい旅になりますが、僕自身充実感に満ちた旅にしていきたいです!

◆(どんなところに泊まるの?との問い合わせに対して)こんばんは。早速お返事いただきとても嬉しいです。さて宿泊ですが、今も野宿が中心です。主に無人駅やバス停、道の待合室を利用しています。もちろん終発後就寝・始発前起床の原則を守ってですが。少し疲れたかなと思った時や、今日のような節目の記念日のような時には、健康ランドや安宿を利用します。時には親切な方に誘われて、家に泊めていただいたり、友人の家を訪ねる事もありました。ここまでの気候ですが、幸運も重なったのか、地元の人も驚くくらい雪に会う機会が少なくて済みました。

◆下北半島を北上し、夕日に浮かぶ津軽海峡、そして北海道の大地が見えた時には、思わず叫んでしまいましたよ! 大畑では寝られる場所がなかなか見つからなかったのですが、たまたま寄った町内の銭湯で、そこの主人のご厚意で、銭湯の中に泊めさせていただきました。また道中に寄った豆腐屋では、開店前に偶然店主とお会いし、暖かい食事を食べさせてもらったりと、本当によくしていただきました。出会いというものの素晴らしさを感じる、そんな下北半島の旅でした。


●山本千夏さんから

◆シン ジリーン バヤル メンドフルゲイー!(新年あけましておめでとうございます)厳寒-30度のウランバートル「自由の広場」では12月27日から氷祭を開催中です。

◆モンゴルで起業した我ら「モンゴルホライズン」も設立3年目を迎えます。江本さんに御紹介いただいたゴルバンゴル計画の通訳デビューから数えると、モンゴルに関わる仕事をして、早12年が過ぎました。通訳・翻訳・映像制作・取材手配など、かの地で稼いだ貯金を元手に会社を起こし、モンゴルの人達に社会貢献したいと、精進する毎日です。モンゴル各地に環境保全活動をする仲間も増え、地元民と一緒にエコツアーを企画したりと、共に歩む道もひらけてきました。地平線会議の皆さんとの掛け橋になる活動に成長できればいいですね。

◆挨拶ついでにちょっと宣伝。去年の9月に私達がモンゴルロケを手配した映画「解夏(げげ)」が東宝映画系で1月17日から全国ロードショーです。私は関係者試写会で見て、感動にむせび泣き、席を立てませんでした。久々に人生をくつがえす名作に出会った感じ。劇場を出てからの景色を見る目が激変しました。エンドロールに私の名前やモンゴルの仲間達の名前も出ます。最後までごゆっくり堪能して下さい。私の奮闘記は http://mongolhorizon.hp.infoseek.co.jpでもご覧いただけます。では、バヤルタイ!



2004年正月、屋久島地平線冬景色

●鈴木博子さんから…2004.1.7…屋久島発

その1 自転車で屋久島へ

◆12月11日、以前から行きたかった“聖地”屋久島を目指し、愛自転車タマキ号と共に冒険は始まった。空は青く澄み渡っていた。母と姉、甥に見送られ、知っている道を軽快に走り出した。日の短いこの時期、日が昇ったと同時に出発しても行動できる時間は10時間。真っ暗闇で走るつもりはなく、日に平均100キロを目安に走るつもりでいた。短い距離を、とまずは三重県、奈良県と通り抜け大阪を目指すルートを選んだ。

◆日々行き着く先は健康ランド、ユースホステル、サイクリングターミナル、民宿、友達の家、とその場その時で行き着くままに安宿を見つけては泊まり、毎日毎日距離をかせぎながら、ただ南に進んだ。

