2000年2月の地平線通信



■2月の地平線通信・243号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信238表紙(今月の表紙とフロントは、長野亮之介さんによるオール手書きの誌面でした)

 先月、山形県鶴岡市に舞台を移して行なわれた「出羽庄内ミレニアム集会」は、印象的な会になった。理由はいくつもある。山形スタッフのちょっと緊張したニコニコ顔が良かった。I部会場のレイアウトもいいし、II部会場つるおかユースホステルの一所懸命さも好もしい。関東および近県から駆けつけた地平線仲間(総勢30人近く!)の勢いの良さもあった。でも圧巻は、スペシャルゲスト(?)のコンロンの存在だった。

 コンロンはイヌワシだ。I部で話をして下さった鷹匠の松原英俊さんの相棒。北海道で狩りをしてきたばかり。瞳の奥には原始の森が潜む。射るような目で正面から見つめられると、知らず後ずさりしたくなる。

 この迫力を同時に経験している共有感が、会全体の芯になり、求心力を持った。

 狩の様子を静かに語る松原さん。その左腕にじっととまるコンロンが、松原さんの一語一語にリアリティを与える。フィルムやビデオでも伝えきれないナマの存在だけが持つ饒舌さ。情報方のミレニアムイヤー幕開けに、「情報ってナニ?」と考えさせる絶妙のタイミングだった。

 人が旅に出る理由はそれぞれだが、未知の人に出会う魅力は必ず大きい。地平線会議が20年も報告会を続けてきたわけもそれだ。だからこそ、会議自体が旅に出るのも自然な流れなのだろう。

 その土地ならではの人々に出会い、その場ならではの伝え方に感動する。どうせなら、そんな報告会に今年もたくさん出会いたい。[長野亮之介]



写真展と報告会を終えて
多くの方のご協力に心から感謝します

◆写真展と報告会が終わってからまだ1週間しか経っていないのに、ずいぶん前のことだったような気がします。なんだか、長い夢を見ていてようやく醒めたような気分です。

◆写真展「地平線発」には、3か所の会場を合わせて延べ1000人以上の人が足を運んでくれました。この時期にしてはよくこれだけの人が来てくれたと思います。2回以上見に来てくれた人、時間をかけてじっくりと見てくれた人も少なくありませんでした。写真を見つめる表情やノートに書き込まれた感想から、この写真展の意図するものを感じてくれた人が庄内にも少なからずいたことを知り、うれしくなりました。それだけでも、ここで写真展をやった甲斐はあったと思います。

◆地平線報告会[出羽庄内ミレニアム集会]には、9人の出展者をはじめとして県外から30人、合わせて78人が参加してくれました(part1=70人/part2=47人/他にユースホステルスタッフ=7人)。予想もしていなかったほど大勢のメンバーが、忙しいなか遠くから駆けつけてくれて、本当に感激しました。

◆マスコミの取材などで「写真展を開催する目的は?」といった質問を何度か受けましたが、「やりたかったから」という答えにならない答えしかできませんでした。「やろう」と思った直接的なきっかけは、やはり神戸集会に参加したことです。あのとき以来、いつかは山形でも……という想いがどこかにありました。その想いに、何かに導かれるようなさまざまな偶然が重なったこともあって、実施に向けて動き出しました。「やろう」と決めたときに、全体の9割くらいの作業は終わっていたのかもしれません。

◆開催にあたっては、実行委員会を組織して、プロセスを共有しながらじっくりと進めていくつもりでしたが、実際はほとんど独断で決めたものを手伝ってもらう形になりました。十分な話し合いができなかったことは残念ですが、詳しい説明をしなくても、この写真展はいい企画だと理解してくれた人がほとんどでした。

◆具体的に動きはじめたのは昨年12月に入ってからで、その後1か月余りでバタバタと準備をしてきました。そのため、不備な点や不満な点もいろいろあったと思います。困ったことも数々ありましたが、時間はほとんどないので、常に「前に進む」ことだけを考えました。不思議なことに、困っていると必ずといっていいほど、どこからか救いの手が現れてきました。

◆開催資金は、鶴岡市の「まちづくり創造支援事業」と山形県国際交流協会の助成を受けることができました。どちらも締切日に駆け込みで申し込んだのですが、なんとか通りました。鶴岡市からは、助成金ばかりではなく会場使用料の減免(すべてタダ)、出羽庄内国際村との連絡調整など、さまざまな支援をしていただきました。この支援事業がなかったら写真展は開催できなかったと思います。

◆展示の準備は地元のギャラリー主宰者と写真家から協力していただき、会期中の受付は地平線会議が誕生した頃の報告会に参加していた人などに快く引き受けてもらいました。会場の演出まではとても手が回らなかったのですが、思いがけず小原流のお師匠さんから活け花を提供していただきました。また、鷹匠の松原英俊さんと「崑崙」(イヌワシ)の送迎は、前々日に参加申込をしてくれた山形市の女性が申し出てくれました。そのほかにも多くの方からいろいろな面で援助していただきました。

◆今だから言えますが、報告会の開催にも危機がありました。報告者の山口吉彦さんに、2月1日にハワイで大学の同級会があるので1月25日に出発する予定だと言われたときは、正直言ってかなり焦りました。12月の地平線通信に報告会の日程を載せた後でしたが、日程を変更してもらおうかとずいぶん悩みました。結果的に、山口さんにはハワイ行きをギリギリまで延ばしていただくことになりました。