◆山口県岩国市では、大粒の雪で前に進めぬ苦悩を味わい、風と戦い、寒さに絶句し、雨よ降るなと神に願った。寒さ、これは風、雨、雪に続く最高の凹み要素だった。大阪からは瀬戸内海側の国道2号線で下関まで行き、それから九州に入った。冬場でどこのユースに寄っても人は少なく、寒さが余計に身にしみた。疲れきり、誰とも話さない日が続くこともあった。人の暖かさに感じるよりも冬の寒さに打ち砕かれ、「私は何してるのだろう」とほんやり思ったりした。結局、鹿児島まで全走行距離1300キロを15日かかってしまった。遅いか早いかはわからないまま、しかし、年末までに屋久島に行くという目標は叶えられそうだった。そして12月26日、フェリーでタマキ号と共に屋久島に無事たどり着き、心身共に疲れきった体を抱き、涙と流した。やっぱり、来て良かった‥‥。

その2 奇遇 

◆ようやくたどり着いた屋久島。そこには思いもせぬことが待っていた。到着して2 日目、同宿の人に誘われ、その日は朝早くから縄文杉を見るためにトレッキングに出かけていた。縄文杉は樹齢7000年とも言われ、もちろん世界自然遺産に指定されている場所。周りの木々は苔むし、腐り倒れてしまった木も趣をかもし出している。そこまでの道のり5時間も忘れる素晴らしさだった。

◆さて、そんな感動を受けて、もちろん疲れも伴って宿に帰り、おばちゃんにそのことを伝えていると、どこからか「鈴木さん!」の一言が‥。“なんだなんだ、私のことかしら?しかしこの人なぜ私の名を知っているのだろう??”と振り向いた。“ウムッ? どこかで見たことが‥、そうだ、この人は10月の山岳耐久レースに一緒に参加した地平線の‥?”「理子さん?」。そうなのです、まだ二回しか会ってはいないけど、確かに山岳レースの時に地平線アスリートとして江本さんにしごかれ、メールで励ましあった仲間であるのではないか!

◆この広い地球で、広い日本で出会ったことでさえも奇跡なのに、同じ時期に屋久島という周囲105キロの小さな島で、しかもいくつもある宿の中で、同じ宿で再会するとは、それこそ考えられない出来事であった。これはまさしく運命としか思われず、ただただ感嘆するばかりだった‥。

その3 元日の105キロ挑戦 

◆屋久島に到着して、街の電柱に「屋久島一周歩こう!」のチラシが貼ってあるのに気づいていた。1月1日という年のはじめにまず一歩、いい踏み出しをするにはチャンスだと出場を密かに悩んでいたのだった。そして、この偶然。地平線の、しかも山岳レースを共に頑張った仲間が来たのである。それは《出ろ》ということに間違いない。早速理子さんを誘い、また無謀な挑戦を決心したのだった。

◆1月1日、年が明けた昼12時、遥かな苦しみのは始まった。装備も服装もろくになく、トレーニングも10月以来していない、飛び入りの無茶な挑戦であった。新年早々物好きな参加者は51名。子供もいる。この大会は全くの個人主催の“歩こう!”会。 制限時間もない。屋久島という土地柄、家も人も少ない。よりによって正月である。誰も外なんか出ない。もちろん街路灯などというものはない。

◆ 日が落ちた暗闇からは絶え間なく猿と鹿の鳴き声が聞こえる。 怖い、困った。たった一人、ただひたすらに前に進むほかないのだ。 車が来ると怖くて端によけ、人の気配があればドキドキし、ものすごい夜を過ごした。夜がふけると眠気も増し、足は限界を超えていた。なんでこんなに辛いのだろう。体全身に電気が入ったように足の裏から疲労が伝わる。身震いが起きる。 腰がくだけそうになる。涙がでる。だけども、朝を迎えることとなっても、足を止めるわけにはいかない‥。 結局、2日午前4時47分、無事ゴール(総合2位だった)したが、 山岳レースの時の笑う元気もないほどに体が砕け散ってしまっていた。16時間47分、本当に辛かった。疲れ果てた。勿論コースは山岳山岳耐久レースのほうがきつかったはずであるが、トレーニングなしではやはり甘い挑戦だったらしく、あの時よりも遥かに苦しい思いをしてしまった。