◆短い間にじつにいろいろな経験をさせていただきました。来る2月11日には関野吉晴さんの講演会を予定しているので、それまでは気を緩められませんが、このような企画を主催する機会に恵まれたことに感謝します。また、写真展の出展者と快く写真を貸してくれた植村直己冒険館、来場者、報告会の参加者、参加はできなかったけれど応援してくれた皆さん、最後まで支えてくれた地平線会議の世話人の方々に、あらためて感謝いたします。本当にありがとうございました。そして、これで終わりではなく、庄内での出会いがまた新たなつながりを作るきっかけになれたとしたら、それ以上の喜びはありません。また庄内でお会いできるのを楽しみにしています。[写真展「地平線発」庄内実行委員会 飯野昭司]


写真展来場者の声

▼2歳の息子と来ました。息子は雪山大好きなので、“お父さんの山だぁ”と言いつつ大喜びで見ていました。“火星に行きたくてー”と研究と旅をスタートした吉川さんのphotoにも久しぶりにお会いして、なつかしさとうれしさに感激してしまいました。また地球のどこかに行きたくなったな。[木村洋子(1/23)]

▼宿直明けでボーッとしています。この夏ホームステイしたネパールのサティスの事とか思い出してヒマラヤの山々の写真を見ました。[田中恭子(1/24)]

▼すごいですね。山形では、このような作品の写真展が少ないので、ぜひまた来年もお願いします。次回を楽しみにしています。[吾妻道浩(1/24)]

▼ここが集まれば多くの視点で見られて色々の角度から見られてよかった。次回を期待します。[菊池誠治(1/24)]

▼行ってみたいなよその国、簡単に言うけど大変ですよね。日本は小さい。日本一周は過去の事。やはり世界に出たいな。[五十嵐雄二(1/24)]

▼私も歩いて、アメリカ、ロシアを旅していた時を思いだし、何にかを考え結局何にも見つけられず、今、新潟に住んでいる。しかし、日本の中にも、地平線に近い星、山、人々が住んでいる。山形、秋田を旅している自分が今楽しい。もっと……[クマ(1/24)]

▼御苦労さまです。ずらり並んだ“本物の写真”はやはり圧巻ですね。(中略)大勢の人から写真展訪れてもらいたいですね。[渋谷嘉明(1/24)]

▼実は、こういう写真展・イベントをずっと前から楽しみにしていました。私も小さい頃からいろんな所へ行ってみたいという気持ちが強く(ただの好奇心のかたまり、口ばっかりかな?)。このイベントの中心になっている方が主人の友人(親友)ということで、良かったなーと思っています。全然協力できなくて申し訳ないですが、子供達が大きくなって、自分達にゆとりがでたら、きっと旅をします。これからもこの活動が続いていけるよう願っています。ありがとうございました。又29日(土)きますね。[渋谷志穂(1/26)]

▼素晴らしい写真を拝見しました。とても印象的です。[菅原寛(1/27)]

▼新聞で記事を読んで、見に来ました。昔、テレビであった「すばらしい世界旅行」を見おわった時のような気分です。世界には、まだまだ、自分の足でしか行けないような辺境がたくさんあるのだなと思いました。文明に満たされた今の私達の生活に対する程よい刺激がありました。いつになるかわかりませんが、私も、今回の写真家のみなさんが味わっているような素敵な気分を味わってみたいです。[奥山均(1/28)]

▼吾々と異った視点で撮った世界。海外旅行と云ふと、きまった観光地のみの常識しかない自分も、特種な風景と人々を見る事が出来ました。有難うございます。[鈴木彦一郎(1/28)]

▼私には体験の出来そうのない世界を見て撮られた写真にはいかばかりかのしっと心がありますが、せっかくの写真展ですので、写真の質の向上があったらと思われます。ピントの甘い、ブレ、発色がいまいちのもの(色あせた感じ)、構図(水平線の傾き)が気になりました。いやいや私の眼が悪くなったのかもしれません。[榎本(1/28)]

▼旅とは出会いであり、偶然であり、そこに旅があるだろうと思う。この写真でも、世界の様々な人の表情、笑顔などがみられ、旅をしたい気持ちにさせてくれた。[記名なし(1/28)]

▼私は19年間この庄内に生きてきました。でも一度も外の世界に足を踏みだしてきませんでした。今回このような世界の中のいろいろな土地を見ることができて、もっともっと外の世界を体験したいと思うようになりました。人間、もっと自由に生きていいんだと思いました。[19歳・女(1/28)]

▼写真をかざる高さ、スペース、角度、照明、どれをとっても最悪。[記名なし]

▼異国の風俗、習慣、生活、出かける事の出来ない身にはとてもとても感激です。これからもどんどん展示また発表期待します。[記名なし(1/30)]


【忘れ物です】つるおかユースホステルに忘れ物がありました。心当たりの方は飯野までご連絡ください。


地平線オークションレポート

ミレニアム報告会第2部の「地平線オークションinつるおかユース」は、庄内の人たちを巻き込んでおおいに盛り上がりました。昨年12月のオークションに引き続き、えー!こんな貴重な物を放出していいワケ?!と言わんばかりの掘り出し物がザクザク! ちなみに最高落札価格は、賀曽利さん提供の「思い出のサハラ縦断ヘルメット」¥6,000でした。なお売上トータル¥58,490は、写真展と報告会の会場費&運営費のたしにして頂きました。(杉田晴美記)