◆途中、これまた地平線の仲間で屋久島に住んでいる野々山さんが応援に駆けつけてくれた。前日に江本さんのはからいで連絡をとってお会いしており、以前に出場された時の経験からたくさんの助言を頂いていた。ほんとにありがたい。一つ一つの小さなサポーターたちの応援が私の足をどうにかゴールに導いてくれ、地平線アスリートのプライドが棄権を許してくれなかった気がします。またほと覚めやらぬ気持ちでいますが、やっぱり参加してよかったと思うのです。もちろんその思いは理子さんも同じで、2人とも晴れ晴れした気持ちでいい正月を迎えた。

その4 まだ歩いている! 

◆さて、理子さんが帰り、私は体を癒そうと2日の午後9時温泉に向かった。もう自分がゴールして20時間が過ぎていた。「屋久島一周歩こうや」はもう自分の中で完結したつもりでいた。しかし、見つけてしまったのだ。足をひきずり、ゆっくりゆっくり潰れそうな瞼と今にも倒れそうな蒼白な顔をして歩いている人たちを。そう、「屋久島一周歩こうや」はまだ終わっていなかったのである。ゆっくりゆっくり…。

◆涙が溢れて止まらなかった。36時間以上も歩きつづけているのである。どうしてあそこまで出来るのだろうか‥。どこからあの精神力はやってくるのだろうか。自分の苦しみよりも遥かに辛いだろう人々の姿をみ、やはり元気づけられ、同時に心が痛んだのだった。ほんとうに参加してよかった…。結局最後の人は、スタートしてからまさに38時間37分が過ぎていたのだった。最年少は12歳。頑張ることは決して無駄にならない。また一つ勉強になったのだった。

◆たくさんの奇跡が起こった年末年始。地平線の出会いがキッカケをサインに変えてくれた。たくさんの出会いはいつか自分を支えてくれる武器になる。自然の地で自然を感じ、愛を感じ、いっぱいのエネルギーをもらった。最高の正月を迎えられた。みなさん、改めて「あけましておめでとうございます」。


●尾崎理子さんから…2004.1.4《E-mail》…105キロでは19時間台で、なんと「7位」に!

◆私、やっと屋久島より帰ってまいりました。ちょっと死んでおりましたが、今日やっと復活しました。実は実は、博子嬢よりご報告の通り二人は、「屋久島、島一周歩こうや 105キロ」に参加して完走いたしました!!(きゃーうれしい)

◆まず、二人が島で再会したこと事体に驚き毎日民宿に新しいお客がくるたびに、二人の出会いを熱く語り、楽しく過ごしていたのですが博子さんから「屋久島、島一周歩こう」に参加しましょ?との誘いがあり翌日には参加の決心をしておりました。ムフフ、元旦から「地平アスリート」の皆を驚かそうよ!と二人でニヤニヤ野々山さんにお会いして、「島一周」の内容を聞いたり、相談しながら「皆には完走するまで内緒です」とグルになっていただきました。二人でコソコソして楽しかった! 

◆けれど、完歩できるなんて思っていませんでした。何よりも私は、スタート時間から25 時間後に帰りの高速船に乗らなきゃならないという大きな問題があり明るいうちは、写真を撮ったり楽しみを噛み締めて参加しておったのですが、暗くなるとすっかり意気消沈。博子さんと完走を喜び合う余裕も無く、疲れ果てて帰り支度。どっちかといえば、「完走」できたという感動より、「船に間に合った」という感覚が強く(笑)せっかくの体験をもったいないことをしたなぁ、と随分後悔しております。博子ちゃんごめんねー。

◆しかし、屋久島はイイ!!!! 夏に行けなかったので、無理やり冬に行くことにしたけれどいつ行ってもイイ! 屋久島には何かパワーというかマジックというか不思議な力が作用する場所だと思います。博子さんと再会できたことも、島を一周出来たこともそれ以外にも沢山自然の恩恵を肌で感じて生活でき、全てがダイナミックで五感が解放される。皆様おすすめです。

◆それはそうと、105キロ完歩して博子さんは山岳レースの時のほうが鍛えていたということもあるが今回のほうが辛かったと言ってたけれど? 私は山岳レースの第一関門のほうが辛かったようなぁ。やっぱりコンクリート105キロより、奥多摩72キロのほうが大変じゃないですか? 江本さん。


●野々山富雄さんから…2004.1.3…屋久島発

◆屋久島のNONO、野々山です。年末年始もこちらはお客さんが多く、大晦日も正月も山のガイドは忙しかったです。まあ有り難い事ですが。元旦には恒例の「歩いてみよや屋久島一周」があり、地平線の鈴木、尾崎御両名が参加してくれました。さすが地平線アスリート、以前のオレよりもはるかに速いタイムで一周105キロを完歩です。ちょっとオレの面目ない。屋久島はこれから冬篭り。仕事もオフです。でオレはと言うと、いきなり話が来て、8日から2週間ほどアフリカに行くことになりました。NGO の派遣でブルキナファソに。大変そうだけど楽しみです。



地平線ポスト・続き

●横内宏美さんから…2004.1.11…ラサから帰国したばかり チベット語習得中

◆あこがれのラサに行ってきました。すごいですよー、ラサ。「街のどこからでも見えるはず」だったポタラ宮なんて、街のどこからもかけらも見えなくなるほど、ビルとテレビ塔が乱立してるし、車の排気ガスとホコリとセメント工場の排煙で、街がかすむほど空気悪いし、西暦元旦には、ポタラ宮屋上に赤い旗が翻り、ポタラ宮広場では「新車展示試乗会」が催され、舗装されたバルコルには緑色のゴミ箱が点在し、セラ寺のすぐそばまで分譲住宅が立ち並び、街中いたるところ「火鍋」の看板が軒を連ね‥。(そのうち「ラサの名物料理」として紹介されるようになるかも…)そうそう、 西川一三さん(注「秘境西域8年の潜行」の著者)を脅かした悪名高きノラ犬なんて、昼だって夜だって一匹もいやしません。今のラサの様子をみたら、西川さんは、いやいや江本さんだって「ここはどこ?」って思うに違いない。

◆ご関心の鉄道、バリバリ作ってますよ。ラサからナクチュまでの青蔵公路沿いしかみてませんけど、台座部分が途切れなく出来上がっています。トンネルも何箇所か作ってるみたいです。工事は冬季休業中だったけれど、テレビでは、新車両の実験みたいなのが、こんなにすばらしく進んでますっ!ってのを何度かやってましたよ。なんかねー、今の中国って、オリンピックに向けてなんだと思うんだけど、とにかく「盛り上がりまくりっ!!!」って雰囲気ですよ(チベットは地域的に世界へのアピール度が高いから、その最先端に盛り込まれてるって風です。ナムツォに観光船を浮かべる計画があったそうです!!ぽしゃったけど)。

◆「最新」といえば、やはりゴンカル空港新ターミナルでしょう。私の成都戻り2日前くらいにオープンしたという新ターミナルは、ガラス窓からサンサンとふりそそぐチベットの太陽光線効果も手伝い、眩しいくらいにぴっかぴかでした。白を基調とした建物で、壁にはしゃれた(?)レリーフなぞ飾ってあったりして。こういう「新しいもの」は良いですね。チベットの人々も、中国の人々も、とてもうれしそうに、ちょっと誇らしげに見えましたよ。なんてったって、「暖房」ですよ、だんぼう!トイレだって、ここはどこ?ってくらい美しい。洗面台の蛇口なんて、自動水栓ですよっ!「変わりゆくラサ」は間違いないけれど、そりゃー中国人はわんさといるけれど、でも、チベット人はいつでもどこでも見事に「チベット人」でした。チベット人がいる限りチベットはなくならない、と確信した旅でもありました。ああ、またチベットへ行きたいな〜。