【オークション品総リスト】( )内は提供者

●愛用の赤い毛糸帽、愛用クーラーボックス&かばん、額、かべかけ、スイス製木皿、ベトナムの水中人形劇テープ、帽子(金井重)

●サハラを縦断したときのヘルメットとグローブ(賀曽利隆)

●カザフスタンのフェルト帽子(神谷夏実)

●ネパール製手編みの靴下&帽子、布バッグ(杉田晴美)

●ソビエト連邦国旗Tシャツ(惠谷治)

●インドネシアの壁掛け、インドネシアのテーブルクロスセット、大判バンダナ×2(瀬沼由香)

●著書『死を待つ家』『私たちのシャングリラ』(松本栄一)

●フィリピン・パラワン島の木皮ふんどし=但し未使用(樫田秀樹)

●インドネシアの頭羽根飾り、鈴付鶏の壁飾り、インドネシアの骨細工、イリヤンジャヤの○○○ケース=但し未使用(花岡正明)

●アフガニスタンのソ連軍砲弾製ポケットナイフ、チトラル地方のウールの帽子×2、ガーネット原石、パキスタン製水たばこセット、パキスタン製らくだの骨のペーパーナイフ×3(丸山純)

●世界の香辛料(相川弘之)

●斉藤実さん著書『太平洋漂流実験50日』&自作「へのかっぱバッジ」(斉藤宏子)

●グァテマラのベスト、韓国の朝鮮人参飴(難波裕子)

●バリ島コーヒー(河田真智子)

●庄内で一番おいしい(と思う)お店のラスク(網谷由美子)

●グレートジャーニーで使用した愛用の雨具(関野吉晴)

●雑誌『現代の探検』vol.1〜4(長野亮之介)

●著書『とことんおでん紀行』(新井由己)

●著書『能海寛チベットに消えた旅人』(江本嘉伸)

●写真展額装写真サンプル「獲物を運ぶ少年」[街道憲久撮影]、同「のみの市」[久島弘撮影](影山幸一)

●年報『地平線から・1980』(三輪主彦)

 

【せり人】丸山富美&石川直樹

 


特集・ミレニアム新年メール
 第2弾!

1月号で紹介した「地平線ミレニアム・メール」、世界のあちこちから傑作なのがきて、地平線通信の封筒が膨らみすぎ、一度に掲載できませんでした。すいませんでした。でも、今回で全部掲載します。今回も見出しは編集部がつけました。

9
めでたし、ミレニアム・ベビー!

●2000年の越年ですけど、夏帆と母は実家の近くのお寺に除夜の鐘を突きに行きました。一突き2000円!と言われて、「じょーだーん!」と信じられない私。夏帆のいとこのお母さんは去年は1500円だったよ、と言ってました。

●夏帆と私は、防寒スタイルで(トレッキング用の下着、フリース、ゴアテックスのレインウエアー)で、夜中のお寺に繰り出しました。スキーキャンプに行くのにスキーウエアーの代わりに揃えたものです。山用品は災害の非常用品にも役にたつなあ、と考えながら揃えました。後日このスタイルでスキーをしたのですが、ばっちりでした。

●さて、この2000年の越年を実にハラハラと越えた友人をご紹介します。フィジーの夫と東京に暮らすカオリ・バティは3人目の出産を控えていました。12月20日頃から子宮口が開き初めていつ生まれてもおかしくない状態でした。3歳と1歳の子の保育園の送り迎えをするのがもうしんどい状態です。「生まれそう、生まれそう……」

●もう、生まれた?と29日に電話をすると、子ども2人をお風呂に入れているけど湯船に入れるのによっこらしょと、抱っこするのに踏ん張ると赤ちゃんが出てしまいそうで心配だと言ってました。「真智子さんが送ってくれたNASAの非常時シートをいつもバックにいれてますよ」とカオリ。いざというとき路上にシートを敷いてそのうえに赤ん坊を産み落とすのです!?

●30日は病院に行って、気分悪く夜中じゅう吐いていたけど、赤ん坊は出てこず。そして、31日の夕方、2人の子どもが40度を越える熱で、娘の方が、熱からけいれんを起こす可能性があるので、何と二人の子どもをつれて、救急外来に行ったとのこと。この時、陣痛が15分間隔から12分間隔になっていたとのこと。普通このような妊婦は安静にしている状態ですね。ホントに赤ん坊がおっこちゃう。

●それから一度家に帰り、夫に「解熱剤」と、「抗けいれん剤」を間違えて使わないようにメモを書き、2人の子どもと夫を家において産科へ。無事!赤ちゃんが産まれたのは2000年1月1日、午前3時の事でした。何と、出産予定日通りに生まれた赤ちゃん、なのです。

●まったく、たくましいカオリです。彼女の行動を聞いていると10年前の自分を思い出してハラハラします。聞いている分にはおもしろいけど、それを体験はしたくありません。私は穏やかに生きていきたい……(河田真智子)

 

10
まやちゃん誕生と助教授就任

●江本様 新年のお慶びを申し上げます。

●昨年1999年は、皆様の暖かいご好意ご協力をもちまして、公私ともに充実した日々を過ごすことができました。ありがとうございます。特に昨年は国際火星学会発表やアラスカ大学助教授就任など充実した日々を過ごしております。大学での仕事も以前にも増して忙しくはなりましたが、研究室は新しいテクノロジーや道具(おもちゃ)が続々とやってきて目が離せない様子になっております。