河田真智子写真展

生きる喜び ??脳障害児の16年??
「娘を守って生きてきたつもりが、実は支えられて生きてきたのだと気づきます」

◆島旅作家、地平線会議発足当初からの仲間である河田真智子さんが、夏帆さんをテーマに3月、写真展をやることになりました。地平線会議の皆さんには、是非予定にいれておいて頂きたいとのことです。

■開催期間:2004年3月16日(火)〜3月29日(月)の2週間

■開催場所:新宿ニコンサロン TEL03-3344-0565 新宿エルタワー28階(地下鉄A17出口)作品62点

◆最重度の脳障害を持って生まれてきた娘・夏帆の16年間の生活記録です。

◆娘が生まれたあとも、自分のライフワークである“島”に通い続けてきました。思春期を迎えた娘のこの1年は、車イスの転倒転落事故、誤飲による呼吸困難での入院と生きてゆくことのトラブルが続き、まわりを見回してみると娘の“戦友”たちが生き残っていないという現実に気づきました。娘のささやかな存在の価値を伝えたいと思います。

◆娘を守って生きてきたつもりが、実は支えられて生きてきたのだと気づきます。座位のとれない子を特別注文の車イスに乗せて旅してみると、それはまわりの人に迷惑をかけている旅ではなく、勇気を振りまいている旅なのかもしれないと思えるようになりました。“島”に育てられた娘を見ていると“生きる喜び”に溢れています。

◆今、辛い思いが心の中にある方にも、きっと元気になれる写真展でありたいと思っています。

作者略歴:かわだまちこ 島旅作家 島旅カメラマン(本名 榊原真智子)
◆1953年東京生まれ。成蹊大学文学部卒業後、出版社編集部を経て1980年、独立。1978年より島の愛好家集団「ぐるーぷ・あいらんだあ」を主宰、機関誌「あいらんだあ」を発行。1987年に生まれた娘の夏帆(なつほ)が重度の障害をもって生まれ、娘との車イスの旅も続ける。1991年より8年間、障害児を育てながら仕事をする母親のネットワーク「マザー・アンド・マザー」を主宰。主な著書に 『島を歩く』(ゆう出版局)、『島が好き 海が好き』(新潮社)、『島からの手紙』(クロスロード)、『島旅の楽しみ方』(山海堂)、『南の島へ』(三笠書房)など。



地平線通信全号復刻プロジェクト
手伝ってくださる方を大募集!
79年9月号からの全号を手分けして読み込んで、この秋「総集編」を刊行

●1979年の9月から欠かさず毎月発行しているこの『地平線通信』も、いよいよ今月で290号を迎えましたが、最初はガリ版刷りの葉書通信だったこと、みなさんご存知でしょうか。毎月届くたった1枚の葉書だけが、地平線の仲間たちをつないでいたんです。

●その後しだいにカットやイラスト入りのものが混じりはじめ、長野亮之介画伯の手になる本格的なイラストが登場したのが、84年12月の第62号から。さらに86年の第75号からいまと同じB5版4ページ(ときどき増ページあり)のワープロ打ちのスタイルになり、現在に至ります。

●題字やイラスト(報告会の案内)はもちろん、1ページ目の書き下ろしの「フロント」や前月の地平線報告会のレポート、旅先から「地平線ポスト」に届いたお便りなど、地平線通信には地平線会議の歴史がぎっしり詰まっています。でも、海外に長くいるあいだに届いた分をはじめ、どうしても散逸しやすく、全部をきれいにそろえて保管している人など、一人としていないはず。