●私事では、何といっても5月11日に娘“まや”が生まれたことが、何を置いても昨年1番の出来事といえるでしょう。“まや”も早8ヶ月に近くなり、かわいいのはもちろんのことですが、なにより生活が子供最優先に一変したのも事実です。まず後部座席がしっかりしていてムース(この辺に頻出して車を大破させる大鹿)にぶつかっても大丈夫な新車に買い換え、次に冬でもヒーターのトラブルがまず起きない、大工さんが作った安全な家に引越しました。

●この手紙を書いている今も、外はマイナス50度Cになっていますが、“まや”はぐっすり寝ています。ただこの冬は雪が多く、屋根の雪降ろしがちょっと大変です。というのも古い家にまだ荷物があり、売りに出していないので、雪を降ろさなくてはならない屋根がたくさんあるからです。そんなわけで、手にかけているプロジェクトは二の次になり、子供優先生活がもう少しつづきそうです。まあ、牧場用地もヨットも、時間をかけて修理整備して行こうと考える今日この頃です。ヨットはやっとデッキと舵の修理を終えたところです。

●最後になりましたが、2000年を迎え、コンピューターに何のトラブルもなくこのメールを読んでいただけることを願っております。また今年も何かとご迷惑をおかけすると思いますが、ご指導ご教示のほどよろしくお願いいたします。(フェアバンクスで・吉川謙二)

 

11
西穂山荘2000年冬景色

●下界を離れ、山で生活している我々にとって2000年問題に関する情報は不定期で手に入る数日遅れの新聞や、この厳冬季の中、たまにみれる夜のテレビニュースからでした。

●とはいっても山小屋の生活の中で特にコンピューター制御されている物も目に付かず、関心はもっぱら「下界は何か起こるのか?」でした。中には「小屋の上を核ミサイルが飛ぶのでは」なんて、今となっては笑える事を半分真剣に言いあったりしてました。

●しかし、いざ問題の日が近づくにつれて一つの疑問が浮かんでしまいました。それは、「本当に例年どうり登山客はやってくるのか?」でした。用意した食材関係やわざわざ登ってきてくれたアルバイト・スタッフ達が無駄になるのではと疑いを持つようにもなりました。下界では今年は皆会社に出勤する様だし、交通機関の異常を恐れる人々は外出を控えるのでは等等。そうなると売上にも影響するし……。私もサラリーマン! 気にはなります……。

●そして、とうとうその日を迎えました。お客さんの人数は、まあ、例年どうりで、それなりに忙しい日となりました。しかし、お客さんもなんとなく2000年問題が気がかりなのか例年のように深夜に及ぶような宴席は見受けられませんでした。それとは違い、山荘スタッフと言えば零時にテレビが止まるのでは等と言いながら、その日の疲れそっちのけで、ビール、酒、焼酎、ウイスキー、ワインと小屋にあるアルコールを飲みながらの年越でした。

●結局例年同様の年越となり、そのまま2000年を迎えたわけですが、数時間後に登山者の朝食の準備をしなければならない現実は変わるわけも無く、僅かに与えられた睡眠時間を追いかけるように布団にもぐり込みました。朝を迎えたスタッフには2000年問題は単なる話ネタ扱いで、目覚時計の電池切れや、圧力釜の調子が悪いとこれは2000年問題に違いないとか。2000年問題のおかげで本当に大変だった方には申し訳無い話ですが、山小屋にとって2000年問題は直面したと言うよりも、山の上から眺めた街の夜景のような物で、一つ一つの灯りの下で起こっている事は知る由も無いと言った感じでした。

●山荘の混み具合は例年やはり12月31日が混みあい、一枚の布団に2名と言った感じで新年は3日位までは登山者の姿も多く見うけられますが、その後は天候次第ですね。

●積雪は山荘付近で1メートル前後です。もちろん、吹き溜まりにははるかに雪は積もります。1日の初日の出は残念ながら拝めませんでしたが、2日には美しい朝日を見る事もできました。

●ですが、3日には強風雪で西穂へのアプローチのロープウェイは運休、朝一番で下山した登山者のみが初回運転に乗り込めましたが、その後は終日運休となりました。

●気温のほうも3日午後1時でマイナス8.5度ですが、この時期、下がる時はマイナス15〜20度位になる時もあります。今の所遭難事故も起きていません。これから、まだまだ、厳しい時期が続きますが今年も西穂に登ってこられる登山者の方のために良き仲間達とこの山荘を守っていこうと思います。(西穂山荘で・河野隆司)

 

12
しめ縄作り、雪遊び、そして温泉

●『ザクッ、ザクッ ザクッ、ザクッ』。伊南(いな)村でのミレニアムは、雪の積もった山道を踏みしめる足音で始まりました。

●1999年の大晦日は、70歳を超える孫佐さん(役場職員のお父様)から『しめ縄』作りを教わり、孫佐さん宅の神棚祭りをお手伝い。

●想像していたとおり?朝から日本酒を「まあ、まあ、まあ」とコップになみなみお酌され、テーブルいっぱいの郷土料理に囲まれました。そのままの勢いか、飲んで食べて話をしつつ、真っ昼間から年越しそば(もちろんそば粉100%の手打ち)を頂き、満足度100%の気持ちに酔いしれいたものの、時計はまだ昼の1時。引きとめられながらも家に戻り、大掃除をしようと思っていたら、近所の子どもたちと遊ぶことに・・・小学生3人に連れられて、雪の坂道をせっせと登り、山村での雪遊びに戯れました。