●そこで、この秋に300号&25周年という区切りを迎えるのを機会に、過去の地平線通信の「総集編」を作ってみようと思い立ちました。何人かの保管分を持ち寄れば、なんとか全号そろいそうです。それを印刷屋さんに持っていけば本にしてくれますが、見積もりをとってみたところ、けっこうなお金がかかることがわかりました。ページ数が膨大(約1000ページ)になってしまうことが第一ですが、折られて手元に届くのでその折り目の部分が汚くならないように修正したり、ページの曲がりや濃度がまちまちで印刷されたのを整えたりするのにも、かなりの手間がかかるのだとか。

●そこで思いついたのが、人海戦術でこれを乗り切ってしまえ、というアイデア。パソコンが普及し、みなさんのなかにもフラットベッドスキャナーや画像処理ソフトをお持ちの方も少なくないことでしょう。みんなで手分けをして地平線通信の各号をスキャンし、画像データにしてしまえば、版下を作らずにデータを直接印刷機に転送して、低コストで印刷することができます。増刷するのも簡単だし、PDFなどの形で電子出版することも可能です。

●ということで、「地平線通信全号復刻プロジェクト」に参加してくださる方を大々的に募集します。具体的には、[1]600dpi以上の光学解像度を持ったフラットベッドスキャナーを持っている方、[2]消しゴムツールの用意されたグラフィックソフトが使える方(簡単なものでも十分)、[3]CD-RやMO、あるいはEmailなど、データのやりとりができるなんらかの手段を持っている方、です。スキャナーはないけどソフトがあるから補正作業だけ手伝ってあげる、という方も大歓迎。熱意さえあれば、パソコンの知識があまりなくてもOKです。1号分だけでも分担していただけると助かります。

●2月末までにどの号がどこにあるかを確認して所在を突き止め、3月から少しずつみなさんに現物をお送りしてしこしこスキャニングとレタッチ(補正)をやっていただいて、7月ぐらいに集大成して印刷に回したいと考えています。興味のある方は、丸山まで( )までご一報ください。メーリングリストや専用サイトも開設しますので、進捗状況をみんなで共有しながら、わいわい楽しくやっていきたいと思います。この復刻プロジェクトに参加することで、これまでただ受け取るだけだった地平線通信が、厚さ1000ページの本となってよみがえる。これって、けっこうおもしろいことだと思いませんか。じゃ、参加表明、待っています。よろしく![丸山純]



『地平線カレンダー 』、絶賛発売中!

おなじみ長野亮之介画伯による『地平線カレンダー』の2004年版ができあがりました。サイズはA5判横位置で、全6枚(+表紙)。「まちかど」をテーマに、大都市の裏道から片田舎の小さな町や村まで、旅先で心に残った印象的な町並みや路地裏の風景を描いてもらいました。タイトルは『巷口小路邂逅行』。地平線のサイトでカラーのサンプルをご覧いただけます(www.chiheisen.net)。頒布価格は1部500円。送料は120円(何部でも)。お申し込みは、送付先と部数を明記して(できれば電話かメールも)丸山まで(〒167-0052 東京都杉並区南荻窪2-22-14-201/ )。お支払いは、後日カレンダーが到着してからでけっこうです。郵便振替で、加入者名「地平線会議・プロダクトハウス」/口座番号「00120- 1-730508」。通信欄に「地平線カレンダー・○部代金」とご記入ください(いきなり振り込まないで、まず申し込みを)。以下は、みなさんからいただいたコメントです。

▼今回もすばらしいカレンダーです。町角がメインで、人物はちょっとだけかかれているんですね。表紙に各風景の国名があるので、それを参考に見ていると、なるほどその国の空気が伝わってきます。(北川文夫さん@岡山県岡山市)

▼地平線カレンダー、届きました。毎年楽しみにしていますが、今回のはなんとなくレトロな雰囲気が漂っていて、ブリキ缶に印刷しても似合いそうです。(飯野昭司さん@山形県酒田市)

▼いや〜、すごい質感ですね。油絵を見ているような気がします。それから、毎度のことですが、紙質や封筒やビニールまで、すべてに高級感がありますね。これで500円は安いと思います。表紙と中身を見比べていると、どこを切り抜いたのか探す楽しみがあり、のぞき窓からのぞいている気分を味わえました。(新井由己さん@新潟県東頸城郡松之山町)

▼なんとなく懐かしい「メンコ」のような感じがしました。それは風景のせいなのか、長野画伯の絵のせいなのか、DTPを担当した丸山さんのせいなのか。1年間お世話になります。(井上智さん@熊本県阿蘇郡長陽村)

▼カレンダー、伊南村にも届きました。白い世界の伊南村で手にしたカレンダーの風景に見とれてしまいました……。毎年、どんな作品がやってくるのか楽しみになっています。(丸山富美さん@福島県南会津郡伊南村)


年賀状から...

■本年もよろしく。お元気ですか?昨年末には7000日を越えました。うっすらと 1万日の影がさしてくるようです。[東浦奈良男 世界唯一の毎日登山家、三重県度会郡小俣本町在住。悪天候、体調不良の日も1日も欠かさず続けている登山記録が12月、ついに7000日に。目標は、1万日連続登山]

■ますますの活躍なにより。もっともっと旅人を増やさないと。[宮本千晴 オマーンに延べ4ヶ月滞在、ベトナムにも3度、マングローブとつきあっている日々が続]

■いよいよ禁断の○○に踏み込みました。[森田靖郎 ノンフィクション作家]

■猿投山の 一等三角点を 踏みし夏 富士をめざせし 旅の途上の[堺市 宇都木慎一]

■今年4月、米中合同で昌都ー塩井間の初航下に行ってきます。[東京農大探検部・メコン川航行踏査隊]

■ハイサイ!長野です。12月7日の那覇マラソンに出走しました。初めてのフル挑戦記念に、坊主頭で。当日は快晴、気温25℃。30キロ以降向かい風強し。タイムは4時間0分8秒。あとわずかでサブフォーだったのに!沿道の応援がアットホームで、気持ちのいい大会でした。くせになりそう。[長野亮之介]

■徳島にいます。初日はこの冬いちばんの寒さ。でも東京から行った身には暖かく感じました。そして、今日は雪がちらつきました。四国でも雪が降るんですねぇ。[武田力]

■あけましておめでとうございます。エジプトは紅海の田舎町ダハブに居りますが、一応冬なので、海に入るには気合が必要。「ダイバーの憧れ」というブルーホールなど、珊瑚とカラフルな魚たちは一見の価値ありです。初日の出はサウジアラビアの真っ赤な岩山と紅海から。かなりキレイな空でした。ご多幸とご健康をお祈りします。[後田聡子]

◆○○の答「小説」




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

海抜八千米の水づくり

1月30日(金曜日) 18:30〜21:00
 \500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「エベレスト登山では、1日6リットルの水を飲めって言われる。雪を溶かして水をつくるのが、オレの一番大事な仕事だったね」というのは、記録映画カメラマンの村口徳行さん(47)。エベレストに複数回登頂しているベテランクライマーです。

昨年、プロスキーヤーの三浦雄一郎、豪太親子のサポーターとして日本人初、3度目の登頂を果たしました。シェルパとの交渉から、水、食事の用意。さらにたった一人の記録班として、スチール、ムービー、両方の撮影。

「撮影のポイントになる事をオレがやってるわけだから、どう撮るか苦労したねー」。

日大山岳部OB。「山登りは長く続けるのが重要なんだ」をモットーに、フリーの道を歩んできました。2002年にサポートし、女性の世界最高齢エベレスト登頂記録をつくった渡辺玉枝さん(63)に続き、三浦父(70)も世界最高齢記録を更新。2つの記録を支えた村口さんに、今月は登場して頂きます。乞御期待!


先月号の発送請負人 三輪主彦 関根晧博 江本嘉伸 藤原和枝

通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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