●夕方は村の温泉に長湯して、一年間の垢落とし。ぽかぽかの身体で寒さで『キーン』張りつめる空気の中、家に戻りました。

●大晦日の夕食は、村でお世話になっている人からもらった『鯛の頭』をあら煮にしたもの、孫佐さん家から頂いた地元の粕漬け、漬け物、くるみ餅などを並べると、はたまた頂きものでテーブルは溢れそうになっていました。

●紅白歌合戦の最後の曲を聴いてから、近くの山にある『広瀬神社』へと向いました。森の中、雪を踏みしめながら、酔いも醒める寒さの中、神社への道のりを一歩一歩進みました。去りゆく1年に感謝しつつ、新しくはじまる年への期待に胸が高鳴る思いあり……。

●電灯のない森の中、ひっそりたたずむ神社にて、手のひらを合わせ、新しく巡ってきたミレニアムに対する願いを祈りました。きっといいことありそうな、そんな気持ちをかみしめながら……。(福島県伊南村で・丸山富美)

 

13
ついに11回目の海外の正月!

●ハッピー、ミレニアム!! 江本さん、お元気でしょうか。東京の大晦日はどうでしたか?

●私たちはロンドンで「紅白」をラジオで聴いたあと、日本より9時間遅れで2000年を迎えました。大晦日の夜、市内に集まった観衆はなんと300万人あまり。お年寄りから家族づれ、中にはベビーカーをひいた若いカップルの姿もあり、こちらは午後4時をすぎると暗くなるのですが、レーザービームが夜空に美しい光を放ち、かがり火もともされました。

●また、他人と肩がふれあいながら歩くのはヨーロッパにきてはじめての経験ですが、慣れない彼らは「エクスキューズ・ミー」、「ソーリー」を繰りかえしながら歩いてたのがなんとも印象的。私たちは午後10時からビッグ・ベンという時計塔をのぞくウエストミンスター橋にいたのですが、まわりからはいろんな国の言葉(日本語も!)が飛びかいますます活気があがっていきました。

●「3、2、1、0!!」ついにカウントダウン。人々は、大歓声とともに橋の上で激しいジャンプ。(一瞬、橋が落ちないかとひんやり!?)そして、市内を流れるテムズ河上空に打ち上げ花火がつぎつぎとあがり観客は釘づけになりました。からだに響くほどの爆音はいまでも忘れられません。

●1000年前のイギリスはノルマン人の侵攻時代でした。日本では源氏物語が書かれた平安中期、藤原道長の時代。1000年後、次のミレニアムはいったいどうなっているのでしょうか。そうそう、それより来年はどこでどんなお正月を過ごせるのか気になるところです。世界中の人々にとり、平和でよい1年となりますように……。(自転車の旅に出て11回目のお正月。ロンドンにて・阪口エミコ&スティーヴ・シール)

【おまけのメッセージ】(この半月前に届いた旅の近況も面白いので紹介してしまおう)

●江本さん、お元気ですか。お久しぶりです。私と相棒のスティーヴはいまイギリスで、あいかわらず楽しい旅をつづけております。

●ところで、今年の日本の夏は長かったそうですが(うらやましい……)、こちらは例年より一足はやく冬が訪れたようで風邪ひいた人がたくさんおりました。(実は私もかかってしまいました) 1991年、エープリルフールから北・中・南米、そしてアフリカ、欧州とマウンテンバイクでじっくり旅してきましたが、今世紀末はイギリスで越冬です。春が来たら中央アジアからロシア、モンゴル、チャイナへといよいよ今旅の最終版に入ります。

●ということで、いま、羊牧場に囲まれた片田舎で準備をしています。なんせ2年4カ月のアフリカ縦横断のあとはキャンプ用品もボロッボロ。修繕しないといけない服もいっぱいです。そうそう、この家、なんと1580年に建てられた古〜い家で(まるで博物館!?)、築約420年ということはイギリス最大の劇作家、シェイクスピアが生まれたころと同じ年代です。天井は傾き、床も柱もゆがんでいます。歩くとミシミシッと鳴くうぐいす張りで、とても愛着があります。

●ところで、あと数週間でミレニアム。至福千年、キリストが再臨し神聖な1000年間が新たに始まろうとしています。クリスチャンの多いこの国では今年のクリスマスは特に盛大にやろうということで、ミレニアム会社ができるほど。町にはクリスマスライトが1カ月も前からともされソングも流れ、気あいがモリモリ。つい、躍りだしそうです。

●また、ロンドン東郊外へ舟でテムズ河を下っていくと新しい船着場「ミレニウム・ピア」があり、そこにドカンとおでましになったのはミレニウムのためにつくられた『ザ・ドーム』。ドームの周囲は2マイル(約3.2km)。クリスマスとニューイヤーチケットが完売したというから何千人、いえ何万人あつまるんでしょうか。旅に出て今回で10回目を迎える私たちのお正月はまず、オーストラリアに国際電話。1時間後、短波ラジオで『紅白』を聞き、9時間後にロンドンのシンボル、タワーブリッジで集まった人たちとカウントダウンをする予定です。

●オーストラリア時間と日本時間、イギリス現地時間でミレニウムの瞬間を3回も味わえるなんて、ちょっとゼイタクですね。

 

14
過疎の村の成人式で
講演したレレレのおじさん

●新年明けましておめでとうございます。故郷高知で4年ぶりの正月を迎えています。紅白歌合戦を見て、太平洋に昇る初日の出を拝み、おとそをいただくという、私が少年時代どこにでもあった正統な日本のお正月です。

●正月2日は、今住んでいる四万十川上流の十和村の成人式で講演をしてきました。新成人65人、村のお歴々80人という過疎高齢少子化を象徴するような成人式です。かって7000人以上あった村の人口は今は3800人です。演題は「世界の川を旅して木を植えて」。20歳になる若者達に私の20年の地球遍歴を話しました。20年分を1時間少々で説明するのはなかなか無理がありましたが・・。

●若者達以上に村の「お歴々」が随分興味を持って聞いてくれました。「しかし、そんな人がなんでこんな村に?」というのが素朴な疑問のようでした。

●1992年のブラジルでの地球サミットを受けて持続可能な森林経営のための国際森林ネットワーク作りが始まりました。その日本における2つのモデル森林区の一つに四万十川森林区が選ばれています。四万十川流域に市町村の中でも最も多様な山林利用をしてきたのが十和村です。

●地球サミットのキーワードの一つは「地球規模で考えて、地域レベルで活動しよう」。そこで、私は世界中で森づくりをしている仲間達と協力していくベース作りとして、この村を選ばせてもらい、生活を始めています。と、説明するとお歴々達は「そんなもんかのう、山は人手不足で荒れ放題、川は昔にくらべたら汚れてしもうて」と言われます。「若い者が戻って来られるようになんとか力を貸してくれ」ともよく頼まれます。

●今の生活のベースは地元の森林組合で山仕事と炭焼き。3年前から始めたNGO四万十・ナイルの会の活動の方は、ナイル源流のルワンダにおいて、今年10の村でルワンダ人の仲間達が8万本の苗木を育てて植林しました。その資金支援と技術協力をしています。

●私も11月に2週間程訪ねてきました。また10月には日本の青年団と中国の青年連合会が協力して行っている、内モンゴル自治区、黄河中流域での植樹に村から2人を同行して行ってきました。私は5年前からこの手伝いもしています。今回は去年1月に内モンゴルから村の森林組合に研修生を受け入れたお返しに招待を受けたものです。今年あたりはそろそろナイルと黄河でカヌー旅も、と考えています。

●去年の4月より地元の高校で教えています。林業高校としてスタートした地元の大正高校が、少子化による生徒不足対策として、四万十高校と校名を変え、自然環境コースを作りました。その「森と川と海」という授業を受け持っています。

●普段は山の上で草刈り、間伐、枝打ちをして山の手入れをしながら、川をゆくカヌーや道行くバイクツーリストを「レレレのレ−、お出かけですか、気をつけて」と見送っています。海外や他県から客が来た時や高校生達とはバカボン・ファミリーのように天衣無縫に森と川と海を遊びほうけています。

●川を旅して木を植えてきたからか、近頃「自然愛好家」「環境運動家」が同意を求めて親しそうに近寄ってきたりします。そんな時私は「明日のジョー」のようにあらぬ方向へ逃げ出したくなります。どうして彼らが好きになれないか。

●深ーく、長ーく、じっくり考えなくとも答えはすぐに、とっくの昔に出ていました。彼らは「清く正しく美しい」のです。

●人も自然も「汚く悪く醜い」部分がありまして、それを内部抑圧したり外部排除したって何の解決にもなりません。自然界には人に都合のいい道徳(モラル)はない。非情な節度(バランス)があるだけです。

●今年も遊ぶ(ハレ)時はバカボン達のようにアホになりきって面白可笑しく楽しみ、普段(ケ)はホーキを山道具に持ち換えてレレレのおじさんよろしくシンプルに木を植え林を育て森を愛でてやってゆきます。そして心はディープ、川に託して海に恋し星に想いをはせて。

●これでいいのだ。(高知県・山田高司)


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第11発 ―生田目の講義―

◆初めて地平線会議の集まりに顔を出した時、ここにはライターやカメラマンは腐るほどいるけど、ホステスは初めてだといわれ、珍しがられて調子に乗って駄文まで書かせていただくことになった。今回は銀座のホステスになった時のことを書くつもりだが、地平線会議にはクラブ遊びとは無縁の方が多いんじゃないかと思うので、その仕組みについて少し書きます。

◆一言にホステスといってもいくつか種類があって、大きく分けると時給で働くタイプと売上で働くタイプがある。時給で働くタイプのなかには女子大生やOLがアルバイトで働くホステスと、それを生業として毎日フルタイムで働くレギュラーというホステスがいて、両者をヘルプという。一応バイトとレギュラーに時給の差はあるが、人気によっては逆転するケースもままある。一方で売上ホステスというのはホステスの花形で、エキスパートで、憧れだ。彼女たちは店のテーブルを借りている個人事業者のようなもので、お客様が使ったお金、いわゆる売上に応じて給料が支払われる。もちろんノルマもある。それに掛売り(つけ)が未収だと全額ホステスがかぶることになる。もちろん、額が給料より上回ってマイナスになった時はバンス(前借)となるが、自分で店に払わねばならない。

◆バブルが崩壊して掛けやバンスが焦げ付いて風俗に職替えしたホステスもいる。売上ホステスになるのに昇進試験があるわけではないので、誰でもなれるが、売上がなければ給料はないのだ。そういう意味では酒飲んで座っていればいい時給ホステスの方が楽といえば楽である。事実、昔は売れっ子でしたという少しとうの立ったお姉さんが今更時給ホステスに戻るのはプライドが許さず、こっそり場末に流れていくという姿も見た。ホステスは人気商売なので、どんどん若い子や新人が追いかけてくる。その上、お客様は浮気ものだ。ホステスがずーっとトップでいるのか、結婚するか、ママになるか、場末に落ちぶれるか、道は少ない。

◆私はずっとOLと二足わらじを履いてきて思うのだが、ホステスの中には外国語が堪能だったり、ファイナンシャルプランナー顔負けの証券等の金融知識をもっている人がいたりする。私はそういう才能はないが、OLの現場で、営業や秘書やいろいろな場面で、ホステス能力はかなり役に立っている。ホステスが転職する時にもキャリアとしてレジュメに書きたいくらいだ。それに最近はクラブの生き残りも厳しい。友人が自分は薄給でとても高級クラブにはいけないけれど、アメリカ人が日常的にカウンセラーを訪れるのと同じように日本人は飲み屋に行くんじゃないかな、そういう意味で、今まで以上に必要な場所になれる可能性はあるんじゃないかと言っていた。

◆世紀末からか、病んでいる人が沢山いるのに、接待交際費が削られ、給料も思うように昇給しない今、金をむやみに吸い上げたり、色香だけを売りにしない仕事としてのホステス業が確立されるべきかもしれない。なんだかホステス向上委員会みたいになっちゃったなあ。毎晩飲みながらこんなこと考えてないけどね(笑)

◆話はだいぶそれたが私は銀座のクラブホステスになった。もちろんヘルプだった。どうしてバイトをヘルプと呼ぶのかと言えば、売上ホステス(お姉さん)の指名客(本指名という)が誰かと一緒に来店されたとき、私はお姉さんを助けてそのお連れ様を接客したり(クラブは基本的にお客様一人にホステスを一人つける。よほど大勢でない限り必ず一対一だ。もしホステスの出勤状況が悪くて、一対一が守れない時はテーブルが空いていてもお客様をお断りすることもある。でも同伴なり予約なりで大隊お客様を把握できるので、店側も調整はある程度できる)。お姉さんに別の指名が入って離席している間、接客する。だからヘルプなのだ。

◆今はだいぶシステムも崩れてきているが、クラブの掟は凄い。本指名は生涯指名なのだ。そのお姉さんが店を辞めるまで、よっぽどのことがない限り、絶対に指名替えはない。お客様が他の女の子を気に入って、お姉さんを席に呼ばなくても(そんなケチなお客はいないが)、お姉さんにもちゃんと指名料は入る(もちろんお客様が払う)。その上、お連れ様が私を気に入って次回一人で来店されても、お姉さんには指名料が入る。その人は本指名でなく「枝」という。本指名も枝もお姉さんのものなのだ。それが仁義なのだ。ヘルプの子が頑張ってくれれば売上に繋がるからお姉さんはヘルプを可愛がる。洋服や着物をくれたり、ご馳走してくれたり、時には自腹でチップをくれたりもする。基本的にはヘルプはどこの席にも行くが、お姉さんとの相性などで、ある程度派閥ができる。こうなると、もう親分子分のノリである。ホステスも従弟仕事なのだ。やれやれ。(以下次号)


野々山富雄の「明日できるコトは今日やらない」
ノノの奇妙な冒険――第2回
怪獣探検隊アフリカへ(その2)

◆我々はケニヤ、ザイールを経てコンゴへと入国した。日本からコンゴへの直行便などもちろん無い。VISA取得の関係もあり、そうなった訳だが、徐々にアフリカに慣れていくという意味でもよかったかもしれない。ザイールの首都キンシャサからコンゴ河の対岸であるコンゴの首都ブラザビルにフェリーで渡るのだが、人数も多いし、調査機材もゴッソリある。大混乱が続いたがその中でメンバーの心と体をアフリカに合わせていったのだ。それにしてもこのザイール、もともとはコンゴという国名で、60年代のコンゴ動乱はこちらであった。つまりコンゴという国が隣り合わせに2つあったということである。その後ザイールと国名を改めたが、近年モブツ大統領の死後、またコンゴという名に戻ってしまい、ややっこしいことおびただしい。昔、コンゴ河流域にコンゴ王国という国があったそうで、そこに住む人達にとってコンゴという名は誇り高く、忘れ難いものなのかもしれない。ただゴッチャになってしまうので、ここでは当時の呼び名で、コンゴ、ザイールと区別しておきたい。

◆ブラザビルで合同で調査にあたることになっているアニャーニャ博士と再会、計画準備でてんてこまいであった。そこから飛行機、トラック、カヌーを乗り継いでボアという名の村へ。さらにそこから道無きジャングルを3日も歩いてやっと怪獣の棲むというテレ湖という湖に着く。やれやれうんざりするほど長い道のりだ。もっともそれだけ遠き奥地だからこそ怪獣モケーレ・ムベンベが本当にいるゾという気になってくる。

◆学生時代はよく「探検とは何か?」という出口の見えない議論で悪酔いしていたものだが、「アフリカの」、「ジャングルで」、「怪獣を捜す」、これぞ探検と言わず何であろうか!! 気分は高揚しまくりである。目的地までの最後の3kmは完全な沼地で、うまく場所を選んで歩かないと腰までズボズボと沈んでしまう。悪戦苦闘の末、やっとテレ湖にたどり着いた時の感動は筆舌に尽くし難い。

◆我々の調査方法は、1ヶ月以上、昼夜を問わず交替で24時間、湖を見張り、同じにその周辺を探るというものであった。むろんソナーやスターライトスコープ、300mmの望遠レンズにビデオカメラとできうる限りの調査機材を使うが、基本的にはとにかく自分の目で見つづけていくということだ。

◆テレ湖は直径3kmほどのほぼ円形の湖で魚や動物も豊富だ。実は昔ここにピグミーの村もあったという。ところが怪獣モケーレ・ムベンベが暴れて魚を捕るための柵をよく壊し、村人達は困ったという伝説がある。ビルを壊すゴジラに比べれば、ささやかなものだが、いかにもそれらしい。そこで村人達は槍や弓で怪獣を追いつめて、終にそいつを仕留め、みんなで食ったということだ。ところが怪獣のタタリか食中毒か、村人は全員死んでしまい村は消滅してしまった。みんな死んじまったんなら、誰がそんなコトを知ってたんだよ、とツッコミを入れたいところだが、村があったことは事実らしい。

◆その村跡は地盤もしっかりしているので、そこのベースキャンプを設営したかったのだが、雇ったボア村のガイド達が気味悪がって反対した。そこで怪獣の目撃例が多いとされる湖の北側にBCを置き、また西側にも予備的にキャンプを設営した。テレ湖は円形で岸が入り組んでいないので、それでほぼ一望することが出来る。調査期間を1ヶ月以上としたのには訳がある。以前アメリカの探検隊がこの地を訪れており、32日滞在している。それ以上の日数、しかも24時間体制でがんばれば、怪獣発見できるにしろ、できないにしろ調査結果に信頼性が増す。このアメリカ隊、モケーレ・ムベンベの声を録音し、おぼろげながら写真も撮っている。期待に胸をふくらませながらいよいよ調査は始まった。数々の問題は予想されるけれど、それもまた探検のうちではないか。

◆そして困難はあっさりやってきた。食糧計画担当の隊員が叫んだ。「食糧が全然足りないゾ!」。以下、次号。〔訂正。前回の国際未知動物学教会は協会の間違いです。それじゃなくても怪しいのに、教会じゃ宗教がかっているようで、ますます危ないじゃないですか〕


地平線ポスト
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地平線ポストは来月から以下の二つを扱います。1)旅先、定住地からの一言。絵葉書でもメールでも短信待ってます。2)帰国直後のホットなレポート、自分の身の周りで起こった出来事など。1000字程度でお寄せ下さい。

●中島孝幸さんから
Skating bikeの中島孝幸が帰国しました。ちと早いのでは……。実は、12月24日、パンアメリカンハイウエイで事故に遭い、リマの病院に約1ヶ月入院。何とか退院まではこぎつけたものの、この状態ではこれ以上旅も続けられず帰国。そのまま地元の医大にて再入院というちとカッコ悪い終わりとなってしまいましたが、心配なく。この事故も含め、何らかの形で原稿をまとめ発表したいと思います。アフリカ、そして南米を人力スケーターで駆け抜けた1999年は世紀末にふさわしい勇気ある一歩であったように感じます。再スタートの日はあるのか、おまけに彼女にもフラレ二度おいしい?これからの僕が楽しみ……。(倉敷にて)


●平尾和雄さんから
★昨年急逝したスルジェさんの夫・平尾和雄さんから短信が入りました。以下ご報告します。

◆1月9日から26日まで、ネパールに行ってまいりました。◆昨年10月30日に永眠した妻、スルジェデヴィの遺志に従って、彼女のふるさとの村のガンガーに遺骨を流すためです。◆彼女を姉・母・祖母・義姉妹などと呼ぶ親族ら約20人と一緒に訪れたタトパニ村の対岸や下流の岸辺で、スルジェは再び焼かれてカリガンダキ川へ還っていきました。◆生前、20年近くにわたって望んでいながらとうとう彼女が戻ることのできなかった処です。

◆私にとって初めての独り暮らしが始まっています。 平成12年2月 平尾和雄


Chiheisen Flash News

◆必見! 関野吉晴さんの『グレートジャーニー6 さらばシベリア―カムチャッカ〜モンゴル6500キロ』:3月3日(金)21時〜23時07分、フジテレビ系で放映。アジア入りした関野さんのモンゴルの少女との出会いが見所のひとつ。なお、2月26日(土)14時〜15時55分、『グレートジャーニー5』の再放送あり。

◆賀曽利隆著「世界を駆けるゾ!30代編」:1月20日フィールド出版から発刊! 〇才児を連れてのシベリア横断、サハラ砂漠縦断、全費用10万円で挑む50ccバイク日本一周、日本人初のパリダカ、バイク参戦など、驚異の30代を描く。

◆大西暢夫写真展「一緒においでよ〜ゆかいな分校登校記〜」:2月19日(土)〜29日(火)新宿高野ビル4階コニカプラザ(毎日10時半〜20時)

◆江本嘉伸講演会「チベット近代史の中の日本人群像」:2月26日(土)14時から、横浜桜木町駅前、ランドマークタワー13階「フォーラム横浜」で。同じ場所で、25日〜3月1日までチベット人の暮らしを追った小さな写真展(モノクロ)も開催。



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信裏表紙 2/25(金)
Friday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500

 

 

 

シベリアタンデムラン

夫婦で世界を股にかけてバイクツーリングを楽しむ東はるみさんと夫のクルトさん。最新のランはあこがれのシベリア横断。サイド・カーを利用し、99年8月からスタートしました。旅の途中日本に立ち寄った二人に、シベリア旅のてんまつを話していただきます。めったに聞けんよ!


通信費カンパ(2000円)などのお支払いは郵便振替または報告会の受付でお願いします
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)



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